ただ愛して

私とカラ松くんは、酔っていた。
翌日に二連休を控えた金曜の夜、勝手知ったるチビ太さんの屋台。他に客のいないカウンター席でああだこうだと他愛もない話を交わしては、おでんを肴にビールをあおる。次の日が休みである油断もあってか、いつにも増してピッチが早い自覚はしていたが、気が付けば数杯目を空にする始末だ。
気を抜けばふらつく体を律して、私は平然を装う。

「ユーリ、勝負をしないか?」
ペースを落とそうと冷たい水を注文したところで、カラ松くんから声がかかった。動かした膝がぶつかりそうな距離で、彼はニヤリとほくそ笑む。
「勝負ぅ?」
「たまには刺激的なスパイスがあってもいいんじゃないか、と思ってな」
胸元に手を当て、思案に耽るような顔をする。大仰で、芝居がかった仕草だ。カラ松くんのそういった言動には大抵理由があり、過去の経験から数パターンに分類できることが判明している。そしてこの場合、何やら魂胆があるらしいことを察するのに、類い稀な洞察力は必要なかった。
私は訝しげにカラ松くんを横目で見やる。
「スパイスって」
「ユーリと二人で過ごすのは楽しい。しかしここ最近は少々マンネリ感が否めない」
「はぁ」
そもそも付き合ってないからマンネリもクソもないが、空気を読んで黙っておく。何目線なんだ。
「新たな刺激を受けて見る世界は、きっと一層美しい。オレたちの関係をよりベターなものにすること請け合いだ!どうだ、ナイスなアイデアだろ?」
両手を広げて意気揚々と語るカラ松くんに対し、無言で白けた目を向けるのは私とチビ太さんだ。
もたらされる結果について具体性はなく、根拠も曖昧。前提もおかしい。どう好意的に見ても、勢いだけの発言である。
私が返す言葉に悩んでいたら、不安に駆られたカラ松くんが眉を下げる。
「あ、その…やっぱり、ダメ?」
そのギャップは卑怯。今までの強気な態度どこいった。
「勝負内容と手法によるかな」
カウンターの向こうでは、止めておけと言わんばかりの顔でチビ太さんが首を振っている。
「勝負はもちろんフェアに行う───じゃんけんだ」
「なるほど。罰ゲームは何?」
カウンターに頬杖をついて促せば、よくぞ聞いてくれたとカラ松くんは片側の口角を上げる。

「明日一日、相手に従属するんだ」

難しい言い回しだ。
「言うことを聞くってことかな?」
「微妙に違う。相手を貶めたり屈辱的なことはもちろんNGだ。
従属といっても主従関係のように仕えるわけじゃなく、勝者を蝶よ花よと甘やかすイメージが近いな」
「小さな子を持つ親みたいに?」
「ハニーの場合はキュートに頼むぜ」
私は眉をひそめた。罰ゲームの内容が支離滅裂で、一向に要領を得ない。問えば問うほどに軸がブレていく気がする。
私が好意的な返事を返さないことに気付いたカラ松くんは、目尻を微かに朱に染めて、視線を落とした。
「まぁ、つまり…その、アレだ…付き合いたての恋人みたいな感じ、というか」
イチャイチャしたいなら最初からそう言え。
ぐだぐだとわけの分からない口上を述べていたが、つまりはそういうことらしい。勝敗によって、甘えるか甘えられるかの立場の違いがあるだけで。
「敗者が勝者を甘やかす認識でいいのかな?」
「察しのいいレディはモテるぞ、ハニー」

勝負は一度。
反則、後出し、駆け引き一切禁止の、運を天に任せた一回限りの真剣勝負だ。
「さいしょはグー」
いつになく真剣な声音と眼差しで、カラ松くんが拳を突き出した。彼の真正面に対峙して、私も同じ仕草を返す。
チビ太さんは湯気を立てるおでん鍋にだし汁を足しながら、静かに長い溜息を吐き出した。私たちの勝負を制止こそしないが、憐憫の目を向けてくる。
「じゃんけん───ぽん!」
合図と共に、同時に手を出す。勝利を手にしたのは──

