手錠が二人を分かつまで

手錠で拘束されたカラ松とユーリの二十四時間が、始まった。


街でデカパンに会ったのが事の発端だ。カラ松とデカパンは長い付き合いだが、彼との交流で平穏無事だった試しがない。ユーリが傍らにいる時は、接触を避けるべきだった。その点は自分にも非があると言える。

「面白い試作品を作ったんダス。良かったら見に来ないダスか?」
比較的コミュニケーション能力に長け、ラボへの訪問に寛大なのは彼の長所だ。カラ松も暇潰しがてらに幾度となく利用しているし、ユーリに至っては、日常生活ではまずお目にかかれないような奇抜な発明品に毎度目を輝かせる。
だからその日も、ユーリが行きたいのならと、カラ松は彼女に選択を委ねた───それが間違いだった。

試作品を持ってくるから待っていてくれと、入り口入ってすぐの広間で待機を命じられる。棚やテーブルのあちこちに発明品が収納されており、デカパンが奥の部屋へ消えると同時にユーリは棚を物色し始めた。
「ね、カラ松くん。また新しい発明品が増えてるよ。前に来た時はこの辺空だったのに、今は埋まってる」
手招きで呼ばれるので、カラ松は彼女の横に並ぶ。
「ハニー、迂闊に触るんじゃないぞ。無造作に置いてあるからといって、無害な物とは限らない」
両手では足りないほど痛い目に遭ってきた自分だからこその忠告だ。ユーリはどう思ったか知らないが、その顔には微苦笑が浮かんでいた。
「でも危険な物をこんな風に適当に置くかな?」
棚の一角は、乱雑という表現が似合うほどに物の配置に規則性がない。ぬいぐるみや瓶、何らかの機材が秩序なく置かれている。
しかしカラ松は見逃さなかった。瓶に貼られたラベルの禍々しいドクロマーク。しかも中身は半分ほど使用された形跡がある
「……あのパンイチはそういう奴だ」
ユーリの視界から瓶を隠しつつ、カラ松は静かに告げる。
「パンイチってそんな……あー、うん、ごめん、パンイチだ…紛うことなきパンイチだった
分かればよろしい。一年中パンツ一丁の中年に始まり、圧倒的吸引力を備えた大口を持つ男といった、世間の一般常識を根底から覆す人種がカラ松の周囲には蔓延っている。その事実からは目を背けてはいけない。
ユーリも既に、こちら側の人間なのだ。
「デカパンもすぐ戻るだろうし、オレたちも───」
彼女の身に危険が及ぶ前にこの場を離れよう。そう提案している矢先だった。

カチャン。

突如発生した金属音に、カラ松はハッとする。音の方に目をやると、銀色の手錠がカラ松の左手首にかけられていた。
「…っ、ユーリ!?」
抗議するため左手を持ち上げると、思いの外軽い。
「あ、ちゃんと使えるんだ、これ」
「オレの話を聞いてたのか?イタズラも大概にしないと怒るぞ」
「でもこれほらすごく軽いし、手錠のおもちゃが爆発するとかはさすがにないでしょ?」
カラ松は手錠の輪がぶら下がる自分の手首に触れる。鈍い光を放つそれは護身グッズとしても見かけるデザインに近いが、力を込めても変形しない高強度だ。加えて一般的な手錠と違い、チェーンが細く長い。六十センチはあるだろうか、チェーンウォレットに使われるような太さだった。
「カラ松くん、手錠似合うね」
「は?」
「嗜虐心くすぐられる。背徳的っていうか艶やかっていうか、綺麗な奴隷?みたいな?
うっとりと頬を染めて吐息を溢すユーリの発言がヤバイ。恋する乙女さながらの表情でさらっと卑猥ワードを吐いてくる。
咎めたい気持ちと、いかなる理由にしろユーリから熱い視線を向けられることへの喜びが混じって、カラ松の胸中は複雑を極めた。
「プレイの一環でこういう小道具はありだなぁ」
「オレを実験台にするんじゃない!」
「博士戻ってきたら外してもらうから」
叱責したものの、ユーリは反省した様子もなくへらりと笑う。もう既に彼女の興味は別に移っていて、空の三角フラスコを手に取り振ってみせた。
その次の瞬間だ。

手錠のもう片側を、素早くユーリの右腕に通す。
「えっ!?」
彼女の口から素っ頓狂な声が上がるが、もう遅い。
「フッ、オレたちは一蓮托生だぜ、ハニー」
いささか大袈裟な台詞だが、最初に仕掛けてきたのはユーリである。ユーリは自分の右手を上げ、まじまじと手錠を見やった。

「……これ、鍵穴ないね」

何だと?
「ははっ、ノーキディング。どうせデカパンのことだ、見立たない位置に穴が───」
ない。
舐め回すように見ても、鍵穴どころかロック解錠用レバーさえ見当たらない。
「詰んだ?」
ユーリが青い顔で物騒なことを呟く。
「ま、まさか!デカパンに限ってそんなこと……」
あり得すぎる。実用性のない物を作っては、意図せずとも被験者を地獄に叩き落すような輩だ。
だから、直後にドアを開けてデカパンが姿を現した時には、カラ松は早くも諦観の境地に至っていた。この先自分たちを待ち受けるのは受難であると、やすやすと察せられたからだ。

先程までの会話全てが、壮大なフリになってしまった。




「鍵穴なんてないダス」
知ってる。

「二十四時間経たないと外れない手錠ダス。
超高強度に軽さを兼ね備えた特別製の合金で、切断は試さない方が身のためダスよ。その代わり、時間が経てば必ず外れるから安心していいダス」
三十センチ四方の白い箱を抱えながら、デカパンは事もなげに言う。
「…ちょうどモルモットを探してたからいいタイミングだったダスな」
「ある意味お約束の展開すぎて冷静になってきた」
ここからはもはや消化試合だが、一応聞くべきことは聞いておいた方がいいだろう。
「時間経過以外で外す方法はないの?」
心なしか不安げな表情でユーリが尋ねる。
「手首を切断すれば取れるダスな」
「そういうことを聞いてるんじゃねぇ」

すっと真顔になったユーリが抑揚のない声で罵倒する。怖い。
「裏ワザ的なのはないかって話。ほら、こういう時、遠回りになるけどちょっとだけ早く解決できる抜け道みたいなものがあったりするでしょ」
どの界隈の話だろうか。
デカパンは思案するように首を捻り、やがてポンと手を打った。
「あるダス」
「本当か!?」
カラ松とユーリは俄然前のめりになる。
「この箱に触れると、自動的に瞬間移動するダス。その時に身につけている装飾品や荷物の類は外れるよう設定されてるから、手錠も外れるはずダス」
彼が胸元に抱えている、カラ松たちに見せたかった新作の発明品のことだ。
「デカパン、それは…」

「これは『続・○○しないと出られない部屋』ダス」

嫌な予感しかしない。
あと何だ、『続』って。まるで前作があったみたいな。
「却下」
そしてユーリは間髪入れず即決だ。
「決断が早いな、ハニー」
「手錠以上にろくでもない結果が待ち受けてる予感がビンビンするんだよね。何かよく分からないけど絶対に関わっちゃいけない気がする
「分かる」
知らないはずなのに、初めて聞いたはずなのに、なぜか背中がゾワゾワするのだ。
「そんなのやるくらいなら、二十四時間経つのを待った方がまだいいよ。
でも、その…カラ松くんは、どうしたい?」
突然殊勝な態度に出られて、カラ松は戸惑う。ユーリは手錠一択ではないのかと疑問に感じたところで、彼女はあくまでも箱使用を選択肢から外しただけだと思い至る。
カラ松に意向を尋ねるのは予想外だった。
「他にこれを外す方法はないんだな、デカパン?」
「ないダスな」
「…なら、二十四時間経つのを待つしかないだろ」
カラ松が腕を動かすたび、金属が擦れ合う音が響く。
「そうだね…」
彼女の歯切れが悪いのは、これからの二十四時間の苦労に思いを馳せたためか。
「大丈夫だ、ユーリ」
安請け合いと言われるかもしれないが。

「ユーリに嫌な思いをさせないよう、オレが最大限努力する」




ラボを出ると、街は茜色に染まっていた。ひとまず人目につく場所で手錠をいかに隠すかということに、長らく二人で知恵を絞っていたためだ。
手錠には超洗剤を振りかけて一時的に不可視化し、チェーンで他人を引っ掛けないためにカラ松とユーリは腕を組んで距離を詰める。手錠が視認できなくなっただけでも僥倖だ。
「し、仕方ない…よな。手錠に気付かれるわけにはいかないし」
顔が熱い。
「…というか、これからどうする?
さすがに夜は家に帰らなければ怪しまれる──が、手錠を引っ提げてハニーと帰宅すれば修羅場確定だ」
「となると、私の家かな」
「い、いや、それはそれでデンジャーなんじゃないか?
一応…何だ、その、オレだって男なわけで……うちなら、ブラザーたちの男手があれば何かとフォローを頼めるんじゃないか?」
「でもおじさんおばさんも迷惑をかけるちゃうし、外堀が埋まってしまう
「外堀とは」
「できるだけ誰にも会わないようひきこもって、自然に外れるのを待つのがベストだと思う。
カラ松くんが私に嫌な思いさせないって言ってくれたように──」
躊躇いなく真っ直ぐにカラ松を見つめる視線に、抗えない。

「私も、カラ松くんに嫌な思いさせたくない」

今この瞬間だけでも、手錠で拘束されている間だけでも、ユーリが自分だけを見ていてくれたらと希わずにはいられない。
誰の干渉も及ばぬ箱庭での、期限付きの余暇。不便で厄介な状況下にも関わらず、カラ松の胸は高鳴る一方だ。

諸悪の根源は誰かなんて、少しずつどうでもよくなっていく。




「トド松くんには上手く言っといた」
真剣な顔でしばらくスマホをタップしていたかと思えば、鞄に差し込みながらユーリはそう言った。トド松から了承の言質も取ったらしい。どんな理由を捏造したかカラ松は訊かなかった。知らない方がいいこともある。

ユーリ宅での籠城が確定した後、カラ松たちは最寄りのスーパーを訪れた。一日分の食材の買い出しだ。
週末のスーパーは程よく混雑している。道幅はカート二台がかろうじてすれ違える程度のため、カラ松とユーリが並ぶと対向の妨げになってしまう。とはいえ距離を取ると手錠のチェーンが何かに接触しないとも限らない。
最終的にユーリは、腕を組む範疇を超え、腕を絡めたまま密着するスタイルを選択した。バカップルを演じるのだ。にこやかな笑みを顔に貼り付けて。
「何というか…これは…照れるな」
「楽観的だねぇ」
気恥ずかしさに指先で頬を掻けば、即座にユーリからの辛辣な一言が返ってきた。
「私は、買い物終わるまでに超洗剤の効果が切れないかヒヤヒヤしてるよ」
「その辺はノープロブレムだ。少なくとも数時間は持続する。何しろオレ自身が身をもって経験済みの代物だからな」
「へぇ。何があったの?」
「飲んだ」
「超弩級のうっかりさんか」

かつて、イヤミが参加するパーティに六人で強制同行した際、酒と見間違えて全員でラッパ飲みをした。思考は既に彼方にあり、口内に刺激を感じた程度しか記憶にない。
その後、体の血管と臓器以外が透明化するという透明になりきらない事態でひと悶着あったのだが、ここでは割愛しよう。
「効果は確かだ、安心していいぞ、ハニー」
「安心のさせ方が想定外すぎて反応に困る」
「フッ、あの時オレたちが超洗剤の実験体となったのも、ユーリとのしかるべき未来のための予行演習だったわけか……過去のオレ、グッジョブ!」
「そのポジティブさを別の道に生かしたら大成すると思うよ」
ユーリは呆れたように眉をひそめたが、すぐに思い直したのか、穏やかに目を細めて笑った。屈託なく笑う顔が可愛い。目が離せなくて、いつの間にか心を鷲掴みされている。




手錠が手首に掛けられてから数時間、超洗剤の効果も切れた頃のこと。カラ松は下腹部に違和感を感じて背筋を正す。姿勢を変えることで鈍痛にも似た感覚を逃がそうと考えたのだ。時間稼ぎにしかならなくとも、その間に最良の策を練る必要があった。
「…カラ松くん?」
しかしこういう時に限ってユーリは聡いもので、首を傾げて声を掛けてくる。こうなると誤魔化しは効かない。
「……トイレ」
「あ」
苦々しく呟くカラ松と、察するユーリ。
「うん、必要だよね…大丈夫!『うちの推しは妖精だからトイレなんて行かない!』とかは全然思ってないから!
全くもってフォローになってない。
「尋常じゃない羞恥プレイ感なんだが…」
「してる最中にも水流せば聞こえないし、絶対見ないから」
「だとしても、こう…ほら」
「耳栓もつける」
「…プロミスだぞ」
例え兄弟であっても、僅かに開いたドアの先で待機される状況には抵抗がある。相手がユーリなら、なおさらだ。
これ以上の最善案は見出だせないだろうと妥協したところで、ユーリは強い視線をカラ松に向けた。
「分かってるよ。私だってドアの横で待たれてたら落ち着かないし」
「ユーリ…」
ああ、そうだった。自分だけじゃない。彼女もまた同じ状況下にあるのだ。

「すまん、動揺して自分のことしか考えてなかった。シチュエーション的にはユーリの方が危機感あって嫌なはずなのに…。
次からはユーリ目線で考えるようにする。難しいだろうが、外れるまで極力快適に過ごせるようタッグを組もうじゃないか、ハニー」

緊張の糸を解すように、最後は意図的に茶化して拳を握る。カラ松を見つめるユーリは一瞬呆然として、それからくしゃっと破顔した。彼女の周囲だけ気温が上昇する感覚がする。


とはいえ、時間の経過と共に次々と問題が発覚する。何しろ移動を必要とする行為全てに相手を必要とするからだ。カラ松とユーリはその都度互いに断りを入れ、用が終わると感謝を述べ合ってきた。
そしてついに最初の難関が訪れる───風呂だ。

「さすがに湯船に浸かる余裕はないよね…」
「着替えはギリギリいける…か?無理すれば、手錠の隙間を通せそうな感じもするが」
幸いにも手首には一センチ以上の余裕がある。薄手のトップスと下着くらいは通るかもしれない。
「お風呂入らずに寝るのは嫌だから、さっとシャワー浴びるくらいにしよっか。覗かないとは思うけど、絶対覗かないでね」
「ユーリもな」
「えー」
「何が、えー、だ!覗く気満々だっただろ!カムバック、フェア精神!
スルーするところだった。危なかった、貞操が。
冗談だよーと口元に手を当ててユーリは笑ったが、チッと舌打ちしたのをカラ松は見逃さない。
しかし一番厄介なのは自分だ。本気で迫られたら、ノーと押し切る自信はないのだから。


じゃんけんの末、ユーリが先陣を切った。カラ松は脱衣所を出た先の廊下で背を向け、ユーリの準備が整うのを待つ。手錠の輪に服を通すことに苦戦しているらしく、ん、く、といった声と共にカラ松の腕が頻繁に引かれる。
漏れ聞こえるその吐息に情事を連想し、カラ松は開いている片手で顔を覆う。見えないから余計に想像力が掻き立てられる。ユーリには口が裂けても言えないけれど、あわよくば、という気持ちは常に胸に巣食っているのだ。

だがカラ松の雑念は、ユーリの叫び声によって中断を余儀なくされる。

一瞬の、高い声だった。
「ユーリっ!?」
カラ松が脱衣所に飛び込んだのは、条件反射だった。思考より先に体が動く。
「えっ、ちょ、ま──」
慌てふためくユーリの声が耳に届いたのは、カラ松が彼女の姿を視認した直後である。
上半身は下着一枚、ブラのホックは一つが外され、肩紐はだらしなく腕にかかっている。カラ松に背を向けていたユーリは咄嗟にバスタオルで胸元を隠すが、肩から腰にかけての緩やかなくびれが強調され、結果的に艶めかしさが増した。少なくともカラ松の目にはそう見えた。つまりは、絶妙にエロい
「あ、すま…いやでも、悲鳴が…っ」
「く、蜘蛛!蜘蛛がいただけだから!平気っ」
タオルを抱えながら彼女が指さす先で、一センチほどの小さなハエトリグモが洗面台の鏡に貼り付いていた。
「蜘蛛…」
「大きな声出してごめん…でもついでに取って
こういう時、さっさと出て行けとか怒鳴られて理不尽な扱いを受けるのが定石だと思うのだが。戻る足で蜘蛛も取っていけとは、何とも強靭なハートの持ち主である。
カラ松は内心で苦笑しつつ、ビニール袋でハエトリグモを捕獲した。
「ありがとね」
胸をタオルで隠しているとはいえ、肩紐は完全に見えているし、鏡に映る背中は無防備だ。
「……ハニー」
眼福な光景を脳裏に焼き付けつつ、カラ松は声を絞り出す。
「さ、さすがに今の格好は…オレにとっても目の毒、というか……あっ、べ、別にじっと見たりなんかはしてないぞ!
きめ細やかな肌で触り心地が良さそうだとか、そういうのはまーったく思ってないからな!
ユーリから視線を外しながら畳み掛けるように言い放ち、すぐに失言だと気付く。案の定、ユーリは鼻白んだ。
「っ、いつまでもその格好でいると風邪ひくぞ!オレはまたここで待って──」

踵を返そうとして、ぐいと腕が掴まれる。揺れて響く金属音。

「…ユーリ?」
「カラ松くんだけズルくない?」
胸元以外の上半身を露出したままの姿で、物騒なことを言ってくる。論点がおかしい。
「意味が分からん」
「私だけ下着姿見られるって納得いかないんだけど。私たちはフェアのはずだよね?」
もはやツッコむのが億劫になってくる。フェアとは何ぞやなんて議論を始めたら、水掛け論になるのがオチだ。堪えろ、堪えるんだ松野カラ松。
加えて、カラ松の腕を掴むため前傾姿勢になったせいで、白いタオルの隙間から僅かに谷間が覗いた。ああもう、とカラ松は叫びたい。これ何ていう拷問?

結局、カラ松の入浴時に上半身の着替えはしっかりと凝視された。下半身の貞操は守りきった自分を心底褒めてやりたい。




てんやわんやの入浴を終え、程よい頃合いに二人並んで歯を磨く。隙だらけの表情で歯ブラシを動かすユーリは愛らしく、口角は自然と上がった。何笑ってるのと怒られて、カラ松は一層笑みを強くする。
狭い脱衣所で肩を並べ、一つの歯磨き粉を共有し、色違いの歯ブラシで歯を磨く。まるで同棲みたいだと感想を抱くのは自然な流れだ。
「…壁になりたいって気持ち、何か分かるなぁ」
しかしユーリは違った。
「は?壁になりたいのか?」
「うん。壁になって推しの生活を見守りたい。こういう歯磨きとか、一人の時にしか見せない超プライベートを、誰にも気づかれないでただひたすらじっと見るの…ちょっといいな、って」
「つまりは覗きをしたいと?」
「身も蓋もねぇ」

ユーリは腕組みをして考え込む。
「覗き…というよりは、推しをずっと見ていたい、というか?あ、でも無機物になるから、私という人格はなくなる?
待てよ、これ単純に見えて結構奥の深い話なんじゃ……」
歯磨き粉の泡で口の端を白くした情けない顔で、眉間に皺を寄せる。
「一人でいる時のオレは、ハニーが考えてるほど面白いもんじゃないと思うぞ」
「そうかな?」
可愛らしく首を傾げてくるので、カラ松は彼女の口元についた粉を親指の腹で拭いながら、囁いた。

「ユーリにしか見せない顔をたくさん見せてるのに、それじゃご不満か?」

特別感という意味なら、今この瞬間の方が遥かに。この先もきっと、同じ顔は誰にも見せないから。
けれどユーリは口の中のものを洗面台に吐き出し、口を濯いで笑った。
「カラ松くん、分かってないなぁ」
濡れた口元をフェイスタオルで拭う仕草に、なぜかドキリとさせられる。

「余すところなく全部知りたいんだよ」

もちろん不可能だってのは分かってるけどね、と付け加えることも忘れなかった。
逃げ場のないシチュエーションでしれっと爆弾発言を落としてくる彼女の心理を、カラ松は知りたくてたまらない。
感じたままを吐露しているに過ぎないとしても、なぜ曝け出してしまうのか、隠そうとは微塵にも思わないのか。心の内ではどんな感情が渦巻いているのか。
ユーリの危機感や貞操観念については、そのうち膝を突き詰めてこんこんと諭す必要がありそうだ。


時計の針が十一時を指した頃だった。喉の乾きを覚えてカラ松は片膝を立てるが、自分とユーリを繋ぐ鎖が音を立てたことで、思い直す。スマホの画面に見入っている彼女の邪魔をすることに躊躇いがあったからだ。
だがその矢先に、ユーリは顔を上げてカラ松に気付く。
「ごめん、気付かなくて。何か用事かな?」
「え?ああ…すまん。何か飲み物をと思ったんだが…」
「冷蔵庫に水とお茶があるよ。行こっか」
テーブルに伏せられたスマホ、にこりと微笑んで立ち上がるユーリ。ガラスコップに注がれる褐色の液体をぼんやりと見つめながら、カラ松の胸中は複雑だった。

「…側にいられることは喜びだと思ってた」
冷えた茶を飲み干し、カラ松は口を開く。
「カラ松くん?」
「正直、ユーリと一日離れずに過ごせる大義名分を手に入れたと浮かれてたんだが、軽率だったと今は反省してる。
何をするにもユーリの協力がいる。ユーリの手を煩わせてしまう」
「えー、そんなの別に私は──」
「そうやって、気にしないと言う反応も、予想してた」
些末なことだと例え彼女が一笑に付したとしても。
「ずっと側にいることが、オレが夢見てたような光景には程遠いリアルだと知るいい機会になったことには、感謝すべきなのかもしれない。
自由のない共同生活は、息苦しいものなんだな」
一刻も早く、物理的な拘束からユーリを解放したい。日頃と変わらず気丈に振る舞ってはいるが、不便さに対する不満は積もっているはずだ。
この後最大の難関が待ち受けているとも知らずに、カラ松は感傷的な気持ちになるのだった。




「同じベッドはまずい」

低い声音で、カラ松は言葉を絞り出した。
会話が途絶え、あくびが増えた頃合いに、どちらともなく就寝に関する話題を口にしたのを皮切りに、攻防に発展する。
「オレはいつも通りソファでいい」
「けどそれだと、私かカラ松くんが寝返り打ったら起こしちゃうよ。ベッドなら多少動いてもいけるから」
幸か不幸か、ベッドはセミダブルだ。多少の窮屈さはあれど、二人並んで寝るのに申し分ない広さがある。言い換えれば、ほぼ密着して寝るということだが。
「…あのな、ハニー」
「男と軽々しく同じベッドで寝るなって言いたいんでしょ?
カラ松くんの言いたいことは分かる。でも安心して、寝顔にムラッときても夜這いかけたりしないから」
「そっちか」
「ちゃんと我慢する」
「そういう問題じゃない」

立場が逆云々はもはや耳にタコだろうか。
しかし十二分に起こり得ることだ。ユーリに手出しをしないのは、代償として失うものの大きさを理解しているからで、欲求そのものは数え切れない。

「私は、カラ松くんに、しっかり寝てほしいの」

ずいと顔を寄せてくるユーリの鬼気迫る様子に、カラ松はついに白旗を上げた。譲歩する気が皆無なのを察したからだ。カラ松が何を言っても暖簾に腕押しである。

「じゃあ、えー…お邪魔します」
こういう時、何と言って布団に入るのが正解なのか。我ながら不審者感丸出しで、戸惑いつつ掛け布団を捲った。ベッドから落ちないように位置を調節すると、ユーリと肩がぶつかる。
「あ、すまん…っ」
「ちょっと狭いけど、我慢してね」
言葉と共に吐き出される吐息が近く、カラ松は唇を噛んだ。この状況で反応するなという方が無理な話である。室内の電気が消され、俄然緊張感が増す。据え膳という言葉が幾度となく脳裏に浮かんでは消える。ユーリの顔はまともに見れない。

「……あの、さ」
カラ松の葛藤を見透かしたように、絶妙なタイミングでユーリが声を掛けてくる。
「へひ!?」
声は裏返った。情けなさも相まって顔に熱が集中する。
「どっ、どうした、ハニー!?」
「ええと…」
いつになく歯切れが悪い。カラ松に対しては、物怖じせずに思うままをぶつけてくることが多いから、言い淀むこと自体が珍しかった。
暗がりに目が慣れてくる。ユーリは体ごとカラ松に向けつつも、視線を落としていた。

「今日はごめんね」

カラ松は唖然とする。
「…なぜユーリが謝るんだ?」
首だけ向けるのは不誠実のような気がして、彼女と同じように体を傾けた。
「私が手錠で遊ばなかったら、こんな不便にならずに済んだのに…」
ああ。
ようやく合点がいった。
ユーリはずっと責任を感じていたのだ。だから自分が不利益を被ると知りながらも、自宅提供に積極的だった。
「ノンノン、この程度の不便、オレたち六つ子には日常茶飯事だ。いちいち謝罪してたら安売りになるくらいには多発してるぞ」
だから、どうか──
「謝らないでくれ。トラブルには慣れてる。
不謹慎かもしれないが、オレはこうしてユーリの側にいられるのを楽しんでもいるんだ」
嘘偽りない正直な気持ちだった。彼女が抱える罪悪感を払拭したい一心だったが、はたと気付く。また自分本位で考えている。
「ん、ウェイト…そ、そうだよな…オレが良くても、ユーリが──」
「私もちょっと楽しんでる」
カラ松の言葉を遮るように、ユーリが被せてくる。
「カラ松くんの寝顔をこんなに間近で見られるなんてね」
化粧を落とした顔はあどけなく、微笑は可愛らしいの一言に尽きる。伸ばしたくなる手に力を込めて、必死に堪えた。
「言っておくが…平気なわけじゃないからな」
「うん。ごめん」
「だから謝るなって」
「そうだった、ごめん」
「ハニー」
「あはは」
からからとユーリが笑う。その唇を奪う夢を何度も見た。幻想の中の彼女は抗わずに背中に手を回してきたけれど、目の前の彼女はどうだろう。
発散できない欲を霧散させるべく髪を掻こうとして手を持ち上げたら、鎖の触れ合う音が室内に広がった。
「動くと音するね」
「これくらいは仕方ない。最悪、明日は寝坊してもいいんじゃないか?」
「寝返り打ちにくくて肩凝ったら言ってね。肩揉むから」
そこまでしなくていいのにと辞退の言葉を紡ぎかけて、カラ松は思い直す。それくらいの報酬は得てもバチは当たらないのではないか。というか、このシチュエーションもどうしてなかなか───生殺しであること以外は
そして、いくらカラ松が気にするなと言ったところで、カラ松を気遣うのがユーリという人だ。特別に向けられるその優しさが、愛しい。

彼女に報いるためにも、心を無にして羊でも数えて一夜を過ごそうと、カラ松は決意を固める。




翌日の午後、二人を拘束していた手錠がフローリングの床に落ちた。昨日デカパンのラボを訪ねてから二十四時間が経過した頃合いである。
「外れ…た?」
「そのようだ」
元々大した重量はなかったが、始終左手首に接触していた不快感が消失し、晴れやかな気分になる。
「やったー、終わったぁ!」
ユーリは両手を思う様振り回してから、大きく安堵の息を吐いた。
「カラ松くんもお疲れ」
「これで元通りだな」
「安心したら喉乾いちゃった。コーヒー入れるね。ついでにおやつにしよっか?」
ユーリが腰を上げるので、カラ松も反射的に彼女に倣う。片膝を立ててからユーリと目が合って、我に返った。二人を繋ぐ手錠は既に手首にないのだ。
「……あ」
「ふふ、もう条件反射だよね」
半日以上、互いの挙動を常に意識していた。負担をかけないようタイミングを見計らっていた。大きな問題なく過ごせたのは、タイムリミットを知っていたからだ。終わりがあるから耐えられた。

「なぁハニー、今日は何か予定はあるか?」
「別にないよ」
それなら、とカラ松は改めてユーリの前に跪く。
「今から口直しといかないか?」
ユーリは片手を口元に当て、ひょいっと肩を竦めた。
「口直しが必要なほど、昨日も今朝も悪くなかったんだけど」
「でも制約はあっただろ。今日は文字通り自由だ───オレも、ユーリも」
フローリングに無造作に転がる手錠を横目に。

「夜までの数時間、ユーリの意志でオレと過ごしてほしい」

強制も束縛も、物理的な拘束はもうない。離れたければいつでもできる状況下。強制ではなく、自ら望んでと願う。
「オレは、ユーリといたい」
さながら告白のような真っ直ぐな台詞は、手錠で過ごした一日という前提条件があってこそ口にできる。
「奇遇だね」
微笑みを浮かべるために細められた双眸からは、目が離せない。美しいと心底思う。世界中のどんなアイドルもモデルも太刀打ちできない魅力があると思うのだけれど、きっとユーリは歯牙にも掛けないのだろう。
どれほどの言葉を駆使すれば伝わるのかと、いつも考える。

「私も、カラ松くんと過ごしたいと思ってたんだ」

でも今は、共に過ごせる喜びをただ享受したい。

指南本は参考になるのか

「グッモーニン、ユーリ」

週末の日曜日、駅前で待ち合わせた当推しはいつになく爽やかに私を出迎えた。私の自惚れでなければ、会いたくてたまらなかった、そんな強い感情を笑顔に滲ませて。
おはようを言う推し、実質のモーニングコール
「会えるのを昨日から楽しみにしてたんだ。ハニー恋しさのあまり、今朝は目覚ましなしでウェイクアップしてしまったぜ」
自分に酔ったような悩ましげなポーズで、カラ松くんは溜息を吐く。
「私も、カラ松くんと会うの楽しみにしてたよ」
翌週へのエネルギーチャージ要因だ。推し活なくして怒涛の平日は生き抜けない。
カラ松くんは目尻を桜色に染めて、はは、と小さく笑う。
「その声がずっと聞きたかった。今日もキュートだ、ハニー」
互いの声を聞くのも一週間ぶりだ。今週は私が多忙で、彼に電話をする時間を削減して休息に充てた。カラ松くんに電話をすると長電話になりがちで、電話自体に集中力も要する。その点では、手の空いた時にメッセージが送れるメールやSNSは手軽な連絡手段と言える。

「今日は先週末より少し暖かいな」
「そうだね。春めいてきて、そろそろ暖房つけなくてもよさそう」
薄手のジャケットとトップスで十分暖が取れる。そよ風が孕む冷気も、真冬に比べると穏やかなものになった。
ようやく薄着のハニーが見れ──じゃなくて、過ごしやすくていいな」
そう言う彼もまた、白いVネックシャツにナイロン素材のネイビーミリタリーブルゾン。体格の美しさをこれでもかと見せつけるスタイル、嫌いじゃない。露出した鎖骨美味しいです。
「分かる。カラ松くんは暖かい季節が似合うよね。夏、うん、特に夏、夏
「何で三回言った?」
「大事なことだから」
カラ松くんは、私の発した言葉に納得しかねるとばかりに顔をしかめたが、ふと目を瞠った。
「…ユーリ、化粧を変えたか?」
まじまじと顔を覗き込まれる。顔が近い。
「あ、うん、気付いてくれたんだ?アイシャドウとアイラインの色を明るくしてみたの」
私は驚きを隠せない。なぜなら、色を変えたと言っても、濃茶を薄茶にしたような、顔に施してみれば大差のない変化だからだ。毎日見ている私自身でさえ、少し明るく見えるかな、と思った程度なのに。

「スプリングっぽくていいな。今日のファッションにもよく似合う。
軽やかな気持ちになる感じがして…オレは好きだ」

褒め殺してきた。今日はどうした?
「先に何か食べるか?」
「うん、混む前に食べた方が良さそう。何がいいかなぁ」
「オーダーしたらすぐ出でくる定番ものか、少し待つがシャレたランチか、マイプリンセスのご希望は?」
「お腹減ったから、すぐ出てくるヤツで」
駅の時計台が示す時刻は、十一時過ぎ。私が同意すると、カラ松くんは顎に手を当て思案する。
「この辺だと…そうだな、バーガーかラーメンといったところだが」
「バーガーかな」
「オーケー。ビッグでデリシャスなバーガーを出す店がこの先にある。そこで昼飯にしよう」
流れるような意思疎通だ。普段以上にスムーズに進行し、ストレスのない会話が続く。カラ松くんの気遣いはとても自然で、私の装いを称賛して場を和ませた後、またたく間に昼食が決まった。




