休日にホワイトデーを添えて

「じゃ、明日の夜までカラ松くん借りていくから」

私がそう言って、リュックを背負うカラ松くんの手を引いた時、ハッと顔を上げた五人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。同じ顔面が五つ並ぶ姿は実に見もので、玄関を出た私は腹を抱えて酸欠になりかけたことを、ここに記録しておこう。

ホワイトデーを翌日に控えた、金曜の夕方のことである。




「なぁ、その…ハニー」
街灯がアスファルトを照らし始める。チカチカと不規則に点灯し、私たちの足元に黒い影を作った。
「ブラザーたちに言って出るのは、さすがにやりすぎだったんじゃないか?」
カラ松くんは不安げに眉を下げる。対照的に私は清々しい。終わったことを悔やんでも、詮ないことだ。
「敢えて事実提示のみで背景を語らず、聞き手の想像力を掻き立ててくる卑劣な手口も相まって、間違いなくオーバーキルだったぞ」
まるで私がテロリストみたいな言い方するやん。
「大袈裟だなぁ。心配させないように事前に申告しただけなのに」
「オレたちは男女の生々しい機微に関してはミジンコ以下のメンタルしかないからな
「弱っ!」
クソザコナメクジか。

私はカラ松くんに微笑んだ。
「大丈夫、おそ松くんたちにはちゃんと許可取ってるよ」
目を瞠るカラ松くん。
「いつの間に…」
「カラ松くんが着替えてる間に。みんなからのバレンタインのお返しは、カラ松くん一日レンタル券でいいよって」
「……っ!」
私の言葉に、カラ松くんは頬を赤く染め上げる。黒目は不安定に揺れた。
まぁ、前夜から借りるってのは言い忘れてたけども。一日も二日もニートには誤差だ誤差、無問題。
「はは、策士だな、ユーリ」
「でしょ。我ながらいい案」
とはいえ、松野家を出た直後から『前日からなんて聞いてない』『詐欺じゃん』『早まるな』と怒涛のメッセージがスマホに届いているので、私は笑顔のままそっと電源を切った
カラ松くんは複雑な面持ちで、一日分の着替えを詰めた背中のリュックを一瞥する。しかし、どんな言葉をかけるべきか私が思案するより先に、カラ松くんが白い歯を覗かせた。
「まぁいい。ブラザーたちのジェラシーは、オレの海より深い愛で受け止めてやるさ」
鼻息荒く胸を叩く。
それから恭しく片手を伸ばして、彼は言う。

「ホワイトデーにユーリと過ごす光栄は──オレだけのものだ」

スポットライトを浴びる演者の如く、大袈裟な身振り。受け手の私が一笑に付すまでがお決まりの流れだ。冗談を隠れ蓑にする男と、看過する女。この喜劇はいつまで繰り返されるのだろう。

昼が終わり夜へと移り変わる。沈みかけの太陽を藍色の闇が覆い隠そうとするグラデーションは、禍々しくても美しい。大きな災禍に遭遇する迷信がまことしやかに語り継がれてきた、逢魔が時。
「今からは前夜祭だね。
カラ松くんは、宅飲みとチビ太さんの屋台どっちがいい?」
黄昏が滲めば、やがて宵の口だ。二十歳過ぎの社会人にとって、当面はまだ活動時間のうちである。
「ユーリは?」
「私?」
問い返されて、私は目を剥いた。彼は優しい笑みを作って、小さく頷く。

「オレは、ユーリの好きな方がいい」

空に残った僅かな茜色がカラ松くんの顔を照らし、私はその色を綺麗だと思った。




年季の入ったおでんの屋台。細かな傷のついたカウンターテーブルに、空になったグラスが転がる。出汁が染みて琥珀色に染まった大根は箸で容易く切れて、熱々のまま頬張った。外気の肌寒さが、おでんの味を引き立てる。
「ホワイトデー?あー、 そういや明日は十四日だったっけな」
興味なさげにチビ太さんが顎に手を当てた。湯気の立ち上るおでん鍋からは、食欲をそそる香りが広がる。
「オメーにもようやくホワイトデーをどうするか悩む相手ができたんだな、カラ松。めでてぇじゃねーか」
「チビ太!お、オレとハニーは別にそういうんじゃ……っ」
「あれ、そうなんだ?」
私は頬杖をついて、天然を装って茶化してみる。途端にカラ松くんは、顔を朱に染めながら黒目を揺らした。
「あ…や、違うわけでも、ない、というか…」
歯切れの悪い口ぶりに、私とチビ太さんは声を立てずに苦笑する。

