カラ松事変とハニー

カラ松くんがときどき、憂いを帯びた表情を見せる。
看過できない懸念を抱えるような、宝物を失った物悲しさのような、ずしりと抱えるその荷物は、彼の表情に陰を落とす。

誰しもそんな時があるだろう。年がら年中機嫌がいいわけではないし、悩みの一つや二つ、ひっそりと胸の内に秘めているものだ。
けれど多くの場合、人前では極力顔に出さないでおこうという心理は働く。人はその防御反応を強がりとも呼ぶ。
そして大抵のことは、蓋をするなり乗り越えるなりで、早い段階で過去の遺物となる。いつまでも淀み続けるものは、悩みというカテゴリを超えて、トラウマと呼ぶべき代物だ。溜めて煮詰めたところで、歪に濁った醜いものは、いつか清らかに昇華して無と化すわけでもない。




「何か嫌なことでもあった?」
「え」
唐突な私の問いかけに、カラ松くんは目を見開く。驚愕を顔に貼り付けたのはその一瞬で、すぐに居心地が悪そうに目を逸らしてかぶりを振った。
「いや、大したことじゃない…少し、思い出したことがあるだけだ」
遠くに視線を投げながら、彼は片手を額に当てた。

その時、六つ子の部屋にいたのは私とカラ松くんの二人だけだった。カラ松くんは腰高窓の枠に、私は少し離れたソファにそれぞれ腰掛けて、他愛ない会話に花を咲かせていた。
話題が途切れた頃、カラ松くんが何とはなしに窓の外に視線を投げて、直後にその目を苦々しげに歪めたのだ。推しの新規情報収集に全神経を研ぎ澄ませている私に死角はない。
「もうずいぶんと昔のことなのに」
「解決してない悩み事?」
視線の先に答えがあるのかと、ソファから立ち上がり、窓から身を乗り出して外の様子を窺う。しかし私の目に映るのは、いつもと何ら変わらぬ風景だ。松野家前の道路に至っては、人はおろか、犬猫一匹さえ姿がなく閑散としている。
周囲の木々は葉を散らして痩せ細り、そよ風の冷たさと共に冬の到来を感じさせた。
「解決はもうしてる…と思う。
ただ、たまに思い出して、どう言えばいいか分からない気持ちになるんだ。…すまん、ユーリに関係ある話じゃないから、今のは忘れてくれ」
鬱々とした感情を誤魔化すように、カラ松くんは苦笑する。肩を竦めたその仕草が、どこか痛々しい。
「それ、解決してるって言わないんじゃない?」
意図せず、遠回しに探りを入れるような言い方になってしまった。
しかしカラ松くんはそのことに気付いた様子でもなく、どうだろう、と小さく溢す。
「今更蒸し返してどうなるんだという気もする。気まずくなったり、機嫌を損ねるのも本意じゃない」
内容は見当もつかないが、対象は絞り込めた。ニートである彼の行動範囲と交友関係は限られているから、私の知る範囲であれば、という前提だけれど。
相手が私の推測する面子のいずれかだとしても、関係性の崩壊を招くような遺恨を残すことはないと踏んでいたが、買い被りだったのだろうか。それとも、単に私が無知なだけか。

「…私が聞いてもいい話?何か力になれそうなことある?」
「ユーリ…」
嬉しそうに、はにかんで。そしてまた彼は、額を触った。これで二度目だ。
「おでこが痛むの?」
「あ、いや、これは…っ」
近づいて、カラ松くんの手を押しのける。抵抗されるかと思い少々力を込めたが、意外にも容易く防御が崩れるから、ほぼ無抵抗な彼の黒い前髪をゆっくりと掻き上げた。

そこにあったのは──小さな、傷跡。

周りの皮膚とは僅かに色の異なるそれは、接近してようやく気付けるくらい目立たないもので、完治してから長い期間の経過を物語る。
「この傷に関係あるんだ?」
問いかけても、カラ松くんは答えない。
私は彼の腰掛ける窓枠に膝を立てて、上から覗き込む格好で、額の傷に緩く指を這わせる。
「──ッ」
カラ松くんがぴくりと眉をひそめたのは一瞬だった。やがてどこか恍惚とした表情に変わったかと思うと、身を委ねるように目を閉じる。
そんな彼を見下ろしながら、私はふと思うのだ。

これ間違いなくこのまま抱けるフラグじゃないか?

