月並みな表現だが、ユーリの笑顔は咲き誇る花のようだった。
ハツラツとして華やかで、いつも意識が奪われて。その笑顔を間近で見られることが嬉しかった。カラ松にしか向けない特別な表情をいつまでも見ていたいと、そう思っていた。
どことなく覇気がない。その日ユーリの顔を見たカラ松が最初に抱いた印象が、それだった。機嫌が悪いのか、元気がないのか、体調が優れないのか。いずれにせよマイナスの印象が感じ取れる雰囲気を纏う。
正確を期すなら無表情に近い顔つきだったのだけれど、普段カラ松に会うなり朗らかな笑みを浮かべてくれるユーリを見慣れているから、想定外の表情に出くわして咄嗟にそう感じたと説明するのが正しいだろう。
松野家へと向かう道中、居心地の悪い沈黙が二人を包んだ。なのにユーリは平常時のように取り留めもない会話を交わそうとしてくるから、堪りかねたカラ松が意を決して尋ねる。
「どうしたんだ、ユーリ。何か嫌なことでもあったのか?」
「あ…うん」
肯定の返事までに僅かな間があった。告白するか否かを計りかねているような、戸惑いを覗かせて。
「やっぱり…分かっちゃうよね」
自嘲気味な声だった。けれど顔からは逡巡の色は窺えない。ユーリは立ち止まり、カラ松と向かい合う。
「実は───」
「表情が作れなくなった…」
ユーリから聞かされた言葉を呆然と反芻するのは、末弟のトド松だ。松野家二階の自室で暇を持て余していた六つ子は、揃って言葉を失った。言葉だけ聞くとひどく非現実的で、反応に困る笑えない冗談のようにも思われた。しかし口にしたその相手が、すぐに論破されるような些末な嘘を付く人間ではないことを、カラ松をはじめとする全員が理解している。
背筋を正してソファに座るユーリは、こくりと頷いた。その顔からはどんな感情も読み取れない。
「今朝起きたら突然。疲れからくる一時的なものかと思って様子を見てたんだけど、午後になっても少しも良くならなくてさ」
時は土曜の午後。かかつけの病院は診療時間外で、受診するなら基本的には週明けになる。急病診療所という手もあるが、今すぐに診察が必要なほど差し迫った病状でもないとユーリは言う。
「体調はどうなの?理由もなく不安とか、動悸がするとか」
チョロ松の問いには、首を横に振る。
「体調面も精神面も、いつも通りだと思う。ストレスもさほどないし、大きな心配事だってない…はず」
「でもユーリちゃんの表情筋が仕事してないんでしょ?大問題だよ、それ」
十四松が例によって軽いトーンで口にするが、眉間には皺が寄っている。彼なりに、深刻な事態と認識しているらしい。
「まるで一松じゃん」
床であぐらをかくおそ松が、しれっと一松をこき下ろした。
「待って、聞き捨てならない。おれの表情筋は弱々しいながらも一応生きてるから」
「俺は一松みをビシビシ感じるよ?」
「何でだよ!」
悪気なく喧嘩を売るスタイルの長男に、今にも噛みつきそうな四男。まあまあと仲裁に入ったのはユーリだった。
黒目と口だけがかろうじて形を変えるだけで、眉一つぴくりとも動かさない。
「一松くんは表情あるよね。表現するのがちょっと苦手なだけで」
「ユーリちゃん…っ」
一松は感涙して顔の前で両手を組んだ。
「しかし、表情が作れないというのは不便じゃないか?
