リベンジ・レンタル彼女

違和感は、根拠のない所には発生し得ないものだ。
例えば人に対する場合、相手の行動パターンであったりこれまでの実績と照合した結果のエラーが、違和感という不明確な感覚となって去来する。おそらく本当はもう少し複雑で、その時の様々な感情や環境も踏まえて、総合的に弾き出されるものなのだろう。
須らく、何らかの理由は存在する。

だから私がおかしいと感じたのも、きっと裏付けできる根拠はあったのだ。
彼が一歩踏み出すタイミングが一瞬遅かったとか、不意に眉をひそめたとか、見逃しても不思議ではないほどの小さな変化が、私の目には映った。


「カラ松くん、どうかした?」
散策の足を止めて、私は尋ねる。
「ん?どうしたハニー?」
住宅街を抜けた先、東京都が管理する広大な自然公園に入ってすぐの、池にかかる橋の手前。
幅数メートルの広い橋の上には、池を眺める人や会話に花を咲かせる人たちの姿がぱらぱらと見受けられる。何の変哲もない穏やかな景色だ。
「何かあったの?」
湿度の高い夏も間もなく終わりを迎えようとしているが、照りつける日差しはまだ強く、水面の照り返しが眩しいくらいに感じられた。
「いや何、ノースリーブを着たハニーの白い肌が、サンシャインに負けないくらいの輝きを放っているせいで、視界がホワイトアウトしたようだ」
そのまま遭難させてやろうか。
私は眉間に皺を寄せて、カラ松くんの胸に人差し指を突きつける。
「嘘つき。だって、これで二回目だよ」
「ハニーのノースリーブは初見だが」
ノースリーブから離れろ。

「この場所でカラ松くんの様子がおかしくなったのが、今ので二回目」

この公園を訪ねるのは今回で二度目だった。
前回カラ松くんの様子に違和感を覚えた時、気のせいかもしれないと胸中の言葉を飲み込んだ。けれど今回のことで、疑惑が確信へと変わる。
「ユーリ…」
カラ松くんは呆気に取られた様子だった。
「…動揺しないように努めていたつもりだったんだがな。ハニーには何でもお見通しか」
見透かされたにも関わらず、心なしか嬉しそうだ。
「言いたくないなら言わなくていいよ。ここが苦手なら、場所変える?」
私の提案に対しては、カラ松くんは首を横に振った。
「───嫌な思い出があるんだ、ここには」
少し話してもいいかと前置きをしてから、彼は橋の欄干に背中を預ける。私は隣に並んで、彼が口を開くのを待った。


レンタル彼女。
意外な単語がカラ松くんの口から飛び出してきた。
「道を歩けば十人中五人の男は確実に振り返るほどの美貌だった。恋に疎いオレたちはすっかり夢中になって、まんまとイヤミとチビ太の策略に嵌ったというわけさ」
イヤミさんとチビ太さんによる、レンタル彼女で一儲けする画策が事の発端となった。
デカパン博士の薬によって彼らは美女となり、松野家六つ子をたらし込んで有り金を毟り取ることに成功するが、最終的に正体がバレてカラ松くんたちから報復を食らう。
彼女という魅惑の存在と見かけの美しさに心を奪われていた松野家六つ子の絶望たるや、想像を絶するものだったに違いない。
そもそもレンタル彼女自体、用法用量を誤り身を滅ぼす者が後を絶たない危険なものだ。
「そんなに美人だったの?」
「そりゃもう、絶世の美女だったぞ!
流れるような金髪に長い睫毛、微笑みの似合う形の良い唇と抜群のスタイル、そして色気漂う声。極めつけに服装が、胸の谷間が見えるエロいシャツとミニスカート!」
拳を握って力説し始めた。
「そんな美人がオレを彼氏扱いしてくるんだ、そりゃ勘違いだってするさ!童貞殺しにも程があると思わないか、ハニー!?」

ほう。

「カラ松くん、童貞だったんだ?」
これは初耳。
「──…え?」
「つまりチェリーボーイだと」
「…知らなかった?」
「知らなかった」
その返答に対し、彼がハッと息を飲むのが分かった。失言だったらしい。
「あ、大丈夫、薄々そうじゃないかと思ってたから」
「トドメさしてくるの止めてくれないか」
両手で顔を覆うが、隠れていない耳は真っ赤だ。指の隙間から、ああああぁぁと言葉にならない絶望が漏れてくる。カラ松くんにとってその事実は、曖昧に濁しておきたかった不名誉だったのかもしれない。

