「早く元に戻ってほしいような、しばらくはそのままでいてほしいような、複雑な心境だった」
カラ松くんは当時のことを振り返るたび、複雑な表情を浮かべる。
「ユーリっ、本当にすまん!」
下げた頭を地面に擦り付けて謝罪するカラ松くんを、私は冷めた目で見下ろしていた。
さて、言いたいことは数多あるが、取り急ぎ状況から説明するとしよう。
私は幼児になった。
うん、安心してほしい、自分でも何を言っているのかよく分からない。しかし紛れもない事実なのだ。目の前の姿見に映る私自身は、身長百センチに満たない小さな幼児そのもの。ひれ伏す松野家次男坊は別にして、目線が並んでいたはずのデカパン博士やダヨーンは、見上げなければ目すら合わない。
これってほら、今や流行通り越して一つのジャンルとして確立している人生やり直しもの、まさにあれ。第二の人生始まった。
せっかく子どもになったから新しい人生謳歌しちゃうぞ☆──なんて言うと思うのか、馬鹿か。
転生して異世界生活ならいざ知らず、日本にいるまま姿が小さくなっただけなら、組織所属の社会人にとっちゃ死活問題だ。っていうか普通に事件。
少々取り乱したようだ。クールになれ、ユーリ。
事の発端は、カラ松くんと共にデカパン博士の研究所に立ち寄ったことだった。たまたま前を通りかかったところ、研究所へ入ろうとする博士に遭遇したのだ。開発中の発明品を見ていかないかと誘われて、差し迫った用事のない私たちは二つ返事で研究所の中へと足を踏み入れた。
「試作品は奥の部屋にあるから、ちょっと待っててほしいだス」
大きなパンツの裾を揺らしながら、博士はダヨーンと共に応接室を兼ねたホールを離れる。
彼らが戻るのを待つ間に、私たちはすぐ傍らの薬品棚を覗き込む。得体のしれない錠剤や液体の入った瓶がズラリと並び、見た目は圧巻だ。ただしほとんどの瓶にはラベルが貼られておらず、過去の遍歴を鑑みれば怪しげな代物でしかない。
素手で触れるのさえ躊躇する私とは裏腹に、カラ松くんは目を輝かせて瓶を手に取る。
「ユーリ、見てみろ。パフュームだ」
手のひらサイズのピンク色の小瓶だった。パフューム──つまりは香水──と英単語が彫り込まれていて、高級感のあるそれはブランド物のようにも見える。
「下手に触らない方がいいよ。デカパン博士のだからね」
「しかしこの瓶は、トッティが読んでいた雑誌で見たことがあるぞ。何でも受注生産の限定品だとかで、サイズの割に高いなと思った覚えがある」
「へぇ。博士が香水ってイメージ沸かないけど」
「天地が逆転しない限りはないな」
迷いなく言い切った。さすが付き合いの長さが違う。
「ハニーには似合うんじゃないか?」
「えっ、でも博士のだし、万一何かあったら…」
拒絶の姿勢を見せて身を引こうとした、その刹那──私の手首に香水が吹きかけられた。ギョッとして、空気中に舞い上がるフルーティな香りが鼻腔をくすぐったところまでは覚えている。
そして気がついた時には、幼児になっていたというわけだ。
目の前には、カラ松くんの腰。やたら地面が近くて、香水がかかった手の指は短い。顔を上げれば、顔面蒼白で私を凝視するカラ松くん。
