短編:ラッキースケベを拝みたい

窓を開けた松野家二階、おそ松とカラ松は自らの口から吐き出す紫煙を、何とはなしに眺めていた。

「女の子とエロいことしたいよなぁ」
灰皿に煙草の灰を落とすタイミングで、不意におそ松がしみじみとした口調で呟く。
「何だ、突然」
反射的に問いかけたが、長男の発言に常に意味があるかと言えば、決してそうではない。暇を持て余した自分たち六人全員に言えることではあるけれど。
「いや俺ね、生まれてからこの方ずっとご無沙汰だからさぁ──え、お前したくないの?」
「馬鹿にするな」
意外だとばかりに瞠目されるから、カラ松は眉をひそめて長男を睨む。
「したい。オールウェイズそう思ってる」
「良かった、お前も相変わらずのクズで安心したよ」
思春期の余りある性欲を、望む形で発散できないまま成人を何年も過ぎたのだ。視聴するAVは厳選に厳選を重ねるし、いつか訪れるかもしれない初体験には幻想紛いの夢も見る。それ故だろうか、失いたくないと渇望する相手ができた今、何よりも美しい宝石に傷をつけたくなくて、宝物を扱うように恐る恐るとしか触れない。

「可愛い子なら誰でもいいや。トト子ちゃんやユーリちゃんならより大歓迎」
口の端に煙草をくわえた格好でおそ松は言う。
「オレは誰でもいいわけじゃないが、まぁ…」
純粋な性欲の発散と、好ましいと感じる相手を抱きたいと願うのは、辿り着く結論は同じにしろ根本的な部分は別物であるとカラ松は思う。
「あ、お前はユーリちゃん一筋だもんな。童貞のくせに操立ててご立派だよほんと」
くく、とおそ松は喉を鳴らす。揶揄する意味合いが強い口調だった。
くわえていた煙草を指で挟んで、カラ松は長男に鋭い視線を向ける。

「お前がハニーをどう思おうと勝手だが、もしも現実に手を出した時は──命はないと思え」

「おお怖い」
おそ松はひょいっと肩を竦めた。
「でもいきなり本番ってのは俺らもハードル高いし、まずはラッキースケベくらいがちょうどいいよな」
「ラッキースケベ…?」
「そ。たまたまちょっとエッチなシチュエーションになるヤツ。ほらアレだよ、転んだ弾みに女の子胸触っちゃうとか、ああいう類の」
漫画やAVによくある、ご都合主義の展開というものか。年々表現は際どくなり、そう都合よく発生してたまるものかと異議を唱えたくなるが、男のロマンであることは確かだ。
「…ああ、それはいいな。意図せず、というわけだな
「あくまでも偶然」
二人で頷き合う。
「高望みしてるわけじゃないんだし、パンツくらいは見れてもいいと思うんだよな」
「純真なホワイト…いや、下着は案外大胆でセクシーなブラックも悪くない」
カラ松は水着姿のユーリを記憶から引き出して、色の変化をイメージする。自然と険しい顔になるが、考えていることはただのエロだ
「そうっ、そういうの想像するだけで滾る!女の子がどういう考えで下着選んでつけてるのとか、服装と下着のギャップとか、いい!」
「いずれにせよ、見たいな
「見たいっ」
二人の意向は完全に一致する。

「トト子ちゃんはミニスカだからいつでも見えそうなのに、全然見える気配ないんだよなぁ。回し蹴りとかもするのに…不思議だ」
「ユーリもあれでなかなかガードが硬い。まぁ…緩ければそれはそれで害虫が寄ってきて面倒なんだが」
季節問わず肌が見れるとなると、それは嬉しい反面、自分たちと同じような視点を持つ輩は当然少なからず出現する。トト子は六つ子を一網打尽にできるクラスの攻撃力を持つが、ユーリは違う。だからこそ自分が守らなければと、独りよがりな正義感と共に彼女の傍らにいる。
「あー、ラッキースケベ起こんないかなぁ」
おそ松が溜息と煙を同時に吐き出した時のことだった。

