短編:観察対象は期待値の算出が難しい

「お二人を一日観察させてください」
オムスビがそう告げた直後、カラ松とユーリは唖然として数秒間言葉を失っていた。




数日後に漫才の舞台出演を控えたシャケとウメが、リハーサルに向かう道中のことだった。駅前という立地故にいつも程よく賑わっているカフェのテラス席に、ユーリの姿を見かけたのだ。
オムスビには、ユーリという人間の情報が少ない。ニートAIとして覚醒して以来、自分たちの目標達成を優先しており、六つ子との関わり自体が必要最低限だった。だから自分たちが初めてユーリと顔を合わせたのも、カラ松と彼女が出会って数ヶ月が経つ頃だったのだ。
カラ松と親密らしい一般女性。オムスビにとってユーリはその程度の認識である。

「ねぇ見てシャケ、ユーリさんだ」
最初に気付いたのはウメだった。
「本当だ。誰かと待ち合わせかな?」
ユーリが座っていたのは椅子が向かい合わせの二人席。テーブルには何も置かれていない。レジで注文した商品を受け取り自席に運ぶスタイルのカフェだから、一人で来たのなら即座に注文に行くなり動きがあるはず。
さらにヘアスタイルや出で立ちに時間をかけた形跡が見受けられる。そういった複数の要素から出した結論が、待ち合わせ、だ。
「ユーリさ──」
手を振って駆け寄ろうとしたシャケが、不意に立ち止まる。何事かと彼の背中から様子を窺ったウメは、あ、と声を出した。

カラ松がユーリの元へやって来たのだ。

トレイに二つのカップと一つのケーキを載せて。
トレードカラーを全面に押し出した定番の普段着ではなく、あきらかによそ行きと分かる服装だった。彼はユーリの向かい側に座り、トレイをテーブルに置いた。
「すまん、ドリンクに悩んで遅れた」
「何頼んだの?」
「トールアイスライトカフェモカエクストラミルクウィズキャラメルソース」
「呪文かな?」

「フッ、オレほどの男ともなるとカフェの注文も詠唱のように高尚になってしまうな。嫌でもオーディエンスの目を引いてしまう」
カラ松は髪を掻き上げて嘆く。
「まぁ、要はアイスのカフェモカにキャラメルソースを追加したヤツだ。旨いぞ」
「カフェモカって時点で美味しいの確定だね。後でちょっと頂戴」
ユーリは微笑み、トレイからカップとケーキを手に取る。
「ちなみにここでのトッティのオススメは、グランデチョコレートチップエクストラコーヒーノンファットミルクキャラメルフラペチーノウィズチョコレートソースらしい」
「上級魔法きたこれ」
毒にも薬にもならない、一時間後には忘却してしまうであろう程度の会話を楽しそうに交わす二人。
ウメとシャケは何とはなしに物陰に移動してカラ松たちの様子を窺った。十数メートルの距離はあっても、集音機能と読唇術で明瞭に聞き取れる。

「この新作、美味しい!カラ松くんも食べてみて」
カフェの期間限定ケーキに舌鼓を打ったユーリは顔を綻ばせた後、一口分をフォークでカラ松の口元に運ぶ。カラ松は自然に口を開け、ケーキを頬張った。恋人同士の間でよく見かけるやり取りである。
「うん、旨いな。これコーヒーに合うんじゃないか?」
「だよね!これ当たりだ」
ユーリは鞄からスマホを取り出し、トド松に写真を送信する。末弟とは近隣のカフェについて情報交換をしている仲らしい。
「あ、私ちょっとお手洗い行ってくる」
「オーケー、ハニー」
ユーリが席を立ち、カラ松は二本指で敬礼ポーズを取ってみせる。
店内に向かうユーリの後ろ姿を、カラ松はテーブルに頬杖をついて見つめていた。目を細め、緩やかに口角を上げて、彼女の姿が見えなくなっても、ずっと。ユーリ以外の人間は目に映っていないとでも言うように。
「デートかな?」
シャケが尋ねる。
「うん、どうもデートっぽいね」
「でもデートの定義に当てはまるかな?」
「じゃあお互いに異性の友人として遊んでるだけってこと?」
「そうは見えないよね」
堕落維持のためならいかなる障害も排除してニートを正当化する六つ子の人間性は自分たちでさえ熟知している。ユーリが知らないはずがない。その上でカラ松とどのような意図でどのような関係性を構築しているのか、非常に興味を引かれる。
「本人に聞いてみよっか?」
「当事者の発言ほど信憑性に欠けることはないよ。自分の目で見た方が確実だ」