「や…やったあああぁあぁあぁぁぁあぁ!」
握りしめた拳を天に突き上げ、カラ松くんが声を張り上げた。静かな川沿いの小道に叫び声がこだまする。
「あーあ、残念、負けちゃった」
私はひょいっと肩を竦めて降参のポーズを取る。
「ユーリっ、約束だぞ!言質は取ってるんだ、今さらナシとかは聞けないからな!」
アルコールのせいだけでなく上気した頬でまくし立ててくるから、私はつい笑ってしまった。
最後まで演じきればいいものを、仮面が剥がれて素顔が剥き出しになる。演者としての素質は相応に持ち合わせているにも関わらず、カラ松くんは隠すことを良しとしない。否、隠そうという意思はあっても、感情の昂ぶりが仮面を破壊するといった方が正しいか。
「…今さらだけど、これどっちが勝ってもカラ松くんにメリットある結果は同じだよね?
私が勝負を受けた時点で、彼が利益を享受する未来は約束されていた。ゴールを見据えた上で策略を練るほどの狡猾さがカラ松くんにあるとは思えないが、結果的に彼の思惑通りに事は進んでいる。

「オイラは知らねぇぞ、ユーリちゃん」
チビ太さんが、呆れたように言った。




翌朝、私は松野家の玄関前に立っていた。
もう幾度となく押した呼び鈴を鳴らして応答を待つ。
「はいはーい」
出迎えてくれるのは、てっきりおばさんか六つ子の誰かだと思っていたから、松造おじさんが引き戸を開けた時は、思わず目を剥いてしまった。
恰幅の良い体にシャツとセーターを重ねた服装と、髪を後ろに撫で付けた姿は、THEお父さん。さらにサンダルを足に引っ掛けたラフな出で立ちで、相手に警戒心を抱かせない。しかし柔和な見た目に騙されてはいけない。彼のフットワークの軽さと思い切りの良さは、束になった六つ子に匹敵する。
「おや、ユーリちゃんじゃないか。今日も変わらず綺麗だね、昔の母さんに匹敵する美貌だ
褒めるついでに惚気けてきた。
「こんにちは、おじさん。カラ松くんと約束してるので、呼んでもらえますか?」
営業スマイルで微笑めば、おじさんは僅かに目を瞠った。
「え…わざわざカラ松を迎えに来たの?正気?あいつにそんな価値ある?
「息子に対しての期待値低すぎる」
あ、うっかり口が滑った。
「親の俺が言うのも何だけど、考え直した方がよくない?」
「せめて私の発言は否定してあげてください」
「否定する要素ないんだもん」
二の句が継げない。確かに客観的に見れば、彼の意見には同意せざるを得ない。それにしても、もんって言うな、もんって、女子か

「麗しのマイハニーがオレを攫いに馳せ参じるとは…いいだろう、その愛らしいスマイルに免じてこの身は委ねようじゃないか、ハッハー!」
不承不承次男を呼びに行ったおじさんと入れ替わるように、カラ松くんが現れる。出だしからいい感じに鬱陶しい。上機嫌らしいことはよく分かった。
昼前起床がデフォにも関わらず、しっかりデート服を着込んで万全の体制だ。私の到着を待ちわびていたのかと思うと、たぎる
「他のみんなは?」
「まだ寝てる。あと一時間は起きてこないだろう、明け方まで枕投げをしていたからな」
修学旅行生か。
「なら、カラ松くんも眠いんじゃない?大丈夫?」
「ノープロブレムさ、ハニー。何せハニーに会える前夜は一睡もできないこともあるんだぜ
それは問題だ。胸を張るな。
「…でも」
カラ松くんは穏やかに笑みを作って、私を見る。

「ユーリに迎えに来てもらえるのは新鮮で…嬉しいな」

少し気恥ずかしそうに吐露される本心。
それは光栄、と私はおどけながら、腕を組んで大袈裟に溜息を溢してみせた。

「甘やかすなら、まずはお迎えから、ってね。
今日はエスコートさせていただく立場だから、デートプランってヤツもちゃんと考えてきたんだよ」
「…デートプラン?」
「寝不足ならちょうど良かったかも。今日のテーマは『カラ松くんとまったり過ごす』なんだよ」
「わおわおわお、マーベラスだぜハニー!」
双眸を輝かせ、大仰な身振りで感動を体現するカラ松くん。照れ隠しの要素も多分に含まれているから、私は微笑で応じる。
「そっか…うん…デートプラン……デート、か」
呟きながら顔を伏せた際に露出する首筋が、心なしか赤い。え、最高にエッチでは?