俄然鼻息も荒くなる。
しかし、とっておきのヘヴンを見せて差し上げよう任せろと意気込んだところで、我に返ったカラ松くんから制止を食らう羽目になる。お決まりのパターンに今日も敗北を喫した。茶化そうとした私も悪いが、ぶっちゃけ悔しい


それでも、この話にはまだ続きがあって。
「なぁハニー、実は行きたい場所があるんだが」
唐突な話題転換。さては誤魔化す気だなと私が警戒するのを知ってか知らずか、カラ松くんは窓から外のアスファルトを見下ろした。
まるで、そこに何かがあるとでもいうかのように。

「来週の週末に、ついてきてくれないか?」

もし深淵を覗く気があるなら──そう言われた気がした。




トイレを借りるために一階に下りたら、野良猫を抱えた一松くんと廊下ですれ違う。
「あ、ユーリちゃん」
薄く笑みを浮かべて、彼は会釈した。
松野家トップクラスで異性に免疫がないと豪語する四男も、私に対しては今や緊張感はなく、比較的自然体に近い態度で接してくる。出会った当初こそ、二人きりになろうものなら脱兎の如く逃走、目が泳ぎまくる、挙げ句の果てには泡を吹くといった挙動不審全開だったので、その時期に比べると飛躍的に気心の知れた仲になったといえる。

「また来てるんだ、ほんと飽きないね」
一松くんは冗談っぽく片側の口角を上げた。
「飽きるとか飽きないじゃないんだよね、もう生活の一部っていうかルーティンみたいなもんだから。あ、でも来週は来ないよ、海に行く予定」
「海?こんなクソ寒い時期に?」
正気を疑うとばかりに一松くんは眉をひそめる。
「うん、カラ松くんに誘われたんだ」
私がそう答えると、彼は僅かに目を見開く。そこには、単なる驚きとは異なる、複雑な感情が僅かに垣間見えた。
「カラ松が…ふーん、ユーリちゃんを誘って、ねぇ」
「その言い草だと、やっぱり因縁は兄弟にありそうだね」
「え…あ、何だ、カラ松から何も聞いてないの?」
今度は単純な驚愕を顔に貼り付ける。
そうだと頷けば、一松くんは片手を顎に当てて思案した後、きまりが悪そうに私から視線を外した。

「まぁ兄弟間で一番理不尽な目に遭って冷遇されるのが、カラ松がカラ松たる所以だから」
「とんだスケープゴート」
「自分から首突っ込んでくるところもあるし」
それについては否定できない。
私が唇を噛んで唸ると、その様子がおかしいのか一松くんは少し声を出して笑う。
松野家の六つ子は、壊れかけの橋だ。安全平穏と見せかけて、些細なきっかけでやすやすと崩壊する脆さを内包している。各々に役割を割り振ってバランスを保っているから、役割変更はすなわち崩落に近づくことを示す。
カラ松くんを哀れんで優しく甘やかせば、六つ子の均衡が崩れる───そんな風に、彼らは考えているのかもしれない。
狭い世界観しか持たない童貞ニート集団はこれだから面倒だ。

「でもユーリちゃんを連れて行きたいって言うんだから、あいつの中でもう決着はついてるか、少なくとも決着つけようってとこなんだろうね」
「うーん、もしかして重大な任務を仰せつかった?」
「構える必要ないでしょ。おれとしては正直、堂々とデート宣言は腸煮えくり返るけど、回復して耐久ゲージ上がれば引き続き酷使できるし、悪くはない話
さらっとむごいこと言う。
複雑な胸の内を隠すことなく私が眉根を寄せれば、一松くんは胸に抱く猫の肉球を親指の腹で押して遊び始める。それから周りに誰もいないことを確認して、私に向けて手招きをした。

「帰ってきたら、おれも続きを教えてあげる」
耳元で囁くように。
「続き?」
「カラ松の話の続き。おれとユーリちゃんだけの内緒話だよ」
人差し指を自分の唇に当てて、一松くんはニッと意味深に笑う。
「誰にも話さないって約束してよね」