「で、前祝いにオイラのおでんを食いに来てくれたってわけか。こりゃ明日の顛末を聞くのが楽しみだぜ、バーロー」
「勝手に期待するな!」
「──待ってカラ松くん、これはフラグかもしれない
私は真顔で彼の肩を叩く。
「…フラグ?」
「そう。おあつらえ向きな特殊イベント、チビ太さんの揶揄、一日レンタルという状況、これは全部一つの結論への伏線なんだよ───私がカラ松くんを抱くという
「分かった、そのフラグは今すぐオレがベキベキに叩き折る」
躊躇なしか。

日本酒の在庫切れに気付いたチビ太さんが、近場の酒屋から仕入れるために離席する。店番を任された私とカラ松くんは、二人きりになった。
団地に囲まれた住宅街の側、屋台のメインターゲットであるサラリーマンの人通りは少ない。
「ユーリ」
不意に、低い声音で呼ばれる。
「さっきの、その…ユーリがオレを抱くとかいう伏線なんだが……逆のパターンは全く想定しないのか?」
幾度か交わされた、定番とも言える応酬だ。けれど今回は、カラ松くんがやけに鬼気迫っているような気がした。
はぐらかすか、真摯に向き合うか、答えあぐねた僅かな隙をついて──彼は私の腰を引き寄せる。

「オレだって、ユーリをそういう目で見てる」

宙に浮いたまま硬直する私の両手。
「どれだけオレが我慢してるか…知ってるか?」
私と彼と、力の差は歴然だ。おでんの具を煮込む鍋の前で睦言を吐かれるアンバランスさは、私の戸惑いに拍車を掛ける。
「カラ松くん…」

「悪ぃ悪ぃ!つい酒屋のオヤジと話し込んじまってよ!」

とはいえ、核心に迫る前に中断を余儀なくされるのは、そういった星の下に生まれた宿命か。チビ太さんが戻るなりカラ松くんは私を突き放し、椅子から転げ落ちた
「何だカラ松、飲みすぎか?
明日ユーリちゃんとデートだからって、羽目外すんじゃねーぞ。つか、ユーリちゃん、グラス空だな。何か飲むか?」
大惨事が飲みすぎで片付けられた。




河川敷に、人懐っこい野良猫が一匹現れた。チビ太さんが言うには、ときどき屋台の前に姿を見せては、餌をたかりに来る子らしい。
ちょうどチビ太さんがカラ松くんに話を振ったタイミングだったので、私は椅子から降りて猫に近づく。膝を折って目線を下げたら、不審な新参者を品定めするような目つきで私の周りをうろうろする。成猫になりきらない幼さの残る外見で、愛らしいの極み。
「何もしないから、ほら、おいでおいで」
しかし彼(彼女?)が私に関心を示したのは、ほんの数秒だった。餌を貰えないと知るや否や、次の餌場へと駆け出していく。
「…あー、残念」
立ち上がろうと膝に手をついた時、僅かなふらつきを自覚する。さほど飲んでいないが、気分が高揚しているせいか。皮膚を撫でる冷気が、酔い醒ましになるといいのだけれど。

「どうしたらいいのか分からないんだ」
カウンターに頬杖をつき、カラ松くんが呟く。
席に戻ろうとした私は、屋台の暖簾から死角になった。何となくその場で立ち止まる。
「何がだよ?」
「ホワイトデーにユーリと過ごせるだけで天にも昇る心地だ。ただ、こういう経験がないから、どこに行って何をすればいいのか、まるでノーアイデアなんだよ。笑えるよな。
ずっと考えてて答えが出ないまま、明日になろうとしてる」
カラ松くんの瞳はチビ太さんを通して、遥か彼方に向けられているようだった。
数秒の間が空く。
「ユーリちゃんとデートは何度もしてんだろ?」
「……まぁな」
「それでいいんじゃねえの?」
「おい、いいわけあるか。ホワイトデーだぞ、いつもと一緒だと新鮮味も特別感もない」
カラ松くんは顎を突き出して不服感を示す。
「ユーリちゃんには訊かなかったのか?」
腕組みをしたチビ太さんが彼から視線を外し、その先で私と目が合う。何か言いかけた彼に対し、私は咄嗟に人差し指を唇に当てた。カラ松くんは気付かない。
「聞いた。オレと一緒に過ごせれば、それで───あ」
頬杖を外すカラ松くん。何かに思い至った様子だ。双眸を見開いてから、ふにゃりと相好を崩した。
「いやしかし…うん、それだと、むしろオレの方が──」
「一人でブツブツ気持ち悪ぃ奴だな」
「うるさい」
悪態をつきながら、コップに残った僅かなビールを煽るようにして嚥下して。

