卓球はおそ松くんと十四松くんペアの勝利で幕を閉じた。景品として用意されたデートは、須らく彼らに献上される。
「あの勝ち方は卑怯だ。男なら正々堂々と勝負するべきだろ、おそ松」
「何だよ、勝てば官軍だろうが!別にルール違反したわけじゃねぇし!なぁ、十四松!?」
「そうだよねー。チョークもローブローもしてないし?そういう意味ではスポーツマンシップに則って勝負したと言えるんじゃないでしょうか」
十四松くんは神妙な顔つきで淡々と反論するが、如何せん口が笑ったままなので真剣味がまるで伝わってこない。
「そもそも、じゃんけんで勝ったチームがシード権ってのからしておかしいんだよね」
「一松兄さん、それを言っちゃあおしまいだから」
トド松くんが苦笑する。
その横でやれやれと溜息を溢すのはチョロ松くん。
「結局、最初からこうやって全員でユーリちゃんとデートすれば良かったんだよ」
そう、デート権は優勝したペアに献上される───はずだった。
しかし敗者側が勝敗に異議を唱え、両者間で口論になったところを、一回戦敗退のチョロ松くんペアが仲裁を買って出た。
何だかんだあり、妥協案として採択された結論が『全員でデート』である。
浴衣姿のまま外へ出て、カロンコロンと七人分の下駄を鳴らしながら川沿いを歩く。私たちと同じ格好をした宿泊客らしき姿が散見されて、心なしか時間の流れも長く穏やかに感じる。都会の喧騒から離れた遠い場所に来たんだなと、ぼんやりとそんな感想を抱く。
「お前らどうせ結託してこういうオチにする魂胆だったんだろ!俺せっかく勝ったのにー!」
声を荒げるおそ松くんを、示し合わせたわけでもないのに全員が華麗にスルーする。マジョリティが優先されるのは民主主義の流れだが、さすがに少々不憫だった。
出発して数分も経たないうちに、六つ子の内数名が地ビール販売ののぼりに目を奪われた。土産物屋が立ち並ぶ店先で、キンキンに冷えた瓶から透明なプラスチックのコップに注がれて客の手に渡る。
「買わなきゃ」
おそ松くんが真っ先に使命感に駆られる。いつになく真剣な眼差しが店先に向けられた。
「同意」
「旅先での飲み歩き、プライスレス」
長男の使命感に対しては、チョロ松くんと一松くんが深く頷いた。費用は発生するだろ、落ち着け。
「おじさーん、ビール四つね」
十四松くんも挙手をして加わり、四人は地ビールを購入。
「ユーリはどうする?」
カラ松くんに尋ねられ、私は思案した。ビールも捨て難いが、隣の店で販売されているすき焼きまんの匂いが先程から気になって仕方ないのだ。県特産のブランド牛を野菜と共に甘辛く煮込んだ香りが、空腹を刺激する。夕食前の間食は抗いがたい誘惑である。
「私はあっちのすき焼きまん買おうかな」
「いいな、オレもそうする」
「ボクも。あ、でも兄さんたちビール一口頂戴ね」
カラ松くんとトド松くんは私とすき焼きまんを購入し、湯気の立つそれを頬張った。コンビニで買うより一回りほどサイズが大きく、具の中央には半熟卵が収まる贅沢具合。
「旨い!」
「美味しいねぇ」
牛肉の柔らかさと、しっとりとした皮に合う甘辛い味付けが絶妙なハーモニーだ。具もぎっしりと詰まっていて、口の中が満たされていく。
「ユーリ」
ふと、カラ松くんが私の顔を覗き込んでくる。
何か用事かと声を発するより前に、彼の指先が私の唇に触れた。
「ついてる」
婉然と笑いながら、その指先を舐める。
予告なく実行される一軍の如き所作、そして指を舌で舐め取るエロスによるキャパオーバーで絶句する私の傍らで、トド松くんがハッと声を漏らした。
「ナチュラルに彼氏面かよ」
「えっ!?や、違うんだ、ユーリの唇にタレがついてたから……えぇっ」
