S寄り次男と優しいデートを

今日のカラ松くんは優しい。

否、彼はデフォルトの状態で私に対しては温厚で思いやりがあるので、そう表現するのは厳密には語弊がある。正確を期すると、今日は一段と優しい。異性に対して紳士であろうとする範疇を超えて、王族にかしずく従者の如き忠誠心さえ垣間見える。
なぜか。その理由を私が知るのは、少し先のことだ。




駅のロータリー前で待ち合わせだった。多くの場合カラ松くんが先に現地で待っていて、約束の数分前に私が到着するのがお決まりの流れになっている。
それが今日に限って、私の乗る電車が踏切の点検による緊急停車で、大幅な遅延が発生した。つまり、約束の時間に辿り着けなくなったのだ。
カラ松くんは携帯を持っていないから、不測の事態に連絡する手段がない。車内で待機させられた数十分は、居ても立っても居られないほどに業を煮やした。

私が駆けつけた時──カラ松くんは、約束の場所にいた。

建物の壁に寄りかかり、両手をアウターのポケットに突っ込んだ姿で。紺のモッズコートに細身の黒いデニム、足元はベージュのエンジニアブーツ。完全に一軍の様相を呈している。
地面に目線を落とした憂い顔には、チラチラと好意的な視線を向ける女性もいるのに、彼はまるで気付かない。
私が調教したセンスの服に身を包むうちの推しを、君も存分に推してくれてええんやでと私は誇らしい気持ちになる。

「ユーリ!」
声をかけようしとた矢先に、視線を上げたカラ松くんが私を呼ぶ。当推しは本日も笑顔が眩しい。
「お待たせっ、遅くなってごめんね!点検で電車が遅れちゃって」
駅のホームからロータリーまでの短い距離を走っただけで、少し息が切れた。口から吸い込む空気が冷たい。
「ユーリが無事なら構わない。体は冷えてないか?レディは体を冷やしてはいけないんだぞ」
「私は大丈夫。むしろカラ松くんの方が待ちぼうけで冷えてるよね。
とりあえず、カフェ入らない?遅れたお詫びに何か奢る」
建物の中にも入らず、吹きさらしの屋外で半時間以上も待っていてくれたのだ。カラ松くんに風邪を引かせるわけにはいかない。
けれど彼は穏やかな笑みをたたえたまま、緩くかぶりを振った。
「平気だ」
「でも…」
「ユーリがオレとの約束を守るために、こうして急いでくれた。それだけでいい」
今日は攻めてくるなぁ。
被せて辞退されると、それ以上強引に誘うのは憚られる。かといって平然と割り切れるほど図太くもない。そんな私の複雑な胸中は、きっと顔にも出ていたに違いない。
「ああ、しかし──」
私の葛藤を察したのかどうかは分からないが、カラ松くんが私の頬に触れる。

「ユーリの頬が冷たくなってしまってるのは、いけないな」

スパダリの降臨か?


駅から徒歩数分のカフェに向かう道中、強風にあおられて髪やスカートを慌てて手で押さえる女性たちを幾人も見かけた。緩やかなウェーブの髪は乱れ、薄い生地のロングスカートは舞い上がろうとする。
そんなに風が強いのかと、彼女たちを見て私は初めて気付く。私の髪もコートも穏やかな風を受けるばかりで、寒さもさほど感じなかったからだ。
しかし局地的強風でもなかろうと横に手を伸ばしたら、勢いよく空気が流れていく。風は──前から吹き付けてくる。

そして私のすぐ前方には、カラ松くん。

まるで壁だ、と私は思う。今日は珍しく隣に立たないことを不思議に思っていたが、そういうことか。
「カラ松くん、風が…」
「ん?」
振り向いたカラ松くんの前髪は後ろに撫で付けられている。鼻は赤い。
「…ううん、何でもない」
気付いたことを告げるのはきっと、野暮なのだろう。私は首を振って、薄く微笑んだ。




「今日は何か、いいことあった?」
暖房の効いたカフェの店内で上着を脱ぎながら、私は雑談のように問う。
一人がけのソファが向かい合わせに設置されたテーブル席、カラ松くんは私の問いかけに目をぱちくりさせながらコートを脱いだ。インナーはVネックの薄手ニット、程よい鎖骨の露出が罪深い。さらに座りながらニットの袖を捲り、無骨な手首を見せてくるのはもはやフェロモンの暴力
「いや、いつもと変わらないが」
「そう?」
それにしては機嫌がいいように見受けられるのだが、私の勘違いなのか。
メニューを開いたら、季節のオススメというタイトルと共に温かい飲み物の一覧が目に飛び込んでくる。冷たいドリンクは選択肢から自然と外すようになってきた。自分の行動の変化にも、冬の到来を感じる。
「それより、今日はどうする?行きたい場所があれば、どこにでも連れて行くぞ」
コーヒーを二人分注文し、店員が去った頃にカラ松くんがにこやかに言った。
「うーん、そうだなぁ」
私は軽く腕を組んで考えを巡らす。行き先や目的を決めないままの待ち合わせだったのだ。
最近は、今回のような比較的軽いノリでカラ松くんと会うことも増えた。とりあえず会ってから考えよう、何もしなくてもそれはそれで楽しいのだから、と。
「行きたい場所っていうか、やってみたいことはあるかな。カラ松くんにお願いをすることになるんだけど」
お願いの言葉に、カラ松くんは目を輝かせた。
「オレにおねだりか…フーン、ノープロブレムだぜハニー。ユーリが望むことはどんなことでも、ランプの精のように鮮やかに叶えてみせようじゃないか!さぁ、遠慮なく言ってみるんだ」
両手を広げる大仰な仕草で、カラ松くんは歓迎の意思を示す。
「どんなことでもいいの?」
「もちろんだとも!胸が高鳴るロマンチックなデートでも、大人の雰囲気漂うアダルティなデートでも構わないぜ!」
言質を取った。

「おそ松くんに向けるような口調と態度で、今日は接してほしいな」

「ほぅ、おそ松に向けるような───んんッ!?
顎に手を当てたポーズのまま硬直するカラ松くん。
「な、何を言い出すんだ、ユーリっ!オレの態度が不満なのか!?」
彼の動揺が振動となってテーブルに伝わる。店員が運んできた湯気の立つカップとソーサーが、ガチャリと音を立てて揺れた。
「そうじゃないよ。私の言い方が悪かったかな、ごめんね。
カラ松くんが気を使ってくれてるのは嬉しいし、私にとってはそれが自然なんだけど──たまには雄みのある推しを存分に眺めてみたい日もあるじゃない?
「ユーリだけじゃないか、それ?」
カラ松くんは呆れたように背もたれにより掛かる。ああそれだ、そのジト目、いい
通常運行でサドっ気要素を振り撒かれたら、私も負けじと応戦して壮絶な地位争奪戦になるのは目に見えているが、たまに逆転する分には新鮮でいいスパイスになる。
「だからお願いしてるの。こんなツンとしてるけど、普段は私に組み敷かれて赤面するくらいエロいんだぜってギャップを味わいたい!
「そういう願望はせめてオブラートに包んで発言してくれ」
「いつの時代もギャップ萌えは鉄板!」
「…それがおそ松へ向けた態度だと?」
「うん!ぜーんぜん違うでしょ。あれはあれでほんと美味しいっていうか、おそ松くんさまさまっていうか、トップオブ眼福
一軍さながらの服に袖を通した私目線でイケてる推しが、普段とは真逆の、見ようによっては突き放した態度で接してくる。つまり、ジト目と低音イケボが見放題聞き放題
その魅力を教えてくれたクソ長男万歳
私の引き下がらない情熱を感じたのか、カラ松くんはテーブルの上で両手を組み、眉根を寄せた。
「…結構辛辣でもいいのか?」
「バッチコイ」
十四松の真似は止めろ。ということは、要は…ハニーをおそ松のように思えばいいんだな?」
長い息を吐き出して、カラ松くんはコーヒーのコーヒーカップに口をつけた。観念した、そんな雰囲気が漂う。
「分かってくれた?理解が早くて助かるよ」
「ここを出る時から努力はしてみる」
私の笑顔とは裏腹にカラ松くんは当初こそ渋々といった体だったが、やがて「よし」と意気込むように小さく呟いて、両手を握りしめた。
舞台の幕は、上がった。




それからコーヒーを嗜みつつ雑談している間は、普段通りのカラ松くんだった。穏やかで、時に大仰な言動で気取ってみせたり、時に眉を下げて相好を崩したり、気取った仕草で私に呆れられたりもして。先程の約束が幻にさえ感じられた。
カップの中身が空になり、今後の予定が大まかに決まったところで、カラ松くんが上着を手に取る。
「ハニー、そろそろ行くか?」
「あ、ちょっと待って」
私は片手を伸ばして彼を制する。何気なく目をやったメニュー表に、心惹かれる写真が載っていたためだ。
「今月限定のスイーツだって。えー、これ見逃してた。ほら見てよ、美味しそうじゃない?」
嬉々としてカラ松くんの眼前にメニューを突きつける。
ざっくりとした予定は決めたが、別段急ぐ必要もないし、臨機応変に変更しても双方に差し支えはないのだ。追加でスイーツを注文したところで、今後に支障は出ない。そう判断しての提案だったが───

「太るぞ」

カラ松くんから投げられた言葉は、手厳しいものだった。出だしからいい攻撃するじゃないか。
「カラ松くんには関係ないでしよ」
メニューで口元を隠しながら、私はニヤリとほくそ笑む。
「関係ある。隣を歩くオレの身にもなれ」
たまらねぇ。
鋭い眼差しを向けながらの切り捨てるような痛烈な物言い、実に素晴らしいカウンター。期待通りだ。
「んー、分かった、今回は我慢する。行こっか」
小手調べは上々だ。私は満足げな笑みを浮かべて、柔らかなソファから立ち上がった。


会計を済ませて外へ出ると、冷たい風が容赦なく吹き付ける中、カラ松くんが私の前に立った。
「ん」
短い言葉と共に、何かを促すように手を出してくる。意味が分からなくて首を傾げれば、彼は手のひらを一層広げた。
「荷物」
単語で会話、何というクールガイ!
これもうツンデレキャラじゃねぇか、いやでもこれはこれで美味しいです。私は目頭を押さえる。
「じゃあ任せちゃう、ありがと」
礼を言いながらショルダーバッグを手渡すと、カラ松くんは、あ、と声を出す。
「…こ、こんな感じでいいのか?」
不安げに上目遣いで私を見やる。
唐突に素に戻るのは止めていただきたい。真正面から痛恨の一撃を食らってしまった。これこそギャップ萌えの真髄。わざとか、わざとなのかこれは。
とりあえず私は無言で親指を立てた。




「でね、この赤いカーディガンが可愛くてさぁ。原色に近いからクリスマスカラーにもなるし、ちょっと高いけど奮発しようかなぁって悩んでるんだ。カラ松くんはどう思う?」
とりとめもなく語り合う他愛もない話で、冬のファッションに話題が移った。欲しい服があるのだが、手を出すには抵抗のある高価格帯で、参考までにカラ松くんの意見を伺おうと思ったのだ。スマホでブランドサイトの画像を表示して、画面を見せる。
「止めておけ」
一刀両断で切り捨てられた。カラ松くんの返事はにべもない。
「似合わなさそう?」
「そうじゃない、形はいいしユーリのスタイルには合うだろう。ただ、赤は駄目だ。青でいいじゃないか」
「青いのは、似たようなのもう持ってるんだよ」
「…だったら、もし買ったとしても絶対うちには着てくるなよ。勘違いする面倒な輩が約一名いるからな
言いながら、眉間に皺が寄った。
「今さらすぎない?そんなこと言ったら、着れる服かなり限定されるんだけど」
赤に限らず、緑や紫に始まり、六つ子全員のトレードカラーの服はもう幾度も彼らの前で着ているのだ。
「…ん、まぁ、そうなんだが」
カラ松くんは言葉を濁して、親指と人差し指で自分の前髪を摘む。
「しかしクリスマスが近づいてそこはかとなく殺気立ってるブラザーたちの前で、餌をチラつかせるのはデンジャーだぞ。奴らは手負いと見せかけた獰猛な猛獣だ
実の兄弟へのディスりが容赦ない。
「…とにかく、特にこの時期は誤解を招く服は禁止だ。いいな?」
一見確認の形式ではあるが、有無を言わさない威圧感が漂っていた。程よい束縛感は、なかなか味がある。いつにないその様子がおかしくて、私はくすりと笑ってしまう。普段私を気遣ってできない態度を、今が好機とばかりに取っているような、そんな気もして。
この状況を楽しんでいるのは、もしかしたら私だけではないのかもしれない。


「ハニー、こっちへ行こう」
建物の角を曲がったカラ松くんが突然足を止めて、振り返る。そして指差したのは、進行方向とは真逆の迂回路だった。私たちが訪ねようとしている店までは少し大回りになる。
「いいけど、遠回りになるよ?」
「先月オープンしたばかりのセレクトショップがあるのを思い出したんだ。時間があるなら覗いてみたいんだが、構わないか?」
ああ、と私が合点がいく。
「もちろん、行こう行こう。よく場所覚えてたね」
「フッ、最先端の海外輸入クローズがオレに纏われるのを待っているんだ。行かないなんてチョイスはないだろう?」
ポジティヴで素晴らしい。
名の知れた複合商業施設の近くだというので、カラ松くんが先導して先を行く。後をついていこうとして、私はふと自分たちが本来通るはずだった道を覗き込んだ。深い意味はなく、限りなく気紛れ故の行動だった。

次の瞬間、私は唖然とする。
視界に飛び込んできたのは──見るからにガラの悪そうな若者が数人、数メートル先で道を塞ぐように中腰でたむろしている姿。

アスファルトには、彼らが捨てたとおぼしきゴミが散乱している。死角になっていたから、気付かなかった。
カラ松くんはその光景を見て、だから───
私は急いでカラ松くんの背中を追う。彼が振り返って、私の行為に気付いてしまわないように。
「カラ松くんってさ」
音を立てずに素早く元の位置まで戻り、息を整えてから声をかける。
「ん?」
「優しいね」
脈絡も何もない唐突な台詞のはずなのに、カラ松くんは、なぜ、とは問わなかった。笑みを浮かべて、私の頭を乱暴にくしゃりと撫でる。
「オレはいつでも優しいだろ」
「…うん」
そうだね。でも、本人が思っている以上に、きっと。
「ユーリ、何をニヤついてるんだ」
「べっつにー」


辿り着いたセレクトショップは、小さな個人店だった。規模でいえば六つ子の部屋よりも一回り広いくらいの小ぢんまりとした店内に、国内外問わず様々なブランドの服や雑貨が陳列されている。ディスプレイや商品をざっと見た限りでは、ベーシックなアメカジスタイルという印象だ。
カラ松くんから離れて、私も店内を見て回る。ウエストを絞ったネルシャツなんて似合いそうだ。腰から尻にかけてのライン見せはいいぞ、エロい。
「ハニー、これ良くないか?」
声をかけられたので寄れば、カラ松くんがハンガーにかけられたトレーナーを胸元に掲げた。
「え、あ…それ?」
取り繕うことを忘れて私は眉をひそめる。
フロント全体が彩り豊かなスパンコールギラギラで目が痛い。お前の前世はカラスか何か?
オシャレなセレクトショップなのに的確にダサいものチョイスしてくる壊滅的センスは、ここまでいくと尊敬する。その鋭いアンテナは別の方面に活かせ。
「トレーナーなら、シンプルな方が色々合わせやすいよ。カラ松くんは細身の服が多いから、オーバーサイズ感のあるトレーナーとかどう?」
私は棚からをグレーのトレーナーを取って、カラ松くんに合わせてみる。胸元にロゴが入っただけの、極めてスタンダードなものだ。
「あ、似合いそう」
「フッ、シンプルなトレーナーさえ華麗に着こなしてしまう…オレ!」
「うんうん、いいね、脱がしやすそう
「…は?」
「とても脱がしやすそう」
「そこは何でもないと誤魔化すところだろ。わざわざ聞き直したオレの配慮が無駄死にした
正直でごめん。

しかし私が提案したトレーナーも満更ではないらしい。姿見に映るカラ松くんの口角は上がっている。
「大きめのマフラー巻いたら、冬の装いって感じだね」
カラ松くんのインナーとパンツは寒色が多いので、差し色として明るい色を持ってきても映えるだろう。そう思って、赤をベースにした大判のマルチチェックマフラーを彼の首に巻き付ける。首元にボリューム感のある結び目を作るため顔と手を近づけたら、カラ松くんの体が僅かに硬直した。
「は、ハニー…顔が、近…っ」
「態度」
「あ、そ、そうか……ユーリ、顔が近い。離れるんだ」
合間に、大きな深呼吸が入った。たまに素に戻ってしまうタイプのギャップもいいな。今すぐ腰引き寄せて可愛がりたい。




「ハニー、休憩するぞ」
セレクトショップを出て数分ほど経った時のことだった。突如カラ松くんが立ち止まり、片手を出して私の進行を制する。
数メートル先には、住宅街に囲まれた小さな公園があった。滑り台やブランコといった定番の遊具と、木製のベンチが数台見受けられる。
「え、でもまだカフェ出て一時間くらいしか経ってないよ?」
「休憩するんだ」
有無を言わせない圧と眼力に、私には従う以外の選択肢がなかった。

背もたれつきのベンチに、私たちは並んで腰かける。カラ松くんは腕組みをして、眉間に皺を寄せていた。
「いつからだ?」
「いつ?」
「その靴ずれ、いつから我慢してる?」
膝の上に置いていた拳に、我知らず力がこもる。咄嗟に気の利いた言い訳が出てこなかった。
原因は、下ろしたてのパンプスである。試し履きした時は平気だったからと履いてきたのが失敗だった。右足の踵に負った傷はズキズキと強い痛みを主張して、今やフットカバーソックスは一部が赤く染まっている。
黒いパンツの裾が踵を隠して、外からは見えないだけで。
「…気付いてたの?」
「誰よりもユーリのことを見てるんだ、オレを見くびるな」
極力平然を装っていたつもりだったが、負傷した右足を無意識に庇っていたのかもしれない。しかし、だとしても、まさか気付かれるなんて。
「ちょっと待ってろ」
カラ松くんはそう言い残して、公園を後にした。
口調が違うだけで、別人と接しているような錯覚に陥りそうになる。靴ずれを正直に吐露できなかった要因も、そこにあるかもしれない。
カラ松くんが去った後の公園には、静けさと共に漠然とした違和感と寂寞感が残った。

彼が駆け足で向かったのは、道路を挟んで向かいにあるコンビニだった。一分もしないうちに戻ってきたカラ松くんの手には、絆創膏の箱。点と点が繋がり、あ、と思わず声が出た。
それからカラ松くんはおもむろにベンチの前で片膝をつき、私の右足からパンプスを脱がせて膝の上に置いた。
「あ、あの…ズボンが汚れるかもしれないから──」
「汚れたら洗濯すればいい」
公園の水道で濡らしたティッシュで、傷口の血を拭われる。じわりと滲んだ血液は、白いテイッシュを赤く染め上げていく。
「オレが気付かなければずっと黙ってるつもりだったのか?」
靴ずれの手当てをする手つきからは優しさしか感じないのに、口調には怒りが滲んでいる。
「限界来たら、言うつもりだったよ」
「それじゃ遅すぎる。傷が残ったらどうするんだ。ユーリにとってオレは…そんなに気を使う相手なのか?」
「そんなこと…」
「オレに気を使うな。強がる必要なんてない」
踵に絆創膏を貼って、それで終わりかと思いきや、地面に置いたパンプスを履かせてくれる。膝を立てて頭を垂れるようなその仕草は、忠誠を誓う騎士にも似て、ひどく嗜虐心がくすぐられたのは秘密だ。
押し倒して鉄仮面を剥ぎ取り泣かせることができたらさぞかし恍惚だろうなんて、今このロマンチックなシーンで暴露したら、間違いなく拳骨が振ってくる
「あー…それでだな、ユーリ」
かしずいた格好のまま、カラ松くんが躊躇いがちに私を呼ぶ。

「こういうのは、もう止めよう」

大きな溜息を吐き出される。降参とばかりに彼は両手を上げた。
「ユーリが喜ぶのならと思ってこの態度を頑張ってはみたものの、オレのハートがブロークン寸前だ。
おそ松に対しては確かに遠慮も気遣いも不要だが──ユーリは、そうじゃない。優しくしたいし、笑ってほしいし、自然でいてほしい」
「カラ松くん…」
関係性の違いによる様々な打算は、誰の胸の内にもあるだろう。即物的な損得勘定ではなく、長く続くであろう取引や交渉を円滑に行うための手段として。
今日私が彼に望んだのは、一方的な利益の獲得。カラ松くんにとっては不利でしかない条件を、強引に飲ませたようなものである。許容範囲を超えれば、契約を切られても文句は言えない。
「うん、じゃあ閉幕にしよう。無理なお願いに付き合ってくれて、ありがとう」
「ハニーの頼みはいつでも歓迎だが…何が楽しいのか、オレにはよく分からん」
ギャップ萌えについて小一時間ほど語るべきか、私はちょっと悩んだ。




「歩けそうか?」
立ち上がって、カラ松くんが私に手を差し伸べる。その手を取って、私はベンチから腰を上げた。彼の周りを歩いてみても、痛みはほとんど感じない。
「うん、もう痛くないよ。ありがとう、カラ松くん」
「そうか、良かった」
カラ松くんがホッとしたように目を細める。ああ、私のよく知る松野カラ松が戻ってきたなぁ、なんて心の隅で思う。
「色々と予定が狂ったな」
「本当はどこか行きたい所あったの?」
「いや…」
言葉を区切って、カラ松くんはバツが悪そうに私を見た。

「今日は特別ハニーに優しくするつもりだったんだ」

意図が読み取れなくて、一瞬頭が真っ白になる。けれどすぐにそれが、待ち合わせ場所で私が覚えた違和感の正体だと気付く。
「どうやったらユーリが笑ってくれるかずっと考えていて、今日はいつもよりジェントルに接する算段だったんだが…まさかユーリから態度の変更を所望されるとは思わなかった。
もし気に障るようなことを言っていたら、すまん。現実というのはソーディフィカルトだな」
カラ松くんが苦笑いを浮かべるので、私は大きくかぶりを振った。
「優しかったよ」
「え」
「カラ松くん、ずっとすごく優しかった」
目に見える言葉と態度だけが、優しさを示す尺度ではない。
けれど当の本人に思い当たる節はないらしく、笑みは困惑げなものに変わっただけだった。ときどき、私がどうしようもなく釈然としない気持ちになるのは、彼のこういう性質に由来するのかもしれない。この人は本当に、どこまで可愛いのか。
「そう、か…?」
「ひょっとして自覚なかったの?
今日みたいなデートされたら、恋にも落ちるよね。私以外の女の子にやったら、彼女なんかすぐできちゃうよ、きっと」
カラ松くんは膝の土を払い、手にしていた絆創膏の袋を強く握り締めた。くしゃりと紙が折れる音が響く。表情はそのままに、カラ松くんはゴミ箱に向かって腕を振る。

「──ということは、オレに彼女ができるのはまだまだ先のようだ」

絆創膏のゴミが弧を描いて、ゴミ箱の中に落ちた。


理想実現を阻む現実への落胆は尾を引いているらしく、気を取り直してのデート再開に対してもカラ松くんは憂い顔だ。ここは私が一肌脱ぐところだろうか。それこそ気を使うなと叱られてしまいそうでもあるけれど。
「今日のカラ松くん、いつもと違った雰囲気で良かったよ」
彼の視線が私に向く。
「ちょっとドキドキした」
少々大袈裟に片手で胸を押さえてみせると、カラ松くんの目が僅かに瞠った。
「そ、それは…オレが格好いいから、という──」
「サドっ気のあるカラ松くんを押し倒して泣かせたら、ギャップがすごくて性欲マックスになる予測もできたのは収穫」
「は?」

「どんなカラ松くんでもたまらないんだけど、やっぱり見慣れない姿にはゾクッとさせられるんだよねぇ」
「…ユーリ?」
やがて彼の顔に広がるのは、先の展開が読めない戸惑いだった。
「倦怠期打破ってわけじゃないけど、たまには趣向の違うことするのも新鮮で楽しいね」
相手の出方の予測が立たない。未知の領域に踏み込んだ私たちにもたらされたのは不安と、ある種の高揚感だった。まるで初デートに挑むような、緊張感も伴って。
けれど心の中に渦巻くのは変わらず推しへの性欲であったり、澄ました面をいかに泣かすかの算段だった。表層を変えたところで、内側はいつもの私なのだ。
カラ松くんもきっと──そうだったのだろう。

「再依頼は検討してもらえそう?」
その発言はカラ松くんにとって意外だったらしく、え、と肩が強張った。うーんと唸り声を出しながら腕を組み、眉間にはいつになく深い皺が寄る。
しかしそれも数秒のことで、渋々ながらもカラ松くんは首を縦に振った。
「オレだけ接し方を変えるのはフェアじゃない。ハニーが可愛く甘えてくれるなら、前向きに考えてもいいぞ」
そう言ってフフンと鼻を鳴らす。私が条件を飲むのは無理と踏んだか、はたまた自分も恩恵に預かりたい画策か。
「あ、そんなんでいいんだ、オッケー」
「いいんだ!?」
カラ松くんは目を剥いた。どうやら彼の思惑は前者だったらしい。
私は一度小さく深呼吸した後、カラ松くんの腕を両手で取って顔を擦り寄せた。想定外の対応にカラ松くんは反応しきれず、頬が紅潮する。しかし、それも一瞬のことで───

「ねぇねぇカラぴっぴ、ユーリお腹すいちゃった☆今から駅前でタピりたいなぁ♪」

上目遣いと猫撫で声で分かりやすい甘えを表現してみたら、カラ松くんは顔を歪めた。
「気持ち悪い」
低いトーンで呟かれる。あ、これマジなヤツだ。
「可愛く甘えた結果がこの仕打ちか」
「…やっぱりいい──というか、わざとだろ、それ」
「可愛いは作るものでしょ?」
「オレが求めてるハニーの可愛さはそうじゃなくてだな、もっとこう……んー、いや待てよ、ハニーはスタンダードが可愛いの極地だから、もっと可愛くしろというのはリミットを超えろという意味になってしまうのか?それはさすがに無理難題じゃないか?」
私に聞くな。
「前言撤回だ。やっぱりハニーはそのままでいてくれ」
「そう?」
彼の腕からパッと手を離して、私は少し長めの息を吐く。それからカラ松くんの顎に人差し指を添え、力を込めて僅かに持ち上げた。

「その言葉、後悔しないでね」

囁くように、けれど聞き取れなかったと言い逃れさせないくらいには明瞭に。
選択を誤った。そんな感情が、カラ松くんの表情にはありありと浮かんでいた。

おねえさんスイッチの使い方

たかが言葉、されど言葉。
空気に乗って紡ぎ出される形のないものに、人間は一喜一憂していとも容易く振り回される。
これは、そんな言葉に翻弄された、松野カラ松のある日の記録である。




実家暮らしのニートの平日は、往々にして退屈に始まり退屈に終わる。余暇を充実させる元手となる金銭を有していないために選べる手段は限られ、その上おそらく最も優先順位の高い収益を得る方法の確立から目を背け続けているが故に、辿り着くのは結局のところ退屈だったりするのだ。
ご飯でも行こうかと、気軽な誘い文句も口にできない。十中八九、弾んだ声でオーケーを出してくれるユーリの笑顔を思い浮かべては、自然と頬が緩む。彼女とのこの先を真剣に考えるなら、破壊すべき障壁であることも、いい加減自覚しなければと思う。
会えるだけで幸せなぬるま湯に浸かったような日々は、親の庇護下にある学生時代にしか通用しないのだ。

かといってあと一歩が踏み出せない。
「何かきっかけがあればいいんだろうけどなぁ。何ていうか、こう…ユーリに上目遣いでおねだりされる的な?
しかしカラ松は即座に首を振った。そんなことをされたら欲情するだけだ。効果は下半身限定で目も当てられない。
どうしたものかと思案しつつ、ブラブラとあてもなく街中を歩いていた時のことだ。暇を潰そうにも、今日の軍資金は早くもパチンコで使い切ってしまったし、そもそも大半は長男に抜き取られた。
「あ、デカパン」
視界の先に、恰幅のいい背中と見慣れた巨大パンツを見つけて声を上げる。常々感じることだが、パンツ一丁で外を歩くのは公然わいせつ罪ではないのか。よく捕まらないな。
無視するか声をかけるか、カラ松の中で一瞬の逡巡があった。そして自分が選んだのは、後者だ。

「おい、デカパン。何か落ちたぞ」

否、正確を期するなら、後者を選ばざるを得なくなったといった方が正しい。デカパンのパンツの中から、何か物体が落下したのが見えたからである。
「ホエ?」
拾い上げ、振り向いた彼にカラ松は差し出した。手のひらサイズの、長方形の薄い端末──に見えるもの──だ。トド松のスマホよりも、一回りほど小さい。
「これはこれは、ありがとうだス」
「携帯か?」
「お蔵入りになった試作品だス──ああ、良かったら試してみないだスか?」
カラ松の返事を待たず、デカパンは端末の電源を入れる。画面には日時と電池残量が表示されて、一見スマホそのものだ。
「試すったって、得体のしれないものはごめんだぞ」

「これは『表示された文字から始まる言葉を相手に喋らせるスイッチ』だス」

察した。
某教育番組の人気コーナーのパクリのような気がしないでもないが、気にしないでおこう。
「よし貸してくれ。今朝オレの財布から数枚抜き取ったおそ松への報復に使う
「じゃあ使い方を説明するだス」
長年の付き合い故か、用途を聞いてもデカパンは動じる様子もなく、黒い端末をカラ松に手渡した。しかしディスプレイに表示されているのは、ログインならぬ『対象登録』と書かれたボタン。
「対象登録?何だこれ?」
「言葉を喋らせるのは誰でもいいわけではないんだスよ。最初に、言葉を喋らせるターゲットを登録するだス」
「どうやって?」
「対象登録を押しながら、相手を思い浮かべればいいだけだス」
なるほど。カラ松は今朝自分の財布から札を抜き取っていった憎き長男のゲス顔を、脳裏に浮かべようとする。
「ユーリちゃんでも登録できるだスよ」
「は!?」
ユーリの名を聞いた途端、裏返った声が出た。
「な、何を…っ、ああっ、お前のせいでユーリで登録されてしまったじゃないか!ユーリにそんな、言わせたい言葉なんて───ナイスアイデアが過ぎるぞ、デカパン
カラ松が真顔で親指をおっ立てるのと、画面に登録完了の文字が表示されるのが同時だった。
「ホエホエ、ユーリちゃんで登録されたようだスな」
「で、後はどうすればいい?画面に出ているこの文字に意味があるのか?とっとと説明しろ
ディスプレイにはひらがなのか行、つまり『かきくけこ』が横一列に表示されている。
「一つをタップして、それを頭文字にして続きの文字を入力すれば、その通りの言葉を喋ってくれるだス。ただし使用期限があって、使える文字は一文字一回。使い終わるか充電が切れれば、その時点でこの端末は使えなくなってしまうだス。
何しろベータ版だスからなぁ、充電ももって半日だと思うだス」
「え、エロい言葉もオーケーなのか?」
「ワードによるだスな。悪用防止のセーフティ機能として、NGワードがある程度設定されているだス」
さすがに何でもアリとはならないか。カラ松は内心で舌打ちする。しかし実際のところは、本心だったわけでもない。一時の愉悦のために、彼女からの信頼を失っては元も子もないからだ。




使用できるのは『かきくけこ』のいずれかで始まる言葉、チャンスは五回。トド松のスマホを何度か借りたことがあるから、人並みの速度でフリック入力はできると自負している。
あとは、望んだタイミングで望んだ台詞を作り上げることができるか。いつになく高度な判断力を要求されている気がして、期待感とは裏腹に少々気は重い。

