「おそ松くん、次のサービスエリアで休憩だって」
私はミニバンの後部座席から身を乗り出し、運転席の松野家長男に声をかける。前方の車に乗るトド松くんから、私のスマホにメッセージが届いたのだ。
おそ松くんは右手でハンドルを握り、反対側の手は運転席の肘掛けに置いた姿勢で、スピーカーから流れる洋楽に合わせて肩を揺らしていた。
「オッケー、ユーリちゃん。近づいたら言ってよ。俺ぜってー忘れるから」
バックミラー越しにおそ松くんが視線を寄越す。
「分かった。もう数キロ先だから、早めに言うね」
「てかさ、ユーリちゃんがナビしてくれるなら助手席でよくね?何で十四松なわけ?」
「あはー」
名を呼ばれた十四松くんは、大きく口を開けた。名を出されたから呼応しただけの、深い意味のない発声だ。
「ハニーが助手席に座るのは、オレが運転する時だ」
腕組みをした仏頂面で言うのは、私の隣に座るカラ松くんである。
「ユーリに格好いいところを見せたいだのと抜かして、オレを押しのけて無理矢理運転席に座ったのは誰だ?」
「わー、地雷踏んだー。セコムうぜー」
「兄さん、どんまい!」
十四松くんが軽やかな声でおそ松くんの肩を叩く。
彼の運転する車には、カラ松くんと十四松くん、そして私の四人が乗り合わせている。そして前述したトド松くんが乗る車には、チョロ松くんと一松くんを始め松野家の両親二人と、計九人が二手に分かれている状況だ。
なぜか。
私たちは───温泉街へ一泊旅行に赴くのだ。
発端は、私が六つ子たちと共に松野家の居間で談笑していた数日前に遡る。その時私たちは人生ゲームに興じていて、結婚も住宅購入もせず独身街道を突き進んだ挙げ句真っ先にゴールしたおそ松くんが、子だくさんな上にゲーム上最も高額な家を購入して宝くじも当てた順風満帆なチョロ松くんにいちゃもんをつけた。
結果、ゲームの卓は文字通り吹っ飛んで、比較的スムーズに金を稼いでいた面子を筆頭に六つ子の乱闘へと発展した。たかだかゲーム一つで暴力沙汰にできることに感心しつつ、私は彼らから距離を取り悠然とお茶を啜っていた───その時。
「朗報よ、ニートたち!町内のくじ引きで温泉旅行が当たったわ!」
鶴の一声だった。
障子を破壊する勢いで開け放ち、眼鏡を光らせながらおばさんが現れる。ニートたちは即座に拳を下げ、母親の元へと駆け寄った。掌返しの速度が凄まじい。
「ね、ねぇ母さん、今何て…」
トド松くんが躊躇いがちにおばさんに問う。自分の耳を疑うというよりは、ほぼ間違いないと確定した情報を公式から正式発表してほしい期待感に近い。
「源泉かけ流しの露天風呂がある、朝夕は部屋食の豪華旅館に家族全員招待よ。日程は来月第一週の土日だけど、どうせ予定ないでしょ?
母さんの引きの良さを崇め奉りなさい、ニートたち」
「あざまああぁあぁす!」
横並びの正座で、額を床に擦り付ける六人。ニートの土下座は安かった。
「バイキングじゃなくて部屋食!いやっふー!いいもん食えるーっ」
「フッ、地の底より湧き出ずる湯を堪能できるアウトドアバスにオレに浸れということか?いいだろう、引き受けた!」
「家族旅行なんて久しぶりじゃない?ワクワクしてきた!」
「うん、いい。控えめに言って最高」
「母さんマジでありが盗塁王ー!」
「露天風呂とか部屋食とか、映え間違いなしじゃーん。楽しみー」
諸手を挙げて歓喜する六人。
成人過ぎるとただでさえ家族旅行の機会が激減する上、松野家はこれまでも人数の加減で安価な旅が多かっただろう。生活するだけでも二家族分に近い費用がかかるため、レジャーに湯水の如く資金を投入できなかった彼らの過去を慮ると、より家族仲を深めるいい機会になりそうだ。私の頬は自然と緩んだ。
「良かったね、カラ松くん」
思う存分楽しんできてほしい。そう思って、私は微笑む。
カラ松くんは私を見て、嬉しそうに破顔した。
「ああ───楽しみだな、ユーリ」
んー?
