とても緩いですが、ユーリ(あなた)×カラ松の描写があります。
「いやー、だって面白そうじゃん」
いつもそうだ。
おそ松は物事の選択を迫られた時、面白そうか否かで判断する傾向がある。根拠のない楽観的な決断に兄弟は幾度となく煮え湯を飲まされ、否応なしに巻き込まれてきた。
ユーリが媚薬を飲んだ。
後にカラ松は、そう聞かされた瞬間に長男を窓から放り投げようと思ったと語っている。
六つ子は二階の自室に雁首を揃えていた。
「デカパンが栄養剤と間違えて飲ませたって連絡あってさ。こっちに来るって言ってたから、後はよろしく的な?」
松野家を訪ねる道中、ユーリはデカパンのラボに寄り、繁盛期で蓄積された疲労感を緩和しようと彼を頼った。いい薬があると快諾したデカパンは、栄養剤と瓶のデザインが類似していた媚薬を誤って飲ませてしまった、と。ユーリがラボを出た後に発覚し、注意喚起の電話におそ松が出たという経緯だ。
「ちょっとデカパン始末してくる」
「落ち着けカラ松。気持ちは分かるけど、すっごい分かるけど!」
殺意を滲ませて立ち上がるカラ松を、慌ててチョロ松が制する。
「これが落ち着けるか!ユーリによりによって何てもの飲ませてるんだ、あの半裸パンイチ!」
激昂するカラ松だが、チョロ松の制止を受け入れ、渋々窓際に腰を下ろす。
なぜなら───既にユーリは松野家にいるからだ。
おそ松が電話を聞き終え受話器を置いたのと、彼女が玄関を開くのがほぼ同時だったらしい。
「っていうか、媚薬飲むとどうなるわけ?」
ソファの上で背中を丸めた一松が、純粋な疑問として提示した。
「んー、感度が絶妙に上がる感じ?
ほら、漫画とかAVでさ、適当に触っただけでも気持ちよくなっちゃう、本人はそんなつもり全然ないのにって展開あるじゃん」
眉唾だけどね、とトド松はスマホを振りながら苦笑する。
「僕ちょっとユーリちゃんの様子見てくるよ」
「おい待て、チョロ松」
無表情で立ち上がりかけた三男を、力づくで再び着席させたのはカラ松だ。抜け駆け禁止などという生ぬるい意味合いではない。今のユーリに自分以外の男が触れることは決して許しさない、断固とした意思故だ。
「おそ松兄さんは何でそんな状況のユーリちゃんを一階に置いとくの?帰らせた方がよくない?ガチギレのカラ松兄さんに殺されたい願望?」
十四松が長い袖を口元に当て、あっけらかんとする長男に質問を投げかける。
「その辺は悩んだんだけど、デカパンがベータ版だって言うんだよ。要は試作品だから効果は出るかさえ分かんないし、続いたところで一時間が限度だって。
しかも遅効性で、うちに着く頃には症状が出るだろうって話だったんだけど、一階に案内した時はまだいつものユーリちゃんでさ」
つまり、確かなものは何一つない媚薬と名のついた試薬品。何ともはた迷惑なものを飲ませてくれたものだ。後で責任はきっちり取らせようとカラ松は心に誓う。
「それでボクらに報告しに来た、ってこと?」
「俺だけが背負うにはでかすぎる十字架だもん」
おそ松の手に余る案件。一見何の変哲もない、責任逃れが得意な長男らしい回答だったが、カラ松は鵜呑みにしない。
「ということは、背負える程度のサイズなら、媚薬のことをオレたちに隠してオイシイ思いをしようと目論む選択肢もあったわけか」
「やだなー、カラ松。ユーリちゃんに手なんて出そうもんなら、お前が黙ってないだろ?
