気まずい原因を解明せよ

思えば、その日は最初から様子がおかしかった。
目が合った瞬間から感じていた違和感は、小さな雫が滴り落ちるようにぽつりぽつりと胸に広がって、乾く間もなくいつしか大きな塊になった。


「ユーリ…何か、その…」
「いや、お互いわざとじゃないから…」
待ち合わせ場所で互いの存在を確認した私たちは、そこはかとなく漂う居心地の悪さに目を逸しながら、言い訳がましい言葉を紡ぐ。行き交う人々の視線が刺さる気がして、居たたまれない。なぜなら──

私とカラ松くんの服装が、意図せず完全にペアルックだったからだ。

メーカーやロゴこそ異なるものの白いトレーナーに、細身の黒いデニム、足元にはスニーカー。ありふれた定番の組み合わせだが、まさか被るとは思ってもみなかった。
「私とカラ松くん、どう見てもカップルだよね」
「か、カップル…」
「被らないように、可愛い服で来るべきだったかな」
「その必要はないだろ?ボーイッシュな服もハニーにすごく似合ってるのに」
私が唸って思案すれば、間髪入れずにカラ松くんが真顔で否定する。それから、あーだの、えーとだのといった声を漏らすので、私は黙って彼を見る。私の視線を察してか、カラ松くんは意を決して口を開いた。
「なぁユーリ、もし良ければ、その…後で記念に写真を撮らないか?」
記念。その言葉に私の頬が緩む。
「いいね。ゲーセンでプリクラでも撮る?」
「プリクラはゴリゴリに盛ってくるから無理」
バッサリ切りおる。
「何ていうか、今のこの自然な感じの写真がいいんだ。オレとユーリ、二人の」
「なら、後でスマホで撮ろうか。ペアルック記念だね」
私は笑う。当初こそ多少の気恥ずかしさを感じていたものの、推しに寄せるスタイルも悪くねぇなと思い始める自分がいる。これが開き直りというヤツか。

この時も、カラ松くんはどこかぎこちなかった。喉に小骨が引っかかるようにどうも釈然としなかったが、憚らずもお揃いコーデになったことに戸惑っているのかと思った──否、思い込もうとしていた。
それでも、まだ平穏だったのだ。




様子がおかしいと明確に感じたのは、それからすぐ後だった。
ちらちらと私を見やるくせに、私が顔を向ければ即座にそっぽを向く。たまに目が合うと、慌てて目を逸らす。今までも、ときどきじっと見つめられることはあるけれど、今日は頻度が高い。
何か言いたいことがあるのかと問いかけても、返ってくる答えはノーだ。かと思えば、私の話を右から左へ流してしまうほど上の空だったりもして、わけが分からない。

「これ、このレーザーポインタっぽいのが照準ってことだよね?あとは引き金を引けばいいの?」
ゲームセンター特有の騒々しい環境音の中、私は声のボリュームを上げてカラ松くんに尋ねた。
これから挑むのは、銃でゾンビを倒すホラー系シューティングゲームである。手のひらよりも一回り大きいプラスチック製の銃を利き手で構え、画面に向けてみる。
「ああ。様になってるじゃないかユーリ、いいガンマンになれそうだ」
そう言うカラ松くんは、私に説明しながらも画面に向けてトリガーを絞る。
「オレの華麗なガンさばきに見惚れて、手元が疎かになるんじゃないぜ、ハニー!」
くるくると指先で華麗に銃を回転させて、カラ松くんがポーズを決める。
そして物陰や地面の中から際限なく這い出るゾンビに的確に照準を合わせ、ほぼ一撃で葬っていく。残機を示すハートは、ゲーム開始当初から一つも減っていない。
軽やかに銃を扱う推し、最高すぎない?
今日も新規絵が次々更新されていくから、これじゃあ写真集何個作っても足りないわデータフォルダもパンパンだわ、ごちそうさまです美味しいです
「残弾は画面端で確認できるから、ゼロになる前に画面外を撃って充填すればいい──こういう風に」
カラ松くんが画面を見つめたまま画面の外に銃口を向けた。私は目頭を押さえる。
「これが尊すぎてしんどいって感情か…」
「え?何か言ったか、ユーリ?」
「ううん、何でもない。分かった、とにかく撃ちまくればいいってことだね」
言いながら顔を上げたら、カラ松くんと目が合った。
「あ、ああ…フォローはするから、試しに協力プレイでやってみるか?」
さっと視線が外れる。ゲームのプレイ中なので当然の行為なのかもしれないが、どうにも心がざわついた。

カラ松くんが最初のステージボスを倒し、ストーリーが進行しているところにすかさずコインを投入し、2Pとして参加する。
意気揚々と銃を握り、新ステージ開始当初までは良かった。だが、画面のあちらこちらから無尽蔵に湧き出る敵を、すぐに撃退しきれなくなる。スマートな射撃からは程遠い、手当り次第の乱射になって、弾がなくなっているのも気付かずにトリガーを引いている。口からは、わ、わ、と情けない声が漏れた。

あっという間にライフが尽きて、コンティニューの文字が画面右側に浮かぶ。私はがっくりと肩を落として、自分の銃を差込口に戻した。まぁいい、推しの勇姿を見れるだけで十分だと気持ちを切り替えようとした、その時。

「ハニー」

優しげな囁きと共に、カラ松くんの右手が私の肩に触れた。
「へ?」
「もっと脇を締めて。いきなり全部倒そうとしなくていい、一匹ずつ確実に倒していくんだ」
そう言いながらカラ松くんの銃が手渡される。近い近い。自然に肩を抱き寄せるなんて高等テクニック、どこで覚えてきたんだ。
カラ松くんの両手がしっかりと私の肩を掴んで、けれど顔は真っ直ぐに画面を見ている。
「ユーリ、肩の力は抜いた方がいい」
「わ、分かった」
突然銃を渡された驚きだけで強張っているわけではないのだが、とりあえず頷いて、大きく深呼吸する。正面に敵を見据え、接近してきた順に撃つことだけに意識を集中させる。
「うん、いいぞ、上手いじゃないかハニー」
耳元で囁かれるウィスパーボイスヤバイ。
襲いかかりたくなる衝動を堪えるのに必死で心が乱れるが、いつしか画面からザコ敵が消えて、舞台はボス戦へと移行する。私の肩を抱くカラ松くんの手に力がこもった。期待には答えねばならぬと銃を構え直し、カラ松くんの指示通りに弱点を狙い撃つ。

「…やっ、た?」
銃のリロードを終えて構え直した時、ひと目見て強敵と分かる風貌が崩れ落ち、画面から消滅した。ステージクリアの文字が浮かび上がる。
「わぁ、やった!ボス倒したよカラ松くんっ」
「グッジョブだ、ユーリ。さすがは───て、あっ、これは…違っ」
満面の笑みが間近だったのも束の間、密着した距離感に気付いたカラ松くんが慌てて私から手を離す。ここでも、小さな違和感が一粒転がった。
どこが、と聞かれれば返答に窮する。でも、違うものは違うのだ。いつもの純粋な恥じらいだけではない、拒否にも近いマイナスの感情が垣間見えた。




ひとしきりゲームを楽しんだ後、私たちはゲームセンターからほど近いカフェのテラス席に腰を下ろす。
「うーん、遊んだ遊んだ。楽しかったね」
イスに座るなり、私は両手を頭上に向けて伸びをする。
「ああ、シューティングのコツも掴んだみたいだしな。次はユーリ一人でも、セカンドステージまでは行けるんじゃないか?」
ジュースが注がれたグラスを載せたトレイを、カラ松くんがテーブルに置く。
「いやぁ、でも私はやっぱり見てる方がいいかも。カラ松くんが銃握ってるの、ずっと見てたかったぐらいだよ」
「えッ!?…あ、その…ええと、何だ…」
「どうかした?
ずっと気になってたんだけど、今日のカラ松くん何か変だよ。体調悪い?」
いつもならすぐさま切り替えて、常日頃から危険な香りを漂わせるオレに銃が合うのは当たり前じゃないか、無闇に近づいたら火傷するぜベイビーなんて洋画の吹き替えさながらに気障な台詞を垂れ流してくるところだ。
しかしカラ松くんはただ首を横に振るだけだった。
「…悪くない。いつも通りだ」
微かな、不自然な間があった。
「何か悩み事があるとか?」
「ない。ハニーが心配するようなことは何もないぞ」
カラ松くんの顔には困ったような笑みが浮かぶ。
「そう?なら、いいんだけど」
納得したわけではないが、本人が言及したがらないことを追及するのは気が引ける。モヤモヤした気持ちを抱えながらも、私はトレイの上のグラスに手を伸ばした。
「…あ」
どちらともなく発した声。

同じタイミングでグラスを取ろうとしたカラ松くんの手に、私の指先が触れた。

「…ッ!」
がたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がったのは、カラ松くんだった。まるで想定していなかった拒絶に、私はしばし呆然とする。倒れたグラスから溢れた液体がテーブルの縁を伝い、私の膝を濡らしたと気付くのは、少し経ってからだった。
「カラ松くん…?」
戸惑う私の声に、彼はハッとする。
「あっ…す、すまんっ、ユーリ!」
「ううん、大丈夫。濡れたの少しだけだから」
バッグから取り出したタオルハンカチで膝の水滴を拭いながら、私は微笑んだつもりだったのだけれど、上手く笑えていただろうか。自分では、よく分からなかった。
「し、しかし、ベタつくだろう?
このままというわけにはいかないし、かといってこれでハニーと解散するのも嫌だし、ええとどうしたら…」
「そうなの?」
「え?」
互いに目を瞠る。
「解散の案はなし?」
そう訊けば、言っている意味が理解できないとばかりに複雑な顔をされる。
「当たり前だ、ハニーに会うのは一週間ぶりなんだぞ。…待ってくれ、ひょっとして…ハニー、怒ってるのか?」
「怒ってはないけど…」
戸惑っては、いる。
接触に対して明確な拒絶の意思を示されたにも関わらず、別れるのは嫌だと言う。許容と拒絶が忙しなく繰り返される中で、カラ松くんの本心が見えない。今だって、私のことを案じながらも、極力目を逸らそうとするのに。

「それなら、予定変更して私の家でDVDでも観る?」




カフェからの徒歩圏内に、私が一人暮らしをするマンションがあるのは幸いだった。
黒いパンツだから乾けば目立たないが、糖分がベタついて歩くたびに不快なのが正直なところだ。カラ松くんは私の部屋にもすっかり慣れたようで、私が脱衣所で着替えている間、定位置のソファに腰を下ろしてテーブルの上の旅雑誌を眺めていた。
「ごめんね、お待たせ」
「あ、いや…」
オレのせいだしな、とカラ松くんは呟いて頬を掻く。
「何観よっか?DVDはそんなにないから、動画サイトでレンタルしてもいいかも」
手持ちのDVDを引っ張り出して、ローテーブルに載せる。それからカラ松くんの隣に座ったら、彼の肩がぴくりと揺れた。キョドる推しも可愛いっちゃ可愛いのだが、その可愛さはあくまでも気恥ずかしさの上に成り立ってこそ、だ。
今日のように拒否感を伴うものは、私もいい気がしない。
「ユーリ…あの、さすがに近くないか?その…き、距離が」
いつもガンガンに寄ってくるのはどこのどいつだ。健忘症か?
「そんなことないでしょ、いつもと同じくらいだよ。っていうか、今日はむしろ少し離れてるくらい」
脳内でのツッコミをオブラートで何重にも包みまくり、何でもないように応じる。少し体を動かせば肩が触れるくらいに距離を詰めてくるのは、いつもカラ松くんの方だ。

「やっぱり何かおかしいね、今日のカラ松くん。もしかして熱でもあるんじゃない?」
私は体を捻り、彼の額に向けて手を伸ばす。
「な、ない!ユーリっ、そんなに寄ら───あ」
背中の後ろに片手をついて姿勢を保っていたカラ松くんが、避けるためにのけぞろうとして──手が滑る。後ろに傾く体と、瞠られる双眸。転倒した先にあるのは、フローリングの床だ。
「カラ松くんっ!」
咄嗟に身を乗り出して、片手を彼の後頭部に回す。
引き上げようとするものの体勢を立て直すことができず、体が引っ張られて、私はカラ松くんもろとも床に倒れてしまう。

結果的に、カラ松くんの上に伸し掛かる格好で。

「…は、はははははハニーッ!?」
「ごめん。助けようと思ったんだけど、失敗した」
狼狽するカラ松くんを見下ろしながら、私は上体を起こす。下敷きになった左手の甲に鈍い痛みが走った。赤くなっている。
「ちょっと待ってね、すぐ起きるから──あー、でも…いい眺め
事故とはいえ、二人きりの室内で推しを組み敷くシチュエーションが展開されるとは、これ何てエロゲ?
無防備な首筋と戸惑いを浮かべる表情がエロい。さすが当推しなだけはあるわと恍惚として眺めていたら、唐突に両肩を掴まれて、乱暴に引き剥がされる。

「どいてくれ!」

示されたのは、強い拒絶。
羞恥心で顔を背けたり、弱々しく押し返されたりは想定していた。断固とした意思を込めて突き放されるなんて、思ってもみなかった。
私は瞠目したまま、言葉を失う。
「ッ…す、すまん。ユーリ、手は…ああもう、こんなに赤くなって!」
拒否ったり赤くなったり怒ったり忙しいなお前。
私の顔からは表情が消える。どんな態度を接するのがベターなのか、答えが出てこない。
「ごめん…」
そして私の口を突いて出たのは、謝罪だった。今度はカラ松くんが驚く。
「嫌な思いさせるつもりじゃかったんだけど」
上手くいかなくてごめんね、と苦笑いを作れば、カラ松くんの顔が苦悩に歪む。苦々しげな彼の表情に、何とも言えず胸が痛んだ。今日はことごとく上手くいかない。

「違う!…そうじゃないんだ、ユーリは何も悪くない」

その一言が、引き金になった。
原因もなく一方的に拒絶され続けるなんて、あまりに理不尽ではないか。同じ時間を共有する目的は、有意義なひとときを過ごして満足感を得るためだ。
私に原因があるなら、解決法はいくらでもある。だが私に非はないと語られれば、打つ手はない、八方塞がりだ。何の因果で、片道通行の絶望に終日耐えねばならないのか。
「そう。私に原因はないんだね?」
「もちろんだ、あるわけない」

カラ松くんに対して純粋な怒りを覚えたのは、この時が初めてだったと思う。


「ごめん、今日はもう帰ってくれる?」

苛立ちが隠しきれなかった。彼の切なそうな顔すら癪に障り、可愛さ余って憎さ百倍の意味を痛感する。
「ユーリ、違うんだっ。ユーリが悪いわけじゃ──」
「今は私も冷静じゃないしさ。
それに、理由があるのかもしれないけど、そういう態度取られ続けて笑っていられるほど心広くないんだ」
私だって傷つく、と。
カラ松くんの言葉を制して、私は努めて抑揚のない声で告げる。感情のまま声を荒げて罵倒すれば、状況は悪化の一途を辿るだけだ。私はカラ松くんと喧嘩をしたいのではない、関係性を改善したいのだ。
ひとまず物理的に距離を取るために立ち上がった、その瞬間──カラ松くんが私の腕を掴む。
「待ってくれ、ユーリ…っ」
縋るような、懇願の言葉。
「ごめん。ユーリにそんな辛い思いをさせていたなんて思わなかった…オレの問題だから、ユーリにはいつも通り振る舞っていたつもりだったんだが……本当に、ごめん」
掴まれた腕にこもる力は、振り払えば容易く離れてしまうほどに、弱い。
「ユーリが怒るのは当然だ。気が済むまでいくらでも罵倒してくれていい───だから」
躊躇いがちに、言葉が紡がれる。

「…嫌わないで」

上向いて私を見つめる顔は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。




この男は卑怯だ。
的確に弱点をついて、導火線についた火をたった一言で安々と消してしまう。何より厄介なのは、本人は嫌われたくない一心で本心を曝け出しているに過ぎないことだ。相手を懐柔しようとする思惑なんて欠片もない。だからって潤んだ瞳で上目遣いとか、痴女ホイホイにも程がある
「大丈夫、嫌わないよ。少しも嫌いになんてなってないから、安心して」
再度腰を下ろして、カラ松くんに目線の高さを合わせる。頭から冷水を浴びせられて、私はすっかり冷静さを取り戻していた。
「私のせいじゃないって言うけど、もし私が何かしたなら正直に言って。気に障ることしたなら、今後は改めるから」
「そんなこと、あるはずないだろう。すまん…ハニーにそんな顔をさせたいわけじゃないんだ。そんな台詞だって、言わせたくない」
「なら、何が原因なの?」
率直に訊けば、カラ松くんが面白いくらいに動揺する。
「いや、それは、えー…」
目が泳ぎ、視線は外された。
「カラ松くんが言いたくないなら聞かないでおこうと決めてたよ。でもね、ここまで拗れたら、聞いておいた方がお互いにとって有益だと思うんだよね」
「ハニーにはあまり言いたくないんだが…は、話さないと駄目か…?」
「駄目ってことはないけど、しこりが残ったままになるのは気持ち悪いよ。え、もしかして法に抵触するとか犯罪やらかした話?
「それはないが…」
「じゃあ大丈夫だね、観念して洗いざらい吐け
しかしカラ松くんはフローリングの床を凝視したまま、下唇を噛んで唸る。彼がこれほど躊躇するのは珍しい。心なしか目尻も赤く、理由にまるで見当がつかない私はますます混乱する。
「その…」
言い淀むカラ松くんの前で、私はとりあえず正座待機


「…ユーリに似た女優が出てるAVを観た」

何、だと?