カラ松くんの顔が真っ赤に染まる。素で一軍紛いの行動はできるのに、相変わらずこういうところは童貞丸出しだ。まぁ、これは六つ子全員に言えることだけれど。
小腹を満たしてから散策コースを十分ほど進むと、森の中に落差二十メートルほどの小さな、けれど存在感を放つ滝が私たちを出迎えた。岩場から流れ落ちる清水が、琴のような音色を奏でる。水辺のせいか、ひんやりとした涼しげな風が肌を撫でた。
間近で見ようとして近づくと、白く細かな水しぶきが巻き上がる。
「わぁ、冷たっ」
まるでミストだ。手を引っ込めると、カラ松くんが微笑みながら私の側に並ぶ。
「この辺だけ涼しいな」
「癒されるよねー。もうこれだけで旅行来た甲斐あったなって思えちゃう」
「はは、旅行はこれからが本番だぞ、ユーリ」
「そうなんだよね。到着してまだ二時間も経ってないなんて信じられない」
豪華部屋食、夜の露天風呂、心躍るイベントはまだ幾つも控えている。
「ねぇ、みんなで記念撮影しようよ」
トド松くんが声を弾ませた。近くを通りかかった観光客らしき若い女性に声をかけ、自分のスマホを手渡して撮影を依頼する。こういう時の末弟の行動力はリア充さながらである。見習いたい。
私はチョロ松くんと十四松くんに挟まれる立ち位置で、シャッターが切られた。
何軒か土産物屋を覗いた帰り道、私の横には一松くんが並んだ。
他愛ない会話が一旦途切れた頃合いに、彼は感慨深げに息を吐く。
「まさかユーリちゃんと旅行することになるなんてね。よく考えるまでもなく天変地異だよな」
「あ、良かった、ちゃんとそう思ってくれてるんだ?
九人旅行だって当たり前のように言われたあの時の話の通じなさは、サイコパス集団に囲まれた恐怖に近いものがあったからね」
集団心理の恐ろしさを垣間見た。
「そんなに?」
「そんなに」
私が強く頷くと、一松くんは笑った。
「いやでもほんと、違和感なかったんだよな。ここんとこ、ユーリちゃんがいるのが当たり前になってきたから」
彼は気怠げに首筋に片手を当てる。所在なげに手を動かすのは、照れ隠しの意味合いもあるのかもしれない。
「だからユーリちゃんがオレたちの前からいなくなったら、むしろそっちの方が違和感なわけ」
「そうなんだ?」
「ユーリちゃんがいなくなるくらいなら、カラ松と付き合ってくれた方が断然いいって、そう思うようになってきた感もある」
返す言葉が見つからなかった。どうしようもない大きな変化が六つ子に訪れていることを、痛感させられたからだ。他人との積極的な交流を避けてきた四男の口から、私の離脱を懸念する言葉が紡がれようとは。
ターニングポイント、そんな単語が脳裏を掠める。
「でも普通にムカつくからカラ松に対しては全力で妨害するけど」
そこは通常運行で安心した。
ともあれ、彼は私に対して何らかのアクションや返答を期待しているわけではないらしかった。感情を吐露した後は、フヒヒ、と意地の悪そうな声を漏らす。
「分かる」
そこへ唐突に割って入ってきたのは、チョロ松くんだ。
「ユーリちゃんってもう家族じゃん?僕ら全員の嫁っていうか」
「それな」
「盛大に異議あり」
私が優しく言ってるうちが花だぞ、ニートども。
「なんて、僕らがこういう冗談を言えるのは──ユーリちゃんだけだからさ」
異性が関わると途端にポンコツになるチョロ松くんは、私と対等に互いの推しを語り、彼が推す地下アイドルのライブにも共に行く仲だ。ときどきポンコツになって私が骨を折ることもあるけれど、今みたいに相手によっては赤面しかねない台詞を吐くなんて、出会った当初は想像もしていないことだった。
一松くんも同様で、彼に至っては異性どころか同年代と日常会話をすることさえままならないほどだったのに、いつの間にか私と取るに足らない話をつらつらと交わすようになった。猫絡みなら、二人で外出することだってある。