俺は危ない橋は渡らない主義なの」
おそ松はへらりとカラ松の攻撃をかわすが、どこまで本音か疑わしい。
「ユーリを帰らせるセレクトもあったはずだ」
そう告げれば、おそ松はすっと顔から笑みを消した。横目でカラ松を一瞥する。
「万が一帰り道で発症してみろ。見ず知らずの男とユーリちゃんが一夜の関係になったかもしれない。お前それでもいいわけ?」
「……っ、それは…」
気が逸ったとはいえ、失言だった。おそ松なりに最善の手を尽くした結果が今なのだ。
ユーリのこととなると頭が回らなくなる。媚薬と聞いたから、なおさら。
「行って来いよ、カラ松。お前が大事にしてるかわい子ちゃんの所にさ」
にっと笑った口からは、白い歯が覗いた。
ところが、事はドラマのように都合よく運ばないもので。
「みんな二階にいたんだー?」
軽やかな声と共に襖が開け放たれて、話題の主が颯爽と姿を現した。想定外の展開に言葉を失う六名とは対照的に、ユーリはにこやかに上機嫌だ。
「おそ松くん全然下りてこないから、私のこと忘れてるんじゃないかと心配しちゃったよ」
「っ…ユーリ……」
「あ、カラま───」
ユーリと視線が絡み合う。
だが、カラ松の名は最後まで紡がれることはなかった。
ユーリは顔面を両手で覆って崩れ落ちる。
「どうしたっ、ハニー!?」
「何事!?」
カラ松が駆け寄り、背中に手を添えてユーリの体を起こす。他の面々は動揺しつつも、距離を取って様子を見守った。
「くっ…」
歯を噛み締め、苦悶の表情を浮かべるユーリ。
「ひ、ひょっとして体調悪くなったとか…?洗面器いる?」
十四松がおろおろと不安げに体を揺らす。
一般的な媚薬の効果が発揮されるかすら怪しい薬を飲んだのだ。体調不良を起こした可能性も十分考えられる。
ひとまず客間で休ませようと提案しかけた───その時。
「推しが眩しすぎる…」
ユーリの口から突いて出た言葉は、カラ松たちの目を瞠らせた。
「は?」
「後光が差して逆に目の毒。
っていうか目を合わせてイケボで呼び捨ての上に抱きとめてくるって、それもう何ていう神ファンサ?我が推し活人生に悔いなし」
ユーリは皺の寄った眉間に手を当て、涙を堪えるポーズを取る。もう何がなんだか分からず、カラ松は口を半開きにしたまま固まった。
「あー」
一松が何かに気付いたように声を出し、ユーリの傍らに膝をつく。至近距離で彼女の顔を覗き込んだ。
「お、おい、一松…」
危険だと言いかけてカラ松は口を紡ぐ。危険なのはどっちだ?
「ねぇ、ユーリちゃん」
「何?一松くん」
「倒れてたら心配になるから、とりあえず起きよっか。こいつどかしたら立てる?」
「ごめんごめん、平気」
一松はカラ松を押しのけ、ユーリの視界からカラ松を遠ざける。すると彼女は頷き、気恥ずかしそうに笑いながらも平然と立ち上がった。一松の目をしっかりと見つめて。
「そういうことね、完全に理解した」
謎は全て解けたとばかりに、おそ松が嘲るように片側の口角を上げる。瞳から先程までの輝きは失われ、完全に興味を失った面だ。
「どういうことだ?」
十四松やトド松も状況を正しく把握したらしく、溜息をつく者、苦笑いで肩を揺らす者がパラパラと出始める。カラ松だけが蚊帳の外だ。
「───まぁ、つまり」
そう言っておそ松はユーリの背後に立ち、彼女の頭を両手で包んだかと思うと、その顔を強引にカラ松に向けた。再びユーリと視線が絡む。
「え?」
「あ、ち、ちょ──」
ユーリの顔がみるみるうちに上気する。見つめ合った双眸は潤み、所在なげに持ち上げた手は微かに震えているようだった。彼女の口から途切れ途切れに声は出るのに、言葉にはならない。
これは、まるで。
「うちの推しは目で見るタイプの美容液だった!?」
理解した。
「えー、これは駄目、ほんと危険、私の情緒がヤバイ。
もう普通に見慣れたと思ってたのに、瞬きする時間が惜しい。二十四時間飽きずに見られるってこういうこと?ビジュアルが良すぎる。
いやそれ以前に、この至近距離で同じ空気吸ってる?…は?同じ空気?」
ユーリはじっとカラ松を凝視する。
「推し成分過剰摂取で吐きそう」
「止めろ」
素で制止してしまった。
おそ松は自愛に満ちた微笑を作って、人差し指で鼻の下を擦る。それからおもむろにカラ松の肩を叩いて、言った。
「後は任せた」
逃げる気だ。
長男を筆頭に四人が無言で立ち上がり、階段へと向かう。厄介事からいち早く離脱したい時の、生贄を見放す素早さと団結力は天下一品だ。
「カラ松兄さんにしかできない大事なミッションだよ、頑張れ!ボク応援してる!」
末弟は最高の笑顔でサムズアップ。
「僕らが対応するメリットないし」
チョロ松に至ってはメリットとか言い出した。
「なぁユーリちゃん、カラ松ってそんないい男?」
おそ松の捨て台詞とも思える何気ない問いは、ユーリの逆鱗に触れたようだった。鋭い目で長男を睨む。
「そんな安い一言で推しを語らないでくれる?片腹痛い。
そもそも同じ顔同じ顔っていうけど、顔全然違うし完全に別人格だから。まずはそこ把握して、オーケー?
