「ユーリの様子がおかしい」
居間で突然声をかけられたおそ松は、いつになく切羽詰まった様子のカラ松に目を丸くした。
「は?何て?」
おそ松は読み耽っていた競馬新聞から顔を上げた。思考を中断させられたせいか、聞き返す声には微かな苛立ちが含まれていたが、なりふりかまっている場合ではない。確信に変わった疑惑を誰かと共有しなければ、どうにかなってしまいそうだった。カラ松は隣にどっかと座り込み、円卓に拳を振り下ろす。
「ここ最近、ユーリの様子がおかしいんだ。まるでいつもと違う」
カラ松の焦燥感は長男には伝わらない。それがもどかしい。
「……一応訊いてやる。何がどうおかしいわけ?」
「よくぞ聞いてくれた!」
カラ松が前のめりで声を荒げると、近づくなとばかりにおそ松は眉間に皺を寄せて背を反らした。カラ松が飛ばす唾を、畳んだ新聞紙でガードする。
「まず、いつもなら家にいるはずの夜に電話しても出ないことが多い。折り返しも十時を過ぎて……分かるか、十時だぞっ、夜のだ!十一時の時だってある!」
「一人暮らしだし、ありじゃね?」
「しかも土日に予定が入ってる!オレの誘いに対して日時を変更してくることも増えた!会えないと言われることはないが、平日も忙しいと言って、オレとのデートを最優先してくれない!」
「ユーリちゃんにも予定くらいあるだろ」
「加えて、オレと一緒にいても心ここにあらずな感じもする。どこがどう違うかと言われれば言葉に詰まるが、とにかく何かが違うとオレの第六感が警鐘を鳴らしてるんだ!」
「ここにきてシックスセンス」
おそ松はいちいち真顔でツッコんでくる。
「真面目に聞けっ」
苛立ちの発散と注意を促す意味を込めて、再度円卓を叩く。無造作に置かれていたポテトチップスの袋が音を立てて揺れる。
「聞いたって。ちゃーんと聞いたよ、俺。いいか、カラ松?」
おそ松は面倒くさそうに溜息を溢した後、思考を集約させるためか腕を組んだ。いつになく真剣な顔で、長男は次男に目を向けた。
「それは男できたな」
「は?」
カラ松は青筋を立てる。自然と声は低くなった。これまでに立てたありとあらゆる仮説の中で、最も忌避していた説だったからだ。
「だってそうじゃん。いやまぁアレだよ、一つ一つは普通の人には全然あることだと思うよ、俺も。
でも相手はカラ松推しを公言して憚らないユーリちゃんで、『夜に連絡取れない』『休みに予定がある』『平日も忙しい』と三拍子来たらもう役満だろ。お前に興味なくなったんじゃないの?」
指を一本ずつ立てながらおそ松が根拠を述べる。それは、事実を基に彼が立てた、彼が最も有力と感じる仮説。
「っ、ユーリに限って、そんなことあるはず───」
「ない、と言い切れるか?」
鋭い視線。反論する材料を持たないカラ松に、おそ松はやれやれと肩を竦めた。
「そりゃ言えないよねぇ。だってお前、ユーリちゃんの彼氏じゃないもん。どの口が、って感じじゃん」
ちゃぶ台の上で握りしめたカラ松の拳が震える。このままおそ松に一撃を加えて黙らせることは容易い。
しかし、それを実行に移せば、図星を指されて激昂したと告白するようなものだ。
全部自分の杞憂で、実際にはユーリの想いも自分たちの関係も何一つ変化はないと思い込みたいけれど、現実に幾つかの変化は起こってしまっている。少なくとも今のユーリには、カラ松よりも優先すべきことがあるのだろう。繁忙期だとか休日出勤だとか、そういった類であってくれと願う心境とは裏腹に、その可能性が限りなく低いことも理解している。
「……でも、なぁ」
おそ松は腕を組んだまま、天井を見上げた。
「仮にマジで彼氏ができたとしても、それをカラ松に黙ってるってのはユーリちゃんらしくないよな」
うーん、と唸りながら彼は唇を尖らせる。