ハニーの顔はもちろんそのままでも最高にキュートなんだが、サンフワラーのようなスマイルも魅力を際立たせる要素の一つだろう?」
ユーリの傍らで足を組み、少々大仰な身振りでそう言ったカラ松を、ユーリは無言のまま見つめてくる。胸の内に秘める感情が、まるで伝わってこない。
「え、どういう感情?」
「いつものカラ松くんだな、と思って」
「ディスってる?」
「ディスってない」
即座に否定してからユーリは顎に手を当て、なるほど、と呟いた。
「…伝わらない、か」
顔の筋肉が動かないだけだと、ユーリは言う。体調は決して悪くないのだとも。あっけらかんと言い放たれるから、彼女の表情も相まって何だか大したことでないようにも感じてくる。
十四松が犬になってしまった時にも似た、自分たちには不都合がないとでも言うような、根拠のない安堵感。
「それでもオレは心配だ、ユーリ。もし週が明けても戻らなければ、必ず病院へ行くんだぞ。オレもついて行くから。いいな?」
「うん、そうする。でも今のところ生活には支障ないんだよね。一時的なものだといいんだけど」
「ねぇ、ユーリちゃん」
トド松がユーリの足元に寄ってくる。
「一回無理矢理でいいから笑えないか試してみてよ。こうやって、口持ち上げるだけでいいからさ」
自分の唇の両端に人差し指を当て、力でもって強引に引き上げる。不自然な笑みの形が末弟の顔に広がった。
「分かった、ちょっとやってみるね───んっ」
小さく深呼吸して、ユーリはソファに置いた手で拳を作る。六人全員の視線がユーリの顔に集まり、固唾を飲んで見守る。
すぐ側にいるカラ松には、彼女が肩と手にこれでもかと力を込めているのが分かる。必死さだけは嫌というほどに伝わるってくる。なのに。
──どのパーツも、微塵も動かなかった。
「いったー!」
室内に甲高い声が響く。ハッとして声の上がった方へと目を向ければ、襖の角に小指をぶつけたらしいユーリが蹲って悶絶している。トイレに行くために一階へ下りていったのがつい数分前のことだ。
「ユーリ、だ、大丈夫か?」
カラ松は慌てて駆け寄った。
「ボーッとしてたら…やらかした」
ユーリが前方不注意は珍しい。それだけ注意力散漫になっている証拠なのだろう。
「うわー、悲惨。腫れてないか確認した方がいいよ。冷やすもの持ってこようか?」
「へ、平気。そんなに強く打ったわけじゃないから」
チョロ松の気遣いを、片手を上げて制する。俯くその顔には──何の感情も浮かんではいなかった。
ぞわりと寒気がするような違和感を覚える。足を押さえる左手の甲には筋が浮き、痛みに耐えているのが見て分かるのに、眉間に皺さえ寄っていないのだ。気の抜けた顔が、ただ床を見つめている。
「ねぇユーリちゃん、今はどんな気持ち?」
十四松が彼女の前に膝をつき、口元にマイクを突きつけるように服の袖を向けた。
「めちゃくちゃ痛い」
「無表情だから全く伝わってこないね。動きと声に顔が伴ってない」
「ひどく遺憾」
コントか。
痛いの痛いの飛んでいけと、十四松が腕を振ってユーリを慰める。本人は至って真剣で、それを知っているユーリはいつも笑って彼に応じていたけれど、表情のない今は、興味なさげに一瞥しているようにも感じられた。
「カラ松」
十四松とユーリのやり取りを尻目におそ松に呼ばれ、カラ松は顔だけそちらを向いた。おそ松はソファに片腕を預けて、床の上であぐらを掻いている。
「何だ」
「ちょっとこっち」
手首を前後に振って誘われる。
「大事な話だから」
ユーリの一大事に大事な話もくそもあるかと振り払いかけて、けれど素直に応じたのは、おそ松の声がいつになく真剣味を帯びていたからだ。それに彼はときどき、本当に稀にではあるが、打開策を講じる術を授けてくれることもある。
「両手上げて」
「は?」
「いいから。ほら、カラ松、ばんざい」
おそ松は言いながら、自分の両手を思いきり天井へ向けて伸ばす。同じようにしろ、ということらしい。
おそ松の意図がまるで掴めないながら、カラ松は戸惑いつつも指示に従って両手を天に向けた。
そして次の瞬間──
おそ松はカラ松の服の裾を掴み、インナーごとパーカーを剥ぎ取った。
