性悪神父はかく語りき

「神父様、じゃあまたね!」
「はい、また来週お会いしましょう」

聖書を胸に抱えた神父は、見た者を虜にするような爽やかな微笑で、ミサを終えた子どもたちが元気よく聖堂を飛び出していくのを見送った。聖職者の出で立ちは、丈の長い黒のカソックに金色の刺繍が施された青のストラ、胸元には年代物のロザリオという、一般的な祭服だ。
古びたステンドグラスから差し込む色とりどりの光は、聖堂内を美しく彩る。幻想的な光を背負いながら神の言葉を語る神父は、まさに神の使いだ。
「シスターもバイバイ!」
「さようなら、気をつけてね」
私は神父の傍らに立ち、ひらひらと手を振る。黒い修道服に身を包む、神に仕え神父を支える者だ。
この教会でのミサは毎週日曜に行われている。信者でなくとも自由に参加できる開かれた集まりなため、暇潰しや興味本位で教会を訪れる者も多い。建物自体が華美でなく築年数も経っているが故に、扉を開けるハードルが低いのも要因の一つだろう。
とはいえ、割合としては敬虔な信者が多くを占めている。ミサでは毎回『聖体拝領』と呼ばれる、キリストと弟子たちが過ごしたいわゆる最後の晩餐を模し、キリストの体を受け取る儀式があり、神の体の一部であるパンを受け取れるのは信者に限られるためだろう。

「神父様!」
参加者の大半を見送ってさぁ片付けをと私たちが教会の中へ戻ろうとした時、若い男性が居ても立っても居られないと切羽詰まった様子で神父の名を呼んだ。私と神父は揃って振り返る。
「どうされました?」
穏やかな、何もかもを包み込んでくれそうな声音で神父が問う。
「…相談があります。その…最近、仕事も何もかも上手くいかなくて……僕が空気読めなくて鈍くさいのが原因なんでしょうけど…そんな僕でも、神様は見捨てずにいて下さるんでしょうか?」
要領よく立ち回れない要因に目星はついているけれど、不確かな未来への漠然とした不安に苛まれる。大丈夫だよ、そんなその場限りの言葉を求めて。
「神はいつでもあなたと共におられます」
神父は微笑んで言う。胸から下げるロザリオが、日光を受けてキラリと光った。
「───あなたの幸せも願っておられますよ」
彼が望む言葉を、代弁者として告げる。

「こんな言葉があります。
『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである』と」

現状を悲観するのではなく、これからの未来に楽しみや幸福を見出す視点を持つこと。視点が変われば意識と行動が変わる。人は変えられずとも、自分は変えられる。
物事を見る枠組みを変えるのは、心理学でも用いられる珍しくない手法だ。
「……はい!ありがとうございますっ、頑張ります!」
みるみるうちに晴れやかな表情になった青年は頭を下げ、町へと駆け出していく。私たちは笑みと共にその後ろ姿を見送った。


「…ユーリ、今日の献金はいくらだ?」
教会から人気がなくなったのを確認した後、神父は声のトーンを落として私に尋ねる。スッと微笑を消し、億劫そうな顔。両手で胸に抱いていた分厚い聖書で自身の肩を叩く。
「数日分ってとこです、カラ松さん」
私もまた優しいシスターの仮面を外し、腰に手を当てた。私たちは他人の目がない場所では互いを気安く名で呼ぶ。
「オーケー、上出来だ。いい酒とつまみを手配しておいてくれ」
カラ松さんは空中で聖書を一回転させた。ありがたいお言葉が並ぶ書物の扱いは、人目がなくなると途端にぞんざいになる。
献金は教会の運営資金、ひいては私やカラ松さんの生活費ともなる貴重な資金だ。ミサという業務を行い、対価として現金をいただく。神父目立ての参加者も多く、仮面を被るのも大事な業務の一環である。
「今夜は遅くなりそうだしな」
「何かあるんですか?」
私の質問に、彼は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「───仕事だ」




