カラ松とユーリは、相手に対する怒り方が根本的に違う。
トド松はそう感じている。
カラ松は基本的にユーリを全肯定する。
彼女がカラ松に手を出そうとしたり、ちょっかいをかけることに関して建前上は拒否の姿勢を取るものの、本心では一連の駆け引きを望んでさえいる。ユーリを嗜めたその直後に、とても嬉しそうに笑っていたりするのだ、彼は。
対するユーリは、ある程度の非礼は許容するが、積み重なると表情を険しくして叱責する。カラ松には寛大かと思いきや、時と場合によってはそうとも限らないのが面白いところだ。導火線はおそらく長い方だが、様々な要因によって短い日もある。
人が人を見限るのは、ヒューズ型とマグカップ型の二つのパターンがある。そんな説をどこかで耳にした。
怒りについても同様の表現ができるのではないだろうか。
「カラ松くん呼んでくるねー」
休日の午後、ユーリは居間に顔を覗かせてトド松たちと挨拶を交わした後、軽快な足取りで二階へ駆け上がっていった。
トド松は、ユーリが奏でる音色が好きだ。パタパタと音を立てて廊下を走る音は、家族の誰のものとも違って、耳に心地いい。
最初に訝しんだのはおそ松だった。
「てか、ユーリちゃんとカラ松遅くね?」
壁掛け時計を見上げ、ぽつりと呟く。その時点で、彼女が二階に上がってから数分が経っていた。
「…ハッ、まさか一つ屋根の下でイチャついてるとか!?妨害しよう」
「えー、いやいや、まさかカラ松兄さんに限ってそんな度胸が───ボクちょっと見てくるわ」
トド松は真顔で腰を上げる。
二人きりの時ならいざしらず、兄弟が真下にいる空間でユーリに手を出そうなんて言語道断だ。
「行ってらー」
拳を握りしめたトド松の背中を、十四松の飄々とした声が見送った。
意気込んで居間を出たものの、もし現実に実の兄弟と自分も親しい女性が肌を寄せ合う姿を見たら、冷静に対処できる自信はない。
慌てるか硬直するか、いずれにしても動揺は隠せないだろう。場数を踏んでいないことが悔やまれる。
トド松は足音を殺して階段を上がる。
臆病者のカラ松に限ってないとは思うが、万一濡れ場を目撃したら、どうすればいいのだろうか。今後の生活に支障を来たすだけでなく、ユーリとも今後顔を合わせにくくなる。それは死活問題だ。
悶々としながらトド松が襖に手を掛けた時、中からカラ松の声が漏れ聞こえてきた。
「いきなりやって怒られると思わないのか?」
低い、棘のある声だ。
「やっていいことと駄目なことの境目は弁えろ。これで何度目だ?」
「ごめん…」
カラ松がユーリに対して怒りを露わにするのは珍しい。
トド松は腰を落とし、僅かに襖を開けて中を覗き見る。あぐらをかき腕組みをするカラ松の真向かいで、ユーリが正座を強いられている格好だった。彼女は肩身が狭そうに俯いている。
「いくらオレでも着替えの途中で入って来られた挙げ句、尻を撫でられたら怒りもする。
逆の立場ならどうだ?これもうセクハラ通り越して痴漢じゃないのか?」
次男が正論すぎる。
「仰るとおりです…」
トド松からはユーリの背中しか窺えないが、ぐうの音も出ない様子。
「相手がオレじゃなかったら、その気があるんだと勘違いして押し倒されても文句は言えないんだぞ?」
「あ、でもそこはほら、カラ松くん相手なら逆転させる自信はあったし──」
「は?」
「何でもないです」
ユーリの言い訳は、カラ松のひと睨みで尻窄みになった。静かに憤る彼の眼力には、一切の反論も許さぬ凄みがある。
どうやら、カラ松に仕掛けたセクハラが度を越した叱責らしい。
