香りは、人の心と体にダイレクトに訴えかける、本能に深く関わる感覚だ。
人間の脳は匂いや香りに騙されやすいと言われている。匂いによって人を印象付けた経験に、覚えはないだろうか。
心身に影響を与えるだけでなく、過去と関連付けることで、時に古の記憶を呼び起こしたりもする。
「ユーリ」
日の照りつける日中でも少し肌寒さを感じるようになったある日、駅の入口に立つ私に声をかけたのは、カラ松くんだった。
どこか気怠げに視線を落としていた彼の双眸は、私を認識した瞬間に輝きを増して、弾むように小走りで駆け寄ってくる。Vネックの青いシャツに黒い薄手のミリタリージャケットを重ねた、細身のシルエット。袖を捲くった腕には、シルバーのバングルが揺れる。
控えめに言って、ただのイケメン。
「おはようカラ松くん、早い到着だね」
約束の時間にはまだ十五分ほど余裕がある。
「それはオレの台詞だ、ハニー。いつからここにいた?今来たばかりというわけじゃないだろう?」
詰問するようにカラ松くんが問う。眉間には皺が寄っている。
「トド松くんがこの近くに新しいカフェができたっていうから、新店調査がてらお茶してたんだ。でもお客さん増えて満席になったから、早めに出てきたの」
「ああ、なるほど。それで…」
唇に人差し指を当て、納得はした様子。それでも、待ちぼうけで冷えたんじゃないかとか、風邪でもひいたら大変だとか、過保護なことを言ってくる。これが素だというのだから、天然タラシの素質が凄い。お姉さん喜んで課金しちゃうぞ。
「いい雰囲気のお店だったし、今度一緒に行こうよ」
そう誘えば、一瞬驚いた顔をしてから、すぐに顔の筋肉を弛緩させて笑みを浮かべた。たまらなく嬉しいと、その顔は雄弁に物語る。
「そんなにオレと行きたい?
ハッハー、ハニーは本当にわがままなキティだな。しかしいいだろう、この松野カラ松、キュートなハニーが望むなら、どこへでも華麗にエスコートしてみせよう!」
恭しく頭を垂れて、王子が姫の前で跪くようなポーズを取るカラ松くん。相変わらず、気障な態度の時は仕草がいちいち大袈裟だ。
戯言はスルーに限る。さて行こうかと一歩踏み出した時、不意にカラ松くんが私と物理的に距離を詰めてくる。
「秋の妖精がついてきてるぜ」
何事かと構える私をよそに、気取った表現で私の髪に手を伸ばす。かさりと乾いた音がして、反射的に見やれば、彼の手に一枚の小さな枯れ葉。カフェから駅までの道中、オレンジ一色に染まった紅葉の美しい並木道を通ってきたせいだ。
「…ん?」
枯れ葉から手を離したカラ松くんは、僅かに顔を突き出して不思議そうな顔をする。くん、と鼻を鳴らして。
「…何だかいい匂いがする」
「あ、気付いた?」
何となく気恥ずかしくて、私は首を竦める。
「実はちょっと前から、香水つけ始めたんだ」
たまたま立ち寄った専門のショップで購入したのだ。すれ違った人に好ましい印象を持たせるような、日常使いができる優しい雰囲気のものを、と所望して。
「香水…そうか、どうりで…」
「ふんわり香るくらいのものだと思うんだけど、大丈夫?強すぎない?」
問われたカラ松くんはもう一度私に顔を近づけて、鼻を鳴らす。
「近づくといい香りなのが分かるくらいで、嫌な印象は全くないな。
こう…凛とした中に少し甘さがあって、でも爽やかで──ユーリに、よく似合ってる」
彼の嗅覚と表現の的確さに、思わず感心する。
私がつけているのは、砂糖が入ったストレートティーのような、ほんのりとした甘さとナチュラルさが調和した、日常使いでも飽きない爽やかさを謳っている。香りそのものに強い癖がなく、ほのかに香り続ける。
「でも…由々しき問題が一つあるな」
「問題?何?」
「ハニーの魅力に気付く男が増えてしまうじゃないか。
ただでさえアフロディーテも太刀打ちできないほどキュートなのに、触れずにはいられない魅惑の香りを纏ったユーリは、さながら空腹のライオンの前に現れた子うさぎだ」
平然と、さも当然の如く言ってのける。それがどれほどの破壊力を持つ言葉なのか、本人は気付く余地もない。
「変な虫がつきやすくなるのは、看過できないプロブレムじゃないか?」
もう勘弁して。
「ないと思うけど。でもまぁ…万一そういうことがあったら、カラ松くんヘルプで呼ぶね」
「その時は、光の速さで助けに行く」
本当に来そうだから笑えない。
「香水の効果で、ハニーが近くに来たらすぐ分かるのは、いいかもしれないな」
並んで歩きながら、カラ松くんがふと思いついたように言った。
「そんなに強い香りじゃないよ」
「そうなんだが、普段ユーリの匂いが印象に残ることなんて、そうそうないだろ?
