派生:ヒラさんと惑う

体調が良くなったら二人でデートをしよう。私とカラ松さんはそんな約束を交わした。
病人のような血色の悪さが日に日に改善され、声に覇気が出て、少しずつ笑みも垣間見せるようになった。経過が順調だったから、このまま健康になっていくものだと信じて疑わなかった。
時間をかけて作ってきたパズルがあと少しで完成なのに、残り数ピースがどこを探しても見つからない。最初からピースが欠けているパズルだと気付きもせずに、完成した絵はきっと美しい、そんな夢を見ていた。

結局───デートはできなかった。



カラ松さんと約束したデートを翌日に控えた夕方、私は自宅でスマホ画面を凝視したまま眉間に皺を寄せていた。カラ松さんから返事が来ないことにもどかしさを感じていたのだ。
出掛ける約束をしたはいいが、詳細は何も決まっていない。どこへ行くのかはもちろん、待ち合わせ場所や時間も未定で、ここ数日挨拶以外の連絡をしていなかったから聞きそびれていた。だから午前中にメッセージを送ったのに、もう半日近く未読のままである。
「電話しても大丈夫かなぁ……」
何となく緊張する。他愛ない用件ならまだしも、デートの催促をするみたいだからだ。
彼からの告白紛いの誘いを了承したものの、自宅に帰って冷静に振り返ったら、顔から火が出る思いがした。デートに誘われて意識するなという方が無理な話である。
しかし正直、嬉さはあった。異性として認識し始めていたし、一緒にいて居心地がいい。彼のことをもっと知りたい気持ちは、日を追うごとに強くなっている。

意を決して電話をかけたら、応答は思いの外早かった。
「……はい」
カラ松さんの声が聞こえた瞬間、自分しかいない部屋でピンと背筋を正してしまう。
「あ、カラ松さん?」
「ユーリさん……すまない、連絡できてなくて」
声高に弾む私とは裏腹に、カラ松さんの声には張りが感じられなかった。
「う、ううん、私こそ急に電話してごめんね。外にいるの?」
彼の背後から人の声や物音がして少々ざわついている印象を受ける。漏れ聞こえる会話は敬語だった。
「職場にいる」
「え」
カラ松さんが長らく勤めてきた会社は、極端な長時間労働を課し、見合う対価を支払わず、横行するパワハラで心身を疲弊させ、労働者を捨て駒のように扱ってきた典型的なブラック企業。電話口で彼の家族と偽り、長期休暇をもぎ取ったのが数週間前である。これ以上カラ松さんを追い詰めるなら出るとこ出るぞ、という苛立ちを他人の私が感じたほどだ。
私は言葉を失った。なぜ彼はそんな場所にいるのか。カラ松さんはそんな私の思考を読み取ったように、続けた。
「安心してくれ、退職の手続きはした。ただ業務の引き継ぎがあって、数日前から出社してるんだ」
初耳である。自宅で有給休暇を消化しているものだとばかり思っていた。
しかし、確かに退職に際して他者への引き継ぎは必要だ。立つ鳥が跡を濁さないために、数日間の出社は致し方ないと言えるだろう。
「そうなんだ」
「明日のことだよな?十時くらいにユーリさんの最寄り駅でいいか?」
ああ。どうしてだろう。
「うん、それでいいよ」
彼は私が聞きたかったことに答えてくれているのに、声音は優しいのに、早急にこの電話を切り上げたがっているように感じられるのは。
「植物園にでも行こう。病み上がりの外出にはちょうどいいな」
「もうすぐ仕事終わり?」
六時をとうに回っている。多くの会社は定時を過ぎる時間だ。
問いの返事には、数秒の間があった。
「いや……引き継ぎに意外と時間がかかっていて、まだしばらくかかりそうだ。ひょっとしたら今日は遅くなるかもしれない」
やたら歯切れが悪い。業務の引き継ぎのために深夜まで残業をしなければならない異常性に長く浸かっていた彼は、疑問を抱かないのか。
それはおかしいと声を荒げかけ、文句を飲み込む。もし最後に義理を果たしたいという思い故なら、尊重すべきなのかもしれない。カラ松さんの退職について、私は部外者に過ぎない。
「そっか、無理しないでね」
「もちろんだ。明日はユーリさんとデートだからな」
デート。そう、デートなのだ。
いつの間にか背筋を正すだけでなく、床の上で正座をしていた。