「カラ松くん、この一週間で何かいいことあったの?」
注文したハンバーガーをかじりながら、私はテーブルの向かい側のカラ松くんに尋ねる。少し早めの昼食だ。席は八割方埋まっており、店内は程よくざわめいている。
「いいこと?」
ドリンクカップに刺したストローを口の端に咥えて、カラ松くんがきょとんとする。ストローを口にする推しがエロい。
「特には。いつも通り自堕落を極めて退屈を潰すことに全力投球した一週間だったぞ」
それはそれで問題では?
「ん、いや待てよ…そう言えば、三日前にトッティの買い物に付き合って荷物を持ってやったら、スタバァでフラペチーノを奢ってもらった。二種類発売されてて、オレがいると二つ同時に試せるからだったんだが」
「あー、そういえば今週から発売だったね」
春をイメージした、桜とベリーの二種類だ。特に桜フラペチーノは、ホイップクリームの上に桜の花びらを模したイチゴ味のチョコチップがまぶされ、SNS映えもする。
「シュガーにシュガーを重ねたスイートなドリンクだが、意外と旨かったぞ。ただ…飲み干した後はコーヒーが飲みたくなった。
やはりオレのような男らしさを極めたいい男には、ブラックコーヒーが似合うな」
カラ松くんは苦笑する。

「──と、オレの話はこれくらいにして、ユーリの話が聞きたい。今週はずっと忙しかったんだろ?」
お、と私は不思議に思う。いつもなら饒舌にひとしきり語ってくれるのに、私に話を振ってきた。
「まぁねー。何時間も愚痴言えそうだよ。それくらい忙しかったし」
「オレで良ければいくらでも聞くぞ」
その言葉に二言はないのだろう。彼はいつも私の愚痴に根気よく付き合ってくれる。余計なアドバイスを挟まずに私の感情に寄り添う。退屈そうな顔もしない。
「大変な一週間だったけど、悪いことばかりじゃなかったから大丈夫だよ」
ジャンクフードが美味しいと感じるくらいの余裕はある。
「どんないいことがあったんだ?」
ポテトを口に放り込みながらも、視線は私に向けられている。

「この一週間どんなことがあったとか、どう感じたとか……オレのいない間にハニーに起きたことが知りたい」


一週間の出来事を脳裏で反芻する。多くの時間は睡眠と仕事に割かれていて、その他といえば家事と身支度への配分が多い。趣味や友人への連絡に時間を費やす気力がなく、そんな中で気持ちが高ぶったことといえば──
「晩御飯に、綺麗なだし巻き卵に挑戦したの」
「だし巻き卵か、旨いよな。酒のあてにもいい。作るのは初めてだったのか?」
「うん、手間がかかるからなかなか作る機会なくて。卵焼きはよく作るんだけど」
「ハニーの卵焼きは旨いよな」
「ふふ」
卵焼きとだし巻き卵は、似て非なる食べ物である。作るだけなら簡単にできる。材料を混ぜて焼けばいい。
しかし、だし巻き卵と言った際に想起する、ふわふわで焦げ目のないよう美しく仕上げるには技術が必要なのだ。
「で、どうだったんだ?
綺麗な、っていうからには難易度は高そうだが」
寿司屋の腕を確認したいなら玉子と穴子を頼めとは、よく言ったものだ。
「レシピ観ながらだったんだけど、一回目は焦げ目できちゃった。でも二回目はうまく出来たんだよ」
「ワオワオワオ!ユーリシェフの感想をぜひ聞かせてほしいな。その時どんな気持ちだった?」
カラ松くんはさながら海外のドラマに出てくるキャラのように瞳を輝かせ、大袈裟な口調で先を促してくる。今日は本当どうした?
「もちろん嬉しかったよ」
「よっぽどの傑作だったんだな、ハニー」
「うん!味もいい感じにできたから、今度うち来た時に食べてね」
卵は栄養価も高く汎用性もある、いわゆるスーパーフードだ。だし巻き卵に至っては、主菜にも副菜にもなる使い勝手のいいメニューで、レパートリーとしては申し分ない。
カラ松くんはきっと美味しそうに食べてくれるんだろうなと思ったら、胸が弾んだ。

「料理といえば、カラ松くんは最近料理した?」

豪快にハンバーガーを頬張る彼に、私は問いかけた。ん、と応じる口の端には、ケチャップソースがついている。私が正面から紙ナプキンで拭うと、くすぐったそうな顔をした。
「料理とは言えないかもしれないが、ブラザーが腹が減ったと言うんで、オレ流にアレンジした袋麺を作ったな。醤油ラーメンに粉末のいりこだしを入れると旨くなるとテレビで観て、それを試してみた」
「へぇ、美味しそう。コクが出る感じかな?」
「イグザクトリー!さすがの推理力だな、ユーリ。
さらに海苔とネギを載せれば、安売りの袋麺がたちまち有名店にも引けを取らないほどのデリシャスな味にメタモルフォーゼというわけだ!愛するブラザーのため、袋麺を匠の技で豪華に彩る…オレ!」
ノッてきた。楽しそうで何より。このまま松野カラ松劇場が開催されるかと思いきや、彼はハッとしてから苦笑顔になった。
「またオレの話になってるな。ユーリの話を聞こうとしたのに、いつの間にかユーリにイニシアチブを握られている」
「会わなかった間のカラ松くんのこと、もっと知りたいからね」
こちとら推させていただいている身なのだ、推しに関する情報収集は最優先で行わなければならない。砂漠のオアシス、推し活に幸あれ。今日も私の推しフォルダが充実するぜ。
そんな本音をうっとりとした表情に隠す私に、腕組みをした肘をテーブルにつき、カラ松くんが身を乗り出した。頬は心なしか赤い。

「…オレの方が、ずっとそう思ってる」

尊い。




昼食を終えて、松野家を訪ねる。おそ松くんを始めとする五人は出払っていて、松代おばさんが快く出迎えてくれた。
「何かドリンクを持ってくる。少し待っててくれ」
二階に案内された後、カラ松くんはそう言って階段を軽やかに下りていく。私はソファにどっかと腰を下ろしスマホのディスプレイに指を当てたが、ふと壁際の本棚に目が止まった。
少年漫画やラノベが大半を占め、巻数の並びは不揃いで、かと思えば年季の入った野球のルールブックが無造作に押し込まれていたりと、秩序がない。六つ子の性質を物語るような棚だと微笑ましく感じていたら、ふと気になる箇所を見つけた。

数冊、漫画の背表紙が不自然に手前に突き出ている。

気になって押し込むが、奥で何かに引っかかるのか、入らない。漫画を抜き出して奥を覗き込むと───図書館の本。
奥に自然に落ちたとは考えにくい。となると、意図的に隠したのか。
「何の本だろ?」
表紙を見て、私は目を疑った。

『意中の女性に好かれる話術とテクニック』

今日、私の変化にいち早く気付いて褒めてきた。やたらと私の話を聞きたがった。いつになく私の感情に共感し、彼自身の自慢話を控えた。
これは全部──

「ユーリ、マミーが紅茶とコーヒーどっちが──」
そうこうしているうちにカラ松くんが戻ってきて、驚愕に目を瞠った。何かごめん。
「ハニイイイィイイィィィ!?
な、ななななななな、何を…っ、それは…その本は……っ」
顔が真っ赤だ。
偽ればいいのに。誰もいないのだから、自分が借りた本ではないと、ただ一言。
「ごめん。本の後ろに落ちてるみたいだったから、気になって…」
謝罪は失言だったと、言ってから気付く。カラ松くんのだと認識していると暴露したようなものだ。案の定、彼は両手で顔を覆った。

本には付箋も貼られていて、熱心に読み込んだらしい形跡があった。
じろりと恨みがましい視線が向けられる。瞳が僅かに潤んでいるせいか、平常時の威圧感は皆無に等しく、むしろ扇情的でとてもエロい。誘ってる?
「……はぁ」
溜息が吐き出される。
「それはブラザーのだと弁明する余地はあるか?」
「最初の時点で無理案件かな」
「…だよな…分かった、腹を括る。オレが借りた本だ。中は見ないでくれると助かる」
「うん」
私は承諾し、彼に本を返す。カラ松くんは受け取って、自嘲気味に笑った。

「オレが実践しようとしたことを、ユーリは今までずっと自然にやってたと気付いたオレの驚きが分かるか?」
投げやり気味にソファに腰を下ろし、カラ松くんは私を一瞥した。無言のまま首を振り、私も彼の隣に座る。
「ユーリはオレよりも圧倒的にスキルを持ってる。そんな相手に、即席のテクニックが通用するはずなかったんだ」
それを聞き、私は声を立てずに笑った。
「話術スキルなんて持ってないよ」
「しかし──」
「私はね、カラ松くんと楽しい時間を過ごしたいし、もっとカラ松くんを知りたいから話を聞きたいの。
話すたびに新しい発見があって、カラ松くんの話を聞くのが好きなんだよね」
私の言葉にカラ松くんはなぜかハッとした様子で、自分の膝に置いた本に目を落とした。
「……本質だ」
「ん?」

「モテたい、好かれたいと思ったとして、じゃあモテてどうなりたいのか……ヤりたいのか、恋愛をしたいのか。恋愛なら、恋愛に何を求め、パートナーとどんな未来を築きたいのか。
それを自分の中で噛み砕いてから実践に移せと書かれていて、確かにそうだな、と思ったんだ。
でもユーリは、最初から本質を理解していたんだな」

本質を見誤れば、手段を間違え、結果を得られたとしても満足感には程遠いものとなる。彼ら六つ子はいつも表層ばかりを追い求め、その本質を自問しない。なぜモテたいのか、どうしてヤりたいのか。
そもそも、それは本当に自分たちの望みなのか。


「引かないで、聞いてほしいんだが…」
そんな前置きと共に、カラ松くんは感情を吐露する。私は深く頷いた。
「改めて考えた時、オレは…今は、相手との未来を想像してることに気付いた。真剣な恋愛をして、結婚して、ジュニアもできたらいいなと思う。
だから相手は自立した社会人が良いのかも、となって……」
切れ切れに、彼が捉えた己の本質が紡がれる。
「そんな意識はまるでしてなかったんだが、そういう意味では…言い方は良くないが──ああ、ユーリは条件的にもピッタリなんだ、って」

顔色を窺うようにチラリと視線が向けられる。私は極力感情を出さないよう努めていたが、それを拒絶と受け取ったらしい彼は狼狽した。
「や、っ、違うんだ…!その、スペックで判断してるわけじゃない!ずっと養ってもらいたいとか働きたくないとかは、あー…思ってないわけじゃない、が」
素直か。
危うく手首のスナップを効かせて胸に叩きつけるところだった。
「結果的に、ベストなスペックを持つのがハニーだったってことは、何というか…」
カラ松くんは手のひらを首筋に当てて、首を傾げてみせた。羞恥心が混じった複雑そうな顔で。

「これは本当に偶然なのか、と思ったんだ…」

人は、出会いに意味を持たせたがる。運命的だとか赤い糸だとか美辞麗句で飾り付けた意味付けをすることで、関係性を継続する都合のいい理由になるから。
この次男は特にその傾向が顕著だ。自分に酔っている。私との繋がりも、あらかじめ仕組まれた定めであるかのように語る。
それは反面で、いつ途切れるか分からない関係への不安の表れでもあるのだろう。
「オレは…ユーリにとって紳士だろう?」
紳士とは。
「レディーファーストを徹底してる的なこと?」
彼は首を振る。私は察した。
「なるほど、うん、確かにそうだね。私にはヤらせろって言わないもんね
「ストレートを剛速球で投げてくるの止めてくれないか」
「違った?」
「……合ってる」
ほらみろ。
「そういうことが頭にないわけじゃないが…我慢できるくらいには、真剣なんだ。真剣に考えてる」
「あ、ヤりたいってのはやっぱあるんだ」
「ある。ヤりたい」
急にカラ松くんの目が据わる。地雷を踏んだかもしれない。
「愚問だと思わないか!?
欲求あり余る青春時代と二十代を女っ気なしの童貞で突っ走ってきた挙げ句、今は目の前に超絶キュートでビューティなハニーがいるんだぞ!?
オカズにするくらいは良くない!?
私に訊くな。オカズや肴にするのは勝手だとしても、当の本人に対してぶちかますのは自殺行為じゃないか。脳内イメージのシチュエーションを朝まで執拗に問い質すぞゴラ。


あー、と盛大な息を吐いて、カラ松くんはソファの背もたれに両手を投げ出した。自棄っぱちだ。彼は顔を天井に向けて、目を細めた。
「テクニシャンのユーリに小手先はマジでナンセンスだった…」
「その異名は異議あり」
今後も呼び続けたら実践してやるからな。
「──っていうかさ」
私も背もたれに背を預けて、カラ松くんと同じ格好になる。顔を横に向けたら、目が合った。
「今更テクニックとか必要ないとは思わなかった?一年ずっと一緒にいるのに」
「まぁ、いや…んー……」
「こういうのは、出会ってすぐの頃にしなきゃ。効果があるのは、いくらでも軌道修正できる間だけだと思うよ」
私たちは、騒々しく賑やかな日々と思い出を重ねてきた。
「いつもと様子が違うのは面白かったけどね。ただ、ここまで来て急に態度変えられても、どうしたの?何かあった?ってなっちゃうかな」
「…そういうもんか」
彼は不服そうに眉根を寄せた。努力が実らなかったどころか仇となったのだから、その心境は察するに余りある。

「もしくは、相手が手ひどく失恋したのを慰める時とか?」
拠り所を失って空いた穴を、優しく寄り添う言葉と態度で埋める手法である。タイミングと手段によっては効果を発揮するが、逆に嫌悪感を顕にされる可能性も併せ持つ諸刃の剣だ。傷ついた相手の隙につけ入ると揶揄されがちではあるけれど。
「それは嫌だ」
即座に拒否反応を示すカラ松くん。

「例え一瞬でもユーリが他の誰かを見るのは、オレは耐えられない」

可愛いなぁ、と私は思う。頭を撫でて、そんなことは起こり得ないのだと言葉にして安心させてやりたくなる。
しかし私が上体を起こした矢先、階下から声がかかった。
「カラ松ー、ユーリちゃん来てるー?」
おそ松くんの声だ。
カラ松くんは大儀そうに立ち上がり、襖を開けて顔を覗かせた。
「ハニーは来てるが、どうした?」
「母さんがユーリちゃんのために今川焼き買ってきたって。カスタードとかうぐいすあんもあるから、自宅組は早めにいいヤツ選んどこうぜ」
「ブラザーたちには情け無用ということだな、いいだろう!甘やかすだけが愛の形じゃない、時には愛故の厳しさも必要だ。オレの分あずき残しておけよ!
今川焼きの味に対する執着と、言い訳感がハンパない。早く下りてこないと知らないからなと長男は言い残して、遠ざかっていく。

「──というわけだ、ハニー。ブラザーたちが帰ってくる前に今川焼きを選んでしまおう」
「私は何味でもいいよ」
「ゲストを差し置くわけにはいかないだろ」
フッと穏やかに笑って、カラ松くんは私に手を差し伸べようとした。
しかし私がその手を視認して反応するより前に、彼は気が変わったのか、私の隣に座り直した。




「ユーリにテクニックは通用しないと、オレは言ったな」
自ら話を蒸し返してくるか。私は驚きを顔に貼り付けながらも、それがカラ松くんの意向であるならと受け止めた。
「言ったね」
「…実は、使う予定のなかったものが一つある」
もったいぶった言い方だ。腹の中を何となく理解する。相手に予告した上での行使はそれこそ効果が得られないのではと訝る私をよそに、カラ松くんはどこか高揚しているようだった。
「試してもいいか?」
こわごわと顔色を窺いながらの問い。
少なくとも、幾らかの可能性を感じてのことなのだろう。どんなものなのか、純粋な好奇心が勝った。
「いいよ」
承諾する私に目を細め、けれど彼は一度視線を地面に落とし、微かな逡巡を見せた。実行に移すか否かの葛藤か。
カラ松くんが躊躇していたのは、実質数秒だ。やがて意を決したように顔を上げ、そして───

私を正面から強く抱きしめた。

「……っ」
予想外の手段に、思考が止まる。
両腕が回された背中を引き寄せられ、私の顔はカラ松くんの肩に埋もれる形になった。柔軟剤と皮膚の匂いが入り混じった独特な香りが鼻をついて、今私を抱きしめるのが間違いなくカラ松くんであることを再認識する。
「ユーリ…」
万感の思いが込められた言霊が囁かれる。
「カラ松くん、これは──」
私が最後まで質問を紡がなかったのは、襖を隔てた階下から聞き慣れた幾つもの声が聞こえてきたからだ。ただいまと帰宅を告げる声と、床板を軋ませる複数の足音。
「あ、やっぱこれユーリちゃんの靴?」
「居間にいるの?二階?」
「えっ、お前らもう帰ってきちゃったの?あー、だから先に選んどけって言ったのに」
「選ぶって何を?」
途切れ途切れに五人の会話が漏れ聞こえる。
「ね、カラ松くん、みんなが…」
「分かってる」
そう言いながらも、力を緩める様子はまるでない。
抗うべきなのか従順でいるべきなのか、だらりと下ろしたままの腕に行き場がない。
「だからだ」
だから?

「いつブラザーたちが上がってきて戸を開けるか分からないのは、スリルがあるだろ?
…勘違いしそうにならないか?」

戸惑い、不安、緊張、そういった不特定多数の感情がごちゃまぜになって、私の心を乱そうとする。私自身はこの抱擁を彼らに見られても構わないけれど、カラ松くんが被害を被るのは避けたい。
ああ、そうか、私のこの緊張感は、カラ松くんを人質に取られているからなのか。合点がいった。
「吊り橋効果のこと?」
「そんな上等なものじゃないさ」
持て余した手で、私は彼のパーカーの裾を掴む。抵抗とも許容とも取れる曖昧な態度は、カラ松くんの体を僅かに揺らした。

「これは──秘密の共有だ」

秘密の共有。
投げられた言葉を内申で反芻する。
「ブラザーたちの声が聞こえるくらい近い距離でこうしてハグしているのは、オレとユーリしか知らない」
きっと、指南本が示す本来の意味合いは全く異なるのだろう。秘密の共有は、こんな風に密着して行われるものではないはずだ。抱擁までしてしまうと、自然に相手を惹き付けるどころか、自分の好意や下心が伝わってしまうから。

私は片手を持ち上げて、彼の胸に触れる。
「は、ハニー…!?」
「カラ松くん、ドキドキしてるね」
初よのぅ。抱きしめることまでやっておきながら、服越しに胸を触られただけで動揺するなんて──あ、待て、セクハラだと思われてるのか?まぁセクハラだけど。
「…するに決まってる」
反論するように語気を強めて、カラ松くんは言う。セクハラだから?
「近くにブラザーたちがいるからというのもあるが……大事にしたい反面で、やっぱり男としてそういうことを考えないわけでもないし…かなり葛藤してるんだぞ」
カラ松くんはそろそろと私から手を離して、赤くなった顔を歪ませた。茶化す場面ではないなと反省し、私は微笑む。
「…ユーリは?」
「え、私?」
「これも、ユーリには効果がなかったか?」
憂い顔で呟く。独りよがりなのかと気落ちしそうになる彼をすくい上げるのは、私の役目だ。私だけの。
カラ松くんの手を持ち上げて、私の左手首に運ぶ。太い血管を覆う皮膚の上に、彼の指先が触れた。
「……ハニー」
愛おしそうな艶っぽい声で、私を愛称で呼ぶ。その顔には子供のような屈託のない笑みが浮かんでいた。


「カラ松ー、ユーリちゃーん!」
一階からの呼び声が、私たちを現実に引き戻す。
「兄さんたちイチャついてんじゃない?邪魔したら悪いよ、すぐさま見てきて
「言葉に一貫性がなさすぎるだろ、トッティ。分かった、僕が先陣を切る
「程々になー」
廊下でわちゃわちゃと騒ぎ立てる数人の声に、カラ松くんはあたふたと両手を彷徨わせる。ゴホンとわざとらしい咳払いの後、大きく息を吸って口を開いた。
「すぐ行く!ハニーの分は残しておくんだぞ、ブラザー!」
「ごめーん、ゲームのキリが悪くて!ちょうど終わったから行くね!」
私も音量を彼に合わせて、階下に返事をする。
「何だ、ゲームだって」
「そういうこったろうと思ってたけどね」
声は次第に遠ざかり、やがてほとんど聞こえなくなる。
襖を開けて一階の様子を覗いたカラ松くんが、長い安堵の息を吐き出した。難は去ったらしい。
「ナイスフォロー、ハニー」
「ふふ、どういたしまして」
横髪を掻き上げながら、私は肩を揺らす。我ながら真実味のある嘘をついたものだ。詐欺師の素質があるのかもしれない。




「──カラ松くん的には、指南本は効果あったと思う?」
襖を開けて一段階段を下りたカラ松くんの背後で、私は尋ねた。ピクリと反応する背中。端整とも感じられる横顔で私を一瞥する。
テクニックには須らく理由があって、その理由こそが本質だ。それを理解せず技術を用いたところで効果は望めない。
「……あった」
彼の唇が小さく動く。
日中とはいえ薄暗がりの廊下で顔の血色を視認するのは至難の業だったが、私の思い違いでなければ、僅かに上気しているようだった。彼はくすぐったそうに笑う。

「───オレに」

休日にホワイトデーを添えて

「じゃ、明日の夜までカラ松くん借りていくから」

私がそう言って、リュックを背負うカラ松くんの手を引いた時、ハッと顔を上げた五人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。同じ顔面が五つ並ぶ姿は実に見もので、玄関を出た私は腹を抱えて酸欠になりかけたことを、ここに記録しておこう。

ホワイトデーを翌日に控えた、金曜の夕方のことである。




「なぁ、その…ハニー」
街灯がアスファルトを照らし始める。チカチカと不規則に点灯し、私たちの足元に黒い影を作った。
「ブラザーたちに言って出るのは、さすがにやりすぎだったんじゃないか?」
カラ松くんは不安げに眉を下げる。対照的に私は清々しい。終わったことを悔やんでも、詮ないことだ。
「敢えて事実提示のみで背景を語らず、聞き手の想像力を掻き立ててくる卑劣な手口も相まって、間違いなくオーバーキルだったぞ」
まるで私がテロリストみたいな言い方するやん。
「大袈裟だなぁ。心配させないように事前に申告しただけなのに」
「オレたちは男女の生々しい機微に関してはミジンコ以下のメンタルしかないからな
「弱っ!」
クソザコナメクジか。

私はカラ松くんに微笑んだ。
「大丈夫、おそ松くんたちにはちゃんと許可取ってるよ」
目を瞠るカラ松くん。
「いつの間に…」
「カラ松くんが着替えてる間に。みんなからのバレンタインのお返しは、カラ松くん一日レンタル券でいいよって」
「……っ!」
私の言葉に、カラ松くんは頬を赤く染め上げる。黒目は不安定に揺れた。
まぁ、前夜から借りるってのは言い忘れてたけども。一日も二日もニートには誤差だ誤差、無問題。
「はは、策士だな、ユーリ」
「でしょ。我ながらいい案」
とはいえ、松野家を出た直後から『前日からなんて聞いてない』『詐欺じゃん』『早まるな』と怒涛のメッセージがスマホに届いているので、私は笑顔のままそっと電源を切った
カラ松くんは複雑な面持ちで、一日分の着替えを詰めた背中のリュックを一瞥する。しかし、どんな言葉をかけるべきか私が思案するより先に、カラ松くんが白い歯を覗かせた。
「まぁいい。ブラザーたちのジェラシーは、オレの海より深い愛で受け止めてやるさ」
鼻息荒く胸を叩く。
それから恭しく片手を伸ばして、彼は言う。

「ホワイトデーにユーリと過ごす光栄は──オレだけのものだ」

スポットライトを浴びる演者の如く、大袈裟な身振り。受け手の私が一笑に付すまでがお決まりの流れだ。冗談を隠れ蓑にする男と、看過する女。この喜劇はいつまで繰り返されるのだろう。

昼が終わり夜へと移り変わる。沈みかけの太陽を藍色の闇が覆い隠そうとするグラデーションは、禍々しくても美しい。大きな災禍に遭遇する迷信がまことしやかに語り継がれてきた、逢魔が時。
「今からは前夜祭だね。
カラ松くんは、宅飲みとチビ太さんの屋台どっちがいい?」
黄昏が滲めば、やがて宵の口だ。二十歳過ぎの社会人にとって、当面はまだ活動時間のうちである。
「ユーリは?」
「私?」
問い返されて、私は目を剥いた。彼は優しい笑みを作って、小さく頷く。

「オレは、ユーリの好きな方がいい」

空に残った僅かな茜色がカラ松くんの顔を照らし、私はその色を綺麗だと思った。




年季の入ったおでんの屋台。細かな傷のついたカウンターテーブルに、空になったグラスが転がる。出汁が染みて琥珀色に染まった大根は箸で容易く切れて、熱々のまま頬張った。外気の肌寒さが、おでんの味を引き立てる。
「ホワイトデー?あー、 そういや明日は十四日だったっけな」
興味なさげにチビ太さんが顎に手を当てた。湯気の立ち上るおでん鍋からは、食欲をそそる香りが広がる。
「オメーにもようやくホワイトデーをどうするか悩む相手ができたんだな、カラ松。めでてぇじゃねーか」
「チビ太!お、オレとハニーは別にそういうんじゃ……っ」
「あれ、そうなんだ?」
私は頬杖をついて、天然を装って茶化してみる。途端にカラ松くんは、顔を朱に染めながら黒目を揺らした。
「あ…や、違うわけでも、ない、というか…」
歯切れの悪い口ぶりに、私とチビ太さんは声を立てずに苦笑する。

「で、前祝いにオイラのおでんを食いに来てくれたってわけか。こりゃ明日の顛末を聞くのが楽しみだぜ、バーロー」
「勝手に期待するな!」
「──待ってカラ松くん、これはフラグかもしれない
私は真顔で彼の肩を叩く。
「…フラグ?」
「そう。おあつらえ向きな特殊イベント、チビ太さんの揶揄、一日レンタルという状況、これは全部一つの結論への伏線なんだよ───私がカラ松くんを抱くという
「分かった、そのフラグは今すぐオレがベキベキに叩き折る」
躊躇なしか。

日本酒の在庫切れに気付いたチビ太さんが、近場の酒屋から仕入れるために離席する。店番を任された私とカラ松くんは、二人きりになった。
団地に囲まれた住宅街の側、屋台のメインターゲットであるサラリーマンの人通りは少ない。
「ユーリ」
不意に、低い声音で呼ばれる。
「さっきの、その…ユーリがオレを抱くとかいう伏線なんだが……逆のパターンは全く想定しないのか?」
幾度か交わされた、定番とも言える応酬だ。けれど今回は、カラ松くんがやけに鬼気迫っているような気がした。
はぐらかすか、真摯に向き合うか、答えあぐねた僅かな隙をついて──彼は私の腰を引き寄せる。

「オレだって、ユーリをそういう目で見てる」

宙に浮いたまま硬直する私の両手。
「どれだけオレが我慢してるか…知ってるか?」
私と彼と、力の差は歴然だ。おでんの具を煮込む鍋の前で睦言を吐かれるアンバランスさは、私の戸惑いに拍車を掛ける。
「カラ松くん…」

「悪ぃ悪ぃ!つい酒屋のオヤジと話し込んじまってよ!」

とはいえ、核心に迫る前に中断を余儀なくされるのは、そういった星の下に生まれた宿命か。チビ太さんが戻るなりカラ松くんは私を突き放し、椅子から転げ落ちた
「何だカラ松、飲みすぎか?
明日ユーリちゃんとデートだからって、羽目外すんじゃねーぞ。つか、ユーリちゃん、グラス空だな。何か飲むか?」
大惨事が飲みすぎで片付けられた。




河川敷に、人懐っこい野良猫が一匹現れた。チビ太さんが言うには、ときどき屋台の前に姿を見せては、餌をたかりに来る子らしい。
ちょうどチビ太さんがカラ松くんに話を振ったタイミングだったので、私は椅子から降りて猫に近づく。膝を折って目線を下げたら、不審な新参者を品定めするような目つきで私の周りをうろうろする。成猫になりきらない幼さの残る外見で、愛らしいの極み。
「何もしないから、ほら、おいでおいで」
しかし彼(彼女?)が私に関心を示したのは、ほんの数秒だった。餌を貰えないと知るや否や、次の餌場へと駆け出していく。
「…あー、残念」
立ち上がろうと膝に手をついた時、僅かなふらつきを自覚する。さほど飲んでいないが、気分が高揚しているせいか。皮膚を撫でる冷気が、酔い醒ましになるといいのだけれど。

「どうしたらいいのか分からないんだ」
カウンターに頬杖をつき、カラ松くんが呟く。
席に戻ろうとした私は、屋台の暖簾から死角になった。何となくその場で立ち止まる。
「何がだよ?」
「ホワイトデーにユーリと過ごせるだけで天にも昇る心地だ。ただ、こういう経験がないから、どこに行って何をすればいいのか、まるでノーアイデアなんだよ。笑えるよな。
ずっと考えてて答えが出ないまま、明日になろうとしてる」
カラ松くんの瞳はチビ太さんを通して、遥か彼方に向けられているようだった。
数秒の間が空く。
「ユーリちゃんとデートは何度もしてんだろ?」
「……まぁな」
「それでいいんじゃねえの?」
「おい、いいわけあるか。ホワイトデーだぞ、いつもと一緒だと新鮮味も特別感もない」
カラ松くんは顎を突き出して不服感を示す。
「ユーリちゃんには訊かなかったのか?」
腕組みをしたチビ太さんが彼から視線を外し、その先で私と目が合う。何か言いかけた彼に対し、私は咄嗟に人差し指を唇に当てた。カラ松くんは気付かない。
「聞いた。オレと一緒に過ごせれば、それで───あ」
頬杖を外すカラ松くん。何かに思い至った様子だ。双眸を見開いてから、ふにゃりと相好を崩した。
「いやしかし…うん、それだと、むしろオレの方が──」
「一人でブツブツ気持ち悪ぃ奴だな」
「うるさい」
悪態をつきながら、コップに残った僅かなビールを煽るようにして嚥下して。

「そうか、本当にそれでいいのか…」

へへ、と肩を揺らしてカラ松くんは笑った。


二時間ほどカウンターに居座って、酔ったサラリーマンの二人組が暖簾をくぐった頃合いに、私たちは暇を告げた。次の目的地は決まっていないが、ひとまず駅へと向かう。
「ユーリは、これからどうしたい?」
「うーん…オールとかスーパー銭湯? でもそれだと、明日のホワイトデーに本調子じゃなくなりそうだし」
「オレはどっちでもいいぞ。ユーリと一緒だしな」
この言葉を優しさと取るか優柔不断と取るかは、紙一重だ。私は前者で解釈する。カラ松くんは真剣に、私と一緒にいられるならどちらでも幸福度は同じだと思っているに違いない。
「ならやっぱり、私の家で寝るのがベストかな」
「は?」
カラ松くんは眉間に皺を寄せる。
「ハニー、リッスントゥミー
顔が近づく。圧がすごい。
「何度か既に泊まってるのは棚上げするとして…年頃のレディが軽々しく男を部屋に泊めるのは褒められたことじゃないぞ。
ユーリは魅力的だし、風呂上がりの無防備な姿はエロいし、いい匂いがするし、エロい
何でエロいを二回言った?
「…つ、付き合ってない男を泊まりに誘うのは、道徳的にだな、その……」

「カラ松くんだけだよ?」

必殺・伝家の宝刀。
これは魔法の言葉だ。最後の砦を守ろうとする彼を手招き、罪悪感を抱かせないための。
いやだってオールは確実に体を酷使するだけだし、スーパー銭湯だといびきのうるさい輩に殺意抱いて不眠コースのオチが見えている。こちとら、ホワイトデー当日のコンディションは万全で臨みたいのだ。
「駄目…かな?」
私は小首を傾げて、潤んだ目で見つめる。とどめ。
「…っ、その目はズルいぞ、ハニー!」
「でも本当のことだし」
「ああもうっ、何でそんなにキュートなんだ!明日までオレの理性が保たなかったらどうしてくれる!」
それは知らん。


