夢の舞台と下りない幕(前)

僅かに開けたリビングの窓の隙間から、小鳥のさえずりが漏れ聞こえる。高らかな歌声に誘われて顔を向ければ、穏やかな表情でマグカップに手を添えるユーリが視界の隅に映り込んだ。麗らかな日差しがレースカーテン越しに部屋に差し込んで、間もなく訪れる春を予感させる。
心なしか甘い香りのするユーリの家は、カラ松にとってもはや第二の我が家と言っても過言ではない。異性の部屋故の不可侵領域は当然あるにしろ、キッチン用品や消耗品の位置はある程度把握しているし、少々不本意ながら多少の私物──着替えを含めて──も定位置がある。友人という関係上、さすがに私物の保管には抵抗があったが、なし崩し的にユーリの家で夜を明かす回数が片手で収まらなくなった頃に、彼女からの進言があった。

下手をすれば自宅よりも居心地がいいと、カラ松は常々思っている。




「一つだけ欲しいものが手に入るなら、何が欲しい?」
捨て損ねた宝くじのハズレ券が引き出しで見つかったのを皮切りに、ユーリがそんなことを尋ねてくる。夢や希望を象徴的に描いた綺羅びやかなデザインのくじはゴミ箱に消えた。ぱさりと紙が落ちる。淡い夢が潰えた音はやたらと軽々しい。
さて、ユーリからの問いにカラ松は即答する。
「億単位の金」
「わぁ、ゲスい」
そして間髪入れず返ってくるツッコミ。彼女は苦笑顔だった。
「金はいくらあっても困らないからな。価値が上がり続けてるインゴッドでもいい
「譲歩してやったみたいな言い方」
株や投資、不動産といった資産も候補として挙がったが、いかんせん運用に手間がかかる。知識を必要としない、所持しているだけでいい膨大な資産があれば僥倖である。この際、保管料といった多少の経費には目を瞑ろう。
「うーん…あのさカラ松くん、こういう会話の時はもっとこう、夢があるものを言うもんじゃない?
ほら、海外に別荘とか世界一大きいダイヤとか」
「ノンノン、ハニー。もっとリアリストになるんだ。別荘もジュエルも、億単位の金があれば買えるだろ?」
最初から物を手に入れるのではなく、数多の選択肢を提示できるだけの資金がやはり望ましい。金で全てが買えるわけではないが、何かを買うには金がいる。
「金は夢を叶えてくれるし、心も豊かになる」
「…不毛な会話をしてる気がしてきたよ」
ユーリは小さく息を吐いた。
カラ松に言わせれば、換金予定のない宝くじの当選金の用途に近い話題になった時点で、既に不毛の極みだ。捕らぬ狸の皮算用である。

「で、ユーリは?」
「私?」
カラ松はユーリに話を振った。
「ああ。ユーリなら何が欲しい?」
話題を投げてきた時、彼女の言葉の端に何か含みのようなものを感じた。最初から回答を持った上でまずはカラ松に問うたような、なぜかそんな気がしたのだ。
ユーリはどこか困ったように笑って、マグカップに口をつけた。
「私が欲しいものは───すぐ近くにあるの」
「近く…」
「そう、ずっとすぐ近くにある。もしかしたらもう手に入ってるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも確証はないから宙ぶらりん」
カラ松は居住まいを直した。あぐらを掻いて下にしていた右足に微かな痺れを覚えたからだ。立ち上がれなくなる前に体勢を変えておく。
「ハニー、それは謎掛けか?」
禅問答のようだ。
「あはは、そういうつもりはないんだけどね」
マグカップをテーブルに戻すと、ユーリはカラ松から視線を外して窓の外を見た。強い日差しが彼女の髪に反射してキラキラと星屑みたいに光る。いつになく眩しくて、カラ松は一瞬目を細めた。