町が眠る丑三つ時、私とカラ松さんは人里離れた廃屋に足を運ぶ。他者との交流を避けるために建てられた一軒家で、所有者が亡くなって久しい。家を囲むように立ち並ぶ木々は道を隠すかのようだった。風に揺れた木々のざわめきは、この後私たちに不穏をもたらす警告のようにも感じられる。
朽ちて長い年数が経過した屋敷は建物の所々に穴が空き、玄関扉の蝶番は今にも外れそうなほど傾いている。その建物の前で、同業者の男性が私たちの到着を待っていた。
「首尾は?」
「まぁまぁってとこかな。逃げ出さないようにはしてある」
初老の彼は親指を立てて玄関ドアを示した。カラ松さんと同じような黒いカソックに身を包んでいる。
「なら上出来だ」
カラ松さんが片側の口角を上げた。
家の周囲からはほのかに神々しい気が漂う。彼が結界を張ったためだろう。
「後は任せたぞ、カラ松神父」
「オーライ」
私たちに背中を向けてこの場を後にする彼に、カラ松さんは左手を振った。
「さぁ、ビジネスの時間だぜ、ユーリ」
拳を鳴らしたカラ松さんはストラを外して私に寄越す。肩にかけているだけだから外れやすい上、万一損傷すれば買い直すにしろ修繕するにしろ費用がかかるからだ。ストラのないカソックはほぼ黒一色で、暗殺者さながらである。黒は闇に溶ける。
カラ松さんが扉を開けると、錆びついた蝶番が音を立てた。手持ちのランタンが電気の通っていない室内を明るく照らす。
「はい!」
私は頷いて、彼の後ろ姿を追った。


カラ松さんは神父であるとともにエクソシスト──いわゆる悪魔祓い──の能力を持つ。
司教に許可されて名乗る資格としてではなく、実績を積んで名を挙げてきた実力者である。無免許医のようなものなので肩書として名乗ることはしていないが、様々な経路を辿って依頼は途切れることなく舞い込んでくる。
カラ松さんに悪魔祓いの依頼が来るのは、すなわち───その辺のエクソシストでは太刀打ちできない厄介な相手である、ということだ。

今回の対象者は、若い浮浪者の男性だった。私とカラ松さんが室内に踏み込むと、太い柱に縄で縛り付けられた姿が目に入る。床に尻をつき、がっくりと項垂れていて表情は見えない。気を失っているのだろう。
「っ…うぅ…」
カラ松さんが歩を進めた際に、床がぎしりと軋んだ。その音に反応して、浮浪者の彼はくぐもった声を溢した。
「ああ、何と悲しい光景でしょう」
カラ松さんは首から下げた十字架を握りしめ、嘆かわしいとばかりに首を横に振った。
「苦しいですよね。今救って差し上げます」
地面に片膝をつき、頑丈に結ばれた縄を緩めた───その刹那。

カラ松さんの眼球に向け、鋭い爪が伸びた。

「おっと」
しかし彼は軽やかに横へ跳ねて避ける。服の裾がひらりと舞う。
だからすぐさま攻撃対象は彼の後ろに待機していた私へとシフトする。痩せこけた浮浪者とは思えぬ俊敏な動きに、私は呆気に取られて立ち尽くす。瞬く間に距離が詰まり、獣の如き長い爪が振り下ろされた。
「ぎゃっ!」
叫びと共に弾き飛ばされるのは、浮浪者の体。
「…残念でした」
私のにこやかな声に呼応するように、手元のランタンの火が揺れる───飛んできた浮浪者をカラ松さんが拳で地面に叩きつけたからだ。
その間に私は革製のトランクケースからパーツを取り出し、素早く組み立てる。そうしてできた私の背丈ほど長さのある赤い槍を、カラ松さんに投げた。
私の手にはずしりと重い槍を彼は軽々と受け取るや否や、床に転がる浮浪者の顔面の横に思いきり先端を突き立てる。
「救ってやるって言っただろ?」
底意地の悪い笑みが、カラ松さんの顔に浮かぶ。