一松が襖を開けて中に入ってくる──なぜか下はパンツ一丁で

「ごめんいちまっちゃん、俺そういうラッキースケベは求めてないんだわ
おそ松は真顔でノーセンキューの構え。
「は?らっきー…何?」
しかし一松は唖然とする兄二人を気に留める様子もなく、堂々と室内に足を踏み入れる。
「一松…なぜパンイチなんだ?」
危うく地面に落としかけた煙草を指で持って、カラ松は訊く。
「猫に粗相されたから着替え取りに来たんだよ。つか、ジロジロ見ないでくれる?見物料取るよ?
「スケベといえばスケベの範疇だけど、ぜんっぜんラッキーじゃない!見物料って何だよっ、むしろ迷惑料として金貰いたいぐらいだわ!
おそ松が崩れ落ち、そんな兄を一松は眉をひそめながら一瞥する。
「着替え取りに来ただけで何でこんなに文句言われんの」




おそ松と上記のような会話をしたのが、昨日の今日だ。
だからその翌日に、松野家の玄関をくぐったユーリがいつになく色気のある出で立ちだった時は、一瞬体が動かなかった。
Vネックのタイトなニットワンピースに身を包み、足元は黒のタイツ。見えている素肌は少ないにも関わらず、胸の膨らみや腰のくびれが強調されて嫌でも目が向く。ワンピースも膝上丈で、女性特有の柔らかさが全面に出る服装だ。
要は、かなりエロい。
「ハニー…」
「ん?」
玄関の上がり框でブーツを脱ぐ際に、白いうなじがちらりと覗く。唇を寄せて痕を残したい衝動に駆られる。カラ松は下唇を噛んだ。
「その格好はさすがに…アレじゃないか?」
「あれって?」
「童貞には刺激が強すぎる」
頬が熱い。隠すように片手で口元を隠せば、ユーリは立ち上がってワンピースの裾を摘み上げる。
「これが?生足でもないのに?」
「ユーリっ!」
カラ松は声を荒げて嗜める。幸いなことに兄弟は全員出払っているが、いつ誰が帰宅するとも知れない。叱責を受けたユーリは、小さく笑い声を上げた。
「あはは、ごめん。でもそうかぁ、普通の格好だと思ったんだけどな」
「自覚ないのか?男の夢と希望が詰まった勝負服だろ
「人様の服に、勝手に夢と希望を詰め込むな」
タイトなワンピースは、スタイルが顕著に表れる。普段布に隠されて想像を困難にしているものが、今は脳内イメージを手助けする。露出と形状で言えば水着などの方がよっぽど下着に近いはずなのに、あからさまな肌見せよりも薄いヴェールに包まれている方がカラ松の想像力を掻き立てる。
ユーリの所作一つ一つが色香を纏い、髪を掻き上げる何てことはない仕草さえ、目の毒だ。


意識しないようにすればするほど、逆効果となってカラ松を苦しめる。こんな時、兄弟が一人でもいれば気も紛れて抑止力になるのにと、先程とは真逆のことを思ってジレンマに陥った。
カラ松はソファの上で長い息を吐き出す。それから自分の膝に肘を付き、顔を覆った。
「おそ松があんなこと言うから…余計意識するじゃないか」
ユーリもユーリだ。今日に限って、よりによってあんな服を着てくるなんて。今日一日冷静でいられる自信がない。

そんな雑念が頭を過ぎった頃、部屋に続く襖が開け放たれる。
「さむさむ、廊下はやっぱり冷えるねー」
トイレを使うために一階に下りたユーリが戻ってきたのだ。後手に襖を閉めて、両手を擦り合わせながら軽快な足取りでカラ松の元へと駆けてくる。
その刹那、視界に広がる光景にカラ松は目を瞠った。

