短編:長男と居酒屋で

「ユーリちゃん、時間ある?俺と一杯やってかない?」
白い歯を覗かせて、おそ松くんはニカッと笑った。


仕事帰りに帰路に着く私と、パチンコで大勝ちした帰りのおそ松くんが出会う。偶然だねなんて盛り上がり、彼からの誘いで飲みに行く流れになった。

私たちは、いわゆる大衆居酒屋にやって来た。使い込まれた木製のテーブルと椅子が等間隔に並び、壁には所狭しとメニューの札が貼られている。入店したのが七時近かったから、既に店内は半分以上の席が埋まっていた。スーツ姿の男女も散見され、店内は有線のBGMが掻き消える程度には賑やかだ。
「ほんとにこんな店でいいの?俺は別に構わないけど」
おそ松くんは指先で頬を掻きながら、席に座る。引いた椅子が床と擦れて、ギギッと音を立てた。
「こういう所の方が良かったんだ。食事に気を使わなくていいし」
手拭きを運んできた店員に、ひとまず二人分のビールジョッキを注文する。

おそ松くんの行きつけの店に連れてってよ。
二人で飲むにあたり、私はそんな頼み事をした。
仕事帰りの疲れている時に、マナーだ何だのといった類に配慮しなければならない店は遠慮願いたかったから、彼なら確実に外すと踏んだのだ。結果は上々で、私は暖簾をくぐるなりにんまりとしてしまった。

「ユーリちゃん、それお世辞じゃなくて素で言ってんだよな?…何か、カラ松の苦労が分かる気がする」
おそ松くんはテーブルに頬杖をついて、苦笑した。
「気楽にしながら、おそ松くんとの会話に集中できる所が良かっただけだよ」
「そういうとこなんだって」
何がだ。
男と女が向かい合って食事をする場に、必ずしも色気や礼儀が必要とは限らない。フラットで気楽で無礼講、私が今望んでいるのはそういった場所だ。

「でもユーリちゃんのそういうとこ…俺は好きだな」

目を細めて言われた頃に、ビールとお通しの枝豆が運ばれてきた。グラスに汗をかいたジョッキが私たちの眼前に置かれるので、無言で持ち手を掴み、持ち上げる。
「俺とユーリちゃんの偶然の出会いに」
「私とおそ松くんの夜に」
言葉遊びを肴に。

乾杯。




肉じゃが、だし巻き卵、串の盛り合わせ、ポテトフライ、庶民的で馴染み深い料理が次々と運ばれてくる。一杯目のジョッキは一気飲みで空になり、おそ松くんはお代わりを注文。それもすぐさま胃に消えて、三杯目からは焼酎になる。
テーブルに並べられた料理がある程度減った頃合いには、おそ松くんはすっかり酔いが回っている様子だった。指先で縁を掴み、ゆらゆらと揺らしているグラスは、はてさて何杯目だっただろうか。
彼は枝豆を口に放り込み、口火を切った。

「俺たち六つ子の平穏を掻き乱したのは自分だって、ユーリちゃん自覚ある?」

私は刺身を口に運ぶ手を思わず止めてしまった。伏せられた彼の目は、どこに焦点が当たっているのか分からない。定まっているのさえ怪しい。
「何の話かな?」
努めて冷静に、続きを促す。
「カラ松の財布を拾って?街で偶然再会してご飯行って?会うようになってからもう一年くらい?
これ、これからも続くんだよね?」
指折り数える彼に、私はイエスともノーとも答えられない。
「あ、ごめんごめん。意味分かんないよな、急に」
おそ松くんは困ったように笑って、自分の髪をくしゃりと掻いた。
「六つ子としてずっと変わらなかった根幹が揺らいで、俺も動揺してるんだよ」
「根幹…」
「そ。馬鹿でクズで童貞な俺たち六つ子がいつも雁首揃えてる、これが根っこ。
もう二十年以上それが変わらず続いてきたわけで、まぁ当面何年かはこんな感じかなって漠然と思ってたところに──ユーリちゃんが来て、揺らいだ」
グラスの中の透明な液体が、揺さぶられることで波打つ。静かな水面に波紋を起こした。
「定着するのは予想外だったんだよな。しかも相手がまさかのカラ松」
競馬なら万馬券もんだよ、とおそ松くんはひらひらと手を振る。
「おそ松くんにとって私は厄介者だった、ってことかな?」
驚きはあったが、その可能性が脳裏を掠めたことはある。
全員横並びが当たり前で、裏切り者には手厳しい処罰を下すのが習わしだった環境下。均衡を崩しかねない部外者は招かれざる客なのではと、彼らと深く付き合うようになってから、ふと考えたことはある。
「んー、それは違うかな。邪魔とか、そういうのじゃないんだよなぁ。
だってほら、ユーリちゃんみたいな可愛い子は好きだし、親しくできるなら諸手を挙げて大歓迎だし?」
「じゃあ…」