「九人だから車二台いるよね?今からレンタルかカーシェア申込みで間に合う?」
「ボク手続きしとくよ」
チョロ松くんが提示した疑問には、すぐさまトド松くんが答えた。
「ユーリちゃんはアレルギーとかあるかしら?
もしあるなら、事前に旅館の人に伝えておくわね」
流れがおかしい。
「あの」
挙手をして七人の目を私に集中させる。私の心に生まれたこの疑惑は、有耶無耶にしてはいけない。
「家族旅行だよね?」
松野家の。
「そうだよ?」
おそ松くんが最初に頷いたので、彼を今後の回答者として指名する。全員の面構えから判断するに、誰が回答しても返事は概ね同じだろうと踏んだのだ。
「家族水入らずなのに私入っていいの?」
「だから家族水入らずだけど?」
「八人で行くんだよね?」
「やだなユーリちゃん、計算間違ってるって。九人だろ?」
「は?」
「え?」
最高に噛み合わない。
あ、と何かに気付いたようにカラ松くんが声を上げた。
「オーケーオーケー、ハニーが何を言いたいのか把握したぜ。そうだよな、いきなり話を進められちゃ困るよな」
彼は片手を額に当て、悩ましげなポーズを取る。言い草もなかなかに芝居がかっているが、この際不問にしよう。ようやく話の通じる人物が現れた。
「その日オレと行く予定だった映画は延期にしたらいい。な?」
こいつも駄目だった。
言われてみれば、確かに約束はしていたけども。話題の新作で、公開一週目に観に行こうと軽い口約束はしていたけども、そうじゃない。な?じゃない。可愛いな、もう。
四面楚歌も極めると、本来は真っ当な反論が馬鹿げたものに思えてくるから不思議だ。こうなると私の態度は投げやりになり、もう好きにしてくれと諦観の境地に至る。
だから改めておばさんからスケジュールの空きを確認された時は、はいはいと無気力に頷いたのだった。
後に、おばさんは語った。
「ごめんなさいね、違和感が仕事してなかったわ」
しろよ。しなきゃ駄目だろ。
途中で休憩を挟みつつ高速を降り、整備された山道を進んだ。道はやがて一本になり、辿り着いたのは、明治時代を彷彿とさせる木造多層建築の旅館が川を挟んで軒を連ねる、レトロな街並みの温泉街だった。
現代社会を象徴するビルや建物の一切が存在しない、視界には古を感じさせる木造バルコニー建築と森林だけが映り込む。大正や明治時代にタイムスリップしてしまったかと錯覚させる街並みは大層美しく、ノスタルジックな想いに駆られそうになる。
都会から切り離された小さな箱庭の温泉街。
「部屋ひっろーい!景色いいー!映えるわーっ」
女将に案内されたのは、館内で最も広い十人部屋の和室だった。畳のイグサの香りが鼻孔をくすぐる。
部屋は大きく二間あり、襖の開閉で区切れる仕組みになっている。さらに主室の奥にある広縁──テーブルと椅子が二脚置かれた細長い板の間──の窓からは、明るい日差しが差し込むと共に、対岸の旅館と川が一望できた。トド松くんがはしゃぐのも無理はない。
「夜は父さんとニートたちはこっち、母さんとユーリちゃんはこっちね」
私の懸念を察してか、部屋に入るなりおばさんが説明してくれる。異性七人と同室であることにさほど抵抗感がないのは、六つ子が束になっても敵わない松代フィールドの加護があるからだ。襖によって視界的に遮断されるのも有り難い。
「(カラ松に)嫁入り前の娘さんですもの。ニートたちに間違いは起こさせないから安心して」
カッコの中の本音は無視していいだろうか。
「はい、ありがとうございます」
気付かなかったことにした。
「しかし母さん、娘と旅行っていいもんだなぁ。娘が一人いると華やかだし、旅先で見える景色も全然違う」
誰が娘だ。記憶改ざんされてるぞ、松造。
「そうよねぇ。もっと早く家族旅行すれば良かったわ」
「でも父さんたちは、息子の家庭にはあれこれ口出しはしないつもりだからな。そこは安心していいから、ちゃんと弁えてるから」