「筋は通す子だと思うんだけどね」
どんな理由があるにしろ、本人に聞くのが一番手っ取り早い解決策だ。おそ松も最後はそう締めくくっていたし、自分でもそう思う。
となると、善は急げである。
「ユーリ、何か隠してることはないか?」
空気は読まなかった。
休日の待ち合わせ後にファミレスに入り、ランチのメニューを注文して店員が遠ざかったのを見計らい、単刀直入に尋ねた。店内は程よい音量のBGMと客の声で賑わっているから、耳をそばだてない限り隣のテーブルの会話は聞こえない。
ここへ辿り着くまでのユーリの様子に、変わったところはなかった。親しみをもって接してくれるし、今後の話も彼女の方から振ってきた。
なのにカラ松の中に浸透した違和感は、今なお拭いきれないでいる。今日の予定自体、彼女の都合で変更された日時だったせいもある。
「何か、って?」
ユーリは面食らった様子で問い返してくる。これが演技ならオスカーものだ。
「何かあるだろ。その……最近のこととか」
カラ松は明言を避けた。何となく手持ち無沙汰で、水の入ったグラスを両手で包む。退路を断たれ観念して語るのではなく、せめて自らの決意で告げてほしかった。
「えー、何だろ……あ、カラ松くんが涎垂らしながらうたた寝したのを動画で撮ったこと?」
「よだ……え?」
「それとも毎月カラ松くんのフォトブック作ってること?」
「待て待て」
脱線に理解が追いつかない。
「話してなかったっけ?フォトブックは厳選した写真ばっかりだから、我ながらいい出来なんだよ。今度見る?」
「全部見る───じゃなくて!」
ユーリのペースに飲まれてしまった。
とはいえ、専属カメラマンが撮影した自然体の自分の写真集は是が非でも見たい。何でもっと早く言ってくれないんだと悔しささえある。うたた寝の件に関しては追求したいことが山程あったが、これは日を改めよう。今じゃない。
「アレだ、その……この所妙に付き合いが悪いというか、忙しいんだろう?」
誘導するようにカラ松が言うと、ユーリは苦笑して胸の前で両手を合わせた。
「そうなんだよ、ごめんね。できるだけ迷惑かけないよう調整してるつもりだけど、どうしても優先したくって」
ユーリは照れくさそうに人差し指で自分の頬を掻いた。満面の笑みが彼女の顔に広がる。
「新しい推しを追うのに忙しいからさ」
「オレがいるのに!?」
ユーリから真相を聞いて浮かんだ感想は、上記の通りである。まるでユーリが浮気したような言い草になってしまった。否、あながち間違ってはいないが。
カラ松が発した素っ頓狂な声に、隣のテーブルの若い女性がチラリとこちらを一瞥する。
「カラ松くんは『最推し』だよ」
「そ、そういう問題じゃないだろ!誰なんだ、その男は!?」
声を抑えるが、気ばかりが逸る。
「私と同い年で出身地が近いってことで昔からずっと親近感があってね、いつか人を感動させたいって言ってた人なんだ。夢を叶えるために血の滲むような努力もしてる背景も含めて、あーこれ推せるな、って」
うっとりと推しを語るユーリの双眸は、恋する乙女のように輝いている。すっかり心酔しているのが、その表情から明らかだった。カラ松を前に、相手への恋慕を隠そうともしない。
目の前が真っ白になりそうだった。ユーリからは見えないよう自分の膝を強く摘み、正気を保つ。
「……いつからだ?」
いつからその男と一緒にいるのか。知りたくはない、けれど知らなければ。
「最近だよ。まだ二週間くらい」
「オレを避けてたのは……そいつの方がいいからか?」
目尻が熱くなって、視界が滲む。掠れそうになる声を必死で絞り出した。せめて罪悪感を表情に浮かべてくれたら、この想いに行き場がなくとも少しくらいは救われたかもしれないのに、ユーリは愉快で仕方ないとばかりに微笑んでいる。
