オレだけだと言ってくれ

「ユーリの様子がおかしい」
居間で突然声をかけられたおそ松は、いつになく切羽詰まった様子のカラ松に目を丸くした。

「は?何て?」
おそ松は読み耽っていた競馬新聞から顔を上げた。思考を中断させられたせいか、聞き返す声には微かな苛立ちが含まれていたが、なりふりかまっている場合ではない。確信に変わった疑惑を誰かと共有しなければ、どうにかなってしまいそうだった。カラ松は隣にどっかと座り込み、円卓に拳を振り下ろす。
「ここ最近、ユーリの様子がおかしいんだ。まるでいつもと違う」
カラ松の焦燥感は長男には伝わらない。それがもどかしい。
「……一応訊いてやる。何がどうおかしいわけ?」
「よくぞ聞いてくれた!」
カラ松が前のめりで声を荒げると、近づくなとばかりにおそ松は眉間に皺を寄せて背を反らした。カラ松が飛ばす唾を、畳んだ新聞紙でガードする。

「まず、いつもなら家にいるはずの夜に電話しても出ないことが多い。折り返しも十時を過ぎて……分かるか、十時だぞっ、夜のだ!十一時の時だってある!」
「一人暮らしだし、ありじゃね?」
「しかも土日に予定が入ってる!オレの誘いに対して日時を変更してくることも増えた!会えないと言われることはないが、平日も忙しいと言って、オレとのデートを最優先してくれない!」
「ユーリちゃんにも予定くらいあるだろ」
「加えて、オレと一緒にいても心ここにあらずな感じもする。どこがどう違うかと言われれば言葉に詰まるが、とにかく何かが違うとオレの第六感が警鐘を鳴らしてるんだ!」
「ここにきてシックスセンス」
おそ松はいちいち真顔でツッコんでくる。
「真面目に聞けっ」
苛立ちの発散と注意を促す意味を込めて、再度円卓を叩く。無造作に置かれていたポテトチップスの袋が音を立てて揺れる。
「聞いたって。ちゃーんと聞いたよ、俺。いいか、カラ松?」
おそ松は面倒くさそうに溜息を溢した後、思考を集約させるためか腕を組んだ。いつになく真剣な顔で、長男は次男に目を向けた。

「それは男できたな」

「は?」
カラ松は青筋を立てる。自然と声は低くなった。これまでに立てたありとあらゆる仮説の中で、最も忌避していた説だったからだ。
「だってそうじゃん。いやまぁアレだよ、一つ一つは普通の人には全然あることだと思うよ、俺も。
でも相手はカラ松推しを公言して憚らないユーリちゃんで、『夜に連絡取れない』『休みに予定がある』『平日も忙しい』と三拍子来たらもう役満だろ。お前に興味なくなったんじゃないの?」
指を一本ずつ立てながらおそ松が根拠を述べる。それは、事実を基に彼が立てた、彼が最も有力と感じる仮説。
「っ、ユーリに限って、そんなことあるはず───」
「ない、と言い切れるか?」
鋭い視線。反論する材料を持たないカラ松に、おそ松はやれやれと肩を竦めた。
「そりゃ言えないよねぇ。だってお前、ユーリちゃんの彼氏じゃないもん。どの口が、って感じじゃん」
ちゃぶ台の上で握りしめたカラ松の拳が震える。このままおそ松に一撃を加えて黙らせることは容易い。
しかし、それを実行に移せば、図星を指されて激昂したと告白するようなものだ。
全部自分の杞憂で、実際にはユーリの想いも自分たちの関係も何一つ変化はないと思い込みたいけれど、現実に幾つかの変化は起こってしまっている。少なくとも今のユーリには、カラ松よりも優先すべきことがあるのだろう。繁忙期だとか休日出勤だとか、そういった類であってくれと願う心境とは裏腹に、その可能性が限りなく低いことも理解している。

「……でも、なぁ」
おそ松は腕を組んだまま、天井を見上げた。
「仮にマジで彼氏ができたとしても、それをカラ松に黙ってるってのはユーリちゃんらしくないよな」
うーん、と唸りながら彼は唇を尖らせる。

「筋は通す子だと思うんだけどね」



どんな理由があるにしろ、本人に聞くのが一番手っ取り早い解決策だ。おそ松も最後はそう締めくくっていたし、自分でもそう思う。
となると、善は急げである。

「ユーリ、何か隠してることはないか?」
空気は読まなかった。
休日の待ち合わせ後にファミレスに入り、ランチのメニューを注文して店員が遠ざかったのを見計らい、単刀直入に尋ねた。店内は程よい音量のBGMと客の声で賑わっているから、耳をそばだてない限り隣のテーブルの会話は聞こえない。
ここへ辿り着くまでのユーリの様子に、変わったところはなかった。親しみをもって接してくれるし、今後の話も彼女の方から振ってきた。
なのにカラ松の中に浸透した違和感は、今なお拭いきれないでいる。今日の予定自体、彼女の都合で変更された日時だったせいもある。
「何か、って?」
ユーリは面食らった様子で問い返してくる。これが演技ならオスカーものだ。
「何かあるだろ。その……最近のこととか」
カラ松は明言を避けた。何となく手持ち無沙汰で、水の入ったグラスを両手で包む。退路を断たれ観念して語るのではなく、せめて自らの決意で告げてほしかった。
「えー、何だろ……あ、カラ松くんが涎垂らしながらうたた寝したのを動画で撮ったこと?
「よだ……え?」
「それとも毎月カラ松くんのフォトブック作ってること?
「待て待て」
脱線に理解が追いつかない。
「話してなかったっけ?フォトブックは厳選した写真ばっかりだから、我ながらいい出来なんだよ。今度見る?」
全部見る───じゃなくて!」
ユーリのペースに飲まれてしまった。
とはいえ、専属カメラマンが撮影した自然体の自分の写真集は是が非でも見たい何でもっと早く言ってくれないんだと悔しささえある。うたた寝の件に関しては追求したいことが山程あったが、これは日を改めよう。今じゃない。
「アレだ、その……この所妙に付き合いが悪いというか、忙しいんだろう?」
誘導するようにカラ松が言うと、ユーリは苦笑して胸の前で両手を合わせた。
「そうなんだよ、ごめんね。できるだけ迷惑かけないよう調整してるつもりだけど、どうしても優先したくって」
ユーリは照れくさそうに人差し指で自分の頬を掻いた。満面の笑みが彼女の顔に広がる。

「新しい推しを追うのに忙しいからさ」

「オレがいるのに!?」
ユーリから真相を聞いて浮かんだ感想は、上記の通りである。まるでユーリが浮気したような言い草になってしまった。否、あながち間違ってはいないが。
カラ松が発した素っ頓狂な声に、隣のテーブルの若い女性がチラリとこちらを一瞥する。
「カラ松くんは『最推し』だよ」
「そ、そういう問題じゃないだろ!誰なんだ、その男は!?」
声を抑えるが、気ばかりが逸る。
「私と同い年で出身地が近いってことで昔からずっと親近感があってね、いつか人を感動させたいって言ってた人なんだ。夢を叶えるために血の滲むような努力もしてる背景も含めて、あーこれ推せるな、って」
うっとりと推しを語るユーリの双眸は、恋する乙女のように輝いている。すっかり心酔しているのが、その表情から明らかだった。カラ松を前に、相手への恋慕を隠そうともしない。
目の前が真っ白になりそうだった。ユーリからは見えないよう自分の膝を強く摘み、正気を保つ。

「……いつからだ?」
いつからその男と一緒にいるのか。知りたくはない、けれど知らなければ。
「最近だよ。まだ二週間くらい」
「オレを避けてたのは……そいつの方がいいからか?」
目尻が熱くなって、視界が滲む。掠れそうになる声を必死で絞り出した。せめて罪悪感を表情に浮かべてくれたら、この想いに行き場がなくとも少しくらいは救われたかもしれないのに、ユーリは愉快で仕方ないとばかりに微笑んでいる。
「あ、カラ松くん勘違いしてる」
「え?」

「推しは俳優だよ」

ユーリが口にした言葉の意図が分からない。
「売れない俳優ってことか?」
眉間に皺を寄せるカラ松に対し、彼女は苦笑する。
「違うってば。ドラマとか映画に出てる芸能人で、私とは面識どころか対面で会ったこともないよ。三次元だけど、手が届かないくらい高い所にいる人だって。
ドラマに出てる俳優を、いいな、って思うことあるでしょ?まさにそれ」
「……あ」
全てが一瞬にして、腑に落ちる。
タイミングよく料理が運ばれてきて、互いに無言になった短い期間で、カラ松は現状を正しく理解するに至る。
途端に羞恥が込み上げて、何でもないフリをするのに全精力を投入した。オレよりその男の方がいいのかなんて、図に乗りまくった彼氏面発言を盛大にかました。完全に同列に扱った。穴があったら入りたい。

「長らく小さな劇団所属で、ドラマや映画もエキストラか脇役だったんだよね。でも今の事務所の人の目に留まって、今回ついに映画の主役に抜擢されたの。
その映画も面白くって、観るたびに新しい発見や解釈があるから、公開初日から時間があれば通ってるんだよね」
ユーリは楽しそうにスマホを見せてくる。映画館に展示されているティザービジュアルとチケットの半券を一緒に撮った写真だ。SNS投稿用に撮影したものだろう。カラ松が電話をした夜に応答しなかった日時のもの。ポスターの中心に主役の俳優が映っている。
「……オレの方がいい男じゃないか」
率直な感想が口をついて出る。今時の優男風で端正な顔立ちをしているが、見惚れるというレベルではない。
「別に顔だけで推してるわけじゃないから。この人、演技力も高いんだよ。
これまで脇役が多かったけど、誠実な青年から狂気的殺人鬼まで演じ分ける演技力も買われての今回の抜擢だから」
ユーリは表情を取り繕ってはいたものの、自分の気に入っているものを悪し様に言われるのは気分が悪いだろう。言った直後に気付いたが、後の祭りである。
けれど、ここで謝罪するのも何だか癪に障る。
「最近は番宣でニュースやバラエティにも出てて、トークも意外に上手くてさ。人を傷つけない絶妙なツッコミするんだよ。
そうそう、頭もいいっていうのはここ最近で新しい発見だった。地頭がいいってすごいよね」
ユーリはスマホをテーブルに伏せ、いただきます、と挨拶をして料理を頬張る。この話はこれで終わりだ、と言わんばかりに。
「そ、そうか……」
上げた拳の下ろし先が分からなくなりそうだった。
しかし───

「オレの方が格段にいい男だが、ハニーのプライベートが充実しているなら何よりだ。通いすぎて疲れないようにするんだぞ」
ユーリが浮気をしていない証明がなされたのは、喜ぶべきことだ。



「カラ松、お前どうしたの?大丈夫?」
兄弟に気付かれぬよう家の中でも気を張っていたつもりだったが、自分しかいないと思っていた場にチョロ松がいて、憔悴しきった姿を目撃されてしまった。不安そうに眉を下げる三男と目が合った瞬間、辛うじて保たれていた最後の壁が崩壊する。
「チョロ松うううぅぅぅぅうぅぅっ!」
「うわっ、えっ、何!?」
全身の水分が目から噴出するかの如く、涙が溢れた。膝をついて、わんわん声を上げる。驚いたチョロ松は右手に持っていた雑誌を床に落としたが、構わずカラ松に駆け寄った。
「ハニーが…っ、ハニーがひどいんだ!」
「ユーリちゃんが?」
「オレ以外の推しができたって、めちゃくちゃいい顔でその推しのこと褒めてくるんだ!すげー嬉しそうに他の男の話をしてくるのヤだ!聞いてるオレの精神が崩壊するっ、何だこの地獄!」
「……あー…」
チョロ松は眉を下げ、言葉にならない声を漏らす。何と慰めたらいいか分からない、そんな顔だ。カラ松は腕で涙を拭おうとするが、袖を捲くっているせいで、涙を払うどころか顔中に広げてしまう。惨めさが加速する。

「ユーリにはオレだけだったのに!」

他の推しの話なんて、ついぞ聞いたことなかった。いつだってカラ松だけを見ていてくれた。好きなものを語ることはあっても、カラ松に向ける熱量の比ではなかった。
「新しい推しは誰って?」
「今やってる映画に出てる俳優……」
「三次元か」
何だ三次元って。訳知り顔なのが絶妙に腹立つ。
チョロ松は引き出しから取り出したハンカチをカラ松に投げる。空中で受け取って、カラ松は両目に当てた。目を閉じたらユーリの顔が浮かんできて、また泣けた。
「カラ松がユーリちゃんとの現状に甘んじてるせいじゃないの?もう一年近いだろ」
「え、オレのせい!?」
共感と慰めを期待していたのに、華麗に裏切られる。
「まぁ……お前の気持ち知ってて弄ぶユーリちゃんも悪いかもしれないけど」
「ユーリを悪く言うな!」
「どっちだよ!面倒くせぇなもう!」
チョロ松が咆えた。
「そもそも、そういう話が嫌だってこと、ユーリちゃんには言った?」
「……言ってない」
正直に答えたら、三男は眉をひそめる。
「ちゃんと言わなきゃ。お前ほんとこういう時、全方面にいい顔しようとするよな。その結果僕が犠牲になったのまだ根に持ってるからな
最後の文句は明らかに私怨のそれだった。兄弟から頼られた際にカラ松自身がノーと言えず、助け船を出してくれたチョロ松をスケープゴートにしてその場から逃走かました話である。兄弟間における自分の好感度を下げたくないがために、チョロ松を犠牲にしたのだ。
「まぁ、それは置いとくにしても、だ。
ユーリちゃんには自分の口で言えよ。言わなくても察するスキル持ちなのは、一部の超一軍だけだからね。特にお前は八方美人だから、察しろなんてエスパーでない限り無理」
言い方に容赦がないが、概ね正しいからぐうの音も出ない。魔法の言葉なんてないのだ。

ようやく涙が止まり、渡されたハンカチが塩水でぐっしょりと濡れた頃合いに、チョロ松が首を傾げる。
「っていうか、何で僕にこういう話すんの?もっと適役が───ああ、うん、いないか」
少なくとも家の中には。
「……チョロ松なら分かると思って」
折を見て相談するタイミングを図ろうと思っていたところだった。声をかけられたのは、渡りに船だったのだ。
「推しについてだから?」
「ああ」
「そりゃ分かるよ、すごくね」
「チョロ松……」
三男の微笑みは天使のようだった。たった一言で、救われる命がある。やはり自分の人選に誤りはなかった。

「ユーリちゃんの気持ちが嫌というほどね」

誤りだった。
「ジーザス……とんだ伏兵だぜ」
「だってそうじゃん、推しは増えてもいいだろ。推しは一人しか駄目なんて法律ないからね。
僕だってにゃーちゃん推しだけど、他にも推しキャラとかいるし。依存先は複数ある方が心は安定する
怖い話になってきた。
カラ松は長めの息を吐き、チョロ松の肩に手を添える。
「チョロ松……お前とハニーは違うんだ」
「うるせぇわ!」
よくよく考えれば、チョロ松の言うように、何らおかしいことではないのかもしれない。カラ松にだって、可愛いと思うアイドルや理想に近い俳優へのあこがれの念はある。彼らがテレビに映れば自然と目が行くし、雑誌に登場すれば他のページよりも読み込む。積極的に応援していないだけで、推しといえば推しだ。
だとしても───

「それでも、ユーリにはずっとオレだけだったんだ。
例えオレが今は一番でも、いつ抜かされるかとヒヤヒヤしなきゃいけないのは……怖い」

唯一だったものに順位がついた。
一位と二位を隔てる距離は、思いの外ないのかもしれない。振り返ればすぐ後ろに別の人物がいる可能性はこれから常に付き纏い、カラ松を苛むのだ。



往々にして、不運は続くものである。
ある日カラ松が運動がてら近くを散歩しようと玄関を出たところで、ユーリとトド松が並んで歩いているのに出くわした。彼らは松野家に向かって歩いてくる。互いに笑みを浮かべ、恋人同士にも見紛う仲睦まじさで、カラ松は一瞬呼吸を止めた。
「ユーリ……」
朝、部屋でトド松を見かけた。外出用の服をいそいそと取り出し、ああでもないこうでもないと一人ファッションショーを繰り広げた後、慌てた様子で家を出たのが数時間前のことである。誰とどこへ行くのかは言わなかったし、カラ松も訊かなかった。あの時尋ねていたら、彼は同行者の名を素直に告げていただろうか。

「あ、カラ松くん」
驚愕するカラ松とは裏腹に、ユーリは目を細める。相変わらずの人懐っこい笑顔で、こちらに向けて手を振った。
「な、何で!?白昼堂々と浮気か、ハニー!?」
カラ松の咆哮に、ユーリとトド松はびくりと目を剥く。
「新しい推しだけじゃ飽き足らず、トド松にまで手を出すなんて……っ」
「帰れ」
眉間に深い皺を刻んだ末弟が、いつになく低い声で吐き捨ててくる。
「短絡的すぎて呆れを通り越して殺意湧いたよ、カラ松兄さん。仮に浮気───ってか、お前とユーリちゃんは付き合ってないから前提すらおかしいけど、浮気だとしても相手連れ立って家帰るようなことする?
それやったら最上級馬鹿だろ」
「うっ……」
返す言葉がない。
「カラ松くん変だよ、どうしたの?熱でもある?朦朧としてる?」
一見心配している風だが、ユーリの言葉もなかなかに辛辣だ。
「いや、違…その……」
「ボクらは映画の舞台挨拶に行ってきただけだよ」
「舞台挨拶?」
カラ松のオウム返し、トド松とユーリは頷く。
「そ。今話題の映画でたまたま応募したら当たって、ユーリちゃんに話したらユーリちゃんも当たったっていうから、じゃあ現地集合しよっかって」
トド松の説明に続き、ユーリが口を開く。
「ほら、この前話した推しが出てるヤツだよ。監督とメイン俳優さんたちが勢揃いだから、フルメイクで顔作って劇場内でも映える服で参戦してきた
意気込みが尋常じゃない。拳を握りしめて語るユーリの瞳は美しく、だからこそその視線の先に映る相手が自分ではないのが苦痛だった。
「舞台挨拶だけで貰える特典のしおり、推しが出たんだよ!私の引きの強さすごくない?」
「へ?あ、ああ……すごいな、さすがはハニーだ」
気を取り直して笑みを返したつもりだったが、トド松は訝しげな横目を寄越した。

トド松はユーリへの挨拶もそこそこに、足早に家の中に入る。さっそく舞台挨拶の感想をSNSに投稿するのだそうだ。
実はカラ松は、今日ユーリと約束を取り付けていた。それが、今から半時間後である。先に入れた用事──舞台挨拶のことだ──が終わったら会えるからと、駅で待ち合わせのはずだった。
しかし、当日になって偶然トド松と同じ舞台挨拶に行くことになり、ついでだからとカラ松を迎えに来てくれた。そういう経緯であるらしい。

「すまなかった……気が動転してた」
トド松と入れ違いに自宅を出て、二人並んで歩き出した折に、カラ松は頭を下げた。彼女は苦笑して肩を竦める。
「いいよいいよ。私も事前に連絡したら良かったね」
トド松と映画の話で盛り上がってしまい、電話をする思考に至らなかったとユーリは言う。先ほど仲睦まじく見えたのは、推し語りをしていたからなのだろう。何度も観に行っている、その映画とやらの。
「映画、そんなに行くならオレを誘ってくれれば良かったのに」
我ながら恨みがましい言い方になってしまった。
けれど実際、ユーリは映画館に一人で通うばかりで、一度たりともカラ松に誘いをかけてきていない。異性の推しを観に行くのに、カラ松がいては差し支えるというのだろうか。
だとしたら、彼女の気持ちは既に自分ではなく───

「だってカラ松くん、ミステリーは好きじゃないでしょ?」

「は?」
ユーリはそう言うが、好き嫌いに言及した覚えがない。
「映画の原作は難解なミステリー小説なんだよ。前に私の部屋で映画の話した時、ミステリーはちょっとなぁって言ってたじゃん」
素早く記憶を手繰り寄せると、心当たりが一つ浮上する。
一ヶ月前くらいに、ユーリが新作映画ランキングの話題を振ってきて、その時のトップがミステリーだった。謎解きは斬新だが事件は凄惨で後味悪いという評価が多く、「ミステリーにはさほど興味がない」ようなことを口走ったかもしれない。
面白そうだと検討し始めた彼女を牽制する意味合いもあった。ユーリと過ごす貴重な時間で、負の余韻に浸るのは願い下げだったからだ。
「ま、待て…っ、それじゃあ、ユーリはそれでオレを誘わなかっただけなのか?」
「うん」
「もしあの時、オレが嫌だと言ってなかったら……」
「誘ってたよ。主役の推しが素晴らしいのはもちろんだけど、映画自体も面白かったし───あれ、もしかして映画観たかったの?」
カラ松は拍子抜けする。
自分が好まないテーマだろうから誘わなかった。単純明快で至極自然な配慮だ。霧が晴れて、視界がクリアになる。足が軽い。
「来週も行くけど、一緒に行く?」
「行く!」
食い気味に即答したら、ユーリはおかしそうに笑った。



駅までの道中をのんびりと並んで歩く。浅瀬の河原では、制服を着た男子中学生がキャッチボールをしている。人通りはまばらで、時折聞こえる自然の環境音が心地良かった。
「幸せそうなユーリを見るのは嬉しい」
つらつらと心境を吐露しようと思ったのは、周囲の静けさも要因の一つだった。ユーリは顔から笑みを消してカラ松を見やる。
「でもオレ以外の男のことを夢中で話す姿は……正直辛い。今までユーリの推しはオレだけだった───少なくともオレは、そう思ってた」
ユーリが熱中していた推しは、自分だけだと自惚れていた。ずっと唯一でいたかった。
カラ松は足を止める。

「ユーリの一番でありたいのに、どうしたらいいのか分からない───いつか飽きられるのが怖いんだ」

ユーリのために自分がいかなる努力をしてきたかと問われれば、閉口せざるを得ない。変わらなければという危機感は常に傍らにあり、物事一つ一つに対して小さな一歩は踏み出してきたと思うが、所詮はその程度だ。同じ時を過ごしているユーリはいつだって自分より遥か先にいて、カラ松に手を差し伸べてくれている。
彼女が言葉を尽くして示してくれる好意にあぐらをかいていた。足元に広がっていた漠然とした不安に、見て見ぬふりをし続けた。
「そんなに心配してたんだ?」
カラ松の抱える重苦しさとは裏腹に、ユーリの声は軽い。
「……俳優の話を聞いてからは、ずっと」
苦々しげに告白すれば、ユーリはあははと声を出して笑った。楽しげな笑い声に、つい眉をひそめてしまう。
「っ、ユーリ、笑い事じゃ───」
「ごめんごめん。何か可愛くって」
ユーリは大きく息を吸い、胸に手を当てて心を落ち着かせる仕草をした。
「最推しって表現はよくなかったね。カラ松くんは確かに私にとって推しだけど、他の推しとは決定的に違う人だよ。比較対象にもならない」
ユーリの言わんとすることが分からない。呆然としていたら、彼女は続けた。
「私はカラ松くんといつも何してる?」
突拍子もない質問である。
「え、何、って……出掛けたり、電話したり、食事したり……?」
「そう、一緒にいるんだよ。こうやって並んで長時間喋ったり、遊びに行ったりもしてる」
かたや彼女の新たな推しは、普段はスクリーンやディスプレイを通して姿を視認し、舞台挨拶などで同じ空気を共有するのが関の山。

「カラ松くんを他の推しと一緒にしないでほしいな。カラ松くんに失礼だよ」

比較対象どころか、同列にさえいないのだ、と。
彼女の中には明確な線引きがある。見えなくても確証がなくても、それが彼女が持つ答え。
「ただ、興味ない話を延々聞かされるのは楽しくないよね。それについては気をつけるよ」
カラ松は慌ててかぶりを振る。
「違う!その……ユーリが楽しそうなのはいいんだ。ユーリの興味あることは聞きたいし知りたい。ただ、相手が男なのが嫌だった、というか……」
視線を地面に落とす。アスファルトに立つユーリの靴が視界に入る。手持ちの服との組み合わせや機動力など総合的に判断して購入したと、誇らしげに自慢してきたスニーカーだ。実際気に入っているらしく、たびたび履いてくる。

「……妬いた」

目を逸したまま、呟く。物音に遮られて、聞こえなくてもいい。届かなくてもいい。
でも───

「じゃあ女性の推しならいい?」

流れ変わったな。
そういう雰囲気になるべきフラグが、丁寧にへし折られた音がした。
「他の推しが彼だけだなんて、誰が言った?」
唐突なてのひら返し。
「推しはなんぼあってもええもんですからね」
「誰の真似なんだそれは」
「依存先は複数持っておいた方が心の平穏に繋がるんだよ。一人の推しに何かあっても、別の推しがいれば心は保たれる」
「最高にデジャヴ」
めちゃくちゃ聞き覚えのある台詞だ。まさかこの場で再度その言葉を聞くことになろうとは。松野家三男のドヤ顔が脳裏を過る。
そして、重要な分岐点の選択肢で意気揚々と間違った方を選ぶ上にさらなる推し語りをねじ込もうとするその心意気───ユーリだから全然許せる。そういうところも最高に可愛い。
「その点、カラ松くんは推しってだけじゃないから、何かあったら困るんだけどね」
困る。
「それは……もしもオレがユーリ以外を───」
明言を避けた問いに、彼女は答えなかった。意味ありげな笑みを向けるだけではあるけれど、否定もしない。
「はは、ノーキディングだぜ、ハニー」
カラ松は肩を竦めた。
「あり得ない。そんなことは絶対にあり得ないんだ」
簡単に心変わりできる軽い想いだったら、気楽に付き合えたかもしれない。今後どうなろうと知ったことではないから、玉砕前提で口説きまくり、結果嫌われたとしても掠り傷だっただろう。すぐにかさぶたになって、傷跡も残らず消えていく。通過点として笑えた。
いっそ手の届かない高嶺の花のままでいてくれたら、楽だったのに。

「そこは安心してくれ」
「急にいなくなるのもナシね」
「もちろんだとも。全てはハニーのお望みのままに」
もしこの場にグラスがあったら、高らかに掲げたい。それくらいカラ松の気持ちは高揚していた。

最初から唯一ではなかった。唯一だと錯覚させてくれていたに過ぎない。
他にも推しがいると言ってくれても良かったのにと不平を唱えることは容易いが、この境地に至るまでに自分が犯した数々の失態を顧みれば、口を噤むユーリの選択は最善だったのだろう。今となっては申し訳なさが先立つけれど。
推しの話をするユーリは眩しく愛らしい。こんな表情を見れるならもっと早くに受け入れれば良かったと思う反面で、カラ松はふと気付く。カラ松の良さを熱く語るユーリは、表面的な輝きではなく、もっと───
「……っ!」
首から頭のてっぺんにかけての体温が一気に上昇する。咄嗟に片手で口元を覆う。
「カラ松くん?」
「な、何でもない!」
声を荒げ、表情を隠して顔を背けている時点で十分に挙動不審の自覚はある。

カラ松だけだ、と言葉にしてほしい。
その願望をこの場で言わなくて良かったと心底思う。今ユーリの口から告げられたら、理性を保って家まで無事送り届ける自信は───正直、ない。

あなたを襲う夜が来る(後)

廊下は暗闇に包まれている。窓から差し込む僅かな月明かりだけが頼りで、彼に倣って足音を忍ばせながら進む。そうしてカラ松くんに手を引かれて連れて行かれたのは、数個先にある客間だった。
カラ松くんは私の部屋でしたように、入るなりドアを施錠する。何かから逃げている、そんな印象を受けた。
「ユーリちゃん!…良かった、無事だったんだね」
室内の明かりは落とされていて、トド松くんのスマホのライトが周囲を照らす。声を潜めて、彼は安堵の息を漏らした。パジャマ姿の六つ子とトト子ちゃんは、揃って血の気の引いた青い顔をしている。
「何かあったの?」
七人が円陣を描くようにハタ坊を取り囲んでおり、諸悪の根源は一目瞭然だったが一応聞いておく。
「ハタ坊」
おそ松くんが溜息と共に、回答を促す。ハタ坊はきょとんとしたいつもの表情のまま、口を開いた。

「ひとりかくれんぼをしてるんだじょ」

「何やらかしてくれてんだお前」
あまりの衝撃にうっかり暴言が漏れ出てしまった。
「あ、良かった。やっぱりその反応で正しいんだよな、安心したわ」
一松くんが胸を撫で下ろす。彼とトド松くんを除く面子は不安げな様子ながらも、危機感は二人ほど感じていないようだった。事態を正しく理解しているのは、四男と末弟と私の三名か。
「ユーリ、そのひとりかくれんぼっていうのは一体何なんだ?」
「えっ、知ってて私を呼びに来たんじゃないの?」
「一松が血相変えて部屋に飛び込んで来て、屋敷の中に危ない奴が徘徊してるっていうから…」
「みんなボクに感謝してよね。
ボクがハタ坊のひとりかくれんぼに気付かなかったら、下手したら大惨事になってたかもしれないんだから」
深夜に喉が渇いたトド松くんがキッチンに向かったところ、大浴場の脱衣室に入るハタ坊を見かけて何気なく覗いたのだそうだ。ハタ坊が何かを呟いてぬいぐるみの腹部を出刃包丁で刺すのを目撃し、「次は君が鬼だじょ」と告げる声を聞いた。ひとりかくれんぼ開始の手順である。
SNSで都市伝説に精通していたトド松くんは気付くや否や来た道を引き返し、兄弟を叩き起こしたという経緯だ。一松くんがひとりかくれんぼを知っていたおかげで危機感の共有ができ、深夜の起床を億劫がる全員を一同に会させることに成功した。

ひとりかくれんぼは、コックリさんのような降霊術と言われている。成仏できずにいる浮幽霊は実体を欲しがるため、呼び寄せて人形に乗り移らせるのだ。
十数年前、実行した者が怪奇現象に見舞われた体験談をネットに書き込んだことで、検証を試みる者が多発した。結果、ひとりかくれんぼの知名度は上がり、都市伝説として今も名を馳せている。

「でも、始めたってことは終わらせる方法もあるんじゃないの?あるよね?
トト子ちゃんが首を傾げた。始めたのならとっとと終わらせてこいとその瞳は語る。
「そ、そうだよ、ハタ坊。ぬいぐるみはまだお風呂場なんだよね?」
ひとりかくれんぼは二時間以内に終わらせなければならないと聞く。刺した後は隠れる名目で一旦風呂場から出る必要はあるが、戻ればぬいぐるみはまだいるはずだ。

「ちょっと目を離したら、いなくなってたんだじょ」

惨劇の幕開け。
私の脳内で試合開始のゴングが鳴った。
「キッチンに行ったら引き出しが開いてて、包丁が何本かなくなってたんだしょ
どう足掻いても絶望じゃねぇか。呆けた面で淡々と語るハタ坊を除く八人が一斉に顔を見合わせた。
「ああもうっ、何でそういうことに僕らを巻き込むかなぁ!?ちゃんと最初に言えよ!」
音量を絞りつつチョロ松くんが叫ぶ。
「言ったじょ」
「は!?」
チョロ松くんがメンチを切る。
「…あー…そういえば、何か言ってたかも」
十四松くんは心当たりがある様子で、気まずそうに黒目を左右にゆらゆらさせた。
「チビ太のとこで飲んでた時、別荘でやろうと思ってることがある的なこと言ってて、豪邸なら行きたいってぼくら頼んだよね?
確か…山奥だし、やりたいことは夜中にやるから危ないしうるさいかもってハタ坊言ってた」
カラ松くんが腕組みをする。
「言ってたな。
それを、オレらが寝てからなら何しようが気にならないから平気だって返した覚えがある」
元凶は六つ子でした。
完全に巻き込まれた側のトト子ちゃんは苦虫を数十匹同時に噛み潰した顔になり、会心のボディーブローが六人に見舞われる。いいぞ、もっとやれ。