おじさんは私に向けて穏やかに微笑むが、もうどこからツッこんでいいやら。
もはや先行きは不安しかないが───
「ユーリ。今からブラザーたちと館内散策するんだが、一緒に行かないか?」
家族公認で推しと旅行ってだけで全部チャラになりそうだ。推しは今日もビジュアルがいい。
六つ子は浴衣の着方にも個性が出る。
見本のような着こなしのチョロ松くんをベースに、おそ松くんは若干着崩し、一松くんは下にジャージパンツ。十四松くんは甚平で、トド松くんはレディースの浴衣を可愛らしく着こなすスタイルだ。
そしてカラ松くんはというと、少し屈めば胸元があらわになるほどがっつり着崩していた。見ようによってはだらしない、なのにめちゃくちゃ似合うこの摩訶不思議を誰か解明してほしい。ゴチです。
「あ、ユーリちゃんもう出てたんだ」
レザー調のクラシックなソファに腰掛けていた私に、一松くんが声をかけた。
男湯と女湯は同じ階で別入り口となっている。私たちはそれぞれ温泉を楽しんだ後、大浴場前の休憩スペースで落ち合うことになっていた。
「みんなの賑やかな声が聞こえてきたよ。結構声響くもんだね」
「マジで?おそ松兄さんと十四松が物珍しさ全開で、すげぇテンション高かったんだよな」
「ふふ。そう言う一松くんもはしゃいでたよね」
声の音量こそ彼らよりずいぶんと控えめだったが、感嘆の声は女湯まで届いていた。私の指摘に一松くんは顔を赤くする。
「ちょ、あいつらと一緒にしないで!おれはまだ冷静だった」
言いながら、私の隣に座って背を預けた。源泉を堪能した、あー、という間延びしたご機嫌な声が彼の口から漏れる。
夕食までまだ数時間ある午後、温泉に浸かり、時間を気にせずのんびりと過ごす。何という贅沢だろう。
「っていうかさ、部屋にあった茶菓子の饅頭、美味かったよね」
「うん、美味しかった。熱いお茶との相性が最高」
「土産コーナーで売ってたから、後で買おうと思ってさ」
「じゃあ後で一緒に買いに行こうよ。実は私も自分用に欲しかったんだ」
私がそう提案すると、一松くんは笑って──兄弟には絶対に見せないような屈託のない笑みだった──首を縦に振った。
旅館の部屋に案内されると、テーブルに茶菓子が置かれていることがある。お着きの茶菓子と呼ばれ、旅館から提供されるもてなしの一つとして有名だ。多くの場合、その茶菓子は館内の土産コーナーでも購入できる仕組みになっていて、上手い宣伝だなと思う。
「ユーリ、一松」
そうこうしているうちに、カラ松くんが暖簾をくぐって大浴場から出てくる。
「楽しそうだな。何の話をしてたんだ?」
私たちが微笑みを交わし合った瞬間に出くわしたらしく、怪訝そうな表情で訊いてくる。一松くんは途端に苦虫を潰したような顔つきになった。純粋な団らんに難癖をつけられ、気分を害したのだろう。
「部屋で食べたお饅頭を後で買って帰ろうって話だよ」
「ああ、あれか。確かにデリシャスだった──…そうか、何だ、その話か」
ホッと胸を撫で下ろしたみたいに肩の力を抜くカラ松くん。
「ハニー」
それから彼は、私の乾ききらない髪先に触れた。温泉に長く浸かって、体はポカポカと温かい。見上げたカラ松くんの顔も上気していて、普段以上に血色よく見える。
「ただでさえチャーミングなハニーが風呂上がりに纏うセクシーさは、ギルティとしか言いようがないな」
不意に真顔になって。
「…オレが一番先に出るべきだった」
浴衣と低音イケボの相乗効果で、ウィスパーボイスは心臓に悪い。
「ではこれより、温泉旅館恒例、卓球ダブルスデスマッチを開始します」
長男が何か言い出した。
大浴場に隣接した広間の卓球台を見るなり、おそ松くんが台に置かれていたラケットを大きく振りかぶって宣誓する。浴衣の袖がひらりと舞った。
っていうかデスマッチって言った?
