「おいお前らっ、俺のエロDVDどこに置いてきた!」
畳を踏み荒らす勢いで居間に姿を現したおそ松くんの剣幕に、悠々と過ごしていた五人が顔を上げる。
「そんなの知るわけないだろ」
代表してチョロ松くんが眉根を寄せる。他の四人は彼に追随するように、無言で頷く。
「嘘つけ!昨日は確かにあったのに見当たらないってことは、お前らのうちの誰かの仕業だろ!」
おそ松くんは声を荒げた。筋が浮かぶほど両手を強く握りしめる様子は、怒りのボルテージが高いことを物語る。
「お前らが俺のヤツたまに観てるのは知ってんだからな。人のことプレーンだのキャラが薄いだの散々ひでーこと言う割に、俺のAVオカズにしやがって!
外食に飽きたからたまには我が家の味に戻ろうってか!図々しいんだよ!家の味が唯一にして至高だろうが!」
何の話だ。
清々しいほど論点がズレていく。
「だから知らないってば。少なくともボクじゃないよ」
末弟は真っ先に容疑者候補から外れようとする。
「おれも見てない」
「オレもだ」
一松くんとカラ松くんも容疑を否認。
「ぼくは最近映像のお世話になってない」
十四松くんに至っては、自身の所有物に関しても直近の使用を否定した。
「ほら、みんな知らないって。おそ松兄さんは以前の財布の件もあるし、どっかに置き忘れてんじゃないの?」
三人が言う財布の件というのは、おそ松くんが以前三万入った財布を盗まれたと激昂して兄弟に嫌疑をかけた事件だ。すぐさま尻のポケットに入っていることを次男から指摘を受けて収束し、しかも中には当初から五百円しか入っていなかったというオチがつく。へそで茶が沸く、馬鹿馬鹿しいの極み。
──というか。
「私の目の前でよくやるよ。これでも一応異性なんだけど」
私もまた、松野家の居間にいるのだ。
カラ松くんの傍らでちゃぶ台に頬杖をつき、彼らの性欲解消アイテムの行方について声高に議論が交わされるのを白けた顔で見守っていた。
「ユーリちゃんに気を使うような話題でもないだろ」
おそ松くんは兄弟を見据えたまま、唇を尖らせて言う。
「オカズは結構センシティブな話題だと思うよ?」
私自身は下ネタズリネタにさほど抵抗はないが、成人過ぎた童貞として大切なものを失ってはいけないと思うのだ。
「ほ、本当にオレじゃないぞ、ユーリ!」
長男曰く容疑者候補の一人であるカラ松くんが、困惑を顔に浮かべて私を見つめてくる。
「どうでもいいよ。
…まぁ確かに、おそ松くんの持ってるAVに出てくる子たちは、カラ松くんのタイプじゃなさそうだけど」
「ちょっと待て」
カラ松くんが真顔。
「待って待って、ユーリちゃん!」
続いておそ松くんも、ちゃぶ台に両手をついて険しい表情になる。
「何で俺のDVDに出てくる女優知ってんの」
声こそ発さないが、他の四人も同様の疑問を抱いたらしい。畏怖に近い感情で私を見つめる。
あー、と私は唇に指を当てた。
「おばさんが六人分全部把握してリストアップしてるんだよね。コピーがここに」
私はカバンからA4の用紙を出して、ひらひらと揺らした。そこには長男から順番に、所有するDVDと本が過不足なく網羅されている。所有数や趣向には偏りがあり、大変興味深く拝見した。
「ちょ…っ、おいたが過ぎるぞ、ハニー!」
タコさながらの赤い顔をしたカラ松くんに、コピーを取り上げられる。
「松代マジで何してくれてんの!」
「しかもリストアップだけでなくユーリちゃんに情報漏えいとか、母さんボクらに何の恨みが!?」
「おいっ、つーか何で僕のDVDがお前の隠し場所にあるんだゴラァ!」
