ユーリの膝の上で目が覚める。
「よく寝てたね」
耳に馴染む声が上から降ってきて、カラ松は眩しさを堪えながら徐々に瞼を持ち上げた。ユーリが耳にかかる髪を指で掻き上げながら、カラ松を見下ろしている。
「…ユーリ」
「カラ松くん、いつの間にか寝ちゃったんだよ」
眠ろうと決意した覚えも、意識を失いかけた記憶もない。つい今しがたまで別の場所で別の誰かと話をしていたような気がするのだけれど、夢だったのだろうか。
思い出すことがひどく億劫で、どうして自分がこの場にいるのかさえ曖昧になっている。
ユーリの家は居心地がいい。一人暮らし用の、松野家に比べれば猫の額のような広さの空間ではあるけれど、ユーリの息遣いを側で感じることができる距離感はむしろ心地良く思える。
「カラ松くんは好きなだけここにいればいいよ。カラ松くんが望めば、いつまでだってここにいていいの。
就職もしなくていい。私の側にいてくれるだけでいい」
カラ松の意識はまだ微睡みの中にある。彼女の膝の上から起き上がる気力さえ喪失していて、気を抜けばまた意識を手放してしまいそうだ。体に力が入らない。
「それをカラ松くんも望んでいたでしょう?」
甘く蕩けるような囁きだった。夢見心地とは、こういうことを言うのだろう。まるで夢みたいだ。
覚めない夢は、果たして夢なのか。もういっそ現実ではないのか。夢と言えば、一松と家の縁側で過ごす夢の映像がふと頭に浮かんだ。先程まで見ていた夢だが、何を話していたのだったか。
「私が、カラ松くんに側にいてほしいんだよ」
カラ松が長らく焦がれていた展開だった。
ユーリがカラ松を求める言葉を口にする。カラ松を欲し、独占欲を剥き出しにする。積み重なる睦言。
妄想の中で幾度となく繰り返されてきた光景が、今カラ松の前に提示されている。
「オレも───」
しかし、不意にカラ松の脳裏を掠めるものがあった。
ユーリの顔だ。仁王立ちで、自信に満ちた威風堂々たる表情の。
「…そう言えば、まだ伝えてなかったね」
耳に届くのは、追い縋るようなやるせなさに満ちた声音だった。頭に浮かんだ映像とは真逆のその姿に、どうしてか心が掻き乱される。
ユーリに心を奪われた時から、このような結末を迎えることを願っていたのは他ならぬカラ松自身だった。物語の終焉に相応しい、ドラマみたいな美しいハッピーエンド。
「待たせてごめんね。私はずっと、カラ松くんのこと───」
「止めろ」
「え…」
カラ松は手を振り払い、体を起こしてユーリから距離を取る。朦朧とする意識を奮い立たせ、拳を床に叩きつけた。鈍痛が覚醒を促す。
「止めろと言ってるんだ」
断固とした拒絶の意を以って。
「聞きたくない。例えユーリの姿で、ユーリの声だとしても、こんな風にしてオレは聞きたくない!」
自分に言い聞かせるためにカラ松は咆える。
確かに自分の望む姿そのものではあるのだ。素直で従順で、カラ松を頼ってくれる。カラ松の愛情を欲しいと口と態度で表してくれる。
でもそれは、ないものねだりだ。叶わないからこそ無責任に憧れていられる、ただの絵空事、遥か彼方にある幻。
本人でなければ嫌だ。カラ松が心の底から焦がれた彼女自身でなければ。
「オレはお前を受け入れない」
例え苦難の道のりしか待っていなくとも、ユーリの関心がいつか自分から失われても、自分はユーリを想い続ける。偽物ではない、本物のユーリを。
偽物に容易く心変わりするほど安い慕情と思うな。
「……そっか」
ユーリの姿をしたそれは、視線を落として悲しげに薄く微笑んだ。胸が締め付けられる。せめて本人にはそんな顔をさせないようにしなければと心に決めるのが、今は精一杯だった。
「私と一緒にいれば、カラ松くんが望むこと何でもしてあげるよ。仕事どころか家事だってしなくていいの。パチンコだって競馬だって好きにしていいんだよ」
カラ松は首を横に振る。