電話を切った私は、クローゼットから上着を取り出して羽織る。手近な鞄に取り急ぎ必要な物を放り込み、財布の中身を確認した。スマホの充電も満タンに近い。
そして、足早に自宅を出た。



ガラス張りのバーの窓際席からは、道路を挟んだ先にあるビルの入り口──カラ松さんが勤めている会社の自社ビルだ──がよく見える。
初めて会った日に名刺を貰っていたことが功を奏した。店のガラスに貼られているマジックミラーフィルムが街灯の光を反射し、外からは店内の様子が見えにくくなっている。
夜から明け方までの営業時間も有り難い。ドリンクを注文する際、長居するかもしれないと店員に伝えたら、色んなお客様が来ますからと慣れた様子で、意味深な笑みを返された。

ビルの電気はいつまでも煌々とついていた。窓ガラスの前を横切る人影も時折見受けられ、カラ松さんだけが冷遇されているわけでないらしいことが察せられた。とはいえ、それが彼を追い詰めた免罪符になるわけではないのだけれど。
ちびちびと飲んでいた二杯目のグラスが空になったところで、私は席を立った。スマホが日付の表示を変えて少し経った頃のことである。

カラ松さんが会社を出たのだ。

「カラ松さん」
私の呼び声に、世界の終わりを告げられたような驚愕を貼り付けた顔が振り返る。
「っ、ユーリさん!?」
くたびれたスーツとアイロンのかかっていないシャツ、引っ掛けられただけのネクタイ。初めて彼の部屋を訪ねた際にフローリングに落ちていた柄だ。
目は落ち窪んでいて、街灯の光の下とはいえ顔色も悪い。まるで初めて会ったあの時のように。
「何でここに……」
その疑問には答えなかった。
「もうすぐ退職するのに、体に鞭打ってまで引き継ぎするのは良くないよ」
私の言葉に彼は何か言いたそうに片手を持ち上げたが、行き場のないそれはすぐに下ろされる。
「……分かってる」
「また倒れるかもしれないし、倒れるだけじゃ済まない場合だって───」
「分かってる」
語気が強くなり、私の言葉を遮る。彼は笑おうとして口角を上げたが、それは笑みではなく、自嘲として私の目に映る。

「職場にいて仕事をしていると、必要とされるんだ。こんなオレでも生きていていいと感じる」
私でも分かるくらい憔悴して疲弊しきっているのに、目だけはギラギラと血走っている。良くない兆候だ。
「ユーリさんと過ごす休みは楽しかったし、いい気分転換になった。明日のユーリさんとデートを心待ちにしてるのもオレの偽りない気持ちだ。
ただ───」
カラ松さんは言葉を濁す。私に告げるべき内容ではないと判断したのだろう。言えば、私が異論を唱えるから。
深い夜の帳はお誂え向きに私たちの姿を世間から切り離し、他者からの視線を遮る。行き交う人々は異質さに好奇の目を向けることなく、通り過ぎていく。
「……いや、その、だから、明日の待ち合わせは電話した通りでいいか?
もう日付も変わってるし、ユーリさんが辛いなら昼からでもいいんだが」
私は首を横に振る。彼の空元気が虚しい。
「出掛けるのはまた日を改めようよ。明日は一日ゆっくり休んで」
「しかし、それは」
「デートは体調が回復してからって約束だったでしょ。お昼ご飯は作りに行くから、一緒に食べよう」
捨てられた大型犬みたいな悲痛な表情をされると前言撤回したくなるが、心を鬼にして毅然と対応する。私が彼に無理させてはいけない。心の回復のためには、体の回復が最優先だ。明日一日の休息は、応急処置くらいにはなるだろう。
「そ、そうか……そうだよな、すまない。オレばかり気が急いてしまったようだ」
カラ松さんは自分の首に片手を当てる。