見苦しい修羅場がおっぱじまった。
相変わらずクズだなぁと、今更再確認するまでもない感想が脳裏に浮かぶ。
そして残念、それはコピーのコピーだ。
「いくら仲良くても、女の子の前で下品な話をするのはマナー違反だよね」
「いやまぁいいんだけどね、慣れたし」
六つ子たちが取っ組み合いの乱闘を始めるのを傍観しつつ、私は苦笑した。
「ユーリちゃんみたいな可愛い子と友達っていうだけで、十分光栄なことだと思うんだけどな。せっかくの可愛い友達を粗末にしちゃいけないよね」
「えー、本当?お世辞でも嬉しいなぁ」
可愛いと言われて悪い気はしない。謙遜するのも違う気がして笑顔で応えてから、私はすぐ隣に視線を向けた。
知らない人がいる。
「…え?」
あまりの突然のことに理解が追いつかず、動けない。
「ユーリっ、そいつから離れろ!」
それからカラ松くんの怒号。
「え?えぇ!?誰!?」
何の脈絡もなく現れたその人は、六つ子にとって招かざる訪問者であったらしい。
慈愛に満ちた穏やかな微笑をたたえ、大きな福耳と、耳に心地いい優男風イケボ。六つ子のトレードマークである松のついた白いパーカーを着用している。
彼は厳密に言うなら人間ではなく、六つ子から日々こぼれ落ちる人としての良心が集結して実体化した存在らしい。どんだけクソなんだ、この六つ子。
「前に登場した時は、僕の力不足で消されちゃったんだ。
でも兄さんたちの落としてくれた良心がまた十分に溜まって、こうして現れることができた」
柔らかな笑顔で恐ろしいワードを吐いてくる。
「こんなに可愛い女の子と友達なんて、兄さんたちが羨ましいよ」
そして、しれっと一軍並みの口説き文句を放つ。兄を称賛しつつ間接的に口説く技術レベルの高さ。
「僕は神松、よろしくねユーリちゃん」
愛嬌のある笑顔と共に手が差し出された。
「あ…うん、よく分かんないけど、よろしく」
「ユーリには近づくな」
けれどカラ松くんが私の前に躍り出たため、彼の手を握り返すことはできなかった。六つ子全員が腰を浮かせており、強い警戒心が彼らに臨戦態勢を取らせていた。
「カラ松の言う通り、ユーリちゃんはこいつに近寄っちゃ駄目。トト子ちゃんのようになったら困る」
一松くんが威嚇する猫みたいに眉を吊り上げる。
しかし彼の物言いに対し、おそ松くんはハッとした様子だった。
「ん、いや待てよ…逆にユーリちゃんが神松に靡いてくれた方が俺たち的には都合がいいかも。一旦全部リセットできるし。よし、頑張れよ神松」
名案とばかりにおそ松くんが手を打った直後、カラ松くんのアッパーが長男の顎に決まる。
「いっでー!」
「ジョークにも限度があるっ」
「何だよっ、俺は冗談じゃなくて、ほ──」
「次は全力でいくぞ」
「うん、冗談。言い過ぎた、ごめん」
「てか、何でまた出てくるの?何が目的?」
トド松くの問いに、神松くんは首を傾げた。
「特には」
「特には!?──って、この問いかけ果てしなくデジャヴ!」
末弟は困惑げに頭を抱えた。以前登場した際も同じやり取りが交わされたようだ。突然現れたにも関わらず目的はないと言われたら、誰だって当惑する。
「お取り込み中のようなので、私帰るね」
六つ子絡みの面倒事には関わらないが吉。こういう場合、往々にして巻き込まれて貴重な休日を浪費させられるのだ。早々に徹底して部外者決め込むのが最善の手である。
「あ、ユーリ、オレが──」
「僕に送らせてよ、ユーリちゃん。せっかくお近づきになれたんだから、もう少し君のことが知りたいな」
一軍は台詞からして違うなぁ。
