散歩日和な秋晴れの日だった。
今後の遊び計画がてら、雑貨屋やアパレルショップが軒を連ねる通りをカラ松くんと並んで歩く。秋色に染め上げられた木々からはらはらと舞い落ちる落ち葉が、アスファルトを鮮やかに彩る。
「カラ松くん、ちょっとお願いがあるんだけどいいかな?」
彼の眼前で両手を合わせ、拝むように告げる。カラ松くんは私を見つめながら穏やかに口角を上げた。
「どうした、ハニー?」
一見要件を促すような口振りだが、何でも言ってくれ、とその瞳が声にされない言葉を語る。下ろした腕が今にも触れ合いそうなほどに距離は近い。彼が口を動かすと突き出た喉仏が僅かに動いて、平坦に近い自分のそれとはまるで違う造形に、異性の存在を感じさせられる。
「これ、しばらく持っててくれない?
もう少しお店見たいんだけど、商品にぶつけそうで怖いんだよね」
そう言って私は、手にしていたペーパーバッグを持ち上げた。中身は、購入したばかりの雑貨だ。A4ほどの大きさがあるため、腕にぶら下げていると、展示品に衝突して破損させかねない。
「何だ、そんなことか」
カラ松くんは小さく笑って、下からすくい上げるような仕草でバッグを受け取る。
「お安い御用だ。ユーリがわざわざお願いと言うから、もっと面倒なことかと思ったが、荷物持ちくらいならいつでも…というか、すまん、オレから言うべきだったな。スマートじゃなかった」
「え?いやいや、それはさすがに…」
「キュートなユーリに荷物を持たせるなんて、男のすることじゃない。ここにいるハニー専属のナイトは、指先一つでクレバーに使役してくれていいんだぜ、プリンセス?」
高らかに指を鳴らしてドヤ顔のカラ松くん。
二十歳超えた大人にプリンセス呼ばわり止めろ。私の羞恥心は現役だ。
憮然とする私に無邪気な笑みを投げて、カラ松くんは鼻歌交じりに一歩先を進む。
私といる時は、基本的に上機嫌だ。威勢よく啖呵を切ったり、気障ったらしいポーズを決めたり、かと思えば顔の筋肉を弛緩させて朗らかに笑ったり。嘘が下手で、ある意味愚直な人。
「他にオレにできることは?」
「ううん、大丈夫。でもごめんね、荷物持たせちゃって。あと少し見たら持つから」
「帰りまでオレが持つから、ユーリは気にしなくていい。遠慮せずに何でも言ってくれ」
おいおいスパダリか。
私に対してのみ発動される最高峰の気遣いに驚いていたら、私の疑問を知ってか知らずか、カラ松くんは独白のように小さく呟いた。
「オレは──ユーリに頼られるのが一番嬉しい」
時と場所は変わって、松野家の居間。
円卓の側であぐらをかくカラ松くんの周りに兄弟がわらわらとたむろして、騒ぎ立てている。
「カラ松兄さん、おっねがーい、コンビニで後払い決済やっといてくれない?」
「猫用の煮干し特売品、スーパーで買ってきて」
「ねぇカラ松ぅ、風呂掃除頼んでいい?」
「ぼくのユニフォーム洗濯しといて!」
後払い用紙を差し出すトド松くん、空の煮干し袋を掲げる一松くん、首を傾げて可愛くアピールするおそ松くん、そしてドロドロに汚れた服を広げてみせる十四松くん。揃いも揃って、頼み事という名目でカラ松くんに面倒事を押し付けているのだ。自分でやれお前ら。
当然見返りなどない。その場限りの安い感謝があるだけだ。対価は労力にまるで見合わない。
「ハッハー、いいぞいいぞ、オレに任せろ!」
しかし私の懸念とは裏腹に、カラ松くんは両手を広げてウェルカムな構え。
円卓の上に広げた菓子をつまみながら、私は横目で彼らのお約束な流れを傍観する。
「…カラ松くん、いちいちみんなの厄介事引き受けることないからね。嫌なら断りなよ」
頬張ったポテトチップスを、パリパリと音を立てて咀嚼する。だがカラ松くんは私の助言に対して、心外とばかりに目を剥いた。
「何を言うんだハニー、嫌なわけないじゃないか!ブラザーたちに頼られるオレ、オレに頼りたいブラザーたち、どちらもメリットしかない最高にイカしてる利害関係!」
