おねえさんスイッチの使い方

たかが言葉、されど言葉。
空気に乗って紡ぎ出される形のないものに、人間は一喜一憂していとも容易く振り回される。
これは、そんな言葉に翻弄された、松野カラ松のある日の記録である。




実家暮らしのニートの平日は、往々にして退屈に始まり退屈に終わる。余暇を充実させる元手となる金銭を有していないために選べる手段は限られ、その上おそらく最も優先順位の高い収益を得る方法の確立から目を背け続けているが故に、辿り着くのは結局のところ退屈だったりするのだ。
ご飯でも行こうかと、気軽な誘い文句も口にできない。十中八九、弾んだ声でオーケーを出してくれるユーリの笑顔を思い浮かべては、自然と頬が緩む。彼女とのこの先を真剣に考えるなら、破壊すべき障壁であることも、いい加減自覚しなければと思う。
会えるだけで幸せなぬるま湯に浸かったような日々は、親の庇護下にある学生時代にしか通用しないのだ。

かといってあと一歩が踏み出せない。
「何かきっかけがあればいいんだろうけどなぁ。何ていうか、こう…ユーリに上目遣いでおねだりされる的な?
しかしカラ松は即座に首を振った。そんなことをされたら欲情するだけだ。効果は下半身限定で目も当てられない。
どうしたものかと思案しつつ、ブラブラとあてもなく街中を歩いていた時のことだ。暇を潰そうにも、今日の軍資金は早くもパチンコで使い切ってしまったし、そもそも大半は長男に抜き取られた。
「あ、デカパン」
視界の先に、恰幅のいい背中と見慣れた巨大パンツを見つけて声を上げる。常々感じることだが、パンツ一丁で外を歩くのは公然わいせつ罪ではないのか。よく捕まらないな。
無視するか声をかけるか、カラ松の中で一瞬の逡巡があった。そして自分が選んだのは、後者だ。

「おい、デカパン。何か落ちたぞ」

否、正確を期するなら、後者を選ばざるを得なくなったといった方が正しい。デカパンのパンツの中から、何か物体が落下したのが見えたからである。
「ホエ?」
拾い上げ、振り向いた彼にカラ松は差し出した。手のひらサイズの、長方形の薄い端末──に見えるもの──だ。トド松のスマホよりも、一回りほど小さい。
「これはこれは、ありがとうだス」
「携帯か?」
「お蔵入りになった試作品だス──ああ、良かったら試してみないだスか?」
カラ松の返事を待たず、デカパンは端末の電源を入れる。画面には日時と電池残量が表示されて、一見スマホそのものだ。
「試すったって、得体のしれないものはごめんだぞ」

「これは『表示された文字から始まる言葉を相手に喋らせるスイッチ』だス」

察した。
某教育番組の人気コーナーのパクリのような気がしないでもないが、気にしないでおこう。
「よし貸してくれ。今朝オレの財布から数枚抜き取ったおそ松への報復に使う
「じゃあ使い方を説明するだス」
長年の付き合い故か、用途を聞いてもデカパンは動じる様子もなく、黒い端末をカラ松に手渡した。しかしディスプレイに表示されているのは、ログインならぬ『対象登録』と書かれたボタン。
「対象登録?何だこれ?」
「言葉を喋らせるのは誰でもいいわけではないんだスよ。最初に、言葉を喋らせるターゲットを登録するだス」
「どうやって?」
「対象登録を押しながら、相手を思い浮かべればいいだけだス」
なるほど。カラ松は今朝自分の財布から札を抜き取っていった憎き長男のゲス顔を、脳裏に浮かべようとする。
「ユーリちゃんでも登録できるだスよ」
「は!?」
ユーリの名を聞いた途端、裏返った声が出た。
「な、何を…っ、ああっ、お前のせいでユーリで登録されてしまったじゃないか!ユーリにそんな、言わせたい言葉なんて───ナイスアイデアが過ぎるぞ、デカパン
カラ松が真顔で親指をおっ立てるのと、画面に登録完了の文字が表示されるのが同時だった。
「ホエホエ、ユーリちゃんで登録されたようだスな」
「で、後はどうすればいい?画面に出ているこの文字に意味があるのか?とっとと説明しろ
ディスプレイにはひらがなのか行、つまり『かきくけこ』が横一列に表示されている。
「一つをタップして、それを頭文字にして続きの文字を入力すれば、その通りの言葉を喋ってくれるだス。ただし使用期限があって、使える文字は一文字一回。使い終わるか充電が切れれば、その時点でこの端末は使えなくなってしまうだス。
何しろベータ版だスからなぁ、充電ももって半日だと思うだス」
「え、エロい言葉もオーケーなのか?」
「ワードによるだスな。悪用防止のセーフティ機能として、NGワードがある程度設定されているだス」
さすがに何でもアリとはならないか。カラ松は内心で舌打ちする。しかし実際のところは、本心だったわけでもない。一時の愉悦のために、彼女からの信頼を失っては元も子もないからだ。