六つ子のうめき声が呼び水となったのか、次の瞬間、耳をつんざく破壊音が轟いた。斧で木を砕破したような、メキメキと甲高い音。数十メートルは隔てた距離から聞こえたが、音自体は間違いなく私たちのいる二階から発された。
全員が目を瞠り、カラ松くんは私の肩を抱き寄せる。
「見つけにきたんだじょ」
平然と恐ろしい仮説を述べるハタ坊の脳天にツッコミを叩き込む心の余裕なんて、もはやない。
「ハタ坊、ひとりかくれんぼの終わらせ方は頭入ってる!?」
「じょ」
今にも胸ぐらを掴まんとするトド松くんの剣幕に、ハタ坊は首を縦に振った。
「全員一緒だと危ないから、別れて行動しよう」
「…それしかないか。トド松くん、制限時間のことは──」
「五時までだよね。二時間もあるから何とかなるよ……たぶん」
トド松くんはそう言うものの、実は既にハタ坊はルールを破ってしまっている。スタート時点に口に含んだ塩水は、最後にぬいぐるみに吹きかけるまでは保持していないといけないのに、彼は飲み込んでしまっているようなのだ。
開幕から破綻しているこのひとりかくれんぼが、今後無事終わらせられるかの保証はどこにもない。
「早く出ないと」
密室に閉じこもっているのは間違いなくフラグ。
私が退室を促そうと声を出したら───突然、ドアがコンコンとノックされる。

『もういいかい?』

特有のリズムに乗った、知らない声。くぐもった、布越しに発された声のようだった。
「……うっわ」
おそ松くんが嫌悪感丸出しで眉をひそめる。
「おそ松、ドアを開けろ。オレが仕留める」
「それ囮じゃん!」
「壁際に立てばいいだろ!」
廊下に続くドアは内開きだ。おそ松くんは背中を壁伝いに腕を伸ばし、ドアノブに手をかける。ノブ側の壁にはフロアライトを武器代わりに構えるカラ松くんが控えた。サムターンを回して解錠し、長男がゆっくりとドアを開く。次男がライトを振りかぶる。
「……あれ?」
しかしそこには、誰の姿もなかった。拍子抜けしたおそ松くんが廊下に顔を出して周囲を見回すが、やはり何もいない。私たちも慌ててドアに駆け寄る。
そこに───シャリ、と背後で音がした。まるで、ビニール袋に入れた米が擦れ合うような音だ。私の背筋に冷たいものが走る。ひとりかくれんぼは、ぬいぐるみから綿を取り出して、代わりに『米を詰める』。
そして何より、私たちの背後は───

室内。

「出て!今すぐ!」
私の叫びと同時に、全員が部屋を出た。狭い空間を我先にと飛び出したせいで、チョロ松くんが躓いて転倒しそうになる。彼が地面に手をつく直前にトト子ちゃんがすくい上げ、十四松くんが踵を返してぬいぐるみに飛び蹴りを見舞う。
衝撃で人形の手から離れた出刃包丁が、トド松くんの腹部の真横を掠めた。
「うわぁっ!」
ぬいぐるみはすぐさま立ち上がり、私たちを追う。トド松くんが反射的に飛び退いたのが階段の踊り場だったこともあり、階段を通り過ぎていた私たちとは道が分かれ、八人がバラバラでの逃走を余儀なくされた。




不運にも、ぬいぐるみがターゲットと定めたのは私とカラ松くん、それからハタ坊と一松くんだった。実行者のハタ坊がいるから致し方ないが、ジャリジャリと人形に似合わない不協和音を立てながら接近してくる恐怖は筆舌に尽くしがたい。
ハタ坊がひとりかくれんぼの鬼にしたぬいぐるみは、彼が運営する遊園地であるクズニーランドのマスコットキャラクターのくまだった。愛くるしい表情のまま包丁を振りかざして追いかけてくるギャップは恐ろしいの一言に尽きる。トラウマになったらハタ坊締めるからなマジで。
「ど、どっかに隠れるか何かしないと!このままだと体力ゲージゼロで詰む!」
四男が息切れしながら声を上げる。詰むとか不吉なこと言うな。
しかし一松くんの言葉にも一理ある。ぬいぐるみの驚異的なスピードは、私たちが少しでも速度を緩めればすぐに追いつかれてしまうほどだ。敵は無機物故に無限の体力を有し、さらに地理の分からない館内で私たちが闇雲に走るのは危険も伴う。
「次で迎え撃とう」
「はい?」
まさかの反撃ターン突入。
言うなり、カラ松くんは廊下の脇に設置されている消火器を手に取った。抱えあげ、ぬいぐるみ目掛けて叩きつける。鈍い衝突音が耳を貫く。
一松くんとハタ坊は、彼が消火器を構えている僅かな時間のうちに先に行ってしまった。分裂してしまったが、少数に分かれた方が勝率は上がるかもしれない。
「ユーリ、こっちだ!」
カラ松くんに手を引かれて、私たちは再び走った。

飛び込んだ先は、バーラウンジだった。
カウンターの奥には各種グラスと酒瓶が配置され、手前には本皮のバーチェアが四つ並ぶ。さながら小ぢんまりと経営しているバーだ。黒と濃茶を基調にしたシックな内装で、間接照明が程よくカウンターを照らす。明かりは最小限にとどめ、物音を立てないよう室内を歩く。
部屋は幸いにも左右に出入り口が設けられている上、施錠が可能だった。私はそっとドアを閉め、鍵をかけた。ドアにもたれ、呼吸を整える。準備運動なしの全力疾走は体に負担がかかる。加えて、手が震えて仕方ない。深呼吸して冷静さを取り戻そうとすればするほど、足先から恐怖が這い上がろうとする。
そもそも二時間程度しか寝ていないから、頭と体が重い。眠気を振り払うように、私は頭を振った。
「ひとりかくれんぼは…ハタ坊が終わらせないといけないんだと思う」
「そういうルールなのか?」
「うーん、そもそもひとりかくれんぼ自体が眉唾だから、絶対これだっていうルールはないも同然なんだけどね」
「なら、ハタ坊見捨ててオレたちだけ帰ればいい
何というハッピーエンド。
「…確かに」
目から鱗である。
「私たちに二次被害が及ばないとは限らないけど、それも一つの手だね」
カラ松くんは不満げに腕を組む。
「万一にもユーリに危害が及ぶ可能性が残るなら、撤退案は却下だな。気は乗らないが、ユーリの平穏な日常のために一肌脱ぐか」
判断基準を私にするのはいかがなものか。ハタ坊との扱いの差がすごい。まぁ、悪い気はしないけれど。
「ハタ坊が誰かと一緒にいてくれたらいいんだけど…」
スマホからトド松くんにメッセージを送ると、すぐさま返事があった。ハタ坊は末弟チームには合流していないようだ。

私がトド松くんとやりとりしている間に、カラ松くんは備え付けの冷蔵庫を開けて瓶のドリンクを二本取り出した。カウンター内の引き出しから栓抜きを拝借して蓋を取り、棚のガラスコップになみなみと注ぐ。
「カラ松くん、冷静だね」
率直な感想のつもりだったが、嫌味のような発言になってしまったかもしれない。
「そうか?怖くないと言えば嘘になるが……まぁ、ゴリゴリに殺意持ったチビ太に襲撃されて一人ずつ殺られた経験があるしな
「……は?」
「文字通り『そして誰もいなくなった』状態になった」
何やらかしたんだお前ら。
チビ太さんを激昂させる原因は想像に難くないが、とんだ幼馴染との腐れ縁が続いてるものだとチビ太さんに同情したくなった。
「それに今は、ユーリがいる」
「どういう意味?」
コップが一つ手渡される。口をつけると、全力疾走した体に染み渡る。カラ松くんはオレンジ色のコップを掲げ、不敵に笑った。

「絶対に守らないといけない相手の前で、おちおち怖がるナイトがいるか?」

声にならない。
覚悟を決めなければいけないのは、私の方。
「…私も、怖がってる場合じゃないね」
「ユーリ?」
カウンターにコップを置いたら、水滴がぽたりとテーブルに落ちる。
「───私も守るから、カラ松くんのこと」
物理的には彼に敵わないし、きっと守られてしまうことの方が多いのだろうけど、私にだって矜持がある。
覚悟を示すためにじっとカラ松くんを見つめたら、彼は目元を赤くして相好を崩した。
「…ん」
小さく声を出して。
「ならイーブンに、今回は貸し借りにするか?オレに借りを作ると高くつくぞ」
「作らないように努力するよ」
ジュースを飲む彼の手がふと止まる。
「でももし私が足手まといになったら、その時はひとりかくれんぼを終わらせることを優先してほしい」
タイムリミットまでに悪夢の終焉を迎えることが最優先だ。
しかしカラ松くんは不服と言わんばかりに、眉に深い皺を寄せた。短い溜息と共に口を開く。
「ハニー、こういう時くらいは素直に『私を守れ』と言ってくれ」
「それは…」
「オレに迷惑がかかる、か?
そんなことあるはずないだろ。ユーリに頼られることほどオレにとっての誉れはないんだと、もう何回も話したはずだ。
それに、危険なことも、ユーリが悲しむこともしない」
この降霊術は開始からルールを破り破綻している。終止符を打つ方法が存在するのかさえ今は怪しい。家が軋むかすかな音にさえ怯える恐怖から脱するために、私たちが尽くさねばならないのは最善策だ。例え、いくらかの犠牲を払ってでも。
けれど───
「じゃあ…万が一のことがあったら、助けてほしいな」
「オフコース、ハニー」

ああ、これアレだ、ごめん、危機的状況なのに空気読めなくて本当申し訳ないが───うちの推し可愛すぎん?
笑顔が超絶可愛い。私を守ってくれるって話なのに、守りたいこの笑顔、ってなる。可愛すぎて心臓が痛い。

どこからか、叫び声と衝撃音がした。




体力はある程度回復した。部屋に隠れていてもいたずらに時間が過ぎていくだけだ。ひとまずハタ坊を探すことにする。
遠くから絶叫が聞こえた誰か──おそらくは六つ子のうちの誰か──のことは心配だが、無事を祈るしかない。
廊下は足元に等間隔に設置された間接照明が僅かに灯っているだけで、仄暗い。それでも暗闇に覆われていないだけずいぶんとマシだった。

不意に、私はハッとして周囲を見回す。誰かにじっと見られているような、ひどく居心地の悪い感覚がしたのだ。
「ユーリ?」
他人からの視線に敏感なわけではないのに。むしろ普段は全く気付かないくらいなのに。
「…あ、ごめん、何でもない」
雨粒が当たる窓ガラスに、血の気のない私の顔が映る。視線の正体はガラスに映る私自身か。

やれやれと安堵したのもつかの間、パン、と風船が割れるような音がした。私たちの足音さえ反響するほどの静寂を破る、甲高い破裂音が続けざまに轟く。音は───天井とすぐ真横から発された。
「…っ!」
音が発生する要素がない空間での音、要はラップ音だと気付いて思わず飛び退いたら、結果的にカラ松くんの胸に飛びつく格好になった。彼は一瞬ぎょっとしたものの、すぐに右手で私の背中に手を添える。
「フッ、暗闇で急に抱きついてくるとは…大胆なハニーだ」
そんな悠長な話ちゃうねん。
気取ってる場合か。今なお響く耳障りな音を前に冗談を言えるカラ松くんに、私は驚きを隠せない。
「お、音!音が……っ」
カラ松くんはきょとんとして私を見やる。
「音?何の?」
「…え?だって、パンって、音…」

「何も聞こえないぞ」

そんな馬鹿な。私にしか聞こえないラップ音なんてあるのか。私は戦慄し、言葉を失った。
「とりあえず、向こうにいるらしいブラザーと合流しよう」
間近からの破裂音に疑心暗鬼になる私に、カラ松くんは廊下の先を指で示す。奥に行くほど闇は濃くなり、景色が不鮮明になっている。少なくとも私には、誰の姿も視認できない。
「よく分かるね?気配でもするの?」
私には六つ子の声も気配も感じられないが、カラ松くんには一卵性双生児特有のいわゆるテレパシーみたいなものがあるのかもしれない。理由は何にしろ、戦力が増えるのは僥倖だ。
「何言ってるんだ、ユーリ。あっちからうるさいくらいの声がするだろ」
彼の指の先には───暗闇だけが広がっている。
「全く…緊張感のない奴らだ」
微苦笑しながらカラ松くんは歩を進めようとするので、咄嗟に腕を掴んで引き止める。
「駄目!」
「ユーリ、何──」

「じょおおおおぉぉおぉぉ!」

カラ松くんの言葉をかき消したのは、緊張感のないハタ坊の叫びだった。両手を振り回しながら廊下を曲がり、私たちに向かって走ってくる。
その背後には、出刃包丁を握るぬいぐるみ。全力疾走のハタ坊に負けず劣らずの速度で彼の背後を追う。
「一人で走れるか、ハニー?」
カラ松くんが彼らを見据えながら問うた。
「な、何とか」
「よし、じゃあ───」
カラ松くんは傍らを通り抜けようとしたハタ坊をさっと小脇に抱える。

「一転攻勢だ!」

それから方向転換して階段へと駆け出した。私も彼の後を追う。
「ハタ坊、風呂場は!?」
「あっちだじょ」
ぬいぐるみは米を研ぐような音を立てながら背後に迫る。
ハタ坊が指す方へ向かう道中、角を曲がった際に私たちの視界に入った敵は、もう数メートルのところまで接近していた。風呂場まで間に合わない。冷や汗が私のこめかみを伝ったところで、カラ松くんが片手でハタ坊を抱えたまま、窓際に置かれていた直径三十センチほどの古美術品のような花瓶を掴む。
「くたばれ!」
手の甲に血管を浮かせ、力の限りで叩きつける。けたたましい破壊音と共に割れた陶器が飛び散った。彼はその破片の飛来をハタ坊を盾にして防ぐ。扱いがなかなかひどい。
ぬいぐるみが怯んだ隙をついて、私たちは再び駆け出した。


「さっきすげー音したけど、あれカラ松?」
敵を巻いて一息ついた後、おそ松くんとトト子ちゃんとの合流を果たす。目的の大浴場はもう間近だ。
「ユーリちゃんとカラ松くんが怪我してなくて良かった」
そう言いながらトト子ちゃんは武器代わりのゴルフクラブを握りしめる。
「お前がハタ坊回収してくれて助かったわ。急に見失ったからマジ焦った」
「じょー」
「風呂場に急ぐぞ。ハタ坊が使ったコップが残ってるはずだ」
カラ松くんが顎で進行方向を示す。
「コップ…?」
「ひとりかくれんぼを終わらせるために必要なの」
おそ松くんは首を捻ったが、私の説明に納得したようだった。

それからの目的地までの僅かな距離も、誰かが肩に手を置いた感触がしただの、耳元で囁き声が聞こえるだのと撹乱は続いた。メンバーが増えたため安心感は小さくなかったし笑みも覗いたが、全員が目に見えて疲弊している。スマホの画面は四時半を回った時刻を表示しており、タイムリミットも近づいていた。
チョロ松くんたち数名は無事でいるだろうか。どこかに隠れていてくれたらいいのだけれど。
大浴場の脱衣所の扉は、武器を握るトト子ちゃんが開けた。電気が消えているので、私がスマホのライトを室内に向ける。
「あ、コップって…あれのこと?」
彼女が人差し指を向けたのは、脱衣場の一角の床に無造作に置かれたガラスコップだった。中身は透明で、まだ半分ほど残っている。本来使用すべきはなくなっている半分なのだが、希望を託すしかない。
「ハタ坊……は不安だな。ユーリちゃん、持ってて」
おそ松くんからコップを受け取る。
「これ、最後に必要なんだろ?よく分かんないから、その辺は任せる。俺らはあいつをふん縛ればいいんだよな」
白い歯を見せてニッと笑うおそ松くん。任せとけよと、力こぶを作るポーズをした。
「…奴を探そう」
カラ松くんはおそ松くんに対してムッとした表情を見せたが、長男は彼から視線を逸して気付かない素振りを貫く。トト子ちゃんは腰に手を当て、呆れ顔だった。


『見ぃつけた』

背筋に冷たいものが走り抜ける。思考が停止する。
「…その必要はなかったらしいな」
「飛んで火にいる夏の虫、ってな」
松野家長兄の表情は窺えなかったが、ひどく冷静な声音だった。
ハタ坊を狙ってぬいぐるみが高く飛ぶ。その体の長さほどはある鋭利な包丁を振りかぶって。
最初に動いたのは、トト子ちゃんだった。リーチの長いゴルフクラブでぬいぐるみの脳天を叩く。続いておそ松くんが地面に落ちたぬいぐるみの手元を蹴り上げ、凶器を遠ざける。最後にカラ松くんが、いつの間にか調達していたロープで縛り、自由を奪う。息もつかせぬ見事な連携プレーだ。機動力を失ったぬいぐるみはジタバタと足掻く。
「で、あとどうすんの?」
出刃包丁を拾い上げたおそ松くんが私に尋ねた。
「あ、えと…コップの塩水をかけて燃やすの。それで落ち着くはず」
私は力の入らない足取りでぬいぐるみに近づき、ハタ坊にコップを渡す。彼は残っていた中身を口に含んだ。

これでようやく終わると安堵した次の瞬間───ぬいぐるみの口元が大きく裂け、口を開けた。あるはずのない鋭い牙を剥き出しにし、束縛されたまま私の足元に飛びかかってくる。
体は動かなかった。眼前の事実を認識するのに時間を要してしまい、脳が回避の判断を下すのが間に合わない。
「ユーリちゃん!」
トト子ちゃんの声に我に返った頃には、もう遅い。
けれど刹那、カラ松くんの靴がぬいぐるみを踏みつけた。グシャ、と人形らしからぬ不穏な音が耳を抜ける。怪異を見下ろす彼の双眸に宿るのは、強い嫌悪。
「───ハタ坊」
今のうちにかたを付けろ、とカラ松くんは言う。ハタ坊が口の塩水をぬいぐるみに吹き付けると、ぬいぐるみは完全に動きを止めた。だらりと伸びた肢体は、ピクリともしない。
「ハタ坊の勝ちだじょ」




それから十分も経たないうちに、全員が一同に会した。パジャマには埃や汚れが目立ち、顔には疲労の色が濃い。それでも全員が五体満足での再会を喜んだ。
リビングに集った私たちのうち何名かは、倒れ込むようにソファに体を預けた。全員の筋肉を弛緩させて、口からは長い溜息を吐く。
「暖炉で燃やせば終わりだじょ」
火を灯した暖炉に、ぬいぐるみを放り投げる。憑依霊を失った人形は元来の愛くるしい表情だったが、腹部に詰め込まれた米の重みで布が広がり、薄汚れた姿になっていた。見る見るうちに布が炎に包まれ、やがて原型を留めなくなった。
「…やっと終わった」
一松くんが体を横にして目を閉じる。
「寝よう」
「今すぐ寝よう」
十四松くんとトド松くんも続き、ソファをベッド代わりにする。
「もうここでいい」
「おあつら向きのソファ最高」
おそ松くんとチョロ松くんも訪れる睡魔に身を任せる。ハタ坊は暖炉の傍らで寝落ち、トト子ちゃんは一人がけのソファでいつの間にか眠っており、私とカラ松くん以外の面々はあっという間に意識を手放した。
開けた窓の向こう側には、灰色から薄黄色の淡いグラデーションに彩られた空が広がり、夜が溶けて朝を迎えようとする世界が映る。悪夢の幕切れに相応しい、希望に満ちた景色だ。

「オレたちも寝るか?」
私の横で、カラ松くんも船を漕いでいる。なら、眠ってしまう前に伝えておかなければ。
「今回も守ってくれてありがとう、カラ松くん」
「へ?」
「また私が守られる形になっちゃったね」
どうしても腕力や体力では彼を上回ることができない。自分の身を守ることさえ不十分で、いつも助けられている。
しかし私の小さな自己嫌悪を、カラ松くんは一蹴する。

「ユーリがひとりかくれんぼの終わらせ方を伝えて指示を出してくれたから、タイムリミットに間に合った。
ユーリが司令塔でオレが実行役、それでWin-Winだっただろ?」

互いの強みを生かした戦略だった、と。そうか、そういう捉え方もあるのか。
「将来はオレとハニーで探偵業を営むというのもグッドアイデアなんじゃないか?」
「えっ、それはさすがに私の荷が重いよ」
「んー、ユーリが考えてオレが動く、最高のバディだと思うんだが…」
「カラ松くんにそう思ってもらえるのは嬉しいけどね」
私は苦笑する。
そんな私を見て、カラ松くんは顔を綻ばせた。

「だから、ユーリは何も気にしなくていい」

何もかも見透かしているようで、本当は深い意味なんてないのかもしれない。
けれど、彼は私の心に沈殿する淀みをあっさりと薙ぎ払う。彼は腕組みをして、背もたれに背中を預けた。
「……そう、かな」
私が少しだけ地面に視線を移して、再び顔を上げた時、カラ松くんは既に夢の世界の住人だった。規則正しい寝息を立て、軽く組んでいた腕は解けてソファの上に落ちる。
「カラ松くん」
声をかけても返事はない。


私は彼の右手に自分の左手を重ねて、目を閉じた。色々考えるべきことや、ハタ坊と六つ子マジ許さん貴様ら全員土下座して許しを請えこの野郎といった苛立ちも今更ふつふつと湧いたが、ひとまず後回しだ。とにかく今は眠い。

間もなく、朝日が昇る。夜が去り、平和な朝がやって来る。

あなたを襲う夜が来る(前)

「肉と野菜は積み込んだし、オーケー、準備万端だ」
車のトランクに大型のクーラーボックスを積み込んだカラ松くんが、バックドアを閉める。トランクにはボストンバッグとリュックが山盛りだ。
「朝ご飯はどうする?コンビニでパンでも買っていこっか?」
「高速入る前にコンビニ寄って、ついでにお菓子も買いたいな」
チョロ松くんの提案に、トト子ちゃんが頷く。他に足りない物はないか議論を交わしながら、彼らは後部座席に乗り込んだ。
「ユーリ、オレらも乗るか」
「うん」
「楽しみだな」
日差しを受けて輝く推しの笑顔、プライスレス。本日も貴重な新規絵を拝ませていただければ幸いに存じます。私は心の中で手を合わせた。
レンタカー店で借りてきたばかりの白いミニバン、その最後部座席に私とカラ松くんが座る。後部座席には十四松くんとトド松くんもおり、助手席は一松くん、そしてハンドルを握るのはおそ松くんだ。総勢八人が一同に介する。
「ハタ坊の別荘までは一時間半くらいだって」
トド松くんがスマホで地図を確認しながら、運転席に向けて声をかける。
「えっ、マジ!?そんな遠いの?」
「距離的には遠くないけど、後半は山道だから時間かかるみたいだよ」

六つ子とトト子ちゃんと私は、土日の休み───六つ子に休日の概念はないが──を利用して、ハタ坊の別荘に泊りがけで遊びに行くのだ。
先日カラ松くんたちとチビ太さんの屋台を訪ねた折に、ハタ坊に会った。この週末に最近買った別荘に行く予定だと言うので、暇を持て余す六つ子がここぞとばかりに同行者として名乗りを上げたのが顛末である。たまたま居合わせた私も誘われ、男所帯に紅一点では世間体がよろしくないということでトト子ちゃんにも声がかけられた。

高速に乗ってナビの示すルートへしばらく車を走らせると、進むにつれて窓に映るのは住宅街から過疎化した農村地へと移り変わる。並走する車の数も次第に減り、ついには末弟の言う通り山道に入った。山中の私道ではあるが、アスファルトとガードレールは移動に支障がない程度に整備されている。アップダウンの激しい獣道ではないのは有り難い。
とはいえ、ガードレールを越えた先にあるのは荒れた雑木林だ。管理のための小屋がぽつぽつと点在する程度で、人里からかなり離れたことを痛感させられた。
「ひたすら一本道かよ。こういうとこで土砂崩れでも起こったらひとたまりもねぇよな」
右手でハンドルを握り、左手で缶コーヒーを飲みながら、おそ松くんがお手本のようなフラグを立てる
「しかもこの先にあるのは、おあつらえ向きの大きな洋館だ」
腕組みをしたカラ松くんが、目を閉じながら言う。お前なに格好つけてんだ?
「嵐で帰れなくなった他人同士が集結し、和気あいあいとした雰囲気もつかの間、翌朝に転がる一つの他殺死体」
チョロ松くんは真剣な表情で、つけてもいない眼鏡を人差し指で上げる仕草。
「じわじわと広がる不安はやがて疑心暗鬼を誘発する」
感情のこもらない台詞が、一松くんの口から溢れる。
「この中の誰かが殺したんでしょ!?殺人者と一緒になんていられるか!ぼくは警察が来るまで部屋から出ないからな!」
十四松くんが拳を握りしめて思い詰めた顔で咆哮する。
節子、それ死亡フラグや。
「…せっかく休暇を楽しもうとしてたのに、こうなったら仕方ない。名探偵と呼ばれたこのボクが、真犯人を見つけてやりますよ!赤塚先生の名にかけて!」
仕上げとばかりに、トド松がスマホを前方──位置的におそ松くんの後頭部──に突きつけた。
赤塚先生に失礼が過ぎる。
「じゃあトト子は恋人を殺された悲劇のヒロイン役ね。ユーリちゃんは状況的に真犯人でしかあり得ないけど実は無実な容疑者役で」
何気にすごい重要な役どころなんですが、出演拒否は承諾していただけるのだろうか。巻き込み止めてください。




ナビに山道以外が映らなくなりしばらく経った頃、私たちはハタ坊が購入した別荘の前へと辿り着いた。
「わぁ、すごい豪邸!」
車内から邸宅を見上げ、私は感嘆の息を漏らした。視界に映るのは白い壁面の大きな洋館で、豪邸と呼ぶに相応しい面構えだったからだ。
高い塀と金属の門扉こそないが、玄関扉はアンティークなデザインの開き戸で、二階部の広いアーチ窓のバルコニーが出入り口の庇にもなっている。その両サイドには、二階建ての居住スペースが広がっていた。壁面やアーチ窓には細やかな西洋風の装飾が施されており、訪問者の目を惹き付ける外観だ。
敷地は学校の校庭数個分はあろうかというほどに広大で、建物は居住者が増えるごとに増築された形跡もあり、上空から見るとさぞかし入り組んだ形をしているに違いない。
前庭の芝生と植え込みはよく手入れされており、名前は分からないが真っ赤な花が咲き乱れている。

洋館向かって右側に屋根付きのガレージがあり、玄関前で私たちが荷物を下ろした後におそ松くんが車を停めた。車は私たちが乗ってきた一台だけだ。
「ハタ坊はもう来てるんだよな?」
一松くんがトド松くんに尋ねる。ハタ坊との連絡は、六つ子で唯一スマホを所持している末弟の役目だった。
「いるはずだよ、午前中に送ってもらうって言ってたし。呼んでみる?」
玄関扉の横にあるインターホンを押す。館内に響く音色にどことなく気品を感じてしまうのは、豪邸に気圧されている証拠だろうか。
心の平穏を求めるように何となくカラ松くんに一歩近づいたら、私の接近に気付いた彼は横目で私を一瞥し、少し微笑んだ。
「待ってたじょー」
数秒して、インターホンからハタ坊の声が返ってきた。目の前でガチャリと解錠音がするので、チョロ松くんがドアノブに手をかけて扉を開ける。

扉の先は、吹き抜けの玄関ホールだった。ホール両側から二階に続く階段が伸び、天井から下がるシャンデリアは私の身長ほどの幅はあろうかという巨大さだ。室内も白を基調をしており、今にもダンスパーティの幕が上がりそうな荘厳ささえ漂う。
「ようこそなんだじょ」
見慣れたオールインワン、揺れる旗。幼児のような背格好のミスターフラッグが、私たちを出迎えた。
「ハタ坊、今日はお招きありがとう」
トト子ちゃんが微笑む。
「部屋に案内するじょ。荷物を置いたらさっそくバーベキューの準備なんだじょ」
時刻は午後五時を回ったところだ。今から用意すればちょうど夕食時になる。食材と飲み物の入ったクーラーボックスは、玄関脇にひとまず置いておく。
「部屋はいくつあるんだ?
ユーリとトト子ちゃんは二人で同室だとして、オレたちは部屋数によっては組み合わせを決めないとな」
毎度必ず誰かが不平を唱える、魔のチーム分け──六つ子談──である。
「みんな個室あるじょ」
「え?」
「客室は二階に十個くらいあるんだじょ」
「あ、そ…そうなの」
質問者のカラ松くんをはじめとする全員が揃って拍子抜けした顔になる。広いと想定していたが、全員が個室を与えられるレベルなのは驚きだ。
そして当然客室の他に、リビングや応接間、浴室にトイレ、キッチンといった各スペースが存在するという。ドアの作りや周囲の装飾が異なるから判別がつくだろうとハタ坊は言うけれど、早くも迷子になる気しかしない。
「じゃ、各自好きな部屋選ぶってことで」
「りょうかーい」
おそ松くんの号令で、私たちは階段を上がる。
「…ユーリ」
最後尾だった私に、カラ松くんが耳打ちするように声をかけてくる。
「うん?どうかした?」
「ん、その…深い意味はないんだが……」
逡巡するように黒目が揺れた。

「ユーリの部屋、オレの隣にしないか?」

呆気に取られる私の様子を拒否として受け取ったのか、彼は慌てて両手を胸の前で振る。
「だ、だから、やましい意味はないからな!
今日は夜から雨の予報もあるし、こういう古い屋敷は音も響くだろうし、ユーリがもし風や雨音で眠れないならオレがすぐ子守唄を歌えるようにと、そういう───」
「そうだね。私もカラ松くんが隣なら、安心して寝れそう」
推しの寝顔は間近で拝めるに越したことはないが、壁を隔てた先で無防備に惰眠を貪る推しがいる構図も悪くない。何なら客間の壁になりたい。
カラ松くんの表情が見る見るうちに明るくなった。
「フッ、ドンウォーリーだ、マイハニー。レディに寝不足は大敵だしな。ユーリの安眠は誰にも阻めやしないぜ」
私の同意に歓喜したカラ松くんが一際大きな声を発した。当然数メートル先を行くみんなの耳にも届き、「隣り合わせの部屋開けとけよ、お前ら」とおそ松くんから指示が発令されてしまい、発案者が顔を赤らめるといういつもの展開になる。トト子ちゃんが呆れたように笑い、カラ松くんは他の兄弟から揶揄されつつ、各自客間に荷物を置いた。

