入れ替わりパニック

『中身の入れ替わり』などという眉唾な出来事に第三者として遭遇した時、人は最高にポンコツになってしまう。後に私は、これから記す不思議体験をそう述懐することとなる。


カラ松くんと出掛けるスケジュールを組んでいた休日。麗らかな日差しが心地良い散歩日和な快晴で、私がカラ松くんを迎えに松野家を訪問する約束になっていた。先に済ませたい用事があり、それを終えて出向く方が楽だったからだ。
カラ松くんは私が訪ねるまでに何度か電話をしてくれたらしいが、携帯をマナーモードにして鞄の奥底に入れていたため気付かなかった。せめて玄関を開ける前に着信履歴に気付けていたら、その後の展開は何か変わっていたのだろうか。

「こんにち──」
ガラガラと音を立てて玄関の戸を開けた。
しかし私の挨拶は途中で遮られる。バタバタと慌ただしい足音で玄関に駆けつけた一松くんが、私を見るなり叫んだからだ。
「ハニー!」
私はぎょっとする。
四男にハニーと呼ばれる筋合いはない。
「…一松くん?」
「えっ、ち、違うっ、これは───」
一松くんは当惑を顔に貼り付け、口早に何かを告げようとする。
「おいコラ、クソ松。ユーリちゃん困らせるんじゃねぇよ。突拍子過ぎるだろ」
そこへ、メンチ切った仏頂面のカラ松くんが腕組み姿で現れた。推しの面構えが悪い。というか、ユーリちゃんって何だ。いやそもそも、一松くんに対してカラ松くんが下卑た呼称を使うなんて意外っていうか、その口調はカラ松くんというよりもむしろ───
「何?二人で何の遊びしてんの?ドッキリ?」
「違うんだっ、ハニイイイイィイイィ!」
ダムが決壊したかの如く両目から大粒の涙を溢しながら、一松くんが私の腕に縋り付く。私の頭にはもうクエスチョンマークしか浮かばない。一松くんキャラ変した?
「おれの顔で泣くな、汚ねぇ!」
カラ松くんが怒鳴る。
「は?」

おれの顔とは。




カラ松くんと一松くんが入れ替わった。
六つ子たちの口から、にわかには信じがたい荒唐無稽な話を聞かされた私の心境は、複雑を極めた。中身入れ替わりは創作のネタとしては定番だが、いざ発生しましたと提示されてて、はいそうですかと納得できるわけもなく。非科学的すぎて鵜呑みにはできない。しかも相手は六つ子だ、全員揃って私を騙そうと画策している可能性も否定しきれない。

「一松が階段で滑って、落下した先にカラ松がいたんだよね」
決定的瞬間の目撃者であるおそ松くんが、苦笑混じりに語る。一歩間違えたら死亡事故。
だが長男の証言の信憑性を物語るように、よくよく見れば一松くんとカラ松くんの後頭部に赤いコブがある。
「急にそう言われても、ねぇ…」
熱い緑茶が注がれた湯呑みに両手を添えながら、私は言葉を濁した。
カラ松くんと一松くんの表情の作り方や言葉遣いは、確かに真逆と言っていい。二人ともそんな馬鹿げたネタで私を騙るような性格でもないし、実行に値するメリットも思いつかない。
しかし、強い物理的接触が発生したくらいで中身が入れ替わるなんて───まぁこの世界では起こり得るよね、十四松くんと犬の前科もある
「ボクらにとってはまたかって程度だけど、ユーリちゃんは信じられないよねぇ」
トド松くんが肩を竦めた。
「十四松の場合はバッドエンドだったよな」
チョロ松くんはこともなげに言う。
元に戻すために階段から突き落とそうとした際に犬(肉体は十四松くん)が逃亡し、見つけること叶わず、十四松くんはその後しばらく犬として生活していたらしい。
「一応戻ったからノーマルエンドだと思うけど」
ハッピーエンドちゃうんかい、先行き不安しかない。

