玄関の戸を開けて上がり框に視線を落とすと、乱雑に放り出された複数のスニーカーから少し離れた場所に、見慣れたパンプスがあった。
「…もう来てるのか」
ユーリが。
壁掛け時計の針は一時半を指している。彼女が松野家を訪ねると言ったのは間違いなく二時だから、ずいぶんと早い到着だ。
居間からは襖を通して何人かの会話が漏れ聞こえてくる。その中にユーリの声はないが、相槌を打つに留めているのかもしれない。そう思い、引手に手を掛けた。
「おかえりー、カラ松兄さん」
バランスボールに全身を預けた十四松が、大きく口を開いてカラ松を出迎える。居間にいるのは、一松、十四松、トド松の三人だった。
「お前、ユーリちゃんとの約束ほっぽって出掛けるとかマジかよ」
一松が信じられないとばかりに眉根を寄せた。
「それがさ、ユーリちゃん、暇だったから前倒しで来たんだって。さっき一松兄さんがトイレ行ってる間に言ってたよ」
トド松がスマホから視線を上げて笑う。一松は納得したように頷いたが、それでもユーリの訪問を待ち構えるでもなく平然と外出していたカラ松の心境は分かりかねると言いたげな顔だ。
「ユーリは?上か?」
「うーん、たぶんまだ縁側かな」
「縁側?」
十四松の声に、カラ松は首を傾げる。ユーリが松野家を訪問した時は、必ず居間か二階にいるからだ。まだ、という意味ありげな言葉も気にかかる。
けれど五男はカラ松の疑念など知る由もなく、へらりと気の抜けた笑みを浮かべた。
「半時間くらい前に、おそ松兄さんと一緒にいたんだよねー」
さほど手入れのされていない庭に続く縁側。年季の入ったガラス戸が開け放たれていて、その間から二つの長い影が、重なるように室内に長く伸びていた。
おそ松とユーリは、肩を寄せ合うようにして談笑している。彼らの手元には分厚い本のような物があって、互いに指を差しては言葉を紡ぎ、時に笑みを溢す。顔を見合わせる二人からは、仲睦まじい関係性が窺えた。
「ユーリ」
傍らに膝をつき、名を呼ぶ。努めて冷静に、感情を殺して。
「ん?…あ、カラ松くん、お帰り!」
パァッと彼女の顔が綻ぶ。いつ見ても愛らしい笑顔だ。体から力が抜ける。
「遅くなってすまない、ハニー。散歩から帰ってみたら靴があって驚いたぞ」
カラ松はユーリの肩に手を置く。
「ごめんごめん。意外に早く着いちゃって」
両手を顔の前で合わせて謝罪のポーズを取るユーリ。おそ松と肩を並べている姿をカラ松に見られても平然としているのは、戸惑う理由がないからなのだろう。
それは長男も同様だったらしく、あっけらかんとした表情でカラ松を見やった。
「お、やっと帰ってきた?
てかさこれ見てよカラ松、懐かしくない?子供の頃の俺らってマジで見分けつかねぇよな」
おそ松が古びたアルバムを突きつけてきた。小学生の自分たちが写真の中で暴れている。
「私も識別頑張ってみたけど、全然駄目だったよ」
「でも性格は結構個性あったんだよ。な、カラ松?」
「写真だけだとほんとクローンだよね」
ユーリが再びアルバムに視線を落としたのを好機と捉え、カラ松は無言で長男をじろりと睨む。ありったけの感情を込めた眼光のつもりだったが、おそ松は苦笑いするだけで懲りた様子はない。その図々しさは、さすが六人の頂点に君臨する器なだけはある。
「そんな睨むなって。俺がここで寝っ転がってアルバム見てたら、ユーリちゃんが来ただけ。無罪だから」
「推しの幼少期という二度と戻れない過去を垣間見る機会を逃す手はないよね。現在の推しを構築する欠かせない要素な上に幼いというだけで可愛さ桁違いの生き物なんだよビジュアルが最高すぎるありがとうございます」