「ただいま」
デニムのポケットに端末を放り込み、陰鬱な溜息と共に玄関の戸を開ける。
「あ、おかえりー」
居間に続く障子が開け放たれて顔を覗かせたのは、ユーリだった。快活な声と笑顔でカラ松を出迎える。
「…た、ただいま。何だ、もう来てたのか、ハニー」
「約束の時間よりちょっと早いけど、お邪魔しちゃった」
今日の手土産は各種コンビニ新作スイーツだよ、とビニール袋を掲げてユーリは笑う。ただいまとおかえりの応酬がなぜだか照れくさくて、カラ松は自分の首筋に手を当てる。彼女のすぐ背後に兄弟が控えているのは気配と声で明白なのに、それでも、面と向かってユーリに帰宅を歓迎されるのは──嬉しい。
「これからどれ食べるか選ぶところだったんだよ。早くおいで」
手招きされた指定席は、ユーリのすぐ隣。
おそ松を始めとする兄弟は言葉こそ発しないが、唇を尖らせたり仏頂面だったりと、無言でカラ松を非難する。文句を言ったところでユーリに一蹴されるやり取りを、もう幾度となく繰り返してきた成れの果てが無言の抗議なのだ。
少し動けば肩が触れ合うほど近くが、互いにとっての定位置。

カラ松が席についたところで、中断していた話題が再開する。トド松がテーブルに出したスマホの画面には、ドラマやバラエティでたまに見かける二十代の男優が映っている。
「でさ、話の続きなんだけど、来月からの連ドラの主演、この俳優なんだって」
「あー、知ってる。格好いい顔してる人だよね。モテる役似合う」
異性を持ち上げるユーリの弾んだ声に、我知らず眉根を寄せていた。トド松はそんなカラ松を横目で一瞥し、彼女に問いを投げる。
「ユーリちゃん、こういう人タイプ?」
間違いなく意図的だな、トッティ。
「いやぁ、確かに女性に人気の人だけど、対象として考えたこともないっていうか──」
ユーリはケーキを頬張りながら苦笑する。

「格好いいのは、カラ松くんだから」

ユーリの口から飛び出したその言葉に、全員が目を剥いた。
「…え?」
「は?」
「えぇっ!?」
他の誰よりも驚いた表情をしたのは、他でもないユーリ自身だった。
「ユーリちゃん、熱ある?
一松には本気で心配される始末。
「あ、え……う、うん、まぁ格好いいとも言える…のか、な?」
腕組みをしながら不承不承といった体で、ユーリは自分の発言を肯定する。
「自分で言っておいて疑問形って何なの」
おそ松のツッコミはもっともだ。
全員の視線がユーリに集中する中、カラ松はちゃぶ台の下に隠した端末を覗き込んで、自分の目を疑った。ディスプレイには、先程ユーリが口にした一言一句同じ言葉が表示されている。半信半疑だった効果が証明された、決定的瞬間だった。
「フッ、ハニー、オレがイケてるのは周知の事実だが、ブラザーの前で断言するとは…火傷しても知らないぜ」
歓喜のあまりニヤけてしまいそうになるのを必死で堪えて、カラ松は前髪を横に払う仕草。
「えっ、あの、私そういうつもりじゃなくて…ごめん、たぶん可愛いって言いたかったんだけど思うけど…」
ユーリは釈然としない顔で下唇を噛んだ。まさか強制的に言わされているとは、夢にも思っていないのだろう。

円卓の上で頬杖をつきながら、トド松は吐き捨てるように言う。
「格好いいとかあり得ないって。微妙な差はあるけど、カラ松兄さんもボクも六人同じ顔だから。クソ長男ベースにして僅差しかないからね」
「ベースって言うな」
「おそ松と一緒にするな。プレーン以外の五人は全然違うぞ、トッティ」
「俺の扱いだけ酷いの何で?お兄ちゃん泣くよ?」
ユーリの審美眼を疑問視すると見せかけた巧妙な長男ディスり。誰も長男の援護に回らないあたり、日頃の関係性が如実に表れている。
「私から見たら、みんな似てるけど全然違うよ」
「えー、そう?ユーリちゃん、カラ松兄さんと長くいすぎて目がおかしくなったんじゃない?
カラ松兄さんのこと、本気で格好いいなんて思うわけ?」
「いや、だから格好いいっていうのは──」
振り払うように手をひらひらさせながら、ユーリは苦笑するけれど。

「結構本気で思ってるよ」

口をついて出た言葉は、カラ松格好いい説を後押しするものだった。ギョッとするユーリと、唖然とする面々。
カラ松は端末の送信ボタンから指を離す。タイミングもよく自然な流れになった、自分グッジョブ

「キスしたいくらい」

全員がユーリの顔を凝視しているのを幸いに、連続して言葉を紡がせる。
今度こそユーリは自分の口を両手で覆った。傍目にも、彼女の顔が赤く染まっていくのが分かる。自分マーベラス。


ユーリちゃん、とトド松が名を呼ぶ。
「カラ松兄さんを推しだとか何だとか、ほんと超絶奇特な子とは常々思ってたけど、ここまでくると重症だよね
「今の台詞に至っては、むしろ堂々とした交際宣言とも言える」
「つまり、遠回しな告白?」
腕組みをしたチョロ松が感慨深げに頷き、十四松は長い袖を口元に当てて思案顔。
「ち、違…っ」
「──っていうか、ユーリちゃんが女の子っぽい」
円卓に頬杖をつきながら不服そうに物申すのは、おそ松だ。
「生物学的に女の子だよ」
一松が淡々とした口調でいち早くツッコむが、そうじゃないんだよと長男は首を横に振った。

「だってユーリちゃん、普段こういう可愛い台詞絶対言わないじゃん。襲いたいとか攻めたいとか抱きたいって漢らしく言うじゃん。カラ松に抱きしめられたい愛されたいじゃなくて、泣かせて陵辱したいって迷いなく言い切るタイプ

ハッとする六つ子たち。
「それはそうだね」
「確かに」
「そういう意味では不自然」
納得するな。
しかしカラ松自身、おそ松の言うユーリ像に対して否定はできない。
ユーリ本人はというと、おそ松のフォローになってないフォローも耳に入っていない様子で、頬を手で包み恥じ入っている。滅多に見られないユーリのその姿が、たまらなく愛らしい。兄弟とはいえ他の男にもそんな一面を見せるのは本意ではないが、牽制にはちょうどいいかもしれない。
「ブラザーたちの前で何て大胆なんだ、ハニー。そうかそうか、そんなにオレの魅力の虜になってしまったか。やはりオレは天性のギルドガイ」
「…んー、ちょっと語弊がある気がする。
自分の口から言っておいて何だけど…そもそも何でこんなこと言ってるんだろう…」
「ユーリちゃん、やっぱ熱あるんじゃない?どれどれ──」
膝を立ててトド松がユーリの額に手を伸ばしてくる。ユーリは視線を畳に落としてされるがままだ。

ユーリに触るな。
口にする代わりに、トド松の手が届くよりも早く、カラ松は背中側からユーリを抱きしめた。抱え込むといった表現の方が適切かもしれない。

「…っ!?」
「いい、トッティ。オレが確認する」
いつになく低い声で末弟を制する。ユーリの表情は見えないが、驚きで体が強張ったのは腕越しに伝わってきた。
「…そ、そう?いや別にアレだよ、ボクは疚しい気持ちとかないからねっ」
頬を膨らませて抗議するトド松の肩を、チョロ松が優しく叩く。
「トッティ…忠犬の前でそのお触りはNGだろ
「そんなマイナールール知らねぇよ!てかお触りじゃない、熱計ろうとしただけ!」
「どんまい!」
空いている反対側の肩を十四松に叩かれて、トド松はああもうっと苛立ちの声を発した。
「両サイドから慰められるの何か腹立つ!」
「カラ松くん、もういいから。推しによる突然の抱擁とか別の熱が上がる
「ハニーが無防備すぎるからだ。相手がブラザーだからといって油断するなよ」
言い含めながら手を離せば、ユーリの頬はまだ僅かに上気していた。唐突に口走った台詞への羞恥心によるものと頭では理解してるが、カラ松との距離感に対する恥じらいではと、思い違いをしそうになる。
伏せた瞳にかかる睫毛が、やたら蠱惑的で。
「まぁとにかく、熱はないと思うけどちょっと疲れてるのかも。さっきから変なことばっかり言ってるし。これ以上続くようなら、今日は早めにお暇させてもらうね」
ユーリは肩を竦めた。
「大丈夫か?」
「大丈夫…って言いたいんだけどね。疲れてないはずなんだけどなぁ」
カラ松が手を伸ばして額に触れると、ユーリは大人しく目を閉じた。自分のと比べても感じる体温に大した差はない。当然だ、熱なんてあるはずないのだから。
「どう?」
「熱はなさそうだ。疲れてるなら家まで送るぞ」
カラ松の返事に、ユーリはへらりと笑う。どこか幼さの残るあどけない笑顔は、カラ松にしか見せない顔の一つだ。
「平気平気。ボーッとしてただけかもしれないから、気をつけ──」
最後までユーリが言い終わらないうちに、カラ松は後ろ手に端末の画面をタップした。

「口にするの恥ずかしいんだけど、二人きりになりたいな」

刹那、全員が驚愕をあらわにした
口にしたユーリ本人は、顔を両手で覆い隠して絶望に打ちひしがれる。指の隙間から、アカンヤツやでこれ、という観念したような声が漏れた。




早期の帰宅は誠に遺憾である、とばかりに帰路のユーリは仏頂面だ。失言を繰り返す己の不甲斐なさに苛立っているようにも見え、カラ松の背中に罪悪感が伸し掛かる。
望む言葉を言わせるたびに、眩いばかりの愉悦と共に、必ず罪の意識がついてきた。相手が兄弟やイヤミだったら、そんな感情は僅かにも伴わなかっただろう。
けれど、ユーリだから。どんな代償を払ってでも側にいられる権利を欲するほどに、自分は彼女に焦がれている。

「今日はほんと、よく分からないことばっかり言ってごめんね」
苦笑いで謝罪を口にするユーリに、チクリと胸が痛む。これが良心の呵責というものか。
「いや…お、オレは別に構わないぞ」
上手く演技ができない。
どうか、気付かないでほしい。自分から手を出した悪魔の果実に、今さら後悔している男の愚かしさに。

「冗談でも、ユーリにとってオレが特別だと言ってもらえるのは…光栄だ」

この言葉は本心だ。
結果的に、感情の伴わない言葉は虚しい幻影に過ぎないと思い知ったのだけれど。強制的に言わせたところで、得られるものは空虚にも等しい。
「ふふ、フォローありがと」
「そういうわけじゃ…」
「みんな絶対変だって思ったよね。恥ずかしいなぁ、もう」
照れくさそうに笑って、ユーリは耳にかかる髪を掻き上げる。ちらりと覗く耳朶の色気に、カラ松は息を呑んだ。
そんなカラ松の緊張を知る由もないユーリは、パッと顔を上げる。
「カラ松くん、今日まだ時間ある?
覚えてるかなぁ、ちょっと前に話してた映画、実は今レンタルしてて、視聴期限今日までなんだけど…もし良かったら家で観ていかない?」
「…え」
「あ、ほら、この前話した時にカラ松くん興味ありそうだったし、それに──」
そこまで言って、ユーリは言い淀む。羞恥を誤魔化すように片手で反対側の腕を擦って、視線を地面に落とした。

「さっき口走ったの、全部が全部そのつもりがないってわけじゃないんだよね」

カラ松は言葉を失った。
かつてユーリがカラ松への好意を恥じらいながら口にしたことがあっただろうか。
時に明瞭に、時に力強く放たれてきた言葉に、数え切れないほどカラ松は救われてきた。守られているのはどっちだなんて、内心で自分自身を揶揄するくらいには、何度も。
「今日はみんなが一緒だったから、二人でゆっくり話す時間もなかったし」
「ユーリ…」
そんな彼女が、今は───

「生の推しから今週生きる原動力を貰いたい」

うん、そんな気はしていた。盛大な前フリをありがとう。
「…駄目?」
なのに、小首を傾げての上目遣いは卑怯だ。
わざとだと分かっている。全てユーリの計算の上での言動だと、疑いの余地がないほど明確なのに。
「……行く」
蜘蛛の巣に絡め取られて、逃げ出せない。




付き合い──友人として、だが──は短いが、逢瀬の回数は多い。自分の気のせいでなければ、ときどき男女の機微を感じさせる甘い雰囲気にもなる。とはいえ建前上は友人であるせいか、多くの場合ユーリの態度は、駆け引きとは無縁のあっけらかんとしたものだ。
今日も帰宅するな否や部屋着に着替え、インスタントのコーヒーを注いだマグカップを二つテーブルに置いたかと思うと、早々にテレビの電源を入れた。
「面白いんだよー」
カラ松の傍らに腰を下ろしてにこりと微笑む顔は、底抜けに明るい。
「ハニー、砂糖とミルクは?」
「あ、忘れてた」
「ああ、いい、オレが取ってくる。いつもの所だろ?」
カラ松は立ち上がり、キッチンへと向かう。もう何度か使用しているから、食器やカラトリーといった類の場所は把握している。
冷蔵庫と食器棚からコーヒー用ポーションと砂糖を二人分それぞれ手に取って戻ると、ユーリはにんまりと満足げにカラ松を見やった。
「どうした?」
「何かもうカラ松くん、勝手知ったる家って感じだなぁと思って」
「何言ってるんだ。たかだか砂糖持ってきたくらいで──え?」
再びローソファーに座り、砂糖をコーヒーに投入したところで、彼女の意図がようやく推測できた。
「…ず、図々しかったか?
ユーリの手を煩わせるくらいならと思ったんだが…そうだよな、レディの家で勝手に開けたりするのは良くないよな」

狼狽するカラ松に、ユーリは笑みでもって答える。
「違うよ。何だかくすぐったい感じがするだけ」
「くすぐったい感じ…」
「カラ松くんは実家だから分からないかもしれないけど、一人暮らしだと特に、ね」
どうやらマイナスの意味合いではないらしい。だがヒントを与えられてもカラ松は依然として首を傾げるから、ユーリは気にしないでと手首を振って終了の合図を出した。
どうしたらいいのか分からないのだ。負の感情由来ではないなら、ユーリがほのめかす言葉の意味を、自分にとって都合のいい解釈で受け取りたくなってしまう。
まるでカラ松にとって勝手知ったる家になることを歓迎しているようだと、この時口にして確認できていたら、彼女は何と答えたのだろう。


それからしばらくは、映画が映し出される画面に見入っていた。ユーリが面白いと評価するだけあって、画面から目が離せない時間が続いた。マグカップに注がれた濃褐色の液体がすっかり冷めてしまった頃初めて、カラ松はふとユーリに目を向ける。
「ハニー…寝てるのか?」
ソファの背もたれに体を預けて、ユーリは目を閉じている。片手で握っていたスマホは、弛緩した指から落ちてフローリングに転がった。
「ユーリ?」
顔を近づけて頬に触れても、微動だにしない。規則的に肩が上下するのみだ。
他に誰もいない空間にも関わらず、カラ松は息を潜めて辺りを見回す。カーテンは閉まっていて、玄関も施錠されている。外から覗かれる心配もないことを確認した後、ユーリの後頭部にそっと触れて──

少し持ち上げた髪に、キスを落とした。

大切で、かけがえのない存在で、ずっと側にいたくて、どうか離れないでと、言葉にできない臆病者の切なる願いを口づけに込めて。
気付いてほしいのに気付いてほしくない。答えが欲しいのに答えが怖い。相反する厄介な願望は胸中に渦巻いて、カラ松の感情を乱し続けている。ユーリの未来に溢れんばかりの祝福を、栄光を。そしてその時彼女に寄り添うのは──どうか、自分であるように。

「…うーん」
うたた寝をするユーリが唸る。起こさないよう姿勢を戻そうとした刹那、カラ松はポケットに入れた端末の存在を思い出した。
悪魔が耳元で囁く───寝言なら、一番言ってほしい言葉が聞けるのではないか、と。
「い、いやいや、それはさすがに…」
かぶりを振って邪念を振り払おうとするが、寝言ならばノーカン判定でいけるかもしれないという最大のメリットが頭をもたげる。しかも本人は覚えておらず、カラ松だけが独占できるのだ。ぶっちゃけ、美味しいシチュエーション
端末に残った文字は『こ』が一つ。右上に表示された充電残量は既に心許なく、いつ電源が落ちてもおかしくない。
「ユーリ…ほ、本当に起きてないか?」
文字を入力した後、最後の望みを託すようにもう一度名を呼ぶが、ユーリの瞼は落ちたままだ。
まるで騙し討ちじゃないかとも、正直思う。誰よりも大事にしたい相手を思うままに操り、本人の意志に反する言葉を無理矢理言わせるなんて。嘘でいいから聞きたい欲望と、本人の気持ちが伴わなければ意味がないと抗う理性が衝突する。

でも、叶わないかもしれないじゃないか。
勘違いしないでよと吐き捨てられたら、立ち直る自信がない。眠っている間に発したものなら、ただの寝言だ。カラ松自身分が関与した証拠だって何も残りはしない。聞くチャンスは、今しかない。
悪魔の囁きに耳を傾けたカラ松は、実行のボタンをタップした。
僅かに開いていたユーリの唇が、ゆっくりと動く。音量は控えめだが、映画の音声に掻き消えてしまわないほどには明瞭に聞こえる、声。

「この世界で一番…私は、カラ松くんが───」

カラ松は反射的に手を伸ばす。手にしていた端末は飛んで、床の上で回転する。
その手は──ユーリの口を塞いだ。

「…んんッ!?」
強い力で口を封じられたユーリは、当然意識を取り戻して瞠目する。
違う。やっぱり、違う。
こんな卑怯な手段で聞いた喜んだところで、後から虚しさが押し寄せるだけだ。ユーリを傀儡にして弄びたいわけじゃない。心が手に入らなければ、甘い睦言はいらない。
「な、何…?」
入力した言葉以外をユーリが発したのを確認して、カラ松は手を離した。そして、己のしでかした事の重大さに動揺する。
「す、すまんハニー、これは、その…」
ユーリの股を割るように片膝を立て、片手で口を塞ぎ、もう片手はソフィの背もたれを掴んでいる。客観的にはどう見ても、覆いかぶさって襲う体勢だ
なのにユーリの体は僅かにも硬直していない。不思議そうにカラ松を見上げて、返事を待っている。

「…よ、よだれが出そうになってたから、どうにかしないとと思ったんだ」

咄嗟とはいえ、我ながら無理のある弁明だと思う。
しかし──
マジで!?そんな慌てるってことは危機一髪だったってことか。危なかった…ありがとう」
「えっ、や、あの、まぁ…うん」
手の甲で乱暴に口を拭って、ユーリはカラ松に礼を言う。罪悪感という名の鋭いナイフが胸に刺さって、痛い。
「あれ、カラ松くん、何か落としてるよ」
床に転がる端末にユーリの目が留まる。
「あっ、まっ、それは…ッ」
「スマホ買ったの?」
制止は間に合わず、ユーリはそれをフローリングから拾い上げる。万事休す。もう隠し立てはできない。

「ユーリ!せめて…お、オレの口から言わせてくれっ!オレは──」

「充電切れてるよ」
「ユーリが──……ん?え、何て?ワンスモア
「だから、充電が切れてる。スマホ…じゃないね。何かのプレイヤー?」
手のひらに載せられた端末は、画面が黒くなっている。触れても揺らしても、うんともすんとも言わない。
「あ…ああ、まぁ…そんなものだ」
胸に広がるのは自分の企みが明るみにならなかった安堵と、ほんの少しの落胆。
「それで、何?何を言いかけたの?」
「な、何でもない!」
カラ松は顔を赤くしながらも口をへの字に曲げて断固拒否の姿勢。絶対に口を割るものかと意思を固めたのはユーリにも伝わったようで、やれやれとばかりに溜息を溢された。
「どうせ悪巧みでも考えてたでしょ」
「…正直いえば、少し。ハニーを試そうとした」
これにはユーリも驚いたようだった。

「ユーリは、一人暮らしの部屋に上げてくれるだけじゃなく、キュートな寝顔さえ見せてくれるほどオレを信頼してくれてるのにな」

言葉にはされないけれど、ずっと提示されてきた事実の本質。
「ユーリがそんな姿を見せるのも…オレだけ、なのにな」
デカパンの誘惑はあの時確かに、カラ松にとっては魅力的なものだった。言葉にして、目にも明らかなものとして、得たかったから。
全部、幼稚な独りよがりだと気付かされたけれど。
「今さらどうしたの?そうだよ、その通り…って、うん、まぁいいや、正直に白状したから今回は深く問い詰めるのは勘弁してあげる」




靴を履いて暇を告げる。すっかり日が暮れて、家に着く頃には夕飯だ。
「じゃあ、帰ったら電話する。オレからのラブコールを待ち侘びていてくれ」
「気をつけてね──あ、そうだ」
カラ松を気遣ってから、ふと思い出したようにユーリは言う。

「カラ松くんのことは、世界で一番可愛いと思ってるよ」

その言葉は、ニヤリと余裕たっぷりな微笑と共に突きつけられた。
あまりに突然降り注いだ衝撃に、カラ松は絶句する。驚きを口にすることさえ忘れて、唖然としたのだ。
「ハニー…ひょっとして、さっき…」
端末に入力した単語が脳裏に蘇る。一言一句正確に思い出せるくらい、鮮明に。あの文字を彼女は、見なかったはずだ。
「ん?特に意味はないよ。
ほら、今日色々変なこと言っちゃったでしょ?だから誤解のないように、私が本当に思ってることは言っておこうかな、って」
意図が読み解けない。だからといって、愚直に訊けるはずもない。頭の中が真っ白になる。
「それじゃあね」
ユーリが一歩下がり、玄関のドアが閉まろうとする。

そのドアノブを掴んで再び開放したのは、湧き上がった衝動に任せた結果だった。

ドアごと引き寄せられてよろめくユーリの肩を支えたら、漆黒の瞳に激しい剣幕の自分が映り込んでいる。互いの息がかかるほど顔が近づいて、今度はユーリが面食らう番だ。
「カラ松くん?」
「今回はオレの負けだ、ハニー」
敵わないなんてことは百も承知の上。

「だが、覚えておけ!
いつか必ず──ユーリにとって、オレが世界で一番『格好いい』と言わせてみせるからな!」

自身を鼓舞する意味も込めて、マンションの廊下に響き渡るほどの声量で告げる。
丸い瞳が、ぱちくりと瞬きをした。カラ松はユーリから目を逸らさない。やがて彼女の顔には妖艶とも思える笑みが浮かんだ。
「その勝負、受けて立つ」
「レディに二言はないな?」
「もちろん。勝敗は目に見えてるけどね」
「ノンノン、ハニー。勝利の女神が微笑む相手はまだ決まっちゃいないさ」
決戦の火蓋は切って落とされた。

それはつまり──これからも共に過ごそうという約束にも等しい。


ああだこうだとこねくり回して手元に残ったのは、ユーリに『可愛い』と告げられた現実。
格好良くあろうと日頃努力するカラ松にとって、他でもないユーリにそう言われるのは甚だ不本意なことだ。とても心外で、きっと見返してやるぞと強く思うのに──嬉しくて嬉しくて、仕方ない。
聞きたかった台詞とは百八十度異なるけれど、ユーリの意思で語られた言の葉の威力は、強引に言わせたそれとは比較にさえならない。
そして、場の勢いとはいえ、ほとんど告白に近いとんでもない台詞を口走ったとカラ松本人が気付くのは、それから何日も経った後のことである。

どこまで逃げるか駆け落ちごっこ(後)

す、と酔いが醒めていくのを感じた。自分でも驚くほど頭の中がクリアになる。

駆け落ちと称して訪れた温泉街は、東京の都心から電車を乗り継いで約二時間の場所にある。さらに私たちが夕食のために訪れたのは、交通の便がいい観光地から少し離れた田舎町だった。つまり、そもそも駅が遠い
「ち、ちょっと待ってよ、嘘でしょ!?」
慌ててスマホの電源を入れ、乗り換え案内のアプリを立ち上げる。店の最寄り駅から東京までの区間を現時刻で検索するも、表示される案内は尽く翌日の始発便だ。詰んだ。
「あら、今から東京に帰ろうと思ってたの?
そりゃ無茶な話だわ、この辺の終電は九時台だからねぇ」
ラストオーダーを取りに来た女将にも、テーブルの皿を片付けながら笑われてしまった。やっちまったと呟いて青ざめる私。カラ松くんに至っては、テーブルの上で組んだ両手に額をのせて項垂れている。そりゃそうだ、終電逃して帰れないだなんて、とんだ笑い草だ。
しかしいつまでも絶望に打ちひしがれている暇はない。一晩を明かす場所を確保しなければ。
「あ、そうか…漫喫だ!」
ハッとカラ松くんが顔を上げ、名案とばかりに目を輝かせた。
「どうだ、ユーリ?
タクシーで繁華街に行けば漫画喫茶くらいあるだろう。だいたい二十四時間やってるし、多少居心地は悪いが寝ることだってできる」
「──嫌」
「え」
せっかくの提案──しかもかなり妥当──だが、承認するわけにはいかない。
「旅行の最後に満喫は、興醒めもいいとこだよ。早起きして奮発してグリーン車乗って温泉入って美味しいもの食べて、さぁ楽しい気分は最高潮ってとこで、漫喫なんて。申し訳ないけど、私は嫌」
「しかし、他にどうすれば…」
「任せろ」
力強く言い放った後、私は片手で伝票を持ち颯爽とレジへと向かう。そんな背中に向けて、カラ松くんがぽつりと溢す。
「ハニーが男前だ…」




夜も更けた頃、カラ松くんを引き連れてやって来たのは、駅前の観光客向けホテル。タクシーを降りたカラ松くんは、両手に荷物を持ったままビルを見上げて呆然と立ち尽くす。
「ネットで調べたところによると、ここ和室の部屋があるんだよ。素泊まりだから安いし、ツインに空きがあってラッキー」
「…ま、待ってくれ、ユーリっ」
受付へ促そうとしたら、突然カラ松くんが私の前に躍り出る。
「ホテルに泊まるのはいい。ただ、その…ツインはさすがにプロブレムだろ。部屋は分けた方がいいんじゃ──」
「シングル空いてなかったし、ツインだと折半でいいから安上がりだよ?」
「そ、そういう意味では…」
「畳の上にベッドがある感じでね、靴脱いで家みたいにくつろげるよ。カラ松くんに拒否権はありません、行こ行こ」
背中を押して、半ば強引に入口の自動ドアをくぐらせる。いらっしゃいませとボーイに出迎えられ、手にしていた荷物を奪われて、背後には笑顔の私。長い溜息が聞こえて、今度こそカラ松くんは観念したようだった。

フロントで手渡された鍵で部屋のドアを開けると、畳の清々しい香りが鼻をくすぐった。玄関で靴を脱いだ先に広がる一室の片側に、シングルベッドが二つ並んでいる。その向かい側には小さなローブルと、背もたれが緩やかなカーブを描く和座椅子。
「わー、本当に和室だ!」
ホテルで靴を脱げる感激に、私の声は自然と弾んだものになる。
「まさかフリで用意した一泊分の荷物が、こんなところで役に立つとはな…」
カラ松くんは対称的に沈んだ顔だ。
駆け落ちで手ぶらはおかしいと、駆け落ちの雰囲気を出すためだけに用意した着替えや荷物のはずだった。万一にも使用するつもりはなかったから、用意を指示した私自身も複雑な心境ではある。
「何の覚悟もなく駆け落ちごっこなんてしたせいか」
暇を持て余した大人の遊び・やりすぎverになった感じ?──あれ、結局これってただの旅行?」
「スマホ禁止縛りはするもんじゃないな」
「まぁまぁ。楽しかったからトントンで」
「オレとホテルに泊まることになったのに、か?」
カラ松くんは恨みがましい目で私を睨みつける。ドアを閉めて内側から施錠をしたら、途端にカラ松くんとのひとつ屋根の下が現実として突きつけられ、意識せざるを得ない状況に追い込まれる。
いつかの、泊まりが未遂に終わったグランピングは厳密には密室ではなかったし、テントの布一枚隔てた向こうには他の客の存在があった。しかし今は──

「これは不可抗力だから。仕方なしに、だからね。
それに何度も言ってる気がするけど、こういうことはカラ松くんだからするのであって、他の人とは絶対無理だし、しないから」
腰に手を当てて、早口で捲し立てる。我ながら言い訳がましく、墓穴を掘った気がしないでもない。
「…ああ、知ってるさ」
けれど彼は優しく微笑んで、私の髪を指で梳く。紙一重で肌には触れていないのに、撫でられているような錯覚をしそうになる。
「その信頼は裏切らない」
迷いなく断言される。

「でも──寝るまでの間、少しだけユーリに触れることは許してほしい」

その言い方は卑怯だ。断れなくなる。推しの可愛いお願いは聞いちゃうよね、だって推しだもの。畜生め。
内心の葛藤を悟られまいと曖昧に笑っていたら、カラ松くんはなぜか急にバツが悪そうに私から目を逸らした。
「あー…あと、下半身に関しては生理現象なので、有事の際は極力近寄らないでもらえると大変助かる…」
それ事前に言っちゃうかぁ、ムードぶち壊しもいいところだ。格好良くは終わらない、さすが年季の入った新品。でも寝顔の推し独占は美味しいとか思ってる自分は、もっとヤバい


順番にシャワーを浴びて部屋でくつろいでいたら、いつの間にか日付が変わる時間帯。
備え付けのパジャマに袖を通し、上気した頬と濡れた髪を後ろに撫で付けたカラ松くんの色気に私が悶絶したことは言うまでもない。こういう時でもトップのボタンを外して鎖骨を露出するサービス精神は誇っていい。さすがに自制して襲いはしなかったが、写真は撮りまくった
「ユーリ、携帯貸してくれ」
ペットボトルのお茶をラッパ飲みしてから、カラ松くんはテーブルに置かれたスマホを見て言った。
「いいよ、むしろそうして。さっきからトド松くんからの鬼電と怒涛のメッセージでうっかり着拒否するところだったから」
「すいません」
電話に出ずとも、童貞集団からの鬼気迫る雰囲気は嫌というほどに伝わってきた。五人からの殺気を真っ向から浴びる気には到底なれなくて、今なお呼び出しで鳴り続けるスマホをカラ松くんに手渡す。画面をタップして、カラ松くんが電話に出た。

「──トッティ、オレだ。すまん、連絡が遅くなった。
…ウェイトウェイト、逸る気持ちはよく分かるがオレの話を聞いてくれ。うん、いやなに、ちょっと遠出したくなって東京から二時間ほどの所にいて──あー、すまないが後ろの奴ら黙らせてくれないか?聞こえない」
スマホを耳から遠ざけて、カラ松くんは眉をひそめた。スピーカーにしていなくとも、五人の怒号が漏れ聞こえる。
「結論を言うとだな…終電を逃してこっちに一泊することになった。うんうん、お前らの言いたいことは理解できる───待て、話は最後まで聞け、殺害方法の相談を始めるな
物騒な展開になってきた。
「…部屋?もちろん別に決まってるだろ、当たり前だ。ユーリが断固としてそこは譲らなかった。
そりゃオレだってあわよくばと思ったさ!チャンスは与えられるものではなく自ら掴みにいくものだとな!なのに、さり気なくツイン提案したら速攻で却下されたんだ!
お前らに分かるか、オレのこの嘆きがっ」
何の茶番だ。
「いいか、ハニーに拒否されてオレはとっとと寝たいんだ──ああ…うん?おい、手のひらを返すように急に憐れむな、背後でひそひそも止めろ
五人の会話が目に見えるようだ。私は声を潜めたまま苦笑する。
「フッ、さてはオレがいなくて寂しいんだな、ブラザー?
ハニーも内心はオレと寄り添いたくてたまらないはずなんだが、いきなり同室というのも憚られたに違いない。オレの周りには何てシャイボーイとシャイガールが多いんだ。もっと素直に心を開いて───あ」
電話が切れたらしい。まぁ、この展開なら私でも切る。

