「ユーリからのチョコが欲しい」
バレンタインが半月後に迫ったある日、振り絞るように口にされたその台詞を皮切りに、例によって一騒動巻き起こることになるのだが、この時はまだ知る由もなかった。
女性が意中の男性に想いを込めたチョコを渡すのが定説のバレンタイン。
チョコと共に愛を告げるなんて行為は今や化石化したコンテンツで、友チョコの台頭によりかつてほどの特別感や希少性もないが、想い合う男女にとっては今なお特別なイベントの一つであることに変わりはない。
そして時期が近づけば、有名チョコブランドが新作及び限定品をこぞって発売し、催事場では大々的なセールを開催するから、街へ出れば否が応でも認識せざるを得ない状況へと追い込まれるのである。
だから、二月に入ってからカラ松くんがやけにそわそわしている理由も、早い段階で推測ができた。
「…カラ松くん?」
その日私たちは、ショッピングモールのフードコート前にいた。
時刻は正午をいくらか過ぎた頃。モール内を見て回る前に、昼食を取ろうとやって来たのだ。
「ん?…あ、ああ、すまん、ユーリ…ボーッとしてた」
「バレンタインフェア?」
カラ松くんが向けていた視線の先を見ると、催事場の華やかな装飾が目に飛び込んでくる。
柱にシート貼りされたピンク色を基調にしたイベントのPOP、ウェディングケーキを模したチョコの展示、色鮮やかだったり独創的だったりと趣向を凝らしたラッピングで埋め尽くされた陳列棚。活気に満ちた、目を引くディスプレイだ。
「レディたちが目の色を変えて向かっていくから、何かと思ったんだ」
「言われてみれば、そんな時期だね」
ラッピングされた箱を手に、陳列棚の前ではしゃぐ女性たち。その空間だけ、きらめく万華鏡のような輝きを放っている。
「こんなに華やかな展示なんだな」
しみじみと呟くカラ松くんに、私はくすりと笑った。
「初めて見たような言い方するね。どこも毎年こんなもんでしょ?」
「バレンタインなんて概念は存在しない集団自己防衛を徹底してきたオレたちが、バレンタインフェアをじっくり見たことあると思うか?」
馬鹿も休み休み言えとばかりに、嘲笑的な双眸が私を見つめる。なぜ私が窘められにゃならんのだ。
「オレたち六つ子にとってバレンタインは、黒歴史を更新する日でもあるんだぞ」
毎年何をやらかしてきたんだお前ら。そして漠然と予想がつくくらいには、悪魔と名高い六つ子と関係性を構築している自分が憎い。
「…何かごめん」
「分かったならいいんだ。以後気をつけてくれ」
フンッとカラ松くんは鼻を鳴らした。バレンタインは地雷だったらしい。
で、と声に出して私は話題を戻す。
「見ていく?」
「えっ、いいのか?」
「もちろん。私もちょうど見たいと思ってたんだ。お昼はもう少し後でもいいよね」
踵を返して、彼を先導するように催事場へと歩を進める。
天井に吊るされた垂れ幕が、各ブランドの展示位置を示していた。手が出しやすい安価なブランドもあれば、名の知れたハイブランドも立ち並び、チョコを求める女性たちは自分の希望に合うものを吟味する。
目がくらむような華美な装飾が、ショッピングモールの一角を異空間に変えた。そんな錯覚をしそうになる。
「カラ松くんは、どんなチョコが好き?」
「へっ!?」
ディスプレイを覗き込みながら訊けば、不自然なまでに素っ頓狂な声が上がった。
「お、オレか?」
「そうだよ。一言でチョコっていっても、色んな味とバリエーションがあるからさ」
最近は市販品のラッピングでも凝ったものが多い。店頭では味見ができない分、第一印象で候補入りさせる策の一環だろうか。
「オレは、その…ユーリの手作りなら何でもいい、かな」
気恥ずかしそうに指先で頬を掻き、明後日の方向を見ながらぽつりと溢される。
「そっかぁ、私はこの時期にしか販売されない限定品がいいな」
「は?」
「ん?」
「バレンタインの話だよな?」
「好きなチョコの話でしょ?」
噛み合わない。
カラ松くんは落胆の色を顔に浮かべ、大きな溜息をついた。
「…この時期にチョコと言えば、普通はバレンタインの話だと思うだろ。すれ違いコントか」