「ユーリ……その、信じられないとは思うが、信じてほしい」
項垂れながら、一松くんの姿をしたカラ松くん──ややこしいので、今後はカラ松くんと呼ぶ──が言葉を絞り出した。一松くんの声で呼び捨てにされる違和感が尋常じゃない。
「私も、信じてあげたいよ」
カラ松くんの肩に手を置いて、私は微笑む。
「でもね……」
視線を彼から外して、溜息一つ。

「お前ら六つ子は自分以外の五人を完コピ擬態できるから信用ならん」

カラ松くんが崩れ落ちた。


何となく事実なんだろうという感覚はあるが、納得はできていないし、物理的証拠がない事象に対して100%の信用を置くことはできない。
もとより、心の中核や魂の在り処自体が現代の科学では解明されていないのだ。それが接触箇所を経由して入れ替わるなど無茶苦茶にも程がある。納得以前に理解が及んでいないのだから、信じられるはずがない。
「俺ら的には二人が入れ替わったままでも、別に不便じゃないけどね」
おそ松くんがへらりと笑う。
「まぁね。合計で六人なわけだし、支障はない」
「カラ松兄さんも一松兄さんもいなくなったわけじゃないもんね~」
チョロ松くんと十四松くんは、顔色一つ変えず長男に同意した。
顔の同じ六つ子ならではの意見だ。合計数が同じなら器が変わったところで彼らとって問題はない、と。
妙な説得力を感じて、そういう考え方もあるんだなと私は感心した。
「勝手にハッピーエンドに持っていこうとするな!おれはこのままとか絶対嫌だからな!」
カラ松くんの顔を苛立ちに歪めて、一松くんが怒鳴る。
「他の兄弟でもマジ無理だけど!」
全員嫌なんかい。

「じゃあ元に戻す?
こういう時って同じ衝撃を与えればいいんだっけ?───階段から突き落とすか
おそ松くんが顎に手を当て思案した。話の流れとしては至極真っ当だが、物騒な物言いしおる。
そして対象者二名が目を剥いて顔色を変えた。
「は!?無茶言うな、おそ松!次こそ確実に死ぬだろっ」
「無理無理!何考えてんの!?デッドオアデッドじゃねーか!」
抗えぬ死。
十四松くんと犬の時も当事者たちは同様の反応だったらしい。そりゃそうだ、一歩間違えれば黄泉の国への片道切符である。しかも、元に戻る保証もない。お決まりの反応。
「でも何もしないと、そのままだよね。ボクらは別にいいとしても、ユーリちゃんは困るでしょ?」
トド松くんが私を一瞥する。
「うん、それなんだけど…」
先ほどからずっと胸にモヤが巣食っていて、釈然としない感情が渦巻いていた。カラ松くんと一松くんが入れ替わったことへの疑念かと思っていたが、どうもそうではないらしい。この感情は───

「どっちを推せばいいのか悩むよね」

実に由々しき問題である。
何をもって推しとするかの基準は曖昧だった。視覚と聴覚で認識する外見情報は当然重要視されるとしても、性格や態度、価値観さえも彼を構成する一部として捉えてきた。器と中身は表裏一体で、切り離せないものだ。
だから、器と魂が切り離された時、私は果たしてどちらを『推し』と認識するのか。カラ松くんの外見を持つ一松くんか、一松くんの外見を持つカラ松くんか。

「もちろん中身だよ!って断言できなくて申し訳ない」

「ハニー!?」
「カラ松くんの見た目がどストライクなのが悪いよね」
「え、オレのせい!?」
カラ松くんは悄然とした面持ちで私を見つめる。少し離れたところで一松くんが呆れたように失笑していて、どうしてもそっちに目が行く。やはり推しの顔面は素晴らしい。レアな表情を拝ませてくれる一松くんに足向けて寝られない。
でも涙目で縋り付いてくる反応も可愛いと思う。何か二股かけてるみたいだな、これ。
「ユーリちゃんの悩みどころはそこなんだ?」
不思議そうにおそ松くんが訊くので、正直に頷く。
「推しのビジュアルと中身が乖離したケースを想定してなかったのは失態」
「むしろ想定してたら恐怖だわ。危機管理体制万全すぎて逆に引く
「そうなんだよ、私も混乱してる。だから早々に戻ってもらいたいっていうのが本心なんだよね」
心の底から信じることができない自分が歯痒くもある。私が決定的な失言をやらかす前に、どうか元通りになればと思う。


