手錠が二人を分かつまで

手錠で拘束されたカラ松とユーリの二十四時間が、始まった。


街でデカパンに会ったのが事の発端だ。カラ松とデカパンは長い付き合いだが、彼との交流で平穏無事だった試しがない。ユーリが傍らにいる時は、接触を避けるべきだった。その点は自分にも非があると言える。

「面白い試作品を作ったんダス。良かったら見に来ないダスか?」
比較的コミュニケーション能力に長け、ラボへの訪問に寛大なのは彼の長所だ。カラ松も暇潰しがてらに幾度となく利用しているし、ユーリに至っては、日常生活ではまずお目にかかれないような奇抜な発明品に毎度目を輝かせる。
だからその日も、ユーリが行きたいのならと、カラ松は彼女に選択を委ねた───それが間違いだった。

試作品を持ってくるから待っていてくれと、入り口入ってすぐの広間で待機を命じられる。棚やテーブルのあちこちに発明品が収納されており、デカパンが奥の部屋へ消えると同時にユーリは棚を物色し始めた。
「ね、カラ松くん。また新しい発明品が増えてるよ。前に来た時はこの辺空だったのに、今は埋まってる」
手招きで呼ばれるので、カラ松は彼女の横に並ぶ。
「ハニー、迂闊に触るんじゃないぞ。無造作に置いてあるからといって、無害な物とは限らない」
両手では足りないほど痛い目に遭ってきた自分だからこその忠告だ。ユーリはどう思ったか知らないが、その顔には微苦笑が浮かんでいた。
「でも危険な物をこんな風に適当に置くかな?」
棚の一角は、乱雑という表現が似合うほどに物の配置に規則性がない。ぬいぐるみや瓶、何らかの機材が秩序なく置かれている。
しかしカラ松は見逃さなかった。瓶に貼られたラベルの禍々しいドクロマーク。しかも中身は半分ほど使用された形跡がある
「……あのパンイチはそういう奴だ」
ユーリの視界から瓶を隠しつつ、カラ松は静かに告げる。
「パンイチってそんな……あー、うん、ごめん、パンイチだ…紛うことなきパンイチだった
分かればよろしい。一年中パンツ一丁の中年に始まり、圧倒的吸引力を備えた大口を持つ男といった、世間の一般常識を根底から覆す人種がカラ松の周囲には蔓延っている。その事実からは目を背けてはいけない。
ユーリも既に、こちら側の人間なのだ。
「デカパンもすぐ戻るだろうし、オレたちも───」
彼女の身に危険が及ぶ前にこの場を離れよう。そう提案している矢先だった。

カチャン。

突如発生した金属音に、カラ松はハッとする。音の方に目をやると、銀色の手錠がカラ松の左手首にかけられていた。
「…っ、ユーリ!?」
抗議するため左手を持ち上げると、思いの外軽い。
「あ、ちゃんと使えるんだ、これ」
「オレの話を聞いてたのか?イタズラも大概にしないと怒るぞ」
「でもこれほらすごく軽いし、手錠のおもちゃが爆発するとかはさすがにないでしょ?」
カラ松は手錠の輪がぶら下がる自分の手首に触れる。鈍い光を放つそれは護身グッズとしても見かけるデザインに近いが、力を込めても変形しない高強度だ。加えて一般的な手錠と違い、チェーンが細く長い。六十センチはあるだろうか、チェーンウォレットに使われるような太さだった。
「カラ松くん、手錠似合うね」
「は?」
「嗜虐心くすぐられる。背徳的っていうか艶やかっていうか、綺麗な奴隷?みたいな?
うっとりと頬を染めて吐息を溢すユーリの発言がヤバイ。恋する乙女さながらの表情でさらっと卑猥ワードを吐いてくる。
咎めたい気持ちと、いかなる理由にしろユーリから熱い視線を向けられることへの喜びが混じって、カラ松の胸中は複雑を極めた。
「プレイの一環でこういう小道具はありだなぁ」
「オレを実験台にするんじゃない!」
「博士戻ってきたら外してもらうから」
叱責したものの、ユーリは反省した様子もなくへらりと笑う。もう既に彼女の興味は別に移っていて、空の三角フラスコを手に取り振ってみせた。
その次の瞬間だ。

