※おそ松さん3期5話「まぁな」に関するネタバレがあります。
※管理人が恥ずかしくなったら非表示にする可能性があります。
兄弟間における看過できない事件が、もうずいぶんと前に松野家の縁側で勃発したことがある。酔った十四松くんからそう耳打ちされたのが、事の始まりだった。
居間で開催されていた、管を巻くためだけのグダグダな飲み会が始まって一時間ほど経った頃のことである。
トイレから部屋に戻る帰り、廊下から吹き付ける冷たい風を不思議に思って出処を突き止めるために進んだら、窓の開け放たれた縁側に辿り着く。サンダルも履かずに腰を下ろして、カラ松くんが空を見上げていた。
「カラ松くん」
「…何だ、ユーリか」
カラ松くんが目を細める。
眼前にはウッドフェンスというよりは昔ながらの木製の堀に囲まれた小さな庭。無造作に生えた雑草がそよそよと風に揺られている。古き良き民家の佇まいだ。
「サボり一名発見伝。隣、座ってもいい?」
「構わないが…寒くないか?」
「寒い。酔ってるから特に。ちょっとしたら部屋戻るよ」
首を竦めたり手を擦ったり、さらには鼻をすすったりと、目に見えて寒いアピールをする私に戸惑いつつも、カラ松くんは部屋に戻れとは言わなかった。
私も私で、わざわざ彼の隣に腰掛けたのには理由がある。
「カラ松くん、薬局のお姉さんに告白したことあるんだって?」
前置きもなくストレートに放った私の揺さぶりは、彼に大きな打撃を与えたようだった。カラ松くんは目を剥いて硬直する。寒さ故ではない手の震えから、動揺が手に取るように伝わってくる。
「ブラザーたちめ、余計なことを…っ」
それからカラ松くんは長い溜息と共に、覆うように片手を顔に当てた。兄弟の軽率な発言に、呆れ果てたとばかりに。
「聞いてみたかったなぁ」
しかし続く私の言葉は予想外だったらしく、え、と彼は声を上げた。
「どうして…」
「ん?」
「どうして、オレが彼女に告白したのを聞いてみたいんだ?」
困惑と期待が混同したような、限りなく複雑な面持ちでカラ松くんが私を見つめた。推測できない不安も、その表情からは垣間見える。
「いやだって推しの本気の告白とか、レア中のレア、激レアボイスにも程がある。推させていただく側としては聞きたくて当然じゃない?
こんなイケボに告白されて振ってくる相手の気が知れない。まぁ、話を聞く限りだと、相手の人は個人として認識してさえなかったかもしれないけど」
トド松くんと見分けがついていたのかさえ、今となっては不明だ。
「あ、でも…カラ松くんの気持ちを茶化してるわけじゃないよ。変な言い方になってごめん。トド松くんと争うくらい、真剣だったんだもんね」
私の言葉に、カラ松くんは顔をしかめた。彼の真摯な想いを穏やかに受け止める意向が気に食わないと、その表情は物語る。
「何ていうか、さ」
私は苦笑して、組んだ両手を前方に伸ばした。
「結末が分かってる告白だから聞いてみたい、っていうのかな」
どう表現すれば語弊なく伝わるのか、酔いが回った頭では考えがまとまらない。けれど、口にしたことに責任は持たなければと思う。それが例え、拙い言葉でも。
「ユーリ…」
「結果が分からない未確定な未来のことなら、あまり聞きたくないんだよね」
サイコロの目がどう出るか分からないなら、僅かでもチェス盤がひっくり返る可能性が残されているなら、なおさら。
カラ松くんの意思が強固であればあるほど、彼からひたむきな熱量を向けられる相手と、私は向き合えるのだろうか。推しに推しがいるとか状況がシュールすぎる。申し訳ないが想定外の案件だ。
「その心配は杞憂だ、ユーリ」
優しく、カラ松くんが微笑む。
「え…」
「これから先、オレが他のレディに告白するなんてことは絶対にない」
迷いなく、言い放つようにして断言される。襖の奥から絶えず漏れ聞こえていたおそ松くんたちの賑やかな声が耳に届かなくなるほど、私の意識の全てがその瞬間、彼に向いた。
「すごい自信だね」
「だろ?だから安心してくれ…と言ってもいいのかどうかは分からないが」
カラ松くんは苦々しく笑って、指先で頬を掻いた。
ううん、と私は緩く首を振る。
「安心した」
「…そうか」
満足げな声を聞きながら、私は笑みを浮かべて目を閉じる。道路を走る車のエンジン音、室内から漏れてくる五人の騒々しい声、微かな虫の音、全ての音が耳に心地よい旋律を奏でる。
静寂を破ったのは、カラ松くんだった。
「フーン、何だハニー、ひょっとしてジェラシーか?」
顎に手を添えて、悩ましげにカラ松くんが唸る。大袈裟に足を組み替える仕草を見るに、からかう余裕くらいは戻ってきたらしい。
「ジェラシー…なるほど、うん、それはあり得る」
「えっ!?」
自分で言っておきながら驚くな。
「だってさ、一生にそう何度も言うことはないと思われるその台詞、薬局のお姉さんだけが聞いたんでしょ?