まさかの理由が飛び出してきた。
「えーぶい…」
想定外の単語を咀嚼して飲み込むまでに、数秒の時間を要する。その間カラ松くんは、顔を赤く染め上げて唇を引き結ぶ。
「あー、なるほど。だから私を見るとその女優を思い出してしまう、と?」
「…うん」
「経緯と結果を詳しく」
「え、ちょっ、そこまで!?理由を話したんだからいいじゃないか!」
もう勘弁してくれとカラ松くんは声が上擦る。
しかし私が彼の懇願に屈しないと悟ると、やがて重い口を開いた。話してくれた経緯は、以下のとおりだ。

レンタルビデオショップで何気なく手にしたDVDが、事の発端だった。表紙を飾る女優が私に似ていることに驚き、裏面のあらすじを読んだ。AVに物語はあってないようなものだが、近所に住む年上のお姉さんが主人公の筆下ろしを手伝う、そんな設定だったらしい。
「何かこう、親近感もあって…」
「うーん…確かに似てるといえば似てる、かな」
嫌がるカラ松くんからタイトルを聞き出し、スマホで検索をかけると、検測結果トップにメーカーサイトが表示される。パッケージ写真を眺めて、私は唸った。
髪型こそ異なるが、年頃やパッと見の印象、全体的な雰囲気は似ていると言えないこともない。そういえば私もカラ松くんより年上だった。
「お姉さんが君の童貞貰っちゃうぞ、か。定番っちゃ定番なシチュだよね──で、肝心の感想は?良かった?」
「え…えッ、何この羞恥プレイ!それ訊く!?」
「訊く」
カラ松くんは不安定に黒目を彷徨わせたが、ほどなくして首筋に片手を当てると、ぽつりと溢した。
「まぁ…ここ最近のものでいえば、結構……抜けた」
「へー」
驚いて感嘆の息を漏らすと、カラ松くんは不服とばかりに眉をひそめた。
「へー、じゃない!当然だろう!何しろユーリに似た女優がベッドの上でしこたまエロいことを──って、違ぁう!何を言わせるんだ、ハニー!」
自分で言ったくせに。

「でもまぁ、こんな理由で私は今日一日カラ松くんの拒絶を受ける羽目になったわけだ」
腕を組んで私は盛大な溜息をつく。
「本当にすまない…」
相応の罪悪感は感じているようで、彼は言い訳なしに深々と頭を下げる。鬱憤はとうに霧散していっそ清々しささえ感じているのだが、ざわついた心と共存させられた相応の代償は払っていただきたいところだ。
「ジュースを落とされて着替えを余儀なくされた」
「…はい」
「挙句の果てに、転ぶのを助けたのに突き飛ばされた」
「ご、ごめんなさい…」
早くもカラ松くんは涙目だ。
思わず笑ってしまって、私は早々に白旗を上げざるを得なくなる。
「あはは、ごめん、ちょっと意地悪しちゃった。まぁ同じ経験はないけど、気まずいって気持ちは何となく理解できるから、許すよ。もう怒ってないし。
──でも私に似た女優が出るAVかぁ、ちょっと観てみたい気もする」
画面をスクロールしていくと、参考画像として動画のワンシーンを切り取った写真が複数枚表示された。その中には際どいシーンはもちろん、男女が重なる生々しい場面もあって、似ていると言われたせいもあってか、どことなく気恥ずかしい気持ちが込み上げる。
「あ、サンプル動画もあるんだ」
「…止めてくれ」
「何で?興味ある。後学のために」
画像の一枚を拡大しようとした私の指がスマホから離れる。

カラ松くんに、手首を掴まれたからだ。

「──わざとか…ユーリ?」

上気した頬と僅かに苛立ちを含んだ双眸が、私の視界に広がる。息遣いは荒い。
好ましいと感じる異性の気を引くがための行為を、私たちは駆け引きと呼ぶ。それは時に焦燥感を、時に愉悦を誘い、視線ごと意識を釘付けにさせて離さない。一度絡め取られたが最後、逃避することは敵わない。
「図に乗るな」
自由に動かせる片手でDVDのパッケージを取り、カラ松くんの顔に叩きつける。
駆け引き?アピール?何それ美味しいの?純粋なAVへの興味を勘違いするなよ新品。
「すいません」
憔悴したカラ松くんは肩を落とす。
「罰として、後で太巻き買ってくるからエロく食べて
「エロく!?」
「快感を感じつつも苦悶の表情で」
「求められる演技力!無茶振りがすぎる!」
「それを私が動画で撮る」
「もうオレのハートは再起不能レベルでブロークンだぞハニー」
ノンノン、と私はカラ松くんさながらの仕草で指を振り、笑う。

「仲直りの印に、一緒にご飯食べようってお誘いだよ──ね☆」
ひょいっと肩を竦めておどけてみせると、カラ松くんはなぜか一層赤面する。理由が分からず首を傾げれば、押し退けるように片手を出して私の接近を制してくる。けれどもそれは先ほどまでの強い拒否とは程遠い、やんわりとした抑制だった。
「ユーリ…」
「ん?何?」
「ユーリのその態度の方が、AV女優よりよっぽどクるんだが」
「…は?」
状況把握ができず呆気に取られる私をよそに、突然カラ松くんは瞳を輝かせて私の両手を握りしめる。

「全裸のAV女優よりも、着衣のハニーが断然エロい!分かりやすいエロスに惑わされてたオレを許してくれ!」

すごい言い草だ。
「フッ、長きに渡るテンプテーションで己を見失っていたが、ようやく目が覚めたぜ、ハニー…っ」
しばらく眠っておけばいいと思う。




「そうだ、朝約束してたお揃コーデの記念写真撮ろっか」
スマホのカメラアプリを立ち上げて、インカメに変える。画面に映るのは、全身の服装ができるだけ入るよう角度を調整する私と、その傍らでスマホと私を交互に見やるカラ松くん。
「ハニー、覚えていてくれたのか?」
「そりゃね。約束したでしょ」
「頼んだオレ自身が忘れてたくらいなのに。ユーリに嫌われたのかと思って、それどころじゃなかったし」
「待ってよ、それ私の台詞なんだけど」
素っ気ない態度にどれだけ翻弄され、戸惑ったか。原因が明らかになるまでの数時間、気が気じゃなかったのは私の方だ。けれど私の驚愕とは裏腹に、カラ松くんは毅然と言い放つ。

「オレがハニーを嫌うなんてあり得ない」

根拠のない断言だと思う。人の心は移ろいやすいものだ。永遠に愛し続けると交わされた婚姻の誓いでさえ、少なくない割合で破綻している。けれど──
「私だって、カラ松くんを嫌いになるなんて考えられない」
今この瞬間胸に広がる気持ちは、永劫と信じていたい。
迷いなく断言された私の言葉に、カラ松くんは破顔する。
「いやでも…もしオレがユーリに何かとんでもないことをしてしまって、もう二人で会うことも叶わないなら…いっそ嫌われた方がいいのかもしれない。好きの反対は無関心だ。興味を失われて、どうでもいいと思われる方がずっと、オレは辛い」
好きと嫌いは表裏一体だ。オセロのゲームのように、小さな要因でも容易く反転する。
「どんな種類でも、強い感情を向けられている方がいいってこと?」
「どうだろうか。結論を出すほど深く考えたことはなかったな」
ふむとカラ松くんが腕組みをして思案しようとするから、私は肩を竦める。
「いずれにせよ不毛な会話だよね」
はい笑ってと合図をして、カラ松くんの視線がスマホに向けられたのを機に、シャッターボタンを押した。

「そんな未来──ないんだから」

だから、考えなくていい。決して訪れないと知っている絶望への心構えなんて、必要ないのだ。

酔いどれ松

カラ松くんが悩みを抱えていることは、その日会った当初から気付いていた。
二人でいても、心ここにあらずといった体でぼんやりしている場面も見受けられ、私が離席した際には溜息を溢すことさえあったのだ。いつも私の視線を追いかけて、気を抜かないよう意識している彼を見慣れているから、その姿は特に奇異に映った。明るく振る舞う表情も、心なしか翳りを帯びている。
何か嫌なことがあったらしい。そう察するのに時間はかからなかった。

「ねぇカラ松くん」
「ん?どうした、ハニー?」
地面に伸びる黒い影が長い、夕暮れの帰り道。私はカラ松くんに声をかける。
「まだ時間ある?良かったら、これからちょっと飲みに行かない?」
「え」
私からは珍しい飲みの誘い。カラ松くんは意外そうに目を瞠った。




チビ太さんは、団地近くのドブ川沿いを拠点にして屋台を構えている。私が彼の店を訪ねるのは少し久しぶりだ。
営業時間に決まりはないと聞いていたが、日が暮れる頃に立ち寄ったところ、ちょうどチビ太さんが暖簾を掛けるところだった。一番客らしい。
「ようお二人さん、いらっしゃい」
「こんばんは、おでん日和のいい夜ですね」
長袖一枚では肌寒い秋の夜、温かなおでんと冷たいアルコールは最高の組み合わせだ。世辞ではない本心を語ったら、チビ太さんはにかっと笑った。
席について早々瓶ビールを注文し、二つのグラスに注ぐ。意気揚々と進行役を買って出る私にカラ松くんは呆気に取られている様子だったが、気にせずグラスを一つ差し出した。黄金色の液体がしゅわしゅわと音を立てて、グラスの中で踊る。
「今日は私の奢りだから、食べ放題飲み放題だよ」
「…え……えっ?」
「何なら帰りのタクシー代も出しちゃう、出血大サービス!」
「ユーリ…?」
勢いに押されてグラスを受け取ったカラ松くんが、戸惑いがちに言葉を溢した。何の脈絡もなく突如始まった宴会に当惑している。私は笑みを作ったまま、努めて軽い口調で言う。
「嫌なことがあったんだよね?」
「…ッ」
びくりと揺れる肩。

「カラ松くんが私に弱音吐きたくないの知ってるから。今日はパーッと飲んで忘れちゃえ。朝まで付き合うぞ~」

かんぱーいと軽快な口調でグラスを鳴らして、私は冷たい液体に口をつけた。チビ太さんが微苦笑顔でおでんを出してくれるので、カラ松くんから視線を逸して割り箸を割った。
彼はしばらくの間微動だにせず、ビールの注がれたグラスを凝視していたが、大きく深呼吸したかと思うと、グラスの中身を一気に煽った。
「ハニー、もう一杯頼む!」
「はいはい」
お代わりを注げば、カラ松くんは間髪入れずに飲み干してしまう。
酒に強くない彼の頬には早くも朱が差して、それから憮然とカウンターに頬杖をついた。カラ松くんが不機嫌さを顔や態度に出すのは珍しく、私は面白半分に横目で眺める。

「…ユーリ、これは…」
それから自分の皿に盛られたおでんに目を留めて、彼は目を見開いた。
「おう、さすがに気付いたか、カラ松。
仕込みのときにユーリちゃんが電話くれてよ、今日はおめーのために牛すじ多めに用意してやったぜ」
そう、彼の皿には定番の具の他に、松野家に巣食う悪魔の数だけ牛すじ肉の串が載せられている。
「チビ太さん、こういうのは黙っておくからオツなんですよ」
「おっといけねぇ。すまねぇな、ユーリちゃん」
私とチビ太さんのやり取りを唖然と見つめていたカラ松くんは、牛すじを口に含んで咀嚼しながら、目尻にじわりと涙を浮かべた。それは次第に大粒の涙となり、ぽろぽろと膝の上に溢れていく。涙脆い属性も推せる。ギャップ萌えが著しい。
「──お疲れ」
そう言って背中を擦ったら、噛み締めていた唇から堰を切ったように声が漏れる。最後の砦は脆くも崩れて、カラ松くんは文字通り号泣した。


人気のない河川敷に響くカラ松くんの声が止む頃、真っ赤に腫らした目で、すっかり冷めてしまったおでんの具を頬張り始める。悩み事の詳細は語られないまま。とはいえ、ニートで童貞で実家暮らしの彼が影響を受ける対象は自ずと限られているから、原因はお察しだ。
「さ、飲も飲も。何なら熱燗いっちゃう?」
お猪口を口に運ぶ仕草で誘えば、カラ松くんはようやく───笑った。
「…ビールがいい。チビ太、お代わり」
「おう、じゃんじゃん食ってけよ」
牛すじ肉が多めに盛られた皿からは、白い湯気が立ち上る。出汁のいい香りが鼻孔をくすぐった。
「──ユーリ…その、気を使わせてしまってすまない…」
「謝らないの」
もう何度目かのビールを注いで、カラ松くんに差し出しながら。
「こういう時はね、お礼を言ってもらった方が嬉しいよ」
「そうか…ああ、そうだな」
カラ松くんは頷き、真っ直ぐに私を捉えて、もう一度柔らかな微笑みをたたえた。泣き腫らした後の残る痛々しい顔で、嬉しそうに。

「ありがとう、ユーリ」



仄暗い底から引き上げるのに成功したら、後はずっと私のターン
「っていうかさ、せっかくだし私の悩み聞いて慰めてよー。こういう時、カラ松くんしか話せる人がいないんだよねぇ」
背中を丸めてクダを巻き始める私。え、とカラ松くんは驚きの声を上げたが、グラスを両手に抱えて満更でもない顔になる。
「日頃何だかんだ言う割に、おそ松くんたちもカラ松くんのこと頼ってるし、ホント頼り甲斐があるよね。聞き上手だし褒めてくれるし、クソ優しい
一語一語を溜めて言い放てば、カラ松くんの頬が酒とは別の影響で赤くなる。
「いや、そんなことは…」
「カラ松くんよっぽどのことがないと怒らないから、みんなも甘えちゃうんだろうね。でも分かるなぁ、余裕のある大人の包容力っていうのかな、相談しやすいし」
謙遜を許さず畳み掛ければ、いつの間にかカラ松くんの口角が上がっている。
「フッ…そうだろうとも!隠しきれないほどに寛大なハートで老若男女問わず慈悲深い、オレ…っ!ユーリやブラザーが、オレの前ではついついセルフィッシュになるのも致し方ない!なぜならっ、オレはいつだってみんなを想っているから…っ」
大袈裟な身振り手振りで演説するカラ松くん。調子が戻ってきたようで何より。
「さぁ、何でも話すんだユーリ。
ゴッドにも引けを取らないオレの広ーい懐で、ハニーの不安や苦しみを包み込んでやろう!」
一昔前の少女漫画の登場人物さながらに瞳を輝かせて、私を促す。自信に満ちた声のトーンと、血色のいい顔と。これならもう大丈夫だと、私は安堵する。
それからカラ松くんはどこかうっとりとした眼差しで、ヒールが半分ほど残ったグラスを揺らした。

「…オレは、ユーリの一番の理解者でありたいんだ」

君がオレを理解してくれているように、と。


カラ松くんがトイレに行くために離席した時のこと。
それまで口を挟まず部外者に徹していたチビ太さんが、おもむろに口を開いた。
「すげぇなユーリちゃん。あいつの扱いをよく分かってるじゃねぇか」
すっかり元気になりやがって、と呆れたように腕組みで溜息のチビ太さん。ふふ、と私は笑い声を溢した。カラ松くんに付き合って酒が進み、私も少し酔っている。
「どうしたらいいかなって、いつも考えてるんです」
だって。

「笑ってるカラ松くんが一番だから」




定時で仕事を終えて自宅に着いたその日、トド松くんから一本の電話があった。
「やっほー、ユーリちゃん!今うちで兄さんたちと宅飲みやってるんだけどさぁ、良かったら来なーい?」
異様にテンションの高い声と軽快な口調で、既に出来上がっているのは明白だった。下品な笑い声と騒々しい物音が彼の背後から響いてくる。どうせ、酒の席に女っ気がないのは寂しいからユーリちゃんでも誘おうぜ、そんなやりとりが交わされたのだろう。
「いいよ。今帰ったところだから、晩ごはん買っていくね」
幸いにも明日は休日だ。一人寂しく食事を摂るよりは、騒々しい六つ子たちと騒ぎ倒す方が有意義かもしれない。その時私は、そう思ったのだ。

そして、私はその決意を早々に後悔することになる
松野家を訪れると、予想通り六人は完全に酔っ払いの様相を呈していた。
「くっさ!野郎六人が呑んだくれた部屋、めちゃくちゃ臭い!」
アルコールと、畳に散乱したパーティ開きの各種ポテトチップス。火のついた煙草は、灰皿の上でゆらゆらと煙を立ち昇らせている。どう好意的に見ても、不平不満を共有して膨張させるだけの生産性のない憂さ晴らしだ。
カラ松くんに至っては早くも酩酊していて、私を視認しても目が据わったままである。隣に腰を下ろして彼の眼前で手を振っても反応がない、ただの屍のようだ
「カラ松くん…おーい?」
「あー、カラ松は、見ての通り飲みすぎ。酒弱いくせに度数高いチューハイ飲んでたんだよね」
そう教えてくれる一松くんも、顔が赤い。ひゃひゃひゃ、と笑い声は高らかだ。
「おい豚野郎ども、我らが女神ユーリ様のご降臨だぞ!頭が高い!」
「ははー!」
一松くんに一喝された四人は、恭しく両手を前へ差し出して頭を垂れる。崇めるな、ひれ伏すな。
「だってさ、ぶっちゃけユーリちゃん本人とどうこうならなくても、おこぼれに預かれるかもしれないしね」
「うんうん。女友達紹介してもらえるかもって一縷の望みは捨ててない
おそ松くんと十四松くんがビール缶に口をつけながら、最高にゲスい発言。今日も六つ子が通常運行で安心した。
「でもさぁ、ユーリちゃんと僕らがどうこうなってくれた方が手っ取り早いのは確かなんだよね」
「分かる。今更初見の女子と一から関係性築くハードルの高さに心折れそう。その点ユーリちゃんは偏見ないし気楽でいい」
続くチョロ松くんと一松くん。いくら何でもぶっちゃけすぎじゃないか諸君。
「みんなひっどーい、ユーリちゃんのこと都合のいい女みたいな言い方!」
呆れ半分で眺めていたら、トド松くんが頬を膨らませて抗議する。

「そういう本心は極力隠さないと。いいツラしてこそメリット享受できるってもんでしょ」

末弟が一番腹黒い。
底の浅い六つ子たちは放置して先に晩ごはんを食べてしまおうと、テイクアウトで買ってきた弁当を広げたら、突如隣のカラ松くんがくくくと笑う。横目で見やれば、悩ましげに片手を額に当てるポーズ。
「どうかした?笑い上戸にでもなった?」
割り箸を割りながら興味なさげに問えば、よくぞ聞いてくれたとばかりにカラ松くんの瞳が輝いた。顔から手を離して、両手を広げる。

「誰だと思う!?───カラ松さぁ!」

「よく存じ上げております」
何だ今更。私はもう驚かなかった。




かろうじて肌色露出の発生しない下ネタトーク満載の飲み会で、断固として酔うわけにはいかない。今回はガードマン担当のカラ松くんが泥酔していて、役に立たないからだ。しかししばらくすると私の存在を認識したようで、気障になりきれない不敵な笑みで私を見つめた。
「やぁユーリ、今宵もミロのヴィーナスのように美しいな」
肩はふらふら揺れている。
「…できれば今日は、あまり飲まないでくれ」
「どうして?」
「飲みすぎたせいで、ブラザーたちからユーリを守れないかもしれない」
眠気を堪えるように目はとろんとしているが、少しは正気を取り戻したらしい。
「こんな時まで気を使ってくれるんだね。ありがと、気をつける」
私が頷けば、へらりとカラ松くんは笑う。
「オレにとってはハニーの安全が一番だからな。ハニーを守れるなら、この場でブラザーたちを殲滅したって構わないぜ
んー?その目、オレを信じてないな、ユーリ。よーし分かった、なら証拠に今からあいつらを──」
「待て待て、事件を起こすな」
カラ松くんがゆらりと立ち上がり、どこからともなく取り出したマシンガンを構えるので、手を出して制する。
前言撤回、まだめちゃくちゃ酔ってた。


六つ子たちの下品なテンションに巻き込まれまいと、いつものようにソフトドリンクをメインに据えて、酒の量を調整する。カラ松シールドが使用不能の今、酔いが回れば命取りだ。
しかし、危機は突如として訪れる。彼らの下ネタトークや際限ない愚痴に参加しながら、ちまちまとアルコールに口をつけていたら、不意にチョロ松くんが肩に手を置いた。
「ちょっとユーリちゃん、さっきからぜんっぜん飲んでないじゃないですかぁ」
絡み酒きた。
「えー、それは聞き捨てならないな、ユーリちゃん。一人だけノリ悪いのは、お兄ちゃん悲しいよぉ」
反対側からはおそ松くんが出現し、私の肩に肘を載せた。両サイド至近距離に成人男性を侍らせる格好になった私は、ひたすら彼らの酒臭さに辟易する。
「つか酔ってないよね?ほぼシラフだよね?僕らだけ酔ってるとかフェアじゃなくない?」
何の?
「うん、フェアじゃないよな、チョロ松。こういう場は男も女も等しく酔い潰れるのが醍醐味ってもんじゃん。ほらほらユーリちゃん、もっと飲んで」
「お言葉だけど、六対一の時点でフェアじゃないからね。自分の身くらいは自分で守らないと」
「いやいや、何ていうかさ、女の子一人楽しい気分にさせられない自分の不甲斐なさに絶望しそうなんだわ俺ら──だから飲んで、酔ったら介抱するから
介抱されたくないから飲まないのだが。しかしまぁ、酔っぱらい相手に正論が通じるとも思えない。
「ちょっと、二人ともいい加減に…っ」
両側からほらほらとアルコールの缶を突きつけてくる長男三男に嫌気が差し、眉間に皺を寄せた──次の瞬間。

おそ松くんとチョロ松くんが、同時に後ろにひっくり返った。

「…え?」
何事かと硬直する私の傍らで、宙を舞う缶を一松くんと十四松くんがそれぞれ見事キャッチする。
「あーあ、怒らせちゃったよ」
窓際に背をもたれて苦笑いするのはトド松くんで。彼の視線を追うように、私は背後を振り返る。
そこには──二人のパーカーのフードを引くカラ松くんの姿があった。