ユーリが床で足を滑らせたのだ。

「ユーリ…ッ」
反射的に手を伸ばすも、距離が離れすぎている。カラ松の救助は間に合わず、ユーリはカーペットの上に盛大に尻もちをついた。
「痛たたっ…」
「だ、大丈夫か?」
苦痛に顔を歪めながら腰に手を当てるユユーリに駆け寄り、しかし次の瞬間硬直して唾を飲む。
ワンピースの裾がたくし上げられて、太ももが露わになっている。

ジーザス。
タイツを履いているとはいえ、触り心地の良さそうな足が剥き出しだ。しかも当の本人は、打ち付けた尻の痛みでそれどころではない様子。至近距離で眺め放題。
「ユーリ、無事か?」
努めて平静を装い、紳士ぶって声をかける。
見ず知らずの異性相手なら間違いなく、恥も外聞もなく凝視して目に焼き付けた。しかし眼前にいるのは他でもないユーリである。太ももは眼福だったが、無闇に評価を下げる選択肢は選ぶべきではない。
「こんな所にクリアホルダー置いてるの誰!?痛いんだけどっ」
B5サイズほどのそれを拾い上げて、思いきり投げつける。誰が放置したかは定かではないが、日中室内が多少散らかっているのはいつものことだったため、気付けなかった。
「足首捻ってないか?──ほら」
カラ松が改めて差し伸べた手を取ってユーリが立ち上がる──その瞬間。
「あ」

どちらともなく上がった声を合図にするかのように、ユーリの全体重がカラ松にかかった。

反応しきれずに、体勢を崩して仰向けに転倒する。見慣れた天井が視界に映り込んでようやく、自分の状況の理解に至った。
咄嗟にユーリを胸に抱え込んだために受け身も取れず、後頭部を床にしたたか打ち付けてしまう。瞬間的に視界が混濁して、何も考えられなくなる。
「──つッ!」
「カラ松くん!」
ユーリが上体を起こしたのは感触で察することができたが、眩暈のせいで表情が捉えられない。
「たんこぶできてない!?痛かったよね、本当ごめん!」
けれどその悲痛な声音から、泣きそうな顔をしていることは判別がつく。違う、そうじゃない、そんな顔をさせたくはない。
「平気だ…ユーリ」
だから心配するなと言おうとして、カラ松は言葉を失う。

顔を覗き込んでくるユーリの胸元が露わになって、谷間とブラ紐が見えた。

こうなるともう元々僅かにしかない誠意だとか良心とかは行方をくらませる。原始的な性欲だけが残って、目が離せない。今日はその色か。
「私のこと見える?気分悪くなったりしてない?」
ユーリの顔が一層接近して、カラ松は体を強張らせた。カラ松が返事をしなくなったのを、脳震盪でも起こしたのでは案じているらしい。インナーの内側はさらにカラ松の顔に近づく。
「ちょ、は、ハニー…ッ!?」
ハッと我に返り、声を必死に絞り出す。このシチュエーションで顔を近づけられるのは、実に不味い。
「へ…っ、平気だッ、オレは何ともな───」
顔を寄せてくるユーリを押し返そうとして、今度こそカラ松は頭が真っ白になった。

持ち上げた片手が、ユーリの胸をわしづかみする格好になったのだ。

下着で形を整えられた胸は、手のひらにすっぽりと収まって。けれど親指が触れた先からは、肉まんのような弾力が伝わってくる。触れたものの正体を頭で理解するより早く指が動いて、結果的に揉んでしまう。
ラッキースケベを拝みたいよな、とおそ松と冗談を交わした記憶が脳裏を過ぎる。あの時の自分を葬りたい。ラッキーだとかツイてるだとか、心待ちにしていた花開くような喜びは底なしの絶望により一瞬で掻き消える