「女の子から男の子にチョコを渡す習慣は、日本と幾つかの国だけだよ。いわゆるお菓子業界の陰謀」
「それは詭弁じゃないか?ここは日本だぞ、ハニー」
まぁ確かに。
「それに、チョコが貰えれば陰謀でも策略でも何でもいい」
カラ松くんはすっと真顔に戻り、抑揚のない声で吐き捨てた。もうプライドもクソもない。バレンタインに固執しすぎている印象を受けるが、彼にとってその日にチョコを貰う行為は、暗黒大魔界クソ闇地獄カーストからの脱却となる一種のステータスなのだろう。
カラ松くんと共に展示を見て歩きながら、私は一つの箱を手に取った。
「これ買おうかな」
様々な色合いやデザインで彩られた小粒チョコの詰め合わせだ。パッケージも、手のひらに収まるサイズ感。
「…誰かにあげるのか?」
期待と不安と苛立ちと、様々な感情が入り混じった複雑な表情で、カラ松くんはチョコを一瞥する。
「ううん、これは私のおやつ用。コーヒーと合うんだよね」
「バレンタインに渡すのは?」
「一応買う予定」
頷くと、カラ松くんの眉がぴくりと揺れた。
「…誰にだ?」
「まだ決まってないけど、友達とか、かなぁ」
私は思案に耽る顔をして、うーんと低く唸ってみせた。
カラ松くんがどんな意図を持ち、いかなる回答を望んでいるかは火を見るより明らかだ。ここまであからさまで分からいでか!と脳内の私が叫ぶ。
「なら…ほ、本命は?」
自然で何気ない問いを装った核心。焦燥感の混じる上擦った声を聞きながら、私はひょいっと肩を竦めた。
「さぁ、どうだろうなぁ」
はぐらかすみたいな私の返事に、カラ松くんは何を思ったか憂いを帯びた表情を浮かべながら、手ぐしで前髪を掻き上げた。
「ドンビーシャイだ、ユーリ。
公衆の面前で言うのは憚られる乙女心というヤツだな、オーケーオーケー。そんなに照れなくていいんだぞ、オレはハニーのチョコならいつでもウェルカムだ!」
両手を大きく広げ、包容力を見せつける構え。いつにも増して大仰な台詞とポーズだ。
「別に恥ずかしがってないけど」
「え?」
「どうしても渡したいって言うなら受け取ってやらないでもない、っていう尊大な態度はどうなのかな。抱くを通り越して犯すよ?」
「ごめんなさい」
潔く非を認める姿勢は評価しよう。
しかしそれは同時に、断固として私に抱かれたくないという意思表示でもあるから、何とも釈然としない気持ちになる。童貞歴を更新し続けた先にあるのは、魔法使いへの片道切符だというのに。
「欲しいならそう言えばいいのに」
私はチョコの箱をひらひらと振ってみせた。すると──
「…欲しい、です」
目尻を赤く染め、躊躇いがちに絞り出される懇願。
「ユーリからのチョコが欲しい」
今度は力強く、真っ直ぐに私を見据えて。
嬉々としてチョコを選ぶ女性ばかりの空間の中で、まるで告白さながらの台詞を口にする成人男性が一人。とても異質で、けれど私にとっては誰よりも可愛い。
「しょうがないなぁ」
そこまで言うのなら、とわざとらしい不本意感を示しても、カラ松くんは機嫌を損ねるどころか、ぱぁっと顔を綻ばせる。
「やったー!」
それから両の拳を天に突き上げて、感嘆の声を上げた。突然の大声に仰天した他人の視線が集中するのも構わず、彼は私の手を取る。
「プロミスだぞ、ユーリ!やっぱり止めたはなし!チョコ、絶対だからな!」
「う、うん、分かった。約束する」
ここまで言われては今更発言を翻すこともできない──否、元より反故にするつもりなど毛頭ないけれど。
了承の印ににこりと微笑んだところで、はたと思い当たる。
「…あ、でも今年のバレンタインは平日だね」
「それが何…ああ、そうか、ハニーは仕事だったな」
仕事を終えてから松野家へ向かうとなると、定時上がりでも夕飯時になる。訪問には微妙な時間帯だと感じたのが顔に出ていたのだろう、カラ松くんは不安げに眉を下げる。
私が何か言うより先に、彼が口を開いた。
「それでも──」
掠れそうな声で。
「どうしても…当日にユーリから欲しいんだ」