「ユーリさんとのデートを楽しみにしてたから」

その気持ちはとても嬉しい。
「私も楽しみにしてたよ」
だって。
「声だけでもカラ松さんの様子がおかしいことにすぐ気付くくらいには、カラ松さんのことを気にしてる。すぐ無理するから、会って止めなきゃと思って」
自分の体調を二の次にして、為すべきことを為すために労力を振り絞る人だから。疲れたと口にすることを罪と感じてしまう人だから。
「そのためだけに深夜にここまで来たのか?オレがいつ会社から出てくるかなんて分からな───まさか…ッ」
唖然と目が見開かれる。私は曖昧に笑った。騙しきれる言い訳は思いつかない。
「ああもう!」
今にも泣き出しそうなほど顔をクシャクシャにして、カラ松さんが正面から私を抱きしめた。煙草の臭いが鼻を突く。
「何でオレなんかのためにそこまでするんだ……っ。君が体を壊したら元も子もないだろ!」
「帰ったらすぐ寝るから平気だよ」
「そういう問題じゃない!」
被せるように叱責される。
「こんな時間にユーリさん一人で電車は危ない。タクシーで家まで送る」
カラ松さんは私から手を離し、スーツのポケットからスマホを出す。画面上のタクシー配車アプリをタップしたが、数秒の思案の後スマホを元に戻した。
そうして、片手が差し出される。

「駅でタクシーを拾うのでもいいか?
オレのワガママで本当にすまないが───あと少しだけ、ユーリさんといたい」

「奇遇。私も、同じことを思ってたよ」
出された手を取った。
一刻も早くベッドに飛び込みたいのはカラ松さんの方だろうに、私とのたった数分を優先したいと望んでくれる。こんなささやかな平穏がいつまでも続いてくれたらいいのにと、願わずにはいられない。

なのに、触れた手の冷たさに、根拠のない不安が這い寄って私を苛むのだ。まるで終わりの始まりだと言わんばかりに。



翌日カラ松さんを訪ねたら、彼はまだ寝巻きのままだった。私の来訪を慌てて出迎える。
「す、すまん。さっき起きたところで、こんな格好で……」
しどろもどろに釈明する彼に、私は微笑で返す。
髪に乱れがなく、目は変わらず充血していて、急いで出てきたにしては整えられている掛け布団。そして、テーブルに置かれた開封済みのドリンク剤。
「よく眠れた?」
それに全てから目を背けて、持ってきた食材をキッチンに置きながら、私はできるだけ軽やかな口調で尋ねた。
「あ、ああ。帰ってからすぐベッドに入って、今起きたばかりだ」
有給休暇中に薄くなったはずのクマが、今はまた色濃い。
「良かった。うどんにしようと思うんだけど、起きたてでも食べれそうかな。きんぴらも持ってきたし、一応出すね」
「情けないが、今日の約束を取り止めにしてくれて良かった。こんな時間まで起きられないとは思ってなかったよ。寝坊にしてもひどすぎる」
私がキッチンで料理の準備をする中、彼は苦笑しながら部屋を片付ける。部屋の片隅に脱ぎ散らかしたスーツ──昨日着ていたものだ──をクローゼットのハンガーに掛け、ドリンク剤の小瓶をゴミ箱に入れた。一挙手一投足に体力を消費しているのが見て取れる。毒の沼地に足を踏み入れてHPが減り続けるRPGの冒険者のようだ。
開け広げた窓からは、網戸を通して心地良いそよ風が抜けていく。
「でしょ?やっぱりカラ松さんはしっかり休まないと。昨日会社まで行って張り込みした甲斐があったよ」
取り繕った不協和音の調べはひどく耳障りで、不快だ。指揮棒を振っているのは私か、それとも、彼か。