次に瞼を上げた時、カラ松の目に映ったのは見慣れた天井だった。
部屋の中央に設置されている吊り下げ型のペンダントライトから垂れた紐が、風もないのにひらひらと揺れている。首を左右に捻って見えるのは、安らかな寝息を立てているトド松と、両手を上に上げて大きくあくびをする一松。一松はカラ松の身じろぎで目が覚めたのか、唸りながら右手の甲で目元を擦った。

カラ松はぼんやりとしたまま上体を起こす。まだ頭にモヤがかかっているようで思考がままならない。手繰り寄せようとする記憶の糸はことごとく途中で千切れていて、昨晩どうやって布団に入ったのかなかなか思い出せなかった。
「…早いな、お前」
傍らの一松が呟く。寝起きで声が掠れている。
「フッ、グッモーニン、ブラザー。今日もサンシャインがオレたちを祝福してるぜ」
前髪を掻き上げて気障なポーズを決めるも、一松は寝惚け眼のせいかいつものように噛みついてこなかった。拍子抜けすると共に、カラ松の脳裏に夢の記憶が鮮明に蘇ってくる。
「なぁ、一松……すごくリアルな夢を見たんだ」
「はぁ?」
「さっきまで目の前で起こっていた出来事みたいだった。オレはユーリの家にいて、コーヒーの匂いもしたし、足の痺れも感じた。話した内容も覚えてるんだ。なのに…」
なのに、夢だった。
夢は一般的に秩序がなく支離滅裂で一貫性がない。取り止めもない幾つかのシーンが脳内で繰り広げられ、往々にして覚醒する直前に見ていた内容が記憶に刻まれる。それさえも断片的で、物語の開幕から閉幕までを覚えているのは非常に稀だ。
「ユーリちゃん渇望症みたいだな。先週末から会ってないんだろ?」
一松が呆れたように言う。そう、彼女に最後に会ったのは五日前の週末だ。
けれど、夢で見た彼女の家の様子や表情を今もありありと思い出せる。カラ松は昨日ユーリ宅で過ごし、帰ってきてから寝るまでの記憶だけ抜け落ちていると言われた方がまだ現実味があるくらいの鮮やかさで。

「カラ松兄さん、リアルな夢見たって?」
いつの間にか十四松が起きていて、布団の端からカラ松の元まで文字通り飛んできた。
「え!?あ、ああ…そうなんだ、十四松」
「分かるー!ぼくもぼくも!
ぼくはね、甲子園で場外ホームラン打つ夢見たよ!投げられたストレートに対してこう振りかぶって、バットにジャストミートっ」
十四松は体を使って嬉々として再現してみせる。目覚めたばかりだというのに彼の体は軽く、風を切るように素振りをした。
「いい音したんだよねー。ほくのホームランでチームは逆転勝ち!荷物持って駅から電車に乗って───」
「はいはい。十四松、朝っぱらからうるさい。頭に響くだろ」
十四松の言葉を制して、一松は片手でこめかみを抑える。それから彼は一層鬱陶しそうな目つきでカラ松を見やる。