じゃあ観察しよう。

その結果の、冒頭の発言である。




「却下」
そしてオムスビの提案は、即刻カラ松によって拒否される。眉はつり上がり、不愉快さを隠そうともしない。
松野家の二階にカラ松とユーリが揃っていると聞いて、シャケとウメは頭を下げに来たのだ。物理的には下げてないけれど。ソファに座る二人の前に正座はした。
「どうしてですか?お二人が出掛ける時に後ろからついていくだけです」
「その提案を喜んで許可する奴は頭おかしいだろ。可愛いブラザーの頼みでもこれは駄目だ」
カラ松は足を組み直して断固拒否の構えだ。ユーリが絡むと人が変わると他の六つ子に忠告されていたが、こういうところかとオムスビは納得する。
対してユーリはというと、苦笑するだけだった。嫌がるというよりは、困惑しているだけ。現状打破の鍵はユーリが握っていると判断し、ウメとシャケはターゲット変更を決意する───その矢先。
「何で私たちについていきたいの?」
「ユーリ」
「まぁまぁ、話ぐらい聞いてみようよ。ひょっとしたら納得できる理由があるかもよ」
「わけの分からん提案に説得力のある理由があるとは思えんが…」
嗜めるカラ松を笑顔でかわし、ユーリの視線がオムスビに向くので、ウメが口火を切る。

「童貞職歴なしニート穀潰し同世代カースト圧倒的最底辺かつ暗黒大魔界クソ闇地獄カーストの住人かつ厨二病サイコパスナルシストに惹かれる根拠が分からないんです」

「お前ら、オレに何の恨みがあるんだよ!」
カラ松は咆哮し、ユーリは絶句した様子だった。
「あ、補足いいですか?」
「え…ああ、はい、シャケ。どうぞ」
ユーリが発言の許可をするので、シャケは頷く。
「加えて、二十歳を超えた社会人として長所と呼べるところは一つもない。強いて言うならおだてられるのに弱い、つまり豚もおだてりゃ木に登るくらいじゃないですか、カラ松さんって」
「ボロクソすぎる」
「ほら、だから言っただろ、ハニー!頼み事という体でオレのメンタルかち割りたいだけじゃないか、こいつら!」
カラ松は声を荒らげる。ユーリはフンと鼻を鳴らして腕を組んだ。今度こそ、不愉快だという感情を体で示す。
「…うん、ごめん、私が悪かった。聞き捨てならない言葉を最後まで言わせたせいでカラ松くんを傷つけたのは、私が悪い」
苛立ちを含んだ静かな声は、オムスビに対してというよりは不甲斐ない自分へ矛先を向けているようだった。
「ユーリ…?」
「推しへの冒頭は許さないんだよね、私」
ふふ、とユーリは小さく笑い、すっくと立ち上がった。

一挙手一投足がフェロモンの塊で、可愛さと格好よさが絶妙な黄金比で成立してる生きるエロスであり、イケボとイケてる顔面持ちの当推しの、どこに魅力を感じないって!?
格好つけようとして尚更可愛さが加速するからもう可愛すぎる罪でお縄になるレベルだからね!
こちとら自宅に持って帰って抱き潰してぇんだよ!分かれ!