私と六つ子たちは、少しずつ関係性を深めていると言って過言ではないだろう。
だからって家族扱いが免罪符になるわけじゃないからな。松野家の思い込みと思考の飛躍ほんと怖い。
その日の夕食は豪華を極めた。
旬の食材をふんだんに使い、一品一品全てが食材の見栄えから味付けに到るまで芸術品と言って差し支えない美しさと繊細さでテーブルを彩った。担当の仲居が一人つき、適切なタイミングで出来たての料理を配膳し、料理の説明をしてくれる。
メインは口当たりの柔らかな牛ローストで、赤ワインをベースにした濃厚なソースが絶品だった。歯で噛むたびに口の中で蕩けていく感覚に感動を覚える。六つ子たちに至っては声高に騒ぎ立てるだろうと思いきや、感極まり無言で目頭を押さえる輩が続出していた。
食前酒と先付けに始まり、〆のデザートまで一時間強を要した夕食に、私たちは始終笑顔で舌鼓を打ったのである。
「旨い料理食った後に、眺めのいい部屋で飲む酒は最高だよな!」
乾杯もそこそこに、おそ松くんが缶ビールを開けた。ブシュッと弾ける軽快な音が室内に響く。
私たちは食後にもう一度温泉に入り、最寄りのコンビニでアルコールとつまみを買ってきた。宵の口を過ぎてからもう一遊びする、それもまた旅の醍醐味だ。
部屋には既に布団が人数分──私とおばさんの分は襖を隔てた向かいの部屋に──敷かれていて、おじさんは端の布団に寝転がり、早くも船を漕いでいる。おばさんに至っては読書に勤しみたいとのことで、襖を閉めた奥の間だ。
「明日絶対帰りたくなくなるヤツだ」
苦笑するチョロ松くんの横で、十四松くんが眉間に皺を寄せた。
「ぼくらニートは日常的にそこはかとない不安感を抱えて生きているわけだから、こういう一流のものに触れると一時的に高揚はするけど、最終的には現実との圧倒的落差に絶望して致命的ダメージを食らうんだよね」
面倒くせぇ奴らだ。
同世代に対して感じる劣等感の使い道を変えれば、少なくとも今よりはマシと自分自身が思える環境になるに違いないのに、彼らはぬるま湯からの脱却を決して良しとしない。持ち家があって衣食住が保障された堕落は、さながら麻薬である。
「夕飯の肉旨かったよなー、俺あれ毎日食っても飽きない自信あるわ」
「ミートゥーだぜ、おそ松。あのビーフは味付けも柔らかさも最高だった。さすがはラグジュアリーな旅館だけはある」
アルコールで頬を赤らめたおそ松くんとカラ松くんが、互いに肩に腕を回して笑い合う。こういう時の六つ子の表情はとても似ていて、一卵性なんだなと痛感する。
私は少し離れた席でウーロン茶のペットボトルを開けた。
六つ子が総崩れになったのは、それから二時間ほどが経過した頃合いである。元々夕食の時点で各自がビール瓶一本を消費したほろ酔いスタートであったこと、そして旅行という非日常感によるテンションアップにより、揃ってピッチが早かった。
ある者は机に突伏したままいびきをかき始め、またある者はちょっと休憩と言って潜った布団で熟睡したり、壁に寄りかかった体勢で意識を失う。
「さて」
私は小声で呟き、自分の鞄から財布を抜き取って立ち上がる。それから極力音を立てないよう忍び足で廊下へ出た。
「ユーリ」
だから、ロビーで背後から突如として声がかかった時は口から心臓が飛び出るかと思ったものだ。
「…カラ松くん!」
「目が覚めたら姿がなかったから、探しに来たんだ」
カラ松くんの顔にはまだ赤みが差しているが、足取りは思いの外しっかりしている。彼は私の方へと、真っ直ぐに歩いてきた。
「心配させないでくれ…」
心なしか潤んだ双眸で、縋るような不安げな声。え、何これ据え膳?