長男が提案した物理的衝撃での人格奪還作戦を却下された以上、他に有効な手立てはないというのが我々の結論だった。困った時のデカパン博士に依頼したところで、きっと手法は同じだ。お得意の薬でどうこうなる代物でもない。
その上、二人が入れ替わったままでも兄弟間においては大きな問題とはならない。ならばもう当面そのままでいいのではと投げやりな結論に至りかけたところで、不平を唱えるのはカラ松くんだ。
「一松の体は異様に体力がない
唐突に事実という名の盛大なディスり。
「うるせぇ」
案の定、一松くんは鬱陶しそうに吐き捨てる。
「背筋を伸ばしてるだけでも体力を消耗し続ける呪われしボディだ」
「いっぺん殴るぞ」
「あと表情筋が死んでる」
カラ松くんは一松くんに何か恨みでもあるのか?
いや、客観的にはありまくるし、何なら今まで報復しなかった忍耐力に感服の意を示したいくらいは蓄積されているだろうけども。
「表情を変えるたびに体力がもの凄く削がれていくから、この小一時間でもう体力を半分以上消耗してる」
RPG序盤に出てくる雑魚キャラか。

「お前よくこの体力で生きてこれたな」

無自覚に四男のライフをこそげ落としていく次男。天然砲の破壊力は半端ない。
もう止めたげてと私が制止をするまでもなく、一松くんは不快感を露わにしてカラ松くんに鋭い視線を向ける。
「すげームカつくけど…体力ないのは否定しない。事実だし。
あー、でもカラ松の体が何か軽かったのはそのせいか。動くのにいちいち気合い入れる必要ないって楽っちゃ楽だな。これなら隣町まで猫探しの旅しても余裕だろうな」
推しの体力の有効活用。
「オレの鍛え抜かれたダイナマイトボディをキャットのおもちゃにするのか、一松…」
「言い方」
私と一松くんのツッコミが重なった。




「でもさ、元に戻らないうちは二人で出掛けるのはナシになるよね」
ふと口にした私の言葉に、カラ松くんが目を剥いた。
「は?なぜだ、ハニー」
一松くんの顔と声でハニーと呼ばれる違和感がすごい。そういうとこだぞ。
「今日はずっと前から約束してた映画の公開最終日じゃないか。しかもカップルデーだ。ユーリはオレと行きたくないのか?」
「そうじゃないよ。私だって楽しみにしてた。ただ───」
「あ、そっか。一松とデートになるからだ」
私の言葉に重ねるように、チョロ松くんがポンと手を打った。
「あのさカラ松、お前はその格好でいいかもしれないけど、ユーリちゃんは一松とデートしてる感じで落ち着かないんだよ。それに、万一トト子ちゃんやイヤミに見られたらコトだぞ」
そうなのだ。事情を説明すれば納得してくれるかもしれないが、時間がかかる。かといってないがしろにすれば、不名誉な噂を流布される可能性が高い。一松くん姿での外出は圧倒的にデメリットが大きいのだ。
カラ松くんは、ムッとして下唇を尖らせた。納得しかねるという顔だが、彼に賛同する者が皆無な状況を察してか、すっくと立ち上がり「ちょっと待ってろ」という言葉を残して部屋を出る。

