短編:ガンガン行こうぜ

「今からうちに、面白いもの見に来ない?」
穏やかな休日の昼下がりにトド松くんから上記のメッセージが届いた際、何事かと詳細を問わずに二つ返事で了承し、のこのこと出向いた私は軽率だったと言わざるを得ない。悪魔の六つ子にすっかり感化されている。


最初の違和感は、玄関の三和土だった。大抵の場合、松野家の玄関は来客中かと見紛うほどの靴が置かれているのに、その時は数が異様に少なかったのだ。数えはしなかったが、みんな出払っているのかな、という印象を抱いた。
「ユーリ…!?」
そして出迎えてくれたカラ松くんは、私の姿を視認するなり目を瞠った。私の訪問は予想だにしていなかったと言わんばかりの反応で、表情には戸惑いさえ浮かんでいた。
「トド松くんいる?」
「え?トド松なら半時間ほど前におそ松たちと競馬に行ったが…何だ、あいつに用だったのか?」
末弟が意図的に逃亡を図ったことが察せられた。私と鉢合わせしない時間帯を選んで、彼の言う『面白いもの』に無関係な兄弟を連れて出たのか。『面白いもの』を用意するための外出という可能性も考えたが、電話をかけても出ないところを見るに、前者らしい。
カラ松くんが私の訪問を知らないのも、おそらく同じ理由からだろう。ということは、ひょっとして───
「用というか…ちょっと行き違いがあったみたい。
カラ松くんが迷惑じゃなかったら、ちょっとお邪魔していい?」
騙し討ちのような手法に対し、踵を返す選択肢も脳裏を過ったが、トド松くんが私に見せたかったものの正体に興味はある。事前にヒントだけでも聞いておけばよかった。
「もちろんだ。わざわざ訪ねてきたハニーを追い返すような真似がオレにできると思うか?ハニーならオールウェイズノーアポで歓迎するぜ」
左手を前にして腹部に当て、右手は後ろに回す。執事が主に敬意を示すみたいに、彼は恭しく頭を垂れた。

「お手をどうぞ、美しいマイスウィートハート」

上がり框に腰を下ろして靴を脱いだ私に、カラ松くんが手を差し出してくる。新規追加された愛称が長い、そしてクドい。
腰を上げるくらい大した動作ではないが、固辞するのは失礼な気がして、有り難く受け取った。
「トド松も馬鹿な男だ。ユーリとの逢瀬を差し置いてまで優先すべきことなんてないのにな」
カラ松くんは私が立ち上がっても手は握ったままで、さらに空いている片手を私の腰に回してくる。普段の彼らしからぬ濃厚な接触に、ダンス踊るんとちゃうぞ?と危うく素でツッコミを入れそうになった。




形式的に居間に案内され、出された座布団に腰を落ち着ける。スマホでトド松くんにメッセージを送るが、一向に既読にならない。さてどうするか。
「ユーリ」
悩む私の前に、カラ松くんが片膝をついた。
「トド松はいつ帰ってくるか分からないし、オレと出掛けないか?」
「今から?二階で待ってるのは駄目?」
スマホで時間を確認すると午後三時前、おやつ時だ。
「駄目じゃないが、待ち時間は有意義に過ごさないか?
隣の駅にコーヒーの旨いシャレたカフェができたらしいんだ。どうせ時間を潰すなら、ティータイムの方がよっぽど充実したものになる」
カラ松くんは微笑む。
「ユーリの貴重な休みを無駄にさせたくない」
嬉しい提案である。トド松くんへのメッセージは依然未読のままだし、折り返しの電話もない。もし松野家に留まることが必須条件なら、狡猾な末弟が手を回していないはずはないのだ。外出も許容範囲、そう判断した。
「そうだね。ダラダラ待ってるのも時間もったいないし、行ってみたいな」
「…良かった。一番にユーリと行きたいと思ってたんだ」
「でもせっかくカラ松くんと出掛けるなら、もっとオシャレしてきたら良かったかなぁ」
松野家に寄るだけの予定だったため、胸元にロゴの入った長袖のシャツとデニムという至極ラフな格好である。しかし直後、私の服装など推しを引き立てるパセリに過ぎないと思い直して冷静になる。
推しがイケてるから何も問題はなかった。
「あ、ごめん、今のは気にしな──」