「あ、カラ松くん勘違いしてる」
「え?」
「推しは俳優だよ」
ユーリが口にした言葉の意図が分からない。
「売れない俳優ってことか?」
眉間に皺を寄せるカラ松に対し、彼女は苦笑する。
「違うってば。ドラマとか映画に出てる芸能人で、私とは面識どころか対面で会ったこともないよ。三次元だけど、手が届かないくらい高い所にいる人だって。
ドラマに出てる俳優を、いいな、って思うことあるでしょ?まさにそれ」
「……あ」
全てが一瞬にして、腑に落ちる。
タイミングよく料理が運ばれてきて、互いに無言になった短い期間で、カラ松は現状を正しく理解するに至る。
途端に羞恥が込み上げて、何でもないフリをするのに全精力を投入した。オレよりその男の方がいいのかなんて、図に乗りまくった彼氏面発言を盛大にかました。完全に同列に扱った。穴があったら入りたい。
「長らく小さな劇団所属で、ドラマや映画もエキストラか脇役だったんだよね。でも今の事務所の人の目に留まって、今回ついに映画の主役に抜擢されたの。
その映画も面白くって、観るたびに新しい発見や解釈があるから、公開初日から時間があれば通ってるんだよね」
ユーリは楽しそうにスマホを見せてくる。映画館に展示されているティザービジュアルとチケットの半券を一緒に撮った写真だ。SNS投稿用に撮影したものだろう。カラ松が電話をした夜に応答しなかった日時のもの。ポスターの中心に主役の俳優が映っている。
「……オレの方がいい男じゃないか」
率直な感想が口をついて出る。今時の優男風で端正な顔立ちをしているが、見惚れるというレベルではない。
「別に顔だけで推してるわけじゃないから。この人、演技力も高いんだよ。
これまで脇役が多かったけど、誠実な青年から狂気的殺人鬼まで演じ分ける演技力も買われての今回の抜擢だから」
ユーリは表情を取り繕ってはいたものの、自分の気に入っているものを悪し様に言われるのは気分が悪いだろう。言った直後に気付いたが、後の祭りである。
けれど、ここで謝罪するのも何だか癪に障る。
「最近は番宣でニュースやバラエティにも出てて、トークも意外に上手くてさ。人を傷つけない絶妙なツッコミするんだよ。
そうそう、頭もいいっていうのはここ最近で新しい発見だった。地頭がいいってすごいよね」
ユーリはスマホをテーブルに伏せ、いただきます、と挨拶をして料理を頬張る。この話はこれで終わりだ、と言わんばかりに。
「そ、そうか……」
上げた拳の下ろし先が分からなくなりそうだった。
しかし───
「オレの方が格段にいい男だが、ハニーのプライベートが充実しているなら何よりだ。通いすぎて疲れないようにするんだぞ」
ユーリが浮気をしていない証明がなされたのは、喜ぶべきことだ。
「カラ松、お前どうしたの?大丈夫?」
兄弟に気付かれぬよう家の中でも気を張っていたつもりだったが、自分しかいないと思っていた場にチョロ松がいて、憔悴しきった姿を目撃されてしまった。不安そうに眉を下げる三男と目が合った瞬間、辛うじて保たれていた最後の壁が崩壊する。
「チョロ松うううぅぅぅぅうぅぅっ!」
「うわっ、えっ、何!?」
全身の水分が目から噴出するかの如く、涙が溢れた。膝をついて、わんわん声を上げる。驚いたチョロ松は右手に持っていた雑誌を床に落としたが、構わずカラ松に駆け寄った。
「ハニーが…っ、ハニーがひどいんだ!」
「ユーリちゃんが?」
「オレ以外の推しができたって、めちゃくちゃいい顔でその推しのこと褒めてくるんだ!すげー嬉しそうに他の男の話をしてくるのヤだ!聞いてるオレの精神が崩壊するっ、何だこの地獄!」
「……あー…」