使用できるのは『かきくけこ』のいずれかで始まる言葉、チャンスは五回。トド松のスマホを何度か借りたことがあるから、人並みの速度でフリック入力はできると自負している。
あとは、望んだタイミングで望んだ台詞を作り上げることができるか。いつになく高度な判断力を要求されている気がして、期待感とは裏腹に少々気は重い。

「ただいま」
デニムのポケットに端末を放り込み、陰鬱な溜息と共に玄関の戸を開ける。
「あ、おかえりー」
居間に続く障子が開け放たれて顔を覗かせたのは、ユーリだった。快活な声と笑顔でカラ松を出迎える。
「…た、ただいま。何だ、もう来てたのか、ハニー」
「約束の時間よりちょっと早いけど、お邪魔しちゃった」
今日の手土産は各種コンビニ新作スイーツだよ、とビニール袋を掲げてユーリは笑う。ただいまとおかえりの応酬がなぜだか照れくさくて、カラ松は自分の首筋に手を当てる。彼女のすぐ背後に兄弟が控えているのは気配と声で明白なのに、それでも、面と向かってユーリに帰宅を歓迎されるのは──嬉しい。
「これからどれ食べるか選ぶところだったんだよ。早くおいで」
手招きされた指定席は、ユーリのすぐ隣。
おそ松を始めとする兄弟は言葉こそ発しないが、唇を尖らせたり仏頂面だったりと、無言でカラ松を非難する。文句を言ったところでユーリに一蹴されるやり取りを、もう幾度となく繰り返してきた成れの果てが無言の抗議なのだ。
少し動けば肩が触れ合うほど近くが、互いにとっての定位置。

カラ松が席についたところで、中断していた話題が再開する。トド松がテーブルに出したスマホの画面には、ドラマやバラエティでたまに見かける二十代の男優が映っている。
「でさ、話の続きなんだけど、来月からの連ドラの主演、この俳優なんだって」
「あー、知ってる。格好いい顔してる人だよね。モテる役似合う」
異性を持ち上げるユーリの弾んだ声に、我知らず眉根を寄せていた。トド松はそんなカラ松を横目で一瞥し、彼女に問いを投げる。
「ユーリちゃん、こういう人タイプ?」
間違いなく意図的だな、トッティ。
「いやぁ、確かに女性に人気の人だけど、対象として考えたこともないっていうか──」
ユーリはケーキを頬張りながら苦笑する。

「格好いいのは、カラ松くんだから」

ユーリの口から飛び出したその言葉に、全員が目を剥いた。
「…え?」
「は?」
「えぇっ!?」
他の誰よりも驚いた表情をしたのは、他でもないユーリ自身だった。
「ユーリちゃん、熱ある?
一松には本気で心配される始末。
「あ、え……う、うん、まぁ格好いいとも言える…のか、な?」
腕組みをしながら不承不承といった体で、ユーリは自分の発言を肯定する。
「自分で言っておいて疑問形って何なの」
おそ松のツッコミはもっともだ。
全員の視線がユーリに集中する中、カラ松はちゃぶ台の下に隠した端末を覗き込んで、自分の目を疑った。ディスプレイには、先程ユーリが口にした一言一句同じ言葉が表示されている。半信半疑だった効果が証明された、決定的瞬間だった。
「フッ、ハニー、オレがイケてるのは周知の事実だが、ブラザーの前で断言するとは…火傷しても知らないぜ」
歓喜のあまりニヤけてしまいそうになるのを必死で堪えて、カラ松は前髪を横に払う仕草。
「えっ、あの、私そういうつもりじゃなくて…ごめん、たぶん可愛いって言いたかったんだけど思うけど…」
ユーリは釈然としない顔で下唇を噛んだ。まさか強制的に言わされているとは、夢にも思っていないのだろう。