「買い物か?」
「飲み物買いに来たの。みんなぐっすり寝ちゃったから、起こさないようにと思ったんだけど、心配させてごめんね」
「…あ、ああ…そうだよな。こんな時間だもんな」
日付が変わる一時間前。ロビーは日中同様に明るいが、館内はしんと静まり返っている。フロントに担当者が一人いるだけで、他の宿泊客の姿はなかった。
「なぁ、ユーリ。まだ眠たくないか?」
「え?うん、今のところは」
何せほぼシラフだし。返事をしたら、彼はゆっくりと目を細めた。
「なら、ユーリさえ良けければ、少し外を歩かないか?」
ノーの選択肢は私にはない。はい喜んで。食い気味にイエスを告げたら、カラ松くんは右手の人差し指を自分の口元に当てて、いたずらっぽくウインクしてみせる。
「ブラザーたちには秘密だ」
夜の街は、異世界だった。
レトロな木造建築が川を挟んで立ち並ぶ温泉街一帯がオレンジ色の明かりで彩られ、幻想的な雰囲気に包まれている。等間隔に配置されたアンティークなガス灯は、さながら新参者を異界へ誘う道標だ。異物のないよう徹底的にデザインされた景観は独特の世界観を構築し、旅館を一歩出た私たち旅人に言葉を失わせる。
「綺麗…」
「通りで人気のある温泉街なわけだ」
のんきに踏み入った観光客に魔法がかかる。
カラ松くんの端正な横顔が、橙色のライトに染まる。彼は横目で私を一瞥した。
「でも、ハニーの方がずっと綺麗だぞ」
お前の方が何百倍も綺麗だわ畜生め。
使い古された陳腐な台詞でも、推しが言うと効果抜群だ。私は天を仰ぐ。
ノスタルジーを感じさせる夜の街並みを浴衣姿で歩いていると、過去にタイムスリップしたような錯覚に陥りそうになる。心が浮き立って、ふわふわした感覚。
昼間の人気が嘘のような静けさで、川のせせらぎが私の頭から思考を奪っていく。
「今日は楽しかった」
朱色の手すりがついた木製の橋を渡る途中で、カラ松くんは立ち止まる。
「少々強引な流れになってしまったが、旅行に一緒に来てくれてサンキュー」
「強引な自覚あったんだ?」
「マミーとブラザーの連携プレーは最高にグッジョブだった」
直接手を下してない分たちが悪い。
とはいえ、狡猾な静観者と積極的な誘導者の罠から逃げなかった私にも非がある。本当に嫌なら、逃亡する術は数多とあったはずだ。
「それだけユーリがうちに溶け込んでる証拠だな。事が上手く運びすぎてドッキリかと思ったくらいだ。今でも、ドッキリ大成功のプラカードを持ってブラザーが現れるんじゃないかと疑心暗鬼になってる」
「あはは、分かる、それ私も思ってた。おばさんの盛大なドッキリかなって」
「それに、ユーリとは二人だけで旅行したり、まぁ…泊まったり、ということもあったが……なぜか今日の方が二人でいたいと思う気持ちが強くて、不思議だった」
カラ松くんは肩を竦める。
「昼間、ブラザーたちにユーリを取られてしまったからだろうな」
私の周りには常に六つ子の誰かがいた。六人プラス親二人もいれば、話し相手は入れ代わり
立ち代わりで、言われてみればカラ松くんとの接触は少なかったかもしれない。
「俺が独占できなかった」
私の推しフォルダはかつてなく充実しましたが?という本音は飲み込んだ。本人との触れ合いこそ少なかったが、満タンだったスマホの充電が一日で切れるレベルで記録を残したので、充実感はすごい。
「ユーリが愛されるのは当然だし、ブラザーとフランクに接してくれるのは喜ぶべきことなんだが───妬けるな、やっぱり」
そう言って彼は私の左手を取り、手首にキスをした。その間、彼は私から視線を逸らさなかった。まるで私の反応を窺うみたいに。
手首へのキスは欲望の表れだと聞く──もっと愛してほしい、という。
「よそ見はしないでくれよ」
静かな空間にこだまするのは、何気なさを装った真剣な想い。
私は苦笑する。その言われ方は心外だ。
「これまで推し変どころか、男の人にときめいたり夢中になったことが一回でもあったっけ?」
「未来のハニーへ頼んでるんだ。こういうのは定期的に言わないと駄目だろ?」
見慣れぬ浴衣姿と、聞き慣れぬ下駄の音、そしてどこか懐かしい趣のある景色に、私たちの意識は溶ける。現実が、今はひどく遠い。
仕事をして家事をして毎日を必死に生き延びる日々から、体ごと切り離されたようだ。
「ユーリの薬指が空いている以上は、確かなことは何一つない」
何の装飾品もつけていない私の左手に、カラ松くんの視線が落ちた。彼が望むのは約束か、契約か。
「だから、他の奴に取られないようにするんだ」
「…杞憂だと思うよ」
私の手を取ったカラ松くんの上に、もう一方の手を重ねる。私の両手が彼の手を包む形になった。
どれだけ言葉を重ねても未来は確約できないけれど、せめてこの瞬間の不安は取り除いておきたい。
「私の方は全然心配してないんだけど…心配した方がいいのかな?」
わざとらしくうーんと唸り、眉間に皺を寄せてみると、カラ松くんの目尻が瞬間的に朱に染まった。
「お、オレが他のレディに心変わりするはずないだろっ」
声を荒げた反動で、彼の手に力がこもる。声の届く範囲に他の観光客がいなかったのは幸いだ。
思いの外大きな反応に私が面食らっていると、カラ松くんは長い息を吐き出して、赤い顔のまま改めて私を正面に見据えた。
「ハニーが心配する必要はこれっぽっちもないが…でも、その……心配してくれた方が、オレは嬉しい」
推しが尊すぎてしんどい。
オーバーフローした尊さが各地より集結して村作るレベル。
これ何のご褒美イベント?