神松くんは決してイケメンの部類ではない。しかし1/fゆらぎと言っても過言ではない、いつまでも聞いていたくなる声と、相手の一切合切を抱きとめるかのような菩薩の如き包容力は、外見に靡かない層にどストライクだ。
「だ、駄目だ駄目だ!ユーリだけは、絶対に…駄目だっ!」
カラ松くんが声を荒げ、私の手を引く。
「ユーリはオレが送っていく。神松のことは頼むぞ、ブラザー」
兄弟の返事を待たず、乱暴に障子を開けて玄関へと向かう。私はされるがまま、彼についていった。
「神松には近づくな」
駅までの帰り道、カラ松くんは前方を見据えたまま低い声で言う。
茜色の空が闇に溶け始める。街灯がちかちかと点灯を始め、アスファルトに伸びる影は細く長い。
「実体化の理由は横に置いとくにしても、六人分の良心の塊っていうだけあって、いい人そうだよ」
色々とツッコミ所満載なのに、ツッコミ損ねたのが悔やまれる。
カラ松くんは苦々しそうに下唇を噛んだが、私の意見を否定はしなかった。
「確かにいい奴だ。見返りを求めることなく、人の幸せのためにだけ動く。欲というものが一切存在しない、神の如き清き松。
奴と比較することで表層化するオレたちのクズっぷりに対するフォローも万全だ」
神か。あ、神だった。
「…だからこそ、ハニーにだけは近づいてほしくないんだ」
「何で?自分の醜い部分で心が痛む?」
「そうじゃない」
そこは認めて改めた方がいいと思うが。
「もしユーリがトト子ちゃんのように、あいつに…」
「あ、トト子ちゃんも神松くん知ってるんだ?」
彼女の名前を出した途端、バツが悪そうな顔をするカラ松くん。
「と、とにかく、しばらくは外で会おう。マイホームに来るのは禁止だ、いいな?」
確認の体を取ってはいたが、実質の強制だった。
その後何度か追求を試みたが、彼は神松くんについて頑として語らなかった。理由は訊かず距離を取れと命じられ、渋々だが私は一旦受け入れる。
カラ松くんは、何をそんなに恐れているのだろう。
事態が進展を見せたのは、その週末のことだった。
昼食を取ってからカラ松くんとの待ち合わせ場所に向かおうと、たまたま入ったカフェのレジ付近に人だかりができていた。会計に手間取っているのかと覗いてみれば──神松くんが十人近い女性に囲まれている。
「神松くん!?」
思わず名を呼んだら、彼は振り返って私に微笑みかけた。
「やぁユーリちゃん、奇遇だね。
あ、みんなごめんね、ありがとう、気持ちだけ受け取っておくよ。そのお金はしまって、自分のために使って」
よくよく見れば、女性は全員揃って財布を手にしている。神松くんの支払いを巡った争奪戦だったらしい。
名残惜しそうにする女性陣たちに別れを告げ、神松くんは私の傍らに並ぶ。背中に刺さる数多の視線が痛いのは気のせいか。
「こんな所で何してたの?ナンパ?」
彼が白い松パーカーを来て今なお存在していることから察するに、前回同様に松野家に居候しているのだろう。彼を始末しようと六つ子が画策するだけで、その際に溢れ落ちる良心が神松くんを進化させるのだから、下手な手は打てない。
「ううん。トド松兄さんが女の子とのデートに使えるカフェを探してたから、いいお店がないか見て回ってたんだ」
兄思いの健気なええ子やん。
「途中喉が渇いたからお店で飲み物を頼んだんだけど、席を立ったらいつの間にか彼女たちが周りにいてね」
「是非支払いをさせてくれと懇願されてたと?」
溢れ出る魅力を持つカリスマか。
「僕だと女の子の気持ちが分からないから、良かったらユーリちゃん一緒に回ってくれないかな?