「テメーはテメーで、起き抜けに『オレ常日頃から彼女の家に入り浸ってます、家のことよく分かってます』的な惚気止めろ、殴るぞ

「ええっ、オレ結構真面目に話したのに!?」
「ユーリちゃん会いたい病こじらせてんじゃねぇよ。白昼夢通り越して淫夢だわ」

「なになに、カラ松淫夢見たって?
唐突におそ松が声高に会話に加わった。一番面倒くさい相手が介入することで、もはや場は混沌の様相を呈する。こういう時に限って目覚めがいいのは長男が長男たる所以だ。
「いいなぁ、どんな淫夢?やっぱユーリちゃんに脱がされる的な?」
「何でオレがされる側なんだ!」
「えー、ユーリちゃん相手ならされる側じゃん。諦めが肝心だよ、カラ松。でもユーリちゃんならいいかも。俺も強引に抱かれたーい」
おそ松は両腕で自分を抱きしめ、大袈裟に体をくねらせた。カラ松を揶揄する意味合いよりも、純粋に本心でそういう願望がある吐露の方が強いから厄介だ。
「…ユーリに手を出したらどうなるか分かって言ってるんだよな、おそ松?」
だからカラ松は牽制せざるを得ない。
「何だよっ、淫夢羨ましいって言ってるだけだろ!俺だってヌケるくらいの淫夢見たいわっ
「淫夢は見てない!」
前提が違った。
「ちょっとー、朝から淫夢淫夢ってみんなして連呼しすぎ。童貞だからって謙虚な心は忘れちゃ駄目だと思うなぁ、ボク」
騒ぎで起きたらしいトド松が上半身を起こしつつ、頬に手を当てて溜息をつく。好感度を上げたい対象不在時でも的確に兄弟を切り捨て、自分だけ優位に立とうとするのは、さすがドライモンスターの名を欲しいままにする松野家末弟だ。
「───で、どんなエロイ夢だったの?
ユーリちゃんの淫夢なんてレア中のレアじゃん。詳しく聞かせて
しかし性質の基盤にあるクソっぷりは兄弟間共通で、彼も例外ではない。瞳を輝かせてカラ松を見上げてくる。
「淫夢から離れろ!」
「カラ松の淫夢の内容聞くまでは起きるに起きれないよね」
チョロ松まで参戦してきた。
「違あぁああぁあぁう!」
カラ松は力の限り叫ぶ。もしも匙を投げる選手権があるのならば、今なら世界記録を樹立できそうだ。

この一騒動に終止符を打ったのは、松代だった。
「うるさいわよニートたち!起きてるならとっとと下りてきなさい!」
階下からよく響く声が聞こえてきて、全員がハッと背筋を正す。彼女の逆鱗に触れることはすなわち衣食住のレベル低下または供給停止に直結する。
慌てて布団を片付け、パジャマのままカラ松たちは階段を駆け下りた。




「カラ松くん」

柔らかな呼び声に、カラ松は我に返る。目の前にはユーリがいて、テーブルの上には僅かに中身の残ったマグカップが置かれていた。差し込む日差しは変わらず強い。
「…ユーリ?」
「欲しい物の話、私そんな変なこと言った?」
そうだった。一つだけ欲しい物が手に入るなら何がいいか、そんな他愛もない話をユーリとしていた。

───夢の中で。

夢のはずだった。彼女の答えが不明瞭で禅問答みたいだと思った直後に、自宅で目が覚めたのだから。一松に詰られ、その他の兄弟には一通りからかわれた。あれこそが現実なのに、なぜ再び夢の続きが始まっているのか。
右の足首が微かに痺れている。つい先程あぐらを組み替えた時に感じた痺れだ。
「何で……」
自宅で覚醒した後はいつも通り自宅でおそ松たちと共にひたすら暇を潰し、かいてもいない汗を銭湯で流し、日付が変わる前に布団に入った。
「難しそうな顔して考え込んだと思ったら、急にウトウトするんだもん。夢でも見てた?」
口元に手を当ててクスクスとユーリが笑う。
「…夢?あれが?」
「居眠りした時って変な夢見たりするよね」
「そうだな…」
妙な居心地の悪さを感じながらも、ユーリに合わせて相槌を打つ。腕組みをしたら、布と皮が擦れる摩擦音がした。着慣れたパーカーの感触もする。僅かに開いた窓の隙間からは車が行き来する雑音も響いてくる。
神経を研ぎ澄ますまでもなく、これは現実だ。
夢と現の区別がつかなくなるなんて、どうやら精神的に疲弊しているらしい。ユーリと会う休日はともかく、刺激のない日々を送りすぎているせいか。怠惰な生活環境は早急に改善する必要がありそうだ。