カラ松くんは手でオーケーサインを作って、ウインクしてみせた。
「サンキュー、ハニー」
「…いいの?」
通話が切られたスマホを受け取りながら、私は訊く。
「何がだ?」
「ホテルに誘ったのもツイン取ったのも私なのに」
「正直に言ったらあいつらのことだ、今からでも血眼になってオレを探しに来る。僅かなヒントを頼りに、確実に仕留めに来るだろう。
こういう時はオレが誘ったことにしておくのがベストな采配だ。自然な演技だっただろ?」
得意げにニヤリとするカラ松くんに、私はつい笑ってしまった。
「さすが元演劇部」
「ブラザーたちさえ欺く演技派の…オレ!」
正直、意外だった。バカ正直で、吐いた嘘はいつだって容易く見抜かれて糾弾されるのに、ストーリーも口調も本当に自然で。電話越しとはいえ、兄弟が鵜呑みにするのも無理はない。

「だからユーリ、さっきの電話の内容は──聞かなかったことにしてくれ」

カラ松くんが気恥ずかしそうに頬を掻く。あ、と私は小さく声を上げた。
「も、もちろん、あれはあくまでもブラザーたちを納得させるための方便で…何だ、あわよくばとかそういうことはだな、つまり…」
「うん、嘘も方便ってヤツだよね。分かってるよ」
「…そう、か」
安堵の中に僅かな落胆が垣間見える。ほら、本来はとても分かりやすいのだ、彼は。
「でも」
私は耳にかかる髪を意味もなく掻き上げて。

「改めて言われると、やっぱりちょっと意識しちゃうかな」
ぽつりと溢す。
「ユーリ…っ」
「だから万一夜這いでもしようもんなら、これ幸いと返り討ちにしてお婿に行けない体にするからそのつもりで
「あ、はい」


会話が途切れて、不意に静寂が訪れる。旅の疲れもあって体が重い。いつまでもベッドについて言及しないのも不自然だし、そろそろ休まなければ明日に支障が出そうだ。
けれど私の口から飛び出したのは、まるで違う言葉だった。
「…もしこのまま駆け落ちを続けたら、その先には何があるのかな?」
ローテーブルの上で両手を組んで、問いかける。
自分でも何を言っているんだと思う。禅問答か、と内心で嘲笑する。襲いくる眠気で思考がままならない、そんなことを言い訳にして。
「あ、ごめんね、変なこと言っ──」

「ユーリ」

カラ松くんの手が、私の手に重なる。煌々と輝く明かりの下で、穏やかな表情。
「…少なくとも、ハッピーエンドではないだろうな。新しく人生をやり直す覚悟を持っているなら別だが」
「だよねー。残念ながらそんな覚悟はないかな。何だかんだで今の生活が安定してるんだよね」
仕事には相応のやり甲斐はあるし、ときどき社会の理不尽さに嫌気が差すこともあるものの、仕事終わりにカラ松くんと会って食事をする余力だってある。今回はたまたま、負の感情の昇華が間に合わず、コップから溢れただけなのだ。
「ユーリのようにキャリアがあるなら、リスタートはきっと大変だぞ。ゼロから構築し直しだ。ただ──」
そこまで言って、カラ松くんは言葉を区切る。

「終わらせることなら、簡単にできる」

どうやって、とは訊かない。彼も敢えて明言を避ける。それは、命の灯を吹き消してしまう行為。
「でもハニーには生きて幸せになってほしいし、オレも死にたくはないぞ」
黒い暗雲を薙ぎ払うような、からからと朗らかな笑い声。すくい上げられて、背中が軽くなるような気がした。
「うん、それは私も同意見。でも…今日一日すごく楽しかった。時間が経つにつれて、帰りたくないなって思う気持ちが強くなってさ」
「オレもだ。終電を乗り過ごしたのは本当にわざとじゃないが、もし気付いてても、ひょっとしたら黙っていたかもしれない」
「へぇ、カラ松くんにそんな度胸ある?」
「もちろんだとも!あ──る、と言いたいところだが…ユーリを困らせたくはないしな」
カラ松くんは自分の人差し指を唇に当てて思案顔になった。
不意に、同じ階のどこかの扉がバタンと閉まる音がして、ビジネスホテルの一室に二人きりという現実に引き戻される。目が合って、互いに何となく照れくさい表情になった。

明日は、帰ろう。
私たちの世界へ。

「──で、こういうのって期待させるだけさせておいて、いざってなったらブラザーたちが乱入して強制終了がオチじゃないのか?え、オチなし…?本当に?ジーザス!
カラ松くんが崩れ落ちた。




ベッドに体を横たえて傍らを見やると、同じように布団を被るカラ松くんの姿が映って、むず痒いような何とも言えない気持ちになる。
それぞれのベッド間には十数センチ程度の僅かな隙間があるだけで、感覚的には横並びに等しい。ベッド間に小さなサイドテーブルでもあれば、感じる距離感はまるで違ったのかもしれないが。
「で、電気…消すぞ」
情事前の声かけみたいな言い方止めろ。しかし考えるまでもなく、カラ松くんの発言は至極普通だ。八つ当たり大変申し訳ない。

天井の蛍光灯が消えて、枕元に設置されている間接照明だけがぼんやり光り、かろうじて互いの表情が認識できる明るさを灯す。慣れない固さのマットレスと枕と、傍らに人の気配を感じたまま眠る夜。さすがに心穏やかとは言えないが、居心地は存外悪くない。
「おやすみ、ユーリ」
「おやすみ」
カラ松くんが腕を伸ばして、私の頭を撫でる。なぜか──反射的にその手首を掴んでいた。
「あ、ごめん、つい…」
謝罪と共に慌てて手を離すと、カラ松くんは訳知り顔で顎に手を当てる。
「フーン、何だ何だ、ハニーはオレと手を繋がないと眠れない、と?ハッハー、意外に寂しがり屋なキティなんだな」
からかうような物言いに、私はムッとする。子ども扱いしないでいただきたい。きっと顔にもその態度が出ていただろう。ちょっと反撃するつもりで、緩く握った拳を口元に添えてわざと目を伏せる。

「うん…ドキドキして眠れないかも。手、繋いでくれたら安心するんだけどな」

しかし慣れないぶりっ子は諸刃の剣だった、精神的ダメージが凄まじい。脳内の自分が羞恥のあまり盛大に吐血して卒倒する
そして間の悪いことに───
「は、ハニー…ッ!?」
カラ松くんが勢いよく飛び起きる。
「わああぁあ、起きるな!」
「童貞をからかうのは止してくれないか!こっちは女の子に対する耐性ゼロどころかマイナスなんだぞ!オレが言い出したことに関してはすまない!
密室で二人きりで寝るこのシチュエーションだけで、今どれだけオレの寿命がすり減ってるのか分かってるのか!?」
「ごめん!」
めちゃくちゃガチで怒られた。

「なぁユーリ、もし…もし地球が滅亡する日が来るとしたら」
突然何か言い出した。これは脊髄反射でツッコんだ方がいいのか、スルーすべき案件なのか。
「オレは、今日がいい」
枕に埋めた顔がこちらに向けられて、優しく微笑まれる。
「何を…」
どう応じるのが正解か分からなくて、声が掠れた。

「明日起きた時にユーリがいたら叫ぶ自信しかない」

おい止めろ。
私の鼓膜に死刑宣告。




朝は、カーテンの隙間から差し込む朝日の眩さと共に訪れた。
見慣れない部屋の様相と昨晩の記憶が連結するのに少々時間を要して、駆け落ちごっこの果てにビジネスホテルに泊まることになったことを思い出す。すぐ傍らのベッドには、羽毛布団を抱き枕のように抱えて眠るカラ松くんがいて、朝っぱらから推しの可愛さに尊死しかける。無防備で安らかなこの寝顔を、六つ子たちは毎日無料で視姦し放題だというのか。羨ましさ通り越してもはや憎い。

さて昨晩はというと、手を伸ばせば届く距離でカラ松くんが寝てるから、緊張して全然眠れなかったよ~☆

なんてことはなかった。

あっという間に意識を失い、今の今まで一度たりとも目覚めなかった。爆睡かつ快眠、目覚めはすこぶる良い。
音を立てないようベッドから降りて着替えをした後、洗顔と化粧をさっと済ませる。それから備え付けのケトルで湯を沸かす間に、備品のマグカップにコーヒーのドリップパックを引っ掛けた。豆の香ばしい匂いがふわりと漂う。パックの中で円を描くように湯を注ぐと、濃褐色のコーヒーがカップに広がっていく。
いそいそとカップを両手で持ちながら、カラ松くんのベッドにゆっくりと腰掛けた。推しの寝顔をおかずにして飲む朝の一杯は至高。無音カメラで写真を撮るのももちろん忘れない。

カップの中身が八割方減ったところで、おもむろにカラ松くんの瞼が持ち上がった。差し込む朝日に眩しそうに目を細めて、眉間に深い皺を刻む。
「んー…」
小さな呻き声が口の端から漏れた。見慣れぬ内装をぼんやりと見つめていた彼の黒目は、やがてベッドに腰掛ける私に目を止めた。視線が交わる。
「おはよう、カラ松くん」
「…ユーリ?」
布団を両手で抱いたまま、少し掠れた声で呼ばれる。まだ意識の半分ほどは、温かい泥のような無意識の領域に留まっているようだ。
「そうだよー。コーヒー入れようか?インスタントだけど」
空になったマグカップを揺らして尋ねても、投げられた言葉が脳まで辿り着かないのか、数秒間まるで微動だにしなかった。不機嫌そうに歪めた表情のまま、寝癖のついた自分の髪を意味もなくくしゃくしゃと掻き回す。
「……え?」
そして次に口から飛び出したのは、目の前の現実が許容できないと言わんばかりの、疑問。
「あらあら、寝ぼけてるのかな、可愛い子猫ちゃん」
私はニヤリとほくそ笑み、少々大袈裟に足を組み替えた。みるみるうちに瞠られていく彼の双眸。

「──寝顔、可愛かったよ」

次の瞬間、耳をつんざく絶叫が轟いた

「な、なんっ、何で…っ!?」
カラ松くんは、羽毛布団を抱えたまま飛び起きるように上半身を起こす。それからハッとして自分の着衣を見回した。
襲われてないか確認するな。残念ながら襲ってない。その手があったかとは思ってる。っていうか、何でって、もう忘れた?」
他愛ない言葉のやり取りにさえ私の胸が弾む。寝癖さえ可愛く感じるのは、いつも完璧を気取る彼が、気を許した相手にしか見せない無警戒な姿だからなのかもしれない。
しかし私の胸中とは裏腹に、カラ松くんはじわりと目尻に涙を溜めたかと思うと、次の瞬間それを決壊させた。

「ベッド際での寝顔可愛かったよは、オレがやりたかったー!」

泣かれた。




ホテル内のコンビニで購入したパンを朝食にして、チェックアウト時刻に間に合うように部屋を出る。
宿泊というレアオプション発生時にしか見ることが叶わない、寝間着姿でコーヒーを啜る姿や、洗面台に向かって髭を剃る光景をスマホ片手に凝視していたら、最初こそ気恥ずかしそうに頬を染めていたが、最終的にはいつまで見てるんだと呆れ返られた。掌返しのツンな態度もまた良し。
フロントで会計を済ませた私たちは、ボーイに見送られてホテルを後にする。ホテルから駅までの距離は徒歩五分もかからない。
「ねぇ、カラ松くん」
肌を撫でる風は冷気を含んでいるが、日差しは暖かい。
「駆け落ちは、もうしないでおくよ」
え、とカラ松くんの声が裏返った。不安げに眉を下げながら、慌てて私の傍らに駆け寄ってくる。
「お、オレと泊まったのがそんなに嫌だったか?」
「そうじゃなくて、そもそも駆け落ちってさ、愛し合っている男女が一緒になることを許されないから逃げるってことじゃない?」
「ああ…まぁ、そうだな」
「だからこれは明確には駆け落ちじゃないよなぁ、って」
両手を高く掲げて伸びをする。寒空の下、曇りのない晴れやかな晴天が私たちを照らしている。
「…今更すぎないか、ハニー」
「でもおかげでカラ松くんと一泊旅行しちゃった──楽しかったなぁ」

一つの出来事が終焉に向かう。
時計の針が止まることはなく、始まりは須らく終わりと共にある。私たちが出会ってからこれまでの期間に数多繰り返してきたように、この出来事もいわゆる思い出の一つへと、姿を変える。ただ、それだけのこと。


「──ストレスは発散できたか?」

私は驚いてカラ松くんを見る。
「そういう目的だっただろ?」
「…うん」
駆け落ちという単語が持つ迫力を前に、当初の目的を見失っていた。駆け落ちごっこは、目的を達成するための手段の一つに過ぎない。
結果的に、目的は無事達成したと言える。当事者が目的を失念するくらいなのだから、達成率としてはそれはもう万々歳だろう。
「そうでした。仕事も家事も、明日からまた適度に頑張るよ」
「オレがユーリにしてやれることなんてたかが知れているが、癒やすくらいならできると思う。仕事や家事が嫌になった時は、いつでも呼んでくれ。いくらでも愚痴を聞くぞ」
でも少しだけ、この駆け落ちの幕が下りることを、私は──残念に感じている。

「え、なにこの癒やし系次男
「フッ、またしてもギルティな属性を手にしてしまったようだ」
「反論できない。まんまと癒やされてしまった、悔しい」
夜が明けなければいいのにと思った。
「ユーリは笑ってる顔が一番キュートだぞ」
そうすれば、私たちの駆け落ちは終わることがないのだからと、ガラにもなく感傷的になった。
「ハニー。もしハニーさえ良ければなんだが、その…またいつか、二人で旅をしないか?」
けれど、始まりと終わりは表裏一体。終わりの後には再び、始まりが訪れる。

「今度は、口実なしで」

あっけらかんと放たれたその言葉が、どれだけ私の琴線を震わせたか彼は知る由もない。
「あ、当然、泊まりもなしで、だ」
あくまでも今回がイレギュラーであることを強調するのは、保身からではなく私への気遣いだと分かる。警戒心を抱かせない思惑も、幾分かは混じっているだろうけれど。
「そういう台詞は、旅費稼いでから言ってよね」
「…っ、ユーリ!それは、つまり…」
「急ごう、カラ松くん。早く行かないと電車来ちゃうよ」
スムーズに特急に乗り継ぎするためには、十分後の普通電車への乗車が不可欠だ。駅を指差して、私は先行するように彼に背中を向けた。
「ユーリ!」
スニーカーが地面を蹴る軽快な音が、耳を通り抜ける。


さぁ、次はどこへ行こうか。

どこまで逃げるか駆け落ちごっこ(前)

「駆け落ちしないか?」

隣に座るカラ松くんから、散歩に誘うかのような気軽さで放たれた衝撃的な一言に、私はしばし開いた口が塞がらなかった。
転機が訪れるのは、いつだって突然だ。




「あーもうっ、やだやだ、こういう日は飲まないとやってらんないよ!」
私はグラスに注がれたビールを一気に煽って、叩きつけるように乱暴にカウンターに置いた。
仕事帰りにカラ松くんと待ち合わせをして訪れた、チビ太さんの屋台である。
その日は嫌なことがあって、気分が塞いでいた。仕事でミスをしたとか、理不尽な叱責を受けたとか、社会人には往々にありがちなストレスが、運悪く複数重なったのだ。週末の金曜日、本来ならば明日からの休日を前に浮き立つ幸せな時間を、私は鬱々と過ごしている。
「飲みすぎんなよ、ユーリちゃん。愚痴ならオイラがいくらでも聞いてやるから」
空になったグラスには烏龍茶が注がれた。
「ありがとう、チビ太さん。…うん、食べる方にシフトチェンジします。チビ太さんのおでん、冬場は特に五臓六腑に染み渡りますよね」
おっさんくさい発言になってしまったが、世辞を受けたチビ太さんの顔には、まんざらでもない笑みを浮かぶ。

「おいチビ太、ハニーの一番の理解者はオレだぞ」
私の傍らに腰掛けていたカラ松くんは、眉間に皺を寄せて牽制する。お前は何を競ってるんだ。
「知らねぇよ。というか、だから何だってんだ」
チビ太さんは呆れた様子で腕を組む。完全に同意。
「ハニーもハニーだ。相手がチビ太とはいえ、オレ以外の男に軽々しく弱みを見せるもんじゃない」
これが意図的な発言なら、もう主演男優賞受賞しろ。そして矛先を私に向けるな。
「でもさぁ、もう今日はぜーんぶ嫌になっちゃったんだよね。疲れたし、仕事したくないし、家事もやだ、都会の人混みも無理」
「フッ、そのサッドなフィーリング分かるぞ、ユーリ──オレも昨日今川焼きの分け前がなかった
知らんがな。
「ストレス溜まってるのかなぁ。誰も私のこと知らないとこに行きたい、知らない街に行きたい。モヤモヤしたのパーッと発散したい」
出汁の染みたちくわをかじって、咀嚼する。荒んでいると自身で明確に自覚するくらいには、疲弊しているらしい。
カラ松くんはしばし仏頂面でおでんを口に含む私を見つめた後、心なしか目を輝かせて顎に手を当てた。
「何にも囚われず自由を謳歌する…オレ。フーン、悪くない」
「まぁ、表現を変えるとそうなるね。私もそうありたいよ」
起因する感情がポジティヴかネガティヴかいう大きな相違はあるが、私たちの利害は一致する。台詞が違うだけで、全く違う方向性のように聞こえるから不思議だ。

「なぁ、ユーリ──駆け落ちしないか?」

箸で掴んでいた大根がぽろりと皿に落ちる。チビ太さんも無言で目を剥いていた。
「はい?」
「いわゆるランナウェイだ」
いわゆるの使い方がおかしい、逆だ逆。
「駆け落ち?恋人でもないのに?」
「こいび…っ、いや、うん…まぁ、そうなんだが」
前提を覆されてカラ松くんは狼狽するが、めげずに前のめりの姿勢で続ける。
「向かい合わなければいけない現実から目を背けるには、逃げるのが手っ取り早い。
それに、何も本当に駆け落ちするわけじゃない。日帰りにするし、要はユーリのストレス発散のための駆け落ち『ごっこ』だ」
その言葉は、かつての某事変を彷彿とさせる妙な説得力があって、私は──
「いいね、採用」
人差し指を彼に突きつけて即答する。
「ええっ!?ちょっ…気は確かか、ユーリちゃん!
駆け落ちは百歩譲ってまだいいとしても、相手は童貞ゴミカス職歴なしクズニート二号のカラ松だぞ!?」
「チビ太お前言い方気をつけろ」
カラ松くんが真顔でチビ太さんをたしなめる。いやしかし紛うことなき事実ではある。
「さっそく明日決行しよう。腹括ったら善は急げ」
「ナイス決断力だ、ハニー!」
力強く拳を握りしめた後、互いに合意を取った意味合いのハイタッチ。私たちの手のひらがぶつかる軽快な音に、チビ太さんの溜息が重なった。
「そう心配するな、チビ太。ハニーの身の安全はオレが保証する」
ビールが半分ほど残ったグラスを傾けて、カラ松くんはニヤリと笑う。
「駆け落ちごっこかぁ…何か新鮮な遊び方でいいね」
「オレとハニーのランナウェイは、ブラザーたちにはシークレットで頼むぞ」
「へいへい」
カラ松くんの依頼に肩を竦めて生返事のチビ太さんが、本当にいいのかと言わんばかりに心配そうな目を向けてくるから、緩い笑顔でもって答える。
推しと逃避行とか、課金してでも這いつくばってでも参加すべき限定イベントでしょうが。




私たちの駆け落ちごっこは、翌朝駅での待ち合わせから始まる。
ただの遠出にならないように、一泊分の宿泊セットを詰めたボストンバッグを下げて臨場感を演出。そもそも日帰り予定なので、邪魔になったら駅のコインロッカーにでも預ければいい。
着替えの入ったバッグを持って待ち合わせるだけで、十分すぎる非日常感だった。妙な照れくささを感じて、カラ松くんと目が合った瞬間に思わず笑ってしまう。
「目的地は決めずに、適当に遠くに行こう。とりあえず東京は脱出して、目指せ他県!」
「なら、方角だけ決めるか。こっち側に向かうなら温泉街に辿り着くぞ」
持参したガイドマップを開いて、カラ松くんが言う。
「温泉かぁ、いいなぁ。っていうか、昨日の今日でガイドブック用意とは、なかなか用意周到だね」
「フッ、お遊びのランナウェイとはいえ、ハニーを未開の地へエスコートするわけだからな。一流のガイドは必須だろう?」
カラ松くんは恭しく敬礼するかのようなポーズを決める。

「本日はハニーの仰せのままに」

大袈裟すぎると一笑に付そうとして、止める。顔を上げたカラ松くんの頬が赤く染まっていたからだ。居心地が悪そうに、視線が逸らされる。
「…というか、本当は、その……例え嘘でも、ユーリと駆け落ちするんだと思ったら浮き立ってしまって、他のことは何も手につかなかったんだ」
私は両手で顔を覆って天を仰いだ。
言葉にならないとはまさにこのこと。朝の一発目で心の臓を鷲掴みしてくる尊さ襲撃。
「何か、カッコ悪いよな」
「カラ松くんは可愛い属性だから問題ない」
「かわ…え?」
「その可愛さは誇っていい。見た目はどっちかというと雄々しいんだけど、照れ顔とか笑顔は可愛さメーター振り切ってブチ壊す勢いだし、デフォでイケボとエロい腰のラインとか本当もう語彙を喪失するレベルで───」
「すいません、もう勘弁してください」
今度はカラ松くんが両手で顔を隠す番だった。後に私は、この時のカラ松くんはさながらタコのようだったと語ることとなる。

郊外行きの電車は比較的空いていて、乗換駅までは座席に座りながら、制限時間を決めて電車に乗ろうかなんて、普段では決して交わさない内容の会話に花が咲いた。
温泉街のある県へ向かうために、途中で特別特急に乗り換える。せっかくの機会だからと奮発してグリーン券を購入したが、それでも乗車券込みでニ千円ほどだ。一時間車たっぷり窓からの景色を満喫できるなら、安いものである。
リクライニングで頭までゆったりと預けられる座席に、カラ松くんは感嘆の息を漏らす。窓際を譲ったら、目が一層の輝きを宿した。可愛い。

「こういうこともあろうかと、お菓子持ってきたんだー」
私は言いながら、鞄の中からポテトチップスと個包装されたチョコの袋をそれぞれ取り出して、前列シートの背面に付属のテーブルに載せる。
「ハニー…どっちが用意周到だ。人のこと言えないじゃないか」
「道中も立派な旅路だよ?」
「ノンノン。旅行じゃない、駆け落ちだ」
恨みがましく向けられる眼差しに、からかうような色を滲ませて。
「そうでした。誰も私たちを知らない場所に逃げ込むんだよね。たまたま行き先が温泉街になったってだけで」
「オーケー、いい子だ」
ご褒美をやろう。そう言ってカラ松くんはキューブ状のチョコを私の口にの中に放り込む。
「…これ、私が買ったヤツなんだけど」
「ユーリのような聡明なレディは、小さいことを気にしないもんだぞ」
犬も食わない応酬の果てに、揃って吹き出す私たち。子どもみたいに邪気のない彼の笑みは、私の目にとても好ましく映った。

電車は動き出し、車窓の景色が目まぐるしく変化する。
ポテトチップスを頬張りつつ、私はスマホの電源を切った。それから無造作に鞄に仕舞う私を、カラ松くんは不思議そうな顔で見やる。
「携帯、いいのか?」
「東京にいる友達から連絡きたら、現実に引き戻されちゃう気がしてさ。せっかくの非日常体験なんだから、俗世との繋がりは断っておきたいんだよね」
「トッティから鬼電がくる可能性もあるしな」
「それな」

我が意を得たりとばかりに私は首を縦に振る。
今日私と外出することは六つ子も了承の上だろうが、帰りが遅くなれば心配を装って迷いなく電話で妨害をしてくる連中だ。日帰りとはいえ、遠出故に帰宅時間は遅くなるに違いないから、不安の種は事前に摘んでおくに限る。
「駆け落ちは本来帰らない前提のものなんだし、帰る時間は決めないで行こうよ」
「もちろん構わないぞ。今日はユーリの好きなようにする日だ、オレはどこでも付き合う」
「何だか、ちょっとドキドキするね」
「数多のカラ松ガールズを差し置いて、ガイアのトレジャーであるこのオレと駆け落ちするんだ。ハニーといえど緊張して当然じゃないか?んー?」
双眸を輝かせ、悩ましげに気取った仕草をするカラ松くん。
「…そうかも」
「へぁっ!?」
素っ頓狂な声が上がった。何だ、へぁって。




電車はゆっくりとスピードを落とし、温泉街最寄りの駅に停車する。大きなリュックやボストンバッグを抱えた観光客と思わしき人々が下車するのを見送って、私たちも未知の地へと降り立った。
「目的地にとうちゃーく!」
開け放たれたドアから軽やかなステップでホームに出る。その後ろにカラ松くんが続いた。
「ガイドによると、ここからはバスで半時間ほどだ。無料の送迎バスが出てる」
「マイクロバスかな?旅って感じするね、さぁ盛り上がってまいりました!」
まだ見ぬ温泉街への期待感と共に、私のテンションも俄然高まっていく。
「ご機嫌だな、ハニー」
「そりゃもちろん。
旅と温泉ってだけでも楽しいのに、そこに推しがついてくるわけだからね。これはいうなれば、推しと行く魅惑の温泉ツアー!一般的には鬼のような高倍率抽選を突破し、ボッタクリ同然の課金をしてようやく得られる栄光。その上、他の連中を出し抜いてやろうという黒い思惑の同行者たちがないから、不用意に推しに近づこうものなら目で殺しに来る恐怖もない!
素晴らしい世界、と私は両手を組む。
「ええと、んー…すまないが、ハニー…公衆の面前で高らかにシャウトは止めてくれないか
カラ松くんが赤く染まった顔を片手で覆いながら、困惑げに言う。いつもと立場が逆。
「旅の恥はかき捨てだよ、カラ松くん」
「ああ、ユーリの言いたいことは分かる。よーく分かるが──やらかした本人が免罪符に使う言葉じゃないぞ
真っ当に叱られた。




どこまでも伸びている錯覚に陥りそうな高い石段の足元に、宿が無償で提供している足湯がある。長い歳月の経過を思わせる腰掛け用の木材が足湯を囲むように敷かれ、茶褐色の湯からはゆらゆらと湯気が立ち上る。
「あー、生き返るねぇ」
腰掛けに両手を付いて、私は長い息を吐き出した。
「旅の疲れが癒やされていくようだな。レトロな町並みも風情があっていい」
傍らには、デニムパンツを膝までたくし上げて足湯に足をつけるカラ松くん。
浴衣姿の観光客、温泉街の名物でもある長く続く石段の左右に並ぶ江戸の城下町を彷彿とさせる古い外観の建物、土産物屋の年季の入ったのぼり。いずれもどことなくノスタルジーを感じさせる。
「気持ちいいだけじゃなく、推しの生足を拝めるサービスシーン付きだなんて贅沢の極み
「…ユーリ?」
「冬場だったからぶっちゃけ油断してた。全身しっかり着込んで、露出ゼロですか何か?みたいな鉄壁だったのに、ここにきてまさかの素足とは
足湯に足を入れる姿はもちろん凝視させていただいた。動画で撮らなかったのは失態だ。悔やまれてならない。
「血管が浮く足の甲ってエロいよね」
「何でオレに言うんだ」

確かに。

「いやね、本当贅沢だなと思って。
駆け落ちとはいえ温泉に来て、こうして足湯につかってただでさえ気分は最高潮なのに、一緒にいるのがカラ松くんだから余計に」
最高だよね、と笑って告げれば、名を呼ばれた本人は目を剥いて僅かに頬を赤くした。
「フッ、大胆なハニーだ。真っ昼間からオレへのラブを囁くとは。
しかしいいだろう引き受けた!ランナウェイのパートナーとして最高に相応しい働きを見せてやろうじゃないかっ」
カラ松くんは舞台役者のように大袈裟な素振りで、両手を広げて自分を抱きしめるポーズを作る。
「わー、頼もしー」
対する私の返事はというと、完全に棒読み。わざとらしい感想に興味はない。
本調子ならまぁ何よりだと気分を改めたところで、ふとカラ松くんが私の顔をじっと見ていることに気付く。促すように首を傾げれば、おもむろに言葉が紡がれる。

「…たった一日限りの駆け落ちでも、ユーリの相手役を務められるのは光栄だ。オレの誘いを受けてくれて、ありがとう」

尊い。
感極まりそうだ。当推しは本日も素晴らしく尊い存在です。
「ううん、こちらこそ。誘ってくれてありがとう」
「断られたらどうしようかと思った」
「普通は断るよね。よりによって駆け落ちだもん。冗談言わないでよってなる」
「ユーリは断らなかったじゃないか」
膝に頬杖をついたカラ松くんの顔に、意味深な笑みが浮かぶ。どこか自信に満ちた、けれど茶化すような。
「うん、断らなかったね。あの時は気持ち的にもそんな選択肢なかったし」
「ハッハー、需要と供給が一致したグッドタイミングだったわけだな。さすがオレ!
「どうだろ。でもそうなのかも」
曖昧に笑ってこの話題に終止符を打つ。
駆け落ちしないかと誘われて即座に拒絶しなかったのは、酔いが回っていたせいか、現実に嫌気が差していた心境のせいか──それとも。もしもあの時、真剣な眼差しで問われてたら、私は首を横に振ることができただろうか。
「…ん?ハニー、どうかしたか?」
「え…あ、ううん、何でもない。これからどこ行こうかなって考えてただけ」
今さら過去を振り返っても栓ないことだ。
「土産物屋でも見て回るか?チビ太には口止め料を払わないといけないしな」
「なら、地酒でも探そう。おでんに合いそうなヤツ」
口では駆け落ちだ何だと言いながらも、私たちが交わす会話は全て、帰宅する前提で成り立っている。後戻りできない切迫感や悲壮感が似合わないせいもあるのだろうけれど、結局は今の生活圏を気に入ってるのだと再確認させられる。




「いやー…しかし何だ、酔ったな」
何杯目かの空になったビールジョッキをテーブルに叩きつけて、カラ松くんは大きく息を吐き出した。目は据わっている。
観光地から少し離れた場所にある個人経営の居酒屋のテーブル席で、温泉地名物に舌鼓を打ちながら私たちは酒を飲んでいる。大将と女将の二人で切り盛りする小さな店で、客の入りは七割といったところ。程よい賑やかさは、BGMとして耳に心地よい響きをもたらす。
「カラ松くん飲みすぎじゃない?
ビールのチェイサーにウイスキーのロックは狂気の沙汰だよ」
ただでさえ六つ子の中では酒に弱い部類に入るというのに。しかし私の心配など気にも留めず、カラ松くんは愉快そうに肩を揺らす。
「ドンウォーリー、ハニー。ユーリを無事に家まで送り届けるオレの使命は、もちろん忘れちゃいないさ」
「そうじゃなくて…」
「んー、どうした?他に心配事か?遠慮せずこのオレに言ってみるんだ」
酒が入ったせいか気が大きい。仕草もいちいち大仰だ。私は溜息をついて、水の入ったグラスを彼に差し向ける。

