短編:せめて噛まれたい

とても緩いですが、ユーリ(あなた)×カラ松の描写があります。





違和感に気付くのは比較的容易なことだった。
その日カラ松くんは、七分袖でも過ごせるほど暖かな秋口だというのに、ツナギの袖を下ろした格好で我が家を訪れたのだ。


「十四松に噛まれた…」
私が不思議そうな顔をして見つめたせいか、質問を投げるより先にカラ松くんが袖を捲くる。彼の左腕には───綺麗な歯型がくっきりと跡を残していた。
健康的な肌に赤い跡。よほど力強く噛んだらしく、見事なまでに肌が窪んでいる。
「一卵性の兄弟間で何絶妙にエロいことやってんの?ナチュラルなBL?耽美な世界への誘い?受けて立つ
「立つな」
私の覚悟は瞬殺された。不満げに眉をひそめるカラ松くん。
「あとエロくない。下手すれば暴力だぞ」
「致す行為だって相手が嫌がったり乱暴にしたら暴力とも言えるでしょ」
「論点がズレてる」
「つまりね、噛んで体に跡を残すのはエロいって私は言いたいの」
「ウェイトだ、ハニー。オレは要約を望んだんじゃない。続けるな
噛まれた箇所をさすりながら、彼はすげなくあしらう。私へのツッコミにも切れ味が増し、ますます目が離せない当推しである。

とはいえ、推しの腕に歯型が残るのは私としても望むところではない。袖を捲くったスタイルを見慣れてしまったから、袖を下ろした姿は何となく変な感じだ。
「ちゃんと冷やした?」
私が訊くと、カラ松くんは愚問とばかりに頷いた。
「当たり前だ。肌質や体型もトータルコーディネートされたオレのパーフェクトボディを損なうのはガイアの損失だからな」
心配無用だった。訊かなきゃ良かった。
私が腕にそっと触れると、カラ松くんはピクリと硬直する。
「跡が残らないといいね」
「全力で祈っててくれ。オレの美貌に傷がつくとかあり得ん…っ」
カラ松くんはわなわなと体を震わせた。
兄弟喧嘩の域を超えた血みどろの殺戮を繰り広げたり、地獄に片足突っ込んで腐乱死体になりかけたこともあるそうだし、傷跡については心配する必要はなさそうだが。まぁ、言わぬが花というヤツか。


「童貞こじらせてついに兄弟間でエロいことしたのかと思ったよ」
配慮とオブラート皆無だな、ハニー」
頬に手を当てて首を傾げたら、さすがに不服そうなジト目が向けられた。いやしかし、松野家兄弟は全員こじらせ気味の童貞だから、興味本位という可能性も否定しきれない。ただ素直に言ったら怒られそうなので、本音は隠しておく。
「SMのプレイであるでしょ?」
「でしょ?じゃない」
カラ松くんは盛大な溜息を吐いて、私に事情を語る。

「寝ぼけた十四松に噛まれたんだ」

布団の配置的に遠いカラ松くんがなぜ、という疑問がまず頭に浮かんだが、そんな問いは見越していたのだろう、カラ松くんが鼻を鳴らす。
「昼飯後に昼寝していた十四松が、オレの雑誌を背中に敷いてたから、どかそうとしたら……これだ」
十四松くんはただでさえ力の加減を不得手とするから、食い千切られなかっただけマシと言えるかもしれない。
「タイミング悪かったんだね」
「雑誌を取るのに払った代償にしては大きすぎる」
だから跡が消えるまでは袖を下ろしている、と。
「──というか、ユーリのその兄弟間で云々の推測はおかしくないか?歯型くらいで飛躍しすぎだ」
私の傍らに座り、淹れたてのコーヒーが注がれたカップ片手にカラ松くんが不平を唱える。
「そうとは言い切れないよ。
さっき言ったようにSMや性的にもままあるプレイだし、キスマークみたいに所有権を主張するようなイメージを持つよね」
「キスマーク…」
「個人的には、キスマークより主張は強いって感じるかも。歯型は唯一無二だから」
さながら刻印だ。運が悪ければ長く跡が残るし、サイズ的にも目を引く。
カラ松くんはしばし前方を見据えて思案に耽っているようだったが、やがて私に顔を向けた。カップをローテーブルに置いて。
「ユーリ」
「うん?」