「オレは、その姿のユーリですら十分すぎるほど可憐なレディだと思うぞ」

褒め殺しキタ。
「過剰な装飾は、ユーリを美しく彩るどころかノイズになる。
それに、仮に今の格好に気合いが入っていなくても、行き交う男の八割は振り返る美貌だ」
さすがに言い過ぎじゃないでしょうか。身に余る光栄を通り越して、薄ら寒い。
けれどカラ松くんは呆気に取られる私をもろともせず、目を細めた。

「その麗しさに寄り添うのを許されるのは、オレだけだ。そうだよな?───マイハニー」


つい数分前に脱いだばかりのスニーカーを再び履く。すぐ傍らでカラ松くんがブーツに足を通して玄関の戸を閉めた。鍵をかけないところを見ると、家の中にはまだ誰かいるのだろう。僅かな滞在時間だったとはいえ、挨拶をし損ねてしまった。
さて、カラ松くんはVネックの黒シャツに青ジャージという見慣れた普段着だが、左手の人差し指にシルバーのクロムハーツリングが映える。アクセサリーを一つ追加するだけで容易くエロスが倍増する推しの色気は業が深い今日も本当にありがとうございます。
「ユーリ」
平静を装う私に、カラ松くんが声をかけてくる。
「うん?」
振り返ると、彼はデニムのポケットから銀色のネックレスチェーンを取り出すところだった。人差し指の指輪を外して、チェーンに通す。
ペンダントトップにするらしいことを認識した矢先、カラ松くんの両手が私の首の後ろに回った。ネックレスチェーンが首筋に触れてヒヤリとする。思いがけなく突きつけられた現実から目を逸らすなと言わんばかりに。
「カラ松くん、これ…」
「お守りだ」
カラ松くんの手が離れて、首に僅かな重みを感じる。ハッと顔を上げたら、つい先ほどまで彼が指にはめていたリングが胸元で揺れた。
「ユーリに振り向く男がいたとしても、これでオレのレディだと分かるだろ?」
カラ松くんが指先でリングを摘み上げる。一目でメンズと認識するくらいの目立つデザインで、私の指には大きいサイズ感のもの。
「さすがにハニーの指に通すにはサイズが合わないからな。外にいる間はつけていてくれ」
イケボが毎秒口説いてくる。
予想外の事態ばかりが次々と発生するせいで、反応が追いつかない。結果、呆然としながらも受け入れる格好になってしまう。傍目にはさぞかし従順に見えるだろう。
「拒否権は」
「ない」
ですよね。

所有権を誇示する象徴のようだと感じてしまうのは、自意識過剰だろうか。
否、カラ松くんの今日これまでの言動から推察するに、あながち間違いでもなさそうだ。

「あとは───」
真正面から手のひらが差し出された。
「手?」
「虫除けに一番効果があるのは、これだろ」
今日はやたら積極的だ。頭打った?




休日の電車は、吊り革を掴む客がちらほら散見される乗車率だった。不規則な揺れと振動音に眠気が誘われる。車窓に流れる赤塚区の景色は、もうすっかり見慣れたものだ。
私たちが乗った駅で一人分の席が空き、カラ松くんが私に譲ってくれた。彼は私の前に立ち、吊り革に片手を引っ掛ける。自然と見上げる格好になった。
角度の鋭い眉と引き結ばれた唇、背筋を伸ばして胸を張る姿勢、整えられた体型。下からじっくり見上げていると、吸い込まれそうな感覚に陥る。
シンプルないわゆる大衆服を着こなすカラ松くんは、それなりに目を引く外見だ。私が装着する推しフィルターを取り払っても、その評価は大きく変わらない。懸念があるとすれば、調子に乗った時の厨二病サイコパス言動が全てを台無しにするどころかマイナス評価を叩き出してくるところか

