「ねぇユーリちゃん、ウミガメのスープやらない?」
松野家二階で、トド松くんがいたずらっぽい笑みを投げかけてきた。
「いいよ。どっちが出題側?」
私は彼の誘いに乗る。
麗らかな休日の午後、全開の窓から微風が流れ込んでくる室内で、私と六つ子は他愛ない会話を交わしながら心地良い時間を過ごしていた。七人もいると話題はとっ散らかり、グループも複数に跨ぎ、内容によっては不参加の意を示して好き勝手する者も出てくる。フリーダムという名の混沌が室内を支配するが、慣れると一向に気にならない。
末弟の誘いは、話題が途切れ、何気なくスマホのディスプレイに視線を落とした矢先だった。
「ハニー、そのウミガメのスープとかいうのは何なんだ?」
カラ松くんが上半身を乗り出して訊く。私とトド松くんが並んで座っているソファの肘置きに、彼は腰掛けていた。
「水平思考クイズだよ」
「すいへいしこう?」
「出題者がクイズを出して、回答者は出題者に対してイエス・ノー・関係ありませんのどれかで答えられる質問をして、答えを推理していくの」
私たちが当たり前と認識してる常識や固定観念にとらわれない柔軟な思考が要求されるため、発想力の強化にも使用される。いち早く固定観念を取り払い、ひらめくことができるかが鍵となる。
きらりと、カラ松くんの目の奥が光る。
「ほぅ、推理ゲーム。つまり回答者はディテクティブというわけか。いいだろう、犯人を追求して真実を導き出すこの松野カラ松の手腕、とくと刮目するといい!」
両手を広げてどんな難問もウェルカムの構え。理解力磨いてから出直してこいといった暴言がうっかり口から出かけたが飲み込んだ。私ってば気遣いができる子。
「じゃあユーリちゃんとカラ松兄さんが回答側ね」
トド松くんは兄の演技がかった仕草を華麗にスルーし、スマホで問題を検索する。
「あ、これなんか良さそう。いくね」
彼は画面に表示される問いを読み上げる。
『男「チョコレート九個しか入ってない」男はとても困った。一体なぜ?』
私の脳内にイメージ映像が構成されていく。学校または職場の下駄箱を覗いた男は、大量に放り込まれたチョコレートを見て愕然とする。包装紙も形もバラバラで、全てが異なる相手からのプレゼント。
しかし既に固定観念に囚われていると気付き、私はかぶりを振った。質問を開始する。
「その日はバレンタイン?」
「イエス」
背もたれに頬杖をつくトド松くんが、即座に答える。
「男以外の人は出てくる?」
「ノー」
「数は関係ある?」
「ノー」
「チョコは女の子から?」
「イエスかな」
九の数字に意味はない。そして登場人物は男性のみで、チョコは異性から。妙な点は何一つ見当たらない自然な光景だ。私は唸る。
「バレンタインに女の子からチョコ貰っといて困るとかどこの一軍様だよ」
カーペットにあぐらをかいていたおそ松くんが盛大に舌打ちする。顔は不愉快さを隠そうともしない。
「九個じゃ不服ってヤツ?
俺は校内じゃ名の知れた人気者なのにチョコが二桁ないなんて、っていう愚痴聞かされてんの?それ何て言う茶番?物理的に潰そうか?」
チョロ松くんが筋を浮かせた拳を握りしめる。止めたげて。
「チョコアレルギー発症するまで食わせる案も候補に入れといて」
「処す?そいつ処す?」
四男五男もノリノリだ。外野が尋常でない盛り上がりを見せ、回答者はすっかり蚊帳の外である。
そんな中、カラ松くんが訳知り顔で指を鳴らした。
「オーケーオーケー、ナイストライだブラザー。お前らの言葉で謎は全て解けた。グッジョブ、ワトソンたち」
まさか、と私は面食らう。ぼんやりとした先入観が先行して答えへの糸口さえ掴めない私とは対照的な、得意顔のカラ松くん。
「そいつは数ではなく、ガールズから『直接』貰えなかったことが不服なんだ───全力で潰そう、遠慮はいらん」
私怨がすごい。
絶対違うだろと反論するのも煩わしく閉口していたら、スマホに目を落としていたトド松くんがハッと鼻で嘲笑した。
