スパイ大作戦inカジノ

ことの発端は、ハタ坊から舞い込んできた依頼だった。
「怪盗から売上金を守って欲しいんだじょ」

六つ子たちとチビ太さんの屋台を訪ねた夜のことだ。
住宅街には似つかわしくない黒塗りの高級車で乗り付けるなり、呆気に取られる私たちに向かって冒頭の台詞を吐いたのである。
「みんなにしか頼めないんじょ」
相変わらず感情の読めない表情で、ハタ坊は淡々と告げてくる。
「警察行きなよ。間違ってもクズニートに頼んでいい案件じゃない」
「…辛辣すぎやしないか、ハニー」
傍らで、カラ松くんがツッコんでくる。辛辣じゃない、れっきとした事実だ
「えー、でも探偵って格好いいー。洞察力とか観察眼があればいいヤツでしょ?まさにボクら向きの仕事じゃない?
目の据わったトド松くんがカウンターで頬杖をつきながら、ニヤニヤと言ってのける。ほら、図に乗る酔っぱらいが出てきた
仮に真剣な依頼だとしても、既に出来上がった酔いどれ野郎しかいない場での交渉は論外だ。真面目に議論ができる場と時間帯を選定して、出直すべきじゃなかろうか。ここで今シラフなのはチビ太さんぐらいなものだ。

「怪盗、か。しかも僕らがそいつから大金を守る?
何それ、すげぇ主人公感ある!キラキラしてる!イイ!
頼みの綱のチョロ松くんだったが、バッサリと切り捨てるかと思いきや、目を輝かせる。
「あはー、チョロ松兄さんまたキラキラファントムストリーム発症してるー」
「──てかさ、ハタ坊」
まだ半分ほど残っているグラスをカウンターに置き、おそ松くんがゆらりと立ち上がる。酔って頬は上気しているが、声は落ち着いたトーンだ。
「怪盗とか売上金とか俺らにしか頼めないとか、そういうことよりさ、もっと大事なことがあるだろ?」
「大事なこと?何だじょ?」
ハタ坊は首を傾げた。

「報酬いくら出す?」

そこか。いや知ってた。長男が金にもの言わしたら動くタイプのカリスマレジェンドだというのはよく分かってた。なのにミリ単位でも、この状況打破を期待してしまった自分が憎い。
「俺らも守銭奴じゃないからね、成功報酬でいいや。要は怪盗ってヤツからハタ坊の金を守ればいいんだろ?生死は問わず
殺る気満々のデッドオアアライブ。

「…カラ松くん、これいいの?まだ何も聞いてないのに受ける方向なんだけど」
慌てて彼の服の袖を引き、耳元で囁く。
「危ない仕事かもしれないよ」
「ユーリ…ひょっとして、オレの身を案じてくれてるのか?」
「当たり前でしょ」
私は眉を吊り上げて語気を強める。
おそ松くんたちはハタ坊がもたらした非日常感に酔っているが、警察や警備員といった専門部隊ではなく、時間に自由が効く程度しかメリットのないニートの六つ子に頼むあたり、裏があるに違いないのだ。看過できない。
「フッ、ドントウォーリー、マイハニー!
オレは必ずや死地から生還し、ハニーの目に浮かぶ涙を拭ってやるからな!
あ、こいつも駄目だ。
旧友を窮地から救うヒーローなオレ、心配する女を慰めるオレ、危機的状況から生還するオレ。どれもこれも彼のドリーマー思考をくすぐる要素でしかない。そんな今回の依頼を松野家次男が無下にするわけがなかった。下手こいた。
もう知らん。私は早々に匙を投げた。


詳しく話を聞こうか。そうおそ松くんがハタ坊に促し、事実上の受諾となった。
「週末に、各国の主要取引先を招いて親善パーティをするんだじょ。ハタ坊が用意した大型客船でカジノなんだじょ。
その船に積んだ売上金を狙うと予告状が届いたじょ」
ハタ坊は胸元から、ポストカードサイズのカードを取り出した。そこには日本語で日付と共に『戌の刻、フラッグコーポレーションのカジノ船から、売上金を頂戴する 怪盗I』と印字されている。
「だから警察通報案件」
私は再度、これ以上ない的確な解決策を提示する。
「ユーリ、それを言うと話が進まないだろ。ハタ坊は他でもないオレたちを頼ってるんだぞ」
それが問題だっつーとろーが。
「でもさ、イタズラってこともあるんじゃないの?今どき予告状出して盗む奴なんている?」
一松くんが気怠げにハタ坊に尋ねた。ナイスアシスト、四男。
しかしハタ坊はかぶりを振る。それについては、彼の後ろに控える秘書らしき男──頭に旗が刺さっている──が答えた。
「怪盗Iは、被害届が出せないような物…つまり盗品などを盗むのです。被害が明るみにならないから、予告状があっても警察もイタズラと判断するしかない。
我社のネットワークを駆使して調べた結果、予告状の端に書かれているIという字の筆跡から、本人と特定しています」
「ん?じゃあさ、ハタ坊のも被害届が出せないような売上金ってこと?」
チョロ松くんがいいところに気が付いた。私が続ける。
「日本ではカジノは非合法だからね。カジノの売上金守るってことは、犯罪の片棒を担ぐことになるんだよ」

「パーティは、あくまでもカジノという体だじょ」

カジノという体。
「じゃあ売上金って…」
別の売上だじょ」
最高に嘘くさい。

「まぁ金づる坊…じゃなかった、ハタ坊たっての頼みだし、断るってのもなぁ」
致し方なしといった体を演じながらおそ松くんが言う。
「フレンドの頼みを断るのは男じゃないぜ」
「これも人助けだよね」
「暇だし、パーティってことはいいもん出るんでしょ?」
「怪盗をやっつけるぞー!」
「パーティの衣装は映えるの用意してよね」
六つ子の返事を聞きながら、カウンターの奥ではチビ太さんが憐憫の眼差しを私に向けていた。お縄にはなりたくないので、聞かなかったことにしよう。私はこの場にはいなかった、はい解散。

六つ子と無関係を装っておでんを頬張る私の傍らに、いつの間にかハタ坊が立っていた。ぎょっとする私をよそに、彼は小声で告げる。
「みんなには正装を用意するんだじょ」
悪魔の囁き。
推しのタキシード姿、だと?
「ユーリちゃんには好きなドレスをプレゼントするじょ」
「喜んで行かせていただきます」

困ってる友達を見捨ててはおけないよね。




予告状で指定された、パーティ当日の夕刻。
ブラックタイのタキシードに身を包む六人の悪魔と共に、ハタ坊からの招待状を手に船に乗り込む。衣装は全てハタ坊からの提供で、しかもオーダーメイドという大盤振る舞い。
ウエストが絞られたデザインが卑猥。
物憂げな推しの横顔と体のラインが出るブラックスーツの組み合わせは、姿勢の良さも相まって、最の高としか言えない。
「……エッロ」
そりゃ声にも出る。私は眉間に寄せた皺に指を当てた。
「あ、あの、ユーリ…聞こえてるから…」
カラ松くんは顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。相変わらず初なところもムラッとくる。スマホの写真フォルダは早くもタキシードの推しでいっぱいだ。
出で立ちそのものは露出のろの字もないのに、正装によるストイックさを纏ったカラ松くんからは大人の色気が漂う。

てかさー、と話題転換を試みるのはおそ松くん。
「ユーリちゃんの服装の方がエロくない?」
「は?」
思わず苦虫を潰したような顔をするが、おそ松くんを筆頭に六人全員が深く頷いた。
「普通のブルードレスだよ」
「いやいや、上半身のシースルーと脇チラだけで十分危険なのに、背中も見えるって何!?エロいよ!」
「しかもスカートは膝が見える」
珍しく手首を出している十四松くんが、感慨深げに唸った。
「そうかなぁ…デザイン気に入ってるんだけど」
私はドレスのスカートを摘んで、ひらひらと揺らす。
上半身はチューブトップの上に透け感のあるオーガンジーで、肩を大きく露出したアメリカンスリーブ。下は、前が膝上、後ろが膝下までのアシンメトリーのティアードスカートという個性的なデザインだ。背中に関しては指摘通り、オーガンジーの中央に大きなスリットがあり、多少肌は見える。
「うん、その…似合う、似合うんだ、ハニー。そのドレスはユーリにとてもよく似合っている。さながら船上に佇むきらびやかなフェアリーだ。ただ──」
「ただ?」
戸惑いがちに紡がれるカラ松くんの言葉、その先の結論を促す。

「脇チラ時に見える肌の範囲が広すぎて、童貞にはキツイ」

知るか。
聞いた私が馬鹿だった。


貴賓室で作戦会議が開かれる。
今は傍らに秘書もいない。室内にはハタ坊と私たちだけだ。
カジノについては、会合の特殊性故に参加者全員に箝口令を敷いている。怪盗が船の売上金を知っているということは、裏切り者か密告者がいる可能性も否定できない。
「今更だが、怪盗Iはどう見分ければいい?というか、日本人なのか?」
カラ松くんの問いに、ハタ坊は首を捻った。
「分からないんだじょ。
素顔は誰も見たことがなく、変装の達人で、言葉は現地人と見分けがつかない流暢さで話すと聞いているじょ」
もうそれルパンやん。
「客として紛れ込んで怪盗を捕まえる、か。うわぁ、何か俺ら秘密工作員みたいじゃね?」
おそ松くんがうっとりと頬に両手を添えた。
「でも捕まえるったって、どうやって?相手が戦闘慣れしてたら、僕らじゃ太刀打ちできないだろ」
「武器は用意してあるんだじょ」
言うや否や、どこからともなく取り出したジェラルミンケースの蓋を開ける。その時点で嫌な予感しかしなかったが、中に敷かれたクッションに鎮座していたのは───銃だ。
「あー、これなら戦えるかも」
驚きもせず真顔で頷くチョロ松くん。
「安全装置外して狙いを定めればいいんだよね?」
「そうだよ。久し振りなのに安全装置のことよく覚えてたね、さっすが十四松兄さん」
安全装置を知っていることも驚きだが、その言い草は使ったことあるんですかおのれら

「ハタ坊、さすがに銃刀法違反はちょっと…」
「麻酔銃だじょ」
「無資格で無届けだから犯罪では?」
「治外法権だじょ」
治外法権とは。もはや暖簾に腕押しだ。いちいちツッこむのが馬鹿らしく感じてくる。
「ハンドガンか、いいね」
一松くんは手慣れた様子で銃のマガジンを抜き、再び差し入れた。ガシャッと高い金属音が響く。やだもうこいつら絶対手練だ。
「ユーリちゃんの分は──」
おそ松くんがケースからデリンジャーに似た小型の銃を出し、投げて寄越そうとする。断固拒絶の姿勢を提示しようとした、その時。
「必要ない」
カラ松くんが静かな声音で長男を制する。

「ユーリはオレが守る」

脇下に銃が収まるホルスターを装着し、彼は上からジャケットを羽織った。私の方を見ることもなく、当然の流れだと言わんばかりに。
「心配するな。ユーリがパーティを楽しんでいる間に終わるさ」
そう言ってようやく、彼は私を見つめ穏やかに微笑んだ。

イケメンがいる。




犯行予告時間は戌の刻、つまり午後七時から九時の間である。
船内は大広間がカジノフロアで、スロットマシンや各ゲームの卓が至るところに配置されている。いずれの卓にも襟付きシャツのベストを着用したディーラーが配置され、本格的だ。
総勢百人近い人数が集う親善パーティは六時に始まり、主催者であるハタ坊の挨拶もそこそこにも、参加者たちはカジノを嗜む。
参加者の中には、チビ太さんやデカパン博士たちの姿もあった。例の如く、友達枠なのか。

カクテル片手に壁に寄りかかり、私は傍観を決め込む。
卓上には、色分けされた幾つかのチップが山のように積まれていて、勝負が終わるたびに大きく移動する。
「チップは最低でも一枚一万らしいぞ」
いつの間にか、私の傍らにカラ松くんが立っていた。
「それが毎分数十枚単位で動く…フッ、胸が震える極上のエンターテイメントだと思わないか、ハニー?」
「お金持ちならではというか、別世界って感じ」
自分の月給など、山積みになったチップの数枚に過ぎない。その何倍のも金額が、たった一度のゲームで動くのだ。現実味がない。
「こういう滅多にできない体験は楽しんだ者勝ちだ。ブラザーたちを見ろ、ハタ坊の金だからやりたい放題だぞ」
カラ松くんが視線を向けた先には、スロットを回すおそ松くん、ポーカーに興じるチョロ松くん、一松くんと十四松くんはルーレットの卓に向かい、トド松くんに至っては若い女性ディーラーと談笑し、各々がカジノを満喫している。ハタ坊から一人頭百万相当のチップを貰い受け、負けても懐が痛まないためだ。
「壁際で静かに佇むユーリも美しいが、勝利の女神になり得る輝きを隠しておくのはもったいないんじゃないか?」
何か言い出した。
「それに、招待客なのにカジノをやらないのは不自然だ」
逆に目立つぞと指摘を受ける。甚だ不本意だが彼の言う通りだ。
カラ松くんはコホンと咳払いをしてから、恭しいポーズで私に右手を差し出した。

「お手をどうぞ、青いドレスを纏った美しいレディ。この松野カラ松に一夜の栄光を授けてくれ」

私は笑って、彼の手を取る。
「大袈裟だなぁ」
「そうか?今日のパーティの主役と言っても過言じゃない輝きだぞ」
「その台詞、二倍にして熨斗つけて叩き返すよ
「んー?」
理解できないとばかりにカラ松くんは額に縦皺を寄せた。腰に片手を当て、重心を片足にかけるポーズが様になっている。
「ゲームに気乗りしないなら、オレの隣にいてくれるだけでいい。オレがリードする」
ほらもう、油断するとすぐスパダリになる。帰るまでに私の理性が保つか、それだけが心配だ。


参加者はハタ坊の主要取引先のトップというだけあって、正装した金持ちばかりだ。相応に年を重ねた彼らは女性のエスコートも手慣れたもので、自然な手つきで異性を引き寄せ、気遣いを欠かさない。
彼らに倣うように、カラ松くんは私の腰に手を回して誘導する。立ち止まった先は、トランプが広がる卓だった。
「ブラックジャック?」
「シンプルイズベストだ」

「松野カラ松様ですね」
ディーラーが側のボーイに目配せするや否や、私たちの前にチップの山が置かれる。ハタ坊が用意したものだろう。大金代わりのチップを前に肘をつき物憂げなタキシードの推し、良き絵面──と思ったのも束の間。
「プレイスユアベット」
ディーラーの掛け声に合わせて、参加者たちがチップを出す。
カラ松くんは何を思ったか全チップを投入馬鹿なのか?
「か、カラ松くん…」
「ハッハー、男は黙って一回勝負だぜ、ハニー!勝利のヴィーナスがオレに微笑む様、とくと見届けるんだ!」
カラ松くんがカジノに向いてないタイプだというのを、今更ながらに思い出す。そうだ、こいつはこういう男だった。

そして、結果はというと───

「…負けた」
がっくりと項垂れる当推し。
「調子に乗ってカード追加するからだよ。私の制止を聞いてたら引き分けで済んだのに」
「ブラックジャックを狙うのが男のロマンだろ。ノープロブレム、ハタ坊の金だ
なお悪いわ。
とは言え、一回の勝負で有り金を使い果たした敗者は退席するしかない。カラ松くんが腰を上げようとするから、私が引き止める。
「…ユーリ?」

「まだ私のチップがあるよ」

にこりとディーラーに微笑めば、彼はこくりと頷く。
「有栖川ユーリ様のチップをご用意させていただきます」
カラ松くんが失ったのと同額のチップが積まれる。他の参加者が積み上げる数に比べれば大したことはないが、勝負に参加する権利はまだ所有している。

「プレイスユアベット」
私は躊躇なく全チップを差し出した。他のプレイヤーから二度目のどよめきが起こる。
「ちょ…何を考えてるんだ、ユーリ…っ」
「ロマンは男の人だけのものじゃないってことだよ」
足を組み直し、姿勢を正す。チャンスは一度の真剣勝負だ。
「ノーモアベット」
感情のこもらない平坦な声で、賭けが締め切られた。
カードが各プレイヤーとディーラーの前に配られる。プレイヤー側のカードは全て表向きで、ディーラー側のカードは一枚が裏返しの状態。私たちは表向きに提示されている数字からディーラーの動きを予測し、自分の数字との折り合いをつけることになる。
私のカードは、ダイヤのクイーンとスペードの六。合計十六と微妙な数。カードを追加すると失格になるリスクも高いが、この数で勝てるのはディーラーが二十一点を超えた場合のみ。
スタンドか、それともヒットか。
「…どうするんだ、ユーリ?」
「ディーラーのカードはハートの八でしょ。伏せてる方を十と仮定すると、現状では勝率は低いんだよね」
左右のプレイヤーたちがカードを追加したりと動きを見せる。英語でディーラーと軽いやりとりを交わす者もいた。
「有栖川様は、いかがなさいますか?」
ディーラーのにこやかな笑みが私に向けられた。
「…そうですね」
数秒の思考の後、私は人差し指の関節を曲げて軽くテーブルを叩く。ヒット──カードを追加する合図──だ。
「っ、ユーリ…」
「こういうのはね、確率論なんだよ」
カードが一枚配られ、表向きに返される。現れた数字は───

クローバーの五。

「ブラックジャック」

発した声は微かに震えた気がした。
伏せられていたディーラーのカードはキング、合計で十八。私の勝ちだ。
「──やった、のか…?」
「うん、勝ったみたい」
「おお、すごいじゃないか、ユーリ!幸運の女神は今夜はユーリに首ったけだな!」
力強く肩を抱き寄せられて、自分のことのように喜ぶカラ松くんの顔がすぐ近く。互いの鼻先が、あと数センチで触れそうなくらいに。
しかし彼はすぐさまハッとして、顔を赤らめながら手を離す。
「あっ…す、すまん…つい」
「負けた分取り返せたし、ちょっと休憩しよっか。ロマンもいいけど、私はカラ松くんとのんびり楽しみたいな」
男のロマンと私の願いを秤にかけたら、どちらに傾くかなんて明白だ。
「…ハニーのおねだりにはノーと言えないな」
ほら、そうやって。彼は決まって頬を赤くして、蕩けるくらいに甘く目を細める。
チップを高額のものに変えて枚数を減らしてもらい、私は席を立った。
「ドリンク貰ってくるから、端の席で待ってて」




バーでカクテルを注文しようとした矢先、紫のスーツに身を包むイヤミさんが広間を出ていくのを目撃する。きょろきょろと周囲を見回しながら扉を開閉する姿は、さながら人目をはばかるようで、違和感を覚えた。
私は片手を上げ、右耳に装着したカナル型のインカムのスイッチを入れる。通信手段用としてハタ坊が用意してくれたものだ。ボタン押下中だけ通話ができる。
「イヤミさんが広間の右ドアから出ていったよ。こそこそして怪しい感じ。一応注意した方がいいかも」
「オーケー、ユーリちゃん」
即座におそ松くんから応答がある。

「おいお前ら、フォーメーションAでいくぞ」

何ぞそれ。
陣形なんてあるのか。しかも複数パターン。いつの間に作戦会議が開かれたのか。
背後を振り返ると、つい今しがたまで卓に座ってゲームに興じていた六つ子たちは全員揃って忽然と姿を消していた。こういう時の団結力だけは天下一品だ。
「すぐ戻るから、いい子にして待ってるんだぞ、ハニー」
そして唐突に推しのウィスパーボイス。危うく変な声出すところだった。


元々討伐隊からは除外されていたので、私は手持ち無沙汰になる。スマホで時刻を確認すると、午後八時を少し過ぎた頃。怪盗が予告した戌の刻の内だ。
夜風にでも当たろうとオープンデッキに出る。空は生憎の曇り空で、星一つ見えない。ロマンチックからは程遠い夜空のせいか人気はないが、静かに過ごしたい私には好都合だ。そう思って歩を進めると、見知った顔があった。

──イヤミさんだ。

「あれ?」
つい先程逆方向へと向かっていたはずだが、戻ってきたのだろうか。彼は木製の杖に体重を預け、ぼんやりと夜の海を眺めていた。
「こんばんは、イヤミさん」
声をかけると、弾かれたように振り返る。
「…ああ、ユーリちゃんザンスか。キレイなドレスザンスね」
私は目を瞠る。イヤミさんからの世辞なんて、ついぞ聞いたことがなかった。
「あ、ありがとうございます」
ピンときた。ははーん、さては良からぬことを企んでいて、誤魔化そうとしているのだな。
「イヤミさんこそ、素敵なスーツですね」
「タダでいいというから参加してやってるだけザンス」
ケチなところは相変わらずだ。
「ハタ坊が友達思いなのはいいけど、イヤミさん含めてみんな個性あるから、迷惑にならないといいんですけど」
友達枠参加組による粗相で取り引き中止もあり得る話である。巨額の金が動く企業間においては、信頼がものを言う。
私が溜息混じりに溢すと、イヤミさんは私を凝視した。

「…チミは、普通ザンスね」
「はい?」
何を言い出すのかと思ったら。
「ミーの交友範囲の中で、チミだけが一般的な枠にいるザンス。いや…普通だからこそ、特別なのか」
彼が何を言わんとするのか想像もつかない。
肌を撫で付ける潮風がひどく冷たい。ベタついて、不快だ。

返す言葉を見つけられない私の耳に、突然インカムを通して十四松くんの信じられない言葉が届く。
「イヤミ確保ー!」
遠くからは、抵抗して叫ぶイヤミさんの聞き慣れた声。
「ワインセラーから高いワインを盗もうとしてたから、お縄にしたよ!」
「え、ちょ、十四ま──」
「イヤミが怪盗かは分かんないけど、とりあえずガチムチの警備員に引き渡すね。すぐ戻るから、ユーリちゃん待っててー」
何が何だか分からない。
「あっ、あの、ちょっと失礼します!」
とにもかくにも事実確認が必要だ。イヤミさんの側を離れ、彼に背を向ける。呼吸を整えてから、背中を丸め気味にして通話ボタンを押した。
「十四松くん、聞いて。おかしいよ。だって、だってイヤミさんは今──」

不意に、黒い影が私を覆う。

反射的に後ろを見ると──杖を振り上げ、ひどく冷淡な双眸で私を見下ろすイヤミさんの姿。
「…あ」
こういう時どんな反応をすればいいか頭では分かっているのに、体が動かない。
目をこれ以上なく見開いたまま、私の体は石のように硬直する。彼が私に危害を加えるはずがないと、夢を見ているみたいな浮ついた感覚。
そして、眉一つ微動だにしないまま杖が振り下ろされる。

けれど、その杖が私に当たることはなかった。
彼の体が勢いよく横に吹っ飛んだからだ。

「間一髪だったな」

イヤミさんに飛び蹴りを叩き込んだ人物が、蹴りの反動を利用して軽やかに地面に着地する。タキシードの上着の裾が、ひらりと舞った。
「カラ松くん…っ」
「無事か、ユーリ」
鋭い視線をイヤミさんに向けたまま、カラ松くんが私を案じる。
「…う、うん」
「そうか…なら良かった」
ふっと口角を上げて、ほんの少しだけ浮かぶ微笑。
「どうしてここが…」
「愚問だ」
カラ松くんが吐き捨てる。
「本物の怪盗なら、オレたち素人に容易く気付かれるミスを犯したりしない。それでもしやと思って戻ったら、これだ」
カラ松くんは片手でインカムに触れた。
「おいお前ら、敵は甲板だ。急げよ」
いつになく低い声音で兄弟に集合をかけてから、カラ松くんは胸の前で拳を鳴らす。その甲にはくっきりと筋が浮かんでいた。

「さて、ハニーに危害を加えようとした代償は高く付くぞ、怪盗とやら」

私を背中で守りながら踏み出す一歩は、重い。抑揚のない声は、怒りを制御しているが故にも感じられた。
イヤミさんの姿を模した怪盗は地に膝をつき、頬の汚れを腕で乱暴に拭う。それから甲板に唾を吐き捨て、ゆるりと立ち上がった。
「手荒い挨拶ザンスね」
「イヤミの真似は止めろ」
「とんだ誤解ザンス。ミーが偽物?冗談も休み休み言うザンス」
肩を竦めて苦笑しながら、彼はカラ松くんと私に近づく。射程距離に入りカラ松くんが臨戦態勢に入った刹那──怪盗は懐から取り出した丸い球状の物体を床に叩きつけた。
それが煙幕だと気付いたのは、彼を包み込むようにして白い煙が周囲一帯に充満してからだった。
「…ッ」
咄嗟のことで思いきり吸い込んでしまい、咽る。
数十センチ先も見通せない。手探りでカラ松くんがいた方角へ進もうとした時──誰かに手首を掴まれた。
目まぐるしい展開に思考が追いつかず、声が出ない。視界が真っ白になる。

「大丈夫だ、ユーリ」

刹那、耳元で聞き慣れた声がして、それからすぐに掻き抱くように強く抱きしめられた。
「…カラ松、くん…?」
「すぐに終わらせる」
声の主はそう言った直後に体を捻り、高く上げた右足を前方へ突き出した。
「──ぐぁッ!」
くぐもった悲鳴が背後から聞こえたと思うと、何か重量感のあるものがどさりと落ちる音が響く。

「やれ、十四松!」
続いて、遠くで一松くんが声を荒げた。
「あいあい!」
呼応する五男。煙幕の煙が薄れていく視界の端で、十四松くんが高らかに飛翔する。落下した先は、地に伏せて意識を失う怪盗の上だ。彼の顔面には、見事なまでにくっきりと赤いフットスタンプが広がっていた。
「ユーリ」
カラ松くんが駆け寄ってきて、私の左手を見る。
「手首、跡残ってないか?すまん、とにかく守らないとと思って…加減ができなかった」
「何ともないよ。ちょっとビックリしただけ」
「もっとスマートにやれたと思う。でもユーリを危険な目に遭わせたこいつが許せなくて、冷静でいられなかったんだ」
耳に心地いい声質と、真摯な眼差しと、真っ直ぐな想いと。
一切合切を向けられて、私は無意識のうちに笑っていた。


「よーし、よくやった十四松。戻ったらビュッフェ好きなだけ食べていいぞ」
腕組みをしたチョロ松くんが、任務終了の合図とばかりに毅然と言い放つ。
「銃、必要なかったな」
ホルスターに収めた麻酔銃をおそ松くんが未練がましく見つめた。格好良く発砲するのを楽しみにしていたような言い草だ。
「ま、うちには前衛ゴリラが二匹いるからしょうがないか」
「えー、ボク使ってみたいなぁ。せっかくだしおそ松兄さん犠牲になってよ、ね?
「トッティからは殺意しか感じないから無理」
せっかくって何だよ、とおそ松くんは全力で首を振った。

ハタ坊の護衛に怪盗が連行されていくのを、私たちは無言で見送る。
「ハニー、あいつには何もされてないか?」
兄弟の視線がハタ坊に移ったところでカラ松くんが尋ねるので、かぶりを振った。
「その前にカラ松くんが来てくれたよ」
「本当か?何かされたなら正直に言ってくれ。今からでも奴を始末してくる
本気の目だ。
私には決して向けない険しい顔で、カラ松くんは怪盗の後ろ姿を睨みつける。物騒だと思う反面で、嬉しさを感じる自分もいた。




結果的に、怪盗の捕獲と売上金を守る任務を完遂した。
ただの一般人とニート六人組、百戦錬磨の怪盗と対峙するにはどう好意的に見ても力不足の連中が、である。表立って刑罰に処すのが困難なことから、ハタ坊が秘密裏に処理するらしい。新聞沙汰にはならないだろうが、自分が立ち会ったのは実は歴史に残る一大事件だったのではないかと、遅ればせながら痛感しているところだ。

「ユーリが一番の功労者だな」
カジノのバーカウンターで私と肩を並べるカラ松くんが、ぽつりと言った。
「グッドガールだぜ、ハニー」
にこやかな笑みに救われる。
しかし実際にところ、怪盗相手に二発も叩き込み、戦闘不能に追いやった彼が間違いなく今日のMVPではある。けれど今その言葉を返すのは、きっと無粋だ。
「…ちょっと楽しいと思った自分が嫌だな」
だからこの場では、本心を語る。カラ松くんだけには知っていてほしい、私の心の内を。
「嫌?なぜ?」
「怪盗捕まえるなんて真似、一般人は一生に一回も経験しないんだよ。
でもこういう非常識で奇想天外なことに慣れてきちゃって、カラ松くんたちに毒されてきた気がするんだよね。もう純粋な頃には戻れないかも」
私は両手で自分を包むポーズを取った。怪盗から突きつけられた真実を、冗談めいたオブラートに包む。
住む世界が違うと、否定された気がした。カラ松くんの傍らにいることさえも。何も知らないあんな奴に。

「オレから見れば、出会った頃からずっとユーリは純粋で綺麗だ」

モヤがかかる私の心境をよそに、カラ松くんは何でもないことのように、笑う。
「他人の評価なんて当てにならないだろ。気にすることないさ。色んな憶測があるとしても、オレとユーリはこうしてすぐ側にいる、それが真実だ」
タンブラーグラスに注がれた、ブルーのグラデーションが美しいノンアルコールカクテル。カラ松くんの無骨な指がグラスの外側に付着した水滴をなぞる。
「ハニーにはオレたちのようにはなってほしくないが…でも、少なくとも───」
反対の手が、カウンターに置いていた私の右手に重なる。

「もうオレからは手放せない」

細めた瞳が、私の視線と絡む。まだ一滴もアルコールを飲んでいないのに、赤らむ頬。重なった手は、心地よい熱を孕んでいた。
「カラ松くん…」
「だからユーリ、オレは──」

直後、ガチャリと鳴る複数の金属音。
カラ松くんを取り囲むように、五人の悪魔が一斉に銃口を突きつけてきた
「フッ…銃のフラグを無理矢理回収しようとしなくていいんだぜ、ブラザー」
座ったまま両手を挙げ、それでもなおカラ松くんは格好つけようとする。多勢に無勢だ。
「一人でいいとこ全部持っていこうとすんじゃねぇよ」
おそ松くんは眉間に皺を寄せ、吐き捨てた。他の四人は長男に倣い、黙ったまま頷く。
「正月に気を利かせてくれた優しさはどこへいったんだ、おそ松」
「悪いな、カラ松。全部俺の気分次第なんだよ
何となくそうだろうとは察していたが、本人が言い切りおった
片側の口角を上げて嘲笑するおそ松くんは、悪役さながらの貫禄を纏っていた。




その後しばらくは六つ子に付き合い、彼らが酔っ払って前後不覚になった辺りでカラ松くんと大広間を出る。広い廊下の窓際にはソファが複数置かれていて、談笑や酔い醒ましのために腰をかける者がちらほら散見された。
生憎大広間近くにソファの空きがなく、席を求めて階下へと向かう階段の途中。
「怪盗にね、私だけが普通だって言われたんだ」
私の言葉の意味を咄嗟に理解できなかったカラ松くんは、首を傾げた。
「イヤミさんの交友関係の中で、私だけが普通、って」
彼に扮するにあたり、乗船する可能性のある人間関係を探るうちに、私にも行き当たったのだろう。
数歩先を行くカラ松くんは、私を見上げて気恥ずかしそうに指先で頬を掻いた。

「オレが言うのも何だが…オレを推してる時点で、ユーリは全然普通じゃないと思うぞ」

何ということでしょう。
青天の霹靂とは、まさにこのこと。
「本当だ…っ!」
同じ顔が六つ横一列に並ぶ職歴なしのニート童貞、その中でナルシストかつサイコパスと名高い現役中二病患者。そんな人間を心の底から推している私が普通だと?笑わせるな。
「今、すごくスッキリした気分」
「怪盗もそこまでは調べなかったようだな。調査不足だ」
パーティの数時間を乗り切れればいいのだから、個人の趣味趣向といった詳細は必要なかったのかもしれない。

カラ松くんは、私に向けて片手を差し伸べる。
慣れないハイヒールで階段を下りるのに手間取っているのが、どうやらバレてしまった。

「普通だとか普通じゃないとか、そういう視点でユーリを見たことがない。
ユーリは世界で一人しかいない、ユーリの代わりになるレディなんてどこにもいないんだ──それじゃあ、駄目か?」

彼の手を取って、ゆっくりと一段ずつ下りる。
「…ううん、いいこと言うね。私が純粋な乙女だったら、今頃カラ松くんの胸に飛び込んでるよ」
「オレの胸はユーリのために二十四時間開けてるんだ。いつでも使ってくれ」
「じゃあ後で借りる」
「えぁっ!?」
カラ松くんが足を滑らせ、危うく私まで転倒しかける。幸いにも手は添えていただけなので、階下で尻もちをつくのは彼一人だった。
「あーあ、大丈夫?」
「ハニーが驚かせるからだろ!」
尻をしたたかに打ち付けたらしい、前屈みで痛みを堪える表情が猥褻。
「あれ、冗談だった?」
「冗談で言うもんか。なら、その…今は、駄目か?」
姿勢を正し、改めて手が伸ばされる。今度は、私を求めるように。
「今?」
「…今なら、誰もいないし」
六つ子も他人も、私以外は誰も、目の届く範囲にはいない。
「お願いします」
「よし、どんとこい」

階段を駆け下りて、私はカラ松くんの胸に飛び込んだ。

夢と希望のクズニーランド

このお話は、ロマンチックが俄然止まらないに関連する内容が随所に含まれています。




ハタ坊に誘われて参加したいつぞやのクルージングパーティで、遊園地のペアチケットを入手した。
けれど棚にしまい込んでいつしか存在を忘却し、先日部屋の片付けをした時に期限切れ間近のチケットを発見。すぐさまカラ松くんに連絡を取り、急遽その週末に出掛けることにしたのである。


「まだ開園前だというのに、すごい列だな」
「人気あるんだね。でも遊園地ってこんなもんだから」
入場門前とチケット売り場前のごった返すような行列を、カラ松くんはげんなりと見つめた。
時は八時半、開園半時間前だ。どうせなら一日遊び倒そうと、私たちはパンツとスニーカー、そしてリュックという機動力重視の万全装備。手には、期限ギリギリのチケットが握られている。
「ハタ坊が運営してるから、どんな異様な場所かと覚悟を決めてきたんだが…」
「普通の遊園地みたいだよ。SNSでもよく上がってる」
「普通の…?嘘だろ…ハタ坊に限って普通に寄せてくることはあり得ない
どんな自信だ。


