短編:その男、忠実な番犬につき

「なぁユーリ…初めて、はやっぱり重いのか?」

カラ松の問いの意味を測りかねるとでも言いたげに、ユーリは目を丸くした。そりゃそうだ。吐き出した言葉は、一人悶々と脳内で巡らせた思考の絞りカスみたいなもので、脈絡もない上にあまりにも抽象的だ。自分が彼女の立場なら、きっと同じ反応をする。
「何の話?」
そう返されるのも折り込み済みで。
「仮に今後オレが誰かと付き合ったとして、二十歳超えて童貞の男は荷が重いと思われるんだろうか?」
「えー、そんなの人によるとしか言いようないなぁ」
ユーリは肩を竦めて苦笑する。
窓を隔てた向こう側で雨が降りしきる休日の午後のことだ。どちらともなく外出は億劫だという意見が出て、ユーリ宅で気ままに過ごしていた。他の誰に聞かれることもないから、少々込み入った話をするにも都合がいい。
「女の未経験は勲章だけど男の未経験は恥だっていう、ダブスタな考えする人もいるしね。正解なんてないから、議論するだけ不毛だと思うよ」
飽き飽きしたとばかりの表情で、ユーリは手首を振る。カラ松の意図を汲みつつも曖昧に濁した、至極模範的な回答だ。
ユーリは湯気が立ち上る温かいカップを手に取り、縁に口をつけた。

「しかし、ユーリの体を見た男はもうこの世にいるわけだろう?」

「んっふ!?」
吹き出したコーヒーがテーブルに盛大にぶちまけられる
「ああ、コーヒーそんなに熱かったか?服にかからなくて良かったな、ハニー」
「ゲホ…っ、ち、ちょっ、何っ、わざと!?この絶妙なタイミングは私を陥れるトラップなの?
「え?」
「タイミング考えてマジで!」
よく分からないまま声を荒げて叱られる。とにもかくにも、カラ松はユーリが噴出したコーヒーをティッシュで拭き上げた。幸いにも、被害はテーブル内に留まったようだ。
「いや、リッスンケアフリーだ、ハニー。オレが言いたいのはつまり、元カレとかいう奴が既にユーリのか──」
「あ、うん、そこはもういい。でも、もう何年も前の話だよ」
「例えば、その…か、仮の話だが、オレとユーリが付き合ったとしても、オレより前に触れた奴がいるわけだ。ユーリの魅力から考えれば、元カレの一人や二人いて当然だとしても──何か複雑な気持ちになる」
過去に嫉妬したところで、為す術がないことは分かっている。この会話でいかに理不尽で、そもそも抱くだけ無意味な感情であることも、だ。
「それ、不特定多数に裸体を見せてきた成人男性が言う台詞じゃないよね
「…確かに!」
カラ松はハッとする。成人になってからだけでも、公衆の面前で全裸になること多数、今までお縄にならなかったのが不思議なくらいは裸体を晒してきた。そこに躊躇の文字はなかった。
「目から鱗だぜ、ハニー…っ」
「不運?にも私はまだ見てないから、そういう意味ではカラ松くんと同じような感覚なのかも」
ユーリは困ったように笑って。
「ズルいっていう気持ち、かな?」
「ユーリ…!」
カラ松は口元が緩むのを堪えられなかった。自分が抱える感情よりはずっと軽いかもしれないが、彼女もまた同じ思いを感じてくれている。

「でも恥じらいのない全裸にはさほど興味ないからね。推し本人無自覚のチラリズムとか、羞恥心盛り盛りの一部脱衣が好み」
「そういう生々しい本音は今は聞きたくなかったぜ」


そう言えばと呟いて、カラ松はユーリを見やる。
「ユーリは、どんな男がタイプなんだ?」
「好きになった人がタイプだよ」
間髪入れずに返ってくる返事。幾度となく同じ問答が繰り返されてきた過去を物語るようだった。彼女自身、煙に巻くつもりは毛頭ないのだろうが、カラ松には物足りない。
不服な表情に気付いたのか、ユーリは小さくうーんと唸って、指先で首を掻いた。
「フェチみたいなものはあるけど、定義っていうか、共通点みたいなのはあんまりないんだよね。しいて言えば、優しいとか一緒にいて安心するとか、そういうありきたりなヤツだし」
遠い過去に思いを馳せるみたいに、ユーリはぼんやりと天井を見上げる。