「私の家までは私がいるからいいけど、その後に一人で無事に帰れる自信ある?
私が心配するから、チェイサーは水にしておきなよ」

「……っ!」
息を呑んだカラ松くんの顔が、一気に朱に染まる。
ほら、と声をかけながらもう一度グラスを向ければ、彼はおずおずと躊躇いがちにグラスを両手で包み込んだ。促されるまま、冷えた水で喉を潤す。
「ハニー…その、今のは…ズルいんじゃないか?」
「何が?」
わけが分からなくて問うと、カラ松くんはグラスに浮かぶ氷をじっと凝視しながら答えた。
「東京に帰ったらオレたちは夢から覚めて、元の生活に戻る。でも例え一日限りでも、全部嘘でも、ユーリの駆け落ち相手でいられたことがオレにとっては光栄なことだった。なのに…」
雑音に紛れてしまうほど消え入りそうな音量なのに、私にははっきりと聞こえる声。
「なのにそうやって優しくされたら──帰りたくなくなるだろう?」
逸らされたままの視線は、やがて地面に落ちて。

「このままユーリを攫って逃げてしまいたいと…そんなことを考えてしまう」

これはイベント突入の序章か、と内心前のめりで意気込んだが、決して顔には出さず当惑の表情を作る私。
だがその後カラ松くんが紡いだ言葉は、私が抱いた僅かな期待を勢いよく容赦なく全力でへし折ってくれた。
「でも、寂しいから帰るのヤだって言ったらユーリは引くだろ!?だからっ、飲んで理性をなくしてバーサーカー状態になるのが手っ取り早いんだ!
おおっと気遣いは無用だぞ、ハニー!この松野カラ松、酒にはさほど強くないが古代より隣国に伝わる酔拳の使い手、ハニーの一人や二人守るなんてワケないぜっ」
追加で注文したビールジョッキをあおって、はははとカラ松くんは高らかに笑う。

ああ、そうだった、こいつべろんべろんの酔っぱらいだった
戯言真面目に取り合うべからず。というか、そもそも実際の酔拳は飲酒しない武術だ、本物の使い手の方々に謝れ
しかし、まぁ何というか、寂しいからヤだって台詞は駄々っ子の如く叫ばれたらフル無視するが、可愛く半泣きで言われたら即座にホテル連れ込むだろうな、うん。そういう意味でも残念。

「──そんなわけで、そろそろいい頃合いじゃないか?」
取皿に残った料理を口に放り込んで箸を置き、カラ松くんは手を合わせた。
「スマホないと時間確認しなくなっちゃうね。今何時だろ?」
程よく酔いが回って気分は高揚している。笑いながら店内の壁掛け時計を見上げて───私は絶句した。
「……は?」
「どうした、ユーリ?」
「えーと、あのね…」
咄嗟に言葉が出てこない。震える指で時計を示したら、彼は私の指先を追って時計に目を向けた。そして同じく言葉を失う。

「え…十時?」

終電にはもう、間に合わない。

カラ松事変とハニー

カラ松くんがときどき、憂いを帯びた表情を見せる。
看過できない懸念を抱えるような、宝物を失った物悲しさのような、ずしりと抱えるその荷物は、彼の表情に陰を落とす。

誰しもそんな時があるだろう。年がら年中機嫌がいいわけではないし、悩みの一つや二つ、ひっそりと胸の内に秘めているものだ。
けれど多くの場合、人前では極力顔に出さないでおこうという心理は働く。人はその防御反応を強がりとも呼ぶ。
そして大抵のことは、蓋をするなり乗り越えるなりで、早い段階で過去の遺物となる。いつまでも淀み続けるものは、悩みというカテゴリを超えて、トラウマと呼ぶべき代物だ。溜めて煮詰めたところで、歪に濁った醜いものは、いつか清らかに昇華して無と化すわけでもない。




「何か嫌なことでもあった?」
「え」
唐突な私の問いかけに、カラ松くんは目を見開く。驚愕を顔に貼り付けたのはその一瞬で、すぐに居心地が悪そうに目を逸らしてかぶりを振った。
「いや、大したことじゃない…少し、思い出したことがあるだけだ」
遠くに視線を投げながら、彼は片手を額に当てた。

その時、六つ子の部屋にいたのは私とカラ松くんの二人だけだった。カラ松くんは腰高窓の枠に、私は少し離れたソファにそれぞれ腰掛けて、他愛ない会話に花を咲かせていた。
話題が途切れた頃、カラ松くんが何とはなしに窓の外に視線を投げて、直後にその目を苦々しげに歪めたのだ。推しの新規情報収集に全神経を研ぎ澄ませている私に死角はない。
「もうずいぶんと昔のことなのに」
「解決してない悩み事?」
視線の先に答えがあるのかと、ソファから立ち上がり、窓から身を乗り出して外の様子を窺う。しかし私の目に映るのは、いつもと何ら変わらぬ風景だ。松野家前の道路に至っては、人はおろか、犬猫一匹さえ姿がなく閑散としている。
周囲の木々は葉を散らして痩せ細り、そよ風の冷たさと共に冬の到来を感じさせた。
「解決はもうしてる…と思う。
ただ、たまに思い出して、どう言えばいいか分からない気持ちになるんだ。…すまん、ユーリに関係ある話じゃないから、今のは忘れてくれ」
鬱々とした感情を誤魔化すように、カラ松くんは苦笑する。肩を竦めたその仕草が、どこか痛々しい。
「それ、解決してるって言わないんじゃない?」
意図せず、遠回しに探りを入れるような言い方になってしまった。
しかしカラ松くんはそのことに気付いた様子でもなく、どうだろう、と小さく溢す。
「今更蒸し返してどうなるんだという気もする。気まずくなったり、機嫌を損ねるのも本意じゃない」
内容は見当もつかないが、対象は絞り込めた。ニートである彼の行動範囲と交友関係は限られているから、私の知る範囲であれば、という前提だけれど。
相手が私の推測する面子のいずれかだとしても、関係性の崩壊を招くような遺恨を残すことはないと踏んでいたが、買い被りだったのだろうか。それとも、単に私が無知なだけか。

「…私が聞いてもいい話?何か力になれそうなことある?」
「ユーリ…」
嬉しそうに、はにかんで。そしてまた彼は、額を触った。これで二度目だ。
「おでこが痛むの?」
「あ、いや、これは…っ」
近づいて、カラ松くんの手を押しのける。抵抗されるかと思い少々力を込めたが、意外にも容易く防御が崩れるから、ほぼ無抵抗な彼の黒い前髪をゆっくりと掻き上げた。

そこにあったのは──小さな、傷跡。

周りの皮膚とは僅かに色の異なるそれは、接近してようやく気付けるくらい目立たないもので、完治してから長い期間の経過を物語る。
「この傷に関係あるんだ?」
問いかけても、カラ松くんは答えない。
私は彼の腰掛ける窓枠に膝を立てて、上から覗き込む格好で、額の傷に緩く指を這わせる。
「──ッ」
カラ松くんがぴくりと眉をひそめたのは一瞬だった。やがてどこか恍惚とした表情に変わったかと思うと、身を委ねるように目を閉じる。
そんな彼を見下ろしながら、私はふと思うのだ。

これ間違いなくこのまま抱けるフラグじゃないか?

俄然鼻息も荒くなる。
しかし、とっておきのヘヴンを見せて差し上げよう任せろと意気込んだところで、我に返ったカラ松くんから制止を食らう羽目になる。お決まりのパターンに今日も敗北を喫した。茶化そうとした私も悪いが、ぶっちゃけ悔しい


それでも、この話にはまだ続きがあって。
「なぁハニー、実は行きたい場所があるんだが」
唐突な話題転換。さては誤魔化す気だなと私が警戒するのを知ってか知らずか、カラ松くんは窓から外のアスファルトを見下ろした。
まるで、そこに何かがあるとでもいうかのように。

「来週の週末に、ついてきてくれないか?」

もし深淵を覗く気があるなら──そう言われた気がした。




トイレを借りるために一階に下りたら、野良猫を抱えた一松くんと廊下ですれ違う。
「あ、ユーリちゃん」
薄く笑みを浮かべて、彼は会釈した。
松野家トップクラスで異性に免疫がないと豪語する四男も、私に対しては今や緊張感はなく、比較的自然体に近い態度で接してくる。出会った当初こそ、二人きりになろうものなら脱兎の如く逃走、目が泳ぎまくる、挙げ句の果てには泡を吹くといった挙動不審全開だったので、その時期に比べると飛躍的に気心の知れた仲になったといえる。

「また来てるんだ、ほんと飽きないね」
一松くんは冗談っぽく片側の口角を上げた。
「飽きるとか飽きないじゃないんだよね、もう生活の一部っていうかルーティンみたいなもんだから。あ、でも来週は来ないよ、海に行く予定」
「海?こんなクソ寒い時期に?」
正気を疑うとばかりに一松くんは眉をひそめる。
「うん、カラ松くんに誘われたんだ」
私がそう答えると、彼は僅かに目を見開く。そこには、単なる驚きとは異なる、複雑な感情が僅かに垣間見えた。
「カラ松が…ふーん、ユーリちゃんを誘って、ねぇ」
「その言い草だと、やっぱり因縁は兄弟にありそうだね」
「え…あ、何だ、カラ松から何も聞いてないの?」
今度は単純な驚愕を顔に貼り付ける。
そうだと頷けば、一松くんは片手を顎に当てて思案した後、きまりが悪そうに私から視線を外した。

「まぁ兄弟間で一番理不尽な目に遭って冷遇されるのが、カラ松がカラ松たる所以だから」
「とんだスケープゴート」
「自分から首突っ込んでくるところもあるし」
それについては否定できない。
私が唇を噛んで唸ると、その様子がおかしいのか一松くんは少し声を出して笑う。
松野家の六つ子は、壊れかけの橋だ。安全平穏と見せかけて、些細なきっかけでやすやすと崩壊する脆さを内包している。各々に役割を割り振ってバランスを保っているから、役割変更はすなわち崩落に近づくことを示す。
カラ松くんを哀れんで優しく甘やかせば、六つ子の均衡が崩れる───そんな風に、彼らは考えているのかもしれない。
狭い世界観しか持たない童貞ニート集団はこれだから面倒だ。

「でもユーリちゃんを連れて行きたいって言うんだから、あいつの中でもう決着はついてるか、少なくとも決着つけようってとこなんだろうね」
「うーん、もしかして重大な任務を仰せつかった?」
「構える必要ないでしょ。おれとしては正直、堂々とデート宣言は腸煮えくり返るけど、回復して耐久ゲージ上がれば引き続き酷使できるし、悪くはない話
さらっとむごいこと言う。
複雑な胸の内を隠すことなく私が眉根を寄せれば、一松くんは胸に抱く猫の肉球を親指の腹で押して遊び始める。それから周りに誰もいないことを確認して、私に向けて手招きをした。

「帰ってきたら、おれも続きを教えてあげる」
耳元で囁くように。
「続き?」
「カラ松の話の続き。おれとユーリちゃんだけの内緒話だよ」
人差し指を自分の唇に当てて、一松くんはニッと意味深に笑う。
「誰にも話さないって約束してよね」

彼の腕の中の猫が、にゃあと鳴いた。




約束の翌週は、あっという間に訪れる。
待ち合わせ場所は私の最寄り駅。交通手段は電車だとばかり思っていたから、駅前のロータリーにカラ松くんが車を乗り付けてきた時は目を丸くした。
「イヤミから奪っ──借りてきた」
奪ってきたって言いかけたよこの人。
「オレが行きたいと言い出した場所にハニーをエスコートするんだ。手間をかけさせないスマートな手段を選ぶのは当然じゃないか?」
さぁどうぞプリンセス。そう言ってカラ松くんは助手席のドアを開ける。
「私は気にしないよ」
言われるまま乗り込んで笑う。それが例え乗り換えの発生する移動であっても、カラ松くんとなら苦に感じないのに。
彼は運転席でエンジンをかけながら、目線を真正面に向けたまま答えた。
「オレがそうしたいんだ」
そっか、と私は頷いた。ならば拒否する理由はない。
「それに車だと、その…二人きりだ。ユーリにだけ聞いてほしい話を、他人の目を気にせず話すのにも都合がいい」
推しの時間独占イベントが発生するたびに、課金すべきなんじゃないかと心配になる。
これ全部無料でいいの?太っ腹すぎない?
「確かにね。ならせっかくだし、私の話も聞いてもらおうかな…他の人には内緒のこと」
課金すべきか問いたくなる本音を隠して冗談っぽい声音で告げれば、カラ松くんは目を細めた。車は緩やかに速度を上げて、駅を離れる。

「どんなことでもウェルカムだぞ。ユーリの役に立てるなら、オレは──何だってする」


冬の海は、寄せては返す波の音と人気のない砂浜の雰囲気が相まって、心細くなるような哀愁を漂わせる。磯の香りを乗せた海風が、私の鼻をくすぐった。
照りつける灼熱の太陽と汗ばむ蒸し暑さの中で賑わっていた海水浴場の面影は、今はどこからも感じられない。広がっているのは同じ景色のはずなのに、気温が違うだけでまるで異なる様相を呈する。

「ユーリ。砂に足を取られないように、段差に気をつけて」
私に手を差し伸べて、カラ松くんは言う。
道路から海水浴場に下りる階段に、風で吹き付けたであろう細やかな砂粒が積もっていた。階段で体勢を崩すほど子どもじゃないと一度は拒否しようとしたが、すぐに思い直す。重なった手は、温かかった。
「望んで来ていて何だが、冬場の海は人気がないな。海はやはりサマーにこそ真価を発揮する」
オレには似つかわしくない、とカラ松くんは腕組みをして首を振った。
「でも冬の海ってさ、物思いに耽ったり、誰にも聞かれたくない大切な話をするにはピッタリな場所だよね」
「…そうだな」
僅かにカラ松くんの声のトーンが下がる。
それから彼は階段の砂を手で払い、私の席にだけタオルハンカチを敷いて、着席を促した。自然体でハンカチ敷いてきたよ、何この気遣いの紳士。突然のクリティカル攻撃止めて。


砂浜に続く階段に並んで腰掛ける。周囲に私たちを遮る障害物は何もない冬の海。その光景は私たちに、非日常感をもたらした。
「ユーリには言ったことがなかったと思うんだが」
会話の切り出しに、そんな前置きがあった。
「──海と梨は嫌いだった」
「だった?」
出会ってから今に至るまで、どちらにも嫌悪感を示されたことがなかった。そもそも海と梨は、一見まるで関連性がないものだ。
意図が掴めずに私が首を傾げると、カラ松くんは私を見つめる目を柔らかくして、薄く微笑む。

「どっちもいいものなんだと、ユーリが認識を変えてくれたんだ」

風になびく前髪を掻き上げて、カラ松くんは続ける。彼の表情から笑みは消えた。
「夏、海に行こうと誘ってくれた。いつだったか手土産の梨を剥いて、笑顔で差し出してくれた。ユーリにとっては何てことない日常の一動作が…オレにとっては救いの光だった」
それからカラ松くんは、兄弟間におけるいわゆるカラ松事変と呼ばれる事件を私に語った。借金のカタとしてチビ太さんに拉致されたものの、兄弟からは安否を心配されるどころか、最終的には安眠妨害の罰として数々の凶器を投げつけられ、尽く蔑ろにされたこと。額の傷は、その時にできたものらしい。
さらに追い打ちをかけるように、その直後に四男に対しての態度と決定的な相違をまざまざと見せつけられ、根本的な解決がないまま今日に至る。まるで、そんな事件など起こらなかったとでも言うかのように。

「思い出すと心臓が痛くなるから、思い出さないようにしていたし、別のことを考えて誤魔化してきた。
あれからブラザーたちもその話をしないし、あいつらの心境を知るのは正直怖かったんだ」
「うん」
「オレは梨以下なのかとか、目の前でオレが死にかけていても危機感を抱かないのかとか、色々考えて」
「うん」
「──オレの命が梨に負けたと分かった場所が、海だったんだ」
その時のカラ松くんの絶望は想像を絶する。無意識のうちに眉間に皺を寄せていたら、長い指がすっと伸びてきて、私の髪に触れた。
「夏に、海水浴に行っただろう?
その時は、思い出すこともなく過ぎたんだ。周りの見た目や雰囲気が全然違うせいもあったんだろうと、そう思った。
しかし冬場はさすがに動悸の一つでもするんじゃないかと、こうして確かめに来た」
「…今はどんな気分か、聞いてもいいのかな?」
うん、と返事があって。

「やっぱり、何とも思わないんだ。
でもそれは…こうやってハニーが側にいてくれるからなんだろうな、きっと」

海よりもユーリのことばかり考えていると、彼は言う。
「でもこの間みたいに、まだときどき思い出すんでしょう?」
私の問いかけを、彼は否定しなかった。
「ふとした時に過ぎることはある。ただその頻度がユーリに出会ってから格段に減ったのも、紛れもない事実なんだ」
未解決事件の被害者のようなものなのだろう、と私は思う。
意識を切り替えるきっかけが掴めないまま、時だけが残酷に流れていく。確かな真実が一つでも手元にあれば、慰めにはならなくとも、前に進む拠り所にはなり得る。
カラ松くんが望むのは、きっと──

「…もしもの話なんだけどさ」
仮定する未来が訪れないことを心から願っているけれど。

「もし、どうしようもないくらい辛くて、何もかも嫌になるようなことがあったら───逃げておいて」

これは私の覚悟だ。
カラ松くんの幸せを願い、私を誰よりも信頼していると言って憚らない彼へに向けた、私の。
けれどまさか私の口からそんな言葉が飛び出してくるとは予想だにしていなかったのだろう、カラ松くんは面食らった様子だった。
「当面の間なら、うちに居候してもいいよ」
「ユーリ…」
「もちろん異性だから警戒はするし、制限は設けさせてもらう。洗濯とかは当然別々だし、万一にも襲ってきたら襲い返す…じゃなくて絶交。生活費は折半ね」
他人が聞けば、取り立てて騒ぎ立てるほどでもない、些末な会話の一部分に過ぎないのだろう。しかし当事者にとっては、相応の勇気を要する宣言だった。
「冗談に聞こえるかもしれないけど、私は真剣にそう思ってるから。カラ松くんさえ良ければ、駆け込み寺にしてくれていいよ」
カラ松くんに悲しい顔をさせるくらいなら、私が彼を守る盾となろう。




「…ユーリ、その…すまん」
片手で自分の口を覆って、カラ松くんは目線を落とした。その口角は上がっている。
「何と言うか…嬉しすぎて、どう頑張ってもニヤけてしまう。だから、今あまり…こっちを見ないでくれないか」
頬どころか耳まで赤く染め上げたカラ松くんの眉は、困惑を滲ませて釣り上がる。真面目なシーンの途中で大変申し訳ないが、見ないとか無理、クソ可愛い。
聞こえなかったフリをしてギンギンに凝視する──何ならより接近もする──私と、一層恥じらって顔ごと私に背を向けようとするカラ松くん。やがてどちらともなく肩を揺らして笑い声を上げて、重苦しい空気が溶けていくのを感じた。


「なぁ、ハニー」
ひとしきり笑った後、カラ松くんは波打ち際を見つめながらぽつりと言った。
「オレは、ずっと暗い顔をしてるように見えたか?」
「え?私にはそう見えたんだけど」
違うの?と問えば、カラ松くんは唇でへの字を作って思案顔になる。だって、その言い方は、まるで。
「だとしたら──それは誤解だ」
「誤解…?」
「ハニーと出会ってからは、あの時のことを思い出すことはあっても、少しずつ息苦しくならなくなって、それがずっと不思議だった。
先週だってそうだ。ブラザーたちから鈍器を投げられた記憶がフラッシュバックしても、何だか遠いメモリーのような、他人事のような、そんな感覚しかなくて」
結合されていたはずの記憶と感情が乖離することで、彼を縛る鎖が切れたのだろうか。
しかし、ああ、と私は思わず声に出していた。先週の会話を思い返すと、一切合切が腑に落ちる。

カラ松くんは一言だって口にしなかった、『辛い』『悲しい』といった言葉を。

曖昧に提示される情報に、都合よく補完していたに過ぎない。
「でも、どう言えばいいか分からない気持ちになるって…」
訊いてから、負の感情だと決めつけていたのは自分だと思い知らされる。上記の表現もまた、どちらとも取れる不明瞭なものだったから。
「ああ、それは、その……ユーリといられる今が、すごく幸せだな、って…」
消え入りそうな声で、カラ松くんが言う。
「え、それだけ?」
私は思わず目を見開いた。それならそうと素直に言ってくれればいいのにと、不満が表情に出る。
「んー、よーくシンキングするんだ、ハニー。
ユーリが側にいるだけで、ブラザーたちに軽視された挙げ句蔑ろにされたトラウマ払拭するどころか、幸せを感じるんだぞ!このマイナスからのプラスへの驚異的な転換、ハードドラッグキメた感がハンパない!
不本意だが、分かる気もする。
「そしてオレは悟ったんだ、ニート童貞寄生虫総じてクズのあいつら如きに執着するのはナンセンスだと
「待て待て、すごいブーメラン」
紛うことなき同類が何熱く語ってるんだ。振り切ってきた。

「でも…そうやって最後は必ずユーリが守ってくれるのを分かってるから、逃げ場を用意してくれるから、オレは安心して過ごせるんだと痛感してる──男としては、いささか複雑な胸中だが」
嬉しさや情けなさといった相反する感情を抱え、眉根を寄せる。
「推しには幸せでいてほしいって思うのは、普通じゃない?
推しだよ?同じ空気吸ってるどころじゃない、触りまくれる推しなんだよ?
大事なことなので二回言わせていただく。
躊躇なく真顔で言い放つ私に、少し照れくさそうな表情を返して、カラ松くんは苦笑いを浮かべた。
「…正直、そう言わせるために誘った感もある。オレの存在を肯定して、必要としてると言ってほしい下心はかなりあった…ハニーの優しさを利用したんだ」
「素直じゃないよね」
「そうだな───最低だ」
いつになく声のトーンが低くなった。頬を撫でる風の中に、つんと鼻を突く潮の香りが混じる。
私はカラ松くんの背中を景気づけに叩いた。仰天した顔の彼と目が合う。

「そういうとこも可愛いってことだよ」




階段を下りたら、眼前には一面の白い砂浜。
一歩踏みしめるたびにブーツがじわりと沈み込んで、足が取られる。けれどその不安定さも砂浜の醍醐味だ。両手でバランスを取りながら、私は波打ち際へと歩を進める。
「もっと近くで海見ようよ、カラ松くん」
「──え…あ、ああ」
ぼんやりと私を見つめていたカラ松くんが、ハッと我に返る。
「フッ、ハニーのスマイルが眩しすぎて、ウィンターフェアリーが降り立ったかと錯覚してしまったぜ。静寂の地に降臨したフェアリーに導かれる…オレ」
ナルシスト劇場始まった。
「いいだろう!この松野カラ松、導かれし者として喜んで馳せ参じよう!」
大袈裟な仕草で胸元に手を当て、カラ松くんが背筋を正す。まるで舞台上の役者みたいに。
まぁ、彼曰くトラウマだった海でこれだけの軽口が叩けるなら、もう心配はいらないだろう。

「ユーリ」
太陽を背にしてカラ松くんが微笑む。
「冬の海も…いいな」
「うん、夏とは違った風情があるよね」
耳に心地よい音色と共に、穏やかな波が規則的に浜に打ち寄せる。私たちは粒子のような砂粒が舞う地面から、海水にしっとりと濡れた波打ち際へと近づく。穏やかな海だ。
海水がどれほどの冷たさなのかふと興味が湧いて、海水に触れるために私は腰を屈めた。
「ユーリ、濡れるぞ」
「平気平気。ちょっと触るだけだから」
しかし波が引いたのを見計らって一歩前に進んだ私は、すぐにその行為を後悔することになる。
次の瞬間、波の引きが強くなったのだ──ということは、つまり。
慌てて後ずさるが、濡れた砂のぬかるみにブーツの踵が埋もれて体勢を崩す。後方に傾く体。しまった。
どこにでもなく伸ばした手に掴むものはなく、あ、と情けない声が口から漏れた──その刹那。

ふわりと体が浮いて、カラ松くんの優しい顔が目の前に迫る。

「……あ」
「まったく、本当に聞き分けのないレディだ」
しかし叱責の言葉とは裏腹に、表情と声はどこまでも優しい。
背中と足の裏に腕を差し入れられて、お姫様抱っこされていると私が気付いたのは、それからすぐのこと。

「ユーリは目を離すと勝手にどこかに行ってしまいそうな気がするから、他のことに気を取られている暇なんてないな」

何だか、それが彼の答えのような気がした。
ごちゃごちゃと理由を述べていたけど、結局のところとてもシンプルで。私のおかげではなく、カラ松くん本人の意志なんじゃないかと、そう思うのだ。


「足、濡れちゃったね」
地面を見下ろせば、打ち寄せた波が今もカラ松くんのスニーカーを濡らしている。
「ハニーが無事なら構わないさ」
「冷たくない?」
「冷たい。チビ太に拉致された時のようにコールドだ」
「あー、やっぱり」
「でも…嫌な感情はない。むしろ今だって不可抗力とはいえハニーに触れられていて、かなり役得だ」
ふにゃりと破顔したカラ松くんが近い。地に足がつかなくて不安定なのに、二点で支えられた私の体は僅かにも揺らがない。
そっとカラ松くんの首に両手を回す。
「ユーリ…っ!?」
カラ松くんは頬を真っ赤にして、けれど私から決して目を離さない。びくりと、私を抱く手に僅かに力がこもった。

周囲に誰もいない静かな海岸は文字通り二人だけの世界で、これが無課金だと…?とひたすら愕然としていたのは内緒だ。




私たちのいわゆるキャッキャウフフな展開は長続きしなかった。勢いを増した波に足をさらわれて、私を抱いたままカラ松くんが砂浜に尻もちをつくという盛大なオチがあったためだ。
しかし私だけは落とすまいと健闘してくれたおかげで、再び私が砂浜に足を着いた時、海水に濡れたのはブーツの底だけだった。カラ松くんは下半身が悲惨なことになったが。
こういう事故も折り込み済みの車だったのかもしれない。ビニール袋を運転席に敷いて、カラ松くんは何事もなかったようにハンドルを握った。

松野家に帰宅して早々に、カラ松くんは風呂場へ消える。
私は濡れた彼の靴を持って家の裏へ回り、庭の水道で海水を洗い流す。乾かすために沓脱石に立て掛けていたら、着替えを終えた彼がおそ松くんと廊下で話す姿が見えた。

会話を終えて二階へ上がるカラ松くんを追いかけて、六つ子の部屋に続く襖を開ける。
「ハニーか?」
「カラ松くん、カラ松くん」
「ん?どうしたハ───…いや、エスパーニャンコ」
僅かな間があって、カラ松くんの声が弾むのが分かった。彼の表情は私には見えない。
なぜなら──

私はエスパーニャンコを自分の眼前に掲げて、彼に語りかけているのだ。

「ユーリは、自分の気持ちを正直に言ってるだけなんだ。
利用したとか、最低だとか、罪悪感は感じなくていい。ユーリはそんなこと微塵も思ってない」
それから。
「でもこれからは、助けてほしい時は助けてって素直に言ってほしいな。そしたら、いつだってすぐに駆けつけられるよ」
猫が微動だにしないのを幸いに、私の代弁者としてカラ松くんに告げる。人形劇よろしく、片足を持ち上げてみせたりして。

縁側で靴を洗っていた時、一松くんに声を掛けられた。
もう平気らしいよと結論を投げれば、じゃあ約束通り内緒話をしようと言って、サンダルを引っ掛けて私の傍らに彼は降り立つ。
エスパーニャンコを介して本音を曝け出し、偏屈で劣等感の塊である己自身と嫌でも向き合わざるを得なくなったこと。カラ松へのフォローが遅れて拗れたのは、猫を逃して兄弟の手を煩わせた自分にも原因があるから、と。
くれぐれも他言無用だと指切りを交わして、黒歴史は私に共有される。カラ松くんにとって最も親しい異性である私に話したのは、彼なりの贖罪なのか。どうしてその話を私にと問いかけても、困ったような笑みが返ってきただけだった。


しばしの沈黙があった。
カラ松くんが今とんな顔をしてどんな想いを抱いているのか、私には想像もつかない。せめて一言でいいから何か言葉を発してくれと念じた頃、彼はようやく口を開いた。
「…分かった。いつも感謝しているとユーリに伝えてくれ」
その声が孕むのは、コップの縁から水か溢れて零れ落ちるような、受け止めるには大きすぎるくらいのひたむきな熱。
不意にエスパーニャンコの頭が撫でられて、息が止まった。
「いいよ、言っておく」
「それともう一つ、ハニーに伝えて欲しいことがあるんだ」
「何?」
反射的に訊いたら、カラ松くんから躊躇するような空気が漂う。静寂がなぜかむず痒くて何か言おうと声を出しかけた、その時。

「オレは今、無性にユーリに会いたいんだが、良ければ会ってもらえないか──って」

力が抜けると同時に、エスパーニャンコが不快そうに身を捩らせた。そして私の手をすり抜けて部屋を出る。ぱたぱたと階段を駆け下りる軽快な音が、次第に遠ざかっていく。
仮面を失った私は、顔を上向けるしかない。
「もちろん、喜んで」
笑顔と共に両手を広げたら、今にも泣き出しそうに目を潤ませて胸に飛び込まれる。
「ハニー…ッ」
言葉にならない想いは呼び声に乗って。抱擁は痛みを感じるほどに強く。
言葉一つでこんなに喜んでくれるなら、いつだって好きなだけ紡いであげよう。それこそ、降り積もるくらいに。
幸せ貯金なんていいかもしれない。幸せが貯金できるかは分からないけれど。

彼の前髪を掻き上げて、傷跡に触れる。
消えなくてもいいから、せめて気にならないくらい小さくなりますようにと祈りを込めて。




「カラ松兄さん、ユーリちゃん!そろそろ晩御飯って母さんが───
音もなく姿を現した十四松くんが、開けっ放しの口を一層大きく開けて目を見開いた。彼の瞳に映るのは、室内で抱き合う男と女。固まるのも当然か。
「えーっ!兄さんずっるうううぅぅうぅうぅい!」
えらい巻き舌で叫ぶ五男。
「ちっ、違…十四松、これはその、あの…っ」
兄弟に抱擁を目撃された羞恥心で顔を真っ赤にしながら、カラ松くんはしどろもどろに弁明しようとする。可愛すぎるだろ。誰でもいい、今すぐ一眼レフ持ってこい、今すぐにだ。
しかし十四松くんはどこ吹く風で引き続きズルいを連呼し、兄の言い訳は端から聞く耳持たずの様子。

「ねぇみんな聞いてー!カラ松兄さんズルイんだよ!ユーリちゃんと二人きりで、しかもめちゃくちゃ抱きしめ──」
「シャットアッププリーズっ、じゅうしまああああぁあぁあぁつ!」

家中にカラ松くんの叫びが轟いた。お後がよろしいようで。

ニートと社会人それぞれの時間

このお話は、不本意な出会いと再会に関連する内容が随所に含まれています。





「一瞬で、世界が姿を変えた」

ユーリを強く意識するきっかけになったのは、街中で再び彼女と会った時だった。
瞬きをした直後にユーリの姿を脳が認識した、その僅かな時間があれば十分だった。心を奪われるのは、本当に一瞬だ。
けれど今思えば、時限爆弾が仕掛けられていたような気もする。
カフェで本を読むユーリを知覚して、可愛い子だとぼんやり思った。本を読むために伏せがちな瞳と、形の良い唇から目を離せなくなった。ときどき見せる気の緩んだ表情にさえ、愛嬌を感じたのを覚えている。
数多の女性がカラ松の視界を通り過ぎた中で、ユーリだけが脳裏に焼き付いて離れなかった理由は、実は今もよく分からないのだけれど。
財布を落としたと声を掛けられた時は、一年分の運と引き換えに手に入れた幸運だと真剣に思ったものだ。
初めて言葉を交わした際に胸に広がった感情の名を、この時のカラ松はまだ知らなかった。答えを知りたいと願い、精一杯気取って、どうにか接点を作ろうと足掻こうとした矢先に、ユーリは風のように去ってしまう。
その時はまだ、運がなかったと容易く諦めがついた。導火線に火はついていたが、火薬にまでは辿り着いていなかったのだろう。

カラ松の世界がユーリを中心に回り始めたのは、それから僅か数日後のことである。背景と化した群衆に紛れて、髪を靡かせながらユーリが横切ったのを目で捉えた、その瞬間からだ。
世界が姿と色を変えた──一切の誇張なく、そう思った。

「ハニーと出会ってから、もうずいぶん経つんだな。
横断歩道で再会した時のことを覚えているか?あの時、ハニーをハニーとして認識するのは、一秒もかからなかったんじゃないかと思う」
白い湯気が立ち上るカップを片手で持ち上げ、カラ松くんは遠い目をする。
買い物帰りに、たまたま私たちが出会うきっかけとなったカフェに立ち寄ったことで、話題は自然と二人の出会いに関するものに移った。
「私は気付かなかったんだよね。カラ松くんサングラスしてなかったし、服装も全然違ったから」
強いて言えば、再会時の印象は薄かった。それが今や笑顔ひとつで軽く息の根を止めてくる━━被害者は十割私だが━━推しへと進化しているのだから、人生何が起きるか分からないものである。
「個体として認識できない群衆が行き交う交差点で二人が再び巡り合う…まるでドラマみたいだと思わないか───なぁ、レディ」
わざとらしく目を細め、カラ松くんはほくそ笑んだ。初めて出会った時に私を呼んだ、懐かしい呼び名と共に。
「あんな一瞬でよく気付いたなぁ、っていうのが正直な感想かな」
「相手がユーリなんだから当たり前だろ」
つまらないことを問うなとばかりにカラ松くんは鼻白んだが、やがて戸惑いがちに指先で鼻を掻いた。

「…今度こそ、必ず会える約束を取り付けたかったんだ」

核爆弾落ちてきた。
「…今だから言うが、ユーリを呼び捨てするのだって、本当はすごく緊張したんだぞ」
「ん、んんッ!?」
私は眉間に皺を寄せて、大きく咳払いする。日常会話にぶち込まれた会心の一撃で私は早くも瀕死だ。今日も推しが可愛さの限界値を更新してくる。
「ああいう誘いをするは初めてで、正直スマートだった自信はない。でもユーリの前で自然体でいられたのも本当で…あの時、勇気を出して良かった。
おかげで、今もこうしてハニーと会えてる」
情熱的な眼差しが向けられる。
「人生何が起こるか分からないもんだね」
時に人は、個々に定番化された行動パターンの範疇を超え、物語の進行方向を大きく変える。舵を取るのは他の誰でもない、いつだって自分自身だ。
「ユーリとは生活圏が被るから、頻繁に街を歩いていればいつかは出会える可能性は高かったんだろうが…再会は早ければ早いほどいい」
「そうなの?」
「会うのが遅くなるほど、ユーリと二人で作るメモリーが減るだろ?
一つだって、逃したくないんだ」
例えそれがほんの一瞬のことだとしても、と。
また会ってくれないか。赤く染まった顔で振り絞られた懇願が、不意に脳裏に蘇った。
「そのうち記憶が薄れて、気付かなくなる可能性もあるね」
「それはない」
間髪入れずに否定されてしまい、私は肩を竦める。
「自信満々だなぁ」

「他のガールズ相手ならともかく、ユーリのことだからな。
どれだけ時間が経っても、ユーリがオレを覚えてなくても、きっと声をかけたはずだ」

独白のような呟きだったが、芯の通った力強ささえ感じられて、咄嗟に気の利いた反応ができなかった。
言葉を探していたら、カラ松くんは私が呆れていると勘違いしたらしく、口をへの字にしてテーブルの上で頬杖をつく。
「…信じてないな、ハニー?」
「えっ、ごめん、違う違う。私とは今かなり自然に一緒にいられてて、そういう軽口も言えるってことは、慣れてくれたのかなって思って」
誤魔化すように笑えば、カラ松くんは双眸を輝かせながら大袈裟な手振りで前髪を掻き上げた。
「フッ、夜空を彩るスターであるハニーを華麗にアテンドできるのは、ガイア広しと言えどオレくらいなものだ」
さよか。
下手に否定すればより面倒な展開になるので、私は苦笑するに留める。
「──と言いたいところだが、まだ慣れたとは言い難い。今だって、少し緊張してる」
心なしか音量が下がって、微かに頬を染めた顔でカラ松くんは私から視線を外した。
「嘘だぁ」
「嘘じゃない」

ほら、と。
テーブルに置いていた私の右腕が突然掴まれて、引き寄せられるまま手のひらがカラ松くんの胸に触れた。
「……え」
胸の鼓動が、布越しにダイレクトに伝わってくる。
「な?言った通りだろ?」
首を傾げて、同意を求めるその表情は、さながら頭を撫でられるのを待つ犬のようだ。
松野家次男による天然タラシ発動。
これ揉んでいいの?遠慮なく鷲掴みにしていいやつ?

