我々は往々にして、他人に対してレッテルを貼っている。湾曲したレンズを通してラベルをつける。この人はこんな人、といった類の身勝手に決めつけた印象だ。先入観、固定概念が入り交じり、事実実態からは遠ざかる。
しかし印象は一定ではなく、接触によって都度更新されるものである。加えて、新たに得た印象がこれまでのレッテルを覆すポジティブなものだった場合、相手への評価は爆上がりする。心理学でいうゲインロス効果───俗に言うギャップ萌えだ。
私が待ち合わせの駅前に着いたのは、約束を十分過ぎた頃だった。
直接的な原因は電車の遅延だが、所詮は言い訳だ。だから階段を駆け下り、人の波を掻き分けるようにして足早に約束の場所へと向かう。
「えっ、その…困ります…っ」
不意に、私の耳が声を捉えた。戸惑いがちに紡がれるその声は、聞き慣れたものだ。柱の影から、胸の高さまで所在なげに持ち上げられた手だけが覗く。手首に装着された腕時計には、見覚えがあった。
「カラ───」
「いいじゃんいいじゃん、お兄さん暇でしょ?」
声の主の向かい側に、二十代とおぼしき女性が二人見える。彼女らはにこやかな笑顔で誘いをかけていた。
割って入るべきか判断がつかず、私は数メートル離れた場所でひとまず呼吸を整える。
「暇じゃなくて、あの…友人を待ってて…」
「えー、友達って男の子?」
「ならこっち二人だし、私たちと君たちでちょうどよくない?」
「あ、それいい!」
女性二人は興奮して盛り上がる。しかし彼にとってその反応は想定外だったらしく、緩やかな拒絶を示す手に力がこもった。
「っ……か、彼女なので!……だから、すみません」
たどたどしく、けれど毅然と言い放たれた言葉。よほど彼女たちを振り切りたいとみえるが、いかんせん威力が低い。
「やだー、嘘ぉ!」
「体よく断ろうったって駄目だよー」
なるほどなるほど、完全に理解した。私の推しに手を出そうって輩か。
気持ちは分かる。分かりすぎて何なら彼女たちには握手を求めたい。何しろ当推しは可愛いの極みだし、絶妙にエロいし、かつイケボ標準装備という最高品質だ。接点を作るために積極的に声をかけるその行動力たるや、同士として尊敬に値する。
しかし相手を困らせるのは度し難い。対推しといえど、礼節は重んじるべきだ。
「カラ松、お待たせー!」
私は大袈裟にはしゃいで、背後から彼の腕を両手で取った。
「───ユーリっ!?」
カラ松くんの声が横からかかるが、呼び声には応じずに体を擦り寄せた。直後、今まさに眼の前の彼女たちに気付いたとばかりにハッとしてみせる。
「えーと……カラ松の友達?」
「へっ!?…や、違──」
念のため言質を取っておく。
「ごめんなさい、私の彼氏に何かご用ですか?」
彼氏。ひゅ、と息を呑んだのはカラ松くんだった。お前は余計なこと言うなよ、絶対だからな、フリじゃないからな。
「えー、マジで彼女だったんだ?」
「何だ、残念」
二人は顔を見合わせて、苦笑した。肩を竦める仕草には愛嬌さえ感じられる。
「ごめんね、彼氏のことナンパしちゃった」
「私たちが強引にしてただけだから。この子ちゃんと断ってたよ」
「……はぁ」
彼女たちのあっけらかんとした様子に、私は肩透かしを食らった気分だった。推しに仇なす者は滅すべきと意気込んだ私の独り相撲だったらしい。申し訳ないことをした。
二人は軽く頭を下げ、背中を向けて去っていく。群衆に紛れて見えなくなるまで、私たちは無言で見送った。
静寂に終焉を告げたのはカラ松くんだった。
「すまん、ユーリ…助かった」
「あ、うん」
ずっと腕を組んだままだったのを思い出し、私はそっと手を離す。
「カラ松くん、困ってるみたいだったから助け船出そうとしたんだけど…」
余計な手出しだっただろうか。
「っていうか、カラ松くんナンパされるの初───」
気まずさを誤魔化すために笑いながら顔を上げ、私はようやくカラ松くんの顔を見た。そこで私の目に飛び込んできたのは───
どちら様ですか?