たまに…あー、何だ、その…シャンプーのような柔軟剤のような、そんな匂いがするなと、思うくらいで」
微かな香りさえ感じられるほど密接するシチュエーションを思い出したらしく、カラ松くんは顔を赤くして私から視線を逸らす。
自分の体臭なんて、ついぞ考えたこともなかった。
誰しも自分の匂いには鈍感だと思う一方で、そういえば、と私は思わず口に出していた。
「カラ松くんは、いい匂いがするよね」
「…へ?オレ!?」
目を剥いたカラ松くんの声が裏返る。
「うん、カラ松くんの肌の匂い。
何度かくっついた時に、いい匂いがするなって思ってたんだよね」
体臭の要素となる成分は、肌の細菌や皮脂、毛穴から分泌される汗など数百種類と言われている。人によって匂いが異なるのも、女性の匂いは甘いと言われるのも、理由は科学的に解明されているのだ。
好ましい匂いと感じる相手は、遺伝子的にも相性がいいという。
「そ、そうか…?
清潔にするようには心掛けてはいるが、何せうちは男所帯だし、風呂も銭湯だし…」
自信なさげに自分の腕の匂いを嗅ごうとするから、私はカラ松くんの首筋に無遠慮に顔を近付けた。Vネックから覗く鎖骨に欲情したのは内緒だ、本当すいません。
「──ユーリ!?な、何を…っ」
抵抗はされなかった。驚きの言葉と共に両手が上がったが、顔を寄せた私に自分の顔が接触しないように顎を上げるから、その行為は歓迎していると誤解されそうだ。
柔らかな肌が、戸惑いがちに差し出されて。これがドラキュラなら、乙女の首筋に牙を立てるところだ。
「…うん、やっぱりいい匂いだよ」
カラ松くんから離れてにこりと微笑めば、彼は耳まで赤く染め上げて、手の甲で口元を隠す。
「ユーリっ…こういうのは、急にしないでくれないか。その…心の準備が…」
「あ、そうだね、ごめん」
私が素直に謝罪すると、カラ松くんはハッとして首を横に振った。
「…いや、違───すまん、やっぱり今のは取り消しで」
あ、とか、ええと、とか、不明瞭な一語を発するばかりで口ごもるのは、紡ぐ言葉を選ぶように。やがて意を決したのか、大きく口を開く。
「こういうことは、オレ以外の男には絶対にしないでくれ」
オレになら、いくらやってもいいから、と。
耳に抜ける雑音の一切合切が掻き消えてしまうほど、カラ松くんの口の動きと声に意識が集中する。懸命なその様子がたまらなく可愛くて、私の頬は自然と緩んだ。
その日の午後、外での用事を済ませた私たちは松野家を訪れた。安定した収入のないカラ松くんと高頻度で会うには、互いの家が一番手っ取り早い。特に松野家の場合は高確率で六つ子の誰かが在宅していて、私の訪問を歓迎してくれる。
いち早く気付いたのは、トド松くんだった。
「もしかしてユーリちゃん、香水つけ始めた?