「うわぁ、超早口」
ユーリは息継ぎなしに捲し立て、しかも真顔だ。おそ松は若干引き気味な模様。
だが彼女の肩に置いたまま微動だにしないカラ松の手を見て何かを悟ったらしい長男は、ククッと意味深な笑い声を漏らして、アルバムを閉じる。
「カラ松も戻ったし、一旦中戻ろっか、ユーリちゃん。このままここにいたら、痺れを切らしたあいつらが押しかけてきそうだし」
「そうだね。あ、でもそれ後でまた見せもらってもいい?」
「いいよ。つか、部屋で続き見たらいいじゃん」
「やった!じゃあ私持っていくよ」
ユーリはおそ松からアルバムを受け取り、軽快な足取りで廊下を駆け出していく。後ろ姿はすぐに見えなくなって、遠くから兄弟が彼女の帰りを歓迎する声が響いてくる。
カラ松はじっとおそ松を見据える。ユーリとのアルバム受け渡し時に、二人の指が僅かに触れ合ったのを、カラ松は見逃さなかったのだ。ユーリはまるで気に留めていなかったが、おそ松はピクリと片方の眉を吊り上げていた。
「だから、んな睨むなって」
長男はあぐらをかいて、肩を竦める。
「まぁお前が惚れ込むのも分かるよ。可愛いもんな、ユーリちゃん。アルバム見てた時すげーいい匂いしたし、今なんか手が当たってぶっちゃけヤバかった」
「東京湾に沈む覚悟はできてるか?」
「ガチめの殺意は止めろ」
おそ松に非はない。それは嫌というほど理解している。自分だって彼の立場なら、同じ感想を抱いたに違いないから。
諸悪の根源があるとしたらそれはきっと──ユーリの距離感なのだろう。
その日、居間にいたのはカラ松とトド松だけだった。例の如く暇を持て余し、カラ松はファッション誌で、トド松はスマホで時間を潰す。
無言の時間が長く続き、しばらくしてどちらからともなく声をかけたのを皮切りに、会話が始まった。
ユーリとの曖昧な関係をひとしきり揶揄された後、SNSの話に移行した。流行りのSNSは一通り網羅している事実と、最も使用頻度が高いのは写真や動画を共有するサービスであることを末弟はつらつらと語る。
「普段はどんな写真を上げてるんだ?」
「んー、映えるものなら何でも。高尾山みたいな景色が綺麗な所とか、映えスポットとか……ああ、あとオシャレなスイーツなんかも」
画面をタップしながらトド松は言う。
「さりげない感じで映える写真撮るのって大変なんだよねー。盛ればいいってもんでもないし。
でも見てこれ、この前すっごいいい感じに撮れたパンケーキタワー!」
「パンケーキタワー」
名前からして圧倒的質量のパワーワード。そして突きつけられた画面に映るのは、八枚重ねのパンケーキの上からホイップクリームと色とりどりのカットフルーツがこぼれ落ちるインパクトありあまる代物だった。
どうやらカフェで頼んだものらしく、木製のテーブルとドリンクも写っている。
「oh…カロリー爆弾じゃないか」
「当然シェアしたよ。こんなの一人じゃ無理無理」
トド松は手首を振りながら苦笑する。言われてみれば、テーブルの向かい側に誰かが座っているようだ。テーブルに置かれた白い片手が見えた。女性らしい。
「……ん?」
その手に見覚えがあった。否、正確にはその手首に。なぜなら、その手首につけられているブレスレットは───カラ松が贈った物だからだ。
「相手は、ユーリか?」
問いかけた声は上擦ったかもしれない。
けれどトド松はケロリとした顔で、間髪入れずに頷く。
「そうだよ」
「そうだよ!?」
今度こそ声は裏返る。
「オレ聞いてないんだけど!?」
「えー、そうだった?