チョロ松は眉を下げ、言葉にならない声を漏らす。何と慰めたらいいか分からない、そんな顔だ。カラ松は腕で涙を拭おうとするが、袖を捲くっているせいで、涙を払うどころか顔中に広げてしまう。惨めさが加速する。
「ユーリにはオレだけだったのに!」
他の推しの話なんて、ついぞ聞いたことなかった。いつだってカラ松だけを見ていてくれた。好きなものを語ることはあっても、カラ松に向ける熱量の比ではなかった。
「新しい推しは誰って?」
「今やってる映画に出てる俳優……」
「三次元か」
何だ三次元って。訳知り顔なのが絶妙に腹立つ。
チョロ松は引き出しから取り出したハンカチをカラ松に投げる。空中で受け取って、カラ松は両目に当てた。目を閉じたらユーリの顔が浮かんできて、また泣けた。
「カラ松がユーリちゃんとの現状に甘んじてるせいじゃないの?もう一年近いだろ」
「え、オレのせい!?」
共感と慰めを期待していたのに、華麗に裏切られる。
「まぁ……お前の気持ち知ってて弄ぶユーリちゃんも悪いかもしれないけど」
「ユーリを悪く言うな!」
「どっちだよ!面倒くせぇなもう!」
チョロ松が咆えた。
「そもそも、そういう話が嫌だってこと、ユーリちゃんには言った?」
「……言ってない」
正直に答えたら、三男は眉をひそめる。
「ちゃんと言わなきゃ。お前ほんとこういう時、全方面にいい顔しようとするよな。その結果僕が犠牲になったのまだ根に持ってるからな」
最後の文句は明らかに私怨のそれだった。兄弟から頼られた際にカラ松自身がノーと言えず、助け船を出してくれたチョロ松をスケープゴートにしてその場から逃走かました話である。兄弟間における自分の好感度を下げたくないがために、チョロ松を犠牲にしたのだ。
「まぁ、それは置いとくにしても、だ。
ユーリちゃんには自分の口で言えよ。言わなくても察するスキル持ちなのは、一部の超一軍だけだからね。特にお前は八方美人だから、察しろなんてエスパーでない限り無理」
言い方に容赦がないが、概ね正しいからぐうの音も出ない。魔法の言葉なんてないのだ。
ようやく涙が止まり、渡されたハンカチが塩水でぐっしょりと濡れた頃合いに、チョロ松が首を傾げる。
「っていうか、何で僕にこういう話すんの?もっと適役が───ああ、うん、いないか」
少なくとも家の中には。
「……チョロ松なら分かると思って」
折を見て相談するタイミングを図ろうと思っていたところだった。声をかけられたのは、渡りに船だったのだ。
「推しについてだから?」
「ああ」
「そりゃ分かるよ、すごくね」
「チョロ松……」
三男の微笑みは天使のようだった。たった一言で、救われる命がある。やはり自分の人選に誤りはなかった。
「ユーリちゃんの気持ちが嫌というほどね」
誤りだった。
「ジーザス……とんだ伏兵だぜ」
「だってそうじゃん、推しは増えてもいいだろ。推しは一人しか駄目なんて法律ないからね。
僕だってにゃーちゃん推しだけど、他にも推しキャラとかいるし。依存先は複数ある方が心は安定する」
怖い話になってきた。
カラ松は長めの息を吐き、チョロ松の肩に手を添える。
「チョロ松……お前とハニーは違うんだ」
「うるせぇわ!」
よくよく考えれば、チョロ松の言うように、何らおかしいことではないのかもしれない。カラ松にだって、可愛いと思うアイドルや理想に近い俳優へのあこがれの念はある。彼らがテレビに映れば自然と目が行くし、雑誌に登場すれば他のページよりも読み込む。積極的に応援していないだけで、推しといえば推しだ。
だとしても───
「それでも、ユーリにはずっとオレだけだったんだ。
例えオレが今は一番でも、いつ抜かされるかとヒヤヒヤしなきゃいけないのは……怖い」
唯一だったものに順位がついた。
一位と二位を隔てる距離は、思いの外ないのかもしれない。振り返ればすぐ後ろに別の人物がいる可能性はこれから常に付き纏い、カラ松を苛むのだ。