油断していたところに許容を超える接触が発生し、怒りが一気に沸点に達した、そんなところだろう。まさしくヒューズ型だ。
ヒューズは、電流が多く流れるのを防ぐ安全装置として使うものだ。定められた数値以上の電流が流れると切れるようになっている。一定のラインまでは何ともないが、そのラインを超えると一発で焼き切れる性質を持つのがヒューズである。
許容内ならば幾度不満が発生しても激昂しないが、キャパを超えた不満が一撃でもあれば、相手に苛立ちを見せる。カラ松がユーリに対して怒るのは、往々にしてこのパターンが多い。
しかし、ユーリは一枚上手だ。
「そうだよね…ごめんね」
俯いて力なく謝罪を述べる殊勝な姿からは、反省の色が窺える。するとカラ松の顔に、ほんの僅かにではあるけれど、怒りすぎたかと自責の念が浮かんだ。
離れた距離にいるトド松にすらそれが見て取れるのだから、真正面にいる彼女が気付いていないはずがない。
「カラ松くんが可愛くてつい触りたくなっちゃうんだけど…でも、確かにセクハラだよね。本当ごめん。これからは『友達』として適切な距離を取るね」
お手本のような詫びの言葉である。原因と改善点を述べるだけでなく、相手の意向も汲み取っており、謝罪としては満点レベル。
「…え…あ、いや…」
だがカラ松は彼女の謝罪を快く受け入れるどころか、戸惑いを口にする。
「そ、そうじゃなくてだな…いきなりするのが駄目なわけで、その…」
襖越しにトド松は失笑した。可愛い女の子に望んで触ってもらえるだけ有り難いことなのだ。己の立場を弁えろ、クズが。
「いきなりじゃなかったら、触ってもいいの?」
案の定、ユーリはきらきらと瞳を輝かせて顔を上げる。
「へ!?…ええと、うん…まぁ、そうなる、かな…」
「優しい…ッ!何て優しいの、カラ松くん!私が至らないばかりに怒らせちゃったのに、許してくれるなんて…」
ユーリは右手の甲を口元に寄せ、感極まったような声を絞り出す。
「フッ、ハニーに涙は似合わないからな。
誰しもミスは犯すもの。そのミスを二度と繰り返さないように努める心掛けがインポータントだぜ、オーケー?」
気を良くしたカラ松が調子に乗ってきた。腕を組み、意気揚々とユーリに語りかける。
うんうんと頷くユーリが、感情を抑えきれないとばかりに口元を押さえて次男から視線を逸らす。次の瞬間、トド松は確かに見た───ユーリがニヤリとほくそ笑むのを。
かくいうユーリは、マグカップ型だ。
推しという特殊属性故か、カラ松に対して苛立ちを見せることは少ないが、仕事とプライベートのストレスは同じ場所に蓄積しているらしく、タイミングが悪いとマグカップはすぐいっぱいになる。
「最近忙しくてさ、本来やりたいことに手が回らないんだよね。メイン業務が滞っててストレス溜まるよ、ほんと」
その日、松野家を訪れたユーリは挨拶もそこそこに、ぽつりと不満を口にした。彼女が仕事の愚痴を溢すのは珍しい。
思えば、その時点で彼女のマグカップは決壊寸前だったのかもしれない。
「そうなんだー、分かる気もするし分からない気もする」
「適当な相槌は差し控えて」
いつもなら笑って嗜めるおそ松の軽口を、真顔でツッコんだあたりから、警鐘は鳴らされていたのだ。
ストレスの許容量を示す比喩として、コップから水が溢れる表現は有名だ。
敢えてマグカップと形容されるのは、マグカップの形に理由がある。マグカップは──横からは中身が見えないのだ。