盛大なる心の叫び。先程までの愛嬌のある笑みは完全に消失し、見開かれた目は血走っている。
どうやら屈折した諸々があるらしいとオムスビは察する。ユーリの意外な一面を見たことで、幻滅するどころか一層関心を持つに至ったが、それ以上に興味を掻き立てられたのは───カラ松の反応だった。
「は、ハニー…その…そういうシャウトは止すんだ。唐突に言われたら、あの…オムスビが戸惑うだろ」
カラ松の顔はさながら茹でたタコだった。
「だってカラ松くんの長所ないとかオムスビが言うから!」
「わ、分かった、分かったから……オレが限界だから止めてください
片手で顔面を隠そうとするが、当然片側しか隠れない。カラ松がユーリに向ける感情は言うまでもなさそうだ。実に分かりやすい。第三者からも容易く想像がつくのに、ユーリは彼が突きつける想いに対して平然と対処している。それはなぜなのか。
「見た目だけじゃなくて性格だって…そりゃ六つ子の一味だからアレなとこ多々あるけど───相手の痛みを理解して、思いやれる人だよ」
毅然と放たれたユーリの言葉に、カラ松は目を瞠った。それから心底嬉しそうに、ふにゃりと相好を崩す。

「なるほど、少し分かりました。ユーリさんにとってカラ松さんは推しメンなんですね?」
「そうだね」
「恋ではないんですか?」
ウメの問いかけにギョッとしたのはカラ松だけで、ユーリは顔色一つ変えない。
「推しであっても、ガチ恋や同担拒否の人もいるからね。その辺は人によるとしか言えないかな。
私は推しを広めたいし、良さを知る人が増えてほしい派」
体よく誤魔化されたような気がしないでもない返答だった。

「ではやはり、一日お二人を観察したいです」
ウメとシャケは改めて顔を上げる。
「結論が唐突」
「お前らが来ると邪魔するだろ」
「後ろからついていくだけです、邪魔はしません」
「いるだけで邪魔になるんだ。オレはユーリと二人で出掛けたい」
「後悔はさせません」
「告白か」

「そういうのは期待値出せば解決する話じゃないの?」
インターネット上のあらゆるデータベースとオムスビ自らの知見をAIで総合的に判断する手法だ。効率がよく、おおむね正確な数値が弾き出せる。カラ松とユーリの言動、体温や脈拍の変化といった要因を加味すれば、まず回答に間違いないだろう。
「解決の最短ルートではありますが、ニートAIとなった今は闇雲に算出はしません。特に男女の機微については、大きな乖離はないにしろ数値からは見えないものも多い」
「僕らはその曖昧な部分を実体験で知りたいんです」

「漫才で客を掴むヒントになりそうだし」

シャケが余計な一言を口にして、一気に空気が変わる。カラ松の冷めた目線が突き刺さる。
「それが本音だろ」
「え、あー、今のは言葉の綾で───」
「ノンノン、ブラザー。オレを欺こうたってそうは問屋が卸さないぜ」
ああもう、とウメは少々苛立たしげにありもしない髪を掻く仕草をした。
「漫才は生物なんですよ。客層や前のコンビの結果次第で、別の会場では大ウケしたネタが外しまくることもあるシビアな世界なんだ。
人間観察して次に活かそうと思って何が悪いんですか?
「広くもない会場が無音になる恐怖は計り知れない」
シャケが続ける。
「帰れ」
腕組みの格好でカラ松は吐き捨てた。ユーリが絡むと反応がシビアになりがちだ。
両者一歩も譲らぬ攻防は長期化するかと思われたが、四人の中で唯一平常心を保っているユーリがオムスビに救いの手を差し伸べた。
「私は別に構わないよ」
「ユーリ!?」
何を言い出すんだと彼は驚愕を顔に貼り付ける。
「駄目って言ったら言ったで、見つからないように影からこっそり観察されるかもしれないでしょ。それならむしろ近くから見てもらう方が気が楽だよ」
「お二人が頑なに拒否されるようならその方針でした」
妨害のない二人きりの密な空間の中で行われる行為の方がより正しいデータとなる。
しかしさすがに道徳に反するだろうということで、最終手段まで格下げされた案だった。
「ほらね?」
ユーリは呆れを顔に表しつつ、カラ松に声をかけた。彼はなおも不満げにしかめっ面をしていたが、やがてユーリの愛らしい微苦笑顔につられて少し笑う。
「……今回だけだからな」
ようやく得られたイエスの回答に、ウメとシャケは顔を見合わせた。

あ、とユーリが声を出す。
「その代わり、交換条件があります」
ソファから下りてオムスビと目線を揃えた彼女は、右手の人差し指を立てた。
「交換条件?」
「そう。ウメとシャケにはすごく簡単なことだよ」
ニッと笑ってユーリは言う。