遊園地の名は、クズニーランド。
フラッグコーポレーションが運営しており、代表のハタ坊も設計に大きく関わったと聞いている。関東圏では隣県の某ネズミーランドの次点につく人気を誇り、地図上ではネズミーランドの半分に満たない敷地面積にも関わらず、いざ入場門をくぐれば、同程度の広さを体感できると話題だ。異空間に繋がっているとか、空間圧縮しているといった黒い噂が後を立たないが、そのミステリアスさもパークの人気に拍車を掛けた。

私がパーティで景品として入手したのは、クズニーランドのVIPチケットだ。
「関係者にしか流通してないチケットなんだって。全アトラクション優先搭乗はもちろん、特別入場口からの入場、レストランではVIP席案内、さらにお土産チケット五千円付き!」
「ジーザス…っ、大盤振る舞いじゃないか」
「そう、行かない理由はないよね」
ホログラムのあしらわれた高級感漂うチケットを握りしめ、私は鼻息を荒くする。カラ松くんは胸に片手を当て、従者の如く恭しく頭を垂れた。
「ユーリにとって一大イベントのパートナーに選んでもらえたオレは、光栄な男だな」
私は一瞥して、拳で軽く彼の胸を叩く。
「チケット貰った時から、誘う相手はカラ松くんしか考えてなかったよ」
「…っ!?は、ハニー…ッ、それは──」
カラ松くんの声は、にわかに入場門付近がざわつき始める音で掻き消える。
「あ、入場開始っぽい。私たちの入場口はあっちだよ、行こう」
私は彼を手招いて、足早に駆け出した。
降水確率0%の快晴、ジャケットで過ごせるうららかな陽気、外的要因に恵まれた私たちの一日は、ここから始まる。




メインエントランスからなだれ込んでくる大勢の客を横目に、VIP専用の入場門からパークに入る。
入場門からしばらくは広々とした直線の道で、左右には多彩なショップとレストランが軒を連ねる。その一角に、レトロな車を模したポップコーンワゴンが停まっていた。透明なケースの中にある山盛りのポップコーンは、ダイレクトに視覚に訴えかける。
「買っていくか?」
よほど私が物欲しそうな目で見ていたのか、カラ松くんが指差してにこやかに言う。今なら並ばずに購入できるから、と。
「え、どうしよう…でも、うん、買う、買っちゃう。お姉さん、このクマのバケットでください」
クマはクズニーランドのマスコットキャラの一つだ。つぶらな瞳のクマが背負う大きなリュックにポップコーンが入るデザインで、付属のストラップにより首から下げられる。
価格はバケット分跳ね上がるが、こういったバケットは購入地だけでなく他のテーマパークでも再利用できるから、一つくらい持っておいてもいいだろう。
「ユーリ、オレが持つ」
「いいの?ありがとう、助かる」
ポップコーンの香ばしい匂いを漂わせるバケットを、カラ松くんの首にかける。
「テーマパークで可愛いバケットをぶら下げる推し…何という超絶プライベートショット
「二十四時間プライベートなんだが」
知ってる。六つ子にオンオフは存在しない、なぜなら無職だから。しかしそれを言っちゃあおしまいだ。

カラ松くんはおもむろに、パンフレットの地図を広げる。入り口でスタッフから手渡されたものだ。
「アトラクションに向かう前に、はぐれた時に落ち合う場所を決めておこう」
「そうだね。半時間以上再会できなかったら、っていうのを基準にしようか。時間もったいないから、絶対探さないこと。いい?」
「ハニーがそう言うなら、分かった、プロミスだ」
カラ松くんはスマホを所持していない。ランド内には公衆電話も設置されているが、そもそも台数が少なく、エリアによっては長距離移動を必要とする。
カラ松くんとの通信の不便さには慣れているけれど、万一外出時に見失うと致命的だ。今まで支障がなかったのは、別行動がほぼなかったためだと思い至ったところで、カラ松くんから折りたたんだパンフレットを手渡される。
「ユーリ」
「うん?」
「メモしておいたから、持っていてくれ。万一はぐれたら、そこに集合だ」
リュックのサイドポケットに差し込み、私は頷く。
「ありがと。万一の時は確認して向かうようにするね」
「使う機会がないことを願うよ」
苦笑して、カラ松くんはポップコーンを口に放り込んだ。




「遊園地にカップルで来ると別れるってジンクスがあるよね」
表現に正確を期すなら、某ネズミーランドに行ったカップル、ではあるが、些末なことだ。私にとっては、別段深い意味のない話題のつもりだった。
カラ松くんは数秒間の無言の後、悩ましげに前髪を掻き上げてみせる。
「…ど、ドントウォーリーだ、マイハニー。信憑性のないジンクス如きで断ち切られるほど、オレとユーリの絆はヤワじゃないだろ?」
滝のように冷や汗が出ているのは気のせいですか、そうですか。
「ま、そもそも私たちカップルじゃないから関係ないんだけどさ」
「…まぁな」
カラ松くんは不服そうに眉間に皺を寄せた。
「なぁハニー、持ち上げて落とすのもなかなか心にくるが、落とした上にさらに落とすパターンは止めてくれないか?浮上できない」
頭にぽっと浮かんだ話題を口にしただけで不機嫌になられるのは心外だが、私もいささか軽率だったかもしれない。彼の心情に思い至らないほど、初な子どもでもないのだ。
「あー…ごめん。ちょっと軽はずみだった」
両手の人差し指を口の前でクロスして、私は苦笑する。
「遊園地ってアトラクションに長時間並ぶでしょ?
待ち時間のストレスでイライラして喧嘩しやすい環境になるから、その延長で別れちゃうのかなって言いたかったんだ。
でもそういう意味では、私たちは並ばずに乗れるから、喧嘩する要因もなくていいよね」
おかげで、入場門が開くと同時に目当てのアトラクション目指して全力疾走する客を尻目に、エントランスエリアでのんびりと過ごせる。VIPチケットさまさまである。
しかしカラ松くんは、目をぱちくりとさせた。
「待ち時間でストレス…そうか、一般的にはそういうこともあるんだな」
まるで自分には無関係とでもいうような言い草だ。そう思っていたら、彼は続けた。

「オレは、こうしてユーリといられるだけで幸せなんだ。待ち時間の間ずっと隣にいられるのに、ストレスを感じるはずがない」

自信に満ちた力強い声は、群衆の奏でる騒音に紛れても、鮮明な音色で私の耳に届いた。
照れくさいことを唐突に真顔で言い放つくせに、自分の発言を反芻して慌てるそのギャップを私は可愛いと感じている。
しかしいつかはそんな台詞でも、照れも恥じらいもなく穏やかに紡がれる日が訪れるのだろうか。思考は横道に逸れる。
「──そもそも」
彼は照れ隠しの咳払いを一つして。

「オレはどんな姿のハニーであろうと、ビッグな器で受け止める自信があるぞ」

だから安心して醜態を晒すんだと、フォローにならないフォローをするから、私はついに吹き出した。



スーベニアショップで、お揃いのクマ耳帽子を購入する。ブラウン色のキャップのトップに丸いクマ耳がついているものだ。クズニーランドのロゴは控えめに、ツバの端に描かれている。
「クズニーランド専属のファッションモデルにすべき愛らしさだと、ハタ坊に進言しよう」
私が嬉々として帽子をかぶる姿が反射する姿見を眺め、カラ松くんは真顔でそんなことを抜かしおる。
「まさに魅力の権化」
「さすがに言い過ぎ感が否めないんだけど…」
手首で振り払う仕草をすれば、彼は大きくかぶりを振った。
「ノーキディング。トップクラスの魅力を兼ね備えたユーリに、愛嬌の象徴であるクマ耳のオプションだぞ?
可愛いの一言で済ませてしまうほど、オレは無作法じゃない」
カラ松くんは拳を握りしめて熱く語る。気持ちは嬉しいが、背中に突き刺さる店員の視線が痛い。うちの推しが騒々しくてすみません。

「そう言うカラ松くんの方が可愛いからね」
可愛いの応酬になるのは覚悟の上で、私は恨みがましい視線を送る。
カラ松くんも同じ帽子をかぶっているのだ。ただでさえ存在が尊い推しに、幼さを感じさせるクマ耳とか絵面が卑猥。趣味ではないファッションを強要されて居心地が悪そうに顔をしかめるその反応も、愛くるしいの一言に尽きる。
「…しかし、格好良くはないだろ?」
「格好良くはないね。可愛らしさアピール用のアイテムだから」
「こういうのはテンション上がった勢いで購入して当日はそこそこ楽しむが、翌日起きたら何でこんな物買ったんだと後悔するヤツじゃないのか?」
「気のせいだよ」
ふふふと私は笑う。
確かにクマ耳帽子なんて汎用性もないし、街中で装備すれば確実に奇異の目で見られる。言われるまでもなく、今後装着する機会が著しく少ないことは分かっているのだ。
でも──忘れられない思い出には、なる。

「私はカラ松くんとお揃いのが欲しいんだけど──駄目かな?」

上目遣いで見つめれば、カラ松くんは複雑そうな面持ちで唇を噛み、頬を朱色に染める。
「…オレがユーリの頼み事を断れると思うか?」
「そう言ってくれると思ってた」
クマ耳装着は本意ではないが、私の頼み事は断りたくない。そんな感情が読み取れた。最初からその反応を想定していたと白状したら、カラ松くんは怒るだろうか。
「お礼に、最初のアトラクションはカラ松くんが乗りたいものでいいよ。何がいい?」
「一番スリルのあるジェットコースター一択だろ」
パーク内で最も人気が高く、最長の待ち時間を誇るアトラクションである。入場開始から半時間ほどしか経っていないのに、電光板に表示される待ち時間は既にことごとく一時間に近い。さっそくVIPチケットの出番だ。




「ユーリ、次はお化け屋敷だ!行くぞ!」
一時間も経った頃には、頭にかぶったクマ耳の存在など失念したとでも言うかのように、カラ松くんは率先してアトラクションへ向かうようになった。優先搭乗の場合、待ち時間は十分を少々超過するくらいで済む。
「お化け屋敷かぁ…」
「ん?ユーリはお化け屋敷苦手なのか?」
歩きながら彼は訊いた。進行方向は明らかにお化け屋敷の方角で、問答無用じゃないかと私は文句を溢しそうになる。
「幽霊とかおばけのビジュアルじゃなくて、急に飛び出てきて驚かしてくるのが苦手…かな。それがホラーの醍醐味なんだろうけど」
気が重いことを正直に告げると、カラ松くんは朗らかに笑った。
「ははは、何だ、そんなことか。心配する必要はないぞ、ハニー」
その表情があまりにあっけらかんとしていて、私の胸に巣食う暗雲が少し晴れる──そう感じた矢先。

「オレも叫ぶ」

駄目じゃねぇか。
決め顔を作ったかと思えば、堂々と役立たず宣言。絶叫を繰り返す挙動不審まっしぐらな大人二名など、他の参加者を阿鼻叫喚の渦に巻き込む迷惑千万な輩に他ならない。
最悪なコンビ爆誕。


お化け屋敷の外観は、廃墟一歩手前の巨大な洋館だ。
六人の兄弟が何者かによって惨殺されたことから、物語は始まる。生々しい痕跡が残る館内を歩き回り、六人の霊魂と彼らが残した痕跡を辿りながら事件の真相を解明するアトラクションだ。
参加者は十名前後のグループとなり、ルートに従って館の中を進む。
『我らの一人が、助手として君たちについていこう』
薄暗がり中、鏡張りの壁伝いを歩いていたら、不意に頭上のスピーカーから不穏な声が降ってきた。
「は?」
「え?」
『誰が君たちについたか、是非確認してくれたまえ』
腹の響く重低音での囁きに従い、私とカラ松くんはこわごわと周囲を見回す。背後から上がった他の参加者の悲鳴に怯んだ視線の先で、壁に掛かった鏡に映るのは血まみれの手を私の肩に置く亡霊の姿
「──んんんーっ!?」
「うおぉっ!…すまん、ユーリっ、少し離れてくれ!
カラ松くんは即座に目を逸らし、私から一歩遠ざかる。覚えとけよこの野郎。

グループ内で一際声高な絶叫を繰り返しながらも、亡霊の手助けもあって幾つかのヒントを入手し、真相解明への糸口を掴む私たち。
軋む音を立てながら重厚感のある木製の開き戸が開くその先は、中庭とおぼしき屋外だった。無論屋根のついたアトラクション内なのだが、鬱蒼と生い茂る木々や欠けた墓石が薄気味悪さを演出している。
「一番新しいお墓にヒントが隠されているって話だけど…」
夜の墓場というホラー定番シチュエーション、もはや何か出る気しかしない
「ハッハー、まるでディテクティブだな、いいだろう引き受けた。安心しろハニー、この松野カラ松の華麗な捜索で、お目当ての墓を速攻で見つけ出してやろう」
「そう願いたいよ…」
他の参加者もこのアトラクション初見ばかりらしく、全員が恐る恐る中庭をうろつき始める。その不安げな空気感が私の恐怖を増幅させた。
とにかく、カラ松くんを盾にして警戒しながら進もう。そう思い直して背中に隠れたところで、彼の眼前にあるプレート型の墓石の背後から、前触れもなくゾンビが飛び出した。
「ぎゃあああああぁぁぁぁあぁ!」
カラ松くんが飛び退き、私のつま先を盛大に踏む
「いったああぁああぁー!」
「わあぁあぁっ、何でそんな所にいるんだ、ユーリ!すまん!

その後何とかヒントを集めきり、犯人を突き止めることに成功したのはもはや快挙と言っていいだろう。疲労困憊になりながら館から脱出して浴びる日差しが、今日ほど清々しいと感じたことはない。
「…カラ松くん、ちょっと休憩しよう」
「ゴリゴリにSAN値削ってきたな」
げんなりとして肩を落とすカラ松くんの姿も珍しい。
「ハタ坊は力の入れどころ間違ってるよね。夢と希望のクズニーランドじゃないの?亡霊とゾンビが夢に出たらどうしてくれる…」
「──忘れればいい」
カラ松くんは微笑んだ。私は呆然として彼を見やる。
「まだここに来て半日も経ってないんだ。これからオレと過ごすメモリーを全部楽しいものにして、上書きしてしまえばいいんじゃないか?」
「カラ松くん…」
くすりと、私の口から笑いが溢れる。何て人だろう、本当に。

お化け屋敷強行したのはお前だろうが。




適度に休憩やウィンドウショッピングを挟みながら、パーク内のアトラクションを遊び倒した頃には、すっかり日が暮れる時間帯。レストラン街では、店内に入り切らない待機客が店外で待つ姿が目立ち始める。
しかし先述したように、私たちが所有しているのはVIPチケットだ。優先的に案内されるだけでなく、VIP専用の特等席へ案内される。
訪れたレストランはメニューと価格こそ大衆的ではあったが、通された窓際の席からはパークの広大な湖が一望できた。店内はアーリーアメリカンをイメージしたような落ち着いた配色の内装で、私たちはのんびりと夕食に舌鼓を打つ。
「一日があっという間だったね」
「ああ、いい一日だった。ハニーと過ごすスペシャルメモリーが、また一つ刻まれたということだな」
カラ松くんは腕組みをして感慨深げなポーズを取るが、頭上に常時クマ耳があるせいで、いまいち決まらない。
「実を言うと…少し憧れてたんだ」
「憧れって?」
私が訊くと、うん、とカラ松くんは逡巡するように頷いて、それから指先で頬を掻いた。

「ユーリと二人きりで遊園地に来ることを、さ」

食後のコーヒーで口を潤しながら、カラ松くんは言う。
「こういう定番のデートスポットとも言える場所にユーリと来れると、特別だと言われているようで嬉しいんだ。今回のチケットの相手だって、真っ先にオレを選んでくれた。どれだけオレの心が浮ついたか、ユーリは知らないだろ?」
「…それを言ったら、私だって同じようなもんだよ」
テーブルに頬杖をついて外の景色を眺めるフリをしながら、窓に映った彼の表情を窺う。
「一緒に行く日程決めて、今朝起きて家を出て、待ち合わせ場所に着くまで──私も、楽しみで仕方なかったんだから」
「ユーリ…っ」
カラ松くんの頬が上気するのが、ガラス越しにも分かった。
「…ええと、その…あ、あとは花火が上がるまで時間を潰さないとな」
クズニーランドでは週末になると、閉園一時間前の午後八時に、パークの中心から花火が打ち上がるのだ。暗がりに咲く花々は幻想的な一方で、夢の終わりを告げる残酷なカウントダウンでもある。
「まだ一時間ほどあるから、あと一つくらいはアトラクションに乗ってもいいんじゃないか?」
「じゃあアトラクション一個乗って、その後はいい感じに花火が見られる場所を探そうか」
立ち上がって外へ出た。

私たちはまだ夢の国にいる。あと少し猶予もある。
けれど確実に、終焉が音もなく足元に忍び寄るのをひしひしと感じている。楽しみで仕方なかった今日という日が、間もなく終わりを迎えようとしていた。




「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるから、カラ松くんこの辺で待ってて」
アトラクションへ向かう途中、私は片手を挙げて彼の進行を制する。
「まだ時間あるし、一緒に行こうか?」
「来た道戻ることになっちゃうから、それは悪いよ。すぐ戻るから」
道中でトイレを示す表記を見た気がするのだ。急げば、それほどカラ松くんを待たせずに済む。
「分かった。もう暗いから気をつけるんだぞ、ユーリ」
彼は側のベンチに腰を下ろして、私を気遣う。にこりと応じて、私は駆け足で来た道を戻った。

「ヤバイ…迷った…」
私が頭を抱えたのは、それから僅か数分後のことである。
来た道のトイレは長蛇の列で、仕方なく近辺で探そうと右往左往していたら、いつの間にか別エリアに辿り着いていた。カラ松くんの待つ場所どころか、現在地さえ分からない。
落ち着け、ユーリ。こういう時のための園内マップだ。私が半時間戻らなければ、カラ松くんは合流ポイントへ移動する手はずになっている。スマホに映る時刻は、別れてから二十五分経ったことを示していた。
「仕方ない、約束の場所に移動し───えっ…」
リュックを下ろしてサイドポケットに手を差し込んだ私は絶句する。

カラ松くんから貰ったパンフレットが、ない。

「…は?え、いやいや、ちょっと待って…」
誰に聞かせるでもない制止の台詞が口を突いて出た。
入場して間もなく、カラ松くんがマップを開いて合流地に印をつけてくれた。手渡された時、必要になったら確認すればいいやと、中身の確認もせずにポケットに突っ込んだのだ。
そして致命的なことに、絶対に相手を探すな、そう念を押したのは私自身だった。
彼は忠実に私の約束を守ろうとするだろう。冗談抜きで閉園まで待ち続けるかもしれない。警備員に追い立てられてなお、そこに留まろうとかる可能性だって否定できない。
「──探そう」
広い園内、見つかる保証なんてない。自分の中で期限を決めて、それを超過するようなら近くのスタッフに捜索の依頼をしよう。けれどそれは最後の手段だ。
私は意を決して、駆け出した。

目星をつけたエリアを駆け足で巡り、行き交う大勢の人をかき分けながら、彼がマークをつけた時のことを必死に思い出す。
カラ松くんは立ったままパンフレットを広げ、右手に持ったペンをマップの中央近くに寄せていたような気がする。分かりやすい場所で、かつ合流地点として意味を成すとしたら、おそらくはパーク中央付近。
しかし昼間と違って著しく視界の悪く、一人で探すにはエリアはあまりにも広い。
「…もうすぐ一時間、か」
花火が始まってしまう。離れたまま見るテーマパークの打ち上げ花火なんて、ただうるさいだけの、味気がないものだ。自分の危機管理のなさと不甲斐なさに、苛立ちが募る。
目頭が熱くなって、視界が滲んだ───次の瞬間。

「ユーリ」

振り返った先で、息を切らしたカラ松くんが立っていた。
「カラ松、くん…」
彼の口から吐き出される白い息が、空気中に溶ける。私は、自分が告げるべき言葉を発するため口を開こうとしたら、カラ松くんが先制して言葉を重ねた。
「すまない」
「…え」
「探さないって約束、守らなかった。オレが約束した場所にいなくて不安にさせてしまったな」
心の底から悔やむみたいに。自分の失態だとでも、言うように。
私は強くかぶりを振る。
「違うよ。私が悪いの、ごめん。だって今朝貰ったあの地図、なくし──」

「ノンノン、キュートなハニー。オレを気遣ってくれるのは嬉しいが、自分を悪者にするもんじゃないぜ」

どんな私でも、ビッグな器で受け止める自信がある。
彼は確かに最初に、そう言った。あれはフラグだったのか。
有言実行かよ、スパダリが行き過ぎて神の領域お賽銭はどこに入れればいいですか。
「もはや尊すぎて語彙が追いつかない…。お詫びも兼ねて、何でも好きな物一つ奢るよ。何がいい?」
「いらない」
彼は穏やかに首を振ってから、自分の腕時計を一瞥する。
「ユーリ、こっちだ」
奪われるように掴まれた手を引かれて、高台へと向かう。高台と表現したものの、ジェッタコースターのアトラクションへ向かう途中の道だ。数メートル程度の高低差だが、クズニーランドの中央エリアが一望できる。
猫の額程度のただの道だが、多くの人が道の途中で立ち止まり、何かを待ち焦がれるように揃って顔を上げている。
私の中で点と点が繋がる直前、腹に響く爆音が耳を突き抜けた。

ランドの中央にそびえ立つ、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城を模したような美しい古城から、大輪の花が打ち上がる。

「わぁ…!」
カラ松くんに再会できた喜びで、打ち上げ花火のことをすっかり忘れていた。
「ここからが一番眺めがいいらしい。ハニーを探す途中で耳にしたんだ」
確かに彼の言う通り、遮るものもなく、花火を存分に堪能できる。一眼レフを構えてしきりにシャッターを押す姿も見受けられた。
そしてそれ以上に、仲睦まじく寄り添う恋人同士の姿も多く、私たちを取り囲むのも男女の組み合わせだ。
手を繋いだままの私たちも、きっと他人からは同じように見えているのだろう。

「幻想的だね」
「ああ、実にビューティフルだ」
彼は力強く頷いて、私に微笑みかけた。
「この光景をユーリと見たかった。でもやっぱり──ユーリの方が断然綺麗だな」
澄んだ瞳でタラしてくるの勘弁して。

夜空に色とりどりの花が盛大に咲いては、余韻を残してぱらぱらと消えていく。誰もが同じ想いを共有する一体感に包まれるのを感じていた。
勢いよく打ち上がるのは一瞬で、消えた後はランド全体がしんと静寂に包まれる。明暗の対比で、空が一層暗く見えたりもして。
「花火ってさ」
「うん?」
「上がってる時は綺麗だけど、終わった後の静けさには、魔法が解けたみたいな物悲しさがあるんだよね」
この時自分がどんな顔をしていたかは、分からない。繋いだ手を離してしまう数分後の未来に対し、寂寞感さえ感じている。
「らしくないな」
カラ松くんが小さく笑う。
「うん、ほんとだ。何か急に感傷的になっちゃった」

「でもそういう部分も含めて、ユーリなんだろ?
だったらオレは受け止めるだけだ」

私は目を見開いた。仏の懐かよ。広すぎる。
「不思議、何だかカラ松くんが格好良く見えてきたよ」
「フッ、何を今更。ユーリと出会った当初から変わらず…いや、むしろ格段にレベルアップはしているが、オレは元々いい男だぜ」
気障ったらしく髪を払うポーズを横目に、私は曖昧に笑うに留める。
だって私の正直な意見を言ったら、彼は間違いなく図に乗るだろうから。




「おはよう、ハニー」
翌朝、掃除洗濯を一通り終わらせた頃にカラ松くんから電話があった。ディスプレイに松野家の文字が出るだけで、心が躍る。推しから直々にモーニングコールいただけるなんて、もうこれアラーム音に設定するしかなくない?毎日飛び起きるわ。
今度会ったら録音しようと心に決める。
そしてカラ松くんが口火を切ったのだが───

「クマ耳、部屋の中で尋常じゃなく浮くものなんだな」
「奇遇だね、私もだよ」
気持ちはよく分かる。置き場所に困り、昨日頭から外して放り投げたまま放置されているクマ耳帽子を私はちらりと一瞥した。
特に男所帯では違和感しかないブツだろう。
「十四松が欲しがってるからあげてもいいか?」
「私とお揃いになっちゃうけど、十四松くんはいいの?」
まぁ、同じ場面で両者が揃って被ることはないだろうが、念のため。私の問いを受け、カラ松くんは受話器の向こうでしばし無言になる。
「いや、オレが良くないな。前言撤回だ、誰にも絶対やらん。相手がブラザーでもだ」
私は空いている手でクマ耳帽子を手に取って、くるくると指先で回転させる。本当に何で買ったんだ、これ。テーマパークマジック恐るべし。きっとアドレナリン出まくってたんだろうな。
「あ、いい解決策を思いついたぞ」
「何?」

「また一緒に行けばいい。その時につけて行こう、二人で」

瞼を下ろしたら、昨晩目に焼き付けた光景がリフレインする。まるで魔法がかけられた空間の中、家に着くまでクマ耳帽子を脱ごうとしなかったあの高揚感。
「…うん!」

夢と希望は確かにそこに、あった。

嬉し恥ずかしバレンタイン

「ユーリからのチョコが欲しい」

バレンタインが半月後に迫ったある日、振り絞るように口にされたその台詞を皮切りに、例によって一騒動巻き起こることになるのだが、この時はまだ知る由もなかった。


女性が意中の男性に想いを込めたチョコを渡すのが定説のバレンタイン。
チョコと共に愛を告げるなんて行為は今や化石化したコンテンツで、友チョコの台頭によりかつてほどの特別感や希少性もないが、想い合う男女にとっては今なお特別なイベントの一つであることに変わりはない。
そして時期が近づけば、有名チョコブランドが新作及び限定品をこぞって発売し、催事場では大々的なセールを開催するから、街へ出れば否が応でも認識せざるを得ない状況へと追い込まれるのである。

だから、二月に入ってからカラ松くんがやけにそわそわしている理由も、早い段階で推測ができた。

「…カラ松くん?」
その日私たちは、ショッピングモールのフードコート前にいた。
時刻は正午をいくらか過ぎた頃。モール内を見て回る前に、昼食を取ろうとやって来たのだ。
「ん?…あ、ああ、すまん、ユーリ…ボーッとしてた」
「バレンタインフェア?」
カラ松くんが向けていた視線の先を見ると、催事場の華やかな装飾が目に飛び込んでくる。
柱にシート貼りされたピンク色を基調にしたイベントのPOP、ウェディングケーキを模したチョコの展示、色鮮やかだったり独創的だったりと趣向を凝らしたラッピングで埋め尽くされた陳列棚。活気に満ちた、目を引くディスプレイだ。
「レディたちが目の色を変えて向かっていくから、何かと思ったんだ」
「言われてみれば、そんな時期だね」
ラッピングされた箱を手に、陳列棚の前ではしゃぐ女性たち。その空間だけ、きらめく万華鏡のような輝きを放っている。

「こんなに華やかな展示なんだな」
しみじみと呟くカラ松くんに、私はくすりと笑った。
「初めて見たような言い方するね。どこも毎年こんなもんでしょ?」
「バレンタインなんて概念は存在しない集団自己防衛を徹底してきたオレたちが、バレンタインフェアをじっくり見たことあると思うか?」
馬鹿も休み休み言えとばかりに、嘲笑的な双眸が私を見つめる。なぜ私が窘められにゃならんのだ。
「オレたち六つ子にとってバレンタインは、黒歴史を更新する日でもあるんだぞ」
毎年何をやらかしてきたんだお前ら。そして漠然と予想がつくくらいには、悪魔と名高い六つ子と関係性を構築している自分が憎い。
「…何かごめん」
「分かったならいいんだ。以後気をつけてくれ」
フンッとカラ松くんは鼻を鳴らした。バレンタインは地雷だったらしい。

で、と声に出して私は話題を戻す。
「見ていく?」
「えっ、いいのか?」
「もちろん。私もちょうど見たいと思ってたんだ。お昼はもう少し後でもいいよね」
踵を返して、彼を先導するように催事場へと歩を進める。

天井に吊るされた垂れ幕が、各ブランドの展示位置を示していた。手が出しやすい安価なブランドもあれば、名の知れたハイブランドも立ち並び、チョコを求める女性たちは自分の希望に合うものを吟味する。
目がくらむような華美な装飾が、ショッピングモールの一角を異空間に変えた。そんな錯覚をしそうになる。
「カラ松くんは、どんなチョコが好き?」
「へっ!?」
ディスプレイを覗き込みながら訊けば、不自然なまでに素っ頓狂な声が上がった。
「お、オレか?」
「そうだよ。一言でチョコっていっても、色んな味とバリエーションがあるからさ」
最近は市販品のラッピングでも凝ったものが多い。店頭では味見ができない分、第一印象で候補入りさせる策の一環だろうか。
「オレは、その…ユーリの手作りなら何でもいい、かな」
気恥ずかしそうに指先で頬を掻き、明後日の方向を見ながらぽつりと溢される。
「そっかぁ、私はこの時期にしか販売されない限定品がいいな
「は?」
「ん?」
「バレンタインの話だよな?」
「好きなチョコの話でしょ?」

噛み合わない。
カラ松くんは落胆の色を顔に浮かべ、大きな溜息をついた。
「…この時期にチョコと言えば、普通はバレンタインの話だと思うだろ。すれ違いコントか
「女の子から男の子にチョコを渡す習慣は、日本と幾つかの国だけだよ。いわゆるお菓子業界の陰謀」
「それは詭弁じゃないか?ここは日本だぞ、ハニー」
まぁ確かに。
「それに、チョコが貰えれば陰謀でも策略でも何でもいい
カラ松くんはすっと真顔に戻り、抑揚のない声で吐き捨てた。もうプライドもクソもない。バレンタインに固執しすぎている印象を受けるが、彼にとってその日にチョコを貰う行為は、暗黒大魔界クソ闇地獄カーストからの脱却となる一種のステータスなのだろう。


カラ松くんと共に展示を見て歩きながら、私は一つの箱を手に取った。
「これ買おうかな」
様々な色合いやデザインで彩られた小粒チョコの詰め合わせだ。パッケージも、手のひらに収まるサイズ感。
「…誰かにあげるのか?」
期待と不安と苛立ちと、様々な感情が入り混じった複雑な表情で、カラ松くんはチョコを一瞥する。
「ううん、これは私のおやつ用。コーヒーと合うんだよね」
「バレンタインに渡すのは?」
「一応買う予定」
頷くと、カラ松くんの眉がぴくりと揺れた。
「…誰にだ?」
「まだ決まってないけど、友達とか、かなぁ」
私は思案に耽る顔をして、うーんと低く唸ってみせた。
カラ松くんがどんな意図を持ち、いかなる回答を望んでいるかは火を見るより明らかだ。ここまであからさまで分からいでか!と脳内の私が叫ぶ。
「なら…ほ、本命は?」
自然で何気ない問いを装った核心。焦燥感の混じる上擦った声を聞きながら、私はひょいっと肩を竦めた。
「さぁ、どうだろうなぁ」
はぐらかすみたいな私の返事に、カラ松くんは何を思ったか憂いを帯びた表情を浮かべながら、手ぐしで前髪を掻き上げた。
「ドンビーシャイだ、ユーリ。
公衆の面前で言うのは憚られる乙女心というヤツだな、オーケーオーケー。そんなに照れなくていいんだぞ、オレはハニーのチョコならいつでもウェルカムだ!」
両手を大きく広げ、包容力を見せつける構え。いつにも増して大仰な台詞とポーズだ。
「別に恥ずかしがってないけど」
「え?」
「どうしても渡したいって言うなら受け取ってやらないでもない、っていう尊大な態度はどうなのかな。抱くを通り越して犯すよ?
「ごめんなさい」
潔く非を認める姿勢は評価しよう。
しかしそれは同時に、断固として私に抱かれたくないという意思表示でもあるから、何とも釈然としない気持ちになる。童貞歴を更新し続けた先にあるのは、魔法使いへの片道切符だというのに。
「欲しいならそう言えばいいのに」
私はチョコの箱をひらひらと振ってみせた。すると──

「…欲しい、です」

目尻を赤く染め、躊躇いがちに絞り出される懇願。

「ユーリからのチョコが欲しい」

今度は力強く、真っ直ぐに私を見据えて。
嬉々としてチョコを選ぶ女性ばかりの空間の中で、まるで告白さながらの台詞を口にする成人男性が一人。とても異質で、けれど私にとっては誰よりも可愛い。
「しょうがないなぁ」
そこまで言うのなら、とわざとらしい不本意感を示しても、カラ松くんは機嫌を損ねるどころか、ぱぁっと顔を綻ばせる。
「やったー!」
それから両の拳を天に突き上げて、感嘆の声を上げた。突然の大声に仰天した他人の視線が集中するのも構わず、彼は私の手を取る。
「プロミスだぞ、ユーリ!やっぱり止めたはなし!チョコ、絶対だからな!」
「う、うん、分かった。約束する」
ここまで言われては今更発言を翻すこともできない──否、元より反故にするつもりなど毛頭ないけれど。
了承の印ににこりと微笑んだところで、はたと思い当たる。
「…あ、でも今年のバレンタインは平日だね」
「それが何…ああ、そうか、ハニーは仕事だったな」
仕事を終えてから松野家へ向かうとなると、定時上がりでも夕飯時になる。訪問には微妙な時間帯だと感じたのが顔に出ていたのだろう、カラ松くんは不安げに眉を下げる。
私が何か言うより先に、彼が口を開いた。
「それでも──」
掠れそうな声で。