透明なコップかマグカップかは、人や環境によって異なるだろう。しかし少なくともその日のユーリは、決壊寸前の己自身にまるで気付いていなかった。
しばらくは、なごやかな雰囲気が場に漂っていた。
カラ松とユーリがナチュラルにイチャつくのを揶揄したり、くだらない噂話で笑い合いもした。
「そう言えば、ユーリが食べたがってたスナック菓子をパチンコの景品で貰ったんだ」
「あ、この間話したやつ?やった!お店でもなかなか見かけないんだよ、あれ」
ぱぁっと顔を綻ばせるユーリを、カラ松は愛おしそうに見つめる。兄弟が異性に向ける熱視線を直視したトド松は、何とも決まりが悪い。
「持ってくるな」
カラ松が腰を上げるのと、正座していたユーリが足を崩すのがほぼ同時だった。
距離感のおかしい二人だから、彼らの足がぶつかるのも自然な流れで、カラ松は、あ、と声を出す。
「すまん、ユーリ」
「あっつ…っ!」
唯一自然でなかったのは、ユーリの反応だった。彼女の顔は苦悶に歪んだのだ。
「え、熱い!?…す、すまん、当たり所が悪かったか?」
カラ松は慌てて地面に膝にをつき、自分が衝突したユーリの足に触れる──それが、逆鱗だった。
「うええぇぇぇえぇぇ!」
室内に轟く素っ頓狂な絶叫に、カラ松含む六人全員がビクリと肩を震わせる。
「な、何!?ユーリちゃんどうしたの!?」
チョロ松に至っては、手にしていたラノベを床に落とした。
「ハニー!?」
「あ、足…足痺れた…!」
わなわなと手を震わせながら、慎重な手つきでゆっくりと足を折り曲げようとするユーリ。心配して損したと言いだけな顔でカラ松は鼻白む。それから何を思ったか、扉をノックするみたいに無言でユーリの腿を叩いた。
「うへあああぁあぁ…っ、ちょ、無理無理、無理っ!」
「えー、何それ楽しそう。俺もやりたーい」
おそ松が軽やかなステップでユーリの傍らに寄り添い、痺れた彼女の足を人差し指で突いた。楽しいことには全力投球する長男の、邪気のない笑みがまた絶妙な具合で苛立たしい。
しかし、ちゃぶ台に爪を立てて悶絶するユーリの、滅多に見られない取り乱した姿はなかなかに貴重だ。トド松は笑い出しそうになる口元をスマホで隠し、傍観者に徹する。
「おい、勝手に触るな、おそ松」
カラ松は声を低くして、おそ松の肩を掴む。
長男と次男は痺れから復帰次第、ユーリにしこたま怒られるのだろうなと呆れていたその時──事件は起きた。
二人が揉み合った拍子に円卓にぶつかり、コーヒーがユーリの服に溢れたのだ。
一松と十四松はカップが倒れる音に振り返り、チョロ松とトド松は行き場のない手を伸ばすポースで固まる。おそ松に至っては、円卓から滴り服を濡らす飴色の液体に、顔を青くした。
カラ松はおそ松の背中が目隠しとなり、あ、と呟いた誰かの声でただならぬ事態であることを把握したようだった。
「ユーリ、どうし──」
おそ松を押しのけた先の光景に、彼は言葉を失う。幸いにもパンツは黒デニムだったが、トップスは白。キャンバスに絵の具を広げたような染みは、どうしようもないくらいに目立った。
「あー、もーっ!」
眉間に深い皺を刻んだユーリが、低い声音と共に仁王立ちになった。
「そこに正座しなさい、二人とも!今すぐに!」
「えっ、オレも!?」
「あ、あの…ユーリちゃん…?」
無駄な抵抗を試みる兄二人を、彼女はじろりと睨む。
「二度も言わせるな」
「はい」
「すいませんでした」
感情を剥き出しにした怒号よりも、冷徹な一言に恐怖を覚えた二人は、すぐさま背を正して深々と頭を垂れた。ざまぁ。