「で、カラ松くんはイヤミさんとここでデートした時に、痛い発言だけで八十万を請求された、と」
「カッコいいから一万値引きするって言われて喜んだんだから、ほんと馬鹿だよなぁ。脈アリだと思ったんだ、あの時は本気で」
長年異性といえばトト子ちゃんしか側にいなかった六つ子にとっては、美しい上に自分たちに好意を示してくる相手に心惹かれるのは、至って当然の流れだったと言える。
というか、あわよくばエロいことに繋げたい一心だったのだろう
「だからイヤミとチビ太だった時のショックは、正直トラウマレベルというか…」
見た目がまるで別人とはいえ、長年腐れ縁同然の相手に欲情した実績は消えない。私も想像しただけで切腹したくなる。
「…ただ、その、勘違いしないでくれ。
美女とかそういうのはあくまで当時思ってたことで、今はその容姿も何とも思わないし、むしろユーリの方がずっと──」
「ずっと?」
我ながら意地の悪い問いだ。返ってくる言葉は、聞かずとも容易に推測できるのに。
カラ松くんは困ったように苦笑しながら、私にだけ聞こえるほどの声で小さく告げた。

「…何でもない」

そう言うカラ松くんの方がずっと可愛いんだが、どうしたらいいだろう。
「まぁ、最終的にはイヤミたちから金は取り返して元通りにはなったんだ。
でも何となくしこりが残って、嫌な場所になってるんだよな。それがいつまでも消えなくて困ってる」
「それだけ強い印象を残すくらいの美貌だったってことだね。
美女薬かぁ──ということはひょっとして、女である私が飲めば絶世の美女に!?
お世辞にも美男と呼べる外見ではない二人が美女に変身したのだ、私ならばさらなる効果が期待できるかもしれない。
しかしカラ松くんはぽかんと口を開けたまま、不思議でたまらないといった風に異議を唱える。
「ハニーはこれ以上綺麗になってどうするんだ」
「…は?」
「今でも十分すぎるほど綺麗なのに」
うん、待て待て、まずは落ち着こう。
ここはいつもの気取ったポーズでボケを重ねて私のツッコミを誘発すべきところだろう。空気を読め、私のボケを拾え。


不意に、カラ松くんが手を打った。
「そうだ!ユーリがレンタル彼女をすればいい!」
「しません」
「せめてオレの提案を聞いてくれ、ハニー」
どうせろくでもないことに決まっている。聞くまでもない。
「男は上書き保存っていうじゃないか。嫌な思い出は上書きすればいいんだ。一時間五百円で頼む
「激安!」
それはイヤミさんたちが提示した六つ子特別価格ではないか。一般的なレンタル彼女の価格は一万近いはず。
厄介な頼み事は敬遠したい一方で、少なからず興味を感じる自分もいる。
何しろレンタル彼女という名目があれば、合法的に推しにセクハラし放題
結論を出すために理性と欲望を秤にかけたら、あっという間に片側に傾いた。

「───レンタル期間は今日の九時までね」

「オーケー、商談成立だ」
カラ松くんが指を鳴らす。
こうして、私は期間限定でカラ松くんの彼女を演じることとなるのだった。




公園散策の予定を変更し、ショッピングモールのメンズアパレル店を訪れた。カラ松くんの秋服を彼女としてコーディネートする目的だ。
「やっぱカットソーにカーディガンかなぁ。それともサテンブルゾン?でもロング丈カットソーにざっくり編みのニットも絶対似合うと思うんだよね」
推しに合う秋服のイメトレは、脳内で何度も繰り返してきた。任せろ。
いそいそと棚から商品を引っ張り出してきては、カラ松くんの胸元で広げてイメージを膨らませる。
トップスは単体で着ると野暮ったくなりがちなので、トップスとボトムスの間にレイヤードを挟んで、スタイルにメリハリをつけることにする。
カラ松くんの場合、黒や紺といった濃いカラーが似合うので、中間に白を入れて上下の色を引き立てるのが良さそうだ。