「腕、噛んでもいいか?」

何でそうなる。
「当然どうした。リアル肉食系肉?
「やってみたい」
何を。いや、ごめん、愚問か。
微かに上気した頬で、体を近づけてくる。欲情した推しの表情は正直ご馳走だが、噛まれるのは勘弁。ああでもインナーのVネックから胸元露出は反則だろ、最高に目の保養。
「待って、さすがに待って」
誘惑を振り切って、私は毅然と拒絶の意志を示す。
ゾンビに噛まれたのかって職場で心配されるから却下。
っていうか、加減できる保証ないよね?跡残ったら半袖着れなくなったら困るし嫌。そもそも私はそういう趣味ないの」
混乱を極める脳内を落ち着かせて、私はカラ松くんを片手で押し返した。
「…駄目か?」
「駄目。やる方ならまだしも、される側は無理」

「やるならいいのか?」

墓穴掘った。
しまったと思ったが後の祭りだ。面倒くさい展開になってきた。しかもおあつらえ向きなことに、二人きりの密室である。
しかしキラキラと目を輝かせて私の返事を待つカラ松くんを見たら、無下にできなくなる。私はとことん推しに甘い。
「新たな性的趣向発見に至るか、心底後悔するかの二択だと思うけど…」
「ウェルカムだ!」
ウェルカムなのか。鬱陶しいテンション始まった。




期待に胸を高鳴らせるカラ松くんの肩を押し、ローソファに横たえた。彼の股の間に膝を立てて、デニムの上から腿の内側を撫でる。
「は、ハニー…?」
セクシャルな意味合いを込めての、愛撫に近い接触だ。カラ松くんが戸惑うのも無理はない。
かくいう私は、彼に触れながら、跡を残す場所を吟味していた。なし崩し的に実行する側になったものの、体を噛むなんて経験がない。痛みだけが残るトラウマを防ぐにはどうすればいいか、冷静に考える。
片手を腿に添え、もう片方の手で黒いシャツの上から上半身に触れていく。
「……っ」
カラ松くんが息を呑んだ。顔は先ほどよりも赤い。
「嫌なら止めるから、言ってね」
私は言いながら、ツナギの袖からカラ松くんの腕を抜くよう誘導する。彼は少々恥じらいはしたものの、抵抗しなかった。体のラインが出る黒いシャツが、私の視界に映る。
このシチュエーション、もはや据え膳では?
「…嫌、じゃない」
片手で口元を隠し、私から目を逸しながらも、彼は言い切った。
「オレから言い出したことだし…その…これは少し緊張してるだけ、というか…」
「可愛いが過ぎる」
うっかり本音を口走ってしまった。
私の性欲をマックスまで爆上げしてるなんて微塵にも思っていないのだろう、この次男は。可愛い、エロい、そして厄介。
「……え」
「ほんと可愛いね、カラ松くん」
跡をつけるなら太腿なんかが妥当なのだろうが、デニムを脱がすと限りなく情事なので、首や肩辺りがいいのかもしれない。
肩にするとして、前からか後ろからか、それも問題だ。押し倒して散々触っておいて申し訳ないが、この体勢ではやりにくいことが判明する。
「起きて」
にこりと差し出した私の手に、おずおずと片手が伸ばされる。勢いをつけて上体を起こしたら、私は彼の後ろに回った。


跡は一つ残せば十分だろう。
カラ松くんはあぐらを掻いて、視線を床に落とす格好。いざ尋常に勝負と意気込んで、うなじにかかるカラ松くんの髪を横に寄せるため指を寄せたら、一瞬にして彼の背筋がピンと伸びた。変なところを触ってしまったようだ。
「ユーリ…っ、い、今の…!」
「あ、ごめん。髪の毛邪魔だったから、避けようとしたんだけど」
「えっ、あ、そ、そうだよな!すまん!」
こちらこそすまん。
改めて、無防備な白いうなじに程近い肌に歯を立てた。吸血鬼にでもなったような気分だ。
「…んん…ッ!」
カラ松くんが驚きの声を漏らす。
痛みを与えないようにという意志が強いあまり力を加減したため、最初の一撃は皮膚が僅かに凹むに留まった。あっという間に元に戻ってしまう。
「失敗しちゃった。意外と難しいなぁ」
もう少し強めでいくか。
「いやでも、これは…ヤバイな」
カラ松くんは片手で自分の口を覆う。
「軽々しく頼んだのを反省してる」
「じゃあ止める?」
我ながら意地の悪い質問だ。案の定、カラ松くんは恨みがましい目で私を睨む。普段の凄みはまるで感じられないほど弱々しいものだけれど。
「…言うと思うか?」
「だよね」