「でさ、さっきの話の続きなんだけど」
ユーリが口火を切った。カラ松の顔は自然と彼女の方を向く。
「さっきの話……ああ、手に入らない物だったな。ひょっとしてビジネス絡みか?キャリア志向があるハニーもいいな、新鮮だ」
重要なポジションは望んだからといってやすやすと就けるものではない。実績は元より、マネジメント能力や運も必要だ───たぶん、きっと、おそらく
「もっとロマンチックなものだよ」
ユーリは逡巡するように左右に黒目を揺らしてから、頬を微かに染めた。彼女らしからぬ愛らしい反応にカラ松は目を瞠る。
ロマンチックという名詞がユーリの口から飛び出してくること自体、非常に稀有なことだった。
「フーン、分かったぜ、ハニー。
このオレとロマンチックでアダルティな道を歩みたいというんだな。ビンゴー?」
声高らかにのたまって、指を鳴らす。馬鹿言うなと振り払われるか、鼻白んで失笑されるか、カラ松はユーリの反応を待った。
しかし直後に提示された態度は、カラ松の予想とは真逆のもので───ユーリは、笑ったのだ。婉然と。
「惜しい」
そして紡がれたのは、想定外な言葉。
「え、惜しい?」
「肉薄してる。鈍いと思ってたけど、意外と鋭いとこもあるんだね」
こうなるともうカラ松は絶句するしかない。心臓が跳ねる音が彼女にまで届いてしまいそうで、意味もなく呼吸を止める。
熱に浮かされたみたいに潤んだ双眸と、朱が差した頬と、カラ松とのロマンスを肯定するかのような発言。

だって、それはまるで───

「もう…分かってるよね?」
退路を塞がれた気がした。
「ユーリ……」
言葉を失って思考を停止させている間にユーリはカラ松の傍らに寄り添い、カーペットの上に置いていた右手にそっと指を絡めてきた。血液が沸騰しそうな自分とは対照的な皮膚の温度に僅かに冷静さを取り戻すけれど、彼女から求められた高揚感で心臓は早鐘のように高鳴る。
カラ松の願望の具現化そのものだった。
「ずっと、ここにいて───帰らないで」
縋るような憂いを帯びた目がカラ松を映す。
「…あ、し、しかしっ、それはいささかプロブレムじゃないか!?
その…年頃のレディの部屋に昼夜いるというのは、さすがに、何と言うか…近所の目とか、色々……」
「それは関係性を変えれば問題じゃなくなるでしょ?」
核心を突いてくる。どうにかして抜け道を見出そうとする逃亡者を彼女は許さない。
「差し支えがあるなら、ないようにすればいいだけだよ」
「し、しかし…っ」
何とかして光明を見出そうとするカラ松が、空いているもう片方の手を持ち上げた瞬間、テーブルのマグカップにぶつかった。
「──わっ」
傾いたマグカップに残っていた濃褐色の液体が、カラ松の袖を濡らす。

「カラ松くんは何も考えなくていいの。私が養う。家にいて、私といてくれれば。部屋が狭いなら、引っ越せばいい」

液体はテーブルに小さな水たまりを作った。
しかし彼女は気に留めるでもなくカラ松から視線を逸らさない。カラ松が長らく望んでいた言葉を矢継ぎ早に告げてくる。
あまりにも甘美な誘い。

「次会うときに、答えを教えて」




目を開けたら、カラ松の目には居間のちゃぶ台が映った。
幼少の頃から松野家の居間中央に鎮座している年季の入った木製のそれは、所々経年による小さな傷が刻まれている。ユーリ宅のローテーブルとは色も形も違う。
「あ、起きた?」
カラ松の斜め向かいには、スマホを両手で抱える末弟の姿があった。カラ松と目が合うと、口で笑みの形を作った。
「……トド松?」
どうして、という疑問の声は掠れた。言葉にさえなっていなかったかもしれない。
時計は午前十一時半を指している。起床して朝食を摂って一時間も経っていない時間帯である。
「朝から昼寝とか優雅だよねー。って、まぁ長年ニートって時点である意味優雅なんだけど」
トド松は自虐して失笑したが、カラ松から何の反応もないことを訝しみ、首を傾げる。
「どうかした?」
「いや…」
否定としての意味合いではなく、反射的に口を突いて出た。何をどう話せばいいか、もう思考の整理さえおぼつかない。
「どっちが現実なんだ…?」
「はい?」
トド松は顔を歪める。客観的に正しい反応なのだろう。自分でも唐突にそんな疑問を吐かれたら、彼のような反応をするに違いない。意味が分からないと言うように。そう、意味が分からない。
「何寝ぼけてんの」
てかさ、とトド松は右手の人差し指をカラ松の腕に向ける。