「……あ?」
驚きのあまり野太い声が出た。
私の眼前に立っていたのは───まさしく一軍所属の人だったからだ。見た目は正真正銘松野カラ松その人だが、髪型がまるで違った。
額を覗かせたアップバングに、束感のある無造作ショート。イケてるメンズが自慢の顔面をひけらかす際に選択する髪型の一つである。額を露出することで強気な眉が一層印象的だ。ニキビ一つない滑らかな肌も眩しい。
私は開いた口が塞がらなかった。
「…カラ松くん、だよね?」
「えっ!?ああ、良かった…放心してるからどうしたのかと心配したぞ、ハニー」
あ、うん、間違いなくうちの推しだ。
「って…もしかして、オレが彼女とか言ったからか!?」
例によって勘違いと誤解が甚だしい。どこの少女漫画の鈍感ヒロインだ、お前は。
「すまん!あれは何というか、あのレディたちへの断り文句であって…別にユーリに対してそういう風に意識してるとか……んんっ、ちょっと待て、タイムっ、タイムだ!」
赤くなった顔を片手で押さえて、大きな溜息を吐くカラ松くん。苦悩する表情も実にイイ。
「何というイケメン…」
「…ハニー?」
「ホテル行く?」
情事へ誘う言葉がナチュラルに私の口を突いて出た。
「はぁ!?」
「いや、だって、何その髪型…完全にイケてるメンズ」
そりゃナンパもされるわ。こちとら欲情もする。
ただでさえ一軍に引けを取らない出で立ちと、自信に満ちた顔つきから、雰囲気イケメン──私にとっては最高クラスの顔の良さだが──を立派に務めていた。彼を構成するパーツの中で、眉付近で真っ直ぐに切り揃えられた髪型は没個性的であり、同時に六つ子らしさの象徴でもあった。そのシンボルが失われ、洒落たヘアスタイルを手にした今、彼は名実ともに一軍だ。
「…ああ、これか」
カラ松くんは自分の髪に触れ、乾いた笑いを溢す。
「今朝は寝坊した挙げ句、寝癖がひどかったんだ。シャワー浴びてる時間もないから、ワックスで固めてきた。
……へ、変か?」
セクシーな肉体美とイケてる顔面のコラボは殺傷能力が高すぎる。私は早くも虫の息だ。
さて、イケてる男子へと変貌を遂げたカラ松くんに対し、推し活に余念がない私が平常心を維持できるはずもない。瞬きする時間さえ惜しみ、連写しまくってスマホの充電は数分で半分以下になり、動画では舐めるように全身を撮影したあたりで、本人からいい加減にしろとストップがかかった。
体のラインがしっかりと出るVネックの黒シャツにスキニーデニム、足元はエンジニアブーツというシンプルながら罪深い出で立ちも、私の暴走に拍車を掛けたと言っていい。推しは今日もすこぶる尊い。
複合施設が軒を連ねる、人通りの多い通りを歩く。休日を謳歌する学生から、携帯で通話しながら颯爽と闊歩するサラリーマン、仲睦まじい家族連れまで、様々な人が私たちの傍らを通り抜けていく。
私とカラ松くんは肩を並べて、目的地までの最短ルートを進んでいた。
「…なぁ、ユーリ」
不意に、カラ松くんが居心地悪そうに眉を下げた。
「その、異様に視線を感じる気がするんだが……」
私に不安げな表情を向け、言外に救いを求める。フィジカルが強く、己に対して確固たる自信を構築しているように見えて、案外小心者。
私は口角を上げて答える。
「今日のカラ松くんが格好いいからじゃない?」
「格好いいのはいつもだろ?」
即答か。そこはブレない。
私は右手の人差し指を下唇に当て、思案する。彼に伝わるように伝えなければ。
「いつも以上に色気が出まくってるっていうのかな。隣にいる私なんて、霞むどころか引き立て役感が凄まじいくらい」
私としては、自分のことを卑下するつもりは毛頭なく、分かりやすい比較対象として例に上げたつもりだった。
しかしカラ松くんは看過できないとばかりに鼻白む。
「ユーリ以上に輝いてるレディはいないだろ。どこにいてもすぐに見つけられるくらい綺麗なのは、オレが保証する」
違う、そうじゃない。
相変わらず私のこととなると自分を二の次にする癖があるな。悪い気はしないけれど。
「フッ、まぁハニーを含めたオーディエンスがオレの虜になるのも無理はないな。どんなヘアスタイルもパーフェクトに似合ってしまう…オレ!