「あのね、いい加減にしないと怒るよ?」
「もう怒ってるじゃん」
「そうだけど?」
「素直かよ!でもそういうとこ好き!」
射抜かれるおそ松。トト子からの理不尽で容赦ない扱いがデフォの我々には、愛ある叱責はむしろご褒美だ。
立ち上がったユーリの服からコーヒーの雫がぽたりぽたりと畳に落ちる。
とにもかくにも応急処置が必要と、カラ松が脱衣所からタオルを持ってきてユーリの腹部に当てた。
「勝手に触るのセクハラじゃない?」
「えっ、すまん!」
眉の間に刻まれた皺は一層深くなり、カラ松に冷たい視線が送られる。
「…ユーリちゃん、すごくご機嫌斜め?」
「今はどんなことも火種にしかならないと思う。ここは大人しくしておこう、十四松」
口に人差し指を当て、五男に小声で牽制する一松。チョロ松はいち早くラノベに視線を落とし、無言の逃亡である。
「あのさ」
受け取ったタオルで腹部を押さえつつ、ユーリは長い溜息を吐く。
「いい年して人の痺れた足軽々しく触るとか止めて。一応異性だから。これ一歩間違ったらセクハラで事案だから。必ず倍返しするから覚えとけ。しかも客人にコーヒー溢して、もう最悪。
数ヶ月前にもこういうことあったよね?二人が仲いいのは結構だけど、時と場所とタイミングは考えてマジで」
いつものユーリなら、対象者に厳しい一撃はあるだろうが、過去の失態を掘り出して己の怒りの燃料にするような真似はしない。
マグカップに注がれた水が一気に溢れ、周囲を水浸しにしてしまったのだろう。水が乾くまでは、追加で水を足さぬよう配慮するのは骨が折れる。
「そうだね、兄さんたちが悪いよ。これがトト子ちゃんなら東京湾に沈められても文句言えないでしょ?」
怒号だけで済むなら可愛いものだ。トド松はユーリの援護に回る。
「本当にごめんなさい」
長男と次男は今一度、深々と頭を下げた。
ユーリには、一松の膝上ジャージパンツとカラ松のシャツ──柄のないシンプルなもの──を渡し、濡れた服は染み抜きを施して洗濯機に放り込む。
洗濯担当にはカラ松が名乗りを上げた。本人は意図せずとも、追撃でユーリにダメージを与えた罪の意識もあるに違いない。
帰りまでに乾くかは時期的に怪しいが、最悪トド松の私服を貸すことも念頭に入れておく。
「カラ松くん、着替えありがとね」
廊下の最奥に設置された洗面台で台所用洗剤とぬるま湯を使い、丁寧にもみ洗いするカラ松の背中に、着替えを終えたユーリが声をかけた。
トド松が彼らを呼ぼうとした矢先のことだったから、言葉を紡ぐタイミングを失う。咄嗟に彼らの死角に身を隠した。
「ああ…でも、その、オレたちが悪いし…服は、ちゃんと綺麗にして返すから」
「それは本気でお願いする。結構気に入ってるんだよ」
彼の肩口に顎を乗せて、ユーリは大袈裟に口を尖らせる。傍目からはイチャついているようにしか見えない。リア充は爆ぜろ。
「…すまん。わざとじゃなかったんだが…」
「故意じゃないことは分かってるよ。でも許せる日と許せない日があるの。今日がその最たる例」
「そうだな」
「カラ松くんが私の痺れた足を掴まなければ、あんなに怒らなかったかもだけど」
ユーリは嘆かわしげに息を吐く。
「え、オレが原因?」
「足首掴んだ挙げ句叩いてきたのは誰だった?」
「…オレか」
カラ松は両手の水滴をタオルで拭い、肩を揺らす。洗面台に体を向けているが、鏡に映る彼は蕩けるような柔和な表情だ。兄弟には決して見せない、特別な。
「足が痺れて悶絶するユーリはレアだからな。