彼が巨大化する薬だったのかと認識しかけた私に現実を突きつけたのは、近くに置かれていた姿見だった。
「…は?」
「ハニイイイイイィイィ!?」
轟く絶叫と渾身の土下座。こうして冒頭の謝罪へと繋がる。
「おう、とりあえずこの姿で股間に全力の頭突きかますから、覚悟しろよ次男坊」
「勝手なことして本当すいませんでした!」
平身低頭で謝罪するカラ松くんだが、私を見つめる顔はすぐにふにゃりと崩れる。
何しろ体の構造が二、三歳程度の幼児。どう努力しても、高音で舌足らずな愛嬌のある声になってしまう。仁王立ちでメンチ切る姿も、ぷりぷり拗ねているだけにしか見えない。屈辱だ、こちとら成人の社会人やぞ。
「ニヤけないの!腹立つっ」
「す、すまんっ。非常事態なのは理解してるし、オレの愚行によるハニーの憤りももっともだ。しかし──いかんせんキュートすぎる。普段のユーリとは百八十度違うキュートさがオーバーフローして、何というか今すぐ頬ずりしたい!頼む一回だけっ」
殴りたい。
確かにまぁ、鏡に映る饅頭みたいな弾力のある頬は自分でも可愛さ最高潮だとは思うけれども。
「どうかしただスか?」
私のほっぺたを狙ってにじり寄ろうとしてくるカラ松くんを牽制していたら、白衣を羽織ったデカパン博士が戻ってくる。
「その子は…ユーリちゃんだスか?」
「大変なんだデカパン!この香水をつけたらハニーが小さくなってしまった!」
「元凶はそこにいるクソニートだけどね」
博士はカラ松くんの持つ瓶と私を見比べて、合点がいった様子だった。
「ほえ~、『可愛さ百倍薬』を使ってしまったんだスなぁ」
ネーミングセンス。
「その名の通り、使用者の可愛さを現状の百倍に増幅させる薬だス。可愛いものは一層可愛く、可愛くないものはそれなりに。どう可愛くなるかは人によって違うんだスが、心配ないだス、二十四時間程度で元に戻るだス」
何でそんな発明をしたんだ、という当然の疑問を私は飲み込んだ。骨格や筋肉量はいざしらず、そもそも身につけている衣服ごと伸縮した、自然の理や質量保存の法則オール無視の変貌にツッコミどころ満載だが、気にしたら負け。
「博士ってほんと、実用性皆無のものばっかり開発するよね」
「ワスの開発力を駆使して実用的なものを開発してたら、今頃世界は滅亡してるだスよ」
「真顔で恐ろしいこと言う」
しかし、面白そうだからという利己的な目的達成にやる気を全振りし、実験台を彼の友人関係のみに留めているから被害は最小限に収まっているともいえる。
「てか、罰としてカラ松くんも嗅げ」
「ちょっ、ウェイトウェイト!オレも子どもになったらユーリを守れないぞ!二十四時間はそのままの姿なんだろう?」
そうだった。クソが。元に戻るまで自室にひきこもろうにも、ひとり歩きでは自宅までの道のりで補導されるのがオチだ。帰ろうにも、保護者がいる。
絶望が重苦しく背中に伸し掛かるが、私は早々に気持ちを切り替える。悲観に暮れる暇があるなら、これから二十四時間を安全に乗り切る策を講じた方が遥かに有意義だ。
それに───
「うーん…それにしても、幼児の私可愛いすぎない?