あ、駄目だこいつ。
私は早々に見切りをつけることにした。本人がいいなら、好きにしてくれ。
「───デジャヴだ」
不意に、壁を背もたれにしていたチョロ松くんが、文庫本から顔を上げて眉根を寄せる。
「デジャヴ?」
「このパターン、前もあったんだよね。みんなの前では快く引き受けたくせに、後から僕に愚痴溢しまくって泣くっていう最悪の流れ。学習しねぇな、こいつ」
「あー…」
文庫本──可愛い女の子が表紙のラノベだった──をテーブルに置き、チョロ松くんは頬杖をつく。
「優柔不断で気が小さくて、兄弟からはいい奴だと思われたいから、言い返せないんだよ。僕ら兄弟間では一番無害だけど、変な見栄を張るところがあってさ。まぁ…ただ、身代わりができたらあっさり逃亡するあたりはマジでクソ」
過去に何が起こったのかは想像に難くない。チョロ松くんの短い説明で、事の顛末まで容易に思い描けた。
それにしても、彼らは兄弟といえどほぼ同時に生まれた六つ子。部外者視点では、兄弟間の上下関係はあってないようなものなのだが、当の本人たちは六つ子だからこそヒエラルキーを意識しているのかもしれない。
「そっかなぁ。カラ松、俺と二人だけだと素で拒否してくるよ」
いつの間にか、私の向かい側におそ松くんが着席していた。居間の中央では、他の面子による頼み事とカラ松くんをおだてる世辞臭い賛辞が続いている。そして受ける本人は満更でもない様子。
「分かるぞブラザー、オレじゃないと駄目なんだろう、ハーン?
そうかそうか、依頼は完遂、アフターケアまでバッチリのこのオレにしか頼めないと?そうだろうともさ!
フッ、頼りになりすぎるというのも問題だな…どうやらオレは前世で徳を積みすぎたらしい」
頭沸いてるなぁ。
弟たちに頼られて上機嫌なカラ松くんは放置して、私はおそ松くんに向き直った。チョロ松くんが侮蔑の視線を長男に向けている。
「いやいや、カラ松じゃなくても、誰だって断るだろ。僕だってお前の頼みは極力引き受けたくない」
「ひでぇ!何も聞かずにジェラルミンケース運ぶとか、アリバイ偽証するだけの簡単なお仕事だよ!?」
「犯罪の片棒担がせてんじゃねぇか!」
聞かなかったことにしよう。
「カラ松くんが拒否するのは、おそ松くんと二人の時だけ?」
「うーん、まぁ多くの場合は。で、そりゃもうバッサリ切ってくる。めちゃくちゃよいしょしたらやってくれるけど。
俺の前だと、いいお兄ちゃん演じる必要ないからかな」
まるで最後の砦のようだと私は思う。六つ子たちは揃って自由奔放なようで、脆い橋の上に立っているような危うさをときどき感じている。その関係性はさながら砂上の城。小さな齟齬をトリガーに、いとも容易く崩壊しかねない。
「じゃあさ、私が欲望のまま抱かせろって言ったら、オーケーすると思う?」
チョロ松くんが盛大に茶を噴いた。対照的におそ松くんは通常運行で、顎に手を当て、ふーむと唸る。
「ユーリちゃんに迫られてノーと言える奴の気が知れない」
「該当者が近くに一人いるんだよね」
「そいつ頭おかしいわ」
うふふあははと二人で肩を竦めて笑えば、チョロ松くんが苦悶の顔でラノベを床に叩きつけた。
「ツッコミどころが多すぎる!」
「カラ松が俺の頼み断るの、見てみたい?」
抗い難い、魅力的な誘いだった。彼らにとっては日常的に繰り返されてきた、あまりにも些末な現象である。珍しさや貴重感はもちろん皆無。しかし部外者で、かつカラ松くんから少なからず好意を持たれている私には、彼が煩わしく追い払う仕草は実にレアだ。
推しの貴重な新規絵はこの目で拝まなければ。
そんなわけでさっそく翌日、人目を忍んで松野家を再び訪ねた。示し合わせた時間ピッタリに引き戸を開けたおそ松くん。ドッキリを仕掛ける共犯者という立場が面白いのか、ノリがいいのは助かる。