物の少ない部屋だ。本や雑貨といったいわゆる嗜好品がほとんどなく、最低限の暮らしを維持する家具や必需品が目立つ。だから、多少衣服や荷物が床に置かれていても、あまり散らかった印象を受けない。
冷蔵庫の中身も、幾つかの調味料とドリンク剤、ビール缶だけだった。生鮮食品は、辛うじて卵が数個入っているだけ。

「ご飯できたよ。そっち持っていくね」
トレイにうどんの丼ときんぴらをよそった小鉢を載せ、リビングに運ぶ。ベッド横に置かれたローテーブルがダイニングテーブル代わりだ。一人暮らし用の小ぢんまりしたサイズだから、二人分の食器を置くといっぱいになってしまう。
「ああ、ありがとう」
「もし足りなかったら言って」
腰を下ろして、二人で両手を合わせる。うどんの素を使った簡単な料理で、彩りのネギと油揚げは市販のものだから、調理自体には十分もかかっていない。
朝食を食べてから数時間たった私の喉に、箸で持ち上げた麺はスルスルと通る。合間に口にする麦茶も、冷たくて美味しかった。
「……カラ松さん?」
なのに、目の前のカラ松さんの手の動きは鈍い。最初に数本の白い麺を口に含んだきり、彼の箸は居心地が悪そうに出汁を掻き回す。油揚げときんぴらには手もつけていなかった。
「ん?どうした?」
カラ松さんは誤魔化すみたいに、麦茶のコップで唇を湿らせる。
「食欲ない?それとも口に合わないかな?」
私が言うと、彼はハッとしたように目を瞠り、大きくかぶりを振った。
「いや、美味しい。ユーリさんが作ってくれたんだ、不味いわけない。
ただ、その……起きたてでまだ食欲が湧いてないらしい。何せユーリさんが鳴らしたチャイムで目が覚めたくらいだから」
バツが悪そうに肩を竦めながら、カラ松さんは指先で肉感のない薄い頬を掻いた。無精髭が彼の不健康さを増幅させている。
「あー、そっか。ごめんごめん、ご飯作るの早すぎたね」
「オレが悪いんだ、ユーリさんは謝ることない。せっかく作ってくれたのに、食べきれなくてすまん」
「寝起きなら仕方ないよ。きんぴらは多めに持ってきて冷蔵庫に入れてあるから、後で良かったら食べて」
「ん、そうする」
箸が丼の上に置かれた。食事を終える仕草だ。ほぼ手つかずのうどんが、食欲をそそる湯気を立ち上らせていた。

シンクの三角コーナーに流される麺と具を、静かに見つめる。不思議と怒りや呆れの感情は湧いてこなかった。せっかく作ったのにとか、食べ物を無駄にしないでとか、食欲ないなら最初に言ってよとか、こういうシーンでお決まりの言葉は幾つも脳裏に浮かぶのに、浮かんだそばから立ち消えていく。
カラ松さんは、食器はオレが洗うよと気遣ってくれた。それをやんわりと制して私はキッチンに立っている。時間稼ぎの意味合いも、きっとあった。

