どこまで逃げるか駆け落ちごっこ(後)

す、と酔いが醒めていくのを感じた。自分でも驚くほど頭の中がクリアになる。

駆け落ちと称して訪れた温泉街は、東京の都心から電車を乗り継いで約二時間の場所にある。さらに私たちが夕食のために訪れたのは、交通の便がいい観光地から少し離れた田舎町だった。つまり、そもそも駅が遠い
「ち、ちょっと待ってよ、嘘でしょ!?」
慌ててスマホの電源を入れ、乗り換え案内のアプリを立ち上げる。店の最寄り駅から東京までの区間を現時刻で検索するも、表示される案内は尽く翌日の始発便だ。詰んだ。
「あら、今から東京に帰ろうと思ってたの?
そりゃ無茶な話だわ、この辺の終電は九時台だからねぇ」
ラストオーダーを取りに来た女将にも、テーブルの皿を片付けながら笑われてしまった。やっちまったと呟いて青ざめる私。カラ松くんに至っては、テーブルの上で組んだ両手に額をのせて項垂れている。そりゃそうだ、終電逃して帰れないだなんて、とんだ笑い草だ。
しかしいつまでも絶望に打ちひしがれている暇はない。一晩を明かす場所を確保しなければ。
「あ、そうか…漫喫だ!」
ハッとカラ松くんが顔を上げ、名案とばかりに目を輝かせた。
「どうだ、ユーリ?
タクシーで繁華街に行けば漫画喫茶くらいあるだろう。だいたい二十四時間やってるし、多少居心地は悪いが寝ることだってできる」
「──嫌」
「え」
せっかくの提案──しかもかなり妥当──だが、承認するわけにはいかない。
「旅行の最後に満喫は、興醒めもいいとこだよ。早起きして奮発してグリーン車乗って温泉入って美味しいもの食べて、さぁ楽しい気分は最高潮ってとこで、漫喫なんて。申し訳ないけど、私は嫌」
「しかし、他にどうすれば…」
「任せろ」
力強く言い放った後、私は片手で伝票を持ち颯爽とレジへと向かう。そんな背中に向けて、カラ松くんがぽつりと溢す。
「ハニーが男前だ…」




夜も更けた頃、カラ松くんを引き連れてやって来たのは、駅前の観光客向けホテル。タクシーを降りたカラ松くんは、両手に荷物を持ったままビルを見上げて呆然と立ち尽くす。
「ネットで調べたところによると、ここ和室の部屋があるんだよ。素泊まりだから安いし、ツインに空きがあってラッキー」
「…ま、待ってくれ、ユーリっ」
受付へ促そうとしたら、突然カラ松くんが私の前に躍り出る。
「ホテルに泊まるのはいい。ただ、その…ツインはさすがにプロブレムだろ。部屋は分けた方がいいんじゃ──」
「シングル空いてなかったし、ツインだと折半でいいから安上がりだよ?」
「そ、そういう意味では…」
「畳の上にベッドがある感じでね、靴脱いで家みたいにくつろげるよ。カラ松くんに拒否権はありません、行こ行こ」
背中を押して、半ば強引に入口の自動ドアをくぐらせる。いらっしゃいませとボーイに出迎えられ、手にしていた荷物を奪われて、背後には笑顔の私。長い溜息が聞こえて、今度こそカラ松くんは観念したようだった。