無自覚に魅了してしまうのも、生まれながらのギルドガイに科せられた宿命…」
カラ松くんは額に手を当て、切なげに吐息を漏らす。今日も絶好調で何よりだ。
「似合ってるよ」
「そ、そうか…?」
「うん。すごくいいと思う」
より一層抱きたくなった、という本音は隠しておく。私がにこりと微笑めば、カラ松くんは気恥ずかしそうに視線を落とした。
「オレとしては仕方なくという感じだったんだが…ユーリにそう思ってもらえるなら、寝癖が直らなくてラッキーだった」
へへ、とカラ松くんははにかんで笑う。可愛いの権化は本日も健在。
ショッピングモールのトイレを出ようとした時、今まさに中に入ってきた二人組の女性とすれ違う。年はおそらく私と近い。
私が彼女たちに関心を抱いたのは、二人が顔を赤らめていたからだ。何か特別な出来事の直後、そんな印象を受けた。イベントで有名人でも来ているのかと、そんなことを思った矢先のこと。
「ね、あの人見た?」
「黒い服の人?うん、見た見た。格好良かったよね!」
おや。
私の足は自然と止まる。
「誰か待ってる感じじゃなかった?やっぱ彼女かな?」
「そりゃそうでしょ。この階、女性向けフロアだよ。男子トイレは下の階にもあるし」
「やっぱそうだよね。デートかぁ…いいなぁ」
うっとりと感想を溢しながら個室へと消えていく彼女たち。立ち止まった私の正面には等身大の姿見があって、鏡に映る私は──満足気にほくそ笑んでいた。
「カラ松くん、お待たせ」
「ユーリ!」
私を視認するなり、ぱぁっと頬に朱が差す。目が合って、私もへらりと笑ってしまう。先程すれ違った女性たちに彼が褒められて、何となく誇らしい気持ちだった。
「どうした、ご機嫌だな」
「ふふ、カラ松くんと一緒で楽しいからかな」
返答としてはあながち嘘でもない。意図的に言わないことがあるだけだ。
カラ松くんは私の言葉に僅かな疑いも抱かず、素直に受け取ったようだった。嬉しそうに目を細めた後、チッチッと口元で人差し指を振る。
「ノンノン、ハニー。オレの台詞を取らないでもらいたい。ユーリの貴重な休日を共に過ごせるのは、何ものにも代え難い栄光だぞ」
砂を吐きそうになるほど甘ったるい台詞にも、もうすっかり慣れてしまった。時に冗談めいて、時に真剣に、彼は胸中に巣食う感情の一部を吐き出す。私だけに。
「次はどこに行きたい?アクセサリーでも見に行くか?」
「いいよ。カラ松くんに似合うのあるといいね」
てっきり欲しい物でもあるのかと思ったが、どうやら違うらしい。カラ松くんは緩くかぶりを振った。
「オレのじゃない。ユーリのを見に行くんだ」
「私の?」
「アクセサリー一つで印象が大きく変わるだろ?オレは色んなユーリを見たい」