無邪気な容姿で頭は大人。小悪魔的存在だよね」
アーモンド型で黒目の大きな瞳はそれこそ眩いばかりに輝いて、弾力のある丸みを帯びた頬、きめ細やかな白い肌、風が吹けば飛ばされそうなほど小さな体。保護欲を掻き立てる要素を全て兼ね備えた外見である。
昔の写真を見たことはあるが、ここまで目を引く容姿ではなかった気がする。百倍薬の効果恐るべし。
「イグザクトリー!地球上の愛らしさを集めて凝縮したかのような可憐なガールっ、リトルユーリはパーフェクトかつオンリーワンな存在だ!」
我が意を得たりとばかりにカラ松くんは両手を高々と掲げ、仰々しいポーズを決める。
「ほえ~、ほっぺたがもちもちダスなー。うちの子にならないダスか?」
「ならない。一生このままじゃないし、そもそも親いる」
「今のユーリはさしずめ、世界中の大人を虜にする魅惑のエンジェルといったところだな」
ふふーん、とカラ松くんはしたり顔になったが、次の瞬間ハッと目を見開いた。
「このままでは危険だっ、怒涛のように子役のスカウトが来てしまう!」
お前の頭が危険だ。
「これからどうする?当初の予定の買い物…は無理だよな」
博士の研究所を後にした直後、カラ松くんは本来向かうはずだった方角へ歩を進めながら肩を竦めた。彼はすぐに立ち止まって、後ろを振り返る。歩幅の差もあり、速歩きでもカラ松くんのスピードに追いつけない。
「外出は厳しい。足の長さと体力が違いすぎるよ」
「じゃあ、とにかく今日の分の着替えを調達するか」
「…余計な出費だなぁ」
翌朝には元に姿に戻るだろうから、最低限パジャマと下着を購入すればいいだろう。使用は一度きりだから、安価なセール品を入手できればいいのだけれど。
「ここから数分歩いた先に赤ちゃん用品店があるよ。そこで必要な物を揃えよう」
「オーケー、ハニー」
カラ松くんは笑う。その顔は楽しそうで、何だか複雑な気持ちになった。
私たちが外を歩く時は、カラ松くんが歩道の道路側、私がその内側を並んで歩くのがいつの間にか暗黙の了解になっていた。だから今日も自然と立ち位置は彼の傍らだったのだが、たった一歩で大きな距離が開いて愕然とする。自分の装備がブーツのせいもあるだろうが、今まで気にも留めなかった僅かな段差で躓いて、私のテンションはだだ下がり。
「は、ハニー、大丈夫か?」
「大丈夫に見えるなら眼科行った方がいいと思う」
起き上がって服の砂を払いながら吐き捨てるが、三歳児の眼光に鋭さなどあるはずもなく。
「ご機嫌ナナメだな」
カラ松くんは相好を崩して地面に片膝をつく。
「幼児の体幹の不安定さ舐めてた。…で、何またニヤニヤしてんの?癪に障るなぁもう」
「ユーリの一挙手一投足があまりにキュートで、緩んだ頬が元に戻らないんだ。今のユーリは紛うことなきギルティガールだぞ」
そう言ってカラ松くんは私の両脇に手を差し入れ、軽々と持ち上げたかと思うと、片腕で私のお尻の下を支え、いわゆる縦抱っこをする。すぐ目の前に、カラ松くんの横顔。
「……あ、すまん。何というか、こっちの方がお互い楽かと、つい…」
「二十歳過ぎて片手抱っこされる日が来るとは思わなかった」
交わった視線の先で、カラ松くんは嬉しそうに破顔する。
ああもう、そんな顔をされたら文句なんて言えなくなるじゃないか。
可愛さ百倍薬。名前だけ聞けば冗談のような薬名だが、意外に厄介な効力を発揮することに、私たちはしばらくして気付かされることとなる。
「ねぇカラ松くん…もしかして、私たちめちゃくちゃ見られてる?」
道行く人々の八割がすれ違いざまに振り返って私を見やり、顔の筋肉を弛緩させる。聞こえよがしに私の容姿を褒める人もいて、薬の効果と分かっていても居たたまれない気持ちになった。