これが世間でいうところの誘い受けってヤツかと鼻息を荒くしたところで、私は手を離さざるを得なくなる。私が手を動かすより先に、カラ松くんが自分の大胆さに気付いてしまったからだ。チッ。




「たった十分でも、見逃せない」

郊外へ出掛けた帰りの道中で、半時間ほど電車に乗ることになった。幸い座席を確保できて、私とカラ松くんは並んで座る。窓の外は鮮やかなオレンジ色に染まり、太陽は水平線の彼方へと沈もうとしていた。
席に腰を下ろして数分が経った頃、カラ松くんが船を漕ぎ始める。ゆらゆらと頭が前後に揺れ、一段と下がったところで弾かれたように顔を上げる動作を、何度か繰り返す。
「カラ松くん、眠そうだね」
口元に手を当てて、私はくすりと笑った。彼を襲う眠気の原因は、待ち合わせ場所にやって来て早々に聞かされた。六つ子による『翌日デートに出掛ける次男を眠らせてたまるか大作戦』なるものが決行され、明け方まで麻雀に付き合わされたのだそうだ。中学生か。
出掛けている最中は、程よい緊張感や移動もあって覚醒していたが、電車の不規則な揺れは寝不足でない者の眠気をも誘う、抗い難い誘惑である。
「す、すまん、ユーリ…退屈とか疲れてるとか、そういうのじゃないんだが…」
「寝てていいよ」
「え?」
「電車で寝るのって気持ちいいもんね」
分かるよ、と私は感慨深げに首を縦に振る。
「しかし…」
「大丈夫、着いたら起こすから」
安心させるつもりで口にした言葉は、彼の望む回答ではなかったらしい。
「違うんだ。ここで眠ってしまったら、その分ユーリと過ごす時間が減ってしまう、から…」
言いながらもカラ松くんの瞼は徐々に重みを増して、やたらとあくびを繰り返す。限界は既に間近だ。
「うん」
意図して、新たな話題を振らずに相槌のみに留めた。腕と足を組み、うつらうつらと睡魔と戦うカラ松くんの姿が、窓ガラスに映る。幾度となく抗って覚醒を試みるも、不安定に上下していた頭はやがてがくんと落ちたまま微動だにしなくなった。

地平線の向こうに太陽が沈む頃、紺青から群青にかけるような美しいグラデーションが空一面に広がる。日没と黄昏の間、限られた時間にだけ見ることが叶う、透明感のある青。
ふと肩に何かが触れる感触があって、驚いて見やれば、カラ松くんの頭だ。口を半開きにした無防備な寝顔で私にもたれ掛かっていた。
電車内において一度でも睡魔に身を委ねようものなら、耳障りな走行音さえ子守唄になる。否、そもそも日頃から野郎六人横並びで就寝する彼には、走行音など無音に等しいのかもしれない。他愛ないことを考えながら支え役を担っていたら、自然と口角が上がった。


「…ユーリ?」
車内アナウンスが次の駅の到着を予告すると同時に、カラ松くんが意識を取り戻したようだった。もたれた体勢のまま顔を上げて私と目が合い、飛び跳ねるように姿勢を正す。
「もう起きたの?まだ十分くらいしか寝てないよ」
「い、いや…すまん、まさかハニーにもたれ掛かってるとは…ッ」
カラ松くんの頬が上気して、心なしか声が上擦る。
「自然とそうなっちゃうよね。寝てるカラ松くん、もうちょっと見たかったのにな」
「か、からかわないでくれ!」
押しに弱い推し──シャレにあらず──クソ尊い。世界一可愛い生き物がいここにいます。
「だって、寝てたのたった十分くらいだよ」
区間にして僅か二駅ほどだ。お世辞にも寝不足解消に十分とは言えない。
「十分か…でもさっきも言ったが、仮に五分でも十分でも、寝てしまった分だけユーリと過ごす時間が減ってしまうだろ。それはオレの意に反する」
「物理的には増減してないけど。感覚的なものってこと?」
「居眠りして過ぎた時間は、記憶が抜け落ちたのと同じだ」
分かるような、分からないような。私が唸って腕を組めば、カラ松くんが薄く笑う。

「誰に対してもじゃないぞ──あくまでもユーリ限定だ」

特別感を漂わせる甘い口説き文句。計画的かつ意図的に紡ぐことができれば、今頃彼女の一人や二人いてもおかしいないのだけれど。
「もう寝ない?」
「おかげで目が覚めた」
猫みたいに手を丸くして、カラ松くんは目を擦る。無防備すぎるだろ超絶可愛い。私の語彙力はもう行方不明だよ。
「家帰るまでもつかな?今日はゆっくり寝なきゃね」
「…麻雀、逃げ出してでも参加しない選択をすべきだったかもしれないな」
顎に手を当てて思案顔になるカラ松くんに、私はかぶりを振った。
「いやぁ、無駄な抵抗だと思うよ。不参加表明したって、どうせ強制させられるんだから」
何せ相手は五人の悪魔だ。狭い室内に安全地帯は存在しない。抵抗すればするほど奴らの嗜虐心をくすぐり、自体は悪化の一路を辿るのが目に見える。

間髪入れず私が断言したのが意外だったのか、カラ松くんは僅かに目を瞠ってから、声を上げて笑った。
「ははは、すっかりオレたちのことに精通してきたな、ユーリ」
限りある記憶力はもっと有効に活用したいものだが。
「まぁ、期間は短いけど、濃厚なお付き合いだからね」
「の、濃厚…っ!?」
カラ松くんが仰け反る。瞬時に察する聡明な私。うん、そういう意味じゃない。今の話の流れは、どう考えても接触頻度の話だろう。
「でも、知らないこともまだまだ多いんだなって感じてるよ」
「そうか?ユーリに隠すようなことは特に何もない気がするんだが。近頃のブラザーたちにしても、ユーリがいる時でもフリーダムだしな」
釈然としないとばかりにカラ松くんは眉をひそめた。
あいにく、知り合ってたかだか数ヶ月で相手を理解していると胸を張れるほど、自惚れてはいない。私たちは互いに、表層の一部を垣間見ているだけに過ぎないのだ。
見えているものが全てと、ゆめゆめ思うなかれ。

「電車でうたた寝するカラ松くんを見たのは、今日が初めてだよ」

だからこそ、新しい一面を知るたびに胸が躍る。それが僅か十分でも、見逃せない時間は今も多くある。これからだって、きっと。
私たちを乗せた電車は、がたごと音を立てながら、終着駅を目指して進んでいった。




「もう一週間だぞ」

風呂上がりにかかってきた電話に出るなり、カラ松くんの口から怒号のように飛び出した言葉がそれだった。
スマホの画面に映し出された松野トド松の文字。トド松くんからの電話は珍しく、緊急の用事でもあるのかと応じたら、末弟のスマホを握っていたのは次男だった。
「たった一週間だけど」
小さく溜息を溢して、私が答えるのは──私たちが会っていない期間。
私の仕事の繁忙期とカラ松くんの金欠が重なり、仕事終わりに会う選択肢がまず失われた。かといって電話をかける理由も見つからず、漠然とした寂寞感を感じながらも、カラ松くんからの連絡がないことをこれ幸いと、体力回復に専念していた。言い訳になるが、それだけ余裕がなかったのだ。
週末は週末で、松野家が一家揃って親戚の法事参加のため他県に遠征し、逢瀬の延期を余儀なくされる。
カラ松くんから電話がかかってきたのは、そんな週末を終えた翌日の夜ことだ。
「一週間というのは今日の時点で、だ。次の休みまで会えないなら、二週間も会わないことになる。そんなに長く会わないなんて、今までなかったじゃないか」
非難するようにカラ松くんは言うが、私は連日の残業で貯蓄された疲労感で、当面は休息が最優先なのだ。
それに──

「トド松くんに写真とか送ってもらってたから、離れてる感覚なかったよ」
推し成分の摂取には不自由していない。
直に触れずとも、膨大な写真や動画で栄養補給し、脳内妄想で活力を得られるレベルに達している私の自給自足力を侮ってもらっては困る。もちろん、推し本人を眼前にした際の破壊力には到底及ばないのは当然として。
しかしカラ松くんは納得するどころか、しばらく画面の向こうで無言だった。

「…ハニーと連日のように連絡を取ってたトド松に、今ほど殺意を感じたことはない」

しくじった。
地雷はどこに埋まっているか分からないから厄介だ。末弟の無事を祈る。
「文字だけのやり取りだと、時間選ばずにできるんだよね。カラ松くんの近況を教えてもらったりもしてたよ」
「んー、隠し事はノンノンだぜ、ハニー。自撮り写真を頼まれたりもしてたじゃないか」
「…っ!?」
なぜそのことを知ってるのか。
週末、法事前の気怠げな兄弟を写した写真がトド松くんから送られてきた。彼らを労い、私自身は自宅で体を休めていることを告げたら、写真でも送ってよと言われて、スッピン部屋着で限りなくやる気のない様子の自撮りを返したのだ。

「ちなみに自撮りを送ってほしいと頼んだのはオレだ」

「…は?」
私は言葉を失った。何しとんねんお前は。思うままぶちまけようと口を開きかけたが、私も私でその後推しの単体写真を追加発注したので人のことは言えない。送られてきた写真はイラつくキメ顔の投げキッスだったが、秒で保存した


「ユーリが元気なのも忙しいのも知ってたが、会うどころか声も聞けないのは辛い」
嬉しいことを言ってくれる。
「週末はちゃんと会いに行くよ」
何だか遠距離恋愛みたいな言い草だ。いい子で待っていてね、なんて慰めたくなる。
「カラ松くんもスマホ買ったらいいのに。格安スマホなら、お小遣いで賄えるんじゃない?」
「フッ、離れている間もオレを独り占めしたい?ガイアのカラ松ガールズを敵に回す覚悟はできているんだな、ハニー?」
スマホを地面に叩きつけたくなる衝動を必死に堪える。双眸を輝かせてポーズを決めているのが容易に目に浮かぶ。
「私は別に支障ないから、どっちでもいいんだけどね」
「え…は、ハニー…怒ったのか?」
興味なさげにぶっきらぼうに答えたら、急にトーンダウンする小心者のカラ松くん。
「怒ってないよ。カラ松くんは相変わらずだなぁと思ってるだけ」
「そ、そうか…?面白くない冗談だったな、すまん。そんなことを言うために電話したんじゃないんだ」
画面越しに、深呼吸する音が聞こえた。
「…実は、ユーリに折り入って頼みがある」
真剣味を帯びた声音に、私は自然と背筋を正した。
「どうしたの?」

「ユーリの今から十分間を、オレにくれ」

改まって何かと思えば、そんなことか。疲れている私を気遣っての時間制限なのだろう。
「十分って、時間のことだよね?」
「ああ」
「寝るまでにはまだ時間あるからいいよ。何話そっか?」
肩の力を抜いて笑いながら、私がそう答えた──次の瞬間。

玄関のインターホンが鳴った。

まるで見計らったようなタイミングで。
電話がかかってきた時から私の前に提示されていた、幾つかの真実と小さな違和感が一つの線で繋がる。家の固定電話からでなく、トド松くんのスマホから電話をかけてきたのも、まさか。
視界の先には、暗がりにひっそりと佇む玄関ドア。
弾かれように私は立ち上がった。もつれそうになる足を奮い立たせて、廊下を走る。
「ユーリ」
優しい呼び声が、スマホを通してだけではなく、すぐ近くからも聞こえてくる。疑惑は確信へと姿を変える。
解錠してドアを開けたその先に待ち受けていたのは───電話の相手、その人。

「エンジェルの翼を借りてはるばる飛んできたぜ、ハニー」

耳からスマホを離し、柔らかな笑みを浮かべて。
「十分って、もしかして」
「──玄関口でいい。ユーリの顔を見ながら、ユーリの声が聞きたい」
くっそ、何だこの過剰すぎるサービス精神、今すぐベッド連れ込みたい。
私は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「すぐ帰るから」
私を気遣うその言葉を、素直に受け取るわけにはいかない。
「馬鹿言わないでよ。わざわざ来てくれたのを数分で追い返すなんて、できるわけないでしょ」
「いや、しかし…」
カラ松くんが辞退しようとするのを遮って、私は玄関を開け放つ。
「入って。この通りスッピンだし部屋着だし、何のお構いもできないけど、三十分くらいなら時間取れるよ」
端から延長させる魂胆だとしたらとんだ策士だが、戸惑いがちにふにゃりと相好を崩すカラ松くんを見たら、本当に十分で帰る気だったのが分かるから。
正直者には、福が来るのだ。




「一分でも一秒でも長く、いっそ永遠に」

カラ松くんは、袖を捲くった青いパーカー姿だった。いかに繁忙期を乗り切るかばかりに意識が囚われていたせいで、平和な日常の象徴である彼の普段着は、私に一時の安らぎをもたらす。
「勝手に来ておいて何を言っているんだと思うかもしれないが…その、迷惑だったらすまない。ユーリには仕事があるのに、配慮が足りなかった」
私が差し出したマグカップを受け取りながら、唐突に殊勝なことを言う。
「少しくらいなら平気だよ」
わざわざ会いに来てくれて嬉しいというのが正直な気持ちだったが、下手に吐露すれば、カラ松くんを調子づかせるだけだ。
「夜遅くに突然レディの部屋を訪ねるのは、紳士のすることじゃなかったな」
「カラ松くん以外の人だったら通報してたかも」
冗談を返したつもりだったが、カラ松くんは私を見つめたまま硬直した。カップに注がれたコーヒーから白い湯気がゆらゆらと不規則に立ち上る。

「それは…ハニーにとってオレは、他の男とは違う、と思っていいのか?」

不安げに揺らぐ声。
私は唇に指を当てて思案する素振りを見せたが、己の感情を隠し立てする必要性はどこにもない。
「うん、いいよ。というか、他に受け取り方ないでしょ」
「…えっ、あ、そ、そうか……うん、そうか」
噛みしめるように反芻して、カラ松くんは目を細める。アルコールが入ったわけでもないのに目尻に朱が差すから、すぐ傍らで直視する私は少しくすぐったい。

「こうやってハニーの時間を独占できるのは、正直…嬉しいんだ」
それが例え数分という僅かな期間だとしても、と。
「一分でも一秒でも長く、ユーリがオレのことを考えてくれたら、オレと共に過ごしてくれたらと、そんなことをよく考える。…あ、いや待てよ…自分で言っててアレだが、何か怖い考え方だな、これ」
言い終えてから、カラ松くんはバツが悪そうに苦笑いを浮かべて頬を掻いた。狭い室内に突如広がる静寂は、ピンと張り詰めるような緊張感を運んでくる。
「でも縛り付けたくはない、自由でいてほしい、笑っていてほしい。だからユーリの意思で選んでほしい──オレは、今まで通り正直な気持ちを伝えるまでだ」
いつになく神妙な面持ちだ。
私は少し深めの呼吸をして、不安に翳る彼の目を真っ直ぐに見据えた。

「私は最初から、自分の意思でカラ松くんと一緒にいるよ」

自信を持って断言できる。これは依存なんかじゃない。
間髪入れずに私が言い放つので、カラ松くんは唖然と目を剥いた。
「今まで通りでいいんだよ。私も、自分の都合のいい時にカラ松くんを誘ってるんだから。無理な時は無理って断ってるでしょ?」
「でも、いつも代替案を出してくれるし…」
「そりゃもちろん、カラ松くんと会うの楽しいからね。他に理由ある?」
快活に、明瞭に。すれ違って勘違いして、結果仲違いにでもなったら面倒なだけだ。すりガラスの向こう側が見えなくて不安だと言うなら、私が叩き割って連れ出してやる。

肥大した濃厚な寂寞感を一掃すれば、底に残るのは小さな希望。
「フッ、オレもだぜ、ハニー」
片方の唇を吊り上げるカラ松くんの声には、いつもの張りが戻ってくる。
「もし永遠があるなら、このままずっとユーリと──」
「え」

「…ユーリと、その……ふ、フレンズでいられたらいいなと思ってるぜ!

指を銃に見立てる決めポーズつき。
しばしの沈黙の後、あああああああぁぁぁあぁと声を荒げながら地面に突伏する松野家次男
さすがはフラグを全力でへし折っていくことに定評のある次男坊だ。幸せになれない呪いでもかかってるのか。
堪えきれず腹を抱えてひーひー笑う私と、涙目で落胆するカラ松くんの見事な対比。
途中まで勇気を振り絞ったであろう本人には大変申し訳ないが、いい息抜きをさせてもらった。多忙で投げやりになりかけていたが、まだまだこの世界は捨てたもんじゃない。




彼が望んだ十分なんてあっという間で、私が提示した三十分さえ刹那のように感じられた。玄関前まで見送って、別れを告げる。
「遅いから、気をつけて帰ってね」
「オレがゴーホームするからって、寂しさのあまり枕を濡らすんじゃないぞ」
先ほどの失態なんて何のその、最後の最後でカラ松節が炸裂する。
「んー、それは約束できないかもなぁ」
からかうつもりで、私はにやりと笑う。恥じ入る顔が見たいという悪戯心故だったが、なぜかカラ松くんは眉根を寄せて逡巡する様子を見せた。
「カラま──」
どうかしたのかと問うための彼を呼ぶ声は、中断せざるを得なくなる。カラ松くんが突然私の手を取ったからだ。

唖然とする間もなく、手の甲に口づけが落とされる。

唇が離れる音がやけに生々しく響いて、声が出ない。
玉座を前にした騎士が深紅のカーペットの上で跪くように、けれど眼差しに宿る感情は敬意や敬愛とはまるで異なる熱量を孕んで。

「仕事で疲れてるんだろう?ゆっくり休むんだ。今宵もいい夢を──マイハニー」

温かな手が離れて、カラ松くんの姿が暗闇に溶ける。目を逸らされたまま扉が閉じられて、私は一人夢現の世界に取り残された。
あまりの不意打ちに、しばらく玄関前から動くことができなかった。
軽率な発言で自分の首を締めるのは止めようと心に誓う。明日睡眠不足で仕事にならなかったら、あの次男は粛清しよう。

キスしたのが左手の薬指だったのは、間違いなく意図的だっただろうから。

ロマンチックが俄然止まらない

雲ひとつない満天の星空の下や、月光が鏡面のように映り込む穏やかな波打ち際といった、いわゆる幻想的な情景に、憧れていないと言えば嘘になる。極彩色に彩られた世界の中で、きらびやかな衣装に身を包んで主役を演じられたら、さぞかし胸が弾むことだろう。

しかし所詮、自分には無縁だと思っていた。
砂糖菓子を頬張ったような甘美な時間を過ごすなんて、あり得ない、と──あの時までは。




「クルージングパーティ?」
「ユーリちゃんにも是非来てほしいんだじょ」
街中で偶然再会したミスターフラッグことハタ坊から、突然週末のパーティに誘われた。
箔押しの高級感漂う封筒を手渡され、中の招待状を広げてみれば、表れたのはこれまた上質なコットン紙にゴールド箔のカリグラフィ。結婚式の招待状さながらの、洗練された気品が漂う。
楷書体で印字された内容に目を走らせると、大型クルーズ船を一隻貸し切っての大規模な船上パーティとある。私は思わず目を瞠った。
「子会社や関連会社の従業員たちの親睦会だじょ。堅苦しいことはしないし、美味しい物たくさん用意するから、ユーリちゃんにも楽しんでほしいじょ」
子どものような口調で語るハタ坊は小柄で顔立ちも幼いが、都内の一等地に巨大な自社ビルを構えるほどのやり手の経営者である。頭の旗は刺さっているのか生えているのか、それだけが気がかりだ。
「お誘いは嬉しいけど、ハタ坊の仕事関係なんでしょ?私が参加してもいいの?」
ドレスコードの存在するクルージングパーティなんて敷居高すぎて吐きそう。気軽に参加するレベルを遥かに超えている。
「みんなも招待してるんだじょ。だから大丈夫なんだじょ」
みんなというのは、松野家六つ子たちのことを指しているのだろう。奴らは、配慮が必要ないと判じた他人には心臓に剛毛が生えた図々しさを発揮するから、緊張の緩和剤にはちょうどいいかもしれない。
予定のない週末、豪華な船上パーティ。抗いがたい誘惑に打ち勝てる材料を私は持たない。

「そっか、ありがと、ハタ坊。それじゃあ参加させてもらうね」
この承諾が、全ての始まりだった。




クルージングパーティ当日。
乗船場所である湾に停泊していたのは、数百人規模の乗船客を収容可能な、四階建て構造の大型レストランシップだった。ディナークルーズなどでよく見かけるタイプの、威風堂々とした豪華客船である。それを貸し切ってのパーティというのだから、フラッグコーポレーションの業績の良さが窺える。
乗船の受付を済ませてから、船内で不要な手荷物やコートをスタッフに預けてパーティ開始まで適当に時間を潰すことにする。
開始半時間前ということもあり、多くの参加者たちがロビーや会場で各々の時間を過ごしていた。彼らの堂々とした立ち居振る舞いに気後れしつつ、化粧直しをして装備を整える。
今日の装いは、ノースリーブのブルーの膝丈ドレスと、ブラックカラーパンプスのパーティ仕様だ。光の加減によって光沢感を感じさせる柔らかな生地で、胸元はカシュクールデザイン。スカートにはたっぷり生地が使われ、動くたびにひらひらとギャザーが揺れる。首元はピンクパールの三連ロングネットレスで彩り、高めのヒールで華やかさを一層強く印象づけるフル装備。

慣れない服装に早くも気疲れしつつ、化粧直しを終えてトイレを出た。
注意力が散漫になっていたせいで、角を曲がった瞬間に、真正面から人に衝突してしまう。
「…あっ、す、すみません!」
「いや、オレの方こそ───って、ユーリ!?」
聞き慣れた声だ。
顔を上げれば、驚愕を顔に貼り付けたカラ松くんがそこにいた。水色のスーツに身を包んで。
「どうしたんだ、ドレスなんか着て…というか、何でこんな所に!?」
ああ、と私は頬の筋肉を緩める。そういえばカラ松くんには、パーティに参加することを話し忘れていたっけ。
「ハタ坊に誘われたんだよ」
「ハニーもか?何だ、それならそうと言ってくれれば、今日だって迎えに行ったのに。水臭いぞ」
カラ松くんは不服そうに眉をひそめた。招待状を受け取ってから間がなく、その間に連絡を取っていなかったから、伝えそびれてしまったのだ。
「いや、そんなことはいい。何ていうか、ユーリ…その、ええと…」
けれど私が謝ろうとするのを遮るように、カラ松くんが切れ切れに言葉を発する。目尻が上気して、赤い。

「──綺麗だ、すごく」

囁くような声音だった。
「いつものユーリももちろん誰よりキュートなんだが、ドレスアップした姿は一段と華やかで輝いて見える」
うっとりと目を細めて。
「…あ、ありがと」
気障のバーゲンセールさながらの前フリなく饒舌に褒められて、思わず動揺してしまう。痛い要素喪失したらただのイケメンじゃないか、アイデンティティは大事にしろ。
「それにその色…オレを意識してくれたと自惚れてしまいそうだ」
ドレスのカラーを指しているのだろう。
「今日のパーティの主役と言われてもおかしくない。実にチャーミングだ。ハニーの隠しきれない魅力の前では、恋のキューピットが放つ矢もきっと効果を失ってしまう」
詩人が現れた。

まぁ、そんなことより──

「カラ松くんこそ、何でそんなにスーツが似合うの?
「…オレ?」
「分かってたよ、間違いなく似合うっていうのは想像で十分察してた。なのにこうして目の前にしたら、予想を軽く凌駕するエロさ。ネクタイも緩めず上着のボタンも全部留めて、肌の露出が一切ないストイックさがむしろ官能的だよね。泣かせながら乱したい
これは逆転の発想だ。着崩したスタイルがベーシックだからこそ、相反する誠実さを全面に押し出されるとギャップ萌えの境地に至る。
「ちょっ、あ、あの…ユーリ?」
「似合いすぎてビックリしてる。私のドレスとかどうでもいいから、スーツ堪能させて」
推しのスーツ姿を見れただけでも、今日のパーティに参加した甲斐がある。
しかし様々な角度から舐め回すように凝視していたら、突然肩を掴まれて中断を余儀なくされた。
「は、ハニー…ここは人目もあるから、そういうのはまた後にしてくれないか?」
拒絶ではない提案が、戸惑いがちに紡がれる。彼にとっては最大限の譲歩だ。冷静さを取り戻して辺りを見回すと、ロビーに佇む参加者たちからの好奇の視線が突き刺さって、私は慌ててカラ松くんの手を取り足早にその場を後にした。




「お、ユーリちゃんじゃん!てか何そのドレス、すっげー可愛いんだけど!」
六つ子たちと合流を果たすや否や、おそ松くんから直球でお褒めの言葉を頂いた。こういう時の彼のストレートな物言いは、好ましく感じる。
「うんっ、今日のユーリちゃん、めちゃくちゃ可愛い!」
「メイクもいつもと違うよね。ドレスも大人っぽいし、大人の女性って感じ。似合うね~」
十四松くんとトド松くんに両サイドを囲まれて、嬉しいやら気恥ずかしいやら。肩を竦めて浮かべた笑みは、少々ぎこちないものになってしまった。
「みんな、そろそろ始まるみたいだよ」
背中を丸めた一松くんが会場を一瞥して、ぽつりと溢す。ロビーにたむろしていた参加者たちも、ぞろぞろと列をなして会場へと向かう。
「お前ら、パーティの礼儀はもちろん分かってるよな?」
腰に手を当てたチョロ松くんが、兄弟をぐるりと見回して言い聞かせるように言う。
「開始直後が勝負だ。高級食材から手をつけろ、旨い酒はボトルごと確保して兄弟間で消費しろ──以上!」
ドクズがいる。
そして真顔で敬礼する松野家のチームデビル。仲間だと思われたくない、逃げたい。


会場内では、ドアから最も奥まった場所にステージがあり、部屋の中央にはビュッフェ形式の豪華な料理が並んでいる。料理を囲むようにしてクロスで覆われた丸テーブルとイスが各地に配置され、華やかな装花とシルバーのカラトリーが会場を美しく装う。ステージ上部に掲げられた懇親会の垂れ幕がなければ、披露宴会場といっても通用する絢爛さだ。
「今日は、集まってくれてありがとうなんだじょー。みんな楽しんでほしいんだじょー」
ハタ坊の乾杯の音頭を皮切りに、クルージングパーティは幕を開けた。