「ユーリさん」
食器や器具をあらかた洗い終えてタオルで手を拭いていたら、部屋着に着替えたカラ松さんが背中に声をかけてきた。
「ユーリさんが昨日言ってた漫画って、これだよな?」
スマホのディスプレイに映る単行本の表紙イラストに、私は頷く。
「あ、うん、それそれ。覚えててくれたんだ?」
昨日タクシーの中で、私が最近読んでいる漫画の話題になった。半年前にアニメ化したことで一時流行ったスポーツものの漫画だ。現在も月刊誌で連載していて既刊の数は多くなかったため、大人買いしたことをカラ松さんに話した。
「たまたま広告で出てきたんだ。今はこういうのが流行ってるんだな」
カラ松さんは長らくの自宅と会社の往復で、娯楽に関する情報に疎い。彼の情報収集と言えば、通勤の合間にスマホアプリで最低限のニュースを確認するだけだったらしい。
「興味あるなら、今度仕事帰りにでも持ってくるよ」
私の提案に、カラ松さんの顔が少しだけ明るくなる。
「えっ、いいのか?」
「水曜とかどう?」
「今週も引き継ぎで出社だが、早く帰れるよう調整できると思う」
緩く微笑むカラ松さんに、私は胸を撫で下ろす。
心待ちにしていることがある。未来に心を弾ませることができる。彼はまだ、こちら側にいる。
「じゃあ会社出たら連絡してよ。ここまで持ってくるから」
「あ、それなら───」
カラ松さんは仕事用の鞄に手を差し入れ、鍵を取り出した。キーチェーンから外したそれを、私の手に載せる。使い込まれたディンプルキーだ。
「良かったら、家で待っててくれ。家にある物は好きに使ってくれていいから」
「はい!?」
声がひっくり返った。
だって、異性の自宅の鍵を持つというのは、恋人同士とか、そういう意味合いでしか考えられないではないか。確かにデートに誘われて了承したけれど、この関係に新しい名称が与えられたわけではなく、つまり何が言いたいかというと───混乱している。
「や、あの、私別に遅く来るのは全然っ、大丈夫っていうか!」
「鍵はもう一本予備がある」
予備の話しとるんとちゃうねん。危うくツッコミを繰り出しそうになり、私は下唇を噛みしめる。

「ユーリさんだから持っててほしいんだ」

ああ、ズルい。
切羽詰まった表情で言われて、誰が拒絶できようか。平凡に生きることさえ困難に感じている彼の小さな願いを、私は振り払えない。
「……分かった。仕事終わったら、ここで待ってる」
「そうしてくれ」
受け取った小さな鍵は、私の手にはひどく重かった。

それから一時間ほどして、カラ松さんの家を出る。私が側にいては体を休めることができないからと、もっともらしい口実を口にして───私は逃げたのだ。

ゴミ箱とキッチンには食事の形跡がなかった。例え昨日が可燃ごみの回収日だとしても、昨晩会社を出てから自宅に帰るまでカラ松さんは食事を摂っていない。ほぼ丸一日、固形物を口にしていないことになる。
やつれた顔と覇気のない声と、失われ続ける体力。体力の喪失は心の疲弊に直結する。

私にはそれを指摘できなかった。追求していいものか判断がつかず、気付かないフリをした。彼が守ろうとした彼の矜持を、部外者の私が軽々しく砕けない。
けれどこの選択が正しかったのかも自信がなく、どす黒い靄を胸の内に抱えたまま帰路に着いた。
得体の知れない不穏は、足音もなく忍び寄る。

せめて、私はカラ松さんにとっての逃げ道でありたい。そう願うのはおこがましいだろうか。
彼を救うなんてたいそれたことを公言するつもりはないが、進むことも戻ることもできず途方に暮れた時、一時的な逃げ場くらいにはなりたいと思う。
平日に漫画を貸すと言ったのは、様子見の意味もあった。大きなヒビの入ったガラスが割れて粉々に砕けてしまわないように。本格的な修理が始められるようになるまでは、慎重に扱わなければいけない。



約束の水曜日、定時で帰るつもりが少し遅くなってしまった。カラ松さんに到着予定時刻のメッセージを送り、駅にほど近い弁当屋で二人分の弁当を購入した後、電車で彼の家に向かう。
廊下に面した窓に明かりはついておらず、その時点で彼の不在を悟る。当然室内も真っ暗で、電気をつけリビングの床に腰を下ろした。到着の連絡を入れるものの、先程送ったメッセージもまだ未読のままだった。定時帰宅は難しいと言っていたし、忙しいのだろう。
必要以上に室内の物に触れるのは抵抗があったので、持ってきた漫画を開いた。半時間は真剣に読み耽っていたものの、いつしか船を漕ぎ始め、ベッドを背もたれにして眠ってしまった。