そんなこんなで、複雑な心境のカラ松くんを我が家に連行する。
シャワーを浴びた後、ローソファに腰掛けてつらつらと他愛ないことを話していたら、いつの間にか日付が変わる時間帯だ。
「明日は八時には起きよっか」
会話が途切れたのを見計らい、私は声をかける。
「ん…ああ、もうそんな時間か。ハニーが起きた時、もしオレが寝てたら起こしてくれ」
「分かった。私、七時には起きちゃうかもしれないけど」
「構わないさ」
目を細めて、カラ松くんは微笑む。

「ホワイトデーの一日、オレはハニーのものだ」

真摯な眼差しで唐突に告げられたのは、プロポーズ紛いのどストレートな言葉だった。
これが誘い受けってヤツかと感心する私と、自分の放った台詞の直球さに気付いて慌てふためくカラ松くん。二人きりの狭い室内、視界の中にはベッド、隙だらけなパジャマ姿、否が応でも性的なイメージが脳裏を掠める。
「ち、ちょ…っ、すまん、そうじゃなくて……もちろん明日だけじゃないぞ!オレは最初から──って、違ぁう!
聞かなかったことにしてくれないか!?
訂正するかと思いきや、告白を重ねようとするのは想定外だった。テンパってらっしゃる。
「あんまり気負わなくていいよ。楽しく過ごそうね」
カラ松くんも、気構えず自然体で楽しんでくれたらと思う。
「───ユーリ」
彼の手が伸ばされて、私の右手を取る。

「明日…いや、もう今日か。
今日は一件だけオレに付き合ってくれ。後はユーリの好きなように過ごそう。それをバレンタインのお返しとして、受け取ってほしい。
オレがユーリに渡せる…精一杯の気持ちだ」

それからおもむろに、手の甲に口づけた。静寂だけが漂う狭い部屋に、チュッと弾けたような音が小さく響く。顔を上げたカラ松くんの頬が赤い。私の体も、少しだけ熱を帯びたような気がして───
ドスケベだな、これ。




八時前に意識が覚醒する。八時にセットしていた目覚ましを止め、のろのろと上体をベッドから起こしたら、同じタイミングでカラ松くんがローソファで寝返りを打った。
推しの寝顔マジシコい。無防備な寝顔と剥き出しの首筋の組み合わせが絶妙なハーモニーを奏でる、端正と愛嬌の贅沢オードブル。朝から煩悩マックスで体調も万全だ、よし。

「起きて、カラ松くん。八時だよ」
毛布越しに肩を揺すったら、カラ松くんは両手を頭上に上げて大きく伸びをする。窓のレースカーテンから差し込む朝日に細めた目を、袖で擦った。
「…おはよう、ハニー」
「うん、おはよう」
「サンシャインが眩しいな。ハニーの魅力には遠く及ばないが」
寝起きに口説いてくるとは、余裕あるな。
「ご飯作るから、ちょっと待ってて。パンとコーヒーでいいかな?」
「ん、オレも手伝う」
「いいよ、すぐできるし」
カラ松くんの申し出に首を振ると、彼は立ち上がろうと地についた私の手首を軽く掴んだ。私は中腰のまま固まる。
「今日は…ホワイトデーだろ」
寝ぼけ眼と、まだ本調子でない掠れた声で。
可愛いなぁと思ってしまうのは、もうどうしようもないくらいに自然な流れだった。

ジャムを塗ったトーストと、小分けのヨーグルト、飲み物はインスタントのコーヒー。狭いキッチンで談笑しながらカラ松くんと用意をする。ローテーブルに揃えて両手を合わせたら、いただきますの合図。
「夜にも言ったが、今日は一件だけオレに付き合ってもらっていいか?」
「構わないよ。どこ行くの?」
私の問いに、彼は答えない。意味深な表情で、自分の唇に指を当てる。
「シークレットだ。着いてからのお楽しみといったところだな」
「ふふ、それは楽しみ」
「二時過ぎまではユーリの行きたい所に行こう」
「うん」
私が頷くとカラ松くんは笑って、厚切りのトーストを齧る。大きな口を開けて豪快にかぶりつく姿に、何となくじっと見てしまう。男の人だなと、当たり前の感想が過ぎる。
「どうした、ハニー?
フッ、さては寝起きのオレのセクシーさに魅了されてしまったな?
分かるぞ、朝日の清々しさとは相反する男のフェロモンがダダ漏れだからな。カラ松ガールズには目の毒でしかない」
「そうだね、つい見惚れちゃった」
「そう、見惚れるのは当然……は?
寝癖のついた前髪を片手で掻き上げたポーズのままフリーズするカラ松くん。
「ハニー…視力下がったのか?午前中眼科行くか?
「自分の発言には責任持って」
同調しただけでこの顛末。
「ツッコミを放棄するのは良くないぞ」
ボケだったんかい。




一件だけ付き合ってほしい。そう言われた時、オシャレなカフェといった類を私は想像した。指定された時間が午後三時という、微妙な時間帯だったのも根拠の一つだ。
目的地が実は有名ホテルだったとは、一体誰が予想できただろう。

そびえ立つビルを見上げて私は唖然とする。
呆気に取られたまま案内されたのは、ホテルの高層階にあるティーラウンジだ。フロアはスタイリッシュなインテリアで彩られ、天地に広がる大きな窓からは、澄み渡る青空と東京の景色が一望できる。
優雅なアフタヌーンティーが、雑誌やSNSでよく話題になる店だ。私も名前だけは知っている。

「行きたいと言ってただろ?」
予約席のプレートが置かれた席に案内され、席につくなりカラ松くんは微笑んだ。
木目が美しい無垢材の、見た目だけで高級と分かるテーブルに、向かい合わせの一人がけソファ。設備だけでも高級店と分かる仕様である。
「言った…かな」
記憶が曖昧だ。メディアで何度か見かけたから、軽い気持ちで「行きたいね」なんて口走ったことはあるだろうが。
「クリスマスフェアが始まるとか言ってただろ?」
「それ…半年くらい前だよね」
「その時から、いつかユーリを誘えたらと思ってたんだ」
半年も前の、しかも思いつきで発した台詞を覚えていてくれた。女性客が多い店で、予約するのだって勇気が必要だっただろう。
「たまたまキャンセルがあって、ラッキーだった。オレの日頃の行いが功を奏したな
最後の一言で台無し。
「きっと旨いぞ!楽しみだな、ハニー!」
けれど、花が咲くみたいな笑顔で、全部チャラになってしまう。チョロい私ですいません。



紅茶は、耐熱ポットとカップで配膳された。三段のケーキスタンドには、下から順にサンドイッチ、スコーンやミートパイ、ケーキやマカロンといった、写真映えする圧巻の彩り。ケーキスタンドに載らないアミューズ──いわゆるおまけの食事──もあり、アスパラガスのスープとチーズのピンチョス。
アフタヌーンティーってこんな感じだろ、を忠実に再現するラインナップだ。

存分に写真を撮った後、豪華な料理に舌鼓を打つ。見た目から楽しませてくれる上、味も美味しいの一言に尽きる。多様な素材の味が一つに集約されて、味覚を刺激していく。自分では到底再現できない味には、畏怖の念さえ抱く。
「わっ、スコーン焼き立てだよ!ジャムに合う!」
「ああ、旨い。アフタヌーンティーというからおやつみたいなもんかと思ってたが、もうこれはコース料理だな」
「オシャレで贅沢だよね。違う世界に紛れ込んだみたい。すごい非日常感」
華奢なカップとソーサーを持ち上げて、私は言う。力を入れたら壊れてしまいそうだ。安いマグカップで飲む紅茶とは別格に感じる。
「ハニーに喜んでもらえたなら何よりだ」
「喜ぶも何も……そっか、このためにハタ坊からの仕事受けたんだったね」
曰く付きの宝石を目的地まで運ぶ仕事だった。偶然居合わせた私も巻き込まれ、結果的に無事任務を完遂して報酬も得たが、対価が見合うなりの危険な目にも遭った。カラ松くんが危険を押してまでハタ坊の依頼を受けたのは、私に金銭的我慢を強いないため。
「ちゃんと仕事で得た正規の金だぞ」
カラ松くんは誇らしげに鼻を鳴らす。金の出どころが正規ルートじゃないなら犯罪だけどな。

一息ついて、飴色の液体を口に含む。宝石を彷彿とさせる高い透明感の高さで、すっきりとした味わいが広がった。音を立てないよう、カップをソーサーに戻す。
「まさかアフタヌーンティーに連れてきてもらえるとは思ってなかった。何て言ったらいいのかな…嬉しいし、最高のホワイトデーだよ」
私が言うと、カラ松くんは人差し指で前髪を横に流す。
「フッ、トップの座に君臨して当然だ。ホワイトデーにハニーを完璧にエスコートする…オレ!」
いい感じに調子に乗ってきた───と思いきや、彼は吊り上げた眉を下げて、相好を崩す。

「ユーリに満足してもらえるよう…バレンタインの後からずっと考えてきたからな」

私は真顔で腕組みをする。うちの推しが超絶に尊い。これ公共の場に出していいの?誘拐されない?大丈夫?




ソーサーの紅茶が空になるまで、二時間ほどは他愛なく話をしていたように思う。ティーラウンジを出て、エレベーターに乗り込む。エレベーター内の客が私たちだけだったこともあり、不意に静寂が私とカラ松くんを包み込んだ。
「ユーリ、ここだけの話として聞いてほしいんだが…」
だから、ただならぬ様子でカラ松くんが口を開いた時、反射的に背筋を正してしまった。いつ開くとも知れない密室で、何が語られるか分からない緊張感。
「何?」
「アフタヌーンティー、あれな…場違い感が尋常じゃなくてぶっちゃけ吐きそうだった
青ざめた顔でとんだ暴露。
「ニート童貞には敷居が高すぎる。ユーリの手前それっぽくこういう場所慣れてます来たことあります風を演じたが、いやいや初めてだから!来たことないから!彼女いない歴=年齢だぞ!?
ユーリがめちゃくちゃ嬉しそうで可愛いし、何なら可愛すぎて他の女性客全員モブに見えるし、禿げるかと思った!
支離滅裂な感想が炸裂する。混乱している模様。私が笑顔で傾聴に徹していると、彼は我に返り、照れくさそうに指先で頬を掻く。
「あー、何だ、その……臨時収入があったからとかじゃなく、いつかもっと気軽にこんな場に来れるようにするから」
だから。

「これは一回目だ。また必ずユーリを連れて行く」


ホテルを出た私たちは、近くの百貨店やファッションビルを見て歩いた。ホワイトデー当日ということもあり、仲睦まじいカップルが多く見受けられた。顔を寄せ合い商品を吟味したり、手を繋いでフロアを歩いたりと、微笑ましい光景である。
さて、では私たちはというと──

夕方だというのに空腹を感じず困惑していた
「調子に乗って食べ過ぎたかな…」
「食べ放題は魔性だな…」
そう、私たちが訪れたティーラウンジでは、ケーキスタンドで提供された食事の他に、一部メニューはビュッフェ形式で食べ放題だったのだ。ホワイトデー特別コースと銘打って高価格帯にする代わりに、食事として満足できる量を提供するコンセプトにしたのだろう。
結果的に私たちは策に嵌り、食べ過ぎた。
「ブュッフェはただのお代わりじゃなかったもんね」
「まさかブュッフェもオール新作にするとは……全種類試さないと損だと思ってしまう貧乏性にはキツイ仕様だった」
「でもさすが有名店だけあって、ハズレなしだったよね。全部美味しかったから、お腹いっぱい食べたの全然後悔してないよ」
笑って自分の腹を撫でたら、カラ松くんは困ったような笑みを返す。
「しかし、夕飯は入らなさそうだな」
「まぁね」
「夕飯抜きか、それとも…チビ太の所は昨日行ったしな…」
「カラオケとか?」
「んー…さすがにホワイトデーにそういう場所は…」
カラ松くんは腕を組んで唸る。グダグダの様相を呈してきた。同じメンツで過ごすことが多いと、進行のスムーズさが失われるのはままあることなので私は比較的楽観的だったが、カラ松くんはそうでないらしい。
「すまん、ハニー」
謝罪を口にされて、私は驚く。
「食事の量を考慮してなかった。エスコートすると啖呵を切ったのに、このザマだ」
ファッションビルを出た先の広場では、辺り一面の木々に白とゴールドを基調にしたイルミネーションライトが装飾され、夜をきらびやかに彩っていた。季節外れの雪を思わせる輝きは眩しく、日暮れ後の闇を歓迎する。美しい世界に、落胆は似合わない。
「おやつガッツリ食べると晩御飯いらないのはあるあるだよね。私は気にしてないし、適当に遊ぼうよ」
「それじゃあいつもと変わらないじゃないか。せっかくのホワイトデーなのに」
やはりそうか。彼はホワイトデーの呪縛に囚われている。

「ホワイトデーだけが特別じゃないよ」

先入観、はたまた独自の価値観か。いずれにせよ、必要のないものだ。
「同じ日なんて一日もないでしょ。同じ場所に行くにしても、時間も服装も会話も、違うところがたくさんある。カラ松くんと会う日は私にとって、全部特別なんだよ」
「しかし…今日は、いつもとは決定的に違う日にしたかったんだ」
カラ松くんは歯切れの悪い口調で言う。
「決定的に違うじゃん。
前日に私の家に泊まって、アフタヌーンティーに行って、何よりカラ松くんが一日中私がどうすれば満足するかって考えてくれてた。それだけでもう本当に全然違うんだよ。
私は、大満足通り越してるんだからさ」
一呼吸置いて、私は微笑む。
「カラ松くんは、今日はいつもと変わらないと思ってる?」
彼は即座に首を振った。とんでもない、と言いたげな顔で。
「違う!そんなこと、思うはずない!
こうやってホワイトデーにユーリと過ごせるだけで、それだけでオレには特別なんだ」
「ほら」
私が指摘すると、彼は自らの矛盾にようやく思い至ったらしい。彼の望む特別感は彼自身が作り出した幻想で、悪い言い方をするなら、独りよがりでしかない。その幻想の中に私の意志はないのだ。

「ホワイトデーに一緒に過ごせるってだけで、何もかもがいつもとは違うんだよ」




空いたベンチに腰掛けて、イルミネーションを見上げる。東京の、お世辞にも美しいとは言い難い淀んだ夜空を、明るい光が隠す。
「オレがバレンタインに貰った分くらいは返したかったんだが…」
「推しの可愛さがオーバーフローしてる分だけで相殺は確実かと」
「は?」
「あ、ええと…きっと同じくらい、私も今日嬉しかったよ」
最近の彼は、私の不適切な発言に凄んで訂正を要求する高等スキルを発揮してくる。レベルを上げたな、我が推しよ。
「ノンノン、お世辞にもならないジョークだぜ、ユーリ。オレの方が絶対嬉しかった
何の競い合いなんだこれは。
「カラ松くんこそ、分かってないなぁ」
「ユーリの方だろ」
「いーや、カラ松くん」
私たちは揃って腕を組んで睨み合い、そして笑った。

「ユーリを喜ばせるつもりが、自分本位になってしまったな。オレもまだまだというわけか」
カラ松くんは足を組み、小さく溜息を吐く。私は釈然としない。
「その言い草だと、ホワイトデーがもう終わったみたいに聞こえるけど」
「へ?」
「まだ真っ最中だよ」
このおあつらえ向きのイルミネーションを前に一人反省会突入とは、恐ろしい子。
彼は私の言葉を受け、ハッとしたようだった。腕時計で現時刻を確かめて、自分の額に手を当てる。
「…ジーザス…っ、ハニーの言う通りだ」
彼の黒髪は人工的な光を受け、キラキラと星屑が舞い散るように揺れる。静寂と喧騒の間、私たちの声は互いの耳にしか届かない。

「こんなロマンチックな光景を前にして、ユーリ以外に考えることなんてないよな」

ベンチの座面に置いていた指が触れ合う。私は動かしていないから、おそらくは意図的に。そのままにしていたら、手の甲に彼の手が重なった。手のひらの体温が、甲からじわりと伝わってくる。
「…少しだけ、このままでいていいか?」
躊躇いがちの誘い。
「うん」
短く承諾して、私は空を見上げた。思考さえ億劫になるような感覚が、白い世界に溶ける。手のぬくもりだけが、私の神経を現実に繋ぎ止めていた。




午後九時を過ぎ、私の家に戻ろうとした頃にようやく、私たちの腹は空腹を訴え始めた。最寄り駅近くでピザをテイクアウトして、家で食事を取る。主張の激しい後味を、あっさりとした麦茶が中和する。要は旨い。
「日付が変わる前には帰る。名残惜しいからって引き止めるんじゃないぞ、ハニー」
目を閉じ、演技がかった口調でカラ松くんが言う。
「引き止めたら、泊まってくの?」
率直な疑問だった。カラ松くんは押しに弱いから、なし崩し的に二泊目に突入しそうな気がしたのだ。
だが彼は私の予想に反し、かぶりを振った。
「いくら可愛いハニーといえど、そのお願いは聞けないな──本当に、大事にしたいんだ」
何を、と訊くのは無粋だ。
「十二時前に帰るなんて、シンデレラみたい」
「オレは男だぞ」
「去っていくのがシンデレラなんだから、男とか関係ないよ」
拳を握って力説する私に、彼は微苦笑した。それから突然すっと手を伸ばして、私の髪に触れた。二本の指先からサラサラと髪がこぼれ落ちていく。
「だとしても、残してきたガラスの靴をオレはすぐ取りに来る。一刻も早くユーリに会いたいからな」
「積極的なシンデレラなんだね」
「探してもらうのを待つような性分じゃない」
どこまでも真っ直ぐに私を見据える双眸。
「でも私も、必ず探し出すよ。例えガラスの靴が残ってなくてもね」
カラ松くんは目を瞠った。
「…どうやって?」
「分からない。きっと無我夢中でなりふり構わずだよ」
私自身、咄嗟に口を突いて出た言葉だった。名も身分も知らない、容姿さえ魔法で変えられた相手の捜索に、唯一の物的証拠なしに立ち向かうのは無謀でしかない。それこそ、霞を掴むような話だ。
でも───

「顔も匂いも癖も全部覚えてるから、姿が変わっても絶対探し出す」

シンデレラと目の前の人を混同している。一貫性がない、ただの言葉遊び。仄めかした想いを察しろと、無茶な要求。

「ユーリ」

カラ松くんの頬が紅潮する。
「これ以上オレを夢中にさせないでくれ。冷静でいられる自信がなくなる」
「そう仕向けてるとしたら?」
「ユーリっ!」
顔を真っ赤にしたまま声を荒げるカラ松くん。実質的な終了宣言だ。この会話はここで終了しなさいと、婉曲した手段で訴えられる。
キャパオーバーの推しもかわゆす。こういうのが見たくて私は生きてる。


結論、今年のホワイトデーはいいホワイトデーだった。

キャラ変の弊害と変わらないもの

「ごめん、ユーリちゃん!」

カラ松くんを迎えに松野家を訪問した時のこと。
玄関先の木製ベンチに腰掛けていたおそ松くんが、私を視認するなり立ち上がり、頭を下げた。


珍しい場所に珍しい人物が座っていると思ったら、私が来るのを待っていたらしい。
「カラ松の性格が変わったこと、ユーリちゃんには言っとかなきゃと思って」
その説明だけ聞けば、カラ松くんが自分の生き様を見つめ直すような出来事でもあったかのようだが、何のことはない──デカパンの薬の影響とのこと。お前ら六つ子はほんと、隙あらばデカパンの珍妙な薬に手を出して事件勃発させるよな。
「『性格入れ替わり薬』間違って飲んじゃったんだよ、あいつ」
何をどう間違えたら、そんな絶対に手を出したくない物騒な薬を飲むに至るのか。おそ松くんはなぜか照れくさそうに首筋に手を当てた。
「ほら、俺、暇だったからさ」
「一年中だよね」
「十四松あたりが真面目になったら面白いと思ったんだ」
「兄弟に同情を禁じえない」
珍しいもの見たさの気持ちは分からないではないが。
で、と私は玄関前でおそ松くんと対峙しながら腕を組む。
「カラ松くんはどう変わったの?」
私の問いに、おそ松くんは眉間に寄せた皺に手を当てて思案顔になった。

「クズ」

私は目をぱちくりとさせる。
「それだといつも通りだけど?」
「ひどっ!ちょっとユーリちゃん、カラ松のこと何だと思ってるわけ!?」
六つ子の一員だと思ってるよ」
「すっごい含みあるなぁ」
照りつける日差しが強く、雲も少ない外出日和の快晴。おそ松くんと交わす会話の中で僅かに漂う非現実感に、眩暈さえする。平穏は遠い。
「ま、試作品だから効果は数時間…長くても半日しか保たないみたいだし、ちょっとしたスパイスだと思って受け入れてやって」
元凶が上から目線。

「今のカラ松は何つーのかな、優しさがなくなったっていうか、誰でも彼でも蔑んで不機嫌に正論吐く感じ?俺たちのこと見下すみたいな?」

ちょっと待て。私は手の平をおそ松くんに向けて彼の言葉を遮る。
「ってことは──排他松的ジト目の推しが拝み放題?触り放題?は?最高すぎる
ここが天国か。
おそ松くんは私の肩を叩き、穏やかな顔でふっと息を吐いた。
「ユーリちゃんならそう言ってくれると思ってた。でも順応早すぎてお兄ちゃん心配




窓枠を背もたれ代わりにして気怠げに腰掛け、人差し指と中指で挟んだ煙草を口から引き抜く。形の良い唇から吐き出されるのは、ゆらゆらと揺れる紫煙。指一本動かすことさえ億劫とでも言いたげに、全身の筋肉を弛緩させている。
襖を開けた先で、細めた双眸がおもむろにこちらを向いた。
「…何だ、ユーリか」
驚きも歓迎もせず、ただ呟かれる名前。私を認識しても、手にした煙草からは煙が立ち上り続ける。
「ご挨拶だね。約束通り時間ピッタリに迎えに来たっていうのに」
私は肩を竦める。平静を装ってはいるが、胸の鼓動はいつになく早鐘を打っていた。演技や冗談といった仮面ではないのかを、私自身の目で見極めるためだ。
「…煙草、吸うんだ」
私の前では吸いたがらなかった。タイミング悪く見つかったら、慌てて灰皿で揉み消していた煙草。私の前では吸いたくないからと、決まりが悪そうに苦笑したものを、今は躊躇いもなく。
激レアな絵面、とうっかり声に出したら、傍らのおそ松くんが白い目で私を見た
「吸って悪いか?お前に迷惑かけたことはないはずだが」
そして突然のお前呼び。
私は背後を振り返っておそ松くんに耳打ちする。
「これは殴っていいやつ?」
「俺にも責任の一端あるから、止めたげて」
「製造者責任取りなよ」
「俺が生んだ子みたいな言い方するじゃん」
「生み出したのは間違いない」
「言い返せないこの悔しさ」
推しと言えど、許容範囲というものは一応存在する。話が違うぞとコントみたいな応酬をこそこそと交わしていたら、唐突に私とおそ松くんの間に青いパーカーが割って入った。

「オレのハニーに馴れ馴れ過ぎやしないか、おそ松」

侮蔑にも似た視線はおそ松くんに向けられた。私の目に映るのは、不機嫌そうな横顔。眉の角度は一層鋭い。
そしておそ松くんはというと、お前のせいだろうが、という顔と、オレのハニーとか言いやがったぞこいつ、みたいな感情が入り混じった複雑な顔をする。
「あー、はいはい、ごめんごめん。てか、ユーリちゃんと話くらいは別に良くない?」
「おそ松」
声が一段と低くなる。カラ松くんが聞く耳を持たない様子だったので、彼は早々に白旗を揚げた。
「共感性羞恥で死にそうだから、後頼むわ、ユーリちゃん」
「あっ、ちょ…」
私の肩を叩き、踵を返すおそ松くん。

逃げおった。
階段をスタコラサッサと駆け下りていく長男。私は追いかけることもできず、改めてカラ松くんに体を向ける。
「…まぁおそ松くんはいいや。でもお前って呼ばれるの好きじゃないから、ちゃんと名前で呼んで」
けれど返事はなく、退屈そうな視線が寄越されただけだった。
「今日出掛けるって約束はどうする?
カラ松くん準備してないみたいだし、取り止めに──」
「行く」
あ、行くんだ。
「今から用意する」
そう言いつつも、煙草を口の端に咥えたままぼけっとくゆらせている。大儀そうにソファに座り、足を組んだ。広くはない部屋の中に灰色の煙が舞って、次第に消えていく。紙が焦げたような独特の匂いが私の鼻をツンと突いた。
「この煙草が終わったら出るか」
捨て始めて間もない長さなので、長くても五分くらいだろうか。
「じゃあ待っとくよ」
下手に抗うよりは、現状把握に努めた方が良さそうだ。そう判断し、私は見ようによっては従順な態度で頷き、彼の隣に座った。

灰皿に細かな灰が落ちていく様を何気なく見つめた後に顔を上げると、カラ松くんと目が合う。否、正確を期すなら、彼の視線は微妙にズレていて、私の全体を俯瞰して見ているようだった。
「…スカート、か」
私の出で立ちは、胸元にロゴがプリントされた白シャツとミモレ丈のプリーツスカートに、アンクル丈の靴下だ。特段オシャレでもないが、かといって野暮ったくもないと自負しているから、品定めするような視線には困惑を隠せない。
「変かな?」
「いや…」
私の首にぶら下がるペンダントを人差し指ですくい上げ、視線を落とす。伏せ気味の瞼にかかる睫毛に、意外と長めなんだなと、逸れた思考が脳裏を巡る。

「ギリギリ及第点だな。オレの魅力には劣る」

触れるものみな傷つけるガラスの二十代、爆誕。
不敵な笑みを浮かべて、羞恥心なく戯言をぬかしおる。推しじゃなかったら腹部に拳を埋め込んでいるところだ。けれど少し面白いと感じてしまうのは、やはり相手がカラ松くん故なのだろう。
「ありがと。考えて選んできた甲斐があるよ」
「どこに行くかは決まってなかったんだよな」
「そ。だから一応歩きやすい格好で来たの。でもスカートだから運動系はナシね」
「それはオレが決めることだ」
カラ松くんはにべもない。主導権握りたいタイプの次男か。ユーリと一緒なら何でもいいぞと相好を崩して言われるのがデフォだったから、違和感を感じつつも、何だか新鮮だ。




灰皿に短くなった煙草が押し付けられる頃、私はカラ松くんによって二階から追い出されてしまう。着替えるから出ていけと、有無を言わさぬ命令でもって。
一階の居間を覗くと一松くんがいて、一連の顛末を知っているらしく、ユーリちゃんも大変だよねと出会い頭に同情された。
「こういうイレギュラーにちょっとずつ慣れてきてる自分が怖いよ」
「もう元には戻れないね」
「うん、逆に何にもないと退屈ってなりそう。おかしいよね、平穏な日常って幸せなはずなのに」
へへ、と一松くんは笑う。
「こちら側へようこそ」
「止めてってば」
苦笑しながら一松くんの背中を叩く。それから顔を見合わせて、お互いの苦労を労る意味合いの笑いを溢していたら、不意に横から腕を引っ張られた。
「……あ」
眉根を寄せた不機嫌な眼差しが、一松くんを睨む。四男は慣れた様子でひょいっと肩を竦めて、居間へと戻っていく。去り際に彼が私にくれた一瞥は、私の境遇を憐れむかのようで、言葉を失う。
そしてそんな私にとどめを刺したのは、カラ松くんの一言だった。

「オレを待つ間、他の男にヘラヘラするのはどういう了見だ?」

全面的にお前に非があるだろうが。
待ち合わせの時間になっても準備一つもせず、煙草終わったら出るとか言いながらいざ終わったら着替えるとか言い出し、振り回される身にもなれこの野郎。
「了見も何も、文句一つ言わず待ってた私と、そんな私に付き合ってくれた一松くんに対して何なのその態度。デレのあるツンは可愛いけど、ツン十割から愛嬌を見出して愛でるのは至難の業なんだからね!」
先程まで従順そのものだった私が眉を吊り上げて反論するのは想定外だったのか、カラ松くんは僅かだが目を瞠った。チッと忌々しげに舌打ちされる。

「…悪かった」
小さく呟かれた気がしたのは、空耳だったのだろうか。
私を廊下に残してカラ松くんは玄関へと歩を進めるので、私は慌てて彼を追う。


カラ松くんは白シャツにスキニーデニムというラフな格好だった。ビンテージ調のレザーブレスレットが、手首でいいアクセントになっている。
「似合うね、すごく似合う。普通の格好なのにエロスを感じて止まないこの世の不思議
推しに関する褒め言葉は、無意識に口から溢れるから困る。カラ松くんは理解できないものを見るかのように顔をしかめた。
「似合うのは当然だ。どうだ、ユーリの隣にはもったいないくらいのいい男だとは思わないか?」
己の魅力に揺るぎない自信を持っている。確かに、ピンと伸ばした背筋と程よく整った体格と血色のいい肌は、昼夜逆転しているニートとは思えない。
「オレとデートできるユーリはラッキーだぞ」
「私は別にパーカーのままでも良かったのに」
ラフな格好なら大して変わらないではないか。そう思っての発言だったが、カラ松くんは嘲笑気味にハッと笑った。
「デートにあのパーカーはないだろ。オレだってオンオフの区別はつける」
今のカラ松くんは、デートいう言葉を平気で口にする。好意を秘めた親密な二人が、意図的に逢瀬を重ねることを意味した単語。普段の彼なら、冗談めかして、もしくはその場が特別なものを意味する時にしか口にしなかった。照れ隠しに濁していた表現を、率直に紡ぐ。

「…ユーリに合わせたんだ」

頭を撫でられて、小さく囁かれたその声は、今度はしっかり私の耳に届いた。太陽の光を受けて、眩しいくらいに光る、白。

「足、痛くなったら言えよ」
「え?」
「そのスニーカー、まだ新しいだろ。靴ずれになりそうだったらすぐ言え。分かったな」
気遣い通り越してもはや命令だったが、そういう私の変化に気付くのは、やはりカラ松くんだ。表面はひどく横柄でも、カラ松くんはカラ松くんなのだなと、私は内心で笑った。




話題のハードボイルド映画が観たいとカラ松くんが言うので、映画館にやって来た。
米国秘密情報部のエージェントを主人公にしたスパイアクション映画だ。スタンドマンを使わない過激なアクションと、緻密に練られた物語により、公開前から話題を呼んでいた。
「オレと来てカップルシート以外に座るのはあり得ん」
カラ松くんに至っては、チケット購入にあたって、不遜な振る舞いで私の苛立ちを誘った。
カップルシートは別にいい、数百円程度上乗せくらいは許容しよう。値段についてはどうでもいいが、サディストなのか俺様なのか、はたまた性根が腐っているだけなのか、キャラが掴めない。予測できない挙動ばかりされると、こちらもいい加減疲弊する。
「ユーリ、何だその顔は。…ああ、なるほど、オレとのデートで緊張してるのか。可愛い奴だな」
この辺は通常運行に近い。私が溜息を溢したのを、ポジティブに捉えるところはさすがだ。
それに、ポップコーンとドリンクが入ったトレイは、私が頼まずとも運んでくれる。

カップルシートは、シアタールームの最後部に設置されている。二人がけのソファだ。ソファの手前に直径三十センチほどの専用テーブルがあり、そこにトレイを置く。
「楽しみだね」
開始五分前ともなると、半数以上の席が埋まった。
「カップルシートいいな。映画館は全席ソファにするべきなんじゃないか?」
背もたれにゆったりと腰掛け、優雅に足を組む仕草は様になっている。
「でも映画に見入ってたら、きっとあっという間だよ」
腕を上げてポップコーンを掴めば、肩が触れ合う。手を伸ばすたびに接触するのも悪いので間隔を空けようとすると、無言で睨めつけられた。何なんだ。

しかし、それにつけても映画館のポップコーンは魅惑の食べ物だ。食べだしたら止まらない。
シアター内の電気が消え、巨大スクリーンに今後放映予定の映画のCMが流れ出す。
「ユーリ」
不意に名を呼ばれて、私は横を向く。
「どうしたの?」
言うや否や、暗がりからカラ松くんの右手が伸びてきて、私の唇の端に触れた。

「星屑がついてるぜ」

ポップコーンのカスだ。カラ松くんは指先で拭ったそれを──自分の口に放り込んだ。呆然とする私に、ニヤリと笑う。
漫画やドラマの胸キュンイベントとしてたびたび描写される出来事が己の身に起き、私は──咄嗟に星屑とか上品な表現できる語彙力すげぇな、と感心しきりだった。


幕が下り、私たちは席を立ってシアターを出る。
その時私の目は間違いなくキラキラと輝いていたし、頬は紅潮し、何なら両手も忙しなく動かしていた。それほど興奮していた。

「まさか最後にペンギンが来るなんて…っ!」

「ペンギン」
虚空を見つめ、カラ松くんが表情のない顔で呟く。
「途中の水族館での襲撃は伏線だったんだよ、絶対!もう一回観たら、主人公を救ったペンギンが画面のどこかに映ってるんだと思う!」
「いや…というか、なぜペンギン
もっとこう、あっただろ。いがみ合ったライバルとか、主人公を尊敬してる後輩とか、伏線になるべき要素は他にもあったじゃないか。なのに、終盤の絶体絶命のピンチから救ったのが、よりよってペンギン…」
「フラグと見せかけた印象操作だね、実によくできてる。ぬいぐるみに擬態したペンギンが飛び出してきたあの瞬間、鳥肌立ったよ。もう一回大画面で観たいね」
鼻息荒く早口で捲し立てる私に、カラ松くんがふっと微笑んだ。
「面白い推察だ。
いいだろう、来週もう一度観るか。ペンギンの伏線があったかどうか、だな」

そう、微笑んだのだ。
今日初めて、ようやく愛嬌の感じられる顔で、笑った。

でもまだ心から破顔する姿ではない。私が好きな彼の笑顔とは程遠い。頑なに弱さを露呈させまいとする彼の意思が、それを阻む。
「絶対あると思うよ。賭ける?」
気軽な誘いのつもりだった。ジュースとかランチとか、どちらが負けても遺恨が残らない程度の軽いゲームの感覚。
カラ松くんは、片側の口角を上げた。
「オレに賭けを挑むとはいい度胸だ。当然勝算があってのことだろうな?
命は安々と投げ出すものじゃないぞ、ハニー」
命懸けのギャンブルにランクアップさせた覚えはない。
「えっ、大袈裟すぎない!?」
「賭けの提示は喧嘩を売ったも同然だ。ならオレは全力で応じる。例え相手がユーリであってもな───さぁ、どうする?」
悪魔の手が恭しく差し伸べられる。フェアな取引と見せかけた、どう転んでも一方にだけ都合のいい契約書を、さあどうぞご署名をと急き立てられるような。
私の胸中に、不安がどっと押し寄せる。彼がここまで自信ありげに言うからには、伏線などなかったことを既に知っているのかもしれない。
いやしかし、現状の彼の性格から考えると、ブラフの可能性も高い。それこそ顔色一つ変えずにホラを吹きそうな人格である。私が近距離でじっと凝視しても、眉さえ動かさない。顔を真っ赤にして動揺して、慌てふためく姿など、微塵もない。
「…か、賭ける!」
直後、カラ松くんはニヤリとほくそ笑んだ。

「オーケー、ハニー」

あれ、もしかして負け確定?