「ユーリちゃん、約束の報酬はちゃーんと貰うからな」
何かを得るには対価が必要だ。暇を持て余したニートには、特に。
「分かってるよ、競馬観戦でしょ?どうせ行くならG1の時ね」
「マジで!?よっしゃ、ユーリちゃんと念願のデート!」
デートという単語の登場に、私は目を疑った。カラ松くんにドッキリを仕掛ける報酬に、一緒に競馬場に行かないかと誘われたのだ。馬券買いに参戦するだけのつもりで、デートの認識はまるでなかった。
「デートじゃないから。レースは臨場感あって面白いから行くけど、おそ松くんがデートっていう考えならセコム配備しておくね」
「それもう全員で競馬行った方が早くない?」
まぁね。
カラ松くんは二階で一人寛いでいるという。
他の兄弟は外出中だったり、おそ松くんから事情説明を受けて一階待機と、全員が共謀者の状況下。自宅待機班の一松くんと十四松くんは、二階に音が漏れないよう小声で私を出迎えてくれた。
おそ松くんは普段通りのステップで、私は足音を忍ばせて、二階へ上がる。途中で背後を振り返ったおそ松くんと目を合わせて、二人でニヤリと笑う。
「あ、カラ松お前ちょうどいい所に!」
六つ子の部屋に続く障子を開け放したおそ松くんが、後ろ手でそれを閉めながら軽い声を出す。わざと少しだけ残された隙間から私が中の様子を窺う。二階の廊下は薄暗い。身を屈めて彼の足元付近から覗き込めば、おそらく気付かれはしないだろう。
「…は?」
足を組んでソファに座り、くわえ煙草のカラ松くんが眉間に皺を寄せる。
行儀の悪い格好とドスの利いた声きた。いきなりご褒美タイム。
「何だ、おそ松」
声のトーンが低い。
「え!?頼まれてくれちゃう!?ありがとー。いやぁ、さすがカラ松!頼りになる!」
「まだ何も言ってないだろ…相変わらずだな、お前」
推しのジト目が最高すぎて辛い。
「実はさぁ、さっき母さんから買い物頼まれちゃって。俺これからドラマの再放送観たいから、代わりに行ってきてくんない?」
「やだよ。頼まれたのはお前だろ?」
障子の裏側で悶絶する私。やだよってお前。可愛いかよ。
「そこを何とか!家にいるの一松と十四松だけでさぁ、あの二人だと不安材料しかないわけ。カラ松が一番適材なんだよね」
「オレは忙しいんだ。再放送録画して買い物行け」
カラ松くんはにべもない。
「忙しいって、煙草吸ってるだけじゃん!優しくないっ」
「お前の再放送とオレの煙草、同じようなもんだ。チョロ松のようにオラつかないだけ、オレは優しい」
「お前、弟たちのお願いははいはい聞くくせに、俺に対してだけいつもひどくない?ひょっとして、ユーリちゃんにもそういう態度してんの?」
おそ松くんは語気を荒げて仁王立ちになる。後ろ姿からは表情が窺えないが、眉をつり上げているのだろう。カラ松くんは動じた様子もなく、灰皿に灰を落としてから再び煙草を唇で挟んだ。
「なぜそこでユーリが出てくるんだ。今はユーリ関係ないだろ?」
「…関係あるんだなぁ、これが」
おそらくほくそ笑んだであろうおそ松くんの意図が読み取れた。廊下に膝をついていた私は、静かに立ち上がる。
「───ユーリっ!」
開け放たれた障子から姿を現した私を視認して、カラ松くんは唖然とする。まだ煙の立ち上る煙草を灰皿に押し付けて、胸元に浮かせた両手を所在なく彷徨わせた。
「ど、どうしてユーリが…ッ」
「カラ松くんがおそ松くんの頼みは容赦なく断るって聞いたから、どんなものか見てみたくって──えーと、ごめんね☆」
テヘペロ。
「な、ユーリちゃん、言った通りだったろ?俺には全然優しくないの、こいつ」
「うん、実にいい映像だった」
動画で残して国宝指定にすべきレベル。
「そっかそっか、なぁユーリちゃん、俺の話聞いて」
おそ松くんは真顔になった。
「そ、その、ユーリ、これは一体…」
「優しいと気が小さいは紙一重だよね」