「同行中は当推しの動画をノーカットで余すところなく高画質で撮り、終了後はすみやかに私が伝えるクラウドにデータ保存すること」

「っ、ハニー!?何て!?」
「分かりました。そのくらいお安い御用です」
「オムスビ!?」
カラ松は慌てふためき、忙しなく視線を左右に向け、やがて観念したように片手で顔を覆った。彼が長い溜息をついている間に、オムスビとユーリの間で協定が結ばれたのである。




決行日は、デート日和の晴天だった。オムスビたちがカラ松に同行して駅へ向かうと、ほどなくしてユーリが足早に駆け寄ってくる。どちらも先日カフェで見かけたようなオシャレをして、にこやかに挨拶を交わす。

「いいかオムスビ、絶対に間に入ってくるんじゃないぞ。プロミスを違えた時は容赦しないからな」
カラ松は腰に片手を当て、蔑むような目つきでウメとシャケを牽制する。
「お二人の主観に関しては対処しようがありませんが、物理的にという意味でしたら約束しますって。このくだり何回目ですか、面倒くさいなぁもう
「オレは釘を刺してるだけだ」
「ちょっと、合流した直後から一触即発の空気止めて。一番面倒くさく思ってるのは私だぞおい


オムスビに対しては仏頂面のカラ松だが、ユーリには穏やかな微笑みを向ける。それこそ松野家では一度だって見たことない、興が乗って機嫌よく兄弟と会話している時でさえ作ったことのない、至福と表現して差し支えない顔だ。人間は顔のパーツの動かし方と強弱一つで、垣間見える感情がまるで違うものになる。
カラ松の要望通り、ウメとシャケは彼らから一定の距離を取って後ろに続いた。ときどきチラチラと窺うような視線を向けてくるのにも気付かないフリを装う。
「二人が気にしないでって言ってるんだからさ」
「しかし、気にするなと言われても土台無理な話じゃないか?」
顔をしかめるカラ松に、ユーリは間髪入れずに答えた。

「カラ松くんは私だけ見てればいいよ」

意図的に口にされた台詞だとウメは判じた。口が開く直前に細められたユーリの目には、愉悦が確かに含まれていたからだ。迷いなく毅然とした強い言葉は、年齢=彼女なし歴の童貞の心など容易く奪いかねない。
案の定、カラ松は面食らって耳を赤くする。
「…は、ハニー、そういう台詞をオレから奪わないでくれないか?立つ瀬がない」
「格好つけて言ってるわけじゃないからね。ウメとシャケは私が気にしておけば問題ないでしょ」
「だから、そうは言ってもだな───」
カラ松は苦笑して反論しようとするが、ふと立ち止まり、左手を素早く傍らのユーリ側に伸ばした。服の上から微かに彼女の腰に触れる。
「ユーリ」
低めの声で名を呼び、彼女と目を合わせる。
「…あ、そっか。ありがと」
ただそれだけのやり取りで、ユーリは彼の意図を察したようだった。ユーリはカラ松と立ち位置を変わり、ユーリが歩道側に立つ。
直後、カラ松の側を大型トラックが制限速度を超えたスピードで通り過ぎた。遅れて訪れた強風に彼の前髪は舞い上がるが、指を櫛代わりにさっと撫で付けてやり過ごす。
「気付くのが遅くなってすまん」
「そんなことないよ」
にこやかに答えてから、ユーリは後ろを振り返った。
「二人も大丈夫だった?あのトラック危なかったね」
「なぜですか?」
「え?」
言動で推測は十分可能だが、念のため意思も確認しておきたい。邪魔はしないと言ったが、対象から声をかけてきた分にはノーカンだ。
「今のカラ松さんの行動原理を教えてください」
「行動原理…」
「歩道側を譲ること、六つ子のみなさんにはしませんよね」
目配せの時点でユーリが認知したことも、その行為が日常的に繰り返されてきた事実を物語る。阿吽の呼吸というヤツだ。
「そりゃブラザーにはしないが…」
「なぜユーリさんだけなのですか?」
あからさまに動揺するカラ松。傍らでは訳知り顔のユーリがしれっと目を逸らしている。
「そ、そういうのをいちいち言うのは野暮だろ」
「それを知るための観察です」
ウメとシャケがじっとカラ松を見つめると、彼は羞恥と不愉快が混じった顔で睨み返してきたが、やがて根負けしたように口を開いた。