二週間くらい前の休日にユーリちゃんと外で待ち合わせして…って、事前に言ったと思ってたんだけどなぁ」
トド松は首を傾げる。とぼけているのか本心なのか判断がつかない。
改めて彼の投稿を見ると、日付は確かに二週間前。言われてみれば、姿見の前でやたら髪型や服装を確認する末弟を見た覚えがある。
「ごめんごめん。でもお昼前に出て、夕方帰ってきたでしょ?何もないよ、残念だけど」
最後の一言。
外出時間が短いからといって男女の関係がなかった証明にはならないが、そこは年齢イコール童貞の二名、納得してひとまず落ち着く。
「てか、ユーリちゃんから聞いてなかったんだ?ウケる」
スマホで口元を隠し、トド松が鼻で笑った。反射的に拳に力が入ったが、反論できない。
「でもおかげで、いい匂わせが撮れたよ。奥にいるのは彼女ですかってコメント入っちゃったし?」
その問いかけに対し、トド松は『ご想像にお任せします』と茶化して返信している。肯定も否定もしていないから嘘ではないが、一般的にグレーの返答は黒に近い。少なくとも相手はそう認識しがちな心理を、彼は巧妙に利用している。
カラ松は溜息を吐いて腕を組んだ。
「…ユーリは相手との距離を詰めすぎるのがプロブレムだな」
気に入った相手に対して、その態度が顕著だ。和やかな笑顔でパーソナルスペースにするりと入り込み、対象者を懐柔する。
しかしだからといって依存に導かず、信頼を得た後は一定の距離を保ち、適切なタイミングで親しさを演出してくる。
「人たらしのプロだ」
「分かる」
トド松はすぐさま同意を示した。
「言っておくが──」
カラ松は居住まいを正して、円卓を挟んで末弟に向き合う。鋭い眉を一層吊り上げて。
「オレは、お前たちにだってユーリに触れさせたくない」
彼女の優しさは、六つ子にとって依存性の高い麻薬に等しい。今は辛うじて平和を維持しているが、それはカラ松がストッパーの役割を担っているからで、均衡が傾く危険性は常に孕んでいる。異性に耐性のない我々六人は、ちょっと優しくされるだけで即座に落ちるチョロい童貞なのだ。
トド松は微かに驚愕の色を顔に滲ませたが、すぐに片方の口角を上げて意地悪く笑った。
「そういうのが嫌なら、とっととどうにかしなよ。ユーリちゃんの言動にカラ松兄さんが口出しできるくらいの関係に、さ。
ユーリちゃんはカラ松兄さんの友達だけど、ボクの友達でもあるんだよ」
トド松はゆらゆらとスマホを振ってみせた。その無機物の中には、SNSでのユーリとのやり取りが記録されている。それなりの頻度でメッセージを送り合っているらしいが、カラ松が中身を覗いたことはないし、細かな内容も知らない。
カラ松とユーリの間には、明確な一線が引かれている。
決定打となったのは、それから一ヶ月が経った頃のことだ。
日の沈む夕暮れ時、煙草を買いにコンビニに向かう道中でチョロ松とユーリに会った。二人は時折拳を振り上げて、何やら熱く語り合っている。双眸に光が灯り、頬は心なしか上気しているようにも見えた。
今朝のチョロ松がやたら浮き立った様子だったので不思議に思っていたが、腑に落ちる。謎は全て解けた。
「ユーリ、チョロ松!」
驚きに声を荒げたら、二人は揃ってカラ松に顔を向けた。
「あ、カラ松」
「わぁ、すごい偶然だね!どっか出掛けるの?」
チョロ松もユーリも和やかな目を寄越してくる。
「や、待て、なんで二人ともそんな冷静なんだ?というか、二人でどこ行ってたんだ?」
混乱したカラ松は反射的に口を開いたせいで、彼女の浮気現場に出くわしたみたいな言い方になった。その問いには、チョロ松が嬉しそうに答える。
「にゃーちゃんのライブ」
よくよく見れば、チョロ松は手提げ袋──側面に橋本にゃーの顔が大きく印刷されている──を持っている。出掛ける時両手は空いていたから嘘ではなさそうだ。
しかし、それにしても。
「何でユーリが一緒なんだ?」
「互いの推し活について理解をより深めるために」
「何て?」
予想外の回答に眉をひそめたカラ松に、ユーリはにこりと笑みを作る。