「ずっといられたら困るな、って感じだったのかも」

おそ松くんはずいぶんと酔っている。
一年ほど付き合いだが、彼と込み入った話をしたのは、そう言えばこれが初めてだ。私たちはいつも上滑りする会話ばかり重ねてきた。飄々と掴みどころのない長男が曝け出す本音──に見えるもの──は、なかなかに衝撃的である。

「社会人やってる奴らって忙しいし、いつまでも同じ所でグルグルしてる俺たちとは環境も全然違うじゃん?
だから、ユーリちゃんもそのうちいなくなると高を括ってたんだよ。なのにいつまでもいなくならない。困ったなぁって、それだけ」
六つ子と異性との関係性に一石を投じたキンちゃんという子は、出会って間もなく地元に帰っていった。合コンした子とも尽く縁がない。だから私とカラ松くんの付き合いもその程度と軽んじていた、そんなところか。
「でもおそ松くんたちも、さすがに何年も同じままってことはないでしょ?
みんな年を取って、周りだって変わっていくんだし」
「まぁね、そりゃあるよ。
トッティがジム行きだしたとか、観るAVがDVDからVRになったり、そういう変化は確かにある」
AVの件は割とどうでもいい。
「外的要因は仕方ない部分もあるんだよな。
でもさ…結局戻ってくるんだよ。根っこは変わらないって変な自信があったし、実際その通りになってた」
キーワードは『変化』か。
私は喉を潤すドリンクをアルコールから水に変えて、おそ松くんの真意を読み取ろうと試みる。
ふ、とおそ松くんは不敵な笑みを浮かべた。

「でもユーリちゃんが現れて、カラ松は変わったんだ」




カラ松くんは私の前で煙草を吸わなくなった。自分の趣向よりも私の反応を優先して服を選ぶようになった。そして、スイッチさえ入れば、異性相手にも自然体で接することができるようにもなった。
「うん、カラ松くん変わったよね。
気を抜くと相変わらずすごいセンスの服着るし、厨二病発言も多々あるけど──でも、いい男だよ」
「うわ、ユーリちゃん言うなぁ。そういうのは本人に言ってやれよ」
「本人前にすると可愛いって感想が先立つから、言う機会がないんだよね。カラ松くんを褒めようとした途端、私の語彙力はすぐ旅に出ちゃう」
困っちゃうねと私は片手を頬に当て、悩ましげに溜息を吐く。おそ松くんは声を立てずに肩を揺らした。

「俺はカラ松みたいに変わる必要ないから、ずっと楽してたいの。苦労したくない、親のスネかじってダラダラしてたい」
「変わることに対してトラウマでもあるの?」
「いーや、そういう類のは全っ然」
そう言って、彼はグラスに僅かに残っていた焼酎をあおった。店員を呼んで、同じ物のおかわりを要求する。
「今まで好き勝手やってきたから、これからもしたいってだけ」
「そうかな?私には執着してるようにも思えたけど」
「執着って…えー、俺おそ松だよ?世界が誇るカリスマレジェンドの松野おそ松が、執着?あはは!」
おそ松くんは目尻に涙を浮かべるほど大声で笑うが、幸か不幸か、周囲の喧騒に程よく溶けていく。私の杞憂にしても笑いすぎじゃないのかと眉をひそめたところで、不意に彼は笑みを消し、遠くに視線を投げた。

「そっか…そう見えちゃう、か……執着、ねぇ」

実に不本意といった体ではあったが、おそ松くんが肯定に近い意思を示したのは驚きだった。
なぜなら、執着という概念は、松野おそ松という人物からは遥か彼方にありそうなものだったからだ。
「六つ子とか長男っていう肩書きに」
「うん」
「…こういうの、可愛い女の子と酒飲みながらする話じゃねーよな」
テーブルに頬杖をつき、おそ松くんが頬を膨らませた。口調も砕け、いい感じに酔っている。
「私は聞きたいな、おそ松くんの話」
「つまんない話だよ。聞いてても退屈だって」
「退屈なら続き催促しないし、自分の分のお金置いて帰ってるよ。仕事終わりのこの時間は、社会人の私には貴重なものなんだからね」
どこまで踏み込んでいいのかは、正直判断はつかない。知らない方がいいことも、世の中にはあるのだ。