その言葉を紡ぐのに、いかほどの勇気が必要だったかは想像に難くない。拳を作った手の甲には血管が浮き、声は今にも消え入りそうなほど不安定だった。そんな姿を間に当たりにして、誰かノーと言えるだろう。
「その…我ながら自分勝手だとは思うんだが」
「いいよ」
チョコのパッケージを口元に寄せて、私は笑う。
「ハニー…」
「バレンタインの当日、仕事終わったらチョコ渡しに行くね──約束」
私が小指を差し向けると、カラ松くんはすぐに意図を察して同じ指を出してくる。絡めて、指切りをした。
「ユーリちゃん、俺たちにチョコをください!」
バレンタイン当日、約束通り仕事終わりに松野家のドアを叩くなり、ニート五人のスライディング土下座で出迎えられた。脈絡のない唐突な修羅場、いきなり地獄絵図。
「えーと…」
「トト子ちゃんとの攻防は今年も惨敗を喫し、渾身のボディブローで追い出されて、俺たちにはもうユーリちゃんしかいないんだよ!お願いっ、この通り!」
五人を代表しておそ松くんが地面に額を擦り付ける。チョコのためなら土下座の懇願も厭わない、童貞の鏡。
残る四人も長男に倣い、一斉に頭を下げた。彼らの顔に一様に暴行を受けたような痣や傷があるのは、トト子様からの鉄槌を食らった結果らしい。
「おなしゃす!」
「チロルチョコ一つでいいんです!」
「既成事実が欲しいっ」
人目につきやすい公道で物騒な発言をしないでいただきたい。
「ユーリちゃん、お願い!カラ松兄さんにチョコ渡しに来たのは重々分かってるけど、ほんと義理でいいから!」
トド松くんさえ、恥も外聞もなく拝み倒してくる始末。
カラ松くんはというと、彼らの後ろでただただ呆然と立ち尽くしていた。
「──そうくると思ってたよ」
私は片手を腰に当て、息を吐く。
バレンタインが訪れるたびにリア充への妬み嫉みを募らせ、六人で黒歴史を更新し続けてきたとしかカラ松くんからは聞いていないが、それもこれも全てチョコを貰う行為への執着心故である。つまり、六つ子がチョコを要求することは最初から織り込み済みだ。
カラ松くんにだけチョコを渡してスムーズに帰れるなら、六つ子が揃いも揃ってこの歳まで童貞なはずがない。
「ユーリ…それじゃあ…」
カラ松くんの目がみるみる瞠られていく。私は手にしていた紙袋を持ち上げた。
「ご推察の通り──全員分のチョコを持ってきたよ」
そこからはもう、五人による狂喜乱舞の拍手喝采。
彼らは感謝の意を再土下座によって溢れんばかりに示した後、一列に並んで私から配給──もとい、チョコを受け取る。
「やったー!チョコ!チョコーっ」
「よ、ようやくチョロ松からチョコ松になれた…っ」
「…あ、ありがと…いいの?マジで?」
「ありがとー!めちゃくちゃ大事にする、家宝にすっぺー」
「えー、嬉しー、ユーリちゃん大好き!」
それから五人は互いの健闘を称え合うかのように円陣を組み、数名に至っては男泣きする始末。泣くほど喜んでくれるなら用意して甲斐があったというものだが、私が泣かせたみたいな絵面になるから泣き叫ぶのは勘弁願いたい。私は軽くなった紙袋を下げて、苦笑した。
彼らに渡したのは、各々のコンセプトカラーに合わせたパッケージのものだ。手のひらに収まるサイズ感の箱には四粒のチョコが入っており、パッケージのカラーをメインに使った転写シートによるイラストが、華やかに描かれている。陳列棚で二十色を超える箱が美しいグラデーションを作って並んでいるのを見て、これだと思った。
「ユーリ…」
充足感に浸る私とは対照的に、カラ松くんは浮かない顔だ。私を呼ぶ声にも、明らかに覇気がない。
「んー、何かな?」
五人は早々に家の中に引っ込み、外には私とカラ松くんだけが残った。玄関の戸は開けっ放しだ。
「これが…ユーリの答えなのか?」
ほんの一瞬だけれど、俯いた彼の顔には、今にも泣き出しそうな陰りが浮かんだ。
「答え…」
「あ、その…すまん──何でも…何でもないんだ」
緩やかに首を振って、彼は淡く微笑んだ。
「チョコ、サンキュ」
その手には、青い包装紙で包まれた市販品のチョコがある。おそ松くんたちに渡したのと同じもの。