ユーリはカラ松を甘やかさない。ニートの自堕落を否定こそしないが、手放しで歓迎もしない。彼女の隣に立ち続けたいなら、変わらなければならないのは自分の方だ。ユーリがこちら側に堕ちてはいけない。
「それが…カラ松くんの答えなんだね」
「ああ」
刹那、窓の外に帳が下りて闇が空を支配する。玄関ドアは壁から伸びるチェーンで幾重にも覆われ、窓のクレセント錠がひとりでに落ちた。不穏な静寂が漂う。
音もなく立ち上がったユーリは感情のこもらない瞳でカラ松を一瞥した後、薄暗がりのキッチンへ向かう。
柔らかな空気は一変し、緊迫感に包まれる。カラ松は片膝を立てて臨戦態勢を取ったが、どこまで対処できるかは正直なところ未知数だった。
ユーリは引き出しから、普段料理に使っている包丁を取り出した。部屋の明かりを受けて鈍く光る。
「何を…」
猿夢の結末は自分の死。許容できないなら、抗わなければならない。
だからといって、相手が虚像であってもユーリの姿をした相手を返り討ちにはできそうになかった。拘束して身動きが取れないようにするのが関の山だろう。この世界はあまりにも現実に近い。
カラ松の逡巡はおそらく顔に出ていたはずだ。
「これでおしまい」
ユーリはクスクスと冷ややかな笑みを浮かべる。次の瞬間、彼女の手が動いた。
「さよなら」
彼女が切っ先を向けたのは、自分の喉元だった。
「ユーリ!」
カラ松は床を蹴り上げる。直線距離にして三メートルを飛び出し、手を伸ばす。間に合え。頼むから。
鋭い刃はユーリの細い喉を切り裂き、裂けた皮膚から鮮やかな赤が大量に溢れた。
───そして、暗転。
文字通り、カラ松は飛び起きた。
心臓が激しく打ち鳴らされ、視界は混濁している。息が上手く吸えなくて、大きく肩を上下させて少しずつ酸素を取り込む。眩暈がした。全身から血液がごっそりと抜き取られたみたいに、体が思い通りに動かない。
柔らかな皮膚に刃物の先端が埋まり血が吹き出した映像が、瞼の裏で鮮明に再生される。首筋を伝って流れる血液が服を濡らしていくのも、瞳から光が消える最期の瞬間にユーリが笑ったままだったことも、焼き付いて離れない。
「カラ松くん」
もう解放してほしい。どんな恨みがあって自分に無慈悲なシーンを見せつけてくるのか。
「カラ松くん!」
今度の呼び声は力強いものだった。肩が揺さぶられる。のろのろと顔を上げれば───そこには、ユーリがいた。
「……ユーリ?」
細い首に傷跡はない。血が噴出した形跡も、何も。
「良かった…起きてくれた…」
今にも泣き出しそうな顔でユーリは笑おうとする。
猿夢はまだ続いているのか。カラ松に一度は希望を抱かせ、今度こそ奈落の底に叩き落とすために。
「これからは私も一緒にいるからね。カラ松くん一人にはさせないよ」
カラ松は呆然とする。思考が事実に追いつかない。
「ハニー」
「うん?」
「…本物なのか?」
「夢に出てくる偽物と見分けがつかない?」
毅然と言い放たれる。
周囲を見渡せば、松野家二階のソファで自分は横になっていたらしい。ユーリが傍らに座り、カラ松の頬を撫でてくる。
「着信があったから仕事終わって折り返したら、カラ松くんの一大事だって一松くんに聞いて、飛んできたの。
私が夢でカラ松くん誘惑してるって言うから、その応戦をしに」
ユーリは拳をもう片手の手のひらに勢いよく打ち込んだ。スパンと破裂音が響く。
「無断で推しを奪う奴は自分であろうと敵と見なし、悪・即・斬が鉄則」
怖い。
問答無用で容赦がない。ああ、だからこその、ユーリだ。
「カラ松くんが他人に掻っ攫われるのを黙って見てるわけないからね」
カラ松に依存しない、縋らない、寄りかからない。だから得られないそれらを、カラ松は想像の中だけで無責任に渇望してきた。
本心から欲しているものは、いつだって目の前にある。
「カラ松くんが起きたってことは、まだ猶予あるんだよね?