これから予定があるだろうし、時間があったらで構わないよ」
自然な会話の延長で嫌味や下心を感じさせず、しかも逃げ道まで先に提供する、非の打ち所のない誘い文句。あくまで調査名目という目的提示も感服する。
「いいよ。お腹すいてたし、予定まではまだ時間あるから」
「ふふ、何だかデートみたいだね」
台詞回しがやはり一軍。
「待ち合わせはカラ松兄さん?」
「そう。二時間後に約束してるから、それまでなら付き合えるよ」
「そっか」
穏やかな声音はそのままに。
「二時間経ったら去ってしまうなんて、まるでシンデレラだ。もしユーリちゃんがガラスの靴を残してくれたら、僕はきっと君を見つけるよ」
カラ松くんとは違うタイプの詩人が来た、助けて。
カフェの外観や内装、盛況ぶりや雰囲気といった要素を、実際に足を運んで確認する。女性客やカップルの多い幾つかの店に目星をつけ、その中でこれは思う店で昼食にした。直近でデートの予定があるのなら、トド松くんの希望に沿えるといいのだけれど。
まぁそんなことより、どの店でも神松くんが女性にナンパされるのには辟易した。神の神々しさは隠しきれるものではないらしい。彼は金色の瞳を細め、連れがいるからとやんわりと断り、その都度私が彼女たちから睨まれる地獄のルーティンが発生した。
候補地が決まった頃合いで、カラ松くんとの待ち合わせ時間が近づく。神松くんは現地まで私を送ってくれた。
セレクトショップやカフェが軒を連ねる地域の中にある公園。その中にある古い木製ベンチに、カラ松くんは腰掛けていた。
「カラ松くん」
今日も推しが尊い。私は片手を上げて彼の名を呼んだ。
しかし口角を上げながら持ち上げられたカラ松くんの顔に、次の瞬間貼り付いた感情は、驚愕だった。
「…ユーリッ」
上げた手を勢いよく奪われ、まるで神松くんから引き離すように抱きすくめられる。
「え」
「なぜハニーと一緒にいるんだ、神松!」
ことと次第によっては容赦はしない、そんな意思が込められた低い声音。
私の視界には、カラ松くんの肩越しに公園の景色しか映らない。彼らが互いにどんな顔で対峙しているのかは、見えない。
「たまたま会って、一緒にカフェ巡りしてただけだよ」
「カフェ…」
カラ松くんは単語を反芻し、事態を飲み込もうとする。腕の力が緩んで、私は解放された。
「ユーリ、神松に何もされなかったか?」
「何もって…別に。カフェ巡りも、トド松くんのためだよ」
カラ松くんの黒い瞳が不安に揺れる。彼がまだ私の腰に手を添えているのは、神松くんに対する畏怖の念故だろう。
「じゃあ楽しんでね、カラ松兄さん、ユーリちゃん」
しかし神松くんは彼の態度に機嫌を損ねる様子もなく、踵を返す。
「あ、うん、またね」
神は万物を慈しむが、決して何ものにも執着しない。
神松くんの姿がすっかり見えなくなってようやく、カラ松くんは私に向き直った。猜疑心の塊みたいな目で、私を見つめる。
「ちょっと何その目。私何かおかしい?」
神松くんが現れてからというもの、カラ松くんの態度がおかしい。得体のしれない人格に対する恐怖以外の要素が間違いなくあるのに、私には話そうとしない。
「なぁ、ハニー」
「うん」
「神松と…本当に、何もなかったか?」
先程の問いが繰り返される。
「何もって、何?さっきも言ったけど、カフェ見て歩いたりご飯食べたりしただけ」
「それを男女間で行うと、一般的にはデートと言うだろう」
やたら神松くんとの関係性に固執してくるな。決定的な事柄は語らないのに、私からは言葉を引き出そうとする。無理矢理蚊帳の外に置こうとする彼の意向に、苛立ちを覚えた。
「その…手を繋いだりとか、き、キス、とか…」
言い淀むカラ松くん。
「は?あるわけないよ」