私は僅かに口角を上げて応じる。開け放たれた玄関ドアの中からは、やいのやいのと騒ぎ立てる五人の声が聞こえてくる。歓喜に溢れた喧騒は、ひどく遠い存在で。
「帰るだろ?…駅まで送る」
「…ん」
カラ松くんはもう、私を見ていなかった。
頬を撫でる風がいつになく冷気を帯びているように感じられたのは、きっと心理的な要因も相まってのことだと思う。
闇の帳が下りた街の中を、室内から漏れる明かりと街灯を頼りに進む。重苦しい沈黙が私たちを包んでいた。カラ松くんはコートのポケットに両手を差し込んで、私から目を逸らすように前を向いている。こちらが話題を投げても、上の空の返事しか返ってこない。
「…あの、さ」
人通りが減った川沿いの道で、私は立ち止まる。
「どうした、ハニー?」
いつもなら穏やかな笑みと共に向けられる言葉が、今はひたすらに無機質だ。その原因が私にあることも、重々承知している。
だから───
「これ」
私は手にしていた紙袋を彼の前に突き出した。先程まで、彼ら六つ子に渡すチョコを入れていたものだ。
カラ松くんは僅かに首を傾げた。
「袋?…ああ、もう不要ということか。分かった、後で捨て──」
「違うってば」
ああもうと声に出してから、私は紙袋の中に手を突っ込んだ。そして取り出した物を乱暴に彼の眼前に突きつける。まるでツンデレの態度そのものじゃないかと、冷静な自分がツッコミを入れそうになる。
「チョコだよ。カラ松くんのためだけに作った、手作りチョコ」
我ながら恩着せがましい表現を口にして、じわりと羞恥がこみ上げた。カラ松くんは私と向き合う格好で、呆然と私の手元を見つめる。
「さっき渡せば良かったのかもしれないけど、みんなの前で渡せる雰囲気じゃなかったし、それに…」
「それに?」
カラ松くんは一歩踏み出し、箱を持つ私の手に、そっと自分のを重ねる。双眸は湿り気を帯びて、蕩けたようにうっとりと細められた。
「…言ってくれ。ユーリの口から…ユーリの言葉で」
もし今、誰かが横を通り過ぎたら、私は彼の手を振り払えただろうか。思考は横道に逸れる。
「こういうのって、シチュエーションも大事でしょ?」
義理だとか本命だとか、両極端な表現でひと括りにした途端に、限りなく無粋になるもの。
「二人きりの時に、渡したかったんだよね」
「…うん」
私の手の甲に触れていた手はゆっくりと離れ、宝物を扱うようにそっとチョコの箱を包む。赤く染まった彼の頬が、人工的な明かりに照らされて私の視界に映る。
「すごく、嬉しい…ありがとう、ユーリ」
今の私の気持ちを一言で表すなら──押し倒したい。
非常にドラマチックなシーンで大変申し訳ないが、恍惚とした表情の推しを目の前にして初な乙女を演じられるほど心が広くない。エロい超越していっそ猥褻じゃないのか、これは。
そんな葛藤が渦巻く胸中で、私の第六感がしきりに告げている、これは今押したらイケるヤツだ、と。
「それと、すまない。さっきは動転してたとはいえ…態度悪かったよな」
それな。反省して改めろよマジで。
そんな言葉が危うく喉まで出かかったが、私は笑みを作って彼が胸に抱く箱を指で示す。
「パウンドケーキ、今朝早起きして作ったの。凝ったものじゃないけど、味は保証するよ」
一目見て手作りと分かるラッピング。包装も中身も、造形の美しさは市販品に遠く及ばないが、少なくともカラ松くんには想定以上の幸福をもたらしたようだ。
「ハニーの料理スキルの高さはよく知ってる」
「さらっとハードル上げてくるね」
「しかし事実だ。謙遜すると逆に嫌味になるぞ」
茶化す余裕も出てきたらしい。
「こんなに幸せなバレンタインでいいんだろうか。例年とは雲泥の差だ」
「黒歴史とは聞いたけど、今までは何してたの?」
何気ない質問のつもりだった。しかしカラ松くんは途端に苦虫を潰したような顔になる。
「ブラザーたちと手作りチョコを贈り合ったり、カカオ農家を潰しに行ったり…」
「カカオ……は?」
「そして負けた」
「何に」
そりゃ確かに雲泥の差だわ。野郎同士のチョコ交換会と異性からの手作りチョコ贈答を同列に並べるな。比較するのも失礼なレベル。カカオ農家襲撃は論外。