カラ松くんが戻るのを待つ間、私はスマホのカメラを立ち上げて一松くんに向けた。彼は当初こそ不快感を顔に出したが、すぐに私の意図を察してポーズを決めてくれる。しなを作ったり、一松くんお得意の変顔をしたりと、一松くん要素の強いカラ松くんという激レアな絵の撮れ高は上々だ。
「入れ替わりも案外悪くないね!良き!」
「わー、ユーリちゃんぼくより単純
十四松くんに言われてしまった。
「カラ松はユーリちゃんとのデートがおじゃんになるのが嫌なだけなんだよな。だったら戻る努力を最優先にしろっつーの、ったく」
おそ松くんが呆れ顔で息を吐く。長男の洞察力が冴え渡る。


「待たせたな」
カラ松くんが戻ってきたのは、十五分ほどが経った頃だった。襖を開けた彼の姿を見て、私たちは度肝を抜かれる。
「カラ松くん…っ」
「これなら遠目には一松だと分からないだろ」
髪型を整えてカラ松くんの私服に身を包み、意識的に眉をつり上げる。出で立ちを少々変えただけで、様相はカラ松くんにだいぶ近づいた。
目の前にカラ松くんが二人いるような錯覚を起こして、不調和のような不思議な感覚に囚われる。
「すごい…一松くんなのにカラ松くんに似てる」
「一卵性だしね」
トド松くんが身も蓋もないことを言う。
「これでいいだろ。あとはサングラスと帽子をかぶれば、トト子ちゃんでも遠目には見分けがつかない。
フッ、身は一松であってもオレのカリスマオーラは隠しきれないというわけだ」
悩ましげに前髪を払う仕草はまさしく次男。すぐ傍らでは、一松くんが眉間に深い皺を刻んでいた。自分の体で気障ったらしいことをするなとでも言いたげだ。

「高校の頃と違った、無理してないパリピの一松とかヤバイ。俺たちは今歴史的瞬間に立ち会っている
「一松も努力次第でパリピになれることを証明したな」
おそ松くんとチョロ松くんが神妙な顔つきでカラ松くんを見やる。その評価もどうかと思うが。

さぁ、とカラ松くんが手を差し伸べてくる。
「行こう、ユーリ」
けれど私は、素直にその手を取れなかった。
「ちょ、おま……っ」
私の逡巡がカラ松くんに悟られるよりも、一松くんの素っ頓狂な声が上がるのが先だった。彼は私を守るようにカラ松くんの前に立ちはだかる。
「カラ松、お前それでいいの?」
「何だ、一松」
「お前…おれの顔でユーリちゃんと手繋ぐの平気なのかよ。つか、何でおれの方が妙な気持ちにならなきゃなんないわけ!?」
顔を赤く染めて一松くんが咆哮する。何かすいません。今回の件では一松くんが一番の犠牲者なのかもしれない。
でも推しの声でユーリちゃんって呼ばれるのは非常においしいです。
「ごめん一松くん…もうちょい恥じらった声での『ユーリちゃん』もう一回頼める?
スマホを構え直して懇願すると、一松くんは鼻白んだ。
「それなりに修羅場っぽいの勃発してるのに推し活してる場合じゃないでしょ。ユーリちゃんも空気読んで」
「一松、オレの体で勝手なことは止めろ」
「おれが一番そう思ってるわ!」

そうですね。




「ユーリちゃんに触れるのはお前でも、体はおれなんだよ」

一松くんが、私もそこはかとなく感じていた違和感を噛み砕いて説明してくれる。
カラ松くんと出掛けるのは構わないし、私自身そうしたいと思っているけれど、私に話しかける声も触れてくる手も、一松くんのものだ。当事者がどう認識しようが、実質的には一松くんとのデートになる。カラ松くんと呼んで振り返る人の見た目は一松くんなのだから、不協和感は拭えない。
「…なるほど」
チョロ松くんが顎に手を当て、納得した顔になる。

「万一にも事故チューが発生したら、一松の唇が奪われた体になるわけか」

そうきたか。
「じこちゅう…自己中?」
「出会い頭にぶつかってキスしちゃうとか、いわゆる事故でキスすることを事故チューって言うんだよ」
首を傾げるカラ松くんに私が解説する。いささか暴論な気もするが、荒療治にはちょうどいいのかもしれない。
というか、全員何気にスルーしているが、私が奪う側認識なのはなぜなのか。失礼な野郎どもだ。
「何っ!?一松、お前ユーリにそんなことするつもりだったのか!?」
「てめぇ一回殴らせろ」
一松くんが眉をこれ以上なくつり上げて右の拳を握りしめるので、私は慌てて止めに入る。自分で自分の体を痛めつけてどうする。