神業と呼ぶに相応しいスピード感を伴った、一瞬の出来事。呆気に取られる兄弟と、真顔のユーリ。
「…え…は、え、何っ!?」
ヒーターがついているとはいえ、冬の室内で上半身裸は狂気の沙汰だ。脱がされる意味が分からないし、冗談にしては悪ふざけが過ぎる。
「おそ松!」
「…あー、こりゃ重症だな」
カラ松のパーカーを片手に持ったおそ松の視線は、ユーリに向いている。ユーリはというと、目はしっかりとカラ松の上半身を凝視しているのに、表情は相変わらず全くないままだった。
「ユーリちゃん」
「あ…ごめん、ご褒美すぎて見惚れてた」
おそ松の声掛けにそう反応はするものの、顔からは興味のきの字も感じられない。言葉と表情の激しい落差に、カラ松は戸惑う。
「え、嘘でしょ。ユーリちゃんの表情が無すぎて、呆れ果てた感さえあるんだけど」
目を剥いて驚くトド松の横で、おそ松は腕組みをして眉根を寄せた。
「カラ松の裸体に反応しないのは想定外だった。ショック療法で治るかと思ったのに」
「裸体って言うな!」
自分の名誉のために記述するが、当然下はちゃんと履いている。
「返せっ、寒い!」
声を荒げながらおそ松からパーカーを奪取し、長い溜息と共に手を通そうとしたら、ユーリから待ったがかかった。
「すぐ写真撮るから、ちょっとそのままキープで」
「撮るな!」
ユーリの症状に対する解決策は見出だせない。自分たちに専門的な知識が皆無な上に、スマホで検索をかけても不安感を煽るだけだ。事態は一種の膠着状態に陥った。
口上のみでああだこうだと議論を重ねても進展はない。ユーリには週が明けたら必ず病院に行くことを確約させ、カラ松は改めて同行の許可を得る。万一結果が悪くても、自分が彼女を守ろうと、そう心に誓って。
「いやいや、シャリの上にわさびのってた方が楽だろ!醤油つけたら食えるじゃんっ」
「それだと客サイドでわさびの量を調節できないから、こんな刺激が欲しかったわけじゃない感が勝って、楽しめないだろ」
「っていうか、寿司の中のわさびの量って職人の力加減だよね?絶対全世界共通の規格ってないよね?それがそもそもの戦争の火種」
「黄金比ってヤツ?でもその黄金比を覆してこそ一流と吠える輩もいるんですぜ、兄さん。彼らは常にぼくらの想像を超えたがる」
「こっちは高いお金払うんだからさ、もういっそコンシェルジュや専属のシェフついててもいいよねぇ。だって八人だよ八人、寿司取ったらパーティだわもう」
いつしかユーリの病状から話題が移り変わって、六つ子の部屋は各自の声で賑やかになる。
今はカラ松を覗いた六つ子が順番に、寿司のわさびはどこにあるべきかと持論を述べているところだ。途中からわさび関係ないし、トド松に至っては暴論だが。
「もう、そうやって理屈をこねくり回すなよ、お前ら。素材を味わうのが寿司の醍醐味だろ。そもそも滅多に食えるもんじゃないんだし」
「おい待てクソ長男、お前が議題に上げておいて諦観の構えって何なの、ふざけてんの?」
やれやれと肩を竦めるおそ松に対し、今にもその胸ぐらを掴み上げかねないチョロ松。
「カラ松くんは?」
「え、オレ?」
ユーリに意見を求められて、カラ松は目を瞠った。注文しないピザの話で白熱した過去が脳裏に蘇り、議論の生産性のなさにあの時同様面倒臭さが勝る。
「オレは…」
何でもいい、とピザの時は答えたのだったか。
「ユーリと一緒に食べられるなら、どっちでもいいな」
そこにユーリがいるなら。ユーリさえいてくれさえすれば、食すものなど何でも。
首を傾げて彼女に向けて微笑んだら、一松に頭を叩かれる。
「一人だけしれっとユーリちゃんの好感度上げようとしてんじゃねぇ!排他松がッ」
「お前らの時と違って、オレは本気で言ってる!」
「それが排他松だっつってんの!」
「というか」
寿司のネタは何がいいか、どんな順番で食べるのがオツか、やいのやいの騒ぎ立てる兄弟たちを尻目に、カラ松はソファの上で足を組み替える。
「今日のハニーはやけに静かだな」
「あ、うん」
いつもならカラ松が混じらずとも、参加者の一員として堂々と意見を述べているのに、今日に限ってはソファから動かず六つ子たちの会話に耳を傾ける役に徹している。
「表情のない私が入ると異物でしかないから、かな」