ガイアに使わされた美の化身が、警戒心なく垣間見せた愛嬌…ブラザーたちが一網打尽になってしまわないか心配するくらいキュートだぞ」
白けた顔で足を突いていたのはどこのどいつだろうか。
ユーリもトド松と同様の感想を抱いたらしく、薄い微笑を貼り付けたままだ。
「でも──」
ユーリとは反対側にあるタオル掛けにタオルを戻しながら。
「ユーリのああいう無警戒な姿を、他の男に見せるのは癪だな」
小さく言い放ったカラ松がどんな表情をしていたのか、離れた位置にいるトド松には分からなかった。
「見せざるを得ない状況に追い込んだのはカラ松くんだから」
ユーリはにべもない。
「…まぁな。それについては反省してる、一応」
カラ松は苦笑して指先で頬を掻いた。
「二人でいる時の感覚でやってしまったのは、オレが悪かった」
「ほんとそれ」
カラ松とユーリは、顔を見合わせて笑う。
二人でいる時は今日以上にイチャついてんのかお前ら、とトド松が内心で全身全霊のツッコミを入れたのは言うまでもない。血を吐きそうだ。
「というか、カラ松くん洗濯できるんだね」
染み抜きを施した服を網に入れ、慣れた手つきで洗濯機のスイッチを入れるカラ松に対し、ユーリは驚いた様子だった。
「当たり前だ、これくらいできる。やらないだけだ」
スキルはあっても実行に移さないことが常々問題視されているのだが、いっそ清々しいほどの棚上げだ。
「うーん、まさにTHE自宅警備員って感じの言い草」
それな。
トド松は深く同意する。自分もまた同類ではあるのだけれど。
意外だったのは、カラ松の顔からすっと笑みが消えたことだ。数秒の無言の後、彼はユーリから視線を外して液体洗剤のボトルを床に置いた。
「ユーリ、やけどはしてないか?」
「え?あ、うん。もうぬるくなってる頃だったし」
「…そうか」
カラ松は洗濯機の蓋を閉める。それから──
ユーリを壁際に追い詰めた。
彼女の耳朶に触れるか触れないかの距離に、右の手のひらを突く。ユーリの横髪がふわりと舞う。彼女は背後に倒れ込むように、壁に背を預ける格好になった。
バランスを取るために肩幅に開いた彼女の股の間に、カラ松が自身の膝を差し込む。
洗濯槽が回転を始める。彼らが交わす睦言を掻き消してしまうような、おあつらえ向きな騒々しい音を奏でながら。
「なら、加減しなくていいわけだ」
ユーリは瞠目する。カラ松の口から放たれる声が、ひどく無感情に聞こえた。
「…うん?」
「いつもオレがされるばかりで理不尽だと思ってたんだ。
ユーリから仕掛けてくるんだから、少なくとも同じ程度はオレがしても問題ないんだよな?」
逃げ場を失ったユーリが呆然としている間に、カラ松は重ねた。
「オレたちは対等のはずだ」
右手は変わらず壁に突きつけたまま、左手が彼女の太腿に触れる。
カラ松らしからぬ唐突な振る舞いに危うく声を漏らしそうになり、トド松は自分の口を両手で押さえた。これから何が起こるのかという純粋な好奇心と、同じ顔の兄弟が大胆に迫る羞恥心が葛藤する。
「あー、そう解釈するかぁ」
逃げ場を失ったユーリは動揺するでもなく、あっけらかんと笑う。
「一方的なのはフェアじゃない」
「それは確かに。私ばっかりして、カラ松くんが駄目っていう雰囲気を理不尽と感じるその気持ちは分かる」
「尻を触られても許せと言うなら、足なんてセクハラの内にも入らないだろ?」
膝上丈の短パンから覗くユーリの白い足は、触り心地の良さを感じさせる程よい肉付きで、健康的な色香が漂う。
「それに──自宅警備員という表現は、いただけないな」