ガチャリと金属が触れ合う音で目が覚める。自分が眠りこけていたことを、その音とスマホが示す時間で知った。玄関ドアのレバーが下りる。居住者の帰還である。
私は彼の帰宅を諸手を挙げて歓迎できなかった。今の時刻が───夜中の十一時半過ぎだったからだ。
「……ユーリさん!?」
そして彼は、私の姿を視認するなり目を剥いた。まさか私がいるとは思ってもみなかった、そんな顔だ。よれたワイシャツに皺のついたスーツ、げっそりとこけた頬は、ダウンライトによって悲愴感を増している。
しかし次の瞬間、カラ松さんはハッとして眉根を寄せた。
「っ、そ、そうだったな……約束、してたんだよな。すまん……忘れてた」
「メッセージも送ったよ」
「えっ!?い、いや、それは……充電が切れそうだったから見てないんだ」
バツが悪そうに視線を逸らす。私は手つかずの弁当を一瞥すると、立ち上がって玄関口でカラ松さんと対峙する。

「これ以上隠さないで」

向き合わなければ、私の前から彼はいなくなってしまう。そんな確信に近い予感がした。
「はは、何を言うかと思ったら」
カラ松さんは笑いながらコートを掛け、スーツの上着を脱いだ。
「君との約束を忘れてたのはうっかりしてたからで、それについては本当に申し訳ない。思いの外引き継ぎの内容が多くて、そちらに気を取られてしまっていた。
携帯も充電が残り一桁だったから、極力見ないようにしてたんだ」
時間は既に夜中だったが、長いうたた寝のおかげで私の意識はハッキリしている。
「タクシー呼ぶから、早く帰った方がいい。明日も仕事だろ?この埋め合わせは今度するから」
カラ松さんはスマホを手に取り、タクシー配車アプリをタップした。スラスラと述べられた口上は一見信憑性があり、一つ一つの理由は自然なものだ。場面が場面なら、あっさりと信じて彼の多忙さを気遣ったかもしれない。
でも───

彼は私の目を見ない。その意思表示が何よりの答えな気がした。

「実はお弁当買ってきてるの。遅くなっても食べやすそうな豆腐ハンバーグ。私が帰ったら食べてね」
「ああ、そうする。ありがとう」
話題が変わったことに、彼の顔に安堵の色が浮かんだ。
「───本当に?」
だから追求する。
「もちろんだ」
まだ嘘を重ねるつもりなら。
「もう二日くらいご飯食べてないでしょう?」
ゴミ箱の中身が、数日前と大して変わっていなかった。人様宅のゴミを検めるなんて褒められた行為ではないが、ゴミの日に出された形跡もない。見ている私の胸が締め付けられる痩せ細った姿も、長らく食事を摂っていないなら納得がいく。
日に日に衰えていくのを黙って見過ごす限度はとうに超えた。
「携帯を見る気力もないんでしょう?誰かとやり取りする余裕がないから、私のメッセージも見なかった。
食事をしない。毎日のように深夜まで帰らない。なのに仕事には欠かさず行く。ここまでくると、退職するっていう話も疑わしく思えるよ」
「───ハッ」
カラ松さんは嗤った。顎を突き上げ、蔑むように。私が彼を非難していると認識したのだろう。
「オレを信用してないのか?」
「嘘をつき続けられたからね」
「他人のことを考える余裕があるとは、羨ましいことだ」
彼の眉間に皺が寄る。
「オレが長い間どれだけ苦労してきたか、どれだけ会社に貢献してきたか、君には分からないだろ?
オレたちはそもそも生きる世界が違うんだ」
不運なことに、私はこの言葉の先に続くであろう言葉を早い段階で察してしまった。それでもカラ松さんから目を逸らさないのは、精一杯の抵抗だ。