私の制止を受けて、一松くんは仏頂面であぐらを掻いた。そんな彼の前に膝を立て、彼の頬に手を添える。
「入れ替わったままだとお互い不便だし…やっぱり嫌でしょ?
痛いかもしれないけど、戻る努力をした方がいいと思うんだよね」
眼前の一松くんは赤面しながら、あ、え、と言葉にならない声を発する。黒目は即座に私から逸らし、あちこちを彷徨った。両手は私を押しのけるでもなく、宙に浮く。
「その辺、一松くんはどう思う?」
顔を寄せて囁くように尋ねた私に、彼は返事をしなかった。

───気を失ってひっくり返ったからだ。

「こら、ユーリ!」
カラ松くんがいささか乱暴に私と一松くんを引き離すので、気絶した一松くんは仰向けにひっくり返り、床に後頭部を打ち付けた。自分の体は雑な扱いでいいのか。
「オレはこっちだ」
「あー…」
いつもの癖で距離を詰めすぎたらしい。一松くんには申し訳ないことをした。

「こういうことだからさ、カラ松くん…元に戻るまで二人で出掛けるのは止めようよ」

私の提案に目を剥いたのはカラ松くんだけだった。他の面々は彼らの予想通りなのか大半が平然としており、おそ松くんに至っては僅かにほくそ笑んだ。ざまぁみろ、そんな罵倒を今にも口にしそうな顔である。
「な、何で!?オレじゃ駄目なのか!?」
「一松くんの体じゃ駄目でしょ」
「どうして!?」
「もう一回説明しなきゃ分からんのか」
脳味噌仕事しろ。
「とにかく、戻るまでナシ。私ちょっとトイレ行ってくるから、その間に冷静になっておいて」
私は立ち上がり、廊下に続く襖を開ける。
「あ、ぼくそろそろ野球の練習する準備しなきゃ」
壁の時計を一瞥して、十四松くんが軽やかに部屋を飛び出した。私はその後を追うように居間を出て、襖を閉めた。




カラ松くんと一松くんが元に戻るための施策に尻込みする気持ちは、分からないではない。ただでさえ痛い思いをして入れ替わってしまったのだ。戻れる確実性がないのに同じ行為を繰り返せと言われて、大人しく従えるはずもない。
だが、その感情に同意した先にあるのは現状維持のみ。このままは嫌、でも苦痛を伴うのも嫌、膠着状態だ。

「腹は括った?」
「何で戻るなり高圧的なんだハニー」
部屋に戻るなり仁王立ちで二人を見下ろせば、カラ松くんから不服の声が上がる。
「じゃあこのままでいる?私帰るよ?」
「やだ」
可愛いな畜生。
「それならさ、私にいい案があるんだけど…」
床に膝をついて、カラ松くんと一松くんに小声で手招きをする。彼らは一度互いに顔を見合わせたが、怪訝そうな表情をしながらも私に体を寄せた。
他の人に聞かれたくないからと、二人に耳打ちするように近づき───

「十四松くん!」

「あいあい!」
スパンと襖を開け放ち、風を切るスピードで部屋に躍り込んだ十四松くんは、カラ松くんと一松くんの後頭部を荒々しく掴み──双方を力の限り叩きつけた。
正直、死んだかもしれんという感想は脳裏を過った。
豪快な衝突音と衝撃の余波は目の前の私を過ぎり、下手するまでもなくトラウマもののワンシーンである。瞬きも忘れて凝視してしまった私は、それからしばらくその映像を夢に見てうなされることとなるのだが、それはまた別の話だ。
「ええッ!?」
「ちょ、十四松兄さん…っ!?」
白目を剥いて地面に転がる二人の元に、おそ松くんたちが駆け寄る。
「ユーリちゃん、これでいい?ぼく上手くできたよ」
しかし十四松くんはケロッとしたもので、袖を自分の口に当ててにこにこと私に笑顔を向けた。
「うん、ありがとう十四松くん。効果あるといいね」
「だねー」