どうやら自宅警備員が地雷だったらしい。排他松にしろ自宅警備員にしろ、彼の地雷はどこに埋まっているかまるで読めない。
しかし口汚く罵らないだけ、ユーリに対する配慮はあるようだ。
「…仕方ないな───いいよ」
ユーリの口から飛び出した台詞に、トド松は耳を疑った。
「何がいいんだ?」
「私がカラ松くんにやったことあるところまでは、お返ししてもいいよ」
カラ松が言葉を失う。彼女から同意が得られるとは露にも思っていなかった、そんな心情が窺える。
「ユーリ…」
「やられっぱなしは嫌だよね」
声質は冗談を言う時のように軽い。ちゃぶ台を囲んで他愛ない世間話に花を咲かせている時と同じトーンで、ユーリは言う。カラ松が手を出せるはずがないと軽んじているのか、それとも。
カラ松の肩に手をかけて、ユーリは艶然と微笑む。
「でも場所がちょっと…ね。ほら、ここだといつ誰が来るか分からないし」
「オレは構わないが」
間髪入れず答えるカラ松の目は据わっていた。
「え、カラ松くん見られたいタイプ?」
「そういうわけじゃないが、何も脱がそうってわけじゃない。ハニーがいつもやってるように、すぐ終わる」
短パンの裾に手を差し入れて、たくし上げるように触れる位置を徐々に高くする。不思議で仕方ないのは、ユーリが変わらず笑っていることだ。突き飛ばすことも押し返すこともせず、彼女の両手はカラ松の肩にそっと置かれたままで。
「けどほら、やっぱり問題だと思うんだよね」
可愛らしく小首を傾げてユーリは言う。
「さすがに私も、今みたいに他の人に見らながらってはちょっとアレだから」
「……え?」
カラ松が体を強張らせる。
トド松がユーリの発言を咀嚼して理解するより先に、次男が素早く振り返り──トド松と、目が合った。みるみるうちに見開かれる双眸。
「トッティ!?」
「あっ…ち、違っ…見てない!ボク何も見てないから!気にせず続きを!」
「できるかぁ!」
顔を真っ赤にして叫ばれる。そりゃそうだ。
カラ松がユーリから手を離したのが見えたので、トド松は脱兎の勢いでその場を後にする。
なぜバレたのか、トド松は不思議でならない。
音を立てないよう細心の注意を払っていたし、彼女は一度だってトド松に視線を向けなかった。気付いた気配は皆無だったと断言できる。なのに、だ。
追いかけてくるカラ松に捕まるより前に、トド松は居間に滑り込む。続けざまにカラ松が駆け込んできたが、何かあったのかと訝る兄弟に彼が口にしたのは、誤魔化しという名の虚偽だった。覗き見に対する後ろめたさも手伝って、トド松もそれに乗った。
口裏合わせの共謀は功を奏し、なお真相追求を試みる兄弟をいなし、その後ユーリが平然とした顔で戻ってくることで完全な終止符を打ったのだった。
「ユーリちゃん…さっきは何かごめん」
たまたま二人きりになったタイミングで、トド松はユーリに耳打ちする。
「え?…ああ、あれのこと?
別にいいよ。トド松くんのおかげで、いいタイミングで脱出できたしねー」
からからとユーリは笑う。
「ボクがいるってこといつ気付いたの?」
そう問えば、言葉なく意味深な流し目を寄越してくるから、不覚にもドキリとする。普段の快活で健康的な色気とは、まるで異なる表情。
「知らなかったよ」
小さく、トド松にだけ聞こえる声音で言い放たれる真実。
「…はい?」
「だから、トド松くんが見てるなんて知らなかったの。カラ松くんの視線を背後に向けることができれば、それで良かった。その隙に逃げる気満々だったよ」
何て?
