好きな人ができたことはある。
でも恋人にはなれなかった。
カリキュラムに追われて忙しなく過ぎていく学生生活。己の力量を過信しやすい危うい年頃だ。拡大された行動範囲と少しばかりの軍資金が、自らを大人に限りなく近いと錯覚させる。
多感で繊細で大胆で、誰もが物語の主人公だった。彼らが描く恋模様もまた純粋で情熱的で苛烈が故に、小さなコミュニティで様々なドラマを生む。
そしてその中に紛れて、実るどころか伝わることさえなく、密やかに終焉を迎えた物語もまた数多に存在するのだ。胸を焦がした淡い想いは歳月と共に過去となり、記憶の引き出しにしまわれやがて日の目を見なくなる。
頬を撫でる風に冷気を孕むようになった初秋の休日。地面を照らす日差しの温もりに誘われ、私とカラ松くんは松野家の縁側でのんびりと暇を潰していた。
両側をビルに囲まれた松野家の庭はお世辞にも日当たり良好とは言い難いが、それでも赤塚区に庭付きの一軒家を構えていること自体が一種のステータスではある。この小さな庭を、松造や松代は猫の額と表現するけれど、私は好きだ。
傍らにはスーパーで買った手土産のカステラと湯気の立つ煎茶が添えられ、何をするでもない贅沢な時間が流れる。
互いを知る前の昔話に花を咲かせていたら、学生時代の話題になった。文化祭や体育祭といったメインイベントから男女の関係性へと話が移り、そして冒頭の話に至る。誰にも知られることなくひっそりと消えていった私の想いの話。
「ユーリのかつての想い人、か…」
カラ松くんがどこか苦しそうに呟く。
「大層なもんじゃないよ。私自身、そんな人がいたこともすっかり忘れてたぐらいだから」
短くない期間思いを寄せていたはずなのに、彼に紐づく言葉がなければ記憶の引き出しから出てこないほど自分にとって関心の薄いものになっているのは、正直意外だった。思い出さなくなったのは、一体いつからだろう。今だって顔立ちはおぼろげにしか浮かんでこない。
「聞きたいが聞きたくないような、何とも複雑な気持ちだ」
「話題変える?」
「聞く」
何やねん。
埃まみれの引き出しから、当時の映像を手繰り寄せる作業に入る。脳に残っている記録は断片的で、仲の良かった友人たちの姿が我先にと飛び出してくる。
探求者の私は制服を着た格好で教室にいて、彼を探すために廊下へと出た。私の所属するクラスの中に、彼はいなかったのだ。
「クラスの違う男の子だった。お互いに名前は知ってて、でも連絡先は知らない、廊下で会ったら挨拶するくらいのうすーい関係」
私も彼も誰かと行動を共にすることが多かったから、すれ違いざまに一言交わすのが精一杯のコミュニケーションだった。
だからこそ挨拶できた日は嬉しくて、一対一で会話できようものなら一日中心が弾んだ。授業が身に入らず、帰路に着く足取りは羽が生えたみたいに軽やかだった。本人の前では平然を装っていたくせに。
「それから一年くらいしたら卒業で、それっきりかな。卒業式は色んな人に囲まれてたから、声をかけるタイミングを逃したままだったんだよね」
シャボン玉のように膨らんだ感情は、泡として溶けた。弾けさえしなかった。親しい友人にさえ語らなかったから、幾ばくかの後悔と共にいつしか忽然と消えて、記憶の片隅に追いやられてしまう。まるで最初から存在しなかったとでも言うように。
否、今ここでカラ松くんに話さなかったら、存在しなかったのと同じだ。彼への感情は、誰にも話したことがなかったから。
「なぜ声をかけなかったんだ?