「袖、コーヒーみたいな染みが付いてる」

全身から血の気が引いた。
マグカップを倒して溢れた琥珀色の液体が袖を濡らしたのは、我が家ではなかった。つい一分前くらいに起こった出来事で、テーブルに広がる水たまりの形を鮮明に記憶している。
トド松が差し出してくれたティッシュで袖口を押さえたら───白は茶に染まった。まるでつい今しがた濡れたみたいに。
「染み抜きしてから洗濯機入れなよね。染みになったら目立つよ、それ」
呆れ顔になる末弟に、カラ松は曖昧に笑った。テーブルに伏せられたスマホが表示していた日付は、自分が認識している日にちと相違ない。
同日の異なるタイミングで複数の物語が進行している。その仮説はカラ松を戦慄させた。


仮説は、言わば戯言である。真実味どころか、その説を成立させる第三者的要因は何一つない。カラ松の脳内でのみ繰り広げられている馬鹿げた妄想と切り捨てられても仕方ない稚拙な推測だ。
なのに一松に吐露しようと思った理由は、実のところよく分からない。兄弟間において彼はカラ松のことを蛇蝎の如く嫌っていたフシもあるし、物理攻撃で拒絶の意を示してきたことさえある相手だ。とはいえ、ここ最近は下手に刺激しなければ互いにフラットな感情でやり取りできるまでにはなった。
感情的にさえならなければ、ある程度の常識的で建設的な会話ができる。一松はそんな弟だとカラ松は思う。
たまたま彼が猫を膝に置いて縁側で過ごしていたところに、カラ松が通りがかった。日光を浴び、猫と共に気持ち良さそうに目を閉じている。

「お前、今日やたら悲壮な顔してるよな」
起こさないよう足音を忍ばせたのは無駄らしかった。耳聡くカラ松の足音を聞きつけ、一松はカラ松を見やる。
「…そんなことないぜ、ブラザー」
「覇気がなさすぎるんだよ、分かりやすすぎ。ユーリちゃんと喧嘩でもした?」
ユーリ。
いつもなら真っ向から否定して、一笑に付した。自分とユーリの仲はそう容易く崩壊するものではない、なんて。
「え、ちょい待ち……図星かよ」
カラ松が反論しないのを肯定を受け取ったらしい一松は、眉間に皺を寄せた。カラ松は無言で弟の隣に腰を下ろす。
「聞いてほしい話がある、一松」

乱雑に入り乱れる推測と感情、そして自分が現実と思いこんでいるかもしれない事象の一切を、一松に語った。
自分はユーリ宅と自宅とを行き来している。瞬間移動といった類ではなく、二つの物語が同時進行し、カラ松はどちらの物語にも登場人物として出演し続けている───まるで録画した二つの番組を交互に観るように。
挙句の果てに、二つの世界は繋がっている。袖についた染みがその証拠だと、少なくともカラ松はそう認識しているけれど。
おそらくどちらかが夢だと漠然と理解はしているのに、どちらが夢なのかさえもう判別がつかないことも、全部。
「カラ松、お前……年取ってからの中二病は黒歴史超えて人生の汚点だから、後悔しか生み出さないから。今日卒業しよう。な?
マジトーンで諭された。
そりゃそうだ。
「…はは、そうだよな。自分で言ってて、馬鹿げた話だと思う」
世迷言である。カラ松は片手を額に当てて笑った。乾いた笑いしか出てこない。
「え……何、マジかよ…」
一松は持ち上げた手を所在投げに下ろす。口から出かけた言葉を土壇場で飲み込んだ、そんな様子だった。それから彼は下唇を噛んだ。