「どうしても…当日にユーリから欲しいんだ」

その言葉を紡ぐのに、いかほどの勇気が必要だったかは想像に難くない。拳を作った手の甲には血管が浮き、声は今にも消え入りそうなほど不安定だった。そんな姿を間に当たりにして、誰かノーと言えるだろう。
「その…我ながら自分勝手だとは思うんだが」
「いいよ」
チョコのパッケージを口元に寄せて、私は笑う。
「ハニー…」
「バレンタインの当日、仕事終わったらチョコ渡しに行くね──約束」

私が小指を差し向けると、カラ松くんはすぐに意図を察して同じ指を出してくる。絡めて、指切りをした。




「ユーリちゃん、俺たちにチョコをください!」

バレンタイン当日、約束通り仕事終わりに松野家のドアを叩くなり、ニート五人のスライディング土下座で出迎えられた。脈絡のない唐突な修羅場、いきなり地獄絵図
「えーと…」
「トト子ちゃんとの攻防は今年も惨敗を喫し、渾身のボディブローで追い出されて、俺たちにはもうユーリちゃんしかいないんだよ!お願いっ、この通り!」
五人を代表しておそ松くんが地面に額を擦り付ける。チョコのためなら土下座の懇願も厭わない、童貞の鏡
残る四人も長男に倣い、一斉に頭を下げた。彼らの顔に一様に暴行を受けたような痣や傷があるのは、トト子様からの鉄槌を食らった結果らしい。
「おなしゃす!」
「チロルチョコ一つでいいんです!」
「既成事実が欲しいっ」
人目につきやすい公道で物騒な発言をしないでいただきたい。
「ユーリちゃん、お願い!カラ松兄さんにチョコ渡しに来たのは重々分かってるけど、ほんと義理でいいから!」
トド松くんさえ、恥も外聞もなく拝み倒してくる始末。
カラ松くんはというと、彼らの後ろでただただ呆然と立ち尽くしていた。

「──そうくると思ってたよ」

私は片手を腰に当て、息を吐く。
バレンタインが訪れるたびにリア充への妬み嫉みを募らせ、六人で黒歴史を更新し続けてきたとしかカラ松くんからは聞いていないが、それもこれも全てチョコを貰う行為への執着心故である。つまり、六つ子がチョコを要求することは最初から織り込み済みだ。
カラ松くんにだけチョコを渡してスムーズに帰れるなら、六つ子が揃いも揃ってこの歳まで童貞なはずがない。
「ユーリ…それじゃあ…」
カラ松くんの目がみるみる瞠られていく。私は手にしていた紙袋を持ち上げた。
「ご推察の通り──全員分のチョコを持ってきたよ」

そこからはもう、五人による狂喜乱舞の拍手喝采
彼らは感謝の意を再土下座によって溢れんばかりに示した後、一列に並んで私から配給──もとい、チョコを受け取る。
「やったー!チョコ!チョコーっ」
「よ、ようやくチョロ松からチョコ松になれた…っ」
「…あ、ありがと…いいの?マジで?」
「ありがとー!めちゃくちゃ大事にする、家宝にすっぺー」
「えー、嬉しー、ユーリちゃん大好き!」
それから五人は互いの健闘を称え合うかのように円陣を組み、数名に至っては男泣きする始末。泣くほど喜んでくれるなら用意して甲斐があったというものだが、私が泣かせたみたいな絵面になるから泣き叫ぶのは勘弁願いたい。私は軽くなった紙袋を下げて、苦笑した。
彼らに渡したのは、各々のコンセプトカラーに合わせたパッケージのものだ。手のひらに収まるサイズ感の箱には四粒のチョコが入っており、パッケージのカラーをメインに使った転写シートによるイラストが、華やかに描かれている。陳列棚で二十色を超える箱が美しいグラデーションを作って並んでいるのを見て、これだと思った。

「ユーリ…」
充足感に浸る私とは対照的に、カラ松くんは浮かない顔だ。私を呼ぶ声にも、明らかに覇気がない。
「んー、何かな?」
五人は早々に家の中に引っ込み、外には私とカラ松くんだけが残った。玄関の戸は開けっ放しだ。
「これが…ユーリの答えなのか?」
ほんの一瞬だけれど、俯いた彼の顔には、今にも泣き出しそうな陰りが浮かんだ。
「答え…」
「あ、その…すまん──何でも…何でもないんだ」
緩やかに首を振って、彼は淡く微笑んだ。

「チョコ、サンキュ」

その手には、青い包装紙で包まれた市販品のチョコがある。おそ松くんたちに渡したのと同じもの。
私は僅かに口角を上げて応じる。開け放たれた玄関ドアの中からは、やいのやいのと騒ぎ立てる五人の声が聞こえてくる。歓喜に溢れた喧騒は、ひどく遠い存在で。
「帰るだろ?…駅まで送る」
「…ん」

カラ松くんはもう、私を見ていなかった。




頬を撫でる風がいつになく冷気を帯びているように感じられたのは、きっと心理的な要因も相まってのことだと思う。
闇の帳が下りた街の中を、室内から漏れる明かりと街灯を頼りに進む。重苦しい沈黙が私たちを包んでいた。カラ松くんはコートのポケットに両手を差し込んで、私から目を逸らすように前を向いている。こちらが話題を投げても、上の空の返事しか返ってこない。

「…あの、さ」
人通りが減った川沿いの道で、私は立ち止まる。
「どうした、ハニー?」
いつもなら穏やかな笑みと共に向けられる言葉が、今はひたすらに無機質だ。その原因が私にあることも、重々承知している。
だから───
「これ」
私は手にしていた紙袋を彼の前に突き出した。先程まで、彼ら六つ子に渡すチョコを入れていたものだ。
カラ松くんは僅かに首を傾げた。
「袋?…ああ、もう不要ということか。分かった、後で捨て──」
「違うってば」
ああもうと声に出してから、私は紙袋の中に手を突っ込んだ。そして取り出した物を乱暴に彼の眼前に突きつける。まるでツンデレの態度そのものじゃないかと、冷静な自分がツッコミを入れそうになる。

「チョコだよ。カラ松くんのためだけに作った、手作りチョコ」

我ながら恩着せがましい表現を口にして、じわりと羞恥がこみ上げた。カラ松くんは私と向き合う格好で、呆然と私の手元を見つめる。
「さっき渡せば良かったのかもしれないけど、みんなの前で渡せる雰囲気じゃなかったし、それに…」
「それに?」
カラ松くんは一歩踏み出し、箱を持つ私の手に、そっと自分のを重ねる。双眸は湿り気を帯びて、蕩けたようにうっとりと細められた。
「…言ってくれ。ユーリの口から…ユーリの言葉で」
もし今、誰かが横を通り過ぎたら、私は彼の手を振り払えただろうか。思考は横道に逸れる。
「こういうのって、シチュエーションも大事でしょ?」
義理だとか本命だとか、両極端な表現でひと括りにした途端に、限りなく無粋になるもの。
「二人きりの時に、渡したかったんだよね」
「…うん」
私の手の甲に触れていた手はゆっくりと離れ、宝物を扱うようにそっとチョコの箱を包む。赤く染まった彼の頬が、人工的な明かりに照らされて私の視界に映る。

「すごく、嬉しい…ありがとう、ユーリ」

今の私の気持ちを一言で表すなら──押し倒したい
非常にドラマチックなシーンで大変申し訳ないが、恍惚とした表情の推しを目の前にして初な乙女を演じられるほど心が広くない。エロい超越していっそ猥褻じゃないのか、これは。
そんな葛藤が渦巻く胸中で、私の第六感がしきりに告げている、これは今押したらイケるヤツだ、と。
「それと、すまない。さっきは動転してたとはいえ…態度悪かったよな」
それな。反省して改めろよマジで。
そんな言葉が危うく喉まで出かかったが、私は笑みを作って彼が胸に抱く箱を指で示す。
「パウンドケーキ、今朝早起きして作ったの。凝ったものじゃないけど、味は保証するよ」
一目見て手作りと分かるラッピング。包装も中身も、造形の美しさは市販品に遠く及ばないが、少なくともカラ松くんには想定以上の幸福をもたらしたようだ。
「ハニーの料理スキルの高さはよく知ってる」
「さらっとハードル上げてくるね」
「しかし事実だ。謙遜すると逆に嫌味になるぞ」
茶化す余裕も出てきたらしい。

「こんなに幸せなバレンタインでいいんだろうか。例年とは雲泥の差だ」
「黒歴史とは聞いたけど、今までは何してたの?」
何気ない質問のつもりだった。しかしカラ松くんは途端に苦虫を潰したような顔になる。
「ブラザーたちと手作りチョコを贈り合ったり、カカオ農家を潰しに行ったり…」
「カカオ……は?
「そして負けた」
「何に」
そりゃ確かに雲泥の差だわ。野郎同士のチョコ交換会と異性からの手作りチョコ贈答を同列に並べるな。比較するのも失礼なレベル。カカオ農家襲撃は論外。

私たちは再び駅へ向かう道を歩き始める。
カラ松くんは両手でラッピングされた箱を抱える。紙袋は辞退された。余韻に浸りたいんだと低音イケボで囁かれては、それ以上無理強いはできない。
「オレは欲張りだよな」
道すがら、口から溢れた言葉に私は小首を傾ける。
「そうなの?」
「今までのバレンタインを考えたら、今年はユーリから義理でもチョコを貰えれば十分すぎる。…いや、貰うどころか、当日に会いに来てくれただけでも、嬉しいんだ。でも──」
気恥ずかしそうにカラ松くんは指先で頬を掻く。
「チョコをくれるって約束をして、当日にユーリに会ったら…ブラザーたちと同じ物じゃ満足できなかった」
そう、最初の時点で彼との約束は既に果たしている。それ以外を提供する義務は、私にはないのだ。
カラ松くんの顔に苦笑が浮かぶ。

「オレだけの特別なチョコが、どうしても欲しかったんだ」

「ふふ、そうなんだ?」
「それがこうして全部叶ってしまって、冷静になってようやく…欲張りすぎだと気付いた」
カラ松くんは最初から、自分だけのチョコを望んでいたのだと私は思う。自覚の有無は横に置くとしても、願いは難易度順に層として重なり、私が手作りチョコを渡してようやく、充足感を感じられるレベルに到達したのだろう。
「それぐらいに嬉しいんだ。せめて一割でいいから、ユーリにも伝わってくればいいんだが…」
努めて声のトーンを抑えているのが伝わってくる。気を抜けば溢れ出そうな感情を、かろうじて堰き止めているような。
「そんなに喜んでくれたなら、私も作った甲斐があったよ」
私は鼻高々に、拳で自分の胸を叩く。
「これは推しに対する正当な投資だよね。推しと、推しを愛でる私の平穏で希望に満ちた未来のための。課金に等しい。いや課金か、うん、ある意味では課金。
こういうのも推し活っていうのかな?だとしたら推し活最高
誰かさんの癖が伝染したのか、少々大袈裟な身振りになってしまったが、任務を終えた達成感で私は一人悦に入る。
「…それだけか?」
「え」
その矢先、開けていた視界は遮られる。カラ松くんが、私の前に立ちはだかった。

「──オレはユーリにとって、推し…だけ、なのか?」

私は意識的に微笑を浮かべる。
「どういう意味かな?」
「もし、そのフィルターを外してオレを見てくれと言ったら…」
それに近い台詞を以前、どこかでも耳にした。もうずいぶんと前の懐かしい記憶が、思い出の引き出しからちらりと顔を覗かせる。あの時の約束を、彼は覚えているだろうか。
「推しフィルター外したら、ただのドクズじゃない?」
私の真っ当な返答に、カラ松くんは愕然とする。
「ホワイ!?なぜだ、ハニー!?
世界平和の象徴と銘打ってもおかしくない輝きを放つこのオレ、松野カラ松だぞ?
そんなフィルターなんかなくとも、生きとし生ける者全てが魅了されているというのにっ」
うん、まぁ何というか、そういうところだ
推して知るべし。




「おや、おそ松ザンスか」
そういうしているうちに、声をかけられた。顔を見なくても誰か分かる独特の語尾で、目線を上げた先には奇抜なロイヤルパープルのスーツ。口に収まらない出っ歯が、街灯の明かりをきらりと反射した。
「カラ松だ」
挨拶代わりの名前訂正。低い声音で、カラ松くんは眼前を見据える。
しかし不快さを滲ませたのは彼だけではなかった。イヤミさんは仰々しいほどの溜息を吐き、手首を振った。
「シッシッ、ミーはリア充には興味ないザンス。ミーの機嫌が変わらないうちに、とっとと視界から消えてちょーよ」
「…誰がリア充だ」
それは皮肉かとカラ松くんは青筋を立てる。
イヤミさんはじろりと睨みをきかせたかと思うと、右手に持つ木製の杖でもって彼の胸元を指した。
「チミザンス。その箱の中身がミーに分からないとでも思ってるザンスか?」
「…ッ!?」
「ユーリちゃんも、いい加減こんなろくでもない六つ子たちとつるむのは考え直した方がいいザンスよ」
「あはは、そうですかね」
私は肯定とも否定とも取れる曖昧な笑いを浮かべる。下手に反論すれば、火に油を注ぐだけだ。ここは場を収めるべくスルースキルを発動するが、イヤミさんは引く様子がない。
「というか、リア充じゃないならその箱はいらないザンスね。ミーが貰ってやってもいいザンス、寄越すザンス」
ほれ、と手のひらを見せるイヤミさん。カラ松くんは片足を後方に下げ、構える。
「誰がやるか。お前に奪われるくらいなら、その前にお前を物理的にこの世から消してやる
不穏なこと言い出しおった。
それほどまでに私のチョコを大事に思ってくれるのは嬉しいが、事案は勘弁
重苦しい殺気を漂わせながら、私の盾になるようカラ松くんが一歩前へ躍り出る。私からはイヤミさんの表情が窺えなくなった。

彼らが対峙していたのは、時間すれば僅か数秒だったと思う。
沈黙を破ったのはイヤミさんで、忌々しそうにフンッと鼻を鳴らす。
「チミに構っていられるほどミーは暇じゃないザンス。命拾いしたザンスね、一松」
「カラ松」
杖を器用に回転させながら、イヤミさんは私たちの横を通り過ぎていく。私には一瞥さえくれずに、次第に背中が遠ざかる。その姿が暗闇に溶けるまで、カラ松くんは私とイヤミさんを隔てる壁役に徹していた。
カラ松くんは肩の力を抜き、私に向き直る。
「イヤミのせいでせっかくの余韻が台無しだな」
「名は体を表すとは、よく言ったもんだね」
「…ハニーも言うようになったな」
「会った回数は少ないけど、結構ひどい目に遭わされたからね。イヤミの名は伊達じゃない」
私が唇を尖らせると、カラ松くんは肩を揺すって笑った。しかしすぐに笑みを消して、真剣な眼差しで私に言う。

「なぁ、ユーリ…もう少しだけ、時間あるか?」




私たちは人通りの少ない土手に腰を下ろす。新緑とは程遠い枯れた雑草がそよそよと風になびき、耳触りのいい音色を奏でる。
「プレゼントがあるんだ」
カラ松くんの口からそんな言葉が飛び出した時、私は耳を疑った。
彼はコートのポケットから、手にすっぽりと収まるくらいの長方形の箱を取り出す。真っ白なケースにブライトピンクの細いリボンが結ばれている。
「これは…」
「海外のバレンタインは、女性からという決まりはないんだろう?」
カラ松くんは呆然とする私の片手を取り、手のひらの上にそれを置いた。神聖な儀式を執り行っているみたいな、奇妙な感覚に包まれる。
「開けていいの?」
「もちろんだ」
端を引っ張ったらするするとリボンが解けて、蓋を開けた。

中には、等間隔に並んだ三個のマカロン。

「チョコ味だぞ」
はにかむような笑顔が眩しい。
食欲をそそるコーヒー色の一つを二本の指で摘み上げて、自分の口の中に放り込んだ。さくっとした軽い歯ごたえの直後に、フィリングのチョコレートソースによるしっとりとした食感へ変化する。
「あ、美味しい」
「そ、そうか?良かった。マカロンなんてよく分からないから、トッティにいい店を紹介してもらったんだ」
にこにこと嬉しそうなカラ松くんとは裏腹に、私はどう反応すればいいのか分からず少々困惑していた。
彼は知っているのだろうか。バレンタインにマカロンを渡す、その意味を。

『あなたは特別な存在』

先日たまたま、バレンタイン特集として流れてきたネットニュースで読んだ。お菓子業界による後付の解釈で、おそらく多くの人が知らない些末な情報ではあるけれど、この流れで、このタイミングだ。
「私が貰えるなんて想像もしてなかったよ。ありがとう、嬉しいな」
「実を言えば、帰りにハニーからチョコを貰えなかったら、危うく渡し損ねるところだった」
すまん、ともう一度彼は謝罪する。

「カラ松くん、口開けて」
「口?」
「あーん」
有無を言わさず促すと、カラ松くんは戸惑いつつも私に倣って口を開いた。その口に、マカロンを放り込む。

「私の気持ち」

咀嚼するために閉じられた彼の唇に人差し指を当てて、私はにっと笑った。
途端に真っ赤になるカラ松くんの顔。
「えっ、ちょ…ッ、グッ、ごほ…っ、は、ハニー!?」
マカロンを喉に詰まらせたのか片手で喉を押さえながら、切れ切れの単語を発してくる。その反応で全てを察する。


でもどちらからもその言葉は口にしない──今は、まだ。

『あなたは特別な存在』

笑顔が失われたあの日のこと

月並みな表現だが、ユーリの笑顔は咲き誇る花のようだった。
ハツラツとして華やかで、いつも意識が奪われて。その笑顔を間近で見られることが嬉しかった。カラ松にしか向けない特別な表情をいつまでも見ていたいと、そう思っていた。




どことなく覇気がない。その日ユーリの顔を見たカラ松が最初に抱いた印象が、それだった。機嫌が悪いのか、元気がないのか、体調が優れないのか。いずれにせよマイナスの印象が感じ取れる雰囲気を纏う。
正確を期すなら無表情に近い顔つきだったのだけれど、普段カラ松に会うなり朗らかな笑みを浮かべてくれるユーリを見慣れているから、想定外の表情に出くわして咄嗟にそう感じたと説明するのが正しいだろう。

松野家へと向かう道中、居心地の悪い沈黙が二人を包んだ。なのにユーリは平常時のように取り留めもない会話を交わそうとしてくるから、堪りかねたカラ松が意を決して尋ねる。
「どうしたんだ、ユーリ。何か嫌なことでもあったのか?」
「あ…うん」
肯定の返事までに僅かな間があった。告白するか否かを計りかねているような、戸惑いを覗かせて。
「やっぱり…分かっちゃうよね」
自嘲気味な声だった。けれど顔からは逡巡の色は窺えない。ユーリは立ち止まり、カラ松と向かい合う。
「実は───」


「表情が作れなくなった…」

ユーリから聞かされた言葉を呆然と反芻するのは、末弟のトド松だ。松野家二階の自室で暇を持て余していた六つ子は、揃って言葉を失った。言葉だけ聞くとひどく非現実的で、反応に困る笑えない冗談のようにも思われた。しかし口にしたその相手が、すぐに論破されるような些末な嘘を付く人間ではないことを、カラ松をはじめとする全員が理解している。
背筋を正してソファに座るユーリは、こくりと頷いた。その顔からはどんな感情も読み取れない。
「今朝起きたら突然。疲れからくる一時的なものかと思って様子を見てたんだけど、午後になっても少しも良くならなくてさ」
時は土曜の午後。かかつけの病院は診療時間外で、受診するなら基本的には週明けになる。急病診療所という手もあるが、今すぐに診察が必要なほど差し迫った病状でもないとユーリは言う。
「体調はどうなの?理由もなく不安とか、動悸がするとか」
チョロ松の問いには、首を横に振る。
「体調面も精神面も、いつも通りだと思う。ストレスもさほどないし、大きな心配事だってない…はず」
「でもユーリちゃんの表情筋が仕事してないんでしょ?大問題だよ、それ」
十四松が例によって軽いトーンで口にするが、眉間には皺が寄っている。彼なりに、深刻な事態と認識しているらしい。
「まるで一松じゃん」
床であぐらをかくおそ松が、しれっと一松をこき下ろした。
「待って、聞き捨てならない。おれの表情筋は弱々しいながらも一応生きてるから」
「俺は一松みをビシビシ感じるよ?」
「何でだよ!」
悪気なく喧嘩を売るスタイルの長男に、今にも噛みつきそうな四男。まあまあと仲裁に入ったのはユーリだった。
黒目と口だけがかろうじて形を変えるだけで、眉一つぴくりとも動かさない。
「一松くんは表情あるよね。表現するのがちょっと苦手なだけで」
「ユーリちゃん…っ」
一松は感涙して顔の前で両手を組んだ。

「しかし、表情が作れないというのは不便じゃないか?
ハニーの顔はもちろんそのままでも最高にキュートなんだが、サンフワラーのようなスマイルも魅力を際立たせる要素の一つだろう?」
ユーリの傍らで足を組み、少々大仰な身振りでそう言ったカラ松を、ユーリは無言のまま見つめてくる。胸の内に秘める感情が、まるで伝わってこない。
「え、どういう感情?
「いつものカラ松くんだな、と思って」
「ディスってる?」
「ディスってない」
即座に否定してからユーリは顎に手を当て、なるほど、と呟いた。

「…伝わらない、か」

顔の筋肉が動かないだけだと、ユーリは言う。体調は決して悪くないのだとも。あっけらかんと言い放たれるから、彼女の表情も相まって何だか大したことでないようにも感じてくる。
十四松が犬になってしまった時にも似た、自分たちには不都合がないとでも言うような、根拠のない安堵感。
「それでもオレは心配だ、ユーリ。もし週が明けても戻らなければ、必ず病院へ行くんだぞ。オレもついて行くから。いいな?」
「うん、そうする。でも今のところ生活には支障ないんだよね。一時的なものだといいんだけど」
「ねぇ、ユーリちゃん」
トド松がユーリの足元に寄ってくる。
「一回無理矢理でいいから笑えないか試してみてよ。こうやって、口持ち上げるだけでいいからさ」
自分の唇の両端に人差し指を当て、力でもって強引に引き上げる。不自然な笑みの形が末弟の顔に広がった。
「分かった、ちょっとやってみるね───んっ」
小さく深呼吸して、ユーリはソファに置いた手で拳を作る。六人全員の視線がユーリの顔に集まり、固唾を飲んで見守る。
すぐ側にいるカラ松には、彼女が肩と手にこれでもかと力を込めているのが分かる。必死さだけは嫌というほどに伝わるってくる。なのに。

──どのパーツも、微塵も動かなかった。




「いったー!」
室内に甲高い声が響く。ハッとして声の上がった方へと目を向ければ、襖の角に小指をぶつけたらしいユーリが蹲って悶絶している。トイレに行くために一階へ下りていったのがつい数分前のことだ。
「ユーリ、だ、大丈夫か?」
カラ松は慌てて駆け寄った。
「ボーッとしてたら…やらかした」
ユーリが前方不注意は珍しい。それだけ注意力散漫になっている証拠なのだろう。
「うわー、悲惨。腫れてないか確認した方がいいよ。冷やすもの持ってこようか?」
「へ、平気。そんなに強く打ったわけじゃないから」
チョロ松の気遣いを、片手を上げて制する。俯くその顔には──何の感情も浮かんではいなかった。
ぞわりと寒気がするような違和感を覚える。足を押さえる左手の甲には筋が浮き、痛みに耐えているのが見て分かるのに、眉間に皺さえ寄っていないのだ。気の抜けた顔が、ただ床を見つめている。
「ねぇユーリちゃん、今はどんな気持ち?」
十四松が彼女の前に膝をつき、口元にマイクを突きつけるように服の袖を向けた。
「めちゃくちゃ痛い」
「無表情だから全く伝わってこないね。動きと声に顔が伴ってない
「ひどく遺憾」
コントか。

痛いの痛いの飛んでいけと、十四松が腕を振ってユーリを慰める。本人は至って真剣で、それを知っているユーリはいつも笑って彼に応じていたけれど、表情のない今は、興味なさげに一瞥しているようにも感じられた。
「カラ松」
十四松とユーリのやり取りを尻目におそ松に呼ばれ、カラ松は顔だけそちらを向いた。おそ松はソファに片腕を預けて、床の上であぐらを掻いている。
「何だ」
「ちょっとこっち」
手首を前後に振って誘われる。
「大事な話だから」
ユーリの一大事に大事な話もくそもあるかと振り払いかけて、けれど素直に応じたのは、おそ松の声がいつになく真剣味を帯びていたからだ。それに彼はときどき、本当に稀にではあるが、打開策を講じる術を授けてくれることもある。
「両手上げて」
「は?」
「いいから。ほら、カラ松、ばんざい」
おそ松は言いながら、自分の両手を思いきり天井へ向けて伸ばす。同じようにしろ、ということらしい。
おそ松の意図がまるで掴めないながら、カラ松は戸惑いつつも指示に従って両手を天に向けた。
そして次の瞬間──

おそ松はカラ松の服の裾を掴み、インナーごとパーカーを剥ぎ取った。

神業と呼ぶに相応しいスピード感を伴った、一瞬の出来事。呆気に取られる兄弟と、真顔のユーリ。
「…え…は、え、何っ!?」
ヒーターがついているとはいえ、冬の室内で上半身裸は狂気の沙汰だ。脱がされる意味が分からないし、冗談にしては悪ふざけが過ぎる。
「おそ松!」
「…あー、こりゃ重症だな」
カラ松のパーカーを片手に持ったおそ松の視線は、ユーリに向いている。ユーリはというと、目はしっかりとカラ松の上半身を凝視しているのに、表情は相変わらず全くないままだった。
「ユーリちゃん」
「あ…ごめん、ご褒美すぎて見惚れてた
おそ松の声掛けにそう反応はするものの、顔からは興味のきの字も感じられない。言葉と表情の激しい落差に、カラ松は戸惑う。
「え、嘘でしょ。ユーリちゃんの表情が無すぎて、呆れ果てた感さえあるんだけど」
目を剥いて驚くトド松の横で、おそ松は腕組みをして眉根を寄せた。
「カラ松の裸体に反応しないのは想定外だった。ショック療法で治るかと思ったのに」
「裸体って言うな!」
自分の名誉のために記述するが、当然下はちゃんと履いている。
「返せっ、寒い!」
声を荒げながらおそ松からパーカーを奪取し、長い溜息と共に手を通そうとしたら、ユーリから待ったがかかった。
「すぐ写真撮るから、ちょっとそのままキープで」
「撮るな!」


ユーリの症状に対する解決策は見出だせない。自分たちに専門的な知識が皆無な上に、スマホで検索をかけても不安感を煽るだけだ。事態は一種の膠着状態に陥った。
口上のみでああだこうだと議論を重ねても進展はない。ユーリには週が明けたら必ず病院に行くことを確約させ、カラ松は改めて同行の許可を得る。万一結果が悪くても、自分が彼女を守ろうと、そう心に誓って。

「いやいや、シャリの上にわさびのってた方が楽だろ!醤油つけたら食えるじゃんっ」
「それだと客サイドでわさびの量を調節できないから、こんな刺激が欲しかったわけじゃない感が勝って、楽しめないだろ」
「っていうか、寿司の中のわさびの量って職人の力加減だよね?絶対全世界共通の規格ってないよね?それがそもそもの戦争の火種」
「黄金比ってヤツ?でもその黄金比を覆してこそ一流と吠える輩もいるんですぜ、兄さん。彼らは常にぼくらの想像を超えたがる」
「こっちは高いお金払うんだからさ、もういっそコンシェルジュや専属のシェフついててもいいよねぇ。だって八人だよ八人、寿司取ったらパーティだわもう」
いつしかユーリの病状から話題が移り変わって、六つ子の部屋は各自の声で賑やかになる。
今はカラ松を覗いた六つ子が順番に、寿司のわさびはどこにあるべきかと持論を述べているところだ。途中からわさび関係ないし、トド松に至っては暴論だが。
「もう、そうやって理屈をこねくり回すなよ、お前ら。素材を味わうのが寿司の醍醐味だろ。そもそも滅多に食えるもんじゃないんだし」
「おい待てクソ長男、お前が議題に上げておいて諦観の構えって何なの、ふざけてんの?
やれやれと肩を竦めるおそ松に対し、今にもその胸ぐらを掴み上げかねないチョロ松。
「カラ松くんは?」
「え、オレ?」
ユーリに意見を求められて、カラ松は目を瞠った。注文しないピザの話で白熱した過去が脳裏に蘇り、議論の生産性のなさにあの時同様面倒臭さが勝る。
「オレは…」
何でもいい、とピザの時は答えたのだったか。

「ユーリと一緒に食べられるなら、どっちでもいいな」

そこにユーリがいるなら。ユーリさえいてくれさえすれば、食すものなど何でも。
首を傾げて彼女に向けて微笑んだら、一松に頭を叩かれる
「一人だけしれっとユーリちゃんの好感度上げようとしてんじゃねぇ!排他松がッ」
お前らの時と違って、オレは本気で言ってる!」
「それが排他松だっつってんの!」

「というか」
寿司のネタは何がいいか、どんな順番で食べるのがオツか、やいのやいの騒ぎ立てる兄弟たちを尻目に、カラ松はソファの上で足を組み替える。
「今日のハニーはやけに静かだな」
「あ、うん」
いつもならカラ松が混じらずとも、参加者の一員として堂々と意見を述べているのに、今日に限ってはソファから動かず六つ子たちの会話に耳を傾ける役に徹している。

「表情のない私が入ると異物でしかないから、かな」

「あ…」
やはり彼女は自分の立ち位置を理解している。
「楽しそうに話す邪魔はしたくないし…でも、聞いてるだけで十分楽しいよ」
本心なのか虚勢なのか判別がつかない。けれどおそ松たちに聞かれない程度の音量に絞って語るのを見るに、少なくとも特別配慮されることはユーリ自身が望んでいないらしかった。自分はあくまでも異物で、取り巻く世界は日常通りに進行すべきである、と。
カラ松は胸がざわつくのを感じた。
喉に刺さった小骨が、いつまで経っても取れない。




ユーリの症状は、翌日になっても改善しなかった。
「子どもかってくらいの時間に寝てめちゃくちゃ睡眠時間取ったんだけど、駄目だったよ。でも体調はすこぶるいい」
両腕で力こぶを作る仕草をしながら、軽い口調でユーリは言った。昨日に続き、表情は堅い。
自分たちが休日に二日続けて会うのは珍しいことだ。それだけカラ松はユーリの身を案じていたし、ユーリもまたカラ松の誘いに逡巡さえしなかったら、つまりはそういうことなのだろう。

赤塚区にあるカフェで、ユーリが飲みたがっていた新作のカフェモカをテイクアウトで購入する。一杯ワンコインを超える金額で躊躇していたら、ユーリから割り勘を提案されたので有り難く誘いを受け、購入担当を買って出たのだ。
「すまんハニー、歩きながら飲むのでもいいか?」
「寒いからちょうどいいね」
本当は店内で飲む心積もりだったのだが、昼過ぎという時間帯もあり、あいにく座席は全て埋まっていた。
カラ松からカップを受け取って、ユーリは数回息を吹きかけた後に飲み口に口をつける。
「美味しい!」
弾む声。ちょうど他のものに視線を投げていたカラ松には、その声を聞いてごくごく自然に、笑うユーリを脳裏に思い浮かべた。ハッとしてユーリに目を戻せば、無感情にカフェモカを飲む彼女が現実にいる。
「はい」
「え…」
「え、じゃないよ。カラ松くんも飲むでしょ?」
「あ、ああ」
心ここにあらずといった腑抜けた返事になってしまったが、手渡されたカフェモカを飲む。チョコレートソースの甘さとエスプレッソのビターな苦味が重なった絶妙な味わいが、口の中に広がる。
「旨い!」
カラ松は思わず口角を上げた。
「甘すぎず苦すぎず、しかも甘ったるさが残らず飲みやすい…デリシャス…っ」
人気店なのも頷ける。カフェモカやフローズンドリンクの類は、小洒落ているだけのアクセサリー感覚のドリンクと侮っていた。反省して認識を改める必要がありそうだ。
「…ユーリ?どうした?」
カップに口をつけた時から、ユーリはじっとカラ松の顔を見つめていた。

「やっぱり、表情って大事だね」

改めて思い知らされた、そんな感慨深さを含んだ声音だった。
「カラ松くんのすごく美味しいって気持ち、こっちまで伝わってきた」
けれどそれは、湧き上がった感情を表情にのせて表現しているから。
「カラ松くんが並んでる間、入り口のガラスドアに映った私を見たの。つまらなさそうな顔して、ボーッと立ってた」
当人にそんなつもりは微塵もなくとも、客観的にはどうしてもそう見えてしまう。喜怒哀楽を顔に出すのが普通とされる世の中だから、枠から外れたマイノリティーは異端者として忌避される。
「虚しいよね。事情を知らない人から見れば、何て人間味のない奴なんだって思われちゃう」
「ユーリ…」
「どんなに美辞麗句を並べて言葉を尽くしても、表情が伴ってこその言葉なんだね」
今までの当たり前を失って、それがどれほど価値のあるものだったかを痛感させられる経験は、人は誰だって一度は体験することだ。体調を崩して寝込んだ時に、平常時の体の軽さが実はかけがえのないものだったと知るように。
伝わらなければ、ないのと同じ。
あははと誤魔化すような乾いた笑い声が宙に消え、焦点の定まらない虚ろな目が地面に落ちた。


壁一面がガラス張りのショーウィンドウ。すぐ側をカラ松とユーリが並んで歩く。
いつもなら、真っ直ぐに前を見つめるユーリの力強さに目が離せなくなって、より一層心惹かれて、傍らを許された自分を誇らしいと思った。自分だけに向けられる彼女の微笑みが、たまらなく嬉しかった。カラ松にとってユーリは、光そのものだったから。
眩いばかりの明るさで照らしてくれた灯火が、息を吹けば消えてしまいそうなほどに今は弱々しい。