「そうか、本当にそれでいいのか…」

へへ、と肩を揺らしてカラ松くんは笑った。


二時間ほどカウンターに居座って、酔ったサラリーマンの二人組が暖簾をくぐった頃合いに、私たちは暇を告げた。次の目的地は決まっていないが、ひとまず駅へと向かう。
「ユーリは、これからどうしたい?」
「うーん…オールとかスーパー銭湯? でもそれだと、明日のホワイトデーに本調子じゃなくなりそうだし」
「オレはどっちでもいいぞ。ユーリと一緒だしな」
この言葉を優しさと取るか優柔不断と取るかは、紙一重だ。私は前者で解釈する。カラ松くんは真剣に、私と一緒にいられるならどちらでも幸福度は同じだと思っているに違いない。
「ならやっぱり、私の家で寝るのがベストかな」
「は?」
カラ松くんは眉間に皺を寄せる。
「ハニー、リッスントゥミー
顔が近づく。圧がすごい。
「何度か既に泊まってるのは棚上げするとして…年頃のレディが軽々しく男を部屋に泊めるのは褒められたことじゃないぞ。
ユーリは魅力的だし、風呂上がりの無防備な姿はエロいし、いい匂いがするし、エロい
何でエロいを二回言った?
「…つ、付き合ってない男を泊まりに誘うのは、道徳的にだな、その……」

「カラ松くんだけだよ?」

必殺・伝家の宝刀。
これは魔法の言葉だ。最後の砦を守ろうとする彼を手招き、罪悪感を抱かせないための。
いやだってオールは確実に体を酷使するだけだし、スーパー銭湯だといびきのうるさい輩に殺意抱いて不眠コースのオチが見えている。こちとら、ホワイトデー当日のコンディションは万全で臨みたいのだ。
「駄目…かな?」
私は小首を傾げて、潤んだ目で見つめる。とどめ。
「…っ、その目はズルいぞ、ハニー!」
「でも本当のことだし」
「ああもうっ、何でそんなにキュートなんだ!明日までオレの理性が保たなかったらどうしてくれる!」
それは知らん。


そんなこんなで、複雑な心境のカラ松くんを我が家に連行する。
シャワーを浴びた後、ローソファに腰掛けてつらつらと他愛ないことを話していたら、いつの間にか日付が変わる時間帯だ。
「明日は八時には起きよっか」
会話が途切れたのを見計らい、私は声をかける。
「ん…ああ、もうそんな時間か。ハニーが起きた時、もしオレが寝てたら起こしてくれ」
「分かった。私、七時には起きちゃうかもしれないけど」
「構わないさ」
目を細めて、カラ松くんは微笑む。

「ホワイトデーの一日、オレはハニーのものだ」

真摯な眼差しで唐突に告げられたのは、プロポーズ紛いのどストレートな言葉だった。
これが誘い受けってヤツかと感心する私と、自分の放った台詞の直球さに気付いて慌てふためくカラ松くん。二人きりの狭い室内、視界の中にはベッド、隙だらけなパジャマ姿、否が応でも性的なイメージが脳裏を掠める。
「ち、ちょ…っ、すまん、そうじゃなくて……もちろん明日だけじゃないぞ!オレは最初から──って、違ぁう!
聞かなかったことにしてくれないか!?
訂正するかと思いきや、告白を重ねようとするのは想定外だった。テンパってらっしゃる。
「あんまり気負わなくていいよ。楽しく過ごそうね」
カラ松くんも、気構えず自然体で楽しんでくれたらと思う。
「───ユーリ」
彼の手が伸ばされて、私の右手を取る。

「明日…いや、もう今日か。
今日は一件だけオレに付き合ってくれ。後はユーリの好きなように過ごそう。それをバレンタインのお返しとして、受け取ってほしい。
オレがユーリに渡せる…精一杯の気持ちだ」