その後私たちが通されたリビングは、玄関ホール同様に吹き抜けで開放感があった。南向きの窓は全て私たちの身長よりも高いアーチ型で、備え付けの暖炉の上には絵画が飾られており、手織りのペルシャ絨毯の上には本皮のソファと大理石のローテーブル。壁際に設置された棚はアンティークな年代物で、背表紙に英語でタイトルが書かれた蔵書が整然と収納されていた。触れるのも躊躇する豪華絢爛さだったが、六つ子は圧倒されつつも気安く家具に手を伸ばす。
「バーベキューは中庭でやるんだじょ。準備はできてるじょ」
リビングの掃き出し窓を開けた先に、バーベキュー用のコンロやテーブル、椅子などが人数分配置されていた。コンロの中には炭と着火剤もあり、火をつければ使用できるよう準備万端だ。
「今日はハタ坊の秘書とかお手伝いの人っていないの?」
十四松くんが周囲を見回しながら首を傾げた。そういえば、ここに辿り着いてからハタ坊以外の姿を見ていない。
「いないじょ」
「何で?」
「やりたいことがあって、みんなには帰ってもらったじょ。明日の朝迎えに来るんだじょ」
「あー、そういやそんなこと言ってたね」
別荘という単語だけ聞いて、体よく相乗りを希望したのが六つ子である。しかし、わざわざ僻地の豪邸に来てまでやりたいことというのは何なのだろう。
「ねぇハタ坊、そのやりたいことって───」
「あ、包丁とまな板発見。トト子とユーリちゃんで材料切るね。みんなは串に刺していって」
私の問いは、トト子ちゃんの高らかな声に掻き消された。チョロ松くんと一松くんがクーラーボックスから今朝買ったばかりの食材を出し、バリバリと音を立てて包装を解いていく。私たちの意識も自然とそちらを向いた。
「オレは火を起こしておこう。カットは頼んだぞ、ハニー」
カラ松くんが私の横を抜けて、中庭へ出る。夕方の涼しい風が吹き抜けていく。
「オッケー。トト子ちゃん、私どれ切ったらいい?」
長袖を捲くりながら、私も庭へ出た。

目を離した僅か数秒で、持ち込みのビール一缶を飲み干してほろ酔いになったおそ松くんの後頭部にげんこつを落とすカラ松くんを横目に、私たちはバーベキューの串の用意に取り掛かる。食材の大きさを揃え、串に通す食材は基本一種、多くても二種までにする。そうすることで、火の通りが均一になりムラが出ないのだ。持参した野菜もピーマンやしいたけなど、火が通りやすいものに厳選した。
私たちが食材に取り掛かっている間に、カラ松くんとおそ松くん──頭に大きなコブができていた──がコンロに着火し、炭を燃焼させるために内輪であおぐ。
「これくらいでよくね?」
「フッ…ファイアーイズレディー」
「うぜぇ」
おそ松くんは真顔で毒を吐く。分かる。
そんなこんなで各自が食べたい串をコンロの上に置き、焼けたものから好きに食べていく。日はすっかり暮れていたが、リビングから漏れる明かりとガーデンライトのおかげで手元は明るかった。
豪邸の中庭でガーデンチェアに腰掛けながら冷えたアルコール片手に食べるバーベキューという環境が調味料になり、素材を塩胡椒で焼いただけの串はご馳走だった。ソーセージにかぶりつきながら、私の頬は自然とだらしなく緩む。
「ご機嫌だな、ハニー」
隣の席に座りながら、カラ松くんが笑う。ビールを一缶飲み干したためか、彼の頬はほんのりと赤かった。
「そりゃね、楽しいもん」
「ユーリが楽しめてるなら、誘ってよかった。ハタ坊の金だからじゃんじゃん食べていいぞ
こういうとこほんとクズで清々しい。
「大浴場もあるらしい。トト子ちゃんとユーリが入ってる間は虫一匹侵入させないから、安心して入ってくれ」
風呂上がり、気絶した六つ子が転がっていないことを祈ろう
内心で両手を合わせたところで、私は改めてカラ松くんを見つめた。
「カラ松くんはおそ松くんたちと入るの?」
「へ?あ、ああ…そうだと思うが」
「一人で入ってくれても全然いいんだよ」
「ユーリ?」
「いつも銭湯でみんなと入ってるんでしょ?こういう時くらい一人ずつのんびり入る贅沢もありだと思うんだよね。
あ、別にカラ松くんがお風呂入ってるの覗こうなんて思ってないよ。全く思ってないから。ただ…うっかり忘れ物して、脱衣所で鉢合わせちゃう可能性はあるけど
「ユーリ」
低音の、私の暴走を静かに制する声。

「本人目の前にして堂々と犯行予告は駄目だろ」

正論で諭された。でもジト目美味しいです。あざます。
「風呂上がりの裸を見ちゃうっていう事故は、定番のシチュエーションだよ?」
「何の定番だ」
「見たい」
「…見せない」
カラ松くんの顔が次第に上気していく。腕組みをしながら放たれた拒否の声は、少し上擦っていた。もうひと押しで陥落しそうな気がするのは気のせいか。
「ユーリ、いい加減にしろ。そういうことはだな、せめて、こう……黙ってやるとか…」
黙って覗くならオーケー出ました。何ということでしょう。
「不言実行ならいい、と…」
「そ、そうは言ってないだろ!」
言いましたが?
言い返そうとして、私ははたと気付く。彼に不快な思いをさせないために事前告知をしておきたい私に対し、カラ松くんは立場上イエスとは言えないから実行するなら黙ってやってほしいのだ。そうすれば言い訳が立つから。事故だったと言えるから。通りで相容れないはずだ。
「…ふふ、そっかそっか」
だから、つい笑ってしまって。
「何がおかしいんだ、ユーリ」
カラ松くんに睨まれてしまう。
「私たちは同じなんだって思ったの」
だから時に磁石みたいに反発し合うのだ。向かっている方向は同じなのに。
私の言葉を飲み込めなかったらしいカラ松くんは眉根を寄せて、不満げに私を見た。

食事を終えた後は、火を消してコンロを軒下に移動させた。片付けは明日迎えに来るハタ坊の部下がやってくれるらしい。
それからは順番に大浴場で汗を流し、号令をかけたわけでもないのに各自が集まったリビングでひとしきり雑談をした。六つ子たちはお揃いの水色の、トト子ちゃんは淡いイエローのパジャマ、私はシャツとジャージパンツという格好だった。誰かが大きなあくびをした日付が変わる頃合いにおそ松くんが就寝を促して、お開きになる。
「明日の迎えは昼前だっけ?」
「じょ」
チョロ松くんの確認に、ハタ坊が頷く。
「ハタ坊明日予定ある?
この近くに牧場があるみたいなんだけど、せっかくだしみんなで寄ってかない?バター作り体験とか、乗馬体験もできるんだって」
「今夜雨の予報じゃなかったっけ?明日だと地面濡れてんじゃない?」
トド松くんの提案に、一松くんが渋い顔をする。前述したように、今夜は短時間ほどの雨雲が通り過ぎる予報だ。
「バター作りは室内だし、乗馬も落ちなきゃいいだけの話じゃん。どうせボクら暇なんだしさ」
トド松くんはソファの背もたれに腰掛け、肩を竦めた。
「トト子行きたーい」
「ハタ坊も行きたいじょー」
「じゃ、決定で。明日の予定も決まったし、今度こそそろそろ寝るか」
両手を天井に向けて、おそ松くんが大きく伸びをした。就寝の挨拶を交わして、ぞろぞろとリビングを出ていく。

私は最後まで残り、テーブルに転がった空の缶やつまみの袋を一纏めにしておく。散らかったまま部屋に戻るのが躊躇われたからだ。優等生を気取るつもりは毛頭ないが、豪邸のリビングにゴミを散乱させたままなのは気が引けた。
「ユーリ、オレも手伝おう」
そしてこんな時、カラ松くんは自然と私に倣ってくれる。
「ありがとう。缶とそれ以外に分けてビニールに入れておいてもらえる?」
「オーケー」
つまみが入っていたビニール袋を二枚彼に渡して、私はリビングのカーテンを閉めるため窓際に立つ。触れたガラスの向かい側に、水滴がついている。
「…雨?」
ガラスに付着する水滴の数は次第に増えて、ポツポツと地面に叩きつける雨音が室内まで聞こえてくるようになった。タイルの床に跳ねる水音が反響する。
「どうした?」
「雨が降ってきたみたい」
カラ松くんは私の横に立ち、窓ガラス越しに外を見やった。
「バーベキューの時に降らなくてよかったな。オレの日頃の行いがいいせいだろう。ウェザーを司る女神さえも微笑ませてしまう…オレ」
「何か不穏な気がしちゃうね」
「不穏?」
「古い館の夜ってだけで何か出そうな雰囲気あるでしょ。今まで誰が住んでたかも知らないし」
増改築を繰り返し、内装は近代的にリフォームされているとはいえ、築百年以上の歴史ある屋敷だとハタ坊が言っていた。居住者は幾度か入れ替わっているから、自然死や不慮の事故死以外の死が発生していないとも限らない。分からないから怖い、私の胸に巣食うのはそんな感覚だった。
室内を彩るインテリアは豪華で新しくても、建物自体が古いアンバランスさも不安を増幅させる。
「まぁ、少なくとも昼間におそ松が立てた殺人事件のフラグが回収されることはないだろ」
カラ松くんは私の不安を払拭させるように笑う。
「ここにいるのはオレたちとトト子ちゃんとハタ坊だけだ。鍵もかけてるし、防犯のセキュリティもしっかりしてる」
敷地内の至る所に設置されている防犯カメラは私も確認済みだ。外部からの侵入を検知すれば即座に警備会社に通報されるシステムになっている。玄関の鍵もディンプルキーとカードキーのシステムで、外部からの侵入は決して容易くない。
「うん、そうなんだけど、カラ松くんたちと一緒にいると自分の常識が通用しないからなぁ。こういうお屋敷なら、幽霊出てもおかしくないっていうか」
六つ子は怪奇現象ホイホイだから。
カラ松くんは何とも言えない複雑な表情をして、苦笑いを浮かべた。
「何も起こらないという確約はできないが───」
彼は体ごと私に向き直って。

「何が起こっても、今までオレがユーリを守ってきただろ」

見開いた私の目が、カラ松くんの瞳に映り込む。
「ユーリを危険な目に遭わせたくないし、そもそもそんな可能性がある場所からは遠ざけておきたいが…遭ってしまったなら必ず守る。これからもずっと、これまでしてきたように」
彼はいつだって確約を口にして、その約束を違えることはなかった。私を安心させるための嘘はつかない。
「や、ごめん、そんな大きな話のつもりはなかったんだけど…」
幽霊が出るかもしれないから寝るのがちょっと怖いな、くらいの些細な話だったのに。
「でもありがとう、カラ松くんにそう言ってもらえたら安心した。私もカラ松くんに何かあったら助けるから、遠慮なく言ってね」
「頼もしいな、ハニー」
「本当に助けるつもりはあるんだよ」
「…知ってる」
カラ松くんは目尻を薄く朱に染めて、微笑んだ。カーテンが閉められてもなお、外からは絶え間なく雨音が聞こえる。

「オレだって、ユーリには何度も助けてもらってきたからな」




その夜に私は、雨音で一度目を覚ました。建物自体が古いせいか、気密性や防音性は私が住むマンションにも劣る。ベッドや枕の寝心地がいいだけに、ザーザーと絶え間ない音が耳障りなのは惜しい。
寝返りを打つために体の向きを変え、再び意識が朦朧とし始めた頃に、廊下から足音が聞こえたような気がした。誰かがトイレに行ったか飲み物でも取りに行ったか、そんな推測が頭に浮かんだのと、意識を手放したのがほとんど同時だった。

次に目を開けたのは、部屋のドアがノックされたからだ。コンコンと控えめに叩かれる音が、私を現実へと引き戻す。枕元に置いたスマホをタップすると、時刻は午前三時。丑三つ時をとっくに過ぎた頃。
「…ユーリ、オレだ、カラ松だ」
私が声を出すより先に、訪問者が名乗った。確かにカラ松くんの声だ。心なしか切迫した空気を感じる。
「カラ松くん?」
「ああ、ユーリ…良かった。起きてるか?ここをすぐ開けてくれ」
今も降り続く雨の音色に掻き消されるくらい絞った音量にも関わらず、切羽詰まった声と分かる。それに、良かった、とは何に対する安堵なのか。
「えっ!?待って、ち、ちょっと、何でまたこんな時間に…」
寝起きで思考がままならない中での想定外の出来事に、声が裏返りそうになった。
「緊急事態だ」
ドア越しの声は鬼気迫る。まるで事態が飲み込めない。それでも私がドアの鍵を開けたのは、相手がカラ松くんだったからだ。
レバー錠を下に押し込んだら、待ち構えていたように外側からドアが引かれて、危うく前に倒れそうになる。カラ松くんが無言で室内に滑り込み、後ろ手で施錠した。
「カ───」
不平を唱える私の声は、彼が自分の唇に人差し指を当てたことで制される。緊迫した顔でシーってする推しの顔面の良さは言葉にできない。

その刹那、廊下でガシャンと何かが割れる音。

私はビクリと肩を上げる。陶器の花瓶が地面に叩きつけられ砕け散る、そんな音だった。数十メートルは離れた場所だろうか。それでも真夜中のけたたましい破壊音に驚愕し、ひ、と声が引きつる。
「…チッ」
背後を一瞥してカラ松くんが忌々しげに舌打ちした。
「悠長にしてる時間はなさそうだ」
彼は改めて解錠し、顔だけ出して外の様子を窺った。それから私の手首を掴み、外へと促す。
「ユーリ、とにかくこっちへ来るんだ」
有無を言わせない語り口で、私に拒否権なんてものはなかった

去りゆく君との刹那の幻想

※名前のついたオリジナルキャラが登場します。





「オレとデート!?」

カラ松くんの素っ頓狂な声が室内に轟いた。


麗らかな陽気の休日、フラッグコーポレーション総元締めのハタ坊に呼び出され訪れた先は、都内某所にある雑居ビルの一室だった。
ビル入り口に設置された入居テナント一覧には、フラッグコーポレーションの子会社らしき社名が記載されていたが、エレベーターを使って辿り着いた先のドアには『探偵事務所』の文字。私とカラ松くんが唖然としたのも一瞬で、手を出す業種を選ばないのはハタ坊らしいという結論に落ち着いた。
白を基調にした清潔感のある室内、その一角にある応接室に通される。

呼ばれたのは私とカラ松くんだけだった。その時点で彼の思惑を懸念すべきだったと、後に私は少しだけ反省する。

「依頼人の希望なんだじょ」
ドアに近い下座のソファ──本革の高級そうな座り心地だった──に腰を下ろしたハタ坊が、顔色一つ変えずさらっと告げる。傍らには、例の如く頭上に旗が刺さった男性秘書。
私たちは彼らの向かいに座った。

「つまり、『カラ松くんとデートしたい』依頼がきたってこと?」

「だじょ」
「えっ、何だそれ……壮大なドッキリ?ドア開けたらカメラ回ってる?
当事者だけが話に入ってこれない。彼のこれまでの生き様を鑑みたら、第一にドッキリを疑うのも無理はないだろう。
「依頼人の女性からSNSを通じてコンタクトがあり、探し人がミスターフラッグのご友人でしたため、格安で引き受けました。
近々進学のために海外に行き、しばらく日本に帰ってこれなくなるので、日本を発つ前の思い出としてカラ松様とデートがしたいとご所望です」
まるでドラマのような依頼だ。続けざまに語られる内容を受け止めるのに時間がかかっていたら、カラ松くんが勢いよく立ち上がる。

「断る」

「じょ?」
ハタ坊は不思議そうに首を傾げた。
「断ると言ってるんだ。 ユーリがいるのに他のレディとデートなんかできるか」
見上げた横顔は真剣そのものだった。吊り上げた眉からは苛立ちさえ漂う。
「すまんが断っておいてくれ。話はそれだけか?なら行くぞ、ユーリ」
「待って」
咄嗟に私の口から出た言葉は制止だった。カラ松くんの服の裾を引き、着席を促す。彼は目を瞠った。
「…ユーリ?」
「わざわざ探偵に依頼するくらいなんだし、何か事情があるのかもしれない。結論を出すのは、もう少し話を聞いてからでも遅くないと思うよ」
カラ松くんが逡巡するのが表情で分かる。
「しかし、それじゃあ…」

「依頼人は可愛い女性ですよ」
秘書が溢した言葉に、カラ松くんの動きが止まる。実に分かりやすい。
「やっ、べ、別に可愛いとか可愛くないとかいう問題じゃ…っ」
否定の声は裏返る。演技下手くそか。
カラ松くんの動揺を気に留める素振りもなく、むしろ好機とばかりに秘書の男性はテーブルにそっとタブレットを置いた。画面に映し出されるのは───学生服を着た、幼さの残るあどけない顔立ちをした女の子。友人と自撮りした一部を切り取ったような写真なのか、天真爛漫な笑顔をこちらに向けている。
「女子高生…?」
「小鞠(こまり)様とおっしゃいます。この春女子校を卒業したばかりの女性です」
「カラ松くん知ってる子?」
私が尋ねると、彼は即座にかぶりを振った。
「知り合いどころか、こんな子見たこともないぞ」
「何それ素敵」
率直な感想が思わず口を突いて出た。ロマンチックだ。女子校で異性に慣れていないであろう女の子が話したこともない相手に焦がれてデートを希望するだなんて展開、俄然私のテンションが上がる。
「実はもう本人が別の部屋に来てるんだじょ」
「はぁ!?」
カラ松くんが愕然とした。彼にイエス以外の返事を言わせない用意周到ぶりだ。

彼女がなぜカラ松くんに惹かれたのか。
この依頼の根本となる理由を、小鞠さん本人から直接聞きたかった。ハタ坊から聞いてもいいけれど、本人の言葉に勝るものはない。
私が言うのもアレだが、童貞ベテランニート穀潰しカースト最底辺所属、エセ英語が口癖の次男坊のどこがいいのか是非とも教えてほしい。いや当推しを貶すつもりは毛頭ないけども。ないけども!




秘書が連れてやってきた彼女は、タブレットに映っているものより少しだけ垢抜けた感じがした。私服で、ほんのりと化粧しているのも要因だろう。
「ええと…初めまして、小鞠です」
頭を下げられて、私とカラ松くんも慌てて頭を垂れた。
「あ、松野カラ松です」
「有栖川ユーリです」
ハタ坊の隣に座った彼女は、カラ松くんと目が合うなり頬を朱に染めた。間近で推しを見る感動、分かる。
「あの、私もし邪魔なら──」
私たちは双方ハタ坊の友人であると小鞠さんに紹介されたが、得体の知れない人間が近くにいては、進む話も進まないのではないか。そう考えて離席しようとしたら、カラ松くんが遮るように片手を伸ばした。視線は前を向いたまま。
「そ、その……変な依頼してしまって、すみません。不審に思われるのも無理ないと思います。私が松野さんの立場なら断ると思うし…」
「いや、そんなことは…」
「デートっていうか、一回でいいから二人でどこかに出掛けたいな、と思っただけなんです。
どうせ日本出るし、海外に行ったらいつ戻ってこれるか分からないし、じゃあ断られてもいいからちょっと頑張ってみようかな、と」
だから探偵社に依頼をしてみたということか。提示された金額が格安だったのも、高校卒業したばかりの彼女には渡りに船だったと想像がつく。

「一つ聞いてもいい?」
ならば、勇気を出そうとした、その理由を知りたい。
「は、はい」
「どうしてカラ松くんとデートしたいって思ったの?」
小鞠さんは唇に人差し指を当て、気恥ずかしそうに微笑んだ。
「キラキラしてたからです」
「キラキラ?」
私は思わずカラ松くんを見る。
「ここ何ヶ月か、私が土日のバイトに行く時、松野さんと同じ電車に乗ることが何度もあったんです。乗ってる人がみんな俯いてスマホ見てるのに、松野さんだけいつも顔を上げて楽しそうに外を見てたのが印象的でした。
足取りとか軽やかで、それで、何か…いいな、って」
土日、同じ時間帯の電車。この二つの単語だけで、私は解を見出す。その時間帯にカラ松くんが電車に乗るのは───私と会うためだ。
いつもの場所でいつもの時間に。毎週末に会うことがお決まりになると、都度待ち合わせ場所と時間を決めるのが面倒になる。そんな時に便利なのが定位置と定時だ。小鞠さんはバイト開始に間に合うよう、カラ松くんは私との待ち合わせ時刻に間に合うよう、同じ電車に乗っていた。

「電車に乗ってるだけなのにあんなに楽しそうなら、一緒に過ごせたらもっと楽しいかもしれない。そう思いました」

その時の光景を思い出すように、彼女の視線は宙に向けられる。
「でも急に電車で会わなくなって、名前も何も知らないから探してもらった…っていう経緯です」

視線さえ交わったことのない二人が、第三者の手を借りて今膝を突き合わせている。
カラ松くんに憧れた理由が腑に落ちて何度も頷く私に、遠慮がちに小鞠さんの目が向けられる。
「それで…あの、有栖川さんは、松野さんと付き合ってるんですか?」
「へえぁっ!?」
カラ松くんが息を吸いそこねたみたいな情けない声を上げた。
「付き合ってないよ」
「ユーリ!?」
「推す側と推される側」
小鞠さんはきょとんとしたが、私の否定にひとまずは安堵したようだった。肩の力が抜け、唇には小さな笑みが浮かんだ。
カラ松くんはしばし私を横目で睨んでいたが、やがて根負けした様子で膝に手をついた。

「───オーケー。この依頼、受けて立つ」

事実上の承諾。
物語の幕は上がった。
「交渉成立だじょー。デートの日取りと集合場所はハタ坊たちが決めるじょ」
連絡先の交換はさせない流れらしい。一度きりのデートだ。

当日までの流れをカラ松くんと小鞠さんに説明するのは、秘書の役目だった。私とハタ坊はお茶でも入れようかと給湯室へ向かう。冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出しながら、私はようやく自分の役目に思い至った。
「私が呼ばれたのは、このためか…」
彼の退路を断つための。
「楽しみだじょー」
ハタ坊は見た目も言動も幼く見えるが、事業を起こして都内の一等地に自社ビルを所有するやり手である。
ゆめゆめ侮るなかれ。




「ほんとーにドッキリじゃないんだよな?
正体は美女薬飲んだブラザーとかデカパンってオチないよな?」
カラ松くんは念押しで確認してくる。疑心暗鬼がすさまじい。過去に見事に謀られた経緯があるから仕方ないことではあるけれど。
小鞠さんと別れを告げ、ハタ坊たちが別室で別の依頼者と打ち合わせをしている間、私とカラ松くんは所長デスク前のソファに腰を下ろしていた。
「確信はないけど、嘘じゃないと思うよ。
もしドッキリだったら関係者全員この世の地獄を見せてやるから安心して
推しを愚弄する者は許さん。
私の意気込みに気圧されたのか、カラ松くんはソファの背もたれにぐったりと背中を預ける。
「…まぁ、これはアレだ、シャイなカラ松ガールズがようやく自分の殻を破ってオレに愛のコンタクトを取ってきた、ということだな」
「カラ松くんが自分からオーケー出したのは正直意外だったな」
彼は再び上半身を起こし、高らかに足を組む。
「フッ、何を言うんだハニー。オレはオールウェイズ、カラ松ガールズの味方だぜ」
ニヒルな笑みを浮かべたのは束の間で、すっと笑みを消し、膝の上で両手を組む。

「探偵に頼むのも、オレを目の前にして言うのも相当勇気が必要だったはずだ───それには応えたい」

私の胸に光が灯った感覚がした。温かさを伴ったそれはじわりと拡大して、浸透する。
「ユーリもそう思ったから何も言わなかったんだろ?」
私は目を剥いた。突拍子もない展開にのまれているだけかと思いきや、冷静に周囲の状況を見ているとは。
「私、今カラ松くんを見直したかも」
「…オレを何だと思ってたんだ」
「ニート童貞」
「合ってる」

互いに頷き合う。
「私もかカラ松くんと同じ立場なら、承諾するかもしれないなぁ」
「───そうなのか?」
カラ松くんの視線が私を捉える。彼の背後から差し込む明かりが逆光になり、黒い影に覆われるような感覚はどこか不穏な空気を纏う。
「オレ以外の男と二人きりで、相応の意味を伴って出掛けるということを?」
やべぇ。面倒くさい応酬が始まってしまった。カラ松くんは私の異性関係に言及すると途端に機嫌を損ねる癖がある。
さてどうしたものかと眉根を寄せていたら、彼はふと険しい表情を解いた。
「いや待てよ…ということは、近々オレはハニー以外のレディと相応の意味を伴って出掛ける予定になっている気が…」
気がするどころかその通りだが?
力の限り放ったブーメランが返ってきて彼の脳天に突き刺さる。
「い、言っておくが、オレがするのは健全なデートだぞ!」
「自称なら何とでも言えるよねぇ」
私が趣向返しよろしく意地の悪い口調で呟くと、カラ松くんは眉根を寄せて語気を強めた。
「だったら、ユーリは見届けてくれ」
「はい?」
「オレと彼女が一緒にいる間、ユーリは後ろからついてきてくれ。健全さはそれで証明する」
カラ松くんは真剣だ。
「私は特に気にならないよ。結果だけ教えてもらうのでいいけど」
私の返事は彼を落胆させたらしい。気落ちした顔で肩を怒らせる。
「何で!?ほんの少しくらいはこう、オレの気持ちが揺れないかとか、ほら…そういうの気になってもいいんじゃないか!?」
今更私がノーと言ったところで一旦出した結論を覆すようなことはないと思うが、仮にこの場で私が拒絶したら自分勝手な部外者に成り下がるだけではないか。可愛い嫉妬で片付けられない。
元より、当初から否定の意思など持ち合わせてはいないのに。
「え、揺れるの?」
「揺れるわけないだろ!オレがいつユーリ以外を───」
カラ松くんは声を荒げた直後、自らの矛盾にハッとしたようだった。
「でしょ?だからだよ」
私はにこりとする。

「私はカラ松くんが言うこと信用してるから」

彼は片手で、濃い朱が差した顔を覆った。表情の半分以上は露出したままだから、どんな顔をしているかは一目瞭然である。
「…ここでその台詞はズルくないか?」
隣の応接間から漏れ聞こえる声が途切れて、数秒の静寂が漂う。
少し乾燥したカラ松くんの唇から漏れた溜息は長く、言葉にされない感情は推して知るべし、だ。

「オレを信頼してくれてるのは嬉しいが、せめてこういう時くらいジェラシーを感じてくれても損はないと思うぞ、ハニー」


カラ松くんはすっかりぬるくなった茶を飲み干した。グラスをテーブルに戻そうとした手がはたと止まる。
「最初で最後のデート、か…」
声は静かに広がって。
「終わりの始まりなんだな」




週末は外出日和の晴天だった。長時間屋外でも過ごしやすい気温と適度な日差しは、眠気を誘うほどに心地良い。
待ち合わせ場所の公園には、小鞠さんが先に到着していた。暇潰しにスマホを眺めるでもなく、ソワソワと落ち着きのない挙動で待ち人の到着を心待ちにする姿は初々しい。
「待たせてごめん!」
カラ松くんは彼女の姿を視認するなり、小走りに駆け寄ってくる。時計の針が示す時刻は約束の十五分前、どちらも早すぎる到着だ。
今日のカラ松くんは袖を捲くった薄手のネイビーパーカーにブラックのスキニーデニム、足元は存在感のあるハイテクスニーカーと、カジュアルな出で立ち。
「い、いえ!私も今来たところです」
小鞠さんは大きく首を横に振る。
「そう?あ、今日はスカートなんだね。その色いいな、似合う」
ナチュラルに異性を褒める推し。
「ありがとうございます。松野さんも格好いいです」
同じくナチュラルに格好いい返し。カラ松くんは僅かに瞠目した。推しへの効果は抜群だ。
「カラ松でいいよ」
今度は小鞠さんが驚く番だ。しかし直後、顔を綻ばせる。
「……は、はい。ええと、カラ松…さん」
「どこか行きたい場所は?特になければ、動物園なんてどうかな?」
「あ、行きたいです!」
「じゃあ決まりだな」

カラ松くんが発券機で買った切符で、小鞠さんはICカードで、それぞれ改札口を通る。そのだいぶ後ろを、帽子やら眼鏡やらで変装した私とハタ坊が続いた。
カラ松くんは先端が集音マイクになったネックレスを首から下げ、私たちはワイヤレスイヤホンを通して彼らの声を拾う。
「人のデートを尾行するのはいい趣味じゃないよなぁ」
私は未だに乗り気ではない。純粋に楽しみたい彼女の期待に水を差す形になりかねないからだ。
「これも仕事なんだじょ」
依頼人の希望が叶ったか確認すること。
「要は見失わなきゃいいんだよね。そういうのはハタ坊に任せるよ」
音量を絞り、私は意識と視線を極力よそへ向けるよう努めた。

「いい天気になって良かったですね」
ホームで電車を待ちながら、小鞠さんが言う。
「うん、動物園日和だ」
「一日カラ松さんと二人だと思ったら緊張しちゃって…どもりまくったらすみません」
緩く頭を下げる小鞠さんに、カラ松くんは肩を揺らした。
「大丈夫だよ」
「え」
「オレも緊張してる。緊張してる同士だし、バランス的にはちょうどいいんじゃないかな」
カラ松くんは右手の指先で一文字を描く。互いに優劣なく立ち位置は同じということを示しているのだろう。
それを見て、小鞠さんも笑った。
「そんなことより、今日の資金は潤沢だぞ、小鞠ちゃん。何しろハタ坊が全額出してくれる。行きたい場所、やりたいことは何でも言ってくれ。動物園でも水族館でも───」
カラ松くんは両手を広げて高らかに言い放とうとしたが、はたとして言葉を切った。微かに首を振る。
「…カラ松さん?」
「え、や、その……動物園の方がいいな。
おあつらえ向きの晴天だ。室内で過ごすのはもったいない」
「確かに。写真もいい感じに撮れそうですね!」
朗らかな笑顔の彼女とは対照的に、カラ松くんの笑みには心なしか翳りが窺えた。何の憂慮があるのかと疑念を抱くうちに電車がホームに滑り込む。途端に周囲は騒々しくなり、マイクが拾う音にも雑音が入り混じった。
私とハタ坊も隣の車両に乗り込み、動物園入口の駅へと向かう。




顔を合わせた瞬間から、終幕へのカウントダウンが始まる。終わるために始まる一日。
今どき珍しい清廉な願いを叶える、心に残る思い出作りのために始めたことだった。双方にとって達成感を感じられそうな、期待に満ちた心躍る依頼のはずだった。
なのに、胸が詰まる物悲しさが漂う、そんな気さえするのはなぜだろう。当事者でもないのに胸が締め付けられる。私が彼らから目を逸らそうとするのは、現実逃避なのか。

入場券を購入した彼らは、順序に従って園内を見て回る。
まだ互いに初々しさはあるものの、当初のぎこちなさは少しずつ薄れているようだ。小鞠さんの顔に微笑が浮かぶ回数も増えている。象の餌やり体験では、カラ松くんの手のひらに載せた野菜が鼻に吸い込まれるのを見て、スマホを抱えながら大きく口を開けて笑っていた。体験した当人は顔を絶妙に青くしていたが。
「ハタ坊、アイス食べない?」
「食べるじょー」
我々も尾行は程々にして、動物園を楽しむことにする。何が悲しくて貴重な休日を不本意な尾行に費やさにゃならんのか。