手錠のもう片側を、素早くユーリの右腕に通す。
「えっ!?」
彼女の口から素っ頓狂な声が上がるが、もう遅い。
「フッ、オレたちは一蓮托生だぜ、ハニー」
いささか大袈裟な台詞だが、最初に仕掛けてきたのはユーリである。ユーリは自分の右手を上げ、まじまじと手錠を見やった。

「……これ、鍵穴ないね」

何だと?
「ははっ、ノーキディング。どうせデカパンのことだ、見立たない位置に穴が───」
ない。
舐め回すように見ても、鍵穴どころかロック解錠用レバーさえ見当たらない。
「詰んだ?」
ユーリが青い顔で物騒なことを呟く。
「ま、まさか!デカパンに限ってそんなこと……」
あり得すぎる。実用性のない物を作っては、意図せずとも被験者を地獄に叩き落すような輩だ。
だから、直後にドアを開けてデカパンが姿を現した時には、カラ松は早くも諦観の境地に至っていた。この先自分たちを待ち受けるのは受難であると、やすやすと察せられたからだ。

先程までの会話全てが、壮大なフリになってしまった。




「鍵穴なんてないダス」
知ってる。

「二十四時間経たないと外れない手錠ダス。
超高強度に軽さを兼ね備えた特別製の合金で、切断は試さない方が身のためダスよ。その代わり、時間が経てば必ず外れるから安心していいダス」
三十センチ四方の白い箱を抱えながら、デカパンは事もなげに言う。
「…ちょうどモルモットを探してたからいいタイミングだったダスな」
「ある意味お約束の展開すぎて冷静になってきた」
ここからはもはや消化試合だが、一応聞くべきことは聞いておいた方がいいだろう。
「時間経過以外で外す方法はないの?」
心なしか不安げな表情でユーリが尋ねる。
「手首を切断すれば取れるダスな」
「そういうことを聞いてるんじゃねぇ」

すっと真顔になったユーリが抑揚のない声で罵倒する。怖い。
「裏ワザ的なのはないかって話。ほら、こういう時、遠回りになるけどちょっとだけ早く解決できる抜け道みたいなものがあったりするでしょ」
どの界隈の話だろうか。
デカパンは思案するように首を捻り、やがてポンと手を打った。
「あるダス」
「本当か!?」
カラ松とユーリは俄然前のめりになる。
「この箱に触れると、自動的に瞬間移動するダス。その時に身につけている装飾品や荷物の類は外れるよう設定されてるから、手錠も外れるはずダス」
彼が胸元に抱えている、カラ松たちに見せたかった新作の発明品のことだ。
「デカパン、それは…」

「これは『続・○○しないと出られない部屋』ダス」

嫌な予感しかしない。
あと何だ、『続』って。まるで前作があったみたいな。
「却下」
そしてユーリは間髪入れず即決だ。
「決断が早いな、ハニー」
「手錠以上にろくでもない結果が待ち受けてる予感がビンビンするんだよね。何かよく分からないけど絶対に関わっちゃいけない気がする
「分かる」
知らないはずなのに、初めて聞いたはずなのに、なぜか背中がゾワゾワするのだ。
「そんなのやるくらいなら、二十四時間経つのを待った方がまだいいよ。
でも、その…カラ松くんは、どうしたい?」
突然殊勝な態度に出られて、カラ松は戸惑う。ユーリは手錠一択ではないのかと疑問に感じたところで、彼女はあくまでも箱使用を選択肢から外しただけだと思い至る。
カラ松に意向を尋ねるのは予想外だった。
「他にこれを外す方法はないんだな、デカパン?」
「ないダスな」
「…なら、二十四時間経つのを待つしかないだろ」
カラ松が腕を動かすたび、金属が擦れ合う音が響く。
「そうだね…」
彼女の歯切れが悪いのは、これからの二十四時間の苦労に思いを馳せたためか。
「大丈夫だ、ユーリ」
安請け合いと言われるかもしれないが。