爽やかないい香りで、落ち着いた大人の女性って感じー。ねぇねぇ、どこのブランド使ってるの?」
来客用のカップに注いだコーヒーを円卓に置くため、私の傍らに膝をついたトド松くんが、興味深げに訊いてくる。さすがは松野家における童貞脱却の第一候補と言わしめた末弟、鋭い観察力だ。
「マジで!?そういやさっき廊下ですれ違った時、何か違うなって思ったんだよね」
ポテトチップスを頬張りながら、おそ松くんが目を剥いた。
「えー、おそ松兄さん気付かなかった?
ユーリちゃんが玄関入ってきた時から、紅茶みたいな美味しそうな匂いしてたよ」
「相変わらず十四松の嗅覚は犬並みだよな、逆に怖い」
一松くんがぽつりと呟いた感想には同意しかない。香りのタイプを大まかに把握することさえ素人には困難だというのに、紅茶をベースにした点を彼は的確に突いてきた。
「女の子がつける香水って、魅惑のアイテムだよねぇ。
スメハラとか何だとか言われる時代だし、他の匂いが分かんなくなるくらいキツイのは僕も苦手だけど、横通った時にさり気なく香ってくるなんて超セクシー。もう恋に落ちる予感しかない」
恍惚の表情で天井を見上げるチョロ松くん。
「そう、それだチョロ松!」
突如立ち上がり、おそ松くんは一大事とばかりに私に人差し指を突きつけてくる。何事かとぽかんと口を開けるその他の面々。
「可愛い女の子ってだけでいい匂いするのに、香水とか何その童貞殺し!
その香水つけたら、ユーリちゃんが側にいるみたいじゃん?ってことは、実質ユーリちゃんになれるってこと!?俺=ユーリちゃんの方程式が成立!これってもはや付き合ってることになんない!?」
拳を握りしめ、鼻息荒く捲し立てる理論は、途中から清々しいほどに破綻していた。
「お前頭おかしいぞ、おそ松」
カラ松くんが私のツッコミを代弁してくれた。
「でもユーリちゃんの香水は、すごくいい匂いがするよ。砂糖菓子のようなくどい甘さじゃなくて、スッキリした爽やかさの中にほのかな甘みがある感じ。ボク好きだなぁ」
「可愛い子は存在自体が尊いのに、香水つけた可愛い子なんて天界の人だよね、ユーリちゃんは女神説はあながち間違いじゃない」
テーブルに頬杖をついて微笑を浮かべるトド松くんに対し、チョロ松くんは真顔で言い放つ。
「強化アイテムで、ユーリちゃんの魅力アップってことだね!ユーリちゃんすげぇ!」
トド松くんの向かい側で、十四松くんが長い袖をくねらせた。お世辞だとしても、褒められるのは悪い気がしない。それほどでもないよと私が謙遜したところで、ノンノンとカラ松くんが人差し指を振った。
「冷静になるんだ十四松。ユーリが一層魅力的になるということは、それだけ虫が寄り付きやすくなるということだ───駆除する準備は整えておく必要がある」
「ウォーミングアップは二十四時間万全でっせ、兄さん」
「そうか、さすがだな。心強いぞブラザー」
「その準備は確実に無駄になるから今すぐ止めろ」
童貞ニートどものフィルターには、私はどう映っているんだ。度の過ぎた賛辞はむしろ興醒めなのだが、カラ松くんに至っては本気で私の身を案じているのだから、たちが悪いことこの上ない。今だって、私の制止の声に愕然として目を瞠っていた。
「カラ松くんは、マリン系か柑橘系かなぁと思うんだよね」
ショッピングモールの一角にある香水コーナーで、私は比較的メジャーで安価な香水が並ぶアクリル棚を覗き込む。
「んー、ハニー、ガイア最高峰にギルティストなオレに相応しい香りは、言葉でひと括りにできるほど単純じゃないぜ。幾重にも絡み合う男女の恋心のように複雑で、かと思えば水面に波紋を広げる一滴の雫のように静粛で──」