不意に、カラ松の横を若い女性の二人組が通り過ぎる。相好を崩して笑い声を上げる彼女たちが、カラ松の目にはきらきらと輝いて見えた。
ユーリも、あちら側の人間だったのだ。カラ松には眩しすぎる世界に生きる人。なのに欠片ほども気負わずに、自然なことだと言わんばかりに、カラ松に手を引いてくれた。
どんな言葉をかければ、ユーリの心を軽くすることができるだろう。僅かでいいから、彼女にとっての救いでありたい。
ショーウィンドウに、ユーリが唇を引き結んで彼女たちの後ろ姿を目で追いかけているのが映って、どうしようもなく息苦しくなった。
吹き付ける風は──冷たい。




夕刻、人気のない公園のベンチにユーリは腰掛けている。
先程までは子どもたちが騒々しく駆け回っていたが、時計台が五時を示す頃には、雲隠れするみたいに一斉にいなくなってしまった。
「チビ太、準備にもう少しかかるらしい。終わったら呼びに来るって」
人気のある場所を避けたかった。けれど重苦しい空気を程よく撹拌する存在は必要だったから、チビ太の屋台を選んだ。彼は時の場合に応じて、自分たちへの関わり方を変えてくれる。
「ただ、味が決まらないとかで頭を抱えてる」
「じゃあ時間かかるかもね。まぁ、まだ五時過ぎだし気長に待とうか」
「寒くないか?どこか室内でもいいんだぞ」
カラ松が訊けば、ユーリはゆるゆると首を振る。
「今は静かな場所の方が落ち着くから」
「…そうか。すまん、そうだよな。オレはユーリがいいなら、どこでもいい」
ユーリの心情を推測はできても、必ずしも正しいとは限らない。日常的に間違っていることもあるし、彼女の中でも様々な想いは刻一刻と変化しているだろうし、一軍並みの洞察力はおそらく永久に手に入らないだろう。
だからせめて、自分はいつでもユーリに寄り添いたいと願っていることだけは、知っていてほしい。
「ふふ、謝らなくていいのに」
ユーリは肩を揺らす。声だけ聞けば、確かに笑っている。

「…私、ずっとこのままなのかなぁ」

ぽつりと溢された一言。
不安の吐露なのか深い意味のない呟きなのか、声音では判断がつかない。きっと治るさと慰めるのは容易いが、それはあまりにも無責任だ。
「もし、もし万が一治らなかったら…」
そんなことは決してないと言い切りたい気持ちを押し込めて。

「その時はオレがユーリの顔になる」

ユーリの唇が僅かに開いた。ただそれだけの変化だったが、驚いているらしいのは分かった。
「顔に出ない分、言外の感情を頑張って察するし、誰かに何か伝えたいことがあればオレが代わりに伝える。
もちろん治る前提だが、ハニーのハンディキャップはオレが補うから、どうか…悲観しないでくれ」
数秒の間、二人の間に静寂が流れた。カラスの鳴き声がどこからともなく聞こえたのを皮切りに、ユーリが沈黙を破る。
「──ありがとう」
どんな感情が込められているのかまるで読めない。どうしても、掴めなかった。この体たらくではユーリの助けになんて到底なれない。
このままだときっと大切なことを見逃して、傷つけてしまうのが目に見えている。本当にギリギリになるまで、助けてとは言ってくれないから。その時に見誤らない自信がない。

笑うユーリを見るのが好きだった。
ころころと変わる表情が、とても可愛くて。

カラ松の頬を、一筋の涙が伝った。

「どうして泣いているの?」
目尻から頬を流れる冷たさに気付くのと、ユーリが問いを投げるのがほぼ同時だった。
「…ユーリが泣かないからだ」
「私が…」
ぽとりと、雫が一滴カラ松の足元に落ちる。
ユーリはカラ松の涙を追いかけるように目線を落として、そっか、と声を出した。
「実はこれでも、結構不安にはなってるんだよ。さすがに二日目だし、改善する様子も全然ないし」
「ユーリ…」
「でも、涙が出ないの。目頭が熱くならない。涙を出す器官も壊れちゃったかもしれなくて、これ一見便利なようで、結構困るんだよね」
真剣みに欠ける表情で紡がれる言葉たちは、おそらく彼女の本心だ。深刻にならないようオブラートには包んでいるが、世間では強がりと呼ぶものに他ならない。こういう時さえ、ユーリは弱みを見せない。
「全部、夢だったらいいのに…」
「ユーリ」
カラ松はユーリの両手を取った。白くしなやかな指は先端までひどく冷えていて、外気から隠すように包み込む。

「すまん…ユーリを支えると誓ったのに、オレはやっぱり元に戻って欲しい」

「うん」
「オレに向けていつもみたいに笑ってほしい。戻らないなんて…そんなの嫌だ」
カラ松が弱音を吐けば吐くほどユーリを困らせる、そんなことは火を見るより明らかだ。
しかし虚勢を張ってその場限りの嘘をつけば、遠くない未来に必ず破綻する。
「馬鹿言うなと叱ってくれていい。一番不安なのは自分なんだ、って」
視界が滲む。輪郭が曖昧になる視界の中で、ユーリは肩を竦めた。
「…そっか、ここは怒っていいとこか」
言われてようやく気付いた、そう言いたげだ。
「代われるなら、今すぐにだってオレが代わる」
これは嘘偽りない本心だ。ユーリが抱える苦しみも悲しみも、カラ松が代われるものならいつだって喜んで代わる。不遇な境遇には慣れている。ユーリが側にいてくれたこれまでが、カラ松には余りあるほどの幸せだったのだ。
なのにユーリは、すぐさまかぶりを振った。

「駄目だよ、カラ松くんは笑って」

どうして。
握りしめた白い手を見つめたまま、言葉にならない問いをカラ松は飲み込んだ。顔を上げられない。
頭に降り注ぐユーリの声音は、どこまでも優しかった。
「──ありがとう、代わりに泣いてくれて」
穏やかに微笑むユーリの姿が鮮やかに脳裏に浮かぶ。涙はもう出ていないが、目頭は熱い。上手く息が吸えない。
「カラ松くんがいてくれれば、きっと治るよ」
「ユーリが治るなら、オレは何でもする」
その覚悟がある。代償ならいくらでも支払うから、だからどうかと、声にならない祈りを信じてもいない神に捧げる。

「───った」
「…え」
ユーリの言葉が聞こえなくて、重い首を持ち上げる。その瞬間、カラ松の目に飛び込んできたのは──

「言質取った」

ニヤリとほくそ笑むユーリ。

「げんし…は、え……はぁッ!?」
映る光景を脳が処理するまでに時間を要する。正しく理解できずに、素っ頓狂な声が口を突いて出た。
「まずはご無沙汰の腹チラから」
「何が!?」
「何でもするって言ったよね?」
その言い草はまるで脅迫じゃないか。
いや、確かに言った、自分の意思でそう発言したのは認める。しかしにこにこと微笑んでいるユーリを前に、カラ松は頭が真っ白になる。

「推しの力って偉大だなぁ」
しみじみと噛みしめるように言いながらユーリはカラ松の手を払い、しれっと腰に手を回してくる。ユーリの黒曜石の瞳に、唖然とする自分が映った。そして腰に触れていた手は、静かに裾をたくし上げようとしてくるから、慌ててその手首を掴む。
「ままま、待て!ひょっとして、わざと…っ」
「さて」
「は、話が違うぞ、ハニー!オレはハニーが治るなら、って言ったんだ!」
「まだ本調子じゃないと思うんだよね」
「嘘つけ!」
違う意味で半泣きになるカラ松に、妖艶とも思える表情でユーリが顔を近づけてくる。
数秒の心理戦の後──二人は、笑った。額を突き合わせて、声の限り。涙が出ないのが不思議なくらい、息が切れるまで。

こんな応酬ができること自体、本当は幸せなことだった。


「また笑えなくなったら助けてくれる?」
ひとしきり笑ってから、不意に真剣な双眸をユーリが向けてくる。誰も乗っていないブランコが風にたなびいて、不快な金属音を鳴らした。
「…何でも、はしないからな」
顔をしかめて牽制するカラ松に、もちろん、とユーリは強く頷く。
でもきっと、何でもしてしまうのだろう。ユーリが望むなら、この身を差し出すことも厭わない。
「いいよ。カラ松くんが側にいてくれたら、それだけで」
膝の上で拳を作っていたカラ松の手に、ユーリは自分の片手を重ねた。先程までの冷たさはもう感じられない。
「…良かった。もう二度と笑ってくれないんじゃないかと思った」
「怖いこと言うね」
肩を揺らして小さく苦笑する。

「ユーリ、もう一回笑ってくれ」

懇願に等しい願いを、ユーリは容易く叶えてくれる。ああ、やはり、綺麗だ、とても。

屋台の準備ができたとチビ太が呼びに来たのは、それからすぐのことだった。

酒に飲まれて酒を飲む

憎からず思っている異性との宅飲みは、童貞にとって心躍る特別なイベントだ。

二人きりで相手の自宅で過ごすシチュエーションは、それだけ互いに心を許している証拠に他ならないし、酔いが回ることで思わぬ本音が聞けることもある。そして万一何らかの事態が発生しても、アルコールのせいにできる特典つきだ。
いずれにせよ、ユーリから彼女宅での飲みに誘われて断る理由は、世界中探したって、カラ松には──ない。
あわよくばという不埒な願望も、ないと言えば嘘になる。年頃の男女が密室で二人きり、ほろ酔いの高揚感も手伝って、艶めいためくるめく展開があったらいいなぁ、なんて。

だからこそ、浮き立つ気持ちで玄関を開けた時、泥酔したユーリが現れた時は言葉を失った


「…ユーリ?」
カラ松の前に現れたのは、フロントジップの丈の長いパーカーに細身のデニムレギンスを合わせた部屋着のユーリ。その顔は首から額まで上気しており、ドアノブを掴む手も赤みが差している。
そして極めつけに──
「カラ松くんらぁ、いらっしゃぁい」
回らない呂律。
「おいたが過ぎるぞ、ハニー。オレが来るのを待ちきれなかったのか?どれだけ酒を飲んだんだ?」
玄関口でカラ松は腰に手を当て、溜息をつく。
大人っぽいあわよくばを期待はした、少々酔いが回ることも想定内だった。しかし出だしから泥酔は予想外、最初からクライマックス
「ひっどぉい、お酒なんて飲んでませんけどぉ。カラ松くんが来るのを今か今かと待ってただけだよ」
完全に酔っている。シラフのユーリなら、不自然に語尾を上げたりしない。
「飲んだだろ。…いや待て、質問を変えよう。オレが来るまでに何を飲んだ?」
「ノンアルを一缶だけ」
「ノンアルで酔ってたまるか」
即座に否定すれば、ユーリは無言で頬を膨らませた。カラ松が抱いていた淡い期待が一瞬で消滅したのは嘆かわしいことだが、いかんせん可愛い。酔っていなければ絶対にしないであろう仕草の愛らしさに、油断すれば目尻が下がる。

玄関を開け放ったまま問答を続けていても不問だ。カラ松は家に上がり、ユーリが飲んでいたと証言するノンアルコールを確認することにする。
「仕事終わってすごくお腹すいてたんだけど、喉も乾いてたから一気飲みしちゃったんだよねぇ」
これこれ、とユーリはにこにこしながら、シンクに置かれていた空き缶を手渡してくる。
ストロング缶だった。
もはや溜息も出ない。無言で冷蔵庫を開ければ、ユーリがカラ松との宅飲みのために購入したビールやチューハイの缶たちが最初に視界に入る。そしてその中には、ストロング缶のデザインによく似たノンアルコールの缶が鎮座していた。謎は全て解けた。
「ハニー…」
「んー?」
きょとんした顔で首を傾げないでもらいたい、ソーキュート。
「空腹でストロング缶を一気飲みすれば、酔って当たり前だ。ハニーがそんな初歩的なミスをするなんて、らしくないぞ」
一般的なビールやチューハイのアルコール度数が平均5%で、このストロング缶は9%。安価で手軽に酔えると謳われているものだ。
しかしユーリは証拠を突きつけてもなお白を切ろうとする。
「だからノンアルしか飲んでないってば」
「あのなぁ…」
「そりゃ確かにさぁ、早くカラ松くん来ないかなぁ、一緒に飲みたいなぁってソワソワしてたけど、さすがにそんな間違いはしないよぉ」
「……っ」
へらりと、何でもないことのように言うユーリとは対照的に、カラ松は唇を引き結ぶのに必死だった。嬉しくてニヤけてしまいそうで、慌てて口元を手で押さえる。
「と、とにかくだ、ユーリはまずは水を飲む。いいな?アンダスタン?」
ガラスコップに水道水を注いで渡したら、ユーリは怪訝そうにしながらも頭を垂れた。
「よく分かんないけど、まだ喉乾いてるからいいや。あ、でもこれ飲んだらね
そう言った彼女の右手には、いつの間にか二缶目のストロング缶が出現している。蓋は既に開いていて、ユーリは満面の笑みで一気にあおった
「ストオオオオォォオップ!今の今まで何を聞いてたんだ、ユーリ!オレの話のどこをどう解釈したらストロング缶二杯目という暴挙に行き着くんだっ!?正気か!?」
すぐさま取り上げたが、数口は飲まれてしまった。
「だからノンアルだって」
「違ぁう!」
先ほどから自分たちの会話は一見成立しているようだが、色々と破綻している。

「ユーリ、これ何本だか分かるか?」
カラ松は一メートル離れた場所に立ち、右手の人差し指を立てた。相手が酔っているか否かの判断に用いられるテストの一つだ。正しく回答できないなら、宅飲みは即座に切り上げなければなるまい。
「一本でしょ?やだなぁ、それくらい分かるよ~」
「そ、そうか…」
躊躇なく答えるユーリに、カラ松は安堵する。ということは、視界は一応正常らしい。
「ノンアルとストロングの区別くらいつくって。だからそのノンアル返して
前言撤回、これは駄目だ。




ユーリとは、もう何度も酒を飲んだ。
深酒にならないよういつだって酒の量を調節して、自分たち兄弟が崩れても最後まで背筋を正し、必要に応じて介抱もしてくれた。男所帯で紅一点だから自衛するのは当然としても、カラ松と外で飲む時でさえ同様だった。
泥酔したユーリを見るのは、そういえば初めてのことだ。

リビングのローテーブルには、仕事帰りにスーパーで買った巻き寿司やピザといった主食と、つまみ系の惣菜と菓子がパックのまま置かれている。箸と取り皿を並べ、ユーリには水を入れたコップを突きつける。
「宅飲みはまだスタートさえしてないんだぞ。飯で腹が満たされるまでは、ユーリはアルコール禁止だ」
「えー、横暴ー」
眉をひそめつつも、ユーリはコップを手に取った。
「悪酔いして明日に差し支えたらどうする。ハニーの貴重な休日を二日酔いにさせたくないんだ」
仕事に家事にと忙しない日々を、ユーリは十分に頑張っている。そんな休息すべき大切な日をカラ松と過ごすために費やしてくれることには、感謝しかない。だから、泥酔はユーリ自身の非とはいえ、カラ松の目が光る場所でこれ以上悪化させるわけにはいかないのだ。
やれやれと脱力しながらビールの缶のタブを開けたら、目を見開いてカラ松を凝視するユーリと目が合った。
「…ユーリ?」
何か失言をしただろうか。
カラ松の不安をよそに、ユーリはゆっくりと微笑みを浮かべる。
「カラ松くんはほんと、私に優しいねぇ。そういうの…すごく嬉しい」
はにかみながら、耳にかかる髪を指先で掻き上げた。袖から覗く白い手首と、伏せられた長い睫毛にカラ松は不覚にもドキリとする。血色のいい唇には、ピンクのグロスが映える。
「…ま、まぁ、その…相手が他ならぬユーリだからな」
「ふふ」
意味深に笑って、ユーリはコップの水で喉を潤した。透明なグラスの縁に、唇の跡が残る。
「あ、乾杯がまだだった、ごめんごめん。
ねぇカラ松くん、最初の乾杯が水じゃ味気ないから、その時くらいはお酒持ってもいいよね?」
「ん?ああ、そうだな、乾杯だけなら」
カラ松が飲みかけのストロング缶を渡すと、ユーリはそれをカラ松の前に突き出した。無言で応じて、アルミの缶を触れ合わせる。

「──乾杯」

レモンのみずみずしさと清涼感を感じさせるデザインの缶の奥で、ふにゃりと表情を崩すユーリ。
無性に、彼女に触れたくなる。腕の中で抱きしめて、髪一本さえ他の誰にも渡したくない衝動に駆られる。抵抗を力づくで押し込めて、欲望を発散させるだけなら今すぐにだってできるけれど、衝迫を幾度となく押し殺してきたのは、欲しいものがユーリの体だけではないからだ。本当に欲しいものは、違う。

呼吸を整えてビールを嚥下したところで、ユーリがストロング缶で喉を鳴らしている光景が目に飛び込んでくる
何という清々しい裏切り。
「ハニイイイイィイィ!?」
「えー?」
「えー、じゃない!それを返すんだっ、今すぐにっ、ハリーアップ!」
引ったくるように奪って、カラ松は険しい表情でユーリを睨みつける。
「ユーリは、食べる、飯!酒、駄目!」
あまりの衝撃に単語しか出てこない。泥酔もいいところだ、たちが悪い。
「あー、そっかぁ、ご飯先に食べる約束だったねぇ」
強く叱られても動じる様子もなく、巻き寿司のタッパを開けて手で摘む。それから大きく開けた口に、一つを放り込んだ。
蕩けそうな瞳と赤みの差した頬は、カラ松には刺激が強い。首からデコルテにかけて露出している肌も同じく上気して、ひどく扇情的だった。
「あのな」
いい加減、釘を差しておかなければ。

「男と二人きりだということを忘れるなよ。オレも男なんだぞ、ユーリ」

いつか我慢が効かなくなる時が怖い。だからこれは、自戒の意味を込めての発言だった。
「それくらい知ってるよ。
あれぇ…ということは、カラ松くんはそういう意図があってうちに来たってこと?」
「そ、そういうわけでは…」
「無警戒なのは、相手がカラ松くんだからだよ」
もう何度も聞いた台詞だ。自分たちは、そんな甘美な言葉を駆け引きの一環のように交わし合っている。
「フッ、そうだろうとも。ハニーに忠誠を誓った忠実なるナイトであるこのオレに、全幅の信頼を寄せるのは英断だぜ。ガイアに生きとし生ける者全てがエネミーとなっても、オレはミッションを全うするさ」
カラ松は悩ましげなポーズで前髪を掻き上げてから、ふと真顔に戻る。
「──と言いたいところだが、今日は素直に受け取るべきか悩む」
「あはは、それは残念」
ユーリはからからと笑って、空になったグラスの縁を人差し指でゆるりとなぞる。

「でも…カラ松くんももっと警戒すべきなんじゃないかな?」

蠱惑的な眼差しが向けられて。
「ハニー、何を…」
ユーリはカラ松の問いには答えず、ふふ、と意味深に笑うだけだった。
しかしカラ松はすぐに、その意味を身をもって知ることになる。




漫画やドラマでは、普段酒を制限している者が度を超えて摂取した場合、往々にして意外性のある結果をもたらす。願望を加味して言うなら、やたら積極的になったり色っぽく迫ってくるのも定番の一つだ。
今日のユーリの部屋着も、そういった展開におあつらえ向きにフロントジップのパーカー。中はキャミソール一枚らしく、前屈みになった際にチラリと胸元から覗くレースが実にエロい
「暖房強すぎかなぁ?ちょっと暑いね」
ユーリは片手で仰ぎながら、もう片手で服の胸元を掴んで前後に揺らす。
「は、ハニー…ッ」
「ん?」
無防備さを窘めようと口を開いたら、上擦った声が出た。カラ松の視線に気付いて、ユーリはいたずらっぽく口をへの字に曲げる。
「どこ見てんの」
「ち、違っ、見てない…ことはないが、ハニーがそういうことをするから…っ」
童貞への刺激の強さを考慮されていない仕草は、カラ松にはダメージが大きい。際どい部分はどこも見えていなくてもチラリズムだけで容赦なくクリティカルを食らうから、カラ松は慌てて目を逸らした。

「さっき、カラ松くんも警戒した方がいいって話をしたよね?」
「…へ?」
カラ松の体を覆うように落ちる黒い影。ユーリの声が間近から聞こえたと認識するより先に、背中の中央に伝う細い指先の感触にびくりとする。
「うわっ!な、何っ!?」
僧帽筋辺りから腰にかけて、真っ直ぐに直線を描かれる。反射的に仰け反ったら、今度は手のひらが腰を撫でてくる。
「カラ松くん、暑くない?暑いよね?そのスタジャン脱いだ方がいいよ
決めつけてきたし、脱衣を提案したかと思いきや、既に服に手をかけて強制的に脱がそうとしてくる。違う、こういう方向に積極的になってほしいんじゃない。逆、真逆。
「ち、ちょちょちょちょおおおぉぉっと待て!ウェイトっ、ウェイトだ、ハニー!」
「無理は良くないよぉ」
「無理してないからっ、これ着ててちょうどいい感じだからっ、こらこら脱がそうとするんじゃない!」
「でも実際暑いし──あ、分かった、じゃあこうしよう」
ユーリはカラ松の上着から手を離し、名案が浮かんだとばかりにポンと両手を打った。

「自分で脱いで」

脱ぐか脱がされるかの究極の二択。脱がないという選択肢は与えられないらしい。どう足掻いても絶望。
「でなければあの手この手で脱がす」
やはり。あの手この手って何だ。
「わ、分かった、脱ぐ、脱ぐからっ───ほら、これでいいんだろう?」
スタジャンの下はVネックの半袖だ。脱いだ上着を半ば放るようにユーリに渡せば、彼女は破顔してそれを受け取った。笑顔が究極に可愛いから、怒りたいのに怒れないジレンマに陥る。
「わぁー良いー、尊い、有り難い、エロい、セクシーの化身、生ける神」
ユーリの語彙力が猛威を振るう。一部本人としては同意し難い形容が混じっているが、反論するタイミングが掴めない。
「あの、ユーリ…?」
こういう時どんな顔をするのが適切なのか分からない。戸惑いがちに名を呼んだら、なぜかローソファに押し倒された

「ええっ!?」
「はーい、おめでとうございます。松野カラ松くん一名様ごあんなーい」
何が。否、何に。一体何に当選したというのか。
「いやもう、久し振りに拝んだ二の腕とか細いウエストとか腰から尻のラインとか、ヤバイの何のって。どれくらいヤバイかというと、こうしてうっかり押し倒しちゃうくらいヤバイ」
「うっかりで押し倒されるオレの身にもなれ!」
「ごめんねぇ」
「悪いとは微塵にも思ってないだろ、それ!」
「まあねぇ」
口先だけで中身が伴わない典型的な応酬だ。トド松上級互換のドライモンスター現る。
ユーリは仰向けになったカラ松の腹の上にまたがり、片手はカラ松の右手首を押さえつける。もう片手は優しく耳朶に触れた。酒のせいで高まった彼女の体温が、皮膚から伝わってくる。
カラ松はユーリをキッと見据えた。
「力でオレに敵うと思ってるのか?」
「あ、抵抗しちゃう?いいよぉ、強気な推しを強引にっていうのもソソるよねぇ」
警告のつもりが、燃料投下しただけだった助けて赤塚先生。
「あの、ユーリ…その、せ、せめて上下は逆パターンで」
「却下」
「検討の余地!」
「ないでーす」
いつになく高い声音で笑い、ユーリはストロング缶に口をつけた。強制的に摂らせた水や食事は焼け石に水だったようだ。酔いを覚まさせようと尽力した自分の苦労は一体何だったのか。

「──ね、だから警告したでしょ?」




カラ松のシャツをたくし上げて事に及ぼうとする魅惑の誘いを──もちろん拒否して、力づくで引き剥がす
断固として、けれど暴力的にならぬよう細心の注意を払って。腕力では、圧倒的にカラ松が優位だ。
「…サーセン」
ユーリは腕を組み、唇をこれでもかと尖らせて謝罪の言葉を口にした。
「それが人に謝る言い方か、ハニー」
「悪いと思ってないもん」
「正直」
気を揉んで疲弊したカラ松は、すっかり冷たくなったピザを一切れ頬張った。ビールで流し込んで、ユーリに向き直る。
あの時、警告したでしょうと耳元で甘く囁かれたあの瞬間、もういいかと諦観の気持ちもなかったわけではない。手に入れられるなら他の何を代償にしてもいいと思い詰めるくらいには、焦がれて、想い続けて。
けれど断固として受け入れなかったのは、最高に酒臭かったからだ。こういうシチュエーションはもっとこう、せめてもう少しくらいはロマンチックでありたい。正気を保っていて良かった、でもぶっちゃけ危なかった、ギリギリ中のギリギリ。
「そもそも誘ってきたのはカラ松くんだよね?」
「誘ってないし、普通立場と台詞が逆だし、ツッコミどころ満載で持て余すんだが
ツッコミ役は荷が重い。
「乱れた衣服を直す推しの姿が、誘ってないとでも言うの?」
「誰のせいで乱れたんだ」
「私かな」
「そうだ。だから──」
「だから責任取って抱くしかないよね」
「え、会話の無限ループ入った?」


ユーリに昏々と言い聞かせ、大人しく酒と食事を楽しむことを確約した。ようやく身の危険を感じる必要がなくなり、買い込んだ食事も九割が腹に収まった。
ローソファに並んで座り、他愛ない会話も交わせるようになった頃。
「あ」
醤油を入れていた小皿にユーリの手がぶつかり、テーブルに溢れる。
「ごめん、ティッシュ取ってくれる?」
「分かった」
ティッシュケースはカラ松の手の届く距離に置かれていた。ユーリに背を向けて一枚取ったところで──背中から両手が回される。
またか。小一時間前に諭したばかりだというのに、まるで反省してないようだ。油断して背中を見せた自分も悪いが、やはり酒は取り上げなければ。カラ松が長い溜息と共に口を開こうとした、刹那。

「カラ松くんって、いい背中だよね」

「へっ?」
「ほんっと、背中のこのラインがどストライクなんだよねぇ。触り心地も匂いもサイズも理想的すぎる、私の腕にシンデレラフィット。推しが放つエロス万歳
玄関入ってからずっと感じていることだが、酔っているせいで普段よりひどく饒舌だ。口を開けば推してくる。
「ユーリ、いい加減に──」
咎めるべく声を出したら、ユーリはカラ松の腹の前で組んだ両手にぐっと力を入れた。

「…こうやって甘えるのも、駄目?」

先ほどまでの、息を吐くようにすらすらと述べた称賛の言葉とは裏腹に、かろうじて聞き取れるほどの小さな声だ。
カラ松はハッとする。貞操の危機を脱することばかりに目が向いていたせいで、あわよくばと望んでいた甘い触れ合いがこれでもかともたらされていることに、今になってようやく思い至ったのだ。
というか、何で背中なんだ。こういうのは正面から堂々と来てほしい。そうすればユーリの顔を見つめながら思う存分抱きしめられるのに。腹に回されたしなやかな両手に、鼓動が高まる。顔が熱くてたまらない。
「…誘ってるのは、ユーリの方じゃないのか?」
必死で平静を保ち、カラ松は言う。
「いやいや、圧倒的にカラ松くん」
「何をどうしたらその結論に辿り着くんだ」
「でも事実だからなぁ」
間延びした声だ。ユーリが今なお深く酔っていることは一目瞭然だった。だから、今発せられている言葉は本心ではないかもしれない。明日になればユーリ自身が忘却している可能性だって十分ある。
でも──
「楽しいか?」
「とても」
「そ、そうか…ユーリが楽しいなら、まぁ仕方ないな…うん」
ビール缶を取って、ちびちびと飲む。テーブルの上には空になった缶とフードパックが秩序なく置かれていて、宅飲みが終盤であることを静かに物語る。

背後から抱きしめられたまま、とりとめもない会話を幾つか重ねて、いつしか話題が途切れた。甘美な眠気に抗い、垂れそうになる頭を上げ、飲み干した缶をテーブルに戻す。
「ユーリ?」
ついに、名を呼んでも返事をしなくなった。振り返っても視界に入るのはユーリの後頭部だけで、表情は読めない。
「ユーリ、起きるんだ。終電までに帰らないと、ブラザーたちが心配する…というか、なし崩し的にレディの家に泊まるのはこう、さすがにプロブレムだろう?」
もう半年以上前に、ユーリ宅前で高熱を出して立っていられなくなった時、熱が下がるまで世話になったことはあるが、緊急事態だと双方で言い訳ができた。しかし、今は。
「…なぁ、ユーリ」
答えて。でも、答えないで。相反する感情が入り乱れて、カラ松は頭を抱える。
腹の前で組まれた手を強引に解くのも忍びない──というのは建前で、本当はカラ松自身がこの場から離れたくない。

ユーリが目覚めたら終電で帰ろう。万一間に合わなかった場合は、言い訳材料にユーリを利用させてもらうしかない。ユーリにしがみつかれて離してもらえなかったという大義名分を、一つ用意して。
抱きしめられた格好のままソファの背もたれに体を預け、カラ松も目を閉じた。




「───くん、カラ松くん」
優しい呼び声に、意識が覚醒する。
煌々と室内を照らす照明に目を細めながら、カラ松は声のする方へと顔を向ける。焦点の合わないぼんやりとした視界に、不安げな顔のユーリが映った。
「…ハニー?」
「ごめん、私のせいで帰れなかったね」
「あ…」
そうだ、終電。しかしユーリが手にするスマホのディスプレイが示す時刻は、丑三つ時。もうずいぶん前に電車はなくなってしまった。
「そのままだと風邪ひくから、もし良かったらシャワー浴びてこれに着替えて。下着がなくて申し訳ないんだけど」
「い、いや、オレの方こそすまん…起こすのも悪い気がして、つい…」
「ううん、カラ松くんは何も悪くないよ。気を使ってくれてありがと」
手渡されたのは、トレーナーとジャージパンツ。

霧がかかったような頭のままシャワーを浴びてリビングに戻れば、メイン照明が消された薄明かりの中、ローソファには来客用の掛け布団が置かれていた。テーブルに散乱したままの缶やゴミが気にはなったが、起きてから二人で片付ければいいだろう。明日はユーリも休日で、決まった予定はないと聞いている。
そう思いリビングに足を踏み入れたカラ松は、ベッドの上で布団もかぶらず寝落ちしたらしいユーリの姿に愕然とする。

ユーリは、カラ松の上着を抱きしめた格好で眠っていた。

言葉にならない。
咄嗟に自分の口元を押さえ、込み上げる衝動を堰き止める。幾度か大きく深呼吸した後、眠るユーリの体に布団をかけてやった。

「上着じゃなくて…オレじゃ、駄目か?」

答えは返ってこないと分かりきっている。けれど問わずにはいられない。どんな表情で、どんな想いで、カラ松のスタジャンを胸に抱き寄せたのかと。
その後ソファに横になり布団に包まったが、しばらく眠れなかったのは言うまでもない


そして恐ろしいのは翌日のユーリだ。
酒に酔った己の失態に関する記憶を保持していたため、カラ松に頭を下げて謝罪こそしたものの形式的で、恥じらったり戸惑う様子は一切なし。
その上あろうことか「次はもっとムードを出すね」などと真顔でのたまったため、カラ松は当面ユーリ宅での飲み禁止令を出したのだった。
けれどユーリの寝起き姿や寝癖さえ愛しくて、運が良ければそんな無防備な姿を拝める宅飲みはメリットが大きく、すぐに解禁してしまいそうな自分が憎い。

のそのそと起き出して洗面所で顔を洗う。少々伸びた無精髭が、柔らかなタオルの繊維に引っかかる。
鏡に映る自分の顔を見つめながら、コンビニでカミソリを買うべきかと思案していたら、ふと視線を向けた首筋に何か付着していることに気が付いた。
「何だ、これ」
指で拭ったら、ぬるりとした感触。洗面台のライトが反射して、粒子のような小さな粒の集合体がキラキラと光る。まるでラメだ。そう、それこそ、昨晩ユーリがつけていたリップグロスのような──

「え」

背後を通りかかったユーリが大きくあくびをする姿が、鏡に映り込む。その唇を、昨晩と同じピンクのグロスが美しく彩っていた。

二人はのんべんだらり

悪魔の六つ子に関われば、災厄が容赦なく降り注ぐ。
彼らを知る者は上記のような主観の下、まともな思考の持ち主ならば極力接触を絶とうとするし、悪知恵の働く輩は彼らを狡猾に利用しようと策略を巡らせる。事件は日常的に勃発し、平穏な日々は刹那にて消滅する───そう思っていることだろう。

しかし実のところ、トラブルは日々頻発しているとは限らない。些末な兄弟喧嘩程度でお茶を濁すことも多いし、何なら六人誰一人として激昂せず就寝時間を迎える日だってある。
これから語るのは、起承転結もなくひたすらダラダラと過ぎていく私とカラ松くんのある一日の風景の記録だ。




その日の逢瀬は我が家への訪問から始まった。
約束の時刻より少し前に玄関のインターホンが鳴って、モニターにカラ松くんの顔が映る。すぐさま玄関を開け、嬉々として彼を出迎えた。
「今日はコールドだな。風が冷たくて参った」
寒気で赤くなった鼻をすんと鳴らして、カラ松くんは靴と上着を脱いでリビングに入る。私の部屋の訪問も慣れたもので、以前は緊張感を伴って体を強張らせていたが、今や第二の我が家といった体で悠々とソファにもたれた。我が家には、彼の定位置がある。
「窓閉めてても風の音がするくらいだからね。今日はどうする?どっか行く?」
今日の予定は、私の家に集まってから考えようという話だったので、腰を下ろしてカラ松くんに尋ねる。彼は眉をひそめてふるふると首を振った。
「財布には帰りの電車賃くらいしかない」
「え、何に使ったの?」
「最近はユーリと会う以外ではほとんど使ってないぞ。インカムがなければ当然の流れだ
「これだからニートは」
「パチンコは行った」
「それだ」
収入がないのに支出ばかりが嵩むとはどういう了見だ。消費者金融からの借り入れがないだけマシと思うべきなのか。
「…まぁいいや。じゃあ外も寒いし、うちでダラダラする?」
「遠出する計画でも立てないか?それに合わせて今後は資金繰りする」
「資金繰り、ねぇ…」
私は懐疑的な目を向ける。
「何だ?」
「どうせパチンコとか競馬とかで、楽して稼ぐっていうんでしょ?」
私が言えば、カラ松くんは我が意を得たりとばかりに双眸を輝かせて指を鳴らした。パチンと高い破裂音が室内に響く。
「イグザクトリー!察しがいいな、さすがはユーリだ。しかし──」
カラ松くんは唐突に私の片手を取って、自身の口の高さまで持ち上げる。