フロントで手渡された鍵で部屋のドアを開けると、畳の清々しい香りが鼻をくすぐった。玄関で靴を脱いだ先に広がる一室の片側に、シングルベッドが二つ並んでいる。その向かい側には小さなローブルと、背もたれが緩やかなカーブを描く和座椅子。
「わー、本当に和室だ!」
ホテルで靴を脱げる感激に、私の声は自然と弾んだものになる。
「まさかフリで用意した一泊分の荷物が、こんなところで役に立つとはな…」
カラ松くんは対称的に沈んだ顔だ。
駆け落ちで手ぶらはおかしいと、駆け落ちの雰囲気を出すためだけに用意した着替えや荷物のはずだった。万一にも使用するつもりはなかったから、用意を指示した私自身も複雑な心境ではある。
「何の覚悟もなく駆け落ちごっこなんてしたせいか」
暇を持て余した大人の遊び・やりすぎverになった感じ?──あれ、結局これってただの旅行?」
「スマホ禁止縛りはするもんじゃないな」
「まぁまぁ。楽しかったからトントンで」
「オレとホテルに泊まることになったのに、か?」
カラ松くんは恨みがましい目で私を睨みつける。ドアを閉めて内側から施錠をしたら、途端にカラ松くんとのひとつ屋根の下が現実として突きつけられ、意識せざるを得ない状況に追い込まれる。
いつかの、泊まりが未遂に終わったグランピングは厳密には密室ではなかったし、テントの布一枚隔てた向こうには他の客の存在があった。しかし今は──

「これは不可抗力だから。仕方なしに、だからね。
それに何度も言ってる気がするけど、こういうことはカラ松くんだからするのであって、他の人とは絶対無理だし、しないから」
腰に手を当てて、早口で捲し立てる。我ながら言い訳がましく、墓穴を掘った気がしないでもない。
「…ああ、知ってるさ」
けれど彼は優しく微笑んで、私の髪を指で梳く。紙一重で肌には触れていないのに、撫でられているような錯覚をしそうになる。
「その信頼は裏切らない」
迷いなく断言される。

「でも──寝るまでの間、少しだけユーリに触れることは許してほしい」

その言い方は卑怯だ。断れなくなる。推しの可愛いお願いは聞いちゃうよね、だって推しだもの。畜生め。
内心の葛藤を悟られまいと曖昧に笑っていたら、カラ松くんはなぜか急にバツが悪そうに私から目を逸らした。
「あー…あと、下半身に関しては生理現象なので、有事の際は極力近寄らないでもらえると大変助かる…」
それ事前に言っちゃうかぁ、ムードぶち壊しもいいところだ。格好良くは終わらない、さすが年季の入った新品。でも寝顔の推し独占は美味しいとか思ってる自分は、もっとヤバい


順番にシャワーを浴びて部屋でくつろいでいたら、いつの間にか日付が変わる時間帯。
備え付けのパジャマに袖を通し、上気した頬と濡れた髪を後ろに撫で付けたカラ松くんの色気に私が悶絶したことは言うまでもない。こういう時でもトップのボタンを外して鎖骨を露出するサービス精神は誇っていい。さすがに自制して襲いはしなかったが、写真は撮りまくった
「ユーリ、携帯貸してくれ」
ペットボトルのお茶をラッパ飲みしてから、カラ松くんはテーブルに置かれたスマホを見て言った。
「いいよ、むしろそうして。さっきからトド松くんからの鬼電と怒涛のメッセージでうっかり着拒否するところだったから」
「すいません」
電話に出ずとも、童貞集団からの鬼気迫る雰囲気は嫌というほどに伝わってきた。五人からの殺気を真っ向から浴びる気には到底なれなくて、今なお呼び出しで鳴り続けるスマホをカラ松くんに手渡す。画面をタップして、カラ松くんが電話に出た。