私が選んだ白のカットソーと紺のニットを着た格好で、試着室のカーテンをカラ松くんが開ける。
「…どうだ?」
「うん、似合う似合う!大人っぽくていいね」
イメトレの甲斐あって、想像していた通りよく似合っている。
私が褒めると、カラ松くんは満更でもなさそうに鏡の前でポーズを決めた。
半袖に比べて極端に露出は減っているのに、エロスを感じるのはなぜだろう。聖域は隠されてこそ真価を発揮するのか。
「お連れ様の秋物をお探しですか?」
あれもいいこれもいいと上機嫌で服を合わせていたら、私とさほど年が変わらない女性の店員が声をかけてきた。
にっこりと笑みを作って、力強く頷く。
「はい、彼氏に似合う服を探してるんです」
「……か、彼氏!?」
顔を赤くしたカラ松くんが、素っ頓狂な声をあげた。
「ただでさえ可愛いのにこれ以上可愛くなったら困るんですけど、私としてはやっぱりもっと彼氏の魅力を引き出したいっていうか、全面に押し出したいんですよね」
この辺は本音の吐露に等しい。彼氏を推しに変換すれば、完全に本心だ。
「あら、ご本人の前でそんなこと仰るなんて、素敵な彼女さんですね」
突然店員に話を振られたカラ松くんは、目を丸くする。
「い、いや…その…オレにはもったいないくらいで…」
「ふふ、ではもっと素敵になっていただきましょうか。彼氏さんスラッとしてらっしゃるから、細身の服も似合いそうですよね」
これなんかどうでしょうと持ってくるトップスは、どれもカラ松くんのイメージを損ねない物ばかり。さすがは人気アパレル店の店員、チョイスが的確だ。
その後店内で松野カラ松ファッションショーを開催し、最終的にはカラ松くんが一番気に入ったという、一番最初に私が見立てたニットとカットソーを購入して店を出る。
実にいい目の保養になった。来週一週間は余裕で仕事頑張れる。




時刻は夕方の五時を過ぎた頃。立秋を迎え、太陽が水平線へと沈む時刻が日に日に早まっていく季節、見上げた空はまだ青い。
次の目的地を決めかねているところだったので、私は道中でカラ松くんをカフェに誘った。
カウンターで注文した冷たいドリンクを受け取り、ソファ席に腰かける。空調の効いた室内で、肌に浮かぶ汗が冷気を纏って体を冷やす。
「テラス席にしたかったんだけど、さすがにこの暑さだと誰もいないね」
「外が良かったのか?
日除けのパラソルがあるとはいえ、この気温だと椅子自体が熱そうだ」
言いながら、カラ松くんはコーヒーの注がれたカップを一気にあおる。
「うん、そうなんだけどね…」
私はガラス窓に映る空席のテラス席を見つめながら、不意に胸に湧き上がった懐かしい思いに浸る。テーブルに頬杖をついた格好のまま、記憶の引き出しから取り出した断片で映像再現を試みていたら、カラ松くんが優しく目を細めるのが視界の隅に映った。

「───ユーリと、初めて出会った場所だもんな」

ああ、と自然と声が漏れた。
「覚えてたの?」
「忘れるもんか。オレのメモリーに刻まれたハニーとのファーストエンカウントは、スローモーションで思い出せるぐらいクリアに覚えてるぜ」
両手を広げて自己陶酔する大袈裟な仕草で、カラ松くんは熱を込めて語る。
「あれ、でも待って。私あの時、このお店を出てたよ」
「テラス席で本を読むハニーのことはときどき見てたんだ…可愛い子が座ってるな、って」
遠くに視線を投げながらぽつりと呟いて、次の瞬間ハッと我に返るカラ松くん。
横文字を織り交ぜたポエムは意気揚々と口走るのに、正直な思いを吐露するのは未だに戸惑いがあるようだ。
「い、いやっ、何だ…その…そう!ハニーの熱い視線を感じた気がしてたんだ!
フッ、オレはカラ松ガールのラブビームには敏感だからな」
財布を手渡した時が第一印象ではないのは、驚きだった。テラス席で本を開いていた時、同行者がいないからと完全に気を抜いていたから、お世辞にも美しい立ち居振る舞いではなかっただろう、死にたい
でも、それにしても。
「あの時、もしカラ松くんが財布を落とさなかったら」
「ユーリが、オレの財布を拾わなかったら」
何もかも偶然の産物だ。誰かが意図的に仕掛けたわけでも、裏で糸を引いたわけでもない。
けれど。
「街内でユーリと再会した時は、息が止まった」
軽快なジャズが流れる静かな店内に、カラ松くんの声が溶け込んでいく。