やっぱり聞いてみたい気持ちはあるなぁ」
ズルい、と表現するのはいささか不本意だが、その感情に近いものはある。
「…すまん。いくらユーリの頼みでも、それは聞けない」
カラ松くんは即座にかぶりを振った。拒否の姿勢は至極当然なもので、毅然とした態度はむしろ好印象だ。なのに、なぜか彼は心苦しそうな顔をする。
どうして。私がその問いを投げるより先に、カラ松くんが続けた。
「演技や嘘で、ユーリにその言葉を言いたくない。それにあれは、ユーリ以外のレディに向けたものだ。
どうしても聞きたいのであれば……そうだな、その…もう少しだけ、猶予をくれないか?」
見え隠れする戸惑いと、気恥ずかしさ。頬が赤いのは、アルコールに酔ったせいでだけではない。
そして私自身、その言葉が意味することが分からないほど鈍くもない。
「もう少しってどれくらい?」
「もう少しはもう少しだ」
「具体的に」
「それが答えられれば苦労しない」
開き直りやがった。
カラ松くんは言いながら苦虫を噛み潰したような顔をする。チキン松は今日も今日とてチキン松度合いを絶賛更新中。うん、まぁそうだよね、知ってた。
「今もお姉さんはその薬局で働いてるの?」
「そうらしい。あれからは気恥ずかしくて寄ってないが、チョロ松が言うには変わらず元気そうにしているそうだ。
ただ、あの時はこう…トド松の手前、勢いもあったし…何というか、一番浮ついた時期だったというのもあって───」
「駄目だよ」
私はカラ松くんの唇に指を当てて、彼の言葉を遮る。
「結果としては上手くはいかなかったけど、お姉さんのことが好きだったっていう気持ちを茶化すのは、自分にも失礼だよ。だから、駄目」
「ユーリ…しかし、オレは…」
そんな気の使い方は間違っている。少なくとも私は、そう思う。
不意に、ガラリと襖が開いた。
「えっ、ユーリちゃんもカラ松もこんな所で何やってんの?っていうか寒っ、激寒なんだけど!」
顔を覗かせたのはチョロ松くんだ。
「カラ松、お前がしっかりしなきゃ駄目だろ。ユーリちゃんも酔ってんだから、風邪ひいたらどうすんだよ」
「その時は通って看病する」
しれっとカラ松くんが答えるや否や、チョロ松くんは鼻白む。
「ノロケを聞かせろなんて言った覚えはない」
うちの推しがすいません。
「ごめんごめん、私が引き止めちゃったから。確かに寒いね、すぐ戻るよ」
「そうしなよ。薄着でそんなクソ寒い所にいたら駄目だからね」
ああ寒い寒いとチョロ松くんは両手で自分を包み込み、部屋に戻る。ぴしゃりと襖が閉じられた。
二人きりの空間は、程なくして終焉を迎える。私は冷えた指先で、自分の鼻を擦った。トレーナー一枚の薄着でこれ以上吹きさらしの縁側にいたら、それこそ熱が出てしまいそうだ。
「お姉さんももったいないことするよね。カラ松くん──こんなにいい男なのに」
彼女が断ってくれたからこそ今の私たちがいるから、礼を述べるという方が正しいのかもしれないけれど。
「奇遇だなハニー。オレもまったく同じことを思ったことがある」
しまった、ナルシストを調子づかせただけだった。
「でも今は、ハニーの元カレに対して同じことを思ってる。ああ、いや…厳密には違うか。別れてくれたから、オレとこうして会ってくれるわけだしな」
私たちの出会いは必然だったとまではさすがに言わないが、数多の経緯を過ぎて辿り着いた結果だ。
カラ松くんは一息ついて、改めて私を見やる。重なった視線は、どこまでも優しい。
「──ハニーは綺麗だ、とても」
不意打ちの囁きは卑怯だ。
「な、何か…面と向かって言われると照れるね」
私は照れくささを誤魔化すように笑って、カラ松くんから目を逸らす。
でも。
「薬局のお姉さんにはその他大勢でも、カラ松くんは私にとっては特別」
それは揺るぎない事実だから。
「オレもだ。オレだけだと自惚れさせてくれるユーリに出会えて、良かった」
夜風は冷たさを増して、私たちに容赦なく吹き付ける。さすがに大きなくしゃみが出た。
「そろそろ戻ろっか?みんな待ってるよ」
「寒いか?」
「寒いけど、まだ何とか平気」
「なら…ブラザーたちが待ちきれなくなるまであと少し、ここにいないか?」
膝を立てて離席しようとした私の服の裾を、縋るようにカラ松くんが掴む。そんな可愛いことされたら、戻れないに決まってる。
え、ほんと何なのこの誘い受け次男。ここが冬の縁側じゃなければ青姦待ったなしでめちゃくちゃに抱いてやるところだぞマジで。
座り直したら、カラ松くんが私の肩にもたれかかってくる。これ普通逆じゃね?なんてツッコミはもはや意味を成さない。
手がぶつかって、反射的に引っ込めようとしたら、カラ松くんに奪われる。
「…みんなに見つかったら怒られるんじゃない?」
「ノープロブレムだ」
カラ松くんは笑う。
「部屋の中からは見えない」
私たちの密着した背中が壁になって、襖を開けたところで手元は見えない。カラ松くんは握った私の手を、宝物を扱うみたいにそっと自分の膝の上に置いた。
「──な?」
ふにゃりと相好を崩して、眉が下がる。
数え切れないほどの記憶の破片や断片的なイメージが頭の中でぐるぐると駆け巡り、正常な思考が乱されていく。彼の頬が赤いのも、繋いだ手がやたら温かいのも、きっと酒のせいばかりではない。酔いを言い訳にするのは大人の特権だが、いい加減卒業しなければ。
まぁ例に漏れず、僅か数秒後に暇を持て余した五人組から催促が来て、強制終了させられるんですけどね。狙ったかのようなタイミングは、もはや様式美にも等しい。聞き耳でも立ててるんじゃなかろうか。
けれど──カラ松くんの口からその言葉を聞く日は、そう遠くなく訪れるのかも知れない。
そんなことを思ってしまった私は、こういうのを自意識過剰というのだろうと、密かに嘲笑した。