ずっとそいつのことを追いかけていたんだろう?」
カラ松くんが投げかける純粋な疑問は、切っ先が鋭い。
「今となっては推測だけど、何が何でも手に入れてやるって強い思いはなかったんだろうね。
恋愛感情があったとは思うんだけど、恋してる自分に酔ってた感は、たぶん…ある。恋に恋するってああいう感じなんだろうなぁ」
徹頭徹尾気付かせなかったくせに、気付いて追い求めてほしいなんて図々しいにも程がある。漫画のような美しい理想ばかりを追い求め、相手を度外視していた結果がこれだ。当人に迷惑をかけなかったのは不幸中の幸いだが、あまりのヒロイン気取りに穴があったら入りたい。
過去を恥じ入って頬を赤くする私とは裏腹に、カラ松くんは眉間に皺を寄せる。
「そいつが憎らしいな。
長らくユーリから熱い視線を送られていた上、それに応えないなど愚の骨頂だ」
止めてください私が死んでしまいます。
「や、そもそも相手のことよく知らないのに好きとか、ほんと恋に恋してたんだよ。思春期真っ盛りって感じ」
「一目惚れから始まる恋愛だってあるだろう。オレたち魔法使い一歩手前の童貞に至っては、そこそこ可愛い子に優しくされたらイチコロだ」
レンタル彼女や薬局のお姉さんが脳裏を過った。前例がありすぎて笑えない。こいつら学習しねぇな。
「そいつのどこが良かったんだ?」
「えー、何だろ。手伝ってもらったり、優しくしてもらったのがきっかけだと思う。楽しそうにしてる姿がいいなと思った…っていう流れ、かな?」
「二人きりで出掛けたりは?」
「えっ、ないない!二人で話すことも少なかったのに」
私は大きくかぶりを振る。二人で出掛ける機会が一度でもあれば、結果は大きく違っていたはずだ。関係性を変えるほどの行動力は当時の私にはなかった。
「…そうか」
カラ松くんはフッと口角を上げた。
「それじゃあ今のオレの方が、そいつよりもユーリに近いわけだ」
勝ち誇ったようにほくそ笑むから。
心地良い日差しが、少しだけ眩しく感じられた。
「カラ松くん相手じゃ、比較対象にならなくない?」
つい笑ってしまう。一声かけることさえタイミングを見計らわなくてはならなかった人と、周囲にどれだけ人がいても一目散に駆け寄ってきてくれる人を比べるなんて。
「学生時代のハニーの視線を独り占めしていたというだけで、罪は重い」
カラ松くんは縁側に片手をついて、体を私の方へと寄せる。板の軋む音が、静かに響いた。
「…馬鹿な男だな」
呆れを多分に含んだ声で、カラ松くんが失笑した。
「さっきも言ったけど、本気じゃなかったんだよ、きっと。
卒業式だって、第二ボタンどころか連絡先さえ聞かないままだったんだから」
卒業式が最後のチャンスだったはずなのだ。別離を口実にして、せっかくだし連絡先教えてよと言うことも、あの場では決して不自然ではなかった。仮に玉砕しても、進路が異なるから外面的には後腐れなく切り替えられる。
最適な条件が複数揃ってなお実行に移さなかったのは、つまりはそういうことなのだろう。
突然、すっくとカラ松くんが立ち上がる。視線は真っ直ぐに、誰もいない庭に向けられていた。
「すまん、すぐ戻る」
そう言い残し、私の返事も待たずに彼は部屋の中へと消えた。すっかり冷めたお茶と食べかけのカステラがポツンと残される。
階段を駆け上がる騒々しい音が、遠くから聞こえてきた。
カラ松くんが戻ってきたのと、私が皿と湯呑みを空にしたのがほぼ同時だった。彼は左手にグレーのジャケットを下げている。
カラ松くんは戻るなり膝をついて、持っていた服を床に広げた。グレーのジャケットは───赤塚高校のブレザーだ。畳みジワのついた緑のネクタイが一緒に落ちた。ブレザーとネクタイという不思議な組み合わせに、頭の中で疑問符が点灯する。
「これは……」
私が問いを最後まで紡ぐより先に、カラ松くんはデニムのポケットから取り出したハサミで、ブレザー内側のタグについていた予備のボタンを切り取った。
赤塚高校の校章が彫り込まれた、艶消しの金属ボタンだ。
「赤塚高校の制服はボタンが一つしかないが、予備のボタンがあるのを思い出した」
その言葉で、彼の言わんとすることを察する。
「オレの第二ボタンだ。貰ってくれ」
カラ松くんは頬を紅潮させる。重厚感のある見た目と大きさとは対照的にひどく軽いそれを、私は手のひらを差し出して受け取った。
「あと、ええと…最近はボタンの代わりにネクタイを渡すらしいから、これも」
そう言って、緑のネクタイがボタンの上に重ねられた。
「カラ松くん…」
「受け取ってくれ、ユーリ。オレの第二ボタンは全部ユーリのものだ」
どストレート決め台詞。
もう本当うちの推しは無自覚で物理的殺し文句をのたまって私の息の根を軽々と止めてくるから心臓が百あっても足りないっていうかもう何これ助けて。
第二ボタンが意味するのは、一番大切な人。
「何なら中学の頃の第二ボタンも外してくる」
ほのかに防虫剤の香りがするブレザーは、虫食い一つなく綺麗な保管状態だった。まるでついこの間卒業したばかりのような、そんな錯覚さえしそうになる。
卒業して少し経った頃合いに、松野家を訪ねたような、そんな気が。
「それで、あの…」
カラ松くんは言葉を濁して私の反応を窺う。その時になってようやく、私が何の返事をしていないことに思い至った。怒涛の展開に呆気に取られていましたなんて、下手な言い訳が口から溢れそうになる。
「ありがとう、カラ松くん。どっちも大事にするよ」
言うや否や、彼の顔がパァッと明るくなった。
「ち、ちゃんと意味分かって渡してるんだからな!