「───オレの手で、な」

男は飛び起きてカラ松さんの間合いから逃げた。唸り声を上げるだけで人の言葉を発しないのは、知能の低い低級霊の部類に入る。とはいえ凶暴性によっては、名ばかりのエクソシストでは対処しきれないケースも多く、カラ松さんに除霊を要請がくる。そんな流れが定番化しつつあった。
「ユーリはそこから動くなよ」
「もちろんです」
私の役目は『囮』だ。
エクソシストとしての能力はおろか神への信仰心も皆無に近いけれど、なぜか私の半径数十センチには見えない障壁があって、悪霊は私に触れることが叶わない。この特異性をカラ松さんに買われて、悪魔祓いに駆り出されている。
というのは建前で、メイン業務は諸々の後始末だったりもするのだけれど。

カラ松さんが地面を蹴って相手の懐に飛び込むのは、一瞬の出来事のように感じられた。右手の槍の切っ先を躊躇いなく男の心臓部に突き刺す。続けざまに槍を振り上げると、胸元から上は真っ二つになった。
「お前の罪は赦される。何しろオレの手で塵も残さず消滅させてやるんだからな」
崩れ落ちる肢体の頭部を荒々しく踏みつけると、浮浪者の肉体は塵のように霧散した。彼が消滅した後には何も残っていない。ただ解かれた縄が落ちているだけだ。




悪魔が跡形もなく消滅したのを確認した後、カラ松さんは服についた砂埃を面倒くさそうに手で払った。
「お疲れ様でした」
「ん」
私が声をかけると、彼は赤い槍を私に寄越した。固い床に突き刺したにも関わらず、傷は一つも増えていない。元々多少の使用感はあったが、どんなに乱暴に扱おうともいつだって変わらぬ鈍い輝きを放つ。だからこそ不気味だった。
加えて、カラ松さんが持つからこそこの槍は真価を発揮する。彼以外が手にしたところで悪魔が祓えるわけでもなく、殺傷能力も格段に落ちる。さながら、武器の形をしたおもちゃだ。
いつどこで手に入れたのか、気にはなるけれど問うたところで私が求める答えは返ってこないのだろう。カラ松さんはそういう人だ。

「こっちの仕事の方が割がいいってのは皮肉だよな」
朽ちかけた椅子に腰掛けて、カラ松さんは煙草に火をつけた。
「しかも表立っての仕事ではないので、収支を適当に誤魔化さなきゃいけないのも骨が折れます」
「そりゃそうだ。自分たちでは退治できないから無資格者に頼みましたなんて、エクソシストが聞いて呆れる」
口から紫煙を吐きながら、カラ松さんは皮肉を溢す。
「なーにが神だよな」
ゆらゆらと不規則に揺れるランタンの炎が、彼の顔を照らしている。

「オレが直接手を下さないと悪魔一匹始末できないなら───神なんていないんだよ」

彼の胸を飾るロザリオも、肩から下げるストラも、彼を神父に見せかける道具に過ぎない。
私も同様に、修道女としての経験も知識もないまま彼の下で働いている。神に祈る行為も形式的なものだ。誓願を立てて信仰生活を送るなんて堅苦しい生活を強制されない分、カラ松さんの側は気楽でいい。
「…ユーリも怪我はないか?」
そして意外と、私のことを気遣ってもくれる。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか」
カラ松さんは煙草を咥えたまま立ち上がり、私の頭を撫でた。気怠そうな顔とは裏腹に、手つきはとても優しい。
「カラ松さんこそ、怪我してますよ」
手を上げて彼の頬に触れる。敵の初撃が掠ったのだ。傷口は浅いが、血が滲んでいる。
「こんなのすぐに治る」
彼は私の手を掴んで、不敵に笑った。

カラ松さんが神父を生業とするのは、体裁がいいからという理由の他に、ミサ以外では比較的時間に縛られない生活ができるからだ。彼の人望と功績でそれなりに献金もあり、あくせく働く必要がない。妻帯はできないが、それ以外に主だった制限もない。
「生臭神父ですよね、カラ松さんって」
武器を片付けるためにトランクケースを開けながら私は苦笑する。節制などという言葉は、彼の辞書にはない。
「オレに敬虔な信仰心なんてあると思うか?
いもしない神に縋って何もしないのは時間の無駄だ」
召命──神に聖職者への道に進むよう命じられること──など感じたことはない、と以前彼は私に語ったことがある。なりたくてなったわけでもない。世間体がよく都合もいいから選んだに過ぎない、と。
「神がいるとしたら、オレだな。オレなら、内容とリターン次第では願いを叶えてやる」
彼は冷笑した。
献金さえ差し出せば欲しい言葉を告げる。神の名を騙って安堵もさせる。必要に応じて物理的な行動にも出る。今回の依頼のように。
「そういうの、私以外の前で絶対言わないでくださいよ」
「ユーリだから言ってるんだ」
そう言って彼は意味ありげな視線を向ける。強い眼差し。