十四松くんに荒療治の実行を依頼したのは私だ。
たまたま同時に廊下に出た際にひらめき、ダメ元で試さないかと共犯を持ちかけた。十四松くんが熟慮したかは定かではないが、快く了承した流れである。

チョロ松くんが彼らの脈を計り、安堵の息を漏らす。
「とりあえず生きてるな。
てか、ユーリちゃんが強行突破に出るの結構驚きなんだけど。やるにしても、もっと平和的な解決方法だと侮ってたよ」
「推しの分割は解釈違いなので」
「解釈違い」



後頭部をぶつけ合ったカラ松くんと一松くんが気を失っていたのは、小一時間ほどだった。待つのに飽きたおそ松くんがそろそろ起こすかとコップの水を彼らの顔面にかけ、強制的に覚醒を促す。互いに打ち付けた箇所は遠目にも明らかなほど腫れ上がっていて、戻っても戻らなくても今日の外出は中止になりそうだ。
最初に意識を取り戻したのはカラ松くんの体だった。
「……っ、あだだだだ!」
飛び起きざまに両手で頭を押さえ、目尻に涙を浮かべる。
「大丈夫?」
首謀者は私だが、恐る恐る様子を窺う。彼は痛みを逃がそうと声にならない声を溢しながらも、私に視線を向けた。

「…ユーリ?」
いつもの、少し低い声で。
「カラ松くん…?」
「さっきの十四松は、ユーリが───」
「戻ったんだね!良かったぁ!」
続きは言わせない。感極まったと見せかけて、大声で被せる。そして彼が愛用している手鏡を取り出し、眼前に突きつけた。
「ああっ、オレのパーフェクトフェイスに傷が!ジーザスっ…ハニーと出掛けるというのに、何ということだ…!」
でかいたんこぶにそっと手を当て嘆く推し。
「傷は男の勲章なんじゃないの?」
「それはユーリを守った時にできたら、の話だろ。ユーリを華麗にエスコートするのに顔に傷があっては台無しじゃないか」
「そっかそっか。何はともあれ冷やさないとね」
冷凍庫から二人分の保冷剤を出してきてくれたのはトド松くんで、両方とも受け取って片方をカラ松くんの頭に当てる。彼はふてくされながらも私の手当てを受け入れた。私の手がカラ松くんに触れると頬を染めはするものの、先ほどの一松くんのように卒倒はしない。
だが───

「誤魔化そうとしてるかもしれないが、十四松をけしかけたのはユーリだということはお見通しだぞ」

やべぇ。
目が笑ってないし声に抑揚もない。本当すいません。
「オレが死んでもいいのか?」
「ごめん…無理矢理したのは反省してる。私はカラ松くんじゃないと駄目だから、早く戻ってほしくて……」
先ほども述べたが、推しの二分割は解釈違いなのでノーセンキューなのだ。
しかし『カラ松くんじゃないと駄目』という言い方では、まるで異性としてカラ松くんを欲しているような受け取り方もできるため、いささか語弊があったかもしれない。案の定、カラ松くんは赤面して言葉を詰まらせた。
この期に及んで、誤解です、とは言いづらい。

そうこうしているうちに、一松くんが目を覚ます。
「一松くんもごめんね」
謝罪しながら、もう一つの保冷剤を彼のこぶにそっと当てた。目覚めてしばらくは痛みに意識が集中していたが、意識を戻すや否や私が至近距離にいることに慌てふためく。
「お、おれのことはいいから!自分でできる!」
一時間前の彼の反応を思い出し、本当に入れ替わっていたのだと再認識する。今も、どこか他人事にも思えてしまうけれど。
「そう?じゃ、これ渡しておくね」
「…ん」
保冷剤を差し出したら、受け取ろうとした一松くんの手のひらに私の指が当たる。ただそれだけの接触に彼はまたもや頬を染めて硬直した。その初心な反応は、かつてのカラ松くんを彷彿とさせる。