私たちは再び駅へ向かう道を歩き始める。
カラ松くんは両手でラッピングされた箱を抱える。紙袋は辞退された。余韻に浸りたいんだと低音イケボで囁かれては、それ以上無理強いはできない。
「オレは欲張りだよな」
道すがら、口から溢れた言葉に私は小首を傾ける。
「そうなの?」
「今までのバレンタインを考えたら、今年はユーリから義理でもチョコを貰えれば十分すぎる。…いや、貰うどころか、当日に会いに来てくれただけでも、嬉しいんだ。でも──」
気恥ずかしそうにカラ松くんは指先で頬を掻く。
「チョコをくれるって約束をして、当日にユーリに会ったら…ブラザーたちと同じ物じゃ満足できなかった」
そう、最初の時点で彼との約束は既に果たしている。それ以外を提供する義務は、私にはないのだ。
カラ松くんの顔に苦笑が浮かぶ。
「オレだけの特別なチョコが、どうしても欲しかったんだ」
「ふふ、そうなんだ?」
「それがこうして全部叶ってしまって、冷静になってようやく…欲張りすぎだと気付いた」
カラ松くんは最初から、自分だけのチョコを望んでいたのだと私は思う。自覚の有無は横に置くとしても、願いは難易度順に層として重なり、私が手作りチョコを渡してようやく、充足感を感じられるレベルに到達したのだろう。
「それぐらいに嬉しいんだ。せめて一割でいいから、ユーリにも伝わってくればいいんだが…」
努めて声のトーンを抑えているのが伝わってくる。気を抜けば溢れ出そうな感情を、かろうじて堰き止めているような。
「そんなに喜んでくれたなら、私も作った甲斐があったよ」
私は鼻高々に、拳で自分の胸を叩く。
「これは推しに対する正当な投資だよね。推しと、推しを愛でる私の平穏で希望に満ちた未来のための。課金に等しい。いや課金か、うん、ある意味では課金。
こういうのも推し活っていうのかな?だとしたら推し活最高」
誰かさんの癖が伝染したのか、少々大袈裟な身振りになってしまったが、任務を終えた達成感で私は一人悦に入る。
「…それだけか?」
「え」
その矢先、開けていた視界は遮られる。カラ松くんが、私の前に立ちはだかった。
「──オレはユーリにとって、推し…だけ、なのか?」
私は意識的に微笑を浮かべる。
「どういう意味かな?」
「もし、そのフィルターを外してオレを見てくれと言ったら…」
それに近い台詞を以前、どこかでも耳にした。もうずいぶんと前の懐かしい記憶が、思い出の引き出しからちらりと顔を覗かせる。あの時の約束を、彼は覚えているだろうか。
「推しフィルター外したら、ただのドクズじゃない?」
私の真っ当な返答に、カラ松くんは愕然とする。
「ホワイ!?なぜだ、ハニー!?
世界平和の象徴と銘打ってもおかしくない輝きを放つこのオレ、松野カラ松だぞ?
そんなフィルターなんかなくとも、生きとし生ける者全てが魅了されているというのにっ」
うん、まぁ何というか、そういうところだ。
推して知るべし。
「おや、おそ松ザンスか」
そういうしているうちに、声をかけられた。顔を見なくても誰か分かる独特の語尾で、目線を上げた先には奇抜なロイヤルパープルのスーツ。口に収まらない出っ歯が、街灯の明かりをきらりと反射した。
「カラ松だ」
挨拶代わりの名前訂正。低い声音で、カラ松くんは眼前を見据える。
しかし不快さを滲ませたのは彼だけではなかった。イヤミさんは仰々しいほどの溜息を吐き、手首を振った。
「シッシッ、ミーはリア充には興味ないザンス。ミーの機嫌が変わらないうちに、とっとと視界から消えてちょーよ」
「…誰がリア充だ」
それは皮肉かとカラ松くんは青筋を立てる。
イヤミさんはじろりと睨みをきかせたかと思うと、右手に持つ木製の杖でもって彼の胸元を指した。
「チミザンス。その箱の中身がミーに分からないとでも思ってるザンスか?」
「…ッ!?」
「ユーリちゃんも、いい加減こんなろくでもない六つ子たちとつるむのは考え直した方がいいザンスよ」
「あはは、そうですかね」
私は肯定とも否定とも取れる曖昧な笑いを浮かべる。下手に反論すれば、火に油を注ぐだけだ。ここは場を収めるべくスルースキルを発動するが、イヤミさんは引く様子がない。