「ユーリ?」
声で意識が現実に引き戻される。私の視線に気付いてか、窓の外に向けられていた彼の目が私と合う。
途端に、カラ松くん以外の人が私の意識の中で背景と化した。
「どうした?」
そう尋ねながら、彼はフッと笑って横髪を指で払う。
「オレが格好良すぎて見惚れたか?」
「うん」
「え」
「めちゃくちゃイケメンってわけではないんだけど、目が離せなくなるんだよね。ずっと見ていられるし、正直私の好きな顔。
あ、もちろんカラ松くんの良さは顔だけじゃなくて、類稀なイケボとか反応が可愛いところとか素で優しいとか、ムラッとくる要素は数多あるんだけども」
こういった返しに対して、いつもの彼なら十中八九赤面した。決まって素っ頓狂な声が上がり、体が強張った。自分から同意を求めがちなくせに、いざ望んだ回答が口にされればひどく動揺したものだ。

「そうか。好きなだけ見てくれていいんだぜ。ハニーを夢中にすることができて光栄だ」

だから、欠片ほどの躊躇もなく艶然と微笑まれた時に確信する。
ああ、なるほど、これが───


五分にも満たない短い乗車時間の後、隣駅で電車を降りる。
駅周辺は活気のある商店街とショッピングモールが隣接しており、特に休日の昼間は混雑しがちだ。人波は途切れることなく、忙しない様子で私たちの側を通り抜けていく。一秒として同じ景色は続かない。
「はぐれないように気をつけるんだぞ、ユーリ」
「手離さなかったら大丈夫でしょ」
駅を出てから、カラ松くんは自然な流れで私の手を取った。当たり前の流れみたいに無言で、視線は真っ直ぐ前を向いていた。まさしく一軍の所業。どこぞの一軍の霊が降臨したか?

人混みの流れにそって目的地への道を進んでいた時、ふと、私の目に留まるものがあった。黒髪を後ろに撫で付けたヘアスタイルが特徴的な、私と同世代とおぼしき爽やかな好青年だ。颯爽と私の傍らを通り過ぎた際に、柑橘系の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
思わず足を止め、後ろを振り返る。
「…ハニー?」
手が離れかけて、カラ松くんも立ち止まる。その呼び声に応じるより前に、彼が私の顔を間近で覗き込んできた。
「オレの側にいながら、よそ見はいただけないな。そんなにいい男がいたのか?」
荒々しく腰を抱き寄せられる。強引だが所作は柔らかで、傍目にはカップルが戯れているように見えるかもしれない。外から幾つかの好奇の目が向けられたが、その多くは好意的なものに見受けられたからだ。
「事実ではあるけど、視点が違うよ」
「視点?」
やんわりと抱擁を解きながら、私は息を吐く。

「カラ松くんに似合いそうな服着てるな、と思ったの」

濃紺色の服とシルバーアクセサリーの組み合わせが絶妙だった。出で立ちを目に焼き付けつつ、カラ松くんの手持ちの服で再現ができないかと思考を巡らせたせいで、一時的に動きが停止してしまったのだ。手を繋いでいたことさえ失念した。
「顔はよく見てないけど、カラ松くんの方が断然可愛いよ。比較にならない」
正面からカラ松くんを見据え、淀みなく答える。私と彼の間で定番の応酬となりつつある、些末な口論に終止符を打つ一撃──のはずだった。
しかしカラ松くんは私の言葉に頬を染めるどころか、片側の口角を上げて嘲笑に似た笑みを浮かべる。
「なるほど。さすがはオレ専属のコーディネーターだな」
からかうような声。
「とはいえ、一瞬でも目を離されるとは、オレもまだまだだな。ユーリのハートを捕らえておくには、オレ自身のセンスを一層磨く必要があるらしい」
腰に添えられる手に震えはない。私は目を見開いた。

「まぁ、仮にユーリの言うことが事実だとしても、ユーリの熱い眼差しで見つめられたが最後、射抜かれてしまう男は多い。
熱視線の安売りはするもんじゃないぜ」

私の攻撃はまるで歯が立たない。手強いな、こいつ。
スルースキルが高すぎる推しはちょっと可愛くない。


「今日はどうしたの?やけに褒めてくれるね」
確信に迫る。
彼がどのような回答をするのか興味がそそられた。
「感じたままを口にしてるだけだ。おべんちゃらでご機嫌を取ろうなんて魂胆はないからな。
そういう目的なら、ユーリを出迎えた最初の五分で片をつけてる」
すごい自信だ。松野家の六つ子でさえなければ、稀代の詐欺師として名を馳せた世界線もあったかもしれない実際馳せてたら事案だけども。
「それはどうだろうね。
私は少女漫画のヒロインみたいに格好いい王子様に憧れはないから、いくらカラ松くんが相手でも靡かないかもしれないよ」
「難攻不落くらいでちょうどいいんだ」
カラ松くんは訳知り顔で腕を組む。てっきり反論されると思っていたので、肩の力が抜けた。