この人は、自分が人を惹き付けているなんて思いも寄らないのか。いつもは自分の魅力を盛大にひけらかすくせに、他者からの視線には無頓着だ。彼がかつて望んだ群衆からの羨望の眼差しをこれでもかと浴びているのに、今の彼の目には──私しか映っていない。
それから幾日か経った頃、トド松くんから怒涛の電話があった。風呂上がりに何気なくスマホを持ち上げたら、数十件の着信履歴が表示されていたのだ。若干引いた。
「ちょっとユーリちゃんっ!ボク聞いてないんだけど!」
折り返すなり、耳をつんざく怒鳴り声。すぐさまハンズフリーに切り替え、テーブルに置く。
「ごめんトド松くん、急にどうしたの?何の話?」
タオルで髪を拭きながら、私は努めて冷静に返す。彼が言及したい内容は大方予想がついていたが、私が察していると知れば一層怒り狂うだろうから、しらばっくれておく。
「ファッション誌の公式SNSに、カラ松兄さんとカップル扱いで写真が投稿されてるでしょ!」
やはりその話題だったか。
「えー、あれ本当に投稿されたんだ?すっかり忘れてたよ」
驚いた演技ですっとぼける。
「っていうかトド松くん、あのSNSチェックしてるんだ?
やっぱ流行に敏感なだけはあるね、さすがだなぁ」
「え?や、ま、まぁ…都内のトレンド押さえるならフォローすべきアカウントだし?見てて当然っていうか?」
「だよね。トド松くんならフォローしてるかなって思ってたよ。
先週投稿されてた新店のショップは見た?トド松くんの好みに合いそうなお店だったよ」
「え、そうだった?まだ見てないかも。後で確認しとく」
「今月はオープンセールなんだって」
話題は流行りのファッションに移行し、和やかに会話が弾む。スマホのスピーカーからトド松くんの笑い声が聞こえてきて、私もにこやかに微笑む。
「──って煙に巻こうったって、そうはいかないからね」
突如として吐き出される言葉は無機質な声音に乗って。
チッ。騙されなかったか。さすがは荒波に揉まれてきた歴戦のニートだけはある。
何を言われるのかと僅かに警戒した矢先、末弟は長い溜息の末、独白のように小さく言った。
「……ま、いいや。兄さんたちには言わないでおくよ」
「別に秘密にするつもりはないけど」
隠し立てするようなことでもない。見つかったなら事実を話すまでだ。
「あれこれツッコまれて疲弊するのはボクだから。そういう面倒なのに対処するだけで体力使うんだよ。特にあいつら相手だと」
末弟の苦労が偲ばれた。
「───ということがありまして」
トド松くんとの電話から数日後、我が家の最寄り駅近くにあるカフェのテラス席で、アイスコーヒーをマドラーでかき混ぜながら私は語った。プラスチックコップがかいた汗が、ぽたりとテーブルに落ちる。
「……カップル…」
カラ松くんは私の手元に視線を落として、呆然と単語を反芻する。
「気にするのそこか。でも見て、いい感じに撮れてると思わない?