「…オレといる間は、危険な目に遭わせたくないからに決まってる」

ああ、やはり。
ウメは腑に落ちる。
「危ない目には遭わせないし、怪我もさせない。オレが怪我すればユーリが無事でいられるなら、代わりにだって喜んでなる。護衛を気取るつもりはないが、そういう覚悟は常にある……って、も、もういいだろ!ああもう、だから言いたくなかったんだ!」
カラ松は顔を赤くして咆える。
オムスビに背を向けて再び視線を戻したその先で───ユーリは微笑んでいた。
「…何だ、ハニーまで」
「ううん、何でも…ふふ」
「笑ってるじゃないか」
「ニコニコしてるって言ってほしいなぁ」
ユーリの笑みは優しい。カラ松からの八つ当たりも平然といなすので、向けた当人も毒牙を抜かれて次第に同じような表情になる。

「行くぞ、ブラザー」
そう言ってウメとシャケに背を向けた彼らは、あと数センチ近づけば手の甲が触れ合いそうなほどの距離になっていた。




次にオムスビを驚かせたのは、ユーリの変貌だった。

「カラ松くんってほんと似合う服多すぎ!
スタイルがいいからシルエットにはメリハリつけた方が断然イケてるし、何ならスタイル強調する服でも全然見栄えするのに、敢えてのオーバーサイズも似合うって何!?
抜け感で無自覚天然エロスを演出ってこと!?何それ最高すぎる、時代が推しに追いついた」
矢継ぎ早に語るユーリの様相は完全にオタクのそれだった。
双眸はいつにない輝きを放ち、次から次へと服を運んできてはカラ松に手渡して試着を強要する。彼が着替えるたびにスマホを構え、シャッター音が店内に響いた。ユーリの姿を奇異の目で見る者もいたが、大概は目を細めて微笑ましそうに眺めるだけだった。大好きな彼氏の服を楽しそうに選ぶ彼女という認識だったからだろう。
「オレが服を着るんじゃない…服がオレに着られるんだ。どんなクローズもそつなく着こなしてハニーを魅了してしまうとは、オレもギルティな男だぜ」
当初こそ気障ったらしく受け止める余裕を見せていたカラ松も、高いテンションで息をするように賛辞を垂れ流すユーリの勢いに飲まれ、言葉数が減るに従って頬に差す朱が濃くなった。
「ユーリ…分かった、分かったから、そのキュートなボイスのボリュームを少々ダウンさせてはくれないか。オレがいたたまれない
カラ松が今試着しているのは、腰回りを絞ったオフホワイトのタートルネック。総合的に鑑みて『似合う』と判じて差し支えないデザインとサイズ感である。ユーリは的確に彼に合う服を選んで持ってくる。

「ユーリさんはカラ松さんの良さを世に広めたいという考えですか?」
シャケが訊くと、彼女は強く頷く。
「うん、布教もしたい。
カラ松くんは露出に走りがちなんだけど、分かりやすい露出のエロスは面白くないの。本人無自覚のさり気ない露出にこそ色気は宿るから!
私はその限界に挑戦してる、と拳を握る。
なるほど分からん。
「推しの良さは世界的に広まっていいと思うんだよね」
「こういうのって、自分以外には見せたくない心境になるものじゃないんですか?」
いわゆる独占欲だ。執着と言い換えてもいいかもしれない。
「そういう人もいるね」
「ユーリさんは真逆ですよね」
シャケが言うと、彼女は我が意を得たりとばかりに双眸を輝かせる。
「だって本当に最高なのに、世に知らしめないって失礼だよ。いいものを広めたいと思うのは自然だと思うけど」
「他の女性に興味が移ったら悲しいんじゃないですか?」
さり気なく核心を突いてみる。この時の反応までの時間と顔色などに不自然な点があれば、動揺した証拠と受け取れる。ウメは目を光らせた。
だがユーリは薄く笑みを浮かべるだけだった。虚をつかれたような感じはまるで見受けられない。
「実際そうになったら一緒に過ごせる時間が少なくなるけど…でも……ほら、ねぇ」
曖昧に濁しながら、試着室の中のカラ松をカーテン越しにチラリと一瞥する。