そんな中でカラ松くんは、スタイルもイケボも性質も可愛さも最高峰の崇められるべき神の如き存在。可愛いと格好いいが同棲して、格好つけたがりのくせに格好つかずに結局可愛いくせに、素の仕草に本人無自覚の雄みが溢れるとんでもない逸材!
イタイ要素が最大のアイデンティにも関わらず、決して他人を傷つけず、しかもそれを取ったら普通にいい奴っていう身近さをも感じさせ」
「はい解散」
おそ松が無表情で手を叩き、終焉の合図にする。
「待ちなさいニートたち、まだ序章の一割も語ってない。推しの、布教を、させろ」
「解散」
二度目は、有無を言わせない力強さだった。ユーリは大人しく口を閉ざしたが、仏頂面で唇を尖らせる。というか、何でいちいち区切って言った?
「媚薬のくせにエロ要素皆無とか」
「媚薬名乗るのもおこがましい」
「知ってた」
「しゅーりょー」
「効果が切れたら下りてきていいから。それまではお前が責任持って介抱しろ」
五人は列をなしてぞろぞろと部屋を出ていく。出遅れたカラ松は結果的に取り残されたのだが、早口で自分の兄弟の布教活動されたら誰でもそうなるよな、という感想はさすがに持った。
「政府は何してるんだろうね。当推しにSNSの公式アカがないなんて、国宝を蔑ろにしてるも同然の損失なのに。速攻で公式マーク取れるのに。
あ、そっか、私が作ればいいのか!推せる要素盛りだくさんの写真は腐るほどあるし、カラ松ガールズ増殖計画の企画書、今から急いで作るね!」
「ユーリ…大丈夫か?」
頭が。
自分が公式アカウントを運営すればいい、そんなことを名案とばかりに目を輝かせるユーリに、カラ松は一抹どころでない不安を覚える。
カラ松を推す発言は今までも度々あったが、カラ松が苦言を呈すればあっさりと引くくらいの冗談の域を超えていなかった。それに知名度を全国区に拡大する野望を抱くことはあれど、ビジョン達成に向けて着手しようとするのはこれが初めてだ。
全力で止めなければ。
「私は大丈夫だけど…でもみんな変だったよね。私、何かしたかな?」
幻影を追い求めるみたいに廊下へと視線を投げ、ユーリがぽつりと呟く。その瞳はどこか寂しげで、ほんの一瞬でも彼女の頭を疑ったカラ松は自責の念に駆られる。
今この場でユーリを安全に守れるのは、自分しかいないのに。
「ユーリ…オレは……」
しかし謝罪が口にされることはなかった。ユーリが後ろ手でカラ松のシャツをたくし上げてきたからだ。
「しれっと裾を捲るんじゃないっ」
「いやー、ごめん。急に推しの腹チラが拝みたくなっちゃって」
言いながら手はもう一本増え、胸元まで勢いをつけて引き上げた。腹部がユーリの眼前に晒されて、羞恥心に体温が急上昇する。
「こ、こらっ、ハニー!いい加減に──」
「このお腹まわりのライン、ほんっと理想的なんだよねぇ。程よく引き締まってて、背中から腰にかけては無駄がなく色気がある。みんなが憧れるセクシーな腹筋の代表格!」
ユーリは拳を振り上げて力説する。声高に称賛されると、悪い気はしない。しかも相手は他ならぬユーリだ。
「ま、まぁ…オレクラスともなると、これくらいは当然だ。フッ、ハニーたっての願いというなら仕方ない、存分に見惚れてくれていいんだぜ?」
「えげつないファンサきた」
言い方。
じっと見つめられていたのは、そう長い時間ではなかった。
けれどカーペットに座って膝を折り、開いた足の間にユーリがずいっと体を割り込ませた体勢は実質的に逃げ場がなく、なかなかに気恥ずかしい。
「で、どうすればカラ松くんは脱ぐ?」
裾から手を離し、カラ松を見上げてくる。
「ユーリ…この格好だとシャレにならないだろ」
「本気だよ」
「……え」
耳を貫いた声には、抑揚がなかった。
カラ松の背後は壁と、すぐ近くに腰高の窓。いつの間にか壁際に追い込まれていて、立ち上がろうにもユーリの体があまりにも近い。
「っ、ユーリ…?」
媚薬という言葉が、カラ松の脳裏をよぎる。もしも薬が今なおユーリの体内に作用しているとしたら、彼女の意図は何だ。停止しそうになる思考を回転させ、打開策を考える。