そもそも賭け自体を撤廃すれば済んだ話なのではと、冷静になった頃に気付いたが、今となっては後の祭りだ。挑発に乗って挑戦に応じた報いは、素直に受けよう。自分の責任は自分でとる、ユーリってば偉いゾ☆

そんなこんなで、映画で資金を使い果たした──主にカラ松くんが──私たちは、夕方の公園へと足を伸ばした。遊具で遊ぶ子どもたちの声をBGM代わりに、古びた木製ベンチが私たちの語り場になる。
カラ松くんは相変わらず気怠げで、唯我独尊を地で行く俺様に磨きがかかる。
けれど付き合ううちに気付いたことがあって、態度こそ不遜ではあるものの、話の腰は決して折らないし、時折問いかけを挟みつつ私の話に興味を持って聞いてくれる。

そして彼は一度だって言わなかった、『つまらない』『退屈』といった私を傷つける危険性を伴う言葉を。

結局のところは、根底はやはり推しなのだ。可愛い可愛い私の推しは、今日も限りなくシコい存在であった

「あ、もう六時半」
何気なくスマホを開いたら、そんな時間だった。すっかり話し込んでしまった。
「そんな時間か。今日のオレを独占できたことを誇りに思っていいぜ」
前髪を片手で掻き上げ、悩ましげに息を吐くカラ松くん。
「あはは、言うねぇ。なら光栄ついでに、ご自宅まで送らせていただこうかな」
スマホを鞄に放り込み、私はベンチから立ち上がろうとした。

その手首を、カラ松くんが掴む。

反射的に振り返ると、縋るような双眸の彼と視線が交わる。心細さに似た不安を、顔に滲ませて。
「…カラ松くん?」
「あ…その……何だ、もう少し、時間はあるか?」
「時間?」
「ユーリがいいなら、もう少しだけこのまま…」
途切れ途切れに紡がれる言の葉に呆然としていたら、カラ松くんがハッとして目を逸らした。

「…い、一緒に過ごしてやっても構わないぞ!」

デレきたー!
これが噂のツンデレってヤツか。なるほど、今までの憎らしいほどの俺様は、好感度上げの序盤でよくあるツン期だったのだな。九割のツンを一割のデレが無効化する、ツンデレとは何と恐ろしい属性だろう。ツンデレは魔性。

私を憎からず思っている感情も、維持されているらしい。根本は変わらない、松野カラ松のまま。

「うん、じゃあもう少し喋ろっか」
笑顔で応じて、私は再びカラ松くんの隣に座る。
「…言っておくが、ユーリがオレとまだ過ごしたいという名残惜しそうな顔をするから、善意で誘ってやっただけだ。
オレとデートしたいというカラ松ガールズは、両手で抱えきれない花束の数ほどいるんだからな」
勘違いしないでよねパターン発動。
頬を赤らめながら言う台詞じゃないぞ、とツッコミを入れて差し上げたい。
「でも、私が夜ももう少し一緒にいたいって言ったら、そうしてくれるんだ?」
デートの単語を躊躇なく言える彼なら、私への好意をどう言葉で示すのか興味があった。ちょっとした悪戯心だが、趣味が良くないことは自覚している。
「ユーリがそれを望むなら、応えてやるのもやぶさかじゃない」
主体はあくまでも私である姿勢は崩したくないらしい。
「その代わり──」
語気が強まった。

「今みたいな健全なデートで済むと思うなよ」

片手で私の腰を引き寄せて、もう片手で手首を掴んでくる。吐息が皮膚にかかるほど近い距離感で、彼は言った。

「次は、そうだな…ユーリ、お前を帰──」




元に戻ったなと私が感じたのは、彼を包む空気が一変したからだ。
我に返った、そう表現するのが正しいだろう。腰に回した手の力は依然強いまま、私を睨みつけていた目は大きく瞠られた。瞳に映るのは、驚愕。
「……ユーリ?」
「うん」
「え…」
腰を抱き、手首を握り、胸が触れ合うほどの至近距離。

「今日のことは忘れてください!」

カラ松くんが土下座をしたのは、それから一秒後のことである。


「すまんっ、本心じゃないんだ!自分でもよく分からないが、態度悪くて本当すまなかった!ごめんなさい!」
地面に頭を擦りつけて大声を出すから、私は慌てた。幸いにも周囲に人気はなくなっていたが、私が謝罪させてるみたいじゃないか。
「カラ松くんっ、大丈夫だから!私全然気にしてないし、謝ることないよ」
地面に膝をつき、彼の頭を上げさせる。目尻に浮かんだ涙と砂でぐしゃぐしゃになったその顔を、ハンドタオルで拭った。
性格が変わっていた間の記憶はあるらしい。薬の影響という事実は、まだ隠しておいた方が良さそうだ。
「…本当か?」
「本当も本当。今日だっていつもと同じくらい楽しかったんだから」
ここは本音で話をしておくべきだろう。
そう思って自身の感想を告げると、カラ松くんはようやく安堵したようだった。両手も地面に置いたものだから、彼の手も砂まみれだ。
「しかし…ひどいことをたくさん言った。準備もせずハニーを待たせたし、態度も偉そうで…」
「大丈夫だから」
グーパンは何度か構えたし、殴ったろかなという思考も掠めなかったわけではないが──私を大切に思ってくれるのは、性格が変わっても伝わってきた。
「カラ松くんの言いたいことは伝わってたよ」
「オレの…?」
「私と一緒にいて楽しいってこと。あんな態度だったのに、つまらないとか帰りたいとか、一度も言わなかったから」
カラ松くんはきょとんとする。しかし直後、キッと眉を吊り上げた。

「当たり前だ。ユーリを傷つけるような嘘は言わない」

私の両手は彼の頬に添えたまま。
「例え他のことは盛ったとしても、だ。どんなことがあってもそれだけは絶対に変わらない」

私はうっかり笑い出してしまった。
見ようによっては跪いたような格好も相まって、まるでプロポーズみたいだと思ってしまった。なのに二人とも砂まみれで、カラ松くんに至っては顔の砂さえまだ落ちきっていないその滑稽さが、私たちらしい気もして。
「し、真剣に言ってるんだぞ!」
「うん、分かってる。茶化したいんじゃないの、ごめんね。カラ松くんが元に戻って良かったなって思って」
一度立ち上がり、水道の水でタオルを濡らす。水気を絞ったそのタオルでもう一度顔の汚れを拭いたら、ようやく綺麗になった。

「やっぱり、いつものカラ松くんが一番かな」

ナルシストで気障ったらしく、でも二枚目を演じきれない優しい道化。気を抜いた時に浮かべる子どもみたいに純真な笑顔も、私には隠そうとするくせにダダ漏れているクズな二面性も、横文字を織り交ぜた意味不明な力説も、カラ松くんを構成する要素だから。全部引っくるめて、私は受け止める。けれどどうしても好みというものは出てくるから、それについては勘弁してもらいたい。
「すまない…服が汚れてしまったな」
言われてようやく、自分のスカートが砂土でとんでもないことになっているのに気が付いた。
「あー、本当だ。仕方ないね。これくらいなら、帰って洗ったら落ちるよ」
「落ちなかったら弁償する。その時は必ず言ってくれ」
「いいよいいよ、どうせ安物だし」
「ハニー」
私の言葉は、呼び声に遮られる。
「駄目だ。絶対に言うんだ、いいな?」
強引な物言いは、今日の俺様なカラ松くんを彷彿とさせた。譲れないことに関しては結構頑固だったっけ、なんてことを思う。
「…本当に落ちなかった時だけね」
「ああ」




いい年した大人二人がデニムとスカートを砂まみれにした姿のまま、公園を後にする。だいぶ払い落としはしたが、所々に茶色の染みができあがっていた。
「さっき、カラ松くんは何を言おうとしてたの?」
この際だから聞いておこうと、私は尋ねる。
「さっき?」
「ほら、健全なデートで済むと思うなって言った後、私の手を取って──」
「ッ!?な、なななななな何だろうな、それ!オレはそんなこと言った覚えはないぞ、ハニー!気のせいじゃないのかっ!?」
挙動不審全開で否定されても説得力に欠ける上、そっぽを向いた耳が赤い。元演劇部の演技力をここで発揮しなくてどうする。もうちょい頑張れ。
しかし本人が口を割らないのであれば、それ以上追求しても無駄だろう。
「そう?返事しなくていい話だったのかな?」
「返事って…」
腕を下ろした拍子に手の甲同士がぶつかる。ごめんと私が謝罪しようとするより先に、カラ松くんの人差し指が私の指先に軽く触れた。
「ユーリは…その、どういう返事をしようと思ってたんだ?
あっ、べ、別に覚えてるわけじゃなくて、何となく!何となく気になっただけだから!」
私はちらりと横目でカラ松くんを見やる。指先はまだ触れ合ったままで、けれど互いに言及はせず。蝋燭の火が灯るような小さな温もりが、重なった皮膚から伝わってくるようだった。

「───内緒」

あなたが言わないなら、私も言わない。
フェアな関係を望むなら、等価交換が必要だ。ズルをして一人だけ甘い汁を啜ろうだなんて、虫のいい話。

私が体ごと振り返ると、汚れたプリーツスカートがひらりと舞う。
王子を待つ純真な夢見る乙女は、ここにはいない。地に足を着けて、自分自身が汚れることも厭わずに今を邁進する女がいるだけだ。

だから私はこういう時、ただ艶然と笑う。

7人の運び屋(後)

ハタ坊に指定された時間は、午後八時。それまでは箱を持ってひたすら逃げ回るのが私たちの使命だ。
日も暮れた六時頃、私はショッピングモールの一階の専門店街を一人で闊歩していた。夕飯の買い出しを頼まれたのだ。他人を巻き込まないよう、車内で軽く済ませようという話になった。
ショッピングモールの一階は、専門店街と食品街に分かれている。車を停めた駐車場が運悪く専門店側だったため、反対側の食品街までは長距離を歩かなければならなかった。

絶え間なく人が行き交うモール内。多くは他人に目もくれないはずなのに、誰かに追われているような感覚が拭えない。足早に進み、途中のアパレルショップの姿見で髪を整えるフリをして背後を窺うが、追跡者の特定には至らない。
そもそも私自身、追跡や尾行にまるで縁のない一般人なのだ。特定して対処せよという方が無謀ではある。
「…気のせい、かな?」
立ち止まって首を傾げた次の瞬間──背中に誰かがぶつかった。
「あ、すみませ──」
「動くな」
振り返ろうとした私に、低音が囁く。腰に、まるで指先で突かれたような切っ先の鋭い何かが触れる感覚もする。
「…何か用ですか?」
努めて冷静に言えば、彼は私の腕を掴んで左を向かせる。その先にあるのは、従業員用のバックヤードに続くスイングドアだった。
「黙って行け」

観音開きのドアの奥は、ダンボール箱や資材が乱雑に置かれており、通路スペースは一定確保されているものの、自然と視界は狭くなる。従業員の姿は少なく、すれ違ったとしても私たちの横を会釈して素通りしていく。日雇いのバイトとでも思われているのかもしれない。
「宝石はどこだ?」
人気のない搬入口まで連行されたところで、私と男は対峙する形になり、男はようやく口をきいた。その手に握られているのは、やはりナイフだった。首からは社員証──おそらく偽造したもの──を下げていて、用意周到だ。バックヤードで怪しまれなかったのも合点がいく。
「宝石?何のことです?」
「とぼけるな。お前だって命は惜しいだろ」
「そりゃ命は惜しいけど、意味分からないこと言われたら、何て答えればいいか分からないですよ」
「そうか…なら仲間の所まで連れて行ってもらおうか?」
私がモールに入る前から追ってきていたのか。そんなことは些末な疑問ではあるけれど。

「仲間なら、ここにいるさ」

突然響き渡る静かな声の直後に、どさりと重量のある物が地面に落ちる音。
「ハニーを脅した威勢の割にこの程度か」
忌々しげに吐き捨てるのは、カラ松くんだ。
音もなく男の背後に回った彼は、呼応すると同時に片腕を首に回し、もう一方の腕で一気に締め上げたのだ。
「カラ松くん」
「ユーリにナイフ突きつけてタダで済むと思うなよ」
眉間に深い皺を刻み、気を失った男の頭をスニーカーで踏みつける。ドSの所業。
「ユーリもユーリだ。無茶はさせないと言ったオレが馬鹿みたいじゃないか。
ユーリが囮になるのはこれっきりだからな。二度と志願もするな、心臓がいくつあっても足りん」
ナイフを向けられていた腰に、カラ松くんの手が回る。
「もうしないよ」
「生きた心地がしない。ユーリを守ると約束したが、当のプリンセスがこうもじゃじゃ馬ではな」
「ごめんごめん」
雄みの強い推しも素晴らしい。排他松を彷彿とさせる塩対応に、顔面の筋肉が緩みそうになるのを必死で耐える。運び屋とか報酬とか、私にはどうでもいいのだ。推しの貴重な新規絵さえ拝めれば、それでいい。

事の発端は、運転中に追跡車に気付いたチョロ松くんの一声だった。
「やる?」
「やる」
即答するカラ松くん。
「どこがいい?」
「せっかくゴールに近づいているんだし、目立つ行動はすんなよ」
一松くんの忠告を受け、チョロ松くんはふむと片手を顎に当てた。それから瞠られた双眸は、キラキラと輝いていた。
「じゃあ、時間潰しと晩御飯買い出しついでに、確実な方法があるんだけど」
そうして、私が囮となって人気のない場所に誘導する作戦が決行されたのである。
彼らの名誉のために言っておくが、私が囮になるのは全員が反対した。けれど餌になるなら、見るからに弱い一般人の私が最も適役であることは明確だったのだ。




時刻は午後八時五分前。無事に目的地の解体工事中のショッピングモールに到着する。
宝石の受け渡しはカラ松くんと私で行うことになった。チョロ松くんと一松くんは車内に待機。というのも、何気なくつけていたカーテレビで、美少女と猫が主役のハートフルアニメが始まったため、二人が釘付けになってしまったのだ。仕事よりアニメを取るあたり、ニートの名に恥じない態度である。
とは言っても、宝石を渡すだけだ。すぐに終わる──そのはずだった。

「お疲れ様だじょ」
解体工事が始まって日が経っていないためか、電気が通っていないこと以外の建物の損傷は、さほど見受けられなかった。
懐中電灯を片手に指定された階に到着すると、ハタ坊とその秘書が私たちを出迎えた。
「ハタ坊…っ」
「みんななら来てくれると思ってたじょー」
両手を上げて歓迎してくるハタ坊だが、相変わらず感情の読めない顔である。
「例のブツを渡してほしいんだじょ」
例のブツとか言うし。
「あ、ああ…これだな」
「違うじょ」
「え?」
カラ松くんが差し出そうとした小箱に対し、ハタ坊は首を振って拒否の姿勢。
「ユーリちゃん」
突然名を呼ばれて、私はハタ坊を見る。

「ユーリちゃんがつけてる通信機に、宝石が隠されてるんだじょ」

「は!?」
「えっ…」
私とカラ松くんの口からは引っくり返ったような声が漏れた。そりゃそうだ、宝石は小箱の中に保管されていると聞いていたし、そもそもニートの六つ子に本物を託すとか頭おかしい。
「敵を欺くにはまずは味方から作戦でございます」
秘書が顔色一つ変えず、涼しい声で言った。
あらやださすがハタ坊、我々素人には理解し得ない高等戦術を用いるなんて素晴らしい慧眼──って、やかましいわ
世界を震撼させる曰く付きの宝石をブラブラさせていた事実に驚きを禁じ得ず、通信機を外す手が震えてしまった。
「元々は王冠と一対だったんだじょ」
ハタ坊はボストンバッグの中から、古めかしい貴金属製の王冠を取り出した。トップの台座部分には、ポッカリと穴が空いている。
「人格者として名高い王と常に共にあったものが、革命で暗殺された際に、宝石だけが奪われたのです。呪いの伝承はそこから始まりました。
今一度王冠に戻せば、呪いは消滅すると語り継がれてきました」
「はぁ…」
壮大な物語すぎて、いまいち実感が湧かない。長い夢を見ているようだ。

ハタ坊が通信機から取り出した宝石を、ピンセットで摘み上げる。黒い石だった。王冠の台座にピッタリと収まる。
「これでいいじょ。また儲かるじょー」
「何だか眉唾だな。曰く付きのジュエリーにしろ、呪いの伝承にしろ」
カラ松くんが眉根を寄せて揶揄する。仕事を終えた安堵感が彼に軽口を叩かせたのかもしれないが、呪いの実態を誰も見ていないのだから、致し方ないとも言える。
「確認すればいいじょ」
ハタ坊が何か言い出した。
彼はピンセットで台座から石を外すと、私に投げて寄越した。咄嗟に両手で受け取る。
「あ」
そして何を思ったか、私は救いを求めてカラ松くん視線を向けてしまう。
「え、えっ…ちょ…っ!」
「ハニー…ッ!?」

『宝石に触れながら最初に見た相手に、未来永劫囚われる』

数時間前に聞いた呪いが、脳裏に蘇る。
手元には、黒曜石のような漆黒。差し込む光の屈折で多様な輝きを放つ宝石とは違う、どこまでも深い黒。外周に平行な面が階段状につけられた長方形型の美しさに加え、じっと見つめていたら意識ごと吸い込まれそうなほど、黒く、暗澹と───

「ユーリ!」

両肩を掴まれて、私はハッとする。
「あ…ごめん、曰く付きっていうから、つい見入っちゃって」
「平気か?」
「え?…ああ、私のこと?うん、大丈夫みたい」
意識的に周りを見渡すが、普段通りだ。カラ松くんに対しての感情も、平時と何ら変化はない。
カラ松くんは腕の力を抜き、安堵の息を吐いた。
「ハタ坊、笑えないジョークだぞ。ユーリに何かあったら、どう責任取るつもりだったんだ。というか、何も起こらなかったじゃないか。こうなると、呪いというのも怪しいな」
「一度王冠に戻したことで効果がなくなったのかじょ?不思議だじょ」
「何でもいいけど、これはどうするの?どっかの国で保管でもするの?」
私はハタ坊からピンセットを奪うようにして、宝石を台座に戻す。掌紋や皮脂がついてしまっただろうが、知ったことではない。
「処分するんだじょ」
「処分?」
「原型をなくすほど粉々にして、二度と悪用されないようにするんだじょ」
「…そっか」


王冠ごと宝石を粉砕し、粉々になった砂粒をハタ坊が窓から撒いた。月夜の明かりに照らされたそれは、きらきらと眩い輝きを放ちながら空を舞った。
報酬は後日手渡しになることを三男と四男に伝えるため、ユーリは先に車に戻ると言う。彼女の後を追うためにカラ松も踵を返した、その時。
「やっぱりおかしいじょ」
ハタ坊の声に振り返る。
「どうした?」
「宝石をはめた王冠はレプリカの方だったんだじょ」
だから何だ、と言い返そうとして、ハタ坊の言葉が意味する本質をようやく理解する。
「万一のために精巧なレプリカを用意してたんだじょ」
「じゃあ…ユーリは、どうして…」
彼女が宝石を手にした時、間違いなく最初に自分と目が合った。カラ松は失笑する。
「なるほど、オーケーオーケー、アンダスタン。やはり最初から呪いなんてなかったわけか。さながらオレたちは、噂に踊らされた哀れなピエロというところだな」
いずれにせよ、報酬さえ手に入れば事実がどうであれ関係ない。仕事に見合った金額の支払いは約束されている。他愛ないことと笑い捨てようとしたカラ松に、ハタ坊が続けた。

「別の噂もあったんだじょ」
「別の噂…?」
「えーと、んーと…何だったか忘れたじょ」

「心を寄せ合う者同士には効果がない」

頭に日の丸の旗を挿し、高そうなスーツに身を包んだ男が静かに告げた。カラ松は驚愕を顔に貼り付ける。
「それは、どういう…」
「言葉の通りでございます」
ハタ坊はしばらく不思議そうにカラ松を見ていたが、やがて別の方角へ顔を向けた。

「つまらない噂だじょ。それに、確認する方法は──もうないんだじょ」




「ユーリ!」
廃墟と化したモール内に、ユーリの懐中電灯を見つけて声をかける。その声は自分でも、ひどく焦っているように聞こえた。
「カラ松くん」
「一人では危険だ、一緒に戻ろう」
「もう仕事は終わってるし、ここも基本は立ち入りできないようになってるから平気だよ」
カラ松を安心させるためなのだろう、彼女が語るのは事実であり正論だ。いっそ耳障りなくらいに。
「──オレが心配なんだ」
けれど、カラ松の意思をいつだって尊重してくれる。
「ありがと」
ユーリは優しい笑みを浮かべ、カラ松が傍らに並ぶのを待った。

「カラ松くんは、どうして今回の仕事を受けようと思ったの?」
カジノの時はアルコールで正常な思考がままならなかった上に、友の窮地を救う万能感にも酔っていた。退屈な日常からの脱却に目が眩み、報酬は二の次だった。
今回は──
「遊ぶ金欲しさに」
自分で言っておいて、まるで強盗の犯行動機じゃないかと我に返る。
「いやっ、ええと…っ、遊ぶための金が必要…って、危ない意味じゃなくてだな、あのっ」
「あはは。分かるよ、そのまんまだよね」
「金があれば、ユーリの望む場所に行けて、ユーリの望むことができるだろ」
「私の…」
ユーリは呆気に取られたようだった。
「オレが年中金欠で、金が入ってもパチンコや競馬にも使って、ユーリには我慢ばかりさせて、だから…」
「ううん」
ユーリはかぶりを振った。
「危険なことして得たお金で豪遊するくらいなら、金欠の方がずっといい」
「なぜだ?金がないから二人で会うのはうちかハニーの家ばかりで──」

「お金なんかなくても、カラ松くんといられれば私はそれでいいんだよ」

困ったような微笑が印象的だった。
愛想でも偽りでもない、カラ松の言葉に喜びを感じつつも、本心を知ってなお現状維持を望む、そんな顔。
「でも、旅行雑誌見ては溜息ついたりしてるじゃないか」
「それはまぁ、そうだけど…」
ユーリは唇を尖らせて指先で頬を掻く。
「ないものねだりだよ。カラ松くんの身の安全とお金なら──カラ松くんの方が大事」
「ユーリ…」
恥も外聞もなく、華奢な体を衝動のまま掻き抱けたら、どれほど幸せだろう。柔らかな肌と心地良い温もりごと、自分だけのものにできたら。ユーリはいつだって、無意識にカラ松の劣情を掻き立ててくる。
けれどユーリのこの甘い言葉は、友人という関係性故であることも、カラ松は理解している。この先の未来も共にあろうとするなら、経済的負担を親に背負わせる立場からの脱却は不可避なのだ。

実は、とカラ松は切り出した。
「ホワイトデーのお返しも、と思ったんだ」
「…あ」
失念していたとばかりに、ユーリは開いた口に片手を当てる。次の土曜日が、その日なのだ。今の財布事情では、バレンタインの礼に相応しい物が何一つ買えないから、ハタ坊の依頼は渡りに船だった。
しかし当のユーリは、腰に手を当てて嘆かわしげに長い息を吐き出した。
「え…えっ?」
「これだけ私と長くいて、まだ私の欲しい物が分からないとみえる」
報酬目当てにハタ坊の依頼を受けたカラ松を叱責するみたいな言い草。カラ松は予想外の態度に唖然としながらも、必死に思考を巡らせる。態度と台詞から導き出されるユーリの欲しい物、それは──
「…本気か?」
冗談に違いないと守りに入る反面、どうか真実であってほしいと希う。相反する願望が混ざり合って、混乱する。
「本気も本気」
「オレの自惚れじゃないのか?なぁ、ユーリ、本当に…」
カラ松が最後まで紡ぐより先に、ユーリがにこりと目を細める。表情は時に、言葉よりも雄弁に感情を語る。
瞳に水の膜が張って、不意にカラ松の視界が歪む。必死に堪えて、笑みを返した。右手を胸に当てる。

「フッ…ならば、十四日が始まった瞬間から日付が変わるまでの二十四時間、この身はユーリと共にあろう。それをホワイトデーのお返しとして、受け取ってくれ」

ユーリは途端に双眸を輝かせ、胸元で手を組んだ。
「やった、そうこなくっちゃ!どうしよっかなぁ、金曜の夜から飲む?それともオールがいいかな?
せっかくだから日付変わった瞬間から楽しみたいよね。あー、悩むなぁ」
ついでに抱きたいなぁなどという不穏な発言もカラ松の耳に届いたが、この辺は聞こえなかったことにした
心の底から歓喜するみたいな軽やかな声。仮にそれが演技だとしても、自分はきっと喜んで騙されるだろう。ユーリを得られる代償に、他の何もかもを失ったとしても。
「バレンタインにオレが貰った感動には遠く及ばないぞ」
思い返すだけで顔の筋肉が弛緩してしまうくらいの幸福が降り注いだ、あの日。夢なら覚めるなと願った。
「そんなことない」
ユーリは毅然とかぶりを振る。紅潮した頬から漂う色香が、カラ松を惑わす。

「そんなことないよ」




あ、と何かを思い出したようにユーリが言う。
「お返しついでに、お願いもきいてくれるかな?」
「可愛いことを言うじゃないか、ハニー。いいだろう、キュートなハニーの依頼ごとならアフターフォローまでバッチリだぜ」
大袈裟に抑揚をつけて言い放ち、腕を組む。
しかしユーリはカラ松の気取った態度に一切の反応を返さず、いつになく真剣な眼差しでもってカラ松を見つめた。
カラ松とユーリが持つ懐中電灯は地面に向けられる格好になったが、夜目がきいて彼女の表情がかろうじて窺える。

「祝杯はあげなくていいから、約束して。
勝手に危険なことに首突っ込まない…危険なことをして、私を悲しませないって」

言葉を失った。今この瞬間まで当たり前にできていた呼吸の仕方さえ、分からなくなる。
「…分かった、約束する」
どうにか絞り出した声は、掠れてはいなかっただろうか。ユーリは満足げに微笑むから、聞こえてはいたらしい。
「よろしい」
「ユーリ…」
「まぁ、六つ子である限り無茶なことはするんだろうけど、せめて私には分からないようにね。今回はお互いに運が悪かった」
「確かにな。まさかあんな場所でハニーに会うとは夢にも思わなかったぜ」
けれど、笑顔のユーリに声をかけられて不覚にも胸が踊ってしまった自分は、まだまだ脇が甘いと痛感させられた。ほんの数秒、仕事のことを完全に失念したのだ。一瞬の判断ミスが命取りになると頭では理解していながら、偶然の出会いに心を持っていかれた。

「そろそろ戻ろっか。チョロ松くんたち待ってるよ」
ユーリが砂利を踏む音が、廃墟内に反響する。
「ハニー」
「何?」
「手…繋いでいいか?」
カラ松は右手に懐中電灯を持ち、空いている左手を差し向ける。
「何だ、その…瓦礫が多くて危ないだろ。最後の最後でハニーに怪我をさせたら、ブラザーたちに叱られる」
ユーリは刹那的にきょとんとしたが、すぐに穏やかな表情でカラ松の手を取った。
「お気遣いありがとう」
「ブラザーたちに見つかる前には離すから」
「私は別に見られてもいいのに」
「オレの命が危ない」
「そうでした」


それからカラ松とユーリは顔を見合わせて、軽やかな笑い声を上げた。夜空を彩る三日月が美しい夜の一幕である。

7人の運び屋(前)

週末、外出日和のよく晴れた日だった。
シャツとデニム、頭にはキャップというボーイッシュな格好でブラブラと外を歩く。一人での気楽な外出だから、機動性にステータスを全振りした。動きやすくて体が軽い。時間はたっぷりあるから、春服でも見に行こうかと心が踊る。

生活圏から少し出た街外れまで足を伸ばし、商店街よろしく立ち並ぶショップを見て回ることにする。
セレクトショップのショーウィンドウ越しに、マネキンが着るワンピースを眺めていた時だった。
「…あれ?」
ガラスに反射した人影に目が留まる。振り返ると、有名コーヒーブランドのロゴが入った蓋付きの紙カップを片手にしたその人が、道路を挟んだ向かい側の歩道を歩いていた。

カラ松くんとチョロ松くん。

六つ子仕様の色分けされたお揃い服ではなく、白シャツにデニム、そして足元はスニーカーという、いつになくラフな出で立ちだった。さらに両者とも、視力が悪くもないのに眼鏡を装着している。まるで変装しているようだと感じたが、まぁそんなことより眼鏡をかけた推しも眼福すぎて眩暈がするレベル。私が眼鏡フェチなら間違いなく卒倒していた。その沼に今まさに片足を突っ込んだところだが。
それにしても、彼らの生活圏からはかなり離れた場所である。二人とも心なしか足早で、キョロキョロと周囲を窺うチョロ松くんの仕草も引っかかった。
声をかけるか逡巡するうちに、私の視線に気付いたのか、横を向いたカラ松くんと目が合った。
「…ユーリ…!?」
驚愕に目が瞠られる。こんな場所で会うとは夢にも思わなかった、そんな顔だ。
「カラ松くん、チョロ松くん」
道路を渡り、彼らに駆け寄る。チョロ松くんも私の姿を認識するな否や、唖然とした。
「えっ、ユーリちゃん…!」
「奇遇だね、こんな所で会うなんて。二人で買い物?」
カラ松くんの言う予定は、兄弟との外出だったのかもしれない。邪魔をする気は毛頭ないので、挨拶だけしてこの場を去ろう──そう思っていた。