それからおもむろに、手の甲に口づけた。静寂だけが漂う狭い部屋に、チュッと弾けたような音が小さく響く。顔を上げたカラ松くんの頬が赤い。私の体も、少しだけ熱を帯びたような気がして───
ドスケベだな、これ。




八時前に意識が覚醒する。八時にセットしていた目覚ましを止め、のろのろと上体をベッドから起こしたら、同じタイミングでカラ松くんがローソファで寝返りを打った。
推しの寝顔マジシコい。無防備な寝顔と剥き出しの首筋の組み合わせが絶妙なハーモニーを奏でる、端正と愛嬌の贅沢オードブル。朝から煩悩マックスで体調も万全だ、よし。

「起きて、カラ松くん。八時だよ」
毛布越しに肩を揺すったら、カラ松くんは両手を頭上に上げて大きく伸びをする。窓のレースカーテンから差し込む朝日に細めた目を、袖で擦った。
「…おはよう、ハニー」
「うん、おはよう」
「サンシャインが眩しいな。ハニーの魅力には遠く及ばないが」
寝起きに口説いてくるとは、余裕あるな。
「ご飯作るから、ちょっと待ってて。パンとコーヒーでいいかな?」
「ん、オレも手伝う」
「いいよ、すぐできるし」
カラ松くんの申し出に首を振ると、彼は立ち上がろうと地についた私の手首を軽く掴んだ。私は中腰のまま固まる。
「今日は…ホワイトデーだろ」
寝ぼけ眼と、まだ本調子でない掠れた声で。
可愛いなぁと思ってしまうのは、もうどうしようもないくらいに自然な流れだった。

ジャムを塗ったトーストと、小分けのヨーグルト、飲み物はインスタントのコーヒー。狭いキッチンで談笑しながらカラ松くんと用意をする。ローテーブルに揃えて両手を合わせたら、いただきますの合図。
「夜にも言ったが、今日は一件だけオレに付き合ってもらっていいか?」
「構わないよ。どこ行くの?」
私の問いに、彼は答えない。意味深な表情で、自分の唇に指を当てる。
「シークレットだ。着いてからのお楽しみといったところだな」
「ふふ、それは楽しみ」
「二時過ぎまではユーリの行きたい所に行こう」
「うん」
私が頷くとカラ松くんは笑って、厚切りのトーストを齧る。大きな口を開けて豪快にかぶりつく姿に、何となくじっと見てしまう。男の人だなと、当たり前の感想が過ぎる。
「どうした、ハニー?
フッ、さては寝起きのオレのセクシーさに魅了されてしまったな?
分かるぞ、朝日の清々しさとは相反する男のフェロモンがダダ漏れだからな。カラ松ガールズには目の毒でしかない」
「そうだね、つい見惚れちゃった」
「そう、見惚れるのは当然……は?
寝癖のついた前髪を片手で掻き上げたポーズのままフリーズするカラ松くん。
「ハニー…視力下がったのか?午前中眼科行くか?
「自分の発言には責任持って」
同調しただけでこの顛末。
「ツッコミを放棄するのは良くないぞ」
ボケだったんかい。




一件だけ付き合ってほしい。そう言われた時、オシャレなカフェといった類を私は想像した。指定された時間が午後三時という、微妙な時間帯だったのも根拠の一つだ。
目的地が実は有名ホテルだったとは、一体誰が予想できただろう。

そびえ立つビルを見上げて私は唖然とする。
呆気に取られたまま案内されたのは、ホテルの高層階にあるティーラウンジだ。フロアはスタイリッシュなインテリアで彩られ、天地に広がる大きな窓からは、澄み渡る青空と東京の景色が一望できる。
優雅なアフタヌーンティーが、雑誌やSNSでよく話題になる店だ。私も名前だけは知っている。

「行きたいと言ってただろ?」
予約席のプレートが置かれた席に案内され、席につくなりカラ松くんは微笑んだ。
木目が美しい無垢材の、見た目だけで高級と分かるテーブルに、向かい合わせの一人がけソファ。設備だけでも高級店と分かる仕様である。
「言った…かな」
記憶が曖昧だ。メディアで何度か見かけたから、軽い気持ちで「行きたいね」なんて口走ったことはあるだろうが。
「クリスマスフェアが始まるとか言ってただろ?」
「それ…半年くらい前だよね」
「その時から、いつかユーリを誘えたらと思ってたんだ」
半年も前の、しかも思いつきで発した台詞を覚えていてくれた。女性客が多い店で、予約するのだって勇気が必要だっただろう。
「たまたまキャンセルがあって、ラッキーだった。オレの日頃の行いが功を奏したな
最後の一言で台無し。
「きっと旨いぞ!楽しみだな、ハニー!」
けれど、花が咲くみたいな笑顔で、全部チャラになってしまう。チョロい私ですいません。