カラ松は体を強張らせたまま、ユーリから目を逸らさずにいた。弱みを見せたら負けだと、なぜかそう思ったのだ。
その様子に気付いたユーリが肩の力を抜き、ふっと笑う。
「怖がらせちゃったか」
体が離れる。
呆然とするカラ松の前で、ユーリは両手を広げた。手のひらを上向けて。
「おいで」
「何、を…」
「クレバーに抱いてあげよう」
満面の笑みでのたまう台詞じゃない。
「…若干オレ化してないか、ハニー」
自分のことは盛大に棚上げし、ついツッコんでしまう。あとその文句はいつか自分が言いたかった秘蔵の決め台詞なので、取られて非常に悔しい。
答えあぐねていると、不意にユーリの瞳が鋭さを増した。口元から笑みは消え、殺意にも似た強い感情が双眸に宿る。そして、本能的に感じた危機感からカラ松が脱出を試みるより、ユーリの行動の方が早かった。
カラ松が背を預ける壁に、片手が伸びてくる。
「まったくもう、まどろっこしい」
苛立ちの混じる声で、ユーリが吐き捨てた。
「え…ええと、ハニー…?」
「口開けて」
「はぁ!?」
意味が分からず声を荒げたのを答えと判じたのか、開いた口にユーリが人差し指と中指を追し込んだ。二本の指の腹が、カラ松の喉を突く。
「…なん…っ!」
ユーリはカーペットに膝を立て、カラ松を見下ろした。冷静な、けれど熱を帯びた目が絡み合う。
欲情。頭を掠めた単語に、まさかと笑い飛ばせない。
「上手に舐めてごらん」
そう言いながら、差し入れられた指はカラ松の口内を怪しくうごめく。舌の上を緩やかに這い、口を広げて一本一本歯をなぞった。経験したことのない感触が口の中を蹂躙する。
誤って嚙んでしまわないように無抵抗を貫くのに精一杯で、そう意識すればするほどに長く細い指の感覚を唇と舌が強く感じてしまう。
「んぅ…っ…」
逃げようと舌を引っ込めれば、指はすぐさま追いかけてくる。逃がす気はないらしい。
せめて意識を逸らそうと両手を持ち上げたら、ユーリの腰に触れた。咄嗟にデニムのベルトごと腰を掴んだが、結果的に彼女の腰に両手を回した格好だ。まるで縋るみたいじゃないかと、足のつま先から熱がこみ上げる。
「はに、ぃ……」
口の中に指を入れられているだけなのに、腰が痺れる。思うように力が入らない。
「可愛くおねだりできたら、応えてあげる」
何に。何を。思考に至る回路は切断されて、考えること自体が億劫になっていく。
意図的に動かなくなった彼女の指を、自ら求めるように口に含んで舌にのせた。付け根からつま先へゆっくりと這わせる。
テクニックも性感帯も分からない。繋いだ時の感触しか知らないユーリの指を、口と舌を使ってひたすらに感じ取る。触れる場所が違うだけで、顔が赤らむほど興奮するなんて知らなかった。
「ぅ、んん…」
飲み込むタイミングを失った唾液が、口の端から垂れて落ちる。不快感よりも醜態をユーリに見られた恥ずかしさが先立って片手を上げたら、手首を掴まれた。
「駄目だよ」
「ぁ…ユーリ……?」
どうして、と言いかけた言葉は、虚空に溶けた。
ユーリがカラ松の唾液を舐め上げる。
「ひぅっ」
あと数ミリ近づけば唇に触れる、ギリギリの距離だった。
かつて感じたことのない生々しさを伴って、ぞくりと全身に快楽が走った。視界が白く染まりそうになる。
壁際に追い込まれ、さらに片手を奪われ、襲われているかのようなシチュエーションが、カラ松の興奮に拍車を掛けた。自分が少し力を込めれば立場は容易く入れ替われるのに、そうせずされるがままなのは、きっと───
「ん、あ、待っ…!」
制止は声にならない。言葉を発そうとすると、指に歯を立ててしまいかねないからだ。こんな時まで自分はユーリの安全を最優先にしている。
「ほら、カラ松くんはとっても可愛い」
ユーリもまた、心なしか余裕のない顔だ。掴まれたままの手首が熱いのは、きっと自分の体温のせいだけではない。切羽詰まったユーリを垣間見れた誉れをカラ松は誇らしく思う。やっとユーリにそういう感情を抱かせることができた。余裕がないのはいつもカラ松だけだったから。