「マイプリンセスユーリがギャンブル嫌いというなら、真っ当な方法で稼ぐさ」

ポーズだけならかしずく従者さながらだが、いかんせん台詞にロマンのロの字もない。ただの駄目男。私は騙されないぞ。

「趣味の範囲内でも私が快く思わなかったら?」
まるで試すような言い方になった。私と仕事とどっちが大事なのなんて、比較にならない対象を比較するみたいな、不毛な問い。
けれどカラ松くんは躊躇なく答える。
「そこはネゴシエーションだ。ただ…ハニーが本当に趣味の範疇でも嫌なら、潔く止める」
私は瞠目した。ギャンブルは彼らニートにとって絶好の暇つぶしであり、運次第では労せず万単位が稼げる手段だ。それを私の一声で捨てる決意があると、彼は言う。
「カラ松くん…」
「──かもしれない」

知ってた。


「コーヒー入れてくる。ユーリもいるか?」
そう言ってカラ松くんは腰を上げた。
「うん、貰おうかな」
「分かった。待っててくれ」
柔らかい微笑みを私に投げて、彼はキッチンへ向かう。
一人暮らし用の、決して大きいとは言えないキッチンスペース。カラ松くんは慣れたもので、ケトルで湯を沸かす間に、色違いのマグカップの中にインスタントコーヒーを入れる。ポーションとスティックシュガーも、迷わず収納棚から取り出した。片手を腰に当てながら鼻歌まじりに湯を注ぐ様子はリラックスしきっていて、まるで自宅だ。
それから六つ子の誰かがパチンコの景品として持ち帰ったクッキーを皿に盛り、合わせてリビングに運んでくる。
「ふふ」
「どうした?何か面白いことでもあったか?」
ソファで膝を抱えながら私が笑うと、カラ松くんが傍らに膝をついた。
「カラ松くんの家にお邪魔したみたいだな、と思って」
「場所を提供してくれてるからな」
これくらいの対価は当然だ、と彼は言う。
「…うーん、そういう意味じゃなくて」
「ユーリだってうちで同じようにするじゃないか」
「それはおばさんがいいって言うからだよ」
親戚以上の頻度で訪問する私を、おばさんは嫌な顔一つせずいつも歓迎してくれる。食器の配膳や片付けを手伝ううちに、台所の使用に関して管理者の許可制が廃止された。私への信頼の証なのだろうが、外堀が徐々に埋まってきている恐怖もまた感じている
「もうハニーは客人じゃないからな。ブラザーたちにとってもブラザー…じゃなくて、シスターみたいなもんか」
どちらの意味合いで受け取るべきか一瞬悩んで、彼の無邪気な笑みからすぐに察する。頭に浮かんだ言葉を、ただ口にしているだけなのだ。

「それ、口説き文句にもなるよね」
「…え?」
カラ松くんはきょとんして首を傾げた後、ようやく私の意味するところを理解したのだろう、一瞬にして顔が赤く染まる。
「ッ…え、あ、あの…ハニー、オレは別にそういうわけじゃ……ない、ことも、その」
言葉に詰まらせる様子を、私はマグカップに口をつけながら横目で見つめる。
いつも私が助け舟を出していた。彼が私への好意を無意識に吐露する時、中断させるのは私の役目だった。言わなくていいよ、からかってごめんね、と。
でも、たまには最後まで聞いてみてもいいかもしれない。この空間には、私とカラ松くんしかいないのだ。
「だ、だから、つまり…」
目が逸らされて、時間稼ぎの接続詞が続く。我知らずニヤけていたかもしれない。やがて視線を戻したカラ松くんは赤面した顔のまま眉根を寄せた。

「…趣味が悪いぞ、ユーリ」

低く絞り出された声に、危うくコーヒー吹くところだった。トップオブ可愛い。


「で、もし遠出すとしたらカラ松くんはどこに行きたい?」
「もし、じゃない。行くんだぞ」
決定事項とばかりに彼は言い切った。私と色違いの青いマグカップでコーヒーを飲みながら。どうせ何度も来るからと二人で買い揃えたものだ。
「距離があればあるほどお金かかるけど、大丈夫?
躊躇なく出せるくらい支払い能力の高い私と違って、カラ松くん無職なんだよ?
「心配すると見せかけて容赦ないオレへのディスり」
「事実でしょうが」
「確かに」
不承不承といった顔で、カラ松くんは腕組みをする。

実施前提の候補地選出という名の下、スキー、テーマパーク、神社仏閣巡り、中華街、動物園といった定番の観光スポットが候補に挙がる。スマホやタブレットに映し出される魅力的な写真や情報には心が躍った。
「資金が限られてるから、費用面優先にして考えた方がいいかな」
「オレはユーリと一緒なら、何でも楽しいぞ」
そういう話じゃない。
「まったく、そうやって前提を引っくり返さないで。それならもう家で良くない?家でひたすらダラダラするの、自堕落万歳」
投げやりに答えたつもりだったが、カラ松くんは真剣な表情で顎に手を当てる。
「なるほど、それもいいな」
お前は毎日飽きるほどやっているじゃないかという毒は飲み込んだ。言っても詮無いことだ。
「ずっと私と二人きりでカラ松くんは飽きない?
私は三百六十度から推しを視姦し続けられるから全然いいけど」
「え、しか…何?」
何でもないです。
カラ松くんは訝しむような鋭い視線を私に向けたが、にこにこと笑みだけを返したら、すぐに穏やかな表情に戻る。

「ユーリがいいならオレも構わない…というか、そうしたい」

これもう恋人同士の台詞だよな、というツッコミを今までに何百回脳内で行ったか知れない。そろそろツッコミ通り越してスルースキルが発動しそうだ。しかし都度恥じらうカラ松くんの姿が眼福すぎるので、止める気はない。
「でも正直アクティビティも捨て難いよな。もうすぐ春だし」
「うん、それは同意。気温が下がってめっきり拝めなくなった腹チラの早期再開を切望してる
「…またそういうことを言う」
「見たいものは見たいの」
「こら、腰を凝視するな!」
パーカー越しにウエストを見つめていたら、慌てて両手でガードされた。カラ松くんが着るパーカーは、決して体のラインや肌が出る類のデザインではないが、妙な色気があると私は思っている。まぁ、要は推しなら何でもいい
「捲くってみてもいい?」
「お、おい、ユーリ…っ」
にじり寄って裾を摘んだら、カラ松くんから腕を掴まれた。けれど私がもう少し力を込めたら容易く強行できるくらいに、抵抗する力は弱い。顔は朱色のままだ。
「私と一緒なら何でも楽しいんじゃないの?」
「それは屁理屈だぞ!」
「そっか」
頷いて、青い布から手を離す。元いた位置に座り直す私を、カラ松くんは拍子抜けした様子で見つめていた。あっさり引き下がったことに驚愕していると、その表情は物語る。
「本気で嫌がることはしないって決めてるから」
無理矢理すれば犯罪だしな、という本音は隠しておく。隠匿こそ美徳。

「…嫌じゃ、ない」

俯いた顔から漏れた声。
「ユーリに触れられるのは決して嫌なわけじゃないんだが、何というか…」
ああ、と私は思う。彼は歩み守ろうとしている。断固とした拒絶を貫いていた当初からは、大きな譲歩だ。
「うん、カラ松くんの許容ラインがあるよね。いつかいいと思ったら教えてほしいな、私は虎視眈々と狙い続けるだけだから
「ハニー、そういう発言はせめてオブラートに包んでくれ
そんなものは知りません。




撮り溜めたドラマを観たり、各々自由に過ごしたりするうちに、いつしかカーテンの向こうに広がる景色に闇の帳が降りる。冬は日が暮れるのが早い。時計の針はまだ五時を過ぎた頃だ。
私はスマホから顔を上げて、カラ松くんに尋ねた。
「カラ松くん、晩ご飯食べていく?」
「え、いいのか!?もちろんだぜハニー!」
「何食べたい?」
「肉!」
一瞬の迷いもなく言い放たれる。冷蔵庫の中身を思い返して思案するも、彼を満足させる食材はあいにく在庫がない。
「どうせならステーキでも食べよっか。私もお腹すいてるし」
私が答えると、カラ松くんは目を輝かせたが、すぐに不安げな表情になる。
「しかしユーリ、ステーキは高くつくんじゃないのか?その、オレは金が…」
「外国産の安いお肉買うし、一人千円もしないよ。晩ご飯代は体で払ってくれたらいいから」
「へっ、か、体…!?」
カラ松くんは戸惑いがちにじっと自分の腹部を見る。
「そっちの体でもいいっていうかむしろ熱烈歓迎だけど、配膳と皿洗いと後片付けって意味だから」
「あっ、そ、そうだよな。フッ、いいだろう、その条件で引き受けようじゃないか!」

最寄りのスーパーは程よく混雑していた。休日の夕方、夕食の材料の買い出しに訪れたであろう客が後を立たない。
私とカラ松くんは肩を並べて自動ドアをくぐった。恋人同士か夫婦に見間違えられてもおかしくない距離感で、買い出し用のメモを覗き込む。
「スープも追加しようか。湯煎タイプのレトルトでいいよね。せっかくカラ松くんもいるし、ディナーっぽい感じで揃えたいな」
「湯を注ぐだけでいいインスタントの方が安くないか?マミーはいつもそっちを業務スーパーで買うぞ」
ただでさえエンゲル係数が高い松野家では、パウチのレトルトを人数分買うのは非経済的なのだろう。
「価格を抑えるなら確かにそっちだね。後でカップスープのコーナーも寄ろう」
付け合わせ用の野菜を手に取って、カラ松くんが持つカゴに入れる。
入口入ってすぐの生鮮食品を過ぎて辿り着くのは、精肉売り場だ。他には目もくれず牛肉コーナーの前に立つ。
「ステーキ肉は…うおっ、和牛のサーロインは千円を余裕で超えてる!え、これ高すぎないか?これで正規価格?」
「国産はサシが入ってて柔らかいから、そりゃ高いよ。私たちが買うのはこっち」
私が笑いながらすぐ隣に置かれているタッパを手に取ると、カラ松くんが興味深げに目を向けた。
「アメリカ産ロースステーキ…」
「そう。それも厚切り肉」
厚さ二センチ近い分厚いステーキ肉で、価格は平均千円以下。今日は運良く広告掲載商品だったらしく、一人前で七百円未満とお得な価格帯だった。二パックをカゴに入れ、サービスで置かれている牛脂も貰っておく。
「ワオワオ、最高に豪勢な晩餐じゃないか!イカしてるぜ、ハニー!」
「外でラーメン食べる値段でステーキが食べられるんだから、お得な感じがするよね」
「ユーリの手作りだから、より一層、だな」
感慨深く呟いてから、カラ松くんはハッとして私の顔を見た。
「なぁハニー、ついでにビールもどうだ?ビール代くらいはオレが出す」
最高のお誘いきた。
「いい案だけど、カラ松くん電車賃なくならない?」
「ギリギリだ」
財布事情は隠そうともしない。あけっぴろげというか素直というか。
「分かった。じゃあビールも買おう」
答える私の笑みに呼応するように、カラ松くんは破顔した。

マンションへの帰り道、ビニール袋を下げてカラ松くんはご機嫌だ。
「いいな、こういうの。
外で食べるのももちろん楽しいんだが、ユーリの家でユーリの手料理を食べるハピネスは、プライスレス…ッ」
演技臭い台詞だが、照れ隠しなのは百も承知。
「私も、普段は自分のためにしか作らないから、誰かのための料理って気合い入るよ。カラ松くんは美味しく食べてくれて、作り甲斐あるし」
目を瞠って歓声を上げたり、染み入るように声を漏らしたり、表現の仕方は様々だけれど、私のどんな料理に対しても「美味しい」の反応をくれる。元々大袈裟にしがちな彼の癖が効果的に作用して、需要と供給のバランスが上手く保たれていると言っていい。
「フッ、ミショランの三ツ星に引けを取らないハニーの手料理を食すことができるのは、専属ナイトの特権だな。選ばれし…オレ!」
無意識の、間接的な鼓舞。腕を振るいたいと相手に思わせる絶妙な手腕だが、きっと本人は気付いていないだろうから、黙っておくことにする。




帰宅後、エプロンをつけて料理開始だ。
炊飯器は買い物前に仕掛けていて、あと数分で炊きあがる。メインは最後に取り掛かる必要があるため、付け合わせの野菜とスープの準備から取り掛かった。キャベツ、玉ねぎ、にんじんといった水分の少ない野菜を塩コショウで焼くだけだ。シンプルだが、野菜の味が引き立つし、ステーキソースと絡まっていい味になる。
一通りの段取りを考えてから作業に移る私の視界には、双眸を輝かせて待つカラ松くんが時折映って、つい笑みを溢しそうになる。
完成した焼き野菜を皿に移し、室温に戻していたステーキ肉の調理にかかる。肉のパックを手にしたら、カラ松くんが立ち上がって私の傍らに寄ってくる。
「ハニー、どんなマジックを使うんだ?」
「魔法ってほどじゃないよ。先人の知恵を借りるの」
「先人の知恵?」
首を傾げたカラ松くんに、私はにこりとスマホを見せる。
画面に映るページのタイトルは『外国産の安売りステーキ肉を最高の美味しさで焼くカンタンな方法』。そしてその下には、肉汁滴るミディアムレアに焼き上げられた、厚切り肉の断面図の写真。
「何だこのギルティな肉の断面は…!ジーニアス…っ」
「でしょ?」
口の中でとろける高級な国産牛も美味だが、適度な歯ごたえと肉をたらふく食べた充足感は厚切り肉に軍配が上がる。

肉の筋を切り、これでもかとフォークで穴を開け、片面にブラックペッパーと塩を振る。一般的な胡椒を代用しても差し支えないだろうが、ステーキには黒胡椒特有の刺激が最適だと私は思う。
下ごしらえができたら、後は焼くだけだ。スーパーで貰ったキューブ状の牛脂を温めたフライパンに置き、溶けたら肉を投入。焼き目がついたらひっくり返す。両面を数分焼いたら、アルミホイルで包み余熱で火を通す。
「匂いだけで白飯一杯は余裕でいけそうだ」
換気扇を回しているとはいえ、肉とソースの香ばしい匂いがキッチンに充満している。
「あと少し待てば完成だから、カラ松くんはお茶碗にご飯よそって」
「オーケーだぜ、ハニー!」
おどけるように敬礼して、カラ松くんは炊飯器の蓋を開けた。その間に私は、大皿に焼き野菜を添え、スープカップにお湯を注ぐ。最後にアルミホイルから肉を救出してソースと絡めれば出来上がり。
あれよあれよとリビングのテーブルに料理が並び、私たちも腰を下ろして手を合わせた。
「いただきます」
さぁ、存分に肉を食らおう。


一口大に切った肉の歯ごたえを十分楽しんで嚥下したカラ松くんは、しばし感動に言葉が出ない様子だった。皺を寄せた眉間に指を当て、苦悶の表情を作る。
「旨すぎる…!ユーリ…オレに隠し事はノンノンだぜ。前職はやはりミショラン三つ星店のシェフだったんだろう?」
いやいやそれはさすがに言い過ぎじゃないかね、もっと言って
「ふふ、それほどでもあるけど…なんて。検索のトップに表示されるレシピだけあって、美味しいね」
「まだ一切れしか食べてないのに、ステーキを堪能したと言っても過言ではない充足感…っ。まだ九割残ってるんだぞ、いいのか!?
いいんじゃないでしょうか。
ステーキを堪能することに罪悪感を感じる必要性をむしろ知りたい。
いや、彼が抱くのは背徳感なのかもしれない。上等な肉を誰と奪い合うこともなく、周囲を警戒せずとも悠々と食すことができるこの時間に対する。どちらにせよ至極どうでもいいが。
「ユーリの料理だから何を食べても旨いのは当然としても、千円もいかないあの肉が、こんなに程よい噛みごたえの旨さになるとは…!」
そう言って、二切れ目を噛みしめるように頬張るカラ松くん。推しの餌付けは着々と進行している。




二センチ近い厚切り肉を一枚ぺろりと平らげ、私が差し出した一切れもあっという間に胃袋に収めて、カラ松くんは十分に満足した様子だった。今夜の食費を私が負担する代わりに後片付けを担う役目も嬉々として果たし、仕上げにシンクを拭き上げて、彼は食後のコーヒーと共にリビングへと戻ってくる。
「何時くらいに帰る?」
時刻は七時半を回り、テレビにはゴールデンタイムのバラエティ番組が映っている。
「そうだな、九時には出る」
「あと一時間半くらい、か。今日もあっという間だったなぁ」
さっき訪問してきたばかりのような気がするのに、もう帰る時間を気にしなければならないのか。
「…オレもだ。楽しい時間ほど過ぎるのが早く感じるな」
「本当に」
「やることなくてボーッとしてる時のあの長すぎる体感時間を、ユーリと一緒にいる時に感じたいもんだ」
ギャンブルに興じる軍資金を持たず、入り浸っていたコンビニのイートインコーナーは出禁になり、自宅で過ごせば退屈で気が狂いそうになるという。時間が潰せて収入も得られる一つの選択肢は常に彼らの眼前に提示されているけれど、彼らは『仕事』からは目を逸らし続ける。客観的に見れば、正真正銘のダメ男ども
深入りすれば間違いなく被害を被ると気を引き締めたところで、カラ松くんからの熱のこもった視線に気付く。

「別れ際はいつも後ろ髪を引かれてるんだぞ」

蕩けるくらい優しく細められた瞳と、意図的に感情を抑えた声音。
「そうなんだ?」
私は微笑んで、カラ松くんの傍らに移動する。それから彼の肩口に自分の頭をのせた。ぴくりと肩が揺れて、動揺が伝わる。

「こういうことしたら、特に?」

柔軟剤と肌の匂いが混じって、私の鼻孔をくすぐる。男臭いだろうとカラ松くんはいつも苦笑して、そのたびに私が否定する。いい匂いだよ、と。
「…当たり前だ」
頭上から声がかかる。
「──というか、こういうことをされると、もう帰りたくない以前の問題だぞ、ユーリ」
角度を変えて見上げれば、赤面しながらも仏頂面のカラ松くんがすぐ間近。
「…ユーリは?」
「え、私?」
「ユーリは、オレが帰るときどんな思いを感じてる?」
抽象的な問いにも関わらず、カラ松くんが望む模範的な回答などすぐに予測がつく。けれど百点満点の答えを口にして彼を欲求を満たしても、空虚なだけだ。
「ちっちゃなカラ松くんをポケットに入れて持ち歩けたらいいなとは思う」
「は?」
カラ松くんの眉間に深い皺が刻まれる。想定外を通り越していっそ不愉快、そんな感情が読み取れたが、私は素知らぬ態度で続ける。
「推しが生きる原動力だからね。例えば理不尽なクレームがあっても、『そんな口きいていいのか?こっちは推しをポケットに入れてよろしくやってるんだぞ』って強気で戦える。二十四時間持ち歩きたい感じ」
そういえば昔、小さくなった恋人と同棲する漫画があったなと思い出す。原作の結末はトラウマ級の鬱展開で、ドラマ化で救済処置が施されたほどだ。
「訊いたオレが馬鹿だった」
私の思考が逸れたところで、カラ松くんがテーブルに頬杖をついて唇を尖らせた。真剣な問いを茶化されたと感じたのだろう、機嫌を損ねてしまったようだ。
でも本音だよと言ったら──彼は一層怒るだろうか。それだけ一緒にいられたら、という意味で。

「終わりを自覚するのは寂しいよ。
でも次があるって分かってるから、楽しみが待ってるのは、幸せかな」

コップに水が半分入っていた時に、まだ半分あると感じるか、もう半分しかないと感じるか、そこにあるのは捉え方の違いだけだ。
カラ松くんは手のひらの上から顎を離して、じっと私を見つめた。笑いながら再び寄り添う私の肩に、戸惑いがちに手が伸ばされた。
目線をカラ松くんの顔から自分の肩へ移すと、無骨な指が視界に入る。その指と、肩に触れいる感覚がリンクして、ようやく彼に肩を抱かれていることを認識した。
「ポジティヴだな、ハニーは」
「全力で推せる推しがいますので」
なるほど、とカラ松くんは頷いて。
「ということは、地上に舞い降りたヴィーナスの如きハニーに活力を与えるこのオレは、さしづめ砂漠のオアシスといったところか
両目をこれ以上なく輝かせて悦に入るカラ松くん。ああ、うん、君も十分ポジティヴだと思うよ、私は。その語彙が瞬時に出てくる表現力にも感服する。
「そうかもねー」
「しれっとスルーするんじゃない」
「してないよ。そうかもしれないなって、自分の中で落とし込もうとしてるところなんだから」
「え…いつもならここはスルー案件だろう?どうした?
ガチで心配された。普段適当にお茶を濁されていることは一応自覚あるんだな。

「まぁ、推しが癒しであることは周知の事実だけども。その点で言えば、オアシスは妥当な表現かもしれない」
「…ッ!と、唐突に持ち上げるのは止めるんだ、ハニーっ」
「何で?カラ松くんが自分で言ったんだよ。うん、でもそうか、確かに顔とイケボと写真と思い出で活力貰いまくってるから、これは疑いようもなく──」
「あ、うん、ユーリ、もういい。もういいです、図に乗りました、止めて
カラ松くんは私を制し、片手で顔を覆った。ムラッとするので、そういう可愛い仕草は自重していただきたい。
それでも彼は、肩口に顔を寄せる私をどかそうとはしない。水を飲もうと姿勢を正した時、言葉なく淋しげな視線が向けられて、捨てられた子犬みたいだと思った。ちょっと離れただけじゃないか、そんな小言が口をついて出そうになる。
カラ松くんの感情には気付かなかったフリを装って、私は再び寄り添う。

「ユーリ」
私を呼ぶ声は、今にも溶けてしまいそうなほどに甘くて。
「うん?」
「何でもない。呼んでみただけだ」
「何それ」
「ハニー」
「ん」
「…何でもない」
そうは言うけれど、カラ松くんの表情は言葉よりも雄弁だ。
肩に載せられた彼の手に、僅かに力がこもった。


ただただ穏やかに過ぎていく時間。
事件が発生するでもなく、物語に必須の起承転結があるわけでもなく、一日は終わりゆく。悪魔の六つ子と名高い彼らだが、単体で適切に扱う分には、特筆すべき危険もない日だってある。

ただ愛して

私とカラ松くんは、酔っていた。
翌日に二連休を控えた金曜の夜、勝手知ったるチビ太さんの屋台。他に客のいないカウンター席でああだこうだと他愛もない話を交わしては、おでんを肴にビールをあおる。次の日が休みである油断もあってか、いつにも増してピッチが早い自覚はしていたが、気が付けば数杯目を空にする始末だ。
気を抜けばふらつく体を律して、私は平然を装う。

「ユーリ、勝負をしないか?」
ペースを落とそうと冷たい水を注文したところで、カラ松くんから声がかかった。動かした膝がぶつかりそうな距離で、彼はニヤリとほくそ笑む。
「勝負ぅ?」
「たまには刺激的なスパイスがあってもいいんじゃないか、と思ってな」
胸元に手を当て、思案に耽るような顔をする。大仰で、芝居がかった仕草だ。カラ松くんのそういった言動には大抵理由があり、過去の経験から数パターンに分類できることが判明している。そしてこの場合、何やら魂胆があるらしいことを察するのに、類い稀な洞察力は必要なかった。
私は訝しげにカラ松くんを横目で見やる。
「スパイスって」
「ユーリと二人で過ごすのは楽しい。しかしここ最近は少々マンネリ感が否めない」
「はぁ」
そもそも付き合ってないからマンネリもクソもないが、空気を読んで黙っておく。何目線なんだ。
「新たな刺激を受けて見る世界は、きっと一層美しい。オレたちの関係をよりベターなものにすること請け合いだ!どうだ、ナイスなアイデアだろ?」
両手を広げて意気揚々と語るカラ松くんに対し、無言で白けた目を向けるのは私とチビ太さんだ。
もたらされる結果について具体性はなく、根拠も曖昧。前提もおかしい。どう好意的に見ても、勢いだけの発言である。
私が返す言葉に悩んでいたら、不安に駆られたカラ松くんが眉を下げる。
「あ、その…やっぱり、ダメ?」
そのギャップは卑怯。今までの強気な態度どこいった。
「勝負内容と手法によるかな」
カウンターの向こうでは、止めておけと言わんばかりの顔でチビ太さんが首を振っている。
「勝負はもちろんフェアに行う───じゃんけんだ」
「なるほど。罰ゲームは何?」
カウンターに頬杖をついて促せば、よくぞ聞いてくれたとカラ松くんは片側の口角を上げる。

「明日一日、相手に従属するんだ」

難しい言い回しだ。
「言うことを聞くってことかな?」
「微妙に違う。相手を貶めたり屈辱的なことはもちろんNGだ。
従属といっても主従関係のように仕えるわけじゃなく、勝者を蝶よ花よと甘やかすイメージが近いな」
「小さな子を持つ親みたいに?」
「ハニーの場合はキュートに頼むぜ」
私は眉をひそめた。罰ゲームの内容が支離滅裂で、一向に要領を得ない。問えば問うほどに軸がブレていく気がする。
私が好意的な返事を返さないことに気付いたカラ松くんは、目尻を微かに朱に染めて、視線を落とした。
「まぁ、つまり…その、アレだ…付き合いたての恋人みたいな感じ、というか」
イチャイチャしたいなら最初からそう言え。
ぐだぐだとわけの分からない口上を述べていたが、つまりはそういうことらしい。勝敗によって、甘えるか甘えられるかの立場の違いがあるだけで。
「敗者が勝者を甘やかす認識でいいのかな?」
「察しのいいレディはモテるぞ、ハニー」

勝負は一度。
反則、後出し、駆け引き一切禁止の、運を天に任せた一回限りの真剣勝負だ。
「さいしょはグー」
いつになく真剣な声音と眼差しで、カラ松くんが拳を突き出した。彼の真正面に対峙して、私も同じ仕草を返す。
チビ太さんは湯気を立てるおでん鍋にだし汁を足しながら、静かに長い溜息を吐き出した。私たちの勝負を制止こそしないが、憐憫の目を向けてくる。
「じゃんけん───ぽん!」
合図と共に、同時に手を出す。勝利を手にしたのは──

「や…やったあああぁあぁあぁぁぁあぁ!」
握りしめた拳を天に突き上げ、カラ松くんが声を張り上げた。静かな川沿いの小道に叫び声がこだまする。
「あーあ、残念、負けちゃった」
私はひょいっと肩を竦めて降参のポーズを取る。
「ユーリっ、約束だぞ!言質は取ってるんだ、今さらナシとかは聞けないからな!」
アルコールのせいだけでなく上気した頬でまくし立ててくるから、私はつい笑ってしまった。
最後まで演じきればいいものを、仮面が剥がれて素顔が剥き出しになる。演者としての素質は相応に持ち合わせているにも関わらず、カラ松くんは隠すことを良しとしない。否、隠そうという意思はあっても、感情の昂ぶりが仮面を破壊するといった方が正しいか。
「…今さらだけど、これどっちが勝ってもカラ松くんにメリットある結果は同じだよね?
私が勝負を受けた時点で、彼が利益を享受する未来は約束されていた。ゴールを見据えた上で策略を練るほどの狡猾さがカラ松くんにあるとは思えないが、結果的に彼の思惑通りに事は進んでいる。

「オイラは知らねぇぞ、ユーリちゃん」
チビ太さんが、呆れたように言った。




翌朝、私は松野家の玄関前に立っていた。
もう幾度となく押した呼び鈴を鳴らして応答を待つ。
「はいはーい」
出迎えてくれるのは、てっきりおばさんか六つ子の誰かだと思っていたから、松造おじさんが引き戸を開けた時は、思わず目を剥いてしまった。
恰幅の良い体にシャツとセーターを重ねた服装と、髪を後ろに撫で付けた姿は、THEお父さん。さらにサンダルを足に引っ掛けたラフな出で立ちで、相手に警戒心を抱かせない。しかし柔和な見た目に騙されてはいけない。彼のフットワークの軽さと思い切りの良さは、束になった六つ子に匹敵する。
「おや、ユーリちゃんじゃないか。今日も変わらず綺麗だね、昔の母さんに匹敵する美貌だ
褒めるついでに惚気けてきた。
「こんにちは、おじさん。カラ松くんと約束してるので、呼んでもらえますか?」
営業スマイルで微笑めば、おじさんは僅かに目を瞠った。
「え…わざわざカラ松を迎えに来たの?正気?あいつにそんな価値ある?
「息子に対しての期待値低すぎる」
あ、うっかり口が滑った。
「親の俺が言うのも何だけど、考え直した方がよくない?」
「せめて私の発言は否定してあげてください」
「否定する要素ないんだもん」
二の句が継げない。確かに客観的に見れば、彼の意見には同意せざるを得ない。それにしても、もんって言うな、もんって、女子か

「麗しのマイハニーがオレを攫いに馳せ参じるとは…いいだろう、その愛らしいスマイルに免じてこの身は委ねようじゃないか、ハッハー!」
不承不承次男を呼びに行ったおじさんと入れ替わるように、カラ松くんが現れる。出だしからいい感じに鬱陶しい。上機嫌らしいことはよく分かった。
昼前起床がデフォにも関わらず、しっかりデート服を着込んで万全の体制だ。私の到着を待ちわびていたのかと思うと、たぎる
「他のみんなは?」
「まだ寝てる。あと一時間は起きてこないだろう、明け方まで枕投げをしていたからな」
修学旅行生か。
「なら、カラ松くんも眠いんじゃない?大丈夫?」
「ノープロブレムさ、ハニー。何せハニーに会える前夜は一睡もできないこともあるんだぜ
それは問題だ。胸を張るな。
「…でも」
カラ松くんは穏やかに笑みを作って、私を見る。

「ユーリに迎えに来てもらえるのは新鮮で…嬉しいな」

少し気恥ずかしそうに吐露される本心。
それは光栄、と私はおどけながら、腕を組んで大袈裟に溜息を溢してみせた。

「甘やかすなら、まずはお迎えから、ってね。
今日はエスコートさせていただく立場だから、デートプランってヤツもちゃんと考えてきたんだよ」
「…デートプラン?」
「寝不足ならちょうど良かったかも。今日のテーマは『カラ松くんとまったり過ごす』なんだよ」
「わおわおわお、マーベラスだぜハニー!」
双眸を輝かせ、大仰な身振りで感動を体現するカラ松くん。照れ隠しの要素も多分に含まれているから、私は微笑で応じる。
「そっか…うん…デートプラン……デート、か」
呟きながら顔を伏せた際に露出する首筋が、心なしか赤い。え、最高にエッチでは?