「うちの五人がいかにクズかを白日の下に晒してくれるね、この心理テスト。すごいわー」
「ただのクイズだよね?」
いつから心理テストに。
気を取り直して私は思考を再開する。
「場所は下駄箱?」
「イエス」
最初に想像したイメージに間違いはなかった。到着時または帰宅時に下駄箱を覗いたらチョコレートが詰まっている、ここまでは合っているということだ。
質問数は少ない方がスマートである。私は既に五つ問いかけている。問題文の短さから察するに、そう難解なものではないはず。
「バレンタインにチョコ九個しかないことに困惑する奴の気が知れないな……あ、待て、前言撤回しよう───チョコはユーリから貰えればそれで十分だ。他のガールズからいくらも貰おうが、ユーリから貰えないなら意味がない」
「ちゃっかり媚びを売るな」
おそ松くんからの正当なツッコミが入るが、カラ松くんはソファの背もたれに頬杖をついて素知らぬ顔である。
「そうなんだよね。何でチョコ貰って困……あ」
分かった。
「そっか…チョコ『しか』入ってなかったんだ」
私の解を聞くなり、トド松くんは指を鳴らす。
「正解」
「どういうことだ、ハニー?」
カラ松くんは首を傾げる。
「文字通りだよ。例えばその男の人が高校生だとして、登校してスニーカーから上履きに履き替えようとして下駄箱を見たらチョコしかなかった───上履きはなかったの」
あ、と彼の目が瞠られる。他の面子も同じような顔をした。
「何という叙述トリック!」
「先入観こわい!」
「スッとしたけど分かんなかった自分に腹立つっ」
両の拳を地面に叩きつけ、頭を抱え、声を荒げる。解答を提示されて納得するのは二流のすることだ。一流は限りなく少ない質問で答えに辿り着く。だからこそ面白い。
「トッティ、次は!?次こそ絶対解いてやる!」
チョロ松くんが腕を捲くる。一松くんや十四松くんは三男に同意し、体を末弟に向け直した。真剣な眼差しだ。
「じゃあ次はね───」
つい先程までバラバラだった全員の心は、今は一つだった。
翌週の休日、私は同じ場所にいた。前回と違うのは、室内にはカラ松くんしかいないことだ。
「先週ここでブラザーたちとクイズをしただろう?」
ソファに背を預けながら視線を天井に向け、記憶を手繰るようにカラ松くんが言った。私も同じことを口にしようと思っていたから、以心伝心なんて言葉が過ぎる。
結局先週はあれから一時間ほど水平思考クイズに興じた。軽率に質問を重ねていく者、問題を聞いただけで答えを導き出す者、自分の質問が他人へのヒントとなり手柄を奪われる者と、白熱した戦いが繰り広げられた。有り体に言えば、盛り上がったのだ。
「うん、楽しかったね。ライバル多いとより真剣になるし、負けられないって思っちゃう」
「イグザクトリー」
我が意を得たりとばかりにカラ松くんは背筋を正し、右手の人差し指を私に向けた。
「今日も少しだけやらないか?
あれからしばらくブラザーとの間で流行って、なかなか面白い問題もあったんだ」
嬉々とした目で誘われて、ノーと言えるはずもない。
『AとBの二人は同じものを食べて割り勘をする。食事を終えて会計を済ませると、Aの所持金は増え、Bの所持金は減っていた。Bはそのことに気付いていたが、Aを咎めるようなことはしなかった。なぜ?』
ふむ、と声を出して私は顎に手を当てる。
問題の流れは自然だ。会計を済ませるということは外食だろうが、そもそもこの認識が先入観の可能性も考えられるので一旦横に置く。突くべきポイントは、割り勘をして同額を支払っているのに所持金に差が出るどころか、増減が発生しているところだ。
「面白いね」
感想を口に出したら、カラ松くんは口角を上げた。
「だろ?これは是非ともユーリにも解いてもらいたいと思って、楽しみにしてたんだ」
声が弾んでいる。
「お店に払ったのは同額なんだよね?」
「イエス」
「んー…この支払いは、どちらかが不本意な結果?」
「ノーだ」
違うのか。これは意外だった。
「逆になることもある?