辿り着いたベビー用品店で、私はカラ松くんの腕から降りて、売り場へと走る。てちてちという表現が相応しい頼りない足取りになってしまい、我ながら可愛いが過ぎるのではと背後を振り返ったら、カラ松くんは目頭を押さえて悶絶していた。案の定か。
「パジャマは上下セットの、デザイン何でもいいから安いヤツで」
「ジーザス、サイズが多すぎる…どれを買ったらいいんだ?」
「90くらいだと思うけど、着られれば何でもいいよ」
スマホで調べたところによると、三歳女子の平均身長は90前後。店内の壁に貼られていたシールタイプの身長計でも、近い数値を示していた。ということは、現在の私はやはり三歳前後と推察される。
「あとは下着くらいかな」
「すまないが、ハニー…し、下着はさすがに、自分で取ってきてくれないか?」
カラ松くんは顔を赤くして私に言う。童貞には幼女の下着も刺激が強いらしい。
しかし、真剣な眼差しでサイズ90のパジャマを選別するカラ松くんを置いて下着コーナーへと向かった私は、唖然とする。目的のサイズの商品に手が届かない。
カラ松くんの目線辺りの位置に、欲しいサイズのショーツが並んでいるのだ。元の姿ならば軽々と手にすることができるのにと、歯がゆくて仕方ない。
高い位置にある商品を取るための竿上げ棒を取ろうにも身長が足りず、かといって店の中には子供用のステップもない。
無駄な抵抗と分かっていても、つま先立ちをして手を伸ばす。
「んーっ」
気合を入れるために発したものだったが、驚くほど愛らしい声が出た。
けれど幼児の努力には限度がある。埋まらない数十センチの距離に早々に音を上げ、カラ松くんか店員に頼むことにする。くるりと体の向きを変えた次の瞬間、私は目を瞠った。
両手で顔を覆ったカラ松くんが崩れ落ちている。
「ハニーがキュートすぎる…ッ」
マジのクソがここにいます。
スマホや財布を黒いリュックに入れていたのは幸いだった。有名スポーツブランドのユニセックスタイプで、カラ松くんが背負っても違和感はない。私のリュックから私の財布を取り出して私の服を買うカラ松くんの姿は、最高にシュールだったが。
「ユーリ」
帰り道、抱っこを遠慮したら手を差し出された。体格差のせいか、大きな手が今日は一層大きく感じられる。首が痛くなるほど見上げてようやく視線が絡んで、カラ松くんは顔を綻ばせた。
私は内心でハッとする。今なら幼児の見た目を餌にして抱けるかもしれん。彼もまさ三歳児に襲われるなんて予想だにしないだろう。そんな妄想を脳内で繰り広げつつ、私もにっこりと無邪気な笑みを返した。
だが、意識はすぐに現実に引き戻される。
「やだ見て、あの子可愛い~」
「ほんとだ!ちっちゃーい、抱っこしたーい」
通りすがりの女子高生二人組から、容姿に関する賛辞を投げられたからだ。数メートルという、反応して会釈するには不自然な距離があり、かといって無視をするのも憚られ、何とも照れくさい。
「てかさ、パパ若いよね」
「うん、若い。でも絵になる親子って感じじゃん?」
カラ松くんの目尻が一瞬で赤く染まる。
「どうしたの──パパ?」
「からかうのは止せ、ハニー」
意趣返しにニヤけながら囁やけば、語気を強めた口調ですぐさま窘められた。
「頼むから止めてくれ。
今すぐにでも元のユーリに戻ってほしいのに、相反する気持ちもあって…どうしたらいいのか混乱してる」
昼食を終えた後に、私たちは松野家へ向かった。
薬の効果が切れるまでは、大人しく自宅に籠もっているのが得策である。しかし駅への道すがらに松野家はあり、財布に資金を追加したいというカラ松くんたっての願いもあった。
要は、六つ子に見つからなければいいだけの話だ。最悪姿を視認されても、私だとバレなければ問題ない。
けれど、ひょっとしたら面倒なことになるのではという僅かな懸念にこそ、対六つ子時は細心の注意を払うべきであると、後に私は痛感することになる。