往々にして、不運は続くものである。
ある日カラ松が運動がてら近くを散歩しようと玄関を出たところで、ユーリとトド松が並んで歩いているのに出くわした。彼らは松野家に向かって歩いてくる。互いに笑みを浮かべ、恋人同士にも見紛う仲睦まじさで、カラ松は一瞬呼吸を止めた。
「ユーリ……」
朝、部屋でトド松を見かけた。外出用の服をいそいそと取り出し、ああでもないこうでもないと一人ファッションショーを繰り広げた後、慌てた様子で家を出たのが数時間前のことである。誰とどこへ行くのかは言わなかったし、カラ松も訊かなかった。あの時尋ねていたら、彼は同行者の名を素直に告げていただろうか。
「あ、カラ松くん」
驚愕するカラ松とは裏腹に、ユーリは目を細める。相変わらずの人懐っこい笑顔で、こちらに向けて手を振った。
「な、何で!?白昼堂々と浮気か、ハニー!?」
カラ松の咆哮に、ユーリとトド松はびくりと目を剥く。
「新しい推しだけじゃ飽き足らず、トド松にまで手を出すなんて……っ」
「帰れ」
眉間に深い皺を刻んだ末弟が、いつになく低い声で吐き捨ててくる。
「短絡的すぎて呆れを通り越して殺意湧いたよ、カラ松兄さん。仮に浮気───ってか、お前とユーリちゃんは付き合ってないから前提すらおかしいけど、浮気だとしても相手連れ立って家帰るようなことする?
それやったら最上級馬鹿だろ」
「うっ……」
返す言葉がない。
「カラ松くん変だよ、どうしたの?熱でもある?朦朧としてる?」
一見心配している風だが、ユーリの言葉もなかなかに辛辣だ。
「いや、違…その……」
「ボクらは映画の舞台挨拶に行ってきただけだよ」
「舞台挨拶?」
カラ松のオウム返し、トド松とユーリは頷く。
「そ。今話題の映画でたまたま応募したら当たって、ユーリちゃんに話したらユーリちゃんも当たったっていうから、じゃあ現地集合しよっかって」
トド松の説明に続き、ユーリが口を開く。
「ほら、この前話した推しが出てるヤツだよ。監督とメイン俳優さんたちが勢揃いだから、フルメイクで顔作って劇場内でも映える服で参戦してきた」
意気込みが尋常じゃない。拳を握りしめて語るユーリの瞳は美しく、だからこそその視線の先に映る相手が自分ではないのが苦痛だった。
「舞台挨拶だけで貰える特典のしおり、推しが出たんだよ!私の引きの強さすごくない?」
「へ?あ、ああ……すごいな、さすがはハニーだ」
気を取り直して笑みを返したつもりだったが、トド松は訝しげな横目を寄越した。
トド松はユーリへの挨拶もそこそこに、足早に家の中に入る。さっそく舞台挨拶の感想をSNSに投稿するのだそうだ。
実はカラ松は、今日ユーリと約束を取り付けていた。それが、今から半時間後である。先に入れた用事──舞台挨拶のことだ──が終わったら会えるからと、駅で待ち合わせのはずだった。
しかし、当日になって偶然トド松と同じ舞台挨拶に行くことになり、ついでだからとカラ松を迎えに来てくれた。そういう経緯であるらしい。
「すまなかった……気が動転してた」
トド松と入れ違いに自宅を出て、二人並んで歩き出した折に、カラ松は頭を下げた。彼女は苦笑して肩を竦める。
「いいよいいよ。私も事前に連絡したら良かったね」
トド松と映画の話で盛り上がってしまい、電話をする思考に至らなかったとユーリは言う。先ほど仲睦まじく見えたのは、推し語りをしていたからなのだろう。何度も観に行っている、その映画とやらの。
「映画、そんなに行くならオレを誘ってくれれば良かったのに」
我ながら恨みがましい言い方になってしまった。
けれど実際、ユーリは映画館に一人で通うばかりで、一度たりともカラ松に誘いをかけてきていない。異性の推しを観に行くのに、カラ松がいては差し支えるというのだろうか。