つまり、Aさんの所持金が減ってBさんが増えるっていうのは」
「イエス。起こり得る」
「言及されてないだけで、食事には実はどっちかに子供がいた?」
「ノー。食事は二人だった」
返事をするカラ松くんは答えを知っているだけあって得意げだ。胸を張って私と対峙する光景はなかなかに新鮮で、追い詰められていく思考とは裏腹に、私はこのクイズを楽しんでいた。
「えー、他に人いないんだ。なのに二人の支払いはイーブン?」
「イエスだが…この場合おそらくAの方が微妙に得してる」
そりゃ所持金が増えているのだから損はしていないだろう。なのに微妙、という表現はなぜなのか。前進していたつもりが、いつの間にか袋小路だ。店に同額支払っている限り、一方が増えるのは起こり得ないという認識が頭から離れない。
私はふるふると首を横に振った。
「答え教えて。全然想像できない」
「オーライ、ハニー」
カラ松くんは目を細める。どこか嬉しそうに。
「AはBからBの分の現金を受け取り、会計時に全額をカードで支払ったんだ」
ああ。自然と声が漏れた。その通りだ、何一つおかしくない。
カード決済までは脳裏を掠めたが、Bの分を現金で受け取るところまでは考えが及ばなかった。
「あーそうかー…そうきたかぁ」
「はは、ユーリもブラザーと同じ反応だ。質問側になると結構楽しいもんだな」
興に乗った顔でカラ松くんが言う。
してやられた。クレジットカードを所持しておらず一度も使ったのを見たことない相手から、カードが答えとなる問いかけをされるなんて。そんな認識もあり、上手く騙されてしまった。
「じゃ、次は私が問題出すね」
言外に悔しさを滲ませて、私は両手を拳にして握りしめる。カラ松くんは笑って頷いた。
「カラ松くんが登場します」
『カラ松くんは夜中に目を覚ました。他の兄弟もみんな布団で寝ているのに、カラ松くんがどんなに声を出しても動いても兄弟は誰も起きない。どうして?』
自分の名を出された彼は僅かに瞠目する。
「…オレが出るのか」
「より場の雰囲気がイメージしやすいでしょ?」
「とか言いつつ、固定観念から逃れられないよう誘導してるんじゃないか?」
疑わしげな視線が向けられた。推しのジト目おいしいです。もっとください。ずっと見ていられる。
「どうだろー」
「フッ、ハニーという美しい蜘蛛の糸に絡め取られる蝶になれ、ということか。それもやぶさかじゃないが、キュートなうさぎを捕食する獣にもなることを忘れてもらっちゃ困る」
「お互いにね」
クイズに戻る。
「オレが何をしてもブラザーが起きないということは、耳栓でもしてるのか?あ、いや待て、全員死んでる?」
初っ端から物騒な確認。さらっと言うな。
「ノー。死んでない」
「全員が結託してオレを騙そうとしてるからか?」
「ノー」
えー、とカラ松くんの口から溜息に近い息が吐き出される。腕組みをした格好で彼は天井を仰いだ。
「そもそもオレは生きてるのか?」
「イエス」
「イエスなのか…」
「夜中に目を覚ましたんだから、そりゃ生きてるよ」
私は答えてから、改めてカラ松くんを見る。
「───カラ松くんが死ぬのは冗談でも駄目。私が死なせない」
思いの外強い口調になってしまい、彼は唖然とした様子だった。推しの死は私の死だ。だから彼が少しでも生きたいと望んでいるなら決して死なせないし、希死念慮も吹き飛ばしてやる。
「ユーリ……」
「あ、ごめん、何か私の地雷だったっぽい。まぁとにかく、クイズの中のカラ松くんは生きてるから」
慌てて取り繕うも、カラ松くんの頬は朱が差したままだ。
「や…その…ユーリにそう思われてるのに驚いただけ、というか…」
ソファに置いていた私の手の甲に、彼の大きな手が重なる。滑らかな皮膚の感触と体温。
「オレが死ぬのはユーリの最期を見届けてからだ。その辺は安心してくれ」
その言葉の意味を悟れないくらい鈍くなくて良かった。
「私は老衰で最期を迎える予定だよ」
「あいにく、オレもだ。ハニーには悪いが、先に逝くつもりはない」
未来のことなんて何一つ分からないのにと悪態をつくことは容易い。
けれど妙な説得力を感じて、その決意に私の未来を預けてみようかなんて考えが浮かぶ。
「ふふ、その辺はまた今度、時間を取ってゆっくり話そう。襲いたくなっちゃうから危険だよ、カラ松くんの身が」
「オレが!?」
あなたが。
オチがついてからもカラ松くんはどこかふわふわした様子だったが、私に咎められて思考に戻った。
「マミーとダディは起きるのか?」
「ノー」
「オレ以外の全員は睡眠薬を飲まされて昏睡してる?」
「ノー。確かにそういう答えもありかもしれないけど、犯罪に近いことは何も起こってないよ」
よくもまぁ殺伐とした質問を思いつくものだ。次男、恐ろしい子。
カラ松くんは背中を丸めて唸る。もはや糸口となる質問さえ思い浮かばない、そんな態度だ。
やがて彼は溜息と共に両手を上げた。
「降参だ。分からん」
私の口角は自然と上がった。してやったりである。
「カラ松くんが寝てたのは私の部屋だったから」
彼が絶句するのが雰囲気で分かった。そして直後、眉をひそめる。
「それはズルいんじゃないか、ハニー?