「仮に他言したところで、ユーリがオオカミ少年になるだけだしな

こいつのこういうとこほんとぶっ飛ばしたい。上司だから言わないけど。言わないけども!
「地域密着型の神父を侮るなよ」
本職の神父の方々に謝れ。
「全ては神父様の手の内、ということですか」
「心外だ。ユーリには荷物持ちと雑用係として絶大な信頼を置いてるのに。それじゃ物足りないか?」
くく、と喉を鳴らしてカラ松さんは言い、吸い終えた煙草をテーブルに擦り付ける。その吸い殻を処分するのも私の仕事だ。私たちがこの場にいた痕跡は抹消しなくてはならない。
「…いーえ、十分です」
「なら、こんな辛気臭い所はとっととおさらばするか。今日買った酒で祝杯だ」
カラ松さんは立ち上がり、背後を振り返らずに廃屋を後にした。


「今日は子どもたちがマフィンを持ってきてくれたんですよ」
私は手作りマフィンとホットミルクをトレイに載せ、カラ松さんのいるリビングへ運ぶ。
教会に隣接している小さな一軒家を居住区として、私とカラ松さんは暮らしている。当然寝室は異なるが、共同生活を行っているから、その事実だけ見れば同棲だ。
なのに神父と修道士の肩書き故に、通俗的な視線を向けられないから不思議ではある。
「何でミルクなんだ。酒だって言っただろ」
ダイニングテーブルに頬杖をつき、カラ松さんは悪態をつく。黒いカソックを脱ぎ払い、白いインナーシャツと黒のパンツ。畏まった仕事着から一転、ラフな格好である。
「深夜のアルコールは明日…もう今日ですね、今日の仕事に差し支えます」
「本業はちゃんとこなした」
「片手間で神父やってるみたいな言い方しないでください。どっちも本業ですからね」
司祭が聞いて呆れる。どんな手を使って聖職者として潜り込んだのか。
カップを置く手がつい荒くなってしまい、白い液体が大きく波打った。カラ松さんは私の苛立ちを気に留める様子もなく、口角を上げた。その頬には傷一つない───先程受けた傷さえも。
「傷…もう治ったんですね」
まだ数時間しか経っていないのに、血が止まるどころか跡さえ残っていない。あの時私は見間違えたのか、そんな不安に苛まれそうになる。
「あんなのは怪我のうちに入らないさ」
「はぁ…」
エクソシストとしての高い素質と怪しい槍だけでも、疑念を抱くには十分な要素だ。この司祭は果たして人間なのか、と。
「ま、別に何でもいいですけど」
私が早々に興味を失ったのは、カラ松さんは意外だったらしい。僅かだが目を瞠った。
カラ松さんには、行き倒れていたところを拾ってもらった恩義がある。修道士としての役割と生活する場も提供してもらった。贅沢をしなければカラ松さんと共に安穏に暮らせる。彼が私に危害を加えないことが明確なら、正体なんて些末なことなのかもしれない。
カラ松さんは湯気の立つホットミルクに口をつけて、ニヤリとほくそ笑む。

「悪魔と契約したからさ」

「悪魔……?」
「ああ。悪霊の魂を定期的にくれてやる代わりに、体を強化させた」
寝言は寝て言え。
「…カラ松さん、私をからかって楽しいですか?」
頬張ったマフィンは甘い。荷物持ちで疲弊した体力を回復してくれる。
メンチ切るレベルで眉をひそめた私に、彼は肩を揺らした。
「からかう相手としてはかろうじて及第点だ。反応がいまいちだが、退屈しのぎにはなる」
殴りたい、このドS。
「安心しろ、オレはよほど重篤にならない限りは死なない。
足手まといなお前のことは何かあったら守ってやるし───」
マフィンにかぶりついて。