ハニーの好意を無下にするような奴のボタンより、オレのボタンの方がよっぽど価値がある!」
気にしているらしい。私にとっては、とっくに過去の記憶の一部でしかない幻影を。
そして、写真でしか見たことのないブレザーのボタンが、あれよあれよという間に私の所有物になった。
「貰うなんて考えたこともなかった…」
私たちが出会ったのは社会人になってからだったから、互いの学生時代は写真でしか知らない。当時接点もなければ、それぞれの母校には足を踏み入れたことだってない。無関係なものとして認識していた過去が突然身近になり、胸に去来するのは戸惑いだ。
そしてそれ以上の、喜び。
「昔話もしてみるもんだね」
「オレの方も第二ボタンが残ってて良かったぜ。
当時まだキュートな子ウサギボーイだったオレの純真さに、カラ松ガールズたちは臆して声をかけられなかったようだからな。ガールズたちには申し訳ないが、こうしてハニーに渡すことができたんだから結果オーライだ」
キュートな子ウサギボーイとは。
「もし誰かに渡してボタンがなかったら、どうするつもりだったの?」
「今着てる服の第二ボタン全部渡す」
迷いなく断言される。
「質より量作戦だ」
真っ直ぐな目で躊躇なく意味不明なこと言われておかしいのに、どんな手段であれ私を一番優先しようとするカラ松くんが可愛くてたまらない。頭抱えてぐしゃぐしゃ掻き回して愛でてやろうか───うん、やろう。
思い立ったが吉日。私は膝を立てて彼に向き直り、きょとんとした顔で私を見上げるカラ松くんの髪を両手で思いきり撫で回した。
「もうっ、尊い通り越して可愛いしか出てこない。可愛いよカラ松くん、ほんっと可愛い」
「え、ちょ、ハニー!?や、止めるんだ…っ、髪が──」
「かわいい」
口を耳元に寄せて囁やけば、彼は息を止めて体を強張らせた。肩は竦み、耳が赤く染まる。
私の推しは、やっぱり世界で一番可愛い。
その後、オレをからかって遊ぶなと一通り定番と化した説教を食らい、再び話題は第二ボタンに移行する。叱られている間も私がずっとボタンを握っていて、鞄に片付けようとしたタイミングだった。
「第二ボタンを交わした後の二人は、どうなってるんだろうな…」
憧れや記念としてではなく、ほぼ告白と同義の意味でボタンの譲渡が行われた後の未来は、私も気になったことがある。
「結婚までいく確率は、一説には数%って言われてるよ」
「え、そんなに低いのか?」
カラ松くんは瞠目する。
「そもそも付き合うのが三十%くらいなんだって」
三組に一組、低いとも高いとも言い難い微妙なラインだ。やはり第二ボタンは記念や餞別として貰う意味合いが強いのかもしれない。
仮にイチかバチかに命運を託して見事両思いに至っても、新天地での生活や新しい人間関係に魅力を感じる人だっている。
「進路が分かれたり、分岐は発生しがちだよね」
「今までのように頻繁に会えなくなって、ってヤツか」
環境の変化と共に価値観も変わりゆく。学校が中心だった世界は瞬く間に広がり、新天地で新しい相手とも出会う。卒業後も仲良く幸せに暮らしましたなんておとぎ話のようなハッピーエンドは希少だ。
ほんの数秒、カラ松くんは顎に指を当て思案するポーズを取っていたが、やがて深く首を縦に振った。
「目標ができた」
「何の?」
「その数%に入ることさ」
昭和の少女漫画に出てくるキャラクターのようなきらびやかな瞳で、彼は私を見つめた。眼前で軽やかに指を鳴らす仕草付きだ。いわゆるドヤ顔。
こういう時、どんな反応がベストなのか今なお最適解が掴めない。スルーして話題転換か、はいはいと右から左を受け流すか、あるいは真っ向から受け止めるか。何とも返せずに唖然としていたら、カラ松くんはハッと我に返ったようだった。