「君にとって、オレは通過点でしかない」

実質の別離宣言。
恋人同士ではなかったけれど、限りなくそれに近い関係だと思っていた。人ではなく駒であることを良しとする非道な会社からの脱出に戸惑い、それでも改めて出直すことに喜んでいたのに。
「もう会わない方がいい。そうすれば君は今みたいに疑心暗鬼に駆られることもないし、オレも疑われずせいせいする」
「何で……何でそんなこと言うの!?」
私は言葉を荒らげた。ヤケクソで放った台詞ではなく、カラ松さんの本意を知りたかった。
しかし直後、彼の拳が私の真後ろにある壁を打ち、鈍い音が響いた。私は壁際に追い詰められる。部屋のシーリングライトの光はカラ松さんに遮られ、私には黒い影が落ちた。
「君が悪魔に見えるよ。オレの世界を破壊して、嘲笑ってるみたいだ」
「悪魔……」
「弱者を救う女神になるのは楽しいか?自分が偉くなった気がするだろ?
情けをかけられるオレは惨めでしかないがな」
冷笑しながら、吐き捨てられる。アイラインを引いたような濃い目尻のクマとは対照的に、私を排除しようと双眸はギラついていた。殺意にも似た、強い感情。
「そういうところに腹が立つんだ」

人が変わったように吐かれる暴言。これがカラ松さんの本性なのか、精神が病んでいるせいなのか判断がつかない。本性なら、一目散に逃げなければ自分の身が危うい。
終電ギリギリの深夜、一人暮らしの異性の部屋、防音性能に優れた鉄筋コンクリートの角部屋。まるで狂気の沙汰。

「カラ松さんだから何とかしたいんだよ!」
彼の瞳に動揺が浮かんだ。
「カラ松さんにしかしない。これまでも、これからも。一緒にいたいから、何とかしたいの。
それが偽善だっていうなら、偽善で全然いいよ!」
足に力が入らなくて、気を抜けば崩れ落ちてしまいそうだ。
「だから本当のこと言って。腹割って話して。私もそうするから」
カラ松さんの瞳に宿る侮蔑の色が、私の決意を揺るがそうとする。離れた方がいい、共倒れになる前に逃げろと、脳裏に警告も響く。
「正直に話してるさ!その結果がこれなんだよ!
あの時会わなければ良かったんだ!そうすれば他人のままでいられた」
彼の言葉は私の存在を否定するのに、今にも泣き出しそうな目をする矛盾。
「こんな生活続けたら死んじゃうよ!」
「放っておいてくれっ、ユーリさんには関係ないだろ!」
「関係ある!止められなくてカラ松さんがいなくなったら、私は一生後悔するからっ」
解けない呪いが、永遠に私の枷となる。不幸になると分かっていながらみすみす彼を手放すのだから、相応の罪を背負うことになる。私の希望はどこにも届かないまま。
カラ松さんは苦々しげに視線を床に落とす。

「君の人生に……オレはいるべきじゃない」

それなら、どうして───今にも泣き出しそうな顔をするのか。
充血した彼の目から一筋の涙が溢れ落ち、顎を伝ってポタポタと水滴がフローリングに落ちていく。
カラ松さんは壁から手を離し、ふらつきながら一歩後ずさった。
「違う…そうじゃない。違うんだ……」
嗚咽に混じり、首を振る。声は小さく震えていたが、深夜の静寂の中ではしっかりと聞こえるくらいの音量だった。
彼は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、私と目を合わせる。