「しかし神松は、理想中の理想、完璧中の完璧で、非の打ち所がないだろ?」
警戒したり褒め称えたり忙しいな。
「いやまぁ、イケメンって感じではないけど安心する顔してるし、一軍の人って感じだとは思ってるよ」
「だから、ほら、ええと…オレよりあいつの方がいいとか、そう思ったり──」
私は即座に首を振る。
「恋愛対象じゃないよ。まったく、男の人といたら何でもかんでも恋愛に繋げるの、魔法使い一歩手前の童貞の悪い癖だよ、反省して改めて」
これ言うの何度目だ。異性といるだけで男女の仲と疑われるなら、職場で仕事なんてできやしないじゃないか。
「じゃあ、オレと神松なら…ユーリはどっちの方がいい?」
何その私とあの子どっちが好きなのみたいな言い方。どこ所属のヒロインだお前は。
「カラ松くん」
逡巡の素振りもなく即答した私に、ホッと胸を撫で下ろすカラ松くん。
「ふふ、安心した?ついでに抱かせてくれる?」
「安心した、抱かせない」
そこは釣られろ。
「うーん、じゃあデカパン博士の薬で私たちの性別が入れ替わったら、観念して抱かれる?」
悪戯心が顔を出して、私はさらに質問を重ねる。カラ松くんはギョッと目を剥いた。
「究極の選択すぎないか、それ!」
「私としては次の手くらいの気軽さ」
「最悪だ!」
ツッコミに切れがあってよろしい。しかしノーの姿勢を貫きながらも私の腰から手を離さないのは、この応酬が意味するところを測りかねているのだろう。
けれど残念。裏側も真意も、駆け引きと称されるようなものは皆無だ。私のカードは常に表である。
「最悪で結構。それで回答は?
例えば性別が入れ替わって、致さないと出られない部屋に閉じ込められたら、いい加減私に抱かれてもいいかなって思う?」
カラ松くんは下唇を噛む。
「私の質問にも答えてよ」
促せば、気まずそうに視線が逸らされる。しかし拒絶が彼の口から紡がれることはなく。
「…それくらい追い詰められたら、いい、と思う…かも…」
絞り出すような小声だった。
私が聞きたいのは、見栄や矜持といったカラ松くんが誇示したい一切を取り払った、彼の本心だ。
「そっか」
私はにこりと微笑を浮かべる。
「よし、じゃあ今すぐデカパン博士に薬と部屋の用意を──」
「ノンノンノーン!ウェイトだハニー!気軽に実現させようとするな!」
腰に添えられた手を振り払ってラボへと急ごうとした私の肩を、カラ松くんが掴む。
「うん、いい反射神経。ほら、でもこれで私が神松くんと何にもないって納得できたでしょ?」
「ユーリ、まさかわざと…」
あわよくばとは思った。
その後、カラ松くんは前回の顛末を聞かせてくれた。
実体化して数日で就職を決めてくるなど模範的な生き様を見せつける神松くんに親が心酔したことから始まり、トト子ちゃんが積極的に彼との進展を望んだこと。それまでいかなる手をもってしても振り向かせられなかった幼馴染が、神には一瞬で陥落する様を目の当たりにして、私も同様の道へ落ちるのではと危惧したらしい。
再現性のない唯一無二のカリスマ性は、カルマを背負う現代人を惹きつけて止まないのか。
「何もないと分かって嬉しいんだが、トト子ちゃんでさえ神松に惹かれたのに、ハニーはどうしてあいつを何とも思わないんだ?」
わざわざ論ずるまでもないことだ。
「もっと魅力的な人がいるのに、目移りするほど暇じゃないよ」
その日の帰り道、チビ太さんが屋台を出しているすぐ側にある団地に囲まれた公園で、おそ松くんたちが神松くんと対峙している姿を見かけた。五人は地面に手をつき深々と頭を下げ、物々しい雰囲気だ。
「神松…っ」
カラ松くんが反射的に躍り出ようとするので、服の裾を掴んでそれを制する。行動に移すのは、動向を窺ってからでも遅くはないはずだ。
「帰ってください!」
声を揃えて彼らが言うのは、帰還の懇願。