「あ…」
やはり彼女は自分の立ち位置を理解している。
「楽しそうに話す邪魔はしたくないし…でも、聞いてるだけで十分楽しいよ」
本心なのか虚勢なのか判別がつかない。けれどおそ松たちに聞かれない程度の音量に絞って語るのを見るに、少なくとも特別配慮されることはユーリ自身が望んでいないらしかった。自分はあくまでも異物で、取り巻く世界は日常通りに進行すべきである、と。
カラ松は胸がざわつくのを感じた。
喉に刺さった小骨が、いつまで経っても取れない。
ユーリの症状は、翌日になっても改善しなかった。
「子どもかってくらいの時間に寝てめちゃくちゃ睡眠時間取ったんだけど、駄目だったよ。でも体調はすこぶるいい」
両腕で力こぶを作る仕草をしながら、軽い口調でユーリは言った。昨日に続き、表情は堅い。
自分たちが休日に二日続けて会うのは珍しいことだ。それだけカラ松はユーリの身を案じていたし、ユーリもまたカラ松の誘いに逡巡さえしなかったら、つまりはそういうことなのだろう。
赤塚区にあるカフェで、ユーリが飲みたがっていた新作のカフェモカをテイクアウトで購入する。一杯ワンコインを超える金額で躊躇していたら、ユーリから割り勘を提案されたので有り難く誘いを受け、購入担当を買って出たのだ。
「すまんハニー、歩きながら飲むのでもいいか?」
「寒いからちょうどいいね」
本当は店内で飲む心積もりだったのだが、昼過ぎという時間帯もあり、あいにく座席は全て埋まっていた。
カラ松からカップを受け取って、ユーリは数回息を吹きかけた後に飲み口に口をつける。
「美味しい!」
弾む声。ちょうど他のものに視線を投げていたカラ松には、その声を聞いてごくごく自然に、笑うユーリを脳裏に思い浮かべた。ハッとしてユーリに目を戻せば、無感情にカフェモカを飲む彼女が現実にいる。
「はい」
「え…」
「え、じゃないよ。カラ松くんも飲むでしょ?」
「あ、ああ」
心ここにあらずといった腑抜けた返事になってしまったが、手渡されたカフェモカを飲む。チョコレートソースの甘さとエスプレッソのビターな苦味が重なった絶妙な味わいが、口の中に広がる。
「旨い!」
カラ松は思わず口角を上げた。
「甘すぎず苦すぎず、しかも甘ったるさが残らず飲みやすい…デリシャス…っ」
人気店なのも頷ける。カフェモカやフローズンドリンクの類は、小洒落ているだけのアクセサリー感覚のドリンクと侮っていた。反省して認識を改める必要がありそうだ。
「…ユーリ?どうした?」
カップに口をつけた時から、ユーリはじっとカラ松の顔を見つめていた。
「やっぱり、表情って大事だね」
改めて思い知らされた、そんな感慨深さを含んだ声音だった。
「カラ松くんのすごく美味しいって気持ち、こっちまで伝わってきた」
けれどそれは、湧き上がった感情を表情にのせて表現しているから。
「カラ松くんが並んでる間、入り口のガラスドアに映った私を見たの。つまらなさそうな顔して、ボーッと立ってた」
当人にそんなつもりは微塵もなくとも、客観的にはどうしてもそう見えてしまう。喜怒哀楽を顔に出すのが普通とされる世の中だから、枠から外れたマイノリティーは異端者として忌避される。
「虚しいよね。事情を知らない人から見れば、何て人間味のない奴なんだって思われちゃう」
「ユーリ…」
「どんなに美辞麗句を並べて言葉を尽くしても、表情が伴ってこその言葉なんだね」
今までの当たり前を失って、それがどれほど価値のあるものだったかを痛感させられる経験は、人は誰だって一度は体験することだ。体調を崩して寝込んだ時に、平常時の体の軽さが実はかけがえのないものだったと知るように。
伝わらなければ、ないのと同じ。
あははと誤魔化すような乾いた笑い声が宙に消え、焦点の定まらない虚ろな目が地面に落ちた。
壁一面がガラス張りのショーウィンドウ。すぐ側をカラ松とユーリが並んで歩く。
いつもなら、真っ直ぐに前を見つめるユーリの力強さに目が離せなくなって、より一層心惹かれて、傍らを許された自分を誇らしいと思った。自分だけに向けられる彼女の微笑みが、たまらなく嬉しかった。カラ松にとってユーリは、光そのものだったから。