複数の複合施設の中にある広大な芝生のオープンスペースが、今回の目的地だ。
木々によるトンネルで彩られる並木道や、四季折々の花が植えられた花壇といった、様々な自然が溢れた癒やしスポットの中の一角として、それはあった。
視界を遮るものが少ない広々とした芝生には、直に寝転がって惰眠を貪る者、キャッチボールやフリスビーといったスポーツに興じる者、シートを敷いてピクニックを楽しむ者と、連日多くの人で賑わう。東京のど真ん中という好立地で入場無料というのも有り難い。

季節は冬真っ只中とはいえ、風がなく気温も比較的高め。ダウンコートを着れば屋外でも十分過ごせることを見越して選択したデートスポットだ。
幸いにも功を奏し、私は機嫌よく大人二人が十分横になれる広さのレジャーシートを芝生の上に敷いた。
「ちょっと寒いけど、風がないから気持ちいいね」
横になると、視界いっぱいに青空が広がる。
「本当だ。こんな場所があったんだな。こういうリア充のメイン拠点みたいな所には縁がないし、極力寄らないようにしてきたからなぁ」
何という卑屈の極み。
「私は、カラ松くんも結構リア充寄りだと思うけどね」
「オレが?」
「そうだよ。平日はともかく、土日は充実してるでしょ?」
こうして毎週のように私と共に過ごし、楽しいと感想を抱く時間を過ごしている。
何も、大勢で集って騒ぎ立てるだけがリア充ではない。現実世界で趣味活動や人間関係を楽しんでいれば、立派なリア充だ。
私の指摘を受けて、カラ松くんはしばし唖然としたように口を開けていたが、やがて口角を上げる。
「…そうだった。
ユーリは、オレにはもったいないくらいの時間を提供してくれる。当たり前とは思ってなかったが、リア充カテゴリ所属は考えたことなかった」
ゆっくりと目を細めて。

「オレの前からユーリがいなくなるのは、もう考えられないな」

一瞬の沈黙の後、カラ松くんは己の発言が相手に与える影響に思い至り、火がついたように顔を赤くする。
「な、何しろオレはハニーの推しだからな!ハニーの忙しない日々に潤いを与える存在は必須…いいだろう、この松野カラ松、その役目引き受けた!」
片手を胸に当て、もう片方を広げてみせる。演劇で、王女への愛を切に訴える王子のように。
言いたいことは一通りあるが、今日は控えておこう。


「今日一日は、レンタル彼女みたいなことをすればいい?」
ひとまず目的と手段を確認しておく。認識違いがあってはいけないからだ。
「違う。レンタル彼女は仕事だ。できればユーリには自発的にしてほしい」
どういう意味だ。
「主導権は負けた方にある。その主導権でもって、勝者の充足に貢献するんだ」
なるほど、と私は腕組みをして頷く。
「甘やかすってことだもんね。甘やかす側は、どうすれば相手が喜ぶか考えて実行に移し、喜んでもらえば成功…と」
彼の言い回しはひどく湾曲しているが、おおよそは理解した。
「イグザクトリー、さすがはユーリだ」
カラ松くんは軽快に指を鳴らす。
「つまり…攻めか受けかってことだよね?
「違う」
「攻めは譲れないから、助かる」
「何の話だ」
「その界隈において、解釈違いは戦争の火種になるから。不用意な発言は気をつけて」
「どの界隈」