グラスを掲げる乾杯もそこそこに、一目散に料理テーブルに駆けつけ、料理と酒に手をつける六つ子たち。トド松くんは持ち前のコミュ力を生かして同世代と思わしき女性と意気投合、おそ松くんとチョロ松くんはトト子ちゃんやチビ太さんと合流し、一松くんと十四松くんは一心不乱にビュッフェを貪る。
この懇親会を機に関連会社間の交流を深め、人脈を広げておこうとするビジネスマンたちとは対称的な、異質な存在。
「情けないブラザーたちめ。紳士たるもの、パーティでは常に優雅な立ち居振る舞いでなくてはな」
私の隣で悩ましげに首を振って、前髪を掻き上げるカラ松くん。
「料理山盛りの皿片手に言う台詞じゃないよね」
しかもローストビーフや唐揚げといった、肉ばかりだ。扇状に盛り付けられた薄切りローストビーフを端から端までトングで掻っ攫った時は、全力で他人のフリをした。
「ノープロブレムだ、ハニー。全部食べるぞ
そういう問題じゃない。
まぁ、ある意味予想通りではあるのだ。格式の高い場でも彼らは通常運行に違いないと踏んでいたから、落胆も失望もなくむしろ清々しいくらいなのだが、期待を裏切ってほしい願望も僅かにあった。
「いいじゃないか。オレたちはパーティを楽しむのが目的で来たんだ」
「そうなんだけど…フラッグコーポレーション関連の人たちと顔見知りになっておけば、いつか仕事でプラスになるかも、とかはやっぱ考えちゃうんだよね」
業種問わず事業拡大をしているから、将来的に仕入先や得意先になり得るのではと、取らぬ狸の皮算用だ。
意識を完全に切り替えられなくて、他の参加者たちを羨望の眼差しで見ていたら、突然カラ松くんの顔が視界いっぱいに飛び込んでくる。
「ユーリ」
「わっ、ビックリした」
「仕事絡みとはいえ、そんな情熱的な眼差しを他の男たちに向けないでくれないか?」
馬鹿を言うなとかぶりを振ろうとしたら、カラ松くんは目線を落として続けた。

「…妬けるだろ」

私は瞠目する。
他の参加者たちの会話に掻き消されてしまうくらい、小さな声だった。独白のつもりだったのかもしれない。けれど、私の耳に届いてしまった。
確かに、スーツ姿の推しを視姦しまくれる絶好の機会を蔑ろにしてまで優先すべき事柄でもない。推しこそが至高。私が間違っていた。
「そうだね。せっかくのパーティ、楽しまなきゃね」
「しかし、もしハニーがここで人脈を広げたいと言うなら、マネージャーとしてオレも同行する。一人で行くのは危険だ」
たまに次男が度を越して過保護になるのはどうにかならないものか。私は辟易して溜息をついた。


「ちょっと飲み物を取ってくる。ハニーも何か飲むか?」
山盛りの料理をぺろりと平らげたカラ松くんが、不意に私に向き直る。
「ありがとう。何かソフトドリンク貰おうかな」
「分かった。すぐ戻る」
だからそこから動かないでくれよと釘を刺される。過剰なガードは今だ継続中。

しかし、私と離れた直後に事件は起きた。
ドリンクをトレイに載せて運ぶボーイを呼び止めようとカラ松くんが手を上げた刹那、彼の隣を横切ろうとした女性が体勢を崩して衝突。手にしていた赤ワインが、水色のスーツを赤く染め上げる。
唖然として固まるカラ松くんと、萎縮して何度も頭を下げる若い女性。慌ててハンカチで拭きながら、衣装室があるからそこで着替えをと促している声が、かろうじて聞こえてくる。
「おや、奇遇だスな、ユーリちゃん」
「久しぶりだよーん」
カラ松くんに合図を送ろうと口を開きかけたところで、背中に声がかかった。反射的に振り返れば、デカパン博士とダヨーンだ。
「ああ、こんにちは」
「ユーリちゃんは一人で来たんだスか?」
「六つ子は一緒じゃないのかよーん?」
「おそ松くんたちはその辺に散らばって自由にやってるよ。私はここでカラ松くんと──」

そう言って背後を向いた時、カラ松くんの姿は会場から消えていた。




席に戻ってしばらく帰りを待ったが、カラ松くんが戻るよりも先に、余興の開始時間となった。
ステージに立つ司会者からゲームの趣旨を告げられて、大勢の参加者の中から無作為に選ばれた男女そぞれ三十名がステージ前に集合する。選出メンバーには私も含まれていて、女性陣は進行役のスタッフから、ピンクのハート型南京錠を手渡された。男性たちがそれぞれ握るのは、親指サイズの小さな鍵だ。

「それでは、ドキドキ☆南京錠鍵開けゲームを開始します!」

ルールは至極簡単、南京錠をいち早く解錠できた男女ペアが勝利というわけだ。勝利条件説明の時点では恥じらう様子を見せる参加者たちだったが、上位三位までには豪華賞品が贈呈されると聞いて、途端に色めき立つ。メンバーを見回せば、六つ子からはチョロ松くんと一松くんが参戦らしい。
「ユーリちゃん、お願い!」
開始の合図と共に二人が一斉に駆けてきて、私の持つ南京錠に鍵を差し込んむが、生憎どちらも合わず、揃ってがっくりと項垂れる。
「クソがっ!初見の女の人に自分から声かけられりゃ、この歳で童貞やってねぇよ!
一松くんが鬼の形相で咆哮した。確かに。
しかし景品狙いのためか相手の方から積極的な誘いがあって、慌てふためきながらも三男と四男は健闘する。安堵したところで、私も動くことにした。
「すみません、お願いしていいですか?」
一歩踏み出したその時、二十代とおぼしき男性から声をかけられる。
「はい、もちろんです」
手始めの相手にはちょうどいい。そう思いながら差し出した南京錠に鍵が差し込まれた、その瞬間。

カチャリと──ツルが、外れた。

「…え」
「あ、開きましたね」
顔を綻ばせた男性は片手を高く挙げて、スタッフに終了の合図を送った。既に上位二組が嬉々とした顔で壇上に上がっている。私たちは、かろうじて三位に駆け込めたようだ。

「三位、テーマパークのペアチケットらしいですよ。あそこ、最近新しいエリアができたから、当たってラッキーですね」
景品の入った封筒を受け取ってステージを下りる際に、にこりと微笑まれる。無造作感のあるマッシュショートの髪型と、口元から覗く八重歯に愛嬌のある爽やかな笑顔。イケメンの部類に入る、いわゆる一軍の人だ。
「どちらに勤務されてます?
うちの会社で君みたいに可愛い子がいたら、覚えてないはずないんだけどな
息を吐くように好感度上げてくる、さすが一軍。
「私はハタ坊の…じゃなくて、ミスターフラッグの友達です。このパーティも、街中でたまたま会った時に誘われたんですよ」
「えっ、友達!?すごいなぁ──ああ、申し遅れました、もし良ければ名刺交換させて貰ってもいいですか?」
彼は胸ポケットから名刺入れを取り出す。その姿は様になっていて、これまでに数多くの異性を虜にしてきた輝かしい戦歴を彷彿とさせた。
「すみません、仕事じゃないから名刺持ってきてなくて…」
「あ、そうなんですね。じゃあこうして会えたのも何かの縁ですし、一杯飲みません?」
「ええと、それは──」
私は目を伏せて尻込みする。むかっ腹を立てるカラ松くんの姿がありありと脳裏に思い描かれたからだ。
とはいえ、大勢の目がある会場内で、酒を一杯付き合う程度で問題が起きようはずもない。カラ松くんもまだ戻らない。
「…まぁ、一杯だけなら」
「良かった。断られるんじゃないかって、実はちょっと緊張したんですよ」
大袈裟に胸を撫で下ろすポーズが、カラ松くんと重なった。




会場の一角に、カクテルコーナーが設置されている。
テーブルや背後の棚には英語表記のボトルが並び、何人かのバーテンダーが客の注文に合わせて軽やかにシェイカーを振る。
「美味しいカクテルがあるんですよ。持っていくので、そこで待っててもらっていいですか?」
彼が示した指先を目で追うと、カクテルコーナーの傍らに壁に向かって設置された、カウンターテーブルと数脚のハイスツール。
言われた通りに座って待っていたら、しばらくして細長く背の高いグラスが私の前にそっと置かれる。
「お待たせしました」
グラスに注がれているのは、スライスレモンが添えられた琥珀色の液体。
「これは…」
「紅茶が一滴も入ってないのに紅茶みたいな味がする、不思議なカクテルです。飲みやすいから、グイッといってください」
色合いは確かに、コーラやアイスティーのそれによく似ている。
「へぇ、そんなの初めて聞きました。ありがとうございます」
「それじゃあ、三位入賞に乾杯」
ロックグラスをぶら下げるように揺らしながら、彼は微笑んだ。レモンの爽やかな香りに惹かれて、私もグラスに口をつけたようとした───その時。

横から伸びた無骨な手が、私のグラスを奪った。

声にならない驚嘆と共に顔を上げたら、鋭い眼光を男性に向けるカラ松くんが、そこにいた。私には目もくれず、これ以上ない嫌悪を込めた双眸が真っ直ぐに相手を捉えている。
私が驚いたのは、カラ松くんの出現はもちろんだが、それ以上に彼の出で立ちに対してもだった。特別に仕立てられたような、上品なネイビースーツ。スーツと同系色のネクタイが、中の白シャツを一層際立てる。ストイックさレベルアップで最高にエロい。
「ロングアイランドアイスティーか。確かに飲みやすい。ただ──」
「カラ松くん…?」
グラスを鼻先に近づけて、彼は忌々しげにハッと嘲笑する。

「四大スピリッツ全て入ったアルコール度数二十五度前後、通称レディキラーと呼ばれるものを、オレの連れに飲ませてどうするつもりだ?」

え、と声を上げて私は思わず手を引っ込めた。反射的に爽やかイケメンに目を向けると、バツが悪そうな顔で私から視線を逸らす。
「軽々しく手を出せると思うなよ」
カラ松くんは音も立てずにグラスをテーブルに戻し、表情はそのままにもう一度口を開いた。

「もう一度言う、ユーリはオレの連れだ。お引き取り願おう」


凄みのある眼力だけでイケメンを追い払った後、無言のカラ松くんからノンアルコールのブルーハワイを手渡される。透明感のある青が、グラスの中で氷と踊る。まるで所有権を主張されてるみたいな色だ。雄みの強い推しも好物です。
カラ松くんは眉間に濃い皺を刻んだままテーブルの上で組んだ手に視線を落とし、私に見向きもしない。気不味い雰囲気だけが流れていく。
「イライラしてる?」
私が訊けば、カラ松くんは気怠げに頬杖をつく。
「…少し」
「私、対応不味かった?だとしたら、ごめん」
相手を軽く見ていた。百戦錬磨の一軍を、適当にあしらえると軽んじたのは失策だった。最初から手の内で踊らさせていて、挙げ句に間一髪だったのだから笑えない。
「ハニーに対してじゃない、さっきの男に対してだ」
いつになく声は低い。
「体の良いナンパだよ。たまたま相手が私だったってだけで」
「だから何だ?誠心誠意アプローチされたら靡いていたとでもいうのか?」
ブルーハワイを口にする私の手が止まる。カラ松くんからそんな発言が飛び出してくるとは予想だにしていなかったから。
「そんなことない。カラ松くんが来なくても、私は断ってた」
「あの酒を飲んで?」
「それは…」
二の句が継げない。

「控室にはベッドもある、鍵だって掛かる」

「あ…」
そこまで言われてようやく、カラ松くんの懸念が嫌というほど理解できた。
「…うん、そうだね。人が大勢いるパーティだからって油断して、危機感足りなかった──ごめんね、ありがとう」
私が頭を下げると、カラ松くんはようやく私に目を向けた。唖然と、目を見開いて。
「…すまん。ユーリに万が一のことがあったらと思ったら、我慢できなかった」
自身の髪に指を差し入れて、苛立ちを紛らわすようにくしゃくしゃと掻き回す。
仕立てのいいスーツが似合いすぎているせいで、どんな仕草もいちいち様になる。クルージングパーティという特別な雰囲気も加味されて、白昼夢を見ているような気さえした。

「ねぇ、それよりさ、テーマパークのペアチケット当たったんだよ」
私はバッグから封筒を取り出してみせる。
「カラ松くん、一緒に行こう!」
「──ッ」
カラ松くんは僅かに赤面して、それから溜息をつく。
「…ハニーには、さっきの男みたいな下心はないんだよな?」
探るような目で、私の口元を見る。
「あわよくば一夜のアバンチュール的な?うん、ない。推しが楽しむのを見たいだけ
「それは…下心に入るんだろうか」
安堵と落胆が入り混じったみたいな複雑そうな顔で、カラ松くんは唸る。
「え、抱いてほしいの?ありがとうございます、喜んで」
「何でそうなる!ほしくない!」
即答かよ。少しは悩め。




幾つかの余興を経て、パーティも中盤を過ぎる。
次のゲームが始まるまでの時間に、松野家六つ子と私はハタ坊に呼ばれ、各国から取り寄せたという珍しい食材に舌鼓を打っていた。しかしすでにブュッフェである程度腹が膨れていた私は、真っ先に戦線離脱。
そっと会場を抜け出して、人気のないオーブンデッキへと出た。海風は冷たく、ストールを羽織っていても少し肌寒い。
目線を上げると、黒い夜空を背景に美しくライトアップされた東京ゲートブリッジが視界に飛び込んできた。人工的な創造物による、計算された幻想だ。

「酔ったのか?」

それが自分に投げられた言葉だと分かったのは、聞き慣れた声だったから。
「ずっと賑やかな場所にいたから、気分転換。カラ松くんは?」
振り返ると、彼はすぐ近くにいた。東京湾の夜景を背負って、きらきらと輝いている。視界に映るカラ松くんの姿は、スローモーションのように緩やかな速度で、私の脳内に映像として認識されていく。
「フッ、愚問だぜハニー。オレは夜の青い蝶に魅せられたミツバチさ」
「何それ」
「ユーリが外に出るのが見えたから、追いかけてきた」
何でもないことのように、彼は告げる。
「こんなにロマンチックなシチュエーションなのに、人が多くて二人きりになるチャンスがなかっただろ?
タイミングを見計らってユーリを誘おうかと思ってたんだが…その…何て誘えばスマートなのか分からなくて」
手すりに背中を預けて、カラ松くんは苦笑する。ああ、この人は、自覚がないのか。私はくすりと笑う。
「今の登場の仕方はドラマみたいで、かなりスマートだったよ」
「そ、そうなのか?待ち構えてたみたいで、オレとしては微妙なんだが…」
「そんなことない」
私は首を横に振る。
「一層そのスーツを脱がせたくなった」
「最高のスマイルで何を言ってるんだ」

包み隠さず本音を語っているのに、ツッコミが入ってしまう。

「なぁハニー、一つだけオレのわがままを聞いてもらえないか?」

僅かな逡巡の後、カラ松くんは突然そんな言葉を口にした。
「わがままって?」
内容によるかなと思いながら訊けば、大したことじゃないと彼は呟く。

「パーティが終わるまで、オレにユーリをエスコートさせてほしい」

かつて何度か向けられた台詞だった。異性の多い場所で、万一にも私に危険が及ばないように配慮するために、カラ松くんはその表現を使う。
何だか、まるでシンデレラだ。宴が終われば、魔法は解ける。エスコート役を買って出た王子も、灰かぶり姫の手を離してしまう。
「パーティが終わったら、夜も遅いよ」
「…え?」
「女の一人歩きは危険じゃないかな?優秀なガードマンがいてくれると助かるんだけど」
こういうのを駆け引きというのだろうか。
しかしカラ松くんは子どものように相好を崩して、自身の首に手を当てた。
「…はは、ユーリは本当にギルティなレディだ。そうやって愛らしいテンプテーションをかけるのは、オレに対してだけだよな?」
「そういうこと言うの、野暮だと思うな」
カラ松くんの傍らに並んで、正面から彼を見据える。街を彩るビルの明かりやイルミネーションによる輝きが、カラ松くんの双眸で反射する。綺麗な瞳だなと、月並みの感想が浮かんでは消えた。

「ああ、そうだな…すまん…今宵のハニーがあんまり綺麗で、調子が狂う」

不意に、沈黙が降りてくる。静寂は時に、終止符を打つ合図にもなり得るのだけれど、まだ会場に戻るには早すぎる。
「ねぇ、カラ松くんがスーツ着てるの、後で堪能していいって言ったよね?」
「え?ああ…うん。そういえば言ったな、そんなこと」
気まずそうにカラ松くんは口を押さえる。彼にとっては逃げ口上だったのだろうが、スーツ萌えに対する執着心を甘く見るなよ。
「ええと…オレは、どうすればいい?」
抵抗する素振りは見せても、最後は私を甘やかす。松野カラ松という男は、そういう人だ。
「──もう少し、ここにいようよ。夜の海がロマンチックだよ」
私の意図を察してか否か、溶けたバターみたいに蕩けた瞳を細めて、カラ松くんは私に寄り添う。肩と腕が、布越しに触れ合った。
甘い睦言も、狂おしい抱擁も、濃密な口づけも、必要ない。黙って側にいてくれれば、今は──それだけでいい。




程よく酒も入った宴の終盤、元々女性客の割合が少ない──若ければ若いほど特に──こともあって、一人になるタイミングで異性から声をかけられることがあった。
純粋に交流という意味合いの声掛けも、きっとあったと思う。複数人の塊よりも、個人の方が声がかけやすいのは、経験上私も理解している。
ただそういった類の方々も、松野家次男がモンペぶりを発揮して追い払ってしまい、本当に申し訳ない。そして浮ついた目的の相手には、カラ松くんの冷めた一瞥と、「彼氏と来ているので」の断り文句が効果てきめんだった。

「うーむ、ユーリが麗しいのは自明の理だとしても、こう何人も気安く来られるとフラストレーションが溜まるな…オレの」
自明の理とか、難しい言い回し使ってきおった。
場所柄と催事の内容を鑑みるに、声掛けの一つや二つあって不思議ではないことが童貞には分からんのですよ。
その上──

「イミテーションでも、薬指にリングがあれば抑止力にはなるよな」

名案とばかりに手を打って、衣装室へと指輪を探しに行こうとするカラ松くんを、私は全力で引き止めた。こんな所で指輪をはめられたら、ロマンチック成分摂取過多で致死量に至る。止めろ、一般人の許容量を考えろ。

ロマンチックに憧れるなぁなんて、冒頭で軽率なこと思ってすいませんでした

秋の夜長の肝試し

「無理だって!帰ろう、今すぐ帰ろう!
っていうか肝試しって夏が定番だし、秋の深夜に肝試しとか季節感ないし寒いし面倒なだけだよ。絶対楽しくないって!」
八人乗りのワンボックス内に、悲鳴に近い私の大声が響く。
しかし返ってくるのはことごとく私の意に反する、曖昧な宥めすかしや苦笑いばかりで、次第に無駄な抵抗であるという諦めが胸に広がっていった。


肝試しをしよう、突然そんな提案をしたのはおそ松くんだった。
週末の金曜日、安いチェーン店の居酒屋で、全員に程よく酔いが回った頃のことだ。たまには一風変わったイベントで心機一転、そんな今思えば最高に意味不明な理由付けで、常時暇を持て余したニートたちはもちろん、連勤終わりで気が緩んでいた私も彼の提案に賛同した。近所の墓地一周、という絶妙な緩さもまた、拒否感を抱かなかった理由の一つだ。

『人里離れた山奥の廃病院』が目的地と知っていたら、私は絶対に来なかった。

翌日の夜、イヤミさんから強奪した車のハンドルを握るのは、じゃんけんで負けたチョロ松くんである。時折カーナビに目を向けながら、目的地に近づくにつれて獣道とも呼べそうなほど荒れた道を、車体を揺らしながら前進させていく。
「往生際が悪いぞ、ハニー」
隣の席から私の抵抗を見ていたカラ松くんが、溜息と共に苦言を呈してくる。味方によるまさかの裏切り。
「カラ松くんまで…ッ。みんな乗り気だし、四面楚歌すぎる何これ!」
私は両手で頭を抱えた。車で山に入って半時間以上経っており、既に徒歩で帰れる距離ではない。車道には街灯もなく、明かりもなく下山するのは命を危機に晒すようなものだ。
「ははは、エイトシャットアウトだな」
私をフォローするどころか、あろうことか火に油を注いできやがった。反射的にカラ松くんの胸ぐらを掴み上げてメンチ切ると、ひゅ、と彼は息を飲んで目を瞠った。
「この場で抱くぞ」
「怖っ!」

当初は、墓地の周りを散歩するだけのはずだった。
しかしいざ車に乗り、トド松くんが肝試し人気スポットの話題を持ち出したところから歯車が狂い始める。赤塚区から車で一時間足らずの山奥に、廃墟マニアに人気の廃病院があることを知ったおそ松くんの目が輝き、急遽カーナビの行き先を変更。他の六つ子たちは遠出になることを多少面倒くさがりながらも、長男の意向に逆らわない姿勢を見せた。
そして冒頭の私の叫びに繋がる。私が言いたいのはアレだ、廃病院はアカン。
「こちとら一人暮らしなのに何でガチな所行かせようとするの!トラウマになったらどうしてくれる、鬼か!」
懲りずに怒鳴る私に対し、カラ松くんは人差し指を下唇に当ててから、ふむと声を出す。

「その時はオレが一緒に暮らす」

真顔で断言きた。
「養ってくれ」
「私に嫌な思いさせないモットーどこ行った」
もはやかわいこぶったり取り繕うのも面倒になって、私は舌打ちと共に吐き捨てる。
「肝試しに行くのはユーリもオーケーしただろう?」
「お寺の敷地内で管理されてる墓と、完全無法地帯の廃病院じゃ恐怖指数の桁が違う!
墓地は死者の亡骸の保管場所というだけで、命を失った場所そのものではない。無機質な墓石の列挙や、手入れの行き届かないものに関しては、見目の不気味さがあるだけだ。
病院は真逆だ。生命が失われた場所そのものであり、多くは余りある恐怖や後悔、耐え難い苦痛といった負の感情を抱き続けたまま亡くなったと推測される。病院で須らく幽霊目撃談が多いのも、地縛霊という言葉で納得できる。

「そっかぁ、ユーリちゃんお化け怖いんだね」
からからと明るい声で、助手席のトト子ちゃんが笑う。六つ子がダメ元で肝試しに誘ったところ、あっさり了承してやって来た。私がいるなら、ということらしい。
「いざという時はその辺のクソニート共餌食にして逃げればいいよ。六人もいるから一人くらい減っても平気平気☆
「さすがにそれは気が引けるような…」
「そう?六人から五人は誤差の範疇だよ
相変わらずトト子ちゃんは六つ子に手厳しい。
しかし後部座席では、一松くんや十四松くんがトト子ちゃんの吐く毒を恍惚の表情で聞き入っている。幸せそうで何よりだ。


私の抵抗も虚しく、車は目的地に到着する。
かつては広い駐車場であったらしい一面のアスファルトは、至るところに亀裂が入り、何年も手入れされていないことを物語っていた。割れた隙間からは雑草が生い茂り、不気味さを冗長している。
絶望に打ちひしがれながら車を降りると、にこやかなトド松くんに肩を叩かれた。
「ほら見て、ユーリちゃん。廃墟マニアっぽい人も来てるよ。今日来てるのはボクらだけじゃないみたい」
彼が指差す先に目を向ければ、白い軽自動車の傍らに立つニット帽を被った若い男女。あちらも私たちの存在に気が付いたようで、互いにばつが悪そうに会釈する。
この場にいるのが私たち八人だけじゃない、他人の存在という安堵が私の緊張を僅かに解した。




満月の空の下、朽ちた城の残骸は、異様な薄気味悪さをたたえて私たちを迎えた。
白い外壁は大半が剥がれ落ち、剥き出しの下地。入り口のガラスは無残に割れており、意図的に隙間を作らずとも侵入は容易かった。地面に散らばるガラス片を踏みしめて、私たちは玄関をくぐる。
「ぐるっと館内一周したら帰ろうぜ」
懐中電灯で行き先を照らしながら、おそ松くんが指先で鼻を擦る。
「どうせ何も出ないって。こういうのは雰囲気を楽しむもんなの」
壁掛けの館内案内図を頼りに、肝試しのルートを決める。朽ちかけたそれは、書かれた文字こそ解読できないものの、レイアウトを把握するには十分だった。
「ユーリちゃん顔色悪いよ。大丈夫?」
十四松くんが不安げに私の顔を覗き込んでくる。
「まぁ廃墟の雰囲気のせいかもしれないけど…何か変に冷えるっていうか、気持ち悪さはあるよね。無理そうならユーリちゃんは車で待ってなよ」
「それ一番最初に死ぬ被害者の行動パターン」
一松くんの気遣いは嬉しいが、集団から外れて単独行動する時点で完全に死亡フラグだ。
「この病院五階建てらしいけど、まさか全部回るつもりじゃないだろうな?」
「当たり前じゃん、チョロ松。一番出そうなのはやっぱ病棟だろ?──ってことで、四階の病棟コースね」
案内図によると、一階に総合受付、二階は各科外来、三階に手術室と幾つかの病室があり、その上は病棟という一般的な作りだ。
落胆してがっくりと落とした私の肩を、心配そうな表情を浮かべたカラ松くんが優しく触れる。
「ユーリ…」
「一番出そうなとこピンポイントで選ぶとか、鬼の所業すぎる…」
「でもおそ松はああ見えて結構なビビリだぞ」
「ビビリのくせに難易度ナイトメアのコース選ぶの?救いようがない」
「ああうん、それは何か…すまん」
謝るくらいなら長男止めろ。
「それと…さっきも言いすぎてすまない。ユーリがここまで怖がるのは想像してなくて、冗談かと思ったんだ。無理だと思ったらすぐ言ってくれ」
砂埃の舞う足元に視線を落としていた私は、その言葉に顔を上げた。八方塞がりの極限状態に一筋の光が差す。
「…うん、そうする」


懐中電灯は、六つ子の偶数組と長男が握る。割れた窓ガラスの隙間から差し込む月の光以外に明かりのない廃墟の中では、その人工的な明るさだけが頼りだった。
おそ松くんとチョロ松くんを先頭に、トド松くんとトト子ちゃん、その後ろに私とカラ松くんが続く。私たちから少し離れた後方からは、ハッスルハッスルと十四松くんの威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
おそ松くんとトト子ちゃんが軽やかな談笑を交わす傍らで、私はカラ松くんの服の裾を強く握りしめながら無言で歩を進める。そしてそんな私を、カラ松くんは顔の筋肉を弛緩させてうっとりと見つめていた。
「やっぱり怖いか?」
優しい声音で問われる。
「怖いよ。今もそれなりだけど、知らないうちに何か連れて帰って、一人になった時に襲われたらとか考えると無理。むしろカラ松くんが何で平気なの?」
「怖がるユーリが可愛い」
愛しくてたまらないという、愛玩動物にでも向けるような眼差しで。
話を聞け。
「こういう庇護欲掻き立てる一面もあるんだな。正直、新鮮すぎて感動している。ハニーが可愛すぎてオレはどうすればいいんだ
カラ松くんは苦悶の表情で眉間に皺を寄せる。本気で言ってるならシバきたい。
私が下唇を噛んで苛立ちを隠さないでいると、カラ松くんは一層笑みを強くして両手を広げた。

「分かった、こうしよう。約束する。万一の時オレは、何があってもユーリを助ける」

「約束ったって…」
「幽霊だってオレが退治しよう」
胸を張って力強く断言される。
「霊能力でもあるの?」
「ない」
「ないのかよ」
真剣に聞いて損した。私が長い溜息を溢すと、カラ松くんはそれでも笑みを浮かべたまま続ける。

「でも言霊はあるんじゃないか?
『松野カラ松は、もし有栖川 ユーリが幽霊に襲われた時は、必ず助ける』──どうだ?」

言霊は、古から言葉に宿ると信じられてきた霊的な力だ。発した言葉を叶えるに相応しい結果をもたらすとされる呪力。一笑に付すには、あまりにも自信に満ちた声音に乗って。
「…期待してる」
「しててくれ。終わった後もまだ怖かったら、ボディガードとして雇ってくれればいい。ハニーの家は居心地がいいしな」
にかっと白い歯を覗かせる彼につられて、私も少しだけ笑った。
けれどあまり軽口を叩きすぎると、後ろの一松くんから叱責を食らいそうだ。そう思い不安げに背後を振り返って、私は絶句した。

一松くんと十四松くんの姿が───どこにもない。

「あれぇ、一松くんと十四松くんは?」
私の不穏に気付いたトト子ちゃんが、手をひさし代わりにして辺りを見回す。
「え、いないの?集団行動乱すなよなぁ、もう。あいつらのことだし、どうせ野良猫でも追っかけてんじゃないの?」
腰に手を当て、チョロ松くんはやれやれと首を振った。
彼らの身を案ずる声がないのは、四男と五男は自らの意思で輪を抜けたと、誰もがそう思っているからだ。私たちが通ってきた道には、漆黒の闇だけが広がっている。
「兄さんたちスマホ持ってないんだから、迷子になると困るんだよね。ボク、ちょっと見てくるよ」
「暇だし、トト子もついてったげる」
トド松くんとトト子ちゃんが踵を返して来た道を戻る。懐中電灯の光と、高らかなヒール音が徐々に遠ざかっていく。何やってるの、さっさと戻っておいで、そんな叱咤が飛ぶのを心待ちにしていた。
なのに──

彼らもまた、いつまで経っても戻ってはこなかった。


しん、と静まり返る廊下。
「…ヤバくない?」
恐る恐る発されたチョロ松くんの呟きに、私は戦慄する。
「ずっと二人を見ていたんだが、遠ざかったというよりは、光も音も突然消えたような感じだった…」
カラ松くんは二人が消えた方角を見据えたまま、彼の服を握る私の手首をそっと掴んだ。
「いやいや、分かってんだから、俺。どうせアレだろ、俺らが気を揉んで探しに行ったら驚かすパターンだろ?」
はははと乾いた声を上げるおそ松くんのこめかみから、一筋の冷や汗が流れる。
「迷子にしろ神隠しにしろ、これ以上は分散しない方が良さそうだな。ユーリちゃんも、いざという時はカラ松犠牲にしていいから気を付けて」
何気に、チョロ松くんの次男の扱いがひどい。
状況はまさに、前門の虎後門の狼である。進むにしろ戻るにしろ、私たちを待ち受けるのは得体のしれない恐怖だけだ。誰もが明言を避け、その場に立ち尽くす。

居心地の悪い静寂を破ったのは、雨音だった。
ぽつぽつと降り出した雨が一分も立たずに本降りになり、数多の滴が窓ガラスに叩きつけられる。雨粒は割れたガラスの隙間からも吹き込んで、私たちの足元を濡らす。
「ここにいても雨に濡れるだけだ。場所を変えよう」
カラ松くんが私の手を引いて、雨が吹き込む窓ガラスから遠ざける。それから彼は、おそ松くんとチョロ松くんが顔を見合わせて私たちから視線が外れた瞬間を見計らうように、空いているもう片方の手で私の頭をゆるりと撫でた。

「大丈夫だ。ユーリにはオレがいる」

目線はおそ松くんたちの方に向けたまま。
雨音は次第に激しさを増して、雨が窓を叩きつける音に、自分の足音さえ掻き消されてしまう。ガラスの向こうで瞬いた稲妻に、私は一層恐怖心を募らせた。
「ひとまず、どこかの部屋に入ろうか」
戸惑いがちなチョロ松くんの提案の直後、間近で大砲でも撃ったような大きな雷鳴が轟いた。
「わぁっ!」
「っ…ユーリ!?」
反射的にカラ松くんの胸に顔を埋めてしがみつく。
稲光から落雷までの間隔は短かった。近くに落ちたらしい。
「だ、大丈夫か…?」
私の両肩に、彼の手が触れた。服越しに伝わるカラ松くんの体温だけが、紙一重で私の正気を保たせている。
「───ッ!か…カラ松くん…っ」
しかしそれも長くは続かなかった。

彼のすぐ背後に立っていたはずのおそ松くんとチョロ松くんが、いなくなっていたのだ。

「おそ松…チョロ松…」
広い廊下と、診察室に続くドアがあるだけの直線。彼らから目を離したのは落雷の一瞬だった。仮に雲隠れするために遁走したのだとしても、気のそぞろな私はまだしも、冷静なカラ松くんが気付かないはずがない。
「これもう間違いなく霊障だよね?
十四松くんが分裂したり、花の精がいたり、女体化する薬がある世界だし、幽霊だけがいないなんて馬鹿げてる。むしろ隣人と言っても差し支えない。幽霊はお隣さん
「落ち着けハニー」
切迫した状況下にも関わらず、真顔でカラ松くんに諭される。