今おそ松くんたちが電話でデカパン博士に何とかならないか頼んでるから、それまでは持ちこたえてくれるといいんだけど…」
一松から顛末を聞いたのだろう。ユーリは思案顔で顎に手を当てた。
強張っていた肩から緊張が解けていくのを感じる。ようやく息が自然に吸えるようになって、入り乱れていた考えが一つの塊となりつつあった。
「もう大丈夫だ、ユーリ」
あの時、一松にどうしても言えなかった言葉だった。
「もう猿夢の続きは起こらないと思う」
台本のないアドリブだらけの即興劇は、首謀者の退場という形で幕を下ろした。根拠はと問われると口を閉ざす他ないけれど、再び出演を要請されることはもうないだろうと、不思議なことにカラ松は確信している。
「そう…なの?本当に?」
「ああ。ちゃんと終わらせてきた」
間髪入れずに答えたら、ユーリの表情がぱぁっと明るくなる。
「じゃあ私、おそ松くんたちに言ってくるね!みんな心配してたし、喜ぶよ!」
ここで待っててと、カラ松を残して立ち上がろうとしたユーリの手を強引に引いた。バランスを崩した彼女の体を全身で受け止める。どさりと腕に落ちる肢体。
「カラ──」
「一瞬でも躊躇ってしまった自分を嫌悪してる」
ユーリを抱きしめながら、カラ松は小さく呟く。
「…いい夢だったんだ?」
「ユーリが言うはずのない台詞だと頭の隅では分かってた。なのに…」
ユーリが背筋を正し、カラ松の膝の上に座り直す。両腕が伸びてきて、カラ松の首の後ろで彼女は手を組んだ。
ユーリを抱きしめている格好なのに、抱きしめられているのはむしろカラ松の方。
「どうせ一生養ってあげるとか、私の金で競馬パチンコやり放題OK、ニート生活大歓迎とかでしょ」
「すいません」
よく分かってらっしゃる。
「でも無事に帰ってきてくれたから、不問にする……心配したんだよ」
ユーリが長い息を吐く。後半の台詞こそが彼女がカラ松に一番告げたい想いだと、分かった。
「おかえり、カラ松くん」
「ただいま」
この瞬間自分の前にいるユーリがいい。ここにいるユーリが───たまらなく欲しい。
ユーリを膝に乗せて腰に手を回したまま、カラ松は問う。
「というか、ハニーはオレのために無茶をしようとしてたのか?」
応戦しに来たと彼女は言った。事の成り行きを見守るのではなく、自ら参戦しようとしていたのだ。
ユーリはきょとんとする。
「私にとっては無茶でも何でもないよ」
「無茶だ。一歩間違えばユーリがターゲットになっていたかもしれないだろ」
物語の進行次第では、刃物を突きつけられていたのはユーリ本人だったかもしれない。手の届く距離にいたのに止められなかった罪悪感もまた、カラ松を呪縛する。
せめて一瞬でも躊躇してくれていたら間に合ったかもしれない。その反面で、彼女の死こそが猿夢に終止符を打つ唯一の手段だったとも考えられる。答えはもう、誰からも聞けないけれど。
「やってみないと分からないよ。仮にそうだとしても、私はカラ松くんを助けたいからどうにかしてそっちに行ったと思う」
「オレはユーリを傷つけたくない」
「私だってカラ松くんを傷つけるのは嫌。だからカラ松くんに危害を加えるような奴は、相手が私でも絶対許さないって決めてるの」
互いに譲歩する意思が皆無の堂々巡りだ。
カラ松のこととなるとやたら頑固で強情で、無鉄砲なことも平気でやってみせる。その度にカラ松は辟易して、彼女の意向に従うしか選択肢が残されていない。やれやれだ。
そして同時に、嬉しくて仕方ない。
首に回されたユーリの腕に、カラ松は顔をすり寄せる。甘える仕草に彼女は微笑んで、カラ松を優しく抱き寄せた。
「囚われたオレを救い出す、か……まるでヒーローだな」