「チョロ松くんと推しの話してたら、橋本にゃーさんのライブは楽しいっていうから、今回チケット取ってもらったんだ。
楽しかったよ!コールも猫にちなんだもので、こだわりがあってね」
「にゃーちゃんのライブは女の子少ないから、ユーリちゃんめちゃくちゃ浮いちゃったけどね。しかも僕と一緒だったもんだから、親衛隊のみんなに、彼女さんですか?なんて勘違いされてさ」
「男性ウケする感じのキャラだもんね。私悪目立ちしちゃったよ。
でも臨場感はライブならではって感じで、箱がそんなに大きくないから、推しが近いのはたまらないなと思ったよ」
「でしょ?CDで聴くのもいいんだけどさ、ライブはお金出す価値ある」
「分かるー。推しの生声って本当ご褒美、生きる糧」
ユーリは頬に手を当ててから、うんうんと強く頷きチョロ松に同意を示す。
「ウェイトウェイト」
カラ松は胸の高さに片手を上げ、彼らの熱弁を制する。
「……チョロ松の彼女?」
聞き捨てならない台詞だ。カラ松の声は自然と低いものになった。チョロ松は至極面倒くさそうな一瞥をカラ松にくれて、溜息をつく。
「ちゃんと友達だって紹介したよ。そんなことでイラつくな、カラ松」
「これから家でグッズ見せてもらうんだよ」
だからその話はこれで終わりだと、ユーリが顔に貼り付けた笑顏で圧力をかけてくる。
「カラ松くんは出掛けるんだよね?」
違うなんて言わせねぇぞと言外に仄めかして。
全部カラ松の被害妄想で、彼女は微塵もそんなことは思っていないのかもしれないけれど、ユーリはカラ松の嫉妬を喜ばないどころか疎ましがる傾向にあるから、直感はたぶん正しい。
「コンビニに行くところだったが…止めた。オレも帰る」
「そう?
あ、コンビニで思い出した。手土産代わりのおやつ買いに行ってくるよ。二人は先に戻ってて」
「ユーリちゃん、そういうのほんと気を使わなくていいから。いつも持ってきてくれてるんだし」
「でも私がお腹減っちゃったから」
どこか照れくさそうに笑って、オレンジ色に染まるアスファルトを蹴って去ろうとする。長く伸びた彼女の影がカラ松の足元を離れるので、咄嗟に片足を前方へと踏み出した──その時。
「なら、カラ松置いてく。荷物持ちにでも使って」
ユーリから遠ざかりながらチョロ松が言う。表情から感情が読み取れず、カラ松は息を呑んだ。
傍らを三男が音もなく横切って、密やかな声でカラ松に告げた。
「貸しにしとく」
ユーリが男と二人きりでいる姿を見るのは、これが初めてでもない。幾度となく見かけたし、軽々しいナンパを阻止もした。だが彼女が社会人として生きる以上、異性との接触はこれからも当然起こり得ることで、制限を設けることは実質不可能だ。
こういう時、警戒心がないとカラ松が叱責し、その場を収めるためにユーリが謝るのがお決まりのパターンだった。そして宥めるように、特別だよと言ってくれる。おそらくは本音で告げてくれているその言葉を、致し方なしと受け取ることで自分は溜飲を下げている。何と尊大で傲慢な態度だろうか。
「ユーリ」
名を呼べば、微笑みと共に振り返る愛しい人。
「荷物はオレが持つ。ほら、その…荷物持ちに使えってチョロ松も言ってただろ」
「いいの?」
ユーリは自分の手元に視線を落として、幾つかのスナック菓子が無造作に詰め込まれたビニール袋を見る。
「じゃあお言葉に甘えて。ありがと」
指一本でも支えられる重量の袋を彼女から受け取った。ユーリの両手が自由になる。
だから──
「ん」
手を差し出した。
「ん?」
首を傾げるユーリ。さすがに脈絡がない上に唐突すぎたらしい。
「手、繋がないか?」
ユーリは呆気に取られた様子だった。見開いた瞳にはカラ松の顔をしっかりと映している。
失言だったかと、出した手を引っ込めそうになった時、ユーリがようやく言葉を発した。
「私が抱く18禁ルートフラグ立った?」
真剣な顔で不穏な発言。
展開がおかしい。
「苦節一年、やっとフラグ立たせるイベント全回収できたんだね。感慨深い」
「努力する方向性を百八十度間違えてるぞ」
あとそういったフラグは立ってないし立たせない───たぶん、きっと、おそらく。