「出る答えは、毎日違うんだ」
おそ松くんはそんな言葉を皮切りにした。
「変わった方がいいと思う日もあれば、やっぱ変わりたくねぇなって思う日もある。俺の機嫌とかその時の空気による感じ?
ブレブレなんだよね。だってその先のことなんて何も考えてないんだから。要は軸がないの」
たださ、と小さく呟かれる。
「でも今のカラ松が、ユーリちゃんと出会う前より確実に幸せだってのは分かる。腹立つくらい充実してて、ユーリがこうした、ユーリがああ言ったって、口を開けばユーリちゃんの話。始終ニヤニヤしてて鬱陶しいっつーか…すげー鬱陶しい」
大事なことなので二回言った?
「で、そういう底辺から抜け出そうとする弟を俺が縛っちゃ駄目だよなぁ、くらいはやっぱ思うわけ」
「意外に考えてるんだね」
素直な感想を述べたら、おそ松くんは苦笑いを顔に貼り付けた。
「そりゃ考えるよ。俺長男だし。弟たちの門出は祝ってやらないと」

ほらまた、と私は思う。六つ子の長男という名ばかりの肩書に呪縛されている。長男だからこうしなければならない、決り文句みたいな固定概念が彼の自由を制限する。
変化のない日常が、思考を奪う。他者との比較が、焦りを生む。危機感、焦燥感、そういった負の感情に対抗するために生まれた、これでいいのだと自身を納得させる呪文。
「おそ松くん自身は、どう思ってるの?」
私が両手で持つグラスについた雫が、ぽたりと一滴テーブルに落ちる。

「松野家の長男じゃない、松野おそ松としての意見を聞きたいな」

おそ松くんはほんの一瞬体を強張らせたが、すぐに肩を竦めておどけたポーズを取った。
「少なくともカラ松に関しては、なるようにしかならなくない?
俺が悪意をもって手出ししたところで、安々とひっくり返るほど軽いオセロ盤でもないだろ?」
一見私とカラ松くんの関係を揶揄するようで、容易く揺るがない信頼関係があると遠回しに断言されるのは、少々面映い。
「だから、さ」
頬どころか耳まで赤い酩酊した顔で、おそ松くんは軽いトーンで続ける。そこに深刻さや真剣味はまるで感じられない。冗談で私を煙に巻きそうな、いつもの声音。
なのに──

「いっそユーリちゃんがカラ松を攫っていってよ」

そう呟いた声は、いつになく抑揚がなかった。
「おそ松くん…」
「そうすれば、俺たちは変わらざるを得ない」
自らの意思ではなく、第三者の介入くらい大事にならなければ自分たちが変わらないことを、彼は自覚している。幾度か変わろうと決意して、けれど結局元の木阿弥になった。
だから、それこそ彼らの根底を揺るがし、二度と元の形には戻らないくらいの決定的な変化がなければ。


「──なーんてね。
はい、俺の話はこれで終わり~」

おそ松くんは笑いながらそう言って、円形に盛られたチャーハンをレンゲで掬う。大きく口を開けて頬張り、噛み締めるように口内で味わった。締めも大方食べ終え、長男との飲みは終盤へと近づく。
「おそ松くん、だいぶ飲んだね」
「酔わなきゃこんなしみったれた話できないって」
「あはは、そりゃそうか」
アルコールは時に言い訳の材料になる。大人だから行使できるズルい処世術だ。TPOを正しく選ぶ必要があるけれど。
「つか、俺だけめっちゃ喋って喉カラカラなんだけど。今度はユーリちゃんの話聞かせてよ」
「そうだね、いいよ。どんな話しよっか?」
私が笑みで応じると、おそ松くんは待ってましたとばかりに目を輝かせた。続けて、焼酎が半分ほど残ったグラスを顔の前に掲げる。
「これは忘れ薬ね」
「え?」
「だから、忘れ薬。これ飲んだら、今日のここでの会話はみーんな忘れちゃう厄介な薬。俺が何喋ったかはもちろん、ユーリちゃんから聞いた話も忘れるんだ」
一体彼は、何を。