「ユーリを残してオレは死なない」




私たちの元に厄介な仕事が舞い込んできたのは、それから数日後のことである。
一般のエクソシストで対処できない時点で十二分に厄介なのだけれど、電話口で私に依頼の申し出をしてきた依頼者の声は、剣呑な雰囲気だった。

そうして訪れたのが、町の中心地から離れひっそりと佇む廃屋の洋館だ。かつては富豪の別荘地だったらしいが、廃棄されて長い歳月が経過している。私の背丈をゆうに超える大仰な門は植物の蔦に覆われ、傾いていた。屋敷全体は高い塀に囲まれている。ホラーハウスとして映画やドラマの撮影地になりそうな廃墟だ。
現在の所有者が取り壊すために業者に調査を依頼したところ、屋敷に入った人間は二度と出て来なかった。悪魔の仕業ではないかと派遣されたエクソシストもまた、足を踏み入れたきり戻ってこなかったという、そんな曰く付きの洋館である。
例の如く深夜訪問のため、明かりは手元のランタンと月明かりだけ。鳥の鳴き声にさえ恐怖を覚えるのは、きっと───外観のせいだけではない。得体のしれない不安が、足元に這い寄る。

「ユーリ」
私が先陣を切って門を開けたところで、カラ松さんに呼ばれる。
「妙な空気だ。お前は中に入らない方がいい」
いつもなら面倒くさそうに現場に入るカラ松さんの眉間に、皺が寄っている。
「え…」
「オレが一人で行く」
「…ユーリ!?」「あ、そうですか?よく分からないですけど、じゃあこれ───あ」
武器が収納されている鞄を手渡そうとして、私は前のめりになる。何かに右足首を掴まれて、勢いよく引っ張られたのだ。

背後から足を引かれたため、腹部を地面に打ち付けた。生い茂る雑草がクッション代わりになったけれど、それでもなお強い衝撃に一瞬目の前がホワイトアウトする。足に纏わりつく紐のような何かは、転倒した私を屋敷へと引きずり込もうとする。
「ちょ、な、何…っ」
鞄から手を放してはいけない。これはカラ松さんの大切な悪魔祓いの道具だから。
かろうじて自由なもう一方の手を腰に差し込み、折りたたみナイフを引き抜く。体が地面に擦れる痛みに思考がままならないが、奪われた足首に目をやると、白い蔦のようなものが巻き付いている。刃を振り下ろして断ち切ったが、いつの間にか私の体は屋敷内にあって、目の前で扉が閉ざされた。暗闇が私を覆う。

「お手本のような捕まり方だな、ユーリ」
私を追ってきたカラ松さんも滑り込めたらしい。僅かに乱れる呼吸を整えながら、修道服が砂まみれになった私を鼻で笑った。
「…どういたしまして」
「自力で危機を脱したのは褒めてやる。よくやった」
「伊達にカラ松さんの相棒やってませんから」
「頼りにしてるぜ」
埃とカビの混じった、廃屋ならではの臭いが鼻をつく。そしてそれとは別に、生き物の気配。
閉じられた扉はびくともしなかった。カラ松さんが自分のランタンを私に寄越したので、持ち上げて周囲を照らす。
そして映し出されたのは───

屋敷内全体を白い糸で覆い尽くす、巨大な蜘蛛。

玄関入ってすぐの玄関ホール正面に、劣化した真紅の絨毯が敷き詰められた吹き抜けの階段がある。その階段上から吊り下げられたシャンデリアにぶら下がるみたいにして、私たちの身長以上はありそうな巨大蜘蛛が糸を張り巡らせていた。
腰から上は男とも女とも取れる形で、下半身が蜘蛛のそれ。
ホール全開に広がる巣から糸が伸びてきて、鋭利さを伴って私たちに降り注ぐ。カラ松さんは表情を変えずに軽やかに避けた。彼のような俊敏さを持たない私はいつものように防御に徹する。
そのはずだった。