「──トッティ、オレだ。すまん、連絡が遅くなった。
…ウェイトウェイト、逸る気持ちはよく分かるがオレの話を聞いてくれ。うん、いやなに、ちょっと遠出したくなって東京から二時間ほどの所にいて──あー、すまないが後ろの奴ら黙らせてくれないか?聞こえない」
スマホを耳から遠ざけて、カラ松くんは眉をひそめた。スピーカーにしていなくとも、五人の怒号が漏れ聞こえる。
「結論を言うとだな…終電を逃してこっちに一泊することになった。うんうん、お前らの言いたいことは理解できる───待て、話は最後まで聞け、殺害方法の相談を始めるな
物騒な展開になってきた。
「…部屋?もちろん別に決まってるだろ、当たり前だ。ユーリが断固としてそこは譲らなかった。
そりゃオレだってあわよくばと思ったさ!チャンスは与えられるものではなく自ら掴みにいくものだとな!なのに、さり気なくツイン提案したら速攻で却下されたんだ!
お前らに分かるか、オレのこの嘆きがっ」
何の茶番だ。
「いいか、ハニーに拒否されてオレはとっとと寝たいんだ──ああ…うん?おい、手のひらを返すように急に憐れむな、背後でひそひそも止めろ
五人の会話が目に見えるようだ。私は声を潜めたまま苦笑する。
「フッ、さてはオレがいなくて寂しいんだな、ブラザー?
ハニーも内心はオレと寄り添いたくてたまらないはずなんだが、いきなり同室というのも憚られたに違いない。オレの周りには何てシャイボーイとシャイガールが多いんだ。もっと素直に心を開いて───あ」
電話が切れたらしい。まぁ、この展開なら私でも切る。

カラ松くんは手でオーケーサインを作って、ウインクしてみせた。
「サンキュー、ハニー」
「…いいの?」
通話が切られたスマホを受け取りながら、私は訊く。
「何がだ?」
「ホテルに誘ったのもツイン取ったのも私なのに」
「正直に言ったらあいつらのことだ、今からでも血眼になってオレを探しに来る。僅かなヒントを頼りに、確実に仕留めに来るだろう。
こういう時はオレが誘ったことにしておくのがベストな采配だ。自然な演技だっただろ?」
得意げにニヤリとするカラ松くんに、私はつい笑ってしまった。
「さすが元演劇部」
「ブラザーたちさえ欺く演技派の…オレ!」
正直、意外だった。バカ正直で、吐いた嘘はいつだって容易く見抜かれて糾弾されるのに、ストーリーも口調も本当に自然で。電話越しとはいえ、兄弟が鵜呑みにするのも無理はない。

「だからユーリ、さっきの電話の内容は──聞かなかったことにしてくれ」

カラ松くんが気恥ずかしそうに頬を掻く。あ、と私は小さく声を上げた。
「も、もちろん、あれはあくまでもブラザーたちを納得させるための方便で…何だ、あわよくばとかそういうことはだな、つまり…」
「うん、嘘も方便ってヤツだよね。分かってるよ」
「…そう、か」
安堵の中に僅かな落胆が垣間見える。ほら、本来はとても分かりやすいのだ、彼は。
「でも」
私は耳にかかる髪を意味もなく掻き上げて。

「改めて言われると、やっぱりちょっと意識しちゃうかな」
ぽつりと溢す。
「ユーリ…っ」
「だから万一夜這いでもしようもんなら、これ幸いと返り討ちにしてお婿に行けない体にするからそのつもりで
「あ、はい」


会話が途切れて、不意に静寂が訪れる。旅の疲れもあって体が重い。いつまでもベッドについて言及しないのも不自然だし、そろそろ休まなければ明日に支障が出そうだ。
けれど私の口から飛び出したのは、まるで違う言葉だった。
「…もしこのまま駆け落ちを続けたら、その先には何があるのかな?」
ローテーブルの上で両手を組んで、問いかける。
自分でも何を言っているんだと思う。禅問答か、と内心で嘲笑する。襲いくる眠気で思考がままならない、そんなことを言い訳にして。
「あ、ごめんね、変なこと言っ──」

「ユーリ」

カラ松くんの手が、私の手に重なる。煌々と輝く明かりの下で、穏やかな表情。
「…少なくとも、ハッピーエンドではないだろうな。新しく人生をやり直す覚悟を持っているなら別だが」
「だよねー。残念ながらそんな覚悟はないかな。何だかんだで今の生活が安定してるんだよね」
仕事には相応のやり甲斐はあるし、ときどき社会の理不尽さに嫌気が差すこともあるものの、仕事終わりにカラ松くんと会って食事をする余力だってある。今回はたまたま、負の感情の昇華が間に合わず、コップから溢れただけなのだ。
「ユーリのようにキャリアがあるなら、リスタートはきっと大変だぞ。ゼロから構築し直しだ。ただ──」
そこまで言って、カラ松くんは言葉を区切る。