「カラ松さん、コアラアイスありますよ。あ、でもライオンも可愛い」
売店ではクッキーやチョコなどを組み合わせて動物の顔をモチーフにしたアイスも販売されていている。コアラはチョコアイスをベースにして、チョコクッキーと一口大のチョコで耳と顔を表現。対してライオンは、キャラメルアイスの周囲にキャラメルクッキーを纏った存在感のあるデザインだ。どちらも愛くるしい顔でSNS映えする。
「小鞠ちゃんはどっちがいい?」
「えー、悩むなぁ。どっちかというとコアラなんですけど、ライオンもいいし…」
「オーケー。じゃあこうしよう」
カラ松くんは指を鳴らす。

「オレはライオンにする。二つ買って半分こしよう。そうすれば、二人ともどっちの味も楽しめるよ」

当推しはしれっと手練れみたいなこと言いおる。
爽やかな笑顔が眩しい。彼に他意はないのだろう。だからこそ罪深い。
案の定、小鞠さんは頬をピンクに染めて黒目をあちこちに彷徨わせた。
「い、いいんですか?」
「ハタ坊の金なんだし、こういう時は思う存分使った方が得だしな───あ、コアラとライオン一つずつ」
絶妙に素のクズさが漏れ出てきている。
小鞠さんが不快な気持ちにならなければいいのだけれどという私の懸念をよそに、彼女の興味はすっかりコアラアイスに向かっていた。

アイスを食べた後は小動物と触れ合えるコーナーで、うさぎやハムスターと戯れる。この頃には緊張感もあまり見えなくなり、気の置ける友人同士のような距離感に近づいていた。
「…あの、カラ松さん」
「うん?」
カラ松くんが振り返る。日差しを受けた血色のいい顔。
「その……腕、組んでもいいですか?」
「え!?」
瞠られる双眸。そう、これはデートだ。ダラダラと遊び倒す気楽な企画ではない。
カラ松くんは焦りの色を浮かべて小鞠さんの背後に──要は私とハタ坊に──視線を向けた。私たちはパンフレットを広げて気付かないフリを装う。
彼が逡巡したのはほんの数秒程度だったと思う。すぐさま視線を小鞠さんに戻し、頷いた。
「──ああ、いいよ」
照れくさいな、そんなことを呟きながら。
「そういうこと言われ慣れてないから、変な態度になってごめん」
動揺は拒絶ではないとのフォローも万全だ。
カラ松くんが差し出した腕に、おずおずと細い手が伸ばされる。彼よりも小柄な小鞠さんにはちょうどいい腕の高さのようだった。
「えへへ」
はにかんだ笑顔が眩しい。

限られた時間、名も知らず言葉も交わしたことのなかった相手と恋人のようなデートをする。
彼女の胸の内に広がる感情の名は、何と呼ぶのだろう。




夕食は動物園近くのファミレスだった。全国展開のチェーン店で、メニューも通年で大きな変化のない定番ものが多い。
学生から家族連れまで老若男女がガヤガヤと賑やかな店内で、カラ松くんは不安げに小鞠さんに問うた。
「こんな店でいいの?
いや、ここが嫌ってわけじゃなくて…せっかくならもっといい店でも──」
「こういう所がいいんです」
小鞠さんはカラ松くんの言葉を遮るように言った。メニュー代わりのタブレットを手元に置き、手慣れた様子で画面に指を当てる。
「普段のデートっぽい感じで終わらせたいから」
カラ松くんがハッとするのが遠目にも分かった。
「特別じゃなくて、もう何回も会っているような、そんな普段どおりの場所がいいです」
彼女の目に留まらないよう両手を膝の上で一度強く握りしめた後、カラ松くんはその手を肘ごとテーブルに置いた。上半身を前のめりにさせる。
「───オレは肉がいいな。唐揚げ定食とかハンバーグとか、とにかく肉。ノーミート・ノーライフだ」
「それなら、今なら期間限定のハンバーグとステーキセットがありますよ。ちょっとどころか結構ボリュームあるけど」
タブレットの画面を見せて、二人で覗き込む。
「何だ、この程度の量なら全然イケるぞ。日頃ブラザーたちに横取りされてる分を取り返すと思えば余裕だ」
「えっ、ご飯奪い合いになるんですか?」
「大皿に唐揚げやフライが盛られた日は戦争だな。
唐揚げや天ぷらは揚げたてが最高だろ?そうそう、旨い唐揚げと言えば特に
ユーリの作───」
そこまで言いかけて、カラ松くんは口を噤んだ。
「…いや、唐揚げは作った人によって味付けが違うから面白いな。肉に衣をつけて揚げるだけなのに奥が深い。
で、小鞠ちゃんは何にする?」
タブレットを彼女に差し向けて、カラ松くんは微笑んだ。


食事を終えてファミレスを出る頃には日が暮れて、街灯が灯り始める。
別れの時間が近づいているにも関わらず、二人の顔には笑みが浮かんでいた。他愛ないことを談笑しながら駅へと歩を進める。
ホームに上がった頃合いに、小鞠さんはカラ松くんの腕から手を離した。どこか名残惜しそうな表情をしながらも、躊躇いなく。間もなく訪れる終焉のため。
「次の電車に乗ります」
「うん」
「今日は一日ありがとうございました」
小鞠さんはぺこりと頭を下げた。
「礼を言うのはオレの方だ───楽しかった」
「私もです」
彼女の頬に朱が差す。
「次はブラザーたちとよく行く釣り堀を案内しよう」
「はい、楽しみにしてます」
「気をつけて帰るんだぞ」
電車到着のアナウンスが鳴り響き、ドアが開く。入り乱れる足音と雑音に彼らの声がかき消されそうになる。
いっそ聞こえなければいい。最後の会話は彼らだけのものだ。私はイヤホンを外して、ハタ坊に返した。
「私、下にいるね」
「分かったじょ」
変装用の帽子やサングラスも取り払う。電車を降りた乗客の流れにのって、私は長い階段を一段ずつ下りる。

階段を下りきった頃、電車がホームを離れる音がした。




「ユーリ」

戻るべきか逡巡していたら、背中に声がかかった。反射的に振り返る。
浮かない顔をしたカラ松くんが立っていて、そういえば今日彼と口をきくのは初めてだななんて感想が浮かぶ。現実から意識を逸らすみたいに。
「お疲れ、カラ松くん」
かけるべき言葉は見つからなかった。どう解釈しても満場一致のハッピーエンドではない結末に、他人の私が歯がゆさを感じるのだから、当人のもどかしさはいかばかりだろう。
「…ああ」
しかし彼は私の予想に反し、腰に手を当てやれやれと長い溜息を吐いた。
「フッ、今日もまた一人の悩めるカラ松ガールズを救ってしまったぜ。ガイアのトレジャーに等しいオレを独占した今日のことは、海を渡った先でも胸を張っていい誉れだ。男を選ぶ目も自慢していい」
「そうだね」
「最後も実にいいスマイルだった。オレから溢れ出る魅力に触れたガールズを例外なく幸せにしてしまうのも、実にギルティな仕様だな」
彼女が笑っていたのなら、良かった。
もし私なら、たった一回デートしたくらいで満足できるだろうか。ほんの僅かでも共にある未来を期待してしまったら、その片鱗を見せずに潔く引き返せるか。独占欲というのは根深い執着だから。
「いいことだよ。笑って終わりにできたなら、それで」
やらない偽善よりやる偽善、そんな言葉が過ぎる。
カラ松くんは私の目をじっと見つめた。
「───とはいえ、こういうことはニート童貞にやらせるもんじゃないな」
「それは言えてる」
「せめて悩むフリくらいしてくれ、ハニー」
彼はようやく、少し笑った。
「ユーリ」
「うん」

「抱きしめてもいいか?」

唐突な申し出。
「は?今?え、ここで?」
「ここで」
カラ松くんが一歩近づく。構内の壁際とはいえ、人通りは決して少なくない。今だって途切れることなく人の往来がある。
私が出した結論は───仕方ない、だ。
「ん」
広げた両手の中にカラ松くんがすっぽりと収まって、彼は私の背中に両腕を回す。幾つか向けられているであろう好奇の目から意識を逸らして、私の目は地面を見つめた。
「…晴れ晴れとした寂しさが残った」
「何それ」
両者の意味合いは相反する。一般的に並べて用いられることのない表現だ。
「爽やかな物悲しさとも言える」
「一緒じゃん」
笑ってしまう。
けれど、彼が意味するところは察することができた。依頼自体は無事に成功して当初の目的を達したものの、大団円と胸を張るには至れない、そんな行き場のない複雑な心境を持て余している。
今回限りではなく、もう何度も会っているような雰囲気のまま終わりたい。カラ松くんと小鞠さんは彼女の願いを演じたまま、再び相まみえる約束をしながら終止符を打った。まるで社交辞令だ。双方に叶える気もないのに、また今度、なんて口約束。

「 ユーリは離れていかないでくれ」
「カラ松く──」
「いつものように別れて、それっきりなんてオレは嫌だ」
煌々と明るい構内に響く、弱々しいけれど強い意志の宿る願い。私を引き寄せる腕に僅かに力がこもった。
私は顔を上げて、抱擁を解く。驚くカラ松くんと視線がぶつかった。
「そんな心配いらないでしょ」
何て心配をしているんだろう、この人は。
「ハニー…?」
「だってほら、まぁ不慮の事故でいなくなるのは仕方ないとしても、それだって宝くじに当たるくらい確率低いよね。
それに私とカラ松くんの場合、物理的に遠距離にはならなくない?」
「何でそう言い切れるんだ?」
不満げな表情に、ニッと笑みを返す。

「カラ松くんは一緒に来るでしょ?」

彼は言葉を失った。私が何を言っているのか理解できないと、その表情は語る。
「例え私が遠くに引っ越しても」
保護者の庇護が必要な年齢はとうに過ぎた。婚姻さえ親の許可なしに行うことができるのだから、居住地変更などわけもない。
私たちは、自らの意思で進むレールを決められる。
「それとも、今の場所じゃなきゃ駄目な理由があったりする?」
「ない」
即答か。

「 ユーリは…いいのか?」
「何が?」
「その……もし東京から離れることになった時に、オレがついて行っても」
迷惑ではないか。
日頃、被害を被る相手──主にイヤミさんやチビ太さん──のことなど眼中になく思うまま好き放題やるくせに、こういう時に限って気遣いするのは何なの、可愛いが過ぎる
「無職を養う気はないから、それでいいなら」
「──ユーリ!」
見開いた双眸はキラキラと輝いて、声が弾む。
「もちろんだ!ユーリのいない世界にいるくらいなら、多少法に触れるような危ない橋だって余裕で渡れる!
「お縄案件は止めろ」
マジで。
「ほらね」
私は腕組みをする。

「物理的な距離は私たちの問題にはならないんだよ」

カラ松くんの耳が赤くなる。照れくさそうに口角が上がった。
「はは、とんだ口説き文句だ。人目がなければ攫っていきたいくらいにクールだぜ、ハニー」
「攫われる方の覚悟ができたらいつでも言ってよ」
こんな私のフリを、馬鹿言うなとカラ松くんがあしらうのがいつもの流れだ。イニシアチブの奪い合い、手綱を引く役目の争奪戦、私たちの主張は常に平行線を辿る。だからこその挨拶のようなもの───のはずだった。

「…できてる、と言ってしまいそうになる」

だから、カラ松くんの返答には度肝を抜かれた。完全に想定外だったからだ。独白ではなく、私に語るのも。
これはもうしんどいオブ・ザ・イヤー
「ごちそうさまです」
推しを褒める語彙力なんてとうに尽き果てた。
そして呆然と呟く私の不審者っぷりに、慌てて我に返るカラ松くん。
「わあああぁああぁ、待て待てっ、ウェイト!今のナシ!ナシで!聞かなかったことにしてくれっ」
「100万回いいね押したい」
「悪かった!オレが悪かったから!」
両手で肩を掴まれ、強引に突き放される。私が悪者みたいじゃないか。
でも顔一面を朱色にして私から必死に目を逸らすのは可愛いの権化でしかなく、その可愛さに免じて聞かなかったことにしてもいいかなという思いも出現する。
「か、帰ろう!ASAPでゴーホームだ!送っていくから」
ASAP、できるだけ早く。
「なら、ハタ坊に一応挨拶していかなきゃね」
彼はまだホームにいるだろうから。
「ハタ坊にはオレが後で連絡しておく。今日使った経費精算の件もあるしな。まぁ、どうせこの声も聞こえてるだろうか───あ」
カラ松くんの顔から血の気が引く。
彼が首から下げたネックレスに仕込まれたマイクの電源は、小鞠さんと別れた後も入ったまま。それはつまり、今までの私たちの会話は全て───


次の瞬間、カラ松くんはネックレスを引きちぎり、勢いよく地面に叩きつけた。その顔はまさに鬼神だったと、後の私は語る。

夢の舞台と下りない幕(後)

ユーリの膝の上で目が覚める。
「よく寝てたね」
耳に馴染む声が上から降ってきて、カラ松は眩しさを堪えながら徐々に瞼を持ち上げた。ユーリが耳にかかる髪を指で掻き上げながら、カラ松を見下ろしている。
「…ユーリ」
「カラ松くん、いつの間にか寝ちゃったんだよ」
眠ろうと決意した覚えも、意識を失いかけた記憶もない。つい今しがたまで別の場所で別の誰かと話をしていたような気がするのだけれど、夢だったのだろうか。
思い出すことがひどく億劫で、どうして自分がこの場にいるのかさえ曖昧になっている。
ユーリの家は居心地がいい。一人暮らし用の、松野家に比べれば猫の額のような広さの空間ではあるけれど、ユーリの息遣いを側で感じることができる距離感はむしろ心地良く思える。

「カラ松くんは好きなだけここにいればいいよ。カラ松くんが望めば、いつまでだってここにいていいの。
就職もしなくていい。私の側にいてくれるだけでいい」
カラ松の意識はまだ微睡みの中にある。彼女の膝の上から起き上がる気力さえ喪失していて、気を抜けばまた意識を手放してしまいそうだ。体に力が入らない。
「それをカラ松くんも望んでいたでしょう?」
甘く蕩けるような囁きだった。夢見心地とは、こういうことを言うのだろう。まるで夢みたいだ。
覚めない夢は、果たして夢なのか。もういっそ現実ではないのか。夢と言えば、一松と家の縁側で過ごす夢の映像がふと頭に浮かんだ。先程まで見ていた夢だが、何を話していたのだったか。
「私が、カラ松くんに側にいてほしいんだよ」
カラ松が長らく焦がれていた展開だった。
ユーリがカラ松を求める言葉を口にする。カラ松を欲し、独占欲を剥き出しにする。積み重なる睦言。
妄想の中で幾度となく繰り返されてきた光景が、今カラ松の前に提示されている。
「オレも───」
しかし、不意にカラ松の脳裏を掠めるものがあった。

ユーリの顔だ。仁王立ちで、自信に満ちた威風堂々たる表情の。

「…そう言えば、まだ伝えてなかったね」
耳に届くのは、追い縋るようなやるせなさに満ちた声音だった。頭に浮かんだ映像とは真逆のその姿に、どうしてか心が掻き乱される。
ユーリに心を奪われた時から、このような結末を迎えることを願っていたのは他ならぬカラ松自身だった。物語の終焉に相応しい、ドラマみたいな美しいハッピーエンド。
「待たせてごめんね。私はずっと、カラ松くんのこと───」

「止めろ」

「え…」
カラ松は手を振り払い、体を起こしてユーリから距離を取る。朦朧とする意識を奮い立たせ、拳を床に叩きつけた。鈍痛が覚醒を促す。
「止めろと言ってるんだ」
断固とした拒絶の意を以って。
「聞きたくない。例えユーリの姿で、ユーリの声だとしても、こんな風にしてオレは聞きたくない!」
自分に言い聞かせるためにカラ松は咆える。

確かに自分の望む姿そのものではあるのだ。素直で従順で、カラ松を頼ってくれる。カラ松の愛情を欲しいと口と態度で表してくれる。
でもそれは、ないものねだりだ。叶わないからこそ無責任に憧れていられる、ただの絵空事、遥か彼方にある幻。
本人でなければ嫌だ。カラ松が心の底から焦がれた彼女自身でなければ。

「オレはお前を受け入れない」

例え苦難の道のりしか待っていなくとも、ユーリの関心がいつか自分から失われても、自分はユーリを想い続ける。偽物ではない、本物のユーリを。
偽物に容易く心変わりするほど安い慕情と思うな。
「……そっか」
ユーリの姿をしたそれは、視線を落として悲しげに薄く微笑んだ。胸が締め付けられる。せめて本人にはそんな顔をさせないようにしなければと心に決めるのが、今は精一杯だった。
「私と一緒にいれば、カラ松くんが望むこと何でもしてあげるよ。仕事どころか家事だってしなくていいの。パチンコだって競馬だって好きにしていいんだよ」
カラ松は首を横に振る。
ユーリはカラ松を甘やかさない。ニートの自堕落を否定こそしないが、手放しで歓迎もしない。彼女の隣に立ち続けたいなら、変わらなければならないのは自分の方だ。ユーリがこちら側に堕ちてはいけない。
「それが…カラ松くんの答えなんだね」
「ああ」
刹那、窓の外に帳が下りて闇が空を支配する。玄関ドアは壁から伸びるチェーンで幾重にも覆われ、窓のクレセント錠がひとりでに落ちた。不穏な静寂が漂う。
音もなく立ち上がったユーリは感情のこもらない瞳でカラ松を一瞥した後、薄暗がりのキッチンへ向かう。
柔らかな空気は一変し、緊迫感に包まれる。カラ松は片膝を立てて臨戦態勢を取ったが、どこまで対処できるかは正直なところ未知数だった。
ユーリは引き出しから、普段料理に使っている包丁を取り出した。部屋の明かりを受けて鈍く光る。
「何を…」
猿夢の結末は自分の死。許容できないなら、抗わなければならない。
だからといって、相手が虚像であってもユーリの姿をした相手を返り討ちにはできそうになかった。拘束して身動きが取れないようにするのが関の山だろう。この世界はあまりにも現実に近い。
カラ松の逡巡はおそらく顔に出ていたはずだ。
「これでおしまい」
ユーリはクスクスと冷ややかな笑みを浮かべる。次の瞬間、彼女の手が動いた。

「さよなら」

彼女が切っ先を向けたのは、自分の喉元だった。

「ユーリ!」
カラ松は床を蹴り上げる。直線距離にして三メートルを飛び出し、手を伸ばす。間に合え。頼むから。
鋭い刃はユーリの細い喉を切り裂き、裂けた皮膚から鮮やかな赤が大量に溢れた。

───そして、暗転。




文字通り、カラ松は飛び起きた。
心臓が激しく打ち鳴らされ、視界は混濁している。息が上手く吸えなくて、大きく肩を上下させて少しずつ酸素を取り込む。眩暈がした。全身から血液がごっそりと抜き取られたみたいに、体が思い通りに動かない。
柔らかな皮膚に刃物の先端が埋まり血が吹き出した映像が、瞼の裏で鮮明に再生される。首筋を伝って流れる血液が服を濡らしていくのも、瞳から光が消える最期の瞬間にユーリが笑ったままだったことも、焼き付いて離れない。

「カラ松くん」

もう解放してほしい。どんな恨みがあって自分に無慈悲なシーンを見せつけてくるのか。
「カラ松くん!」
今度の呼び声は力強いものだった。肩が揺さぶられる。のろのろと顔を上げれば───そこには、ユーリがいた。
「……ユーリ?」
細い首に傷跡はない。血が噴出した形跡も、何も。
「良かった…起きてくれた…」
今にも泣き出しそうな顔でユーリは笑おうとする。
猿夢はまだ続いているのか。カラ松に一度は希望を抱かせ、今度こそ奈落の底に叩き落とすために。
「これからは私も一緒にいるからね。カラ松くん一人にはさせないよ」
カラ松は呆然とする。思考が事実に追いつかない。
「ハニー」
「うん?」
「…本物なのか?」
「夢に出てくる偽物と見分けがつかない?」
毅然と言い放たれる。
周囲を見渡せば、松野家二階のソファで自分は横になっていたらしい。ユーリが傍らに座り、カラ松の頬を撫でてくる。
「着信があったから仕事終わって折り返したら、カラ松くんの一大事だって一松くんに聞いて、飛んできたの。
私が夢でカラ松くん誘惑してるって言うから、その応戦をしに」
ユーリは拳をもう片手の手のひらに勢いよく打ち込んだ。スパンと破裂音が響く。
「無断で推しを奪う奴は自分であろうと敵と見なし、悪・即・斬が鉄則」
怖い。
問答無用で容赦がない。ああ、だからこその、ユーリだ。
「カラ松くんが他人に掻っ攫われるのを黙って見てるわけないからね」
カラ松に依存しない、縋らない、寄りかからない。だから得られないそれらを、カラ松は想像の中だけで無責任に渇望してきた。
本心から欲しているものは、いつだって目の前にある。
「カラ松くんが起きたってことは、まだ猶予あるんだよね?
今おそ松くんたちが電話でデカパン博士に何とかならないか頼んでるから、それまでは持ちこたえてくれるといいんだけど…」
一松から顛末を聞いたのだろう。ユーリは思案顔で顎に手を当てた。
強張っていた肩から緊張が解けていくのを感じる。ようやく息が自然に吸えるようになって、入り乱れていた考えが一つの塊となりつつあった。
「もう大丈夫だ、ユーリ」
あの時、一松にどうしても言えなかった言葉だった。

「もう猿夢の続きは起こらないと思う」

台本のないアドリブだらけの即興劇は、首謀者の退場という形で幕を下ろした。根拠はと問われると口を閉ざす他ないけれど、再び出演を要請されることはもうないだろうと、不思議なことにカラ松は確信している。
「そう…なの?本当に?」
「ああ。ちゃんと終わらせてきた」
間髪入れずに答えたら、ユーリの表情がぱぁっと明るくなる。
「じゃあ私、おそ松くんたちに言ってくるね!みんな心配してたし、喜ぶよ!」
ここで待っててと、カラ松を残して立ち上がろうとしたユーリの手を強引に引いた。バランスを崩した彼女の体を全身で受け止める。どさりと腕に落ちる肢体。
「カラ──」
「一瞬でも躊躇ってしまった自分を嫌悪してる」
ユーリを抱きしめながら、カラ松は小さく呟く。
「…いい夢だったんだ?」
「ユーリが言うはずのない台詞だと頭の隅では分かってた。なのに…」
ユーリが背筋を正し、カラ松の膝の上に座り直す。両腕が伸びてきて、カラ松の首の後ろで彼女は手を組んだ。
ユーリを抱きしめている格好なのに、抱きしめられているのはむしろカラ松の方。
「どうせ一生養ってあげるとか、私の金で競馬パチンコやり放題OK、ニート生活大歓迎とかでしょ」
「すいません」
よく分かってらっしゃる。
「でも無事に帰ってきてくれたから、不問にする……心配したんだよ」
ユーリが長い息を吐く。後半の台詞こそが彼女がカラ松に一番告げたい想いだと、分かった。

「おかえり、カラ松くん」
「ただいま」

この瞬間自分の前にいるユーリがいい。ここにいるユーリが───たまらなく欲しい。

ユーリを膝に乗せて腰に手を回したまま、カラ松は問う。
「というか、ハニーはオレのために無茶をしようとしてたのか?」
応戦しに来たと彼女は言った。事の成り行きを見守るのではなく、自ら参戦しようとしていたのだ。
ユーリはきょとんとする。
「私にとっては無茶でも何でもないよ」
「無茶だ。一歩間違えばユーリがターゲットになっていたかもしれないだろ」
物語の進行次第では、刃物を突きつけられていたのはユーリ本人だったかもしれない。手の届く距離にいたのに止められなかった罪悪感もまた、カラ松を呪縛する。
せめて一瞬でも躊躇してくれていたら間に合ったかもしれない。その反面で、彼女の死こそが猿夢に終止符を打つ唯一の手段だったとも考えられる。答えはもう、誰からも聞けないけれど。
「やってみないと分からないよ。仮にそうだとしても、私はカラ松くんを助けたいからどうにかしてそっちに行ったと思う」
「オレはユーリを傷つけたくない」
「私だってカラ松くんを傷つけるのは嫌。だからカラ松くんに危害を加えるような奴は、相手が私でも絶対許さないって決めてるの」
互いに譲歩する意思が皆無の堂々巡りだ。
カラ松のこととなるとやたら頑固で強情で、無鉄砲なことも平気でやってみせる。その度にカラ松は辟易して、彼女の意向に従うしか選択肢が残されていない。やれやれだ。
そして同時に、嬉しくて仕方ない。
首に回されたユーリの腕に、カラ松は顔をすり寄せる。甘える仕草に彼女は微笑んで、カラ松を優しく抱き寄せた。
「囚われたオレを救い出す、か……まるでヒーローだな」
ヒーロー役は是が非でも自分が務めたいと切実に願ってきたけれど、もういっそユーリに主導権を手渡すのも悪くないのではと思ってしまう。
ユーリは苦笑してかぶりを振った。
「そんな格好よくいられないよ」
「ハニー…」
「カラ松くん何しても起きないからすごく心配で焦ってたし、きっと助けに行っても必死で、なりふり構わずだったと思う。
ヒーローなんて名乗れない」
今落ち着いて見えるのは、カラ松が目覚めてくれたからだ、と。
しかし、それでも───

「それでもオレにとってはヒーローだ」




ユーリと共に階段を下りて居間に顔を出す。不安げに見つめてくる兄弟に終結を告げると、トド松を筆頭に全員がカラ松の胸に飛び込んできた。不意の抱擁に受け身を取れず、頭をしたたか壁にぶつけてしまったけれど、その痛みさえも喜びで相殺される。
斜め後ろでニコニコとユーリが機嫌よく微笑んでいて、その笑顔を見れただけでも救われる思いだった。
「バカ松!何で言ってくれなかったんだよ!心配させんなっ」
トド松は目尻に涙を溜めて。
「黙って一人で解決しようとか格好つけてる場合か」
チョロ松は腕組みをして呆れ果てたと言わんばかりの顔で。
「お疲れ」
一松は労いの言葉をかけてくる。
おそ松はテーブルに置いていたスマホを耳に当て、片方の手のひらをひらひらと振った。
「まぁデカパン、そういうわけだから。その装置もういらないわ。また何かあったらそん時はよろしく」
画面に指を滑らせて通話を切る。それからカラ松に向き直った。ニッといたずらっぽく笑う。
「おかえり、カラ松」
「…ああ」

全員が猿夢はもう勘弁といった独白を呟きながら席をつこうとする傍らで、十四松だけがきょとんとしていた。
「ねぇトッティ、さっきからみんなが言ってる猿夢って何?猿が出てくる夢?」
彼は不思議そうな顔で末弟に尋ねる。
「あのね十四松兄さん、猿夢っていうのはね───」
トド松はスマホで猿夢の元となった記述が掲載されているまとめサイトをスマホで開きながら、噛み砕いて十四松に説明する。
すると五男は、あ、と声に出した。

「ぼく今朝それとまったく同じ夢見たよ」

新たなる事件の予感。
全員が瞬間的に凍りついた。
しかし全くの眉唾と切り捨てられなかった。なぜなら今朝、彼はカラ松たちに自分が見た夢の導入部分を嬉々として語ろうとしていたからだ。野球をした後に電車に乗った、と。
「電車に乗ると怖い目に遭うよーって誰かに言われたんだけど、早く帰ってトレーニングしたかったし」
「ガチのヤツじゃん!」
「oh、じゅうしまーつ…」

かける言葉が見つからない。
「お前何で生きてるの!?」
失礼極まりない言い方だが、確かに。
十四松は袖口を口に当て、うーん、と記憶を手繰り寄せようとする。
「ひき肉~ひき肉~って言いながらぼくの腕掴むから、返り討ちにしたよね
強い。
「あはー。でも土下座で謝ってきたから許してあげた。電車ごと壊しちゃったからぼくもごめんねって感じだったし」
「まさかの猿夢撲殺天使」
「猿夢ブレイカー」
不名誉すぎる異名。
松野家六つ子において、生死に関わる修羅場が僅か一日で二本立てで開催されるとは、一体誰が予想しただろうか。
「全員集合」
真顔の長男から緊急六つ子会議が招集される。円を作って顔を見合わせる六人。

「お祓い行く?」
「すぐ行こう」
「デカパンに獏作ってもらうわ、飼おう」
「悪夢を食うってやつ?いいね、今すぐ飼おう」
「結界貼るために陰陽師も呼ばないと」
「安倍晴明でいい?」
「アポ取れ次第平安時代に向かおう」

「お前ら落ち着け」
ユーリから真っ当なツッコミが入るが、誰も聞く耳を持たない。


こうして松野家に訪れた不可思議な修羅場は、十四松の思いもよらない暴露によって、騒々しいままに一応の終焉を迎えたのだった。

夢の舞台と下りない幕(前)

僅かに開けたリビングの窓の隙間から、小鳥のさえずりが漏れ聞こえる。高らかな歌声に誘われて顔を向ければ、穏やかな表情でマグカップに手を添えるユーリが視界の隅に映り込んだ。麗らかな日差しがレースカーテン越しに部屋に差し込んで、間もなく訪れる春を予感させる。
心なしか甘い香りのするユーリの家は、カラ松にとってもはや第二の我が家と言っても過言ではない。異性の部屋故の不可侵領域は当然あるにしろ、キッチン用品や消耗品の位置はある程度把握しているし、少々不本意ながら多少の私物──着替えを含めて──も定位置がある。友人という関係上、さすがに私物の保管には抵抗があったが、なし崩し的にユーリの家で夜を明かす回数が片手で収まらなくなった頃に、彼女からの進言があった。

下手をすれば自宅よりも居心地がいいと、カラ松は常々思っている。




「一つだけ欲しいものが手に入るなら、何が欲しい?」
捨て損ねた宝くじのハズレ券が引き出しで見つかったのを皮切りに、ユーリがそんなことを尋ねてくる。夢や希望を象徴的に描いた綺羅びやかなデザインのくじはゴミ箱に消えた。ぱさりと紙が落ちる。淡い夢が潰えた音はやたらと軽々しい。
さて、ユーリからの問いにカラ松は即答する。
「億単位の金」
「わぁ、ゲスい」
そして間髪入れず返ってくるツッコミ。彼女は苦笑顔だった。
「金はいくらあっても困らないからな。価値が上がり続けてるインゴッドでもいい
「譲歩してやったみたいな言い方」
株や投資、不動産といった資産も候補として挙がったが、いかんせん運用に手間がかかる。知識を必要としない、所持しているだけでいい膨大な資産があれば僥倖である。この際、保管料といった多少の経費には目を瞑ろう。
「うーん…あのさカラ松くん、こういう会話の時はもっとこう、夢があるものを言うもんじゃない?
ほら、海外に別荘とか世界一大きいダイヤとか」
「ノンノン、ハニー。もっとリアリストになるんだ。別荘もジュエルも、億単位の金があれば買えるだろ?」
最初から物を手に入れるのではなく、数多の選択肢を提示できるだけの資金がやはり望ましい。金で全てが買えるわけではないが、何かを買うには金がいる。
「金は夢を叶えてくれるし、心も豊かになる」
「…不毛な会話をしてる気がしてきたよ」
ユーリは小さく息を吐いた。
カラ松に言わせれば、換金予定のない宝くじの当選金の用途に近い話題になった時点で、既に不毛の極みだ。捕らぬ狸の皮算用である。