さすがはプロのカメラマンの撮影!」
私は相好を崩しながら、彼にスマホの画面を向ける。写真の中で私とカラ松くんは、互いの肩を触れ合わせて立っている。足が長く映るような角度に始まり、喧騒の中の撮影とは思えないほどの人気のない背景、自然体な被写体のポーズ、どれを取っても絶妙だ。
私が写っているのはいささか気恥ずかしい思いもあるが、いかんせん推しが素晴らしい。当推しの良さという良さが最大限に引き出されている。
しかも、前後の投稿に比べていいね数も数割増しという反響だ。
あの日、街を歩いていたら声を掛けられた。数十万のフォロワー数を誇るファッション誌の公式SNSに写真を載せたいという。
自分のファッションセンスに絶対の自信があるわけでもない私は、恐れ多いと辞退すべきかカラ松くんに助けを求めるように視線を向ける──それが間違いだった。彼は声を掛けられて当然とウェルカムの構え。次男坊の自尊心の高さ舐めてた。
「あ、このコメント、美男美女だって」
写りの良さはカメラマンの技術に依るところが大きいが、思わずにんまりしてしまう。
「オレがイケてるのは事実だしな」
躊躇皆無で、世の理であるかの如くしれっと言い切りおった。その自己評価の高さはどこから来るのか。
「世間がようやくオレに追いついただけだ」
もはや清々しい。
「…しかし、まぁ」
カラ松くんは下唇に指を当て、思案顔になる。
「ユーリの可愛さが正当に評価されるのは嬉しいな」
彼は笑う。
「これで世間的にもオレの目は確かだったと証明されたぞ、ハニー」
私を世界で一番綺麗だとかミューズだとかいう過大評価に、そう思ってるのはカラ松くんだけだよとかわしてきた。その度に彼は不満げな顔をしてきたが、根に持っていたのか。
カラ松くんへの賛辞が大半を占めるコメントの中、彼が注視するのは私に向けられた意見ばかりで。
「ユーリに関するオレの審美眼は間違いなかったわけだ。数多のレディも、ユーリの神秘的な引力の前には肩なしだから、当然と言えば当然だが」
怒涛の称賛。居た堪れない、助けて。
コップに口をつけて、話題を変える。
「でも今日はいつもの髪型なんだね」
カラ松くんが髪型を変えたのは、あの日の一度きりだった。
「まぁな」
持ち上げた右手で前髪を緩く掻き回した後、彼はテーブルの上で両手を組む。
「髪型を変えたあの日に改めて痛感したんだ…オレはただでさえ、着飾らずとも存在自体がテンプテーションなギルドガイだということを。カラ松ガールズを卒倒させながら街を歩くのは、民衆を惑わし戦争の火種にもなりかねない」
そして心底心苦しそうに、長い吐息を吐き出す。さながら、己の言動一つで世界を掌握できる権力者の嘆きだ。反応に困る発言きたこれ。
「そっか」
軽い相槌に留める。同意も否定も悪手でしかない。
「ユーリは…あの髪型の方がいいか?」
僅かに前のめりの姿勢で、カラ松くんが尋ねる。
「ユーリが前の方がいいと言うなら、次からはあっちにする」
それを聞いて、私は笑ってしまった。
「この前の髪型も似合ってたけど、今の方が見慣れてるからなぁ。
どんな髪型でもカラ松くんはカラ松くんだよ。坊主でも茶髪でも、何でも。私にとっては全部カラ松くん」
意思決定を他人に委ねてはいけない。
「だからね、カラ松くんがいいと思う方にしたらいいと思うよ」
決定的に似合ってなかったり、魅力を激減させるものについては口を挟ませていただくが、基本的にはやりたいことをすればいい。アイデアや意見を求められたら、その限りではないけれど。
「うん…そう、か」
窓ガラスを通して照りつける柔らかな日差しが、血色のいいカラ松くんの頬を染める。
「なら、いつも通りでいく。ユーリが気に入ってくれたのは、この姿のオレだしな」
「たまに髪型変えると新鮮で楽しいけどね。
ただ、純粋にモテたいなら、この前の髪型一択。ほんと、すごい人気だったから」
「ユーリ以外にモテたところで意味ないだろ」