「悪いことは言わないから、今すぐ出頭してこい」
まず、玄関を開けて早々にトド松くんに見つかった。手を繋ぐ私とカラ松くんを認めるなり、真顔で吐いた台詞がこれである。
「ガチじゃん、引くわ」
続いて通りがかった一松くんに、侮蔑の眼差しと共に低いトーンで蔑まれる。
まぁ確かに、見ず知らずの幼児の手を引いた兄弟を見たら不審がっても不思議ではないが、それにしてもひどい言いようだ。
「違ぁうっ!この子はユーリだ!ハニーなんだっ!」
お前は馬鹿か。
自分の名誉のために私を売りやがった、絶対後で泣くまで蹂躙すると私は心に決める。
「またまた、そんなすぐ分かる嘘ついて。ほんと嘘つくの下手くそだよねぇ、カラ松兄さん」
トド松くんは鼻で笑い、手首を振った。よし、その調子だ末弟。
「こんにちわぁ、お兄たん」
私はとっておきの営業スマイルを浮かべ、わざと舌っ足らずな口調で愛想を振りまく。
「えーっ、何この子、かっわいい!どこから攫ってきたの?」
「だから誘拐前提で話を進めるな!オレへの信頼!」
カラ松くんの叫びには、一松くんの嘲笑が応えた。
「じゃあ何?ユーリちゃんから鞍替えして源氏物語でもやるっての?大きくなったら結婚しようって調教?光源氏って面じゃねぇだろてめぇは」
彼らがカラ松誘拐犯説を唱えてくれるのは僥倖だが、万一通報に至れば厄介なことになる。黒歴史更新という不名誉な傷はつくが、ここは正体を明かした方が懸命なのかもしれない。
内心の葛藤を悟られまいと微笑を浮かべたまま固まっていたら、背後から声を掛けられた。
「あれ、ユーリちゃんどうしたの?ちっちゃくなっちゃった?」
振り返れば、砂と土で汚れたユニフォーム姿の十四松くん。いかにも野球の練習を終えたばかりという出で立ちだ。
「え?」
「お前何言ってんの、十四松?」
四男と末弟は目を丸くする。私は息を飲んだ。
「ユーリちゃんの匂いするよ」
続けざまに口にされたその言葉に、私は文字通り頭を抱えた。彼は鼻が利くからだ。そして十四松くんの嗅覚に対する六つ子の信頼度の高さは、長い付き合いでよく理解している。
案の定、私を見下ろす彼らの目つきが一変した。無条件に愛でる柔らかなものから、不審者を見る眼差しへと。
「…ユーリ、ちゃん?」
「言われてみれば、何となく面影もあるような…」
膝を折ってまじまじと覗き込んでくる二人。
私は白旗を上げた。
「…十四松くんタイミング悪すぎ。やっぱり家寄るの反対すれば良かったよ」
乱暴に髪を掻きながら溜息をつくと、一松くんとトド松くんは体を強張らせた。小柄で愛らしい三歳児が、大人びた口調で吐き捨てるのだ、そりゃ驚きもするだろう。
「えー、でも本当にユーリちゃん?じゃあさ、質問。君の隣にいるのは誰?」
「当推し」
「あ、本物だわ」
疑ってごめんねとトド松くんから謝罪を受ける。信じてもらえて良かったと安堵すべきところだろうが、微妙な気持ちになるのはなぜだ。
いつもの居間に通されて、ちゃぶ台を囲むように座る。
幼児体型になった事情を説明する間に、外出していた面子も帰宅し、いつの間にか六つ子全員勢揃いでテーブルを囲んでいる。寄るだけで滞在はしないつもりだったが、正体がバレた今、固辞する理由はなくなった。
「コーヒーや紅茶は苦いから駄目だよね?ホットミルクでいい?」
チョロ松くんが片膝を立てて私と向かい合う。
「子ども扱いしないで…って、いや子どもだったわごめん。うん、ホットミルクで」
一時的にとはいえ幼児の姿なのだから、カフェインは控えた方が良さそうだ。
「お昼は何食べてきたの?」
「ファミレスでお子様ランチ」
「子どもかよ」
子どもだよ、紛うことなき幼児だよ。支払い能力のある幼児ですが何か?