「いたぞ、奴らだ!」

しかし突如背後にかかる荒々しい声に会話は中断を余儀なくされ、私たちは一斉に振り返る。
視線の先では、サングラスと帽子で顔を隠した二人組の男が、こちらを指差していた。
こいつら、ついに何かやらかしたのか?
「ちょ…っ、何だその疑いの眼差しは!?オレたちは何もしてないからな!」
「えー…」
猜疑心の固まりのような表情で眉を寄せる私に、カラ松くんが叫ぶ。
「ヤクザの女にでも手出した?」
「オレへの信頼!」

「みんな日常的にギリギリアウトなことしかやってないから、ついに追われる身になったのかな、って」
思っちゃうよね。
しかし悠長にしていたのは私だけだったらしく、カラ松くんに強く腕を掴まれる。
「おい、カラ松!?」
「ハニーを一人にする方が危険だっ!ブラザー、急ぐぞ!」
こちらに駆けてくる男たちから逃げるように手を引かれて、突然のことに理解が追いつかないまま、私たちは走った。途中、チョロ松くんが背後を振り返り、手にしていたカップの蓋を外して、まだ湯気が立ち上るそれを中身ごと彼らに投げつけた。
「うわっ、あっちー!」
顔面にコーヒーを浴びて怯む男たち。
事情はさっぱり分からないが、もしカラ松くんたちに非があって追われていたのなら、今ので傷害罪が追加されたのでは?
ついでに私も共犯者として認識されたのではなかろうか。勘弁してください。

私はただの通行人で彼らとは無関係なのだと、万一追求された時は即効で弁明しようと心に決めた次の瞬間、私のすぐ傍らに一台の白いコンパクトカーが急ブレーキで乗り付ける。
運転席でハンドルを握ってたのは──四男の一松くんだった。もう何が何やら。
「えっ、ユーリちゃん!?何で!?」
それは私が聞きたい。心の底から。
「話は後だ、一松!追っ手を振り切ってから説明する」
「ユーリちゃんも乗って!」
私には選択肢さえ与えられないまま、半ば強制的に後部座席に押し込まれる。カラ松くんが隣に、チョロ松くんは助手席に滑り込んだ。ドアが完全に閉まるより前に、一松くんがアクセルを踏みつける。
「あ、あの…これは一体…っ」
車はあっという間に制限速度を超え、時速は三桁の数字を示す。
「舌噛みたくなかったら、今は黙っておいた方がいいよ」
シートベルトを装着したチョロ松くんが、私の声に重ねて言う。何そのハードボイルドな台詞。
「シートベルトもな、ユーリ」
白昼堂々とスピード違反しておいて、そういうとこだけ法令遵守か。いや単に身の安全確保のためなのだろうが、思考が追いつかなくてツッコみたくもなる。追っ手なんて来るのか何気なくリアガラスを見ると、スピードを上げた黒い車が一台、猪突猛進とばかりに突き進んでくる姿があった。何これ怖い。
「いけるか、一松?」
カラ松くんが腕組みをして悠然と尋ねる。
「いけるだろ、たぶん。何しろこっちは改造車だし」
車検通らない車は乗りたくないんですが。これ警察に捕まったら一発免許取り消しどころか逮捕案件じゃないのか。

私の優雅でのんびりとした休日は、うっかり彼らに声をかけてしまったことで、呆気なく終わりを告げたのである。




しかし悪魔の六つ子は恐ろしいもので、追跡者を巻くのに長い時間はかからなかった。体感は数十分だったが、スマホで時間を確認すると、十分も経っていない。
都が管理する緑地公園の広大な駐車場の片隅に車を停め、カラ松くんから紙カップのコーヒー──さっき彼らが買っていたものだ──を貰い受ける。中身はまだ温かい。

「すまん…ユーリを巻き込みたくはなかったんだが」
説明は、そんな謝罪を皮切りにして始まった。
「こうなった以上はオレが必ず守る。すまないが今日一日オレの側にいてくれ」
真摯な眼差しと台詞はプロポーズさながらだが、状況が状況だけに物々しい。

「ハタ坊から、曰く付きの宝石の運び屋を頼まれたんだよね」

唐突に事案。家に帰りたい願望は初っ端から最高潮に達する。
「えーと…そういうのはプロに頼めというツッコミは、受け付け中?」
肩を落とす私に、チョロ松くんが首を縦に振る。
「うん、ユーリちゃんの気持ちは分かるよ。ハタ坊からの依頼は超絶に突拍子もないし、一般人の僕らには荷が重すぎる案件だ。でも今回はプロも大量に雇われてる」
「プロも大量に…」
意味が分からない。

「宝石に触れながら最初に見た相手に、未来永劫囚われる」

カラ松くんが呪文のような言葉を呟く。
「え」
「そんな曰くのついた魔性のジュエルなんだそうだ」
言いながら手にするのは、手のひらサイズの木製の宝箱。海賊船やゲームでよく見かける蓋の盛り上がったデザインで、頑丈な南京錠付きのレトロ感漂うデザイン。
「古代より語り継がれてきた革命の立役者たちは、このジュエルを使った、または使われたとまでと言われている。使い方次第では国の政権さえ狂わせかねない呪われた石…らしい」
ハタ坊の説明と彼は言うが、どうにも眉唾だ。
「頼まれた仕事だけ言うと、渡されたこの箱を指定された場所に届ける、それだけなんだけどね」
ハンドルに腕と顎を載せて一松くんが言う。
「はぁ…」
「この箱は一見おもちゃっぽいけど、金槌でも傷一つつかないくらい頑丈なんだよ。
しかも多数用意されて、本物の一つ以外は全部ダミー。そしてハタ坊が金にもの言わせて大量に雇った運び屋のうちの二組が、僕たち六つ子ってわけ」
三人しかいないので不思議ではあったが、そういうことか。それぞれがブレーンと参謀、そして前衛を二分割した構成だ。
「まぁ追っ手の多くは、運び屋本業の人たちに集中してるらしいから、僕らは要は数合わせだよ。
報酬はこの箱と交換だから、奪われたらタダ働きなっちゃう。それだけは避けたいから守りに徹してる」
「依頼者がハタ坊とは分からないよう情報操作もされてるんだって。すごくない?」
淡々とチョロ松くんと一松くんが語るが、私は血の気が引く思いだ。
六つ子への依頼はハタ坊から直接だったらしいが、他の運び屋たちには幾重にも仲介を重ね、依頼主は隠されている。今私たちが乗っている改造車も、機動性だけでなく外部から盗聴できないような細工もされているとのこと。

「なぁ、ハニー。ハニーはオレたちが猛スピードでカーチェイスをしていたのにサイレンの一つも鳴らなかったことを、不思議に思わなかったか?」
腕組みをしてカラ松くんが問いかける。私は即座に頷いた。
「あ、そう、それ気になってた!普通ならすぐパトカーが追ってくるよね?」
「ハタ坊の仕事は、このジュエルを始末することだ。どこまで事実かは知らないが、軍隊や警察にも話が通っていて、事故や怪我人を出さない限りは運び屋の交通違反には目を瞑るんだと」
そんな馬鹿なことがあるかい。
いやしかし、と私は思い直す。何しろ相手はアメリカ大統領とも旧知の仲で、国家から億単位の報酬を得る、あのハタ坊である。あながち荒唐無稽とも言い切れない。
「この宝石の存在を知る国の偉い人たちと協議した結果の、宝石の処分なんだって。
安心してよ、ユーリちゃん。そういう理由で、宝石を狙ってくる奴らは国家や軍隊じゃない、ただの欲に目が眩んだ個人だから。カラ松一人で処理できる
物騒な物言いしおる。


私の参戦を報告するため、支給されたというスマホでチョロ松くんがハタ坊と連絡を取る。
「そうそう…うん、まぁ巻き込んじゃった以上は危険が及ばないようにするけど…え?」
チョロ松くんは片手でスマホを耳に当てながら、カラ松くんを見やる。
「カラ松、お前の通信機をユーリちゃんに渡せって」
「オレのを?」
「うん。あ、ユーリちゃん、それね、通話が傍受されない通信機。半径数キロなら僕たちと連絡が取れるから」
通信機は腕輪タイプだった。見た目は太めの白いバングルで、腕から外したものをカラ松くんが私の左手につけてくれる。タッチパネル式で、画面をタップして通信や音量を調節できる。
「チョロ松、オレの通信機はどうしたらいいんだ?」
「予備代わりの試作品がダッシュボードにあるって…ああ、これか。これ使えってさ」
チョロ松くんが取り出してカラ松くんに投げる。試作品というだけあってかくすんでおり、良く言えばベージュホワイト。
「何でオレが予備なんだ…」
不服そうな彼に、チョロ松くんがスマホを寄越した。ハタ坊の声が私にも漏れ聞こえてくる。
「ユーリちゃんと一緒に行動しないのかじょ?」
「する、するに決まってる」
「だからだじょー。試作品はいつ不具合が出るか分からないんだじょ。それに白いのは女の子がつけてる方が似合うじょ」
分かるような分からないような理論だ。まぁカラ松くんは前衛なので、激しい動きで通信機が損傷する可能性もあるから、私がつけていた方が安全というのは筋が通る。
「でも壊したら弁償だじょ」
鬼だ。

ハタ坊との通話を終え、カラ松くんが長めの溜息をついた。
「オレたちと出会ったのが運の尽きだな、ハニー」
それ悪役の決め台詞では?というツッコミは寸での所で飲み込んだ。偉いぞ、私。


空になったカップを近くのゴミ箱に捨てるため、私から受け取った一松くんはドアを開けて外へ出る。何となく小休止の空気になり、チョロ松くんは後部座席のカラ松くんに、口元に二本指を当てて煙草に誘うような仕草。
「ユーリがいる場ではオレは吸わん」
「だったらお前のヤツ頂戴。家に忘れてきた」
誘いではなく要求だったか。カラ松くんは苦笑して彼と共に車外に出るので、私もつられてドアを開けた。

「一松くんは、喧嘩とかは苦手?」
カラ松くんがチョロ松くんに煙草を差し出して、今後のルートについての打ち合わせを始めたので、私は一松くんの傍らに寄った。
「ま、そうだね。少なくとも好戦的ではないな。相手が兄弟以外なら、そういうシチュエーションになるのは避けまくる。面倒じゃん」
公園の利用を終えた家族連れやカップルたちが、まばらに駐車場へ戻ってくる。適度な人気と空を舞う鳥の鳴き声に、ハードボイルドな話を聞かされている今この場が、紛うことなき現実であることを突きつけられる気がした。
「得意な奴に任せといた方が効率いいでしょ」
「確かに。適材適所で目的達成まで最短ルートを目指す、って感じかな」
私の要約に、一松くんはニッと笑った。
「強いて言うなら、おれは遠距離攻撃型かな」

刹那、一松くんの背後から人影が躍り出る。
私たちの近くを通り抜けようとした観光客らしき集団の中から、鋭利なナイフを振り上げた黒い影。突然の襲撃に、私は言葉を失う。
「い──」
危険を告げる私の声は、間に合わなかった。なぜなら───

一松くんを襲おうとした男の腕に、突如野良の三毛猫が飛びかかり牙を立てたからだ。

「ほらね」

彼は私を横目で一瞥しながら、静かに言う。その後ろでは、どこからともなく出現した大量の猫に伸し掛かられて気を失った襲撃者。猫ピラミッドの頂点では、先程真っ先に噛み付いた獰猛なボス猫が、一松くんに向けてフンと得意げに鼻を鳴らす。あっという間の出来事だった。
「危険だから、あんまり使いたくないんだけど」
襲撃者ではなく、猫が。万一にも彼らに危険が及んではいけないから。
唖然とする私の視界の中で、一松くんは腕に飛び乗る三毛猫の頭を優しく撫でてやる。
「これ…一松ガールズになるなという方が無理な神回では?
「は?」
「ここぞという時だけ発動する動物との絶妙な連携プレーとか絆とか、色んな属性の方々の色んな琴線をくすぐってくるヤツ…ッ」
私は目頭を押さえた。
「ユーリ!」
そして一松ガールズと聞くと否や、駆けつけてくるどこかの次男坊が一人。

「オレだって猫の気配がしてたから駆けつけなかっただけで、あれくらいの奴一撃だったんだからな!」
猫に張り合ってどうする。
「ズルいぞ、一松!」
何が。
カラ松くんは私の肩を抱きながら、一松くんに怒鳴る。
「お前さ、自分で何言ってるか分かってる?そういう嫉妬は醜いからな」
チョロ松くんに同情気味に肩を叩かれ、不服げに眉を寄せる一松くんと私の白けた視線を受けるカラ松くん。
「だって、オレだってユーリを守れた!」
だってって何だ、だってって。しかし私が彼に対して抱かせろと思うのは、往々にしてこういう時だったりするのだ。

「あ、ユーリちゃんも参戦すんの?やっぱつくづく縁があるんだな、俺たちって」
車内に戻り、チョロ松くんが別チームに私の参加を報告した。おそ松くんは難色を示すどころか、あっけらかんとした様子で笑って、普段と変わらない軽快な声は、私の心をふっと軽くする。
「てかさ、俺たちのチームに来たら?こっちの方が絶対安全だよ、デカパンたちもいるし」
「デカパンとダヨーンも参加してるの?」
「そう。たまたまあいつらが応戦してる時に会って、ゴール地点が同じだったから、じゃあ一緒に行くかーって感じ」
軽く一杯飲みに行くような言い方である。口を大きく開けた彼の笑顔が脳裏に浮かぶ。いずれにせよ、超絶危険な仕事を請け負ってるのに余裕綽々な六つ子マジ怖い。

そんな矢先、運転席の窓がノックされる。
ガラス越しに突きつけられる銃口と二人組の両者とも黒ずくめに近い出で立ちから、道に迷った観光客ではないことは明らかだった。チッと忌々しげに舌打ちしたのは、カラ松くんだったか一松くんだったか。
「手を上げて外へでろ」
私たちが外へ出ると、片言の日本語でそう指示される。
「大丈夫だ、ユーリ。言われた通りにすればいい」
ドアに手をかけた私の肩に手を置き、耳元で囁くのはカラ松くんで。不思議と、恐怖感は湧いてこなかった。

彼らに従い、私たちは全員両手を顔の高さに上げて車外へと出る。四人が一塊になり、二人と対峙する。彼らとの間には三メートルほどの距離が空いた。
「宝石を出せ」
私は真っ直ぐ彼らに目を向けたまま、状況把握に努める。敵は宝石が運び屋の手に渡ったことは知っていても、保管形態までは知らないのか。
宝石を入れた箱は、車のトランクに転がっている。
「マナーを知らないメンズだ。キュートなレディに向けるのは銃口より花束の方がロマンチックだぜ?」
嘆かわしいとばかりにカラ松くんが肩を竦めるが、銃口の向け先が変わっただけだった。
「宝石さえ出せば、命は助けてやる」
「…本当だな?」
「約束する」
悪役との口約束は完全にフラグだ。
馬鹿なのかと思ったのは私だけではなかったらしい、チョロ松くんと一松くんも苦虫を潰したような顔をしている。

「宝石はハニーの尻ポケットだ」

私はカラ松くんから視線を外し、二人組を見据える。
「お前、こっちへ来い」
一人がこちらに手招きする。私は呆れ果てたとばかりに息を吐き、手を高く上げたまま一歩を踏み出した。
彼らとの距離が一メートルほどまでになった、その時──

「ユーリ!」

名を呼ばれると同時に、私は思いきり後ろに飛び頭を低くした。
私の挙動に度肝を抜かれた男たちに隙が生じ、その一瞬をついて距離を詰めたカラ松くんが銃を持つ男の顔面に拳を叩き込む。もう一人がハッとして胸元に手を差し込むが、チョロ松くんが「あ」と気の抜けた声であらぬ方向を見るから、それに意識を奪われる。
視線が逸れた瞬間を見計らい、カラ松くんは地面に片手をつき男の足を払う。そしてバランスを崩して仰向けに倒れる男の胸に、無言で肘を振り下ろす。あっという間に大きな図体が二つ、意識を失って地面に転がった。
「何だ、本物っぽいけどモデルガンじゃん」
アスファルトに落ちた銃を拾い上げた一松くんが、鼻で笑う。本物とおもちゃの区別がつくのはなぜなのか。
「囮にさせるような真似してごめんね、ユーリちゃん。でも素人の二人くらいなら、カラ松一人で殺れるから」
チョロ松くんが苦笑いを浮かべる。
「暴力は好きじゃないんだがな。オレのガイアに生きとし生けるものは、みな平等にラブアンドピースの精神であるべきだ」
「最低限の納税しかできてない分際で所有を主張すんな」
一松くんが悪態をつくが、消費税以外はほぼ親任せなのはお前ら全員だぞ、ニートども

手についた砂を払い、カラ松くんが私に手を差し伸べる。その時になってようやく、私はまだ屈んだままだったことに気が付いた。
「ユーリ、怖がらせるようなことをしてすまない…」
「ううん。不思議なんだけど、あんまり怖くなかったんだよ。大丈夫だってカラ松くんが言ってくれたおかげかな」
正常化バイアスがかっていただけなのかもしれないけれど。私が微笑むと、先程勇ましく攻撃を仕掛けたとは思えないほど幼い顔で、カラ松くんは顔を赤くした。
「あ、で、でも、よくオレの意図が分かったな。さすがだぜ、ハニー」
ああ、と私は目を細める。

「あの二人をカラ松くんの射程範囲に入れるには、私に目を向けさせる必要があったからでしょ」

四人の中では最も弱い立場に意識が集中すれば、自ずと警戒心も薄れる。
「ユーリ…」
カラ松くんは目を丸くした。
「功を奏したみたいで良かった」
「ただ…もう無茶はさせない。ユーリに何かあったら、オレは一生自分を許せなくなる」
「ふふ」

「はいはい、イチャつくのはそこまで」
唐突にチョロ松くんが私たちの間に割って入る。
「い、イチャ…っ!?何を言うんだ、ブラザー!」
「そういうお決まりの応酬も耳にタコだから。こいつらが目を覚ますと面倒だし、そろそろ移動しよう」
ハタ坊からの依頼は、目的地に時間厳守で宝石を届けること。
「早くても遅くても駄目なのは、なかなか厄介だな」
「襲撃に遭わないよう、時間を潰す場所も考えないといけないんだからな」
一松くんはさっさと助手席に乗り込んでおり、僕が運転かよとチョロ松くんが毒づきながら運転席のドアを開ける。
「オレたちも行くか、ユーリ」
「頼りにしてるよ」
「もちろんだ。ビックシップに乗ったつもりでいてくれ」
私の腰に手を回して、大袈裟にウインクをするカラ松くん。大船というよりは間違いなく泥船だが、何だかんだで結局何とかなりそうな気がするから不思議だ。




カラ松くんチームのゴールは、都内郊外にある解体作業中の大型施設だ。ハタ坊が話をつけて今日だけは中に入れる手はずになっているらしい。撹乱のため、各運び屋の目標到達地点と時間は分散されている。

「どうしてユーリとあんな場所で出会ってしまっただろうな…」
チョロ松くんと一松くんがトイレに立った時、車内でカラ松くんが額に手を当てながら呟いたので、私は異論を唱える。
「それはこっちの台詞。ちょっと離れた所でお店の新規開拓しようと思ってた私のワクワク返してほしいよ」
「あ…いや、うん…そうだよな、それは…すまん」
反論が来るとばかり予測していたので、殊勝に謝罪されると立つ瀬がない。私は慌てて両手を振った。
「ううん、ごめん、八つ当たりした。アレだね、お互い不運というか、タイミングが悪かったね」
「フッ、オレとハニーの巡り合いは、もはや時の定めとして運命づけられているのかもしれないな」
冗談めかした仕草で、カラ松くんが悩ましげに言う。
「事前に話してくれてたら、会わずに済んだと思うよ」
カラ松くんは先約があるとしか言わなかった。
「話したら、ユーリは快く送り出してくれたか?」
「それは…」
間違いなく反対しただろう。危険だから、と。何なら引き止めるために乗り込んだ可能性も否定できない。
「万一にもユーリを危険な目に遭わせたくなかった。だから話さなかった。カジノの時とは違うんだ。
カジノは相手の目的は売上金だっただろ。しかし今回は一つの判断ミスで怪我をするかもしれない」
カジノ船で私が襲われかけたのは、様々な偶然が重なった結果の不運としか言いようがなかった。今は、常に狙われている身だ。今この瞬間だって、もしかしたら。

「ただ…ユーリを巻き込んだのはオレの責任だ。何があっても、命に替えてもユーリは必ず守る」

射抜くみたいな強い瞳。しんと静まり返った車内。
どう見ても死亡フラグ。
「そういうことは言わない方がいいような…うん、あの、深い意味はないけど」
私は目が泳ぐ。フラグだから、とはさすがに言えない。
だがカラ松くんは幸いにも私が彼の身を案じていると認識したらしく、頬に火が灯るような朱が差した。
「なら、約束をしよう」
「約束?」
「この仕事が終わったら、オレとユーリの二人で祝杯を挙げる──どうだ?」
「…うん」

回避しようとすればするほど畳み掛ける死亡フラグ。もうこれ任務失敗が約束されているのではなかろうか。

無理なものは無理

苦手なもの、不得手なもの、そういった自分にとって扱いにくい類は誰しも一つや二つ持っているものだ。それらへの向かい合い方も千差万別。努力の末に克服するケースもあれば、弱点として受け止め共存する道を選ぶ者もいる。正解はなく、克服した者が一概に優秀かと言えば、そうも言い切れない。
けれど、先へ進むために対峙せざるを得なくなった時、悪足掻きせずに覚悟を決める者は美しい。


「やっぱり…無理だ」
苦痛に顔を歪めたカラ松くんが、私の肩を押しのけようとする。
「してほしいって言い出したのは、カラ松くんだよ」
両親と兄弟は出払い、静寂の漂う松野家二階。開け放たれた窓の外から聞こえる小鳥の鳴き声が、時の流れを告げるかのようだった。
「それは、そうなんだが…」
「後悔してる?私に頼んだこと」
問えば、カラ松くんは躊躇いなく首を横に振る。
「するわけない。他ならぬユーリだから…ユーリにしか頼めないことなんだ」
落とした視線、苦々しく唇を噛む仕草、私の肩に触れる形だけの抵抗。
家の前の道路を横切る他人の笑い声が、ひどく遠いものに感じられた。切り取られた箱庭の中で足掻くのは、一体。
「でも」
そう言って、彼はキッと私を見つめた。

「やだっ、無理無理無理無理、絶対痛い!こんなの絶対入らない!」

一際高い声で泣き叫ぶ次男坊の目に映るのは──『目薬』を片手に振りかぶる私

「入るから売ってるし病院で処方されるの。痛くないよ。仮に痛くても一瞬だから、すぐ慣れるって、大丈夫」
目薬は目薬でも、キャップを外して今すぐにでもさせる臨戦状態の目薬だ。じりじりとカラ松くんとの距離を詰めようとすれば、彼は同じ分だけ後ずさる。
「何で!?何を根拠に!?いくら相手がハニーでも、これはハードルが高すぎる!」
「すぐ終わらせるから」
「やーだー!」
二十歳超えたいい大人が駄々っ子の如く手足をバタつかせる様は痛々しいことこの上ないが、いかんせん当推しは可愛いから困る。
「でも、やらなきゃいけないんでしょ?あっという間だよ」
「だって、異物挿入だぞ!絶対痛い!」
「だから挿入じゃないし、このやりとり耳かきの時もしたよね。混乱してるからって誤解を生む発言は控えて

事の発端は、数日の前に遡る。
カラ松くんの右目にものもらいができたのだ。しかし前述のように目薬を忌避し、自然治癒力に任せていたら病状は悪化。おばさんに追い立てられて眼科に行き目薬を処方されたものの、自身ではさすこと適わず、かといって兄弟にも頼めず、私が召喚されたという経緯である。いい迷惑だぞマジで。

目薬の厄介なところは、一日に複数回、それも治るまでは数日に渡ってささなければならないことだ。一回点眼できたからといってクリアではない。
「自分から頼んでおいて嫌って、じゃあもうおそ松くんに頼んで。私は帰る、あばよ
晴れ渡る外出日和の休日、やることはいくらでもある。一進一退の攻防で消耗するのは体力精神力の無駄遣いだ。
「わーっ、やだやだ!ごめんなさい!やって!やってください!ユーリじゃないと駄目っ」
なのに私が腰を上げると、すかさずカラ松くんがプライドをかなぐり捨てて縋り付いてくる。鬱陶しさと愛らしさが混在して、非常に悩ましい。ムラッとくる。
「おそ松くん耳かき上手かったんでしょ?ちゃんとやってくれるって」
「あいつ、一回耳かき頼んで以降は、オレが耳かき持った瞬間に真っ青な顔して逃げるんだ。頼んでも本気で嫌がられる」
よっぽどのことがあったのだろうなと察しがつく。六つ子と付き合い始めて、小さなことでは疑問も抱かなくなってきた。


仕方なく、中断していた作業を再開する。カラ松くんはカーペットで正座して上を向き、私は膝を立てて上から覗き込む格好だ。
「か、カウントダウンしてくれ!カウントダウンのカウントダウンだぞ!分かるか!?」
「しません」
オレへの配慮おおぉおぉ!せめて悩んで!」
左手でカラ松くんの瞼を持ち上げようとするが、手は振り払われこそしないものの、意地でも開けまいと瞼は閉じられたままで、液体を差し込む僅かな隙間もない。
「こら、抵抗しない!」
一度瞼から手を離して、彼の頬を両手で引っ張る。黒い瞳がぱちくりと私を見つめた。鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せると、カラ松くんの顔が一瞬で朱に染まる。
「ち、ちょ…っ、ユーリ!」
「抵抗されるといつまでも目薬させないよ」
「そんな卑猥な目薬のさし方だと無理に決まってるだろ!」
上から見下ろす体勢が卑猥ときた。
「かなり一般的なやり方だけど」
「顔が近すぎる!」
「そこか」
別の意味でも逃げ腰になるカラ松くん。逃走しないよう首四の字固めでガチガチに拘束してやりたいが、私の力では一瞬ですり抜けられるだろう。力技は通用しないとなると、正攻法で攻めていく他ない。


カラ松くんの両手を取って、私の腰に添えさせる。
「動かないように。手を離すのも禁止」
当初こそカラ松くんはギョッとして服の生地に触れる程度だったが、禁止事項を告げてからは慌てた様子で力を込めた。
「…細いな」
そういう感想はいらんのですよ。
「んー、手を置くだけだと遠いし固定になってないか」
私の腹部に顎をつけるくらいのことはする必要がありそうだ。
立ち上がり、ソファに座る。カラ松くんを手招きで呼び、膝を立てた格好で私の腰に両手を回すよう指示し、密着させる。開いた足の間に彼の体が収まり、顎が上を向く。
「うん、これで良し」
「え…そ、その、この姿勢でいいのか?」
まぁ、戸惑うのも無理はない。
「いいよ。これで目薬させるならね」
一刻も早くこの茶番を終わらせられるなら、安い代償だ。
カラ松くんは蕩けるような潤んだ瞳で、じっと私を見上げてくる。卑猥はどっちだ。
私は微笑んでから、親指と人差し指でもってカラ松くんの右目の瞼を開く。抵抗は感じるが、想定内の弱々しいものだった。
「いい子だから、そのままね」
耳のすぐ近くで囁くと、彼はこくりと頷いた。ここまで順調だ、スムーズに事が運んでいる。あとは目薬が一滴落ちさえすれば──

しかし案の定というべきか、カラ松くんは即座に目を閉じた

それはもう本当に一瞬で、疾風の如き素早さだった。
貼り付けた笑顔が若干引きつりそうになったが、気を取り直して次はフェイントをかけて試す。落とすと見せかけて止め、諦めた体を装っては仕掛けるを何度か試みるが、恐るべきは鉄壁の防御。ステータスは瞼の防御に全振り。
「フェイント効かないってどういうこと!?まさか落ちるの見えてる!?カラ松くんの動体視力どうなってんの!」
「知らん!オレに言うなっ」
「ここにきて逆ギレ!」




一旦休戦だ。
手土産として持ってきたクッキーと、いつでも勝手に飲んでいいとトド松くんから許可を得た紅茶をトレイに載せ、二階の部屋に戻る。自覚はしていなかったが喉が乾いていて、一杯目の紅茶はほぼ一気飲み同然のスピードで胃に消えた。
「っていうか、怖いとか無理とか言ってる場合じゃないんだよね」
実施頻度の低い耳かきとはわけが違うのだ。恐怖を克服しなければ意味がない。気軽に引き受けてしまったが、なかなかの難題である。
「私が無理だった場合、チョロ松くんにでもバトンタッチしようか」
彼を選出した理由は、一番器用そうな気がするからだ。
「それは…嫌だ」
肩を竦めながら、しかし強い意志の感じられる声でカラ松くんが拒否の姿勢を取る。
「嫌?どうして?」
「…何というか、ブラザーたちに格好悪いところを見せることになる、だろ?」
私はいいんですか、そうですか。
「今日明日は土日だからできるだけ私がやってあげるとしても、その他の日はどうするの?」
「ユーリの家に通う」
馬鹿か。あ、言っちゃった」
本音がうっかりだだ漏れた。
カップに注がれた琥珀色の液体に反射する自分の顔には、いつにない疲労感が漂っている。
「今日明日で何としても克服しなきゃね。できなかったら、おそ松くんに頼む」
「すまん、ハニー…その案は全力で拒否する
弱者に拒否権があると思うなよ。

カラ松くんは、もう何年も目薬を使ってないという。確かに飲み薬や塗り薬と違って、人によっては世話になることが少ないタイプの薬ではある。
視力は平均程度で運転も裸眼、ドライアイや眼精疲労とも無縁の松野家次男。
「でもカラコンつけた経験はあるんだよね?おそ松くんが言ってたし」
「あれは気合いでやった。ただ装着時と取り外した時の記憶はないから、今後つける予定もないが」
オシャレに文字通り命かけたのか、こいつは。私はもう、呆れてものも言えない。

「カラ松くんは、どうすれば目薬させると思う?」
私の問いかけに、彼はなぜか目尻を赤くする。
「ユーリからのご褒美があれば頑張れる…かも」
「ご褒美…」
彼の望みを反芻して、それからフッと微笑んだ。自然に浮かんだ微笑だった。

「いやいや、ご褒美はこっちが欲しいくらいだから!何で私が頑張ってやる気にさせにゃならんのだ!逆だ、逆っ!