彼の腕の中の猫が、にゃあと鳴いた。




約束の翌週は、あっという間に訪れる。
待ち合わせ場所は私の最寄り駅。交通手段は電車だとばかり思っていたから、駅前のロータリーにカラ松くんが車を乗り付けてきた時は目を丸くした。
「イヤミから奪っ──借りてきた」
奪ってきたって言いかけたよこの人。
「オレが行きたいと言い出した場所にハニーをエスコートするんだ。手間をかけさせないスマートな手段を選ぶのは当然じゃないか?」
さぁどうぞプリンセス。そう言ってカラ松くんは助手席のドアを開ける。
「私は気にしないよ」
言われるまま乗り込んで笑う。それが例え乗り換えの発生する移動であっても、カラ松くんとなら苦に感じないのに。
彼は運転席でエンジンをかけながら、目線を真正面に向けたまま答えた。
「オレがそうしたいんだ」
そっか、と私は頷いた。ならば拒否する理由はない。
「それに車だと、その…二人きりだ。ユーリにだけ聞いてほしい話を、他人の目を気にせず話すのにも都合がいい」
推しの時間独占イベントが発生するたびに、課金すべきなんじゃないかと心配になる。
これ全部無料でいいの?太っ腹すぎない?
「確かにね。ならせっかくだし、私の話も聞いてもらおうかな…他の人には内緒のこと」
課金すべきか問いたくなる本音を隠して冗談っぽい声音で告げれば、カラ松くんは目を細めた。車は緩やかに速度を上げて、駅を離れる。

「どんなことでもウェルカムだぞ。ユーリの役に立てるなら、オレは──何だってする」


冬の海は、寄せては返す波の音と人気のない砂浜の雰囲気が相まって、心細くなるような哀愁を漂わせる。磯の香りを乗せた海風が、私の鼻をくすぐった。
照りつける灼熱の太陽と汗ばむ蒸し暑さの中で賑わっていた海水浴場の面影は、今はどこからも感じられない。広がっているのは同じ景色のはずなのに、気温が違うだけでまるで異なる様相を呈する。

「ユーリ。砂に足を取られないように、段差に気をつけて」
私に手を差し伸べて、カラ松くんは言う。
道路から海水浴場に下りる階段に、風で吹き付けたであろう細やかな砂粒が積もっていた。階段で体勢を崩すほど子どもじゃないと一度は拒否しようとしたが、すぐに思い直す。重なった手は、温かかった。
「望んで来ていて何だが、冬場の海は人気がないな。海はやはりサマーにこそ真価を発揮する」
オレには似つかわしくない、とカラ松くんは腕組みをして首を振った。
「でも冬の海ってさ、物思いに耽ったり、誰にも聞かれたくない大切な話をするにはピッタリな場所だよね」
「…そうだな」
僅かにカラ松くんの声のトーンが下がる。
それから彼は階段の砂を手で払い、私の席にだけタオルハンカチを敷いて、着席を促した。自然体でハンカチ敷いてきたよ、何この気遣いの紳士。突然のクリティカル攻撃止めて。


砂浜に続く階段に並んで腰掛ける。周囲に私たちを遮る障害物は何もない冬の海。その光景は私たちに、非日常感をもたらした。
「ユーリには言ったことがなかったと思うんだが」
会話の切り出しに、そんな前置きがあった。
「──海と梨は嫌いだった」
「だった?」
出会ってから今に至るまで、どちらにも嫌悪感を示されたことがなかった。そもそも海と梨は、一見まるで関連性がないものだ。
意図が掴めずに私が首を傾げると、カラ松くんは私を見つめる目を柔らかくして、薄く微笑む。