複数の複合施設の中にある広大な芝生のオープンスペースが、今回の目的地だ。
木々によるトンネルで彩られる並木道や、四季折々の花が植えられた花壇といった、様々な自然が溢れた癒やしスポットの中の一角として、それはあった。
視界を遮るものが少ない広々とした芝生には、直に寝転がって惰眠を貪る者、キャッチボールやフリスビーといったスポーツに興じる者、シートを敷いてピクニックを楽しむ者と、連日多くの人で賑わう。東京のど真ん中という好立地で入場無料というのも有り難い。

季節は冬真っ只中とはいえ、風がなく気温も比較的高め。ダウンコートを着れば屋外でも十分過ごせることを見越して選択したデートスポットだ。
幸いにも功を奏し、私は機嫌よく大人二人が十分横になれる広さのレジャーシートを芝生の上に敷いた。
「ちょっと寒いけど、風がないから気持ちいいね」
横になると、視界いっぱいに青空が広がる。
「本当だ。こんな場所があったんだな。こういうリア充のメイン拠点みたいな所には縁がないし、極力寄らないようにしてきたからなぁ」
何という卑屈の極み。
「私は、カラ松くんも結構リア充寄りだと思うけどね」
「オレが?」
「そうだよ。平日はともかく、土日は充実してるでしょ?」
こうして毎週のように私と共に過ごし、楽しいと感想を抱く時間を過ごしている。
何も、大勢で集って騒ぎ立てるだけがリア充ではない。現実世界で趣味活動や人間関係を楽しんでいれば、立派なリア充だ。
私の指摘を受けて、カラ松くんはしばし唖然としたように口を開けていたが、やがて口角を上げる。
「…そうだった。
ユーリは、オレにはもったいないくらいの時間を提供してくれる。当たり前とは思ってなかったが、リア充カテゴリ所属は考えたことなかった」
ゆっくりと目を細めて。

「オレの前からユーリがいなくなるのは、もう考えられないな」

一瞬の沈黙の後、カラ松くんは己の発言が相手に与える影響に思い至り、火がついたように顔を赤くする。
「な、何しろオレはハニーの推しだからな!ハニーの忙しない日々に潤いを与える存在は必須…いいだろう、この松野カラ松、その役目引き受けた!」
片手を胸に当て、もう片方を広げてみせる。演劇で、王女への愛を切に訴える王子のように。
言いたいことは一通りあるが、今日は控えておこう。


「今日一日は、レンタル彼女みたいなことをすればいい?」
ひとまず目的と手段を確認しておく。認識違いがあってはいけないからだ。
「違う。レンタル彼女は仕事だ。できればユーリには自発的にしてほしい」
どういう意味だ。
「主導権は負けた方にある。その主導権でもって、勝者の充足に貢献するんだ」
なるほど、と私は腕組みをして頷く。
「甘やかすってことだもんね。甘やかす側は、どうすれば相手が喜ぶか考えて実行に移し、喜んでもらえば成功…と」
彼の言い回しはひどく湾曲しているが、おおよそは理解した。
「イグザクトリー、さすがはユーリだ」
カラ松くんは軽快に指を鳴らす。
「つまり…攻めか受けかってことだよね?
「違う」
「攻めは譲れないから、助かる」
「何の話だ」
「その界隈において、解釈違いは戦争の火種になるから。不用意な発言は気をつけて」
「どの界隈」

チビ太さんの屋台で勝負を仕掛けてきた理由は、分かっていた。

──松野カラ松は、愛してほしいのだ。




オープンスペースにやって来たのが、既に正午近い時間帯だった。
到着した頃から、そこかしこで弁当や複合施設内でテイクアウトしたフードを広げる姿が見受けられた。
「もうランチの時間か。オレたちも何か買いに行くか?」
腕時計で時刻を確認したカラ松くんが、腰を上げようとするから、私は首を横に振ってそれを制する。
「実はお弁当を作ってきました」
じゃじゃーん、と少し古めかしい効果音を口にしながら、クラフト紙のランチボックスを二つリュックから取り出した。中にはぎっしりとサンドイッチが敷き詰められている。
「おおっ、ハニーの手作り弁当…!」
「サンドイッチだけだから、凝ったものじゃないけどね」
それでも卵サンドやハムときゅうり、エビカツサンドと、複数の種類を用意した。昨日の今日だから、エビカツも惣菜だし、パンもサンドイッチ用にカットされたものを使ったが、突貫で準備したにしては見た目もボリュームも申し分ない。
ランチボックスを受け取ったカラ松くんは、顔を綻ばせてサンドイッチをじっと見る。
「ユーリの手料理を食べられるだけでも十分すぎるな」
「温かいコーヒーもある」
「最高では?」
真顔で称賛される。
水筒から使い捨ての紙コップにコーヒーを注ぐと、白い湯気が立ち上った。カラ松くんは私から手渡されたそれを口に含んで、んー、と満足げな声を上げる。寒空の下で飲むコーヒーは格別だ。

「はい」
私はサンドイッチを一つ取って、カラ松くんの口元へ運ぶ。
「へ?」
「甘やかすんでしょ?」
「…そ、それはそうなんだが、しかしユーリ…ここは人目があるぞ」
「私は気にしないよ」
何を今さら、と私は内心で呆れ返る。公衆の面前で芝居がかった仕草と共に己の魅力を怒涛のように語ることに定評のある男が、食事を食べさせてもらう程度で恥じらうとは。そして何より、私が彼の口に食事を放り込むのはこれが初めてでもない。
本当に何を今さら、である。
「ほら、あーん」
再度催促してサンドイッチを向けると、カラ松くんは観念したように伏せていた目線を上げて、サンドイッチをかじった。
「…旨い」
「コーヒーに合うよね」
我ながら最高の組み合わせだと思う。
コーヒーで喉を潤してから、私は手にしていた残りのサンドイッチを頬張った。
「あ」
カラ松くんが唖然とする。
「あー、お腹へってたからつい…下品な食べ方だったね、ごめんごめん」
「いや…ユーリがいいなら、オレは全く構わないが」
赤いままの顔で、カラ松くんは所在なげに首筋に手を当てた。
彼はもう抵抗しなかった。私が口元に運ぶタイミングで、サンドイッチを咀嚼していく。
ほんの僅かな間、二人の間に穏やかな沈黙が漂った。私たちの傍らでサッカーボールが跳ねて、小さな子どもが駆け足で追いかける。軽やかな笑い声が、風に乗って耳に届く。
やがてカラ松くんは長い息を吐き出し、天を仰いだ。

「青空の下でユーリの手作り料理を食べながら二人で過ごす…贅沢な時間だな」

それを受けて、私はにこりと微笑んだ。
「実は、この後には昼寝タイムを設けてるんだよね」
「非の打ち所がない」
「どうもありがとう」

意図的ではなかったけれど、結果的に寝不足のカラ松くんにうってつけのデートプランになったらしい。

昼食で腹を満たした後、レジャーシートの上で横になる。大きめのシートを持ってきたのは、何を隠そうこれが目的だ。
寒さは感じるが刺すような冷え込みまでには至らない体感温度と、程よく差し込む日差し。他者が奏でる耳障りのいい雑音は、子守唄のようにも感じられた。昼寝にはおあつらえ向きな環境下で次第に言葉数が減り、いつしか会話が途切れる。夢と現との境目は曖昧になり、何の脈絡もない単語が脳裏に浮かんでは消えるのを繰り返す。
眠気を自覚した頃にはもう瞼は上がらなくなっていて、心地よい誘惑に私は意識を手離した。




ひどく支離滅裂な夢を見た。夢というのは往々にして一貫性のないものだけれど、目が覚めたときに、思い通りにいかない歯がゆさを感じたことだけ覚えていた。
目に映る景色がやたら眩しくて、瞼を持ち上げるまでに時間を要する。横を見やれば、私の方に顔を向けて眠るカラ松くんの姿があった。どちらが先に落ちたのだろうかなんて、どうでもいいことを考える。
「カラ松くん?」
呼びかけに応じる声はない。
私は上体を起こして、指先で彼の頬を軽く突く。反応はなく、熟睡している。
「素直じゃないよね、カラ松くんも」
今回の罰ゲームと称した要求はストレートに見えて、その裏には言葉にされない彼の本心が隠されている。
「まぁ、そういうとこも最高に推せるんだけど」
指で持ち上げた黒髪が、隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。落ちた髪が彼の額をくすぐるけれど、カラ松くんは起きる気配もない。
前髪を手のひらで掻き上げて、剥き出しになった肌に自分の額を当てる。遠目からは、上体を屈めた私が彼にキスをしているように見えるかもしれない。

いつだったか、自分に誓った。
カラ松くんの持つコップに水がなくなったら、いち早く気付いて溢れるくらい注ごう、と。喉の渇きを訴えるのがとても下手な人だから。

「期待には応えられたかな?」
体を起こして自分の髪を整えたら、シートの上に置いていた手に何かが触れる。寝返りを打ったカラ松くんの左手が私の手を掴んでいた。寝ぼけているらしく、容易く振りほどけるくらいに弱々しい力だ。
私は少しだけ微笑んで、されるがままにしておく。


カラ松くんが意識を取り戻したのは、それから半時間を過ぎた頃のことだ。私が眠っていた時間を含めると、一時間ほど昼寝をしていた計算になる。
彼は薄く目を開くなり、私に重ねる自分の手を視認して目を見開いた。
「っ…は、ハニー…ッ!?」
「よく眠れた?」
飛び起きた彼の髪には、シートで押し潰されていた箇所に癖がついている。手ぐしで軽く整えてやると、カラ松くんはくすぐったそうに肩を竦めた。
「すまん…寝落ちした」
「それを見越してのプランだから。ここまで来るのにいい感じに体力使って、お昼食べて、温かな日差しの下でごろ寝。寝不足じゃなかった私も、いつの間にか居眠りしてたよ」
「フッ、ハニーの仕掛けたスイートな罠にまんまとかかってしまったか…これぞまさにハニートラップ
やかましいわ。
それが言いたいだけか、この野郎。私が脳内で素早いツッコミを入れた直後、彼はぽつりと溢す。
「いい夢を見たんだ」
「へえ、いいね。どんな夢?」
深い意味のない問いだったにも関わらず、カラ松くんは私を一瞥してから、なぜか気恥ずかしそうに目を伏せた。

「…秘密」

その可愛らしすぎる反応に、変な声が出そうになったどちゃシコ。




ひとしきりシートの上で談笑した後は、肌寒くなる前に複合施設内にあるショッピングモールを見て回った。興味を惹かれる展示があれば店内を覗き、話のネタにある物があれば立ち止まって議論する。目的も意味もない、ただ時間を潰すためのウィンドウショッピング。
否、目的も意味もないというのは乱暴な表現かもしれない。少なくとも私にとっては、彼と共に充実した時間を過ごすことにこそ意義がある。内容や行為は二の次だ。

日が沈み、東京の街に街灯が灯る時間帯、私たちは松野家へと続く道を歩く。甘やかしは迎えに始まって、送りによって終わる。定番をひっくり返すだけでも、彼が言うところのいい刺激ではあった。
カラ松くんは主導権を自ら譲渡したにも関わらず、いつもとは勝手の違う展開に居心地が悪そうな戸惑いを見せてくるから、吹き出しそうになるのを堪えるのに苦労した。

「終了予定時刻に松野家到着しました」
私の正面には松野家の玄関。カラ松くんに向き直って、罰ゲーム完遂を告げる。当初の目的である『カラ松くんとまったり過ごす』は無事達成されたと言っていいだろう。
「ああ、もう家か…」
「カラ松くんを無事に送り届けるまでが、私の今日の任務だよ」
「そうか…そうだな、オレが言い出したことだったもんな」
歯切れが悪い。
「うん。それでね」
前置きをして、私は彼に気付かれないよう息を整える。
「最後に───はい」
そう言って、両手を広げた。

「甘えるの定番、ぎゅってしようか」

照れくささが皆無だったわけではない。自分で言っておいて、僅かだが後悔はチラついた。他者の目がない二人きりの場ならいざしらず、松野家の前だ。
カラ松くんはまさか私の口から抱擁を求める言葉が紡がれるとは思っていなかったのだろう、しばし意味が理解できないとばかりに呆然と立ち尽くしていた。
「ぎゅっ!?こ、ここで!?」
「しない?」
「する!」
即答か。鼻息が荒い。

躊躇いがちにカラ松くんの腕が伸ばされる。受け止める私もぎこちない動きになった。
カラ松くんの腕が私の背中に触れて、私はぶら下がるみたいに彼の首に後ろに両手を回す。互いに肩口に顔を埋める格好になった。
抱きしめることを宣言した上での抱擁は、そう言えば初めてではないだろうか。強引に奪われたり、互いに感極まって寄り添うことはあれど、そこには必ず前提や理由があった。口実つけて触れ合うのだ。危機回避のためであったり、慰めであったり、これこれこうだから仕方ないよね、と理由をつけなければいけない。
「今日だけ特別」
「分かってる」
「でも、カラ松くんにしかしないよ」
「オレもだ」
間髪入れず返事があって、何だか笑えた。肩を揺すって笑い声を溢したら、抱きしめる力が少し強まる。
カラ松くんの匂いがする。皮膚と汗と柔軟剤の匂いが混じった、私に安心を与えてくれる好ましい匂いが。
「もういい?」
「…まだ」
その返事から数秒経った後に。
「──もう少しだけ」
懇願するように耳元で囁かれる。耳元での甘いウィスパーボイスは全力で腰を砕いてくるイケボは人を殺す。

温かな抱擁に身を任せていたら、不意にアスファルトをカツカツと踏み鳴らすヒール音が右耳を抜けた。音は徐々に大きくなり、私たちに近づいている。我に返った私の額を冷や汗が伝った。
「か、カラ松くん、そろそろ…」
他人だけならまだしも、玄関が突然開くかもしれない、二階の窓から誰かが顔を覗かせるかもしれない、外出先から六つ子が帰宅するかもしれない。いつ発生してもおかしくない様々な危険要素が頭をもたげる。
「俺は構わない」
肩に顔を埋めたまま彼は答える。
さすがに私が構う、すまない。

「いい加減離れないと尻揉むよ」

手の位置を変えるべく腕を持ち上げたら、カラ松くんは忍者の如き俊敏さで私から離れる何でや、そこは一回くらい揉まれろ。


「ユーリ…ありがとう」
体を離した後、カラ松くんは小声で言った。包み込む温もりを失ったせいか、上着を着込んでいるのにひんやりとする。
「楽しかった?まぁ、じゃんけんで負けちゃったからね」
これは罰ゲームなのだ。勝負を受けた手前、罰ゲームから逃亡するのは女が廃る。とは言うものの、さすがに言い訳がましいなと自分でも思う。
「…わざと、なんだろ?」
「何が?」
不自然な間があって、カラ松くんが脈絡のない問いを投げてくる。私は彼から視線を外し、首を傾げた。
「あの時、ユーリは──」

しかし言いかけた言葉は、それ以上紡がれることなく。嬉しそうに微笑みながら、明言を避ける。曖昧に、有耶無耶にして。

「だから──ありがとう」



さぁ、種明かしをしよう。

勝負を持ちかけられたあの時、私は意図的に負ける手を出した。
じゃんけんの勝敗は、実は一切合切が運任せではない。人同士によるゲームは、個々の癖や心理が必ず作用する。
例えば、突然じゃんけんを仕掛けられた場合、人はグーを出す確率が高い。グーは拳を意味するなど強いイメージがあり、咄嗟に出しやすい手だからだ。ただし、私たちがやったように「最初はグー」を用いた場合は、上記の限りではない。むしろチョキかパーを出す確率に軍配が上がる。
また、出す手を熟考すると、グー以外の頻出率が上がると言われている。その時こちらはチョキを出せばいい。
たかだかじゃんけん一つでも、勝率を上げる法則は存在する。

カラ松くんは私を策に嵌めたつもりだったのかもしれないが、お生憎様──全ては、私の手の内だったのだ。

前述したように、私たちが互いに触れ合うには、その行為を正当化するための理由付けがいる。口実とやらを用意して、正当性を主張する。実に面倒な関係だ。
面倒で、厄介で、でも少しだけ───愛しい。


コップの水は、一杯になった?

突然三歳児になりまして

「早く元に戻ってほしいような、しばらくはそのままでいてほしいような、複雑な心境だった」
カラ松くんは当時のことを振り返るたび、複雑な表情を浮かべる。




「ユーリっ、本当にすまん!」
下げた頭を地面に擦り付けて謝罪するカラ松くんを、私は冷めた目で見下ろしていた。

さて、言いたいことは数多あるが、取り急ぎ状況から説明するとしよう。

私は幼児になった。

うん、安心してほしい、自分でも何を言っているのかよく分からない。しかし紛れもない事実なのだ。目の前の姿見に映る私自身は、身長百センチに満たない小さな幼児そのもの。ひれ伏す松野家次男坊は別にして、目線が並んでいたはずのデカパン博士やダヨーンは、見上げなければ目すら合わない。
これってほら、今や流行通り越して一つのジャンルとして確立している人生やり直しもの、まさにあれ。第二の人生始まった。

せっかく子どもになったから新しい人生謳歌しちゃうぞ☆──なんて言うと思うのか、馬鹿か。
転生して異世界生活ならいざ知らず、日本にいるまま姿が小さくなっただけなら、組織所属の社会人にとっちゃ死活問題だっていうか普通に事件。


少々取り乱したようだ。クールになれ、ユーリ。
事の発端は、カラ松くんと共にデカパン博士の研究所に立ち寄ったことだった。たまたま前を通りかかったところ、研究所へ入ろうとする博士に遭遇したのだ。開発中の発明品を見ていかないかと誘われて、差し迫った用事のない私たちは二つ返事で研究所の中へと足を踏み入れた。
「試作品は奥の部屋にあるから、ちょっと待っててほしいだス」
大きなパンツの裾を揺らしながら、博士はダヨーンと共に応接室を兼ねたホールを離れる。
彼らが戻るのを待つ間に、私たちはすぐ傍らの薬品棚を覗き込む。得体のしれない錠剤や液体の入った瓶がズラリと並び、見た目は圧巻だ。ただしほとんどの瓶にはラベルが貼られておらず、過去の遍歴を鑑みれば怪しげな代物でしかない。
素手で触れるのさえ躊躇する私とは裏腹に、カラ松くんは目を輝かせて瓶を手に取る。
「ユーリ、見てみろ。パフュームだ」
手のひらサイズのピンク色の小瓶だった。パフューム──つまりは香水──と英単語が彫り込まれていて、高級感のあるそれはブランド物のようにも見える。
「下手に触らない方がいいよ。デカパン博士のだからね」
「しかしこの瓶は、トッティが読んでいた雑誌で見たことがあるぞ。何でも受注生産の限定品だとかで、サイズの割に高いなと思った覚えがある」
「へぇ。博士が香水ってイメージ沸かないけど」
「天地が逆転しない限りはないな」
迷いなく言い切った。さすが付き合いの長さが違う。
「ハニーには似合うんじゃないか?」
「えっ、でも博士のだし、万一何かあったら…」
拒絶の姿勢を見せて身を引こうとした、その刹那──私の手首に香水が吹きかけられた。ギョッとして、空気中に舞い上がるフルーティな香りが鼻腔をくすぐったところまでは覚えている。

そして気がついた時には、幼児になっていたというわけだ

目の前には、カラ松くんの腰。やたら地面が近くて、香水がかかった手の指は短い。顔を上げれば、顔面蒼白で私を凝視するカラ松くん。
彼が巨大化する薬だったのかと認識しかけた私に現実を突きつけたのは、近くに置かれていた姿見だった。
「…は?」
「ハニイイイイイィイィ!?」
轟く絶叫と渾身の土下座。こうして冒頭の謝罪へと繋がる。



「おう、とりあえずこの姿で股間に全力の頭突きかますから、覚悟しろよ次男坊」
「勝手なことして本当すいませんでした!」
平身低頭で謝罪するカラ松くんだが、私を見つめる顔はすぐにふにゃりと崩れる。
何しろ体の構造が二、三歳程度の幼児。どう努力しても、高音で舌足らずな愛嬌のある声になってしまう。仁王立ちでメンチ切る姿も、ぷりぷり拗ねているだけにしか見えない。屈辱だ、こちとら成人の社会人やぞ。
「ニヤけないの!腹立つっ」
「す、すまんっ。非常事態なのは理解してるし、オレの愚行によるハニーの憤りももっともだ。しかし──いかんせんキュートすぎる。普段のユーリとは百八十度違うキュートさがオーバーフローして、何というか今すぐ頬ずりしたい!頼む一回だけっ
殴りたい。
確かにまぁ、鏡に映る饅頭みたいな弾力のある頬は自分でも可愛さ最高潮だとは思うけれども

「どうかしただスか?」
私のほっぺたを狙ってにじり寄ろうとしてくるカラ松くんを牽制していたら、白衣を羽織ったデカパン博士が戻ってくる。
「その子は…ユーリちゃんだスか?」
「大変なんだデカパン!この香水をつけたらハニーが小さくなってしまった!」
「元凶はそこにいるクソニートだけどね」
博士はカラ松くんの持つ瓶と私を見比べて、合点がいった様子だった。

「ほえ~、『可愛さ百倍薬』を使ってしまったんだスなぁ」

ネーミングセンス。
「その名の通り、使用者の可愛さを現状の百倍に増幅させる薬だス。可愛いものは一層可愛く、可愛くないものはそれなりに。どう可愛くなるかは人によって違うんだスが、心配ないだス、二十四時間程度で元に戻るだス」
何でそんな発明をしたんだ、という当然の疑問を私は飲み込んだ。骨格や筋肉量はいざしらず、そもそも身につけている衣服ごと伸縮した、自然の理や質量保存の法則オール無視の変貌にツッコミどころ満載だが、気にしたら負け。
「博士ってほんと、実用性皆無のものばっかり開発するよね」
「ワスの開発力を駆使して実用的なものを開発してたら、今頃世界は滅亡してるだスよ」
「真顔で恐ろしいこと言う」
しかし、面白そうだからという利己的な目的達成にやる気を全振りし、実験台を彼の友人関係のみに留めているから被害は最小限に収まっているともいえる。
「てか、罰としてカラ松くんも嗅げ」
「ちょっ、ウェイトウェイト!オレも子どもになったらユーリを守れないぞ!二十四時間はそのままの姿なんだろう?」
そうだった。クソが。元に戻るまで自室にひきこもろうにも、ひとり歩きでは自宅までの道のりで補導されるのがオチだ。帰ろうにも、保護者がいる。

絶望が重苦しく背中に伸し掛かるが、私は早々に気持ちを切り替える。悲観に暮れる暇があるなら、これから二十四時間を安全に乗り切る策を講じた方が遥かに有意義だ。
それに───

「うーん…それにしても、幼児の私可愛いすぎない?
無邪気な容姿で頭は大人。小悪魔的存在だよね」
アーモンド型で黒目の大きな瞳はそれこそ眩いばかりに輝いて、弾力のある丸みを帯びた頬、きめ細やかな白い肌、風が吹けば飛ばされそうなほど小さな体。保護欲を掻き立てる要素を全て兼ね備えた外見である。
昔の写真を見たことはあるが、ここまで目を引く容姿ではなかった気がする。百倍薬の効果恐るべし。
イグザクトリー!地球上の愛らしさを集めて凝縮したかのような可憐なガールっ、リトルユーリはパーフェクトかつオンリーワンな存在だ!」
我が意を得たりとばかりにカラ松くんは両手を高々と掲げ、仰々しいポーズを決める。
「ほえ~、ほっぺたがもちもちダスなー。うちの子にならないダスか?」
「ならない。一生このままじゃないし、そもそも親いる」
「今のユーリはさしずめ、世界中の大人を虜にする魅惑のエンジェルといったところだな」
ふふーん、とカラ松くんはしたり顔になったが、次の瞬間ハッと目を見開いた。

「このままでは危険だっ、怒涛のように子役のスカウトが来てしまう!

お前の頭が危険だ。


「これからどうする?当初の予定の買い物…は無理だよな」
博士の研究所を後にした直後、カラ松くんは本来向かうはずだった方角へ歩を進めながら肩を竦めた。彼はすぐに立ち止まって、後ろを振り返る。歩幅の差もあり、速歩きでもカラ松くんのスピードに追いつけない。
「外出は厳しい。足の長さと体力が違いすぎるよ」
「じゃあ、とにかく今日の分の着替えを調達するか」
「…余計な出費だなぁ」
翌朝には元に姿に戻るだろうから、最低限パジャマと下着を購入すればいいだろう。使用は一度きりだから、安価なセール品を入手できればいいのだけれど。
「ここから数分歩いた先に赤ちゃん用品店があるよ。そこで必要な物を揃えよう」
「オーケー、ハニー」
カラ松くんは笑う。その顔は楽しそうで、何だか複雑な気持ちになった。

私たちが外を歩く時は、カラ松くんが歩道の道路側、私がその内側を並んで歩くのがいつの間にか暗黙の了解になっていた。だから今日も自然と立ち位置は彼の傍らだったのだが、たった一歩で大きな距離が開いて愕然とする。自分の装備がブーツのせいもあるだろうが、今まで気にも留めなかった僅かな段差で躓いて、私のテンションはだだ下がり
「は、ハニー、大丈夫か?」
「大丈夫に見えるなら眼科行った方がいいと思う」
起き上がって服の砂を払いながら吐き捨てるが、三歳児の眼光に鋭さなどあるはずもなく。
「ご機嫌ナナメだな」
カラ松くんは相好を崩して地面に片膝をつく。
「幼児の体幹の不安定さ舐めてた。…で、何またニヤニヤしてんの?癪に障るなぁもう」
「ユーリの一挙手一投足があまりにキュートで、緩んだ頬が元に戻らないんだ。今のユーリは紛うことなきギルティガールだぞ」
そう言ってカラ松くんは私の両脇に手を差し入れ、軽々と持ち上げたかと思うと、片腕で私のお尻の下を支え、いわゆる縦抱っこをする。すぐ目の前に、カラ松くんの横顔。
「……あ、すまん。何というか、こっちの方がお互い楽かと、つい…」
「二十歳過ぎて片手抱っこされる日が来るとは思わなかった」

交わった視線の先で、カラ松くんは嬉しそうに破顔する。
ああもう、そんな顔をされたら文句なんて言えなくなるじゃないか。




可愛さ百倍薬。名前だけ聞けば冗談のような薬名だが、意外に厄介な効力を発揮することに、私たちはしばらくして気付かされることとなる。
「ねぇカラ松くん…もしかして、私たちめちゃくちゃ見られてる?」
道行く人々の八割がすれ違いざまに振り返って私を見やり、顔の筋肉を弛緩させる。聞こえよがしに私の容姿を褒める人もいて、薬の効果と分かっていても居たたまれない気持ちになった。

辿り着いたベビー用品店で、私はカラ松くんの腕から降りて、売り場へと走る。てちてちという表現が相応しい頼りない足取りになってしまい、我ながら可愛いが過ぎるのではと背後を振り返ったら、カラ松くんは目頭を押さえて悶絶していた。案の定か。
「パジャマは上下セットの、デザイン何でもいいから安いヤツで」
「ジーザス、サイズが多すぎる…どれを買ったらいいんだ?」
「90くらいだと思うけど、着られれば何でもいいよ」
スマホで調べたところによると、三歳女子の平均身長は90前後。店内の壁に貼られていたシールタイプの身長計でも、近い数値を示していた。ということは、現在の私はやはり三歳前後と推察される。
「あとは下着くらいかな」
「すまないが、ハニー…し、下着はさすがに、自分で取ってきてくれないか?」
カラ松くんは顔を赤くして私に言う。童貞には幼女の下着も刺激が強いらしい。
しかし、真剣な眼差しでサイズ90のパジャマを選別するカラ松くんを置いて下着コーナーへと向かった私は、唖然とする。目的のサイズの商品に手が届かない。
カラ松くんの目線辺りの位置に、欲しいサイズのショーツが並んでいるのだ。元の姿ならば軽々と手にすることができるのにと、歯がゆくて仕方ない。
高い位置にある商品を取るための竿上げ棒を取ろうにも身長が足りず、かといって店の中には子供用のステップもない。
無駄な抵抗と分かっていても、つま先立ちをして手を伸ばす。
「んーっ」
気合を入れるために発したものだったが、驚くほど愛らしい声が出た。
けれど幼児の努力には限度がある。埋まらない数十センチの距離に早々に音を上げ、カラ松くんか店員に頼むことにする。くるりと体の向きを変えた次の瞬間、私は目を瞠った。
両手で顔を覆ったカラ松くんが崩れ落ちている。
「ハニーがキュートすぎる…ッ」
マジのクソがここにいます。

スマホや財布を黒いリュックに入れていたのは幸いだった。有名スポーツブランドのユニセックスタイプで、カラ松くんが背負っても違和感はない。私のリュックから私の財布を取り出して私の服を買うカラ松くんの姿は、最高にシュールだったが。
「ユーリ」
帰り道、抱っこを遠慮したら手を差し出された。体格差のせいか、大きな手が今日は一層大きく感じられる。首が痛くなるほど見上げてようやく視線が絡んで、カラ松くんは顔を綻ばせた。
私は内心でハッとする。今なら幼児の見た目を餌にして抱けるかもしれん。彼もまさ三歳児に襲われるなんて予想だにしないだろう。そんな妄想を脳内で繰り広げつつ、私もにっこりと無邪気な笑みを返した。
だが、意識はすぐに現実に引き戻される。
「やだ見て、あの子可愛い~」
「ほんとだ!ちっちゃーい、抱っこしたーい」
通りすがりの女子高生二人組から、容姿に関する賛辞を投げられたからだ。数メートルという、反応して会釈するには不自然な距離があり、かといって無視をするのも憚られ、何とも照れくさい。
「てかさ、パパ若いよね」
「うん、若い。でも絵になる親子って感じじゃん?」
カラ松くんの目尻が一瞬で赤く染まる。
「どうしたの──パパ?」
「からかうのは止せ、ハニー」
意趣返しにニヤけながら囁やけば、語気を強めた口調ですぐさま窘められた。

「頼むから止めてくれ。
今すぐにでも元のユーリに戻ってほしいのに、相反する気持ちもあって…どうしたらいいのか混乱してる」




昼食を終えた後に、私たちは松野家へ向かった。
薬の効果が切れるまでは、大人しく自宅に籠もっているのが得策である。しかし駅への道すがらに松野家はあり、財布に資金を追加したいというカラ松くんたっての願いもあった。
要は、六つ子に見つからなければいいだけの話だ。最悪姿を視認されても、私だとバレなければ問題ない。
けれど、ひょっとしたら面倒なことになるのではという僅かな懸念にこそ、対六つ子時は細心の注意を払うべきであると、後に私は痛感することになる。

「悪いことは言わないから、今すぐ出頭してこい」

まず、玄関を開けて早々にトド松くんに見つかった。手を繋ぐ私とカラ松くんを認めるなり、真顔で吐いた台詞がこれである。
「ガチじゃん、引くわ」
続いて通りがかった一松くんに、侮蔑の眼差しと共に低いトーンで蔑まれる。
まぁ確かに、見ず知らずの幼児の手を引いた兄弟を見たら不審がっても不思議ではないが、それにしてもひどい言いようだ。
「違ぁうっ!この子はユーリだ!ハニーなんだっ!」
お前は馬鹿か。
自分の名誉のために私を売りやがった、絶対後で泣くまで蹂躙すると私は心に決める。
「またまた、そんなすぐ分かる嘘ついて。ほんと嘘つくの下手くそだよねぇ、カラ松兄さん」
トド松くんは鼻で笑い、手首を振った。よし、その調子だ末弟。
「こんにちわぁ、お兄たん」
私はとっておきの営業スマイルを浮かべ、わざと舌っ足らずな口調で愛想を振りまく。
「えーっ、何この子、かっわいい!どこから攫ってきたの?
「だから誘拐前提で話を進めるな!オレへの信頼!
カラ松くんの叫びには、一松くんの嘲笑が応えた。
「じゃあ何?ユーリちゃんから鞍替えして源氏物語でもやるっての?大きくなったら結婚しようって調教?光源氏って面じゃねぇだろてめぇは」
彼らがカラ松誘拐犯説を唱えてくれるのは僥倖だが、万一通報に至れば厄介なことになる。黒歴史更新という不名誉な傷はつくが、ここは正体を明かした方が懸命なのかもしれない。
内心の葛藤を悟られまいと微笑を浮かべたまま固まっていたら、背後から声を掛けられた。

「あれ、ユーリちゃんどうしたの?ちっちゃくなっちゃった?」

振り返れば、砂と土で汚れたユニフォーム姿の十四松くん。いかにも野球の練習を終えたばかりという出で立ちだ。
「え?」
「お前何言ってんの、十四松?」
四男と末弟は目を丸くする。私は息を飲んだ。
「ユーリちゃんの匂いするよ」
続けざまに口にされたその言葉に、私は文字通り頭を抱えた。彼は鼻が利くからだ。そして十四松くんの嗅覚に対する六つ子の信頼度の高さは、長い付き合いでよく理解している。
案の定、私を見下ろす彼らの目つきが一変した。無条件に愛でる柔らかなものから、不審者を見る眼差しへと。
「…ユーリ、ちゃん?」
「言われてみれば、何となく面影もあるような…」
膝を折ってまじまじと覗き込んでくる二人。
私は白旗を上げた。
「…十四松くんタイミング悪すぎ。やっぱり家寄るの反対すれば良かったよ」
乱暴に髪を掻きながら溜息をつくと、一松くんとトド松くんは体を強張らせた。小柄で愛らしい三歳児が、大人びた口調で吐き捨てるのだ、そりゃ驚きもするだろう。
「えー、でも本当にユーリちゃん?じゃあさ、質問。君の隣にいるのは誰?」
「当推し」
「あ、本物だわ」
疑ってごめんねとトド松くんから謝罪を受ける。信じてもらえて良かったと安堵すべきところだろうが、微妙な気持ちになるのはなぜだ


いつもの居間に通されて、ちゃぶ台を囲むように座る。
幼児体型になった事情を説明する間に、外出していた面子も帰宅し、いつの間にか六つ子全員勢揃いでテーブルを囲んでいる。寄るだけで滞在はしないつもりだったが、正体がバレた今、固辞する理由はなくなった。
「コーヒーや紅茶は苦いから駄目だよね?ホットミルクでいい?」
チョロ松くんが片膝を立てて私と向かい合う。
「子ども扱いしないで…って、いや子どもだったわごめん。うん、ホットミルクで」
一時的にとはいえ幼児の姿なのだから、カフェインは控えた方が良さそうだ。
「お昼は何食べてきたの?」
「ファミレスでお子様ランチ」
「子どもかよ」
子どもだよ、紛うことなき幼児だよ。支払い能力のある幼児ですが何か?
「体が小さくなった影響なのか、味覚や好みも変わっちゃって、メニュー見た時にお子様ランチ一択だったんだよね」
そして甚だ不本意ではあるが、美味しかった。分かりやすい単調な味付けが、今の自分の舌には絶妙に感じられたのである。
カラ松くんの前には、マグカップに注がれたコーヒーが置かれる。
「そのコーヒーちょっと飲んでいい?」
この状況で、ブラックのコーヒーの味をどう捉えるのか興味があった。しかし私の手がカップに届く前に、カラ松くんが頭上に持ち上げてしまう。
「ノンノン、リトルハニー。カフェインは成長の妨げになるぞ」
大人と子どもでは手の長さがまるで違うから、掲げられては届かない。
「大人だし!ちょっとだけっ」
「駄目だ」
にべもなく拒否される。座ったまま懸命に手を伸ばすも、大人のカラ松くんと比べると、私の腕の何と短いことか。
しかし他の五人には、絶大な愛らしさをアピールする結果になったらしい。揃って口元を押さえて悶絶していた。

コーヒーは諦めて、差し出されたホットミルクに口をつける。漂ってくるコーヒーの香ばしい匂いは以前同様に好ましく感じるから、きっと味わえるとは思うのだけれど、保護者の許可が下りないのでは仕方がない。
唇を尖らせながら、テーブル中央に置かれたポテトチップスを指でつまみ、口の中へと放り込む。
「あ、ユーリ、それは…っ」
カラ松くんの制止を脳が認識するよりも、チップスの味が口内に広がるのが先だった。その妙なる調味料と香辛料テイストを、敢えて一言で表すなら──