激しい剣幕で私は声を荒げた。カラ松くんはビクリと肩を震わせてから、だよな、と苦笑い。分かってるなら言うんじゃない。
けれど、ふと私の中に名案が浮かんだ。ピコンと電球に明かりが灯る。あ、と単語を溢して、私は上目遣いでカラ松くんを見た。
「抱かせてくれる?」
「は?」
「抱かせてくれるなら本気出すよ」
カラ松くんは、お前は何を言ってるんだと言わんばかりに、苦虫を潰したような顔になった。
「無理だろ」
情事への誘いとその拒否は、もはや様式美になりつつある。
「じゃあ胸揉むのでもいい」
「じゃあって何だ、じゃあって。…というか、毎度の常套句になりつつあるが、そういうのは普通男が言うものじゃないのか?」
「まな板なのは気にしない。十分理解した上で言ってる」
「誰が胸の大きさの話をした?」
私に対するツッコミの速度と腕は、確実に上昇傾向にある。
カラ松くんは片手を顔を覆い、盛大な溜息を溢した。眉間に刻まれた皺は深い。いちいち指摘をするのも億劫という胸の内が伝わってくるようだ。本人目の前にして失礼すぎではなかろうか。
けれど。
「…一回だけなら」
私の憶測に反して、彼はそんな言葉を続ける。
容赦のないツッコミを受け、この話題には終止符が打たれたと認識していた私は、小声で吐かれたその台詞を聞き取れなかった。
「え、何か言った?」
二杯目の紅茶を飲み干して、悠然と聞き返す。
「…い、一回だけならいいと言ったんだ!二度も言わせるんじゃないっ」
カラ松くんは顔を真っ赤にして叫ぶ。恥じらう推しもまた至高であると言わざるを得ない。
脳内の私が全力でガッツポーズを決める。
あくまでも表面上は穏やかに、緩い微笑みに留めて。
「安心してカラ松くん、目薬への恐怖克服なんて簡単なことだから。この依頼、私のプライドにかけて完遂してみせる」
「プライド誇示すべきところを盛大に間違っている気がするが」
「体を売るほど切羽詰まってるってことだもんね」
「語弊がありすぎる」




六つ子たちと両親が帰ってくるまでには、まだ幾分か猶予がある。私はスマホで目薬のさし方などを検索し、成功事例の多いものから手当り次第に試すことにした。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる作戦である。

ソファに座った私の膝に、カラ松くんの後頭部を載せた。彼はソファに横たわり、私に膝枕をされる姿勢になる。私に危害を加えることはしないはずだから、頭部さえ固定すれば勝算はある、かもしれない。
「…さっきから少々大胆じゃないか、ユーリ?」
私が前屈みになると、彼の顔に影ができる。カラ松くんから見れば、頭上から胸が迫ってきている感覚だろう。どうでもいいが。
「手段を選んでたら成功率が下がるからね。別に圧迫してるわけじゃないんだから、息苦しくもないでしょ?」
「ま、まぁ…そう、なんだが」
目のやり場に困るとばかりに、カラ松くんの視線は揺れる。
「警戒しなくても大丈夫だよ。何もこのまま襲おうってわけじゃない」
「おそ…!?」
カラ松くんは頬を紅潮させたまま絶句する。
私は顔には出さず、ああ、そうか、と思い至る。これは絶好の襲撃のチャンスだったか。自分で言って自分で気付くパターン。
「こ、こんな時に冗談は止せ、ユーリっ」
「目薬がなければ本気だったかもよ」
わざと苛立ちを誘発するように言い返す。案の定、カラ松くんは顔に不機嫌を貼り付けた。顔はそのまま、眼球だけ私から逸して。

「…オレだって、こんな時じゃなかったら真面目に応える」

「あ」
「えっ」
私が声を上げて階段に続く襖を凝視し、カラ松くんの瞳が追随する。
絶好のチャンス到来。躊躇わず、目の中に目薬を落とした
「よっ──」
「あああぁああぁあぁぁぁぁあッ!いっだああああああぁぁぁ!」
よっしゃという歓声とガッポーズは、カラ松くんの絶叫で掻き消える。私はギョッとして体を強張らせた。
「な、何───…あ」
両手で顔を覆い声を漏らしたその理由は、私の手中にあった。私が手にしていたのは、処方薬を無駄遣いしないようにとカラ松くんが持ってきた、いわゆる練習用だったのだ。しかもどうやら清涼感の強いタイプだったらしい。刺激の強いものは、目薬を使い慣れている人間でも、それなりにダメージを受ける。目薬に苦手意識のある者なら、なおさらだ。
「えー、何で自分を貶めるような物用意するかなぁ」
呆れ声で呟けば、カラ松くんは今にも涙が溢れそうな目を開けた。
「未開封のはこれしかないって…そんなに強くないからって…っ、そう言われたのにー!」
「誰から貰ったの?」
「…トド松」
なるほど。暇あればスマホを使用する末弟なら、眼精疲労用の清涼感マシマシタイプは使い慣れていても不思議ではない。両者の認識の相違が生んだ悲劇と言えよう。
しかし、ものもらいで負傷している目に刺激は厳禁だ。状態異常による防御力低下時に、会心の一撃を受けたダメージは計り知れない。

とはいえ、成功のぬか喜びを一瞬でも感じてしまった私の精神的ダメージも大きい。
カラ松くんの関心を目薬から私に移行させ、さらに瞬間的に意識を総ざらいして仕掛けた攻撃が、不可抗力で失敗に終わったのだ。
処方された抗菌目薬は刺激をほとんど感じないものだから、ほら平気だったでしょうと安心させる心積もりだった。しかも失敗に導いたのが、他ならぬ本人。殴ったろかな。


先程は、我ながら最高のタイミングだった。今後カラ松くんは一層警戒するだろうから、もうこの手は通用しなくなる。
「カラ松くんのせいでハードル上がっちゃったよ、もう」
「え、オレのせい!?トッティじゃなくて?」
「清涼感強いか弱いかくらい、ちょっと調べればすぐ分かるでしょ?
トド松くんの言葉を鵜呑みにして確認しなかったカラ松くんも悪いよ」
彼の目尻から溢れ落ちそうになる涙をティッシュで拭ったら、カラ松くんはくすぐったそうに僅かに身を捩る。
「…ふふ」
それから不意に、笑った。
「どうしたの?」
「いや何、不謹慎だが…幸せだな、と思ったんだ」
目を細め、持ち上げられた右手の甲が私の頬にそっと当たる。
「こうやってユーリと触れ合っていられる」
「カラ松くん…」
うちの推し、可愛すぎない?
イケボで無自覚に口説いてくるわサービス過剰だわ、これで欲情するなという方が無理な話じゃなかろうか。
「そんなこと言ったって、もう目薬しなくていいよ~とはならないからね」
「バレたか。ディテクティブさながらの鋭い洞察力だな、ハニー」
カラ松くんはおどけて肩を竦める。
「でもどうせ触れ合うなら、そのことだけに集中できる環境にした方が楽しいと思わない?懸念事項はさっさとなくして、さ」
艶めいた微笑みと仕草を意識する。顎からこめかみにかけてのラインを指先でゆるりと撫で上げると、カラ松くんは息を呑んだようだった。

「…ユーリがお望みなら、オレは喜んでその望みを叶えよう」

これにて覚醒、目薬への恐怖なんて何のその、克服して大団円──なんてことには決してならないのが、松野カラ松が松野カラ松たる所以である。
私は鼻で長めの息を吐き、スマホを持ち上げた。
「スマホで目薬のコツ調べてみるから、ちょっとだけ待ってて」
「フッ、信じてるぜ」
キメ顔で信頼を寄せられても困る。というか全部私任せか、いい度胸してるなこいつ。
床に落ちていた誰かの情報誌を膝枕のカラ松くんに渡して、私は検索サイトで目薬のコツを検索する。

しばらくの間は、パラパラと紙面をめくる音が聞こえていたのを覚えている。
スマホの画面を凝視して、私は思案する。先端恐怖症でもないのに、目薬の何が苦手なのか。やはり異物を無防備な箇所に入れる行為への嫌悪課、恐怖感だろうか。
というか、そもそもご褒美で目薬が克服できそうと言える程度なら、気の持ちようの問題なのかもしれない。
まぁ、原因が分かったところで私は克服させる手段を粛々と実行するだけなのだけれど。

さてどうしようか。ふと画面から視線を外したら、雑誌を胸に置いて目を閉じるカラ松くんが視界に飛び込んできた。すやすやと寝息を立てて、胸は規則正しく上下している。
「カラ松くん?」
声をかけども反応はない。そんなに長時間思案に耽ってしまっていたのか。頬を軽く叩いても起きる気配はなかった。
知り合ったばかりの頃は顔を見合わせることにも緊張を示していた彼が、今や人の膝で無防備に寝落ちする始末。それはつまり、私たちの関係性が深まったことを示している。カラ松くんは気付いているのだろうか。
試しに指先で瞼を持ち上げる。反応はない。抗菌目薬のキャップを外し、中の液体を眼球に一滴落とす。成功。呆気ないほどに容易く。
「…うーん、でもこれは克服じゃないよなぁ」
子供に目薬をさす方法の一つとして、寝入った後に実行する記事があったが、その場しのぎでしかない。

「カラ松くん、起きて。目薬の続きやるよ」
今のはノーカンにして、私は彼の肩を揺すった。




先程練習用の目薬で成功したのは、目薬以外のことに気を取られていたからだ。目薬の存在さえ瞬間的に失念していたに違いない。その状況が再現できれば、あるいは。
オフィシャルから胸を揉む権利を得たものの、割りに合わない気もしてきた。貴重な休日に私は何をやっているんだろう。
「ね、カラ松くん。さっき、ご褒美があったら頑張れるって言ったよね?」
私は背中を丸めて、彼の顔を覗き込んだ。
「え?…ああ、うん、言ったな」
「どんなご褒美がいいの?」
私に意識を向けさせる。目薬から、私へ。
「…ユーリ?」
視線が重なった。双眸には驚きの色が浮かび、困惑げに私の名が呼ばれた。
「いや、あれはその…売り言葉に買い言葉というか…」
「キスとか?」
「え!?」
うん、と私は口角を上げて。

「目薬上手くできたら、キスしてあげよっか?」

囁くように、カラ松くんにだけ聞こえるよう音量を絞って告げた。ゆっくりとしたスピードで、抑揚をつけながら。言葉を理解するまでに時間を要するよう仕掛ける。
案の定、カラ松くんは目を見開いた。
「き…っ」
上擦ってままならない声───今だ。

私は素早くその瞳に目薬の液を落とした。

ぽたりと、小さな滴が眼球に広がる。
「……あ」
「ほら、痛くないでしょ」
私が訊けば、彼はぱちくりと幾度か瞬きをした後にこくりと頷いた。
「痛く…ない」
片手を持ち上げて自身の目に触れようとするので、それを遮るように目尻をティッシュで拭う。
「反対側も一応やっておくね」
もうカラ松くんは抵抗しなかった。指で瞼を広げてもされるがままで、注入は至極スムーズだった。数時間にも渡る激闘は功を奏したわけだ。
「恐怖克服できたみたいだね、良かった良かった。私が帰るまでには、一人でできるように一回練習してみよっか。この調子なら、すぐできると思うよ」
一仕事を終えて穏やかに今後のスケジュールを語る私とは裏腹に、カラ松くんは血相を変えて飛び起きた。
「は、ハニーッ…さっきの、その…ご褒美は!?」
「ん?」
「ユーリが言ったんだろ!目薬うまくできたら…き、キスしてくれるって!」
頬だけでなく耳まで赤い。羞恥心を誤魔化すために勢いをつけて声を荒げているのだろう。
ああ、と私の口からは吐息が漏れる。
「あれはね、気を逸らすための口上。実際、驚いて目薬どころじゃなかったでしょ?」
「騙し討ちか!卑怯だぞっユーリ、ご褒美欲しい!
最後に本音がダダ漏れている。
「人聞きの悪い。戦術だよ。それに私は問いかけただけで、返事も聞く前だったし、確約したわけでもない」
ここまでくると詭弁のようだが、れっきとした事実だ。
だがカラ松くんは本気に受け取ったらしく、普段以上に眉を吊り上げて抗議の構え──なぜか正座で。怒りと懇願とが混じった複雑な感情を持て余しているらしいのは、自ずと察せられた。

「欲しいー!ご褒美欲しいー!オレ頑張ったのにーッ」
「よしよし、よく頑張りました」
私の膝に顔を埋めて叫ぶ次男坊の頭を、宥めるように優しく撫でる。
「こんな子供騙しで懐柔できるほどオレは安くないからな、ユーリ!」
「はいはい」
「でも…これはこれで、もう少し続けてほしいというか…」
チョロい。
うっとりと恍惚の表情を浮かべるカラ松くんを見下ろして、私は突然の尊さ襲来に下唇を噛んだ。
指通りのいい黒髪に載せた自分の手を眺めながら、犬みたいだなぁなんてことを思う。機嫌よく左右に振る尻尾が見える気さえする。




次の週末に、カラ松くんが我が家にやって来た。屋外の施設に赴く予定だったが、晴れの予報を清々しく裏切り雨が降ったため、急遽私の家で過ごすことにしたのだ。
「今日も麗しいな、ハニー。レインがもたらすアンニュイさも、ユーリを前にすると一瞬で吹き飛んでしまう」
ドアで出迎えるなり、装着しているサングラスの縁に手をやって、挨拶代わりのリップサービスを放つカラ松くん。
「いらっしゃい。
外暗いんだから、サングラスはつけなくてもいいんじゃない?」
私は笑いながら部屋に戻る。
「ノンノン、ユーリ。レイン如きでは隠しきれないオレの神々しさが、道行くカラ松ガールズたちを一網打尽にしてしまっては困るだろう?」
寝言は寝て言え。
「何言ってるの。サングラスつけてない方が断然可愛いのに
溜息混じりに私は反論する。サングラスは当推しを構成する要素の一つではあるが、チャームポイントを隠してしまうのは解せない。
「か、かわ…っ!?」
「サングラスつけてると確かにカラ松くんって感じするけど、目が見えてる方が───あ、もしかしてものもらい悪化したから隠してる?」
だとすれば合点がいく。眉根を寄せてカラ松くんに顔を近づけると、彼は反射的に背を後ろに反らせた。
しかし予想外だったのは、直後にカラ松くんがほくそ笑んだことだ。
「フッ、その逆だ、ハニー」
右手でサングラスの縁に触れ、気障ったらしい仕草で外す。

「──完治したぜ」

瞳を輝かせ、台詞は溜めて言い放つ。わざわざサングラスで目元を隠していたのは、大々的に披露するためだったらしい。格好つけることじゃないと思うのは私だけか。
「本当?良かったね!」
「ほら、どうだ、ユーリ。もう跡形もなくなったぞ。松野カラ松に不可能はない
たかだかものもらい一つに何言ってるんだ。
けれど確かに、一週間前は赤みを帯びていた瞼は腫れは、今はもう見受けられなかった。

冷蔵庫からペットボトルのドリンクを出してきて、リビングのローテーブルに置く。
私はカラ松くんと並んでローソファに腰掛け、改めて彼の目をまじまじと見つめた。
「どれどれ」
あぐらを掻く彼の傍らで、両膝を立てる。
「ちょ、ユーリ…っ」
「治ってから病院は行った?」
「え?いや、行ってないが…」
「じゃあ、ちゃんと治ったか確認するから、よく見せて。中途半端なままにすると、すぐ再発するよ」
治った頃合いにまた見せに来いと医者に言われなかったのか。日頃暇を持て余しているくせに大事なところで不精なのは、六つ子らしい。
再発の言葉に眉をひそめたカラ松くんは、大人しく顔を上げた。私はそれを上からじっと眺める。
「目が開いてたら瞼のところ見えにくいよ。目閉じて」
彼は素直に指示に従う。少々強めに瞼を下げた。
目尻に指で触れて、ものもらいができていた箇所をじっくり観察する。皮膚は健康的な色に戻っていて、素人目ではあるが、赤みはおろか皮膚内に芯が残っている様子もない。完治と言って差し支えないだろう。
断固として目薬を拒否していた頃から考えれば、よく頑張ったと思う。
だから──

私はカラ松くんの目尻に、キスを落とした。

「…え」
パッと目を見開いたカラ松くんと、至近距離で目が合う。
「ユーリっ…な、何…っ」
みるみるうちに赤面するカラ松くんから離れて、私は首を傾げた。
「ご褒美」
「は!?」
「この間話したアレ。カラ松くん残念がってたから」
私がそう言うと、カラ松くんは何とも言えない複雑そうな表情をしてから、私の両肩を乱暴に掴んだ。
「そういうのは、するって言ってからしてくれないか!?心の準備とか色々…色々あるだろ!」
何で色々を二回言った?
「もう一回!
オレ頑張ったから、すっげー頑張ったから!目薬克服して、ユーリに言われた通り毎日サボらずに何回もさした!」
食い気味に早口で捲し立てられる。顔は相変わらず真っ赤なままだ。えー、何これ、ドチャクソシコい。イケボで頑張ったアピールは反則だろ。
「…もう一回だけだからね」
「オフコース!」
鼻息が荒い。

今度は頬に両手を添えて、上向かせる。
「するよ?」
事前に予告をお望みのようだったので、私は告げる。カラ松くはあちこちに視線を彷徨わせた後ぎゅっと目を閉じたが、私も私で少々気恥ずかしさがこみ上げる。

それから同じ場所に、もう一度口づけた。

目を開けたカラ松くんが、私の腹部にもたれかかる。
「深刻なトラブルが発生した…」
「何それ?」
「今夜銭湯で顔を洗えないかもしれん」
それは由々しき事態。
「ちゃんと洗わないとお肌に悪いよ」
「自信ない」
「駄目」
「ユーリ」
縋るような瞳を向けられても、私にどうしろっちゅーねん
「またものもらいできても知らないよ」
「…それはヤだ」
納得はしたようだったが、しばらくは悶々とした様子で、私の腰に両手を回したまま顔を埋めていた。


「ちなみに、清涼感のある目薬は新しいトラウマになったぞ
それは何かごめん。

ヒューズかマグカップか

カラ松とユーリは、相手に対する怒り方が根本的に違う。
トド松はそう感じている。

カラ松は基本的にユーリを全肯定する。
彼女がカラ松に手を出そうとしたり、ちょっかいをかけることに関して建前上は拒否の姿勢を取るものの、本心では一連の駆け引きを望んでさえいる。ユーリを嗜めたその直後に、とても嬉しそうに笑っていたりするのだ、彼は。
対するユーリは、ある程度の非礼は許容するが、積み重なると表情を険しくして叱責する。カラ松には寛大かと思いきや、時と場合によってはそうとも限らないのが面白いところだ。導火線はおそらく長い方だが、様々な要因によって短い日もある。

人が人を見限るのは、ヒューズ型とマグカップ型の二つのパターンがある。そんな説をどこかで耳にした。
怒りについても同様の表現ができるのではないだろうか。




「カラ松くん呼んでくるねー」
休日の午後、ユーリは居間に顔を覗かせてトド松たちと挨拶を交わした後、軽快な足取りで二階へ駆け上がっていった。
トド松は、ユーリが奏でる音色が好きだ。パタパタと音を立てて廊下を走る音は、家族の誰のものとも違って、耳に心地いい。

最初に訝しんだのはおそ松だった。
「てか、ユーリちゃんとカラ松遅くね?」
壁掛け時計を見上げ、ぽつりと呟く。その時点で、彼女が二階に上がってから数分が経っていた。
「…ハッ、まさか一つ屋根の下でイチャついてるとか!?妨害しよう
「えー、いやいや、まさかカラ松兄さんに限ってそんな度胸が───ボクちょっと見てくるわ
トド松は真顔で腰を上げる。
二人きりの時ならいざしらず、兄弟が真下にいる空間でユーリに手を出そうなんて言語道断だ。
「行ってらー」
拳を握りしめたトド松の背中を、十四松の飄々とした声が見送った。

意気込んで居間を出たものの、もし現実に実の兄弟と自分も親しい女性が肌を寄せ合う姿を見たら、冷静に対処できる自信はない。
慌てるか硬直するか、いずれにしても動揺は隠せないだろう。場数を踏んでいないことが悔やまれる。
トド松は足音を殺して階段を上がる。
臆病者のカラ松に限ってないとは思うが、万一濡れ場を目撃したら、どうすればいいのだろうか。今後の生活に支障を来たすだけでなく、ユーリとも今後顔を合わせにくくなる。それは死活問題だ。
悶々としながらトド松が襖に手を掛けた時、中からカラ松の声が漏れ聞こえてきた。
「いきなりやって怒られると思わないのか?」
低い、棘のある声だ。
「やっていいことと駄目なことの境目は弁えろ。これで何度目だ?」
「ごめん…」
カラ松がユーリに対して怒りを露わにするのは珍しい。
トド松は腰を落とし、僅かに襖を開けて中を覗き見る。あぐらをかき腕組みをするカラ松の真向かいで、ユーリが正座を強いられている格好だった。彼女は肩身が狭そうに俯いている。
「いくらオレでも着替えの途中で入って来られた挙げ句、尻を撫でられたら怒りもする
逆の立場ならどうだ?これもうセクハラ通り越して痴漢じゃないのか?」
次男が正論すぎる。
「仰るとおりです…」
トド松からはユーリの背中しか窺えないが、ぐうの音も出ない様子。
「相手がオレじゃなかったら、その気があるんだと勘違いして押し倒されても文句は言えないんだぞ?」
「あ、でもそこはほら、カラ松くん相手なら逆転させる自信はあったし──」
「は?」
「何でもないです」
ユーリの言い訳は、カラ松のひと睨みで尻窄みになった。静かに憤る彼の眼力には、一切の反論も許さぬ凄みがある。

どうやら、カラ松に仕掛けたセクハラが度を越した叱責らしい。
油断していたところに許容を超える接触が発生し、怒りが一気に沸点に達した、そんなところだろう。まさしくヒューズ型だ。
ヒューズは、電流が多く流れるのを防ぐ安全装置として使うものだ。定められた数値以上の電流が流れると切れるようになっている。一定のラインまでは何ともないが、そのラインを超えると一発で焼き切れる性質を持つのがヒューズである。
許容内ならば幾度不満が発生しても激昂しないが、キャパを超えた不満が一撃でもあれば、相手に苛立ちを見せる。カラ松がユーリに対して怒るのは、往々にしてこのパターンが多い。

しかし、ユーリは一枚上手だ。

「そうだよね…ごめんね」
俯いて力なく謝罪を述べる殊勝な姿からは、反省の色が窺える。するとカラ松の顔に、ほんの僅かにではあるけれど、怒りすぎたかと自責の念が浮かんだ。
離れた距離にいるトド松にすらそれが見て取れるのだから、真正面にいる彼女が気付いていないはずがない。
「カラ松くんが可愛くてつい触りたくなっちゃうんだけど…でも、確かにセクハラだよね。本当ごめん。これからは『友達』として適切な距離を取るね」
お手本のような詫びの言葉である。原因と改善点を述べるだけでなく、相手の意向も汲み取っており、謝罪としては満点レベル。
「…え…あ、いや…」
だがカラ松は彼女の謝罪を快く受け入れるどころか、戸惑いを口にする。
「そ、そうじゃなくてだな…いきなりするのが駄目なわけで、その…」
襖越しにトド松は失笑した。可愛い女の子に望んで触ってもらえるだけ有り難いことなのだ。己の立場を弁えろ、クズが。
「いきなりじゃなかったら、触ってもいいの?」
案の定、ユーリはきらきらと瞳を輝かせて顔を上げる。
「へ!?…ええと、うん…まぁ、そうなる、かな…」
「優しい…ッ!何て優しいの、カラ松くん!私が至らないばかりに怒らせちゃったのに、許してくれるなんて…」
ユーリは右手の甲を口元に寄せ、感極まったような声を絞り出す。
「フッ、ハニーに涙は似合わないからな。
誰しもミスは犯すもの。そのミスを二度と繰り返さないように努める心掛けがインポータントだぜ、オーケー?」
気を良くしたカラ松が調子に乗ってきた。腕を組み、意気揚々とユーリに語りかける。
うんうんと頷くユーリが、感情を抑えきれないとばかりに口元を押さえて次男から視線を逸らす。次の瞬間、トド松は確かに見た───ユーリがニヤリとほくそ笑むのを




かくいうユーリは、マグカップ型だ。
推しという特殊属性故か、カラ松に対して苛立ちを見せることは少ないが、仕事とプライベートのストレスは同じ場所に蓄積しているらしく、タイミングが悪いとマグカップはすぐいっぱいになる。
「最近忙しくてさ、本来やりたいことに手が回らないんだよね。メイン業務が滞っててストレス溜まるよ、ほんと」
その日、松野家を訪れたユーリは挨拶もそこそこに、ぽつりと不満を口にした。彼女が仕事の愚痴を溢すのは珍しい。
思えば、その時点で彼女のマグカップは決壊寸前だったのかもしれない。
「そうなんだー、分かる気もするし分からない気もする
「適当な相槌は差し控えて」
いつもなら笑って嗜めるおそ松の軽口を、真顔でツッコんだあたりから、警鐘は鳴らされていたのだ。

ストレスの許容量を示す比喩として、コップから水が溢れる表現は有名だ。
敢えてマグカップと形容されるのは、マグカップの形に理由がある。マグカップは──横からは中身が見えないのだ。
透明なコップかマグカップかは、人や環境によって異なるだろう。しかし少なくともその日のユーリは、決壊寸前の己自身にまるで気付いていなかった。

しばらくは、なごやかな雰囲気が場に漂っていた。
カラ松とユーリがナチュラルにイチャつくのを揶揄したり、くだらない噂話で笑い合いもした。
「そう言えば、ユーリが食べたがってたスナック菓子をパチンコの景品で貰ったんだ」
「あ、この間話したやつ?やった!お店でもなかなか見かけないんだよ、あれ」
ぱぁっと顔を綻ばせるユーリを、カラ松は愛おしそうに見つめる。兄弟が異性に向ける熱視線を直視したトド松は、何とも決まりが悪い。
「持ってくるな」
カラ松が腰を上げるのと、正座していたユーリが足を崩すのがほぼ同時だった。
距離感のおかしい二人だから、彼らの足がぶつかるのも自然な流れで、カラ松は、あ、と声を出す。
「すまん、ユーリ」
「あっつ…っ!」
唯一自然でなかったのは、ユーリの反応だった。彼女の顔は苦悶に歪んだのだ。
「え、熱い!?…す、すまん、当たり所が悪かったか?」
カラ松は慌てて地面に膝にをつき、自分が衝突したユーリの足に触れる──それが、逆鱗だった。
「うええぇぇぇえぇぇ!」
室内に轟く素っ頓狂な絶叫に、カラ松含む六人全員がビクリと肩を震わせる。
「な、何!?ユーリちゃんどうしたの!?」
チョロ松に至っては、手にしていたラノベを床に落とした。
「ハニー!?」

「あ、足…足痺れた…!」

わなわなと手を震わせながら、慎重な手つきでゆっくりと足を折り曲げようとするユーリ。心配して損したと言いだけな顔でカラ松は鼻白む。それから何を思ったか、扉をノックするみたいに無言でユーリの腿を叩いた
「うへあああぁあぁ…っ、ちょ、無理無理、無理っ!」
「えー、何それ楽しそう。俺もやりたーい」
おそ松が軽やかなステップでユーリの傍らに寄り添い、痺れた彼女の足を人差し指で突いた。楽しいことには全力投球する長男の、邪気のない笑みがまた絶妙な具合で苛立たしい
しかし、ちゃぶ台に爪を立てて悶絶するユーリの、滅多に見られない取り乱した姿はなかなかに貴重だ。トド松は笑い出しそうになる口元をスマホで隠し、傍観者に徹する。
「おい、勝手に触るな、おそ松」
カラ松は声を低くして、おそ松の肩を掴む。
長男と次男は痺れから復帰次第、ユーリにしこたま怒られるのだろうなと呆れていたその時──事件は起きた。

二人が揉み合った拍子に円卓にぶつかり、コーヒーがユーリの服に溢れたのだ。

一松と十四松はカップが倒れる音に振り返り、チョロ松とトド松は行き場のない手を伸ばすポースで固まる。おそ松に至っては、円卓から滴り服を濡らす飴色の液体に、顔を青くした。
カラ松はおそ松の背中が目隠しとなり、あ、と呟いた誰かの声でただならぬ事態であることを把握したようだった。
「ユーリ、どうし──」
おそ松を押しのけた先の光景に、彼は言葉を失う。幸いにもパンツは黒デニムだったが、トップスは白。キャンバスに絵の具を広げたような染みは、どうしようもないくらいに目立った。
「あー、もーっ!」
眉間に深い皺を刻んだユーリが、低い声音と共に仁王立ちになった。
「そこに正座しなさい、二人とも!今すぐに!」
「えっ、オレも!?」
「あ、あの…ユーリちゃん…?」
無駄な抵抗を試みる兄二人を、彼女はじろりと睨む。
「二度も言わせるな」
「はい」
「すいませんでした」
感情を剥き出しにした怒号よりも、冷徹な一言に恐怖を覚えた二人は、すぐさま背を正して深々と頭を垂れた。ざまぁ。
「あのね、いい加減にしないと怒るよ?」
「もう怒ってるじゃん」
「そうだけど?」
「素直かよ!でもそういうとこ好き!」
射抜かれるおそ松。トト子からの理不尽で容赦ない扱いがデフォの我々には、愛ある叱責はむしろご褒美だ。

立ち上がったユーリの服からコーヒーの雫がぽたりぽたりと畳に落ちる。
とにもかくにも応急処置が必要と、カラ松が脱衣所からタオルを持ってきてユーリの腹部に当てた。
「勝手に触るのセクハラじゃない?」
「えっ、すまん!」
眉の間に刻まれた皺は一層深くなり、カラ松に冷たい視線が送られる。
「…ユーリちゃん、すごくご機嫌斜め?」
「今はどんなことも火種にしかならないと思う。ここは大人しくしておこう、十四松」
口に人差し指を当て、五男に小声で牽制する一松。チョロ松はいち早くラノベに視線を落とし、無言の逃亡である。
「あのさ」
受け取ったタオルで腹部を押さえつつ、ユーリは長い溜息を吐く。
「いい年して人の痺れた足軽々しく触るとか止めて。一応異性だから。これ一歩間違ったらセクハラで事案だから。必ず倍返しするから覚えとけ。しかも客人にコーヒー溢して、もう最悪。
数ヶ月前にもこういうことあったよね?二人が仲いいのは結構だけど、時と場所とタイミングは考えてマジで」
いつものユーリなら、対象者に厳しい一撃はあるだろうが、過去の失態を掘り出して己の怒りの燃料にするような真似はしない。
マグカップに注がれた水が一気に溢れ、周囲を水浸しにしてしまったのだろう。水が乾くまでは、追加で水を足さぬよう配慮するのは骨が折れる。
「そうだね、兄さんたちが悪いよ。これがトト子ちゃんなら東京湾に沈められても文句言えないでしょ?
怒号だけで済むなら可愛いものだ。トド松はユーリの援護に回る。

「本当にごめんなさい」
長男と次男は今一度、深々と頭を下げた。




ユーリには、一松の膝上ジャージパンツとカラ松のシャツ──柄のないシンプルなもの──を渡し、濡れた服は染み抜きを施して洗濯機に放り込む。
洗濯担当にはカラ松が名乗りを上げた。本人は意図せずとも、追撃でユーリにダメージを与えた罪の意識もあるに違いない。
帰りまでに乾くかは時期的に怪しいが、最悪トド松の私服を貸すことも念頭に入れておく。

「カラ松くん、着替えありがとね」
廊下の最奥に設置された洗面台で台所用洗剤とぬるま湯を使い、丁寧にもみ洗いするカラ松の背中に、着替えを終えたユーリが声をかけた。
トド松が彼らを呼ぼうとした矢先のことだったから、言葉を紡ぐタイミングを失う。咄嗟に彼らの死角に身を隠した。
「ああ…でも、その、オレたちが悪いし…服は、ちゃんと綺麗にして返すから」
「それは本気でお願いする。結構気に入ってるんだよ」
彼の肩口に顎を乗せて、ユーリは大袈裟に口を尖らせる。傍目からはイチャついているようにしか見えない。リア充は爆ぜろ。
「…すまん。わざとじゃなかったんだが…」
「故意じゃないことは分かってるよ。でも許せる日と許せない日があるの。今日がその最たる例」
「そうだな」
「カラ松くんが私の痺れた足を掴まなければ、あんなに怒らなかったかもだけど」
ユーリは嘆かわしげに息を吐く。
「え、オレが原因?」
「足首掴んだ挙げ句叩いてきたのは誰だった?」
「…オレか」
カラ松は両手の水滴をタオルで拭い、肩を揺らす。洗面台に体を向けているが、鏡に映る彼は蕩けるような柔和な表情だ。兄弟には決して見せない、特別な。
「足が痺れて悶絶するユーリはレアだからな。
ガイアに使わされた美の化身が、警戒心なく垣間見せた愛嬌…ブラザーたちが一網打尽になってしまわないか心配するくらいキュートだぞ」
白けた顔で足を突いていたのはどこのどいつだろうか。
ユーリもトド松と同様の感想を抱いたらしく、薄い微笑を貼り付けたままだ。
「でも──」
ユーリとは反対側にあるタオル掛けにタオルを戻しながら。