パリン、と何かが割れる音がした。針みたいな糸が私の腕を掠める。二の腕にチリチリとした痛みが走った。
「……何、で」
「──チッ」
次の瞬間、カラ松さんが私を抱いて飛んだ。右に左にと体が揺れる。糸が突き立てられた床は割れ、激しい音を立てていく。
私の障壁が破られたのだと思い至ったのは、それから少し経ってからだった。糸が掠めた腕が少し熱を持つ。
「ユーリを持ったまま倒せというのは難易度が高いな」
言うに事欠いて、持つ、とか言いやがった。抱いてとかいう表現があるだろうが。
「悠長なこと言ってる場合ですか!カラ松さん、私なら自分で何とかしますから!」
「どうにかならないから怪我したんだろうが」
悔しいが、反論できない。
しかし私を抱えながらでは回避が精一杯に違いない。槍だってまだ私が持つ鞄の中で、組み立てる時間もないのだ。
これは万事休すかと眩暈がしたところで、カラ松さんが攻撃を避けるために私を落とした。
大事なことなので二度言う、落とした。故意に。
そして何か、異国の言葉のような理解不能な言葉を呪文のように口にして、カラ松さんが叫ぶ。

「おそ松!」

聞いたことのない名だった。
「はいはーい」
気の抜けた声がすぐ背後から聞こえて、私は目を剥いて振り返る。
そこにいたのは、『悪魔』だった。鮮血に似た赤い翼と尻尾を生やし、後頭部には同色の角。スーツのような衣服に身を包み、人間の姿に擬態してはいるけれど、その両足は宙に浮いている。
「呼んだ?カラ松」
悪魔は人の言葉を操る。それから私と目が合うと、ニッとほくそ笑んだ。
「用があるから呼んだんだ」
「だよな。知ってた」
ふわふわと漂っているだけかと思いきや、この悪魔の周囲には見えない結界が巡らされているようだった。私とカラ松さんを狙って振り下ろされる糸が、尽く弾かれている。
「ユーリを守れ」
カラ松さんの双眸は悪魔には向けられず、蜘蛛を捉えたまま。
「いいけど、俺をわざわざ呼び出して頼むっつーことは、代償は高くつくよぉ」
空中であぐらをかき、だらしのない笑みを作るおそ松という悪魔。
しかしカラ松さんは動揺の片鱗も見せず、トランクケースの槍を素早く組み立て、構えた。
「お前の力が弱くて障壁が破られたんだろ。挽回くらいしろ、ド底辺悪魔」
「あっ、ひっど!悪魔使いが荒い司祭なんて聞いたことねぇからな!」
「知ったことか。
ユーリに傷一つつけてみろ、二度と再生できないようお前も消滅させてやる」
そう吐き捨てながら、カラ松さんはこれ以上ない殺意のこもった目で悪魔を見た。

悪魔は長い溜息を吐き、私に手を差し出した。爪が赤く、長い。
「じゃあ、はい」
「はい、って…」
「俺と手繋いどけばユーリちゃんは絶対安全だから」
悪魔から人間を守る悪魔という構図はかなり異様だったが、考えるだけ無駄か。
「…おそ松」
カラ松さんは訝しげに彼を睨む。
「ほんとだって!今ってねみたいな広範囲のヤツでもいいけど、これ結構体力使うし、別料金貰うよ?いいの?」
カラ松さんは唇を尖らせた悪魔に舌打ちして、地面を蹴った。白い糸を槍で薙ぎ払いながら、蜘蛛の懐を目指す。

「あの……おそ松、さん」
「うん?」
よく見たら、瞳も赤い。コウモリに似た翼を広げて、彼は私と目線の高さを合わせた。
愛嬌がある軽口は見せかけで、狡猾さと残忍さが窺える鋭い目が彼の本性だ。
「槍も、あなたの物なんですね」
色がとても似ているから。カラ松さん以外が手にしても効果を発揮しないことが不思議だったけれど。
おそ松さんはニッと笑う。
「そ。あれはね、俺とカラ松の契約の印。
あれを使って悪魔祓いすると俺に栄養が入るんだ。あいつは俺に食事を提供する、俺はあいつが簡単にやられないように肉体強化して、それから───ユーリちゃんを守る」
ああ。やはりそうだった。
障壁は、私の力ではなかった。不思議と落胆の気持ちはなく、ようやく腑に落ちたといったところ。
「ぶっちゃけ渡す武器も悩んだんだよねー。オーソドックスに剣でも良かったけど、使いやすくてリーチもあるし、やっぱ槍かなぁ、みたいな。
だからこの世界で一番有名な槍にした
待て。
この世で最も名の知れた槍と言えば、あれしかない。