八人部隊は、ついにカラ松くんと二人だけになってしまう。
彼は私の手を引きながら、廊下のガラス窓のクレセント錠や診察室のドアを開けようと試みるが、接着剤で固定されているかのようにびくともしない。ドアやガラスに至っては、拳で叩いてみても鈍い反応があるばかりで、まるで分厚い板だ。
そして極めつけは、周りには人どころかネズミ一匹いないのに、何らかの気配を感じる気がする過酷な現状。
脳筋のパワーさえも封じてくる怪奇現象ハンパない。これでカラ松くんとはぐれたら泣くかも」
「悲観的になる必要はないぞ、ハニー。約束したじゃないか」
「でも、さすがに今回ばっかりは…」
口を開けば泣き言しか出てこない。
けれどカラ松くんは呆れるでもなく、悲観する私をどうにか救い上げようとする。
「心配性だな、ユーリは。オレが今までユーリとのプロミスを違えたことあるか?」
「ある」
えっ!?
…い、いやしかしだな、今回ユーリを巻き込んだ原因はオレにもあるから、今回は絶対だ──オレを信じてくれ」
臆することのない眼差しが、私を見つめる。
カラ松くんを信じるに値する根拠なんてない。でも、少なくとも私に対しては、どこまでも真摯に向かい合う人だ。
「…信じてるよ。だから絶対私の側から離れ──」
そう言った、刹那の出来事だった。

私の視界から、懐中電灯ごとカラ松くんが消えた。

瞬きをした一瞬で、懐中電灯と、手首に触れていた温もりごと。
「カラ、松…くん…?」
誰が冗談だと言ってくれ。重苦しい暗闇と静寂の中、私の呟きは震えていた。
「待て待て、これもう無理ゲーじゃん
詰んだ。
そして誰もいなくなったパターン?それ何てアガサ・クリスティ。
叩きつける雨音と、自分の手元さえ見えない漆黒。慌ててバッグの中からスマホを取り出し、ライトを点灯させる。明かりとしては心許ないが、ないよりはマシだ。
私は大きく深呼吸して、絶望の淵に向かってしまいそうな自分自身を律する。
なぜなら───

私を独りにするような真似、カラ松くんは絶対にしない。

約束したじゃないか。必ず助けてくれるって。絶対だ、って。私が信じなくてどうするのだ。
気力を奮い立たせ、仲間を探しに、そして出口を探すために奥へと進んだ。




スマホのライトを頼りに、私たちが足を踏み入れた入り口や一階の総合受付付近をくまなく捜索したが、カラ松くんたちの姿はやはり見当たらない。ドアというドアには頑丈なロックがかかっているし、人が通れるほどの隙間があったはずの入り口に至っては、水槽のような分厚いガラス貼りに姿を変えていた。当然私の力では、打ち破ることができない。
外は変わらず強い雨が降り続いている。
スマホの充電残量が心許ないが二階に上がるかと腕を組んだ時、どこからともなく泣き声が聞こえた。人の、子どもの声だ。
逸る気持ちを抑えながら、恐る恐る声のする方角へと向かう。

「誰かいるの…?」
ライトが照らす先にいたのは、床に座り込んで泣きじゃくる小学生低学年とおぼしき少年だった。七分袖のシャツとジーンズというラフな格好。
「ど、どうしたの!?こんな所で迷子…っ!?」
駆け寄れば、涙でぐしゃぐしゃになった顔が恐る恐るといった体で上がる。
「お母さんと…ここの病院に来たんだ。でもお母さん、いつの間にかいなくて…」
親子で深夜に肝試しとかDQNが過ぎる。
「ずっと一人で怖かった…」
「もう心配ないよ、これからはお姉ちゃんが一緒にいてあげるし、お母さん探そう。あ、私ユーリ、よろしくね」
彼もまた私たちと時を同じくして閉じ込められたらしい。廃病院入り口付近で若い男女を見かけたのを思い出す。彼らの子という可能性もある。
私は少年に手を差し出した。
「ここにいても仕方ないから、とにかく病院の中を探してみようよ」
彼は頷いて、私の手を取った。
薄手の上に雨で気温が低下したせいもあって、触れた手は冷たい。寒さで風邪をひかなければいいのだが。

「…一緒に、お母さんを探してくれるの?」
ハンカチで少年の頬を濡らす涙を拭ったら、まだ幼い顔が目を瞠った。
「もちろん。一人でいても怖いでしょ?
実を言うとも、お姉ちゃんもちょっと怖いんだ。でも…きっと何とかなると思う」
必ず助けてくれると、約束した人がいるから。
「見つかるまで、一緒にいてくれる?」
「うん」
「一人でいるのはすごく怖いんだ。だから約束して。お母さん見つけるまで僕といるって」
少年とまともに視線がぶつかった次の瞬間、視界がぐにゃりと歪む。頭の中に霧がかかったみたいに朦朧として、目も霞む。足元は不安定で、気を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
困っている子がいるのだ、助けるべき相手が眼前にいるのだと己を奮起させるが、一瞬でも力を抜けば意識を失ってしまいそうなほど、どうしようもなく頭が重い。
「…うん、約束す──」

「ユーリ!」

どこからともなく聞こえた呼び声に、ハッと我に返る。
睡魔が去ったみたいにクリアになる視界と、重りが消えて自由に動く体。突如眩しい明かりに照らされて、私は思わず目を閉じた。
何が起こったのか分からず頭を真っ白にさせていた私の体を、誰かが思いきり引き寄せる。抱きしめられたと気付くのは、少し経ってからだった。嗅ぎ慣れた匂いが鼻をくすぐると共に、目に映るのは──見慣れた、青。
「カラ松、くん…?」
「ユーリは駄目だ」
掻き抱くように私を腕に閉じ込め、彼は語気を強めて言い放つ。
「何を──」

「オレの大切な人なんだ…頼む」

カラ松くんは両手で私を抱いたまま、少年と対峙する。懐中電灯を向けられた少年は眩しさに顔を背けるでもなく、今にも泣き出しそうな顔でカラ松くんを見やった。
「…どうして邪魔をするの?」
少年の言葉に、私は耳を疑った。
「お姉ちゃんは、お母さんが見つかるまで一緒にいてくれるって言ったんだ。約束だ、って…」
「まだ約束したわけじゃない。ユーリは言い切ってない」
だから無効だ、とカラ松くんは言う。
「君の両親は、家にいるんだ。家で、ずっと君の帰りを待ってる。ここから出れたら、必ず連れて行ってやる。だから…ユーリには触れないでくれ」
話の展開に理解が追いつかないが、軽々しく口を挟める状況ではない。けれど冷静になって初めてようやく気付くことがあった。少年の足元に影がない、と。
彼は僅かに目を見開いた後、口元に小さな笑みを浮かべた。
「そっか…お母さんたち、家にいるんだね。最初から、帰れば良かったんだ───ごめんね、ユーリさん」
「君の家は…」
「覚えてるよ。一人で帰れる」
微笑む少年に、カラ松くんが懐中電灯を右手に持ち替え、左手をスッと差し伸べた。人差し指のゴールドのリングが、きらりと光を反射する。
少年がカラ松くんの手に触れると、足元から徐々に体が透け始め、やがてドライアイスのように跡形もなく姿が消えた。
結局、名を聞かないままいなくなってしまった。




幼い子どもの消滅を見届けてから、カラ松くんは私からゆっくりと手を離した。彼からはどことなく名残惜しそうな、離れがたいような空気を感じるから、妙に意識してしまう。これ幸いと尻でも触っておけば良かった。完全に機を逸した。しくった。
「遅くなってすまない、ユーリ」
「急に出てきたからビックリしたよ。どこにいたの?」
「ハニーと同じ、ここだ。廊下で急にハニーの姿が見えなくなってから、ずっと探してた。
しばらくして奥の方で何かが光ったと思ったら、ユーリが子どもの霊と一緒にいるのが見えたんだ。居ても経ってもいられなくて、手を伸ばしたら──」
同じ場所の、異なる次元にいたということなのか。
ということは、ひょっとしたら他のメンバーも同じように彷徨っているのかもしれない。
「そっか…無事で良かった」
私が胸を撫で下ろす仕草をすると、カラ松くんは首を横に振った。
「こんな時までオレの心配をしないでくれ。ハニーは連れて行かれる寸前だったんだぞ」
「本気で迷子だと思ったんだよ」
まだ幽霊と対峙した実感がない。夢を見ていた気がする。

「オレは生きた心地がしなかった。ユーリを失うなんて考えたくもない」

今は、彼の好意が素直に嬉しい。
自分自身冷静なつもりでいたが、本当は不安や恐怖に無理矢理蓋をしていただけなのだろう。カラ松くんに再会した安堵で、蓋は再び開いてしまった。

「あの子の親が家で待ってるなんて、よく知ってたね」
「ここに来る道中、車内でトッティがこの廃病院にまつわる噂や幽霊の目撃談を調べてたのを横で見てたんだ。その中に、あの子の写真があった」
噂ではなく、数年前に実際に起こった事故として。
先天性の疾患を抱える小学生の少年が、母親と病院へ向かう途中で車に撥ねられるという痛ましい事故だった。制止する母親を振り切って道路に飛び出したらしい。
病院へ向かう目的だけが残留思念として残り、病院が廃墟になった今でも母親が後追いでやって来るのを待っていた、つまりはそういうことか。
「カラ松くんの言葉で安心したんだね」
「えっ!?あ、いやー…」
「どうして遠目でも幽霊だって分かったの?」
率直な疑問を投げたら、急に彼の歯切れが悪くなる。
返事を待つために口を閉ざしていたら、カラ松くんは幾度か私をちらりと見やり、やがて居心地が悪そうに私から視線を外し、ぽつりと呟いた。
「実は…肝試しをするとデカパンに話したら、除霊効果があるゴーストバスターズリングの検証を頼まれた」
「ゴーストバスターズ」
あの軽快なテーマ曲が私の脳内で自動再生される。
「一回限りの消耗品だが、有名な霊能力者監修の物で、いざとなったらだいたいの霊は消せるからって」
胡散臭さハンパない。なのに効果あった、ムカつく。
「腑に落ちた。そのリングを持つ自分たちは安牌だったから意気揚々と来たわけか
どうりで誰も肝試しにノーと言わなかったはずだ。トト子ちゃんを誘ったのも、霊障に乗じてイチャつく機会を窺っていたのか。とんだ茶番だと、青筋立ててカラ松くんを睨みつける。
「す、すまん…どうせ何も出ないと思ってたんだ」
「そうだとしてもさ」

「それに、何があっても、ユーリのことを守るつもりだった。
信じてもらえないかもしれないが、もしデカパンのリングの効果がなかったら、その時は…いざとなったらオレが代わりに──」

「ストップ」
彼の胸元に手を伸ばして、私は続きを制する。
「カラ松くんを身代わりにするくらいなら、助けなんていらない。自己犠牲はいらないよ」
「ハニー…」
「何はともあれ、助けてくれてありがとう。カラ松くんが来てくれるまでの辛抱だと思ってたから、一人でも何とかなったよ」
結果的に、自分の身を危険に晒すことになってしまったが。
「ユーリが信じていてくれてたから、抜け出せたのかもしれないな。フッ、ハニーの信じる力の効果は絶大だ」

カラ松くんの言葉の威力だとばかり思っていたが、私自身もまた彼への信頼を口に出していた。一人になった時だって、信じて疑わなかった。
言霊というのは、本当にあるのかもしれない。




「あ、何だお前ら、そんなとこにいたの?」
捜索を再開してすぐに、おそ松くんたちとの合流を果たす。六人勢揃いで、やいのやいのと騒いでいる姿は、神隠しに遭ったのがつい先程だなんて信じられないくらい賑やかだ。
「ほんっと、みんな勝手にどっか行くんだから。探すの苦労したんだからね」
仁王立ちで頬を膨らませるトト子ちゃん。
「えー、ひどいよトト子ちゃん。一番最初にぼくら置いてどっか行っちゃったくせに」
十四松くんが唇を尖らせる。
「てか聞いてよ、ユーリちゃん。俺とチョロ松、マジもんの幽霊に遭遇しちゃった!」
「え、実はおれたちも」
「そうなの!?すごい高確率、ボクらもだよ」
嬉々として報告してくるおそ松くんの背中で、一松くんとトド松くんが挙手して続く。幽霊遭遇率高すぎる。
「俺たちの場合、ドアの開いてた病室で賭け狂いのアル中おっさんと麻雀して惨敗したら、気を良くしてついでに成仏したんだよな」
何て?
「いや、あれは納得いかない僕らがおっさんの肩揺すったせいだろ。デカパンのリングの効果」
「ボクらは白衣の執刀医っぽい人だったよ。手術ばっかりでソロプレイする暇もないってくらい欲求不満らしくて、でも襲いかかったトト子ちゃんにカウンター食らって失神って感じ?
とどめはボクが刺したけど、もしかしたら必要なかったかも」
トト子ちゃん、マジ逞しい。
「おれたちは女の子だったな、十四松?」
「うん!ずっと寝たきりで病院から出たことなくて、動物触ったことなかったんだって。一松兄さんが野良猫を呼んでモフモフ天国で成仏!」
女の子可愛かったよね、と顔を見合わせる四男と五男。お前らもうノーベル平和賞ものじゃねぇか、爆ぜろ。

「私だけガチで危機一髪だった!幽霊ガチャの差が激しすぎる!
「まあまあ、ハニー」
慟哭する私の背中を、宥めるようにカラ松くんが擦る。
「肝が試されたのは私だけってか、肝試しだけに?やかましいわ!」
「ユーリ、帰りに何か奢るから、いったん落ち着こう。な?」




無事に廃病院の外へ出る頃には、深夜二時のいわゆる丑三つ時を回っていた。
踏みしめる土は乾燥して固く、土砂降りの雨なんてなかったとばかりに輝く夜空の星空に、落雷さえも霊障だったのかと私たちは驚きを新たにする。
「そういえば、駐車場で会ったカップルは大丈夫だったのかな?一応探した方が…」
「あ」
私が彼らの無事を案ずると、トド松くんが何かを思い出したように突然声を上げた。
「若いカップルっていえば、本当かは分からないけど、変な噂がSNSにあったよ。この病院の屋上から、患者でもない若い男女が飛び降りて───」
トド松くんの説明が最後まで紡がれることはなかった。

どさり。
米俵くらいに重量感のある物体が、私たちのすぐ背後に落下した音がしたからだ。
それも、一つではなく──複数。

まるで人が落ちたようだと、頭の片隅にぼんやり浮かぶ感想。到着した当初に会釈を交わしたカップルの顔が──なぜだか、どうしても思い出せない。

「な、なぁ、トッティ…振り返って、何が落ちたか確認してくんない?」
前を向いたままおそ松くんが言う。
「ちょっ、何でボクが!?おそ松兄さんが見ればいいじゃん!」
「二人とも落ち着けよ。き、きっとアレだ…屋上のフェンスが腐って落ちたとか、そんなんだって」
「ははは、怖がりだなブラザーたちは。オレたちにはゴーストバスターズリングがあるじゃないか」
「全員使い切っただろうが!お前振り向いて確認しろクソ松」
「無理!」
辛辣なチョロ松くんに対し、カラ松くんは速攻で首を振る
「じゃあぼくが」
「すっこんでろ十四松。お前が出しゃばるとややこしくなる」
十四松くんと一松くんのお決まりのような掛け合いがあって。
誰もいないはずの背後から強い視線を感じ、私はぞくりとする。

「そういえばトト子聞いたことあるんだけど、今みたいに背中から気配を感じて、でも振り向いても誰もいないってことあるでしょ?
ああいう時って、背後じゃなくて頭の上にいるらしいよ
トト子ちゃんが笑顔で何気なく放った言葉が、全員にとっての引き金になった。

逃げたのだ、脱兎の勢いで。私たちは前方を凝視したまま一目散に駐車場へ走り、車に飛び乗った。
「飛ばせチョロ松!」
後部座席から手を伸ばしてバックミラーをへし折りながら、カラ松くんが叫ぶ。イヤミさんの車だから遠慮がない。
「誰だよ肝試しなんてしようって言った奴!ざっけんな!」
お前らだよ。
声を出しておそ松くんにツッコむ気力もなく、私は引き続きカラ松くんの服の裾を掴んで、一刻も早く明るい街中に戻れることだけを祈った。こいつらとの肝試しは二度と行くものか、そう誓いながら。


「落ちた二人、また病院の中に戻っていったよ」

無事街へ戻り、トト子ちゃんを自宅へ送り届けた時、ぽつりと彼女が溢した。ついてきてないから大丈夫、と朗らかに笑うトト子ちゃんは間違いなく今日のMVP。
しかし怖いことに変わりはないので、おそ松くんたちがオールで飲み明かすのに付き合うことにしたのだった。

トリック・オア・トリート

「もうすぐハロウィンだな、ハニー」
何気なく投げかけられたカラ松くんの言葉で、その日が間近に迫っていることに初めて気が付いた。


雑誌から顔を上げてスマホを手に取り、日付を確認した私は目を瞠る。
「本当だ。来週ハロウィンかぁ、早いなぁ」
「何だ、気付いてなかったのか?」
カラ松くんは驚いた様子だった。私と並んでソファに腰掛け、ギターの弦に指を添えている彼は、つい今しがたまで新譜の練習に勤しんでいた。
「ハロウィンったって、私にはほとんど関係ないよ。平日だし、そもそも仕事だし」
仕事終わりに仮装して夜の街に繰り出すのは、気力底なしパリピの担当だ。一般人は帰って飯食って寝るに限る。
「松野家は毎年ハロウィン何かしてるの?」
深い意味のない、何気ない問いかけのはずだった。
「イヤミの家を襲撃して、家財から家の柱まで一切合切を強奪してる」
しれっと返ってきたのは、衝撃的な発言。私が言葉を失っているにも関わらず、カラ松くんは平然と続ける。
「ブラザーたちも金欠だし、せっかくのハロウィンだ、今年もやるか。いい金になるんだ
ハロウィン免罪符にすんじゃねぇ。
「昔からイヤミさんと確執があるのは聞いてたけど、それはさすがに…」
「ノンノン、ユーリ。確執なんて優しいものじゃない、奴は親の仇も同然だ」
親どっちも生きとるやん。
カラ松くんもやはり悪魔の六つ子の一員だと認識を新たにしていたら、彼は私が納得したと思ったのか、ニヒルに笑った。
「それに、イヤミから日頃被っている損害は取り返さないと駄目だろ?」
「それたぶんイヤミさんも思ってるよ」
どっちもどっちだ。

ハロウィンはヨーロッパ発祥の祭り事だ。
秋の収穫を祝うと共に、先祖の霊を迎えて悪霊を追放するのを目的とされてきた。日本でいう盆のようなものである。
「古代ケルトでは、十月三十一日は大晦日だったんだって。大晦日には、先祖の霊が家族に会いに戻ってくるんだけど、一緒に悪い霊もついてきちゃう。そつらは子どもを攫ったり悪いことをするから、驚かせて追い払うために、今でいう仮装を始めたらしいね」
どこかで聞きかじったうんちくを披露すると、カラ松くんは感慨深げに頷いた。
「日本では宗教的な意味合いのないイベントだよな」
「起源や由来を知っている人は、今ではむしろ少数派かも」
「ハロウィンの仮装に、魔女やフランケンといった西洋の妖怪が多いのは、その理由で合点がいくな」
「悪霊を怖がらせるのが目的だからね」
近年はメジャーなキャラクターに扮する人も増えてきた。ハロウィンというイベントの趣旨自体が様変わりしつつある。


「ま、余談だったね──耳かきするんでしょ?とっとと寝て
私が自分の膝を叩くと、カラ松くんは見目にも明らかなほど動揺し、こめかみから滝汗が流れ落ちた。
「だ、だって怖い!」
「自分から頼んでおいて今更抵抗しないの。ちゃちゃっと終わらせてあげるって言ってるでしょ」
松野家を訪ねるなり、カラ松くんから頭を下げられた。耳かきが怖いからやってほしい、と。
顔を赤らめながら小声で告げる推しは最高にエロい、という個人的な感想は横に置くとして、恥を忍んで、私を信頼してこその頼み事と気付いたから、二つ返事で了承した。
なのに今になって涙目で両耳押さえるとか、何だこいつ可愛いかよ
「本来物を入れるためじゃない穴に異物挿入だぞ!?怖いに決まってる!」
「言い方」
細長い棒がオレの耳の中を蹂躙するとか想像したただけで無理っ」
「わざと?」
イケボの無駄遣いをするな。
「じゃあやっぱりおそ松くんにやってもらう?」
「そ、それは…」
以前おそ松くんに頼んで散々な目に遭ったと聞いている。まぁ、耳かきごときでこれほど抵抗されたら、対応がおざなりにはなるのは仕方ない。長男の気持ちは理解できる。

「異性に耳かきしてもらえるってだけで、十分贅沢なことだと思うけど。しかも膝枕の豪華オプション付き」
生足やパンストなら断固拒否しただろうが、デニム生地を隔てた上からなら許容範囲だ。
「うっ…ユーリの膝枕は確かにかなり魅力的だ。それは是が非でもお願いしたい」
「耳かき自体、下手じゃないと思うよ。痛くない痛くない」
宥めるように言えば、カラ松くんは物言いたげな目をする。
「…人にやったことあるのか?」
「ない」
「不安倍増!いや、他の男にやったことあるとか言われたらそいつに殺意しか沸かないけど、逆はそれはそれで不安要素でしかない!
面倒くさい奴だ。おそ松くんよく耐えたな。
長男の気の長さを感心すると共に、私の中の嗜虐心がくすぐられる。
「いいね、反応がいちいちたまらない。言葉攻めする側の気持ちってこんな感じなのかなぁ」
「は、ハニー…っ」
目尻に涙を浮かべるカラ松くんの顎に、人差し指を添える。クイッと軽く持ち上げて彼を戸惑わせる私の顔は、きっと恍惚としているに違いない。

「一気に突っ込むから痛いんだよ。入り口で十分慣らしてから入れたらいいの」

「表現が卑猥すぎるぞ、ユーリ!」
叫ぶカラ松くんを無視して、顎から離した手で彼の耳朶を優しく撫で上げる。彼がぞくりとしたのが、下唇を噛む仕草で伝わってきた。
「あの…普通、立場逆じゃないか?」
「私の耳かきじゃないと満足できないくらい、気持ちよくしてあげるから。ね?」
攻めるって楽しい。

「あ、じゃあさ──トリック・オア・トリート」
「え?」
「ハロウィン近いし。お菓子くれたら、耳かき止めてあげる」
どうする?とにこやかに小首を傾げて尋ねる。
カラ松くんは耳に触れる私の手に自分のそれを重ねて、一層顔を赤く染め上げた。僅かに俯いて逡巡する気配を見せたけれど、魅惑の誘いを難なく拒絶できるほど人生経験ないのが、松野家六つ子だ。
「……止めないで、ください」
「りょーかい」




カラ松くんが恐る恐る私の膝に顔を乗せる。
恐怖に引きつる表情は見せたくないのか、顔を外側に向けられてしまったのは遺憾だが、位置を固定するために片手を頭に置いただけで、びくりと体が揺れる。艷やかな黒髪は、持ち上げようとした私の指からさらさらと零れ落ちていく。
「い、入れる時は入れるって言ってくれ」
「入れる」
早い!心の準備させてっ」
いつになく高い声で叫ばれた。
「緊張時間長い方が神経すり減るよ」
「ヤダ!怖いものは怖いの!」
格好つけのキザな松野カラ松が行方不明。
「いきなりズボッてやったりしないから。痛くないよ」
子どもをあやすように頭をポンポン叩きながら、努めて穏やかな声音で囁く。それから私がカラ松くんの耳に差し入れたのは、手渡された耳かき棒ではなく──子ども用の細長い綿棒だ。
柔らかな脱脂綿で、穴の周りを優しく撫でる。抵抗感を示さないのを確認して、くるくると円を描きながら、少しずつ穴へ侵入させていく。

「…んっ」
ぴくりと肩が強ばると同時に、恐怖とは異なる種類の声がカラ松くんから上がる。
「ち、ちょ…ユーリ…ッ」
行き場なく上がる片手と、上擦る声。顔を見れないのが辛すぎる。絶対、エロい。
「ね、気持ちいいでしょ?」
私はほくそ笑みつつ、綿棒の先端で外耳道の皮膚を擦る。
「…い、ぁ…!」
そそる。
しかし長く続けてはいられない。耳掃除なんて、穴の入り口を軽く拭う程度でいいのだ。耳かき棒を奥まで突っ込む必要はない。
「はーい、こっちはおしまい。次は反対側ね」
新たな綿棒に持ち替えて、私はにっこりと微笑んだ。

ぎこちなくカラ松くんが体を回転させる。私の腹に顔を向ける形になって、見下ろしていたら視線が重なった。気恥ずかしさと居心地の悪さの相俟った表情で、そっと私から目を逸らす。可愛い可愛い、私の推し。
さて、反撃を許さぬ私のターン開始だ
「えッ…ちょ、ユーリ…っ、ぁ…」
下手に動けば耳が死ぬから、声で衝動を緩和するしか彼が取る術がない。信じられないとばかりに、驚愕に瞠られた双眸。タコみたいに赤くなった耳を、彼の言葉を借りるなら蹂躙して、存分に堪能する。
「どうしたの?痛い?」
「痛くな、い…っ」
「すぐ終わるからねー」
耳掃除が気持ちいいのは穴の中に迷走神経があるためだ。性感帯とも言えるかもしれない。それにしても敏感すぎやしないかと、私は内心で苦笑する。さすがは新品。
信じられないだろ、たかが耳かきなんだぜ、これ。

時間にして、僅か一分二分ほどのことだったと思う。
耳かきが終わる頃には、私は満面の笑み、カラ松くんは引き続き頬を朱に染めたまま涙目で耳を押さえていた。
「楽しいねぇ、耳掃除!膝枕くらいならするから、月イチでやらせてくれない?」
「…考えさせてくれ」
「何で?カラ松くんも気持ちいいし、私も楽しいし、Win-Winだよ?」
「別の意味で怖い」
失礼な。


使い終えた綿棒をゴミ箱に放り込んでから、私はカラ松くんに爪切りの保管場所を訊く。
「爪切り…?何でそんなものを」
「爪もちょっと伸びてるから。サービスで切ってあげる」
ギターを弾くのに邪魔でしょう、と言えば、カラ松くんは指を内側に折って自身の爪を確認する。
爪切りを渡されて、人によってはギターを弾くのに適切な長さとがあるらしいことをふと思い出した。こだわりはあるかと問えば、カラ松くんはかぶりを振る。
「…短めでいい。ユーリに触れた時に、万一にも傷をつけない長さで頼む」
スパダリの降臨。
さっきまで喘いでたのはどこのどいつだ。

ん、と差し出された手を取るのは、まるで姫をエスコートする王子みたいで。それこそ立場が逆だなと、笑ってしまいそうになる。片手で手の甲を掴んで、もう片手で爪切りを握った。
「こうやって比べると、男の人の手って感じだね」
繋いだ手をまじまじと眺めることはあまりなかったから、目に見える高さに二つの手が重なるのを見るのは不思議な感覚だった。無骨で筋張った、大きな手。
「ユーリの手は、細いな。しなやかで、柔らかくて、マシュマロのようだ」
この次男ナチュラルに誘惑してくる、助けて。
「手を繋いでる時も何となく思ってたんだが…こう、まじまじと見ると、改めてそうなんだなって感じてる」
「そう、だね」
「──首も、こんなに細いんだな」
音もなく伸びた手が、私の首を包み込む。
「力を入れたら折れてしまそうだ」
開け放たれた窓から冷たい秋風が吹き込んで、私の肌を撫でた。私は真っ直ぐにカラ松くんを捉えて、軽快な口調で笑う。
「いつから悪戯する側になったのかな?呪文、まだ聞いてないよ」
「…すまん、冗談が過ぎた。ユーリに危害を加えるつもりは毛頭ないんだ」
それから一呼吸置いて、カラ松くんは言う。

「オレは、ハニーにとってのジャック・オー・ランタンさ」

「カボチャの?」
「ああ。滑稽な顔をして、悪い霊を追い払う役だ」
どこか自嘲気味に聞こえた。ボディガードの大役を担う自負ではなく、その座に甘んじる己への嘲りのようにも。
「滑稽かなぁ?愛嬌あって可愛いよね、ジャック・オー・ランタン」
パチンパチン、と爪を切る音がやけに反響する。

「私は、好きだよ」




爪切りを終える頃になっても、ハロウィンの話題は続いていた。
「ユーリは仮装しないのか?」
「うーん、しないかな。特に予定もないし、そもそも仮装用の衣装持ってないし」
「それはいただけないな」
「は?」
呆気に取られていたら、カラ松くんが突如指笛を吹いた。高らかな音色が室内に響く。

「カラ松、呼んだ?」

そして襖を開けて現れたのは──チョロ松くんだった。三男召喚しおった。普通に呼んでこい。
「聞いてくれ、チョロ松。現世に生きるミロのヴィーナスであるユーリが、ハロウィンに何の仮装もしないらしい」
「それは聞き捨てならないな。可愛いのにちょっと悪ぶった、おもっくそ性癖くすぐってくる女の子の仮装がハロウィンの見どころなのに」
チョロ松くんは悩ましげに腕を組む。こいつら、ハロウィンを何だと思ってるんだ。
「で、ユーリちゃんに似合う衣装を見繕えというわけか。分かったよカラ松」
物分り良すぎる三男怖い。
「でも急に言われてもなぁ…女の子用の衣装でパッと浮かぶのは、デリバリーコントで使ったジュウシテルやトド松の赤ずきんかな」
押入れから該当の衣装を引っ張り出すチョロ松くん。そして両者間ではさらっと流されたが、デリバリーコントとかいうパワーワード
「それはどっちもデザインがイマイチだ。ユーリの魅力が翳ってしまう」
「あとはそうだなぁ、釣り堀で僕が着た泉の女神なんかは?
見せ方によってはドレスみたいになるかも」
言いながらチョロ松くんが畳の上に広げるのは、白いドレスと月桂樹を模した葉の冠。
「いや、これ片乳ポロリするよね?仮装どころか猥褻物陳列罪でお縄だよね?」
「中は白いチューブトップで隠せるからさ」
「ガチめのアドバイスいらない。ハロウィンに女神って色々おかしいから、完全に浮くから」
「そうかなぁ、露出もいい感じにあって、この中では割とまともだと思ったんだけど」
他にないか探してくるよ、とチョロ松くんは席を立って一階へと下りていく。


部屋には、私とカラ松くんが残された。
「あ、衣装といえば、今すぐできる仮装が一つあるよね」
名案とばかりに私が手を叩けば、カラ松くんは不思議そうに首を傾げた。
「カラ松くん、ジャージとサングラス貸して」
「え?あ、ああ…」
彼は言われるがまま、黒いシャツの上に着ていた青いジャージと、愛用のサングラスを私に渡した。私は服の上からジャージに腕を通して袖を捲り、サングラスを装着する。視界に灰色のフィルターがかかった。

「待たせたな、カラ松ガールズ」

盛大に指を鳴らして、勝ち誇ったような笑みを浮かべれば完璧だ。
ぽかんと口を開いたまま硬直するカラ松くんに、ひょいっと肩を竦めて私は声を上げて笑った。
「──なーんてね」
「は、ハニー…っ!?」
なぜか前屈みになる次男───察した。
「え、何で今勃つの?どういう性的趣向してんの、逆に怖い
「ちょ、まっ…そういう不意打ちは止めてくれ、ユーリ…ッ!」
顔どころか耳まで朱色にして、それ以上接近するなとばかりに片手で私を制する。
「あー、でも仮装じゃないね、これ。完全に内輪ネタ」
「そういう問題じゃない!」
怒られた。
「チョロ松にユーリのその姿は見せたくない。早く脱いでくれ」
そう言ってカラ松くんは、私が着るジャージの襟元を掴んで引き下げようとする。
「何で?カラ松くんのジャージ着ただけだよ」
「だから駄目なんだ!」
「そんなことより、このジャージいい匂いするね──カラ松くんの匂い」
カラ松くんの手ごと襟を持ち上げて、鼻先に近づけた。いわゆる皮脂の匂いなので、一般的に好ましいものとは言い切れないが、私にとっては嗅ぎ慣れた、安心する香りだ。
「ごめんなさい、脱いでください」
私の素直な感想は童貞ニートには刺激が強すぎたらしい。少しばかり反省して、カラ松くんの手に動きに合わせて体を捻り、ジャージを脱ぐことにする。