「オレのどんな睦言にも屈しないユーリだからこそ、口説き甲斐がある。四六時中告げるくらいでバランスが取れているんじゃないか?」

上手く言いくるめられている気がする。私が投げるどんな言葉も、しっかと包み込んで倍にして返してくる。
「それを向けられる側の意向も重視してほしいなぁ。糠に釘すぎてげんなりしそうだよ」
「オレじゃ不満か?」
「不満とかじゃなくて、水と油って感じ。今の私たちは相容れないよね。…あ、でもそういう澄ましたツラを歪ませて泣かせるのも一興と考えればイケるかも
新しい扉を開きそうだ。
「はは、確かにユーリの言うことにも一理ある。お互いに譲れないなら、どちらかが根負けするまで続けるのもアリかもしれないな」
カラ松くんは愉快そうに肩を揺らす。今日のカラ松くんマジタフガイ。
「…告げてしまえば楽になる魔法の言葉があるんだ」
ぽつりと、どこか寂しげに呟かれる言葉。

「でもそれを言うのは…何というか…今じゃないと、そんな気がしてる。だから言えない」

今日の強気な彼らしからぬ逡巡が、言葉尻に感じられた。
どんな言葉で何を意味するものなのかは、これまでの経緯から察することはとても容易だったけれど、どんな反応が最適なのかまでは判断がつかない。カラ松くんの口から語られぬことに私があれこれと言及するのは、彼にとって本意ではないだろう。
「タイミングがあるってことだね」
「聡明なハニーなら察しがついているだろうな。しかし───オレが真実を語らない限りは、君の推察に過ぎない」
それがどれほど有力な仮説であろうとも、真実ではない、と。
「んー、そう挑発されると、カラ松くんの口を強引に割らせたくなってくるよ」
「情緒がないな、ハニー。ここぞという雰囲気を演出してから言いたい男心は、理解しておいて損はないぜ」
「明確な回答はしないけど、ヒントはくれるんだ?」
カラ松くんは微かに驚きを顔に貼り付けたが、すぐに笑って私に流し目を寄越す。
「その解釈は予想外だった。何でもペラペラと喋ってしまうのも一長一短だな、反省する」
両手を顔の高さまで上げて、お手上げのポーズを取る。腹の中は分からない。この話題はここまでだと、やんわりと幕を引かせる意味合いが大部を占める気がした。

「そろそろ帰るか?
トド松もいい加減戻っているかもな」
松野家を出てからスマホに着信は皆無だったが、私は口にしなかった。
「そうだった、トド松くんに会いに来たんだったね」
もう会う必要はなさそうだということも、胸の内に秘めておく。自分の答案が満点であるかを確かめるために、末弟に会おう。




日が沈む頃合いに、私たちは家に戻った。玄関は複数の靴で賑わっている。廊下を挟んで向かい側の部屋からは、聞き慣れた賑やかな声が響く。

「ねぇねぇ、カラ松兄さんとどうなった!?」

引き戸の開閉音を聞きつけ、トド松くんが玄関まで嬉々として駆けてきた。その双眸はランランと輝き、まるでお土産を待つ子供のように期待に満ちている。
『どうだった』ではない、『どうなった』。
「どうって……」
その時点で私の解答用紙に丸がつくのを確信した。
「暖簾に腕押しだった」
「は?」