鼻で笑うようにコーヒーを嚥下したところで、カラ松くんはカッと目を見開いた。震える手でカップをテーブルに戻す。
「……ウェイトだ、ハニー。今…モテたって言ったか?」
「え?うん、ナンパもされてたし?」
「ジーザス…っ!そうだったのか!あれがナンパか!」
気付いてなかったのか。マジか。
「むしろ何だと思ってたのか知りたい」
マジで。
「他のレディといることで変な誤解されたくないし、とにかくユーリが来るまでに離れてもらわないととしか考えてなかった…」
「可愛い子だったのに?」
「え…そうだったか?…覚えてない」
「じゃあさ、もし私と待ち合わせしてなかったらどうしてた?」
その問いかけに、カラ松くんはハッと鼻で笑う。
「小学生でも女子というだけで緊張するオレだぞ?」
愚問でした。何かすいません。
膠着状態に陥った空気を断ち切ったのは、カラ松くんだった。裁判官が決着の印とする槌を叩くように、拳を振り下ろす。カップの中身が振動で波打つ。
「とにかくだ、オレは他のレディはそういう目で見てない。
仮にヘアスタイルを変えてモテるようになったとしても、ユーリがオレを見る目が変わらないなら、オレにとっては無用のステータスなんだ」
「私にモテる条件が、ダサいことだとしたら?」
困惑を誘うだけの意地の悪い質問だと自分でも思うが、彼がどう答えるか興味があった。案の定、カラ松くんは眉間に皺を寄せ、小さく唸る。
だが思案に耽る仕草をしたのは、ほんの数秒の間だった。
「……折衷案を検討させてもらいたい」
苦肉の策といった様子が見て取れた。私の歓心を買うためにアイデンティティを投げ出すような決意に至らなかったことに、私は内心安堵する。
「良かった、自分らしさって大事だよね」
誰のためでもない自分のために、ブレない芯は必要だと思う。処世術として人に合わせることも少なくないが、流されるのと合わせるのは似て非なるものだ。波に飲まれてはいけない。
「私はね、従順でつまらない駒は欲しくないんだよ」
テーブルに頬杖をつき、もう片手の人差し指でカラ松くんの顎に触れる。喉仏が突き出され、ごくりと音が聞こえるようだった。
従属はいらない。
「ユーリ…」
私は、対等でありたい。
「さっきのSNSの写真、保存はしておいてくれ」
ああ、やはり人気のバロメータとして気にはするのか。
「もちろん。コメントも一応控えておくね」
私がそう告げると、カラ松くんは一瞬不思議そうに首を傾げたが、すぐにこくりと頷いた。彼の反応に違和感を覚える。
「そうだな、せっかくだしな」
「あれ、必要なかった?カラ松くんが後で見返したいかなと思ったんだけど」
「オレがか?
確かにハニーとのツーショットに関しては記念に残しておきたいが、一歩間違えば崇拝の対象ともなりかねない、何なら歴史書に名が残るであろうレベルのオレがイカしてるのは、周知の事実だろ?」
つまり、称賛は感動に値しない、と。さすが松野家トップオブナルシストの異名を欲しいままにする次男だ。
「メディア掲載記念って感じかな?」
他人にカメラを向けられることに抵抗のない──むしろ積極的にフレームインしてくる──カラ松くんだから、ツーショットなんてもう数え切れないほど撮ったけれど、有名メディアのSNSに掲載されるのは初めてのことだ。最初で最後かもしれない。
彼のためではなく、自分のために後で保存しておこう。貰ったコメントも含めて。
「別にメディアはどうでもいいんだ。有名だろうが無名だろうが」
「じゃあ───」
なぜ。
私が呆気に取られていると、カラ松くんはテーブルに置かれていた私のスマホを持ち上げ、該当の画面を突きつけた。
「ユーリがいい笑顔で写ってる」
それが理由の全てだと言わんばかりに。
私の台詞を奪わないでくれと苦笑すると、自分だけだと思うなよとカラ松くんは不敵な笑みで応じる。やがて互いの視線が絡んで、どちらともなく肩を揺らして笑った。
晴れた日の、穏やかな昼下がりのことである。