「で、ユーリは?」
「私?」
カラ松はユーリに話を振った。
「ああ。ユーリなら何が欲しい?」
話題を投げてきた時、彼女の言葉の端に何か含みのようなものを感じた。最初から回答を持った上でまずはカラ松に問うたような、なぜかそんな気がしたのだ。
ユーリはどこか困ったように笑って、マグカップに口をつけた。
「私が欲しいものは───すぐ近くにあるの」
「近く…」
「そう、ずっとすぐ近くにある。もしかしたらもう手に入ってるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも確証はないから宙ぶらりん」
カラ松は居住まいを直した。あぐらを掻いて下にしていた右足に微かな痺れを覚えたからだ。立ち上がれなくなる前に体勢を変えておく。
「ハニー、それは謎掛けか?」
禅問答のようだ。
「あはは、そういうつもりはないんだけどね」
マグカップをテーブルに戻すと、ユーリはカラ松から視線を外して窓の外を見た。強い日差しが彼女の髪に反射してキラキラと星屑みたいに光る。いつになく眩しくて、カラ松は一瞬目を細めた。




次に瞼を上げた時、カラ松の目に映ったのは見慣れた天井だった。
部屋の中央に設置されている吊り下げ型のペンダントライトから垂れた紐が、風もないのにひらひらと揺れている。首を左右に捻って見えるのは、安らかな寝息を立てているトド松と、両手を上に上げて大きくあくびをする一松。一松はカラ松の身じろぎで目が覚めたのか、唸りながら右手の甲で目元を擦った。

カラ松はぼんやりとしたまま上体を起こす。まだ頭にモヤがかかっているようで思考がままならない。手繰り寄せようとする記憶の糸はことごとく途中で千切れていて、昨晩どうやって布団に入ったのかなかなか思い出せなかった。
「…早いな、お前」
傍らの一松が呟く。寝起きで声が掠れている。
「フッ、グッモーニン、ブラザー。今日もサンシャインがオレたちを祝福してるぜ」
前髪を掻き上げて気障なポーズを決めるも、一松は寝惚け眼のせいかいつものように噛みついてこなかった。拍子抜けすると共に、カラ松の脳裏に夢の記憶が鮮明に蘇ってくる。
「なぁ、一松……すごくリアルな夢を見たんだ」
「はぁ?」
「さっきまで目の前で起こっていた出来事みたいだった。オレはユーリの家にいて、コーヒーの匂いもしたし、足の痺れも感じた。話した内容も覚えてるんだ。なのに…」
なのに、夢だった。
夢は一般的に秩序がなく支離滅裂で一貫性がない。取り止めもない幾つかのシーンが脳内で繰り広げられ、往々にして覚醒する直前に見ていた内容が記憶に刻まれる。それさえも断片的で、物語の開幕から閉幕までを覚えているのは非常に稀だ。
「ユーリちゃん渇望症みたいだな。先週末から会ってないんだろ?」
一松が呆れたように言う。そう、彼女に最後に会ったのは五日前の週末だ。
けれど、夢で見た彼女の家の様子や表情を今もありありと思い出せる。カラ松は昨日ユーリ宅で過ごし、帰ってきてから寝るまでの記憶だけ抜け落ちていると言われた方がまだ現実味があるくらいの鮮やかさで。

「カラ松兄さん、リアルな夢見たって?」
いつの間にか十四松が起きていて、布団の端からカラ松の元まで文字通り飛んできた。
「え!?あ、ああ…そうなんだ、十四松」
「分かるー!ぼくもぼくも!
ぼくはね、甲子園で場外ホームラン打つ夢見たよ!投げられたストレートに対してこう振りかぶって、バットにジャストミートっ」
十四松は体を使って嬉々として再現してみせる。目覚めたばかりだというのに彼の体は軽く、風を切るように素振りをした。
「いい音したんだよねー。ほくのホームランでチームは逆転勝ち!荷物持って駅から電車に乗って───」
「はいはい。十四松、朝っぱらからうるさい。頭に響くだろ」
十四松の言葉を制して、一松は片手でこめかみを抑える。それから彼は一層鬱陶しそうな目つきでカラ松を見やる。

「テメーはテメーで、起き抜けに『オレ常日頃から彼女の家に入り浸ってます、家のことよく分かってます』的な惚気止めろ、殴るぞ

「ええっ、オレ結構真面目に話したのに!?」
「ユーリちゃん会いたい病こじらせてんじゃねぇよ。白昼夢通り越して淫夢だわ」

「なになに、カラ松淫夢見たって?
唐突におそ松が声高に会話に加わった。一番面倒くさい相手が介入することで、もはや場は混沌の様相を呈する。こういう時に限って目覚めがいいのは長男が長男たる所以だ。
「いいなぁ、どんな淫夢?やっぱユーリちゃんに脱がされる的な?」
「何でオレがされる側なんだ!」
「えー、ユーリちゃん相手ならされる側じゃん。諦めが肝心だよ、カラ松。でもユーリちゃんならいいかも。俺も強引に抱かれたーい」
おそ松は両腕で自分を抱きしめ、大袈裟に体をくねらせた。カラ松を揶揄する意味合いよりも、純粋に本心でそういう願望がある吐露の方が強いから厄介だ。
「…ユーリに手を出したらどうなるか分かって言ってるんだよな、おそ松?」
だからカラ松は牽制せざるを得ない。
「何だよっ、淫夢羨ましいって言ってるだけだろ!俺だってヌケるくらいの淫夢見たいわっ
「淫夢は見てない!」
前提が違った。
「ちょっとー、朝から淫夢淫夢ってみんなして連呼しすぎ。童貞だからって謙虚な心は忘れちゃ駄目だと思うなぁ、ボク」
騒ぎで起きたらしいトド松が上半身を起こしつつ、頬に手を当てて溜息をつく。好感度を上げたい対象不在時でも的確に兄弟を切り捨て、自分だけ優位に立とうとするのは、さすがドライモンスターの名を欲しいままにする松野家末弟だ。
「───で、どんなエロイ夢だったの?
ユーリちゃんの淫夢なんてレア中のレアじゃん。詳しく聞かせて
しかし性質の基盤にあるクソっぷりは兄弟間共通で、彼も例外ではない。瞳を輝かせてカラ松を見上げてくる。
「淫夢から離れろ!」
「カラ松の淫夢の内容聞くまでは起きるに起きれないよね」
チョロ松まで参戦してきた。
「違あぁああぁあぁう!」
カラ松は力の限り叫ぶ。もしも匙を投げる選手権があるのならば、今なら世界記録を樹立できそうだ。

この一騒動に終止符を打ったのは、松代だった。
「うるさいわよニートたち!起きてるならとっとと下りてきなさい!」
階下からよく響く声が聞こえてきて、全員がハッと背筋を正す。彼女の逆鱗に触れることはすなわち衣食住のレベル低下または供給停止に直結する。
慌てて布団を片付け、パジャマのままカラ松たちは階段を駆け下りた。




「カラ松くん」

柔らかな呼び声に、カラ松は我に返る。目の前にはユーリがいて、テーブルの上には僅かに中身の残ったマグカップが置かれていた。差し込む日差しは変わらず強い。
「…ユーリ?」
「欲しい物の話、私そんな変なこと言った?」
そうだった。一つだけ欲しい物が手に入るなら何がいいか、そんな他愛もない話をユーリとしていた。

───夢の中で。

夢のはずだった。彼女の答えが不明瞭で禅問答みたいだと思った直後に、自宅で目が覚めたのだから。一松に詰られ、その他の兄弟には一通りからかわれた。あれこそが現実なのに、なぜ再び夢の続きが始まっているのか。
右の足首が微かに痺れている。つい先程あぐらを組み替えた時に感じた痺れだ。
「何で……」
自宅で覚醒した後はいつも通り自宅でおそ松たちと共にひたすら暇を潰し、かいてもいない汗を銭湯で流し、日付が変わる前に布団に入った。
「難しそうな顔して考え込んだと思ったら、急にウトウトするんだもん。夢でも見てた?」
口元に手を当ててクスクスとユーリが笑う。
「…夢?あれが?」
「居眠りした時って変な夢見たりするよね」
「そうだな…」
妙な居心地の悪さを感じながらも、ユーリに合わせて相槌を打つ。腕組みをしたら、布と皮が擦れる摩擦音がした。着慣れたパーカーの感触もする。僅かに開いた窓の隙間からは車が行き来する雑音も響いてくる。
神経を研ぎ澄ますまでもなく、これは現実だ。
夢と現の区別がつかなくなるなんて、どうやら精神的に疲弊しているらしい。ユーリと会う休日はともかく、刺激のない日々を送りすぎているせいか。怠惰な生活環境は早急に改善する必要がありそうだ。

「でさ、さっきの話の続きなんだけど」
ユーリが口火を切った。カラ松の顔は自然と彼女の方を向く。
「さっきの話……ああ、手に入らない物だったな。ひょっとしてビジネス絡みか?キャリア志向があるハニーもいいな、新鮮だ」
重要なポジションは望んだからといってやすやすと就けるものではない。実績は元より、マネジメント能力や運も必要だ───たぶん、きっと、おそらく
「もっとロマンチックなものだよ」
ユーリは逡巡するように左右に黒目を揺らしてから、頬を微かに染めた。彼女らしからぬ愛らしい反応にカラ松は目を瞠る。
ロマンチックという名詞がユーリの口から飛び出してくること自体、非常に稀有なことだった。
「フーン、分かったぜ、ハニー。
このオレとロマンチックでアダルティな道を歩みたいというんだな。ビンゴー?」
声高らかにのたまって、指を鳴らす。馬鹿言うなと振り払われるか、鼻白んで失笑されるか、カラ松はユーリの反応を待った。
しかし直後に提示された態度は、カラ松の予想とは真逆のもので───ユーリは、笑ったのだ。婉然と。
「惜しい」
そして紡がれたのは、想定外な言葉。
「え、惜しい?」
「肉薄してる。鈍いと思ってたけど、意外と鋭いとこもあるんだね」
こうなるともうカラ松は絶句するしかない。心臓が跳ねる音が彼女にまで届いてしまいそうで、意味もなく呼吸を止める。
熱に浮かされたみたいに潤んだ双眸と、朱が差した頬と、カラ松とのロマンスを肯定するかのような発言。

だって、それはまるで───

「もう…分かってるよね?」
退路を塞がれた気がした。
「ユーリ……」
言葉を失って思考を停止させている間にユーリはカラ松の傍らに寄り添い、カーペットの上に置いていた右手にそっと指を絡めてきた。血液が沸騰しそうな自分とは対照的な皮膚の温度に僅かに冷静さを取り戻すけれど、彼女から求められた高揚感で心臓は早鐘のように高鳴る。
カラ松の願望の具現化そのものだった。
「ずっと、ここにいて───帰らないで」
縋るような憂いを帯びた目がカラ松を映す。
「…あ、し、しかしっ、それはいささかプロブレムじゃないか!?
その…年頃のレディの部屋に昼夜いるというのは、さすがに、何と言うか…近所の目とか、色々……」
「それは関係性を変えれば問題じゃなくなるでしょ?」
核心を突いてくる。どうにかして抜け道を見出そうとする逃亡者を彼女は許さない。
「差し支えがあるなら、ないようにすればいいだけだよ」
「し、しかし…っ」
何とかして光明を見出そうとするカラ松が、空いているもう片方の手を持ち上げた瞬間、テーブルのマグカップにぶつかった。
「──わっ」
傾いたマグカップに残っていた濃褐色の液体が、カラ松の袖を濡らす。

「カラ松くんは何も考えなくていいの。私が養う。家にいて、私といてくれれば。部屋が狭いなら、引っ越せばいい」

液体はテーブルに小さな水たまりを作った。
しかし彼女は気に留めるでもなくカラ松から視線を逸らさない。カラ松が長らく望んでいた言葉を矢継ぎ早に告げてくる。
あまりにも甘美な誘い。

「次会うときに、答えを教えて」




目を開けたら、カラ松の目には居間のちゃぶ台が映った。
幼少の頃から松野家の居間中央に鎮座している年季の入った木製のそれは、所々経年による小さな傷が刻まれている。ユーリ宅のローテーブルとは色も形も違う。
「あ、起きた?」
カラ松の斜め向かいには、スマホを両手で抱える末弟の姿があった。カラ松と目が合うと、口で笑みの形を作った。
「……トド松?」
どうして、という疑問の声は掠れた。言葉にさえなっていなかったかもしれない。
時計は午前十一時半を指している。起床して朝食を摂って一時間も経っていない時間帯である。
「朝から昼寝とか優雅だよねー。って、まぁ長年ニートって時点である意味優雅なんだけど」
トド松は自虐して失笑したが、カラ松から何の反応もないことを訝しみ、首を傾げる。
「どうかした?」
「いや…」
否定としての意味合いではなく、反射的に口を突いて出た。何をどう話せばいいか、もう思考の整理さえおぼつかない。
「どっちが現実なんだ…?」
「はい?」
トド松は顔を歪める。客観的に正しい反応なのだろう。自分でも唐突にそんな疑問を吐かれたら、彼のような反応をするに違いない。意味が分からないと言うように。そう、意味が分からない。
「何寝ぼけてんの」
てかさ、とトド松は右手の人差し指をカラ松の腕に向ける。

「袖、コーヒーみたいな染みが付いてる」

全身から血の気が引いた。
マグカップを倒して溢れた琥珀色の液体が袖を濡らしたのは、我が家ではなかった。つい一分前くらいに起こった出来事で、テーブルに広がる水たまりの形を鮮明に記憶している。
トド松が差し出してくれたティッシュで袖口を押さえたら───白は茶に染まった。まるでつい今しがた濡れたみたいに。
「染み抜きしてから洗濯機入れなよね。染みになったら目立つよ、それ」
呆れ顔になる末弟に、カラ松は曖昧に笑った。テーブルに伏せられたスマホが表示していた日付は、自分が認識している日にちと相違ない。
同日の異なるタイミングで複数の物語が進行している。その仮説はカラ松を戦慄させた。


仮説は、言わば戯言である。真実味どころか、その説を成立させる第三者的要因は何一つない。カラ松の脳内でのみ繰り広げられている馬鹿げた妄想と切り捨てられても仕方ない稚拙な推測だ。
なのに一松に吐露しようと思った理由は、実のところよく分からない。兄弟間において彼はカラ松のことを蛇蝎の如く嫌っていたフシもあるし、物理攻撃で拒絶の意を示してきたことさえある相手だ。とはいえ、ここ最近は下手に刺激しなければ互いにフラットな感情でやり取りできるまでにはなった。
感情的にさえならなければ、ある程度の常識的で建設的な会話ができる。一松はそんな弟だとカラ松は思う。
たまたま彼が猫を膝に置いて縁側で過ごしていたところに、カラ松が通りがかった。日光を浴び、猫と共に気持ち良さそうに目を閉じている。

「お前、今日やたら悲壮な顔してるよな」
起こさないよう足音を忍ばせたのは無駄らしかった。耳聡くカラ松の足音を聞きつけ、一松はカラ松を見やる。
「…そんなことないぜ、ブラザー」
「覇気がなさすぎるんだよ、分かりやすすぎ。ユーリちゃんと喧嘩でもした?」
ユーリ。
いつもなら真っ向から否定して、一笑に付した。自分とユーリの仲はそう容易く崩壊するものではない、なんて。
「え、ちょい待ち……図星かよ」
カラ松が反論しないのを肯定を受け取ったらしい一松は、眉間に皺を寄せた。カラ松は無言で弟の隣に腰を下ろす。
「聞いてほしい話がある、一松」

乱雑に入り乱れる推測と感情、そして自分が現実と思いこんでいるかもしれない事象の一切を、一松に語った。
自分はユーリ宅と自宅とを行き来している。瞬間移動といった類ではなく、二つの物語が同時進行し、カラ松はどちらの物語にも登場人物として出演し続けている───まるで録画した二つの番組を交互に観るように。
挙句の果てに、二つの世界は繋がっている。袖についた染みがその証拠だと、少なくともカラ松はそう認識しているけれど。
おそらくどちらかが夢だと漠然と理解はしているのに、どちらが夢なのかさえもう判別がつかないことも、全部。
「カラ松、お前……年取ってからの中二病は黒歴史超えて人生の汚点だから、後悔しか生み出さないから。今日卒業しよう。な?
マジトーンで諭された。
そりゃそうだ。
「…はは、そうだよな。自分で言ってて、馬鹿げた話だと思う」
世迷言である。カラ松は片手を額に当てて笑った。乾いた笑いしか出てこない。
「え……何、マジかよ…」
一松は持ち上げた手を所在投げに下ろす。口から出かけた言葉を土壇場で飲み込んだ、そんな様子だった。それから彼は下唇を噛んだ。

「───それ、猿夢ってヤツなんじゃない?」

初めて聞く単語だった。カラ松は目を瞠る。
「さるゆめ?」
「おれもそんなに詳しくないけど、無料掲示板に昔書き込まれた有名なオカルト話だよ。
電車に乗ってる夢で、そいつは自分が夢を見てるって自覚してる。そんな中、自分の目の前にいる客が『活造り』とか『えぐり出し』っていうアナウンスが聞こえた後、アナウンス通りの残虐な方法で次々と殺されていくんだ。
魚の活造りみたいに刃物で捌かれたり、先の尖ったスプーンで目玉をえぐり出される。当然断末魔も車内に響き渡る」
想像を絶する非道な殺害方法だ。夢と自覚しているだけまだ救いがあるが、それでも精神は蝕まれるだろう。
「次は自分の番だからそいつは逃げようとする。でも一応どんな内容か聞こうとしたら、『次は挽き肉』ってアナウンスが流れて、本格的にヤバイと思うわけだ。
いつの間にか小人が自分に近づいて、挽き肉にする機械を作動させる。機械音が聞こえて───」
「……それで?」
カラ松は息を飲んだ。一松はニヤリとほくそ笑む。
「そこで目が覚める」
「そ、そうか」
安堵して胸を撫で下ろしたのもつかの間、まだ続きがあると一松は言う。彼の膝で眠りこける野良猫の安らかな寝顔がこの場で唯一の良心のような気がした。
「何日かして、夢の続きを見る。この時はもう機械がすぐ近くにあって、目が覚めろ目が覚めろって念じまくって、何とか夢から覚める。
その時にはこうアナウンスがあったらしい」
じっとカラ松を見据えて。

「また逃げるんですか。次に来た時は最後ですよ」

次会うときに、答えを教えて。
ユーリの言葉が頭を過った。彼女がその言葉を告げた直後、予定調和とでも言うように場面は切り替わった。
「ユーリちゃん本人に会ってみたら?」
「…電話が繋がらなかった」
平日だから仕事中なのだろう。携帯に着信は残っているだろうから、夕方になれば折り返し連絡をくれるはずだ。
しかし、それまでに自分の意識がこの世界にあるとの確証はない。カラ松の意思とは無関係に、瞬きをした次の瞬間に景色が変わっているのだから。今こうしている一松との会話さえ、いつ途切れるかと不安でならない。
「あー…ユーリちゃん社会人だもんな」
「こういう時だけは、ハニーもニートだったらいいのになんて考えてしまうな」
「ユーリちゃんが社会人としてしっかりしてるから、テメーなんかを推してくれてんだからな。その前提忘れてんじゃねぇよ」
「ああ…分かってる」
嫌というほど。

「猿夢なんて、都市伝説だと思ってたのにな」
一松が溜息混じりにしみじみと呟く。厄介事持ってきやがってと呆れの感情も感じ取れたが、カラ松は嬉しかった。自分の突拍子もない空想とも思えるような話を、彼は受け止めてくれている。
「ただ、猿夢は死に近づく悪夢だ。カラ松が見てるその夢とは根本的に違うけど…」
「しかし結末らしきものには近づきつつある」
「なら───そろそろ最後なんじゃない?」
猿夢を見た者の結末を知る者はいない。
カラ松が踊らされている舞台は僅か一日の間に繰り返されているから、おそらくは今日中にラストステージが始まるのだろう。

不安げに黒目を揺らす一松に、自分は大丈夫だと、不安になんてなるなと、なぜかどうしても言えなかった。

入れ替わりパニック

『中身の入れ替わり』などという眉唾な出来事に第三者として遭遇した時、人は最高にポンコツになってしまう。後に私は、これから記す不思議体験をそう述懐することとなる。


カラ松くんと出掛けるスケジュールを組んでいた休日。麗らかな日差しが心地良い散歩日和な快晴で、私がカラ松くんを迎えに松野家を訪問する約束になっていた。先に済ませたい用事があり、それを終えて出向く方が楽だったからだ。
カラ松くんは私が訪ねるまでに何度か電話をしてくれたらしいが、携帯をマナーモードにして鞄の奥底に入れていたため気付かなかった。せめて玄関を開ける前に着信履歴に気付けていたら、その後の展開は何か変わっていたのだろうか。

「こんにち──」
ガラガラと音を立てて玄関の戸を開けた。
しかし私の挨拶は途中で遮られる。バタバタと慌ただしい足音で玄関に駆けつけた一松くんが、私を見るなり叫んだからだ。
「ハニー!」
私はぎょっとする。
四男にハニーと呼ばれる筋合いはない。
「…一松くん?」
「えっ、ち、違うっ、これは───」
一松くんは当惑を顔に貼り付け、口早に何かを告げようとする。
「おいコラ、クソ松。ユーリちゃん困らせるんじゃねぇよ。突拍子過ぎるだろ」
そこへ、メンチ切った仏頂面のカラ松くんが腕組み姿で現れた。推しの面構えが悪い。というか、ユーリちゃんって何だ。いやそもそも、一松くんに対してカラ松くんが下卑た呼称を使うなんて意外っていうか、その口調はカラ松くんというよりもむしろ───
「何?二人で何の遊びしてんの?ドッキリ?」
「違うんだっ、ハニイイイイィイイィ!」
ダムが決壊したかの如く両目から大粒の涙を溢しながら、一松くんが私の腕に縋り付く。私の頭にはもうクエスチョンマークしか浮かばない。一松くんキャラ変した?
「おれの顔で泣くな、汚ねぇ!」
カラ松くんが怒鳴る。
「は?」

おれの顔とは。




カラ松くんと一松くんが入れ替わった。
六つ子たちの口から、にわかには信じがたい荒唐無稽な話を聞かされた私の心境は、複雑を極めた。中身入れ替わりは創作のネタとしては定番だが、いざ発生しましたと提示されてて、はいそうですかと納得できるわけもなく。非科学的すぎて鵜呑みにはできない。しかも相手は六つ子だ、全員揃って私を騙そうと画策している可能性も否定しきれない。

「一松が階段で滑って、落下した先にカラ松がいたんだよね」
決定的瞬間の目撃者であるおそ松くんが、苦笑混じりに語る。一歩間違えたら死亡事故。
だが長男の証言の信憑性を物語るように、よくよく見れば一松くんとカラ松くんの後頭部に赤いコブがある。
「急にそう言われても、ねぇ…」
熱い緑茶が注がれた湯呑みに両手を添えながら、私は言葉を濁した。
カラ松くんと一松くんの表情の作り方や言葉遣いは、確かに真逆と言っていい。二人ともそんな馬鹿げたネタで私を騙るような性格でもないし、実行に値するメリットも思いつかない。
しかし、強い物理的接触が発生したくらいで中身が入れ替わるなんて───まぁこの世界では起こり得るよね、十四松くんと犬の前科もある
「ボクらにとってはまたかって程度だけど、ユーリちゃんは信じられないよねぇ」
トド松くんが肩を竦めた。
「十四松の場合はバッドエンドだったよな」
チョロ松くんはこともなげに言う。
元に戻すために階段から突き落とそうとした際に犬(肉体は十四松くん)が逃亡し、見つけること叶わず、十四松くんはその後しばらく犬として生活していたらしい。
「一応戻ったからノーマルエンドだと思うけど」
ハッピーエンドちゃうんかい、先行き不安しかない。

「ユーリ……その、信じられないとは思うが、信じてほしい」
項垂れながら、一松くんの姿をしたカラ松くん──ややこしいので、今後はカラ松くんと呼ぶ──が言葉を絞り出した。一松くんの声で呼び捨てにされる違和感が尋常じゃない。
「私も、信じてあげたいよ」
カラ松くんの肩に手を置いて、私は微笑む。
「でもね……」
視線を彼から外して、溜息一つ。

「お前ら六つ子は自分以外の五人を完コピ擬態できるから信用ならん」

カラ松くんが崩れ落ちた。


何となく事実なんだろうという感覚はあるが、納得はできていないし、物理的証拠がない事象に対して100%の信用を置くことはできない。
もとより、心の中核や魂の在り処自体が現代の科学では解明されていないのだ。それが接触箇所を経由して入れ替わるなど無茶苦茶にも程がある。納得以前に理解が及んでいないのだから、信じられるはずがない。
「俺ら的には二人が入れ替わったままでも、別に不便じゃないけどね」
おそ松くんがへらりと笑う。
「まぁね。合計で六人なわけだし、支障はない」
「カラ松兄さんも一松兄さんもいなくなったわけじゃないもんね~」
チョロ松くんと十四松くんは、顔色一つ変えず長男に同意した。
顔の同じ六つ子ならではの意見だ。合計数が同じなら器が変わったところで彼らとって問題はない、と。
妙な説得力を感じて、そういう考え方もあるんだなと私は感心した。
「勝手にハッピーエンドに持っていこうとするな!おれはこのままとか絶対嫌だからな!」
カラ松くんの顔を苛立ちに歪めて、一松くんが怒鳴る。
「他の兄弟でもマジ無理だけど!」
全員嫌なんかい。

「じゃあ元に戻す?
こういう時って同じ衝撃を与えればいいんだっけ?───階段から突き落とすか
おそ松くんが顎に手を当て思案した。話の流れとしては至極真っ当だが、物騒な物言いしおる。
そして対象者二名が目を剥いて顔色を変えた。
「は!?無茶言うな、おそ松!次こそ確実に死ぬだろっ」
「無理無理!何考えてんの!?デッドオアデッドじゃねーか!」
抗えぬ死。
十四松くんと犬の時も当事者たちは同様の反応だったらしい。そりゃそうだ、一歩間違えれば黄泉の国への片道切符である。しかも、元に戻る保証もない。お決まりの反応。
「でも何もしないと、そのままだよね。ボクらは別にいいとしても、ユーリちゃんは困るでしょ?」
トド松くんが私を一瞥する。
「うん、それなんだけど…」
先ほどからずっと胸にモヤが巣食っていて、釈然としない感情が渦巻いていた。カラ松くんと一松くんが入れ替わったことへの疑念かと思っていたが、どうもそうではないらしい。この感情は───

「どっちを推せばいいのか悩むよね」

実に由々しき問題である。
何をもって推しとするかの基準は曖昧だった。視覚と聴覚で認識する外見情報は当然重要視されるとしても、性格や態度、価値観さえも彼を構成する一部として捉えてきた。器と中身は表裏一体で、切り離せないものだ。
だから、器と魂が切り離された時、私は果たしてどちらを『推し』と認識するのか。カラ松くんの外見を持つ一松くんか、一松くんの外見を持つカラ松くんか。

「もちろん中身だよ!って断言できなくて申し訳ない」

「ハニー!?」
「カラ松くんの見た目がどストライクなのが悪いよね」
「え、オレのせい!?」
カラ松くんは悄然とした面持ちで私を見つめる。少し離れたところで一松くんが呆れたように失笑していて、どうしてもそっちに目が行く。やはり推しの顔面は素晴らしい。レアな表情を拝ませてくれる一松くんに足向けて寝られない。
でも涙目で縋り付いてくる反応も可愛いと思う。何か二股かけてるみたいだな、これ。
「ユーリちゃんの悩みどころはそこなんだ?」
不思議そうにおそ松くんが訊くので、正直に頷く。
「推しのビジュアルと中身が乖離したケースを想定してなかったのは失態」
「むしろ想定してたら恐怖だわ。危機管理体制万全すぎて逆に引く
「そうなんだよ、私も混乱してる。だから早々に戻ってもらいたいっていうのが本心なんだよね」
心の底から信じることができない自分が歯痒くもある。私が決定的な失言をやらかす前に、どうか元通りになればと思う。


長男が提案した物理的衝撃での人格奪還作戦を却下された以上、他に有効な手立てはないというのが我々の結論だった。困った時のデカパン博士に依頼したところで、きっと手法は同じだ。お得意の薬でどうこうなる代物でもない。
その上、二人が入れ替わったままでも兄弟間においては大きな問題とはならない。ならばもう当面そのままでいいのではと投げやりな結論に至りかけたところで、不平を唱えるのはカラ松くんだ。
「一松の体は異様に体力がない
唐突に事実という名の盛大なディスり。
「うるせぇ」
案の定、一松くんは鬱陶しそうに吐き捨てる。
「背筋を伸ばしてるだけでも体力を消耗し続ける呪われしボディだ」
「いっぺん殴るぞ」
「あと表情筋が死んでる」
カラ松くんは一松くんに何か恨みでもあるのか?
いや、客観的にはありまくるし、何なら今まで報復しなかった忍耐力に感服の意を示したいくらいは蓄積されているだろうけども。
「表情を変えるたびに体力がもの凄く削がれていくから、この小一時間でもう体力を半分以上消耗してる」
RPG序盤に出てくる雑魚キャラか。

「お前よくこの体力で生きてこれたな」

無自覚に四男のライフをこそげ落としていく次男。天然砲の破壊力は半端ない。
もう止めたげてと私が制止をするまでもなく、一松くんは不快感を露わにしてカラ松くんに鋭い視線を向ける。
「すげームカつくけど…体力ないのは否定しない。事実だし。
あー、でもカラ松の体が何か軽かったのはそのせいか。動くのにいちいち気合い入れる必要ないって楽っちゃ楽だな。これなら隣町まで猫探しの旅しても余裕だろうな」
推しの体力の有効活用。
「オレの鍛え抜かれたダイナマイトボディをキャットのおもちゃにするのか、一松…」
「言い方」
私と一松くんのツッコミが重なった。




「でもさ、元に戻らないうちは二人で出掛けるのはナシになるよね」
ふと口にした私の言葉に、カラ松くんが目を剥いた。
「は?なぜだ、ハニー」
一松くんの顔と声でハニーと呼ばれる違和感がすごい。そういうとこだぞ。
「今日はずっと前から約束してた映画の公開最終日じゃないか。しかもカップルデーだ。ユーリはオレと行きたくないのか?」
「そうじゃないよ。私だって楽しみにしてた。ただ───」
「あ、そっか。一松とデートになるからだ」
私の言葉に重ねるように、チョロ松くんがポンと手を打った。
「あのさカラ松、お前はその格好でいいかもしれないけど、ユーリちゃんは一松とデートしてる感じで落ち着かないんだよ。それに、万一トト子ちゃんやイヤミに見られたらコトだぞ」
そうなのだ。事情を説明すれば納得してくれるかもしれないが、時間がかかる。かといってないがしろにすれば、不名誉な噂を流布される可能性が高い。一松くん姿での外出は圧倒的にデメリットが大きいのだ。
カラ松くんは、ムッとして下唇を尖らせた。納得しかねるという顔だが、彼に賛同する者が皆無な状況を察してか、すっくと立ち上がり「ちょっと待ってろ」という言葉を残して部屋を出る。