それから私たちはしばらく川沿いを散策し、日付が変わる頃に部屋に戻った。一人くらい目が覚めているかと思ったが、部屋を出た時と若干体勢が変わっているくらいで、全員揃って夢の中だ。
時折ムニャムニャと寝言を言っては顔をしかめる六つ子たちの様子に、私とカラ松くんは顔を見合わせて笑う。カラ松くんが彼らを布団に運んでいる間に、私はテーブルの周りに散らかる缶やゴミを片付けた。
「何か、変な感じがするよね」
「変な感じ?」
「こっそり朝帰りしたみたいな罪悪感、というか背徳感?」
襖を隔てた先のおばさんはまだ起きているかもしれないが、その仮説は棚上げしておこう。
「あ、朝帰り…っ!?」
「雰囲気的に近くない?夜分に可愛い息子さんお借りしてすみませんって気持ちに──」
「ハニー!」
怒られた。解せぬ。
朝の六時前にスマホの振動で目が覚める。カーテンの隙間から漏れ差す光が、僅かに部屋を明るくしていた。おじさんと六つ子たちはまだ惰眠を貪っているようで、複数人の寝息が聞こえてくる。物音を立てないように私は部屋を出た。
朝早くの大浴場は閑散としていて、私が入るのと誰かが出るのが同時だった。彼女が唯一の使用者だったらしく、広い風呂が貸切状態になる。いそいそと露天風呂に浸かり、両手を広げた。鳥や虫の鳴き声がBGMとなり、私に至福の心地よさをもたらす。
ずっと泊まっていたいと思う。我ながら単純思考で、温泉街の策略にまんまと嵌った今後の優良顧客候補である。こうしてリピーターは作られていくわけだ。
一人きりの温泉を堪能し、ホクホクした気持ちで大浴場を出た時のことだった。
「ハニー!」
休憩コーナーの椅子から驚きの声とともに立ち上がったのは──カラ松くんだった。彼の髪は僅かに濡れそぼっている。
「あ、カラ松くんも温泉入ってたの?偶然だね」
私が部屋を出た時にはまだ布団の中だったから、思いもよらなかった。
「驚かせないでくれ。母さんと寝てるものだとばかり思ってたから、ドッペルゲンガーが現れたと思ったじゃないか」
カラ松くんは胸を撫で下ろす仕草をする。
「人の少ない露天風呂に入りたくて早起きしたんだ。カラ松くんは?」
「夜の帳から朝日が昇る暁に、人気のない源泉風呂で静寂と孤独に浸るのは、選ばれしイイ男のみに与えられた特権だろ?」
なるほど、分からん。
「源泉の切なる呼び声にオレが応えたんだ」
畳み掛けてきた。しつこい。
「ユーリはこのまま部屋に戻るのか?」
「朝ご飯の時間まではまであるから、ちょっと朝の散歩しようかなって思ってたところ」
「なら、モーニングコーヒーと洒落込むのはどうだ?」
昨日の夕方の散策時に、近所のカフェで早朝は店先で挽きたてコーヒーをテイクアウトで販売している看板を見かけたと言う。
「カフェラテは地元の牧場の牛乳を使っているらしいぞ」
「いいね。行こ行こ!」
「オーケー、マイハニー。では、オレが責任を持って店まで案内しよう」
カラ松くんは右手を恭しく自分の胸に当て、緩く頭を下げる。主君の命を受けた執事さながらの振る舞いだ。私たちは軽やかな足取りで、ロビーの自動ドアをくぐった。
「風呂上がりのコーヒーをユーリと飲めるなら、いくらでも早く起きれる気がするな」
テイクアウトしたコーヒーのカップからは、香ばしい豆の匂いが漂う。牛乳と砂糖の配合も程よく、口に含んだ瞬間にほのかな甘さが口内に広がった。喉の乾きも潤される。
早起きした観光客向けのドリンクという位置付けだろうが、コーヒー豆販売所も併設されていて味は本格的だ。