「ロンギヌスの槍」

聞かなかったことにしよう。
私は感情の出口にシャッターを下ろす。
「カラ松一応神父っていうからさ、それに見合ったヤツ。探すの苦労したよ」
ロンギヌスの槍は世界各地に複数存在している。展示されているものもあれば、一般向けに公開されていないものまで。どれが偽物なのか、そもそも本物なんて存在するのか、真実はようとして知れない。それを、この悪魔は。




カラ松さんは階段の手すりからの軽やかな跳躍で、シャンデリアの蜘蛛へ槍を振るう。数多の遠距離手段を持つ敵の致命的な欠点は、本体の移動ができないところだ。攻撃を振り切って懐まで飛び込めば、一撃を見舞える。
しかし、叩き込めたのは一度だけだった。二度目の攻撃は糸に絡め取られ、カラ松さんの手から槍が奪われる。
「──チッ」
大きく舌打ちして態勢を整えようとした彼の体に、白い糸が巻き付いた。巣に引っかかった蝶を捕縛する蜘蛛そのものだ。
カラ松さんは攻撃手段を失い、体を拘束される。
「おそ松さんっ」
私の叫びに、悪魔は首を横に振った。
「駄目駄目。俺の契約者はカラ松だから。あいつが助けてって言うなら考えるけど、部外者の命令はきけないよ」
っていうかさ、とおそ松さんは横目で私を見る。
「あいつが悪魔の俺に命乞いなんてすると思う?」
「絶対ない」
「だろ」

意見の一致を見た。
なら仕方ない、と納得してしまいそうになる私も私だ。
けれど彼を助けたい私の意志とは裏腹に、両足は地面にくっついたみたいに動かず、赤い悪魔に掴まれた手も離すこともできない。無策で飛び出したところで力を持たない私は足手まといにしかならないが、せめて一瞬でも相手の気を逸らすことはできるかもしれない。
ただ、そういう私の浅はかな思考も見越しての、ユーリを守れ、だったのだろう。

カラ松さんは糸に絡め取られ、為す術もなく吊るされている。人の形をしていた蜘蛛の腹部が大きく縦に割れた。口を開けたのだ。透明な唾液は床に落ちた途端にじゅわっと音を立てて蒸発し、木材を溶かした。
あの口に飲み込まれては一巻の終わりだ。
さっと血の気が引く私とは対照的に、カラ松さんは愉快そうに笑った。
「いい開けっぷりだ。どうせ食うなら、一気にいってくれよ」
彼の体が徐々に蜘蛛に近づく。
「そう、いいぞ。もっと開け、大きく」
カラ松さんの声に呼応したわけではないだろうが、人間一人丸飲みできるくらいまで口が開いた。唾液が糸を引くグロテスクな口内に、思わず目を背けたくなる。
私からはもうカラ松さんの表情は窺えない。
「カラ松さん!」
彼の体が蜘蛛の口に接近した、次の瞬間だった。