円卓の上で頬杖をつきながら、トド松は吐き捨てるように言う。
「格好いいとかあり得ないって。微妙な差はあるけど、カラ松兄さんもボクも六人同じ顔だから。クソ長男ベースにして僅差しかないからね」
「ベースって言うな」
「おそ松と一緒にするな。プレーン以外の五人は全然違うぞ、トッティ」
「俺の扱いだけ酷いの何で?お兄ちゃん泣くよ?」
ユーリの審美眼を疑問視すると見せかけた巧妙な長男ディスり。誰も長男の援護に回らないあたり、日頃の関係性が如実に表れている。
「私から見たら、みんな似てるけど全然違うよ」
「えー、そう?ユーリちゃん、カラ松兄さんと長くいすぎて目がおかしくなったんじゃない?
カラ松兄さんのこと、本気で格好いいなんて思うわけ?」
「いや、だから格好いいっていうのは──」
振り払うように手をひらひらさせながら、ユーリは苦笑するけれど。

「結構本気で思ってるよ」

口をついて出た言葉は、カラ松格好いい説を後押しするものだった。ギョッとするユーリと、唖然とする面々。
カラ松は端末の送信ボタンから指を離す。タイミングもよく自然な流れになった、自分グッジョブ

「キスしたいくらい」

全員がユーリの顔を凝視しているのを幸いに、連続して言葉を紡がせる。
今度こそユーリは自分の口を両手で覆った。傍目にも、彼女の顔が赤く染まっていくのが分かる。自分マーベラス。


ユーリちゃん、とトド松が名を呼ぶ。
「カラ松兄さんを推しだとか何だとか、ほんと超絶奇特な子とは常々思ってたけど、ここまでくると重症だよね
「今の台詞に至っては、むしろ堂々とした交際宣言とも言える」
「つまり、遠回しな告白?」
腕組みをしたチョロ松が感慨深げに頷き、十四松は長い袖を口元に当てて思案顔。
「ち、違…っ」
「──っていうか、ユーリちゃんが女の子っぽい」
円卓に頬杖をつきながら不服そうに物申すのは、おそ松だ。
「生物学的に女の子だよ」
一松が淡々とした口調でいち早くツッコむが、そうじゃないんだよと長男は首を横に振った。

「だってユーリちゃん、普段こういう可愛い台詞絶対言わないじゃん。襲いたいとか攻めたいとか抱きたいって漢らしく言うじゃん。カラ松に抱きしめられたい愛されたいじゃなくて、泣かせて陵辱したいって迷いなく言い切るタイプ

ハッとする六つ子たち。
「それはそうだね」
「確かに」
「そういう意味では不自然」
納得するな。
しかしカラ松自身、おそ松の言うユーリ像に対して否定はできない。
ユーリ本人はというと、おそ松のフォローになってないフォローも耳に入っていない様子で、頬を手で包み恥じ入っている。滅多に見られないユーリのその姿が、たまらなく愛らしい。兄弟とはいえ他の男にもそんな一面を見せるのは本意ではないが、牽制にはちょうどいいかもしれない。
「ブラザーたちの前で何て大胆なんだ、ハニー。そうかそうか、そんなにオレの魅力の虜になってしまったか。やはりオレは天性のギルドガイ」
「…んー、ちょっと語弊がある気がする。
自分の口から言っておいて何だけど…そもそも何でこんなこと言ってるんだろう…」
「ユーリちゃん、やっぱ熱あるんじゃない?どれどれ──」
膝を立ててトド松がユーリの額に手を伸ばしてくる。ユーリは視線を畳に落としてされるがままだ。