「ハニー、行くぞ」
慌ただしく再び着替えてきたカラ松くんが、一松くんから奪うように帽子を受け取って頭に被る。
「え、行くの?でもコブが───」
「帽子で隠せる」
確かにその通りだが、怪我を押してまで優先すべき事項と彼が判断したのは意外だった。まだチケットも取っていないから、他の映画館に切り替えれば延期もできる。
「限られた人生で、今日という日は一日しかない。両脚を折って物理的に外に出られないならまだしも、この程度の怪我ならユーリとの約束の方がオレには大事だ。
今日のユーリには今日しか会えない」
「カラ松くん…」
万一悪化したら後味悪すぎるんだが。
「兄弟の前でマジ口説きとか何考えてんの。砂吐くわ」
トド松くんがスマホの画面を見つめたまま茶化してくる。おそ松くんとチョロ松くんは反応を苦笑に留めていた。
カラ松くんの気障な物言いは日常茶飯事なので、いちいち気に留めていたら精神的に疲弊する。だからこそトド松くんの揶揄は珍しく、カラ松くんは目元を赤く染めた。
「と、とにかくだ!
問題はオールクリア、怪我も大したことない、映画には間に合う。この三拍子が揃ってる以上、ハニーからのノーはリジェクトさせてもらう」
横暴か。

「行ってやってよ、ユーリちゃん」
決定打になったのは、一松くんの一声だった。
「一松くん…」
彼は肩を竦めて笑う。カラ松くんとは反対側にできたコブを片手を押さえながら。

「一時的とはいえこいつの体乗っ取ってたっていう事実に対して今超絶に胸糞悪いから、しばらく顔見なくて済むと心の底から助かる」

「あ、はい」

私は即座に頷いた。戦争が勃発する前に徹底しよう。これ以上長く滞在するのは危険だ。
「ハニーっ、何で一松の言うことなら大人しく聞くんだ!」
カラ松くんが半泣きで抗議する。
命が惜しいからだよ、分かれよそれくらい。危うく舌打ちしそうになってしまった。
「不本意だけど行こうか、カラ松くん」
「不本意!?」
またもや叫ばれた。うるさいなもう。
そもそも私は次男四男の入れ替わり事変に巻き込まれた、言わば被害者なのだ。当事者でもないのに何故こうも消耗しにゃならんのか。
二人が元に戻った安堵感は、一瞬にしてたち消えた。もう今日は休ませてくれという本心を一旦胸の内に隠して、私は目尻に涙を溜めてぐずるカラ松くんを引きずるようにして松野家を後にしたのだった。




「無理はしないでね。辛くなったらすぐ言って」
元々の予定通り映画を観に行くために外を出たものの、時折カラ松くんがコブになった後頭部を無意識にさするから、私は声をかけた。本来は一日安静にすべきなのだ。強行は気が進まない。
「ノープロブレムだ、ハニー。この程度、怪我の内にも入らないぞ」
驚いて窓ガラスを突き破ったり、ツッコミで飛び蹴り食らってる連中から見ればそうなのかもしれないが。
「過信は駄目。私にも責任あるし、カラ松くんに何かあったら居ても立ってもいられないの───私が。
だから気持ち悪くなったりしたら隠さないで」
私がそう言うと、カラ松くんはピクリと肩を揺らしてから下唇を噛んだ。その頬は微かに上気している。
「ユーリ…!」
彼は前に回ると、私の肩に両手を置いて一度大きく呼吸をした。それから、私を包むように抱きしめる。
「っ、ちょ──」
「…すまん。嬉しくてどうしようもないんだ。すぐ放すから…少しだけ我慢してくれ」
私の肩に顔を埋めたカラ松くんが、高ぶる感情を抑えたような声で告げる。背中に回った両手に力がこもった。
大切だと言われることは元より、身を案じられることにも多大な喜びを感じるのは、カラ松くんがかつて兄弟から受けてきた杜撰な扱いの影響だろうか。
私はどうしたい?大丈夫だよと慰める?ただ黙って受け止める?
「さっきブラザーたちが言ってた意味が今になって分かったぞ、ハニー」
「みんなが言ってたことって?」
「オレが一松の体のままだったら、今こうしてユーリを抱きしめてるのはオレじゃなくて一松なんだ、って」
ああ。そんな話をしていたな。与える者と受ける側の認識が異なる場合、受ける側の認識が真実ともなり得る。