「優勝したペアには、何と───ユーリちゃんとの散歩デートが景品として贈られます。
旅情溢れる温泉街でのドキドキ浴衣デート、これは参加しない理由がありませんね」
「ち、ちょっとおそま──」
「さぁ、この熱き戦いに参加する勇者は誰だ!?」
私の言葉を制して、おそ松くんはラケットをマイク代わりにして力説する。この先の展開は容易に想像できた。勝手に景品にするなという反論は意味を成さないことも。
「まったく、おそ松兄さんってば…どうしてそんな天才的な発案ができるんだろう。やる」
末弟が早々に名乗りを上げた。
「ペアっていうのが気に入らないけど、その分勝率が上がるのは間違いなしな」
チョロ松くんは袖を捲り、ウォーミングアップに入る。
「はいはーい、ぼくも参加しマッスル!」
「おれも。ペアならいけるかもしれないし」
十四松くんと一松くんも手を挙げて参加表明だ。
「カラ松くん…」
最後の砦に視線を投げる。既に私には拒否権どころか、おそらく発言権さえない。トト子ちゃんのように六つ子を薙ぎ倒して強制終了に持ち込む手段が使えない以上、六つ子の誰かが突破口になってくれる可能性に頼るしかない。
カラ松くんは眉間に皺を寄せて無言を貫いていたが、やがて口を開いた。
「ユーリを景品にするのは賛成しないが、勝てばお前らを黙らせることができるんだろ?」
片側の口角を上げながら拳を鳴らす。
「いくらブラザーであろうと、ユーリとデートさせるわけにはいかないからな」
これを言うと本末転倒な気もするが、こいつら単に遊びたいだけなんだろうな。
要は、夕食までの数時間を全力で楽しむための趣向だ。
能力の差はあれど、戦略次第では同じ土俵に立てる六人である。能力不足が際立つ私を体よく景品として扱うことで、この取るに足らないゲームの一員としてカウントできる───なんて。そこまで深くは考えていないだろうけれど。
おそ松くん主導の下、まずはくじでペア決めが実施された。数字が書かれたカードを箱から引き抜き、同じ数字同士が組む。
結果は、おそ松くんと十四松くん、カラ松くんとトド松くん、そしてチョロ松と一松くんがペアになった。上の三人が程よくバラけた組み合わせである。
それから長男次男三男で試合順を決めるじゃんけんを行ったところ、一回戦はカラ松くんとチョロ松くんチームが対決する運びとなった。おそ松くんチームはシード権を獲得し、自動的に決勝戦へと駒を進める。
「じゃんけん勝っただけで決勝ってアンフェアすぎないか?」
「こういう時の勝負運にはやたら長けてるのが、長男がクソたる所以だよな」
眉根を寄せるカラ松くんに、チョロ松くんが訳知り顔で頷いた。
そうこうしているうちに一回戦開始だ。
最初のサーブ権はカラ松くん。彼は左の手のひらにボールを置き、右手でラケットを構えて対戦相手のチョロ松くんを見据えた。絵面が最高にいい。真剣な眼差しと胸チラな浴衣のコラボは劇薬。
「悪く思うなよ、ブラザー」
「ユーリちゃんとのデートがお前の専売特許だと思ったら大間違いだ」
互いに火花を散らしながら、決戦の幕が開ける。
高く投げられたボールを、カラ松くんが相手のコートに打ち込んだ。ボールの軌道こそ直線だったが、力任せの剛速球はコートで跳ね、チョロ松くんのすぐ傍らを刃のような鋭さで突き抜ける。
「チッ…ゴリラが」