「…オレは、運命だと思ったよ」

私たちは、用意されたシナリオを演じる役者ではない。
自分の意思で道を決め、時に迷い、暗闇の中を懸命に進んでいくのだ。これから先だって、今のような平坦な道が続く保証はどこにもない。
しかし、理想の結末に向けた舵を取ることはできる。そして過ぎ去ったからこそ言えるのだ───運命だった、と。


「前回のレンタル彼女の時、晩ご飯って…あ、そうか、みんなでホテルの高層階にあるレストラン行ったんだっけ?
予約せずに行って席あるようなとこ?」
「トッティが言うには人気店らしいからなぁ。電話して聞いてみようか?」
「あー、ううん、いいよ。今後もそのお店行く予定ないんでしょ?
だったら中華のチェーン店でも行こうよ、餃子食べたい」
「オレが出すから遠慮しなくていいんだぞ」
費用は心配しなくていいとカラ松くんは言うが、問題はそこじゃない。
「カラ松くんは、今は私の彼氏でしょ?」
テーブルの上に両手を頬杖をつき、カラ松くんに微笑んでみせる。
「えッ!?…あ、ああ」
「それならさ、彼女の私が喜ぶお店に連れて行ってよ。そっちの方が嬉しいよ」
虚栄が効果を発揮するのはあくまで一時的なものだ。いずれは疲弊して、破綻する。

「…彼女になっても、ユーリはユーリなんだな」
感慨深けにカラ松くんが呟く。
「付き合っても基本はたぶんこんな感じだと思うけど…まぁ、レンタルされてる身だしね」
金で雇われたかりそめの恋人なのだ。仕事というフィルターを通せば、いくらでも相手を立てるし、ある程度の鬱憤は飲み込んで愛想笑いだってできる。
普段と変わらないように見えるのも、遊びの一環という意味合いも大きく影響している。紆余曲折があって結ばれた関係性ではないからこそ、そこに熱量はない。
でもその真実は語らない。彼は知らなくていいことだ。
「このことで、実はさっきからずっと思っていたんだが───」
両手を組み、視線をテーブルの上に落として、カラ松くんは眉間に皺を寄せた。言葉にすることにいくらかの抵抗があるようだったが、やがて重い口を開く。


「オレたち、いつもと変わらなくないか?」

核心をついてきた。
うん、私もそう思ってました。

二人だけで出掛けることも、カラ松くんの服を選ぶことも、カフェで向かい合って談笑することも、何度も繰り返している日常だ。
レンタル料を貰うどころか、彼女らしくないとペナルティが課せられてもおかしくない。
「何にも変わらないね。ごめん、私の気が利かなくて…」
トラウマ払拭目的をすっかり失念して、普通に楽しんでました。ほんと申し訳ない。
「ち、違う、いいんだ。ユーリが悪いと言いたいんじゃない」
「でも一応彼女なわけだしさ」
「それはまぁ、そうなんだが…」
何とも煮え切らない態度の中、カラ松くんは指先で照れくさそうに頬を掻く。それから私に聞こえない程度の小さな音量で、ぽつりと零した。

「そっか…いつもと変わらない、か」


空になったマグカップを返却口に戻し、私たちは自動ドアを抜けて店を出る。
何がきっかけだったかは忘れてしまったが、あれからすぐ話題が移り変わって、ひとしきり会話に花を咲かせたら、いつの間にか夕暮れ時だ。
街灯の明かりが一つまた一つと点いて、夜の帳が下りるまでのカウントダウンが始まる。
「カラ松くん」
歩き出そうとするカラ松くんを呼び止めて、私は右手を差し出した。
「どうした、ハニー?」
「手を繋ぐのと腕を組むの、どっちの方が好き?」
「───え」
体を強張らせて戸惑う様子から、言葉の意味を察していないのではなく、私に対しての遠慮か、真意を測りかねているように見受けられた。

「ユーリ…オプションで八十万とかないよな?
「新しいトラウマ生産してどうする」
乙女の恥じらいを返せ。

「本気か…?」
「彼氏彼女っぽいことだと思って。こういうの苦手なら、別の方法考えるよ」
「いや、違…」
カラ松くんは咄嗟に手の甲で口元を隠した。隠しきれないその表情からは、僅かな困惑と、嬉しくてたまらないといった感情が溢れ出ている。
私に視線を戻して、彼は意を決したように手を差し伸べた。