「どっちもいいものなんだと、ユーリが認識を変えてくれたんだ」

風になびく前髪を掻き上げて、カラ松くんは続ける。彼の表情から笑みは消えた。
「夏、海に行こうと誘ってくれた。いつだったか手土産の梨を剥いて、笑顔で差し出してくれた。ユーリにとっては何てことない日常の一動作が…オレにとっては救いの光だった」
それからカラ松くんは、兄弟間におけるいわゆるカラ松事変と呼ばれる事件を私に語った。借金のカタとしてチビ太さんに拉致されたものの、兄弟からは安否を心配されるどころか、最終的には安眠妨害の罰として数々の凶器を投げつけられ、尽く蔑ろにされたこと。額の傷は、その時にできたものらしい。
さらに追い打ちをかけるように、その直後に四男に対しての態度と決定的な相違をまざまざと見せつけられ、根本的な解決がないまま今日に至る。まるで、そんな事件など起こらなかったとでも言うかのように。

「思い出すと心臓が痛くなるから、思い出さないようにしていたし、別のことを考えて誤魔化してきた。
あれからブラザーたちもその話をしないし、あいつらの心境を知るのは正直怖かったんだ」
「うん」
「オレは梨以下なのかとか、目の前でオレが死にかけていても危機感を抱かないのかとか、色々考えて」
「うん」
「──オレの命が梨に負けたと分かった場所が、海だったんだ」
その時のカラ松くんの絶望は想像を絶する。無意識のうちに眉間に皺を寄せていたら、長い指がすっと伸びてきて、私の髪に触れた。
「夏に、海水浴に行っただろう?
その時は、思い出すこともなく過ぎたんだ。周りの見た目や雰囲気が全然違うせいもあったんだろうと、そう思った。
しかし冬場はさすがに動悸の一つでもするんじゃないかと、こうして確かめに来た」
「…今はどんな気分か、聞いてもいいのかな?」
うん、と返事があって。

「やっぱり、何とも思わないんだ。
でもそれは…こうやってハニーが側にいてくれるからなんだろうな、きっと」

海よりもユーリのことばかり考えていると、彼は言う。
「でもこの間みたいに、まだときどき思い出すんでしょう?」
私の問いかけを、彼は否定しなかった。
「ふとした時に過ぎることはある。ただその頻度がユーリに出会ってから格段に減ったのも、紛れもない事実なんだ」
未解決事件の被害者のようなものなのだろう、と私は思う。
意識を切り替えるきっかけが掴めないまま、時だけが残酷に流れていく。確かな真実が一つでも手元にあれば、慰めにはならなくとも、前に進む拠り所にはなり得る。
カラ松くんが望むのは、きっと──

「…もしもの話なんだけどさ」
仮定する未来が訪れないことを心から願っているけれど。

「もし、どうしようもないくらい辛くて、何もかも嫌になるようなことがあったら───逃げておいて」

これは私の覚悟だ。
カラ松くんの幸せを願い、私を誰よりも信頼していると言って憚らない彼へに向けた、私の。
けれどまさか私の口からそんな言葉が飛び出してくるとは予想だにしていなかったのだろう、カラ松くんは面食らった様子だった。
「当面の間なら、うちに居候してもいいよ」
「ユーリ…」
「もちろん異性だから警戒はするし、制限は設けさせてもらう。洗濯とかは当然別々だし、万一にも襲ってきたら襲い返す…じゃなくて絶交。生活費は折半ね」
他人が聞けば、取り立てて騒ぎ立てるほどでもない、些末な会話の一部分に過ぎないのだろう。しかし当事者にとっては、相応の勇気を要する宣言だった。
「冗談に聞こえるかもしれないけど、私は真剣にそう思ってるから。カラ松くんさえ良ければ、駆け込み寺にしてくれていいよ」
カラ松くんに悲しい顔をさせるくらいなら、私が彼を守る盾となろう。




「…ユーリ、その…すまん」
片手で自分の口を覆って、カラ松くんは目線を落とした。その口角は上がっている。
「何と言うか…嬉しすぎて、どう頑張ってもニヤけてしまう。だから、今あまり…こっちを見ないでくれないか」
頬どころか耳まで赤く染め上げたカラ松くんの眉は、困惑を滲ませて釣り上がる。真面目なシーンの途中で大変申し訳ないが、見ないとか無理、クソ可愛い。
聞こえなかったフリをしてギンギンに凝視する──何ならより接近もする──私と、一層恥じらって顔ごと私に背を向けようとするカラ松くん。やがてどちらともなく肩を揺らして笑い声を上げて、重苦しい空気が溶けていくのを感じた。