紅茶は、耐熱ポットとカップで配膳された。三段のケーキスタンドには、下から順にサンドイッチ、スコーンやミートパイ、ケーキやマカロンといった、写真映えする圧巻の彩り。ケーキスタンドに載らないアミューズ──いわゆるおまけの食事──もあり、アスパラガスのスープとチーズのピンチョス。
アフタヌーンティーってこんな感じだろ、を忠実に再現するラインナップだ。

存分に写真を撮った後、豪華な料理に舌鼓を打つ。見た目から楽しませてくれる上、味も美味しいの一言に尽きる。多様な素材の味が一つに集約されて、味覚を刺激していく。自分では到底再現できない味には、畏怖の念さえ抱く。
「わっ、スコーン焼き立てだよ!ジャムに合う!」
「ああ、旨い。アフタヌーンティーというからおやつみたいなもんかと思ってたが、もうこれはコース料理だな」
「オシャレで贅沢だよね。違う世界に紛れ込んだみたい。すごい非日常感」
華奢なカップとソーサーを持ち上げて、私は言う。力を入れたら壊れてしまいそうだ。安いマグカップで飲む紅茶とは別格に感じる。
「ハニーに喜んでもらえたなら何よりだ」
「喜ぶも何も……そっか、このためにハタ坊からの仕事受けたんだったね」
曰く付きの宝石を目的地まで運ぶ仕事だった。偶然居合わせた私も巻き込まれ、結果的に無事任務を完遂して報酬も得たが、対価が見合うなりの危険な目にも遭った。カラ松くんが危険を押してまでハタ坊の依頼を受けたのは、私に金銭的我慢を強いないため。
「ちゃんと仕事で得た正規の金だぞ」
カラ松くんは誇らしげに鼻を鳴らす。金の出どころが正規ルートじゃないなら犯罪だけどな。

一息ついて、飴色の液体を口に含む。宝石を彷彿とさせる高い透明感の高さで、すっきりとした味わいが広がった。音を立てないよう、カップをソーサーに戻す。
「まさかアフタヌーンティーに連れてきてもらえるとは思ってなかった。何て言ったらいいのかな…嬉しいし、最高のホワイトデーだよ」
私が言うと、カラ松くんは人差し指で前髪を横に流す。
「フッ、トップの座に君臨して当然だ。ホワイトデーにハニーを完璧にエスコートする…オレ!」
いい感じに調子に乗ってきた───と思いきや、彼は吊り上げた眉を下げて、相好を崩す。

「ユーリに満足してもらえるよう…バレンタインの後からずっと考えてきたからな」

私は真顔で腕組みをする。うちの推しが超絶に尊い。これ公共の場に出していいの?誘拐されない?大丈夫?




ソーサーの紅茶が空になるまで、二時間ほどは他愛なく話をしていたように思う。ティーラウンジを出て、エレベーターに乗り込む。エレベーター内の客が私たちだけだったこともあり、不意に静寂が私とカラ松くんを包み込んだ。
「ユーリ、ここだけの話として聞いてほしいんだが…」
だから、ただならぬ様子でカラ松くんが口を開いた時、反射的に背筋を正してしまった。いつ開くとも知れない密室で、何が語られるか分からない緊張感。
「何?」
「アフタヌーンティー、あれな…場違い感が尋常じゃなくてぶっちゃけ吐きそうだった
青ざめた顔でとんだ暴露。
「ニート童貞には敷居が高すぎる。ユーリの手前それっぽくこういう場所慣れてます来たことあります風を演じたが、いやいや初めてだから!来たことないから!彼女いない歴=年齢だぞ!?
ユーリがめちゃくちゃ嬉しそうで可愛いし、何なら可愛すぎて他の女性客全員モブに見えるし、禿げるかと思った!
支離滅裂な感想が炸裂する。混乱している模様。私が笑顔で傾聴に徹していると、彼は我に返り、照れくさそうに指先で頬を掻く。
「あー、何だ、その……臨時収入があったからとかじゃなく、いつかもっと気軽にこんな場に来れるようにするから」
だから。