「というか、リア充じゃないならその箱はいらないザンスね。ミーが貰ってやってもいいザンス、寄越すザンス」
ほれ、と手のひらを見せるイヤミさん。カラ松くんは片足を後方に下げ、構える。
「誰がやるか。お前に奪われるくらいなら、その前にお前を物理的にこの世から消してやる」
不穏なこと言い出しおった。
それほどまでに私のチョコを大事に思ってくれるのは嬉しいが、事案は勘弁。
重苦しい殺気を漂わせながら、私の盾になるようカラ松くんが一歩前へ躍り出る。私からはイヤミさんの表情が窺えなくなった。
彼らが対峙していたのは、時間すれば僅か数秒だったと思う。
沈黙を破ったのはイヤミさんで、忌々しそうにフンッと鼻を鳴らす。
「チミに構っていられるほどミーは暇じゃないザンス。命拾いしたザンスね、一松」
「カラ松」
杖を器用に回転させながら、イヤミさんは私たちの横を通り過ぎていく。私には一瞥さえくれずに、次第に背中が遠ざかる。その姿が暗闇に溶けるまで、カラ松くんは私とイヤミさんを隔てる壁役に徹していた。
カラ松くんは肩の力を抜き、私に向き直る。
「イヤミのせいでせっかくの余韻が台無しだな」
「名は体を表すとは、よく言ったもんだね」
「…ハニーも言うようになったな」
「会った回数は少ないけど、結構ひどい目に遭わされたからね。イヤミの名は伊達じゃない」
私が唇を尖らせると、カラ松くんは肩を揺すって笑った。しかしすぐに笑みを消して、真剣な眼差しで私に言う。
「なぁ、ユーリ…もう少しだけ、時間あるか?」
私たちは人通りの少ない土手に腰を下ろす。新緑とは程遠い枯れた雑草がそよそよと風になびき、耳触りのいい音色を奏でる。
「プレゼントがあるんだ」
カラ松くんの口からそんな言葉が飛び出した時、私は耳を疑った。
彼はコートのポケットから、手にすっぽりと収まるくらいの長方形の箱を取り出す。真っ白なケースにブライトピンクの細いリボンが結ばれている。
「これは…」
「海外のバレンタインは、女性からという決まりはないんだろう?」
カラ松くんは呆然とする私の片手を取り、手のひらの上にそれを置いた。神聖な儀式を執り行っているみたいな、奇妙な感覚に包まれる。
「開けていいの?」
「もちろんだ」
端を引っ張ったらするするとリボンが解けて、蓋を開けた。
中には、等間隔に並んだ三個のマカロン。
「チョコ味だぞ」
はにかむような笑顔が眩しい。
食欲をそそるコーヒー色の一つを二本の指で摘み上げて、自分の口の中に放り込んだ。さくっとした軽い歯ごたえの直後に、フィリングのチョコレートソースによるしっとりとした食感へ変化する。
「あ、美味しい」
「そ、そうか?良かった。マカロンなんてよく分からないから、トッティにいい店を紹介してもらったんだ」
にこにこと嬉しそうなカラ松くんとは裏腹に、私はどう反応すればいいのか分からず少々困惑していた。
彼は知っているのだろうか。バレンタインにマカロンを渡す、その意味を。
『あなたは特別な存在』
先日たまたま、バレンタイン特集として流れてきたネットニュースで読んだ。お菓子業界による後付の解釈で、おそらく多くの人が知らない些末な情報ではあるけれど、この流れで、このタイミングだ。
「私が貰えるなんて想像もしてなかったよ。ありがとう、嬉しいな」
「実を言えば、帰りにハニーからチョコを貰えなかったら、危うく渡し損ねるところだった」
すまん、ともう一度彼は謝罪する。
「カラ松くん、口開けて」
「口?」
「あーん」
有無を言わさず促すと、カラ松くんは戸惑いつつも私に倣って口を開いた。その口に、マカロンを放り込む。
「私の気持ち」
咀嚼するために閉じられた彼の唇に人差し指を当てて、私はにっと笑った。
途端に真っ赤になるカラ松くんの顔。
「えっ、ちょ…ッ、グッ、ごほ…っ、は、ハニー!?」
マカロンを喉に詰まらせたのか片手で喉を押さえながら、切れ切れの単語を発してくる。その反応で全てを察する。
でもどちらからもその言葉は口にしない──今は、まだ。
『あなたは特別な存在』