「カラ松のこと、どう思ってる?」




数日後、私は松野家の廊下でおそ松くんと鉢合わせする。
長男の本心を垣間見てからそう経っていないせいか、顔を見合わせた時に一瞬身構えてしまったが、おそ松くんは普段と何ら変わらぬ緩さで私を歓迎した。まるで何事もなかったみたいに、緊張感のない顔で。
「おそ松くん、この前の話なんだけど…」
私が躊躇いがちに切り出すと、彼はきょとんとする。
「話の続きって…え、何の話?つーか、俺何話した?いやー、酔っ払ってなーんも覚えてないんだよね」
大きく口を開けて笑いながら、寝癖のついた髪をくしゃくしゃと指で掻く。私は唖然とした。
だって、それではあまりにも──

「おそ松、ユーリ」

しかし運は私たちを尽く見放す心積もりのようだ。背後から低い声がかかる。
おそ松くんは、やべぇと呟いて眉間に指を当てたうん、やべぇ。
「どういうことだ?二人で出掛けたのか?」
「えーと…」
恐る恐る振り返ると、カラ松くんが仁王立ちで顔をしかめている。一番やべぇ奴が来た。
「この前な。ユーリちゃんの仕事帰りにたまたま会ったから、よっ酒でもどう?ってなったんだよ」
「おそ松くん、パチンコで買って余裕あるって言うし、私もご飯作るの面倒だったから」
事実を述べているだけなのに、我ながら言い訳がましく聞こえるのはなぜなのか。
「カラ松が考えるようなやましいことしてねぇから」
「お前が下心なしにレディと二人でいるシチュエーションが浮かばん」
尋常じゃない長男へのディスり。
「オレに言わないってことは、やましいことがあった証拠じゃないのか?」
「だってどんな話したか覚えてないんだから、しゃーねーだろ。お前にそう言ったところで信用しないのも分かってたし、火種にしかなんない話はしないに限る」
おそ松くんは両手を頭の後で組んで、気怠げに溢す。
「最近どう?ってやりとりした後、私も疲れてたから酔いが回るの早くて、あっという間に時間経ってタクシー乗ってた感じ」
「…本当か?」
訝しげなカラ松くんに、私とおそ松くんは同時に頷く。
「本当も本当。信用しろよ、カラ松」
「ユーリ…真実なんだろうな?」
「シカトかよ」
無視されたおそ松くんは白い目を次男に向ける。

「本当に居酒屋で飲んだだけ。あ、途中でイヤミさんが乱入してきて最後まで一緒にいたから、何なら聞いてみてよ」

カラ松くんにどんな感情を抱いているかと、おそ松くんが私に問いを投げたあの直後、突然現れたイヤミさんが泥酔状態のまま絡んできてちょっとした騒動になったのだ。引き剥がして早々に会計を済まし、彼から逃げるようにそれぞれタクシーに乗り込んだ。イヤミさんはその姿を目撃しているはずだから、れっきとした証人になる。
嘘は言っていない。意図的に一部を省いた、それだけだ。

「──分かった」
カラ松くんは数秒の沈黙の後、私たちに対して理解を示した。内心でホッとしていると、彼は前に躍り出て私の両手を取った。
「ユーリの事情は分かるが…いくらブラザーと言えど、他の男と二人で酒を飲みに行かれると心配になる。ハニーにはそれだけの魅力があるんだぞ」
束縛は全力でお断り申し上げますと真顔で言い返そうとして思い留まる。彼にはそんな意図なんてないんだろう。ただただ愚直に本心を告げているに過ぎない。
「心配してくれてありがと」
にこりと笑顔を作れば、カラ松くんも同じ表情を返してきた。
「だいじょーぶだよ、カラ松。今更ユーリちゃんに手出そうと思うような無謀な奴は、うちにはいないって」
呆れたようにおそ松くんが言う。しかし長男を根本的に信用していないらしいカラ松くんは、額に皺を寄せた。
「なぜ断言できるんだ?」

私はときどき不思議に思う。
松野家の長男は、もしかしたら何もかも、未来さえも見通しているのではないかと、そんな幻想を抱くことがある。間違いなくそんなことはないと、頭では分かってはいるのだけれど。

「お前が許さないだろうし、ユーリちゃんも靡かないよ…絶対にな」