「これは一回目だ。また必ずユーリを連れて行く」


ホテルを出た私たちは、近くの百貨店やファッションビルを見て歩いた。ホワイトデー当日ということもあり、仲睦まじいカップルが多く見受けられた。顔を寄せ合い商品を吟味したり、手を繋いでフロアを歩いたりと、微笑ましい光景である。
さて、では私たちはというと──

夕方だというのに空腹を感じず困惑していた
「調子に乗って食べ過ぎたかな…」
「食べ放題は魔性だな…」
そう、私たちが訪れたティーラウンジでは、ケーキスタンドで提供された食事の他に、一部メニューはビュッフェ形式で食べ放題だったのだ。ホワイトデー特別コースと銘打って高価格帯にする代わりに、食事として満足できる量を提供するコンセプトにしたのだろう。
結果的に私たちは策に嵌り、食べ過ぎた。
「ブュッフェはただのお代わりじゃなかったもんね」
「まさかブュッフェもオール新作にするとは……全種類試さないと損だと思ってしまう貧乏性にはキツイ仕様だった」
「でもさすが有名店だけあって、ハズレなしだったよね。全部美味しかったから、お腹いっぱい食べたの全然後悔してないよ」
笑って自分の腹を撫でたら、カラ松くんは困ったような笑みを返す。
「しかし、夕飯は入らなさそうだな」
「まぁね」
「夕飯抜きか、それとも…チビ太の所は昨日行ったしな…」
「カラオケとか?」
「んー…さすがにホワイトデーにそういう場所は…」
カラ松くんは腕を組んで唸る。グダグダの様相を呈してきた。同じメンツで過ごすことが多いと、進行のスムーズさが失われるのはままあることなので私は比較的楽観的だったが、カラ松くんはそうでないらしい。
「すまん、ハニー」
謝罪を口にされて、私は驚く。
「食事の量を考慮してなかった。エスコートすると啖呵を切ったのに、このザマだ」
ファッションビルを出た先の広場では、辺り一面の木々に白とゴールドを基調にしたイルミネーションライトが装飾され、夜をきらびやかに彩っていた。季節外れの雪を思わせる輝きは眩しく、日暮れ後の闇を歓迎する。美しい世界に、落胆は似合わない。
「おやつガッツリ食べると晩御飯いらないのはあるあるだよね。私は気にしてないし、適当に遊ぼうよ」
「それじゃあいつもと変わらないじゃないか。せっかくのホワイトデーなのに」
やはりそうか。彼はホワイトデーの呪縛に囚われている。

「ホワイトデーだけが特別じゃないよ」

先入観、はたまた独自の価値観か。いずれにせよ、必要のないものだ。
「同じ日なんて一日もないでしょ。同じ場所に行くにしても、時間も服装も会話も、違うところがたくさんある。カラ松くんと会う日は私にとって、全部特別なんだよ」
「しかし…今日は、いつもとは決定的に違う日にしたかったんだ」
カラ松くんは歯切れの悪い口調で言う。
「決定的に違うじゃん。
前日に私の家に泊まって、アフタヌーンティーに行って、何よりカラ松くんが一日中私がどうすれば満足するかって考えてくれてた。それだけでもう本当に全然違うんだよ。
私は、大満足通り越してるんだからさ」
一呼吸置いて、私は微笑む。
「カラ松くんは、今日はいつもと変わらないと思ってる?」
彼は即座に首を振った。とんでもない、と言いたげな顔で。
「違う!そんなこと、思うはずない!
こうやってホワイトデーにユーリと過ごせるだけで、それだけでオレには特別なんだ」
「ほら」
私が指摘すると、彼は自らの矛盾にようやく思い至ったらしい。彼の望む特別感は彼自身が作り出した幻想で、悪い言い方をするなら、独りよがりでしかない。その幻想の中に私の意志はないのだ。

「ホワイトデーに一緒に過ごせるってだけで、何もかもがいつもとは違うんだよ」




空いたベンチに腰掛けて、イルミネーションを見上げる。東京の、お世辞にも美しいとは言い難い淀んだ夜空を、明るい光が隠す。
「オレがバレンタインに貰った分くらいは返したかったんだが…」
「推しの可愛さがオーバーフローしてる分だけで相殺は確実かと」
「は?」
「あ、ええと…きっと同じくらい、私も今日嬉しかったよ」
最近の彼は、私の不適切な発言に凄んで訂正を要求する高等スキルを発揮してくる。レベルを上げたな、我が推しよ。
「ノンノン、お世辞にもならないジョークだぜ、ユーリ。オレの方が絶対嬉しかった
何の競い合いなんだこれは。
「カラ松くんこそ、分かってないなぁ」
「ユーリの方だろ」
「いーや、カラ松くん」
私たちは揃って腕を組んで睨み合い、そして笑った。