「なぁ、ハニー」
ひとしきり笑った後、カラ松くんは波打ち際を見つめながらぽつりと言った。
「オレは、ずっと暗い顔をしてるように見えたか?」
「え?私にはそう見えたんだけど」
違うの?と問えば、カラ松くんは唇でへの字を作って思案顔になる。だって、その言い方は、まるで。
「だとしたら──それは誤解だ」
「誤解…?」
「ハニーと出会ってからは、あの時のことを思い出すことはあっても、少しずつ息苦しくならなくなって、それがずっと不思議だった。
先週だってそうだ。ブラザーたちから鈍器を投げられた記憶がフラッシュバックしても、何だか遠いメモリーのような、他人事のような、そんな感覚しかなくて」
結合されていたはずの記憶と感情が乖離することで、彼を縛る鎖が切れたのだろうか。
しかし、ああ、と私は思わず声に出していた。先週の会話を思い返すと、一切合切が腑に落ちる。

カラ松くんは一言だって口にしなかった、『辛い』『悲しい』といった言葉を。

曖昧に提示される情報に、都合よく補完していたに過ぎない。
「でも、どう言えばいいか分からない気持ちになるって…」
訊いてから、負の感情だと決めつけていたのは自分だと思い知らされる。上記の表現もまた、どちらとも取れる不明瞭なものだったから。
「ああ、それは、その……ユーリといられる今が、すごく幸せだな、って…」
消え入りそうな声で、カラ松くんが言う。
「え、それだけ?」
私は思わず目を見開いた。それならそうと素直に言ってくれればいいのにと、不満が表情に出る。
「んー、よーくシンキングするんだ、ハニー。
ユーリが側にいるだけで、ブラザーたちに軽視された挙げ句蔑ろにされたトラウマ払拭するどころか、幸せを感じるんだぞ!このマイナスからのプラスへの驚異的な転換、ハードドラッグキメた感がハンパない!
不本意だが、分かる気もする。
「そしてオレは悟ったんだ、ニート童貞寄生虫総じてクズのあいつら如きに執着するのはナンセンスだと
「待て待て、すごいブーメラン」
紛うことなき同類が何熱く語ってるんだ。振り切ってきた。

「でも…そうやって最後は必ずユーリが守ってくれるのを分かってるから、逃げ場を用意してくれるから、オレは安心して過ごせるんだと痛感してる──男としては、いささか複雑な胸中だが」
嬉しさや情けなさといった相反する感情を抱え、眉根を寄せる。
「推しには幸せでいてほしいって思うのは、普通じゃない?
推しだよ?同じ空気吸ってるどころじゃない、触りまくれる推しなんだよ?
大事なことなので二回言わせていただく。
躊躇なく真顔で言い放つ私に、少し照れくさそうな表情を返して、カラ松くんは苦笑いを浮かべた。
「…正直、そう言わせるために誘った感もある。オレの存在を肯定して、必要としてると言ってほしい下心はかなりあった…ハニーの優しさを利用したんだ」
「素直じゃないよね」
「そうだな───最低だ」
いつになく声のトーンが低くなった。頬を撫でる風の中に、つんと鼻を突く潮の香りが混じる。
私はカラ松くんの背中を景気づけに叩いた。仰天した顔の彼と目が合う。

「そういうとこも可愛いってことだよ」




階段を下りたら、眼前には一面の白い砂浜。
一歩踏みしめるたびにブーツがじわりと沈み込んで、足が取られる。けれどその不安定さも砂浜の醍醐味だ。両手でバランスを取りながら、私は波打ち際へと歩を進める。
「もっと近くで海見ようよ、カラ松くん」
「──え…あ、ああ」
ぼんやりと私を見つめていたカラ松くんが、ハッと我に返る。
「フッ、ハニーのスマイルが眩しすぎて、ウィンターフェアリーが降り立ったかと錯覚してしまったぜ。静寂の地に降臨したフェアリーに導かれる…オレ」
ナルシスト劇場始まった。
「いいだろう!この松野カラ松、導かれし者として喜んで馳せ参じよう!」
大袈裟な仕草で胸元に手を当て、カラ松くんが背筋を正す。まるで舞台上の役者みたいに。
まぁ、彼曰くトラウマだった海でこれだけの軽口が叩けるなら、もう心配はいらないだろう。