銃声が響いた。

右足を上げることでカソックの裾が捲れ上がり、右股に装着していたレッグホルスターから素早く銃を抜いたのだ。広い館内に反響する砲音と、耳障りな破裂音。ボタボタと耳障りな音を立てながら、かつて蜘蛛だった肉片が地面に落ちる。
肉体が崩壊したことでカラ松さんの束縛も解け、彼は颯爽と地に降り立った。顔についた肉片と血痕を鬱陶しそうに服の袖で拭う。
「勝負のカードは複数用意するのが鉄則だろ」
カラ松さんは不敵に笑って、オートマチックの銃を慣れた手付きでホルスターに戻す。
「ちなみにあれも、俺が貸したヤツね」
おそ松さんが私に耳打ちする。カラ松さんにいくつ武器を貸し出しているのだろう、この悪魔は。
「じゃ、俺はこの辺で。またいつかね、ユーリちゃん」
多分に含みのある笑みを私に向けて、おそ松さんは静かに闇に消えた。飛び散った蜘蛛の欠片は砂と化し、やがて消滅する。
屋敷の中は何事もなかったみたいな静寂が漂い、戦いの痕跡と私とカラ松さんだけが残された。
「おそ松は指示を守ったようだな」
無傷な私に一瞥をくれて、カラ松さんは言う。私は拳を握りしめた。
「……しました」
「ん?」
「心配しました!すっごく心配したんですよ!何で武器は槍だけじゃないって事前に教えてくれないんですか!」
私は声を大にして叫ぶ。
足が震えて、心臓が破裂するかと思った。カラ松さんがいなくなってしまうんじゃないかと不安でならなかった。なのに一歩も動けない自分が、途方もなく情けなかった。
カラ松さんは腕を組む。
「だからだ」
「は」
「だから言わなかった。
ユーリはすぐ顔に出る。オレに勝算があると分かってたら、おそ松に守られても平然としてただろ。それが敵にバレたら命取りになるんだ」
「……ッ」
もしカラ松さんが銃を所持していると知っていたら、私はどんな顔をしていただろう。悪魔の傍らで、彼の身を案じることができたか。自問自答して出た答えは当然、否、だ。
言い返せない。
「敵を欺くにはまず味方から。古典的兵法だが、一定の効果はある」
「ひっど!」
間違いなくまだ隠し要素あるやん。
今後もカラ松さんがピンチになるたび、私は先程のような絶望を味わうことになるのか。私はさながら彼の絶体絶命をより効果的に演出する役者だ。
「約束は守ってるだろ?」
苦虫を噛み潰したようなしかめっ面の私の肩を抱き寄せて、カラ松さんは言う。

「ユーリを残してオレは死なない、って」

私は僅かに目を剥く。冗談ではなかったのか。
「何かあったら守ってやるとも言ったはずだが?」
耳元に唇を寄せて囁く姿は一見睦言のようだが、文句があるのか、と問われているに過ぎない。ランタンの光を反射する彼のロザリオが紛い物に見えた。大切な祈りの道具なのに、窮地に陥ったら迷わず引きちぎられて目眩ましに使われるそれは、今までのぞんざいな扱いの名残として細かな傷がついている。
「役には立てないけど、私だってカラ松さんを守りたいと思ってるんですよ」
「…へぇ」
今度は彼が瞠目する番だった。
「カラ松さんが目の前で危ない目に遭ってるのに、ただ見てるしかできないのは拷問です」
「今夜はやけに情熱的だな、ユーリ」
「そうですね。聞き分けのない神父様にはこれくらい強く言わないと響かなさそうですし」
私が溜息混じりに言うと、カラ松さんは眉をひそめた。
「ただ、どうやら認識の相違はあるらしい」
「相違…ですか?」
「ああ。ユーリはいるだけで十分役に立ってるから安心しろ」
「はぁ…」
「お前がいるからオレはこの世にしがみついてるんだ」
隙間風の音が耳を抜ける。

「ユーリのいる町だから守ろうと思える」

視線は私から逸らされて、彼方を見つめていた。独白のような言い方だ。
「…カソック、帰ったら直しますね」
先ほどの戦闘で裾が切れてしまっている。幸い切り口は鋭利だから、目立たないよう補修できるだろう。服の修繕はいつも私の役目だ。
「頼むぜ、相棒」
「こういう時だけ調子いいんですよねぇ、ほんと」
「素直と言ってくれ」

神父としてのカラ松さんの周囲には、彼目的の女性が未婚既婚関わらず両手で余るほどいるけれど、彼が冗談でも肩を抱いたり告白紛いの甘い台詞を吐くのは、そういえば私だけだ。素直というのも、あながち間違いではないかもしれない。

肩に回っていた手に力がこもり、ほんの少しだけ引き寄せられた。