「黙って」
「あ、はい」
カラ松くんは気落ちして、私の視線の先を追う。
棚の端に香りを試すための細長い白い紙、いわゆるムエットが置かれていたので、テスターを吹き付けて嗅いでみる。
「香水ってさ、つけるシーンによっても選び方が変わってくるんだって」
「つけるシーン?」
「そう、私みたいに日常使いだったり、フォーマル、デート、リラックス用──とかね。
人とは違う特別なものをっていう気持ちも分かるんだけど、それだと匂いの存在感が強すぎて、カラ松くんの良さが霞むのは本末転倒でしょ?」
自然で気取らない香りの方が、意外と似合う気がするのだ。青い海のように爽やかでフレッシュな雰囲気なんて、特に。私の勝手な印象で、本人の願望とはかけ離れているかもしれないけれど。
「私は──爽やかで可愛くて、ちょっとセクシーなカラ松くんがいいな」
ムエットから漂う柑橘系のさっぱりとした香りに気を奪われて、カラ松くんから返答がないことにしばらく気付かなかった。カラ松くんに似合うのではと提案しようと目線を移した際、顔を真っ赤に染め上げた彼が視界に入る。本音ポロリしすぎた、申し訳ない。
ここはフォローすべきかと思案を巡らせるより先に、カラ松くんが普段以上に大袈裟な身振りで額に手を当て、悩ましげなポーズを取る。
「…フッ、そんなにオレの匂いが嗅ぎたいか。安心するといい、オレの胸はいつでもハニーのために空けてるぜ!」
「そう?じゃあ予約しとく」
「え!?……ほ、本気か?」
躊躇なく返したイエスの言葉には、悪ふざけと本心が混同している。少し大仰な流し目で微笑めば、熱の集中した顔には、愛嬌のある笑みが浮かんだ。
「──なら、ユーリ専用でいつでも空けておく」
結局、カラ松くんに合う香水の発見は至らなかった。一番イメージに近い物を手首に吹き付けて試そうかとテスターを向けたが、私の香りが判別つかなくなると辞退された。
「ずっと嗅いでいたくなるような香りだからな」と笑顔でぶち込まれた天然砲を、平然と対応した自分に勲章を贈りたい。
まぁ香水なんてオプションつけずとも推しは最高に可愛いから問題はない。沼万歳。
「お待たせ、カラ松くん」
女子トイレで化粧崩れを軽く直し、モールの通路に設置されているベンチに腰掛けるカラ松くんに声をかけた。腕と足を組み、どこか物憂げに天井を見上げるその姿は、相変わらず様になっている。ときどき、彼が童貞であることを、とても不思議に思う。
「ハニー」
そんな彼が私を見るや否や破顔して、ハニーと呼ぶのだ。にゃーちゃん超絶可愛いよと、魂で叫ぶチョロ松くんの気持ちがよく分かる。
「帰りは、駅まで送っていくだけで本当にいいのか?家までだっていいんだぞ」
「まだ夕方だし、心配しなくたって大丈夫だよ」
子どもじゃないんだからと一笑に付した時、カラ松くんが首を傾げた。
「ん?香水の匂いが強くなったような…」
彼の反応に、へぇ、と私は感嘆の声を漏らす。
「分かる?だいぶ時間が経ったから、つけ直したの」
「それにしては、匂いが少し違う気がするな。紅茶というよりは…少し甘い果物みたいな、上手く表現できないんだが」
「…すごいねカラ松くん、そんなとこに気が付くんだ」
まったくもって恐れ入る。嗅覚が優れているのは十四松くんだけではないらしい。
「香水って、時間の経過に合わせて香りが変わっていくんだよ」
香水は様々な香料をブレンドして作られていること、成分によって揮発する時間が異なるために香りに変化が現れること。
人と会う時は、半時間から一時間前につけるといいとされている。ミドルノートと呼ばれる香りが漂う頃で、これは香水として最もいい香りの時間帯だからだ。