「おいたが過ぎるぜ、ブラザー。
いくらブラザーたちといえど、親しげにユーリに触れないでもらおうか」

青筋を立て、いつにない低音で告げられる警告。冗談では済まさないと、その目は語る。敵意を向けられたわけでもないのに、一瞬息ができなかった。
呆然としたままの私を、カラ松くんは正面から力強く抱きしめる。もうわけが分からない。
「あー…」
スルメを噛みちぎりながら、溜息とも取れる吐息をトド松くんが溢した。
「出たよセコム」
「いや、むしろモンペじゃない?」
言い得て妙な代名詞で、一松くんが追撃する。
「カラ松兄さんモンペ!」
あははー、と十四松くんは楽しそうに肩を揺らす。畳に後頭部を打ち付けた長男三男に至っては、億劫そうに上半身を起こして仏頂面だ。
そして私はというと、突然の抱擁に反応しきれずに思考が停止する。抵抗するのはカラ松くんに気の毒だし、かといって歓喜するのも違う。彼の方から次の行動に出てくれるのが理想なのだがと思ってたら、カラ松くんの表情が次第に柔和なものに変化していく。
「俺はハニーのナイトだぞー」
カラ松くんの声がいつものよりも近く、耳元で聞こえる。
「あの、カラ松くん…」
「うん?心配しなくても大丈夫だぞユーリ、もう怖くないからな。…ああ、そうだ…なぁ、オレちゃんとユーリを守れたんだ。偉いだろう?」
私を抱きしめたまま、蕩けるような表情で、褒めてくれと言わんばかりの口調。まるで従順な忠犬のようだ。シラフのカラ松くんからは考えられないほどの積極性である。
「うん、偉い偉い。ありがとう」
助けられたのは事実なのでそう返したら、彼は顔の筋肉を弛緩させる。腕に込められた力が少し緩んだのを機に、私はカラ松くんに視線を合わせた。
「だから、とっとと離して
背中に突き刺さる好奇の目と殺意に、そろそろ耐えられそうにない。


空になった缶の数を数えるのが億劫に感じ始めた頃、気が付けば六つ子のうち五人は床の上で寝息を立てている。かろうじて意識を保っているのは、最後までビールを煽っているおそ松くんだ。私も瞼が重い。
「今日は何かごめんねぇ、ユーリちゃん」
アルコールで目尻を赤く染めたおそ松くんが、苦笑いで言う。
「っていうか、何でユーリちゃん呼んだんだろ
そこからか。
「ま、いいよ。特に予定なかったし、みんなに会うの好きだしね」
「へへ、そう言われたら勘違いしちゃうよぉ。ほら、何せ俺ら童貞だから」
愉快そうな顔で、一ミリだってそんなこと思ってないくせに。

「しかも一名に至っては、ユーリちゃんの膝の上で寝るという大胆かつ巧妙な手口

おそ松くんの言うように、私の膝の上でうつ伏せになり熟睡している人がいる。青いパーカーを着た、松野家次男。その両腕は私の背中に回されて、がっちりと固定されている。そんな格好でよく眠れるな、というのが正直な感想だ。
「カラ松くん、泥酔だったからなぁ。明日絶対覚えてないヤツだよね」
「どかす?今ならもれなく簀巻きにして屋根から吊るすオプションがつけられるよ
「ナイス」
私は真顔で指を鳴らす。
しかし──

「まぁいいや、しばらくはこのままで」

寝かせといてあげようよ、と。私は笑って、カラ松くんの頭を撫でた。いつも釣り上がった眉が、今は穏やかに下がっている。




結局、カラ松くんを膝に載せたまま私も寝落ちしてしまった。幸いだったのは、元々膝を伸ばした状態だったことと、背中をソファに預けられていたことだ。それでも煌々と電気のついた室内で深夜に目で覚めた時、荷重のかかる足に不快感を覚えた。
さすがにいい加減どかさなければ私の足が死ぬと彼のカラ松くんの肩に触れたところで、私の腰から腕が離れた。
「んー…」
瞼を擦りながら、そろそろと緩慢な動作で起き上がる。眩しくて開けられない目のせいで眉間に刻まれた皺は深い。
「目が覚めた?」
私が声をかけると、睨むような視線を寄越す。
「ユーリ…」
「うん」
「…喉乾いた」
ぽつりと溢された言葉に私は少しばかり目を瞠ったが、すぐにテーブルから未開封の麦茶を取って手渡した。サンキュ、という礼と共に口をつけて、それから彼は不思議そうに私を見つめた。
「──どうしてハニーがうちにいるんだ?」
え、そこから?
「呼ばれたから遊びに来たんだよ」
私の返事には、そうか、とだけ答えてカラ松くんは笑う。疑問を抱かないあたり、まだまだ立派な酔っ払いである。

快活な笑みはやがて気恥ずかしそうなものへと変わって、カラ松くんは目線を落とした。
「なぁハニー、今から言うことはユーリには内緒だぞ」
五人の寝息だけが響く深夜の一室。話を聞く私の頭の回転に支障はなく、視界に淀みもない。酔っていないことは、誰よりも私自身がよく分かっている。
「ふふ、いいよ。何かな?」
酔っ払いの戯言と聞き流すだけの余裕があったのかは、定かではないけれど。
しかし私の返事は彼にとって好意的なものだったらしい。カラ松くんの口から安堵の息が漏れる。
「ユーリと会える日、オレはすごく幸せになるんだ」
「うん」
「これからもたくさんデートをしたい。色んな所へ行きたい。もっとユーリを知りたい」
「うん」
これ聞いちゃ駄目なヤツじゃなかろうか。
けれど安らかな寝息を立てている五人がいつ起きてくるやもしれない緊張感の中、どうすればいいのか見当もつかない。

「知ってたら、教えてほしい──オレに、ユーリは何を望んでると思う?」

「え」
「オレにしてほしいことや望むこと、何かあるんだろうか。どうすれば、もっと近づけるだろう。ユーリには幸せでいてほしくて、できれば少しでも幸せにしたいと…そう思ってるんだ」
「望むこと…」
反芻して時間を稼ぐのは、深入りを避けようする意識的な行為だった。少なくとも、今聞いてはいけない。こんな場面で交わすべき言葉じゃない。なのに、反射的に手を伸ばしてしまいそうになる。心の深淵に触れるのは、麻薬のような感覚だ。
茶化して聞かなかったことにしてしまおうかとも思った。しかしそれは、酔っているとはいえ本心を曝け出してくれているカラ松くんに失礼ではと諌める自分もいる。
私は僅かに肩を竦めて、畳の上に置かれたカラ松くんの手に自分のを重ねた。

「きっと…カラ松くんがそう思ってくれてるって知るだけでも、すごく嬉しいと思うよ。いつも側にいてくれて、守ってくれて、何があっても味方でいてくれるのって、本当に心強いんだよ」

ユーリの一番の理解者でありたい。
先日おでんを食べながら語られたカラ松くんの台詞が脳裏に蘇る。
「そう、だろうか…?」
「私が保証するよ」
力強く頷けば、カラ松くんの相好が崩れる。嘘や誇張のない、純粋な笑顔だ。
「それじゃあ、これからもオレはユーリの側にいていいんだな?
…本当は、もっといい男がいくらでもいることだって分かってるんだ。でも…オレがユーリといたくて」
「他人と優劣比較するようなことしないよ。推しは別枠
「分かってる、オレが勝手に気にしてるだけなんだろう、きっと。…誰にも奪われたくないのにな。それに、オレだってユーリ以外のレディは、そもそも…全然──」
口調がペースダウンしたと思ったら、直後カラ松くんはそのまま倒れるようにソファに体を預けて意識を失った。部屋に静寂が戻る。

泥酔者の世迷い言、夜が明けたら当然のように忘却されている些末なワンシーン。
頭では分かっているのに、頬に集中した熱がなかなか下がらなくて、困った。




勢いをつけて六つ子の部屋に繋がる襖を開け放つ。
「朝だよー!いつまでも寝てないでそろそろ起きなさい、ニートたち!」
私の掛け声に、畳で雑魚寝している六色のパーカーがぴくりと反応を返す。大きなあくびをしながら上半身を起こす者、窓から差し込む朝日の眩しさに目を細める者、全員がそれぞれ異なる格好で意識を覚醒していく。
「あ、おはよう、ユーリちゃん」
襖のすぐ側の壁に背を預けていた十四松くんが、ぱっと飛び起きた。
「おはよう、十四松くん。ご飯冷めちゃうから、早めに下に降りてきてね」
「ユーリちゃんから漂うこの匂い…もしかしてユーリちゃんの手作り?」
「おばさんのお手伝いとしてだけどね」
その台詞を聞くや否や、今まで緩慢な動きだった他の面子がガバッと音を立てて立ち上がった。
「何っ、ユーリちゃんの手料理!?」
「急げクズども!」
既に身支度を整えた私に朝の挨拶を投げて、入口に近い人から順に部屋を出ていく。

「カラ松くんも、おはよう。二日酔いになってない?」
三男から六男までの四人が階段を降りた頃、私はカラ松くんに声をかける。
「えあっ!?あ、その…ああ、少しだるいくらいで平気だぞ、ハニー」
大袈裟なほどびくりと肩が尖って、私の方がぎょっとした。何か変なことをしただろうか。
「本当に大丈夫?カラ松くん、昨日かなり酔って──」
「な、何でもない!本当にっ、平気だ!」
私の言葉に大声で被せてくる。しかし唖然と口を半開きにする私に、しまったと思ったのか、目をあちこちに動かした。
「いや、すまんっ…そうじゃなくて…と、とりあえずブレックファーストを食べよう。ハニーの料理はデリシャスだから楽しみだぜ」
指先を顎に当てて感慨深げなポーズを取る。そして階下からチョロ松くんに早く来いと呼ばれたのをこれ幸いと、慌ただしく私の側を離れていく。
ああ、これはきっと、おそらく。

「──あー、覚えてるパターンか」
私の肩からひょっこりと顔を覗かせて、おそ松くんがニヤリとほくそ笑む。
「うん、分かりやすすぎる」
「でも言わないんだな、あいつ。ほんと馬鹿だねぇ」
私は黙って、困ったような笑みを返す。おそ松くんが預かり知らぬその後の展開も含めて、言及しにくい気持ちは何となく理解できるからだ。
「もっと上手く嘘をつけたら、器用に生きられるのにね」
見送った後ろ姿から見えた耳は、赤かった。




チビ太がカラ松とユーリを見かけたのは、彼らがハイブリッドおでんを訪ねて幾日か過ぎた頃だった。
赤塚区の商店街のアーケードを、こめかみに手を当てて顔を歪めるカラ松と、それを気遣いながら苦笑いを浮かべるユーリが通る。最初にチビ太に気付いたのは、ユーリだった。にこやかな笑顔で、ひらひらと手を振ってくる。
「よぅユーリちゃん。カラ松は…おいおい、二日酔いかおめー」
「…よく分かったな、チビ太」
「昨日ちょっと飲みすぎちゃって。ほらカラ松くん、チビ太さんにも分かるくらいなんだから、やっぱり今日は家で休んでた方がいいんじゃない?」
「しかし今日は何も用事ないんだろう?だったら、オレはユーリと出掛けたい」
またそんなこと言って、と溜息をつくユーリだが、表情は満更でもなさそうだ。カラ松のストレートな好意を受け流しながらも、幾分かは素直に享受しているらしい。

「あ、私たちこれから映画行くんですけど、良かったらチビ太さんもどうですか?」
「お誘いありがとよ、ユーリちゃん。でも見ての通り、仕込みの買い出し中なんだ」
チビ太は両手に持ったビニール袋を掲げてみせる。誘いを断ったのは説明した通りで、決してカラ松の心底嫌そうな顔を見たせいではないことを釈明しておこう。
「そっか。じゃあぜひまた今度。屋台も近いうちに行きます」
「ああ、またな」
春風のような子だ、とチビ太は思う。
暖かな空気を纏い、殺伐としがちな六つ子の周りを優しく穏やかに流れていく。掴みどころがないのに、確かな存在感と確固とした意思を感じさせて、少しずつだが確実に彼らに変化をもたらしている。
去りゆく二つの影を見送ろうとしたチビ太は、ふと思い返して呼び止める。

「おい、カラ松」

カラ松は振り返り、チビ太の手招きに従い、ユーリをその場に残してチビ太の元へやって来る。
「何だよ」
「ユーリちゃんのこと、大事にしろよ」
小声で告げれば、カラ松は目を丸くする。
「…チビ太?」
「おめーのことあんなによく理解してくれる子、もう二度と現れねぇぞ」
カラ松の目の色が変わった。照れくささとひさむきさが入り混じった、何とも言えない顔で。

「──ああ、分かってる」

返されたそのたった一言に、ユーリへの愛しさが溢れている。厄介で疫病神な六つ子らしからぬ一面を垣間見た気がして、チビ太はいたたまれない。けれど同時に、たちの悪い悪魔が一人でも減ってくれれば僥倖だという腹の中もある。こういうのを捕らぬ狸の皮算用というのだろうか。
「笑ってるおめーが一番なんつー恥ずかしい台詞を、平然と言ってのけるくらいだしな」
「え…えぇッ!?は、ハニーが!?」
素っ頓狂な声を上げて、あからさまに挙動不審になる。後ろの方で、ユーリが不思議そうに首を傾げて、こちらに視線を向けた。
「あー、内緒だったかな、これ」
ひひ、と底意地悪くチビ太は笑う。

しかしもう、カラ松はチビ太を見ていなかった。
一目散にユーリの元へと駆けていく。
「ユーリ…っ」
「うん?チビ太さんとの話はもういいの?」
「話…あ、ああ、終わった。別に大したことじゃない───ええと、ユーリ…その…」

商店街を出るためにチビ太は出口へと向かう。さすがに気の利いた一言でも言えているかと背後を一瞥すれば、ユーリに向かい合いながらも気恥ずかしそうに首を掻いて俯く松野家次男の姿。やがていつもの気障な口調と態度で、心にもない尊大な台詞を口走る。この調子では、当面進展は望めそうもない。
「お似合い…ってわけじゃねぇよなぁ。お前にはもったいなさすぎるぜ、カラ松」

独白のように呟いて、チビ太は踵を返した。

末弟による考察

カラ松とユーリは仲がいい。

それは公然たる事実であるし、本人も周囲も認めている。
二人の間でのみ交わされる特別なスキンシップや距離感は、どう見ても恋人同士のそれだが、当人曰く交際はしておらず、友人関係だという。
頻繁に松野家を訪ねるのも、ほとんどはカラ松との約束故で、彼の傍らがいつの間にかユーリの定位置だ。なのに付き合っていないと、口を揃えて二人は言う。
馬鹿じゃなかろうか。甘ったるいラブコメで致命傷を負い続ける童貞の身にもなれ。

半ば呪詛のように、トド松は常々そう思っている。




今日も今日とて、ユーリは松野家にいた。新作や期間限定のポテトチップスを手土産に抱えて。
訪問頻度も月に数回と高く、最近では飲み終えたカップをキッチンに運んで松代と談笑するなど、徐々にだが客人ではなく親戚のような立ち位置になりつつある。当の本人が気付いているかは定かではないけれど。

テーブルを囲みながら、七人の大人が雁首揃えてのDVD鑑賞。昨年流行ったアクション映画で、ストーリーの山場となる廃ビルでの銃撃戦が始まったところだ。派手なガンアクションを横目に、トド松は眼前に座るカラ松とユーリを見やる。
「ハニー、枝豆塩バターがデリシャスだぞ。ビールに合いそうだ」
嬉々とした表情で、カラ松はユーリにポテトチップスの袋を差し出した。我らが次男坊は実に分かりやすい。彼女への好意が顔に態度にと、如実に表れている。
ユーリは受け取ったチップスを咀嚼して、顔を綻ばせた。
「本当だ、美味しい。ね、カラ松くん、岩塩とわさびも意外とイケるよ──ほら」
笑顔でもって口元に差し出すのは、まるで幾度も繰り返しているといわんばかりの手慣れた仕草で。カラ松も嬉しそうにそれに食いつき、感想を共有して笑い合う。二人の世界おっぱじまった。
「目の前でイチャつかれるの、心臓にくるわー」
円卓に頬杖をつきながら、トド松は鼻白む。
「イチャ…っ!?な、何を突然!ブラザー、イチャついてなんか…っ」
「あーんしてもらっておいて白々しい。ユーリちゃんもユーリちゃんで、ほんとカラ松兄さんの特別視がすごいよね」
カラ松は赤面して声が裏返るが、ユーリはきょとんとした顔だ。
「推しは愛でてなんぼでしょ?」
推しで通されると、この議論はそれ以上続かなくなってしまう。しかし厄介なのは、ユーリは本気でそう思っているところだ。曇りのない瞳がトド松に向けられる。

「ユーリちゃん、俺にもそのわさび味頂戴」
運良くユーリの隣──カラ松とは反対側──を確保したおそ松が、見目にも明らかな下心を込めて彼女に声をかけた。
「いいよ、はい」
しかし笑顔と共に差し出されたのは、ポテトチップスの袋丸ごとだった。おそ松はしかめっ面になり、拳でテーブルを叩く。
「えー、何で!?オレもあーんってしてほしい!何でしてくれないの?ひどくない?」
「推しじゃない男はただの男だ」
「ジブリのイケメン豚みたいなこと言う」
ツッコミか独白か微妙な呟きを溢して、おそ松は興ざめしたとばかりに袋の中身を鷲掴みで口に放り込む。バリバリと豪快な音は、彼の苛立ちを如実に物語っていた。




カラ松とユーリの関係性について、少し掘り下げた話を聞いてみたいとトド松が思ったのは、単なる気紛れだった。
カラ松は、カラ松ガールズだの何だとの異性の視線を気にする割に、いざ女の子を前にすると自ら声掛けできない小心者だ。執心しやすいが超のつく奥手のため、外野が下手に手出しをしなければ、ユーリとの進展も亀の歩みだろうと踏んでいた。現状を鑑みるに、案の定といったところらしい。

そんなトド松にとって好機が訪れる。カラ松とたまたま二人きりになる時間帯ができたのだ。彼は飽きもせず手鏡を覗いては、己の表情や最も美しく映える角度の研究に勤しんでいた。

「てかさ、カラ松兄さんってユーリちゃんのこと好きじゃん?」

ソファの上でスマホ片手に、何でもないことのようにトド松は問う。
「それがどうし───え…んー!?
唇を引き結んだままカラ松が絶叫する。流れ落ちる怒涛の冷や汗
「なっ、何を急に言い出すんだトッティ!?
オレは別に、は、ハニーのことは、そんな風には…っ」
不自然に声が上擦る上に、顔と言わず耳まで真っ赤に染まるカラ松。本人が明言せずとも一目瞭然なのに。
「知り合って半年くらい経つよね?ほぼ毎週会ってるし、未遂とはいえお泊まりデートする関係なのに、何で付き合わないの?」
「つ、付き合…えッ!?
ふ…フフ、からかうのは止すんだブラザー。さては愛しの兄をハニーに取られるんじゃないかとジェラシーか?可愛いヤツめ
否定を無視して畳み掛けるトド松の言葉を、カラ松は咄嗟に態勢を立て直して回避しようとする。しかし元来攻撃性のない次男は、話題転換させるだけのインパクトを繰り出せない。トド松はそんな彼を一瞥して、続ける。
「推しって言ってるし、あれでしょ、カラ松ガールズなんでしょ?
カラ松兄さんが押せばいけるんじゃ──」

「ユーリは違う」

トド松の台詞を遮り、カラ松はいつになく強い口調で否定する。
「ユーリがオレに向ける目は…オレが向けているものとは、違うんだ」
苦々しげに視線が逸らされる。
「それ、どういう…」
「会ってくれる、触れても嫌がらない、いつだって守ってくれる…でも、何か違う。その答えを知るのがオレは怖い」
「…そうかなぁ」
トド松は首を傾げる。しかし確かに思い返せば、盲目なのはカラ松だけだ。ユーリはカラ松を大事に思ってはいるようだが、紙一重で常に冷静さを保っている。温度差という言うには大袈裟かもしれないが、少なくとも彼女はカラ松と違い、溺れてはいない。二人の大きな違いはそこにある。
「じゃあ、カラ松兄さんが言うように違うとしたら、ユーリちゃんのこと諦めるの?」
画面がスリープしたのを機に、スマホをテーブルに置いてカラ松へ向き直る。質問を投げた当初こそからかい半分だったのを、今は少し反省している。
「諦められない」
即答だった。
「向けられてるのが、恋愛感情じゃなくても?」
「オレにはユーリしかいないんだ」
「その結論は乱暴だよ。十四松兄さんだって乗り越えた」
あの頃の十四松は、彼女のために変わり、彼女しか見ていなかった。負った傷は決して浅くなかったものの、時間の経過と共に塞がり、今や新たな出会いを求めて奔走する日々だ。残った傷跡は、稀に痛むようだけれど。