「…あ…あの……だ、駄目かな、やっぱり…」
逸らした視線を自分の足元に落として、顔を赤くする。
ドヤ顔からの素の照れは卑怯だ。隙あらば押し倒したい。
「駄目とかじゃなくて、スタートの時点でズルしちゃってるんだから、厳密には私たちは対象に含まれないでしょ」
「そ、それでも第二ボタンを手渡した時点スタートだから、カウントされるだろ」
「詭弁だよ」
私の反論に納得できないカラ松くんは、不満げに口をへの字にした。
「どうとでも言ってくれ。オレは真剣だ」
「ふむ」
私たちが高校を卒業してから既に短くない歳月が流れている。私は社会人として後輩を指導する立場となり、カラ松くんはベテランニートだ。
高校生活の記憶の大半は断片的かつ曖昧で、確証のない自信に満ちていた青春は遥か遠い過去ではある。けれど。
「──誤差、なのかな」
「ごさ?」
「うん。高校の頃にカラ松くんから第二ボタンを貰ったとしても結果は同じだっただろうし、そう考えればこの数年は誤差と言えるかもしれないな、って」
根拠皆無の暴論だ。ただの言葉遊びと言われればそれまでの、かけらほどの説得力もない私見に過ぎない。
なのに、妙に腑に落ちる。
「ユーリ…それは、どういう……」
「もし私たちが学生時代に第二ボタン渡すような関係だったなら、当時貰っても今貰っても未来は同じなんじゃないかと思うんだよね」
もしも今みたいな親密な関係性が構築されていたなら、いつだってよそ見せず私だけを追いかけてくれる一途さが当時からあったなら───私もきっと同じだけの熱量を返していたと、そう思える。
実際にはそんなこと起こり得るはずもなく、学年どころか校区も違って彼の性格も当時は真逆で、接点なんて一つもなかった。実現した可能性は限りなくゼロに等しい仮の話だ。
だが、もし私たちに繋がりがあって、こうやって二人きりで会う付き合いをしていたら───行く末は同じなのではないだろうか。
「会うのがちょっと遅くなっただけなのかもね」
不意に、抱きしめられる。
両手が真正面から伸びてきて、私を胸に包み込んだ。食器を載せたトレイに彼の足が当たって、食器が揺れる小さな衝突音が鳴る。
「誰か来るかもしれないよ、カラ松くん」
私は穏やかに告げる。おばさんやおそ松くんに挨拶をして縁側に来たから、少なくとも松野家は無人ではない。近くで気配こそ感じないが、いつ誰が廊下を通ってもおかしくない状況だ。
もっと焦ってみせた方が良かったのかもしれないが、抵抗する理由が私にはない。
「構わない」
麗らかな昼下がり、友人宅の縁側でよもや抱擁されるなんて、一体誰が想像しただろう。
「ブラザーからの私刑も甘んじて受ける。
あいつらに見られて文句言われるのなんて、ユーリが今言ってくれた言葉に比べれば些細なもんだ」
嬉しい、と。
彼は小さく溢した。
「もしも高校の頃に仲良かったら、の話だよ」
「分かってる」
決して起こり得ない事象を仮定した話。
「……答え合わせをしたい」
彼は私を抱きしめたまま言う。
「答え合わせ?」
「ユーリがどんな未来を想像してたのか…それはオレの描いてる未来と重なるか、だ」
私は未来の姿について明言していない。言葉の端々から想定は容易いだろうが、カラ松くんが欲しいのは裏付けだ。言わなくても察しろと突き放すのは酷で、そんな一流の駆け引きができるのならこの年まで童貞更新はしないだろう。
「抱きしめておいて、訊くんだ?」
「聞きたい。ユーリの口から」
「ズルイなぁ」
「たまにはユーリから先に言ってくれてもいいだろ。オレばかりはフェアじゃない」
カラ松くんも言うようになったな、と私は感心する。力を抜いていた手を彼の腰に回したら、布越しに体温が伝わってきた。
私の口から未来が紡がれたのは、それから三秒後だった。