「……助けてくれ、っ」

必死に絞り出した願い。乱暴に振り払った私の手を求めて、身勝手だとは思わないのか。相手を傷つけ、自分を追い込んで、落ちるところまで落ちなければ助けさえ求められない。たった一言が言えない。
馬鹿な人。本当に馬鹿、大馬鹿だ。
「職場には行かない方がいいと分かってるのに、何もせず家にいると気が狂いそうになる……仕事を辞めたオレに何の価値がある?誰に必要とされるんだ?
誰にも必要とされないのは怖い…っ、世間から切り離されたくない……」
余裕のある人なら、そんなことかと一笑に付すであろう苦悩。
しかし彼は心を蝕まれているが故に、優先順位をつけられずに長期的な焦燥感と不安感に駆られている。抜け出せない負のループの中にいる。仕事を失う大きな穴を埋める術が思いつかない。彼にとって仕事は生活の中心だったからだ。今後その穴を埋めるためにアルコールやギャンブルに手を出すであろう未来は、容易く想像できた。
つい一週間前は、幸せそうに笑っていたのに。

「私が必要としてる!」

彼の苦悶がたまらなく悲しい。それを自覚した途端、両目が熱くなった。頭の奥が締め付けられる感覚がして、涙が落ちる。
「ユーリ、さん……?」
「仕事辞めたらしばらく休もう!一年くらいなら私が養ってもいいっ、私の給料で何とかする!
家でご飯作って掃除と洗濯してくれたら、私すっごく助かるし!」
途切れそうになる声を必死に絞り出した。なりふり構わず、カラ松さんを抱き寄せる。彼は驚愕こそすれ、抵抗しなかった。
「カラ松さんは一生懸命やったよ。それで無理だったんだから、もう会社からは離れなきゃ。
頑張ってきたカラ松さんが必要とされないなら、私なんてもっと必要とされないよ」
「そんなこと……っ」
自虐的に笑ってみせたら、背中に回された腕に力がこもった。
「そんなことあるか!ユーリさんが駄目なんて、そんなこと、あるはずない!」
私はまた笑った。泣き笑いになって、声は出なかったけれど。

「カラ松さんだってそうなんだよ」

私の言葉に、彼は手に力を込めることで応えた。単語にも声にもならない互いの不規則な嗚咽だけが、深夜の狭い室内に広がる。
服が伸びるくらい強く掴まれる。使い物にならなくなったら、カラ松さんの最後の給料で新しく買い直してもらうのもいいかもしれないなんて、思考に余裕が出た。
「ユーリさ……ユーリっ、オレは…ッ、オレは───」
何か言おうとする彼の頭を抱き込んで、顔を私の肩に埋めさせる。無理に言葉を紡ぐ必要はない。
今日は彼も私も泣いていい。涙が枯れるくらい泣いて底に辿り着いたら、あとは上がるだけだ。



私が手を放しても、カラ松さんはまだ私を抱いたままだった。
目を離したら、塵のように消えてしまいそうな人だ。この世界に執着していないから、何の痕跡も残さずにある日突然いなくなってしまうのではないかと、私は不安で仕方がない。
「……ひどいことをした」
「うん」
「ユーリさんを傷つけた」
「うん」
「許してくれと言える立場じゃないが、許してほしい」
「うん」

耐え難い状況に追い込まれた人は身勝手になる。寝不足、空腹、そして疲労がその要因だ。全てを兼ね備えた今のカラ松さんが他人に苛立ち暴言を吐くのも当然と成り行きと思えば、腹も立たない。ただ、たまらなく悲しいだけで。

「───側にいてくれ、ずっと」

このタイミングでそれはズルい。

「はい」

でも、この返事は絆されたからではないことだけは明言しておこう。深夜に虚ろな瞳で会社を出た彼を見たあの時から、覚悟を決めていたことだから。

行き先は、おとぎ話のような美しいハッピーエンドではないだろう。茨の道しか広がっていないかもしれない。
それでも私たちは、惑いながらも切り開いていくしかない。地獄になんて落ちてやるものか。美味しいお店を新規開拓するも良し、のんびり過ごせる公園を見つけるも良し、思う様体を動かせるジムに通うも良し。少しずつ世界を広げていこう。彼の新しい居場所を見つけるのだ。

一緒に。