ユーリに触るな。
口にする代わりに、トド松の手が届くよりも早く、カラ松は背中側からユーリを抱きしめた。抱え込むといった表現の方が適切かもしれない。

「…っ!?」
「いい、トッティ。オレが確認する」
いつになく低い声で末弟を制する。ユーリの表情は見えないが、驚きで体が強張ったのは腕越しに伝わってきた。
「…そ、そう?いや別にアレだよ、ボクは疚しい気持ちとかないからねっ」
頬を膨らませて抗議するトド松の肩を、チョロ松が優しく叩く。
「トッティ…忠犬の前でそのお触りはNGだろ
「そんなマイナールール知らねぇよ!てかお触りじゃない、熱計ろうとしただけ!」
「どんまい!」
空いている反対側の肩を十四松に叩かれて、トド松はああもうっと苛立ちの声を発した。
「両サイドから慰められるの何か腹立つ!」
「カラ松くん、もういいから。推しによる突然の抱擁とか別の熱が上がる
「ハニーが無防備すぎるからだ。相手がブラザーだからといって油断するなよ」
言い含めながら手を離せば、ユーリの頬はまだ僅かに上気していた。唐突に口走った台詞への羞恥心によるものと頭では理解してるが、カラ松との距離感に対する恥じらいではと、思い違いをしそうになる。
伏せた瞳にかかる睫毛が、やたら蠱惑的で。
「まぁとにかく、熱はないと思うけどちょっと疲れてるのかも。さっきから変なことばっかり言ってるし。これ以上続くようなら、今日は早めにお暇させてもらうね」
ユーリは肩を竦めた。
「大丈夫か?」
「大丈夫…って言いたいんだけどね。疲れてないはずなんだけどなぁ」
カラ松が手を伸ばして額に触れると、ユーリは大人しく目を閉じた。自分のと比べても感じる体温に大した差はない。当然だ、熱なんてあるはずないのだから。
「どう?」
「熱はなさそうだ。疲れてるなら家まで送るぞ」
カラ松の返事に、ユーリはへらりと笑う。どこか幼さの残るあどけない笑顔は、カラ松にしか見せない顔の一つだ。
「平気平気。ボーッとしてただけかもしれないから、気をつけ──」
最後までユーリが言い終わらないうちに、カラ松は後ろ手に端末の画面をタップした。

「口にするの恥ずかしいんだけど、二人きりになりたいな」

刹那、全員が驚愕をあらわにした
口にしたユーリ本人は、顔を両手で覆い隠して絶望に打ちひしがれる。指の隙間から、アカンヤツやでこれ、という観念したような声が漏れた。




早期の帰宅は誠に遺憾である、とばかりに帰路のユーリは仏頂面だ。失言を繰り返す己の不甲斐なさに苛立っているようにも見え、カラ松の背中に罪悪感が伸し掛かる。
望む言葉を言わせるたびに、眩いばかりの愉悦と共に、必ず罪の意識がついてきた。相手が兄弟やイヤミだったら、そんな感情は僅かにも伴わなかっただろう。
けれど、ユーリだから。どんな代償を払ってでも側にいられる権利を欲するほどに、自分は彼女に焦がれている。

「今日はほんと、よく分からないことばっかり言ってごめんね」
苦笑いで謝罪を口にするユーリに、チクリと胸が痛む。これが良心の呵責というものか。
「いや…お、オレは別に構わないぞ」
上手く演技ができない。
どうか、気付かないでほしい。自分から手を出した悪魔の果実に、今さら後悔している男の愚かしさに。

「冗談でも、ユーリにとってオレが特別だと言ってもらえるのは…光栄だ」

この言葉は本心だ。
結果的に、感情の伴わない言葉は虚しい幻影に過ぎないと思い知ったのだけれど。強制的に言わせたところで、得られるものは空虚にも等しい。
「ふふ、フォローありがと」
「そういうわけじゃ…」
「みんな絶対変だって思ったよね。恥ずかしいなぁ、もう」
照れくさそうに笑って、ユーリは耳にかかる髪を掻き上げる。ちらりと覗く耳朶の色気に、カラ松は息を呑んだ。
そんなカラ松の緊張を知る由もないユーリは、パッと顔を上げる。
「カラ松くん、今日まだ時間ある?
覚えてるかなぁ、ちょっと前に話してた映画、実は今レンタルしてて、視聴期限今日までなんだけど…もし良かったら家で観ていかない?」
「…え」
「あ、ほら、この前話した時にカラ松くん興味ありそうだったし、それに──」
そこまで言って、ユーリは言い淀む。羞恥を誤魔化すように片手で反対側の腕を擦って、視線を地面に落とした。