「…いつまで触ってるの?」
抑揚のないユーリの声に、否が応でも正気に戻らざるを得なくなる。
わあああぁあぁぁぁっ!す、すまんっ、違…違う、そういう意図は、なくてッ」
組み敷いて見下ろしてくる双眸に、カラ松は裏返った声で弁明する。とにかく今は、自分に明確な意図がなかったことを伝えなければ。
しかしカラ松が続きを発するよりも先に、ユーリがカラ松の後頭部に触れた。その行為にセクシャルな意味合いなどないはずなのに、ぞくりと腰に電気が走る。
「大声出せるなら心配なさそうだね───で、私の胸を触ってくれた代償は高くつくんですが
にこりと穏やかに微笑まれる。カラ松の腹の上から下りる気配もない。しかもなぜか丁寧語。怖い。
「えっ、何…え!?」
顔から血の気が引くのが自分でも分かる。
なぜなら、ユーリが蠱惑的に目を細める時はいつだって、その後の流れは決まっていて。カラ松は歯を食いしばり目を瞑った。

「嫌そうな顔。どうせ、また襲われるんじゃないかって心配してるんでしょ?」

くすくすと溢れ落ちてくる笑い声。細い指がカラ松の頬を突いた。
「…ち、違うのか?だって、この姿勢はまさにというか…」
「しないよ。そもそもは私が転んでカラ松くん巻き込んじゃったのが原因だから、相殺」
「…え」
「受け身を取れたはずなのに、私を守ってくれたでしょ?──ありがとう」
感謝の言葉は耳元で妖しく囁かれる。それからユーリはカラ松の前髪を掻き上げるように額から後頭部にかけてをゆるりと撫で上げた。床に体を横たえたまま、もたらされる愛撫に身を委ねる心地よさは、何とも形容し難い。
よいしょ、という掛け声と共にユーリはカラ松の腹から下りて、手を伸ばしてきた。その意味が一瞬分からなくて唖然としていたら、ユーリは首を傾げた。
「ん?まだ痛む?」
「…あ、い、いや…平気だ」
その手を取って上体を起こし、カラ松は両手で顔を覆う。

言えない。あっさり身を引かれて落胆しているなんて、絶対に言えない。
一撃ずつ打ち付けられる攻撃によって、日ごとに着実に城壁は崩されていく。いつか拒否しきれなくなる日が訪れることをカラ松は恐れている。そして同時に、望んでいる自分も確かにいる。
もう後戻りできないところまで惹かれているから。辿り着く結末が自分の求める形でなくても、手に入れることができるなら、それで十分じゃないかと飲み込みたくなるくらいには。


「ユーリは…」
声が掠れた。
「ユーリは、怒らないのか?」
「怒る?」
居住まいを直しながらきょとんとするユーリ。
「その…不可抗力とはいえ、胸を触ってしまったわけだし」
彼女はちらりと自分の胸を見下ろしてから、再びカラ松に目を向けた。
「疚しい気持ちがあるわけだ?」
「や、まぁ……ない、とは言えないから」
正直に答えれば、ユーリは呆れたようにくすりと笑った。
「何で素直に言っちゃうかな。そういうのは黙ってたら分からないよ、普通」
「他の男に同じことされても、そうやって笑って許すのか?」
だとしたら聞き流すわけにはいかない。
自分と同じように彼女に触れて許された不埒な輩がいるなら、一人残らず一発見舞ってやらなければ気が済みそうにない。
ユーリはこの話題を一笑に付して流そうとしたのだろう。しかしカラ松の真剣な眼差しに気付いてか、顔から笑みを消した。
「他の男の人には、そもそもこんなに近づかないよ」
そう言ってから、ああ、とユーリは吐息を吐いた。両手を上げて降参のポーズを取る。
「分かった、私も正直に言う。カラ松くんだから安心して完全に気を抜いてました。触られたのだって、カラ松くんはそういうことわざとしないと思ってたし。でもそうだよね、これからはもっと──」

「いい」

ユーリの言葉を遮って、カラ松はかぶりを振った。
「…え」
「そういう理由なら、いい」
不埒な行為を許されて首の皮一枚繋がっただけでも僥倖だというのに、思わぬところでユーリからの信頼を再確認させられた。

だから、実は下着もしっかり見えていた事実は墓まで持っていこうと心に誓ったのだった。