「ユーリをよく知らないままなら、それもできたんだろうな」

自嘲するようにカラ松は薄く微笑む。
冗談っぽく囁かれる睦言の心地良さも、触れた肌の温もりも、彼は知ってしまった。知る前ならば、適度な下心と淡い憧れで済んだかもしれない。
しかしどこかで区切りをつけなければ、宙ぶらりんな物語は未完のまま時が止まってしまう。奪われた心も取り戻せず、行き場のないやるせない気持ちだけがじんわりと拡大していくのだ。
トド松は大きな溜息と共に胸を反らし、背中の後ろで両手をついた。
「もーやだやだ、湿っぽいなぁ。ボクこういう展開苦手なんだよねー」
「あ、すまん」
柄にもないな、と乾いた笑いを溢してカラ松は首を掻く。
「でもカラ松兄さんが本気なのは分かったから、ボクは応援するよ。頑張ってね」
「トッティ…」
肩を竦めて微笑むトド松に、カラ松は救われたように顔を上げた。その双眸は次第に潤んで、今にも泣き出しそうになる。

「──なんて言うと思ったか、このクソチキンがッ!」
突然降りかかるドスの利いた罵声。末弟の豹変に、カラ松はびくりと肩を震わせる。
「対等に接してくれて連絡もデートも嫌がらない可愛い女の子がいて、手出さないとか愚の骨頂!
女子といたいでしょ常に!喋りたいでしょ常に!触れてみたいし触れられたいでしょ常にー!最終的にはあんなこともこんなこともしたいでしょうがっ、馬鹿なのかお前は!
華麗なちゃぶ台返しを決めて、クズが、と吐き捨てるトド松。
しかしカラ松は飛来したちゃぶ台を片手で受け止め、負けじと声を荒げた。
「いやいや、よーくシンキングするんだ、トド松!
本気になって入れ込んだ挙げ句の果てに、私そんなつもりじゃなかったのに勘違いさせちゃったかな☆って展開になってみろ!お前ら全員葬ってオレも死ぬしかない!
「しれっとボクらを巻き込もうとするな!」




兄弟の、男の顔を見るのは苦手だと思っていた。自分と同じ顔が熱に浮かされている気恥ずかしさと、知らない一面を垣間見る居心地の悪さ。そして何より、長年横一列だった序列が崩壊し、取り残される恐怖を感じる。
カラ松にも、ユーリと会う時にだけ見せる顔があることを最近知った。言い換えれば、ユーリにしか向けない顔だ。

「オレに服の買い物に付き合ってほしい…ナイスなチョイスだぜ、トッティ」
玄関を出て早々に、決め顔のウインクを投げられて、人選を誤ったかと後悔しそうになるトド松。
「荷物を持ってほしいってだけだから。そこ勘違いしないでよ」
「フッ、恥ずかしくて本心は言えないというわけか。了解だぜ、シャイボーイ」
締め上げたい。
まぁいいや、とトド松は息を吐いて、スニーカーに足を入れる。
「とりあえず行こう。早く行かないと、約束の時間に遅れちゃう」
「約束?他に誰か来るのか?」
「うん、ゲストが来るよ。服のコーデをお願いしてるんだ。たまには他人の視点も必要でしょ」
ふむ、とカラ松は納得したようなそうでないような、複雑な表情をする。
最近のカラ松のファッションは、ユーリの教育もあって、比較的まともだ。もちろん彼一人で出掛ける時は例によってセンスのない服を好んではいるが、普通の服を着ろと指示をした今日に至っては、認めるのは悔しいが──悪くない。
七分丈の黒いテーラードジャケットと、同色の細身のパンツ。インナーに鮮やかなオレンジシャツを配置することで、重たくなりがちな印象を緩和している。トレードカラーの青は、シルバーバングルの中央に埋め込まれたブルートパーズだ。

「カラ松兄さんのその服も、ユーリちゃんの好み?」
「ん…まぁ、な。変か?」
「ううん、全然。癪に障るだけ
「え?何で?」
その顔が、と理由は言わない。ユーリの名を出しただけで、光が差したみたいに明るくなる。

商店街の入り口に着いたところで、トド松はスマホで時刻を確認する。約束した時間五分前だ。
「ところでトッティ、誰と約束してるんだ?」
「ああ、うん、実は──」
答えようと口を開いたところで、人混みの中から待ち人が姿を現した。トド松の姿を視認するや否や大きく手を振って、駆けてくる。
「お待たせー」
聞き慣れた声。
カラ松の目がみるみるうちに大きく瞠られる。

「ハニー!」

「カラ松くんも、おはよう」
ユーリがにこりと微笑む。明朗快活で分け隔てない彼女の明るさは、トド松から見ても好ましい。だからこそカラ松にとってはきっと、より一層。彼の顔に浮かぶ戸惑いは刹那に消え、代わりに表層に現れるのは、浮き立つようなニヤケ顔。
「まさかトド松の言うゲストって、ハニーのことか…?」
「トド松くんから聞いてなかったの?荷物持ちしてくれるって話だよね?」
「…とんだサプライズだぜ。トッティに是非にと請われて来てみれば、麗しのハニーが豪華ゲストとはな」
カラ松は前髪を指先で巻き取るポーズをして、やれやれとばかりに首を振る。しかし直後、目を細めてぽつりと呟く。

「まぁ何だ、その…ユーリに会えて──嬉しい」

「私も二人と買い物するの楽しみにしてたんだ。コーディネートは任せてよ」
「ああ、ハニーの審美眼は信用に値するからな」
完全に心を奪われている。末弟の存在さえ失念したかのように、カラ松にはユーリしか見えていない。蕩けるような表情を作る兄を、トド松は知らない。
「ちょっとぉ、今日はボクの荷物持ちで来たってこと忘れないでよ、カラ松兄さん」
トド松は頬を膨らませて、カラ松の腕を取る。
「ん?はは、もちろんだトッティ。弟のエスコートもオレは一流だぞ」
「カラ松くん、弟の前ではほんとお兄ちゃんって感じだよね。お兄ちゃんしてる推しも、どちゃくそ可愛い
口元に手を当てて、ユーリはくすりと笑う。台詞と表情の対比がすごい。

「ッ…ユーリ…まったく、君というレディはいつも…」
朱が差した顔を隠そうと額に手を当てて、カラ松は苦笑した。けれど当のユーリは気にも留めず「本当のことだよ」と畳み掛けてくるから、やがてカラ松も彼女につられ、声を上げて笑った。
兄弟として倦厭するほどいつも近くにいるのに、まだ知らない面なんてあるのだなと、トド松は驚くばかりだ。
カラ松は、こんなにも幸せそうに笑える人だったのか。
どちゃくそ可愛い発言に照れるのは、さすがにどうかと思うが。




「そういえばカラ松お前さ、何でユーリちゃんはハニー呼びなの?」

世間では休日のある日の午後。余暇を持て余したおそ松が、明らかに暇潰しと分かる興味のない口調でカラ松に質問を投げた。一松がソファに置き忘れた猫じゃらしを、退屈そうに振り回しながら。
意図的なのか無意識なのか、おそ松はときどき、核心を突く問いを何でもないことのように振ってくる。トド松は離れた場所で無関係を装いつつも、耳を傾けた。
「なぜって…ハニーはハニーだろ。ダーリンの方がいいか?
呼び方の問題じゃない。トド松は内心でツッコミを入れる。
「うんうん、英語ではダーリンハニーに男女の区別がないもんな──って、そんな知識のお披露目は置いといて」
お前もよく知ってるな。
「ずっとお前のユーリちゃんに対する呼び方が気になってたけど、ツッコんだら負けな気がしてたんだよね。でもハニーってほら、恋人に使う呼び方じゃん?」
「フッ、ユーリはオレのスウィートハートだからな」
何を今更、とカラ松は気取った溜息。
「何がスウィートハートだよ。片思いなのに?
「…えッ!?あ、いや…かたおも…うん」
普段は平然と痛い台詞を撒き散らすくせに、現実を直視させられると途端に萎縮する傾向にあるらしい。カラ松は背中を丸めて、言葉を濁す。
「そもそもユーリちゃんのこと呼び捨てだしね。
チキン松極めたお前にしてはすごい進歩だと思うんだけど、初っ端から女の子呼び捨てってパリピくらいの気軽さないと無理なんじゃないかなと思っててさ。…ああ、そういやユーリちゃんはハニー以前に呼び捨てだよな。何で?」
「な、何で…って」
さすが空気を読まないことに定評のある長男、グイグイ切り込んでいく。頑張れ特攻隊長。トド松は手に汗握る。
「幼馴染のトト子ちゃんですらちゃん付けじゃん」
彼女を比較対象にするのは、いささか強引ではないか。トト子ちゃんを呼び捨てにしようものなら、きっとボディーブローでは済まない。我ら六つ子は彼女にとって、ちやほやされて承認欲求を満たす手段に過ぎないのだ。
「だって、その、ユーリはユーリというか…」

「私がどうかした?」

噂をすれば何とやら。唐突に障子が開け放たれて、話題のその人が部屋へ足を踏み入れる。
「ユーリ!」
「お、ユーリちゃん。いらっしゃい」
対象的な出迎え方をする二人に笑みを向けながら、こんにちは、と挨拶をするユーリ。
「ちょっと早く来すぎちゃった。っていうか何、私の噂話でもしてたの?」
カラ松の服装が外出仕様なのを鑑みるに、松野家で合流して二人で出掛ける算段だったのだろう。
「ユーリちゃん、いいとこに!今ちょうど、カラ松のユーリちゃんの呼び方について熱い議論を繰り広げてたとこなんだよね」
「えー、なになに、気になる。私も混ぜてよ」
瞳を輝かせて、ユーリがカラ松の隣──彼女にとっての定位置だ──に座る。カラ松は戸惑いがちに視線を彷徨わせるが、議論中止の要求はしなかった。ユーリの本心を知りたいような知りたくないような、複雑な胸中が察せられる。

「ユーリちゃん、カラ松兄さんにハニーって呼ばれてるでしょ?」
せっかくの機会なのでトド松も参戦する。
「そうだね」
「嫌じゃない?」
率直に訊けば、ユーリは目を瞠った。
「最初は驚いたし違和感もあったけど、今は別に何とも思わないよ。愛称だしね」
呼ばれすぎて慣れちゃった、とユーリ。その横顔を見つめていたカラ松の相好が静かに崩れていく。もしかしてのろけを見せつけられているのか?
「ユーリちゃん、慣れは危険だと思うよ、俺」
「その辺はまだ客観的に見られるから、たぶん大丈夫。そっち側には行かない
そっち側って何。
「つか、呼び捨てだよね」
「カラ松くんに限っては、今更ユーリちゃんって呼ばれる方が違和感あるなぁ。あ、でも…そういうプレイならあり
プレイの詳細は気になるが、聞くのは負けな気がしてトド松は踏みとどまる。
「えー、マジ?彼氏でもないのに?
リア充の方々って、男女関係なく呼び捨てあそばしてるもんなの?」
「おそ松兄さん、童貞無職非リアの妬みは醜い
「うるせ!」
おそ松とトド松の掛け合いに、ユーリは肩を揺らして笑う。それからカラ松へと体を向けて、優しい声音で告げる。

「だからカラ松くんは、何も気にしなくていいんだよ」

ああ、とトド松は感心する。
彼女は最初から質問の意図を理解し、カラ松の心情まで汲んでいたのだ。素直な意見という殻を被ったユーリの返事は全て、前提を踏まえた上で計算されたものだった。
「ユーリ…──フッ、わざわざ言わなくても、ハニーの熱いパッションは最初から分かってたぜ。オレとハニーはオールウェイズ以心伝心、だろ?」
思い出したように高らかに指を鳴らし、カラ松は気障なポーズを決める。
「そうだねー」
普段の調子を取り戻したカラ松に興味はないらしく、ユーリの返事は完全に棒読みだ。

ただ、再確認したことが一つある。
それは、やはりユーリはカラ松に好意的であるということ。次男に向ける感情の起因までは読み取れないが、少なくとも友人の域を超えているのは間違いなさそうだ。推しと言われればそれまでだし、童貞の濁りくさった目が当てになるのかと言われれば、まぁやっぱりそれまでなのだけれど。


「そろそろ出掛けるか、ユーリ」
壁掛け時計で時間を確認した後、カラ松が立ち上がる。
「俺たちの目の前でデートなんていい度胸だな、カラ松。俺も連れてって
「プライドないのか、お前」
「そんなもんニートの時点であるわけないだろ!バーカ!」
逆ギレか。
「おそ松くんとトド松くんも一緒に行く?紅葉見に公園ブラブラするつもりなんだけど」
「えー、競馬とかパチンコじゃないのー?今日新台入荷とスロットのイベントの日なんだよね。公園の何が楽しいんだか」
おそ松はソファの上でうつ伏せになり、退屈そうに唇を尖らせた。
「そうか?オレはユーリと一緒なら何でも楽しいが」
「カラ松のそういうド天然なとこ、俺嫌ーい」
構ってちゃんと察してちゃんを併発した、最高に面倒くさい態度で冷笑するおそ松を尻目に、トド松は自分のスマホをバッグに仕舞う。
「残念、ボクも今日は予定あって。これから囲碁クラブの人たちと会うんだよね」
「そっか。じゃあ行こうよ、カラ松くん」
「あ、待ってくれハニー。行ってくるぜ、ブラザー」
ユーリに手招きされて階下に降りていくカラ松の様子は、さながら幼い娘に催促される父親のようだった。彼がユーリに向けるのは、ただただひたむきな愛情。カラ松がカラ松たる所以である底抜けの優しさは、今は一切合切がユーリのものだと思い知らされる。




カラ松とユーリが松野家を出て、少し経った頃。
彼女が欲しいだの合コンしたいだのと際限なく愚痴を垂れる長男をいなしていたら、あっという間に囲碁クラブメンバーとの待ち合わせ時間が迫る。
荷物を持ち、玄関口で靴を引っ掛けたところで、戸の奥から人の話し声が聞こえて立ち止まる。松代が近所の主婦と立ち話でもしているのかと、トド松は忍ぶように引き戸を開けた。しかし玄関を出ても人の影はない。不審に感じながらも声のする方へと歩を進めると、木製のベンチに腰をかけて談笑するカラ松とユーリの姿が、トド松の目に飛び込んできた。

「このルートで行く?そしたらゴールはここになるから、駅に戻りやすいと思うよ」
スマホの画面を指差しながら、ユーリが言う。公園散策のルートを決めあぐねているらしい。肩を寄せ合って同じ画面を覗く距離感は、やはり恋人同士のそれだ。
「少し迂回することになってしまうが、こっちはどうだ?
繁華街に繋がる道に出るから、近辺のカフェで休憩しやすいと思う」
「なるほど、それいい案。カフェの新規開拓もできるね。カラ松くんナイス!」
「ほ、本当か?」
嘘や誇張のない称賛を受けて、カラ松はふにゃりと顔を綻ばせた。ユーリの一挙一動に、振り子のように容易く揺れ動く心。秘密の花園を覗いたみたいな背徳感で、トド松の顔も心なしか熱くなる。

スマホをカバンに放り込みながら、そういえば、とユーリは話題を変えた。
「さっきの話を蒸し返すようだけど、みんな呼び方にこだわるんだね」
「新品だしな」
「そうでした」
得心がいったとばかりにとユーリは手を叩く。

「でも…少なくともオレには、理由がある」

「ハニー呼びに?
トト子ちゃんのこともそう呼んだことあるって聞いたよ。カラ松くんの場合は、仲のいい女の子がハニーなのかな」
赤塚区で開催された爆食い女王決定戦。トト子の応援として駆けつけた際に、愛してるぞハニー、と確かにカラ松は叫んでいたっけ。
意味ありげに微笑むユーリの胸中を、トド松は計り知ることができない。
「違…っ、確かに以前トト子ちゃんをそう呼んだのは事実だが──今は、ユーリにしか使ってない」
不安げに揺らぐ声音。けれどすぐさま居住まいを正して、カラ松は毅然と言い切った。
「へぇ、本当に?」
「…本当だぞ。今だけじゃない、これからも、オレにとってのハニーは──」
力の限りを振り絞って。

「ユーリだけだ」

あ、と意味を成さない言葉を発して、ユーリは肩を竦めた。
「ごめんごめん、そう追い込むつもりじゃなかったんだ。ちょっと聞いてみたかっただけ」
そう言って、聞き分けのない子をあやすようにカラ松の頭を撫でる。
「うん、でもそっか、呼び方ねぇ…」
黒髪の上に置かれていたしなやかな指が、緩やかな弧を描いて頬へと動き、やがてカラ松の顎をなぞりあげる。晴れやかな天気には似つかわしくないほど妖艶な仕草に、トド松は息を呑む。カラ松がごくりと喉を鳴らしたのを合図に、彼女の血色の良い唇がおもむろに開いた。

「カラ松」

囁くような甘い声音。カラ松の血液が沸騰したのが、傍目にも分かった。トド松もなぜか胸が締め付けられる。恋は、こんなにも強烈な感覚をもたらすものなのか。
「うーん、あんまり変わらない気もするなぁ。カラ松くんはどう?変な感じ?」
ユーリは指を離して、朗らかな表情を浮かべる。先ほどの艶っぽい目線は、幻とでも言うように。

そしてカラ松はというと、硬直したまま後ろにぶっ倒れた

「わーっ、カラ松くん!」
ユーリは慌ててベンチから立ち上がり、卒倒したカラ松に駆け寄る。後頭部をアスファルトに強打したのだから、良くて致命傷だろう
「今のどう考えても分岐点だったじゃん!自分からフラグ折るとか馬鹿なの!?」
トド松は物陰から躍り出て叫ぶ。突然の出現にユーリはびくりと肩を竦めて、ひゃあっと素っ頓狂な悲鳴を上げた。その拍子に、起こしかけたカラ松の体から手を離してしまい、再び次男は地面に叩きつけられる。
「えっ、あっ、ご、ごめーん!カラ松くん生きてる!?」
「カラ松兄さんは特殊な訓練受けてるから、心配しなくていいよ」
意識を失ったカラ松の傍らにしゃがみ込み、トド松は抑揚のない声で告げる。鈍器で殴打されても翌日には復活しているような男だ。


トド松の出した結論は以下の通り。
とっととくっつけとは思うけど、目の前でイチャつかれたら殺戮に手を染めかねないので、当面は現状維持をお願いしたい。妨害は徹底的にやる。

グランピングに行こう

行楽日和の秋晴れだった。

「赤塚区を抜けた。最終関門突破したぞ、ユーリ」
カーナビに表示される区画が赤塚区から隣の区へと変わったのを見届けて、カラ松くんは満足気な笑みを浮かべる。
彼は左手でハンドルを軽く握り、もう片手はコンビニで買ったばかりの缶コーヒーを口元へと運んだ。
「良かった、これで追跡される心配はなくなったね」
私は助手席で両手を合わせ、安堵の息を漏らす。
「計画がバレないよう細心の注意を払ってはいたが…こと異性に関しては裏切り者を排除することに余念がないブラザーたちのことだ、包囲網を敷かれると突破は困難だからな」
「さすが経験者。カラ松くんも元々そっち側の人だもんね
「現役だぞ」
フフンと、鼻息荒く答えるカラ松くん。己のクズさに胸を張るな。
「だからこそブラザーたちの手の内は分かる。伊達に松野家次男を二十数年やってない」
痛いが無害と言わしめる次男も、本気を出せば五人の悪魔を出し抜けることが証明された。
私とカラ松くんを載せた車は料金所を通り、高速道路へと入る。カラ松くんはカーナビを一瞥して、アクセルを一層踏み込んだ。
実は今回の私たちの外出は、おそ松くんたちには内緒なのだ。

だって、私たちが『泊りがけで出かける』と知ったら、彼らは血相を変えて徹底的に妨害するに決まっている。




発端は、秋を満喫しようという私とカラ松くんの他愛ない会話だった。
軽やかなジャズが流れる静かなカフェの店内。スマホの画面と旅の情報誌をテーブルに広げて、秋ならではの定番ごとやイベントを紙に書き出しながら、この時期に何を楽しむか取捨選択していく。
「読書は一人でもできるし、芸術といえば美術館だけど建物の中だしなぁ。となると、やっぱり運動?」
久しぶりにアスレチックもいいなと思いを馳せる私とは対照的に、カラ松くんはテーブルの上で両手を組んで憂い顔になる。
「ハニー、運動能力の差は憂慮すべきじゃないか?」
黙れ脳筋。
しかしまぁ、カラ松くんの言うことも、もっともだ。他の案に考えを巡らせようとしたら、ふと情報誌の写真に目が留まる。
「河原でバーベキューなんか楽しそうだよね。キャンプとかでよくやるやつ」
「キャンプか…いいな、秋っぽいし。なぁハニー、キャンプはどうだ?」
カラ松くんの瞳が輝きを増す。
「いやー、狭い空間で年頃の男女が二人きりとかないでしょ。襲われたいの?
「ノン!」
流暢な発音で拒絶するやん。即答か。
しかしどうしても断念し難いアイデアらしく、胸中の葛藤を裏付けるように、彼の黒目が不安定に動く。貞操の危機と行楽への期待感が、今まさに秤にかけられている。