「───それ、猿夢ってヤツなんじゃない?」

初めて聞く単語だった。カラ松は目を瞠る。
「さるゆめ?」
「おれもそんなに詳しくないけど、無料掲示板に昔書き込まれた有名なオカルト話だよ。
電車に乗ってる夢で、そいつは自分が夢を見てるって自覚してる。そんな中、自分の目の前にいる客が『活造り』とか『えぐり出し』っていうアナウンスが聞こえた後、アナウンス通りの残虐な方法で次々と殺されていくんだ。
魚の活造りみたいに刃物で捌かれたり、先の尖ったスプーンで目玉をえぐり出される。当然断末魔も車内に響き渡る」
想像を絶する非道な殺害方法だ。夢と自覚しているだけまだ救いがあるが、それでも精神は蝕まれるだろう。
「次は自分の番だからそいつは逃げようとする。でも一応どんな内容か聞こうとしたら、『次は挽き肉』ってアナウンスが流れて、本格的にヤバイと思うわけだ。
いつの間にか小人が自分に近づいて、挽き肉にする機械を作動させる。機械音が聞こえて───」
「……それで?」
カラ松は息を飲んだ。一松はニヤリとほくそ笑む。
「そこで目が覚める」
「そ、そうか」
安堵して胸を撫で下ろしたのもつかの間、まだ続きがあると一松は言う。彼の膝で眠りこける野良猫の安らかな寝顔がこの場で唯一の良心のような気がした。
「何日かして、夢の続きを見る。この時はもう機械がすぐ近くにあって、目が覚めろ目が覚めろって念じまくって、何とか夢から覚める。
その時にはこうアナウンスがあったらしい」
じっとカラ松を見据えて。

「また逃げるんですか。次に来た時は最後ですよ」

次会うときに、答えを教えて。
ユーリの言葉が頭を過った。彼女がその言葉を告げた直後、予定調和とでも言うように場面は切り替わった。
「ユーリちゃん本人に会ってみたら?」
「…電話が繋がらなかった」
平日だから仕事中なのだろう。携帯に着信は残っているだろうから、夕方になれば折り返し連絡をくれるはずだ。
しかし、それまでに自分の意識がこの世界にあるとの確証はない。カラ松の意思とは無関係に、瞬きをした次の瞬間に景色が変わっているのだから。今こうしている一松との会話さえ、いつ途切れるかと不安でならない。
「あー…ユーリちゃん社会人だもんな」
「こういう時だけは、ハニーもニートだったらいいのになんて考えてしまうな」
「ユーリちゃんが社会人としてしっかりしてるから、テメーなんかを推してくれてんだからな。その前提忘れてんじゃねぇよ」
「ああ…分かってる」
嫌というほど。

「猿夢なんて、都市伝説だと思ってたのにな」
一松が溜息混じりにしみじみと呟く。厄介事持ってきやがってと呆れの感情も感じ取れたが、カラ松は嬉しかった。自分の突拍子もない空想とも思えるような話を、彼は受け止めてくれている。
「ただ、猿夢は死に近づく悪夢だ。カラ松が見てるその夢とは根本的に違うけど…」
「しかし結末らしきものには近づきつつある」
「なら───そろそろ最後なんじゃない?」
猿夢を見た者の結末を知る者はいない。
カラ松が踊らされている舞台は僅か一日の間に繰り返されているから、おそらくは今日中にラストステージが始まるのだろう。

不安げに黒目を揺らす一松に、自分は大丈夫だと、不安になんてなるなと、なぜかどうしても言えなかった。