だとしたら、彼女の気持ちは既に自分ではなく───
「だってカラ松くん、ミステリーは好きじゃないでしょ?」
「は?」
ユーリはそう言うが、好き嫌いに言及した覚えがない。
「映画の原作は難解なミステリー小説なんだよ。前に私の部屋で映画の話した時、ミステリーはちょっとなぁって言ってたじゃん」
素早く記憶を手繰り寄せると、心当たりが一つ浮上する。
一ヶ月前くらいに、ユーリが新作映画ランキングの話題を振ってきて、その時のトップがミステリーだった。謎解きは斬新だが事件は凄惨で後味悪いという評価が多く、「ミステリーにはさほど興味がない」ようなことを口走ったかもしれない。
面白そうだと検討し始めた彼女を牽制する意味合いもあった。ユーリと過ごす貴重な時間で、負の余韻に浸るのは願い下げだったからだ。
「ま、待て…っ、それじゃあ、ユーリはそれでオレを誘わなかっただけなのか?」
「うん」
「もしあの時、オレが嫌だと言ってなかったら……」
「誘ってたよ。主役の推しが素晴らしいのはもちろんだけど、映画自体も面白かったし───あれ、もしかして映画観たかったの?」
カラ松は拍子抜けする。
自分が好まないテーマだろうから誘わなかった。単純明快で至極自然な配慮だ。霧が晴れて、視界がクリアになる。足が軽い。
「来週も行くけど、一緒に行く?」
「行く!」
食い気味に即答したら、ユーリはおかしそうに笑った。
駅までの道中をのんびりと並んで歩く。浅瀬の河原では、制服を着た男子中学生がキャッチボールをしている。人通りはまばらで、時折聞こえる自然の環境音が心地良かった。
「幸せそうなユーリを見るのは嬉しい」
つらつらと心境を吐露しようと思ったのは、周囲の静けさも要因の一つだった。ユーリは顔から笑みを消してカラ松を見やる。
「でもオレ以外の男のことを夢中で話す姿は……正直辛い。今までユーリの推しはオレだけだった───少なくともオレは、そう思ってた」
ユーリが熱中していた推しは、自分だけだと自惚れていた。ずっと唯一でいたかった。
カラ松は足を止める。
「ユーリの一番でありたいのに、どうしたらいいのか分からない───いつか飽きられるのが怖いんだ」
ユーリのために自分がいかなる努力をしてきたかと問われれば、閉口せざるを得ない。変わらなければという危機感は常に傍らにあり、物事一つ一つに対して小さな一歩は踏み出してきたと思うが、所詮はその程度だ。同じ時を過ごしているユーリはいつだって自分より遥か先にいて、カラ松に手を差し伸べてくれている。
彼女が言葉を尽くして示してくれる好意にあぐらをかいていた。足元に広がっていた漠然とした不安に、見て見ぬふりをし続けた。
「そんなに心配してたんだ?」
カラ松の抱える重苦しさとは裏腹に、ユーリの声は軽い。
「……俳優の話を聞いてからは、ずっと」
苦々しげに告白すれば、ユーリはあははと声を出して笑った。楽しげな笑い声に、つい眉をひそめてしまう。
「っ、ユーリ、笑い事じゃ───」
「ごめんごめん。何か可愛くって」
ユーリは大きく息を吸い、胸に手を当てて心を落ち着かせる仕草をした。
「最推しって表現はよくなかったね。カラ松くんは確かに私にとって推しだけど、他の推しとは決定的に違う人だよ。比較対象にもならない」
ユーリの言わんとすることが分からない。呆然としていたら、彼女は続けた。
「私はカラ松くんといつも何してる?」
突拍子もない質問である。
「え、何、って……出掛けたり、電話したり、食事したり……?」
「そう、一緒にいるんだよ。こうやって並んで長時間喋ったり、遊びに行ったりもしてる」
かたや彼女の新たな推しは、普段はスクリーンやディスプレイを通して姿を視認し、舞台挨拶などで同じ空気を共有するのが関の山。