サーブ権は三男に移行。彼もまたボールを上空に投げて振りかぶる──と思いきや、落下に合わせてラケットを素早く手前に引いた。コートで跳ねたボールはカーブを描き、トド松くんの正面に辿り着く前にコート外へ飛び出る。
「チョロ松兄さんが横回転サーブを…っ!?」
「かつて音速のチョロちゃんの異名を欲しいままにした功績が、こんな所で役に立つとはね」
愕然とする末弟に対し、乾ききらない前髪を片手で掻き上げて憂い顔の三男。音速のチョロちゃんとは。
「ペア組む相手間違えた気がする…」
一松くんは早くもやる気を喪失した模様。
力にものを言わせるカラ松くんと、テクニックで翻弄するチョロ松くんに、一松くんとトド松くんが必死に食らいつく。
卓球のダブルスにおいて重要な要素は、相手との呼吸だ。戦術によって自分たちの立ち位置を適宜変え、互いにベストなポジションでミスなくラリーを行うこと。相手のミスを誘うのはもちろんだが、自分たちがミスをしないことも重要になってくる。
そういう意味では、二人きりになると微妙に気まずいというチョロ松くんと一松くんより、幼少時より共に行動することの多かったカラ松くんとトド松くんに分があったとも言える。
「これでジ・エンドだ」
マッチポイント。カラ松くんはほくそ笑み、ロングサーブを叩き込んだ。
「させるか!」
チョロ松くんがラケットを振り上げ、ボールを返す。
その間にカラ松くんとトド松くんは迅速に立ち位置を変える。次男同様に片側の口角を上げて末弟がボールを眼前に捉えた。
「トド松っ」
「任せて、兄さん!」
一松くんが返したボールは高く上がり、比較的緩やかなスピードで相手側の陣地でバウンドする。トド松くんは跳躍し、力の限りラケットを振るった。
「ゲームセット!カラ松チーム勝利!」
おそ松くんが試合終了を告げ、爽やかな微笑でハイタッチの次男末弟。コンビも推せる気がしてきた。
「オッケーオッケー、さすがカラ松。俺たちと戦うに相応しい奴が勝ち上がってきたな」
おそ松くんが感慨深げに腕を組んだ。
「お前らは何もしてないだろ」
ジト目で睨むカラ松くん。完膚なきまでの正論だ。
「ぼくもユーリちゃんとデートしたいから負けないよ、トッティ」
「それはこっちの台詞だから。引き際は潔い方がモテると思うけど?」
宣誓布告の十四松くんに臆することなく、トド松くんは腕組みで挑発するような仕草を返す。六人全員清々しいほど見当違いな方向に本気を出しているが、声は弾み、実に愉快そうだ。
一回戦で敗退した三男四男ペアは、表情こそ不満げだが、壁面に設置されたベンチで大人しく観客に徹している。
「みんな頑張ってねー」
私はどちらに対してでもなく声援を投げかける。成人男性が雁首揃えて本気でスポーツに取り組む姿勢は胸熱だ。永久保存版の動画を撮らせていただき至極光栄。当推しに至っては、ラケットを振る際に胸が見えた。
「俺ぜってー勝つから、期待してて!」
「ありがとー、頑張りマッスル」
「ユーリちゃんとデートするのはボクだから!」
次々と予想通りの返事が来る中、カラ松くんは複雑そうな面持ちを隠さなかった。地面に落としていた視線を、上げる。
「…ユーリ」
訴えかけるように私の名を呼んで。
「フッ、オレのビクトリーを確信しているが故に、敢えてブラザーたちを鼓舞するというわけだな。さすがは心根の優しいハニー!