「でも、ユーリと行きたくて……駄目か?」

機嫌を窺うように小首を傾げる姿に、私は内心で悶絶する
格好つけたいお年頃のくせに、無意識で愛くるしいおねだりポーズを取るな。今の仕草をおかずにして、一週間白米だけでいける。ありがとうございます。
「カラ松くんの行きたいっていう気持ちは分かるよ。たださ、やっぱり──」
そこまで述べて、ふと脳裏にある単語が浮かぶ。
「…キャンプといえば、キャンプの上位互換にグランピングっていうのがあったね」
カラ松くんが図書館で借りてきた情報誌を捲ると、大きなテントの下に寝室かと見紛うインテリアの広がる写真が飛び込んでくる。紹介されている施設名は、手ぶらで行けると話題のスポットだ。
「グランピング…ああ、トッティがそんな単語を使っていた気がするな。キャンプの豪華版だろ?」
「キャンプに比べると値が張るけど、こういうの行ってみたいよね。バーベキューセットも持っていかなくていいから、楽しそうだし」
「え?」
「え?」
「ハニー…グランピングなら二人でもいいのか?」
どうしてそうなる。
カラ松くんは頬を赤くして、僅かに身を乗り出した。行く気満々だこいつ。
「そうじゃなくて──」
「フッ、オーケーオーケー。ハニーは、深夜のテント内でオレがウルフになるんじゃないかと心配しているんだな?
──大丈夫だ。ハニーの嫌がることは、絶対しない」
軽口はやがて真剣味を帯びて、力強く断言される。真摯な双眸が真っ直ぐに私を捉えた。

「オレはただ…ユーリと楽しい時間を過ごしたいんだ」

照れくさそうにはにかんで。だからどうか、と。言葉にならない懇願。
この人は本当に卑怯だ。そんな風に言われて、毅然と拒絶できるほど私は理性的でもない。
「松野家フルメンバーとトト子ちゃんで妥協しよう」
「すまないユーリ、今回はオレも譲れないぞ
圧倒的に不利な立場のくせに、キリッと眉を上げるな。
「あーもう、分かった!いいよ、二人でグランピング行こう。どうせテント自体は防音性もないし、隣同士の距離も遠くないだろうし、それに…」
「それに?」
カラ松くんが続きを促すように首を傾げる。脳裏に浮かんだセリフを告げるのは何だかくすぐったいのだが、私は苦笑して述懐した。

「カラ松くんが私の嫌がることをしないっていうのは、信用してる」




そんな経緯を経て、私たちは隣県のグランピング施設へとやって来た。
私は平日に休暇を取り、レンタカーの予約を済ませ、カラ松くんは前の週に私の家に荷物を移動させる。六つ子たちに勘づかれないよう水面下で準備を進め、当日は日が昇らない早朝にカラ松くんが私の家を訪ねるという計画は、功を奏した。
眠い目を擦りながら玄関を開けた途端、子どものように邪気のない笑顔のカラ松くんがいるのだから、目も覚めるし尊さも振り切る。グランピング拒否ってマジすいませんとすら一瞬思った自分は、間違いなく頭のネジが一本飛んでいると思う。
推しと旅行だぜフゥー。

畑に囲まれた広大な敷地の一角に、キャンプ場はあった。敷地内では、グランピングだけでなくテントやコテージ、バーベキューといったキャンプを楽しめる設備はもちろん、天然温泉や農園、ミニ牧場なども展開していて、さながら一大リゾート地だ。
受付を済ませて、テントへと案内される。
「おおっ、本当に部屋みたいだな。ブラザーたちとの部屋よりよっぽどハイグレードだ」
眼前に広がる赤を基調とした北欧風インテリアに、カラ松くんが感嘆の声を上げた。
広さは六つ子の部屋と同じくらいだろうか。白いテント内に敷き詰められた明るい木目調のフロアマットに、入って奥にはセミダブルのベッドが二つ、その手前には木製のローテーブルと柔らかそうな座椅子が向かい合わせに設置されている。家電はエアコンとケトル。
部屋の中央にはテントを持ち上げるポールが存在するが、それを隠すように天井から床にかけて三角形の木製棚が設置されており、棚に壁がなく奥が見通せることで、圧迫感も感じない。

「それでは、ご夕食のお時間になりましたら、バーベキュー施設までお越しください」
案内人の男性から、施設の地図を手渡される。
「はい、ありがとうございます」
「楽しみにしてます」
私たちはそれぞれ案内人に会釈し、彼が背を向けて歩き出すのを見届けてテント内に入る。
「ハニーとワンナイトを過ごす聖なる地に降り立つ…オレ」
「言い方」
語弊ありまくりじゃないか。
苦虫を噛み潰すように言えば、カラ松くんは二つ置かれたベッドを見やって、恥じ入るように指先で頬を掻いた。
「…何だ、うん、その…こういうの初めてだから、変な感じだな」
腹立つのに可愛い、なにこの生き物。

「前にも約束したが…ゴッドに誓って、ユーリには何もしない。ただオレも一応男だし、警戒はしてくれていい。それくらいがちょうどいいんだと思う」

念のため防犯ブザーは持ってきているが、その言いようだと、きっと出番はないのだろう。そんな気がする。確証はないけれど。
「うん、そうする。でも、カラ松くんとグランピングに来れて嬉しいよ。明日帰るまで、たくさん楽しもうね」
二人の荷物をテントの隅にまとめながら話すのは、私の本心だ。
「忘れられない思い出にしよう、ユーリ」
カラ松くんは自身の首筋に手を当てて、嬉しそうに微笑んだ。




「おおっ、ユーリ!見てくれ、大量だ!」
緑生い茂る畑の中に両足を突っ込んだ姿で、土にまみれた軍手でもって高々と掲げるのは、さつまいもが複数連なった株。細かな土が溢れ落ちて服にかかるのも顧みず、カラ松くんは誇らしげな顔だ。
「すごいよカラ松くん、やったね!」
推しの勇姿を余す所無く残すべくスマホのカメラで連写しながら、私は感嘆の声を上げる。
グランピング施設に隣接している農園での、収穫体験だ。体験料を支払えば、軍手や長靴といった装備を借りて、旬の野菜を自ら収穫することができる。もちろん、収穫した野菜は土産として持ち帰りが可能だ。
「オレほど魅力に溢れた存在ともなると、素朴な収穫スタイルさえ様になるな。自然と調和するオレ…いや、これはむしろ…自然がオレにシンパシーを感じて融合している?
なぜ疑問形なのか。
「もう一株抜けば、ブラザーたちの一食分にはなりそうだ。シンプルに焼き芋か大学芋か、それとも煮物か」
「天ぷらも良さそうじゃない?」
私が呟けば、名案とばかりにカラ松くんが指を鳴らした。
「ナイスアイデアだ、ハニー!」
「私の分も抜いちゃってよ。で、私も家で天ぷらにして食べたいから、一本だけ頂戴」
「なら、二本はユーリの分にしよう」
さつまいもに付着する土を落としてから、カラ松くんは分割してビニール袋に入れる。それから少し視線を地面に落として思案したかと思うと、ある提案を口にする。

「それで…今度、二人で一緒に作る、なんていうのはどうだ?」

カラ松くんの誘い方は、基本的に二つのパターンに分かれる。日常会話の延長でさらっと誘ってくるか、緊張感を伴いながら顔色を窺うように提案してくるか、だ。今回は後者だったが、彼の打つ手に法則は存在しない。あるとすれば、本人が意識しているかどうか、というところか。
「いいね、美味しいさつまいもの天ぷら定食作ろっか。追熟させる必要があるから、作るのは数週間後になるけど」
例外を除いて、彼の誘いは断らない。けれど私が首を縦に振るたびカラ松くんの顔がぱぁっと明るくなるから、いつまで経っても初々しい。
「約束だぞ、ユーリ」
柔らかい微笑みが私に向けられた。

私たちはこんな風に、意図的に約束を重ねて、次の逢瀬に繋げていく。
断続的に顔を合わせることで積み重なるのは、さざなみのような優しい思い出ばかりではなくて。明言されない思惑が交錯する。




それからは、ミニ動物園エリアで飼われているヤギに餌をやり、うさぎやモルモットといった小動物と触れ合い、他の宿泊客と互いに写真を撮り合ったりして、気が付けば日も暮れる夕刻時。
見晴らしのいい広場の中に囲まれた、屋根付きの屋外バーベキュー施設へ足を運ぶ。
木製のベンチ付きテーブルの傍らには、コンパクトなバーベキューコンロ。網の下に敷かれた炭は炎を纏い、煌々としたオレンジ色の光を揺らしている。
「開放感のある屋外でのバーベキューか…控え目に言って最高だな
「完全に同意」
私とカラ松くんは真顔で感想を述べる。表情が感動についてこない。
テーブルの上に置かれた皿の上には、金属の串に刺さった肉の塊、手作りソーセージ、各種海鮮、ぶつ切りの野菜がてんこ盛りだ。野性的ともいえる盛り付けが、私たちの非日常感を一層盛り上げる。
「プランや予約をハニーに任せておいて良かった」
「そう?もっと地味なイメージだった?」
「いや、正直何も考えてなかった。ユーリと泊りがけで出掛けられる喜びに勝るものなんてないと思ってたんだ…」
照れくさそうに頬を紅潮させるカラ松くんを、可愛いなぁなんて思っていたら。
「撤回する。肉最高、バーベキューの民に幸あれ」

期待を裏切らない掌返し。そんな推しが逆に愛しい。


係員から簡単な指示を受けた後は、各自で好きなように食材を焼いていく。二人分の食材が盛られた皿から肉の串を取り、カラ松くんが嬉々として網に載せていく。いつになくきらきらと瞳を輝かせ、自然と上がる口角は、無邪気な子供のそれだ。
「お肉メインのコースにしておいて正解だったね」
「ユーリ…ひょっとしてオレのために…」
「カラ松くんがバーベキュー楽しみにしてるの知ってたから、ちょっと奮発しちゃったよ。追加でステーキもある
ニヤリと笑って高らかに指を鳴らしてみせたら、タイミングよくウェイターがステーキ肉の皿を運んできた。脂肪の少ない分厚い赤身肉が二枚、炭火焼きにするには、実におあつらえ向きな重厚感。
「ハニー…ッ!」
カラ松くんの目尻に涙が浮かんで、潤んだ瞳が私を見つめる。欲情待ったなし。
「い、生きてて良かった…!ブラザーたちの妨害なしでたらふく肉が食べられるなんて、オレは夢を見てるんじゃないだろうか!」
感極まった様子で涙を流すカラ松くんに、慈愛に満ちた微笑みと共に無言でカメラを連写する私。激レアな新規絵をいただき光栄です。


「ふふ、彼氏さんのこと大好きなんですね」

優しげな声が背中にかかって、私は反射的に振り返る。背後に立っていたのは、昼過ぎにミニ動物園エリアで、写真撮影を頼んできた若い男女だった。揃いの指輪を薬指にしているところから察するに恋人同士で、今だって男が彼女の腰に手を回している。
私とカラ松くんは彼ら二人とは距離感がまるで異なるが、宿泊施設に男女で来ているのだから、そう見られても当然か。
「だって、本当に可愛いんですよ」
私は鼻息荒く頷く。
「イケボだしスタイルもいいし顔もタイプだし、ときどきかましてくるわけ分からない言動ももはや愛嬌の塊。私にとっては欠点さえ長所なパーフェクトヒューマン
まくし立てるように語ったら、向かいの席でカラ松くんがビールを吹いた
推しという言葉を忘れていたが、まぁいい。些末なことだ。




園内には温泉施設もあって、バーベキューで肉を堪能した後は、露天風呂でバーベキューの臭いと一日の疲れがリセットできる。都会の喧騒を離れて自然を満喫できるだけでなく、風情ある温泉も楽しめるなんて、贅沢の極みといえるだろう。平日のせいか人もまばらで、一日活動し続けた疲労感が嘘のように溶けていく気がした。

「ごめん、待たせちゃったね」
着替えを終えて女湯を出ると、カラ松くんが館内のベンチに腰かけて雑誌を読んでいるところだった。
「構わないさ、ユーリを待たせるわけにはいかないからな」
垣間見えるスパダリの片鱗。
「寒くなかった?」
「平気だ」
それからカラ松くんは私を見つめて、目を細めた。

「…風呂上がりのユーリも、魅力的だな」

その言葉そっくりそのまま返そう。
紺のシャツと黒いスウェットパンツといった緩い服装にも関わらず強調されるスタイルの良さと、濡れて無造作な髪。乾ききらない髪は掻き上げられた状態で、額が露出している。このフェロモン垂れ流しを前にして、襲わない選択肢ってある?いや、ない!

「毎日の銭湯行脚にお供したい」
「ん?」
「カラ松くんはセクシーだねって話」
「何だ、今更オレの色気に魅了されたかハニー───って、え?…ええッ!?」
気付くの遅い。


テントに戻っても、カラ松くんはシャツとスウェットパンツのままだった。とうに日も暮れ、今晩はもう休むだけだ。ベッドで一息ついたカラ松くんに、問いかけてみる。
「パジャマに着替えないの?」
「パジャマ?持ってきてないぞ」
「そうなんだ。普段は六人お揃いの水色のパジャマ着てるんだよね?見たかったんだけどな」
さすがに就寝姿までは踏み込めないか。パジャマ姿が拝めないのは残念だが、簡単に見られないからこそ俄然今後への期待が高まる。
「家じゃないし…ユーリもいるからな」
テントの下に、ベッドが二つ。時計の針はまだ九時を過ぎたばかりだが、いずれ就寝時間は訪れる。
「でもこれってよく考えれば、完全プライベートショット?推しの私生活垣間見れるって貴重だよね
「そういうのは本来オレがする発言じゃないか?」
「今日撮影した分だけで写真集作れるし、ヤバイな…最高すぎる」
「聞いて」

カラ松くんの懇願をフル無視して、自分のベッドに座り、スマホのアルバムをタップする。ディスプレイに表示される写真の被写体は、九割がカラ松くんだ。中には連写したものや焦点が合っていないものもあるから、一枚ずつ確認しながら選別する。
不意にぎしりとベッドが沈み込んだので何事かと顔を上げれば、カラ松くんが傍らに腰を下ろして、私の手元を覗き込む。
「本当にオレの写真ばかりじゃないか…」
呆れたような声。
「最初からそう言ってるでしょ」
「ユーリと写っている写真もあっただろう?あれが見たい」
「ああ、女の子に撮ってもらったヤツ?」
私たちと同世代とおぼしき、バーベキューエリアで声をかけてきた男女。
日中私が彼らの写真を撮った後、もし良ければ撮りますよと手を差し出してきたのだ。あの時本当は辞退するつもりだったのだけれど、カラ松くんが目を輝かせて私を見つめるから、心ならずも彼女にスマホを手渡した。
写真は何枚かあって、その中でも一番最後に撮られたものは───

肩を寄せ合い、照れくさそうに顔を見合わせて笑う、私とカラ松くんだった。

二人とももうちょっと近づいて、と指示を出されたのが一枚目。従った直後、羞恥心に耐え切れずカラ松くんが顔を片手で覆い、それを見た私が苦笑するのが二枚目。そして、目が合って、二人揃ってはにかんだのが、最後の写真である。

「……ッ!」
自然と浮かぶ微笑みを必死に噛み殺そうとする顔で、カラ松くんが視線を逸らす。
「カラ松くん?」

「すまん…ハニーのあまりの愛らしさに、どんな顔すればいいのか分からん」

だからそれはこっちの台詞だ。いちいち仕草がたまらん。今すぐ抱いたろか。
「だからつまり、その…二人きりというこのシチュエーションは、真剣に不味い」
「不味い?」
「…まぁ、あれだ、こういうのは──わ、分かるだろう?」
みなまで言わせるなと、その瞳は語る。
男と女が一つ屋根の下、簡易とはいえ施錠されたテントの中、互いに風呂上がりの無防備な姿。不安材料は山ほど積み重なっている。私自身、この状況下でぽかんとするほど初な少女でもない。

「じゃあ私外で星でも見てるから、落ち着いたら言ってね」

「……え?」
カラ松くんからは素っ頓狂な声が上がって、しかしベッドから立ち上がれない困窮した事情を抱えているため、僅かに伸ばした手は制止もままならない。
にこりと微笑を向けて、私は颯爽とテントの外へ出る。




空を見上げて、私は言葉を失った。
漆黒の夜空に散らばる満天の星空が、私の視界を埋め尽くす。高いビルも電信柱も、遮るものは何一つなく、ただひたすらに広がる無数の星。夢に落ちたのかと錯覚するほどに、美しい光景だった。
パウダーを撒き散らしたように空を彩る星々を眺めていると、ぽっかりと心に空洞ができて、何も考えられなくなる。草原の上に座り、膝を抱えた。

「…ユーリ」

空を見上げていたのは、数分だったと思う。しかし私の体感では、刹那のようにも、長い歳月のようにも感じられた。
「落ち着いた?」
「…たぶん」
問いかけに対しての返答は、歯切れが悪い。カラ松くんが居心地が悪そうに私の隣に並ぶ。
「なぁユーリ、今更何言ってるんだと思うかもしれないんだが…」
「うん?」
「オレと一緒に泊りがけで旅行に来て、本当に良かったのか?」
本当に今更何言ってんだ。
脳内で私のツッコミが冴える。
「いや、もちろんオレが強引に誘ったせいなのは分かってるんだ。責任はオレにある。ただ、いつも以上にユーリを一人のレディとして意識してしまって──本当に…全然クールじゃない」
カラ松くんは自嘲して、立てた膝に顔を埋める。理想と現実を隔てる壁は、乗り越えるにはあまりにも高すぎるから、無力に立ち尽くすしかない。やはり童貞にはハードルの高い旅だったか。冷気を含んだ風が、私の頬を撫でる。
「ねぇカラ松くん、空見てよ」
私は右手の人差し指を天に向けた。カラ松くんの目線が私の指先を追って、顔が上がる。
「……あ」
やがて双眸は驚愕に瞠られて、口からは感嘆の息が漏れる。私が先ほど見上げた時と、まるで同じ反応。

「こんな綺麗な景色をカラ松くんと見られるだけで、私は十分楽しいんだけど、それじゃ駄目かな?」

ふにゃりと、カラ松くんの相好が崩れる。
「…ユーリ───はは、まったく、どうしていつもハニーは、オレが一番欲しい言葉をくれるんだ」
「需要と供給が一致してて何より」
「ハニーはエスパーなのかもな」
「というよりは、対カラ松くんのみに劇的に勝率が高いギャンブラーっぽい」
ロマンチックな雰囲気は次第にいつもの不毛な内容へと姿を変えて、私たちは顔を突き合わせて笑う。この会話はここで終わりと、区切りをつける意味も内包して。
「ユーリは、まだここにいるか?」
「うーん、とりあえず飽きるまでいようかな。東京でこんな綺麗な星見えないし」
「そうか」
頷いて、カラ松くんはすっくと立ち上がった。そのまま踵を返してテントへと戻っていくので、私の発言が気に触っただろうかと一瞬不安に駆られたが、そもそもそういう関係じゃないと思い出して、考えるのを止めた。面倒くせぇな、もう。


夜景の美しさに見惚れて、眠るのがもったいないと感じるのとは、とても贅沢なことだ。毎日粛々とルーティンを積み重ねて、気が付けば一日の終幕の舞台にいる。カーテンコールもないまま幕が下りて、翌日の舞台の準備に追われる日々。
テントに戻る時間だけ決めようとポケットをまさぐったが、スマホはベッドの上だ。膝に手をついて立ち上がろうとすると背後に人の影があって、振り返れば──カラ松くんの姿。
「オレも付き合う。一緒に見よう」
その手には湯気が立ち上るマグカップが二つ載ったトレイと、ブランケット。
「ん」
「…ありがと」
優しい眼差しと共に差し出されるマグカップを受け取ったら、肩にふわりとブランケットが掛けられた。
「旅先でハニーに風邪なんてひかせたら、本気でブラザーたちに殺されそうだ」
今の状況だって十分動機になると思うのだが、言うだけ野暮だ。どんな制裁が待ち受けているかは想像に難くない。