「だってほら、恋はするものじゃなくて落ちるものっていうでしょ?」

ひょっとしたら、逃げ口上だったのかもしれない。カラ松の追求をかわすための。
しかしカラ松の腹に、すとんと落ちるものがあった。

「恋は落ちるもの…そうだな、理由なんてないな──本当に、一瞬だったから」

見た目も仕草も声さえも、一切合切がカラ松を惹きつけて止まなかった。
たった数秒間の、取るに足りないやり取り。サングラス越しに交わした視線の先で、はつらつとした軽やかな姿が強く印象に残った。後に聞いたところによると、あの時ユーリはカラ松の顔さえ認識しておらず、再会時は記憶とリンクすることさえなかったという。つまりは、その程度の出会いだったのだ。
なのに自分はずっと忘れられなくて、夢にまで見たのを、昨日のことのように思い出せる。
「ふふ、経験あるって言い方だね」
肩を揺らしてユーリが笑う。
「へっ!?あ、ああ…うん」
こうして二人きりで過ごせるようになるなんて、想像もできなかった。

「知れば知るほどハマっていく麻薬だと感じてる」

もしもユーリが誰かに本気になってしまったら、その時はどうするだろう。最悪の想定もしなければと思うのに、答えどころか勇気さえまだ、出ない。
まぁ、危険分子となり得る芽は摘んでおくだけなのだが




決意を新たにしたばかりのある日、ユーリと出掛けた街中で見知らぬ男に会う。
「有栖川さん」
商店街のアーケードを通り抜けようとした矢先だった。名を呼ばれたユーリは振り返る。その声がやけに軽くて、カラ松は眉をひそめた。
「あ、こんにちは、奇遇ですね」
振り向いた先にいたのは、二十代後半とおぼしき青年だった。ジャケットとデニムのラフな出で立ちだが、足の爪先から頭のてっぺんまで清潔感がある。身につけている服も、一見簡素だが質は高い。
ユーリは屈託ない笑みを浮かべる。向けられた者が勘違いをしそうになるほどに愛らしいが、カラ松には儀礼的なものに見えた。これは間違いなく、愛想笑いだ。
「職場の人か?」
関係性を計りかねてカラ松が尋ねると、ユーリは首を振った。
「ううん、近所に住んでる人。何度かコンビニやスーパーで会って、話をするようになったの」
「たまたまスーパーでぶつかったのがきっかけなんです。それから何度か顔を合わせて、よく来てるよねって僕が話しかけて。ね?」
なるほど、いわゆるナンパというヤツか。それにしても馴れ馴れしい。何が、ね、だ。
摘んでおくべき芽がやって来た。

臨戦態勢を整えたところで、男がにこりとカラ松に微笑む。
「はじめまして。有栖川さんの彼氏?」
「オレは──」
「友達です」
カラ松が口を開くより前に、ユーリが答えた。確かに事実だが、釈然としないものが湧き上がる。
「今は彼氏いないって、先週言ったばかりじゃないですか」
「え、そうだっけ?ごめんごめん」
軽やかな笑い声を溢して、ユーリの肩に気安く触れてくる。関係性の返答に対してカラ松がぴくりと眉を吊り上げたその一瞬を、彼は間違いなく目で捉えていた。
宣戦布告か、いいだろう、受けて立つ。

「はじめまして、松野カラ松です」
青年と向かい合うためという建前でユーリのすぐ傍らに立ち、おもむろに腕時計で時刻を確認する。
「そろそろ行かないと間に合わないんじゃないか?──ユーリ」
呼び捨てで、名を呼ぶ。有栖川さんと他人行儀に名字を使う輩とは、そもそもの立ち位置が違うのだと示すように。
「あ、もうそんな時間?」
ユーリはカラ松の手を掴んで、時計を見るために自分に寄せる。彼女にとっては自然な行為だが、距離感を見せつけるにはおあつらえ向きな仕草だった。
案の定、微笑む青年の口角が微かに不自然な形になる。
「有栖川さんとは親しいの?」
「まぁ、それなりですね。毎週ほぼ必ず会ってるもんな?」
同意を求めれば、ユーリは素直に頷いた。
「そうだね、習慣って感じ」
「ああ、そうなんだ、習慣…ね」
手を当てて隠した彼の口元は、ほくそ笑んだように見えた。可能性を見出さないうちに早急に始末する必要がある。カラ松の望む結末はただ一つ、完膚無きまでにフラグをへし折ること、以上

「有栖川さんって本当可愛いよね。
スーパーでいきなり話しかけた僕に対しても、本来なら不審がって警戒するところを愛想よくしてくれたし。しかも一人暮らしで自炊でしょ?健気だよね」
「もう、そんなの普通のことですよ。おだてたって何も出ませんからね」
「いやいや、本当のこと言ってるだけだから。最近よく会うよね。
今日みたいな私服もすごく似合うけど、仕事帰りに見る時の服もセンスあるなぁっていつも感心してるんだよ」
相手は遠慮なく手札で勝負を仕掛けてくる。卓上にカードが出されるたびに鬱憤が溜まっていくが、よくよく見れば、内容は表面的なものに過ぎない。ユーリと彼の関係は、つまりはその程度の薄っぺらいものなのだ。