真綿で首を絞められるような神による地獄に音を上げたようだ。彼が与えるのはあらゆる不快感や挫折を撤去した一見心地良い環境だが、達成感や充足感といった気分の高揚は根こそぎ奪われる。平坦で単調な日々は、六つ子にとっては絶望にも等しい。
「帰るって、家に?」
「違う!あの世に!消滅して!」
要求がどストレート。
「せっかく兄さんたちから新しい命を貰ったのになぁ」
神松くんは相変わらず落ち着き払った声で、要求の受け入れを渋る。
「トト子ちゃんもユーリちゃんも二人ともお前に持ってかれたら、お前を殺れないなら、俺たちが首吊るしかないんだよっ」
ああ、そうか。彼らが神松くんを畏怖の対象とするのは、彼らにとって最後の希望である親しい異性の心さえも奪取していくから。神松くんの台頭は、六つ子にとって文字通り地獄なのだ。
「それは困る。兄さんたちのことは大切だから、生きていてほしいのに」
「じゃあ…っ」
「トト子ちゃんともユーリちゃんとも、僕は付き合ってないよ」
おそ松くんたちの必死の懇願も、神松くんには暖簾に腕押しだ。
私は付き合うどころか恋愛対象でさえないが、先程カラ松くんから聞かされたところによると、トト子ちゃんは神松に夢中だったらしい。
「くそ…っ、かくなる上はまた悪松を呼び出すしか」
膝を折った一松くんが忌々しげに吐き捨てる。
「命を削る究極召喚だから、使いたくはなかったけど…」
「いやでも僕たち、もうクソな部分しか対抗できるとこないよ!」
「死なばもろとも!」
「ちょっと!相打ちとか嫌だからね!せめて童貞卒業してからにしてよっ」
複雑な胸中を漏らして逡巡する兄弟に対し、おそ松くんがおもむろに片手を広げた。
「俺たちに選択肢はないんだよ、トド松。殺るか殺られるか、だ。折衷案なんて優しくて平和なものはない」
その言葉に、残り四人が覚悟を決める。
次の瞬間、彼らの背中から突如として黒い煙が立ち上り、形を成していく。つい今しがたまで晴れ渡っていた空には暗雲が立ち込め、遠くから雷鳴の音が響く。
彼らから離れているカラ松くんもまた、崩れ落ちるように地面に片膝を立てた。
「カラ松くん…?」
「逃げるんだ…ユーリ…っ」
いきなりファンタジー世界始まった。そういやこいつもクソの一員だよなとどこか冷静な私。っていうか悪松って何なの、召喚獣?
この世界観には一応関係者として溶け込んでおいた方がいいのだろうか。他人事の茶番にしか見えなくて、恐怖心が湧かない。こういうのを正常化バイアスというのかもしれないけれど。
良心の化身である神松くんに対抗するには、六つ子のクソな部分──つまり悪心を利用するのだろう。私は展開を察した。
六つ子が秘める悪心は、良心の比ではない。逆転は容易かと思われた。
「困ったなぁ。でも僕も前回から何も学んでないわけじゃないんだよ」
神松くんは穏やかな笑みを崩さない。追い詰められた危機感は、彼からはまるで感じられなかった。
彼の背中に神々しいまでの後光が差して、目が眩む。彼の数倍の体積を持つ邪悪な漆黒の影──悪松なのだろう──が、僅かだが怯んだ。
素人目にはまだ闇松が優勢て見て取れるが、相打ちとなれば双方無傷では済まないだろう。松野家の五人は悪松にエネルギーを吸収されたのか、意識を喪失して地面に折り重なっている。
「ただ…兄さんたちが苦しむのは辛いな。今回は残念だけど、悪松を連れて帰ることにするよ」
小首を傾げ、余裕のある表情で。
彼は悪松と呼ぶ黒い影と対峙するな否や、緩く両手を広げる。異形の型を成していた影は煙の如く崩壊し、やがて霧散した。僅か数秒の逆転劇である。
「またね」
別離を告げるその時、最後に神松くんは確かに──私を、見た。
悪松の消滅により精神エネルギーを取り戻したカラ松くんは、片手で頭を押さえながら気怠そうに立ち上がる。