「終わらせることなら、簡単にできる」

どうやって、とは訊かない。彼も敢えて明言を避ける。それは、命の灯を吹き消してしまう行為。
「でもハニーには生きて幸せになってほしいし、オレも死にたくはないぞ」
黒い暗雲を薙ぎ払うような、からからと朗らかな笑い声。すくい上げられて、背中が軽くなるような気がした。
「うん、それは私も同意見。でも…今日一日すごく楽しかった。時間が経つにつれて、帰りたくないなって思う気持ちが強くなってさ」
「オレもだ。終電を乗り過ごしたのは本当にわざとじゃないが、もし気付いてても、ひょっとしたら黙っていたかもしれない」
「へぇ、カラ松くんにそんな度胸ある?」
「もちろんだとも!あ──る、と言いたいところだが…ユーリを困らせたくはないしな」
カラ松くんは自分の人差し指を唇に当てて思案顔になった。
不意に、同じ階のどこかの扉がバタンと閉まる音がして、ビジネスホテルの一室に二人きりという現実に引き戻される。目が合って、互いに何となく照れくさい表情になった。

明日は、帰ろう。
私たちの世界へ。

「──で、こういうのって期待させるだけさせておいて、いざってなったらブラザーたちが乱入して強制終了がオチじゃないのか?え、オチなし…?本当に?ジーザス!
カラ松くんが崩れ落ちた。




ベッドに体を横たえて傍らを見やると、同じように布団を被るカラ松くんの姿が映って、むず痒いような何とも言えない気持ちになる。
それぞれのベッド間には十数センチ程度の僅かな隙間があるだけで、感覚的には横並びに等しい。ベッド間に小さなサイドテーブルでもあれば、感じる距離感はまるで違ったのかもしれないが。
「で、電気…消すぞ」
情事前の声かけみたいな言い方止めろ。しかし考えるまでもなく、カラ松くんの発言は至極普通だ。八つ当たり大変申し訳ない。

天井の蛍光灯が消えて、枕元に設置されている間接照明だけがぼんやり光り、かろうじて互いの表情が認識できる明るさを灯す。慣れない固さのマットレスと枕と、傍らに人の気配を感じたまま眠る夜。さすがに心穏やかとは言えないが、居心地は存外悪くない。
「おやすみ、ユーリ」
「おやすみ」
カラ松くんが腕を伸ばして、私の頭を撫でる。なぜか──反射的にその手首を掴んでいた。
「あ、ごめん、つい…」
謝罪と共に慌てて手を離すと、カラ松くんは訳知り顔で顎に手を当てる。
「フーン、何だ何だ、ハニーはオレと手を繋がないと眠れない、と?ハッハー、意外に寂しがり屋なキティなんだな」
からかうような物言いに、私はムッとする。子ども扱いしないでいただきたい。きっと顔にもその態度が出ていただろう。ちょっと反撃するつもりで、緩く握った拳を口元に添えてわざと目を伏せる。

「うん…ドキドキして眠れないかも。手、繋いでくれたら安心するんだけどな」

しかし慣れないぶりっ子は諸刃の剣だった、精神的ダメージが凄まじい。脳内の自分が羞恥のあまり盛大に吐血して卒倒する
そして間の悪いことに───
「は、ハニー…ッ!?」
カラ松くんが勢いよく飛び起きる。
「わああぁあ、起きるな!」
「童貞をからかうのは止してくれないか!こっちは女の子に対する耐性ゼロどころかマイナスなんだぞ!オレが言い出したことに関してはすまない!
密室で二人きりで寝るこのシチュエーションだけで、今どれだけオレの寿命がすり減ってるのか分かってるのか!?」
「ごめん!」
めちゃくちゃガチで怒られた。