「ユーリに嫌な思いをさせないよう、オレが最大限努力する」




ラボを出ると、街は茜色に染まっていた。ひとまず人目につく場所で手錠をいかに隠すかということに、長らく二人で知恵を絞っていたためだ。
手錠には超洗剤を振りかけて一時的に不可視化し、チェーンで他人を引っ掛けないためにカラ松とユーリは腕を組んで距離を詰める。手錠が視認できなくなっただけでも僥倖だ。
「し、仕方ない…よな。手錠に気付かれるわけにはいかないし」
顔が熱い。
「…というか、これからどうする?
さすがに夜は家に帰らなければ怪しまれる──が、手錠を引っ提げてハニーと帰宅すれば修羅場確定だ」
「となると、私の家かな」
「い、いや、それはそれでデンジャーなんじゃないか?
一応…何だ、その、オレだって男なわけで……うちなら、ブラザーたちの男手があれば何かとフォローを頼めるんじゃないか?」
「でもおじさんおばさんも迷惑をかけるちゃうし、外堀が埋まってしまう
「外堀とは」
「できるだけ誰にも会わないようひきこもって、自然に外れるのを待つのがベストだと思う。
カラ松くんが私に嫌な思いさせないって言ってくれたように──」
躊躇いなく真っ直ぐにカラ松を見つめる視線に、抗えない。

「私も、カラ松くんに嫌な思いさせたくない」

今この瞬間だけでも、手錠で拘束されている間だけでも、ユーリが自分だけを見ていてくれたらと希わずにはいられない。
誰の干渉も及ばぬ箱庭での、期限付きの余暇。不便で厄介な状況下にも関わらず、カラ松の胸は高鳴る一方だ。

諸悪の根源は誰かなんて、少しずつどうでもよくなっていく。




「トド松くんには上手く言っといた」
真剣な顔でしばらくスマホをタップしていたかと思えば、鞄に差し込みながらユーリはそう言った。トド松から了承の言質も取ったらしい。どんな理由を捏造したかカラ松は訊かなかった。知らない方がいいこともある。

ユーリ宅での籠城が確定した後、カラ松たちは最寄りのスーパーを訪れた。一日分の食材の買い出しだ。
週末のスーパーは程よく混雑している。道幅はカート二台がかろうじてすれ違える程度のため、カラ松とユーリが並ぶと対向の妨げになってしまう。とはいえ距離を取ると手錠のチェーンが何かに接触しないとも限らない。
最終的にユーリは、腕を組む範疇を超え、腕を絡めたまま密着するスタイルを選択した。バカップルを演じるのだ。にこやかな笑みを顔に貼り付けて。
「何というか…これは…照れるな」
「楽観的だねぇ」
気恥ずかしさに指先で頬を掻けば、即座にユーリからの辛辣な一言が返ってきた。
「私は、買い物終わるまでに超洗剤の効果が切れないかヒヤヒヤしてるよ」
「その辺はノープロブレムだ。少なくとも数時間は持続する。何しろオレ自身が身をもって経験済みの代物だからな」
「へぇ。何があったの?」
「飲んだ」
「超弩級のうっかりさんか」

かつて、イヤミが参加するパーティに六人で強制同行した際、酒と見間違えて全員でラッパ飲みをした。思考は既に彼方にあり、口内に刺激を感じた程度しか記憶にない。
その後、体の血管と臓器以外が透明化するという透明になりきらない事態でひと悶着あったのだが、ここでは割愛しよう。
「効果は確かだ、安心していいぞ、ハニー」
「安心のさせ方が想定外すぎて反応に困る」
「フッ、あの時オレたちが超洗剤の実験体となったのも、ユーリとのしかるべき未来のための予行演習だったわけか……過去のオレ、グッジョブ!」
「そのポジティブさを別の道に生かしたら大成すると思うよ」
ユーリは呆れたように眉をひそめたが、すぐに思い直したのか、穏やかに目を細めて笑った。屈託なく笑う顔が可愛い。目が離せなくて、いつの間にか心を鷲掴みされている。




手錠が手首に掛けられてから数時間、超洗剤の効果も切れた頃のこと。カラ松は下腹部に違和感を感じて背筋を正す。姿勢を変えることで鈍痛にも似た感覚を逃がそうと考えたのだ。時間稼ぎにしかならなくとも、その間に最良の策を練る必要があった。
「…カラ松くん?」
しかしこういう時に限ってユーリは聡いもので、首を傾げて声を掛けてくる。こうなると誤魔化しは効かない。
「……トイレ」
「あ」
苦々しく呟くカラ松と、察するユーリ。
「うん、必要だよね…大丈夫!『うちの推しは妖精だからトイレなんて行かない!』とかは全然思ってないから!
全くもってフォローになってない。
「尋常じゃない羞恥プレイ感なんだが…」
「してる最中にも水流せば聞こえないし、絶対見ないから」
「だとしても、こう…ほら」
「耳栓もつける」
「…プロミスだぞ」
例え兄弟であっても、僅かに開いたドアの先で待機される状況には抵抗がある。相手がユーリなら、なおさらだ。
これ以上の最善案は見出だせないだろうと妥協したところで、ユーリは強い視線をカラ松に向けた。
「分かってるよ。私だってドアの横で待たれてたら落ち着かないし」
「ユーリ…」
ああ、そうだった。自分だけじゃない。彼女もまた同じ状況下にあるのだ。