「ユーリのああいう無警戒な姿を、他の男に見せるのは癪だな」

小さく言い放ったカラ松がどんな表情をしていたのか、離れた位置にいるトド松には分からなかった。
「見せざるを得ない状況に追い込んだのはカラ松くんだから」
ユーリはにべもない。
「…まぁな。それについては反省してる、一応」
カラ松は苦笑して指先で頬を掻いた。
「二人でいる時の感覚でやってしまったのは、オレが悪かった」
「ほんとそれ」
カラ松とユーリは、顔を見合わせて笑う。
二人でいる時は今日以上にイチャついてんのかお前ら、とトド松が内心で全身全霊のツッコミを入れたのは言うまでもない。血を吐きそうだ。


「というか、カラ松くん洗濯できるんだね」
染み抜きを施した服を網に入れ、慣れた手つきで洗濯機のスイッチを入れるカラ松に対し、ユーリは驚いた様子だった。
「当たり前だ、これくらいできる。やらないだけだ」
スキルはあっても実行に移さないことが常々問題視されているのだが、いっそ清々しいほどの棚上げだ。
「うーん、まさにTHE自宅警備員って感じの言い草」
それな。
トド松は深く同意する。自分もまた同類ではあるのだけれど。

意外だったのは、カラ松の顔からすっと笑みが消えたことだ。数秒の無言の後、彼はユーリから視線を外して液体洗剤のボトルを床に置いた。
「ユーリ、やけどはしてないか?」
「え?あ、うん。もうぬるくなってる頃だったし」
「…そうか」
カラ松は洗濯機の蓋を閉める。それから──

ユーリを壁際に追い詰めた。

彼女の耳朶に触れるか触れないかの距離に、右の手のひらを突く。ユーリの横髪がふわりと舞う。彼女は背後に倒れ込むように、壁に背を預ける格好になった。
バランスを取るために肩幅に開いた彼女の股の間に、カラ松が自身の膝を差し込む。
洗濯槽が回転を始める。彼らが交わす睦言を掻き消してしまうような、おあつらえ向きな騒々しい音を奏でながら。

「なら、加減しなくていいわけだ」

ユーリは瞠目する。カラ松の口から放たれる声が、ひどく無感情に聞こえた。
「…うん?」
「いつもオレがされるばかりで理不尽だと思ってたんだ。
ユーリから仕掛けてくるんだから、少なくとも同じ程度はオレがしても問題ないんだよな?」
逃げ場を失ったユーリが呆然としている間に、カラ松は重ねた。
「オレたちは対等のはずだ」
右手は変わらず壁に突きつけたまま、左手が彼女の太腿に触れる。
カラ松らしからぬ唐突な振る舞いに危うく声を漏らしそうになり、トド松は自分の口を両手で押さえた。これから何が起こるのかという純粋な好奇心と、同じ顔の兄弟が大胆に迫る羞恥心が葛藤する。
「あー、そう解釈するかぁ」
逃げ場を失ったユーリは動揺するでもなく、あっけらかんと笑う。
「一方的なのはフェアじゃない」
「それは確かに。私ばっかりして、カラ松くんが駄目っていう雰囲気を理不尽と感じるその気持ちは分かる」
「尻を触られても許せと言うなら、足なんてセクハラの内にも入らないだろ?」
膝上丈の短パンから覗くユーリの白い足は、触り心地の良さを感じさせる程よい肉付きで、健康的な色香が漂う。

「それに──自宅警備員という表現は、いただけないな」

どうやら自宅警備員が地雷だったらしい。排他松にしろ自宅警備員にしろ、彼の地雷はどこに埋まっているかまるで読めない。
しかし口汚く罵らないだけ、ユーリに対する配慮はあるようだ。

「…仕方ないな───いいよ」

ユーリの口から飛び出した台詞に、トド松は耳を疑った。
「何がいいんだ?」
「私がカラ松くんにやったことあるところまでは、お返ししてもいいよ」
カラ松が言葉を失う。彼女から同意が得られるとは露にも思っていなかった、そんな心情が窺える。
「ユーリ…」
「やられっぱなしは嫌だよね」
声質は冗談を言う時のように軽い。ちゃぶ台を囲んで他愛ない世間話に花を咲かせている時と同じトーンで、ユーリは言う。カラ松が手を出せるはずがないと軽んじているのか、それとも。

カラ松の肩に手をかけて、ユーリは艶然と微笑む。
「でも場所がちょっと…ね。ほら、ここだといつ誰が来るか分からないし」
「オレは構わないが」
間髪入れず答えるカラ松の目は据わっていた。
「え、カラ松くん見られたいタイプ?」
「そういうわけじゃないが、何も脱がそうってわけじゃない。ハニーがいつもやってるように、すぐ終わる」
短パンの裾に手を差し入れて、たくし上げるように触れる位置を徐々に高くする。不思議で仕方ないのは、ユーリが変わらず笑っていることだ。突き飛ばすことも押し返すこともせず、彼女の両手はカラ松の肩にそっと置かれたままで。
「けどほら、やっぱり問題だと思うんだよね」
可愛らしく小首を傾げてユーリは言う。

「さすがに私も、今みたいに他の人に見らながらってはちょっとアレだから」

「……え?」
カラ松が体を強張らせる。
トド松がユーリの発言を咀嚼して理解するより先に、次男が素早く振り返り──トド松と、目が合った。みるみるうちに見開かれる双眸。
「トッティ!?」
「あっ…ち、違っ…見てない!ボク何も見てないから!気にせず続きを!
「できるかぁ!」
顔を真っ赤にして叫ばれる。そりゃそうだ。
カラ松がユーリから手を離したのが見えたので、トド松は脱兎の勢いでその場を後にする。

なぜバレたのか、トド松は不思議でならない。
音を立てないよう細心の注意を払っていたし、彼女は一度だってトド松に視線を向けなかった。気付いた気配は皆無だったと断言できる。なのに、だ。

追いかけてくるカラ松に捕まるより前に、トド松は居間に滑り込む。続けざまにカラ松が駆け込んできたが、何かあったのかと訝る兄弟に彼が口にしたのは、誤魔化しという名の虚偽だった。覗き見に対する後ろめたさも手伝って、トド松もそれに乗った。
口裏合わせの共謀は功を奏し、なお真相追求を試みる兄弟をいなし、その後ユーリが平然とした顔で戻ってくることで完全な終止符を打ったのだった。


「ユーリちゃん…さっきは何かごめん」
たまたま二人きりになったタイミングで、トド松はユーリに耳打ちする。
「え?…ああ、あれのこと?
別にいいよ。トド松くんのおかげで、いいタイミングで脱出できたしねー」
からからとユーリは笑う。
「ボクがいるってこといつ気付いたの?」
そう問えば、言葉なく意味深な流し目を寄越してくるから、不覚にもドキリとする。普段の快活で健康的な色気とは、まるで異なる表情。

「知らなかったよ」

小さく、トド松にだけ聞こえる声音で言い放たれる真実。

「…はい?」
「だから、トド松くんが見てるなんて知らなかったの。カラ松くんの視線を背後に向けることができれば、それで良かった。その隙に逃げる気満々だったよ
何て?
「だから、誰もいなくても別に良かったんだよね。注意が一瞬でも他に向けば、あの体勢から抜けるのは簡単」
彼を傷つけない最良の手から順に行使する心積もりだった。いずれにせよ、カラ松の手中に落ちる気など微塵もなかったのだと、ユーリは告げる。
「でも…それって危なくない?二人きりの時ならいいって解釈されるでしょ」
手足の枷はそのままに、鎖が少し長くなっただけだ。僅かな延命に過ぎない。
「その時はその時で、別の言い訳使ったり論点すり替えたりって感じかな。すり抜ける術は多く持ってるから大丈夫だよ」
けれど直後、ふと天井を見上げてから人差し指を自らの口元に寄せた。

「カラ松くんには内緒ね」

二人だけの秘め事は、トド松に甘美な刺激をもたらした。カラ松の知らない彼女の秘密を知っている、優越感にも近い高揚感がじわりと胸に浸透する。
艶めいたいたずらっぽい眼差しを、これまで何度カラ松は向けられてきたのだろう。よく手を出さないでいられるなとトド松は感心しきりだ。自分なら無理。

カラ松相手なら逆転させる自信があった。

以前二階で彼にかましたセクハラを叱責されている時、ふと溢したユーリの言葉を思い出す。あれは本心だったのか。強ぇ。
「でもカラ松くんは本気じゃなかったと思うよ」
「は?」
驚愕の台詞が突然飛び出してきたので、トド松は唖然とする。
「え、じゃあ何?茶番?」
「うーん…そうとも言う…のかなぁ」
深く考えたことなどなかったとでも言うように、ユーリは腕組みをして唸った。トド松にはもはや理解不能の距離感だ。
「これも内緒ね」
ユーリは囁くように言って、すっくと立ち上がった。
ちょうどカラ松とチョロ松が台所からケーキとコーヒーを人数分運んでくるところで、手伝いを申し出るためだ。チョロ松からケーキの載ったトレイを受け取り、カラ松と共に居間へと戻ってくる。
「ね、カラ松くん。さっき友達から連絡があって、駅前に安いダーツバーができたんだって。今度行かない?」
「フーン、ダーツバーか…いいだろう、オレの百発百中パーフェクトショットを見せる時がやって来たようだな。あまりの格好よさに見惚れるんじゃないぜ、ハニー」
カラ松は気取った声でユーリの誘いを受ける。
円卓に置かれたトレイからは、コーヒーの香ばしい香りが漂った。
「ダーツを投げる推し、か。間違いなくいい絵…尊い
微妙に会話は噛み合わない。なのにどちらともなく視線が絡んで顔を見合わせて、同時に相好を崩す。イチャつくのは表出てやれ。
カラ松もカラ松で、つい先程まで鬼気迫る勢いでユーリを壁際に追い込んでいたとは思えないほどの穏やかな態度である。

「…犬も食わないって、こういうことか」
頬杖をついてトド松が吐き捨てると、カラ松はきょとんとしてこちらを見やった。対するユーリは訳知り顔で小さく微笑むから、一層白けた気持ちになる。
「どうした、トッティ?ご機嫌斜めだな」
「べっつにー」
曖昧な物言いは肯定に等しい。
「まぁまぁ、ケーキでも食べて気分転換しよう。せっかくおばさんが買ってきてくれたんだし。トド松くんどれがいい?」
甘味程度でほだされるものかとは思うものの、一見微妙な彼らの関係性は、本当はもっと単純明快なのかもしれない。なぜなら、曖昧模糊と解釈しているのは、他ならぬトド松自身だからだ。

彼らの日々のやり取りは、駆け引きなんて上等なものではないかもしれない。対等で、限りなく恋人に近い距離感で、けれど紙一重で交わらない線引きをして。
とっとと付き合ってしまえと、最近は羨ましさ通り越してもどかしささえ感じる末弟なのだった。

馬鹿馬鹿しい。実に、馬鹿馬鹿しい。

神松は非の打ち所がない

「おいお前らっ、俺のエロDVDどこに置いてきた!」
畳を踏み荒らす勢いで居間に姿を現したおそ松くんの剣幕に、悠々と過ごしていた五人が顔を上げる。
「そんなの知るわけないだろ」
代表してチョロ松くんが眉根を寄せる。他の四人は彼に追随するように、無言で頷く。
「嘘つけ!昨日は確かにあったのに見当たらないってことは、お前らのうちの誰かの仕業だろ!」
おそ松くんは声を荒げた。筋が浮かぶほど両手を強く握りしめる様子は、怒りのボルテージが高いことを物語る。
「お前らが俺のヤツたまに観てるのは知ってんだからな。人のことプレーンだのキャラが薄いだの散々ひでーこと言う割に、俺のAVオカズにしやがって!
外食に飽きたからたまには我が家の味に戻ろうってか!図々しいんだよ!家の味が唯一にして至高だろうが!
何の話だ。
清々しいほど論点がズレていく。

「だから知らないってば。少なくともボクじゃないよ」
末弟は真っ先に容疑者候補から外れようとする。
「おれも見てない」
「オレもだ」
一松くんとカラ松くんも容疑を否認。
「ぼくは最近映像のお世話になってない」
十四松くんに至っては、自身の所有物に関しても直近の使用を否定した。
「ほら、みんな知らないって。おそ松兄さんは以前の財布の件もあるし、どっかに置き忘れてんじゃないの?」
三人が言う財布の件というのは、おそ松くんが以前三万入った財布を盗まれたと激昂して兄弟に嫌疑をかけた事件だ。すぐさま尻のポケットに入っていることを次男から指摘を受けて収束し、しかも中には当初から五百円しか入っていなかったというオチがつく。へそで茶が沸く、馬鹿馬鹿しいの極み。

──というか。

「私の目の前でよくやるよ。これでも一応異性なんだけど」
私もまた、松野家の居間にいるのだ。
カラ松くんの傍らでちゃぶ台に頬杖をつき、彼らの性欲解消アイテムの行方について声高に議論が交わされるのを白けた顔で見守っていた。
「ユーリちゃんに気を使うような話題でもないだろ」
おそ松くんは兄弟を見据えたまま、唇を尖らせて言う。
「オカズは結構センシティブな話題だと思うよ?」
私自身は下ネタズリネタにさほど抵抗はないが、成人過ぎた童貞として大切なものを失ってはいけないと思うのだ。
「ほ、本当にオレじゃないぞ、ユーリ!」
長男曰く容疑者候補の一人であるカラ松くんが、困惑を顔に浮かべて私を見つめてくる。
「どうでもいいよ。
…まぁ確かに、おそ松くんの持ってるAVに出てくる子たちは、カラ松くんのタイプじゃなさそうだけど

「ちょっと待て」

カラ松くんが真顔。
「待って待って、ユーリちゃん!」
続いておそ松くんも、ちゃぶ台に両手をついて険しい表情になる。
「何で俺のDVDに出てくる女優知ってんの」
声こそ発さないが、他の四人も同様の疑問を抱いたらしい。畏怖に近い感情で私を見つめる。
あー、と私は唇に指を当てた。
「おばさんが六人分全部把握してリストアップしてるんだよね。コピーがここに」
私はカバンからA4の用紙を出して、ひらひらと揺らした。そこには長男から順番に、所有するDVDと本が過不足なく網羅されている。所有数や趣向には偏りがあり、大変興味深く拝見した
「ちょ…っ、おいたが過ぎるぞ、ハニー!」
タコさながらの赤い顔をしたカラ松くんに、コピーを取り上げられる。
「松代マジで何してくれてんの!」
「しかもリストアップだけでなくユーリちゃんに情報漏えいとか、母さんボクらに何の恨みが!?」
「おいっ、つーか何で僕のDVDがお前の隠し場所にあるんだゴラァ!」
見苦しい修羅場がおっぱじまった。
相変わらずクズだなぁと、今更再確認するまでもない感想が脳裏に浮かぶ。
そして残念、それはコピーのコピーだ

「いくら仲良くても、女の子の前で下品な話をするのはマナー違反だよね」
「いやまぁいいんだけどね、慣れたし」
六つ子たちが取っ組み合いの乱闘を始めるのを傍観しつつ、私は苦笑した。
「ユーリちゃんみたいな可愛い子と友達っていうだけで、十分光栄なことだと思うんだけどな。せっかくの可愛い友達を粗末にしちゃいけないよね」
「えー、本当?お世辞でも嬉しいなぁ」
可愛いと言われて悪い気はしない。謙遜するのも違う気がして笑顔で応えてから、私はすぐ隣に視線を向けた。

知らない人がいる。

「…え?」
あまりの突然のことに理解が追いつかず、動けない。
「ユーリっ、そいつから離れろ!」
それからカラ松くんの怒号。
「え?えぇ!?誰!?」




何の脈絡もなく現れたその人は、六つ子にとって招かざる訪問者であったらしい。
慈愛に満ちた穏やかな微笑をたたえ、大きな福耳と、耳に心地いい優男風イケボ。六つ子のトレードマークである松のついた白いパーカーを着用している。
彼は厳密に言うなら人間ではなく、六つ子から日々こぼれ落ちる人としての良心が集結して実体化した存在らしい。どんだけクソなんだ、この六つ子。
「前に登場した時は、僕の力不足で消されちゃったんだ。
でも兄さんたちの落としてくれた良心がまた十分に溜まって、こうして現れることができた」
柔らかな笑顔で恐ろしいワードを吐いてくる。
「こんなに可愛い女の子と友達なんて、兄さんたちが羨ましいよ」
そして、しれっと一軍並みの口説き文句を放つ。兄を称賛しつつ間接的に口説く技術レベルの高さ。

「僕は神松、よろしくねユーリちゃん」
愛嬌のある笑顔と共に手が差し出された。
「あ…うん、よく分かんないけど、よろしく」

「ユーリには近づくな」

けれどカラ松くんが私の前に躍り出たため、彼の手を握り返すことはできなかった。六つ子全員が腰を浮かせており、強い警戒心が彼らに臨戦態勢を取らせていた。
「カラ松の言う通り、ユーリちゃんはこいつに近寄っちゃ駄目。トト子ちゃんのようになったら困る」
一松くんが威嚇する猫みたいに眉を吊り上げる。
しかし彼の物言いに対し、おそ松くんはハッとした様子だった。
「ん、いや待てよ…逆にユーリちゃんが神松に靡いてくれた方が俺たち的には都合がいいかも。一旦全部リセットできるし。よし、頑張れよ神松
名案とばかりにおそ松くんが手を打った直後、カラ松くんのアッパーが長男の顎に決まる
「いっでー!」
「ジョークにも限度があるっ」
「何だよっ、俺は冗談じゃなくて、ほ──」
「次は全力でいくぞ」
「うん、冗談。言い過ぎた、ごめん」

「てか、何でまた出てくるの?何が目的?」
トド松くの問いに、神松くんは首を傾げた。
「特には」
「特には!?──って、この問いかけ果てしなくデジャヴ!」
末弟は困惑げに頭を抱えた。以前登場した際も同じやり取りが交わされたようだ。突然現れたにも関わらず目的はないと言われたら、誰だって当惑する。

「お取り込み中のようなので、私帰るね」
六つ子絡みの面倒事には関わらないが吉。こういう場合、往々にして巻き込まれて貴重な休日を浪費させられるのだ。早々に徹底して部外者決め込むのが最善の手である。
「あ、ユーリ、オレが──」
「僕に送らせてよ、ユーリちゃん。せっかくお近づきになれたんだから、もう少し君のことが知りたいな」
一軍は台詞からして違うなぁ。
神松くんは決してイケメンの部類ではない。しかし1/fゆらぎと言っても過言ではない、いつまでも聞いていたくなる声と、相手の一切合切を抱きとめるかのような菩薩の如き包容力は、外見に靡かない層にどストライクだ。
「だ、駄目だ駄目だ!ユーリだけは、絶対に…駄目だっ!」
カラ松くんが声を荒げ、私の手を引く。
「ユーリはオレが送っていく。神松のことは頼むぞ、ブラザー」
兄弟の返事を待たず、乱暴に障子を開けて玄関へと向かう。私はされるがまま、彼についていった。


「神松には近づくな」
駅までの帰り道、カラ松くんは前方を見据えたまま低い声で言う。
茜色の空が闇に溶け始める。街灯がちかちかと点灯を始め、アスファルトに伸びる影は細く長い。
「実体化の理由は横に置いとくにしても、六人分の良心の塊っていうだけあって、いい人そうだよ」
色々とツッコミ所満載なのに、ツッコミ損ねたのが悔やまれる。
カラ松くんは苦々しそうに下唇を噛んだが、私の意見を否定はしなかった。
「確かにいい奴だ。見返りを求めることなく、人の幸せのためにだけ動く。欲というものが一切存在しない、神の如き清き松。
奴と比較することで表層化するオレたちのクズっぷりに対するフォローも万全だ
神か。あ、神だった。

「…だからこそ、ハニーにだけは近づいてほしくないんだ」

「何で?自分の醜い部分で心が痛む?」
「そうじゃない」
そこは認めて改めた方がいいと思うが。
「もしユーリがトト子ちゃんのように、あいつに…」
「あ、トト子ちゃんも神松くん知ってるんだ?」
彼女の名前を出した途端、バツが悪そうな顔をするカラ松くん。
「と、とにかく、しばらくは外で会おう。マイホームに来るのは禁止だ、いいな?」
確認の体を取ってはいたが、実質の強制だった。
その後何度か追求を試みたが、彼は神松くんについて頑として語らなかった。理由は訊かず距離を取れと命じられ、渋々だが私は一旦受け入れる。
カラ松くんは、何をそんなに恐れているのだろう。




事態が進展を見せたのは、その週末のことだった。
昼食を取ってからカラ松くんとの待ち合わせ場所に向かおうと、たまたま入ったカフェのレジ付近に人だかりができていた。会計に手間取っているのかと覗いてみれば──神松くんが十人近い女性に囲まれている。
「神松くん!?」
思わず名を呼んだら、彼は振り返って私に微笑みかけた。
「やぁユーリちゃん、奇遇だね。
あ、みんなごめんね、ありがとう、気持ちだけ受け取っておくよ。そのお金はしまって、自分のために使って」
よくよく見れば、女性は全員揃って財布を手にしている。神松くんの支払いを巡った争奪戦だったらしい。

名残惜しそうにする女性陣たちに別れを告げ、神松くんは私の傍らに並ぶ。背中に刺さる数多の視線が痛いのは気のせいか。
「こんな所で何してたの?ナンパ?」
彼が白い松パーカーを来て今なお存在していることから察するに、前回同様に松野家に居候しているのだろう。彼を始末しようと六つ子が画策するだけで、その際に溢れ落ちる良心が神松くんを進化させるのだから、下手な手は打てない。
「ううん。トド松兄さんが女の子とのデートに使えるカフェを探してたから、いいお店がないか見て回ってたんだ」
兄思いの健気なええ子やん。
「途中喉が渇いたからお店で飲み物を頼んだんだけど、席を立ったらいつの間にか彼女たちが周りにいてね」
「是非支払いをさせてくれと懇願されてたと?」
溢れ出る魅力を持つカリスマか。
「僕だと女の子の気持ちが分からないから、良かったらユーリちゃん一緒に回ってくれないかな?
これから予定があるだろうし、時間があったらで構わないよ」
自然な会話の延長で嫌味や下心を感じさせず、しかも逃げ道まで先に提供する、非の打ち所のない誘い文句。あくまで調査名目という目的提示も感服する。
「いいよ。お腹すいてたし、予定まではまだ時間あるから」
「ふふ、何だかデートみたいだね」
台詞回しがやはり一軍。
「待ち合わせはカラ松兄さん?」
「そう。二時間後に約束してるから、それまでなら付き合えるよ」
「そっか」
穏やかな声音はそのままに。

「二時間経ったら去ってしまうなんて、まるでシンデレラだ。もしユーリちゃんがガラスの靴を残してくれたら、僕はきっと君を見つけるよ」

カラ松くんとは違うタイプの詩人が来た、助けて


カフェの外観や内装、盛況ぶりや雰囲気といった要素を、実際に足を運んで確認する。女性客やカップルの多い幾つかの店に目星をつけ、その中でこれは思う店で昼食にした。直近でデートの予定があるのなら、トド松くんの希望に沿えるといいのだけれど。
まぁそんなことより、どの店でも神松くんが女性にナンパされるのには辟易した。神の神々しさは隠しきれるものではないらしい。彼は金色の瞳を細め、連れがいるからとやんわりと断り、その都度私が彼女たちから睨まれる地獄のルーティンが発生した

候補地が決まった頃合いで、カラ松くんとの待ち合わせ時間が近づく。神松くんは現地まで私を送ってくれた。
セレクトショップやカフェが軒を連ねる地域の中にある公園。その中にある古い木製ベンチに、カラ松くんは腰掛けていた。
「カラ松くん」
今日も推しが尊い。私は片手を上げて彼の名を呼んだ。
しかし口角を上げながら持ち上げられたカラ松くんの顔に、次の瞬間貼り付いた感情は、驚愕だった。
「…ユーリッ」
上げた手を勢いよく奪われ、まるで神松くんから引き離すように抱きすくめられる。
「え」
「なぜハニーと一緒にいるんだ、神松!」
ことと次第によっては容赦はしない、そんな意思が込められた低い声音。
私の視界には、カラ松くんの肩越しに公園の景色しか映らない。彼らが互いにどんな顔で対峙しているのかは、見えない。
「たまたま会って、一緒にカフェ巡りしてただけだよ」
「カフェ…」
カラ松くんは単語を反芻し、事態を飲み込もうとする。腕の力が緩んで、私は解放された。
「ユーリ、神松に何もされなかったか?」
「何もって…別に。カフェ巡りも、トド松くんのためだよ」
カラ松くんの黒い瞳が不安に揺れる。彼がまだ私の腰に手を添えているのは、神松くんに対する畏怖の念故だろう。

「じゃあ楽しんでね、カラ松兄さん、ユーリちゃん」
しかし神松くんは彼の態度に機嫌を損ねる様子もなく、踵を返す。
「あ、うん、またね」
神は万物を慈しむが、決して何ものにも執着しない。




神松くんの姿がすっかり見えなくなってようやく、カラ松くんは私に向き直った。猜疑心の塊みたいな目で、私を見つめる。
「ちょっと何その目。私何かおかしい?」
神松くんが現れてからというもの、カラ松くんの態度がおかしい。得体のしれない人格に対する恐怖以外の要素が間違いなくあるのに、私には話そうとしない。
「なぁ、ハニー」
「うん」
「神松と…本当に、何もなかったか?」
先程の問いが繰り返される。
「何もって、何?さっきも言ったけど、カフェ見て歩いたりご飯食べたりしただけ」
「それを男女間で行うと、一般的にはデートと言うだろう」
やたら神松くんとの関係性に固執してくるな。決定的な事柄は語らないのに、私からは言葉を引き出そうとする。無理矢理蚊帳の外に置こうとする彼の意向に、苛立ちを覚えた。

「その…手を繋いだりとか、き、キス、とか…」

言い淀むカラ松くん。
「は?あるわけないよ」
「しかし神松は、理想中の理想、完璧中の完璧で、非の打ち所がないだろ?」
警戒したり褒め称えたり忙しいな。
「いやまぁ、イケメンって感じではないけど安心する顔してるし、一軍の人って感じだとは思ってるよ」
「だから、ほら、ええと…オレよりあいつの方がいいとか、そう思ったり──」
私は即座に首を振る。
「恋愛対象じゃないよ。まったく、男の人といたら何でもかんでも恋愛に繋げるの、魔法使い一歩手前の童貞の悪い癖だよ、反省して改めて」
これ言うの何度目だ。異性といるだけで男女の仲と疑われるなら、職場で仕事なんてできやしないじゃないか。

「じゃあ、オレと神松なら…ユーリはどっちの方がいい?」
何その私とあの子どっちが好きなのみたいな言い方どこ所属のヒロインだお前は。
「カラ松くん」
逡巡の素振りもなく即答した私に、ホッと胸を撫で下ろすカラ松くん。
「ふふ、安心した?ついでに抱かせてくれる?」
「安心した、抱かせない
そこは釣られろ。

「うーん、じゃあデカパン博士の薬で私たちの性別が入れ替わったら、観念して抱かれる?」
悪戯心が顔を出して、私はさらに質問を重ねる。カラ松くんはギョッと目を剥いた。
「究極の選択すぎないか、それ!」
「私としては次の手くらいの気軽さ」
「最悪だ!」
ツッコミに切れがあってよろしい。しかしノーの姿勢を貫きながらも私の腰から手を離さないのは、この応酬が意味するところを測りかねているのだろう。
けれど残念。裏側も真意も、駆け引きと称されるようなものは皆無だ。私のカードは常に表である。
「最悪で結構。それで回答は?
例えば性別が入れ替わって、致さないと出られない部屋に閉じ込められたら、いい加減私に抱かれてもいいかなって思う?」
カラ松くんは下唇を噛む。
「私の質問にも答えてよ」
促せば、気まずそうに視線が逸らされる。しかし拒絶が彼の口から紡がれることはなく。

「…それくらい追い詰められたら、いい、と思う…かも…」

絞り出すような小声だった。
私が聞きたいのは、見栄や矜持といったカラ松くんが誇示したい一切を取り払った、彼の本心だ。
「そっか」
私はにこりと微笑を浮かべる。
「よし、じゃあ今すぐデカパン博士に薬と部屋の用意を──」
「ノンノンノーン!ウェイトだハニー!気軽に実現させようとするな!」
腰に添えられた手を振り払ってラボへと急ごうとした私の肩を、カラ松くんが掴む。
「うん、いい反射神経。ほら、でもこれで私が神松くんと何にもないって納得できたでしょ?」
「ユーリ、まさかわざと…」
あわよくばとは思った。

その後、カラ松くんは前回の顛末を聞かせてくれた。
実体化して数日で就職を決めてくるなど模範的な生き様を見せつける神松くんに親が心酔したことから始まり、トト子ちゃんが積極的に彼との進展を望んだこと。それまでいかなる手をもってしても振り向かせられなかった幼馴染が、神には一瞬で陥落する様を目の当たりにして、私も同様の道へ落ちるのではと危惧したらしい。
再現性のない唯一無二のカリスマ性は、カルマを背負う現代人を惹きつけて止まないのか。
「何もないと分かって嬉しいんだが、トト子ちゃんでさえ神松に惹かれたのに、ハニーはどうしてあいつを何とも思わないんだ?」
わざわざ論ずるまでもないことだ。
「もっと魅力的な人がいるのに、目移りするほど暇じゃないよ」




その日の帰り道、チビ太さんが屋台を出しているすぐ側にある団地に囲まれた公園で、おそ松くんたちが神松くんと対峙している姿を見かけた。五人は地面に手をつき深々と頭を下げ、物々しい雰囲気だ。
「神松…っ」
カラ松くんが反射的に躍り出ようとするので、服の裾を掴んでそれを制する。行動に移すのは、動向を窺ってからでも遅くはないはずだ。

「帰ってください!」
声を揃えて彼らが言うのは、帰還の懇願。
真綿で首を絞められるような神による地獄に音を上げたようだ。彼が与えるのはあらゆる不快感や挫折を撤去した一見心地良い環境だが、達成感や充足感といった気分の高揚は根こそぎ奪われる。平坦で単調な日々は、六つ子にとっては絶望にも等しい。
「帰るって、家に?」
「違う!あの世に!消滅して!」
要求がどストレート。
「せっかく兄さんたちから新しい命を貰ったのになぁ」
神松くんは相変わらず落ち着き払った声で、要求の受け入れを渋る。
「トト子ちゃんもユーリちゃんも二人ともお前に持ってかれたら、お前を殺れないなら、俺たちが首吊るしかないんだよっ」
ああ、そうか。彼らが神松くんを畏怖の対象とするのは、彼らにとって最後の希望である親しい異性の心さえも奪取していくから。神松くんの台頭は、六つ子にとって文字通り地獄なのだ。
「それは困る。兄さんたちのことは大切だから、生きていてほしいのに」
「じゃあ…っ」
「トト子ちゃんともユーリちゃんとも、僕は付き合ってないよ」
おそ松くんたちの必死の懇願も、神松くんには暖簾に腕押しだ。
私は付き合うどころか恋愛対象でさえないが、先程カラ松くんから聞かされたところによると、トト子ちゃんは神松に夢中だったらしい。

「くそ…っ、かくなる上はまた悪松を呼び出すしか」
膝を折った一松くんが忌々しげに吐き捨てる。
「命を削る究極召喚だから、使いたくはなかったけど…」
「いやでも僕たち、もうクソな部分しか対抗できるとこないよ!」
「死なばもろとも!」
「ちょっと!相打ちとか嫌だからね!せめて童貞卒業してからにしてよっ」
複雑な胸中を漏らして逡巡する兄弟に対し、おそ松くんがおもむろに片手を広げた。
「俺たちに選択肢はないんだよ、トド松。殺るか殺られるか、だ。折衷案なんて優しくて平和なものはない」
その言葉に、残り四人が覚悟を決める。
次の瞬間、彼らの背中から突如として黒い煙が立ち上り、形を成していく。つい今しがたまで晴れ渡っていた空には暗雲が立ち込め、遠くから雷鳴の音が響く。