「───お手をどうぞ、マイハニー」

私がその手を取って指を絡めると、一瞬ぴくりと硬直したものの緊張はすぐに解けて、重ねた手を力強く握り返してくる。
言葉を紡ぐのは野暮な気がして、どちらともなく口を噤む。
アスファルトに長く伸びる二つの影もまた、仲睦まじく手を重ねていた。




夕食を終えて店を出る頃にはすっかり夜も更けて、夜の街へと仕様を変える。店舗やビルを彩る鮮やかなイルミネーションの中を、派手な装いの女性たちがすり抜けていく。
自動ドアをくぐる時、カラ松くんは恐る恐るだが無言のまま私の手を取るから、私も抗わなかった。繋いだ手の熱さに、どうしようもなく気分が高揚する。

けれど無情にも約束の時間訪れて、私の自宅へ向かう道の途中、重ねていた手をすっと離す。
時刻は、約束の午後九時。
「ご利用ありがとうございました。レンタル彼女、ここで契約終了です」
感情のこもらない営業スマイルを浮かべて、私はぺこりと頭を下げる。
「なーんてね。終わり方はこんな感じかな?」
「複雑な男心を理解し、手のひらで転がすハニーの手腕、さすがだったぜ。格安では見合わないくらいにいい時間だった」
「え、そう?意外と天職だったりして。
採用募集かかってたら、話だけでも聞いてみよっかなぁ」
演技だというのは、見目に明らかだったと思う。実行する気なんて毛頭ない、カラ松くんの冗談っぽい賛辞に乗っただけの、言わばフリだ。
なのに。

「───それだけは駄目だ!」

カラ松くんがいつになく険しい顔で撥ねつけるから、私は言葉を失った。
騒々しく車が行き交う夜の歩道に、不自然な静寂が漂う。
「他の男とデートなんて」
推しの男の部分を垣間見るとか、ギャップ萌えが過ぎる。
「…ごめん、嘘うそ、冗談だよ。そんなことしないって」
戸惑いながらも強く否定すると、カラ松くんは弾かれたように我に返る。
「ああ、いや…というか、オレの方こそすまん。冗談って分かってたんだが、ユーリが他の男とこういうことするのを想像したら、つい…」
何をしても可愛く見える推しだから私も心地よく演じられるであって、見ず知らずの他人相手に同じ価値を提供できるかといえば、答えはノーだ。
いや少し語弊があるな。何しても可愛いというわけではない、たまにイラッとはする、殴りたくなることもある
「そ、そうだ、費用を払わないとな。えーと、九時までだから…」
「──いらない」
ポケットから財布を取り出そうとするカラ松くんを制して、私は首を振る。
「カラ松くんからそうやってお金貰うのは、やっぱり嫌だな。だからこれはレンタル彼女ごっこ。そういうことにしようよ」
意外だとばかりにカラ松くんは目を見開いた。
「結局ほら、あんまり彼女っぽくないままだったし」
「そんなことはないさ」
街灯に照らされる彼の横顔は、真っ直ぐ前を見つめていた。

「いつもと変わらない。それを知れただけでも、レンタル彼女をしてもらった甲斐があった」

前提条件を変えることで、新たに見えてくる姿がある。
当たり前と感じていること、当然と信じていること、それはただの思い上がりで、不変なんて存在しない。失ってようやく気付く真実があるように、立ち位置を変えることで発見がある。
「トラウマはなくなったかな?」
「おかげさまでな」
「それは何より」
私は笑って、空を仰ぐ。白い三日月の浮かぶ夏の夜空。
デニムのポケットに差し込もうとするカラ松くんの手を、思いきって取ってみる。
「…っ、ユーリ!?」
「予定変更。家に着くまで、レンタル彼女延長してよ」
まるで甘酸っぱい青春の一コマのようだと内心で自嘲する。年甲斐もなく吐いた気障な台詞に吐血しそう。リセットボタン押したい。

「え…それ、延長料金で八十万とか言わないよな?
「トラウマ健在かよ」
何だこの茶番。


いい加減にしろと私が手を離せば、カラ松くんは焦って縋り付き、私の手に指を絡めてくる。ごめんという言葉と共に。
そんな言葉が聞きたかったわけじゃない。失策だった。だから、ごめんねと私の謝罪を上から被せて、繋がれた手をしっかりと握り返す。
カラ松くんが子どものような無邪気な笑顔で笑って、私はようやく肩の荷を下ろすのだった。