ヒーロー役は是が非でも自分が務めたいと切実に願ってきたけれど、もういっそユーリに主導権を手渡すのも悪くないのではと思ってしまう。
ユーリは苦笑してかぶりを振った。
「そんな格好よくいられないよ」
「ハニー…」
「カラ松くん何しても起きないからすごく心配で焦ってたし、きっと助けに行っても必死で、なりふり構わずだったと思う。
ヒーローなんて名乗れない」
今落ち着いて見えるのは、カラ松が目覚めてくれたからだ、と。
しかし、それでも───
「それでもオレにとってはヒーローだ」
ユーリと共に階段を下りて居間に顔を出す。不安げに見つめてくる兄弟に終結を告げると、トド松を筆頭に全員がカラ松の胸に飛び込んできた。不意の抱擁に受け身を取れず、頭をしたたか壁にぶつけてしまったけれど、その痛みさえも喜びで相殺される。
斜め後ろでニコニコとユーリが機嫌よく微笑んでいて、その笑顔を見れただけでも救われる思いだった。
「バカ松!何で言ってくれなかったんだよ!心配させんなっ」
トド松は目尻に涙を溜めて。
「黙って一人で解決しようとか格好つけてる場合か」
チョロ松は腕組みをして呆れ果てたと言わんばかりの顔で。
「お疲れ」
一松は労いの言葉をかけてくる。
おそ松はテーブルに置いていたスマホを耳に当て、片方の手のひらをひらひらと振った。
「まぁデカパン、そういうわけだから。その装置もういらないわ。また何かあったらそん時はよろしく」
画面に指を滑らせて通話を切る。それからカラ松に向き直った。ニッといたずらっぽく笑う。
「おかえり、カラ松」
「…ああ」
全員が猿夢はもう勘弁といった独白を呟きながら席をつこうとする傍らで、十四松だけがきょとんとしていた。
「ねぇトッティ、さっきからみんなが言ってる猿夢って何?猿が出てくる夢?」
彼は不思議そうな顔で末弟に尋ねる。
「あのね十四松兄さん、猿夢っていうのはね───」
トド松はスマホで猿夢の元となった記述が掲載されているまとめサイトをスマホで開きながら、噛み砕いて十四松に説明する。
すると五男は、あ、と声に出した。
「ぼく今朝それとまったく同じ夢見たよ」
新たなる事件の予感。
全員が瞬間的に凍りついた。
しかし全くの眉唾と切り捨てられなかった。なぜなら今朝、彼はカラ松たちに自分が見た夢の導入部分を嬉々として語ろうとしていたからだ。野球をした後に電車に乗った、と。
「電車に乗ると怖い目に遭うよーって誰かに言われたんだけど、早く帰ってトレーニングしたかったし」
「ガチのヤツじゃん!」
「oh、じゅうしまーつ…」
かける言葉が見つからない。
「お前何で生きてるの!?」
失礼極まりない言い方だが、確かに。
十四松は袖口を口に当て、うーん、と記憶を手繰り寄せようとする。
「ひき肉~ひき肉~って言いながらぼくの腕掴むから、返り討ちにしたよね」
強い。
「あはー。でも土下座で謝ってきたから許してあげた。電車ごと壊しちゃったからぼくもごめんねって感じだったし」
「まさかの猿夢撲殺天使」
「猿夢ブレイカー」
不名誉すぎる異名。
松野家六つ子において、生死に関わる修羅場が僅か一日で二本立てで開催されるとは、一体誰が予想しただろうか。
「全員集合」
真顔の長男から緊急六つ子会議が招集される。円を作って顔を見合わせる六人。
「お祓い行く?」
「すぐ行こう」
「デカパンに獏作ってもらうわ、飼おう」
「悪夢を食うってやつ?いいね、今すぐ飼おう」
「結界貼るために陰陽師も呼ばないと」
「安倍晴明でいい?」
「アポ取れ次第平安時代に向かおう」
「お前ら落ち着け」
ユーリから真っ当なツッコミが入るが、誰も聞く耳を持たない。
こうして松野家に訪れた不可思議な修羅場は、十四松の思いもよらない暴露によって、騒々しいままに一応の終焉を迎えたのだった。