チビ太さんの屋台で勝負を仕掛けてきた理由は、分かっていた。

──松野カラ松は、愛してほしいのだ。




オープンスペースにやって来たのが、既に正午近い時間帯だった。
到着した頃から、そこかしこで弁当や複合施設内でテイクアウトしたフードを広げる姿が見受けられた。
「もうランチの時間か。オレたちも何か買いに行くか?」
腕時計で時刻を確認したカラ松くんが、腰を上げようとするから、私は首を横に振ってそれを制する。
「実はお弁当を作ってきました」
じゃじゃーん、と少し古めかしい効果音を口にしながら、クラフト紙のランチボックスを二つリュックから取り出した。中にはぎっしりとサンドイッチが敷き詰められている。
「おおっ、ハニーの手作り弁当…!」
「サンドイッチだけだから、凝ったものじゃないけどね」
それでも卵サンドやハムときゅうり、エビカツサンドと、複数の種類を用意した。昨日の今日だから、エビカツも惣菜だし、パンもサンドイッチ用にカットされたものを使ったが、突貫で準備したにしては見た目もボリュームも申し分ない。
ランチボックスを受け取ったカラ松くんは、顔を綻ばせてサンドイッチをじっと見る。
「ユーリの手料理を食べられるだけでも十分すぎるな」
「温かいコーヒーもある」
「最高では?」
真顔で称賛される。
水筒から使い捨ての紙コップにコーヒーを注ぐと、白い湯気が立ち上った。カラ松くんは私から手渡されたそれを口に含んで、んー、と満足げな声を上げる。寒空の下で飲むコーヒーは格別だ。

「はい」
私はサンドイッチを一つ取って、カラ松くんの口元へ運ぶ。
「へ?」
「甘やかすんでしょ?」
「…そ、それはそうなんだが、しかしユーリ…ここは人目があるぞ」
「私は気にしないよ」
何を今さら、と私は内心で呆れ返る。公衆の面前で芝居がかった仕草と共に己の魅力を怒涛のように語ることに定評のある男が、食事を食べさせてもらう程度で恥じらうとは。そして何より、私が彼の口に食事を放り込むのはこれが初めてでもない。
本当に何を今さら、である。
「ほら、あーん」
再度催促してサンドイッチを向けると、カラ松くんは観念したように伏せていた目線を上げて、サンドイッチをかじった。
「…旨い」
「コーヒーに合うよね」
我ながら最高の組み合わせだと思う。
コーヒーで喉を潤してから、私は手にしていた残りのサンドイッチを頬張った。
「あ」
カラ松くんが唖然とする。
「あー、お腹へってたからつい…下品な食べ方だったね、ごめんごめん」
「いや…ユーリがいいなら、オレは全く構わないが」
赤いままの顔で、カラ松くんは所在なげに首筋に手を当てた。
彼はもう抵抗しなかった。私が口元に運ぶタイミングで、サンドイッチを咀嚼していく。
ほんの僅かな間、二人の間に穏やかな沈黙が漂った。私たちの傍らでサッカーボールが跳ねて、小さな子どもが駆け足で追いかける。軽やかな笑い声が、風に乗って耳に届く。
やがてカラ松くんは長い息を吐き出し、天を仰いだ。

「青空の下でユーリの手作り料理を食べながら二人で過ごす…贅沢な時間だな」

それを受けて、私はにこりと微笑んだ。
「実は、この後には昼寝タイムを設けてるんだよね」
「非の打ち所がない」
「どうもありがとう」

意図的ではなかったけれど、結果的に寝不足のカラ松くんにうってつけのデートプランになったらしい。

昼食で腹を満たした後、レジャーシートの上で横になる。大きめのシートを持ってきたのは、何を隠そうこれが目的だ。
寒さは感じるが刺すような冷え込みまでには至らない体感温度と、程よく差し込む日差し。他者が奏でる耳障りのいい雑音は、子守唄のようにも感じられた。昼寝にはおあつらえ向きな環境下で次第に言葉数が減り、いつしか会話が途切れる。夢と現との境目は曖昧になり、何の脈絡もない単語が脳裏に浮かんでは消えるのを繰り返す。
眠気を自覚した頃にはもう瞼は上がらなくなっていて、心地よい誘惑に私は意識を手離した。




ひどく支離滅裂な夢を見た。夢というのは往々にして一貫性のないものだけれど、目が覚めたときに、思い通りにいかない歯がゆさを感じたことだけ覚えていた。
目に映る景色がやたら眩しくて、瞼を持ち上げるまでに時間を要する。横を見やれば、私の方に顔を向けて眠るカラ松くんの姿があった。どちらが先に落ちたのだろうかなんて、どうでもいいことを考える。
「カラ松くん?」
呼びかけに応じる声はない。
私は上体を起こして、指先で彼の頬を軽く突く。反応はなく、熟睡している。
「素直じゃないよね、カラ松くんも」
今回の罰ゲームと称した要求はストレートに見えて、その裏には言葉にされない彼の本心が隠されている。
「まぁ、そういうとこも最高に推せるんだけど」
指で持ち上げた黒髪が、隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。落ちた髪が彼の額をくすぐるけれど、カラ松くんは起きる気配もない。
前髪を手のひらで掻き上げて、剥き出しになった肌に自分の額を当てる。遠目からは、上体を屈めた私が彼にキスをしているように見えるかもしれない。