「なぁユーリ、もし…もし地球が滅亡する日が来るとしたら」
突然何か言い出した。これは脊髄反射でツッコんだ方がいいのか、スルーすべき案件なのか。
「オレは、今日がいい」
枕に埋めた顔がこちらに向けられて、優しく微笑まれる。
「何を…」
どう応じるのが正解か分からなくて、声が掠れた。

「明日起きた時にユーリがいたら叫ぶ自信しかない」

おい止めろ。
私の鼓膜に死刑宣告。




朝は、カーテンの隙間から差し込む朝日の眩さと共に訪れた。
見慣れない部屋の様相と昨晩の記憶が連結するのに少々時間を要して、駆け落ちごっこの果てにビジネスホテルに泊まることになったことを思い出す。すぐ傍らのベッドには、羽毛布団を抱き枕のように抱えて眠るカラ松くんがいて、朝っぱらから推しの可愛さに尊死しかける。無防備で安らかなこの寝顔を、六つ子たちは毎日無料で視姦し放題だというのか。羨ましさ通り越してもはや憎い。

さて昨晩はというと、手を伸ばせば届く距離でカラ松くんが寝てるから、緊張して全然眠れなかったよ~☆

なんてことはなかった。

あっという間に意識を失い、今の今まで一度たりとも目覚めなかった。爆睡かつ快眠、目覚めはすこぶる良い。
音を立てないようベッドから降りて着替えをした後、洗顔と化粧をさっと済ませる。それから備え付けのケトルで湯を沸かす間に、備品のマグカップにコーヒーのドリップパックを引っ掛けた。豆の香ばしい匂いがふわりと漂う。パックの中で円を描くように湯を注ぐと、濃褐色のコーヒーがカップに広がっていく。
いそいそとカップを両手で持ちながら、カラ松くんのベッドにゆっくりと腰掛けた。推しの寝顔をおかずにして飲む朝の一杯は至高。無音カメラで写真を撮るのももちろん忘れない。

カップの中身が八割方減ったところで、おもむろにカラ松くんの瞼が持ち上がった。差し込む朝日に眩しそうに目を細めて、眉間に深い皺を刻む。
「んー…」
小さな呻き声が口の端から漏れた。見慣れぬ内装をぼんやりと見つめていた彼の黒目は、やがてベッドに腰掛ける私に目を止めた。視線が交わる。
「おはよう、カラ松くん」
「…ユーリ?」
布団を両手で抱いたまま、少し掠れた声で呼ばれる。まだ意識の半分ほどは、温かい泥のような無意識の領域に留まっているようだ。
「そうだよー。コーヒー入れようか?インスタントだけど」
空になったマグカップを揺らして尋ねても、投げられた言葉が脳まで辿り着かないのか、数秒間まるで微動だにしなかった。不機嫌そうに歪めた表情のまま、寝癖のついた自分の髪を意味もなくくしゃくしゃと掻き回す。
「……え?」
そして次に口から飛び出したのは、目の前の現実が許容できないと言わんばかりの、疑問。
「あらあら、寝ぼけてるのかな、可愛い子猫ちゃん」
私はニヤリとほくそ笑み、少々大袈裟に足を組み替えた。みるみるうちに瞠られていく彼の双眸。

「──寝顔、可愛かったよ」

次の瞬間、耳をつんざく絶叫が轟いた

「な、なんっ、何で…っ!?」
カラ松くんは、羽毛布団を抱えたまま飛び起きるように上半身を起こす。それからハッとして自分の着衣を見回した。
襲われてないか確認するな。残念ながら襲ってない。その手があったかとは思ってる。っていうか、何でって、もう忘れた?」
他愛ない言葉のやり取りにさえ私の胸が弾む。寝癖さえ可愛く感じるのは、いつも完璧を気取る彼が、気を許した相手にしか見せない無警戒な姿だからなのかもしれない。
しかし私の胸中とは裏腹に、カラ松くんはじわりと目尻に涙を溜めたかと思うと、次の瞬間それを決壊させた。