トレイを置き、地面に手をつこうと下ろしたカラ松くんの指先が──私の手に触れる。

「あっ、す、すまん…」
慌てて離したその手の行方を、私は目で追いかける。
「…ハニー…?」
「カラ松くん、袖捲ってるのに手が温かいね。いいなぁ、代謝が違うのかな…それとも、筋肉量?」
もう一度見せてよと、カラ松くんの右手を取る。彼はびくりと肩を強張らせたが、振り払いはしなかった。それから、ああ、と驚いた声を上げる。
「ハニーの手、冷えてるじゃないか」
「うーん、湯冷めかな?
あ、そうだ、持ってきてもらったコーヒーをカイロ代わりにすればいいんだね」
我ながら名案だとカップに手を伸ばそうとしたら、カラ松くんが私の手を掴む。そして、戸惑いがちに言葉を紡いだ。

「…カイロにするなら、オレの手を使ってくれ」

逃げ場のない環境で、その提案を口にするのはさそがし勇気がいっただろう。平坦で穏やかな雰囲気を、がらりと一変させてしまいかねない爆弾だ。
「カイロは二つ貸してくれるの?でもそれだと、向かい合う形になっちゃうね」
まるでフォークダンスの構えみたいだと軽口を叩けば、カラ松くんの顔に焦りが浮かぶ。この後の展開については無計画だったらしい。
私は助け舟を出すために、それじゃあ、と続ける。
「コーヒーも飲みたいから、片手だけ貸してくれる?」
「…ああ、お安い御用だ!」
互いに伸ばした手がぶつかったから、カラ松くんの指を私が絡め取る。驚きと共に瞠られた瞳に、様々な意図を込めて微笑みを返す。彼の視線があちこちに彷徨ったのも束の間、いつしか指を絡めた手に力がこもった。それが、彼の答え。
繋いだ手を地面に下ろして、私たちは再び空を見上げた。




マグカップのコーヒーも飲み干し、時折ぽつぽつと交わしていた会話も途切れた頃。私が大きなあくびをしたのが、きっかけとなった。
他のテントは随分前に九割方消灯しており、木々の葉がそよぐ音を除いて、辺りはしんと静まり返っている。
「そ、そろそろ休むか…?」
カラ松くんの声が裏返る。動揺がバレてるぞ新品。
「そうしよっか。さすがに朝ご飯の時間に起きられないと困るね」
「なら戻ろう、ハニー」
何となく手を繋いだまま立ち上がって、自分たちのテントへと向かう。さすがに少し照れくさくて、そんな胸中を彼に吐露しようとした、次の瞬間──

カラ松くんが吹っ飛んだ。

「…は?」

「カラ松兄さん始末完了しやした!」
「よくやった十四松!」

代わりに私の側に降り立つのは、頭に鋭利な三角コーンを被った松野家五男。彼方から駆けてくる長男が親指をおっ立てて五男を労う。
「ユーリちゃんっ!ミトコンドリア以下のクソ松兄さんに何もされなかった?助けに来るのが遅くなってごめんね、もう大丈夫だよ」
盛大な毒を撒き散らしながら、きらきらとした瞳で私の両手を握ってくるのは、トド松くんだ。突然のどんでん返しに、私の思考は完全に停止する。
「オイコラ、クソ松ッ!こんな夜分にユーリちゃんと手繋いで何してやがった!?
つか、今からどこにしけ込もうとしてたんだ、吐けゴラァ!」
一松くんに至ってはもはやチンピラの如し。
「落ち着け一松。まぁ僕たちも、カラ松にとってお邪魔虫であることは否めないよね。その辺は申し訳なく思うけど──僕たちを欺いてまで、付き合ってもない女の子と一つ屋根の下で泊まろうとしたのはどういった了見なのか詳しく聞かせろよ、クソ次男
良識を持ち合わせていると見せかけて、無表情でカラ松くんを見下ろすチョロ松くんが一番怖い。
「そこ正座して。うん、とっとと座れ
三角コーンの先端が腹部に直撃したらしいカラ松くんは、青ざめた顔で腹を押さえながらも、よろよろとチョロ松くんの指示に従う。逆らえばそれこそ痛い目に遭うだけだと、よく理解している。

「ど、どうしてここが…」
カラ松くんが消え入りそうな声でチョロ松くんに問う。各種予約は私が行い、雑誌やチラシといった痕跡は松野家には一つとして残していない。仁王立ちの三男の肩に腕をかけて、へへ、とおそ松くんが嘲笑する。
「母さんにはバカ正直に話してたのが運の尽きだな、カラ松」
「マミーが裏切ったのか…っ!?」
「いんや、母さんは誘導尋問にかかっただけ。俺らの方が何枚も上手なんだよ…こういう風に、抜け駆けしようとする姑息な兄弟に対しては、さ
素直に打ち明けても十中八九妨害するくせに、と私は内心で苦笑する。
「朝から母さんがやたら浮足立ってるから、妙だとは思ってたんだ。イヤミから車を強奪…もとい借りたりして時間がかかったけど、間一髪で間に合って良かった」
六つ子が保護者の管理下にあることが災いしたようだ。いや、幸いか。この場合、果たしてどちらなのだろう。
「ねぇユーリちゃん、ぼくらコテージ借りたから、カラ松兄さんは回収していくね
十四松くんの笑みからは有無を言わせない威圧感が漂う。
「ツルピカハゲ松にしてやろうぜ、十四松。おれバリカン持ってきたし」
「ツルピカハゲ松」
ちょっと見てみたいと思ったのは内緒だ。

真顔のチョロ松くんに首根っこを引きずられながら、カラ松くんが私の前を通り過ぎようとする。
「は、ハニー…」
捨てられた小動物さながらの潤んだ瞳で、縋るように私を見るものだから、見過ごすことはできない。私は彼らの前に躍り出る。
「みんな、騙すようなことしてごめんね。
私がバーベキューしたいって強引に誘っちゃったんだ。泊まりになったのはそっちの方が楽ってだけで、やましいことは何もないよ。カラ松くんは悪くないから、責めないであげて」
本当にごめん、と私は深々と頭を下げる。
まさか私が謝罪の言葉を口にするとは予想だにしなかったのだろう、五人はそれぞれ顔を見合わせて互いの胸の内を窺う。

「あーもう、気が削がれた。ユーリちゃんに謝られちゃ、それ以上何もできないじゃん」

多くの場合、計画変更の舵を握るのは長男だ。彼は両手を頭の後ろに回して、大きく溜息を吐き出した。
「じゃあさ、罰としてってわけじゃないけど、今から少しだけボクらに付き合ってよ。お酒買ってきてるから、ちょっとだけ飲み会。どうかな?」
「もちろん。付き合うよ」
トド松くんの提案を、私は二つ返事で承諾する。それでカラ松くんを窮地から救えるなら、安い対価だ。六つ子の登場で、眠気も吹っ飛んでしまった。


「…すまない、ユーリ」
無事解放されたカラ松くんは、背中を丸めて私に詫びる。
「貸し一回つけとく。まぁ、泊まりがけはまた改めようよ。グランピング、これ一回きりってわけじゃないでしょ?」
先を行くおそ松くんたちに聞こえないよう、いたずらっぽく囁く。案の定、カラ松くんは顔を真っ赤にしながら、私の投げた台詞に戸惑いを見せた。しかし、からかいが過ぎたかと思い、冗談だよと私が声に出すより先に、彼の唇が動く。

「言ったな、ハニー。撤回はなしだぞ──また、オレと来てくれる、って」

私だけを見つめる、真摯な眼差し。兄弟がいなければ、前のめりで迫ってきてもおかしくないくらい、真剣な。
「おいカラ松、てめぇは荷物持て」
「…あ、ああ、分かった」
一松くんから突如ボストンバッグを投げられて、カラ松くんは両手で受け止める。
「ユーリちゃんはこっちおいでよ。カラ松兄さんの独り占めはもうおしまい」
トド松くんに手招きされて、私の足は自然とそちらへと向く。けれど名残惜しそうな表情が視界の隅に過ぎるから、私はもう一度カラ松くんに向き直る。

「うん」

その一言で十分だった。
両手いっぱいにバッグを抱えた格好で、カラ松くんは幸せそうに、声を立てずに笑った。

待ち合わせにまつわる攻防戦

待ち合わせは、往々にして一種の心理戦が行われる場だ。日常的に繰り返される平凡な光景の裏側で、目には見えない関係者たちの思惑が交錯する。
これから語るのは、私たちの間で繰り広げられた、小さな攻防戦の記録である。




その日、カラ松くんが珍しく遅刻をした。
待ち合わせ場所は駅の出口。約束の時間を十五分過ぎても姿を現さないので、半時間を超えたら一度松野家に電話をかけてみようと心に決める。幾度となく逢瀬を重ねた中で、私が彼を長く待つのは稀有なことだったからだ。
道中でトラブルにでも巻き込まれたのではと不安を募らせた頃、息を切らしてカラ松くんはやって来た。
「す、すまない、ハニー…っ」
絞り出すように紡がれる謝罪も心には響かない。
「良かった、何かあったんじゃないかって心配したよ」
私はホッと胸を撫で下ろす。無事に来てくれれば、それでいいのだ。
「しかし、ユーリを待たせたわけだし…」
「体感時間は短かったし、来てくれて良かったって気持ちの方が大きいからさ。珍しいよね、カラ松くんが間に合わないって」
「いや、その…」
原因を尋ねる意図はなかったが、カラ松くんは視線を逸して言い淀む。

「…着ていく服に悩んで、遅れてしまったんだ」

おや。
私は思わず目をパチクリさせる。意外な回答が降ってきた。
「着ていく予定だった服をトッティが無断で着ていってしまったせいで、選び直しに時間がかかって、それで…」
深いVネックの白シャツにデニムシャツを重ねた爽やかなトップスに、カーキ色のカーゴパンツとハイカットのスニーカー。、模範的なカジュアルコーデだ、ファッションセンス破壊神の面影はどこにもない。手首とくるぶしの露出がエロい。
「センスのいい服だって認識されてる証拠だね」
「借りていくのはいいが、オシャレにキメたいならスパンコールデニムオレの麗しいフェイスがプリントされたシャツを着ていけばいいものを…遠慮するとは奥ゆかしい奴だ
悩ましげに額に手を当てるカラ松くん。破壊神はまだまだ現役だった。
「服なんて普段着でも構わないのに」
困惑通り越して絶望するファッション以外なら、という言葉は飲み込んだ。
「ユーリと会うのに普段着では行けないだろ」
「ううん、そんなことない。普段着も好きだよ」
私の率直な意見に、カラ松くんは頬を朱に染めた。パーカーもツナギもラグランシャツも、彼にとてもよく似合っている。
「あー…でも、こういう服も似合うんだって新しい発見があるから、普段着以外のカラ松くんもいいんだよなぁ。公式からの新規絵供給は生きる糧
曇りのない眼差しで彼を見やれば、カラ松くんは顎に手を添えた気障ったらしいポーズのまま、顔を一層赤くした。
ツッコミが不在。



カラ松くんを待つのが好きだった。
時間も方角も出で立ちも現れるまで分からない、数々の不明確要素を待ち時間に想定し、現実で答え合わせをする。推理ゲームに興じる感覚に近い。どんな格好で、どんな表情で、いつどこから登場するだろう。考えている間、心が浮き立った。
電車の窓に映る二人の影を見つめながら、かつての自分の心境を振り返る。透明なガラスの向こうに流れていく景色は、見知らぬ土地を眺めるような未視感をもたらした。
「二人で会うようになった当初は、どっちが早く着くってなかったよね」
我ながら脈絡のない切り出し方だ。案の定、つり革を握るカラ松くんは、不思議そうに私に目を向けた。
「どちらといえば、ユーリが早く着いていたな」
「でもときどきカラ松くんが先に来てて、そういう時はちょっとドキドキしたよ」
「…えっ?」
カラ松くんの声が上擦る。
「ユーリ…それは、どういう」
「壊滅的な服装してないかなって」
「……ああ、うん…」
途端に意気消沈し、濁った瞳が遠くを見つめた。期待を裏切ったようで申し訳ないが、大事なことだ

「私を見つけると、カラ松くんは小走りに駆けてくるんだよね」
「ハニーを待たせてるわけだからな」
「まぁね」
けれど。
その姿を見るのが好きだった。花が咲き誇るような明るい笑顔が必ず付属でついてきたから。だから意図的に、先に着いて彼を待った。

「──さっき、ふと思ったことがあるんだ」
「何?」

「その…本心はハニーを待たせたくないんだが、待ち合わせ場所にハニーが立っている姿を見るのは…いいな。オレを待ってくれていると思うと、すごく──嬉しい。
何度ユーリと会っても、夢を見てるんじゃないかと思うことがあるよ」
遠くを見つめる瞳に映るのは、目まぐるしく流れる街の風景。
目に映る世界が全てではない。可視化できない感情の機微は、人々の間で絶え間なく変化を続けている。
「まだ非現実的?」
いつぞや水族館の巨大な水槽を前に投げた問いを、今一度。
「いや」
カラ松くんは緩く首を振る。

「夢見心地と言った方が正しいな──それだけ幸せなんだ、ハニーと会えるのが」




暇を持て余すカラ松くんが私の都合に合わせることが増え、いつしか週一で会うのが恒例になる。
そして回を重ねるうち、カラ松くんにお待たせと声をかけるのは私の役目になった。いちいち時間を確認してはいないので推測の域を出ないが、彼は十五分は早く来ている。
本音を言えば、カラ松くんを待たせるのは本意ではない。緊急時の連絡手段がないため、もし私が何らかの事情で行くことが叶わなくなっても、カラ松くんは催促さえせずにいつまでも待ってしまう気がするから。
でも、推しが自分を待っている姿を視認するのは、不思議な感覚だった。貴重な時間を、私のために消費している。

「カラ松くん、いつも早いよね」
次に会った時、彼はやはり私よりも先に待ち合わせ場所にいた。野暮と知りつつ、感想を装って疑問を提示をする。
「フッ、ガイアの申し子と名高いオレを待たせる肝が座ったレディは、ハニーくらいなもんだぜ
腰かけたベンチで高らかに足を組み、指先で前髪を払う気取った仕草。
「まぁいいさ、ユーリを待つのは苦にならないからな」
そう言って寄越した視線の先で、私がやれやれといった表情を浮かべているのに驚き、カラ松くんはすっくと立ち上がる。いつも強気な眉が今は下り坂。
「ほ、本当だぞ…?」
急に不安顔になるな。愛くるしいギャップに死者が出る。
「そうなの?まだ来ないのかー、とか思わない?」
「思わない。フリーハグやカラ松ガールズ待ちで待つのには慣れてる、半日は余裕だ」
「フリーハグ」
聞き捨てならない単語が飛び出してきた。無課金で推しと抱擁できる機会を、推し自ら設けたと?
「次にやる時は連絡して。おひねり持って先頭に並ぶ
「え」
「っていうか、それいつやったの?最近?──何だ、私と会う前か。チッ
「いや、ハニー相手ならフリーどころか──」
カラ松くんは何か言い掛けたが、慌てた様子で続く言葉を飲み込んだ。しかし私が無言で促すと、気恥ずかしそうに視線を揺らしながらも、雫が垂れるようにぽつりと呟いた。

「むしろ、いつでも歓迎、というか…」

たまにさらっと卒倒ワードをぶちかましてくるなぁ、なんて、彼に向ける微笑みの裏で必死に自分を律する私。
「それじゃあ、すごく嫌なことがあったらフリーハグ実施してもらおうかな。もちろん貸し切りで」
冗談として回避できる紙一重の線上で、私たちは互いの好意を交わらせる。指先の皮膚だけが肌を撫でる程度の、かろうじて接触と呼べる触れ合いを重ねながら。隔てる距離感さえ不透明な繋がりは、どこへ辿り着こうというのだろう。
「止めてくれ、ハニー。呼び出されるのを待ち焦がれてしまうじゃないか」
苦笑の中に、明確な単語で示されない彼の想いが滲む。掻き上げた髪の隙間からは、健康的な色の額が覗いた。




カラ松くんは待ち合わせ場所に先に着くだけでなく、帰りも遅くなれば送ってくれる完全無欠のスパダリだ。空が朱色に染まる時間帯なら、どちらかの最寄り駅で解散というパターンも多いが、例えば夕食を共にした後などは、必ずと言っていいほど自宅前まで送り届けてくれる。私がドアを閉めて鍵をかけるところまで見届けて、カラ松くんは帰路に着く。

「そういうとこ律儀だよね。優秀なボディーガードがいてくれるのは、私としては有り難いくらいだけど」
オフィスビルから溢れる照明の光と街灯に灯った明かりで、足元が照らされる。アスファルトに伸びる黒い影は、二つ。
「レディの夜の独り歩きは危険だ」
カラ松くんはにべもない。
「夜が更けるにつれて不届きな輩は増えてくる。オレがユーリの身を案じるのは当然だろう?」
「まぁ確かに、この辺って人通りが全然ないってわけではないけど、犯罪抑止力になるほどの人気じゃないもんね」
人の通りは、まばらに散見される程度だ。それに、善意が仇になることもままあるこのご時世、人助けには誰もが及び腰にもなる。
「事件に巻き込まれる可能性は限りなく低いんだろうが、ユーリに何かあったらオレは自分を許せなくなる。特にこれから冬にかけては日の入りが早くなるから、迷惑じゃないなら家まで送らせてくれ」
迷惑と感じたことは一度もない。率直に答えようとしたら、カラ松くんはふっと顔の筋肉を弛緩させた。
「──というのは建前で」
気恥ずかしそうに、私を一瞥して。

「…本当は、少しでも長くユーリと一緒にいたいんだ」


じゃあさ、と私は微笑む。
「反対もあるって、考えたことある?」
表現が曖昧だったせいか、カラ松くんは私の言葉にきょとんとする。
「反対…?」
「うん。私もカラ松くんと同じってこと」
数秒の思考の末、私の意図する内容に辿り着いたらしいカラ松くんの表情は、驚愕と歓喜を織り交ぜた複雑なものへと変化していく。
「それは…ユーリ、本当に…?」
「帰りが遅くなって、今日みたいに送ってもらった日は特にね。カラ松くんが無事帰れたかなって心配になるよ」
市街地を離れるにつれて車の通りも少なくなる。互いの声を阻む雑音は消えて、静寂が漂う。夜間の街はこんなにも静かだったのか。いつもカラ松くんが傍らにいて、他愛ない会話に意識が向くから、気が付かなかった。
「それじゃあ、ええと…家に着いたら、連絡した方がいいか?」
「あ、その案いいね。その方が安心して一日終わる感じがする───いい一日だった、って」
推しのイケボで一日を終える。最の高。
我ながらナイス誘導だと、私は内心で自画自賛する。
「分かった。これからは家に帰ったらすぐハニーに電話する。ああ、でも──」
カラ松くんは人差し指を形のいい唇に当てて、複雑そうな顔をする。

「ユーリの声を聞いたら、すぐに会いたくなったしまうから…それは少し、困る」

おいおい本人目の前だぜ兄さん。
口説き文句のバーゲンセールやー。
「これまで別れた後は、次ハニーに会えるのを楽しみにしてたんだが、これからはハニーに電話する楽しみが一つ増えるんだな。
ユーリの時間をまた少しオレが独占できる。…うん、すまない、困ってる場合じゃないな…贅沢すぎるくらいなのに」
彼は朱が差した頬を恥ずかしそうに片手で覆うけれど、笑みを浮かべた唇は隠しきれずに露わになる。街灯の明かりを反射する瞳が細められて、そのまま真っ直ぐに私を捉えた。
「…長電話にならないように、気をつける」

ここまでの流れは自然だった。ロマンチックな展開と言っても過言でもない。しかし俄然テンションが上がったのか、デート後までオレの美声を聴けるハニーはゴッドに感謝すべきだぜアンダスターン?などと調子に乗った発言を始め、私に溜息をつかれることになるのだった。