「奥が深いんだな」
「変化を楽しめるのも香水のいいところだよ。──そうだ、私の香水を気に入ってくれたなら、カラ松くん試してみない?」
そう言って、私は鞄から香水を詰め替えたアトマイザーを取り出し、カラ松くんの手首に向けてプッシュする。
私がつけているのはオードトワレと呼ばれる、3~4時間程度香りが持続するタイプだ。外出時間が長い日は途中で香りが消えてしまうため、詰め替えを持ち歩いている。
「自分でつけると、また印象が違うな」
「体質によっても変わるから、カラ松くんがつけた場合と私がつけた場合も、厳密には香りは違うと思うよ」
香りの変化を知覚しやすいように手首につけたので、手を挙げるたびに強く鼻孔をくすぐるだろう。
「いい香りだよね」
同意を求めるよう訊けば、カラ松くんは自分の手首を口元に近づけて、うっとりと陶酔するように目を細めた。
「───うん」
カラ松くんが「ああ」ではなく「うん」と答える時は決まって、気取った仮面が外れて無意識に気を緩めている。そこにあるのは、満足感や充足感といった、彼の器を温かな液体で満たす幸福の要素だ。要は、セクシーがすぎる。
「ハニーが側にいるような気がして、いいな」
卒倒しなかった私を誰か褒めて。
不思議な感覚だった。
微睡んでいるような、魔法をかけられているような。
己の手を顔に近づけるたびに、ユーリの纏う香りが強く漂う。彼女と別れてしばらく経つのに、振り返ればまだ傍らにいるような気さえする。快活さに満ちた、カラ松が好きな笑顔で。
手首を寄せずとも、香りは不意にも訪れて、カラ松をドキリとさせる。心臓に悪い。
「ただいま」
玄関の引き戸を開けて言えば、居間に続く障子が開いて、チョロ松が顔を出した。
「おかえり。もうすぐご飯だから、席ついとけよ」
「分かった。ブラザーたちは?」
「二階にいるから、呼びに行くとこ。お前暇だったら食器並べるくらい手伝っといてよ」
ん、と返事をして、上がり框で靴を脱ぐ。
よろしくなと肩を叩かれた直後、チョロ松が目を剥いて、握りしめるようにカラ松の両肩をがしっと掴んだ。カラ松はギョッとして硬直する。叱責される覚えは全くないが、何かやらかしたのだろうか。
「ぶ、ブラザー…どうし」
「ユーリちゃんの匂いがする」
「え」
咄嗟に言い逃れできなかった。外出時、兄弟は各々別の用事で不在だったから、ユーリと会うことは告げずに家を出た。書き残しや伝言も残していない。しかし、それはいつものことで、事後報告で事が済むことも多かった。
「あ、ああ…ユーリと会ってきた」
正直に答えれば、そんなことはいい、とチョロ松は切り捨ててくる。
「抱いたの?」
「んんっ!?」
意味が分からない。なぜその言葉が出てくるんだ。
「ユーリちゃんを抱いたのかと訊いてるんだ」
チョロ松の瞳孔は開いている。けれど声は抑揚がなく平坦で、いつにないそのギャップがカラ松を戦慄させた。
「だ、抱くというのは」
「営んだかってことだよ!」
「えええぇえぇっ!?だ、抱いてない!抱いたこともない!それどころか今日は手さえ握ってないぞっ!何、怖っ!」
「じゃあ何でお前からこんなに強くユーリちゃんの匂いがするんだよ。どんだけ密着したら移るんだってレベルで匂いがするんだけど」
自分のみが認知している段階では、かろうじて許容範囲だった。しかし他人に認識される想定は欠落していて、突きつけられた客観的な現実は、カラ松の顔に熱を集中させる。
「…そんなに、分かるものなのか?」
口から出てきた言葉は、釈明でも誤魔化しでもない、素朴な疑問だった。