しかし小さな優越感が穏やかに浸透した次の瞬間、ユーリはカラ松の口内から指を抜いた。自分の唾液にまみれた二本の指が目の前に晒されて、改めて直視した現実に目尻が赤くなる。体に触れられたわけでもないのに、息が上がった。
「や…ユーリっ…それ…」
タオルかテイッシュか、いずれにせよ何か拭くものをと、緩慢な動作だが腰を上げようとして、カラ松は絶句する。
指についた唾液を、ユーリが自分の舌で舐め取ったからだ。
「ッ!?な、何で…っ」
カラ松の問いには答えず、見せつけるみたいに舌先を指に這わせる。情事のワンシーンを連想させる絵に、眩暈がした。
「濡れちゃったから」
それから乱暴に手を服で擦り、彼女は再びカラ松に向き合う。
「初めてだから、今日はこれで勘弁してあげる」
カラ松の顔にユーリの影が落ちる。
「今日、は……?」
「うん」
ゆるりと、デニムの上から腿を撫でられた。膝から足の付け根にかけてのラインを、まさぐるように手のひらが這い、カラ松の腰はぴくりと跳ねる。
「次は───止めてって言うまで続けるからね」
「っ……は、ぁ」
「可愛い可愛いカラ松くん。お返事は?」
誘われて、もう何も考えられない。
「───…は」
カラ松が返事をしかけた矢先。
ユーリがバッと勢いよく顔を上げた。
「あれ」
素っ頓狂な声が上がった。
今の今まで発されていた艶のある声音は影も形もなく、突如として平穏な日常が戻ってきたような変貌だ。
「何でカラ松くんがいるの?…ん?ここ二階?───え?」
薬の効果が切れたのか。
発症中の記憶も喪失したようで、キョロキョロと不思議そうに周囲を見回した。憑き物が落ちたというのは、まさに今のユーリのようなことを表すのだろう。
不安げなユーリを見ているのは忍びなく、慌てて助け舟を出す。
「…つ、疲れてるんじゃないか?
二階に上がってきた時のユーリはボーッとしてたぞ。その上目の前で転びかけるから、焦ったじゃないか」
咄嗟の理由付けにしては及第点じゃないだろうか。ユーリの疲労はカラ松たちは知らないことになっているし、壁際に追い込まれた格好も転倒のせいにすれば一応の説明がつく。
ユーリは肩を竦めて溜息をついた。
「えー、やっぱカラ松くんから見ても私疲れてるかな?迷惑かけちゃってごめんね」
顔が近づいて、カラ松はドキリとする。先程までの情事もどきの行為が思い出されて、まともに目が合わせられない。
しかしユーリに懐疑心を抱かせないよう、この場を乗り切らなければ。
「カラ松くん、暑い?顔赤いよ」
演じろ、松野カラ松。赤塚高校演劇部で培った演技力を、今こそ発揮する時だ。
カラ松は片手を伸ばし、ユーリの髪に触れる。
「フッ、両翼を隠してガイアに降り立つ天使が通った道には、木漏れ日のようなぬくもりがいつまでも残るらしいな。オレが感じる暑さはそのせいだ」
「どういうこと?」
「───ユーリのことさ」
悠然と指を鳴らし、流し目で決める。たっぷりと意味ありげな間を取って。カラ松が気取れば気取るほど、周囲は真摯に受け止めなくなる。それを利用するのだ。
案の定、ユーリはプッと吹き出した。
「あはは、何それ。私のせいにしないでよ、もう」
ミッションコンプリート。グッジョブ、オレ。
ユーリを引き連れて階下の居間へ向かう。彼女を二階に留めておく理由はなくなった。
一階では、ちゃぶ台を囲むようにして五人がめいめい時間を潰しており、戸が開くや否や全員の視線がこちらに向く。
「あ、やっと終わった?」
畳に寝そべって微睡んでいたおそ松が、億劫そうに上体を起こす。
「終わった、って?」
ユーリが首を傾げる。彼女が媚薬を飲んだ後の記憶を失っていること、そもそも媚薬を飲んだ自覚さえないことも伝えなければとカラ松は慌てるが、カラ松の表情に何かを察した末弟が救いの手を差し伸べてきた。
「ユーリちゃんの推し語りがノンストップで超絶ウザかったから、正気に戻って安心してるって意味だよ」
「えっ!?私そんなことしてた!?」
してた。
「お前も沼に引きずり込んでやるっていう意気込みが尋常じゃなかった」
「一松くんまで…!