眩いばかりの明るさで照らしてくれた灯火が、息を吹けば消えてしまいそうなほどに今は弱々しい。
不意に、カラ松の横を若い女性の二人組が通り過ぎる。相好を崩して笑い声を上げる彼女たちが、カラ松の目にはきらきらと輝いて見えた。
ユーリも、あちら側の人間だったのだ。カラ松には眩しすぎる世界に生きる人。なのに欠片ほども気負わずに、自然なことだと言わんばかりに、カラ松に手を引いてくれた。
どんな言葉をかければ、ユーリの心を軽くすることができるだろう。僅かでいいから、彼女にとっての救いでありたい。
ショーウィンドウに、ユーリが唇を引き結んで彼女たちの後ろ姿を目で追いかけているのが映って、どうしようもなく息苦しくなった。
吹き付ける風は──冷たい。
夕刻、人気のない公園のベンチにユーリは腰掛けている。
先程までは子どもたちが騒々しく駆け回っていたが、時計台が五時を示す頃には、雲隠れするみたいに一斉にいなくなってしまった。
「チビ太、準備にもう少しかかるらしい。終わったら呼びに来るって」
人気のある場所を避けたかった。けれど重苦しい空気を程よく撹拌する存在は必要だったから、チビ太の屋台を選んだ。彼は時の場合に応じて、自分たちへの関わり方を変えてくれる。
「ただ、味が決まらないとかで頭を抱えてる」
「じゃあ時間かかるかもね。まぁ、まだ五時過ぎだし気長に待とうか」
「寒くないか?どこか室内でもいいんだぞ」
カラ松が訊けば、ユーリはゆるゆると首を振る。
「今は静かな場所の方が落ち着くから」
「…そうか。すまん、そうだよな。オレはユーリがいいなら、どこでもいい」
ユーリの心情を推測はできても、必ずしも正しいとは限らない。日常的に間違っていることもあるし、彼女の中でも様々な想いは刻一刻と変化しているだろうし、一軍並みの洞察力はおそらく永久に手に入らないだろう。
だからせめて、自分はいつでもユーリに寄り添いたいと願っていることだけは、知っていてほしい。
「ふふ、謝らなくていいのに」
ユーリは肩を揺らす。声だけ聞けば、確かに笑っている。
「…私、ずっとこのままなのかなぁ」
ぽつりと溢された一言。
不安の吐露なのか深い意味のない呟きなのか、声音では判断がつかない。きっと治るさと慰めるのは容易いが、それはあまりにも無責任だ。
「もし、もし万が一治らなかったら…」
そんなことは決してないと言い切りたい気持ちを押し込めて。
「その時はオレがユーリの顔になる」
ユーリの唇が僅かに開いた。ただそれだけの変化だったが、驚いているらしいのは分かった。
「顔に出ない分、言外の感情を頑張って察するし、誰かに何か伝えたいことがあればオレが代わりに伝える。
もちろん治る前提だが、ハニーのハンディキャップはオレが補うから、どうか…悲観しないでくれ」
数秒の間、二人の間に静寂が流れた。カラスの鳴き声がどこからともなく聞こえたのを皮切りに、ユーリが沈黙を破る。
「──ありがとう」
どんな感情が込められているのかまるで読めない。どうしても、掴めなかった。この体たらくではユーリの助けになんて到底なれない。
このままだときっと大切なことを見逃して、傷つけてしまうのが目に見えている。本当にギリギリになるまで、助けてとは言ってくれないから。その時に見誤らない自信がない。
笑うユーリを見るのが好きだった。
ころころと変わる表情が、とても可愛くて。
カラ松の頬を、一筋の涙が伝った。
「どうして泣いているの?」
目尻から頬を流れる冷たさに気付くのと、ユーリが問いを投げるのがほぼ同時だった。
「…ユーリが泣かないからだ」
「私が…」
ぽとりと、雫が一滴カラ松の足元に落ちる。
ユーリはカラ松の涙を追いかけるように目線を落として、そっか、と声を出した。
「実はこれでも、結構不安にはなってるんだよ。さすがに二日目だし、改善する様子も全然ないし」
「ユーリ…」
「でも、涙が出ないの。目頭が熱くならない。涙を出す器官も壊れちゃったかもしれなくて、これ一見便利なようで、結構困るんだよね」
真剣みに欠ける表情で紡がれる言葉たちは、おそらく彼女の本心だ。深刻にならないようオブラートには包んでいるが、世間では強がりと呼ぶものに他ならない。こういう時さえ、ユーリは弱みを見せない。