「違うの?なぁんだ」
チッと舌打ちしたのは聞き逃さなかった。
それでもユーリは、手を握り返してくる。躊躇はなく、自然な流れで。
異性と手を繋ぐなんて、学生時代のフォークダンス以来と断言できる程度の経験しかなかった。だから未だに緊張するし、切り出すのには毎度勇気を振り絞る。
想いは募るばかりで、受け入れてほしくて、けれど決定打を口にできないまま歳月だけが過ぎていく。
ユーリの距離感を責める資格なんて、本当はどこにもないのだ。
「カラ松くんが何を考えているのかは分からないから、これは独り言なんだけど──」
前方を見据えたまま、ユーリが静かに前置きをした。
「私が手を繋ぐのは、一人だけだよ」
彼女が紡いだ言の葉は空気に溶ける。
「例え同じ顔が六人分あったとしても、一人だけ」
ときどき、ユーリはエスパーなんじゃないかと思う。カラ松の心のモヤを読み取って、それを晴らす的確な言葉を向けてくれる。容易く察して、悠々とすくい上げる。
「でもおそ松くんたちと友達として仲良くするのは歓迎してほしいなぁ。カラ松くんの兄弟なんだしさ」
そして、最善の妥協点を見出そうともする。
「ユーリはそういう意向なんだろうが、ブラザーたちが同じとは限らないだろ」
「んー…まぁ、一応異性だしね」
その点はユーリも理解しているらしい。男女間の純粋な友情は稀有だ。
「こうやって無警戒で近づかれれば、誰だってユーリをキュートだと思うし、パーソナルスペースに入って来られたら気があると勘違いするし、頭から離れなくなる」
カラ松はずいっとユーリに顔を近づける。
「極端すぎない?異世界の男を無双するチートヒロインか」
「すぎない!現にオレが───」
オレがそうだったから。
勢いに任せても言えないチキンな自分が憎い。
限りなく黒に近いグレーな台詞なら、するりと口を突いて出るくせに。
「…は、ハニーは、何とも思わないのか?」
「私?」
「オレがこんなに近づいても、だ」
シャンプーか柔軟剤か、それとも彼女自身の匂いか、いずれにせよ好ましい香りがカラ松の鼻孔をくすぐった。二人の距離は、それくらい接近している。
「ふふ」
ユーリは表情を緩めた。
「ブチ押し倒したくなる」
カラ松は瞬間的に悟る、踏み込んではいけない領域の扉を叩いてしまったことを。
「……ごめんなさい」
「我慢できずに手出しちゃったら事案だから、その時は抵抗してね」
卑猥な台詞を爽やかな笑顔でさらっと言ってのける。
こうなると、カラ松は白旗を上げざるを得ない。一瞬でも躊躇を見せたら、つけ込まれるからだ。彼女は虎視眈々とカラ松の貞操を狙っている。
いや、自分の貞操の危機はむしろ歓迎だし、何ならこちらからお願いしたいくらいではあるのだが、ベッドで主導権を握る立場を譲りたくないという小さな矜持が進展を阻む。けれど根負けするのはきっと自分の方だとも、思う。
「魅力的ってことだよ」
「分かった分かった」
「その言い草、さては信じてないな」
ユーリは不服そうに眉を寄せた。カラ松は音を立てずに溜息をつき、口元に笑みを作る。
「信じてるさ」
言おう言うまいか、一瞬の逡巡の後。
「ここが外じゃなかったらハグしてるくらいには」
唖然と半開きになった彼女の口から、やがて笑いが溢れた。軽やかな、楽しそうな音色を奏でる。
「言うようになったね」
「童貞なのにな」
「それ自分で言っちゃうんだ?」
「言う。いい加減ハニーには自覚してもらいたい」
風向きを変える。ユーリはほんの少し目を伏せて、耳にかかる髪を掻き上げた。
「自覚するって何を?」
カラ松の予測していた問い、何もかも見透かしたような彼女の瞳、予定調和のように交わされる会話。
「自分がそんな童貞を虜にしてるギルドレディだってことを、だ」
ユーリの距離感には、これからも悩まされるのだろう。
平穏とは程遠い受難の日々に違いないが、トラブル続きの日常も存外悪くないと思っていることは、ユーリには当面言わないでおこう。昔はこんなことで頭を抱えていたのだと、いつか笑って言える日が来るまでは。