「分かるに決まってんだろ。ユーリちゃんがつけてる香水の匂いしまくり。つか、ユーリちゃんがつけてるから芳しいんであって、お前がつけてたら違うからね」
「そうか…そんなに、か」
チョロ松のオラついた眼力は、ユーリの香りの前では効力を発揮しない。たかが香り一つで惑わされる自分はどうかしてると思う反面で、カラ松に容易く幸福をもたらしてくれるユーリの存在感を痛感させられる。
やはり彼女は、自分にとってなくてはならない女性だと、もう幾度目かの再確認。
何がそんなにおかしいんだよと、チョロ松に指摘されて初めて、自分が笑っていることに気が付いた。
銭湯に行くまでの数時間、他の兄弟たちから散々香水の香りを揶揄されたのも、改めて思い返せばほんの束の間の出来事だった。
体を流して湯に浸かり、再び脱衣所に戻った時、第三者の元まで漂っていたほんのりと甘い紅茶の香りは、まるで最初からそんなものはなかったかとでも言うように、消滅していた。洗い流せば消える、ただそれだけの、当然の摂理。
なのに───
「そりゃ消えるよ、むしろ消えなかったら困るでしょ」
銭湯から帰ってすぐ、縋るように電話をかけたら、軽やかな声でユーリはそう言った。ちょうど彼女も風呂上がりだったらしく、時折タオルで髪を拭くガサガサした音が響く。
「そんなに気に入った?何なら、小分けにしたヤツあげようか?」
電話越しに濡れた髪のユーリを想像して、にわかに浮き立つ。無防備な服装と、触り心地の良さそうな柔らかな体と、形の良い唇と。顔を見られない通信手段で良かったと、この時ほど自宅の黒電話に感謝したことはない。
「…いや、オレはいい」
カラ松は小さく答える。
「あれは、ハニーの香りだ」
寂しさは紛れるどころか、増大してしまうから。
「オレのはまたそのうち考える」
より一層、会いたくなってしまうから。
限りなくノーに近いグレーの言葉で誤魔化せば、ユーリはカラ松の意図を悟ったのか、そっか、とだけ応じる。彼女はカラ松に強要はしない。ベターな道筋を示すことはあれど、最終的な選択はカラ松に委ねてくれる。
一人の人間として尊重されるのは嬉しい。けれど裏腹に、時に物足りなさも感じることがあって、与えられるものが増えるほどに貪欲さも比例する己の醜さに苛まれる。
会っていても足りなくて、かといって会わなければ渇望する。胸を掻き乱す想いは、なかなかに厄介な存在だ。
ユーリの側にいたい。
その一言を伝えるのに、いつも遠回りばかりしている。
時は過ぎて、それから数日後のことである。
「居間には母さんの友達が来てるから、ユーリちゃん二階上がってて。紅茶入れてすぐ行くよ」
トド松くんと、話題のショコラティエの新作ケーキを買いに行った帰り。割り勘で一通り買い揃えて、松野家で試食会の開催をしようという流れだ。ケーキの箱を抱えたトド松くんは、ウキウキ顔で台所に消えていく。
居間からは、女性二人の賑やかな話し声が聞こえてくる。邪魔にならないよう足音を忍ばせて二階へと上がった。
襖を開けると、毛布に包まれてソファで惰眠を貪っている人物が目に入る。誰もいないと聞いていたので少々驚いたが、顔を覗けば──カラ松くんだ。僅かに口を開けて、穏やかな表情で眠っている。寝顔も相変わらず可愛い。
床に膝を立て、上から顔を覗き込む。頬をつついたり髪を梳いたりしてイタズラを仕掛ければ、カラ松くんがううんと唸る。
おもむろに瞼が半分ほど持ち上げられて、寝ぼけ眼の瞳に私の姿がぼんやりと映った。
「あ、起き──」
しかし、私の言葉は遮られる。
音もなく伸ばされた両腕に、抱きすくめられたからだ。
「ユーリ…」