くそ辛い。

「かっらああああぁぁぁあぁぁいっ!」
口の中に突如炎が出現したかと錯覚しそうになるくらいの衝撃が広がった。痛みを逃がそうと息を吸い込めば、口内が焼け付く。両目からは大粒の涙がこぼれ落ちて、私の意思では制御ができなくなる。
「ううぇっ…から…っ、ひぐ…!」
「よしよし、辛かったよな」
カラ松くんは困ったように笑いながら、言葉にならない声を漏らす私を抱き上げた。カラ松くんの肩に顔を埋める格好になる。
優しく私の背中を擦る手の感触。
「うええぇえぇ、何でこんな辛いのー!?」
「ハバネロチップスをハニーの手の届く所に置いといたオレたちが悪いな、すまん」
涙で滲んだ視界で、オレンジ色のポテトチップスが盛られた皿と、呆然と私を見上げる六つ子たちを認識する。
ハバネロチップスと彼は言ったが、何度も食したことのある食べ慣れた味なのだ。十分余裕を持って耐えられる辛さのはずだった。なのに、この体たらくである。
「ハバネロでも、マイルドバージョンなのにね」
「でも子どもには十分辛いんじゃない?ぼくだって飲み物欲しくなるし」
チップスを咀嚼して一松くんが不思議そうに呟き、十四松くんは首を傾げた。
「冷蔵庫に秘蔵のプリンがあるんだ。取りに行こうな」
「まだ辛いから無理ーっ」
「なら先にホットミルク飲むか?熱いからフーフーするんだぞ」
カラ松くん穏やかな声音で私を宥めながら、空いている片手でマグカップを持ち上げる。牛乳が注がれた大人用のそれは、今の私には大きく重い。不安はおそらく顔に出ていたのだろう、カラ松くんは何も言わずカップの底を手のひらで支えてくれる。
しかし牛乳の膜で口内を覆うも、症状は緩和しない。とめどなく溢れる涙を抑える術もなくカラ松くんの肩に縋り付いた。
「うん、辛いな。すぐマシになるから、少しの我慢だ、ユーリ」
私を抱いたまますっくとカラ松くんが立ち上がる。
緩やかで心地よい揺れと共に囁かれる声に、徐々に何も考えられなくなる。現と夢の境目が次第に曖昧になり、意識が混濁していく。
「何これ、ナチュラルにパパじゃね?」
「カラ松は父性あるから」
「パパみある」
「…パパみ?」
「こなれてる感が絶妙に腹立つな」

私が意識を手放したのは、それから僅か数秒後のことだった。




「ユーリちゃん寝ちゃった?」
十四松がカラ松の背中側に回り、ユーリの顔を覗き込む。肩に寄せられた重量感の変化から、彼女が寝入ったことは感覚で分かっていた。
「あーあ、カラ松兄さんの肩ぐっしょり」
十四松は笑って肩を揺らす。
「デカパンの薬のせいもあるんだろうけど、泣き喚いたユーリちゃんも超可愛かったな。元に戻らなかったらうちで養おう
「僕明日就職先決めてくるよ」
「すげぇなお前ら」
長男と三男が躊躇いなく発したユーリ養いたい発言に、一松は眉根を寄せた。
「でも何か分かるー、守ってあげたくなっちゃう感じあるよね」
末弟に至っては、ストレージが許す限りの写真を撮り続けている。
「ユーリちゃんは泣き疲れて寝ちゃったのかな?」
「それもあると思うけど、二、三歳頃だとまだ昼寝の習慣があるみたい。今ちょうどその時間なのかも。一時間くらいは寝るって書いてあるよ」
スマホのディスプレイに表示された文章をトド松が読み上げる。それを聞いて、一松と十四松が押入れから座布団と毛布を引っ張り出してきた。畳の上に座布団を並べ、即席布団を作る。
「しばらくは起きないだろうし、寝かしとく?」
一松に問われて、カラ松はユーリの寝顔を一瞥する。
十四松の言う通り、カラ松の肩は彼女が溢した涙の染みが広がっていた。規則正しい寝息とは裏腹に、目尻には痛々しい涙の跡が残る。
けれど小さな両手は、カラ松の服をしっかと握って離そうとしない。
その姿がなぜかたまらなく愛おしくて、口元には自然と笑みが浮かんだ。相手はユーリなのにユーリではないような、不思議な感覚をずっと覚えている。彼女の血が流れる子どもと接しているみたいな。この触れ合いがもたらす多幸感を──まだ手放したくない。

「…もう少しこのままでいい」

誰かが守らなければ容易く壊れてしまいそうな小さな体だ。その役は誰にも譲りたくないと強く思う。恋愛感情なのか父性なのか、この感情の起源は、もはや分からないけれど。
「オレにジュニアがいたら、こんな感じなんだろうか」
噛みしめるように呟くと、全員から失笑を買った
少なくとも幾人からは同意が得られるのではというカラ松の思惑は、美しいほどに空振りする。
「そういうのはまずは童貞卒業してから言って!キスだってまだのくせに!処女受胎したマリアか!
特にトド松は辛辣だ。
「え…でもユーリの子なら、オレの子同然じゃないか?
「サイコパス思考怖い!」




目を覚ました私は、腫れぼったい双眸にまず絶望し、次いでやらかした己の失態に閉口する。ぶすくれた顔で上半身を起こす私を微笑ましく見守る六つ子の眼差しにも、殺意しか感じなかった
一刻も早く自宅に戻りたかったが、夕食を食べていけとおばさんに強く誘われて断れず、結局松野家を辞退したのが八時前だ。夕ご飯に出されたオムライスには、私のプレートにだけ中央に旗が数本のっているお子様ランチ仕様。孫を見るかのような松代の熱い視線が痛かった。長居は危険と判断し、カラ松くんの手を引いて逃げるように松野家を出る。

「ハニー、おいで」
混雑した電車では、カラ松くんが片手で私を抱きかかえる。今更だが、本当にパパみがすごい。いつもなら手を繋ぐ行為にさえ必死に口実を探す彼が、ごく自然に私を抱きしめる。危険から遠ざける意味合いが強いから、普段とは事情が違うのだろうが、それにしても、だ。
「まだ眠くないか?」
「大丈夫」
「疲れただろう?寝る前までは側にいるから、やってほしいことがあれば何でも言ってくれ」
ふふ、と私は思わず笑ってしまう。
少々甘やかしすぎる傾向にはあるものの、疑似体験における率直な感想としては──彼はいい父親になりそうだ。

「風呂上りのハニーもソーキュートだ!
マシュマロのようなほっぺ、アーモンド型のアイズ、片手で抱えられる等身、全てが筆舌に尽くしがたい愛くるしさ!そして極めつけに、オーバーサイズなパジャマ!マーベラス!」
うん、ごめん、前言撤回。最高に鬱陶しいわ、これ。何がいい父親だ、馬鹿なのか。
「スマホ貸してくれっ、ガイアの宝となるべき存在の記録は残しておかなければ!」
親馬鹿が最高潮。
「ハニーじゃなければしこたま頬ずりしたいぐらいだ!」
「その煩悩は理性で打ち勝って、カラ松くん」
送り届けてはいさよならかと思いきや、遅くならないうちにシャワーを浴びろと指示された。
風呂くらい一人で入れるからと辞退する私の意思は尊重されず、風呂上がりに着替えを済ませるまでリビングで待機される。設備が大人向け仕様のせいもあるだろうが、監視下で風呂に入る居心地の悪さには、無意識に溜息が溢れた。
可愛さ百倍薬の吸引力恐るべし。

歯磨きを終え、後はベッドにもぐるだけになった。時計の針は九時手前を指している。
カラ松くんが玄関で靴を履く。
「明日は九時には来る。その頃には元の姿に戻っているだろうしな」
そう願いたいところだ。
私がこくりと頷くと、彼は不安げに眉尻を下げてその場で膝を折った。私と目線が合う。
「一人で怖くないか?オレがいなくて本当に大丈夫か?」
「体は幼児でも、中身は大人なので」
「…分かった。それじゃあ、いい子で寝るんだぞ。チャイムが鳴っても絶対に出ないようにな、リトルハニー。オーケー?」
初めてのお留守番か。
「子ども扱いしないでってば」
「今のユーリは子どもなんだ。夜中一人でいて、万一のことがあったらと心配するのは当たり前だろ」
「お父さんか」
「カラ松パパ、か…フッ、いい響きだ」
駄目だこいつ、早く何とかしないと。
「何かあったらすぐトッティの携帯に電話くれ──飛んでいく」




翌朝ベッドで目を覚ました時には、私の体はあるべき姿に戻っていた。高い視線、長い手足、軽やかな段差の乗り越え、たった一日失っていただけなのにひどく懐かしい。
デカパン博士が言ったリミットの二十四時間まではあと数時間あるが、早く戻ってくれるに越したことはない。貴重な休日は一分でも無駄にできないのだ。

カラ松くんとは言うと、玄関を開けて私の姿を認めるなり、喜びと落胆が混じったような何とも言えない複雑な表情になった。
「元に戻って本当に良かったと思うのに…何というか、少し残念な気持ちもあるんだ」
ソファに腰かけて、彼は呟く。
「もしオレとハニーの間に子どもがいたら、ああいう──」
そこまで言って、際どい台詞であることに思い至ったのだろう。顔を赤くして、片手の甲で口元を隠す。
「…あー、いや…やっぱり、何でもない。聞かなかったことにしてくれ」
感慨深い様子でカラ松くんは自分の手をじっと見る。
「小さな手だった」
「そりゃ三歳前後ですから」
「守ってやらなきゃと思ったんだ、心の底から。あの不思議な感覚は何だったんだろうか」
おそらく私は、彼が求める答えを持っている。霧のように曖昧で掴みどころのないその感情の正体を、知っている。
「カラ松くんはいいお父さんになりそうだね。というか、実際昨日はいいパパだったよ。娘だった私が太鼓判押す」
でも、答えは自分で見つけてこそ価値があるものだ。
「そういう未来が来たらいいんだけどな」
「カラ松くん次第でしょ」
「…そうか?」
「そうだよ」
「そ、そうか…」
決意を新たにするように、うん、と頷いて。

「…頑張る」

私を見て、小さく笑った。

ああくそが、可愛さ百倍薬で超絶可愛くなった私なんぞ足元にも及ばない可愛いの権化的存在が目の前にいるんですが、これで薬飲んだら臨界点突破じゃないか、そうなったら鼻血の海で息絶える自信がある。理性?なにそれ美味しいの?
指先で眉間を押さえながら、私は必死に己を律するのだった。

新年の幕開けをニートたちと

クリスマスが終われば、あっという間に年の瀬である。
師走という字面に相応しい忙しなさで日々が過ぎ、職種によっては仕事納めをして、来る新年を迎えるべく身の回りを整える。
私こと有栖川ユーリも昨日無事年内の仕事を終え、冬季休暇へと突入した。

そんな大晦日の午後、私は松野家の玄関を叩く。
カラ松くんを始めとする六つ子たちからの、新年の幕開けを共に過ごさないかと魅力的な誘いを受けたためである。何かと忙しい時期だからと辞退しようとしたら、松代おばさんからも是非にと請われた。となると断る理由はなく、私は胸を弾ませながら彼らの元を訪れる。


「ごめんねユーリちゃん、僕らの買い物付き合わせちゃって」
チョロ松くんが眉尻を下げて言った。
「私がついていきたいって言ったんだから、気にしないで」
チョロ松くんとカラ松くんに挟まれるようにして、スーパーまでの道を歩く。
玄関先で私と鉢合わせしたのは上記の二名で、ちょうどおばさんに頼まれて食材の買い出しに出るところだったらしい。荷物持ちは多い方がいいだろうと参戦を希望したところに、チョロ松くんからの謝罪だった。
「マミーからは後で小言を言われそうだな。ハニーに何をやらせてるんだって」
ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ格好で、カラ松くんが眉をひそめた。
「もし二人が何か言われたら、私がどうしてもって言ったって話してよ。八人分の食材だとどれだけ買うのか実際見てみたかったんだよね」

「──九人だ」

不服そうにカラ松くんが訂正する。
「今日はユーリの分も含めた買い出しだぞ。オレたちと年越しするプロミスを忘れたわけじゃないだろう?」
それは揚げ足取りじゃないのかと反論しようとして、止める。駄々っ子のように口答えする推しも可愛い。

「女の子のいる年末って、大人になってからは初めてだよ。去年は不甲斐なく一年を過ごした自分にひたすら自己嫌悪してたからなぁ」
反省も後悔もしたという割には引き続き自立する気配もなく、兄弟同様にニートに甘んじているあたり、自意識ライジングの名は伊達じゃない。来年の抱負を尋ねたら、何と答えてくるか興味はある。
「ユーリは実家に帰らなくていいのか?」
「元旦に顔は出すよ。でもみんなと一緒に過ごした方が絶対楽しいと思うから、こっち優先」
にこりと微笑んでそう答えれば、カラ松くんとチョロ松くんは赤くなった顔を両手で覆った。
童貞ほんとチョロい。


ずっと疑問だったんだけど、という前置きでチョロ松くんは口火を切った。
「カラ松とずっと一緒にいてよく飽きないよね」
「飽きる理由がない」
「喧嘩したりしないの?僕なんか毎日一回はイラッとしてるのに」
「え」
マジかよ、と言わんばかりに驚くカラ松くん。
「喧嘩…したことあったっけ?」
推しの言動全てが愛らしいの極みなので、憤る理由がない。故に、大抵のミスや無作法は私の導火線に火を付けることさえ敵わないのだ。
「ハニーが本気で怒ったのは一回くらいじゃないか?」
「ああ、カラ松くんの態度が素っ気なさすぎて理解不能だった時ね。そういえばそんなこともあったかな。
私はカラ松くんにはよく怒られてるよね」
え、とチョロ松くんは瞠目する。
「ユーリちゃんを怒る…?愚かにも程がある。カラ松お前調子乗んなよ?
「せめて理由を聞いてから暴言を吐くんだ、ブラザー」
理由によってはこの場で処すると言わんばかりの顔でメンチ切るチョロ松くんに、カラ松くんは腰を引きながらも抗議する。
「オレだって厳しいことは言いたくないが、ユーリが自分の魅力を過小評価した結果、他の男に安々と隙を見せるからだろ」
耳にタコができるほど聞き飽きた小言だった。私は唇を尖らせる。
「なるほど、そういうクソナンパ野郎は東京湾に沈めていい。全力でやれカラ松
三男は三男であっさり掌返し。立てた親指を逆さにして勢いよく振り下ろした。何こいつら怖い。
「──っていう感じでうちの次男はモンペ成分も多分に含んでるけど、嫌気が差さない?」
モンペ具合はお前も大概では?この会話まだ続くの?
「差すわけないよ。こちとら推させていただいてる身だからね。担降りなんて考えたこともない」
これは正直な気持ちだ。
未来がどうなるかなんて誰にも分からないから、絶対なんて軽々しく口にはしないけれど、今歩く道がこの先も続けばいいなと思っている。


大晦日だというのに、スーパーは平日同様の混雑ぶりだった。否、大晦日だからこその混み具合なのかもしれない。
自動ドアを通って中に入ると、カラ松くんが率先してショッピングカートを引き、流れるようにチョロ松くんが買い物かごをセットする。互いに無言で視線さえ合わさない。にも関わらず、示し合わせたかのような一体感を感じさせる動作に、私はしばし呆然とする。一卵性のコンビネーションの良さというものを目の当たりにした瞬間だった。
「…どうしたんだユーリ、ボーッとして」
「ユーリちゃん?」
彼らは六つ子なんだな、と再確認する。
「あ、ううん、二人とも仲いいんだなぁって」
「は?ケツ毛燃える」
「仲良くはない」

真顔で全否定を食らう。そういうとこだぞお前ら。

「で、何を買うの?」
私の問いかけに対し、チョロ松くんはデニムのポケットから二つ折りのメモを取り出す。彼らしい几帳面な文字が羅列している。
店内では早くも正月の定番BGMが流れていた。琴による厳かな調べが耳を抜けていく。
「年越しそばと、餅用のきなこと海苔。あとは酒とつまみとカップラーメンとかかな」
内容だけ聞けば、何だその程度かと拍子抜けするのが一般的だろう。多くの場合、買い物かご一つで十分事足りる量だ。
「それを八…いや、九人分」
しかし松野家の場合、一種類ごとの数が須らく多くなる。僅か数種類の買い出しでも、結構な大仕事だ。
「フッ、酒を持つのはオレに任せろ。好きなだけ買ってくれていいんだぜ、ブラザー&ハニー」
「頼むぞ脳筋」
「頼りになるー」
前髪を掻き上げて気取るカラ松くんには目も向けず、私とチョロ松くんは棒読みで応える。
「おばさんはもうお節作ってるの?」
「うん。昨日から仕込みしてて、今朝は早くから台所で戦ってる」
「そっか。エプロン持ってきたから、邪魔じゃなければ後で手伝わせてもらおうかな」
何しろ一般家庭のほぼ倍量を作らなければならないのだ。余計な手立しだとしても、一応お伺いは立ててみよう。
「何かいいな…こういうの」
すぐ傍らで、カラ松くんがぽつりと呟いた。チョロ松くんは先導するように数歩先にいるから、聞こえたのはおそらく私だけだ。
「みんなで買い物することが?」
「ああ」
照れくさそうに目を細めて。

「ユーリが家族になったみたいだ」

ときどきそのイケボを最大限活用してしれっと爆弾を落としてくる。努力の方向性を間違えなければ異性の関心を得ることなど容易いのにと、私は不思議でならない。




両手に買い物袋を下げて松野家に戻れば、玄関が開け放たれている。
「あ、兄さんたちお帰りー」
内側からひょっこりと顔を覗かせたのは、両手に雑巾を手にした十四松くんだった。
「ユーリちゃんも、ようこそ!楽しみに待ってたんだよ~」
成人男性とは思えない無邪気さで私の訪問を歓迎する。足取りも軽快で、跳ねるように私の前へとやって来た。
「十四松、大掃除は進んでる?」
進捗駄目です。おそ松兄さんとトッティに喝を入れるので、半時間くらいかかっちゃった」
「あいつらまたサボろうとしてたのか」
チョロ松くんが顔を歪めた。どうやら長男と末弟の掃除サボりは常習らしい。
「十四松くん、掃除私も手伝うよ」
腕まくりをするポーズで笑ってみせれば、カラ松くんが自分の口元で人差し指を振った。
「ありがたいがノーセンキューだ、ハニー。ゲストのユーリに汚れ仕事をさせるのは男が廃る。掃除は自業自得なブラザーたちに任せて、ユーリは…そうだな、オレと正月飾りの設置でもしないか?」
「カラ松の言う通り、ユーリちゃんは無理しなくていいから。っていうか、そもそも手伝わなくていいんだからね」
「みんな準備してるのに、一人だけのんびりもできないよ。それに一人暮らしだから、家事は慣れてる」
私が譲らないことと理解したらしいカラ松くんとチョロ松くんは、苦笑して顔を見合わせた。
二階からは、一松くんの怒号とトド松くんの叫び声が聞こえてくる。


台所で死闘を繰り広げる松代おばさんに挨拶をしてから、カラ松くんと共に再び玄関へ向かう。彼は物置から、胸元の高さほどはあろうかという門松を一対玄関へ運び出す。門松の中央に設置された赤い縁のプレートには、迎春の筆文字。
しかし立派な外見とは裏腹に、その重量は私でも持ち上げられる程に軽く、設置そのものは一瞬だった。松野家の門口が華やかな装いへと姿を変える。
「門松を飾る家も少なくなったよね。でもやっぱりこういうのはお正月って感じがして、趣があるなぁ」
道路に出てスマホで写真を撮る。門松を撮るという名目で、推しを。事前に撮影を告知するとだいたい気障なポーズを決めてくるから、自然体を収めるには盗撮くらいがちょうどいいのだ。腕組みをして満足気に門松を見つめる推し、良き
「門松を飾る理由を知ってるか、ハニー?」
「厄除けだっけ?」
そうだ、とカラ松くんは薄く微笑む。
「玄関を清めると言われている。鬼や邪気を追い払い、新年を司るゴッドの依代ともなる霊験あらたかな縁起物だ。
門松を飾る家が少なくなった?フッ、ゴッドの加護を受けるライバルが減るのは、こちらとしては願ったりじゃないか」
恩恵が門松を置く家に均等に配分されるとしたら、分母が少ないほど取り分は多くなるという考えだ。面白い解釈だと笑ったら、カラ松くんは門松の位置を微調整しながら、私に後頭部を向けたまま呟く。

「オレはいいから、その分ユーリに加護があるといいな」

「カラ松くん…」
「まぁ、大晦日ギリギリに出すのは一日飾りといって、ゴッドに喧嘩を売っているわけなんだが
「前提が今までの会話全てを覆してきた」
ちょっとほのぼのした私の感情を返せ。

「今年の大きなイベントごとは、全部ユーリと過ごした気がするな」
脚立に乗ってしめ縄飾りを玄関に下げながら、カラ松くんが言った。門松としめ縄飾りが揃うと、築年数の経った玄関に厳かな雰囲気が漂う。
「カラ松くんと会ってからは、実際過ごしたと思うよ」
「ユーリの側にいる、その任を仰せつかることができて光栄だ」
ひらりと軽い身のこなしで脚立から飛び降りる。
「できるなら来年も、そうであってほしいな」
そうであってほしい、その言葉に彼の意思はこもらない。環境や立場といった外的要因と運任せの発言を、私は受け止めかねた。
「カラ松くんの気持ちとしてはどう?」
この場には、私たちしかいないから。声の音量を僅かに落とした私の意図を察したのか、カラ松くんは片手で首筋を掻いた。

「オレは──来年も変わらず、ユーリの側にいたいと思ってるよ」




その後室内に戻った私は、エプロンを装着しておばさんの手伝いを買って出る。
お節料理の中身はあらかた出来上がっていて、皿に盛られたそれぞれの料理を彼女の指示通りに重箱に詰めていく。お節の重箱といえば三段重が一般的だが、松野家は四段重だ。それでもおばさん曰く一食で空になってしまうというのだから、成人男性六人が寄生する家庭のエンゲル係数の高さは想像を絶する。
「四段目はもう煮物を流し込む感じでいいわ。どうせあの子たちは花より男子だから」
「もったいないですよね。今どき四段重なんて珍しいし、おばさんのお節料理こんなに綺麗なのに」
苦笑しながら、私は煮しめを詰めていく。にんじんは花形に抜かれ、れんこんは周囲に切り込みを入れた飾り切りと、見た目も楽しめるよう手の込んだ仕様だ。
「ありがとう、そう言ってくれるのユーリちゃんだけよ。
ほんっと、ニート全員解雇してユーリちゃんに扶養に入ってもらおうかしら
「ええと…お気持ちは嬉しいんですが、扶養から外れる程度には稼いでますから
「若くしてその経済的自立っぷり、有能すぎる」
どんな返事をしても私アゲが半端ない。助けて。

最上段となる重箱に紅白のかまぼこを交互に並べていたら、おそ松くんが盛大な溜息と共に台所にやって来た。
「ちょっと聞いてよユーリちゃん!チョロ松が俺のこと冷遇するの、ひどくない?俺真面目に掃除してるのに!」
愚痴を溢しながら冷蔵庫を開け、お茶の入ったピッチャーを取り出す。
「無事に進んでる?」
「今終わったとこ。てか、このクソ寒い時期に窓拭きとか正気の沙汰じゃないよな。寒すぎてマジ無理」
「でもちゃんとやったんだ?偉い偉い」
「でっしょー?もっと褒めて。俺超頑張ったよ」
ガラススコップに注いだお茶を一気に飲み干したかと思うと、おそ松くんはなぜか不思議そうな目で私とおばさんを見やる。
「おそ松くん、どうかした?」
盛り付けの手を止めて、私は顔を上げる。彼は気恥ずかしそうに鼻の下を指先で擦った。
「…あ、うん、何ていうか…うちに姉貴がいたらこんな感じなのかな、って」
これは外堀が埋まってくる感じなのかと、顔には出さず警戒する。しかしおそ松くんが私と
カラ松くんとの関係に進展を望むのは妙だ。私は彼の出方を待った。

「カラ松とユーリちゃんが結婚したら──ユーリちゃんが妹になるんだよな?

着眼点が百八十度違った。
だがこれはこれで危険な匂いしかしない。
「ユーリちゃんが何て?」
そこに気怠げな一松くんが現れて、私はもう好きにしてくれと全てを諦める。駄目なパターン入った。
「お兄ちゃん大発見、聞いて驚け一松!もしカラ松とユーリちゃんが結婚したら、ユーリちゃんはお前の姉さんになるんだぞっ」
「何、だと…」
愕然と目を見開く一松くん。おばさんに至っては、馬鹿が何か言い出したわね、と気にも留めず重箱に料理を詰めていく作業に徹する。
「ということは、つまり……ユーリ姉さん?」
「ちょっ、いちまっちゃんってば、その響きエロすぎるだろ!背徳の香りがする!
間違いなく気のせいだ。
「しかもさ、俺はカラ松より上だろ?
ってことはだよ、俺はユーリちゃんにとって義兄になるわけで…ユーリって呼び捨てにできる権限があるってことじゃん!?」
そんな権限は未来永劫ない。
「いやいや、呼称としてはユーリ姉さんの方がどう考えてもいいでしょ。姉さんって響きだけで強くなれる気がしたよ」
唐突に有名曲の歌詞引用してくるの止めろ、スピッツか。
「そう考えたら、カラ松とユーリちゃんが付き合うのもアリって思うよな」
「うん、アリ中のアリ。おれたちへのメリットもでかい」
腕を組んで頷き合う長男と四男。

「本人置き去りにして勝手に話進めるの止めてくれる?」

年の瀬だというのに、胃が痛い。そもそもカラ松くんとは付き合ってすらないのに、この飛躍しすぎた会話は何なんだ。
「ニートたちの戯言は気にしない方がいいわよ」
「おばさん…」
優しく肩を叩かれて、私は救われたように彼女を見る。
「──でも確かに、ユーリちゃんにお義母さんって呼ばれるのは魅力的だわ」
松代の追撃に心が挫けそう。




私たちが買ってきた年越しそばは、夕食の一品として円卓に出された。
日付が変わる直後まで放送される毎年恒例の長時間バラエティと共に、松野家の居間にはそばを一斉に啜る騒々しい音が響く。去年はどのコーナーが面白かったとか、六人の笑いのツボが微妙に違うこと、私の仕事の業務内容など、とりとめもない話題が行ったり来たりして、時間はあっという間に過ぎていく。
番組が終盤に近づく頃、テレビの画面を通して除夜の鐘を聞きながら、私たちは外へ出る準備を整えた。
「ユーリ、眠くないか?」
上着を羽織りながら、カラ松くんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「大丈夫だよ」
「そうか。ゲストだというのに色々手伝わせる結果になってしまったから、もし疲れたらすぐに言ってくれ。新年早々ユーリに辛い思いをさせるわけにはいかないからな」
「そこまで動いてないから今は平気だけど、ありがとうね」
その気遣いが嬉しい。微笑んで応えたら、カラ松くんは目尻を朱に染めて目を細めた。


おじさんとおばさんに見送られ、私たちは初詣のために近所の神社へと向かう。徒歩圏内とはいえ所要時間は半時間を超える上、都内の初詣人気ランキング上位に入るが故に大晦日から新年にかけては人出が多く混雑することで有名である。
巨大な銅製の鳥居をくぐり、広大な境内を本殿目指して進む。その一本道は距離にして百メートルに満たないが、足の踏み場もないほど人でごった返している。本殿前に設置されている賽銭箱も縦一メートル幅数メートルと巨大で、参拝者の多さを物語る。
「神社も見たし帰ろうか」
人気アーティストのライブ会場かと見紛うほどの人混みを目の当たりにした一松くんが、着くなり撤退を提案する。
「待て待て」
制止の言葉は反射的に私の口をついて出た。来たばかりの最後列で弱気な発言はいただけない。
「兄さん、帰るにしてもまた半時間以上歩くんやで」
四男の肩を叩き、真顔で言い放つのは十四松くん。
「こっから賽銭箱まで何分…いや、何十分かかるか。…あ、そうだ、何分で辿り着けるかお前ら賭けない?」
「年始早々くらい賭博から離れろ。そもそも夜に初詣行こうって言い出したのお前だろ?」
チョロ松くんがおそ松くんを嗜める。
「いやだって、深夜だと人目を気にせずイチャつくウザい学生カップル少なそうじゃん?」
「その代わりDQNやパリピの巣窟になるけどね」
最善の手を選択したと過信するおそ松くんに、末弟からの容赦ない駄目出し。
「じゃあ何時頃だったら安息の地になるんだよ」
「んー、二日以降の夜とかは?絶対数が少なくなるだろうから、比例してカップルが視界に入る率も低そう」
「それは初詣感薄れるからナシ。何だよ、二日以降の夜って。トド松お前、一年の計は元旦にありって言葉知らねぇの?」
おそ松くんの失笑を買ったトド松くんは、ハッと舌打ちに近い溜息を漏らす。
「童貞ニート穀潰しのカースト最底辺の分際で、元旦も二日もあるかよ」
「もうっ、おそ松くんもトド松くんも、その辺で終わりにしようよ」
私は両手を挙げながら、微苦笑で二人の間に割って入る。彼らの場合、兄弟の制止は効果がないケースも多いが、相手が異性だと成功率は爆上がりする。案の定、渋々といった体ではあったが二人とも口を閉ざした。

「清々しく元旦を迎えようって時に、カップルに遭遇しない確率論で喧嘩する虚しさ考えてマジで


一触即発の空気を鎮めた後は、賽銭箱までの待機列の進行を待つのみである。辟易する人混みではあるが、満員電車のような密度ではなく、腕を動かせる程度の間隔が空いているのは幸いだ。
「ハニー、オレから離れるんじゃないぞ」
格好つけでも何でもなく、カラ松くんが険しい顔で言う。
「ちょっと端に寄ろうか。真ん中の混み具合よりはマシだと思うし」
チョロ松くんの指示で右寄りに歩を進める。密度の低いと思われる外側に誘導されると、幾分か息苦しさが緩和された気がした。
「あと少しだし頑張ろうね、ユーリちゃん」
「そうだね」
傍らに立つトド松くんに景気付けられて、私は笑みを作った。
賽銭箱への距離は残り約半分、人の流れに身を任せていればいつかは目的地に到達するだろう。気合いを入れ直すために一旦立ち止まった時、私の背中に何かがぶつかった。あ、と意味のない声が口から出る。

誰かの背負ったリュックが衝突したと気付くのと、バランスを崩すのが同時だった。

「──おっと」
前のめりになる私の肩を支えくれたのは、おそ松くんである。
「大丈夫?」
「あ…う、うん」
私の両肩に手を置きながら、彼は肩越しに睨みをきかせる。
「つーか、女の子にリュックぶつけといてシカトかよ、あいつ。転んで怪我させたらどう責任取るつもりなんだよ」
「おそ松くんのおかげで助かったよ、ありが──」
しかし私の感謝の言葉が最後まで紡がれることはなかった。

カラ松くんが、私とおそ松くんを強引に引き剥がしたからだ。

おそ松くんに対して咎めるような鋭い視線を向けながら、私の腰を片手で引き寄せた。自分の身に起きた出来事を理解する間もなく、服越しに彼と密着する体勢になる。
「おそ松、ハニーから手を離せ」
語気を荒げることもなく淡々と放たれる言葉。
「昼、オレによく叱られるとユーリは言ったよな?」
「ちょっと、今そんな話は──」

「オレがユーリに対して苛立つのは、こういう瞬間だ」

視線は依然としておそ松くんに向けられたまま、尖った声だけが私に刺さる。敵意を剥き出しにされるのは慣れているとばかりに、おそ松くんは苦笑しながらお手上げのポーズだ。
「今のはわざとじゃないから」
「だから、何だ?」
感情を抑えるみたいな低い声音。
「おそ松くんは、転びそうになった私を支えてくれただけなのに。そのイライラはお門違いだよ」
私の反論は想定の範囲内だったはずだ。しかし彼は眉間に刻んだ皺を一層深いものにする。
「ああ、そうだ。おそ松に非はない」
「だったら──」

「すまないが、他の男がユーリに触れること自体、許容できそうにない」

私は目を剥いた。
人混みの喧騒の中、一際際立って私の意識を捉える。
こじらせた童貞の面倒臭さここに極まれりというのが正直な気持ちだった。長男はとんだとばっちりだ。
「兄弟勢揃いの場で告白紛いのクサイ台詞吐くのはどうかと思うぞ、カラ松」
チョロ松くんが溜息をつきながら、カラ松くんの肩を叩く。三男による仲裁と全員の呆れた視線に気付いてようやく、カラ松くんは我に返った様子だった。
「あっ、え…こ、これはだな、その…」
顔どころか耳まで赤らめて、彼は弱々しく言い訳を試みる。
「カラ松兄さん、ユーリちゃんのこととなると豹変するよね」
トド松くんが長い息を吐いた。




正式な謝罪はなかった。混雑と人目もあって何となくうやむやになり、当初の目的である参拝の達成が再び私たちの最優先事項となる。けれど一度私の中に湧き上がった不快感は、小さなしこりとして胸に残った。
いつの間にか日付が変わって新たな年を迎えていたが、素直に祝う気持ちにはなれずにいる。淀みを心に溜めたまま清々しい挨拶を交わす気にもなれなくて、どうしたものかと思案した時。

「ユーリ、こっちが空いてる」

腕を引かれて、人の隙間を抜ける。眼前には、見慣れた後頭部と後ろ姿。抵抗を考えるより前に、瞬く間に賽銭箱の近くへと辿り着いた。
「な?」
得意げな微笑みが彼の顔に浮かんで、ほとんど条件反射的に私も笑ってしまう。やられた、と思った。
大きな賽銭箱にそれぞれ硬貨を投げて、手を合わせる。
私が参拝を終えて目を開けても、カラ松くんはまだ真剣な表情で両手を合わせていた。その横顔に、いつだって真っ直ぐに私と向き合おうとする彼の姿を思い出す。同時に、不器用で下手くそなことも。
「カラ松くん」
「ん?」
「長いお参りだったね。何をお願いしたの?」
「へっ!?あ、その、オレは…」
肩を強張らせて、私から視線を逸らす。しかしすぐに観念したかのように、緩く口角を上げた。

「オレの決意を応援してほしいと頼んだんだ」

童貞ニートらしからぬ発言に、私は驚きを隠せなかった。
楽して一生安泰に暮らせますようにとか、努力せず今年こそ異性とヤれますようにとか、そういう低俗な願い事だとばかり思っていた。正直ごめん。
「決意?」
「ああ。今年中に結論を出したいことがあるんだ」
「そっか。目標があるのはいいことだと思うよ、私も応援するね」
新年の参拝は、神頼みの場ではないとも言われている。己の名と所在を明らかにした上で、前年無事過ごせた感謝を述べるのが正しいとも。
「ハニーは何を願ったんだ?」
「私は、好きな人たちと今年も楽しく過ごせますようにって」
手を合わせて祈る参拝客たちを尻目に。
「──その中に」
「え」