「よく分かります。ユーリは浴衣姿も最高に可愛いんですよ。…あー、いや、風呂上がりの部屋着も、だな。気を抜いている時なんて、ほんと特に」
手札の枚数も威力も、圧倒的にカラ松が有利だ。攻撃は最大の防御なり。敵と見なしたからには──潰す
カラ松の意図を察したらしいユーリは、眉間に皺を寄せてじろりと睨みつけてくる。
「ちょっとカラ松くん、何を──」
「ユーリ」
だが彼女が紡ごうとする言葉を封じて、カラ松は目を細める。
「仕事帰りに頻繁にスーパーに行くのは、聞き捨てならないな。
そろそろ日が長くなるとはいえ、できるだけ寄り道せず家に帰るんだ。どこの馬の骨だか分からない奴が声をかけてくるかもしれないからな
「それは僕のことを言っているのかな?」
互いに笑顔を貼り付けた応酬に、不穏な空気が漂う。
「ああ、すみません、そんなつもりは毛頭ないんですが…思い当たる節でもあるんですか?
「ボディーガード気取りよりはマシだと思うけど。いや、番犬…かな?」
二人の間で見えない火花が散る。
褒め殺しの対象にさせられたユーリはいつの間にか笑みを消し、白けた表情で遠くを見つめている。それから背中に回した手で、青年の目には留まらないようカラ松の服の裾を引いた。そろそろ止めろという合図だ。
承知いたしました、マスター。

「おっと、いい加減行かないと映画の時間に遅れてしまうな。すまない、ユーリ」
「今から急げば間に合いそうだね」
カラ松にはにこりと微笑んでから、ユーリは青年に向き直る。
「お話の途中なのにすみません。チケットを予約してるので、これで失礼します」
他人行儀な丁寧語は崩さない。
「ううん、こっちこそ長話しちゃってごめんね。楽しんでおいでよ。また連絡するね」
食い下がらず潔いのは称賛に値する。しかし去り際にユーリの腕に触れるのは予想外だった。最後にちらりとカラ松を一瞥した瞳からは、燻る闘争心が垣間見えた。




青年の姿が人混みに溶けるまで、カラ松は射抜くような視線を彼の背中に向け続けていた。視界から完全に消えてようやく、警戒心を解いてユーリに目を合わせる。
「…まったく、とんだ部外者だ」
彼が触れたユーリの肩に手を置き、カラ松は溜息を吐く。
「というか、連絡って何だ。まさかハニー…あいつに連絡先を教えてるのか?」
「あいつって…一応相手は年上だからね」
「ハニーに色目を使う男はあいつで十分だ。馬の骨の方がいいか?」
「悪化させてどうする」
ユーリは呆れ果てたとばかりに、乱暴に髪を掻いた。細い髪の一本一本が、太陽の光を受けてきらきらと光る。そんな姿さえ綺麗だと思うのは、欲目なのだろうか。
「連絡先って言っても、SNSのIDだよ。たまにメッセージが来るから、返事してるだけ」
自分の知らぬところでやり取りをしている事実は腹立たしいが、ブロックしろとは口が裂けても言えなかった。ユーリの私生活に干渉する権利はないのだ。それこそ彼氏でもなければ、発言権さえない。
「家は?」
「家?」
「ユーリの家は知ってるのか?」
訊けば、ユーリは大きくかぶりを振って否定した。
「まさか。外でたまたま会うだけの人だよ。教えるはずないでしょ」
「相手はそう思ってないようだが」
「私がそう思ってるんだから、そうなの。関係性っていうのはね、お互いの見解が合わなければ低い方が事実としてまかり通るんだよ」
立ち止まっての小競り合いは、人通りのある通路では否が応でも目立つ。ユーリは歩き出しながら、努めて冷静に言った。

「言っとくけど、タイプじゃないよ」
カラ松を安心させるためではなく、自分にかかった嫌疑を晴らす口振りだ。
「恋は落ちるものなんだろう?」
しかしカラ松が口走ったのは、売り言葉に買い言葉だった。喧嘩を売っているようにも聞こえる、棘のある言い方。重苦しい険悪なムードが、自分たちを取り囲もうとしている。
「わー、カラ松くんって昔の台詞いちいち覚えて掘り起こしてくるタイプ?さそり座の男?」
しまったと思っても後の祭りだ。ユーリは不満げに唇を尖らせた。
言い訳の一つ二つがぱっと脳裏に浮かぶが、下手な弁明は自分の首を絞めるだけだ。聡いユーリを口車に乗せる自信もなかった。カラ松は覚悟を決める。