長所は短所にもなり、短所は長所にもなる。つまりは表裏一体で、受け取り方、表現の仕方に違いがあるだけだ。
カラ松くんは自身を優しいと認識し、兄弟は彼を気が小さいと判じる。ならば、私は。
「でもこいつ、ユーリちゃんの頼みはぜってー断らないだろ?」
「うーん、どうかな。承諾されるか断られるか視点で考えたことなかったからなぁ…あ、でもセクハラしようとしたら拒否される」
「何て奴だ、童貞の風上にもおけない!土下座してお願いする立場だろ」
「やっぱり?だよね」
俺だったら金積むよね、と冗談っぽく重ねてくるおそ松くんに、同じように笑って同調する。
「二人で結託するな」
カラ松くんが物言いたげな半目で私とおそ松くんを見やった。
「でもまぁ、母さんから買い物頼まれたのは本当だし、カラ松に行ってほしいのも本心だから───とっとと行って」
おばさん直筆のメモと資金をカラ松くんに握らせて、おそ松くんは朗らかな笑顔を浮かべた。
長男の有無を言わさぬ圧力で放り出されたカラ松くんを追いかけて、私は玄関を出た。彼はまだ松野家の塀沿いにいて、思いの外広い背中と、スキニーの似合うすらりとした両脚、背中から尻にかけてのラインが、私の視界に広がった。たまらん。
「カラ松くん」
指先でつーっと撫で上げたい背中に、声をかける。
「…ユーリっ」
デニムのポケットに両手を突っ込んだ格好で、カラ松くんは振り返って絶句する。私が追いかけてくるとは思ってもいなかった、そんな顔だ。
「とんだ災難だったね」
「…ユーリのせいでもあるだろ」
不服とばかりに眉をひそめるが、先程おそ松くんに向けていたものに比べると、大幅に加減がされている。やはりおそ松くんの誘いに乗っておいて良かった。
「それに関しては、さすがにちょっと自責の念を感じてる。お詫びにもならないけど、買い物ついていくよ」
「ハニー…」
「何ならジュース一本くらい奢っちゃう。いいもの見せてもらったお礼」
足元から進行方向に伸びる私の影が、おどけたポーズを取る。喜ぶと思ったのだ。調子よく、いつもみたいに気取って、仕方ないなハニー、なんて。
けれど私の予想に反して、カラ松くんは顔色を窺うように私を見つめてくる。
「…その…幻滅、しなかったか?」
切れ切れな言葉に、彼の不安感が如実に表れていた。
普段私には決して向けない素行の悪さと不遜な態度を、不本意な形とはいえ本人に見せてしまったことに後悔があるのだろう。私も、少し軽率だったかもしれない。
「まったく、全然、さっぱり!」
語気を荒げて否定する。
「幻滅なんてしないよ、考えたこともない。だから安心して」
それから、ごめんね、と。顔から笑みを消して謝罪を口にすれば、カラ松くんは足を止めた。
「ち、違うんだ、そうじゃない!ハニーは気にしなくていい!謝る必要なんて…っ」
「でも」
「その、何ていうか…オレが勝手に、ユーリに対する理想の自分を作ってたんだ。ユーリにとって格好良く頼れる男でいたい、とか…まぁ、あー…」
続く言葉が見当たらないカラ松くんは、片手で顔を覆った。隠しきれていない耳は赤い。
やがて表情を隠す手を退けて、照れくさそうに笑うので、私も黙って同じ態度を返す。
曖昧に誤魔化して、有耶無耶にかき消して、グレーをグレーのままで良しとする習慣に倣う。それを私たちは処世術と呼び、まるで必要悪とばかりに肯定する。そして時間の経過と共に、記憶の引き出しに押し込んで、しばし鍵をかけるのだ。次にその扉を開ける、その時まで。
「オレがおそ松を甘やかさないのは、オレたちがツートップだからだ」
再び歩き出した私に、カラ松くんが背後から言葉を投げてくる。
「下の四人を引っ張っていかなきゃいけない。六人もいれば、均衡を取るのにある程度の統率は必要だ。だからおそ松には、弟たちを率いるリーダー的立場であることを常に意識させる必要がある」
それ今考えた言い訳じゃないよな?