「すまん、動揺して自分のことしか考えてなかった。シチュエーション的にはユーリの方が危機感あって嫌なはずなのに…。
次からはユーリ目線で考えるようにする。難しいだろうが、外れるまで極力快適に過ごせるようタッグを組もうじゃないか、ハニー」

緊張の糸を解すように、最後は意図的に茶化して拳を握る。カラ松を見つめるユーリは一瞬呆然として、それからくしゃっと破顔した。彼女の周囲だけ気温が上昇する感覚がする。


とはいえ、時間の経過と共に次々と問題が発覚する。何しろ移動を必要とする行為全てに相手を必要とするからだ。カラ松とユーリはその都度互いに断りを入れ、用が終わると感謝を述べ合ってきた。
そしてついに最初の難関が訪れる───風呂だ。

「さすがに湯船に浸かる余裕はないよね…」
「着替えはギリギリいける…か?無理すれば、手錠の隙間を通せそうな感じもするが」
幸いにも手首には一センチ以上の余裕がある。薄手のトップスと下着くらいは通るかもしれない。
「お風呂入らずに寝るのは嫌だから、さっとシャワー浴びるくらいにしよっか。覗かないとは思うけど、絶対覗かないでね」
「ユーリもな」
「えー」
「何が、えー、だ!覗く気満々だっただろ!カムバック、フェア精神!
スルーするところだった。危なかった、貞操が。
冗談だよーと口元に手を当ててユーリは笑ったが、チッと舌打ちしたのをカラ松は見逃さない。
しかし一番厄介なのは自分だ。本気で迫られたら、ノーと押し切る自信はないのだから。


じゃんけんの末、ユーリが先陣を切った。カラ松は脱衣所を出た先の廊下で背を向け、ユーリの準備が整うのを待つ。手錠の輪に服を通すことに苦戦しているらしく、ん、く、といった声と共にカラ松の腕が頻繁に引かれる。
漏れ聞こえるその吐息に情事を連想し、カラ松は開いている片手で顔を覆う。見えないから余計に想像力が掻き立てられる。ユーリには口が裂けても言えないけれど、あわよくば、という気持ちは常に胸に巣食っているのだ。

だがカラ松の雑念は、ユーリの叫び声によって中断を余儀なくされる。

一瞬の、高い声だった。
「ユーリっ!?」
カラ松が脱衣所に飛び込んだのは、条件反射だった。思考より先に体が動く。
「えっ、ちょ、ま──」
慌てふためくユーリの声が耳に届いたのは、カラ松が彼女の姿を視認した直後である。
上半身は下着一枚、ブラのホックは一つが外され、肩紐はだらしなく腕にかかっている。カラ松に背を向けていたユーリは咄嗟にバスタオルで胸元を隠すが、肩から腰にかけての緩やかなくびれが強調され、結果的に艶めかしさが増した。少なくともカラ松の目にはそう見えた。つまりは、絶妙にエロい
「あ、すま…いやでも、悲鳴が…っ」
「く、蜘蛛!蜘蛛がいただけだから!平気っ」
タオルを抱えながら彼女が指さす先で、一センチほどの小さなハエトリグモが洗面台の鏡に貼り付いていた。
「蜘蛛…」
「大きな声出してごめん…でもついでに取って
こういう時、さっさと出て行けとか怒鳴られて理不尽な扱いを受けるのが定石だと思うのだが。戻る足で蜘蛛も取っていけとは、何とも強靭なハートの持ち主である。
カラ松は内心で苦笑しつつ、ビニール袋でハエトリグモを捕獲した。
「ありがとね」
胸をタオルで隠しているとはいえ、肩紐は完全に見えているし、鏡に映る背中は無防備だ。
「……ハニー」
眼福な光景を脳裏に焼き付けつつ、カラ松は声を絞り出す。
「さ、さすがに今の格好は…オレにとっても目の毒、というか……あっ、べ、別にじっと見たりなんかはしてないぞ!
きめ細やかな肌で触り心地が良さそうだとか、そういうのはまーったく思ってないからな!
ユーリから視線を外しながら畳み掛けるように言い放ち、すぐに失言だと気付く。案の定、ユーリは鼻白んだ。
「っ、いつまでもその格好でいると風邪ひくぞ!オレはまたここで待って──」