カラ松くんが戻るのを待つ間、私はスマホのカメラを立ち上げて一松くんに向けた。彼は当初こそ不快感を顔に出したが、すぐに私の意図を察してポーズを決めてくれる。しなを作ったり、一松くんお得意の変顔をしたりと、一松くん要素の強いカラ松くんという激レアな絵の撮れ高は上々だ。
「入れ替わりも案外悪くないね!良き!」
「わー、ユーリちゃんぼくより単純
十四松くんに言われてしまった。
「カラ松はユーリちゃんとのデートがおじゃんになるのが嫌なだけなんだよな。だったら戻る努力を最優先にしろっつーの、ったく」
おそ松くんが呆れ顔で息を吐く。長男の洞察力が冴え渡る。


「待たせたな」
カラ松くんが戻ってきたのは、十五分ほどが経った頃だった。襖を開けた彼の姿を見て、私たちは度肝を抜かれる。
「カラ松くん…っ」
「これなら遠目には一松だと分からないだろ」
髪型を整えてカラ松くんの私服に身を包み、意識的に眉をつり上げる。出で立ちを少々変えただけで、様相はカラ松くんにだいぶ近づいた。
目の前にカラ松くんが二人いるような錯覚を起こして、不調和のような不思議な感覚に囚われる。
「すごい…一松くんなのにカラ松くんに似てる」
「一卵性だしね」
トド松くんが身も蓋もないことを言う。
「これでいいだろ。あとはサングラスと帽子をかぶれば、トト子ちゃんでも遠目には見分けがつかない。
フッ、身は一松であってもオレのカリスマオーラは隠しきれないというわけだ」
悩ましげに前髪を払う仕草はまさしく次男。すぐ傍らでは、一松くんが眉間に深い皺を刻んでいた。自分の体で気障ったらしいことをするなとでも言いたげだ。

「高校の頃と違った、無理してないパリピの一松とかヤバイ。俺たちは今歴史的瞬間に立ち会っている
「一松も努力次第でパリピになれることを証明したな」
おそ松くんとチョロ松くんが神妙な顔つきでカラ松くんを見やる。その評価もどうかと思うが。

さぁ、とカラ松くんが手を差し伸べてくる。
「行こう、ユーリ」
けれど私は、素直にその手を取れなかった。
「ちょ、おま……っ」
私の逡巡がカラ松くんに悟られるよりも、一松くんの素っ頓狂な声が上がるのが先だった。彼は私を守るようにカラ松くんの前に立ちはだかる。
「カラ松、お前それでいいの?」
「何だ、一松」
「お前…おれの顔でユーリちゃんと手繋ぐの平気なのかよ。つか、何でおれの方が妙な気持ちにならなきゃなんないわけ!?」
顔を赤く染めて一松くんが咆哮する。何かすいません。今回の件では一松くんが一番の犠牲者なのかもしれない。
でも推しの声でユーリちゃんって呼ばれるのは非常においしいです。
「ごめん一松くん…もうちょい恥じらった声での『ユーリちゃん』もう一回頼める?
スマホを構え直して懇願すると、一松くんは鼻白んだ。
「それなりに修羅場っぽいの勃発してるのに推し活してる場合じゃないでしょ。ユーリちゃんも空気読んで」
「一松、オレの体で勝手なことは止めろ」
「おれが一番そう思ってるわ!」

そうですね。




「ユーリちゃんに触れるのはお前でも、体はおれなんだよ」

一松くんが、私もそこはかとなく感じていた違和感を噛み砕いて説明してくれる。
カラ松くんと出掛けるのは構わないし、私自身そうしたいと思っているけれど、私に話しかける声も触れてくる手も、一松くんのものだ。当事者がどう認識しようが、実質的には一松くんとのデートになる。カラ松くんと呼んで振り返る人の見た目は一松くんなのだから、不協和感は拭えない。
「…なるほど」
チョロ松くんが顎に手を当て、納得した顔になる。

「万一にも事故チューが発生したら、一松の唇が奪われた体になるわけか」

そうきたか。
「じこちゅう…自己中?」
「出会い頭にぶつかってキスしちゃうとか、いわゆる事故でキスすることを事故チューって言うんだよ」
首を傾げるカラ松くんに私が解説する。いささか暴論な気もするが、荒療治にはちょうどいいのかもしれない。
というか、全員何気にスルーしているが、私が奪う側認識なのはなぜなのか。失礼な野郎どもだ。
「何っ!?一松、お前ユーリにそんなことするつもりだったのか!?」
「てめぇ一回殴らせろ」
一松くんが眉をこれ以上なくつり上げて右の拳を握りしめるので、私は慌てて止めに入る。自分で自分の体を痛めつけてどうする。

私の制止を受けて、一松くんは仏頂面であぐらを掻いた。そんな彼の前に膝を立て、彼の頬に手を添える。
「入れ替わったままだとお互い不便だし…やっぱり嫌でしょ?
痛いかもしれないけど、戻る努力をした方がいいと思うんだよね」
眼前の一松くんは赤面しながら、あ、え、と言葉にならない声を発する。黒目は即座に私から逸らし、あちこちを彷徨った。両手は私を押しのけるでもなく、宙に浮く。
「その辺、一松くんはどう思う?」
顔を寄せて囁くように尋ねた私に、彼は返事をしなかった。

───気を失ってひっくり返ったからだ。

「こら、ユーリ!」
カラ松くんがいささか乱暴に私と一松くんを引き離すので、気絶した一松くんは仰向けにひっくり返り、床に後頭部を打ち付けた。自分の体は雑な扱いでいいのか。
「オレはこっちだ」
「あー…」
いつもの癖で距離を詰めすぎたらしい。一松くんには申し訳ないことをした。

「こういうことだからさ、カラ松くん…元に戻るまで二人で出掛けるのは止めようよ」

私の提案に目を剥いたのはカラ松くんだけだった。他の面々は彼らの予想通りなのか大半が平然としており、おそ松くんに至っては僅かにほくそ笑んだ。ざまぁみろ、そんな罵倒を今にも口にしそうな顔である。
「な、何で!?オレじゃ駄目なのか!?」
「一松くんの体じゃ駄目でしょ」
「どうして!?」
「もう一回説明しなきゃ分からんのか」
脳味噌仕事しろ。
「とにかく、戻るまでナシ。私ちょっとトイレ行ってくるから、その間に冷静になっておいて」
私は立ち上がり、廊下に続く襖を開ける。
「あ、ぼくそろそろ野球の練習する準備しなきゃ」
壁の時計を一瞥して、十四松くんが軽やかに部屋を飛び出した。私はその後を追うように居間を出て、襖を閉めた。




カラ松くんと一松くんが元に戻るための施策に尻込みする気持ちは、分からないではない。ただでさえ痛い思いをして入れ替わってしまったのだ。戻れる確実性がないのに同じ行為を繰り返せと言われて、大人しく従えるはずもない。
だが、その感情に同意した先にあるのは現状維持のみ。このままは嫌、でも苦痛を伴うのも嫌、膠着状態だ。

「腹は括った?」
「何で戻るなり高圧的なんだハニー」
部屋に戻るなり仁王立ちで二人を見下ろせば、カラ松くんから不服の声が上がる。
「じゃあこのままでいる?私帰るよ?」
「やだ」
可愛いな畜生。
「それならさ、私にいい案があるんだけど…」
床に膝をついて、カラ松くんと一松くんに小声で手招きをする。彼らは一度互いに顔を見合わせたが、怪訝そうな表情をしながらも私に体を寄せた。
他の人に聞かれたくないからと、二人に耳打ちするように近づき───

「十四松くん!」

「あいあい!」
スパンと襖を開け放ち、風を切るスピードで部屋に躍り込んだ十四松くんは、カラ松くんと一松くんの後頭部を荒々しく掴み──双方を力の限り叩きつけた。
正直、死んだかもしれんという感想は脳裏を過った。
豪快な衝突音と衝撃の余波は目の前の私を過ぎり、下手するまでもなくトラウマもののワンシーンである。瞬きも忘れて凝視してしまった私は、それからしばらくその映像を夢に見てうなされることとなるのだが、それはまた別の話だ。
「ええッ!?」
「ちょ、十四松兄さん…っ!?」
白目を剥いて地面に転がる二人の元に、おそ松くんたちが駆け寄る。
「ユーリちゃん、これでいい?ぼく上手くできたよ」
しかし十四松くんはケロッとしたもので、袖を自分の口に当ててにこにこと私に笑顔を向けた。
「うん、ありがとう十四松くん。効果あるといいね」
「だねー」

十四松くんに荒療治の実行を依頼したのは私だ。
たまたま同時に廊下に出た際にひらめき、ダメ元で試さないかと共犯を持ちかけた。十四松くんが熟慮したかは定かではないが、快く了承した流れである。

チョロ松くんが彼らの脈を計り、安堵の息を漏らす。
「とりあえず生きてるな。
てか、ユーリちゃんが強行突破に出るの結構驚きなんだけど。やるにしても、もっと平和的な解決方法だと侮ってたよ」
「推しの分割は解釈違いなので」
「解釈違い」



後頭部をぶつけ合ったカラ松くんと一松くんが気を失っていたのは、小一時間ほどだった。待つのに飽きたおそ松くんがそろそろ起こすかとコップの水を彼らの顔面にかけ、強制的に覚醒を促す。互いに打ち付けた箇所は遠目にも明らかなほど腫れ上がっていて、戻っても戻らなくても今日の外出は中止になりそうだ。
最初に意識を取り戻したのはカラ松くんの体だった。
「……っ、あだだだだ!」
飛び起きざまに両手で頭を押さえ、目尻に涙を浮かべる。
「大丈夫?」
首謀者は私だが、恐る恐る様子を窺う。彼は痛みを逃がそうと声にならない声を溢しながらも、私に視線を向けた。

「…ユーリ?」
いつもの、少し低い声で。
「カラ松くん…?」
「さっきの十四松は、ユーリが───」
「戻ったんだね!良かったぁ!」
続きは言わせない。感極まったと見せかけて、大声で被せる。そして彼が愛用している手鏡を取り出し、眼前に突きつけた。
「ああっ、オレのパーフェクトフェイスに傷が!ジーザスっ…ハニーと出掛けるというのに、何ということだ…!」
でかいたんこぶにそっと手を当て嘆く推し。
「傷は男の勲章なんじゃないの?」
「それはユーリを守った時にできたら、の話だろ。ユーリを華麗にエスコートするのに顔に傷があっては台無しじゃないか」
「そっかそっか。何はともあれ冷やさないとね」
冷凍庫から二人分の保冷剤を出してきてくれたのはトド松くんで、両方とも受け取って片方をカラ松くんの頭に当てる。彼はふてくされながらも私の手当てを受け入れた。私の手がカラ松くんに触れると頬を染めはするものの、先ほどの一松くんのように卒倒はしない。
だが───

「誤魔化そうとしてるかもしれないが、十四松をけしかけたのはユーリだということはお見通しだぞ」

やべぇ。
目が笑ってないし声に抑揚もない。本当すいません。
「オレが死んでもいいのか?」
「ごめん…無理矢理したのは反省してる。私はカラ松くんじゃないと駄目だから、早く戻ってほしくて……」
先ほども述べたが、推しの二分割は解釈違いなのでノーセンキューなのだ。
しかし『カラ松くんじゃないと駄目』という言い方では、まるで異性としてカラ松くんを欲しているような受け取り方もできるため、いささか語弊があったかもしれない。案の定、カラ松くんは赤面して言葉を詰まらせた。
この期に及んで、誤解です、とは言いづらい。

そうこうしているうちに、一松くんが目を覚ます。
「一松くんもごめんね」
謝罪しながら、もう一つの保冷剤を彼のこぶにそっと当てた。目覚めてしばらくは痛みに意識が集中していたが、意識を戻すや否や私が至近距離にいることに慌てふためく。
「お、おれのことはいいから!自分でできる!」
一時間前の彼の反応を思い出し、本当に入れ替わっていたのだと再認識する。今も、どこか他人事にも思えてしまうけれど。
「そう?じゃ、これ渡しておくね」
「…ん」
保冷剤を差し出したら、受け取ろうとした一松くんの手のひらに私の指が当たる。ただそれだけの接触に彼はまたもや頬を染めて硬直した。その初心な反応は、かつてのカラ松くんを彷彿とさせる。


「ハニー、行くぞ」
慌ただしく再び着替えてきたカラ松くんが、一松くんから奪うように帽子を受け取って頭に被る。
「え、行くの?でもコブが───」
「帽子で隠せる」
確かにその通りだが、怪我を押してまで優先すべき事項と彼が判断したのは意外だった。まだチケットも取っていないから、他の映画館に切り替えれば延期もできる。
「限られた人生で、今日という日は一日しかない。両脚を折って物理的に外に出られないならまだしも、この程度の怪我ならユーリとの約束の方がオレには大事だ。
今日のユーリには今日しか会えない」
「カラ松くん…」
万一悪化したら後味悪すぎるんだが。
「兄弟の前でマジ口説きとか何考えてんの。砂吐くわ」
トド松くんがスマホの画面を見つめたまま茶化してくる。おそ松くんとチョロ松くんは反応を苦笑に留めていた。
カラ松くんの気障な物言いは日常茶飯事なので、いちいち気に留めていたら精神的に疲弊する。だからこそトド松くんの揶揄は珍しく、カラ松くんは目元を赤く染めた。
「と、とにかくだ!
問題はオールクリア、怪我も大したことない、映画には間に合う。この三拍子が揃ってる以上、ハニーからのノーはリジェクトさせてもらう」
横暴か。

「行ってやってよ、ユーリちゃん」
決定打になったのは、一松くんの一声だった。
「一松くん…」
彼は肩を竦めて笑う。カラ松くんとは反対側にできたコブを片手を押さえながら。

「一時的とはいえこいつの体乗っ取ってたっていう事実に対して今超絶に胸糞悪いから、しばらく顔見なくて済むと心の底から助かる」

「あ、はい」

私は即座に頷いた。戦争が勃発する前に徹底しよう。これ以上長く滞在するのは危険だ。
「ハニーっ、何で一松の言うことなら大人しく聞くんだ!」
カラ松くんが半泣きで抗議する。
命が惜しいからだよ、分かれよそれくらい。危うく舌打ちしそうになってしまった。
「不本意だけど行こうか、カラ松くん」
「不本意!?」
またもや叫ばれた。うるさいなもう。
そもそも私は次男四男の入れ替わり事変に巻き込まれた、言わば被害者なのだ。当事者でもないのに何故こうも消耗しにゃならんのか。
二人が元に戻った安堵感は、一瞬にしてたち消えた。もう今日は休ませてくれという本心を一旦胸の内に隠して、私は目尻に涙を溜めてぐずるカラ松くんを引きずるようにして松野家を後にしたのだった。




「無理はしないでね。辛くなったらすぐ言って」
元々の予定通り映画を観に行くために外を出たものの、時折カラ松くんがコブになった後頭部を無意識にさするから、私は声をかけた。本来は一日安静にすべきなのだ。強行は気が進まない。
「ノープロブレムだ、ハニー。この程度、怪我の内にも入らないぞ」
驚いて窓ガラスを突き破ったり、ツッコミで飛び蹴り食らってる連中から見ればそうなのかもしれないが。
「過信は駄目。私にも責任あるし、カラ松くんに何かあったら居ても立ってもいられないの───私が。
だから気持ち悪くなったりしたら隠さないで」
私がそう言うと、カラ松くんはピクリと肩を揺らしてから下唇を噛んだ。その頬は微かに上気している。
「ユーリ…!」
彼は前に回ると、私の肩に両手を置いて一度大きく呼吸をした。それから、私を包むように抱きしめる。
「っ、ちょ──」
「…すまん。嬉しくてどうしようもないんだ。すぐ放すから…少しだけ我慢してくれ」
私の肩に顔を埋めたカラ松くんが、高ぶる感情を抑えたような声で告げる。背中に回った両手に力がこもった。
大切だと言われることは元より、身を案じられることにも多大な喜びを感じるのは、カラ松くんがかつて兄弟から受けてきた杜撰な扱いの影響だろうか。
私はどうしたい?大丈夫だよと慰める?ただ黙って受け止める?
「さっきブラザーたちが言ってた意味が今になって分かったぞ、ハニー」
「みんなが言ってたことって?」
「オレが一松の体のままだったら、今こうしてユーリを抱きしめてるのはオレじゃなくて一松なんだ、って」
ああ。そんな話をしていたな。与える者と受ける側の認識が異なる場合、受ける側の認識が真実ともなり得る。

「ユーリに触れるのはオレだ。中身も体も松野カラ松の、オレだ」

嗅ぎ慣れた匂いが、私の鼻孔をくすぐる。同じ洗剤を使って洗った服を着て、同じ物を食べ、同じ部屋で生活していても、カラ松くんと五人の匂いはまるで違う。同様に、六人総じてクズである根底以外は、思考も価値観も判断基準も全てが異なる。
私が好ましいと感じる人が、ただ一人であるように。
「うん」
戻って良かった。本当に。やっと一息つく。
「すごく心配したよ。ハゲるかと思った」
「ハゲができてもハニーは世界一キュートだ」
「いやいや、カラ松くんの主観はどうでもいいの。私にとっちゃ死活問題だから」
「オレが責任取るから問題ない」
すげー爆弾落としてきた。
でも、まぁ、取るというのだから取ってもらえばいいか、もしそうなった場合は。

だから、カラ松くんの背中に私も手を回す。すれ違う好奇の目には気付かないフリをする。私が優先すべきは世間体ではなく、カラ松くんだ。彼の幸せだ。

「とはいえ、一松くんが憑依したカラ松くんっていうもう二度とお目にかかれない希少イベントは最の高だったんだよね。今日はそれおかずにご飯三杯いける
言動こそ一松くんなのに、見た目と声が推しのそれ。当推しのポテンシャル最高すぎん?
カラ松くんはガバッと顔を上げた。
「ユーリ、オレは浮気を許容した覚えはないぞ」
「浮気の定義がおかしい」

「オレだけ見てろ」

私の両肩を強く掴んで、真っ直ぐに見据える双眸。鋭い眉は一層つり上がり、黒い瞳には私しか映っていない。
「あはは」
「な、何がおかしいんだ、オレは本気で──」
「うん、知ってる。見てるよ」
「ユーリ…」
「見てるんだよ、ずっと」

また会いたいと言われたあの時から、今この瞬間も。
「あ…っ、や、その、ユーリ……」
「うん」
カラ松くんの目が泳ぐ。次の瞬間ハッとして周囲を見回し、通りすがりの傍観者たちからの視線に今更気付いたらしく、一段と顔が赤くなる。慌てた様子で肩から手が離れた。
「え、映画に遅れてしまうのはトゥーバッドだ。急がなければ次の回に間に合わない」
もはやこれは様式美だ。肝心要の結論は語られないまま、また当面は有耶無耶になる。私自身、次はどんなパターンが来るかと毎回楽しみにしているところはあるから、肩を落とすとかそういう負の感情は去来しないのだけれど。
「もうそんな時間?早く行かなきゃね」
スマホに映る時計を一瞥して、私はにこりと微笑む。
いつもの日常が戻ってくるだけだ。そう思って踏み出そうとした刹那───

「こちらにお手を、マイハニー」

手が差し伸べられる。当たり前のように私はそれを受ける。
「ん」
「楽しみだな」
カラ松くんが笑う。指が絡まる。私の親指を、彼の親指が慈しむみたいに優しく撫でた。反射的にカラ松くんを見ると、彼はバツが悪そうに白い歯を覗かせる。

一見同じように繰り返されるパターンにも、若干の変化は訪れている。目に見える形に様変わりする日もそう遠くないかもしれない、そんなことを私はぼんやりと思った。

松野家温泉旅行記(後)

卓球はおそ松くんと十四松くんペアの勝利で幕を閉じた。景品として用意されたデートは、須らく彼らに献上される。

「あの勝ち方は卑怯だ。男なら正々堂々と勝負するべきだろ、おそ松」
「何だよ、勝てば官軍だろうが!別にルール違反したわけじゃねぇし!なぁ、十四松!?」
「そうだよねー。チョークもローブローもしてないし?そういう意味ではスポーツマンシップに則って勝負したと言えるんじゃないでしょうか」
十四松くんは神妙な顔つきで淡々と反論するが、如何せん口が笑ったままなので真剣味がまるで伝わってこない。
「そもそも、じゃんけんで勝ったチームがシード権ってのからしておかしいんだよね」
「一松兄さん、それを言っちゃあおしまいだから」
トド松くんが苦笑する。
その横でやれやれと溜息を溢すのはチョロ松くん。

「結局、最初からこうやって全員でユーリちゃんとデートすれば良かったんだよ」

そう、デート権は優勝したペアに献上される───はずだった。
しかし敗者側が勝敗に異議を唱え、両者間で口論になったところを、一回戦敗退のチョロ松くんペアが仲裁を買って出た。
何だかんだあり、妥協案として採択された結論が『全員でデート』である。

浴衣姿のまま外へ出て、カロンコロンと七人分の下駄を鳴らしながら川沿いを歩く。私たちと同じ格好をした宿泊客らしき姿が散見されて、心なしか時間の流れも長く穏やかに感じる。都会の喧騒から離れた遠い場所に来たんだなと、ぼんやりとそんな感想を抱く。
「お前らどうせ結託してこういうオチにする魂胆だったんだろ!俺せっかく勝ったのにー!」
声を荒げるおそ松くんを、示し合わせたわけでもないのに全員が華麗にスルーする。マジョリティが優先されるのは民主主義の流れだが、さすがに少々不憫だった。


出発して数分も経たないうちに、六つ子の内数名が地ビール販売ののぼりに目を奪われた。土産物屋が立ち並ぶ店先で、キンキンに冷えた瓶から透明なプラスチックのコップに注がれて客の手に渡る。
「買わなきゃ」
おそ松くんが真っ先に使命感に駆られる。いつになく真剣な眼差しが店先に向けられた。
「同意」
「旅先での飲み歩き、プライスレス」

長男の使命感に対しては、チョロ松くんと一松くんが深く頷いた。費用は発生するだろ、落ち着け。
「おじさーん、ビール四つね」
十四松くんも挙手をして加わり、四人は地ビールを購入。
「ユーリはどうする?」
カラ松くんに尋ねられ、私は思案した。ビールも捨て難いが、隣の店で販売されているすき焼きまんの匂いが先程から気になって仕方ないのだ。県特産のブランド牛を野菜と共に甘辛く煮込んだ香りが、空腹を刺激する。夕食前の間食は抗いがたい誘惑である。
「私はあっちのすき焼きまん買おうかな」
「いいな、オレもそうする」
「ボクも。あ、でも兄さんたちビール一口頂戴ね」
カラ松くんとトド松くんは私とすき焼きまんを購入し、湯気の立つそれを頬張った。コンビニで買うより一回りほどサイズが大きく、具の中央には半熟卵が収まる贅沢具合。
「旨い!」
「美味しいねぇ」
牛肉の柔らかさと、しっとりとした皮に合う甘辛い味付けが絶妙なハーモニーだ。具もぎっしりと詰まっていて、口の中が満たされていく。
「ユーリ」
ふと、カラ松くんが私の顔を覗き込んでくる。
何か用事かと声を発するより前に、彼の指先が私の唇に触れた。

「ついてる」

婉然と笑いながら、その指先を舐める。
予告なく実行される一軍の如き所作、そして指を舌で舐め取るエロスによるキャパオーバーで絶句する私の傍らで、トド松くんがハッと声を漏らした。
「ナチュラルに彼氏面かよ」
「えっ!?や、違うんだ、ユーリの唇にタレがついてたから……えぇっ」
カラ松くんの顔が真っ赤に染まる。素で一軍紛いの行動はできるのに、相変わらずこういうところは童貞丸出しだ。まぁ、これは六つ子全員に言えることだけれど。


小腹を満たしてから散策コースを十分ほど進むと、森の中に落差二十メートルほどの小さな、けれど存在感を放つ滝が私たちを出迎えた。岩場から流れ落ちる清水が、琴のような音色を奏でる。水辺のせいか、ひんやりとした涼しげな風が肌を撫でた。
間近で見ようとして近づくと、白く細かな水しぶきが巻き上がる。
「わぁ、冷たっ」
まるでミストだ。手を引っ込めると、カラ松くんが微笑みながら私の側に並ぶ。
「この辺だけ涼しいな」
「癒されるよねー。もうこれだけで旅行来た甲斐あったなって思えちゃう」
「はは、旅行はこれからが本番だぞ、ユーリ」
「そうなんだよね。到着してまだ二時間も経ってないなんて信じられない」
豪華部屋食、夜の露天風呂、心躍るイベントはまだ幾つも控えている。
「ねぇ、みんなで記念撮影しようよ」
トド松くんが声を弾ませた。近くを通りかかった観光客らしき若い女性に声をかけ、自分のスマホを手渡して撮影を依頼する。こういう時の末弟の行動力はリア充さながらである。見習いたい。
私はチョロ松くんと十四松くんに挟まれる立ち位置で、シャッターが切られた。

何軒か土産物屋を覗いた帰り道、私の横には一松くんが並んだ。
他愛ない会話が一旦途切れた頃合いに、彼は感慨深げに息を吐く。
「まさかユーリちゃんと旅行することになるなんてね。よく考えるまでもなく天変地異だよな
「あ、良かった、ちゃんとそう思ってくれてるんだ?
九人旅行だって当たり前のように言われたあの時の話の通じなさは、サイコパス集団に囲まれた恐怖に近いものがあったからね」
集団心理の恐ろしさを垣間見た。
「そんなに?」
「そんなに」
私が強く頷くと、一松くんは笑った。
「いやでもほんと、違和感なかったんだよな。ここんとこ、ユーリちゃんがいるのが当たり前になってきたから」
彼は気怠げに首筋に片手を当てる。所在なげに手を動かすのは、照れ隠しの意味合いもあるのかもしれない。
「だからユーリちゃんがオレたちの前からいなくなったら、むしろそっちの方が違和感なわけ」
「そうなんだ?」

「ユーリちゃんがいなくなるくらいなら、カラ松と付き合ってくれた方が断然いいって、そう思うようになってきた感もある」

返す言葉が見つからなかった。どうしようもない大きな変化が六つ子に訪れていることを、痛感させられたからだ。他人との積極的な交流を避けてきた四男の口から、私の離脱を懸念する言葉が紡がれようとは。
ターニングポイント、そんな単語が脳裏を掠める。
「でも普通にムカつくからカラ松に対しては全力で妨害するけど」
そこは通常運行で安心した。
ともあれ、彼は私に対して何らかのアクションや返答を期待しているわけではないらしかった。感情を吐露した後は、フヒヒ、と意地の悪そうな声を漏らす。
「分かる」
そこへ唐突に割って入ってきたのは、チョロ松くんだ。
「ユーリちゃんってもう家族じゃん?僕ら全員の嫁っていうか」
「それな」
「盛大に異議あり」
私が優しく言ってるうちが花だぞ、ニートども。

「なんて、僕らがこういう冗談を言えるのは──ユーリちゃんだけだからさ」

異性が関わると途端にポンコツになるチョロ松くんは、私と対等に互いの推しを語り、彼が推す地下アイドルのライブにも共に行く仲だ。ときどきポンコツになって私が骨を折ることもあるけれど、今みたいに相手によっては赤面しかねない台詞を吐くなんて、出会った当初は想像もしていないことだった。
一松くんも同様で、彼に至っては異性どころか同年代と日常会話をすることさえままならないほどだったのに、いつの間にか私と取るに足らない話をつらつらと交わすようになった。猫絡みなら、二人で外出することだってある。
私と六つ子たちは、少しずつ関係性を深めていると言って過言ではないだろう。

だからって家族扱いが免罪符になるわけじゃないからな。松野家の思い込みと思考の飛躍ほんと怖い。




その日の夕食は豪華を極めた。
旬の食材をふんだんに使い、一品一品全てが食材の見栄えから味付けに到るまで芸術品と言って差し支えない美しさと繊細さでテーブルを彩った。担当の仲居が一人つき、適切なタイミングで出来たての料理を配膳し、料理の説明をしてくれる。
メインは口当たりの柔らかな牛ローストで、赤ワインをベースにした濃厚なソースが絶品だった。歯で噛むたびに口の中で蕩けていく感覚に感動を覚える。六つ子たちに至っては声高に騒ぎ立てるだろうと思いきや、感極まり無言で目頭を押さえる輩が続出していた。
食前酒と先付けに始まり、〆のデザートまで一時間強を要した夕食に、私たちは始終笑顔で舌鼓を打ったのである。

「旨い料理食った後に、眺めのいい部屋で飲む酒は最高だよな!」
乾杯もそこそこに、おそ松くんが缶ビールを開けた。ブシュッと弾ける軽快な音が室内に響く。
私たちは食後にもう一度温泉に入り、最寄りのコンビニでアルコールとつまみを買ってきた。宵の口を過ぎてからもう一遊びする、それもまた旅の醍醐味だ。
部屋には既に布団が人数分──私とおばさんの分は襖を隔てた向かいの部屋に──敷かれていて、おじさんは端の布団に寝転がり、早くも船を漕いでいる。おばさんに至っては読書に勤しみたいとのことで、襖を閉めた奥の間だ。
「明日絶対帰りたくなくなるヤツだ」
苦笑するチョロ松くんの横で、十四松くんが眉間に皺を寄せた。
「ぼくらニートは日常的にそこはかとない不安感を抱えて生きているわけだから、こういう一流のものに触れると一時的に高揚はするけど、最終的には現実との圧倒的落差に絶望して致命的ダメージを食らうんだよね
面倒くせぇ奴らだ。
同世代に対して感じる劣等感の使い道を変えれば、少なくとも今よりはマシと自分自身が思える環境になるに違いないのに、彼らはぬるま湯からの脱却を決して良しとしない。持ち家があって衣食住が保障された堕落は、さながら麻薬である。

「夕飯の肉旨かったよなー、俺あれ毎日食っても飽きない自信あるわ」
「ミートゥーだぜ、おそ松。あのビーフは味付けも柔らかさも最高だった。さすがはラグジュアリーな旅館だけはある」
アルコールで頬を赤らめたおそ松くんとカラ松くんが、互いに肩に腕を回して笑い合う。こういう時の六つ子の表情はとても似ていて、一卵性なんだなと痛感する。
私は少し離れた席でウーロン茶のペットボトルを開けた。

六つ子が総崩れになったのは、それから二時間ほどが経過した頃合いである。元々夕食の時点で各自がビール瓶一本を消費したほろ酔いスタートであったこと、そして旅行という非日常感によるテンションアップにより、揃ってピッチが早かった。
ある者は机に突伏したままいびきをかき始め、またある者はちょっと休憩と言って潜った布団で熟睡したり、壁に寄りかかった体勢で意識を失う。
「さて」
私は小声で呟き、自分の鞄から財布を抜き取って立ち上がる。それから極力音を立てないよう忍び足で廊下へ出た。