いつだったか、自分に誓った。
カラ松くんの持つコップに水がなくなったら、いち早く気付いて溢れるくらい注ごう、と。喉の渇きを訴えるのがとても下手な人だから。

「期待には応えられたかな?」
体を起こして自分の髪を整えたら、シートの上に置いていた手に何かが触れる。寝返りを打ったカラ松くんの左手が私の手を掴んでいた。寝ぼけているらしく、容易く振りほどけるくらいに弱々しい力だ。
私は少しだけ微笑んで、されるがままにしておく。


カラ松くんが意識を取り戻したのは、それから半時間を過ぎた頃のことだ。私が眠っていた時間を含めると、一時間ほど昼寝をしていた計算になる。
彼は薄く目を開くなり、私に重ねる自分の手を視認して目を見開いた。
「っ…は、ハニー…ッ!?」
「よく眠れた?」
飛び起きた彼の髪には、シートで押し潰されていた箇所に癖がついている。手ぐしで軽く整えてやると、カラ松くんはくすぐったそうに肩を竦めた。
「すまん…寝落ちした」
「それを見越してのプランだから。ここまで来るのにいい感じに体力使って、お昼食べて、温かな日差しの下でごろ寝。寝不足じゃなかった私も、いつの間にか居眠りしてたよ」
「フッ、ハニーの仕掛けたスイートな罠にまんまとかかってしまったか…これぞまさにハニートラップ
やかましいわ。
それが言いたいだけか、この野郎。私が脳内で素早いツッコミを入れた直後、彼はぽつりと溢す。
「いい夢を見たんだ」
「へえ、いいね。どんな夢?」
深い意味のない問いだったにも関わらず、カラ松くんは私を一瞥してから、なぜか気恥ずかしそうに目を伏せた。

「…秘密」

その可愛らしすぎる反応に、変な声が出そうになったどちゃシコ。




ひとしきりシートの上で談笑した後は、肌寒くなる前に複合施設内にあるショッピングモールを見て回った。興味を惹かれる展示があれば店内を覗き、話のネタにある物があれば立ち止まって議論する。目的も意味もない、ただ時間を潰すためのウィンドウショッピング。
否、目的も意味もないというのは乱暴な表現かもしれない。少なくとも私にとっては、彼と共に充実した時間を過ごすことにこそ意義がある。内容や行為は二の次だ。

日が沈み、東京の街に街灯が灯る時間帯、私たちは松野家へと続く道を歩く。甘やかしは迎えに始まって、送りによって終わる。定番をひっくり返すだけでも、彼が言うところのいい刺激ではあった。
カラ松くんは主導権を自ら譲渡したにも関わらず、いつもとは勝手の違う展開に居心地が悪そうな戸惑いを見せてくるから、吹き出しそうになるのを堪えるのに苦労した。

「終了予定時刻に松野家到着しました」
私の正面には松野家の玄関。カラ松くんに向き直って、罰ゲーム完遂を告げる。当初の目的である『カラ松くんとまったり過ごす』は無事達成されたと言っていいだろう。
「ああ、もう家か…」
「カラ松くんを無事に送り届けるまでが、私の今日の任務だよ」
「そうか…そうだな、オレが言い出したことだったもんな」
歯切れが悪い。
「うん。それでね」
前置きをして、私は彼に気付かれないよう息を整える。
「最後に───はい」
そう言って、両手を広げた。

「甘えるの定番、ぎゅってしようか」

照れくささが皆無だったわけではない。自分で言っておいて、僅かだが後悔はチラついた。他者の目がない二人きりの場ならいざしらず、松野家の前だ。
カラ松くんはまさか私の口から抱擁を求める言葉が紡がれるとは思っていなかったのだろう、しばし意味が理解できないとばかりに呆然と立ち尽くしていた。
「ぎゅっ!?こ、ここで!?」
「しない?」
「する!」
即答か。鼻息が荒い。