「体が小さくなった影響なのか、味覚や好みも変わっちゃって、メニュー見た時にお子様ランチ一択だったんだよね」
そして甚だ不本意ではあるが、美味しかった。分かりやすい単調な味付けが、今の自分の舌には絶妙に感じられたのである。
カラ松くんの前には、マグカップに注がれたコーヒーが置かれる。
「そのコーヒーちょっと飲んでいい?」
この状況で、ブラックのコーヒーの味をどう捉えるのか興味があった。しかし私の手がカップに届く前に、カラ松くんが頭上に持ち上げてしまう。
「ノンノン、リトルハニー。カフェインは成長の妨げになるぞ」
大人と子どもでは手の長さがまるで違うから、掲げられては届かない。
「大人だし!ちょっとだけっ」
「駄目だ」
にべもなく拒否される。座ったまま懸命に手を伸ばすも、大人のカラ松くんと比べると、私の腕の何と短いことか。
しかし他の五人には、絶大な愛らしさをアピールする結果になったらしい。揃って口元を押さえて悶絶していた。
コーヒーは諦めて、差し出されたホットミルクに口をつける。漂ってくるコーヒーの香ばしい匂いは以前同様に好ましく感じるから、きっと味わえるとは思うのだけれど、保護者の許可が下りないのでは仕方がない。
唇を尖らせながら、テーブル中央に置かれたポテトチップスを指でつまみ、口の中へと放り込む。
「あ、ユーリ、それは…っ」
カラ松くんの制止を脳が認識するよりも、チップスの味が口内に広がるのが先だった。その妙なる調味料と香辛料テイストを、敢えて一言で表すなら──
くそ辛い。
「かっらああああぁぁぁあぁぁいっ!」
口の中に突如炎が出現したかと錯覚しそうになるくらいの衝撃が広がった。痛みを逃がそうと息を吸い込めば、口内が焼け付く。両目からは大粒の涙がこぼれ落ちて、私の意思では制御ができなくなる。
「ううぇっ…から…っ、ひぐ…!」
「よしよし、辛かったよな」
カラ松くんは困ったように笑いながら、言葉にならない声を漏らす私を抱き上げた。カラ松くんの肩に顔を埋める格好になる。
優しく私の背中を擦る手の感触。
「うええぇえぇ、何でこんな辛いのー!?」
「ハバネロチップスをハニーの手の届く所に置いといたオレたちが悪いな、すまん」
涙で滲んだ視界で、オレンジ色のポテトチップスが盛られた皿と、呆然と私を見上げる六つ子たちを認識する。
ハバネロチップスと彼は言ったが、何度も食したことのある食べ慣れた味なのだ。十分余裕を持って耐えられる辛さのはずだった。なのに、この体たらくである。
「ハバネロでも、マイルドバージョンなのにね」
「でも子どもには十分辛いんじゃない?ぼくだって飲み物欲しくなるし」
チップスを咀嚼して一松くんが不思議そうに呟き、十四松くんは首を傾げた。
「冷蔵庫に秘蔵のプリンがあるんだ。取りに行こうな」
「まだ辛いから無理ーっ」
「なら先にホットミルク飲むか?熱いからフーフーするんだぞ」
カラ松くん穏やかな声音で私を宥めながら、空いている片手でマグカップを持ち上げる。牛乳が注がれた大人用のそれは、今の私には大きく重い。不安はおそらく顔に出ていたのだろう、カラ松くんは何も言わずカップの底を手のひらで支えてくれる。
しかし牛乳の膜で口内を覆うも、症状は緩和しない。とめどなく溢れる涙を抑える術もなくカラ松くんの肩に縋り付いた。
「うん、辛いな。すぐマシになるから、少しの我慢だ、ユーリ」
私を抱いたまますっくとカラ松くんが立ち上がる。
緩やかで心地よい揺れと共に囁かれる声に、徐々に何も考えられなくなる。現と夢の境目が次第に曖昧になり、意識が混濁していく。
「何これ、ナチュラルにパパじゃね?」
「カラ松は父性あるから」
「パパみある」
「…パパみ?」
「こなれてる感が絶妙に腹立つな」