「ユーリ」

だから、ロビーで背後から突如として声がかかった時は口から心臓が飛び出るかと思ったものだ。
「…カラ松くん!」
「目が覚めたら姿がなかったから、探しに来たんだ」
カラ松くんの顔にはまだ赤みが差しているが、足取りは思いの外しっかりしている。彼は私の方へと、真っ直ぐに歩いてきた。
「心配させないでくれ…」
心なしか潤んだ双眸で、縋るような不安げな声。え、何これ据え膳?
「買い物か?」
「飲み物買いに来たの。みんなぐっすり寝ちゃったから、起こさないようにと思ったんだけど、心配させてごめんね」
「…あ、ああ…そうだよな。こんな時間だもんな」
日付が変わる一時間前。ロビーは日中同様に明るいが、館内はしんと静まり返っている。フロントに担当者が一人いるだけで、他の宿泊客の姿はなかった。
「なぁ、ユーリ。まだ眠たくないか?」
「え?うん、今のところは」
何せほぼシラフだし。返事をしたら、彼はゆっくりと目を細めた。
「なら、ユーリさえ良けければ、少し外を歩かないか?」
ノーの選択肢は私にはない。はい喜んで。食い気味にイエスを告げたら、カラ松くんは右手の人差し指を自分の口元に当てて、いたずらっぽくウインクしてみせる。

「ブラザーたちには秘密だ」


夜の街は、異世界だった。
レトロな木造建築が川を挟んで立ち並ぶ温泉街一帯がオレンジ色の明かりで彩られ、幻想的な雰囲気に包まれている。等間隔に配置されたアンティークなガス灯は、さながら新参者を異界へ誘う道標だ。異物のないよう徹底的にデザインされた景観は独特の世界観を構築し、旅館を一歩出た私たち旅人に言葉を失わせる。
「綺麗…」
「通りで人気のある温泉街なわけだ」
のんきに踏み入った観光客に魔法がかかる。
カラ松くんの端正な横顔が、橙色のライトに染まる。彼は横目で私を一瞥した。

「でも、ハニーの方がずっと綺麗だぞ」

お前の方が何百倍も綺麗だわ畜生め。
使い古された陳腐な台詞でも、推しが言うと効果抜群だ。私は天を仰ぐ。

ノスタルジーを感じさせる夜の街並みを浴衣姿で歩いていると、過去にタイムスリップしたような錯覚に陥りそうになる。心が浮き立って、ふわふわした感覚。
昼間の人気が嘘のような静けさで、川のせせらぎが私の頭から思考を奪っていく。
「今日は楽しかった」
朱色の手すりがついた木製の橋を渡る途中で、カラ松くんは立ち止まる。
「少々強引な流れになってしまったが、旅行に一緒に来てくれてサンキュー」
「強引な自覚あったんだ?」
「マミーとブラザーの連携プレーは最高にグッジョブだった」
直接手を下してない分たちが悪い。
とはいえ、狡猾な静観者と積極的な誘導者の罠から逃げなかった私にも非がある。本当に嫌なら、逃亡する術は数多とあったはずだ。
「それだけユーリがうちに溶け込んでる証拠だな。事が上手く運びすぎてドッキリかと思ったくらいだ。今でも、ドッキリ大成功のプラカードを持ってブラザーが現れるんじゃないかと疑心暗鬼になってる」
「あはは、分かる、それ私も思ってた。おばさんの盛大なドッキリかなって」
「それに、ユーリとは二人だけで旅行したり、まぁ…泊まったり、ということもあったが……なぜか今日の方が二人でいたいと思う気持ちが強くて、不思議だった」
カラ松くんは肩を竦める。
「昼間、ブラザーたちにユーリを取られてしまったからだろうな」
私の周りには常に六つ子の誰かがいた。六人プラス親二人もいれば、話し相手は入れ代わり
立ち代わりで、言われてみればカラ松くんとの接触は少なかったかもしれない。

「俺が独占できなかった」

私の推しフォルダはかつてなく充実しましたが?という本音は飲み込んだ。本人との触れ合いこそ少なかったが、満タンだったスマホの充電が一日で切れるレベルで記録を残したので、充実感はすごい。

「ユーリが愛されるのは当然だし、ブラザーとフランクに接してくれるのは喜ぶべきことなんだが───妬けるな、やっぱり」

そう言って彼は私の左手を取り、手首にキスをした。その間、彼は私から視線を逸らさなかった。まるで私の反応を窺うみたいに。
手首へのキスは欲望の表れだと聞く──もっと愛してほしい、という。

「よそ見はしないでくれよ」

静かな空間にこだまするのは、何気なさを装った真剣な想い。
私は苦笑する。その言われ方は心外だ。
「これまで推し変どころか、男の人にときめいたり夢中になったことが一回でもあったっけ?」
「未来のハニーへ頼んでるんだ。こういうのは定期的に言わないと駄目だろ?」
見慣れぬ浴衣姿と、聞き慣れぬ下駄の音、そしてどこか懐かしい趣のある景色に、私たちの意識は溶ける。現実が、今はひどく遠い。
仕事をして家事をして毎日を必死に生き延びる日々から、体ごと切り離されたようだ。

「ユーリの薬指が空いている以上は、確かなことは何一つない」

何の装飾品もつけていない私の左手に、カラ松くんの視線が落ちた。彼が望むのは約束か、契約か。
「だから、他の奴に取られないようにするんだ」
「…杞憂だと思うよ」
私の手を取ったカラ松くんの上に、もう一方の手を重ねる。私の両手が彼の手を包む形になった。
どれだけ言葉を重ねても未来は確約できないけれど、せめてこの瞬間の不安は取り除いておきたい。
「私の方は全然心配してないんだけど…心配した方がいいのかな?」
わざとらしくうーんと唸り、眉間に皺を寄せてみると、カラ松くんの目尻が瞬間的に朱に染まった。
「お、オレが他のレディに心変わりするはずないだろっ」
声を荒げた反動で、彼の手に力がこもる。声の届く範囲に他の観光客がいなかったのは幸いだ。
思いの外大きな反応に私が面食らっていると、カラ松くんは長い息を吐き出して、赤い顔のまま改めて私を正面に見据えた。

「ハニーが心配する必要はこれっぽっちもないが…でも、その……心配してくれた方が、オレは嬉しい」

推しが尊すぎてしんどい。
オーバーフローした尊さが各地より集結して村作るレベル。

これ何のご褒美イベント?

それから私たちはしばらく川沿いを散策し、日付が変わる頃に部屋に戻った。一人くらい目が覚めているかと思ったが、部屋を出た時と若干体勢が変わっているくらいで、全員揃って夢の中だ。
時折ムニャムニャと寝言を言っては顔をしかめる六つ子たちの様子に、私とカラ松くんは顔を見合わせて笑う。カラ松くんが彼らを布団に運んでいる間に、私はテーブルの周りに散らかる缶やゴミを片付けた。
「何か、変な感じがするよね」
「変な感じ?」
「こっそり朝帰りしたみたいな罪悪感、というか背徳感?」
襖を隔てた先のおばさんはまだ起きているかもしれないが、その仮説は棚上げしておこう。
「あ、朝帰り…っ!?」
「雰囲気的に近くない?夜分に可愛い息子さんお借りしてすみませんって気持ちに──」
「ハニー!」
怒られた。解せぬ。




朝の六時前にスマホの振動で目が覚める。カーテンの隙間から漏れ差す光が、僅かに部屋を明るくしていた。おじさんと六つ子たちはまだ惰眠を貪っているようで、複数人の寝息が聞こえてくる。物音を立てないように私は部屋を出た。
朝早くの大浴場は閑散としていて、私が入るのと誰かが出るのが同時だった。彼女が唯一の使用者だったらしく、広い風呂が貸切状態になる。いそいそと露天風呂に浸かり、両手を広げた。鳥や虫の鳴き声がBGMとなり、私に至福の心地よさをもたらす。
ずっと泊まっていたいと思う。我ながら単純思考で、温泉街の策略にまんまと嵌った今後の優良顧客候補である。こうしてリピーターは作られていくわけだ。

一人きりの温泉を堪能し、ホクホクした気持ちで大浴場を出た時のことだった。
「ハニー!」
休憩コーナーの椅子から驚きの声とともに立ち上がったのは──カラ松くんだった。彼の髪は僅かに濡れそぼっている。
「あ、カラ松くんも温泉入ってたの?偶然だね」
私が部屋を出た時にはまだ布団の中だったから、思いもよらなかった。
「驚かせないでくれ。母さんと寝てるものだとばかり思ってたから、ドッペルゲンガーが現れたと思ったじゃないか」
カラ松くんは胸を撫で下ろす仕草をする。
「人の少ない露天風呂に入りたくて早起きしたんだ。カラ松くんは?」
「夜の帳から朝日が昇る暁に、人気のない源泉風呂で静寂と孤独に浸るのは、選ばれしイイ男のみに与えられた特権だろ?」
なるほど、分からん。
「源泉の切なる呼び声にオレが応えたんだ」
畳み掛けてきた。しつこい。
「ユーリはこのまま部屋に戻るのか?」
「朝ご飯の時間まではまであるから、ちょっと朝の散歩しようかなって思ってたところ」
「なら、モーニングコーヒーと洒落込むのはどうだ?」
昨日の夕方の散策時に、近所のカフェで早朝は店先で挽きたてコーヒーをテイクアウトで販売している看板を見かけたと言う。
「カフェラテは地元の牧場の牛乳を使っているらしいぞ」
「いいね。行こ行こ!」
「オーケー、マイハニー。では、オレが責任を持って店まで案内しよう」
カラ松くんは右手を恭しく自分の胸に当て、緩く頭を下げる。主君の命を受けた執事さながらの振る舞いだ。私たちは軽やかな足取りで、ロビーの自動ドアをくぐった。

「風呂上がりのコーヒーをユーリと飲めるなら、いくらでも早く起きれる気がするな」
テイクアウトしたコーヒーのカップからは、香ばしい豆の匂いが漂う。牛乳と砂糖の配合も程よく、口に含んだ瞬間にほのかな甘さが口内に広がった。喉の乾きも潤される。
早起きした観光客向けのドリンクという位置付けだろうが、コーヒー豆販売所も併設されていて味は本格的だ。
「旅行ならではの情緒があって楽しいね。帰りたくないなぁ」
浴衣姿で早朝に外へ出て、温かいコーヒーを飲む。東京の生活圏内で同じことをやれば、間違いなく不審者扱いなのに、温泉街圏内では極々自然という不思議。
「また来ればいいじゃないか」
何でもないことのようにカラ松くんは言う。
「ユーリさえ良ければ、オレはいつでも専属ドライバーになるぜ」
それはつまり、二人きりでまた来ようという誘い。ひどく遠回しで、けれどとても真っ直ぐな。
「じゃあお金貯めないとね」
「…茶化さないでくれないか、ハニー」
「茶化してないよ。また来るためには先立つものがいるよねって話」
車を借りるにしろ宿に泊まるにしろ、資金が必要だ。特に今日宿泊しているようなラグジュアリーな旅館は高価格帯で、気軽に予約できるものでもない。
そういう意味合いでの回答であることにようやく思い至ったカラ松くんは、ぱちくりと驚きを顔で表現してから、嬉しそうに頬を緩めた。

旅館に戻るなり、受付に立っていたフロント係の男性が駆け寄ってくる。彼は私の目を見ていた。
「松野様」
白シャツとネクタイの上に、旅館の名が書かれた羽織を着用した格好で、礼儀と清潔感を保ちつつも旅館の雰囲気に合わせて和装を重ねるスタイルは、宿と宿泊客の距離が少しだけ近くなる気がして、私は好きだ。
「はい」
すかさず答える。傍らのカラ松くんはなぜか面食らった様子だった。
「何でしょう?」
「今朝方、女湯の大浴場の脱衣所でどなたかがポーチをお忘れになったようでしたので、もしや松野様ではないかと思いまして」
「ああ」
得心がいく。
「私はポーチを持ち込んでいないので、きっと他の方ですね」
私が脱衣所で着替えをしていた時には気付かなかった。それなりのサイズなら目に留まっただろうから、私が出た後に入浴した人の物に違いない。
「さようでございますか、大変失礼いたしました」
フロント係の男性は礼儀正しく頭を下げて、再び受付へと戻っていく。

「──で、さっきからその顔は何なの?」
私は腰に手を当て、鳩が豆鉄砲を食ったようなカラ松くんに尋ねる。
「え…あ、ええと…何というか、ハニーがあんまり自然に返事するから、驚いて、その…」
松野様という呼び名に。
「予約名は松野だし、私もその宿泊客の一員だからおかしいことじゃないと思うけど。フロント係の人、明らかに私に用がある感じだったしね」
「まぁ、そうなんだが…」
カラ松くんはぼんやりと天を仰ぐ。
「……松野ユーリ、か」
「組み合わせとしては変じゃないでしょ」
「悪くない。ただ、こういう時はもう少しキュートな反応をしてもらえると男冥利に尽きるんだがな、ハニー」
「私からそういう反応が出ると予測してた?」
「ゼロに近い可能性に期待はした」
馬鹿正直な回答に、私は声を出して笑ってしまう。つられて、カラ松くんも肩を揺らした。


しばらく他愛ない話をして部屋に戻る頃には、朝食の時間が差し迫っていた。そのためおじさんおばさんどころか六つ子たちも全員起床していて、私たちの帰宅を朝帰りだと揶揄する。
事情を説明したところで確固たる証拠があるわけでもなく、真実を語ったところで信じないに決まっている。結果、私ののらりくらりとした返事に業を煮やした六つ子が、カラ松くんを吊るし上げる強硬手段に出るところまでがお決まりのルーティンだ。

朝食を取る間、カラ松くんと一度だけ目が合った。彼はすぐさま相好を崩す。
いい旅だった───心から、私はそう思う。

松野家温泉旅行記(前)

「おそ松くん、次のサービスエリアで休憩だって」
私はミニバンの後部座席から身を乗り出し、運転席の松野家長男に声をかける。前方の車に乗るトド松くんから、私のスマホにメッセージが届いたのだ。
おそ松くんは右手でハンドルを握り、反対側の手は運転席の肘掛けに置いた姿勢で、スピーカーから流れる洋楽に合わせて肩を揺らしていた。
「オッケー、ユーリちゃん。近づいたら言ってよ。俺ぜってー忘れるから」
バックミラー越しにおそ松くんが視線を寄越す。
「分かった。もう数キロ先だから、早めに言うね」
「てかさ、ユーリちゃんがナビしてくれるなら助手席でよくね?何で十四松なわけ?」
「あはー」
名を呼ばれた十四松くんは、大きく口を開けた。名を出されたから呼応しただけの、深い意味のない発声だ。
「ハニーが助手席に座るのは、オレが運転する時だ」
腕組みをした仏頂面で言うのは、私の隣に座るカラ松くんである。
「ユーリに格好いいところを見せたいだのと抜かして、オレを押しのけて無理矢理運転席に座ったのは誰だ?」
「わー、地雷踏んだー。セコムうぜー
「兄さん、どんまい!」
十四松くんが軽やかな声でおそ松くんの肩を叩く。
彼の運転する車には、カラ松くんと十四松くん、そして私の四人が乗り合わせている。そして前述したトド松くんが乗る車には、チョロ松くんと一松くんを始め松野家の両親二人と、計九人が二手に分かれている状況だ。
なぜか。

私たちは───温泉街へ一泊旅行に赴くのだ。


発端は、私が六つ子たちと共に松野家の居間で談笑していた数日前に遡る。その時私たちは人生ゲームに興じていて、結婚も住宅購入もせず独身街道を突き進んだ挙げ句真っ先にゴールしたおそ松くんが、子だくさんな上にゲーム上最も高額な家を購入して宝くじも当てた順風満帆なチョロ松くんにいちゃもんをつけた
結果、ゲームの卓は文字通り吹っ飛んで、比較的スムーズに金を稼いでいた面子を筆頭に六つ子の乱闘へと発展した。たかだかゲーム一つで暴力沙汰にできることに感心しつつ、私は彼らから距離を取り悠然とお茶を啜っていた───その時。

「朗報よ、ニートたち!町内のくじ引きで温泉旅行が当たったわ!」

鶴の一声だった。
障子を破壊する勢いで開け放ち、眼鏡を光らせながらおばさんが現れる。ニートたちは即座に拳を下げ、母親の元へと駆け寄った。掌返しの速度が凄まじい。
「ね、ねぇ母さん、今何て…」
トド松くんが躊躇いがちにおばさんに問う。自分の耳を疑うというよりは、ほぼ間違いないと確定した情報を公式から正式発表してほしい期待感に近い。
「源泉かけ流しの露天風呂がある、朝夕は部屋食の豪華旅館に家族全員招待よ。日程は来月第一週の土日だけど、どうせ予定ないでしょ?
母さんの引きの良さを崇め奉りなさい、ニートたち」
「あざまああぁあぁす!」
横並びの正座で、額を床に擦り付ける六人。ニートの土下座は安かった。
「バイキングじゃなくて部屋食!いやっふー!いいもん食えるーっ」
「フッ、地の底より湧き出ずる湯を堪能できるアウトドアバスにオレに浸れということか?いいだろう、引き受けた!」
「家族旅行なんて久しぶりじゃない?ワクワクしてきた!」
「うん、いい。控えめに言って最高」
「母さんマジでありが盗塁王ー!」
「露天風呂とか部屋食とか、映え間違いなしじゃーん。楽しみー」
諸手を挙げて歓喜する六人。
成人過ぎるとただでさえ家族旅行の機会が激減する上、松野家はこれまでも人数の加減で安価な旅が多かっただろう。生活するだけでも二家族分に近い費用がかかるため、レジャーに湯水の如く資金を投入できなかった彼らの過去を慮ると、より家族仲を深めるいい機会になりそうだ。私の頬は自然と緩んだ。
「良かったね、カラ松くん」
思う存分楽しんできてほしい。そう思って、私は微笑む。
カラ松くんは私を見て、嬉しそうに破顔した。
「ああ───楽しみだな、ユーリ
んー?
「九人だから車二台いるよね?今からレンタルかカーシェア申込みで間に合う?」
「ボク手続きしとくよ」
チョロ松くんが提示した疑問には、すぐさまトド松くんが答えた。
「ユーリちゃんはアレルギーとかあるかしら?
もしあるなら、事前に旅館の人に伝えておくわね」
流れがおかしい。
「あの」
挙手をして七人の目を私に集中させる。私の心に生まれたこの疑惑は、有耶無耶にしてはいけない。

「家族旅行だよね?」

松野家の。
「そうだよ?」
おそ松くんが最初に頷いたので、彼を今後の回答者として指名する。全員の面構えから判断するに、誰が回答しても返事は概ね同じだろうと踏んだのだ。
「家族水入らずなのに私入っていいの?」
「だから家族水入らずだけど?」
「八人で行くんだよね?」
「やだなユーリちゃん、計算間違ってるって。九人だろ?」
「は?」
「え?」
最高に噛み合わない。

あ、と何かに気付いたようにカラ松くんが声を上げた。
「オーケーオーケー、ハニーが何を言いたいのか把握したぜ。そうだよな、いきなり話を進められちゃ困るよな」
彼は片手を額に当て、悩ましげなポーズを取る。言い草もなかなかに芝居がかっているが、この際不問にしよう。ようやく話の通じる人物が現れた。

「その日オレと行く予定だった映画は延期にしたらいい。な?」

こいつも駄目だった。
言われてみれば、確かに約束はしていたけども。話題の新作で、公開一週目に観に行こうと軽い口約束はしていたけども、そうじゃない。な?じゃない。可愛いな、もう。
四面楚歌も極めると、本来は真っ当な反論が馬鹿げたものに思えてくるから不思議だ。こうなると私の態度は投げやりになり、もう好きにしてくれと諦観の境地に至る。
だから改めておばさんからスケジュールの空きを確認された時は、はいはいと無気力に頷いたのだった。

後に、おばさんは語った。
「ごめんなさいね、違和感が仕事してなかったわ」
しろよ。しなきゃ駄目だろ。




途中で休憩を挟みつつ高速を降り、整備された山道を進んだ。道はやがて一本になり、辿り着いたのは、明治時代を彷彿とさせる木造多層建築の旅館が川を挟んで軒を連ねる、レトロな街並みの温泉街だった。
現代社会を象徴するビルや建物の一切が存在しない、視界には古を感じさせる木造バルコニー建築と森林だけが映り込む。大正や明治時代にタイムスリップしてしまったかと錯覚させる街並みは大層美しく、ノスタルジックな想いに駆られそうになる。
都会から切り離された小さな箱庭の温泉街。

「部屋ひっろーい!景色いいー!映えるわーっ」
女将に案内されたのは、館内で最も広い十人部屋の和室だった。畳のイグサの香りが鼻孔をくすぐる。
部屋は大きく二間あり、襖の開閉で区切れる仕組みになっている。さらに主室の奥にある広縁──テーブルと椅子が二脚置かれた細長い板の間──の窓からは、明るい日差しが差し込むと共に、対岸の旅館と川が一望できた。トド松くんがはしゃぐのも無理はない。
「夜は父さんとニートたちはこっち、母さんとユーリちゃんはこっちね」
私の懸念を察してか、部屋に入るなりおばさんが説明してくれる。異性七人と同室であることにさほど抵抗感がないのは、六つ子が束になっても敵わない松代フィールドの加護があるからだ。襖によって視界的に遮断されるのも有り難い。
「(カラ松に)嫁入り前の娘さんですもの。ニートたちに間違いは起こさせないから安心して」
カッコの中の本音は無視していいだろうか。
「はい、ありがとうございます」
気付かなかったことにした。
「しかし母さん、娘と旅行っていいもんだなぁ。娘が一人いると華やかだし、旅先で見える景色も全然違う」
誰が娘だ。記憶改ざんされてるぞ、松造。
「そうよねぇ。もっと早く家族旅行すれば良かったわ」
「でも父さんたちは、息子の家庭にはあれこれ口出しはしないつもりだからな。そこは安心していいから、ちゃんと弁えてるから」
おじさんは私に向けて穏やかに微笑むが、もうどこからツッこんでいいやら
もはや先行きは不安しかないが───
「ユーリ。今からブラザーたちと館内散策するんだが、一緒に行かないか?」
家族公認で推しと旅行ってだけで全部チャラになりそうだ。推しは今日もビジュアルがいい。


六つ子は浴衣の着方にも個性が出る。
見本のような着こなしのチョロ松くんをベースに、おそ松くんは若干着崩し、一松くんは下にジャージパンツ。十四松くんは甚平で、トド松くんはレディースの浴衣を可愛らしく着こなすスタイルだ。
そしてカラ松くんはというと、少し屈めば胸元があらわになるほどがっつり着崩していた。見ようによってはだらしない、なのにめちゃくちゃ似合うこの摩訶不思議を誰か解明してほしい。ゴチです。

「あ、ユーリちゃんもう出てたんだ」
レザー調のクラシックなソファに腰掛けていた私に、一松くんが声をかけた。
男湯と女湯は同じ階で別入り口となっている。私たちはそれぞれ温泉を楽しんだ後、大浴場前の休憩スペースで落ち合うことになっていた。
「みんなの賑やかな声が聞こえてきたよ。結構声響くもんだね」
「マジで?おそ松兄さんと十四松が物珍しさ全開で、すげぇテンション高かったんだよな」
「ふふ。そう言う一松くんもはしゃいでたよね」
声の音量こそ彼らよりずいぶんと控えめだったが、感嘆の声は女湯まで届いていた。私の指摘に一松くんは顔を赤くする。
「ちょ、あいつらと一緒にしないで!おれはまだ冷静だった」
言いながら、私の隣に座って背を預けた。源泉を堪能した、あー、という間延びしたご機嫌な声が彼の口から漏れる。
夕食までまだ数時間ある午後、温泉に浸かり、時間を気にせずのんびりと過ごす。何という贅沢だろう。
「っていうかさ、部屋にあった茶菓子の饅頭、美味かったよね」
「うん、美味しかった。熱いお茶との相性が最高」
「土産コーナーで売ってたから、後で買おうと思ってさ」
「じゃあ後で一緒に買いに行こうよ。実は私も自分用に欲しかったんだ」
私がそう提案すると、一松くんは笑って──兄弟には絶対に見せないような屈託のない笑みだった──首を縦に振った。
旅館の部屋に案内されると、テーブルに茶菓子が置かれていることがある。お着きの茶菓子と呼ばれ、旅館から提供されるもてなしの一つとして有名だ。多くの場合、その茶菓子は館内の土産コーナーでも購入できる仕組みになっていて、上手い宣伝だなと思う。

「ユーリ、一松」
そうこうしているうちに、カラ松くんが暖簾をくぐって大浴場から出てくる。
「楽しそうだな。何の話をしてたんだ?」
私たちが微笑みを交わし合った瞬間に出くわしたらしく、怪訝そうな表情で訊いてくる。一松くんは途端に苦虫を潰したような顔つきになった。純粋な団らんに難癖をつけられ、気分を害したのだろう。
「部屋で食べたお饅頭を後で買って帰ろうって話だよ」
「ああ、あれか。確かにデリシャスだった──…そうか、何だ、その話か」
ホッと胸を撫で下ろしたみたいに肩の力を抜くカラ松くん。
「ハニー」
それから彼は、私の乾ききらない髪先に触れた。温泉に長く浸かって、体はポカポカと温かい。見上げたカラ松くんの顔も上気していて、普段以上に血色よく見える。
「ただでさえチャーミングなハニーが風呂上がりに纏うセクシーさは、ギルティとしか言いようがないな」
不意に真顔になって。

「…オレが一番先に出るべきだった」

浴衣と低音イケボの相乗効果で、ウィスパーボイスは心臓に悪い。




「ではこれより、温泉旅館恒例、卓球ダブルスデスマッチを開始します」

長男が何か言い出した。
大浴場に隣接した広間の卓球台を見るなり、おそ松くんが台に置かれていたラケットを大きく振りかぶって宣誓する。浴衣の袖がひらりと舞った。
っていうかデスマッチって言った?
「優勝したペアには、何と───ユーリちゃんとの散歩デートが景品として贈られます。
旅情溢れる温泉街でのドキドキ浴衣デート、これは参加しない理由がありませんね」
「ち、ちょっとおそま──」
「さぁ、この熱き戦いに参加する勇者は誰だ!?」
私の言葉を制して、おそ松くんはラケットをマイク代わりにして力説する。この先の展開は容易に想像できた。勝手に景品にするなという反論は意味を成さないことも。
「まったく、おそ松兄さんってば…どうしてそんな天才的な発案ができるんだろう。やる
末弟が早々に名乗りを上げた。
「ペアっていうのが気に入らないけど、その分勝率が上がるのは間違いなしな」
チョロ松くんは袖を捲り、ウォーミングアップに入る。
「はいはーい、ぼくも参加しマッスル!」
「おれも。ペアならいけるかもしれないし」
十四松くんと一松くんも手を挙げて参加表明だ。
「カラ松くん…」
最後の砦に視線を投げる。既に私には拒否権どころか、おそらく発言権さえない。トト子ちゃんのように六つ子を薙ぎ倒して強制終了に持ち込む手段が使えない以上、六つ子の誰かが突破口になってくれる可能性に頼るしかない。
カラ松くんは眉間に皺を寄せて無言を貫いていたが、やがて口を開いた。

「ユーリを景品にするのは賛成しないが、勝てばお前らを黙らせることができるんだろ?