「さっき口走ったの、全部が全部そのつもりがないってわけじゃないんだよね」

カラ松は言葉を失った。
かつてユーリがカラ松への好意を恥じらいながら口にしたことがあっただろうか。
時に明瞭に、時に力強く放たれてきた言葉に、数え切れないほどカラ松は救われてきた。守られているのはどっちだなんて、内心で自分自身を揶揄するくらいには、何度も。
「今日はみんなが一緒だったから、二人でゆっくり話す時間もなかったし」
「ユーリ…」
そんな彼女が、今は───

「生の推しから今週生きる原動力を貰いたい」

うん、そんな気はしていた。盛大な前フリをありがとう。
「…駄目?」
なのに、小首を傾げての上目遣いは卑怯だ。
わざとだと分かっている。全てユーリの計算の上での言動だと、疑いの余地がないほど明確なのに。
「……行く」
蜘蛛の巣に絡め取られて、逃げ出せない。




付き合い──友人として、だが──は短いが、逢瀬の回数は多い。自分の気のせいでなければ、ときどき男女の機微を感じさせる甘い雰囲気にもなる。とはいえ建前上は友人であるせいか、多くの場合ユーリの態度は、駆け引きとは無縁のあっけらかんとしたものだ。
今日も帰宅するな否や部屋着に着替え、インスタントのコーヒーを注いだマグカップを二つテーブルに置いたかと思うと、早々にテレビの電源を入れた。
「面白いんだよー」
カラ松の傍らに腰を下ろしてにこりと微笑む顔は、底抜けに明るい。
「ハニー、砂糖とミルクは?」
「あ、忘れてた」
「ああ、いい、オレが取ってくる。いつもの所だろ?」
カラ松は立ち上がり、キッチンへと向かう。もう何度か使用しているから、食器やカラトリーといった類の場所は把握している。
冷蔵庫と食器棚からコーヒー用ポーションと砂糖を二人分それぞれ手に取って戻ると、ユーリはにんまりと満足げにカラ松を見やった。
「どうした?」
「何かもうカラ松くん、勝手知ったる家って感じだなぁと思って」
「何言ってるんだ。たかだか砂糖持ってきたくらいで──え?」
再びローソファーに座り、砂糖をコーヒーに投入したところで、彼女の意図がようやく推測できた。
「…ず、図々しかったか?
ユーリの手を煩わせるくらいならと思ったんだが…そうだよな、レディの家で勝手に開けたりするのは良くないよな」

狼狽するカラ松に、ユーリは笑みでもって答える。
「違うよ。何だかくすぐったい感じがするだけ」
「くすぐったい感じ…」
「カラ松くんは実家だから分からないかもしれないけど、一人暮らしだと特に、ね」
どうやらマイナスの意味合いではないらしい。だがヒントを与えられてもカラ松は依然として首を傾げるから、ユーリは気にしないでと手首を振って終了の合図を出した。
どうしたらいいのか分からないのだ。負の感情由来ではないなら、ユーリがほのめかす言葉の意味を、自分にとって都合のいい解釈で受け取りたくなってしまう。
まるでカラ松にとって勝手知ったる家になることを歓迎しているようだと、この時口にして確認できていたら、彼女は何と答えたのだろう。


それからしばらくは、映画が映し出される画面に見入っていた。ユーリが面白いと評価するだけあって、画面から目が離せない時間が続いた。マグカップに注がれた濃褐色の液体がすっかり冷めてしまった頃初めて、カラ松はふとユーリに目を向ける。
「ハニー…寝てるのか?」
ソファの背もたれに体を預けて、ユーリは目を閉じている。片手で握っていたスマホは、弛緩した指から落ちてフローリングに転がった。
「ユーリ?」
顔を近づけて頬に触れても、微動だにしない。規則的に肩が上下するのみだ。
他に誰もいない空間にも関わらず、カラ松は息を潜めて辺りを見回す。カーテンは閉まっていて、玄関も施錠されている。外から覗かれる心配もないことを確認した後、ユーリの後頭部にそっと触れて──