トド松くんの顔が歪む。
「各所で熾烈な議論を繰り広げた挙げ句、双方譲らず平行線でターンエンド」
「討論会にでも参加してきたの?」
似たようなものだ。私は溜息をつきながら、やはり彼がこの度の諸悪の根源であると確信する。
「トド松くんさ、カラ松くんに何したの?
私が何やっても全然動じなくて、怖いもの知らずな態度で打ち返してくるんだよ。面白みないっていうか、手応えなさすぎて疲弊する」
「カラ松兄さんの態度は別にどうでもいいけど……ほら、何かなかった?男女のさ、二人の進展っていうか…」
「ないけど?」
即座に答えた私に、トド松くんは鼻白む。
「むしろ私が抱く未来が確実に遠ざかった気がするよ。鉄壁の防御で難攻不落
「おいコラ次男!」
青筋を立てたトド松くんがサンダルを引っ掛け、荒々しく玄関を出るや否や、家の前で一服していたカラ松くんの胸ぐらを掴み上げる。
「と、トッティ!?」
「せっかくお膳立てしてやったのに何やってんだ!つっかねぇなぁ、お前はもう!ヘタレ松がっ!」
末弟激おこ。突然激昂されたカラ松くんは、自分の非が理解できずに涙目だ。え、え、と単語にならない言葉を口から溢す。
その時なぜだか不意に、私は感じた。元のカラ松くんに戻ったな、と。


『積極的になる薬』
事の顛末を簡潔に説明すると、これまでのカラ松くんの強気な言動は、上記の薬──デカパン開発──を飲んだ結果ということらしかった。
試作品で二人分あるからと貰い受け、じゃんけんで負けたカラ松くんとチョロ松くんが犠牲となった。カラ松くんに発揮された効果はこれまでの通りだ。

「チョロ松は推しのSNSにこれまで登場した都内の全箇所を巡りまくる聖地巡礼を一昼夜ノンストップで敢行したんだよね。その反動で、今日は全身筋肉痛で二階で寝込んでる」
案内された居間にいたおそ松くんが、楽しそうに顛末を話してくれる。そういえば私が訪問した時、玄関に誰かの靴もあった。あれはチョロ松くんのものだったのか。
「チョロ松らしいっちゃらしいよな」
「不憫な気もするけど、成果を得られたならチョロ松くんも本望…なのかな」
私が言うと、おそ松くんはニヤリとほくそ笑む。
「いやー、それがデカパンの薬の厄介なとこでさ。副作用もあって、効果が切れたらその間のことは何も覚えてないの
「骨折り損のくたびれ儲けか」
「暇を持て余した六つ子の遊びと言ってよ」
やかましいわ。

「───で、オレはハニーに何かやらかしたのか?
謝罪案件なら今すぐ言ってくれ、土下座する
カラ松くんは切羽詰まった顔で畏まる。ニートの土下座は安い。
ブラザーへのやらかしなら最高にどうでもいいが、ユーリ相手なら話は別だ。もしユーリを不快にさせたなら許してもらえるまで謝る」
いつものカラ松くんだなぁと私は嬉しくなった。彼の緊張とは対照的に、私はふへへと声に出して笑ってしまう。
「嫌だと思ったことは一回もなかったよ。カフェでゆっくり過ごして戻ってきただけだし。カラ松くんがやたら自信満々で、自分の意見を譲ろうとしなくて大変だったけどね」
表現はあながち間違ってはいない。嘘は言ってない。
私から簡素に顛末を聞いた長男と末弟は、思惑が外れたらしくあからさまに落胆した顔になる。薬の力を借りて私たちの関係性に一石を投じようとでも画策したのか、いずれにせよ余計な手立てだ。
「なーんだ、つまんねぇの。ヘタレ松ここに極まれり」
「カラ松兄さんマジフラグブレイカーだよね。控えめに言ってクソだわ」
「何でそこまでボロクソ言われなきゃならないんだ…」




寝込んでいるチョロ松くんを見舞った後、カラ松くんに駅まで送ってもらう。いつの間にか外はすっかり暮れて、一日が終わりに近づこうとしている。
トド松くんの策略に乗った形ではあるが、ある意味では充実したと言えそうだ。いい暇潰しになったし、レアなカラ松くんを体験できた。ひょっとしたらもう二度と拝めないかもしれないと思うと、末弟には一応感謝しておくべきなのかもしれない。