とその時、部屋に続く障子が開いた。
「お待たせー。にゃーちゃんのステージ衣装があったよ。これなら制服だし、ユーリちゃんも──」
だがその台詞は最後まで紡がれなかった。
チョロ松くんの手から、ぱさりと衣装が落ちる。彼の瞳に映るのは、ジャージを二の腕まで下ろされた私と、服に手をかける次男の姿。
「…何やってんの?」
「見ての通り、脱がされてるの」
無表情なチョロ松くんの顔に青筋が立った。
「んー、ハニー、確かに説明は正しいが…待て待てチョロ松、殺意を向けるな、誤解だ、これには事情がある、話せば分かる

その後、私も釈明に加わって事なきを得たが、異性の服を脱がそうとした事実には三男から厳重注意を食らうカラ松くんだった。
「ユーリは仮装禁止だ」
すったもんだの挙句、辿り着く極論。見たいって言ったのはお前だというツッコミは無意味ですかそうですか。




それからの数日間は、あっという間だった。
家と職場の往復で、流れるように一日が過ぎる。ハロウィン当日にしても、取り立てて変化もない、平凡な日々の続き。ルーティンを繰り返すように定刻に帰路に着く。
日も暮れて夜を迎える頃、大通りで派手な仮装に身を包んた男女のグループとすれ違う。交わされる会話から、どうやらハロウィンのナイトパレードに繰り出すらしい。それからも仮装をした人々をちらほら散見して、ハロウィンであることをようやく身近に感じ始める。
多少の羨望を眼差しに込めて、私は帰宅して休む選択肢を選ぶ。
道中コンビニに寄って購入した棒付きの飴を鞄から出して、口に咥えた。甘いイチゴ味が口内に広がる。

帰路の途中。
ふと視界に入った、物憂げに視線を落として柱に寄り掛かるドラキュラに目を奪われた。
クラヴァットをリボンのように結んだ白いシャツに金の装飾が施された黒マント、両手には白手袋と、十八世紀アメリカの中流階級を彷彿とさせる格好。
カラ松くんがああいう格好をしたらさぞかし似合うだろう。そう思って見つめていたら、何のことはない───カラ松くん本人だった。
「カラ松くん…っ!?」

「ユーリ!」

思わず名を呼んだら、ドラキュラはハッと顔を上げた。目が合って私を認識するなり、端正な顔にぱぁっと明るい笑みが広がる。
尊すぎない?うちの推し、可愛すぎない?
ひらひらとマントをたなびかせて、カラ松くんが駆け寄ってくる。
「仮装したの?ドラキュラすごく似合ってるね。一瞬、誰だか分からなかったよ」
「せっかくのハロウィンだしな」
目の下は暗いグレーのシャドウで塗り潰され、にこりと破顔した口からは鋭い牙が覗いた。本格的な仮装だ。
「イヤミの家を襲撃した帰りなんだ」
今年もやったのか。そういうとこだけ有言実行。
「ブラザーたちは質屋に向かった」
悪魔だ。
開いた口から飴が零れ落ちそうになって、慌てて手で棒を掴む。

「トリック・オア・トリート」

に、と八重歯みたいな牙を見せて。
「…えー、困ったなぁ、今は渡せるようなお菓子ないんだよね」
私は肩を竦めて、お手上げのポーズを取る。
「ああ、もちろん構わないさ。言ってみただけで──」
「だからさ、お菓子じゃなくて、一杯どう?」
くいっとグラスを口元へ運ぶ仕草をしてみせれば、カラ松くんは私に顔を近づけた。探るように細められた瞳がいつになく鋭いのは、冷たい印象をもたらすメイクのせいか。
「ドラキュラの好物は美しいレディの血だぜ、ハニー」
「仕事で疲れてるから、ドロドロで不味いよ」
「ユーリのだから所望しているんだ」
今日はやたら押しが強い。持ち前の演技力か、それとも自覚がないのか、判断がつかない。口説き文句を制する意味も込めて、私は人差し指をカラ松くんの唇に当てた。
「そういうこと言っちゃうんだ。可愛いね」
そう返せば、彼は途端に唇を尖らせる。僅かに覗く白い牙に、どうしようもないほどの愛嬌を感じて、私の心は自然と浮き立ってしまう。
「…可愛いじゃなくて、格好いいと言ってくれないか、ユーリ」
「不満?」
「不満、というか…」
カラ松くんは目を伏せて逡巡する。

「…ユーリに可愛いと言われて嬉しくなる自分が、ちょっとヤだ」

拗ねたみたいに眉根を寄せるが、声音からは一切の不快感を感じない。どちらというと、気恥ずかしさ、照れくささ、そんな感情が読み取れた。
そういうとこだぞ。


「あ、お菓子あった」
吐息から香る甘さに、自分が飴を片手に握っていることを思い出した。
「ん?」
「食べかけだけど、お菓子なら───って、いや、ごめん、そういう問題じゃなかった」
誤魔化すように私は苦笑する。相手がカラ松くんといえど、考えなしの発言には気を付けなければ。
しかしカラ松くんは目尻を赤くして、私の手元を凝視する。
「…貰っていいのか?」
「んんっ!?だってこれ、食べかけだよ」
「菓子がある、と言ったのはユーリだぞ」
直接的な言葉こそ発さないが、引く気がないらしいことは伝わってくる。万一私に拒絶された時に、冗談だよとかわす逃げ道だけは残して。

飴を差し出せば、カラ松くんは躊躇いもなく手に取った。それから私と飴を交互に見やり、困惑したように笑う。
「ひょっとして無自覚なのか、ハニー?」
「言ってから気付いた」
「そうだろうと思った…」
溜息を吐いて、黒のマントを翻す。街灯の明かりの下、漆黒の闇に溶けてしまいそうな、足元に伸びる影と同化しかねない儚さを伴って。目の前にいるこの人は誰だったか、確固たる事実さえ曖昧になるほどに。
「心臓に悪い」
「っていうか、食べるなら早く食べてよ。いらないなら返して」
奪い返そうとしたら、カラ松くんはさっと手を挙げて私の攻撃を避ける。無駄な回避能力の高さ、腹立つ。
「フッ、ハニーのブラッドの代わりにしてはスウィートすぎるが、ドラキュラに相応しい色だとは思わないか?
ハロウィンの仮装さえ本物さながらに着こなしてしまう…オレ!」
「自己陶酔はいいから!」
もう一度手を伸ばしたら、あっさりと手袋を装着した左手に絡め取られて、カラ松くんの顔が近づく。ダンスが踊れるくらい至近距離まで体が近づいて、いたずらっぽい眼差しと共に赤く色づいた飴が彼の口に収まる。

世の理に背く生きた屍に誘われて、幻想的な夢を見せられているかのようだ。足元が不安定で、眩暈がする。

「マイレディ、今宵は二人きりの宴に付き合っていただけるかな?」

日が昇る、その時まで。恭しい、わざとらしい言い回しだ。なりきっているつもりなのだろう。
「最初に誘ったのは、私の方だよ」
「はは、確かに」
「まぁいいや…私で良ければ、喜んで」
応じたら、ドラキュラの手袋が外されて、血色のいい手が差し出される。触れれば温かくて、ああ良かったこの人は生きているんだ、なんてつい思ってしまうほどには、世界観に溶け込んでいる。飴を咥えて言うような台詞ではないけれど。

「それにしても、この飴美味いな」
突然、何を思ったかカラ松くんは口から飴を抜いて、透明感のある赤い球体をじっと見つめた。
天然か。
間接キスどころではない、間接唾液交換的な行為が我々の間で交わされた現実が、私の頭を沸騰させる。思い出させるなと忌々しげに睨んだら、逆効果だったらしくカラ松くんも同じ認識に至り、ハッと目を剥いた。
「えっ、あ…いや、そういうつもりじゃ──なくて…ユーリ、これはその……えッ!?
え、じゃねぇ。

その後自宅で私服に着替えた私は、ハロウィン柄のパッケージのお菓子をカラ松くんに手渡して言った。たまたま買い置きしていた中に、おあつらえ向きな物があったのだ。
「ハッピー・ハロウィン」
「……ハニー?」
「あれ、知らない?
トリック・オア・トリートって言われたら、この台詞と一緒にお菓子をあげるんだよ」
順番は逆になってしまったが、せっかくのハロウィンだ、お決まりの様式に倣おう。
「そうか…ハロウィンっぽいな」
「ハロウィンっぽいね」
顔を見合わせて、私たちは二人で笑う。共に過ごしたい本音を、ハロウィンだからという大義名分に隠して。
そうして平凡な人間の女と一晩限りのドラキュラは、月明かりに照らされたアスファルトを踏み鳴らし、夜の街へと消えていくのだ。

ラブレターは欲しいか

文字は、偉大な力を秘めた魔法だ。
羅列された一見無機質とも思える記述は、読み手の想像力を伴うことで際限なく膨張する。胸に秘めた己だけが知り得る形のない感情を、持ちうる限りの語彙でもって他者に伝達しようと試みた時、そこに類まれな表現力や文章力は必要ない。
文字に読み手の想像力が補完された時初めて、人の心が動く。




服についた抜け毛をゴミ箱に入れようとして、私ははたと手を止めた。開封された形跡のない白い封筒が無造作に放り込まれていたからだ。
場所は、六つ子の部屋である。主にカラ松くんとの約束で訪ねることがほとんどだが、その時その時で在宅している六つ子たちと戯れたりもする。
今日はトド松くんが部屋にいた。
「ねぇトド松くん、未開封の手紙が捨ててあるけど、これ捨てたままでいいの?DM?」
そう訊けば、トド松くんはスマホから顔を上げて、呆れたような表情をする。手に取って宛名を確認しようとしたが、未記入だ。切手を貼られた形跡もない──ということは。
「ああ、いいよ捨てておいて、ユーリちゃん。っていうかゴミだし。カラ松兄さんが書いて不要になったヤツだから」
「カラ松くんが…」
「前に釣り堀行った時に、ルアーの代わりに釣り針に刺してたラブレターの予備なんだって」
「釣り針に刺してたラブレターの予備」
意味不明すぎる展開に、理解が追いつかない。そこはかとなく漂うサイコパス感。
「釣り堀の魚に宛てたの?」
「そうみたいだよ。ボクは理解したくないから、それ以上訊かないで。あれはもう馬鹿通り越してサイコパスだから」
あ、兄弟でもそう思うんだ。
「バラの花束まで持ってきてたからね」
「ヤバイ」
思わず口から本音が出た。それはもうヤバイ。フルスロットル。
「封筒の中、開けて見ていい?」
「え、正気?」
精神状態を疑われてしまった。
「いいけど…あ、そんなことより、この間新しいフレーバーの紅茶買ったんだった。ユーリちゃん感想聞かせてよ、入れてくるね」
女子ウケしそうなミックスフレーバーなんだよ、とトド松くんは嬉々として一階へと降りていく。一人取り残された室内で、私は白い封筒を開けて便箋を取り出した。綺麗に半分に折りたたまれたその上には、見覚えのある癖字で書かれた文字。
窮屈な箱庭で暮らすフィッシュたちへ、という仰々しい宛名を見た時点で唇が引きつった。その後は、カラ松くん自身がどれほど魅力に溢れているか、自分の垂らす釣り針で釣られればいかに有益かがつらつらと書かれている。そしてそんな釣り人に釣られることを光栄に思うがいい、と上から目線が凄まじい文句で締め括られている

読まなきゃ良かったかと後悔の念に苛まれると同時に、襖が開いてカラ松くんが姿を現した。私を視認するなり、顔が綻ぶ。
「今日もいつになく爽やかでキュートだな、ユーリ──って、ん?その封筒は…」
「カラ松くんが書いたラブレター」
「魚に宛てたものだな。何だハニー、そんなものに興味があるのか?」
ソファに座る私の隣に腰を下ろして、手元を覗き込んでくる。もうだいぶ昔のものだと懐旧の念に浸る彼とは対照的に、私の口からは苦笑いが溢れた。
「カラ松くんは元々少し変わってるとは思ってたけど、ルアーの代わりにラブレターは奇想天外が過ぎる
「オレの愛が伝われば、魚は自らの意思でやって来るはずだ」
曇りのない瞳で断言される。ダダ漏れるサイコパス感。

「んー、さてはハニー、魚にジェラシーか?
だとしたら安心してくれ。ユーリと釣り堀の魚は比べるまでもない──オレの目にはもうずっと、ユーリしか映ってないぞ」

違う、そうじゃない
本来なら、えーやだもうカラ松くんったら☆とか恥ずかしがる場面なのかもしれないが、そもそも論点が違う。
「仮に、仮に内容が愛に満ちた感動的なものだとしてもだよ、手紙の内容が分からないのに魚は引っかかるかな?」
「オレが送り主だぞ」
自信の塊。
「仮に相手が超絶イケメンでも、突然中身の分からない手紙渡されたら不安になるよ」
「そうか…封筒は必要なかったな
ポジティヴの化身。
掘り下げれば掘り下げるほど墓穴を掘っていく。私はついに我慢できなくなって、吹き出してしまった。目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、きょとんとするカラ松くんにごめんごめんと謝罪を口にして。

「よっぽどラブレターに自信あるんだ?
カラ松くんのラブレターを読んだ相手を虜にさせられるくらい」
私にとっては、素朴な問いかけのつもりだった。先ほどからの問答全ては、この前提の上で交わされていたに等しい感覚だったのだ。
けれどカラ松くんは僅かに目を瞠った後、困ったように微笑んで私を見つめた。

「…一人だけ、自信のない相手はいる」

窓から流れ込む冷たい微風が私の頬を撫でる。その言葉の意味が分からないほど、幼い少女でもない。気の利いた台詞が浮かばなくて、私はただ頷く。
「そっか」
「訊かないんだな、それは誰だ、って」
「訊いてもいいの?」
意外だった。本質に肉迫するのはカラ松くんが良しとしないと思っていたのに、本人から誘導してくるとは。
「もちろん。ただ、オレが答えるかは別の話だ──そういうものだろ、ハニー?」
組んだ両手を膝に乗せて、ふふ、と彼は意味ありげに笑った。




「でも今どきラブレターなんて、古風なもの書くんだね」
カラ松くんの文字が書かれた白い便箋をひらひらと揺らして、私は感嘆の息を漏らす。
「古風?そうなのか?
間接的な愛の告白といえば、ラブレターは定番だと思ったんだが」
「今は携帯があるからね。でも無機質に並んだフォントじゃなくて、手書きの文字って温かみがあっていいよね。人からの手紙やメッセージカードって、嬉しかったものだと何度も読んじゃう」
貰った手紙の中には、捨てられなくていつまでも大事に保管しているものもある。ペンを取った時の相手の心境に思いを馳せたり、当時の思い出が鮮やかに蘇ったりと、ある種のノスタルジーを感じさせてくれるのだ。印刷では表現できない温もりが、直筆には存在する。
「ユーリほど魅力のあるレディなら、ラブレターの一つや二つ貰っていても不思議じゃないな」
言いながら、カラ松くんの眉間に皺が寄った。何気ない言葉とは裏腹に、貰っていてはくれるなよ、とその表情は物語る。
「やだな、貰ったことないよ」
「…そうか」
安堵したように、彼の口角が僅かに上がった。
もし貰ったと答えていたら、どんな顔が見れたのだろう。少しばかり気にはなった。

「カラ松くんは?」
「へ?」
「ラブレター、貰ったことある?」
問われるとは予想だにしていなかったとばかりに、素っ頓狂な声が上がった。しかし直後、カラ松くんは緩くかぶりを振る。
「手紙は貰ったことあるが…あれはたぶん、ラブレターじゃなかったと思うしな。いや待てよ、そもそもあの手紙自体、オレ宛と決まったわけじゃ…」
何をぶつくさ言っているのか。
「今のカラ松くんは、ラブレター貰ってもおかしくないくらい可愛いのにね。世の女性たちの目が節穴通り越してブラックホール
「…フッ、そうだとも、ハニーの言う通りだ。ガイアのカラ松ガールズはシャイすぎる。オレが真夏のサンシャインに引けを取らないほど眩しすぎるせいか…」
悩ましげに額に手を当てて、長い溜息をつくカラ松くん。それからゆっくりと目を細めて、畳に視線を落とした。

「それでも、もう誰からでもいいわけじゃないんだ。欲しいと思う相手から貰えないなら、オレはラブレターなんていらない」

回りくどい表現で語られる彼の真意を、どう汲み取るべきなのか悩んで、いつも立ち止まってしまう。差し出しては来ないのに、取ってほしいと希う手。臆病で、弱くて、けれどどこまでも真摯な。
「それに、万が一キュートなカラ松ガールから面と向かって受け取ってくれと言われても…きっと、受け取らないだろうな」
「それは──」
「誤解されたくないんだ。オレはいつだって一人だけを見ている。そのルートから外れるようなことはしたくない」
ああ、と私は思う。
クズでニートで社会人経験皆無で、そのくせいっちょ前に異性を意識する、どう贔屓目に見てもダメ男まっしぐらなのに、見た目の可愛さとイケボがさらっと全部帳消しにしてくる
「確かにカラ松くんの言うことも一理あるね。
でも私は…もしラブレターなんて貰ったら、ドキドキしちゃうんだろうなぁ」
例え自分が好意を持っていない相手からでも、想いを告げるために振り絞った勇気と覚悟は代えがたいものだ。そう思ったから故の発言だったが、カラ松くんは神妙な面持ちで私を見つめていた。
「なぁ、ユーリ…その…」

「ユーリちゃんお待たせ、紅茶が入ったよー」
鼻孔をくすぐるフルーティな香りを漂わせながら、トド松くんが襖を開けたので、私たちの会話は自然と中断せざるを得なくなる。結局、カラ松くんがその時何を言おうとしたのか分からないまま、日は過ぎた。




カラ松くんに手紙を出そうと思い立ったのは、前述したようなやり取りがあったせいなのかもしれない。仕事帰りに偶然立ち寄った文具店で、枯れ葉が散らばる秋色の便箋が目に留まった。つらつらと気の向くままペンを走らせて、差出人は無記名で、彼に送付の連絡もせずに、突然手紙を送った。
ポストに投函する時、妙に浮き立った気持ちになったのは秘密だ。

「ハニー!」
風呂上がりに電話に出るなりのつんざくような声に、思わずスマホを耳から遠ざけた。
「心臓が止まるかと思ったぞ。手紙を送るなら送ると事前に予告してくれ。危うく嫉妬に狂ったブラザーたちに命を奪われるところだった
それは申し訳ない。
兄弟間の諍い勃発までは危惧してなかった。けれど私が謝罪を口にする前に、遮るようにカラ松くんが声を発する。
「ああ違う、言いたいのはそういうことじゃなくて…何ていうか──」
閉じた瞼の裏に、戸惑う彼の姿が浮かぶようだった。

「ユーリからの手紙…嬉しかった」

噛みしめるように、ゆっくりと。
「ユーリの字は見慣れてるつもりだったんだがな。オレのために書かれた文章という認識のせいか、受ける印象が全然違う。読み進めるのがもったいないくらいだ」
「えー、そうかなぁ」
レターセットを買ったはいいが、内容には少々頭を抱えた。話したいことは何でも話してきたから、わざわざ手紙で伝えることが思い浮かばなかったのだ。
だから結果的に、その日あった出来事や、今度出掛けたい場所をつらつらと書き連ねただけの文章になってしまった。ただ、仕上げとして封筒にハートマークのシールをつけたのは、やはり頭の隅にラブレターにまつわる会話が残留していたせいだと思う。

「ハニーのラブレター、心に響いたぜ…」
「いや、本当大したものじゃないよ。てかラブレターでもない。ただの日記…というか、交換日記みたいな感覚かな」
書き上げてから、子どもの手紙交換かとセルフツッコミを入れたくらいだ。
「ユーリにとっては大したものじゃないかもしれない。
でもオレには違う。最後の一言が特に…何て言えばいいか分からないくらい…嬉しかった。
ハニーの字で書かれてるだけで、こんなにも感動するものなんだな」
結びの文句が脳裏に浮かぶ。
また色んな場所に遊びに行こうね、カラ松くんと一緒にいると楽しいです、と。時折本人を前にして口にしている私の本心だ。もっとも、下手にそんな内容のことを口から滑らせれば、カラ松くんから数倍の口説き文句がボディランゲージと共に返ってくるので注意が必要だ。油断すると尊死待ったなし案件になる。
「喜んでもらえたら嬉しいよ。私も、手紙書くの楽しかった」
ローテーブルに置かれた残りのレターセットに目をやって、私は微笑んだ。
どんな顔をして、カラ松くんは手紙を受け取ったのだろう。郵便受けを覗いて首を傾げたのか、それともおばさんから手渡されて目を瞠ったのか。
「早くも来年の誕生日プレゼントを貰ってしまったみたいだ」
「大袈裟だなぁ」
「ハッハー、モテる男はツライぜ。ラブレターのお礼は、オレの慈愛に満ちた熱いハグで構わないな、ハニー?」
「是非お願いします」
「え」
「え」
言い出しっぺがきょとんとするな。
「あ、え…そ、そういうことを軽々しく言うもんじゃないぞ、ユーリ」
そしてなぜか叱責を受ける私。解せぬ。
それから、とカラ松くんは付け加える。

「オレ以外の男には、手紙なんて送らないでくれよ」

「他愛ない内容でも?」
片手でスマホを耳に当てながら、空いている反対側の手でお茶の入ったグラスを持ち上げる。液体の中で氷がカランと音を立てた。
「どんな内容でも、だ。オレの預かり知らぬところで、他の男がハニーの手紙を受け取るのは想像もしたくない」
自分がどれほど独占欲丸出しな発言をしているかなんて、きっと気付いていない。
向かい合っての会話でなくて良かったと私は息を吐く。テレビの黒いディスプレイに映る自分の顔は、いつの間にか口角が上がっていた。

「…ありがとう、ユーリ。ずっと欲しかったんだ──ユーリからの手紙が、ずっと」




カラ松くんへ送った手紙は、自己満足の産物だった。
驚くだろうかという期待や悪戯心も多少含んでいたことは否定しないが、例え無反応でも私は全く構わなかったのだ。もちろん、電話口で大袈裟なくらいに歓喜されて、嬉しくないと言えば嘘になるけれど。

だから、先日の返事だと言ってカラ松くんから白い封筒を手渡された時は、呆気に取られてしまった。

「返事って…」
「この間ハニーからハートのこもったラブレターを貰っただろ。返事もせずにハニーを待たせるのは、男が廃る」
返事は待ってないし、だからそもそもラブレターじゃない。どこからツッコめばいいんだこれ。
待ち合わせ場所の公園を訪れた時、カラ松くんが珍しくワンショルダーのバッグを肩から下げているのを見て不思議に感じた。いつも手ぶらで身軽なスタイルだったから、その相違は奇異に映る。バッグ持つなんて珍しいねと声に出したら、実は、とバッグの中から取り出されたのがその封筒だったのだ。
ご丁寧に青いハートのシールもついている。
照れ顔の推しは可愛いんだよ、今夜のオカズにさせていただきたいくらいなんだよ。なのにこの苦行。
「ええと、これは…帰ってから開けた方がいいかな?」
もしこの間読んだ釣り堀の魚に向けたものと類似する内容ならば、笑いを堪えたまま読了する自信はない。不安で手が震える、ツライ。
「今開けてほしい」
マジかー、回避不可の強制イベントかー。
私は頭を抱えた。

けれど、封を開けて取り出したそれは、私の想像に反するものだった。
中に入っていたのは──しおりだ。

数枚の赤く色づいたもみじの葉がラミネート加工された、ハンドメイドのもの。私の手のひらにすっぽりと収まるサイズで、上部に開けられた穴からは青いリボンが垂れていた。四つ角は丸く処理されているが、ハサミで無造作に切ったような偏りがあった。
そしてその紅葉には、既視感がある。
「カラ松くん、これもしかして…」
私が言えば、彼はにこりと微笑んだ。
「…ああ、気付いてくれたか。さすがはハニーだ」
「この間紅葉狩りに行った時のもの、だよね」

紅に染め上げられた世界を堪能した日のことを、まだ鮮明に覚えている。地面に敷き詰められた道をレッドカーペットに見立てて優雅に歩いてみせたり、落ちたばかりの葉を紙吹雪にして戯れたりした。
あの時カラ松くんがもみじの葉を数枚手に乗せたまま、ふと考え込む仕草をしたから、不思議に思ったものだ。興味のまま尋ねれば、何でもないと笑顔が返されて、手の上のもみじがひらひらと地面に落ちていったから、些末なこととすぐに忘れてしまった。
「最初は、手紙の返事を書こうと思ったんだ」
カラ松くんは照れくさそうに首筋に手を当てる。

「でも文字にした途端に、全部嘘になる気がした。
ユーリに話したいことはたくさんあるんだ。伝えたいことも、書ききれないくらいある。でも方法は手紙じゃない。
ユーリには、オレの気持ちはオレの口から伝えていきたい」

子どもたちが私たちの傍らを駆け抜ける。歓喜に満ちた賑やかな声も掻き消えてしまうくらい、私は意識をカラ松くんに向けていたことにはたと気付く。
「だからオレがユーリに手紙を送るとしたら、二人で過ごした思い出を形にして渡すことの方がいいんじゃないかと思ったんだ。
…こうすれば、ユーリの側にオレがいたことを、ユーリに覚えていてもらえる。それを見るたびに、オレを思い出すだろう?」
まるで呪いだ。強く印象づけて、忘れさせないなんて。
安っぽい美辞麗句を並べ立てた手紙なら、一笑に付すこともできたのに。
ラブレターなんて比にならないほどの口説き文句を口走っていることは、本人は間違いなく無自覚で。
「ほんとロマンチストだよね、カラ松くんって」
いっそ突き抜けてくれた方が清々しくていい。
しかし私の言葉を非難と受け取ったらしい彼は、落胆した表情で双眸を不安定に動かした。
「…や、やっぱり駄目だよな?
すまん、ハニーをガッカリさせたなら、次までにはちゃんと返事を──」
「ううん、違う」
カラ松くんの台詞を私は制する。
「嬉しいって意味だよ。ありがとう、すごく綺麗だね。カラ松くんが作ったの?」
「マミーに作り方を教わったんだ。初めてだから上手く作れている自信はないんだが…」
「そっか。カラ松くんが作った世界に一つしかないしおり、ってことだよね…大事にする」
おばさんにしおりの作り方を習うカラ松くんがイメージできなかった。さぞかし勇気を要したことだろう。誰にあげるつもりなのか、なんて問答も両者間で発生したに違いない。

私が割れ物を扱うように慎重な手付きでしおりをショルダーバッグに収めるのを、目を細めて眺めていたカラ松くんが、おもむろに口を開く。
「この前二人でラブレターの話をした時から、初めてユーリにラブレターを渡す男になりたかった。まぁ、ハニーに先を越されてしまったが」
「お互い初めてのラブレターってことだね」
私が出したのは交換日記紛いのもので、カラ松くんから貰ったのはプレゼントと称して差し支えないから、厳密にはどちらもラブレターと言えないかもしれない。
だから何だ、というのが私の感想だ。目に見えるものだけが真実ではない。そしてその真実さえ、受け手次第でいかようにも姿を変える。
カラ松くんが嬉しそうに笑っている──私にとっての真実は、それだけでいい。

「ああ。これでもう、誰からもいらない」

目を閉じて、自身に言い聞かせるようにカラ松くんが溢した言葉を、聞かなかったことにするか私の中で一瞬の葛藤があった。
ラブレターについて互いの意見を交わしたあの日、彼が口にした台詞全て引っ括めると、一つの結論に集約される。そして今、それは私の前に提示されている。
「もういらないんだ?」
「そうだとも。もうオレにラブレターは不要だぜ、ハニー」
「私からのも?」
「……え」
真顔だ。考えてもみなかった、という顔。
「そっかぁ、じゃあ今後はカラ松くんに手紙を出すのは止めておくね」
「waitwait」
流暢な発音のウェイトが繰り出される。
「言い方が悪かった。他のレディからのラブレターはいらないという意味なんだ。ユーリからのはいる、是が非でも欲しい
「えー、でもなぁ」
「ハニー!」
「さ、そろそろ行こう。話してるのも楽しいけど、遊ぶ時間なくなっちゃうよ」
冗談めかした駆け引きに終止符を打って、私は今日の目的地に向けて一歩を踏み出した。カラ松くんが慌てて追いかけてくる。後ろを振り返ったら、当然のように彼と目が合うから、何をそんなに焦る必要があるのかと私は笑った。




手紙の返事を貰ってから数日が経った頃。
生憎の雨で外出の予定がなくなり、松野家最寄りのファミレスで他愛ない会話に花を咲かせていた。頻繁と呼べる頻度で逢瀬を重ねていても、話題は無尽蔵に湧き出て会話が弾む。不意に訪れる沈黙さえ心地よく感じるから、やはり我々の相性はいいのかもしれないと、何度目かの再確認。
「でね、その服を見た瞬間、絶対カラ松くんに似合うなぁって思ったんだよね」
拳を握り締めて力説する私に、カラ松くんは微笑を浮かべてうんうんと相槌を打つ。テーブルに肘をついた腕組みの格好で、一心に耳を傾けてくれる。
Vネックのカットソーから覗く、浮き出た鎖骨が眼福すぎる。食べたい。
「あ、そうだ、あの服スマホで撮ったんだった。ちょっと見てよ」
価格もプチプラで手が出しやすかったはず、と口にしながら、バッグにしまい込んだスマホを手で掴んだ。それを持ち上げた時、バッグから飛び出した何かがひらひらと宙を舞う。ふわりと地面に落ちて、私は身を屈めた。
「どうかしたか、ユーリ?」
「あ、うん、ちょっと…」
落ちたのは──もみじの葉のしおり。
鮮やかな朱色の葉を視認した途端、突然再生のスイッチを押されたみたいに、カラ松くんと見た紅葉の美しい景色が脳裏を過ぎった。同時に、赤々とした葉が舞い散る世界でカラ松くんが優しく笑う姿も鮮明に。

「ユーリ…?」
ハッとして顔を上げれば、本人が目の前だ。
何だかおかしくて、小さな笑い声が口から溢れた。
「何を笑ってるんだ?」
「カラ松くんのことを思い出したの」
「思い出した?目の前にいるのに?」
ぽかんとするカラ松くんに対し、まんまと策略にはまった自分への不甲斐なさも相まって、私は少し呆れた気持ちになる。しかししおりを掲げて見せると、彼の表情が一層柔和なものへと変化していく。頬には朱が差して、口元を手で覆う。
「それ…持っててくれたのか」
「大事なものだからいつも持ってるよ。見るたびにカラ松くんを思い出してたけど、本人と向かい合ってる今が一番鮮明な気がする」
やはり当人が眼前にいるのと、脳内の記憶で補完するのとでは、映像の再現率がまるで違う。
「そうなのか?
オレといない時にそれを見て、オレに会いたくなってくれればと思っ──あ、いや…今のは独り言だ、何でもない」
カラ松くんは顔を赤くしたかと思うと、誤魔化すようにグラスに注がれた水を口に含んだ。

しおりを貰ったあの時、呪いのようだと思った。でも考えようによれば、加護なのかもしれない。
もしも本当に呪いだとしても、永遠に解けなくてもいいのではないだろうか。呪われた本人がダメージを受けないなら、むしろ喜ばしいものと感じているなら、の話だけれど。だって、少なくとも、私は──