「ベッド際での寝顔可愛かったよは、オレがやりたかったー!」

泣かれた。




ホテル内のコンビニで購入したパンを朝食にして、チェックアウト時刻に間に合うように部屋を出る。
宿泊というレアオプション発生時にしか見ることが叶わない、寝間着姿でコーヒーを啜る姿や、洗面台に向かって髭を剃る光景をスマホ片手に凝視していたら、最初こそ気恥ずかしそうに頬を染めていたが、最終的にはいつまで見てるんだと呆れ返られた。掌返しのツンな態度もまた良し。
フロントで会計を済ませた私たちは、ボーイに見送られてホテルを後にする。ホテルから駅までの距離は徒歩五分もかからない。
「ねぇ、カラ松くん」
肌を撫でる風は冷気を含んでいるが、日差しは暖かい。
「駆け落ちは、もうしないでおくよ」
え、とカラ松くんの声が裏返った。不安げに眉を下げながら、慌てて私の傍らに駆け寄ってくる。
「お、オレと泊まったのがそんなに嫌だったか?」
「そうじゃなくて、そもそも駆け落ちってさ、愛し合っている男女が一緒になることを許されないから逃げるってことじゃない?」
「ああ…まぁ、そうだな」
「だからこれは明確には駆け落ちじゃないよなぁ、って」
両手を高く掲げて伸びをする。寒空の下、曇りのない晴れやかな晴天が私たちを照らしている。
「…今更すぎないか、ハニー」
「でもおかげでカラ松くんと一泊旅行しちゃった──楽しかったなぁ」

一つの出来事が終焉に向かう。
時計の針が止まることはなく、始まりは須らく終わりと共にある。私たちが出会ってからこれまでの期間に数多繰り返してきたように、この出来事もいわゆる思い出の一つへと、姿を変える。ただ、それだけのこと。


「──ストレスは発散できたか?」

私は驚いてカラ松くんを見る。
「そういう目的だっただろ?」
「…うん」
駆け落ちという単語が持つ迫力を前に、当初の目的を見失っていた。駆け落ちごっこは、目的を達成するための手段の一つに過ぎない。
結果的に、目的は無事達成したと言える。当事者が目的を失念するくらいなのだから、達成率としてはそれはもう万々歳だろう。
「そうでした。仕事も家事も、明日からまた適度に頑張るよ」
「オレがユーリにしてやれることなんてたかが知れているが、癒やすくらいならできると思う。仕事や家事が嫌になった時は、いつでも呼んでくれ。いくらでも愚痴を聞くぞ」
でも少しだけ、この駆け落ちの幕が下りることを、私は──残念に感じている。

「え、なにこの癒やし系次男
「フッ、またしてもギルティな属性を手にしてしまったようだ」
「反論できない。まんまと癒やされてしまった、悔しい」
夜が明けなければいいのにと思った。
「ユーリは笑ってる顔が一番キュートだぞ」
そうすれば、私たちの駆け落ちは終わることがないのだからと、ガラにもなく感傷的になった。
「ハニー。もしハニーさえ良ければなんだが、その…またいつか、二人で旅をしないか?」
けれど、始まりと終わりは表裏一体。終わりの後には再び、始まりが訪れる。

「今度は、口実なしで」

あっけらかんと放たれたその言葉が、どれだけ私の琴線を震わせたか彼は知る由もない。
「あ、当然、泊まりもなしで、だ」
あくまでも今回がイレギュラーであることを強調するのは、保身からではなく私への気遣いだと分かる。警戒心を抱かせない思惑も、幾分かは混じっているだろうけれど。
「そういう台詞は、旅費稼いでから言ってよね」
「…っ、ユーリ!それは、つまり…」
「急ごう、カラ松くん。早く行かないと電車来ちゃうよ」
スムーズに特急に乗り継ぎするためには、十分後の普通電車への乗車が不可欠だ。駅を指差して、私は先行するように彼に背中を向けた。
「ユーリ!」
スニーカーが地面を蹴る軽快な音が、耳を通り抜ける。


さぁ、次はどこへ行こうか。