「カラ松くんを他の推しと一緒にしないでほしいな。カラ松くんに失礼だよ」
比較対象どころか、同列にさえいないのだ、と。
彼女の中には明確な線引きがある。見えなくても確証がなくても、それが彼女が持つ答え。
「ただ、興味ない話を延々聞かされるのは楽しくないよね。それについては気をつけるよ」
カラ松は慌ててかぶりを振る。
「違う!その……ユーリが楽しそうなのはいいんだ。ユーリの興味あることは聞きたいし知りたい。ただ、相手が男なのが嫌だった、というか……」
視線を地面に落とす。アスファルトに立つユーリの靴が視界に入る。手持ちの服との組み合わせや機動力など総合的に判断して購入したと、誇らしげに自慢してきたスニーカーだ。実際気に入っているらしく、たびたび履いてくる。
「……妬いた」
目を逸したまま、呟く。物音に遮られて、聞こえなくてもいい。届かなくてもいい。
でも───
「じゃあ女性の推しならいい?」
流れ変わったな。
そういう雰囲気になるべきフラグが、丁寧にへし折られた音がした。
「他の推しが彼だけだなんて、誰が言った?」
唐突なてのひら返し。
「推しはなんぼあってもええもんですからね」
「誰の真似なんだそれは」
「依存先は複数持っておいた方が心の平穏に繋がるんだよ。一人の推しに何かあっても、別の推しがいれば心は保たれる」
「最高にデジャヴ」
めちゃくちゃ聞き覚えのある台詞だ。まさかこの場で再度その言葉を聞くことになろうとは。松野家三男のドヤ顔が脳裏を過る。
そして、重要な分岐点の選択肢で意気揚々と間違った方を選ぶ上にさらなる推し語りをねじ込もうとするその心意気───ユーリだから全然許せる。そういうところも最高に可愛い。
「その点、カラ松くんは推しってだけじゃないから、何かあったら困るんだけどね」
困る。
「それは……もしもオレがユーリ以外を───」
明言を避けた問いに、彼女は答えなかった。意味ありげな笑みを向けるだけではあるけれど、否定もしない。
「はは、ノーキディングだぜ、ハニー」
カラ松は肩を竦めた。
「あり得ない。そんなことは絶対にあり得ないんだ」
簡単に心変わりできる軽い想いだったら、気楽に付き合えたかもしれない。今後どうなろうと知ったことではないから、玉砕前提で口説きまくり、結果嫌われたとしても掠り傷だっただろう。すぐにかさぶたになって、傷跡も残らず消えていく。通過点として笑えた。
いっそ手の届かない高嶺の花のままでいてくれたら、楽だったのに。
「そこは安心してくれ」
「急にいなくなるのもナシね」
「もちろんだとも。全てはハニーのお望みのままに」
もしこの場にグラスがあったら、高らかに掲げたい。それくらいカラ松の気持ちは高揚していた。
最初から唯一ではなかった。唯一だと錯覚させてくれていたに過ぎない。
他にも推しがいると言ってくれても良かったのにと不平を唱えることは容易いが、この境地に至るまでに自分が犯した数々の失態を顧みれば、口を噤むユーリの選択は最善だったのだろう。今となっては申し訳なさが先立つけれど。
推しの話をするユーリは眩しく愛らしい。こんな表情を見れるならもっと早くに受け入れれば良かったと思う反面で、カラ松はふと気付く。カラ松の良さを熱く語るユーリは、表面的な輝きではなく、もっと───
「……っ!」
首から頭のてっぺんにかけての体温が一気に上昇する。咄嗟に片手で口元を覆う。
「カラ松くん?」
「な、何でもない!」
声を荒げ、表情を隠して顔を背けている時点で十分に挙動不審の自覚はある。
カラ松だけだ、と言葉にしてほしい。
その願望をこの場で言わなくて良かったと心底思う。今ユーリの口から告げられたら、理性を保って家まで無事送り届ける自信は───正直、ない。