六つ子サイドが自分たちの存在意義や調和を意識しているとは、到底思えない。いやしかし、特にカラ松くんに関して言えば、ひょっとしたら。
「ハニーは、あまりオレに頼み事をしないな」
スーパーへ向かう道すがら、カラ松くんは私に歩調を合わせて歩く。
「女性としても人として、自立してる。オレと一緒にいても率先して何でも自分でするし、無茶な要求もしない」
「そうかなぁ?必要なことはお願いしてるつもりだけど」
うん、とカラ松くんは頷いて。
「それは結果的にWin-Winであって、対等だ。オレがいないと駄目ってことは全くないだろ?」
この人がいないと駄目。一見、一途で真っ直ぐな美しい想いにも見える。けれど裏返せば、それは全面的な依存でもある。行動と思考のコントロール障害、つまり病気だ。
カラ松くんの望む『頼られる姿』は、理想と実態に大きな齟齬がある。
「依存されるのが好み?カラ松くんがいないと生きていけないような?」
かつてのフラワーのような。
言外に含めた意図を察してか、カラ松くんはハッとする。
一度思い知ったはずだ。実現を希ったはずの夢は、理想とはあまりにもかけ離れたもので、終焉の先に虚しさだけが置き土産となったことに。
「…ハニーの言う通りだ。こんなはずじゃなかった、あの時確かにそう思ったはずなのに」
理想と現実が乖離した結果、深みにハマり、手に負えなくなった。思考を放棄して、されるがままだった。兄弟たちからはそう聞いている。
「──やっぱりユーリはすごいな」
結論づけて笑った顔は、どこか寂しげだった。
スーパーの自動ドアを潜ると、セールを告げる賑やかな店内放送やレジ打ちの声が私たちの会話に雑音として入り混じる。カラ松くんの手にするメモに従って、籠に商品を入れていく。
「カラ松くん、何飲む?」
ペットボトルと缶のドリンクが並ぶ棚の前で、私は努めて明るい声を出す。
「フッ、決まってるだろ、ハニー。イケてる男は黙ってブラック」
胸元に引っ掛けていたサングラスを装着して、カラ松くんは指を鳴らす。いい感じにウザい。
しかし、缶コーヒーの段に手を伸ばしたカラ松くんは、サングラス越しに私を見つめて、少しの躊躇の後、ペットボトルの方へと向きを変える。
「──と思ったが…今日は、これがいい」
そう言って苦笑しながら手にしたのは、甘めの炭酸のジュースだった。
買い物を終えたら、松野家に戻るか自宅へ帰るかの選択肢が浮上した。夕刻が近いこと、明日仕事があることを考慮して、帰宅を選ぶ。
「駅まで送る」
買い物の中に、早急に冷蔵庫に収める必要のある食材がなかったこともあって、カラ松くんはそう言った。いいのに、と私が遠慮するところまで、何となくパターン化している。
「オレが送っていきたいんだ」
けれど今日は珍しく、いつもの応酬に続きが生じた。
「でもこれは、優しさからじゃない──ユーリに対しては…下心がある」
びくりと体が硬直した。予想外の物言いだったからだ。
下心なら私も日常的にありまくりだよと言い掛けて止める。真面目に聞こう。
「やっぱりオレは、ハニーには頼られたいんだ。君にとっていつでも頼れる男でありたい」
言い換えれば、必要とされたい。共にいていい理由が欲しい。言葉にしなくても伝わるニュアンスがあるように、その逆もまた当然存在する。カラ松くんが欲するのは、言葉で明言された安心だ。
「いつも頼りにしてるよ。私にできないことをカラ松くんはやってくれる」
ただ、一方的に守られる弱者の地位には甘んじない。それこそ依存関係に近づくだけだ。
「実はね──私も、カラ松くんに頼ってほしいと思ってるよ」
「ユーリ…」
カラ松くんは相好を崩す。
「ハニーはいつも先回りしてオレを助けてくれるじゃないか。おかげで、頼るところまでなかなか辿り着かない。何ていうか…そう、事件発生と同時に解決する名探偵、まさにああいう感じだ」
そう言って一呼吸置いた後、優しげな口調で結論づける。
「だからオレは、ユーリには敵わないんだ」
そんな大層なものじゃない。そう否定しようとした、次の瞬間だった。
カラ松くんに思いきり腰を引き寄せられる。