「ユーリ」
突然、カラ松くんが立ち止まった。どことなく思いつめた表情に、私は真正面から向き合う。
「ブラザーに語ったことは…事実じゃなかったんだろう?」
「どういうこと?」
穏やかな笑みを貼り付けて、私は問いを返す。
「二人で出掛けている間、オレが自分の意見を譲らず自信家でユーリが苦労した……それは嘘じゃないが、正確でもない───そうだよな?」
私は返答に窮した。彼がどこまで真相に肉薄しているのか分からず、隠しておくべき内容ではない気もするが、私の口から告げていいものか判断がつかない。
彼は私の沈黙を肯定と捉えたらしかった。
「ブラザーたちの手前、気を使ってくれたんだよな…サンキュ」
「ううん、っていうか本当に何もなかったし、誤魔化したつもりもないんだけどね。言葉を選んでたら、結果的にああいう言い方になっただけで…」
私たちが歩く土手を数人の子どもたちが駆け抜けた。人通りの少ない河原で、沈みかけの太陽が水面に反射して眩しく光り輝いている。
「何もなかったのは、ユーリの主観だろ」
私が答えあぐねる間に、カラ松くんの右手が私の胸元に伸びる。首から下げた指輪を彼の指が摘み上げ、カチャリと金属音が鳴った。この時なってようやく、外し忘れていたことに気付く。
「あ…」

「ユーリが自分からオレのリングをつけるはずがない」

つい数時間前の行為を一切合切覚えていないのは、どれだけ不安だろう。口にした言葉も実行に移した行動も、他者の記憶にしかないのだ。取り返しのつかない失態を犯したのではとカラ松くんは疑心暗鬼に苛まれている。
答えは、私しか持っていない。
「…知りたい?」
我ながら意地の悪い訊き方だ。
「知りたい。自分自身に嫉妬する日が来るなんて起こり得るんだな」
カラ松くんは嘲笑し、苛立ちを隠すようにこめかみを指で掻いた。
「カラ松くん自身のことなのに」
「覚えてないのなら、他人も同然だ。一挙手一投足漏れなく教えてくれ。やらかしたことがあれば都度謝る」
恋の駆け引きじみた彼との会話を鮮明に覚えているけれど、カラ松くんの不安をいたずらに刺激するのは得策ではない。不用意にそれを口にすれば、呼び水になってしまう。

「なぁ」
声が、絞り出される。
「オレのリングを首にかけられても……ユーリにとっては、何でもないこと、だったのか?」
カラ松くんの顔が微かに苦悶に歪む。今日一日の出来事が私にとって心の琴線に触れない些末なことだったのか、と。
察しろと願うのは酷な気がした。私自身が繰り返し何もなかったと口にしていたから。
「言葉尻捉えて詰るのは勘弁してほしいな。トド松くんたちの前で、指輪をネックレスにして所有権を主張されましたなんて言ったら、火に油でしょ」
穏便に済ませるには、簡略化したあらすじを伝えるだけで十分だ。自分を犠牲にしてまでニートの暇潰しとなる餌を与えてやるほど、私はお人好しではない。

「え…オレ…ユーリの所有権を主張したの?」
「うん。オレのレディって言った」
私が答えると、カラ松くんは不快感を表情に表した。
「何というか…自分のことながら不愉快だな。見ず知らずの男にユーリが口説かれた話を聞かされてるようだ」
不条理を一応認識はしているらしい。何だかおかしくて、私は笑った。
それから自分の首に下げていたネックレスを外し、リングごとカラ松くんに返す。
「お守りの効果を信じなよ」
「お守り…」
「あと虫除け」
「え?」
カラ松くんが唖然とする───私がおもむろに手を差し出したからだ。
わけが分からない言葉を続けざまに聞かされ、挙げ句に手を求められ、さぞかし混乱を極めただろう。
けれど彼は条件反射のように、私の手に自分のそれを重ねた。
「ユーリ、これは一体……」

「今日のカラ松くんを真似してみました」

その一言で理解に至ったらしい。カラ松くんは空いている手で顔を覆い、長い息と共に混沌を吐き出した。盛大にやらかしてしまった、でも結果オーライだった、相反する感情を上手く処理しきれない顔だ。
でも私は──私にとっての『面白いもの』を、最後の最後で見ることができた。