「旅行ならではの情緒があって楽しいね。帰りたくないなぁ」
浴衣姿で早朝に外へ出て、温かいコーヒーを飲む。東京の生活圏内で同じことをやれば、間違いなく不審者扱いなのに、温泉街圏内では極々自然という不思議。
「また来ればいいじゃないか」
何でもないことのようにカラ松くんは言う。
「ユーリさえ良ければ、オレはいつでも専属ドライバーになるぜ」
それはつまり、二人きりでまた来ようという誘い。ひどく遠回しで、けれどとても真っ直ぐな。
「じゃあお金貯めないとね」
「…茶化さないでくれないか、ハニー」
「茶化してないよ。また来るためには先立つものがいるよねって話」
車を借りるにしろ宿に泊まるにしろ、資金が必要だ。特に今日宿泊しているようなラグジュアリーな旅館は高価格帯で、気軽に予約できるものでもない。
そういう意味合いでの回答であることにようやく思い至ったカラ松くんは、ぱちくりと驚きを顔で表現してから、嬉しそうに頬を緩めた。
旅館に戻るなり、受付に立っていたフロント係の男性が駆け寄ってくる。彼は私の目を見ていた。
「松野様」
白シャツとネクタイの上に、旅館の名が書かれた羽織を着用した格好で、礼儀と清潔感を保ちつつも旅館の雰囲気に合わせて和装を重ねるスタイルは、宿と宿泊客の距離が少しだけ近くなる気がして、私は好きだ。
「はい」
すかさず答える。傍らのカラ松くんはなぜか面食らった様子だった。
「何でしょう?」
「今朝方、女湯の大浴場の脱衣所でどなたかがポーチをお忘れになったようでしたので、もしや松野様ではないかと思いまして」
「ああ」
得心がいく。
「私はポーチを持ち込んでいないので、きっと他の方ですね」
私が脱衣所で着替えをしていた時には気付かなかった。それなりのサイズなら目に留まっただろうから、私が出た後に入浴した人の物に違いない。
「さようでございますか、大変失礼いたしました」
フロント係の男性は礼儀正しく頭を下げて、再び受付へと戻っていく。
「──で、さっきからその顔は何なの?」
私は腰に手を当て、鳩が豆鉄砲を食ったようなカラ松くんに尋ねる。
「え…あ、ええと…何というか、ハニーがあんまり自然に返事するから、驚いて、その…」
松野様という呼び名に。
「予約名は松野だし、私もその宿泊客の一員だからおかしいことじゃないと思うけど。フロント係の人、明らかに私に用がある感じだったしね」
「まぁ、そうなんだが…」
カラ松くんはぼんやりと天を仰ぐ。
「……松野ユーリ、か」
「組み合わせとしては変じゃないでしょ」
「悪くない。ただ、こういう時はもう少しキュートな反応をしてもらえると男冥利に尽きるんだがな、ハニー」
「私からそういう反応が出ると予測してた?」
「ゼロに近い可能性に期待はした」
馬鹿正直な回答に、私は声を出して笑ってしまう。つられて、カラ松くんも肩を揺らした。
しばらく他愛ない話をして部屋に戻る頃には、朝食の時間が差し迫っていた。そのためおじさんおばさんどころか六つ子たちも全員起床していて、私たちの帰宅を朝帰りだと揶揄する。
事情を説明したところで確固たる証拠があるわけでもなく、真実を語ったところで信じないに決まっている。結果、私ののらりくらりとした返事に業を煮やした六つ子が、カラ松くんを吊るし上げる強硬手段に出るところまでがお決まりのルーティンだ。
朝食を取る間、カラ松くんと一度だけ目が合った。彼はすぐさま相好を崩す。
いい旅だった───心から、私はそう思う。