「歩けそう?」
「…大丈夫、少しフラつく程度だ」
公園を見やれば、おそ松くんを始めとする五人も億劫そうに体を起こし、神松くんの消滅に抱き合って歓喜している。七人目の存在は、六つ子にとってよほどの脅威だったようだ。
「ハニー」
「うん」
「神松のことでは迷惑をかけたな。その…色々取り乱して醜態も見せたし」
トト子ちゃんの経験から、私が彼に惹かれるのではと心配だったのは無理もない。神松くんはいわば神であり、人の心を惹きつけて止まないカリスマ性の持ち主だった。
「でも」
カラ松くんの頬が赤く色づく。
「ユーリが神松に靡かなかったのは、本当に嬉しかった…」
ふむ、と私は腕組みをする。
「つまり、信じてなかったわけだ?」
「そ、そういうわけじゃ…ないんだが」
「自信がなかったとか?」
私の問いを受けたカラ松くんは、フッと鼻で笑った。
「ノーキディングだぜ、ハニー。ガイアの申し子であるオレの魅力は唯一無二にして至高!世界を統べるゴッドであろうとも適うはずがないじゃないか」
しかし腕組みをして自信たっぷりに言い放った直後、彼はすっと視線を落とした。
「──その…正直、オレがあいつに勝てるところは何一つないというか…」
その言葉を聞いて、私は笑う。
「人の魅力は勝ち負けじゃないよ。優劣もない」
「しかし…」
「しかしもかかしもないの。
…まったく、こんなに常日頃から全力で推しを愛でてるのに、まだ私の愛情が伝わってないと見える」
「いや、それは、あの…」
「やはり抱くしかないか」
「なぜその結論に辿り着く」
そういうところだけ素で真顔になるの止めていただけませんか。
私は顎に拳を当て、うーんと唸る。
「あ、そっか、でもよく考えたらそうだよね。カラ松くんが心配になる気持ちは分かるよ」
「え?」
「私だって、ナイスバディで超絶可愛いアイドルと比べたら月とスッポン…ううん、比較することさえおこがましいよね。そりゃアイドルの方が何倍もいいよ」
私が納得して悩ましげに息を吐くと、カラ松くんは目を瞠り慌てて首を振った。
「そ、そんなことない!」
狼狽して声が震える。
「オレにとってユーリ以上に魅力のあるレディなんて、そんなものどこを探したっているもんか!」
「ほら」
私は両手を広げる。にこやかな微笑みと共に。
「…ユーリ…?」
「私の気持ち、伝わった?」
問いを投げた後は、数秒の沈黙があった。受け止めた言葉を咀嚼して脳に辿り着くまでに時間を要したが、理解した途端、カラ松くんの頬は一層濃く染まる。
あ、と小さな声が彼の口から溢れた。そして戸惑いがちに視線を上げて私を見つめる。
「…伝わり、ました…」
「よろしい。では帰ろうか──マイプリンス?」
くく、と笑い声を押し殺しながら、片手を胸元に当て、もう片方はわざとらしく手首のスナップを効かせてカラ松くんに差し伸べた。からかう意味合いも含んでいたのは、否定しない。
だからカラ松くんが眉根を寄せるのは当然の流れだとしても。
次の瞬間、まさかその手首を掴まれ、抱き寄せられるとは思いもよらなかった。
背中に大きな手が触れて、胸が密着する。彼の表情は見えなくなって、けれど静かな息遣いが耳に届く。
「ユーリ…あまりオレをからかうんじゃない。これでも自制してるんだ」
苛立ちさえ混じる低い声。背中に触れる手には力がこもった。
「いつまでも大人しくしてると思うなよ」
私は瞠目する。
こういう顔面接近肌密着サービスは札のお金をお支払いすべき案件では?
これが無料なのかと目頭を熱くさせていたら、公園から出ようとするおそ松くんたちと目が合った。
その後カラ松くんが兄弟からどんな目に遭わされたかは、今更述べるまでもないだろう。つくづく運に見放された男である。