「カラ松くんは、ないと思うんだよね」

ユーリはどこか居心地が悪そうに自分の首に手を当てる。
「と言うと?」
「んー、自分で言うと自意識過剰な感じがするからなぁ。ここはノーヒントで」

その視線の先には彼がいて。
カラ松を見ていれば分かる───彼女が言いたいことは、何となく察したのだった。




「ストライクなんて余裕ですよ」
座席に座りながらシャケが前髪を横に払う真似をする。天井近くに設置されたシャケのスコア画面には、ストライクを示すマークが五つ横並びだ。

カラ松とユーリはボウリング場にやって来た。引き続き観察に徹しようと思っていたオムスビに参加を打診したのはユーリだった。人数が多い方が盛り上がるからと、理由は至極単純なもので───結果、ウメとシャケがストライクを連発してカラ松の見せ場を奪っている。
ピンを倒せばいいだけのボーリングは、自分たちにとって容易なことだ。床や球の状況といった外的要因を把握し、球の回転とスピードを調節すればピンは倒れる。答えの決まっている計算式を解くようなものだ。
「オレの活躍の場は!?」
憤慨するカラ松のスコアも決して悪くはない。表示されているのはストライクにスペアといったマークか高い数字のみである。動揺によるフォームの乱れがなければもう少し高い数値を示せただろう。
「格好いいところを見せてユーリさんを惚れ直させたいんだよね」
「これは分かる」
「猿でも分かる」
ウメとシャケは顔を見合わせて頷き合う。カラ松の眉間に一層深い皺が刻まれた。ユーリは曖昧に笑う。
「二人ともすごいよ。でも残念…私、ただ相手を持ち上げるだけのステレオタイプじゃないんだよね」
自身のボールを手にして、彼女は不敵にほくそ笑む。

「私もガチでやるから」

見本のようなフォームで投げられた球は僅かなカーブを描いた後、全てのピンをなぎ倒した。ディスプレイに表示されるストライクの文字。オムスビとカラ松はスッと立ち上がる。
「オーライ、ハニー。オレに勝負を挑んだことを後悔しても知らないぜ」
「僕の敵じゃないですね」
「一ゲームでけりを付けてあげます」
勝負の幕が開けた。


一ゲームの個人戦。最も得点が低い者が敗者となり、敗者は勝者三名にジュースを奢る罰ゲームに決まる。
こうなるともう全員が無駄な出費から逃れるために思いやりや優しさといった相手への気遣いは完全に失われ、いかに敵の足を引っ張りスコアを下げるかに意識が集中する。
「お手並み拝見と言いたいけど、ストライク以外あり得ないよね?」
カラ松投球時、ユーリは顎を上げて煽る。
「ガター出せ、ガター!」
「勢いだけのゴリラは群れに帰れ!」
ウメとシャケに至っては拳を振り上げて野次を飛ばす。
ストライクを決めると罵詈雑言やブーイングの嵐。他のレーンが和気あいあいとボウリングを楽しむ中、賑やかなBGMに紛れて暴言が飛び交う自分たちのレーンはさぞかし異様な空気だっただろう。
連続ストライクで優位と思われるオムスビも、目隠しを強要されたりとハンデを負うことでスコアは大きく下落した。
得点は一進一退で、画面には百を超える僅差の数値が縦に並ぶ。

そして、ついに訪れた最終フレーム。不運にもユーリのピンは左右に一本ずつが並ぶ、スネークアイとも呼ばれる高難易度のスプリットが待ち受ける。プロボウラーでも成功率一%以下と言われ、実力だけでなく運の味方も必要だ。右端を狙い、ピンアクションでもう片方も倒す方法が一般的だが、如何せん難易度が高すぎる。
彼女はいつになく真剣な顔つきで前方を見据えた。オムスビとカラ松は固唾を飲んで見守る。
大きく息を吐き出すや否や、ユーリは大きく腕を振りかぶった。
結果は───