私が意識を手放したのは、それから僅か数秒後のことだった。
「ユーリちゃん寝ちゃった?」
十四松がカラ松の背中側に回り、ユーリの顔を覗き込む。肩に寄せられた重量感の変化から、彼女が寝入ったことは感覚で分かっていた。
「あーあ、カラ松兄さんの肩ぐっしょり」
十四松は笑って肩を揺らす。
「デカパンの薬のせいもあるんだろうけど、泣き喚いたユーリちゃんも超可愛かったな。元に戻らなかったらうちで養おう」
「僕明日就職先決めてくるよ」
「すげぇなお前ら」
長男と三男が躊躇いなく発したユーリ養いたい発言に、一松は眉根を寄せた。
「でも何か分かるー、守ってあげたくなっちゃう感じあるよね」
末弟に至っては、ストレージが許す限りの写真を撮り続けている。
「ユーリちゃんは泣き疲れて寝ちゃったのかな?」
「それもあると思うけど、二、三歳頃だとまだ昼寝の習慣があるみたい。今ちょうどその時間なのかも。一時間くらいは寝るって書いてあるよ」
スマホのディスプレイに表示された文章をトド松が読み上げる。それを聞いて、一松と十四松が押入れから座布団と毛布を引っ張り出してきた。畳の上に座布団を並べ、即席布団を作る。
「しばらくは起きないだろうし、寝かしとく?」
一松に問われて、カラ松はユーリの寝顔を一瞥する。
十四松の言う通り、カラ松の肩は彼女が溢した涙の染みが広がっていた。規則正しい寝息とは裏腹に、目尻には痛々しい涙の跡が残る。
けれど小さな両手は、カラ松の服をしっかと握って離そうとしない。
その姿がなぜかたまらなく愛おしくて、口元には自然と笑みが浮かんだ。相手はユーリなのにユーリではないような、不思議な感覚をずっと覚えている。彼女の血が流れる子どもと接しているみたいな。この触れ合いがもたらす多幸感を──まだ手放したくない。
「…もう少しこのままでいい」
誰かが守らなければ容易く壊れてしまいそうな小さな体だ。その役は誰にも譲りたくないと強く思う。恋愛感情なのか父性なのか、この感情の起源は、もはや分からないけれど。
「オレにジュニアがいたら、こんな感じなんだろうか」
噛みしめるように呟くと、全員から失笑を買った。
少なくとも幾人からは同意が得られるのではというカラ松の思惑は、美しいほどに空振りする。
「そういうのはまずは童貞卒業してから言って!キスだってまだのくせに!処女受胎したマリアか!」
特にトド松は辛辣だ。
「え…でもユーリの子なら、オレの子同然じゃないか?」
「サイコパス思考怖い!」
目を覚ました私は、腫れぼったい双眸にまず絶望し、次いでやらかした己の失態に閉口する。ぶすくれた顔で上半身を起こす私を微笑ましく見守る六つ子の眼差しにも、殺意しか感じなかった。
一刻も早く自宅に戻りたかったが、夕食を食べていけとおばさんに強く誘われて断れず、結局松野家を辞退したのが八時前だ。夕ご飯に出されたオムライスには、私のプレートにだけ中央に旗が数本のっているお子様ランチ仕様。孫を見るかのような松代の熱い視線が痛かった。長居は危険と判断し、カラ松くんの手を引いて逃げるように松野家を出る。
「ハニー、おいで」
混雑した電車では、カラ松くんが片手で私を抱きかかえる。今更だが、本当にパパみがすごい。いつもなら手を繋ぐ行為にさえ必死に口実を探す彼が、ごく自然に私を抱きしめる。危険から遠ざける意味合いが強いから、普段とは事情が違うのだろうが、それにしても、だ。
「まだ眠くないか?」
「大丈夫」
「疲れただろう?寝る前までは側にいるから、やってほしいことがあれば何でも言ってくれ」
ふふ、と私は思わず笑ってしまう。
少々甘やかしすぎる傾向にはあるものの、疑似体験における率直な感想としては──彼はいい父親になりそうだ。
「風呂上りのハニーもソーキュートだ!