「ユーリ」
太陽を背にしてカラ松くんが微笑む。
「冬の海も…いいな」
「うん、夏とは違った風情があるよね」
耳に心地よい音色と共に、穏やかな波が規則的に浜に打ち寄せる。私たちは粒子のような砂粒が舞う地面から、海水にしっとりと濡れた波打ち際へと近づく。穏やかな海だ。
海水がどれほどの冷たさなのかふと興味が湧いて、海水に触れるために私は腰を屈めた。
「ユーリ、濡れるぞ」
「平気平気。ちょっと触るだけだから」
しかし波が引いたのを見計らって一歩前に進んだ私は、すぐにその行為を後悔することになる。
次の瞬間、波の引きが強くなったのだ──ということは、つまり。
慌てて後ずさるが、濡れた砂のぬかるみにブーツの踵が埋もれて体勢を崩す。後方に傾く体。しまった。
どこにでもなく伸ばした手に掴むものはなく、あ、と情けない声が口から漏れた──その刹那。

ふわりと体が浮いて、カラ松くんの優しい顔が目の前に迫る。

「……あ」
「まったく、本当に聞き分けのないレディだ」
しかし叱責の言葉とは裏腹に、表情と声はどこまでも優しい。
背中と足の裏に腕を差し入れられて、お姫様抱っこされていると私が気付いたのは、それからすぐのこと。

「ユーリは目を離すと勝手にどこかに行ってしまいそうな気がするから、他のことに気を取られている暇なんてないな」

何だか、それが彼の答えのような気がした。
ごちゃごちゃと理由を述べていたけど、結局のところとてもシンプルで。私のおかげではなく、カラ松くん本人の意志なんじゃないかと、そう思うのだ。


「足、濡れちゃったね」
地面を見下ろせば、打ち寄せた波が今もカラ松くんのスニーカーを濡らしている。
「ハニーが無事なら構わないさ」
「冷たくない?」
「冷たい。チビ太に拉致された時のようにコールドだ」
「あー、やっぱり」
「でも…嫌な感情はない。むしろ今だって不可抗力とはいえハニーに触れられていて、かなり役得だ」
ふにゃりと破顔したカラ松くんが近い。地に足がつかなくて不安定なのに、二点で支えられた私の体は僅かにも揺らがない。
そっとカラ松くんの首に両手を回す。
「ユーリ…っ!?」
カラ松くんは頬を真っ赤にして、けれど私から決して目を離さない。びくりと、私を抱く手に僅かに力がこもった。

周囲に誰もいない静かな海岸は文字通り二人だけの世界で、これが無課金だと…?とひたすら愕然としていたのは内緒だ。




私たちのいわゆるキャッキャウフフな展開は長続きしなかった。勢いを増した波に足をさらわれて、私を抱いたままカラ松くんが砂浜に尻もちをつくという盛大なオチがあったためだ。
しかし私だけは落とすまいと健闘してくれたおかげで、再び私が砂浜に足を着いた時、海水に濡れたのはブーツの底だけだった。カラ松くんは下半身が悲惨なことになったが。
こういう事故も折り込み済みの車だったのかもしれない。ビニール袋を運転席に敷いて、カラ松くんは何事もなかったようにハンドルを握った。

松野家に帰宅して早々に、カラ松くんは風呂場へ消える。
私は濡れた彼の靴を持って家の裏へ回り、庭の水道で海水を洗い流す。乾かすために沓脱石に立て掛けていたら、着替えを終えた彼がおそ松くんと廊下で話す姿が見えた。

会話を終えて二階へ上がるカラ松くんを追いかけて、六つ子の部屋に続く襖を開ける。
「ハニーか?」
「カラ松くん、カラ松くん」
「ん?どうしたハ───…いや、エスパーニャンコ」
僅かな間があって、カラ松くんの声が弾むのが分かった。彼の表情は私には見えない。
なぜなら──