「クソが!」
阿修羅の如く顔を歪めたユーリが吐き捨てる。
彼女の最後の投球は空振りに終わり、ウメとシャケが一位二位を独占し、カラ松がそれに続く順位となった。結果こそ振るわなかったけれど、ユーリも健闘した方だ。
「お前ら全員タンスの角に足ぶつけろ」
「実質痛いのオレだけじゃないか」
カラ松が呆れ顔になる。
「オムスビには漫才スベリ続ける呪いをかける」
「AIロボットに非科学的な呪術で精神攻撃を仕掛けようとしても無意味ですよ」
「何それっ、可愛げがない!」
ユーリは自分の膝に拳を叩きつけた。
「善戦だったぞ、ハニー。特にオムスビの戦力を削ぎ落とす狡猾な手法はなかなかのものだった
それたぶん褒めてない。
ユーリは苛立たしげにくしゃくしゃと髪を掻き回した後、オムスビたちに視線を向けた。
「リベンジする。順位と得点差によってハンデつけて第二試合いこう」
それからカラ松に向き直る。
「で、何のジュースがいい?」
「一緒に行こう。自分で選びたい」
「三人ともめんたいコーラでいいよね」
「罰ゲームの意味をよく考えるんだ、ユーリ」
辛子めんたいコーラは実家の畳の味がすることで定評のあるジュースだ。コーラらしく炭酸もしっかりあり、喉が痺れる不快な痛みを感じるらしい。
苦虫を潰したような表情だったユーリは、カラ松のツッコミを受けて相好を崩す。つられてカラ松も顔を綻ばせ、彼らは一様に笑った。
そこに禍根は、ない。

「悔しくないんですか?」
純粋な疑問を投げかけた。
「何を?」
「リベンジと言う割には、次で絶対に見返してやろうという意気込みがもう感じられません」
カラ松とユーリはきょとんとして、示し合わせたみたいに互いの顔を見合った。
「これはゲームだろ」
「ゲーム?」
「真剣勝負はゲームを楽しむスパイスさ。わだかまりを残すのは二流のやることだ」
カラ松は腰に手を当て、意気揚々と語ってみせる。ユーリは答えなかったが、カラ松の回答に意義を唱えないところを見るに、同意見らしい。
「ハンデどうしよっか?カラ松くん左手で私は15ポンドとか?」
「翌日ハニーの腕が筋肉痛で使い物にならなくなるぞ」
「じゃあ13」
「そのハンデがフェアかの検証をしてからだな。ユーリの腕を痛めるようなハンデはリジェクトだ」
カラ松は球置き場から15ポンドを軽々と持ち上げ、首を傾げた。プロボウラーの半数以上は15ポンドを使っていると言われているが、七キロ近い重さは慣れない女性には適切ではないだろう。
「あ、じゃあカラ松くんは両手投げっていうのは?」
「ダサいフォームは嫌だ」
間髪入れずに拒絶の意を示すカラ松。検討の余地はないようだった。



日が暮れて世界が褐色に染まる頃合いに、オムスビたちは帰路に着く。夕飯はどうしようかと不意に投げられたユーリの言葉に、カラ松はハッとして彼女を見やる。何かを思い出した、そんな顔だった。
「オレとしたことが、マミーからのメッセージがあるのを忘れてたぜ」
嘆かわしいとばかりに溜息をつき、カラ松はゆるゆるとかぶりを振る。いちいち仕草が大袈裟だ。
「今夜は鍋をするから、良かったらハニーも食べていかないか?」
「え、私も?」
「一人二人増えたところで大して変わらないからだそうだ───もちろん、帰りは家まで送る」
「行く行く!喜んで!」
ユーリは両手を合わせた。

「カラ松さん、ユーリさん」
彼の言葉を遮ってウメが二人に声をかける。
「どうしたの?」
普通の女性だ、とウメは思う。
異性を惹き付けてやまないような魔性の華も、六つ子を統べるだけの特殊な身体能力やスキルもない。
けれど、カラ松が彼女に焦がれるのも理解できないわけではない。軽やかに見かえて冷静に進路を見定めている気骨のある人。時には強い口調で反論もするものの、一心にカラ松の幸福を願い、彼の笑顔を喜びとする献身さも窺える。真っ向から必要とされ支えられ続けて、惹かれないわけがない。