「ユーリに触れるのはオレだ。中身も体も松野カラ松の、オレだ」

嗅ぎ慣れた匂いが、私の鼻孔をくすぐる。同じ洗剤を使って洗った服を着て、同じ物を食べ、同じ部屋で生活していても、カラ松くんと五人の匂いはまるで違う。同様に、六人総じてクズである根底以外は、思考も価値観も判断基準も全てが異なる。
私が好ましいと感じる人が、ただ一人であるように。
「うん」
戻って良かった。本当に。やっと一息つく。
「すごく心配したよ。ハゲるかと思った」
「ハゲができてもハニーは世界一キュートだ」
「いやいや、カラ松くんの主観はどうでもいいの。私にとっちゃ死活問題だから」
「オレが責任取るから問題ない」
すげー爆弾落としてきた。
でも、まぁ、取るというのだから取ってもらえばいいか、もしそうなった場合は。

だから、カラ松くんの背中に私も手を回す。すれ違う好奇の目には気付かないフリをする。私が優先すべきは世間体ではなく、カラ松くんだ。彼の幸せだ。

「とはいえ、一松くんが憑依したカラ松くんっていうもう二度とお目にかかれない希少イベントは最の高だったんだよね。今日はそれおかずにご飯三杯いける
言動こそ一松くんなのに、見た目と声が推しのそれ。当推しのポテンシャル最高すぎん?
カラ松くんはガバッと顔を上げた。
「ユーリ、オレは浮気を許容した覚えはないぞ」
「浮気の定義がおかしい」

「オレだけ見てろ」

私の両肩を強く掴んで、真っ直ぐに見据える双眸。鋭い眉は一層つり上がり、黒い瞳には私しか映っていない。
「あはは」
「な、何がおかしいんだ、オレは本気で──」
「うん、知ってる。見てるよ」
「ユーリ…」
「見てるんだよ、ずっと」

また会いたいと言われたあの時から、今この瞬間も。
「あ…っ、や、その、ユーリ……」
「うん」
カラ松くんの目が泳ぐ。次の瞬間ハッとして周囲を見回し、通りすがりの傍観者たちからの視線に今更気付いたらしく、一段と顔が赤くなる。慌てた様子で肩から手が離れた。
「え、映画に遅れてしまうのはトゥーバッドだ。急がなければ次の回に間に合わない」
もはやこれは様式美だ。肝心要の結論は語られないまま、また当面は有耶無耶になる。私自身、次はどんなパターンが来るかと毎回楽しみにしているところはあるから、肩を落とすとかそういう負の感情は去来しないのだけれど。
「もうそんな時間?早く行かなきゃね」
スマホに映る時計を一瞥して、私はにこりと微笑む。
いつもの日常が戻ってくるだけだ。そう思って踏み出そうとした刹那───

「こちらにお手を、マイハニー」

手が差し伸べられる。当たり前のように私はそれを受ける。
「ん」
「楽しみだな」
カラ松くんが笑う。指が絡まる。私の親指を、彼の親指が慈しむみたいに優しく撫でた。反射的にカラ松くんを見ると、彼はバツが悪そうに白い歯を覗かせる。

一見同じように繰り返されるパターンにも、若干の変化は訪れている。目に見える形に様変わりする日もそう遠くないかもしれない、そんなことを私はぼんやりと思った。