「ユーリの言った言葉は、忘れないようにしてる。それが例えどんな些細なことでも、だ」

想定外の展開だったのか、ユーリは言葉を失い立ち止まる。
「ユーリは何が好きで、何が嫌いで、どういったことで喜ぶか、どんな価値観を持ってるか、オレは知りたい」
「…そ、そうなんだ?」
呆気に取られた顔をした後、ユーリは僅かに目尻を下げる。胸中に湧き上がったカラ松への苛立ちは、速やかに霧散したようだった。
「オレがそう思うことは、ハニーにとって負担か?」
「ううん」
ユーリはにこやかに微笑んでカラ松の頬に触れる。
「茶化してごめん。でもあの人とは本当に何でもないし、これからだって何もないよ」


自分たちの会話を振り返れば、見事に恋人同士のそれだと気付いて、カラ松は一人顔を上気させる。カラ松は真剣そのもので、応じるユーリに他意はない。となると、告白していないだけで実は既に付き合っているのでは?と甚だしい勘違いをやらかしそうになる。童貞こじらせると被害妄想も逞しくなるらしい。実用性なさすぎるスキルはいらない。
「でも正直助かったよ。好意持たれてるのは知ってたから、度が過ぎるようならカラ松くんに彼氏役お願いしようと思ってたんだよね」
ユーリはホッと胸を撫で下ろす。
「何だ、気付いてたのか」
まぁ、これまでもあれだけあからさまな態度だったとしたら、気付かない方がどうかしているが。
「そりゃね。でも直接的じゃないから、断りにくかったっていうか。
この前彼氏いないって答えたのも、好意に気付く直前だったからタイミング悪くて」
「フッ、ナイスアシストだっただろう?」
カラ松は気取って前髪を掻き上げる。
「ハニーがあの男とディスタンスを取りたがってるのは、最初の態度で分かってたからな」
「──へ」
素っ頓狂な声が上がった。
「…私、そんなに態度に出てた?」
「いや、ユーリのスマイルは完璧だったぞ。愛想笑いには見えなかった」
「だったら何で…」
唖然とするユーリに向けて、一層目を細めた。

「誰よりもユーリを見てるからだ」

僅かな相違も見逃すまいとしている。
涙を隠させないように、虚勢を張らせないように。彼女を苦しめる要因の一切を引き受けるくらいの覚悟なら、とうにできているのだ。ユーリのためなら、悪にだってなる。

「リングでも買うか?」
「はい?」
「薬指に。そうすれば牽制にもなる。もちろん金はオレが出す」
「尊死に至るから無理」
ユーリは真顔でノーサンキューの構え。
「そん…?」
「許容できる尊さには限度があるの。キャパオーバーになると卒倒する危険性だってあるんだから。ハタ坊のパーティの時も指輪は断ったでしょ」
真剣な眼差しでこんこんと訴えてくるが、彼女の主張はカラ松の耳から耳へ抜けて何も残らない。振り払うために持ち上げられた彼女の左手を、両手で取る。
そして四角い台座のシグネットリングを、ユーリの左手薬指に通した。カラ松の右手の人差し指に、今しがたまではめていたものだ。厳かな挙式とは縁遠い騒々しい青空の下、しなやかな指に強い存在感を放つシルバー。
まるでサイズの合わないそれは、不安定に揺れて、ぽろりとカラ松の手に戻る。
「…さすがに合わないか」
カラ松は肩を落とす。もしサイズが合えば、魔除けとしてしばらく持たせようかと思ったのだけれど。
「──ユーリ?」
始終無言で俯くユーリを不審に思い、怒らせたのではと不安げに覗き込む。次の瞬間──

ユーリは顔を覆って崩れ落ちた。

糸の切れた操り人形さながらの弛緩ぶりに、カラ松は度肝を抜かれる。
「えっ!?は、ハニー、大丈夫か!?」
「…無理、しんどい、いい加減観念して抱かせろ」
「えと、ご、ごめん!?でも抱くのはナシで!
「ああもう、何なの、ほんと何なの!無自覚アサシンで寿命削られるこっちの身にもなってよ!
ちょっとその指輪貸して───いいから寄越せ!
鬼の形相で、文字通りカラ松の手から引ったくる。

その後、立場逆転の状況再現によって、最初から最後まで赤面し通しのカラ松が瀕死になるまでが様式美である。