躊躇いがちにカラ松くんの腕が伸ばされる。受け止める私もぎこちない動きになった。
カラ松くんの腕が私の背中に触れて、私はぶら下がるみたいに彼の首に後ろに両手を回す。互いに肩口に顔を埋める格好になった。
抱きしめることを宣言した上での抱擁は、そう言えば初めてではないだろうか。強引に奪われたり、互いに感極まって寄り添うことはあれど、そこには必ず前提や理由があった。口実つけて触れ合うのだ。危機回避のためであったり、慰めであったり、これこれこうだから仕方ないよね、と理由をつけなければいけない。
「今日だけ特別」
「分かってる」
「でも、カラ松くんにしかしないよ」
「オレもだ」
間髪入れず返事があって、何だか笑えた。肩を揺すって笑い声を溢したら、抱きしめる力が少し強まる。
カラ松くんの匂いがする。皮膚と汗と柔軟剤の匂いが混じった、私に安心を与えてくれる好ましい匂いが。
「もういい?」
「…まだ」
その返事から数秒経った後に。
「──もう少しだけ」
懇願するように耳元で囁かれる。耳元での甘いウィスパーボイスは全力で腰を砕いてくるイケボは人を殺す。

温かな抱擁に身を任せていたら、不意にアスファルトをカツカツと踏み鳴らすヒール音が右耳を抜けた。音は徐々に大きくなり、私たちに近づいている。我に返った私の額を冷や汗が伝った。
「か、カラ松くん、そろそろ…」
他人だけならまだしも、玄関が突然開くかもしれない、二階の窓から誰かが顔を覗かせるかもしれない、外出先から六つ子が帰宅するかもしれない。いつ発生してもおかしくない様々な危険要素が頭をもたげる。
「俺は構わない」
肩に顔を埋めたまま彼は答える。
さすがに私が構う、すまない。

「いい加減離れないと尻揉むよ」

手の位置を変えるべく腕を持ち上げたら、カラ松くんは忍者の如き俊敏さで私から離れる何でや、そこは一回くらい揉まれろ。


「ユーリ…ありがとう」
体を離した後、カラ松くんは小声で言った。包み込む温もりを失ったせいか、上着を着込んでいるのにひんやりとする。
「楽しかった?まぁ、じゃんけんで負けちゃったからね」
これは罰ゲームなのだ。勝負を受けた手前、罰ゲームから逃亡するのは女が廃る。とは言うものの、さすがに言い訳がましいなと自分でも思う。
「…わざと、なんだろ?」
「何が?」
不自然な間があって、カラ松くんが脈絡のない問いを投げてくる。私は彼から視線を外し、首を傾げた。
「あの時、ユーリは──」

しかし言いかけた言葉は、それ以上紡がれることなく。嬉しそうに微笑みながら、明言を避ける。曖昧に、有耶無耶にして。

「だから──ありがとう」



さぁ、種明かしをしよう。

勝負を持ちかけられたあの時、私は意図的に負ける手を出した。
じゃんけんの勝敗は、実は一切合切が運任せではない。人同士によるゲームは、個々の癖や心理が必ず作用する。
例えば、突然じゃんけんを仕掛けられた場合、人はグーを出す確率が高い。グーは拳を意味するなど強いイメージがあり、咄嗟に出しやすい手だからだ。ただし、私たちがやったように「最初はグー」を用いた場合は、上記の限りではない。むしろチョキかパーを出す確率に軍配が上がる。
また、出す手を熟考すると、グー以外の頻出率が上がると言われている。その時こちらはチョキを出せばいい。
たかだかじゃんけん一つでも、勝率を上げる法則は存在する。

カラ松くんは私を策に嵌めたつもりだったのかもしれないが、お生憎様──全ては、私の手の内だったのだ。

前述したように、私たちが互いに触れ合うには、その行為を正当化するための理由付けがいる。口実とやらを用意して、正当性を主張する。実に面倒な関係だ。
面倒で、厄介で、でも少しだけ───愛しい。


コップの水は、一杯になった?