踵を返そうとして、ぐいと腕が掴まれる。揺れて響く金属音。

「…ユーリ?」
「カラ松くんだけズルくない?」
胸元以外の上半身を露出したままの姿で、物騒なことを言ってくる。論点がおかしい。
「意味が分からん」
「私だけ下着姿見られるって納得いかないんだけど。私たちはフェアのはずだよね?」
もはやツッコむのが億劫になってくる。フェアとは何ぞやなんて議論を始めたら、水掛け論になるのがオチだ。堪えろ、堪えるんだ松野カラ松。
加えて、カラ松の腕を掴むため前傾姿勢になったせいで、白いタオルの隙間から僅かに谷間が覗いた。ああもう、とカラ松は叫びたい。これ何ていう拷問?

結局、カラ松の入浴時に上半身の着替えはしっかりと凝視された。下半身の貞操は守りきった自分を心底褒めてやりたい。




てんやわんやの入浴を終え、程よい頃合いに二人並んで歯を磨く。隙だらけの表情で歯ブラシを動かすユーリは愛らしく、口角は自然と上がった。何笑ってるのと怒られて、カラ松は一層笑みを強くする。
狭い脱衣所で肩を並べ、一つの歯磨き粉を共有し、色違いの歯ブラシで歯を磨く。まるで同棲みたいだと感想を抱くのは自然な流れだ。
「…壁になりたいって気持ち、何か分かるなぁ」
しかしユーリは違った。
「は?壁になりたいのか?」
「うん。壁になって推しの生活を見守りたい。こういう歯磨きとか、一人の時にしか見せない超プライベートを、誰にも気づかれないでただひたすらじっと見るの…ちょっといいな、って」
「つまりは覗きをしたいと?」
「身も蓋もねぇ」

ユーリは腕組みをして考え込む。
「覗き…というよりは、推しをずっと見ていたい、というか?あ、でも無機物になるから、私という人格はなくなる?
待てよ、これ単純に見えて結構奥の深い話なんじゃ……」
歯磨き粉の泡で口の端を白くした情けない顔で、眉間に皺を寄せる。
「一人でいる時のオレは、ハニーが考えてるほど面白いもんじゃないと思うぞ」
「そうかな?」
可愛らしく首を傾げてくるので、カラ松は彼女の口元についた粉を親指の腹で拭いながら、囁いた。

「ユーリにしか見せない顔をたくさん見せてるのに、それじゃご不満か?」

特別感という意味なら、今この瞬間の方が遥かに。この先もきっと、同じ顔は誰にも見せないから。
けれどユーリは口の中のものを洗面台に吐き出し、口を濯いで笑った。
「カラ松くん、分かってないなぁ」
濡れた口元をフェイスタオルで拭う仕草に、なぜかドキリとさせられる。

「余すところなく全部知りたいんだよ」

もちろん不可能だってのは分かってるけどね、と付け加えることも忘れなかった。
逃げ場のないシチュエーションでしれっと爆弾発言を落としてくる彼女の心理を、カラ松は知りたくてたまらない。
感じたままを吐露しているに過ぎないとしても、なぜ曝け出してしまうのか、隠そうとは微塵にも思わないのか。心の内ではどんな感情が渦巻いているのか。
ユーリの危機感や貞操観念については、そのうち膝を突き詰めてこんこんと諭す必要がありそうだ。


時計の針が十一時を指した頃だった。喉の乾きを覚えてカラ松は片膝を立てるが、自分とユーリを繋ぐ鎖が音を立てたことで、思い直す。スマホの画面に見入っている彼女の邪魔をすることに躊躇いがあったからだ。
だがその矢先に、ユーリは顔を上げてカラ松に気付く。
「ごめん、気付かなくて。何か用事かな?」
「え?ああ…すまん。何か飲み物をと思ったんだが…」
「冷蔵庫に水とお茶があるよ。行こっか」
テーブルに伏せられたスマホ、にこりと微笑んで立ち上がるユーリ。ガラスコップに注がれる褐色の液体をぼんやりと見つめながら、カラ松の胸中は複雑だった。