彼らから離れているカラ松くんもまた、崩れ落ちるように地面に片膝を立てた。
「カラ松くん…?」
「逃げるんだ…ユーリ…っ」
いきなりファンタジー世界始まった。そういやこいつもクソの一員だよなとどこか冷静な私。っていうか悪松って何なの、召喚獣?
この世界観には一応関係者として溶け込んでおいた方がいいのだろうか。他人事の茶番にしか見えなくて、恐怖心が湧かない。こういうのを正常化バイアスというのかもしれないけれど。
良心の化身である神松くんに対抗するには、六つ子のクソな部分──つまり悪心を利用するのだろう。私は展開を察した。
六つ子が秘める悪心は、良心の比ではない。逆転は容易かと思われた。

「困ったなぁ。でも僕も前回から何も学んでないわけじゃないんだよ」

神松くんは穏やかな笑みを崩さない。追い詰められた危機感は、彼からはまるで感じられなかった。
彼の背中に神々しいまでの後光が差して、目が眩む。彼の数倍の体積を持つ邪悪な漆黒の影──悪松なのだろう──が、僅かだが怯んだ。
素人目にはまだ闇松が優勢て見て取れるが、相打ちとなれば双方無傷では済まないだろう。松野家の五人は悪松にエネルギーを吸収されたのか、意識を喪失して地面に折り重なっている。
「ただ…兄さんたちが苦しむのは辛いな。今回は残念だけど、悪松を連れて帰ることにするよ」
小首を傾げ、余裕のある表情で。
彼は悪松と呼ぶ黒い影と対峙するな否や、緩く両手を広げる。異形の型を成していた影は煙の如く崩壊し、やがて霧散した。僅か数秒の逆転劇である。

「またね」

別離を告げるその時、最後に神松くんは確かに──私を、見た。




悪松の消滅により精神エネルギーを取り戻したカラ松くんは、片手で頭を押さえながら気怠そうに立ち上がる。
「歩けそう?」
「…大丈夫、少しフラつく程度だ」
公園を見やれば、おそ松くんを始めとする五人も億劫そうに体を起こし、神松くんの消滅に抱き合って歓喜している。七人目の存在は、六つ子にとってよほどの脅威だったようだ。
「ハニー」
「うん」
「神松のことでは迷惑をかけたな。その…色々取り乱して醜態も見せたし」
トト子ちゃんの経験から、私が彼に惹かれるのではと心配だったのは無理もない。神松くんはいわば神であり、人の心を惹きつけて止まないカリスマ性の持ち主だった。
「でも」
カラ松くんの頬が赤く色づく。

「ユーリが神松に靡かなかったのは、本当に嬉しかった…」

ふむ、と私は腕組みをする。
「つまり、信じてなかったわけだ?」
「そ、そういうわけじゃ…ないんだが」
「自信がなかったとか?」
私の問いを受けたカラ松くんは、フッと鼻で笑った。
「ノーキディングだぜ、ハニー。ガイアの申し子であるオレの魅力は唯一無二にして至高!世界を統べるゴッドであろうとも適うはずがないじゃないか」
しかし腕組みをして自信たっぷりに言い放った直後、彼はすっと視線を落とした。
「──その…正直、オレがあいつに勝てるところは何一つないというか…」
その言葉を聞いて、私は笑う。
「人の魅力は勝ち負けじゃないよ。優劣もない」
「しかし…」
「しかしもかかしもないの。
…まったく、こんなに常日頃から全力で推しを愛でてるのに、まだ私の愛情が伝わってないと見える」
「いや、それは、あの…」
「やはり抱くしかないか」
「なぜその結論に辿り着く」

そういうところだけ素で真顔になるの止めていただけませんか。

私は顎に拳を当て、うーんと唸る。
「あ、そっか、でもよく考えたらそうだよね。カラ松くんが心配になる気持ちは分かるよ」
「え?」
「私だって、ナイスバディで超絶可愛いアイドルと比べたら月とスッポン…ううん、比較することさえおこがましいよね。そりゃアイドルの方が何倍もいいよ」
私が納得して悩ましげに息を吐くと、カラ松くんは目を瞠り慌てて首を振った。
「そ、そんなことない!」
狼狽して声が震える。

「オレにとってユーリ以上に魅力のあるレディなんて、そんなものどこを探したっているもんか!」

「ほら」
私は両手を広げる。にこやかな微笑みと共に。
「…ユーリ…?」
「私の気持ち、伝わった?」
問いを投げた後は、数秒の沈黙があった。受け止めた言葉を咀嚼して脳に辿り着くまでに時間を要したが、理解した途端、カラ松くんの頬は一層濃く染まる。
あ、と小さな声が彼の口から溢れた。そして戸惑いがちに視線を上げて私を見つめる。
「…伝わり、ました…」
「よろしい。では帰ろうか──マイプリンス?」
くく、と笑い声を押し殺しながら、片手を胸元に当て、もう片方はわざとらしく手首のスナップを効かせてカラ松くんに差し伸べた。からかう意味合いも含んでいたのは、否定しない。
だからカラ松くんが眉根を寄せるのは当然の流れだとしても。

次の瞬間、まさかその手首を掴まれ、抱き寄せられるとは思いもよらなかった。

背中に大きな手が触れて、胸が密着する。彼の表情は見えなくなって、けれど静かな息遣いが耳に届く。
「ユーリ…あまりオレをからかうんじゃない。これでも自制してるんだ」
苛立ちさえ混じる低い声。背中に触れる手には力がこもった。

「いつまでも大人しくしてると思うなよ」

私は瞠目する。
こういう顔面接近肌密着サービスは札のお金をお支払いすべき案件では?
これが無料なのかと目頭を熱くさせていたら、公園から出ようとするおそ松くんたちと目が合った

その後カラ松くんが兄弟からどんな目に遭わされたかは、今更述べるまでもないだろう。つくづく運に見放された男である。

眠れない日の深夜談話

眠れない夜は、意外に身近なものだ。いつ自分の身に降りかかるやもしれない。
例えば極度の緊張下に置かれて神経が過敏になったり、就寝すべき時間外にたっぷりと惰眠を貪った日には、睡魔は待てども待てども来たるべき時間にやって来ない。
さて、なぜこんな話をしたかというと、今日私は夜更かしを決意したからだ。
理由は、前述したうちの後者である。週末の金曜日、一週間の仕事を終えて帰宅した後、ベッドの上で仰向けになりスマホを眺め、そのまま寝落ちしたのだ。
次に目が覚めた時は、三時間が経っていた。


「そんなわけで、今日は眠くなるまで起きてるつもり。明日は雨だから家から出ないし、自堕落な一日を過ごそうと思って」
「レディにとって夜更かしはお肌の敵なんじゃないのか、ハニー?」
スマホを通して聞こえてくるのは、嗜めるようなカラ松くんの声。
軽く夕飯を食べた後にシャワーを浴びて部屋に戻ると、見計らったように電話がかかってきた。表示ナンバーは松野家の固定電話。パジャマ姿で玄関前に立つ彼を想像して、無意識に口角が上がる。
「寝れずに悶々とする方がストレス溜まってお肌に悪いよ」
「詭弁な気がしないでもないが」
「気のせい」
即座に突っぱねたら、受話器の向こうでカラ松くんは笑ったようだった。
「いやすまん、奇遇だなと思ったんだ」
「どういうこと?」
「オレも今日は明け方まで起きている心積もりだったんだ。一時くらいから昼寝をして、目が覚めたら七時だった
ちょい待ち。異議あり。
仕事帰りのうっかり寝落ちと、ニートのだらしない昼夜逆転を一緒にしないでいただきたい。まぁ、言うだけ徒労なのだろうが。
「こういう時、カラ松くんがスマホ持ってたらいいのにね」
「スマホ?」
「うん。ビデオ通話できるでしょ?」
私が言えば、カラ松くんは、ああ、と納得した様子だった。
「カラ松くんがスマホ持ってて、松野家にWi-Fiが通ってたら、だけどね。お互いの顔を見ながら会話したり、飽きたらダラダラもできて便利だよ」
「しかし画面越しだろ?」
「まぁね」
電話越しにカラ松くんが唸る。そして──

「オレはユーリに直接会いたい」

あー、うん。
正直に言ってくれるのは嬉しいが、今はそういう話じゃない。論点ずらすな。
「今から会いに行くのは駄目か?
ユーリさえ良ければ、二十四時間やってるファミレスやファストフード店という手もある」
彼の提示にした案に、私は眉を寄せる。
「外だと周りに気を使うから、今日は家がいいな。全力でだらけて、眠くなったら寝るパターンでいきたい」
「なら、オレが会いに行くのは?」
「来る分にはいいよ。お酒はないけどね」
私は笑って応じる。終電はまだずいぶん先で、自堕落なニートの六つ子にとって今の時刻は活動真っ最中の時間帯だ。
「そうか、アルコールはなしか」
彼もまた電話口で笑い声を溢す。
アルコールで眠気を誘うことはしたくない気分だから、今夜はシラフを貫くと決めている。
私とカラ松くんが会うのは二日後の日曜。今夜いかに自堕落に過ごそうとも、明日生活リズムを元に戻せばいい。
でも───

「声聞いてたら、カラ松くんに会いたくなっちゃったな」

この言葉を、彼はどう受け止めるのか。反応を見たくて、投げかけた。
「…ユーリ…っ」
万感の想いを込めて私の名が呼ばれる。電話機の向こうで、カラ松くんはどんな表情をしているのだろう。
「ユーリ、オレは──」
「ごめんごめん、変なこと言っちゃった。明後日楽しみにしてる。…あ、これから観たいドラマ始まるから、そろそろ切るね。お休み」
強引に会話を打ち切って、スマホをテーブルに伏せた。
長い夜の始まりだ。




九時開始の二時間ドラマが中盤を迎えた頃、突然インターフォンが鳴った。
私は驚くでもなく腰を上げ、通話のボタンを押す。画面には、予測していた人物の顔が映った。
「ちょっと待ってて」
応答するなり、小走りで玄関へ向かう。近隣の迷惑にならないよう極力音を立てないよう意識するが、気が逸って上手くできない。
玄関ドアを開けた先で私が出迎えたのは──いつものパーカー姿で、コンビニの袋を下げた松野家次男坊。

「来ると思ってたよ」
いらっしゃいと歓迎の言葉に続けて、私は言う。
「勘がいいな。ハニーのおねだりに応えにはるばる来たぜ」
前髪を掻き上げる気障ったらしいポーズ。その背中にはリュックが見えた。
「あ、これか?着替えを持ってきた。親愛なるハニーと優雅にミッドナイトを過ごすには、パーカーでは味気ないからな」
まさかバスローブじゃなかろうな。それは危険極まりない、カラ松くんの貞操が
「夜更しする気満々でいいね。夜はこれからだもんね」
私はドアを開け放ち、彼を中へ招き入れた。


部屋に入るなり、カラ松くんは脱衣所で服を着替える。
パジャマでも着てくるのかと思いきや、白いラインの入った紺のジャージだった。上着のファスナーは全開にして、中は白のティシャツ。程よい緩さが一段と推せる
テーブルに置かれたコンビニの袋に入っていたのは、麦茶のペットボトルとつまみだった。アルコールは摂取しない私に倣う心積もりらしい。
「ところで、ユーリ」
ソファに座り、麦茶の蓋を開けたところでカラ松くんが口火を切った。
「…電話でああいう言い方はズルいぞ。オレが来ないパターンは想定しなかったのか?」
どの言葉かすぐに予測がつく。
隣に腰を下ろして、私はかぶりを振った。
「しなかった。きっと来てくれると思ってたよ」
カラ松くんの頬が赤く染まる。けれど直後、慌てて居住まいを正し、つけてもいないサングラスのズレを直す仕草をした。
「つまりオレは、ハニーの仕掛けたトラップにまんまとかかったというわけか」
「ひどいなぁ。お互いに夜更ししたいっていう利害の一致でしょ」
「まぁ、それは否定できん。
…実を言うと、ブラザーたちが寝入った後にどう時間を潰すか悩んでたんだ。ユーリからの誘いは渡りに船だった」
「ほら、やっぱり」
「───ただ」
少し間があって、カラ松くんは急に眉をひそめて真剣な眼差しになる。

「深夜に男を招き入れる不用心さは、感心できないからな」

耳にタコができるほど聞いた台詞だ。私は肩を竦める。
「いい加減信頼してほしいなぁ」
「警戒心のなさ以外には全幅の信頼を寄せてるさ」
何だこの絶妙なアメとムチ。呆れながら笑う顔も可愛くて、ほんともう真剣に抱かせてほしい

「おそ松くんたちには何か言われなかったの?」
深夜に外出となると、いかに相手が二十歳超えた大人であろうとも、外出先くらい訊かれるだろう。正直に行き先を告げたところで、快く見送ってくれる兄弟ではない。
不思議に思っての問いだったが、彼の返事は案の定と言えるものだった。
「一階に水を飲みに行くフリをして出てきた」
「あー」
それは悪手じゃないか。唖然としたのも束の間、私はベッドの上で振動するスマホを手に取る。ディスプレイにはトド松くんからの二桁の着信とメッセージストーカーか。
カラ松くんが来た旨を入力したら、即座に既読になり、『やっぱり!最悪!』とシンプルな罵倒が返ってきた。
私はカラ松くんの傍らに並び、インカメで撮った二人の写真をトド松くんに送る。写真のカラ松くんは、口を半開きにしてきょとんとした表情だ。
「なぁハニー…それ、火に油を注いでないか?」
「夜更しするだけだから、一時間ごとに証拠写真送るねって伝えたよ。あ、ほら、それならオッケーだって」
トド松くんから届いたメッセージを見せながら、私は言う。
松野家の五人も今から麻雀に勤しむらしい。雀卓を準備している写真が送られてきた。




二時間の映画を一本観終え、日付が変わった頃。
冷蔵庫から新しい飲み物を出したり、座ったままストレッチをしたりとおのおので休憩を挟んだ後、私はスマホをテーブルに置いた。
「サイコロトークしようよ」
スマホの画面に映し出されるのは、何の変哲もない白いサイコロが一つ。
「サイコロトークってアレか…出た目に対応した話題を話すっていう」
「そうそう。何が出るのか分からない緊張感があって、面白そうでしょ。カラ松くんからいこうか、サイコロタップしてみて」
言われた通りに彼が画面に触れる。平面上でサイコロが転がるモーションの後、出た目は四だった。サイコロの下にお題が表示される。
「…『最近考えさせられたこと』?」
ふむ、とカラ松くんは顎に手を当てて思案顔。
けれどすぐに手を離して、私に向き直った。

「これから先のことを、たまに考える」
いつになく静かな声音で。
「だいぶ前に、ブラザーたちと同級生の結婚式に…正確には式と披露宴だな、それに参列した。
あの時は、何て茶番だと思ったんだ。たった一日のために大金はたいて、もったいないとさえ感じてた。
食べたコースの食材とか、結婚以前に同棲は無理だとか、でも子供はいいなとか、帰りにそんな話をしたのを今も覚えてる」
カラ松くんは苦笑する。劣等感故の負け惜しみ、それに近い感情に翻弄されたのだろうと察しがつく。
「一人の相手と何十年と一緒に暮らす、そんなことができるのか…そもそもイメージさえつかなかった。だから当時のオレの答えは、ノー、だった」
「当時ってことは、今は違うの?」
ソファの背もたれに背中を預け、先を促すつもりで尋ねた。
「フッ、愚問だぜ、ハニー。何人たりとも、この松野カラ松を縛ればしない!カラ松イズフリーダム!
両手を広げて恍惚の表情を浮かべるから、私はローテーブルに頬杖をついた。訊くまでもなかった、失策。
相変わらずだなと呆れた矢先、カラ松くんはゆっくりと両手を下ろす。その顔にはもう、根拠のない多幸感は映ってはいなかった。
「…以前のオレなら、そう言っただろう」
グラスに注がれた烏龍茶で唇を湿らせて、彼は微かに微笑んだ。

「今なら、結婚したあいつの気持ちが分かる。
自分の人生全部捧げてもいいくらい誰かに夢中になるっていうのは、そういうことなんだな」

「…カラ松くんにも、結婚願望はあるんだね」
何だか意外な気もした。
人生設計なんて高尚なものは思考から排除して、いかに親のスネをかじり続ける期間を延長するかに力を尽くすとばかり思っていたからだ。成功者に対する妬み嫉みを悪しざまに口にしながらも、現実から目を逸らしてぬるま湯に浸かる日々を望んでいる、と。
カラ松くんは照れくさそうに私を見る。
「そうだな、今は…ある、な」
尊い。
「その…ユーリは?結婚願望とかあるのか?」
そうだなぁ、と私は声に出して天を仰ぐ。見慣れた白い天井が視界いっぱいに広がった。
「結婚すると、その人に何か起こった時──例えば入院した時とかに、側にいられる権利があるんだよね。
普段一緒に楽しくいられるのも大事だけど、万一の時には側にいたいから、そういう意味でも、好きな人とは結婚したいな」
結婚は契約だ。相手の人生に責任を持つという。権利と義務はいつだって紙一重で存在する。
「現実的だな」
「ロマンだけで飯は食べていけないしね」
それだけの覚悟を持って婚姻届に署名をしても、止むに止まれぬ事情で別離を選ぶ人もいる。未来が確約されない点では、ギャンブルにも近い。婚姻の誓いを結んだ人たちは様々な事象に折り合いをつけ、破綻の芽となり得る危険分子を排除し、均衡を取りながら毎日を生きている。
「幻滅しちゃった?」
大袈裟に肩を竦めてみせたら、カラ松くんは微笑みながら首を振った。
「いや、むしろもっと好───って、ええと、何だ、そういう意味ではなくてだな、こう…あの…」
みるみるうちに、茹でダコみたいに顔が赤くなっていく。

「すごくいいと…思う」

曖昧で遠回しな表現に行き着いた。
「そう?」
「あ、ああ…うん、いいと思うぞ。ユーリの伴侶に選ばれる男は間違いなく──幸せだ」


話を戻そう、と彼はわざとらしい咳払いを一つした。
「改めて思えば、いい式だった。チャペルの中に牧師がいて、新郎と新婦が誓い合うんだ」
カラ松くんは言いながら、再現するように私の左手を自分の手のひらに載せた。もう一方の手を上から重ねて、私の左手は優しく包まれる。
真っ直ぐ向けられる強い視線。ここが自分の部屋だということを一瞬忘却しそうになる。

「松野カラ松は、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、有栖川 ユーリを妻として愛し、敬い、慈しむことを誓います」

愛おしむように言い放たれる誓いの言葉と、細められた双眸と。
私は口を半開きにして、さぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。なぜなら──
「いや、それ牧師が問いかける台詞
「オレが言った方がセクシーだろ?」
何か言い出したよ、この人。
「うん、それについては同意しかない。録音するからお代わりお願いしてもいい?
「駄目だ」
「えー、何で?サービス精神旺盛なカラ松くんはどこ行ったの?」
異議を唱えても、彼は頑なに首を縦に振らない。
「何度も言うと有難みがなくなるだろ」
そうなんだけど、そうなんだけども!
「…未来によっては、何度でも聞けるさ」
しかしカラ松くんがそう呟いた声は、苦悩する内なる自分を律するのに必死で、私の耳には届かなかった。
「え、ごめん、聞いてなかった。何?」
「何でもない!」




サイコロを振って私が出した目は六だった。題目は『最近のニュース』。
私は腕を組んで眉根を寄せる。ニュースというニュースはあるし、何なら彼に語って聞かせたいと目論んでもいた。提示する時期を見計らっていた頃に、このサイコロの目。
「本当はもうちょっと内緒にしておきたかったけど…」
思いの外もったいぶった言い方になってしまった。
きょとんとするカラ松くんを尻目に、私はキッチンから白いティーカップとケトルを運んでてくる。
「紅茶か?」
カップに入ったティーパックを覗いて、カラ松くんが訊く。
「惜しい、ハーブティーだよ」
「ハーブティーが最近のニュースなのか?」
戸惑いがちに投げられる問い。意味が分からないとその顔は物語る。私はふふと笑った。

「青い色のハーブティーです」

カラ松くんの目が僅かに瞠られる。
「この前お茶の専門店で見かけて、可愛いパッケージに一目惚れしちゃった。カラ松くんと一緒に飲もうと思って」
沸いたばかりの湯が入ったケトルを持ち上げて、ティーカップに注ぐ。
「これ見た瞬間、カラ松くんだぁって思ってさ」
今の私はきっとだらしない表情をしているに違いない。カラ松くんを驚かせたくて用意していたのに、一週間以上言及を避けていたのだ。やっと口にできる開放感と、彼が示す予想以上の反応に顔が綻んで仕方ない。
「ユーリ…」
「ほら、見て見て」
袋に封入された茶葉が揺れ、鮮やかな青が溶け出していく。透明だった液体が、数秒後には淡い水色に染まった。
「うん、やっぱり青が似合うね」
「ハーブティーに青なんて色があるんだな」
「珍しいよね。しかもこれ、どんどん色が変わっていくんだよ」
話しているうちに、ティーカップの中身は水色から薄紫へと色を変え、やがて琥珀色が広がった。
「え、何だ、これ。普通にすごい…」
刻々と色変わりしていく様子を目の当たりにして、カラ松くんは唖然としている。
私自身は店員から聞いていたため衝撃はさほどでもないが、それでも鮮やかな青が琥珀へと移り変わる様はうっとりと見入ってしまった。
「でしょー!これが一緒に見たかったんだー」
夜明けの空が、白いティーカップの中で再現される。両手に収まる小さな世界で流れる時間を、天空から見つめているみたいに。
何度か息を吹きかけてから、カップの縁に口をつけた。カラ松くんもこわごわと私に倣う。
「ハーブティーって飲んだことある?」
「ない。こういうのはトッティの専売特許だ」
「そんな格式高いものでもないと思うけど」
「──あ、美味い」
ぽつりと溢される感想に、私はにこりと微笑む。
「ハーブティーというから独特な味かと思ったら、そうでもないな…飲みやすい」
「癖もないし、ほっこりするよね。リラックス効果もあるカモミールが入ってるから、そう感じるのかも」
カフェインも入っていないから、深夜に罪悪感なく飲めるのもメリットだろう。
「天然の素材でこんな神秘的な青が出せるって、本当すごいことだよね。
青い色は一瞬だったけど、やっぱりカラ松くんに似合うって確信が得られて良かった。この組み合わせなかなか推せる
深夜テンションも相まって、私は知らず知らず饒舌になる。ついでにトド松くんには定時連絡ついでに、青いハーブティを見下ろす推しという最高の写真を数枚に渡って送りつけた。
彼からの返事は『データ通信量の無駄遣い』とにべもない。相変わらず兄弟に対しては辛辣を極める。




ハーブティーのおかわり持ってくるねと、ユーリの姿がキッチンに消える。
カラ松は片手で口を覆った。油断すれば口から声を発してしまいかねなくて、高鳴る鼓動を落ち着けるため呼吸を整える。

ユーリはズルい、本当にズルい。
否、油断していた自分にも非があるかもしれない。ニュースというから、自分には無関係な案件と決めてかかっていた。
そんな状況で彼女から投下された爆弾はあまりに大きく、挙動不審にならなかっただけ成長したと自分を褒めてやりたい気分だ。
キッチンからは、ケトルに水を追加する流水音が聞こえてくる。どうかもう少しだけ戻ってきてはくれるなよと、カラ松は内心で祈った。

ふと目を向けたユーリのスマホの画面には、サイコロアプリが立ち上がったままだ。何気なく触れたら、画面の中でサイコロが転がる。出た目は、五。浮かぶ文字は──『今までで一番幸せだと思ったこと』。
「これこそ愚問じゃないか?」
カラ松は笑う。

「ユーリに出会えたこと、かな」

でも、とカラ松は思い留まる。
幸福度の度合いで言えば、ユーリと再会して次の約束を取り付けたあの瞬間よりも、つい今しがたカラ松のトレードカラーのハーブティを嬉々として披露してくれたことに、より一層せを感じている。いつ切り出そうかと胸を踊らせていたであろう心境を思うと、ユーリがたまらなく可愛く、愛しい。自立した大人の見た目とは裏腹に、子供みたいな純真さも秘めていて。
幸せなのは間違いなく、今この瞬間の方だと断言できる。
会うたびに、惹かれていく。昨日よりも今日、今日よりも明日、際限がないくらいに。
「…ユーリに会っている時は、ずっと」

幸せを、更新し続ける。




私がキッチンから戻ってきた時、カラ松くんは顔の筋肉を弛緩させた状態で遠くを見ていた。その姿はさながら酔っぱらいで、アルコールは一滴も嗜んでいないのにどうしたのかと驚いたものだ。
明かりの灯るスマホの画面と、表示されていたサイコロの目で、何か思い浮かべたらしいことまでは察したが、尋ねたところで本人は決して口を割らないだろう。私も敢えて問わない。
「今更なんだけどさ」
二杯目のハーブティーを飲み干した頃、ふと浮かんだ疑問を切り出す。
「どうした?」
「カラ松くんってダブルスタンダードじゃない?いわゆるダブスタ」
「だぶす…え?」
ポカンとする彼の横で、私はテーブルの上に組んだ両手の上に顎を載せる。
「私には深夜に男を部屋に入れるなとか言うくせに、自分は深夜に女の人の部屋に入り浸るんだもんね」
「……あ」
数秒間の沈黙の後、カラ松くんはハッと我に返る。私の発した言葉の意味を、正しく理解したようだった。
あたふたと忙しなく両手を動かし、え、あ、と単語にさえならない声を発する。
「す、すまん…完全に軽率だった」
「でしょ?」
「ユーリに会える口実になると思ったら、その…」
私は目をぱちくりとさせる。推しのリップサービスがすごい。

「すぐ帰る!そ、そうだよな、ミッドナイトに年頃のレディの部屋に居座るなんて、紳士のすることじゃ──」
「待て待て、もう終電ないよ。タクシー代だって持ち合わせないんでしょ?」
慌てて立ち上がろうとするから、服の裾を掴んで引き止める。
「…うん」
やたら殊勝だ。半泣きで背中を丸める姿が素晴らしく可愛い。
「何も帰れって言ってるわけじゃないの。私の都合が合えば、カラ松くんはいつでも来てくれてもいいんだよ。今まで、ずっとそうしてきたでしょ」
「しかし…」
「カラ松くんは帰りたいの?」
その問いには、全力で首を横に振ってくる。
「思ったことない!ハニーといて、帰りたくないとは思っても、帰りたいとは、一度だって!」
ならば。
「私が言いたいのはね、台詞と言動には一貫性を持とうってことだよ」
「…分かった、気をつける」
こんなやりとりを、もう何度も私たちは交わしている。舌の根も乾かないうちに同じことが繰り返されるのだろうが、根気よく伝えていくしかない。




不意に話題が途切れて、私は何とはなしにアプリのサイコロをタップする。コロコロと画面上を回って、一が出る。題目は『自慢話』だ。
額を突き合わせるようにして覗き込んだカラ松くんが、ふぅと大きな溜息をつくのが聞こえた。
「ハニーの自慢話なんて、一つしかないじゃないか」
みなまで言うなと、憂い顔。
「オレという唯一無二のダイヤに出会えたこと、だろ?」
片手を自身の胸に、もう片手を横に広げて、カラ松くんは力強く言い放つ。私は目を剥いて彼を見る。
「よく分かったね」
「へ?」
耳にかかる髪を人差し指で掻き上げ、私は頷いた。

「松野カラ松という人が私の世界を広げて、もっと楽しいものにしてくれた…ううん、現在進行系で、今この瞬間もしてくれてる──これが、私の自慢」

自分の言葉で告げることに多少の気恥ずかしさもあったが、紛うことなき事実だ。辛いことも苦しいことも、彼の笑顔一つで帳消しになり、紡がれる言葉は日々の糧となる。
私が享受する分と同じだけ、彼に返したい。カラ松くんがずっと幸せであるように。
「自慢…ほ、本当に?」
「推しだよ。そこは自信持ってよ」
「え、あ…そう、なのかな…」
「他の人がどう思おうが、私にとっては自慢できる人なんだから」
私が言葉を重ねるたび、カラ松くんの頬の赤みは濃さを増していく。
「ユーリ…」
熱く語りすぎて引かれる傾向にあるのが難点なんだよね」
「職歴のないニートを推してるんだからその反応は至極当然だと思うが」
すっと表情を消した顔で間髪入れず吐き捨ててくる。
「本人が言っちゃう?」
「なかなかの諸刃の剣だぜ」
眉間に皺を寄せ、吹き出てもいない汗を拭うポーズ。自分の発言でダメージを食らったらしい。

実は、とカラ松くんが戸惑いがちに首筋を掻く。
「さっきユーリがキッチンに立った時、サイコロで『今までで一番幸せだと思ったこと』が出たんだ。真っ先にユーリの顔が浮かんだ。
オレの独りよがりじゃないかと恥ずかしくて言い出せなかったんだが、表現こそ違えど同じ思いだと分かって、その…すごく、幸せだ」

最後は消え入りそうなほど音量が絞られた。テレビを消した無音の空間だからこそ聞き取れたが、よそ見をしていたら聞き逃していたかもしれない。
「でも、やっぱり来なきゃ良かったとも思ってしまうな」
「何で?」
私が問えば、カラ松くんは困ったみたいに微苦笑する。困らせないでくれとでも言いたげな面持ちで。

「…こうして二人きりでいて、ユーリに触れないでいるのは拷問だ」

熱に浮かされたような潤んだ瞳と、上気した頬と、蠱惑的な言の葉。
あれ、これひょっとして据え膳?抱いてくれっていう遠回しな誘い文句?
顔を赤くしながら抵抗する姿もご馳走だが、躊躇いがちに誘ってくる積極的な推しも、イイ。今日は新境地開拓記念日にしよう、ありがとうございます。


「あ、ええと、ま、まだ出てない目があったよな。何だろうな」
沈黙に耐えきれなくなったカラ松くんが、不自然なほど軽い声音で話題の転換を試みる。こういうところで後ずさりする彼の癖が、一線を超える障壁になっているとも言えるだろう。
視線をスマホに戻すと、サイコロの三が示すのは『怖い話』だった。
「怖い話…」
反芻した私と、こくりと頷くカラ松くん。スマホの時計が示す時刻は、午前二時を少し回った頃合い。
「今から?」
「ちょうど丑三つ時だな、タイムリーと言わざるを得ない」
「電気消してやるべき?」
ガチ勢か。しかし、こういうことをすると、ほら…呼ぶって言わないか?」
百物語しかり。閉め切られたカーテンの向こうは、静寂を纏う闇。マンションの周辺は住宅街ということもあり、しんと静まり返っている。
目を潰ってシャワー浴びられなくなるのは困ると私が告げるより先に、カラ松くんが続けた。
「オレは帰るから関係ないけどな」
鬼か。



その後、怪談話は強制的にお蔵入りにさせ、明け方までDVDを観たり六つ子にまつわる思い出話に花を咲かせた。
時間は穏やかに過ぎ、カーテンの向こう側からは少しずつ明かりが漏れさす。沈黙が増え、うつらうつらと船を漕いでは懸命に目を開いたりを繰り返す。
「さすがに眠い…」
「オレもだ」
「時間はえーと…五時、か。お昼くらいまで寝る?」
「贅沢な時間の使い方だな、麗しのハニーと共に休日の朝を自堕落に過ごす…オレ」
こいつまだ余裕あるな。
私はというと、ツッコミを入れるのも億劫でスルーを貫く。
「起きたらご飯食べよう。チャーハンくらいなら作るし」
「頼もしいぜハニー」
褒め言葉に投げやり感がすごい。
立ち上がり、重い体を引きずりながら炊飯器に白米と水をセットする。起きたらすぐに料理に取りかかれるように。
予約ボタンを押して元の位置に戻ると、カラ松くんはソファに倒れ込むようにして寝息を立てていた。掛け布団を引っ張り出し、彼の上にかけてやる。
寝顔を写真に撮って、『限界なので寝ます』とトド松くんに定例報告の終了を告げる。つい数十分前まですぐに既読になっていたメッセージはいつまでも未読のままで、私は大きくあくびをする。

そういえば、サイコロで一つだけで出てない目があったことを思い出し、何気なく画面をタップする。最後の目、二が出た。

『恋の話』

私はスマホを口元に寄せ、笑った。
「さて、これは幸か不幸か」
眠るカラ松くんの頭を撫でながらぽつりと呟く声は、誰にも届くことなく。

こうして私たちの深夜談話は、ひっそりと幕を下ろしたのである。