片側の口角を上げながら拳を鳴らす。
「いくらブラザーであろうと、ユーリとデートさせるわけにはいかないからな」


これを言うと本末転倒な気もするが、こいつら単に遊びたいだけなんだろうな
要は、夕食までの数時間を全力で楽しむための趣向だ。
能力の差はあれど、戦略次第では同じ土俵に立てる六人である。能力不足が際立つ私を体よく景品として扱うことで、この取るに足らないゲームの一員としてカウントできる───なんて。そこまで深くは考えていないだろうけれど。

おそ松くん主導の下、まずはくじでペア決めが実施された。数字が書かれたカードを箱から引き抜き、同じ数字同士が組む。
結果は、おそ松くんと十四松くん、カラ松くんとトド松くん、そしてチョロ松と一松くんがペアになった。上の三人が程よくバラけた組み合わせである。
それから長男次男三男で試合順を決めるじゃんけんを行ったところ、一回戦はカラ松くんとチョロ松くんチームが対決する運びとなった。おそ松くんチームはシード権を獲得し、自動的に決勝戦へと駒を進める。
「じゃんけん勝っただけで決勝ってアンフェアすぎないか?」
こういう時の勝負運にはやたら長けてるのが、長男がクソたる所以だよな」
眉根を寄せるカラ松くんに、チョロ松くんが訳知り顔で頷いた。

そうこうしているうちに一回戦開始だ。
最初のサーブ権はカラ松くん。彼は左の手のひらにボールを置き、右手でラケットを構えて対戦相手のチョロ松くんを見据えた。絵面が最高にいい。真剣な眼差しと胸チラな浴衣のコラボは劇薬。
「悪く思うなよ、ブラザー」
「ユーリちゃんとのデートがお前の専売特許だと思ったら大間違いだ」
互いに火花を散らしながら、決戦の幕が開ける。
高く投げられたボールを、カラ松くんが相手のコートに打ち込んだ。ボールの軌道こそ直線だったが、力任せの剛速球はコートで跳ね、チョロ松くんのすぐ傍らを刃のような鋭さで突き抜ける。
「チッ…ゴリラが」
サーブ権は三男に移行。彼もまたボールを上空に投げて振りかぶる──と思いきや、落下に合わせてラケットを素早く手前に引いた。コートで跳ねたボールはカーブを描き、トド松くんの正面に辿り着く前にコート外へ飛び出る。
「チョロ松兄さんが横回転サーブを…っ!?」
「かつて音速のチョロちゃんの異名を欲しいままにした功績が、こんな所で役に立つとはね」
愕然とする末弟に対し、乾ききらない前髪を片手で掻き上げて憂い顔の三男。音速のチョロちゃんとは。
「ペア組む相手間違えた気がする…」
一松くんは早くもやる気を喪失した模様。

力にものを言わせるカラ松くんと、テクニックで翻弄するチョロ松くんに、一松くんとトド松くんが必死に食らいつく。
卓球のダブルスにおいて重要な要素は、相手との呼吸だ。戦術によって自分たちの立ち位置を適宜変え、互いにベストなポジションでミスなくラリーを行うこと。相手のミスを誘うのはもちろんだが、自分たちがミスをしないことも重要になってくる。
そういう意味では、二人きりになると微妙に気まずいというチョロ松くんと一松くんより、幼少時より共に行動することの多かったカラ松くんとトド松くんに分があったとも言える。

「これでジ・エンドだ」
マッチポイント。カラ松くんはほくそ笑み、ロングサーブを叩き込んだ。
「させるか!」
チョロ松くんがラケットを振り上げ、ボールを返す。
その間にカラ松くんとトド松くんは迅速に立ち位置を変える。次男同様に片側の口角を上げて末弟がボールを眼前に捉えた。
「トド松っ」
「任せて、兄さん!」
一松くんが返したボールは高く上がり、比較的緩やかなスピードで相手側の陣地でバウンドする。トド松くんは跳躍し、力の限りラケットを振るった。

「ゲームセット!カラ松チーム勝利!」

おそ松くんが試合終了を告げ、爽やかな微笑でハイタッチの次男末弟。コンビも推せる気がしてきた。


「オッケーオッケー、さすがカラ松。俺たちと戦うに相応しい奴が勝ち上がってきたな」
おそ松くんが感慨深げに腕を組んだ。
「お前らは何もしてないだろ」
ジト目で睨むカラ松くん。完膚なきまでの正論だ。
「ぼくもユーリちゃんとデートしたいから負けないよ、トッティ」
「それはこっちの台詞だから。引き際は潔い方がモテると思うけど?」
宣誓布告の十四松くんに臆することなく、トド松くんは腕組みで挑発するような仕草を返す。六人全員清々しいほど見当違いな方向に本気を出しているが、声は弾み、実に愉快そうだ。
一回戦で敗退した三男四男ペアは、表情こそ不満げだが、壁面に設置されたベンチで大人しく観客に徹している。

「みんな頑張ってねー」
私はどちらに対してでもなく声援を投げかける。成人男性が雁首揃えて本気でスポーツに取り組む姿勢は胸熱だ。永久保存版の動画を撮らせていただき至極光栄。当推しに至っては、ラケットを振る際に胸が見えた。
「俺ぜってー勝つから、期待してて!」
「ありがとー、頑張りマッスル」
「ユーリちゃんとデートするのはボクだから!」
次々と予想通りの返事が来る中、カラ松くんは複雑そうな面持ちを隠さなかった。地面に落としていた視線を、上げる。
「…ユーリ」
訴えかけるように私の名を呼んで。
「フッ、オレのビクトリーを確信しているが故に、敢えてブラザーたちを鼓舞するというわけだな。さすがは心根の優しいハニー!
オーライ、その期待には必ず応えるぜ」
安定のポジティヴシンキング。
「うん!頑張って!」
盛大な胸チラのファンサで沸かせてくれよという本音は隠して、愛嬌増し増しで私は手を振った。

「サーブは俺からね」
おそ松くんは前傾姿勢を取り、ラケットを構えた。対面にはカラ松くんが控える。
それまで緊張感のない顔つきだったおそ松くんが突如として鋭い眼光で前方を見据え、一球目を放った。安定したストレートで、カラ松くんは難なく返す。
「次はぼく!」
目にも留まらぬ速度で十四松くんがコートの中央に立つ。卓球のルールを認識しているのか怪しいが、彼の武器は他の追随を許さないスピードと予測できない挙動だ。成功率の低さこそ欠点だが、上手く行使すれば絶大な効果を発揮する。
要は、得体が知れない
「行っくよー!ボゥエっ」
体全体を回転させ、その勢いでラケットにボールを当てる。矢のようなスピード故に、いつ当たるのか、どこに当たるのかさえ判然としない。飛ぶ瞬間を見計らって反応しなければならないのは常人には至難の業だ。
「えっ、うわっ!」
案の定、トド松くんは受け止めきれずに得点を許してしまう。
「十四松兄さんの球を返すのは無理ゲーじゃない?」
「仕方ない……おそ松を潰すか
「雑な戦略すげー聞こえてるからな」
トド松くんとカラ松くんが顔を突き合わせて作戦を練る声は大きく、おそ松くんどころか私にまで筒抜けだ。
「…まぁ、そうやって余裕かませるのも今だけだと思うけど」
おそ松くんは鼻で笑って、ひらひらと手首を振った。次男末弟コンビは意に介した様子はなかったが、ブラフと判じるのは早計だと私には感じられた。彼が意味ありげな言葉を呟く時は、大抵相応の結果をもたらすのだ。

そこからの十四松くんの活躍は目を瞠るものがあった。
しばらくは様子窺いのラリーが続いた。十四松くんの打撃の成功率が上がるにつれ、場の空気は着実に十四松ゾーンに入る。十四松ゾーンは十四松くんの絶対攻撃時間、何人たりとも抜け出せない魔境。
「チッ…マズイな」
カラ松くんが舌打ちした。彼の強めのスマッシュさえ、十四松くんはもろともせずに打ち返してくる状況を踏まえ、自分たちの戦況を不利と判断したらしい。
トド松くんはラケットをやや伏せたブロックの構えで、十四松くんのスマッシュやドライブといった強打を打ち返すことだけに専念しているため、攻撃に転ずることができないことも理由の一つだ。
一進一退を繰り返し───そんな戦況を一変したのは、おそ松くんだった。

「あ、ユーリちゃん、浴衣の帯解けてる」

ハッとした様子で私の腰を指差す長男。全員の視線が私に集中する。
「ええっ、嘘!?」
「は、ハニー!?」
慌てて腰に手をやると、指先にはしっかりと結ばれた帯が当たった。
「……んん?」
解けてなんていないじゃないか。何の冗談だと叱責しようとして、思い当たる──彼の思惑に。
「じゃ、俺たちの勝利確定ってことで」
おそ松くんが底意地の悪い笑みを浮かべながら、ラケットを振り抜いた。次いで、我に返ったカラ松くんが視線をコートに戻して体勢を整えようとするが、僅かに遅い。
ボールはカラ松くん側のコートで跳ねた後、地面に落ちた。

犬も食わない夫婦喧嘩

「ユーリちゃんが言うのはあくまでも選択肢の一つだろ?
ただでさえ無謀な策で精神消耗した挙げ句、失敗したら目も当てられないじゃん。そこ分かってる?」
松野家一階の居間で、ユーリと膝を突き合わせて一松は眉をひそめる。対するユーリも腕組みをし、苛立たしげに口をへの字に曲げていた。


「実行に移したこともないのに、机上の空論で失敗前提はネガティヴこじらせてるよ。
下手な鉄砲数撃ちゃ当たるって言葉もあるのに、一回の挫折さえ恐れるって、一松くん意外と完璧主義なのかな」
「人には得手不得手があるんだよ。敢えて苦手な手段を講じる必要ある?」
「経験積んで得た結論なら説得力もあるけど、一松くんのはただの言い訳じゃない?」
「待つっていうのも一つの手だろ」
「待ち続けた結果なら、もう既に出てると思う。期限を伸ばすメリットが分からないよ」
一松とユーリの間には、ピリピリとした一触即発の空気が漂う。一見意見を交わして真意を探り合っているようだが、互いが導火線にライターを向けている状態だ。着火は時間の問題に思われた。
「ニートでひきこもりのおれと、バリバリ働いてリア充なユーリちゃんとは、そもそも生きる世界が違うんだよ。同じ目線には絶対に立てない」
一松は癖の強い髪を片手でクシャクシャと掻き回した。この議論に一刻も早く終止符を打ちたい焦燥感が顔に出る。
「そりゃ立てないよ。立場どころか考え方だって違うんだから。
でも一松くんが打開策を見つけたいなら、一緒に考えることはできる。私はそうしたいからここにいるの」
なのに、とユーリは続ける。
「一松くんってば、さっきから態度が投げやりすぎる!」
ユーリは自分の膝に拳を叩き、怒りをあらわにする。すぐ側のちゃぶ台にしなかったのは、飲みかけのコーヒーカップが二つ置かれていたからだ。

「できないものはできないんだよ!おれだって、どうにかできるならしたいよ!」

噛みつくように一松が声を出す。
「とりあえず一回でもやってみたらいいじゃん!」
「だから、やれたら苦労しねぇんだよ!ユーリちゃんはおれに死ねって言うわけ!?」
「極論!」
「同じだろうが!」
「やってもないのに逆ギレとはいい度胸だ!オモテ出ろ!


カラ松とおそ松が二人の口論に気付いたのは、議論が終盤に差し掛かった頃だった。
母に頼まれた買い物を終えて帰宅するや否や、障子を一枚隔てた先の騒ぎを聞きつけ、帰宅の挨拶もそこそこに何事かと割って入る。
障子を開けた先では、一松とユーリが肩を怒らせて睨み合っていた。
「え、何これ。一松とユーリちゃんの……喧嘩?」
信じられないものを見たとばかりに瞠目するおそ松。
「…一体どうしたんだ、ハニー?一松が何かやったのか?
だとしたらすまん、今すぐ心の底から反省させるから勘弁してやってくれ
カラ松は不安げに眉を下げつつも、血管の浮き出た拳の関節を鳴らして一松ににじり寄る。殺気を感じた一松は、猫のような素早いバックステップで瞬時に後退した。結果的にユーリの背後に隠れる形になる。
「待て待て、カラ松。一松っちゃん死んじゃう」
おそ松が苦笑しながらカラ松の肩を叩き、やんわりと制する。
「そうだよ、カラ松くん。これは私と一松くんの話し合いだから」
「しかし…ユーリも一松もあんなに大声で怒鳴ってたんだ。些細なことじゃないんだろ?」
一松を見るユーリの表情は、激昂と言っても過言ではなかった。対する一松も然り。
情熱的とも取れる真っ直ぐな瞳が、ほんの僅かな時間でも自分ではなく他の男に向けられていた。ユーリの意識が一松に一身に注がれた。その事実がカラ松の胸を締め付ける。親愛や劣情故ではない、意見の対立による取るに足らない口喧嘩と頭では理解していても。

「で、何の喧嘩なわけ?」
重ねるようにおそ松が問う。
「それは……あー…」
ユーリは言葉を濁して一松を一瞥し、一松はチッと舌打ちして視線を落とした。
「…何でもない」
「何でもないことないだろ。ユーリちゃん怒らせるってお前よっぽどだぞ」
「別に大したことじゃないって」

「答えろ、一松」

静かに、しかし語気を強めてカラ松が促す。拒絶を許容しない声が、一松を戦慄させた。脅しとも取れる強要に見えたのか、ユーリは眉間に皺を刻んで抗議の手を上げかける。
しかし、一松が口を割る方が早かった。
「……女の子との出会い方」
「は?」
「だからっ、どうやったら女の子と出会って仲良くなれるかって話してただけだよ!もういいだろ、ぶん殴るぞ!
顔を真っ赤して唾を飛ばす一松の傍らで、ユーリは憂いを帯びた顔をしながら片手を頬に当てた。
「一松くん、自分から行動起こすのは無理の一点張りで…。
私とカラ松くんみたいな実例もあるから、一回でも婚活パーティとか街コンとかそういう集まりに行ったらどうかなって提案したんだよ」
「それができる強メンタルだったら、今頃人間の友達できてるって言ってんじゃん。水掛け論もいい加減に」
「人間の友達ならいるでしょ」
「え?」
「私」
自分を指さして、ユーリはきょとんとする。一松の友人としてカウントされていなかった事実に傷心しているようにも見えた。
一松の頬に、再び赤みが差す。え、あ、と言葉の出来損ないを溢しながら、居心地悪そうに首を掻いた。
「わー、すげーどうでもいい。痴話喧嘩かよ。俺いち抜けた」
おそ松はビニール袋を引っ提げて、台所へ向かった。ガサガサとビニール袋から食品を取り出して、冷蔵庫へ仕舞う。

「ごめん…」
一松が頭を下げることで、ユーリは溜飲を下げたようだった。ニッと愛嬌のある笑顔になる。
「私も言葉が悪かったから、ごめん。
それはそれとして、来週のカフェは午後からでいい?私、予約しとくよ」
「うん、任せる。時間決まったら電話して」
「…カフェ?」
聞き捨てならない。
「ユーリ、オレの目の前でデートの約束か?」
ユーリが自分以外の男──例え自分の兄弟でも──と仲睦まじそうに話しているのを見ると、心がざわついて平静ではいられない。二人きりで会う約束を交わすなら、なおさらだ。口出しできない浅い関係性を棚上げして、自分というものがありながら、と思ってしまう。
腕組みをして鼻白んだら、一松が強い眼差しを投げてきた。
「デートじゃない。この応酬何度目だよ。ユーリちゃん絡みになるとほんと極端に視野狭くなるな、お前」
「保護猫カフェに行くんだよ。売上の半分が募金になるんだって。カラ松くんも行く?」
「女の子受けする内装だから男一人だと行きにくいって話したら、ユーリちゃんが付き合ってくれる流れになっただけ。そんな心配なら、お前も来れば?」
「あ…そう、なんだ……」
拍子抜けしたら、途端に二人に対して申し訳ない気持ちが湧き上がる。嫉妬が真実追求の目を曇らせ、苛立ちが相手への信頼を見失わせた。




「でもさ、一松が女の子と対等に喧嘩ってめちゃくちゃレアじゃね?」
棒アイスを咥えながら、おそ松がどっかとちゃぶ台の前に腰を下ろす。
「人間以外にしか興味を示さない一松が、大声出してユーリちゃんと言い争うって、お兄ちゃん感動しちゃったよ。社会出て十分やっていける
「や、まぁ、ユーリちゃんには慣れたっていうか…可愛いし、一応女の子って認識はしてるけど、よく会う親戚の子みたいな感じ」
「エンカウント率高いもんな」
「私はモンスターか。潰すぞニート勇者一行」

ユーリの抉るようなツッコミをしれっと受け流し、おそ松はカラカラと愉快そうに笑う。
「カラ松とは喧嘩しないの?」
「おそ松、そんなこと今はどうでもいいだろ」
ユーリの側に座って、カラ松はおそ松に一瞥をくれた。空気を読まずに自分本位を貫くのは長男の長所にして欠点でもある。カラ松の不快な表情を視認してなお、問いを撤回せず彼女の返事を待つ。
「全然ないよね」
ユーリは肩を竦め、視線をもってカラ松に同意を求めた。
「あっても、どっちかが注意する感じ。頻度的には、私が言われることの方が多いかな」
「喧嘩する理由がない」
カラ松は頷く。

「怒ったハニーも艶やかだが、スマイルが一番似合うからな」

これは正直な気持ちだ。もちろん、真剣に叱責されれば己の非云々以前にダメージを受けるし、淀む空気を一刻も早く解消したいと気が逸る。
そして同時に、カラ松に向ける強い熱量の意味を勘違いしそうにもなる。ユーリがカラ松のことだけを見て、カラ松のことだけを考えているその時間を、幸福と感じる。
しかし、本心を言えば───

ユーリと本音で議論を戦わせた一松が、ひどく羨ましい。

「喧嘩ってどうすればいいんだ?」
「え、それ私に訊く?」
カラ松の質問に、ユーリは呆気に取られる。
「あ、売ればいいのか
「ド天然でサイコパス発言は怖いよ」
「慣れないことはしない方がいいんじゃない?」
ユーリどころか一松にも窘められた。
拳を突き合わせる回数が多いのは兄弟だが、彼らに対しても基本的には包容力を見せつけるポーズを取るのが多いことに加え、暴力に発展する時は大抵複数人が絡み合う。カラ松単騎で誰かと激しい口論になることは少ないのだ。
「お前は売られた喧嘩を買うのがメインなタイプだもんな」
「ノンノンおそ松、オレはオールウェイズピースフルなだけだ。ガイアに生きとし生ける者、みんな愛してるぜ!」
博愛主義を声を大にして告げるも、おそ松は素知らぬ顔だ。彼は口から出したアイスの棒をゴミ箱に投げた。緩やかな弧を描き、見事ゴミ箱の中に落ちる。
「なぁ、ユーリちゃん。こいつこんなこと言うけど、怒ると理詰めで詰ってくることあるから気をつけて。ピザの時もそうだったけど、地雷踏むと怖いの」
「ピザ…ああ、排他松のアレね」
一松も思うところがあるようで、おそ松の言葉に頷く。
もしピザを頼むならどれにするかという生産性の欠片もない話を際限なく続け、最終的に口汚い暴言大会になった場に呆れて何が悪いのか。
さらには、平和的に離脱しようとしたカラ松を罵倒してきたから、正論を叩きつけただけの話だ。一方的に苦言を呈しただけで口論にさえ発展しなかった事象を取り上げて、それを気分を害した時の標準仕様と非難されるのは心外である。

けれどユーリは長男の忠告を意に介した様子もなく、にこりと微笑む。
「でも喧嘩するほど仲がいいっていうし、まぁしないに越したことないけど、いつかはカラ松くんと本音で喧嘩できたらなとは思うよ」
「ユーリ…」




その日は、唐突に訪れる。
春先だというのに日差しの強い夏日の午後、松野家の玄関を開けてユーリが約束の時間に姿を現した。額からは汗が滴り、首を伝って服を濡らす。
玄関で出迎えたカラ松は、ユーリを見るなり言葉を失った。

この日の彼女の服装が、後に繰り広げられる口論の火種となる。


窓を開けた風通しのいい居間に案内する。室内にはチョロ松とトド松もいて、笑顔でユーリを出迎えた。
言いたいことは山ほどあったが、まずは労をねぎらい、冷えた麦茶を差し出す。ユーリがそれを一気飲みして喉を潤したところで、カラ松は口火を切った。
「ユーリ…その格好で電車に乗って来たのか?」
「うん?そうだよ」
ユーリは首を傾げる。カラ松が何を言わんとしているか見当がつかない、そう言いたげだ。
「あのな、ユーリ」
額に手を当て、長い息を吐く。

「今日の格好はいくら何でもセクシーすぎないか?」

肩口がしっかり見えるショッキングピンクのノースリーブブラウスに、デニムのショートパンツ。カーディガンを羽織ってはいるが、ざっくり編みのメッシュデザインで、防寒着として効果があるかは甚だ疑問な装い。
かといって異性受けを狙ったあざとさはなく、ハツラツとした健康的な色香が漂うものの、街中ですれ違えば十中八九露出した腕や脚に目が行く。鮮やかなピンクのトップスの存在感が強いのも、要因として大きいだろう。
「別に普通だと思うけどなぁ。ほら、今日暑いし」
ユーリはカーディガンを脱ぎ、両手を組んで後頭部に回した。無防備な両脇がなかなかにエロい。インナーが見え隠れする絶妙なチラリズムまで付属して、新たな性癖の扉を開きそうだ
ユーリのそんな姿を見るのが自分だけなら構わない。問題なのは、松野家に辿り着く道中に多数の目があったことだ。
「ユーリちゃんのその服、ボクは好きだなぁ。すっごく似合うよ」
トド松は円卓に頬杖をつき、さり気なく好感度を上げてくる。
「確かに今日は季節外れに暑いしね」
チョロ松も末弟に賛同するので、ユーリは満足げだ。
「普通じゃない。いくら暑いからって肌を出しすぎだ。ジロジロ見られたいのか?」
言外に含ませたカラ松の嫌味に気付いたらしいユーリは、片方の眉をぴくりとつり上げる。
「自分がそうだからって、他人も同じだと思わない方がいいよ」
「ノーキディングだ、ハニー。何度も口酸っぱく言ってきたが、自分の魅力やスタイルの良さを過小評価するのはクレバーじゃないな」
いくら言い聞かせても一向に改善されない不用心さに、いい加減呆れも混じる。警戒心が足りなさすぎるのだ。
「おい、ちょっとカラ松──」
不穏な空気を察したチョロ松が割って入ろうとするのを片手で制して、続ける。
「いつ痴漢に狙われたっておかしくないんだぞ」
「飛躍しすぎ」
「どこかだ。不特定多数の男を惹き付ける厄介さはそろそろ自覚した方がいい」
「モテたくて着てるわけじゃないからね。好きな服着ちゃ駄目なの?この格好、そんなに下品?」
「そんなこと言ってないだろ!」
論点がズレ始めている。
似合う似合わないの話ではないのだ。自分以外の男がユーリに対して情事を連想させるような感情を抱くことが、どうしても許容できない。指一本触れさせることはおろか、妄想のネタにさえさせたくない。
だからといって地味な服装で彼女の魅力を半減させたくもない、矛盾した思考。
ひどく歪な劣情が、苛立ちを誘発する。

「確かに肌見せっぽいけど、動いたって下着が見えるわけじゃないでしょ!」
ユーリの音量も徐々に上がり、次第に感情的なものになる。
普通の夏服なら見えないような部分がガン見できる時点でエロくないとかおかしいだろ!太ももは絶対領域だぞ、安売りするんじゃない!」
「自分だって、お縄にならないギリギリを攻めた露出に命かけてるスタンスのくせに!」
指先を突きつけ、ユーリが毅然と言い放つ。チョロ松とトド松が静かに首を縦に振った。ヤバイ。
「そもそもショートパンツはお前の標準装備じゃん。秋の高尾山でも着てたよな
「自分はいいのにユーリちゃんは駄目なわけ?
カラ松兄さん、とんだダブスタ野郎
状況はカラ松にとって不利な方向へと舵を切る。さらに、もっと言ってやれと、ユーリは親指おっ立てて援護射撃に回るから、形勢不利で完全に四面楚歌に陥った。
だが一旦上げた拳をそうやすやすと下げるわけにもいかない。
「お、オレはただ着たい服を着てるだけだ!」
「私もそうだけど!」
「うっ…」
「男だから狙われないとか変な目で見られないなんて時代錯誤!推しの尻を虎視眈々と狙ってる私が目の前にいるでしょうがっ
「ユーリちゃん…そこに胸張っちゃ駄目だろ
チョロ松が控えめにツッコミを入れる。

「とにかく、服装をカラ松くんに指図される覚えはないから!母親か!
「少なくともモンペではあるよねー」
トド松がスマホの画面を優雅にスワイプしながら、悠然と呟く。誰がモンスターペアレンツだ。
「オレはユーリの身を案じて言ってるんだ!中はもうそれで仕方ないとしても、上はせめてこれにしろっ」
カラ松は椅子に掛けていた自分の上着を、乱暴にユーリに差し向ける。コバルトブルーのシンプルなシャツだ。ユーリとの外出用に出していただけで、今日はまだ一度も袖を通していない。
口論の途中から腕組みを崩さず拒否姿勢を貫いていたユーリだが、唇を尖らせながら不承不承カラ松からシャツを受け取った。意見は受け入れるが納得はしていないという態度だ。
「…とりあえずトイレ行ってくる」
実質的な一時休戦である。シャツを羽織り、ユーリはカラ松たちに背を向けた。

その後ろ姿に、カラ松を始めとする三人は言葉を失った。

「ちょ…っ、これはヤバイ…」
「か、カラ松兄さん、ひょっとしてこれが目的だったの!?」
「まっ、待て待て!誤解だっ、違ぁう!」
揃って茹で上がったタコの如く顔を赤らめ、あちこちに黒目を彷徨わせる。
「は?何?」
ユーリは青筋を立てて振り返った。
「えっ、や、ユーリ…これは、ごか──」

シャツの丈でショートパンツが隠れ、風呂上がりの彼シャツさながらの格好に見えたのだ。

丈が長めのシャツだったのも災いした。下着の上からシャツを羽織ったイメージが脳裏に浮かんで、こうなるともう否が応でも妄想の下着姿が頭から離れなくなる。頬は自然と紅潮した。
「とんだ策士だな、カラ松。全ては彼シャツへの布石だったとは…」
チョロ松が畏怖の念を込めた目でカラ松を凝視した。
「むっつりエロ大魔王」
「違ああぁあぁう!」
「カラ松くん見損なったよ」
「ハニーまで!?」




「悪いけど、痴話喧嘩はよそでやれ
些末にもほどがある兄弟の喧嘩に呆れ果てた末っ子が、カラ松とユーリを二階へと追い立てた。仲直りするまで戻ってこなくていいからと、ぴしゃりと襖が閉められる。
鍵のない一枚板を物理的に開け放つことは容易いが、不用意に顔を覗かせようものなら今度こそ雷が落ちるだろう。
「カラ松くんのせいだから」
「原因はハニーだろ」
互いに不貞腐れた顔で、渋々階段を上る。

ユーリと二人きりという状況は、普段なら諸手を挙げて歓迎するシチュエーションだ。これまで幾度となく、意図的にその状況を作り出してきた。
しかし今は、喜びよりも気まずさが先立つ。ユーリは目を吊り上げているし、カラ松もまた彼女の主張に同意しかねるために機嫌が悪い。

「服については、オレはいいんだ」
重苦しい空気を打破するため、カラ松は先陣を切った。
「オレは着たい服を着る」
「私もそうするつもりだけど?」
ユーリはどっかとソファに座り、再び腕を組む。隣に並ぶ気になれず、カラ松はカーペットに腰を下ろした。自ずと見下される体勢になるが、やむ無しだ。
「ユーリは駄目だ。多少の露出はいいとしても、今日のような露出面積が極端に大きい服は控えるべきだろ。何かあった時に自衛できるのか?」
「何でそこまで言われなきゃいけないの?
こんなの普通の服でしょ。へそ出したわけでもあるまいし」
「そういう思考がデンジャーだと言いたいんだ」
カラ松の反論を受けたユーリは、見せつけるように長い溜息をついた。
「もうっ、これじゃずっと堂々巡り!」
両者に譲歩の意思がないなら、口論は長引くだけだ。
服の配慮をしてほしいだけなのに、上手くいかない。一松の時のように落ち着くべきところに落ち着かず、空気だけが重苦しくなっていく。さらに時間の経過に比例して、互いの強情の度合いは一層強いものになった。

覚悟を決める。

「ユーリ、頼む!」

カラ松は深く頭を下げた。額がカーペットに密着する。
「え…えっ、ちょ、カラ松く──」
「服に関しては、オレの意向を汲んでくれ!」
どうしても嫌なのだ。彼女が不特定多数の男から、欲望の対象として見られるのは。
───かつての自分がそうだったから。
露出度の高い服を着た女性が視界に入るたび、目の保養だと鼻の下を伸ばした。晒された素肌を凝視するのは男としての礼儀であると、声高に主張さえしたものだ。
相手側の感情が十分すぎるほど理解できるからこそ、看過できない。
「っ、待って、顔上げて、カラ松くん」
ユーリが床に膝をつき、カラ松の背中に手を置いた。声は間近からかかる。
「本当もう…どうして服一つにそこまでするかな…」
戸惑う声とは裏腹に、顔に怒りの色はない。
彼女の手に促されカラ松は顔を上げようとして───硬直した。

ユーリの白い太ももが、近い。

程よい肉付きで、腿から膝にかけてのラインから目が離せなくなる。触れたくなる衝動を抑えるのに精一杯で、下半身に集中する熱を制御する余力など皆無。前屈みの格好のまま動けなくなった。
「は、ハニー、タイム…ちょっとタイムだ」
今上半身を上げるとマズイ。
「あー…」
ユーリは早々に察したようで、カラ松の背中から手を離し、顔からスッと表情を消した。最高に気まずい。
真剣な議論の最中に太ももに魅入られて欲情した馬鹿のレッテルを貼られてもおかしくない。紛うことなき事実だけれども。

「ショートパンツ駄目って言った本当の理由が分かった気がする」
どこまでも静かな声音で告げられた言葉は、最後の審判のようにも感じられた。
「え、なっ、ユーリっ、ちが──」
「大丈夫、みんなには言わないから」
今度は、宥めるみたいに背中をポンポンと軽く叩かれた。恐る恐る顔を上げると、微笑むユーリ。
雷を落とされて軽蔑されても仕方のないこの状況で、彼女はカラ松を気遣う。いっそ一思いに叱ってくれた方が、後腐れなく終止符を打てそうなものを。
ユーリが膝に手を当てて立ち上がろうとするので、視線を逸らしたままカラ松は口を開いた。

「でも…分かっただろう?
そういう格好をすると、オレみたいな奴が出るんだ」

彼女がどんな感情でその言葉を受け止めたのかは分からない。確認する勇気もなかった。
ただ、上がりかけた膝は再びカーペットについた。ほんの数秒、無言の時間が流れる。自分が唾を飲み込む音が彼女にも聞こえるのではと思うほどの静寂。
その矢先、カラ松の首に細い手が伸びてくる。
「そんな格好で言っても説得力ないよ」
軽やかな笑い声だった。
指先の腹でカラ松の首筋を撫で上げたかと思うと、その手は次に耳朶をくすぐった。指の感覚と体温が伝わって、カラ松は息を止める。
「あ、そっか。私が挑発するような服着てるせいだったね」
「だ、だから駄目だ、って…っ」
間違いなくセクシャルな意味合いで触れてきているのが分かるから、耳朶に触れているだけなのに、上擦った声が出た。服どころか言葉でも余裕綽々で挑発されているのに、素直に反応する自分の下半身が憎い
こういう時、百戦錬磨の手練なら、逆手に取ってユーリの気を引くくらい赤子の手をひねるほど簡単なのかもしれない。余裕たっぷりの態度で迫ってみせて、なかなか染まらない彼女の頬を赤くすることだってできるのではないか。
しかしそう思う反面、二枚目になりきれない自分だからこそ気に入られている事実もまた、理解している。


ユーリは今度こそ立ち上がり、カラ松の背中側に回る。
「落ち着いたら言ってね」
部屋を出るのだろう。彼女自身は視認していないとはいえ、性の対象として反応された結果が目の前にあっては居心地が悪いに違いない。ひどく距離の近い名状し難い関係性ではあるけれど、名目上は友人なのだ。
カラ松は片手を顔に当て、音を立てずに息を吐く。自己嫌悪という名の黒い感情が体内を這いずり回ろうとする。

だから、背中に何かが触れた時は目を剥いた。

「……ユーリ?」
振り返ると、今日彼女が着ていたトップスの色が視界に入る。カラ松の背中にもたれて、ユーリは手元のスマホに目を落とした。背中の大半が密着する格好。
体は、一瞬で軽くなった。
カラ松の痴態を目に入れず、その上で変わらない信頼を態度でもって示してくれる。嫌悪されても仕方のない状況にも関わらず、だ。

こういうことを男相手にしれっとやってしまうから喧嘩に発展するし、その一方で心底可愛いと感じてしまうから、結果的に有耶無耶のまま帳消しになる。
しかし、ゼロになったわけではない。幾度となく繰り返され、消化しきれなかった不満はしこりとしてカラ松の胸に禍根を残している。
「…あの、さ」
どんな切り出し方をすればいいのか分からなかった。
「このまま聞いてほしいんだが…」
背中合わせのまま、顔を合わせないで。
「うん?どうかした?」

「オレはユーリをフレンドとして……そして、異性として見てる」

相槌は、もう返ってはこなかった。
けれど触れ合った背中には強張った様子もない。カラ松はあぐらを掻いた自分の足に視線を落としたまま、続ける。
「だから距離が近づけばこういった反応はこれからも起きるだろうし、ユーリが変な男にそそのかされないか心配もする。それに対して苛立つこともある」
コップから溢れた水はもう元には戻らない。
「それを全部踏まえての、さっきの頼みだ」
カラ松が微動だにしないように、ユーリもまた振り返らなかった。合わせた背中に動きはなく、どんな表情をしているのか窺い知る術もない。
階下から兄弟が上がってきて、いつもみたいに強制終了しないだろうかなんて、ご都合主義的な閉幕を心のどこかで望みながら、今日こそは普段とは違う結末を、とも願う。

「前向きに検討する」

静かな声が室内に通る。耳に心地いい、愛しい声。
「…そうか、そうしてくれると助かる」
正確にはイエスではないけれど、カラ松の意思を汲もうとする思いは伝わってくる。個人的な領域に少々踏み込みすぎたことを反省しながら、カラ松は礼を述べた。

「カラ松くんとの関係も」

「うん……って、えっ!?」
振り返ったのは、ほとんど条件反射だった。背後を向いたユーリの横顔には、薄い笑みが浮かんでいる。
「は、ハニー…今のは……」
ユーリは緩やかに上半身を捻って、カラ松と向かい合う。
「今日の服のことみたいに、一緒に考えていきたいなって私は思ってるんだけど」
彼女の瞳には、口を半開きにして唖然とする自分が映っている。
「どうかな?」
首を傾げたら、さらさらと髪が流れ落ちる。意向を伺う形式になってはいるが、拒否されるなんて一ミリも想定していない顔だ。
全ては最初から、ユーリの手の内にある。でも、もう、それさえも。
「…はい」
声が掠れた。

「よろしくお願い、します」


こういうのを怪我の功名というのだろうか。
ユーリがカラ松との曖昧な関係性に踏み込んで言及するのは稀で、願ってもないことだ。頭を下げたカラ松の心はこれ以上なく弾んでいた。

やっと踏み出した、最初の一歩。