「…側にいられることは喜びだと思ってた」
冷えた茶を飲み干し、カラ松は口を開く。
「カラ松くん?」
「正直、ユーリと一日離れずに過ごせる大義名分を手に入れたと浮かれてたんだが、軽率だったと今は反省してる。
何をするにもユーリの協力がいる。ユーリの手を煩わせてしまう」
「えー、そんなの別に私は──」
「そうやって、気にしないと言う反応も、予想してた」
些末なことだと例え彼女が一笑に付したとしても。
「ずっと側にいることが、オレが夢見てたような光景には程遠いリアルだと知るいい機会になったことには、感謝すべきなのかもしれない。
自由のない共同生活は、息苦しいものなんだな」
一刻も早く、物理的な拘束からユーリを解放したい。日頃と変わらず気丈に振る舞ってはいるが、不便さに対する不満は積もっているはずだ。
この後最大の難関が待ち受けているとも知らずに、カラ松は感傷的な気持ちになるのだった。




「同じベッドはまずい」

低い声音で、カラ松は言葉を絞り出した。
会話が途絶え、あくびが増えた頃合いに、どちらともなく就寝に関する話題を口にしたのを皮切りに、攻防に発展する。
「オレはいつも通りソファでいい」
「けどそれだと、私かカラ松くんが寝返り打ったら起こしちゃうよ。ベッドなら多少動いてもいけるから」
幸か不幸か、ベッドはセミダブルだ。多少の窮屈さはあれど、二人並んで寝るのに申し分ない広さがある。言い換えれば、ほぼ密着して寝るということだが。
「…あのな、ハニー」
「男と軽々しく同じベッドで寝るなって言いたいんでしょ?
カラ松くんの言いたいことは分かる。でも安心して、寝顔にムラッときても夜這いかけたりしないから」
「そっちか」
「ちゃんと我慢する」
「そういう問題じゃない」

立場が逆云々はもはや耳にタコだろうか。
しかし十二分に起こり得ることだ。ユーリに手出しをしないのは、代償として失うものの大きさを理解しているからで、欲求そのものは数え切れない。

「私は、カラ松くんに、しっかり寝てほしいの」

ずいと顔を寄せてくるユーリの鬼気迫る様子に、カラ松はついに白旗を上げた。譲歩する気が皆無なのを察したからだ。カラ松が何を言っても暖簾に腕押しである。

「じゃあ、えー…お邪魔します」
こういう時、何と言って布団に入るのが正解なのか。我ながら不審者感丸出しで、戸惑いつつ掛け布団を捲った。ベッドから落ちないように位置を調節すると、ユーリと肩がぶつかる。
「あ、すまん…っ」
「ちょっと狭いけど、我慢してね」
言葉と共に吐き出される吐息が近く、カラ松は唇を噛んだ。この状況で反応するなという方が無理な話である。室内の電気が消され、俄然緊張感が増す。据え膳という言葉が幾度となく脳裏に浮かんでは消える。ユーリの顔はまともに見れない。

「……あの、さ」
カラ松の葛藤を見透かしたように、絶妙なタイミングでユーリが声を掛けてくる。
「へひ!?」
声は裏返った。情けなさも相まって顔に熱が集中する。
「どっ、どうした、ハニー!?」
「ええと…」
いつになく歯切れが悪い。カラ松に対しては、物怖じせずに思うままをぶつけてくることが多いから、言い淀むこと自体が珍しかった。
暗がりに目が慣れてくる。ユーリは体ごとカラ松に向けつつも、視線を落としていた。