少し持ち上げた髪に、キスを落とした。

大切で、かけがえのない存在で、ずっと側にいたくて、どうか離れないでと、言葉にできない臆病者の切なる願いを口づけに込めて。
気付いてほしいのに気付いてほしくない。答えが欲しいのに答えが怖い。相反する厄介な願望は胸中に渦巻いて、カラ松の感情を乱し続けている。ユーリの未来に溢れんばかりの祝福を、栄光を。そしてその時彼女に寄り添うのは──どうか、自分であるように。

「…うーん」
うたた寝をするユーリが唸る。起こさないよう姿勢を戻そうとした刹那、カラ松はポケットに入れた端末の存在を思い出した。
悪魔が耳元で囁く───寝言なら、一番言ってほしい言葉が聞けるのではないか、と。
「い、いやいや、それはさすがに…」
かぶりを振って邪念を振り払おうとするが、寝言ならばノーカン判定でいけるかもしれないという最大のメリットが頭をもたげる。しかも本人は覚えておらず、カラ松だけが独占できるのだ。ぶっちゃけ、美味しいシチュエーション
端末に残った文字は『こ』が一つ。右上に表示された充電残量は既に心許なく、いつ電源が落ちてもおかしくない。
「ユーリ…ほ、本当に起きてないか?」
文字を入力した後、最後の望みを託すようにもう一度名を呼ぶが、ユーリの瞼は落ちたままだ。
まるで騙し討ちじゃないかとも、正直思う。誰よりも大事にしたい相手を思うままに操り、本人の意志に反する言葉を無理矢理言わせるなんて。嘘でいいから聞きたい欲望と、本人の気持ちが伴わなければ意味がないと抗う理性が衝突する。

でも、叶わないかもしれないじゃないか。
勘違いしないでよと吐き捨てられたら、立ち直る自信がない。眠っている間に発したものなら、ただの寝言だ。カラ松自身分が関与した証拠だって何も残りはしない。聞くチャンスは、今しかない。
悪魔の囁きに耳を傾けたカラ松は、実行のボタンをタップした。
僅かに開いていたユーリの唇が、ゆっくりと動く。音量は控えめだが、映画の音声に掻き消えてしまわないほどには明瞭に聞こえる、声。

「この世界で一番…私は、カラ松くんが───」

カラ松は反射的に手を伸ばす。手にしていた端末は飛んで、床の上で回転する。
その手は──ユーリの口を塞いだ。

「…んんッ!?」
強い力で口を封じられたユーリは、当然意識を取り戻して瞠目する。
違う。やっぱり、違う。
こんな卑怯な手段で聞いた喜んだところで、後から虚しさが押し寄せるだけだ。ユーリを傀儡にして弄びたいわけじゃない。心が手に入らなければ、甘い睦言はいらない。
「な、何…?」
入力した言葉以外をユーリが発したのを確認して、カラ松は手を離した。そして、己のしでかした事の重大さに動揺する。
「す、すまんハニー、これは、その…」
ユーリの股を割るように片膝を立て、片手で口を塞ぎ、もう片手はソフィの背もたれを掴んでいる。客観的にはどう見ても、覆いかぶさって襲う体勢だ
なのにユーリの体は僅かにも硬直していない。不思議そうにカラ松を見上げて、返事を待っている。

「…よ、よだれが出そうになってたから、どうにかしないとと思ったんだ」

咄嗟とはいえ、我ながら無理のある弁明だと思う。
しかし──
マジで!?そんな慌てるってことは危機一髪だったってことか。危なかった…ありがとう」
「えっ、や、あの、まぁ…うん」
手の甲で乱暴に口を拭って、ユーリはカラ松に礼を言う。罪悪感という名の鋭いナイフが胸に刺さって、痛い。
「あれ、カラ松くん、何か落としてるよ」
床に転がる端末にユーリの目が留まる。
「あっ、まっ、それは…ッ」
「スマホ買ったの?」
制止は間に合わず、ユーリはそれをフローリングから拾い上げる。万事休す。もう隠し立てはできない。