力強い抱擁で、私は彼の胸に顔を埋める格好になる。化粧が移るとか、トド松くんが上がってくるとか、様々な懸念事項が脳裏を過ぎったが、抗うほどの抑止力にはならなかった。服越しにカラ松くんの匂いがする。彼の胸の鼓動に合わせて心が落ち着いて、穏やかな感情へと誘導されていく。
抜け出すタイミングが掴めないまま、どれくらい密着していただろうか。
しばらくするとカラ松くんが片手で目を擦り、その刺激をきっかけに意識が浮上した様子だった。窓から差し込む日差しに眩しそうに目を閉じながら、自分が誰かを抱きしめていることを認識する。
「ああ、すまんブラザー…寝ぼけてて…」
私の背中から手を離して、カラ松くんは再び手の甲で目を擦る。まだ目は開かない。
「ううん、いいよ」
「…はは、何だお前その声。それじゃまるでハニーみたいじゃ…ない…か…」
瞼が持ち上がるにつれて消え入る声。私と視線がぶつかった瞬間に至っては、文字通り飛び起きた。猫みたいに。
「ユーリ!?…え、ええっ、何でここに!?」
「トド松くんとスイーツを食べに」
そう言えばカラ松くんには伝えていなかったっけ。
「あぁっ、その、す、すまん!ハニーが来るなんて知らなくて、さっきのは夢かと──」
しかし夢のせいにしても抱擁の言い訳にはならないと気付いたようで、顔を赤くしたまましどろもどろになる。
「ユーリの匂いがしたような気がして、ええと…だから、つまり…」
「そんなに強い匂いだった?」
「えっ、いや全然…ただ、ユーリの匂いだな、って」
「そっか、そんなもんなんだ。今日はここにつけたんだよ」
そう言って私は後頭部の髪を掻き上げた。うなじや耳の後ろには太い血管があり、香水は血管が通っている部位につけるのが良いとされている。
説明するための仕草だったのだが、カラ松くんにとっては刺激が強すぎたらしい。びくりと肩が硬直したかと思うと、床に落ちた毛布を慌てて拾い上げて膝の上に置き、じっと俯く。察した。
「なぜ勃つ」
「た…っ!?は、ハニーが急にうなじを見せてくるからだろう!?」
「水着や浴衣の時だって勃たなかったのに?たかが首出しただけで」
「されどうなじだ!しかもハニーのうなじだぞっ!童貞歴絶賛更新してる新品の、免疫力のなさを舐めるな!」
威張るな。
なのに、どれどれ見せてごらんと毛布をめくろうとしたら、全力で抵抗される。
「やだー!」
そして泣かれた。子どもか。
「ユーリちゃん、お待たせー」
そうこうしているうちに、トド松くんがコーヒーとケーキを載せたトレイを持って二階へと上がってくる。かたや美味しそうなチョコレートケーキ、かたやうなじに欲情して涙目の成人男性。対比がすごい。
「あれ、カラ松兄さんいたんだ?」
「え、ああ、おおっ、トッティ!」
不審者感丸出しで声を上げるカラ松くん。私はトド松くんの目を逸らすために、咄嗟にカラ松くんの前方に踊り出る。
「──あー、うん、そうそう、昼寝してたんだって。
トド松くんケーキもう一個あったよね?せっかくだし、家にいる三人で食べちゃおうよ。カラ松くんのコーヒー入れるの手伝うね」
「そんな、いいよ、お客さんなのに。ユーリちゃんのコーヒー冷めちゃうよ」
「全然!大丈夫!どうせ少し冷ましてから飲むし。ね、行こう」
トド松くんに笑顔を向けながら、戻るまでに下半身をどうにかしておけと、後ろ手でカラ松くんに合図を送る。彼が認識したかは定かではないが、トド松くんの後を追って階下へ向かう際に目が合ったその表情は、少し困惑したような、でもとても穏やかなもので。
彼らの前で香水をつけるのは控えたほうが良さそうだ。そんな結論を私が出すに至るのは、至極当然な流れだったといえる。