「だから、誰もいなくても別に良かったんだよね。注意が一瞬でも他に向けば、あの体勢から抜けるのは簡単」
彼を傷つけない最良の手から順に行使する心積もりだった。いずれにせよ、カラ松の手中に落ちる気など微塵もなかったのだと、ユーリは告げる。
「でも…それって危なくない?二人きりの時ならいいって解釈されるでしょ」
手足の枷はそのままに、鎖が少し長くなっただけだ。僅かな延命に過ぎない。
「その時はその時で、別の言い訳使ったり論点すり替えたりって感じかな。すり抜ける術は多く持ってるから大丈夫だよ」
けれど直後、ふと天井を見上げてから人差し指を自らの口元に寄せた。
「カラ松くんには内緒ね」
二人だけの秘め事は、トド松に甘美な刺激をもたらした。カラ松の知らない彼女の秘密を知っている、優越感にも近い高揚感がじわりと胸に浸透する。
艶めいたいたずらっぽい眼差しを、これまで何度カラ松は向けられてきたのだろう。よく手を出さないでいられるなとトド松は感心しきりだ。自分なら無理。
カラ松相手なら逆転させる自信があった。
以前二階で彼にかましたセクハラを叱責されている時、ふと溢したユーリの言葉を思い出す。あれは本心だったのか。強ぇ。
「でもカラ松くんは本気じゃなかったと思うよ」
「は?」
驚愕の台詞が突然飛び出してきたので、トド松は唖然とする。
「え、じゃあ何?茶番?」
「うーん…そうとも言う…のかなぁ」
深く考えたことなどなかったとでも言うように、ユーリは腕組みをして唸った。トド松にはもはや理解不能の距離感だ。
「これも内緒ね」
ユーリは囁くように言って、すっくと立ち上がった。
ちょうどカラ松とチョロ松が台所からケーキとコーヒーを人数分運んでくるところで、手伝いを申し出るためだ。チョロ松からケーキの載ったトレイを受け取り、カラ松と共に居間へと戻ってくる。
「ね、カラ松くん。さっき友達から連絡があって、駅前に安いダーツバーができたんだって。今度行かない?」
「フーン、ダーツバーか…いいだろう、オレの百発百中パーフェクトショットを見せる時がやって来たようだな。あまりの格好よさに見惚れるんじゃないぜ、ハニー」
カラ松は気取った声でユーリの誘いを受ける。
円卓に置かれたトレイからは、コーヒーの香ばしい香りが漂った。
「ダーツを投げる推し、か。間違いなくいい絵…尊い」
微妙に会話は噛み合わない。なのにどちらともなく視線が絡んで顔を見合わせて、同時に相好を崩す。イチャつくのは表出てやれ。
カラ松もカラ松で、つい先程まで鬼気迫る勢いでユーリを壁際に追い込んでいたとは思えないほどの穏やかな態度である。
「…犬も食わないって、こういうことか」
頬杖をついてトド松が吐き捨てると、カラ松はきょとんとしてこちらを見やった。対するユーリは訳知り顔で小さく微笑むから、一層白けた気持ちになる。
「どうした、トッティ?ご機嫌斜めだな」
「べっつにー」
曖昧な物言いは肯定に等しい。
「まぁまぁ、ケーキでも食べて気分転換しよう。せっかくおばさんが買ってきてくれたんだし。トド松くんどれがいい?」
甘味程度でほだされるものかとは思うものの、一見微妙な彼らの関係性は、本当はもっと単純明快なのかもしれない。なぜなら、曖昧模糊と解釈しているのは、他ならぬトド松自身だからだ。
彼らの日々のやり取りは、駆け引きなんて上等なものではないかもしれない。対等で、限りなく恋人に近い距離感で、けれど紙一重で交わらない線引きをして。
とっとと付き合ってしまえと、最近は羨ましさ通り越してもどかしささえ感じる末弟なのだった。
馬鹿馬鹿しい。実に、馬鹿馬鹿しい。