「ユーリ!せめて…お、オレの口から言わせてくれっ!オレは──」

「充電切れてるよ」
「ユーリが──……ん?え、何て?ワンスモア
「だから、充電が切れてる。スマホ…じゃないね。何かのプレイヤー?」
手のひらに載せられた端末は、画面が黒くなっている。触れても揺らしても、うんともすんとも言わない。
「あ…ああ、まぁ…そんなものだ」
胸に広がるのは自分の企みが明るみにならなかった安堵と、ほんの少しの落胆。
「それで、何?何を言いかけたの?」
「な、何でもない!」
カラ松は顔を赤くしながらも口をへの字に曲げて断固拒否の姿勢。絶対に口を割るものかと意思を固めたのはユーリにも伝わったようで、やれやれとばかりに溜息を溢された。
「どうせ悪巧みでも考えてたでしょ」
「…正直いえば、少し。ハニーを試そうとした」
これにはユーリも驚いたようだった。

「ユーリは、一人暮らしの部屋に上げてくれるだけじゃなく、キュートな寝顔さえ見せてくれるほどオレを信頼してくれてるのにな」

言葉にはされないけれど、ずっと提示されてきた事実の本質。
「ユーリがそんな姿を見せるのも…オレだけ、なのにな」
デカパンの誘惑はあの時確かに、カラ松にとっては魅力的なものだった。言葉にして、目にも明らかなものとして、得たかったから。
全部、幼稚な独りよがりだと気付かされたけれど。
「今さらどうしたの?そうだよ、その通り…って、うん、まぁいいや、正直に白状したから今回は深く問い詰めるのは勘弁してあげる」




靴を履いて暇を告げる。すっかり日が暮れて、家に着く頃には夕飯だ。
「じゃあ、帰ったら電話する。オレからのラブコールを待ち侘びていてくれ」
「気をつけてね──あ、そうだ」
カラ松を気遣ってから、ふと思い出したようにユーリは言う。

「カラ松くんのことは、世界で一番可愛いと思ってるよ」

その言葉は、ニヤリと余裕たっぷりな微笑と共に突きつけられた。
あまりに突然降り注いだ衝撃に、カラ松は絶句する。驚きを口にすることさえ忘れて、唖然としたのだ。
「ハニー…ひょっとして、さっき…」
端末に入力した単語が脳裏に蘇る。一言一句正確に思い出せるくらい、鮮明に。あの文字を彼女は、見なかったはずだ。
「ん?特に意味はないよ。
ほら、今日色々変なこと言っちゃったでしょ?だから誤解のないように、私が本当に思ってることは言っておこうかな、って」
意図が読み解けない。だからといって、愚直に訊けるはずもない。頭の中が真っ白になる。
「それじゃあね」
ユーリが一歩下がり、玄関のドアが閉まろうとする。

そのドアノブを掴んで再び開放したのは、湧き上がった衝動に任せた結果だった。

ドアごと引き寄せられてよろめくユーリの肩を支えたら、漆黒の瞳に激しい剣幕の自分が映り込んでいる。互いの息がかかるほど顔が近づいて、今度はユーリが面食らう番だ。
「カラ松くん?」
「今回はオレの負けだ、ハニー」
敵わないなんてことは百も承知の上。

「だが、覚えておけ!
いつか必ず──ユーリにとって、オレが世界で一番『格好いい』と言わせてみせるからな!」

自身を鼓舞する意味も込めて、マンションの廊下に響き渡るほどの声量で告げる。
丸い瞳が、ぱちくりと瞬きをした。カラ松はユーリから目を逸らさない。やがて彼女の顔には妖艶とも思える笑みが浮かんだ。
「その勝負、受けて立つ」
「レディに二言はないな?」
「もちろん。勝敗は目に見えてるけどね」
「ノンノン、ハニー。勝利の女神が微笑む相手はまだ決まっちゃいないさ」
決戦の火蓋は切って落とされた。

それはつまり──これからも共に過ごそうという約束にも等しい。


ああだこうだとこねくり回して手元に残ったのは、ユーリに『可愛い』と告げられた現実。
格好良くあろうと日頃努力するカラ松にとって、他でもないユーリにそう言われるのは甚だ不本意なことだ。とても心外で、きっと見返してやるぞと強く思うのに──嬉しくて嬉しくて、仕方ない。
聞きたかった台詞とは百八十度異なるけれど、ユーリの意思で語られた言の葉の威力は、強引に言わせたそれとは比較にさえならない。
そして、場の勢いとはいえ、ほとんど告白に近いとんでもない台詞を口走ったとカラ松本人が気付くのは、それから何日も経った後のことである。