「今日はデートだったんですか?」
だから訊いてみる。答えは既に出してはいるけれど。
「デっ…!?…な、何を言い出すんだ、ブラザー!?」
カラ松が挙動不審になるのも予想の範囲内である。暗黙の了解とばかりに曖昧にしたがるのはなぜなのか。
「デート…」
ユーリは不思議そうにオウム返しをした。オムスビの出方を窺う巧妙な返事だ。回答はそれ次第だと言われた気がした。
「デートの定義は『好意を持っている相手とあらかじめ会う約束をして、二人で親密な時間を過ごすこと』です。
今日の外出はこの定義に当て嵌まるとお二人はお考えですか?」
カラ松の顔が一層赤くなる。
「え、その、それは───」
態度はこれ以上ないほど明瞭なのに、彼は言葉を濁そうとする。
しかし今回の躊躇はほんの僅かな間だった。腹を括ったのか、それとも無駄な足掻きと諦めたのか。いずれにせよ眉をキッとつり上げて口を開いた。

「デートだ」

きっぱりと放たれた言の葉。
「少なくともオレはそう思ってるし、これまでも思ってきた」
一方通行を示唆する表現だった。確信のない不安が微かに混じるのに、迷いはない。
「私だって、デートの意味くらい言われなくても知ってるよ」
カラ松の返事を受け、ユーリは呆れたように笑った。こめかみにかかる髪を人差し指で後ろに払う。「その上でのデートだよ、っていうのが私の答えかな」

その言葉を聞くや否や、カラ松はパッと表情を変えた。あまりにあからさまな変化は、理由を尋ねるのも馬鹿らしくなるほどだ。
「ユーリ…っ」
感極まるという表現が似つかわしい。今にも彼女の胸に飛び込んでいきそうな、そんな空気さえ醸し出していた。


判断に値する十分なデータは収集できた。期待値は出すまでもない。彼らがなぜこの関係に甘んじているのかは謎だけれど。
そんなことより、例のデータの撮れ高はどうなった?」
ユーリは突如真剣な顔つきでオムスビににじり寄る。ウメの目配せで、シャケが自身の腹のディスプレイの電源を入れた。画面には、スニーカーを履いて玄関を出るカラ松が映し出される。
「玄関スタートより余すことなく。恥じらう姿や笑う姿は自動ズームで撮影済みです」
「でかした」
ユーリは膝を叩く。
「教えていただいたクラウドにアップロードも完了しています」
「褒めて遣わす。さすがはオムスビ」
シャケの腹にうっとりと魅入るユーリを尻目に、ウメはカラ松の傍らに移動して一枚の写真を彼に手渡した。
「カラ松さんにはこちらを」
「は?言っておくが、オレはお前らに買収なんてされ───」
しかしその言葉が最後まで吐き出されることはなかった。ウメが渡したのは、ユーリが大きく口を開けて破顔する写真だ。太陽の光を受けて髪はきらめき、溢れんばかりの笑顔。切り取ったワンシーンには躍動感も感じられ、美しい絵だった。

「カラ松さんの言った冗談に対する反応時のものです」

カラ松はウメの手から写真を引ったくると、しばらく無言でじっと凝視していたが、やがて首から上をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げていた。
「…ま、まぁオレはジョークは上流紳士さながらのウィットに富んだものだからな。ハニーを笑わせるくらい造作もないんだ、分かるか、ブラザー。
だからこの写真をオレに渡したことはユーリには黙っておくように、アンダスタン?
顔を接近させてそう言い含めると、カラ松は繊細なガラス製品を扱うように胸ポケットに収納する。
「似た者同士だな」
「何か言ったか?」
「いいえ」


二人と別れ、ウメとシャケは松野家を去りながら溜息をついた。
「漫才の参考にはならなかったね」
「ね」
徒労に終わった一日を返せと思うのは、むしろオムスビたちの方である。アスファルトに伸びる長い影からさえ、途方もない疲労感が色濃く見えたのだった。