オーライ、その期待には必ず応えるぜ」
安定のポジティヴシンキング。
「うん!頑張って!」
盛大な胸チラのファンサで沸かせてくれよという本音は隠して、愛嬌増し増しで私は手を振った。
「サーブは俺からね」
おそ松くんは前傾姿勢を取り、ラケットを構えた。対面にはカラ松くんが控える。
それまで緊張感のない顔つきだったおそ松くんが突如として鋭い眼光で前方を見据え、一球目を放った。安定したストレートで、カラ松くんは難なく返す。
「次はぼく!」
目にも留まらぬ速度で十四松くんがコートの中央に立つ。卓球のルールを認識しているのか怪しいが、彼の武器は他の追随を許さないスピードと予測できない挙動だ。成功率の低さこそ欠点だが、上手く行使すれば絶大な効果を発揮する。
要は、得体が知れない。
「行っくよー!ボゥエっ」
体全体を回転させ、その勢いでラケットにボールを当てる。矢のようなスピード故に、いつ当たるのか、どこに当たるのかさえ判然としない。飛ぶ瞬間を見計らって反応しなければならないのは常人には至難の業だ。
「えっ、うわっ!」
案の定、トド松くんは受け止めきれずに得点を許してしまう。
「十四松兄さんの球を返すのは無理ゲーじゃない?」
「仕方ない……おそ松を潰すか」
「雑な戦略すげー聞こえてるからな」
トド松くんとカラ松くんが顔を突き合わせて作戦を練る声は大きく、おそ松くんどころか私にまで筒抜けだ。
「…まぁ、そうやって余裕かませるのも今だけだと思うけど」
おそ松くんは鼻で笑って、ひらひらと手首を振った。次男末弟コンビは意に介した様子はなかったが、ブラフと判じるのは早計だと私には感じられた。彼が意味ありげな言葉を呟く時は、大抵相応の結果をもたらすのだ。
そこからの十四松くんの活躍は目を瞠るものがあった。
しばらくは様子窺いのラリーが続いた。十四松くんの打撃の成功率が上がるにつれ、場の空気は着実に十四松ゾーンに入る。十四松ゾーンは十四松くんの絶対攻撃時間、何人たりとも抜け出せない魔境。
「チッ…マズイな」
カラ松くんが舌打ちした。彼の強めのスマッシュさえ、十四松くんはもろともせずに打ち返してくる状況を踏まえ、自分たちの戦況を不利と判断したらしい。
トド松くんはラケットをやや伏せたブロックの構えで、十四松くんのスマッシュやドライブといった強打を打ち返すことだけに専念しているため、攻撃に転ずることができないことも理由の一つだ。
一進一退を繰り返し───そんな戦況を一変したのは、おそ松くんだった。
「あ、ユーリちゃん、浴衣の帯解けてる」
ハッとした様子で私の腰を指差す長男。全員の視線が私に集中する。
「ええっ、嘘!?」
「は、ハニー!?」
慌てて腰に手をやると、指先にはしっかりと結ばれた帯が当たった。
「……んん?」
解けてなんていないじゃないか。何の冗談だと叱責しようとして、思い当たる──彼の思惑に。
「じゃ、俺たちの勝利確定ってことで」
おそ松くんが底意地の悪い笑みを浮かべながら、ラケットを振り抜いた。次いで、我に返ったカラ松くんが視線をコートに戻して体勢を整えようとするが、僅かに遅い。
ボールはカラ松くん側のコートで跳ねた後、地面に落ちた。