私はエスパーニャンコを自分の眼前に掲げて、彼に語りかけているのだ。

「ユーリは、自分の気持ちを正直に言ってるだけなんだ。
利用したとか、最低だとか、罪悪感は感じなくていい。ユーリはそんなこと微塵も思ってない」
それから。
「でもこれからは、助けてほしい時は助けてって素直に言ってほしいな。そしたら、いつだってすぐに駆けつけられるよ」
猫が微動だにしないのを幸いに、私の代弁者としてカラ松くんに告げる。人形劇よろしく、片足を持ち上げてみせたりして。

縁側で靴を洗っていた時、一松くんに声を掛けられた。
もう平気らしいよと結論を投げれば、じゃあ約束通り内緒話をしようと言って、サンダルを引っ掛けて私の傍らに彼は降り立つ。
エスパーニャンコを介して本音を曝け出し、偏屈で劣等感の塊である己自身と嫌でも向き合わざるを得なくなったこと。カラ松へのフォローが遅れて拗れたのは、猫を逃して兄弟の手を煩わせた自分にも原因があるから、と。
くれぐれも他言無用だと指切りを交わして、黒歴史は私に共有される。カラ松くんにとって最も親しい異性である私に話したのは、彼なりの贖罪なのか。どうしてその話を私にと問いかけても、困ったような笑みが返ってきただけだった。


しばしの沈黙があった。
カラ松くんが今とんな顔をしてどんな想いを抱いているのか、私には想像もつかない。せめて一言でいいから何か言葉を発してくれと念じた頃、彼はようやく口を開いた。
「…分かった。いつも感謝しているとユーリに伝えてくれ」
その声が孕むのは、コップの縁から水か溢れて零れ落ちるような、受け止めるには大きすぎるくらいのひたむきな熱。
不意にエスパーニャンコの頭が撫でられて、息が止まった。
「いいよ、言っておく」
「それともう一つ、ハニーに伝えて欲しいことがあるんだ」
「何?」
反射的に訊いたら、カラ松くんから躊躇するような空気が漂う。静寂がなぜかむず痒くて何か言おうと声を出しかけた、その時。

「オレは今、無性にユーリに会いたいんだが、良ければ会ってもらえないか──って」

力が抜けると同時に、エスパーニャンコが不快そうに身を捩らせた。そして私の手をすり抜けて部屋を出る。ぱたぱたと階段を駆け下りる軽快な音が、次第に遠ざかっていく。
仮面を失った私は、顔を上向けるしかない。
「もちろん、喜んで」
笑顔と共に両手を広げたら、今にも泣き出しそうに目を潤ませて胸に飛び込まれる。
「ハニー…ッ」
言葉にならない想いは呼び声に乗って。抱擁は痛みを感じるほどに強く。
言葉一つでこんなに喜んでくれるなら、いつだって好きなだけ紡いであげよう。それこそ、降り積もるくらいに。
幸せ貯金なんていいかもしれない。幸せが貯金できるかは分からないけれど。

彼の前髪を掻き上げて、傷跡に触れる。
消えなくてもいいから、せめて気にならないくらい小さくなりますようにと祈りを込めて。




「カラ松兄さん、ユーリちゃん!そろそろ晩御飯って母さんが───
音もなく姿を現した十四松くんが、開けっ放しの口を一層大きく開けて目を見開いた。彼の瞳に映るのは、室内で抱き合う男と女。固まるのも当然か。
「えーっ!兄さんずっるうううぅぅうぅうぅい!」
えらい巻き舌で叫ぶ五男。
「ちっ、違…十四松、これはその、あの…っ」
兄弟に抱擁を目撃された羞恥心で顔を真っ赤にしながら、カラ松くんはしどろもどろに弁明しようとする。可愛すぎるだろ。誰でもいい、今すぐ一眼レフ持ってこい、今すぐにだ。
しかし十四松くんはどこ吹く風で引き続きズルいを連呼し、兄の言い訳は端から聞く耳持たずの様子。

「ねぇみんな聞いてー!カラ松兄さんズルイんだよ!ユーリちゃんと二人きりで、しかもめちゃくちゃ抱きしめ──」
「シャットアッププリーズっ、じゅうしまああああぁあぁあぁつ!」

家中にカラ松くんの叫びが轟いた。お後がよろしいようで。