もう一度同じ場所に歯を立てる。今度は力を込めて、跡をつけるイメージをしながら。
さすがに痛むのか、カラ松くんが肩を強張らせたのが伝わってくる。私が彼の両肩を押さえているから、無理矢理強要しているような感覚に陥る。それはそれでソソるのは秘密だ。
「は…っ……どうした、ハニー…?」
口を離しても無言だった私を訝ってか、カラ松くんが訊く。十四松くんが残したものに近い痕跡が、弾力のある肌に刻まれている。インナーで隠れる位置、色は濃いが数時間もすれば綺麗に消えそうないい塩梅。
「ん、いい感じかも」
私が頷くと、彼はホッと安堵の息を吐いた。
「大丈夫?痛くなかった?」
「平気だ。痛いというよりは、気持ちよ───」
そこまで言って、彼は言葉を切った。しばし漂う静寂。
「ノープロブレムだ!」
突如轟く渾身の叫び。いくら何でも勢い任せにするのは無理があるだろうと思ったが、黙っておく。私は空気の読める子。
聞かなかったことにして手鏡を渡し、跡を確認してもらう。カラ松くんは不思議そうに鏡を覗き込み、肩に跡があると知るや否や、目を見開いた。恐る恐る歯型に触れる。
「何時間か経ったら消えると思うよ。出血させないようにと思ったら、これくらいがベストかな」
持続性だけで言えば、キスマークに軍配が上がるのだろう。

「ユーリなら、いいのに」

顔を上げれば、相好を崩すカラ松くんの顔が近い。
「血が出ても?」
「ユーリがつける傷なら消えなくてもいい」
私だけに聞こえるような絞った音量で彼は囁く。この部屋には他に誰もいないのに。
私は首を振った。
「それは駄目。一生気にしちゃう」
「ユーリが苦しむのは困るな」
でも、と彼は言う。

「ユーリがつけた跡に一生縛られるのは、オレにとってはむしろ幸せなことだと思うんだ」

まるでスティグマじゃないか。
キスマークも歯型も、刹那的だからこそ戯れとして扱える。傷が残れば、ただの怪我だ。
自分がつけた傷跡を見ると、一時は相手の肉体ごと手に入れた優越感に浸れるかもしれない。その錯覚こそが背徳感を掻き立て、欲情を引き出す。荒々しい熱情に浮かされるのは短期間で、以降は残骸の空虚に苛まれる。
「例え離れても、側にいられるような気がする」
私が残した跡に触れて、カラ松くんは微笑む。
「だから、駄目だって」
ソファに置かれた彼の手の甲に、私は手を重ねた。歪な執着に引きずられてはいけない。
「こうやって好きな時に触れるのに、傷の方がいい?」
「…良くないな」
彼は私に塞がれたのと反対の手を持ち上げて、私の頬から後頭部にかけての髪を指で梳く。緩く、優しい手つきで。
「変なこと言った。忘れてくれ」
「カラ松くんはどうしたい?」
白か黒か決着をつけるのだ。有耶無耶に収束させてはいけない。何となく、そんな気がした。
カラ松くんは照れくさそうに片手を首に当て──意図的ではないだろうが、私の残した歯型に触れながら──口を開く。

「ユーリに触れていたい」




十四松くんのつけた噛み跡が少しずつ薄くなるように、私のそれもまた時間経過と共に色を薄くしていく。消失するのが不服なのか、カラ松くんは何度も姿見で跡を覗くから、しつこいと小言の一つも言いたくなる。
幾度目かの確認の際、私は静かに彼の背後に回った。
「…ユーリ?」
背中から両腕を回して、腹の前で手を組む。一見甘えるような仕草だ。カラ松くんもそう思ったのだろう、鏡越しに私を見つめる瞳は蕩けそうだった。
「ん?どうした?」
柔和な問いかけには答えず、私はおもむろに唇を彼の耳元に寄せて、軽く耳朶を噛んだ。
「ひぅ…ッ…!」
呼吸をし損ねたような甲高い声が漏れる。カラ松くんは反射的に体を捻ろうとするが、私の両腕が体勢変更を許さない。
「耳は性感帯かな?」
「は、ハニー!?なっ、何を──」
「何をって」
クスクスと笑い声を溢しながら、私は再度彼の柔らかな耳に唇を寄せる。二回目は少しだけ力を緩め、口づけのような感覚で。
「ちょ、は…っ、ぁ…」
抵抗は意味をなさず、嬌声に近い吐息に変わる。
目の前の姿見に映し出される朱に染まった顔を自覚して、彼は苦々しそうに目を逸らした。抗いたい理性と、抗えない欲望との葛藤は察するに余りある。

「言ったよね?新たな性的趣向発見か後悔するかの二択になるよ、って」

大事だから傷はつけない。消えない跡も残さない。
それ以外の方法で、両者にとって利になる方法でもって、私は彼の意識を惹き付けるのだ。決して後悔はさせないから自らの足で歩み寄っておいでと、誘う。
充足感に、ほんの少しの快楽を混ぜて──

せめて声を殺そうと歯を食いしばる彼の姿を鏡越しに見つめながら、私は静かにほくそ笑んだ。