マシュマロのようなほっぺ、アーモンド型のアイズ、片手で抱えられる等身、全てが筆舌に尽くしがたい愛くるしさ!そして極めつけに、オーバーサイズなパジャマ!マーベラス!」
うん、ごめん、前言撤回。最高に鬱陶しいわ、これ。何がいい父親だ、馬鹿なのか。
「スマホ貸してくれっ、ガイアの宝となるべき存在の記録は残しておかなければ!」
親馬鹿が最高潮。
「ハニーじゃなければしこたま頬ずりしたいぐらいだ!」
「その煩悩は理性で打ち勝って、カラ松くん」
送り届けてはいさよならかと思いきや、遅くならないうちにシャワーを浴びろと指示された。
風呂くらい一人で入れるからと辞退する私の意思は尊重されず、風呂上がりに着替えを済ませるまでリビングで待機される。設備が大人向け仕様のせいもあるだろうが、監視下で風呂に入る居心地の悪さには、無意識に溜息が溢れた。
可愛さ百倍薬の吸引力恐るべし。
歯磨きを終え、後はベッドにもぐるだけになった。時計の針は九時手前を指している。
カラ松くんが玄関で靴を履く。
「明日は九時には来る。その頃には元の姿に戻っているだろうしな」
そう願いたいところだ。
私がこくりと頷くと、彼は不安げに眉尻を下げてその場で膝を折った。私と目線が合う。
「一人で怖くないか?オレがいなくて本当に大丈夫か?」
「体は幼児でも、中身は大人なので」
「…分かった。それじゃあ、いい子で寝るんだぞ。チャイムが鳴っても絶対に出ないようにな、リトルハニー。オーケー?」
初めてのお留守番か。
「子ども扱いしないでってば」
「今のユーリは子どもなんだ。夜中一人でいて、万一のことがあったらと心配するのは当たり前だろ」
「お父さんか」
「カラ松パパ、か…フッ、いい響きだ」
駄目だこいつ、早く何とかしないと。
「何かあったらすぐトッティの携帯に電話くれ──飛んでいく」
翌朝ベッドで目を覚ました時には、私の体はあるべき姿に戻っていた。高い視線、長い手足、軽やかな段差の乗り越え、たった一日失っていただけなのにひどく懐かしい。
デカパン博士が言ったリミットの二十四時間まではあと数時間あるが、早く戻ってくれるに越したことはない。貴重な休日は一分でも無駄にできないのだ。
カラ松くんとは言うと、玄関を開けて私の姿を認めるなり、喜びと落胆が混じったような何とも言えない複雑な表情になった。
「元に戻って本当に良かったと思うのに…何というか、少し残念な気持ちもあるんだ」
ソファに腰かけて、彼は呟く。
「もしオレとハニーの間に子どもがいたら、ああいう──」
そこまで言って、際どい台詞であることに思い至ったのだろう。顔を赤くして、片手の甲で口元を隠す。
「…あー、いや…やっぱり、何でもない。聞かなかったことにしてくれ」
感慨深い様子でカラ松くんは自分の手をじっと見る。
「小さな手だった」
「そりゃ三歳前後ですから」
「守ってやらなきゃと思ったんだ、心の底から。あの不思議な感覚は何だったんだろうか」
おそらく私は、彼が求める答えを持っている。霧のように曖昧で掴みどころのないその感情の正体を、知っている。
「カラ松くんはいいお父さんになりそうだね。というか、実際昨日はいいパパだったよ。娘だった私が太鼓判押す」
でも、答えは自分で見つけてこそ価値があるものだ。
「そういう未来が来たらいいんだけどな」
「カラ松くん次第でしょ」
「…そうか?」
「そうだよ」
「そ、そうか…」
決意を新たにするように、うん、と頷いて。
「…頑張る」
私を見て、小さく笑った。
ああくそが、可愛さ百倍薬で超絶可愛くなった私なんぞ足元にも及ばない可愛いの権化的存在が目の前にいるんですが、これで薬飲んだら臨界点突破じゃないか、そうなったら鼻血の海で息絶える自信がある。理性?なにそれ美味しいの?
指先で眉間を押さえながら、私は必死に己を律するのだった。