ごめん、全然覚えてない……ここ来る前にデカパン博士の栄養剤飲んだけど、効かないくらい疲れてるのかも」
背中を丸めてしょげる姿も愛らしいが、罪悪感を抱かせたいわけじゃない。
「く、薬の副作用ってこともあるんじゃないか?ほら、アレだ、よくあるだろ、デカパンだし」
あのパンツならあり得る、そんな空気を演出する。誰か一人からでも同意があれば、明確な根拠などなくとも、少なくともユーリを安堵させるだけの理由として成立するのだ。祈るように五人を見渡せば───チョロ松が頷いた。
「まぁ薬事承認受けてないし、効果は別として、安全性は怪しいところあるよな」
「ブラザーもこう言ってる。だからそう気に病むな、ユーリのせいじゃない」
宥めるように肩を抱き寄せれば、弱々しい笑みが返ってきた。
「てかさ、カラ松お前よく耐えたね。辛くなかった?」
おそ松の労いをきっかけに、カラ松の脳裏にはつい数分前までのユーリとの濃密な絡みが再現される。映像が、感触が、鮮明に思い出されてしまう。
従属した奴隷のように従って、次回をほのめかす甘美な誘いに脳味噌が蕩けそうになった。
「なっ、何でそれを!おそ松、お前まさかずっと見て───」
全身の血液が顔に集中する。体温が上がるのが自分でも分かる。
そして、そこまで口にしたところで、カラ松は我に返った。盛大にやらかした。
おそ松の顔からスッと表情が消える。
「ええとっ、いや、すまん、そういう意味じゃなく…」
「ユーリちゃん!」
カラ松が言い淀んでいると、それまでバランスボールに全身を預けていた十四松が突然軽やかに跳躍し、ユーリの前に躍り出た。
「二階で遊ばない?
もうすぐ一松兄さんの新しい友達の猫が遊びに来る時間なんだ。ユーリちゃん見たくない?」
「…ああ、もうそんな時間?
飼い猫みたいに人懐っこくて毛並みがいいんだよ。背中に三日月の模様もあって。おれもユーリちゃんに紹介したい」
一松は顔色一つ変えず五男の話に乗り、うっすらと笑ってユーリに体を向けた。ユーリは両手を合わせて破顔する。
「見たい見たい!」
「だよね!じゃあ行こう、ユーリちゃん!」
十四松も顔を綻ばせた。ユーリの背中を押して、バタバタと忙しなく部屋を出ていく。一松もその後ろに続いたと思いきや、振り返って長男にサインを送る。
『後で詳しく報告しろ』
おそ松は無言で右手の親指を立てる。
『任せろ』
三人分の足音が遠ざかっていく数秒間が、まるで永遠に感じられた。物音一つ聞こえなくなった静寂の中、微動だにしない三人に囲まれたカラ松は、さながら裁判で判決を言い渡される被告人だ。審判を待つ瞬間は、顔から血の気が引く。
何をどう説明したところで、彼らを納得させるだけの材料にはなり得ない。
「さて」
口火を切ったのは、おそ松だった。
「お楽しみだったようで何よりだよ、カラ松」
一切の音を立てずに三人は床から立ち上がる。
「媚薬の効果、教えてもらおうか」