先入観云々より、そもそもイメージしにくい光景を答えにするのはナンセンスだ」
「実際カラ松くんうちには何度も泊まってるし、そういう光景が今後カラ松くんにとって当たり前になるのだって、十分起こり得ることだと思うけど」
当たり前が変われば固定観念も変わる。
カラ松くんは一層顔を赤くして、唇を噛んだ。言い返したいが適切な言葉が出てこない、そんな体だ。
「……やっぱりズルいじゃないか」
「クイズが?」
彼は恨めしそうに私を一瞥して。
「───ユーリの言い方が」
それから話題が逸れて、しばらくはカラ松くんたちの近況に話が移った。
相変わらずいかに暇を潰すかに神経が注がれており、各々の暇の潰し方に個性が出てきたりと聞いていて飽きない。仕事しろ、という至極真っ当なツッコミは数十回ほど喉まで出かけたが、空気を読んで発言を控えた。一回だけうっかり反射的に言ってしまったが、まぁいい。
「ハニー、ウミガメのスープのリベンジがしたい」
再開は唐突だった。
「いいよ、出題者は?」
「オレだ」
「了解」
私は上半身を彼に向け、気合いを入れる。
『オレは長い間待ち望んだものを手にしたが、すぐに手元から離してしまった。一体なぜ?』
一人称がオレ。なるほど趣向返しというわけか。
「オレっていうのはカラ松くんのこと?」
「イエス」
静かに返ってくる肯定の返事。聞くまでもなかったが、念のための確認だ。
問題はひどく抽象的に思われた。具体的な何かを示す単語は一つも出てきていない。複数散らばっている曖昧な表現を合算することで明確な答えが出現する類だろうか。
「おそ松くんやおばさんたちに関係ある?」
「ノー」
「私に関係ある?」
「イエス」
躊躇はなかった。
「物質として存在するもの?」
「もちろんイエス。概念や感情といった抽象的なものじゃない」
「もう一度同じ物は手に入る?」
その問いに、カラ松くんは数秒沈黙した。私の質問は何がしかの的を射ているのかもしれないが、正解に近付いた手応えはまるで感じられないでいる。
「イエス…と言えるかもしれないが、厳密にはノーだろうな」
つまり、人によって微妙に認識のズレが発生するということか。
脳内に浮かぶイメージはおぼろげで、カラ松くんに私が何かを渡している。彼は喜ぶが、すぐに手放す。その物の正体は依然不明で、そもそも手渡しの行為自体が誤りの可能性もある。物質とは尋ねたが、認識違いでデータかもしれない。確認しておこう。
「データ?」
「ノー」
違ったか。
「大きい物?」
「ノー」
「カラ松くんの将来に関係ある?」
「イエス」
私がカラ松くんに手渡す物。彼が長らく待ち望み、けれど何らかの理由ですぐに手放してしまう物。
あ。もしかして。
「婚姻届?」
カラ松くんがニヤリとほくそ笑む。
「ワオワオワオ、コレクトだハニー。よく分かったな」
そして軽やかに鳴らした指を私に向けてくる。
「よっしゃ!」
私は右手で力強くガッツポーズを決めた。
「そっか、婚姻届か。面白い言い方するね。THE水平思考クイズって感じする。
待ち望んだっていうのがヒントだよね。養うとか仕事とかそういう未来に関わりそうな感じしたから」
「手元からなくなるのは役所への提出、というわけだ」
「座布団二枚くらい差し出したい」
正解した爽快感が頭の中を駆け巡る。今の私はきっと傍目にも分かるほど得意げな顔をしているに違いない。
だから、気付くのが遅れた。
カラ松くんが長らく待ち望んでいるもの。
彼の将来に関わるもの。
そして───私に関係のあるもの。
「……あ」
声が出た。
視線を向けた先では、カラ松くんが目を細めて私を見つめている。
「待ち望んでいるのは本当だ。イエスとノーで答えたこともオレの本心で、嘘偽りはない」
意地が悪い。クイズは名目でしかなかった。
「とはいえこれは、オレが問題を出し、ユーリが答えるただのクイズだ。単純明快。解答を導き出したのはユーリの思考で、オレは一切タッチしてない」
体のいい逃げ口上ではないだろうか。
「誘導尋問っていう反論は」
「そう言い切れる材料があるなら提示してみるんだな」
あるはずがない、そう言いたげな言葉。
私は長い息を吐く。
「カラ松くんの方に実現させる手立てがないうちは、待ちぼうけのままだよ」
私が告げれば、待ってましたとばかりに彼の目が輝く。ああ、私は結局どこまでもこの人を甘やかしてしまうのだ。突き放せない。
「このオレを誰だと思ってる?松野カラ松だぞ───必ず手に入れてみせるさ」
「いつになることやら」
「間もなくさ、乞うご期待」
少女漫画さながらの鬱陶しい双眸をしながら、彼は私の腰に手を回した。
さて、ズルいのはどっちだ。