その日、私は約束の一時間前に約束の地に到着した。
カラ松くんより先に着いて驚かせてやろうという、ちょっとした悪戯心が芽生えたのがきっかけだ。待ち合わせに十五分は早く来ている彼を出し抜くには、もっと前から現地で待機する必要がある。
待ち合わせ場所は、駅前のカフェを指定した。早く着いても店内で暇を潰すことができるし、ガラス張りだから外の様子を窺いやすい。入口付近の二人がけの席に案内してもらい、温かい飲み物を注文する。

テーブルに置いたスマホでときどき時間と外の様子を確認しながら、私は胸が高鳴った。小さないたずらを仕掛けた高揚感に混じって、彼を待つ行為そのものにある種の愉悦を感じていた。時間の経過と共に、スマホの画面とガラスの外を見やる頻度が上がる。その度に、まださほど経っていないじゃないかと苦笑して。

やがて半時間を切ったところで、私はスマホをバッグに仕舞う。外へ出て、さも今来たばかりという体を装うためだ。さすがにカラ松くんも三十分前には来まい。
──しかしその判断は、予想外の展開をもたらすこととなる。

伝票を持って腰を上げたところで、コンコンとガラスを叩く軽い音が左耳に届く。反射的に音の聞こえた方へ顔を向けた。
「え…」
視界に広がる光景に、私は絶句する。
指先で少しズラしたサングラスから覗くいたずらっぽい眼差しと、目が合う。ゆっくりと口元が動いて、声なき声が私を呼んだ。
ハニー、と。

外側からガラスに添えられた片手に、思わず自分の手を重ねる。冷たい無機質な感触が、電流のように体内を走り抜けた。


「まさかハニーがこんなに早く来ているとは、夢にも思わなかったぞ」
水と手拭きを運んできた店員に、私と同じものをと注文を投げ、カラ松くんは私に向き直る。
「今来たばかりだよ。ちょっと先に来てたってだけ」
「…ちょっと?」
「そ、そうだけど」
私の反論には、カラ松くんはかぶりを振った。私の手元で裏返していた伝票を持ち上げる。あ、と私の口から思わず声が出る。
「ノンノン、嘘はいけないな──ユーリの到着時刻を示す、動かぬエビデンスがここにある」
「それは…」
私は憔悴する素振りで俯き、盛大に舌打ちする。敵に証拠を奪われるとは、とんだ失態だ、クソが
「カップの飲み物もすっかり冷めているしな」
畳み掛けてきた。ここまでくれば言い逃れするつもりは毛頭ないし、言い訳がましいのも好みじゃない。私は両手を天井に向けて、大きく伸びをした。
「そうだよ、正解ですよ、名探偵。私は一時間前に来てました。でも別に悪いことじゃないでしょ?
カラ松くんに早く会いたくて来ちゃった☆
私が投げたストレートは、カラ松くんの虚を突いた。呆気にとられて、しばし口が半開きのままになる。
「…いけなかった?」
ダメ押し。
案の定、カラ松くんは歯がゆそうに視線を落とす。
「いや、すまん…ハニーは悪くないな。少し、苛ついてしまった」
「苛ついた?」
いくら何でも、彼の逆鱗に触れるような過失はおかしていないと思ったが。カラ松くんは少々渋ったが、やがて溜息と共に口を割った。

「ユーリに声をかけようとした男がいたんだ」

私は水の入ったグラスを持ち上げたまま、ぽかんとする。
「まさか…」
「気付かなかったのか?
オレが窓ガラスを叩いてユーリの気を引いたのも、それが理由だ。幸いにも、さっさと消えてくれたけどな」
あのノックには、そんな意図があったのか。
しかし自分の態度を振り返れば、待ちぼうけを食った挙げ句にすっぽかされた女にも見えたに違いない。半時間もの間、幾度となくスマホを眺め、時折溜息を溢し、最終的には伝票を持って立ち上がったのだから。

「オレがいつも約束の場所に先に着いているのは、ハニーを守るためだ」

大仰な台詞である。カラ松フィルターの故障か?
「ハニーが早く着いてしまうと、どこの馬の骨とも分からないクソ男が気安くハニーに声をかける可能性が出てくる。オレはそれを未然に防ぎたい」
過保護通り越したモンペの襲来。
「カラ松くんの気持ちは嬉しいけど、それはさすがに大袈裟すぎない?」
「すぎない。ハニーはどこから見てもキュートでチャーミングなレディなんだぞ。いつ芸能界からスカウトが来てもおかしくないし、少年誌のグラビアだって余裕で飾れる
心が死ぬのでもう止めて。
「いやいや、本当勘弁して。謙遜でも何でもなく、そんなんじゃないってば。あんまり持ち上げないで」
私が両手を胸元で振れば、カラ松くんは腕組みをして不服そうな顔をする。
「私に声かけてくるような物好き、いないよ」

「目の前にいる」

ムッした顔のまま間髪入れず飛んできた言葉に、私は目を剥いた。
カラ松くんと出会った記憶が、脳裏を駆け巡る。横断歩道を渡る私の背中にかかった呼び声、また会えないかと絞り出された別れ際の懇願、どちらも切り出したのはカラ松くんだった。彼の勇気がなければ、私たちは今こうしてこの場にいない。
「──ッ、というか、そのっ…お、オレと一緒にいる時でも何度かあったじゃないか!」
声をかけられたことが。
ああ、そういえば、あった。執拗に絡んでくるナンパ男を引き離してもらったことも、すんでのところで救ってもらったことも。
「そっか、女なら誰でもいいケースもあるね」
「ユーリ…どうしてそう自分を卑下するんだ。ユーリは可愛い。頼むから自覚してくれ。だから心配なんだ」
カラ松くんが切羽詰まった顔で言う。今日はやたらグイグイくるな。
「卑下どころか、本当にそう思ってるんだけどなぁ。
っていうか、私よりむしろカラ松くんの方が断然可愛いし色気あるし、痴女に襲われないのが不思議なくらいだよね。私なら襲う
「…な…っ、ノーキディングだぞハニー!」
カラ松くんが手の甲で口元を覆う。眉間に皺が寄ったが、頬は赤い。
「冗談じゃなくて本気でそう思ってるよ───私の推しは、とってもかわ」
「わあああああぁぁっ、分かった、もういい、ごめんなさい!ああそうだハニー、スイーツでも食べようじゃないか!期間限定で栗のパフェがあるぞ!」
私の台詞を遮り、カラ松くんは窓際に立てかけていたメニューを広げた。
そこに写るモンブランパフェのイメージ写真に、私の目は釘付けになる。栗アイス、紅茶のシフォンケーキ、コーヒーゼリーなどグレイッシュトーンのスイーツをパフェグラスに詰め込み、トップにマロンクリームをふんだんに盛った大人のパフェだ。
「あ、いいね。美味しそう」
言うやいなや、通りかかった店員を呼び止めてモンブランパフェを注文する。
「スプーンは二つでお願いします」
「…ユーリ?」
店員が去ったのを確認し、メニュースタンドにメニューを戻して、私はカラ松くんに向き直る。
「私一人で食べるには量が多いから」
三時のおやつには少しばかり早い時間帯。

「はんぶんこしよう」

そう言って笑えば、カラ松くんは今度こそ両手で顔を覆ったのだった。




カフェでカラ松くんを待ち伏せた日から一週間が経った、休日の午後。真っ青に澄み渡る空に浮かぶうろこ雲を見上げるために立ち止まったら、松野家の屋根が視界の隅に映る。見飽きるほど見てきた屋根の形に違和感を感じるのは、いつもと眺める角度が違うからだ。
今日は所要で出先から松野家へ出向くことになり、普段とは逆の道筋を辿ることになったのである。
「散歩日和だなぁ」
時間があれば、都立公園の散策を提案しようか。カフェのテラス席でのんびりと過ごすのも悪くない。穏やかな時間を推しと過ごすイメージに自然と頬が緩んだ。

ふと見上げた視線の先に、見慣れた影。
そして開け放たれた二階の窓の手すりには、青いパーカーを着て頬杖をついた松野家次男。体の力を抜いた物憂げな表情で、じっと遠くを見つめている。不定期に繰り返す瞬き以外は、まるで微動だにしない。

そっちは───いつも、私が通る道だ。

約束の時刻はまだ十分以上も先だというのに、外出先だけでなく自宅でも私を待っているのか。本当に、どこまでも真っ直ぐな人だ。依存体質となる危険を孕んではいるが、今は私の一声でどうとでも軌道修正が効く。つまり、調教し甲斐がある
玄関前のベンチに腰かけても、彼はまだ私の訪問に気付かない。いつも駅から松野家に直行するから、よもや反対側から来るなんて想像もしていないのだろう。
数分ほど眺めていたが、時折少し長めの息を漏らすくらいで、窓際からは動かない。もう少し目線を手前に移動させれば、私の姿が視界に入りそうなものだけれど。

「カラ松くーん」

笑みを浮かべながら、二階へと声をかける。
「……へ?」
カラ松くんはハッと顔を上げた。それから声のする方角へと目を向けて、ようやく私の姿を捉える。ひらひらと片手を振る私に、意表を突かれたとばかりに目を剥いて。
「ユーリッ!」
「今からお邪魔す──」
「そこにいてくれッ、すぐ行く!」
青いパーカーが窓際から消える。ドタバタと床を駆ける騒々しい足音が近づいて、玄関の引き戸が勢いよく開かれた。さぞ歓迎されるかと思いきや、登場したのは意外にもクールなポージングのカラ松くんだった。
「フッ、憂いを帯びたセクシーな表情のオレを見つめたくて、わざと逆側からカミングとは…策士だなハニー。そんなにオレに会いたかったのか?」
テンパりすぎて、台詞と行動が一致していない。そこは頑張れ。
「うん、会うの楽しみにしてたよ」
たまには正直に答えてみる。どうやらその返事は想定外だったらしく、カラ松くんは言葉を失う。あ、え、と呟きを溢しながら視線を左右に彷徨わせたが、やがて観念したように相好を崩した。

「──オレも…ユーリに会いたかった」

当推しは本日も尊くていらっしゃる。もういい加減抱かせてほしい。抱かせろ。
「今日はみんな揃ってるの?」
「チョロ松と十四松が出掛けてるが、あと半時間もすれば帰ってくるさ。ユーリが来ると伝えたら、予定を変更すると言ってたからな」
「そこまでしなくていいのにね。どうせそのうちまた来るんだし」
「すっかりうちの常連だな、ハニー」
カラ松くんが笑う。
「ついにこの間、もう手土産は持ってこなくていいっておばさんに言われちゃったよ」
カラ松のことくれぐれもよろしくね、と両手を握られたのは黙っておこう。あの時の松代は、眼鏡の奥の目が笑っていなかった
「頻繁に行き過ぎて倦厭されると思ってたから、いいのかなぁって感じ」
「──いいんだ、ユーリだから」
上着越しに、カラ松くんの手が軽く腰に触れる。卑猥な意図は微塵もなく、エスコートする紳士のように。

「ただ…ブラザーたちがユーリに本気になってしまうのではと、そこは少し心配してる」

何を馬鹿な、と一笑に付すことはしない。
「勘違いして調子に乗った童貞は厄介だ」
お前が言うか。

その言葉オウム返しして顔面に叩きつけたい。

「さぁ、こちらへどうぞ、マイレディ」
そう言ってカラ松くんは、開いた玄関口へと恭しく手を差し向ける。
どうもありがとう、なんて私も社交界の気高いレディを気取ってみせてから、私は彼と顔を突き合わせて、笑う。
今日もいい日になりそうだ。

頼まれたら断れない

散歩日和な秋晴れの日だった。
今後の遊び計画がてら、雑貨屋やアパレルショップが軒を連ねる通りをカラ松くんと並んで歩く。秋色に染め上げられた木々からはらはらと舞い落ちる落ち葉が、アスファルトを鮮やかに彩る。

「カラ松くん、ちょっとお願いがあるんだけどいいかな?」

彼の眼前で両手を合わせ、拝むように告げる。カラ松くんは私を見つめながら穏やかに口角を上げた。
「どうした、ハニー?」
一見要件を促すような口振りだが、何でも言ってくれ、とその瞳が声にされない言葉を語る。下ろした腕が今にも触れ合いそうなほどに距離は近い。彼が口を動かすと突き出た喉仏が僅かに動いて、平坦に近い自分のそれとはまるで違う造形に、異性の存在を感じさせられる。
「これ、しばらく持っててくれない?
もう少しお店見たいんだけど、商品にぶつけそうで怖いんだよね」
そう言って私は、手にしていたペーパーバッグを持ち上げた。中身は、購入したばかりの雑貨だ。A4ほどの大きさがあるため、腕にぶら下げていると、展示品に衝突して破損させかねない。
「何だ、そんなことか」
カラ松くんは小さく笑って、下からすくい上げるような仕草でバッグを受け取る。
「お安い御用だ。ユーリがわざわざお願いと言うから、もっと面倒なことかと思ったが、荷物持ちくらいならいつでも…というか、すまん、オレから言うべきだったな。スマートじゃなかった」
「え?いやいや、それはさすがに…」
「キュートなユーリに荷物を持たせるなんて、男のすることじゃない。ここにいるハニー専属のナイトは、指先一つでクレバーに使役してくれていいんだぜ、プリンセス?
高らかに指を鳴らしてドヤ顔のカラ松くん。
二十歳超えた大人にプリンセス呼ばわり止めろ。私の羞恥心は現役だ。

憮然とする私に無邪気な笑みを投げて、カラ松くんは鼻歌交じりに一歩先を進む。
私といる時は、基本的に上機嫌だ。威勢よく啖呵を切ったり、気障ったらしいポーズを決めたり、かと思えば顔の筋肉を弛緩させて朗らかに笑ったり。嘘が下手で、ある意味愚直な人。

「他にオレにできることは?」
「ううん、大丈夫。でもごめんね、荷物持たせちゃって。あと少し見たら持つから」
「帰りまでオレが持つから、ユーリは気にしなくていい。遠慮せずに何でも言ってくれ」
おいおいスパダリか。
私に対してのみ発動される最高峰の気遣いに驚いていたら、私の疑問を知ってか知らずか、カラ松くんは独白のように小さく呟いた。

「オレは──ユーリに頼られるのが一番嬉しい」




時と場所は変わって、松野家の居間。
円卓の側であぐらをかくカラ松くんの周りに兄弟がわらわらとたむろして、騒ぎ立てている。
「カラ松兄さん、おっねがーい、コンビニで後払い決済やっといてくれない?」
「猫用の煮干し特売品、スーパーで買ってきて」
「ねぇカラ松ぅ、風呂掃除頼んでいい?」
「ぼくのユニフォーム洗濯しといて!」
後払い用紙を差し出すトド松くん、空の煮干し袋を掲げる一松くん、首を傾げて可愛くアピールするおそ松くん、そしてドロドロに汚れた服を広げてみせる十四松くん。揃いも揃って、頼み事という名目でカラ松くんに面倒事を押し付けているのだ。自分でやれお前ら。
当然見返りなどない。その場限りの安い感謝があるだけだ。対価は労力にまるで見合わない。
「ハッハー、いいぞいいぞ、オレに任せろ!」
しかし私の懸念とは裏腹に、カラ松くんは両手を広げてウェルカムな構え。

円卓の上に広げた菓子をつまみながら、私は横目で彼らのお約束な流れを傍観する。
「…カラ松くん、いちいちみんなの厄介事引き受けることないからね。嫌なら断りなよ」
頬張ったポテトチップスを、パリパリと音を立てて咀嚼する。だがカラ松くんは私の助言に対して、心外とばかりに目を剥いた。
「何を言うんだハニー、嫌なわけないじゃないか!ブラザーたちに頼られるオレ、オレに頼りたいブラザーたち、どちらもメリットしかない最高にイカしてる利害関係!
あ、駄目だこいつ。
私は早々に見切りをつけることにした。本人がいいなら、好きにしてくれ。
「───デジャヴだ」
不意に、壁を背もたれにしていたチョロ松くんが、文庫本から顔を上げて眉根を寄せる。
「デジャヴ?」
「このパターン、前もあったんだよね。みんなの前では快く引き受けたくせに、後から僕に愚痴溢しまくって泣くっていう最悪の流れ。学習しねぇな、こいつ
「あー…」
文庫本──可愛い女の子が表紙のラノベだった──をテーブルに置き、チョロ松くんは頬杖をつく。
「優柔不断で気が小さくて、兄弟からはいい奴だと思われたいから、言い返せないんだよ。僕ら兄弟間では一番無害だけど、変な見栄を張るところがあってさ。まぁ…ただ、身代わりができたらあっさり逃亡するあたりはマジでクソ
過去に何が起こったのかは想像に難くない。チョロ松くんの短い説明で、事の顛末まで容易に思い描けた。
それにしても、彼らは兄弟といえどほぼ同時に生まれた六つ子。部外者視点では、兄弟間の上下関係はあってないようなものなのだが、当の本人たちは六つ子だからこそヒエラルキーを意識しているのかもしれない。


「そっかなぁ。カラ松、俺と二人だけだと素で拒否してくるよ」

いつの間にか、私の向かい側におそ松くんが着席していた。居間の中央では、他の面子による頼み事とカラ松くんをおだてる世辞臭い賛辞が続いている。そして受ける本人は満更でもない様子。
「分かるぞブラザー、オレじゃないと駄目なんだろう、ハーン?
そうかそうか、依頼は完遂、アフターケアまでバッチリのこのオレにしか頼めないと?そうだろうともさ!
フッ、頼りになりすぎるというのも問題だな…どうやらオレは前世で徳を積みすぎたらしい
頭沸いてるなぁ。
弟たちに頼られて上機嫌なカラ松くんは放置して、私はおそ松くんに向き直った。チョロ松くんが侮蔑の視線を長男に向けている。
「いやいや、カラ松じゃなくても、誰だって断るだろ。僕だってお前の頼みは極力引き受けたくない」
「ひでぇ!何も聞かずにジェラルミンケース運ぶとか、アリバイ偽証するだけの簡単なお仕事だよ!?
「犯罪の片棒担がせてんじゃねぇか!」
聞かなかったことにしよう。
「カラ松くんが拒否するのは、おそ松くんと二人の時だけ?」
「うーん、まぁ多くの場合は。で、そりゃもうバッサリ切ってくる。めちゃくちゃよいしょしたらやってくれるけど。
俺の前だと、いいお兄ちゃん演じる必要ないからかな」
まるで最後の砦のようだと私は思う。六つ子たちは揃って自由奔放なようで、脆い橋の上に立っているような危うさをときどき感じている。その関係性はさながら砂上の城。小さな齟齬をトリガーに、いとも容易く崩壊しかねない。

「じゃあさ、私が欲望のまま抱かせろって言ったら、オーケーすると思う?」
チョロ松くんが盛大に茶を噴いた。対照的におそ松くんは通常運行で、顎に手を当て、ふーむと唸る。
「ユーリちゃんに迫られてノーと言える奴の気が知れない」
「該当者が近くに一人いるんだよね」
「そいつ頭おかしいわ」
うふふあははと二人で肩を竦めて笑えば、チョロ松くんが苦悶の顔でラノベを床に叩きつけた。
「ツッコミどころが多すぎる!」




「カラ松が俺の頼み断るの、見てみたい?」

抗い難い、魅力的な誘いだった。彼らにとっては日常的に繰り返されてきた、あまりにも些末な現象である。珍しさや貴重感はもちろん皆無。しかし部外者で、かつカラ松くんから少なからず好意を持たれている私には、彼が煩わしく追い払う仕草は実にレアだ。
推しの貴重な新規絵はこの目で拝まなければ。

そんなわけでさっそく翌日、人目を忍んで松野家を再び訪ねた。示し合わせた時間ピッタリに引き戸を開けたおそ松くん。ドッキリを仕掛ける共犯者という立場が面白いのか、ノリがいいのは助かる。
「ユーリちゃん、約束の報酬はちゃーんと貰うからな」
何かを得るには対価が必要だ。暇を持て余したニートには、特に。
「分かってるよ、競馬観戦でしょ?どうせ行くならG1の時ね」
「マジで!?よっしゃ、ユーリちゃんと念願のデート!」
デートという単語の登場に、私は目を疑った。カラ松くんにドッキリを仕掛ける報酬に、一緒に競馬場に行かないかと誘われたのだ。馬券買いに参戦するだけのつもりで、デートの認識はまるでなかった。
「デートじゃないから。レースは臨場感あって面白いから行くけど、おそ松くんがデートっていう考えならセコム配備しておくね
「それもう全員で競馬行った方が早くない?」
まぁね。