「その中に、オレはいるか?」

希うような、縋るような、切実さを秘めた双眸。聞かずとも分かっているくせにと、一笑に付すことができない。
「もちろん。トップにいるよ」
「…そうか」
私の声は、彼に幸せをもたらすためにある。どうかその微笑みを絶やさずに、後悔のない一年を。
「じゃあ改めて──あけましておめでとう。今年もよろしく頼む、ハニー」
「うん、あけましておめでとう。こちらこそ、よろしくね」
自然と笑みが溢れる。
「あと…さっきは、すまん」
気まずそうに目線が地面に落ちた。カラ松くんから紡がれたその一言で、僅かに残留していたわだかまりが跡形もなく消えていくのが分かった。非を自覚して認めるのは、思いの外勇気を必要とする。
「分かってくれたならいいよ。でも良かった、このまま微妙な気持ちでカラ松くんと新年迎えるの嫌だったんだよね」
「勢いでうやむやにならないかと一瞬思ったんだが…ユーリに対して不誠実なのは、オレが嫌だ」
「うんうん、よくできました。花丸あげちゃおう」
私はにっこりと笑顔を作って、カラ松くんの頭を乱暴に撫でた。
「は、ハニー…っ、子供扱いは──」
「あっ、一松くんのフード発見!みんなあっちにいるみたい、行こう!」
私たちを探すように首を左右に振る五人に向けて手を上げたら、いち早く十四松くんが私を視認して手を振り返した。
カラ松くんの手を、今度は私が取る。人混みではぐれないように、離れてしまわないように。

「ユーリ」
駆け出そうとした背中に声がかかって、振り返る。
「今年は」
「うん?」
「今年こそは…」
「ユーリちゃん!カラ松兄さーん!」
しかしその後に続く言葉は、十四松くんのはつらつとした声に掻き消されて、私には届かなかった。




参拝を終えてからひとしきり屋台に並んだため、初詣を終えて松野家に戻った頃には、いわゆる丑三つ時と呼ばれる深夜帯になっていた。帰り道は言葉数も自然と減り、私の瞼も徐々に重量感が増していく。
トド松くんが気を利かせてタクシーを呼んでくれ、私たちが松野家に戻る頃にはタクシーが玄関前でハザードを点灯させていた。
「ユーリちゃんと一緒に年越しできて良かった」
「帰りは気をつけてね」
六つ子たちに見送られて別離を告げる。
全員揃って玄関前でさよならかと思いきや、おそ松くんが一際大きなあくびをした。
「なぁ、お前らが何でこの歳までずっと童貞なのか、お兄ちゃんが教えてやろっか?」
気怠げに髪を掻いて、彼は続ける。

「──こういう時に気が利かないからだろ」

カラ松くんを除く四人が、目から鱗が落ちたとばかりに愕然とした。いや、君らの童貞はもっと根本的な問題だと思うが。
彼らは挨拶もそこそこに、我先にと慌てた様子で家に戻っていく。玄関前には、呆然とする私とカラ松くんが残された。そしてようやく長男の意図を察した次男が、顔を赤らめる。遅い。
「そういえば、さっき何を言おうとしてたの?」
「さっき?」
「初詣で合流する前に。カラ松くん、何か言いかけたでしょ?」
十四松くんの呼び声が重なって聞こえなかったから。
カラ松くんは、あー、と間延びした声を発した後、気恥ずかしそうに指先で頬を掻いた。場の空気感も状況も、先程とはまるで異なる。彼の中では区切りがついて過去の遺物となったものを、今更掘り返されるのは抵抗があるのかもしれない。
「あ、別に、大したことじゃないなら…」
無理に語る必要はないと言おうとした私の言葉を、彼は遮る。

「今年こそはユーリを幸せにしたい、そう言おうとしたんだ」

幸せ。
私もときどき口にするけれど、その境地に到達する基準は人によって大きく違うし、感じ方も様々だろう。発する方と受け取る方も、また然り。
「私を…」
反芻するように呟けば、カラ松くんは憂いを帯びた表情でフッと息を吐く。
「分かっているさ。このオレと出会ってハニーが幸せの頂にいるファクトくらいは、もちろん理解しているとも。
しかしハニーはまだ、オレの魅力の数パーセントしか知らないと言っても過言ではない。オレの本領はこれからだ。一年かけて、しかと刮目して目に焼き付けてくれ!」
「はいはい、楽しみにしてる」
呆れ半分期待半分で、苦笑しながら私は返事をする。
「後悔はさせないぜ!」
少女漫画の描写さながらに目を輝かせて、指を鳴らす仕草。絶好調だな。

タクシーの後部座席に乗り込んで、私はカラ松くんに視線を向ける。
「さっきの言葉、一瞬プロポーズみたいだと思ってビックリしたよ」
「そんなことをしたら、カラ松ガールズたちのジェラシーでハニーが針のむしろになってしまうじゃないか
すごい自信だ。驚きを通り越していっそ感心する。
まぁ、たまにそういう突拍子もないナルシストぶりを発揮するのも、可愛い推しを構成する大事な要素ではある。
「何言ってんだか」
「…気をつけて帰るんだぞ、ユーリ」
「うん。じゃあまた明日連絡する──いい一年にしようね」
「ああ」


ユーリを乗せたタクシーが遠ざかっていく。彼女は途中後ろを振り返り、もう一度カラ松に微笑んで手を振ってみせた。
「プロポーズ、か…」
彼女の発言に深い意味はなかっただろう。何気ない会話の一部に過ぎす、浮上した感情を正直に吐露しただけで、カラ松を追求する意味合いなど皆無の、ただの感想。

「もしその通りだと言ったら…ユーリは、何て答えてくれた?」

誰に聞かせるでもない問いは空気に溶けて、カラ松の胸にもどかしさだけを残した。

聖夜も捨てたもんじゃない

街中が浮き立つクリスマスが、間もなく訪れようとしている。

暮れが押し迫り年明けを間近に控えた、一つの大きな区切りを迎える非日常感と、眩いイルミネーションで彩られる街並み、そこかしこで流れる定番のクリスマスソング。それらの相乗効果によって、私たちは特別な日の訪れを認識せざるを得ない。熱烈な信仰心を持たない大多数にとっては、平凡な日常から一時的に脱却するための体のいい口実だ。
そうやって周囲がにわかに色めき立てば、人工的に作り上げられた期間限定の幻想世界に、無関係を装う者たちも否応なしに巻き込まれていくのである。


私もまた、街の装いの変化にクリスマスの近づきを感じる一人だった。クリスマスカラーで飾られたショーウィンドウのマネキンを指差してプレゼントをねだるカップルが、視界の隅に入る。
「もうすぐクリスマスだね」
目的地のショッピングモールへの向かう道中で、私は感嘆の声を上げる。
360度どこを見渡してもクリスマスの展示が目に入る状況で、話題にしないのはむしろ不自然と言えるだろう。しかし意図的ではなかったにも関わらず、カラ松くんの体がぴくりと揺れた。
「そ、そうだな」
声が上擦っている。
街へ出た時からそわそわして落ち着かない様子だったが、実に分かりやすい動揺だ。
「クリスマス…それはラバーズたちがこぞって街を闊歩する一夜限りのスペシャルデイ。寒空の下で寄り添い語り合う男と女、か。フッ、実にロマンチックだな」
抑揚をつけて高らかに語るカラ松くん。確かにその通りで意義はないが、如何せん言い方が腹立つ

例に漏れずカラ松節はスルーしていたら、素に戻ったカラ松くんが私に尋ねる。
「ユーリは…クリスマスどうするんだ?」
「仕事だよ」
「仕事?」
「今年は24も25も平日でしょ?だからいつも通り夕方まで仕事」
年末の一大イベントだからといって帰宅時間が早まるわけでもない、拘束時間は平常通りだ。むしろ、クリスマスを漫喫するために事前に有給休暇を取得している仲間をフォローするため、普段よりも業務に追われる可能性の方が高い。リア充は爆発すればいいと思うよ。
だが私の回答は彼の望んだものではなかったらしい。カラ松くんは、緩やかに首を振った。
「そうじゃなくてだな、ほら、あるだろ…だ、誰と過ごす…とか」
「あー、実家にも帰らないし、年末だから残業かも。そういう意味では職場の人と過ごす感じかな」
事実を述べただけなのに、どこか自虐的な響きを伴っているようにも感じられた。
「カラ松くんは?」
「オレ?オレは──」
「去年はおそ松くんたちと家の中で荒れてたって聞いたよ」
私が言うや否や、カラ松くんは遠い目で失笑する。
「それは毎年だ」
マジか。
「あれは、クリスマスというカップルがはびこる世界から目を逸らす集団現実逃避の儀式だからな」
殺伐としすぎだろ。
「ただ、今年は、その…」
「今年は違うの?」
「え、あ、いや…」
唇に拳を近づけてカラ松くんは言い淀む。
「まぁ、下手に外出してリア充の幸せ爆撃食らうよりは、家にいる方が心の平穏にはいいかもね。
仕事納め終わったら私も冬休みだし、年末はいっぱい遊ぼうよ」

言い訳をさせてもらうなら、この時の私は年末が近づくにつれて差し迫る締切や業務に追われることが増えたせいで、俯瞰して物事を見る余裕がなかったのかもしれない。
だから、そうだな、と答えるカラ松くんの微笑みが少し寂しげだったことはおろか、声音に張りがなかったことにさえ、気付かなかった。早く休みになってほしい、その願望で頭がいっぱいで、私は完全にクリスマスから蚊帳の外だったのだ。
もしかしてクリスマスデートに誘おうとしていたのではと察したのは、その後松野家に着いてからだった。




「ね、ユーリちゃん、クリスマスパーティしない?」
二階の六つ子の部屋に着くなり、笑顔のトド松くんから提案される。室内では六つ子たちが思い思いに暇を潰していた。
畳の上に腰を下ろしながら反射的にカラ松くんを一瞥すれば、彼は面白くなさそうに口をへの字に結んでいる。
「お誘いは嬉しいけど難しいかも」
「何か予定入ってるの?…あ、ひょっとしてカラ松兄さんとデートぉ?」
スマホの先端を唇に当てながらトド松くんは訳知り顔でニヤリとする。からかうような言い草と不自然に語尾を上げる口調は、数名の殺気立った視線をカラ松くんに集中させた。突然睨まれた本人はギョッとして身構える。
「違うよ。仕事納めが近いから今の時期忙しくて、残業になる可能性が高いんだよね」
「…ふーん」
私の返事に納得したかは定かではないが、トド松くんは意味深に微笑んでカラ松くんを見る。
「だったらならなおさら、パーッとやろうよ。
25日は金曜でしょ?遅くなってもいいからケーキ肴にして飲もう。何ならボク、仕事終わり駅まで迎えに行くよ」
末弟の誘いを受けて、私は内心ハッとする。
道中、クリスマスの予定を尋ねるカラ松くんが言葉を詰まらせていた理由にようやく思い当たったのだ。あの時、私は彼の言葉を遮って上から被せた。カラ松くんの心境を先回りして口にしたつもりだったのだけれど、牽制と受け取られたかもしれない。
クリスマスには決して誘ってくれるなよ、と。
「私は──」
最適解はどれだ。

「あ、ユーリちゃん来るならさ、トト子ちゃんも誘う?」
返事を待たず、おそ松くんが前のめりになる。しかしすぐさまチョロ松くんが両手をクロスさせて大きくバツを作った。
「駄目。トト子ちゃんからは既に数日前に、クリスマスに来たらミンチにするぞと先制されてる
トト子様さすがお強い。
「僅かな期待もさせないのは、伊達に毎年のルーティンこなしてない。徹底してるよね」
「つれない冷めた態度が、一層推せる」
十四松くんと一松くんがうっとりと頬を染める。幸せだなお前ら。
「例年通りコスプレする?ユーリちゃん用にはミニスカサンタコスあるよ」
「てかプレゼント交換じゃね?生き残った奴がユーリちゃんのプレゼント獲得できる争奪戦」
「えーいいのー?ぼく兄さんたち余裕で殺っちゃうよ~」
わいわいと盛り上がり始める六つ子たち。ここで辞退を申し出るのは、彼らの期待に水を差すようで躊躇われた。

ふと目を向けた先で、カラ松くんと目が合った。私は無言で苦笑して、トド松くんに向き直る。
「会社帰りにケーキ買ってくるよ」
実質のイエス。
私は自分の選択が全て正解だとは思わないし、そこまで自惚れてもいない。万一、己の取捨選択によって状況悪化を招く結果になったなら、早急に軌道修正すればいいだけの話だ──そう、思うことにした。


クリスマスパーティ──という名のおそらくは宅飲み──の予定を決めてから松野家に暇を告げるまでの数時間、カラ松くんの顔には落胆の色がずっと浮かんでいた。懸命に取り繕って笑みを作ってはいたが、おそらくは全員が察していたに違いない。釈然としない思いを飲み込まれるくらいなら、いっそ真正面から苛立ちを向けられた方がどれだけ楽だろう。
「カラ松くん」
パーティ参加の返事は、おそらくとどめだったのだ。
「うん?」
松野家を訪ねる前の段階で、修正すべき事案だった。
「ケーキ、どういうのが食べたい?」
「ケーキ?…ああ、クリスマスのケーキか。オレは別に、何でも構わないぞ」
「みんなはどうかな?好きなケーキの種類ある?」
カラ松くんは思案する素振りをしたが、すぐに首を傾げた。
「さぁ、どうだろうな。トッティはオシャレなのが好みなようだが、ブラザーたちは食べられれば何でもいいんじゃないか?」
ユーリに任せる、と。
「そっかぁ、悩むなぁ」
眉間に皺を寄せて唸れば、自然とカラ松くんの目線は私に向く。そこがチャンスです奥さん。

「私一人じゃ決められないから、カラ松くん当日一緒に買いに行かない?」

ストレートは放たない。外角高めからストライクゾーンに入れる。
「え」
案の定、カラ松くんは目を瞠った。
「仕事、前倒しで早く終わらせるから」
持ちかけたのは、秘密の共有だ。おそ松くんたちには内緒で、こっそり二人だけで過ごす時間を作ろうという。
私の思惑は功を奏し、カラ松くんの顔がぱぁっと明るくなる。
「ほ、本当か、ユーリ…っ!?」
だがそう言ってから彼はすぐさま我に返り、腕を組んで悩ましげなポーズを取った。
「フッ、聖なる夜に僅かな時間でもオレと二人きりになりたいなんて、ハニーも可愛いおねだりをするようになったじゃないか。
いいだろう、ユーリがそこまで言うなら、25日は職場近くまで迎えに行こう」
致し方なしという空気を漂わせてカラ松くんは了承する。その解釈には少々異議を唱えたいところだが、カラ松くんの機嫌が直ったなら良しとしよう。
「このオレとクリスマスナイトを過ごせる幸運なレディとして、周りに自慢してくれていいんだぜ?」
やっぱり一発殴ってもいいだろうか。




それから数日が経過して、スマホに表示される日付は12月24日。時刻は、逢魔が時をいくら過ぎた頃である。
私はおもむろに鞄からスマホを出して、電話をかけた。
「はい、松野です」
女性の声で応答がある。松代おばさんだ。対応者が六つ子でないのはラッキーだった。
「こんばんは、有栖川です」
「あらユーリちゃん、こんばんは」
「カラ松くんお願いできますか?」
クリスマスイヴの夜に異性からの電話、その事実が彼女の中でどう解釈されたのかは知る由もないが、あらあらといつになく甲高い声が返ってきた。
「そう、ユーリちゃん…そっか、そうなのねぇ、全部理解したわ
まだ何も言ってない。
「あの、おばさん…」
「ちょっと待ってて、すぐ呼ぶから───カラ松ー!」
受話器の口を押さえたのか、おばさんの声はくぐもったものになった。しかし二階にいるらしい彼を呼ぶために発する声量のため、内容は問題なく聞き取れる。

「電話よー。名前何て言ったかしら、ほら、バンド仲間の人!」

松代、そこは気を利かせるな。
電話に出た相手がおばさんでラッキーだったと先程述べたが、撤回しよう
空いている片手で私は文字通り頭を抱える。スピーカーからは、ドタドタと階段を下りてくる足音。
「もしもし?」
「こんばんは」
電話の向こう側は、え、と小さく呟いたきりしばし無音になる。
「ま、待ってくれ、何で……ユーリ?」
「そう、驚いた?」
自然と笑い声が出た。仕掛けたドッキリが成功したみたいな達成感が胸にじわりと広がる。
「驚くも何も…だって、会うのは明日だ、って…」
「うん、まぁ約束はそうだったよね」
でも、と区切って。
「近くにいるから、少し会えないかな、と思ってさ」
「近くって?」
「結構近くだよ」
「いや、だからユーリ、具体的な場所を」
「すぐ近く」
「──まさか」

松野家の玄関が勢いよく開かれて、驚愕に目を見開くカラ松くん──もとい、血糊まみれの青いサンタが現れた

想定外の絵面にギョッとして、危うくスマホを地面に落としかけた。何やっとんねんというツッコミもままならない。
「ち、ちょっと待っててくれっ」
「あ、結構です」
「ウェイトウェイト!ここは素直に待つところだろ!話の流れ!
本当に結構です。


攻防の末、私は松野家玄関前の木製ベンチに腰かけてカラ松くんを待った。彼が着替えに要した時間は十分ほどだっただろうか、息を切らして私の元へと駆けてくる。
「…すまんっ、ハニー、待たせた」
白いタートルネックのセーターにデニム、アウターにネイビーのモッズコート。背中にはボディバッグを掛けている。デート寄りの出で立ちだが、バンド仲間と会う名目だからか心なしか控えめだ。
「メリークリスマス、カラ松くん」
私は笑いながら立ち上がる。
「ユーリ、どうして…仕事は?」
「頑張って早く終わらせてきた。大変だったよー、お昼休憩返上したんだから」
「会うのは明日、だったよな?」
理由を聞きたい、そんな顔だ。うん、と私は頷く。

「私が会いたかったから、来ちゃった」

率直に告げれば、カラ松くんは言葉を失った。
私自身昨日までは、明日のパーティ前に一時間でも共に過ごせれば十分だと思っていた。でも今朝起きて、ニュース番組でクリスマスに賑わう街の映像を見た時に、無性に会いたくなったのだ。推しとの冬限定イベントをこなさずして年は越せない。
「ハニー…っ」
しばし呆気に取られた後、カラ松くんの顔が一瞬で朱に染まる。
「…それはオレの台詞だぞ、ユーリ」
「そう?」
「断られるのが怖くて、言い出せなかったんだが──」
彼の葛藤を物語る、そんな前置きがあって。

「クリスマスは、二人だけで会いたかった。
今夜と明日のクリスマスに、ユーリの隣は誰にも渡したくない」

緊張感を伴いながらも、語気を強めて言い放たれる。ときどき言動や所作に見え隠れする独占欲が、今は躊躇いなく私へと向けられている。
「だから、ええと…仕切り直させてくれないか?」
「うん、いいよ」
改めて向かい合う。まるでプロポーズを待つみたいで、無意識に姿勢を正す。

「世界中の誰よりも麗しいマイハニー。どうかこの松野カラ松と、今夜のクリスマスイヴを共に過ごしてはくれないか?」

相変わらず大袈裟な言い方だ。けれどどこまでも真剣な眼差しと共に差し伸べられる手は、微かに震えているようにも見えた。
大きくて筋張ったカラ松くんの手に、私は目を向ける。いつも私を守ろうとする、優しい手だ。
「──もちろん」
その手を取って、私は彼の傍らに並ぶ。
重ねた手を一旦離すと、カラ松くんの体がぴくりと揺れた。しかしそれからすぐに私から指を絡めたら、その瞬間彼は目を剥いたが、今度こそ力強く握り返してくる。
クリスマスは宗教的意味合いを除けば、大衆が作り上げたイベントに過ぎない。奇跡も福音もなく、消費と駆け引きが渦巻く経済社会があるのみ。
しかしそうやって理屈をこねくり回して部外者を気取るくらいなら、多数派と共にクリスマスを漫喫する方が有意義かもしれないと、私は思うのだ。




それから私たちが向かったのは、有名ブランド店や商業施設が立ち並ぶ活気のあるビジネス街だ。道路を囲む全長数キロに渡る街路樹が、イルミネーションライトに彩られて色とりどりの光を放つ。所々に設置されたギフトボックス型のライトが、クリスマスらしさを一層演出している。
「さすがに賑わってるな」
クリスマスイヴだけあってイルミネーションを鑑賞する人出は多く、カップルたちが仲睦まじく寄り添う姿も目立つ。
「ユーリ、はぐれないように気を──あ、そうか、今日は大丈夫だな」
絡めた指を一瞥して、カラ松くんは照れくさそうな笑みを浮かべた。尊い。
「今日は屋台も出てるみたいだから、晩ご飯代わりに食べ歩きしない?」
「いいな、そうするか」
出店している屋台も、いわゆる夏祭りでよく見かける類ではなく、ピザやバーガー、アルコールといったクリスマスにちなんだキッチンカーが目立つ。

ひとまず食べ歩き定番のフライドポテトを購入して、つまみながら街路樹が並ぶ通りを歩く。
困ったのは、カラ松くんの両手が塞がってしまったことだ。片手でポテトのカップを持ち、もう片手は私の手を離そうとしない。
「ねぇカラ松くん、一回手離した方がよくない?」
「よくない。オレの分は気にしなくていいから、ユーリは好きなだけ食べてくれ」
「そうもいかないでしょ」
仕方なく、カップからつまんだポテトを彼の口へ運ぶ。
「旨い」
そりゃな。あれ、もしかしてわざとなのか?突如として当推しに策士疑惑が浮上

「クリスマスイヴって、クリスマスの前夜って意味じゃないんだってね」
屋台で購入したドリンクのカップで口を湿らせて、私は言う。
「しかし24日の夜のことなんだろ?」
そう、その認識が日本では一般的だ。
「うん。24日の夜…つまり今夜がイヴなのはある意味ではその通りなんだけど、クリスマスイヴっていうのは──『クリスマス当日の夜』のことなんだよ」
カラ松くんは眉をひそめて怪訝そうな顔をする。
「分かりにくいね、ごめんごめん。
教会暦っていうキリスト教の暦があってね、教会暦では日没が過ぎたら日付が変わるの。そう考えると、今はもう25日ってこと」
「ということは25日の夜…ああ、だからクリスマス当日の夜なのか」
合点がいったカラ松くんは顔を綻ばせる。
そしておそらくは、私が今日彼に会いに行った理由に思い当たったのだろう、みるみるうちに目が瞠られていく。
「なぁ、ユーリ…もし、もしオレの勘違いだったら、すぐに言ってほしいんだが…」
クリスマスパーティの約束は明日の夜。私たちがクリスマスと呼ぶ日の夜間だ。しかし教会暦に基づけば、明日の日没後はつまり───

「ユーリは、クリスマスにオレに会うために来てくれたのか?」

おかしな表現だと思う。キリスト教を重んじているわけでも、イエス・キリストの降誕を祝うわけでもない、ただ世間の波に便乗するだけだというのに。
暦の解釈次第では明日の夜がクリスマスではなくなってしまう。その事実を知らなければ、こうして今夜彼のもとに馳せ参じることもなかった。
「実は私も今朝ニュースで知ったばっかりで、そういうのこだわらなくてもいいかなとは思ったんだけど、過ぎてから後悔するのは嫌だったんだよね」
やらずに後悔するよりは、やって後悔したい。
「ハニー…っ、そうまでしてクリスマスにオレに会いたかったというんだな!フッ、十分伝わったぜ、ハニーの想い」
モテる男は辛いぜ、なんて悩ましげに前髪を横に払ってから、いや、と声のトーンを落とした。
「早い段階でユーリとクリスマスを過ごすことを諦めていたから、正直まだ少し戸惑ってる。これが夢なら…永遠に目覚めないでくれと思うくらいに」
そして遠い目をするから、私は冷たいアルコールの注がれたカップをカラ松くんの頬に当てる。わ、と驚く声が上がった。
「現実だよ」
「…ああ、うん…すまん。本物のキュートなユーリがこうして目の前にいるのに、ドリーム扱いは失礼だな」
私の手を握る指に、心なしか力がこもる。まるで私の存在を確かめるように。


「だからプレゼントは用意できてないんだよね、ごめんね」
罪悪感なく推しへ課金するチャンスをみすみす逃したのは痛手だったが、タイムリミットは短く、取捨選択せざるを得ない状況だった。その点においては最善を尽くしたと自負しているし、後悔もしていない。
私の謝罪を受けて、カラ松くんはゆっくりと目を細めて首を振った。
「もう貰った」
「…え?」

「仕事で疲れてるのにオレに会いに来てくれた。イヴを二人で過ごす権利をくれた。オレにとっては十分すぎるくらいのプレゼントだ」

どこからともなくジングルベルの音色が聞こえてくる。きらびやかなイルミネーションと心地よいBGMとすれ違う人々の気配が溶け合って、別世界に迷い込んだような感覚に陥りそうになる。
「今この一分一秒でさえ、ユーリからプレゼントを貰い続けているんだぞ。それ以上望むのはバチが当たるんじゃないか?」
天然タラシスキルが怒涛の勢いでレベルアップしている。

「100点満点中200点の回答です」
「日本語がおかしいぞハニー」
誰かこれまでの一連のイケボトークを過去に遡って録音してきてくれ。何なのもう、本当何なの。語彙力も旅に出て帰ってこない。




ケヤキ並木のイルミネーションを歩いて、屋台で小腹を満たして、私の家へと向かう帰り道。私たちは最後まで互いの手を離さなかった。
財布を出すときなどは一瞬離れたりすることはあったものの、並んで歩き出す際にはどちらともなく手を伸ばして、傍目にはきっと恋人同士に見えたことだろう。
聖夜を彩る眩い光たちに祈る。私の大切な人がこれから先、後悔しない道へ進めますように。

「送ってくれてありがとう。中でお茶でも、と言いたいところだけど」
玄関の鍵を開けて、私はカラ松くんに向き直る。
昼休み返上して半ば強引に定時上がりを実行した上、明日に回せる仕事は後回しにしてきたのだ。今夜は体力を温存して明日に臨む必要がある。それに、明日また会うのだから。
「明日は仕事が終わったら連絡くれ。迎えに行く」
「うん。当日でも買えそうなケーキ屋さんピックアップしておくよ。明日は明日で楽しみだね」
「ブラザーたちは現実逃避に飲みたいだけだから、適当でいいぞ。どうせ翌日には味なんて覚えてないんだ、ケーキを選ぶユーリの時間がもったいない」
去年まで当事者だった側の台詞には説得力がある。
「分かんないよ。一応異性が一人交じるわけだし、楽しいクリスマスパーティになるかも」
可能性は限りなく低い、いわゆる微レ存ではあるけれど。異分子の闖入による変化への期待は捨てきれない。
「ハニーが楽しいなら構わないが、飲み潰れないようにするんだぞ」
「その台詞そっくり返す」
いつも真っ先にべろんべろんになってるのはどこのどいつだ。

会話が途切れると共に静寂が訪れて、別れを告げるために口を開こうとした、その時。
「あ、そうだ、ユーリ、これ…」
カラ松くんは肩から下げていたバッグを下ろして、鞄の中を漁る。

彼が取り出したのは──クリスマスデザインの包装紙に包まれた小箱だった。

手のひらサイズの箱を、躊躇いがちに手渡される。
「すまん、渡すタイミングが掴めなくて…」
苦笑しながら指先で自分の頬を掻くカラ松くんに、どんな言葉を返せばいいのか咄嗟に判断ができなかった。
彼はニートで安定した収入がなくて、クリスマスに誘ったのは私で、しかもその誘いだって何の前触れもない突然のことだったのに。
どうして、という無粋な問いが口から漏れそうになる。
「私が貰っていいの?」
「ユーリのために選んだんだ」
「開けていい?」
互いに視線が私の手のひらへと向く。視線を重ねるのは、何となく気恥ずかしい気がして。
「もちろん!…と言いたいところだが…何かアレだな、緊張するな」
けれど白い歯を覗かせてカラ松くんが笑うから、私の顔は自然と上向いた。
小箱を包むのは、トナカイが引くソリに乗ったサンタが夜空を駆ける可愛らしいイラストが描かれた包装紙。乱暴に破るのはもったいなくて、爪でテープを剥がしながら時間をかけて丁寧に解いていく。

中身は──有名ブランドのクリスマス限定リップ。

マット仕上げのシンプルなシルバーケースで、キャップにブランドのロゴが刻印されている。直営店のみの限定販売だと、クリスマスコスメを特集した雑誌で読んだことがある。
どんな顔をして、買いに行ってくれたのだろう。どんな想いで、これを選んでくれたのだろう。

「メリークリスマス、ユーリ」

そして駄目押し。
尊いという表現さえ吹っ飛んで、私の胸に去来するのは、もはや無だ尊さのビックバン通り越してブラックホールができた。明日の朝私が息してなかったら、死因は間違いなく『推しの尊さ臨界点超え』だ。
私はプレゼントを胸に抱える。
「ありがとうカラ松くん、すっごく嬉しい!大事にするし、来年は絶対抱くね!
「最後の一言!」
「絶対抱く!」
「繰り返すなっ」
うちの推しは軽率にイケメンになるから油断できないが、そこがまた推せるので永遠に堂々巡りだ。
そう、これが沼。




松野家に持っていくのは、定番のショートケーキにすることにした。中央に鎮座した砂糖菓子のサンタクロースとチョコのプレートを、鮮やかな色のいちごとブルーベリーが囲んでいる。支払いは六つ子へのクリスマスプレゼントとして全額負担するつもりだったのに、松代おばさんから預かったというケーキ代で賄われてしまった。
「厳密にはもうクリスマスは終わってしまっているかもしれないが…」
日没もとうに過ぎた25日の夜、ケーキの箱を片手に下げてカラ松くんはポツリと溢す。
「こうしてユーリとケーキを買うだけでも、クリスマスを二人で過ごしているんだなという感じがするな」
熱を帯びた視線を向けられる。
「…いいクリスマスだった」
思いを馳せるように呟かれるから、私は微笑んで頷いた。そうだね、という言葉と共に。

「あれ、ユーリちゃん、そのリップの色初めてだよね?すっごく似合ってるよ」
松野家にてケーキを受け取ったトド松くんが、私の唇をじっと見つめて笑顔になった。異性の変化に対する鋭い観察眼はさすがだ。
「ありがと、よく分かったね。これ、私もお気に入りだから誉めてくれて嬉しい」
「そりゃ分かるよ、ユーリちゃんのことだもん。女の子の色付きリップって可愛いよね」
冷蔵庫に入れてくるねと、彼はその後すぐにキッチンへ小走りで向かっていく。おそ松くんたちは既に二階の自室で宴を始めて出来上がっているらしい。相変わらずグダグダである。
何気なくカラ松くんを見れば、彼もまた私に視線を向けていた。
「さすがにトッティは気付いたか」
「そういうの敏感だよね、トド松くん」
「オレがハニーのために時間をかけて選び抜いたんだからな。似合っているのは当然だ」
でも、と彼は声を潜める。

「その経緯はオレとユーリだけの秘密でいい。だろ?」

自分の口に人差し指を当てて、いたずらっぽくウインクしてみせるカラ松くん。
兄弟に知られたところでカラ松くんの命が危ぶまれる程度で大きな弊害があるわけではないし、隠し立てをするつもりもない。理由を問われれば私たちはこう答えるだろう、何となく、と。

ホールケーキにさした七本のロウソクに火をつけて、全員で一気に吹き消した。各自が頭に載せたサンタの帽子が、申し訳程度にクリスマスの雰囲気を醸し出す。
「メリークリスマス!」
缶ビールを掲げた乾杯の音頭が、宴の第二幕の始まりを告げる。
切り分けたケーキを皿に移して思い思いに口に放り込めば、消えていくのはあっという間だ。それからはサラミやポテトチップスが床に広がり、クリスマスパーティは一瞬でただの飲み会へと変貌する。

「っていうか、カラ松はいいの?」
二杯目の缶ビールをあおって、チョロ松くんがカラ松くんに尋ねる。彼の隣で胡座をかいていた彼は、問われた意味を察せずに首を傾げた。
「何がだ?」
「何がって…クリスマスだよ?お前、ユーリちゃんと過ごしたかったんじゃないの?」
他の四人が、そういえば、とばかりに顔を上げてカラ松くんを見やる。

「ん?昨日の夜にユーリと過ごしたぞ」

「はぁっ!?」
声を揃えて目を剥く五人。
「ブラザーたちには言ってなかったか。夜に出掛けただろ?その時にイルミネーションを見に行ってきたんだ」
「綺麗だったよねぇ」
混雑はしていたが、行った甲斐はあった。人工的な明かりの集合体といえど、見目の美しさと幻想的な雰囲気は多くの人を惹き付ける。
「何を言うんだ、ユーリの美しさに敵うものはないぞ。ハニーイズビューティフル」
噛みしめるように呟いたカラ松くんは、直後殺意剥き出しの一松くんに胸ぐらを掴み上げられることとなる。六つ子の地雷踏んだ。
「おいこらテメークソ松、何で昨日何も言わなかったんだ!」
「え、聞かなかっただろ?」
訊かれなかったから答えなかった。うん、明快な回答だ。何も間違ってはいない。
ただ、兄弟間の童貞ならではの足枷じみた結束や濃密な関係性といった、いわゆるクソ面倒くさい気遣いはある程度必要である、というのが彼らの主張だ。とどのつまりは、抜け駆けすんな、ということ。
「違うだろカラ松!そうじゃないんだって!何でお前もトド松も、ちょうどいいいラインってのが分っかんないかなぁッ」
空になったビール缶を畳に叩きつけて、おそ松くんが咆哮する。
「だってさ、バンド仲間からの電話直後に出ていったら、相手はバンド仲間だと思うじゃん!ヤロー同士で慰め合う会へのお誘いだと確信するじゃん!
いつの間にユーリちゃんとコンタクト取ったの!?」
「あの電話の相手がユーリだった」
「松代ー!」
崩れ落ちる五人。

「ユダは俺たちのすぐ側にいた!」

その後は例に漏れず、私とカラ松くんの間に何もなかった、を証明するための無意味な尋問が開催され、クリスマスパーティとは名ばかりの宴は終電間際まで続くのだった。