「ユーリを喜ばせるつもりが、自分本位になってしまったな。オレもまだまだというわけか」
カラ松くんは足を組み、小さく溜息を吐く。私は釈然としない。
「その言い草だと、ホワイトデーがもう終わったみたいに聞こえるけど」
「へ?」
「まだ真っ最中だよ」
このおあつらえ向きのイルミネーションを前に一人反省会突入とは、恐ろしい子。
彼は私の言葉を受け、ハッとしたようだった。腕時計で現時刻を確かめて、自分の額に手を当てる。
「…ジーザス…っ、ハニーの言う通りだ」
彼の黒髪は人工的な光を受け、キラキラと星屑が舞い散るように揺れる。静寂と喧騒の間、私たちの声は互いの耳にしか届かない。

「こんなロマンチックな光景を前にして、ユーリ以外に考えることなんてないよな」

ベンチの座面に置いていた指が触れ合う。私は動かしていないから、おそらくは意図的に。そのままにしていたら、手の甲に彼の手が重なった。手のひらの体温が、甲からじわりと伝わってくる。
「…少しだけ、このままでいていいか?」
躊躇いがちの誘い。
「うん」
短く承諾して、私は空を見上げた。思考さえ億劫になるような感覚が、白い世界に溶ける。手のぬくもりだけが、私の神経を現実に繋ぎ止めていた。




午後九時を過ぎ、私の家に戻ろうとした頃にようやく、私たちの腹は空腹を訴え始めた。最寄り駅近くでピザをテイクアウトして、家で食事を取る。主張の激しい後味を、あっさりとした麦茶が中和する。要は旨い。
「日付が変わる前には帰る。名残惜しいからって引き止めるんじゃないぞ、ハニー」
目を閉じ、演技がかった口調でカラ松くんが言う。
「引き止めたら、泊まってくの?」
率直な疑問だった。カラ松くんは押しに弱いから、なし崩し的に二泊目に突入しそうな気がしたのだ。
だが彼は私の予想に反し、かぶりを振った。
「いくら可愛いハニーといえど、そのお願いは聞けないな──本当に、大事にしたいんだ」
何を、と訊くのは無粋だ。
「十二時前に帰るなんて、シンデレラみたい」
「オレは男だぞ」
「去っていくのがシンデレラなんだから、男とか関係ないよ」
拳を握って力説する私に、彼は微苦笑した。それから突然すっと手を伸ばして、私の髪に触れた。二本の指先からサラサラと髪がこぼれ落ちていく。
「だとしても、残してきたガラスの靴をオレはすぐ取りに来る。一刻も早くユーリに会いたいからな」
「積極的なシンデレラなんだね」
「探してもらうのを待つような性分じゃない」
どこまでも真っ直ぐに私を見据える双眸。
「でも私も、必ず探し出すよ。例えガラスの靴が残ってなくてもね」
カラ松くんは目を瞠った。
「…どうやって?」
「分からない。きっと無我夢中でなりふり構わずだよ」
私自身、咄嗟に口を突いて出た言葉だった。名も身分も知らない、容姿さえ魔法で変えられた相手の捜索に、唯一の物的証拠なしに立ち向かうのは無謀でしかない。それこそ、霞を掴むような話だ。
でも───

「顔も匂いも癖も全部覚えてるから、姿が変わっても絶対探し出す」

シンデレラと目の前の人を混同している。一貫性がない、ただの言葉遊び。仄めかした想いを察しろと、無茶な要求。

「ユーリ」

カラ松くんの頬が紅潮する。
「これ以上オレを夢中にさせないでくれ。冷静でいられる自信がなくなる」
「そう仕向けてるとしたら?」
「ユーリっ!」
顔を真っ赤にしたまま声を荒げるカラ松くん。実質的な終了宣言だ。この会話はここで終了しなさいと、婉曲した手段で訴えられる。
キャパオーバーの推しもかわゆす。こういうのが見たくて私は生きてる。


結論、今年のホワイトデーはいいホワイトデーだった。