突然の抱擁に面食らっていたら、カラ松くんの睨みつけるような鋭い視線が私の背後に向けられていた。黒い前髪がさらりと風に流れて、強気な眉が姿を現す。見惚れるくらいに端正な横顔が、今は間近。
「か…」
状況を飲み込むより先に、私の真横を猛スピードのクロスバイクが駆け抜けた。
私たちが歩いていたのは、ガードレールが設置された歩道の、内側。立て続けに衝撃的な出来事が続き、言葉が出ない。
自転車の接近に、まるで気付かなかった。衝突すれば軽い怪我では済まなかっただろう。
服越しに密着する体に熱が集中して、思考がままならない。
「…カラ松くん」
同じだ、と私は思う。
カラ松くんだって、先回りして私を助けてくれる。時に危険さえ承知の上で。だから安心して側にいられるのだ、わざわざ声にして頼む必要がない。
「すまん、オレが道路側に立つべきだったな」
ほら、そうやって。
呆然としていたら、カラ松くんは私を引き寄せる自分の手の位置に思い至ったらしく、飛び退くように慌てて手を離した。
「…あっ!こ、これは…っ、咄嗟につい!違うんだ、ユーリ!危険回避に乗じてあわよくばラッキースケベ的な考えは別に全くなく、つまり──」
言い訳や弁明が下手なのは知っているが、言葉数が増えると却って嘘くさい。
百倍にして返してやろうかと悪戯心が芽生えたが、間一髪で救ってくれた恩に免じて、不問に付そう。
別れの時間が近づく駅前のロータリーで、私は振り返る。
「カラ松くんに、一つだけお願いがあります」
背中で両手を組み、わざとお調子者ぶるような口調で物申す。サングラスをかけたままの彼は私の意向を察してか、フフーン、と機嫌よく口角を上げる。
「どうした可愛いハニー、改まって。人類の歴史上これほど頼れる男はついぞ見たことがないと噂の、この松野カラ松に頼み事か?いいだろう、引き受けた!」
まだ何も言ってない。
「リーブイットトゥーミーだぜ」
英語きた!しかもエイトシャットアウトなどと違って文法的に正しいのもまた絶妙に腹立つ。
ムード台無しなカラ松くんの台詞を振り切るように、私はにこりと笑みを浮かべた。
「これからも仲良くしてね」
今度は、カラ松くんが硬直する番だった。
二人きりで改まるほど大袈裟なものでも、かといって喧騒の中で交わす雑談ほど軽くもなくて、だから人通りは多くはないものの適度に他人の奏でる音が広がるロータリーは、おあつらえ向きだ。周囲から見れば、他愛ない会話に花を咲かせる平凡な男女でしかない。
「それは…言われるまでもない、もちろんだ!オレの方こそ、これからもよろしく頼む──ハニー」
カラ松くんは気恥ずかしそうに、中指でサングラスの位置を正す。黒いプラスチックのレンズに阻まれて、視線が絡み合っているのか分からない。いつかの初デートの時のように、私は彼に顔を近付けた。至近距離でようやく、レンズの奥に潜む双眸と目が合う。
「は、ハニー…っ!?」
「前に言ったよね?女の子と話す時はサングラス外そうね、って」
両手を伸ばしてゆっくりと外せば、赤みのさした素顔が現れる。呼吸の息遣いが聞こえるほどの至近距離、私は満足げにニッと笑った。
「な…ッ」
「うん、こっちの方がいいね──ってことで」
電車の到着を告げるブレーキ音を背に。
「改めてよろしく───ダーリン」
なんて。
我ながら恥ずかしい台詞だ。冗談っぽく初めて口にしたその呼び名は、声に乗せた瞬間に黒歴史になった。まさかこの年で更新するとは。
しかしカラ松くんには効果絶大だったらしい。首から上を一瞬で朱に染め上げたかと思うと、やがて眩いばかりに瞳を輝かせた。
「ハニー!ワンモアっ!」
「えっ…もしかして気に入った?止めて」
「今後はダーリンをデフォで!頼む!」
「ごめん無理」
ハニーと呼ばれるのは慣れたが、さすがにダーリン呼びは羞恥心マックスで寿命を削る。ほらみろ鳥肌がヤバイ。
「オレとユーリは、少しくらい適当でもいいのかもしれないな」
頼るとか頼られるとか打算的な要素に縛られるのではなく、楽しさを共有する緩やかな関係の延長線上くらいが。きっと、ちょうどいい。