「今日はごめんね」

カラ松は唖然とする。
「…なぜユーリが謝るんだ?」
首だけ向けるのは不誠実のような気がして、彼女と同じように体を傾けた。
「私が手錠で遊ばなかったら、こんな不便にならずに済んだのに…」
ああ。
ようやく合点がいった。
ユーリはずっと責任を感じていたのだ。だから自分が不利益を被ると知りながらも、自宅提供に積極的だった。
「ノンノン、この程度の不便、オレたち六つ子には日常茶飯事だ。いちいち謝罪してたら安売りになるくらいには多発してるぞ」
だから、どうか──
「謝らないでくれ。トラブルには慣れてる。
不謹慎かもしれないが、オレはこうしてユーリの側にいられるのを楽しんでもいるんだ」
嘘偽りない正直な気持ちだった。彼女が抱える罪悪感を払拭したい一心だったが、はたと気付く。また自分本位で考えている。
「ん、ウェイト…そ、そうだよな…オレが良くても、ユーリが──」
「私もちょっと楽しんでる」
カラ松の言葉を遮るように、ユーリが被せてくる。
「カラ松くんの寝顔をこんなに間近で見られるなんてね」
化粧を落とした顔はあどけなく、微笑は可愛らしいの一言に尽きる。伸ばしたくなる手に力を込めて、必死に堪えた。
「言っておくが…平気なわけじゃないからな」
「うん。ごめん」
「だから謝るなって」
「そうだった、ごめん」
「ハニー」
「あはは」
からからとユーリが笑う。その唇を奪う夢を何度も見た。幻想の中の彼女は抗わずに背中に手を回してきたけれど、目の前の彼女はどうだろう。
発散できない欲を霧散させるべく髪を掻こうとして手を持ち上げたら、鎖の触れ合う音が室内に広がった。
「動くと音するね」
「これくらいは仕方ない。最悪、明日は寝坊してもいいんじゃないか?」
「寝返り打ちにくくて肩凝ったら言ってね。肩揉むから」
そこまでしなくていいのにと辞退の言葉を紡ぎかけて、カラ松は思い直す。それくらいの報酬は得てもバチは当たらないのではないか。というか、このシチュエーションもどうしてなかなか───生殺しであること以外は
そして、いくらカラ松が気にするなと言ったところで、カラ松を気遣うのがユーリという人だ。特別に向けられるその優しさが、愛しい。

彼女に報いるためにも、心を無にして羊でも数えて一夜を過ごそうと、カラ松は決意を固める。




翌日の午後、二人を拘束していた手錠がフローリングの床に落ちた。昨日デカパンのラボを訪ねてから二十四時間が経過した頃合いである。
「外れ…た?」
「そのようだ」
元々大した重量はなかったが、始終左手首に接触していた不快感が消失し、晴れやかな気分になる。
「やったー、終わったぁ!」
ユーリは両手を思う様振り回してから、大きく安堵の息を吐いた。
「カラ松くんもお疲れ」
「これで元通りだな」
「安心したら喉乾いちゃった。コーヒー入れるね。ついでにおやつにしよっか?」
ユーリが腰を上げるので、カラ松も反射的に彼女に倣う。片膝を立ててからユーリと目が合って、我に返った。二人を繋ぐ手錠は既に手首にないのだ。
「……あ」
「ふふ、もう条件反射だよね」
半日以上、互いの挙動を常に意識していた。負担をかけないようタイミングを見計らっていた。大きな問題なく過ごせたのは、タイムリミットを知っていたからだ。終わりがあるから耐えられた。

「なぁハニー、今日は何か予定はあるか?」
「別にないよ」
それなら、とカラ松は改めてユーリの前に跪く。
「今から口直しといかないか?」
ユーリは片手を口元に当て、ひょいっと肩を竦めた。
「口直しが必要なほど、昨日も今朝も悪くなかったんだけど」
「でも制約はあっただろ。今日は文字通り自由だ───オレも、ユーリも」
フローリングに無造作に転がる手錠を横目に。

「夜までの数時間、ユーリの意志でオレと過ごしてほしい」

強制も束縛も、物理的な拘束はもうない。離れたければいつでもできる状況下。強制ではなく、自ら望んでと願う。
「オレは、ユーリといたい」
さながら告白のような真っ直ぐな台詞は、手錠で過ごした一日という前提条件があってこそ口にできる。
「奇遇だね」
微笑みを浮かべるために細められた双眸からは、目が離せない。美しいと心底思う。世界中のどんなアイドルもモデルも太刀打ちできない魅力があると思うのだけれど、きっとユーリは歯牙にも掛けないのだろう。
どれほどの言葉を駆使すれば伝わるのかと、いつも考える。

「私も、カラ松くんと過ごしたいと思ってたんだ」

でも今は、共に過ごせる喜びをただ享受したい。