「全部、夢だったらいいのに…」
「ユーリ」
カラ松はユーリの両手を取った。白くしなやかな指は先端までひどく冷えていて、外気から隠すように包み込む。
「すまん…ユーリを支えると誓ったのに、オレはやっぱり元に戻って欲しい」
「うん」
「オレに向けていつもみたいに笑ってほしい。戻らないなんて…そんなの嫌だ」
カラ松が弱音を吐けば吐くほどユーリを困らせる、そんなことは火を見るより明らかだ。
しかし虚勢を張ってその場限りの嘘をつけば、遠くない未来に必ず破綻する。
「馬鹿言うなと叱ってくれていい。一番不安なのは自分なんだ、って」
視界が滲む。輪郭が曖昧になる視界の中で、ユーリは肩を竦めた。
「…そっか、ここは怒っていいとこか」
言われてようやく気付いた、そう言いたげだ。
「代われるなら、今すぐにだってオレが代わる」
これは嘘偽りない本心だ。ユーリが抱える苦しみも悲しみも、カラ松が代われるものならいつだって喜んで代わる。不遇な境遇には慣れている。ユーリが側にいてくれたこれまでが、カラ松には余りあるほどの幸せだったのだ。
なのにユーリは、すぐさまかぶりを振った。
「駄目だよ、カラ松くんは笑って」
どうして。
握りしめた白い手を見つめたまま、言葉にならない問いをカラ松は飲み込んだ。顔を上げられない。
頭に降り注ぐユーリの声音は、どこまでも優しかった。
「──ありがとう、代わりに泣いてくれて」
穏やかに微笑むユーリの姿が鮮やかに脳裏に浮かぶ。涙はもう出ていないが、目頭は熱い。上手く息が吸えない。
「カラ松くんがいてくれれば、きっと治るよ」
「ユーリが治るなら、オレは何でもする」
その覚悟がある。代償ならいくらでも支払うから、だからどうかと、声にならない祈りを信じてもいない神に捧げる。
「───った」
「…え」
ユーリの言葉が聞こえなくて、重い首を持ち上げる。その瞬間、カラ松の目に飛び込んできたのは──
「言質取った」
ニヤリとほくそ笑むユーリ。
「げんし…は、え……はぁッ!?」
映る光景を脳が処理するまでに時間を要する。正しく理解できずに、素っ頓狂な声が口を突いて出た。
「まずはご無沙汰の腹チラから」
「何が!?」
「何でもするって言ったよね?」
その言い草はまるで脅迫じゃないか。
いや、確かに言った、自分の意思でそう発言したのは認める。しかしにこにこと微笑んでいるユーリを前に、カラ松は頭が真っ白になる。
「推しの力って偉大だなぁ」
しみじみと噛みしめるように言いながらユーリはカラ松の手を払い、しれっと腰に手を回してくる。ユーリの黒曜石の瞳に、唖然とする自分が映った。そして腰に触れていた手は、静かに裾をたくし上げようとしてくるから、慌ててその手首を掴む。
「ままま、待て!ひょっとして、わざと…っ」
「さて」
「は、話が違うぞ、ハニー!オレはハニーが治るなら、って言ったんだ!」
「まだ本調子じゃないと思うんだよね」
「嘘つけ!」
違う意味で半泣きになるカラ松に、妖艶とも思える表情でユーリが顔を近づけてくる。
数秒の心理戦の後──二人は、笑った。額を突き合わせて、声の限り。涙が出ないのが不思議なくらい、息が切れるまで。
こんな応酬ができること自体、本当は幸せなことだった。
「また笑えなくなったら助けてくれる?」
ひとしきり笑ってから、不意に真剣な双眸をユーリが向けてくる。誰も乗っていないブランコが風にたなびいて、不快な金属音を鳴らした。
「…何でも、はしないからな」
顔をしかめて牽制するカラ松に、もちろん、とユーリは強く頷く。
でもきっと、何でもしてしまうのだろう。ユーリが望むなら、この身を差し出すことも厭わない。
「いいよ。カラ松くんが側にいてくれたら、それだけで」
膝の上で拳を作っていたカラ松の手に、ユーリは自分の片手を重ねた。先程までの冷たさはもう感じられない。
「…良かった。もう二度と笑ってくれないんじゃないかと思った」
「怖いこと言うね」
肩を揺らして小さく苦笑する。
「ユーリ、もう一回笑ってくれ」
懇願に等しい願いを、ユーリは容易く叶えてくれる。ああ、やはり、綺麗だ、とても。
屋台の準備ができたとチビ太が呼びに来たのは、それからすぐのことだった。