カラ松くんは二階で一人寛いでいるという。
他の兄弟は外出中だったり、おそ松くんから事情説明を受けて一階待機と、全員が共謀者の状況下。自宅待機班の一松くんと十四松くんは、二階に音が漏れないよう小声で私を出迎えてくれた。
おそ松くんは普段通りのステップで、私は足音を忍ばせて、二階へ上がる。途中で背後を振り返ったおそ松くんと目を合わせて、二人でニヤリと笑う。

「あ、カラ松お前ちょうどいい所に!」
六つ子の部屋に続く障子を開け放したおそ松くんが、後ろ手でそれを閉めながら軽い声を出す。わざと少しだけ残された隙間から私が中の様子を窺う。二階の廊下は薄暗い。身を屈めて彼の足元付近から覗き込めば、おそらく気付かれはしないだろう。
「…は?」
足を組んでソファに座り、くわえ煙草のカラ松くんが眉間に皺を寄せる。
行儀の悪い格好とドスの利いた声きた。いきなりご褒美タイム。
「何だ、おそ松」
声のトーンが低い。
「え!?頼まれてくれちゃう!?ありがとー。いやぁ、さすがカラ松!頼りになる!」
「まだ何も言ってないだろ…相変わらずだな、お前」
推しのジト目が最高すぎて辛い。
「実はさぁ、さっき母さんから買い物頼まれちゃって。俺これからドラマの再放送観たいから、代わりに行ってきてくんない?」
「やだよ。頼まれたのはお前だろ?」
障子の裏側で悶絶する私。やだよってお前。可愛いかよ。
「そこを何とか!家にいるの一松と十四松だけでさぁ、あの二人だと不安材料しかないわけ。カラ松が一番適材なんだよね」
「オレは忙しいんだ。再放送録画して買い物行け」
カラ松くんはにべもない。
「忙しいって、煙草吸ってるだけじゃん!優しくないっ」
「お前の再放送とオレの煙草、同じようなもんだ。チョロ松のようにオラつかないだけ、オレは優しい」
「お前、弟たちのお願いははいはい聞くくせに、俺に対してだけいつもひどくない?ひょっとして、ユーリちゃんにもそういう態度してんの?」
おそ松くんは語気を荒げて仁王立ちになる。後ろ姿からは表情が窺えないが、眉をつり上げているのだろう。カラ松くんは動じた様子もなく、灰皿に灰を落としてから再び煙草を唇で挟んだ。
「なぜそこでユーリが出てくるんだ。今はユーリ関係ないだろ?」
「…関係あるんだなぁ、これが」
おそらくほくそ笑んだであろうおそ松くんの意図が読み取れた。廊下に膝をついていた私は、静かに立ち上がる。

「───ユーリっ!」

開け放たれた障子から姿を現した私を視認して、カラ松くんは唖然とする。まだ煙の立ち上る煙草を灰皿に押し付けて、胸元に浮かせた両手を所在なく彷徨わせた。
「ど、どうしてユーリが…ッ」
「カラ松くんがおそ松くんの頼みは容赦なく断るって聞いたから、どんなものか見てみたくって──えーと、ごめんね☆
テヘペロ。
「な、ユーリちゃん、言った通りだったろ?俺には全然優しくないの、こいつ」
「うん、実にいい映像だった」
動画で残して国宝指定にすべきレベル。
「そっかそっか、なぁユーリちゃん、俺の話聞いて
おそ松くんは真顔になった。

「そ、その、ユーリ、これは一体…」
「優しいと気が小さいは紙一重だよね」
長所は短所にもなり、短所は長所にもなる。つまりは表裏一体で、受け取り方、表現の仕方に違いがあるだけだ。
カラ松くんは自身を優しいと認識し、兄弟は彼を気が小さいと判じる。ならば、私は。
「でもこいつ、ユーリちゃんの頼みはぜってー断らないだろ?」
「うーん、どうかな。承諾されるか断られるか視点で考えたことなかったからなぁ…あ、でもセクハラしようとしたら拒否される
「何て奴だ、童貞の風上にもおけない!土下座してお願いする立場だろ
「やっぱり?だよね」
俺だったら金積むよね、と冗談っぽく重ねてくるおそ松くんに、同じように笑って同調する。
「二人で結託するな」
カラ松くんが物言いたげな半目で私とおそ松くんを見やった。

「でもまぁ、母さんから買い物頼まれたのは本当だし、カラ松に行ってほしいのも本心だから───とっとと行って」
おばさん直筆のメモと資金をカラ松くんに握らせて、おそ松くんは朗らかな笑顔を浮かべた。




長男の有無を言わさぬ圧力で放り出されたカラ松くんを追いかけて、私は玄関を出た。彼はまだ松野家の塀沿いにいて、思いの外広い背中と、スキニーの似合うすらりとした両脚、背中から尻にかけてのラインが、私の視界に広がった。たまらん
「カラ松くん」
指先でつーっと撫で上げたい背中に、声をかける。
「…ユーリっ」
デニムのポケットに両手を突っ込んだ格好で、カラ松くんは振り返って絶句する。私が追いかけてくるとは思ってもいなかった、そんな顔だ。
「とんだ災難だったね」
「…ユーリのせいでもあるだろ」
不服とばかりに眉をひそめるが、先程おそ松くんに向けていたものに比べると、大幅に加減がされている。やはりおそ松くんの誘いに乗っておいて良かった。
「それに関しては、さすがにちょっと自責の念を感じてる。お詫びにもならないけど、買い物ついていくよ」
「ハニー…」
「何ならジュース一本くらい奢っちゃう。いいもの見せてもらったお礼」
足元から進行方向に伸びる私の影が、おどけたポーズを取る。喜ぶと思ったのだ。調子よく、いつもみたいに気取って、仕方ないなハニー、なんて。

けれど私の予想に反して、カラ松くんは顔色を窺うように私を見つめてくる。
「…その…幻滅、しなかったか?」
切れ切れな言葉に、彼の不安感が如実に表れていた。
普段私には決して向けない素行の悪さと不遜な態度を、不本意な形とはいえ本人に見せてしまったことに後悔があるのだろう。私も、少し軽率だったかもしれない。
「まったく、全然、さっぱり!」
語気を荒げて否定する。
「幻滅なんてしないよ、考えたこともない。だから安心して」
それから、ごめんね、と。顔から笑みを消して謝罪を口にすれば、カラ松くんは足を止めた。
「ち、違うんだ、そうじゃない!ハニーは気にしなくていい!謝る必要なんて…っ」
「でも」

「その、何ていうか…オレが勝手に、ユーリに対する理想の自分を作ってたんだ。ユーリにとって格好良く頼れる男でいたい、とか…まぁ、あー…」

続く言葉が見当たらないカラ松くんは、片手で顔を覆った。隠しきれていない耳は赤い。
やがて表情を隠す手を退けて、照れくさそうに笑うので、私も黙って同じ態度を返す。
曖昧に誤魔化して、有耶無耶にかき消して、グレーをグレーのままで良しとする習慣に倣う。それを私たちは処世術と呼び、まるで必要悪とばかりに肯定する。そして時間の経過と共に、記憶の引き出しに押し込んで、しばし鍵をかけるのだ。次にその扉を開ける、その時まで。


「オレがおそ松を甘やかさないのは、オレたちがツートップだからだ」
再び歩き出した私に、カラ松くんが背後から言葉を投げてくる。
「下の四人を引っ張っていかなきゃいけない。六人もいれば、均衡を取るのにある程度の統率は必要だ。だからおそ松には、弟たちを率いるリーダー的立場であることを常に意識させる必要がある」
それ今考えた言い訳じゃないよな?
六つ子サイドが自分たちの存在意義や調和を意識しているとは、到底思えない。いやしかし、特にカラ松くんに関して言えば、ひょっとしたら。

「ハニーは、あまりオレに頼み事をしないな」
スーパーへ向かう道すがら、カラ松くんは私に歩調を合わせて歩く。
「女性としても人として、自立してる。オレと一緒にいても率先して何でも自分でするし、無茶な要求もしない」
「そうかなぁ?必要なことはお願いしてるつもりだけど」
うん、とカラ松くんは頷いて。
「それは結果的にWin-Winであって、対等だ。オレがいないと駄目ってことは全くないだろ?」
この人がいないと駄目。一見、一途で真っ直ぐな美しい想いにも見える。けれど裏返せば、それは全面的な依存でもある。行動と思考のコントロール障害、つまり病気だ。
カラ松くんの望む『頼られる姿』は、理想と実態に大きな齟齬がある。

「依存されるのが好み?カラ松くんがいないと生きていけないような?」

かつてのフラワーのような。

言外に含めた意図を察してか、カラ松くんはハッとする。
一度思い知ったはずだ。実現を希ったはずの夢は、理想とはあまりにもかけ離れたもので、終焉の先に虚しさだけが置き土産となったことに。
「…ハニーの言う通りだ。こんなはずじゃなかった、あの時確かにそう思ったはずなのに」
理想と現実が乖離した結果、深みにハマり、手に負えなくなった。思考を放棄して、されるがままだった。兄弟たちからはそう聞いている。
「──やっぱりユーリはすごいな」
結論づけて笑った顔は、どこか寂しげだった。


スーパーの自動ドアを潜ると、セールを告げる賑やかな店内放送やレジ打ちの声が私たちの会話に雑音として入り混じる。カラ松くんの手にするメモに従って、籠に商品を入れていく。
「カラ松くん、何飲む?」
ペットボトルと缶のドリンクが並ぶ棚の前で、私は努めて明るい声を出す。
「フッ、決まってるだろ、ハニー。イケてる男は黙ってブラック
胸元に引っ掛けていたサングラスを装着して、カラ松くんは指を鳴らす。いい感じにウザい。
しかし、缶コーヒーの段に手を伸ばしたカラ松くんは、サングラス越しに私を見つめて、少しの躊躇の後、ペットボトルの方へと向きを変える。
「──と思ったが…今日は、これがいい」
そう言って苦笑しながら手にしたのは、甘めの炭酸のジュースだった。




買い物を終えたら、松野家に戻るか自宅へ帰るかの選択肢が浮上した。夕刻が近いこと、明日仕事があることを考慮して、帰宅を選ぶ。
「駅まで送る」
買い物の中に、早急に冷蔵庫に収める必要のある食材がなかったこともあって、カラ松くんはそう言った。いいのに、と私が遠慮するところまで、何となくパターン化している。
「オレが送っていきたいんだ」
けれど今日は珍しく、いつもの応酬に続きが生じた。

「でもこれは、優しさからじゃない──ユーリに対しては…下心がある」

びくりと体が硬直した。予想外の物言いだったからだ。
下心なら私も日常的にありまくりだよと言い掛けて止める。真面目に聞こう。
「やっぱりオレは、ハニーには頼られたいんだ。君にとっていつでも頼れる男でありたい」
言い換えれば、必要とされたい。共にいていい理由が欲しい。言葉にしなくても伝わるニュアンスがあるように、その逆もまた当然存在する。カラ松くんが欲するのは、言葉で明言された安心だ。
「いつも頼りにしてるよ。私にできないことをカラ松くんはやってくれる」
ただ、一方的に守られる弱者の地位には甘んじない。それこそ依存関係に近づくだけだ。

「実はね──私も、カラ松くんに頼ってほしいと思ってるよ」

「ユーリ…」
カラ松くんは相好を崩す。
「ハニーはいつも先回りしてオレを助けてくれるじゃないか。おかげで、頼るところまでなかなか辿り着かない。何ていうか…そう、事件発生と同時に解決する名探偵、まさにああいう感じだ」
そう言って一呼吸置いた後、優しげな口調で結論づける。

「だからオレは、ユーリには敵わないんだ」


そんな大層なものじゃない。そう否定しようとした、次の瞬間だった。

カラ松くんに思いきり腰を引き寄せられる。

突然の抱擁に面食らっていたら、カラ松くんの睨みつけるような鋭い視線が私の背後に向けられていた。黒い前髪がさらりと風に流れて、強気な眉が姿を現す。見惚れるくらいに端正な横顔が、今は間近。
「か…」
状況を飲み込むより先に、私の真横を猛スピードのクロスバイクが駆け抜けた。
私たちが歩いていたのは、ガードレールが設置された歩道の、内側。立て続けに衝撃的な出来事が続き、言葉が出ない。
自転車の接近に、まるで気付かなかった。衝突すれば軽い怪我では済まなかっただろう。
服越しに密着する体に熱が集中して、思考がままならない。
「…カラ松くん」
同じだ、と私は思う。
カラ松くんだって、先回りして私を助けてくれる。時に危険さえ承知の上で。だから安心して側にいられるのだ、わざわざ声にして頼む必要がない。

「すまん、オレが道路側に立つべきだったな」

ほら、そうやって。
呆然としていたら、カラ松くんは私を引き寄せる自分の手の位置に思い至ったらしく、飛び退くように慌てて手を離した。
「…あっ!こ、これは…っ、咄嗟につい!違うんだ、ユーリ!危険回避に乗じてあわよくばラッキースケベ的な考えは別に全くなく、つまり──」
言い訳や弁明が下手なのは知っているが、言葉数が増えると却って嘘くさい
百倍にして返してやろうかと悪戯心が芽生えたが、間一髪で救ってくれた恩に免じて、不問に付そう。




別れの時間が近づく駅前のロータリーで、私は振り返る。
「カラ松くんに、一つだけお願いがあります」
背中で両手を組み、わざとお調子者ぶるような口調で物申す。サングラスをかけたままの彼は私の意向を察してか、フフーン、と機嫌よく口角を上げる。
「どうした可愛いハニー、改まって。人類の歴史上これほど頼れる男はついぞ見たことがないと噂の、この松野カラ松に頼み事か?いいだろう、引き受けた!
まだ何も言ってない。
「リーブイットトゥーミーだぜ」
英語きた!しかもエイトシャットアウトなどと違って文法的に正しいのもまた絶妙に腹立つ。
ムード台無しなカラ松くんの台詞を振り切るように、私はにこりと笑みを浮かべた。

「これからも仲良くしてね」

今度は、カラ松くんが硬直する番だった。
二人きりで改まるほど大袈裟なものでも、かといって喧騒の中で交わす雑談ほど軽くもなくて、だから人通りは多くはないものの適度に他人の奏でる音が広がるロータリーは、おあつらえ向きだ。周囲から見れば、他愛ない会話に花を咲かせる平凡な男女でしかない。
「それは…言われるまでもない、もちろんだ!オレの方こそ、これからもよろしく頼む──ハニー」
カラ松くんは気恥ずかしそうに、中指でサングラスの位置を正す。黒いプラスチックのレンズに阻まれて、視線が絡み合っているのか分からない。いつかの初デートの時のように、私は彼に顔を近付けた。至近距離でようやく、レンズの奥に潜む双眸と目が合う。
「は、ハニー…っ!?」
「前に言ったよね?女の子と話す時はサングラス外そうね、って」
両手を伸ばしてゆっくりと外せば、赤みのさした素顔が現れる。呼吸の息遣いが聞こえるほどの至近距離、私は満足げにニッと笑った。
「な…ッ」
「うん、こっちの方がいいね──ってことで」
電車の到着を告げるブレーキ音を背に。


「改めてよろしく───ダーリン」

なんて。
我ながら恥ずかしい台詞だ。冗談っぽく初めて口にしたその呼び名は、声に乗せた瞬間に黒歴史になった。まさかこの年で更新するとは。
しかしカラ松くんには効果絶大だったらしい。首から上を一瞬で朱に染め上げたかと思うと、やがて眩いばかりに瞳を輝かせた。
「ハニー!ワンモアっ!」
「えっ…もしかして気に入った?止めて
今後はダーリンをデフォで!頼む!」
「ごめん無理」
ハニーと呼ばれるのは慣れたが、さすがにダーリン呼びは羞恥心マックスで寿命を削る。ほらみろ鳥肌がヤバイ


「オレとユーリは、少しくらい適当でもいいのかもしれないな」
頼るとか頼られるとか打算的な要素に縛られるのではなく、楽しさを共有する緩やかな関係の延長線上くらいが。きっと、ちょうどいい。

たまには病もリターンズ

このお話は、たまには病もいいもんだに関連する内容が随所に含まれています。





「もしユーリが風邪をひいたら、いつでも言ってくれ。通って看病する」
かつてカラ松くんは、私にそう言ったことがある。



上着の必要性を感じるほどに肌寒い日だった。
マスク姿の通行人も散見されて、秋の深まりと共に空気の乾燥を肌に感じる。
ついこの間まで半袖を着ていたのに、たまたま訪れたカフェでは自然と温かい飲み物を頼んでいた。カラ松くんも私に倣い、彼が持つトレイに載った二つのカップからは白い湯気が立ち上る。
「少し寒くなってきたね」
「オータムだからな」
「しばらくカラ松くんの二の腕と脇チラが拝めないのは極めて遺憾」
「──っ!唐突にそういう発言は止めてくれないか、ハニー…」
危うくトレイをひっくり返すところだったぞ、とカラ松くんは赤い顔。
「そっか、そうだね、ごめん。腹チラを忘れてた、大事だよね
「んー、ノンノン、オレの話を聞いてないな。だがハニーの猫のような気紛れはキュートの一途をたどるから仕方ないな、このギルティガールめ
カラ松くんが深い溜息をつきながらわざとらしく額に手を当てる。どっちもどっちな気がしてきた。

「でも真面目な話、風邪が流行ってるらしいから気をつけないと」
カップを両手で包みながら私は話題を戻す。
「ん?何でだ?
え、今こいつ何でって言った?
ここは普通、そうだな、と相槌を打って然るべき展開ではないのか。体調を崩せば日常生活に支障をきたしまくるだろうが。そう口を開きかけた私は核心に気付く───六つ子全員無職のニートであることを。迷惑をかける相手は皆無、抱える業務も責任も皆無、気をつける必要などまるでない。
「…ああ、そうか、ユーリは気をつけないとな。ユーリが人を惹き付けるのは当然だが、ウイルスにまで愛されては困る」
違う、そうじゃない。
でも気遣いは嬉しいから黙っておく。
「もし風邪ひいても、家族と一緒に住んでる人はまだいいよね。私みたいな一人暮らしは、体調悪くても自分のことは自分でやらなきゃいけないから、結構大変。万が一のために色々買い溜めしておこうかな」
テーブルに頬杖をついて気怠げにそう呟けば、今度はカラ松くんが意外そうに目を瞠った。
「ハニーはその必要ないだろ」
「え?」

「オレが看病するって約束だったじゃないか」

何の話かさっぱり分からない。その思いはきっと顔に出ていたのだろう、唖然とする私に、カラ松くんが憮然として眉をひそめた。
「まさか覚えてないのか?
以前オレが風邪をひいてハニーの家に泊めてもらった時、熱が下がった後に話をしただろう?」
唇を尖らせながらカップに口をつける。
その言葉をきっかけに記憶の引き出しががらりと開いて、当時の映像が脳内で再生されていく。ああ、と私は言葉にならない息を溢した。
「冗談だと思ってたよ」
「本気だ。それだけの恩義がある。あの時オレは…ユーリに救われた」
ブラウンを基調としたナチュラルテイストな内装の中、カラ松くんの穏やかな微笑みは映えるなぁなんて、私の思考は横道に逸れる。
「借りという表現は適切じゃないが、必ず返す。もしユーリが風邪をひいて寝込むようなことがあったら、いつでも呼んでくれ」
すぐに駆けつけるから、と。

「…今だから言うが、ハニーの家は本当に快適だった。体調を崩した時に神経を研ぎ澄ますことなく無警戒で眠れたのは初めてだ
「命狙われてるの?」
「約五人からな」
「否定しろよ」
まぁ、一部屋で一つの布団で就寝している現状を考えると、体調不良時も安らげなくて当然か。家の中で、逃げ場というか、安全地帯がないのは由々しき問題だ。
「まぁつまり、そういうことだ。だからハニーは安心して風邪をひいていいんだぞ」
大船に乗った気で、と胸を叩いて得意げなカラ松くんに、何と返事をすべきか悩んだのが正直なところだった。だからこの時私は、どうとでも取れるように、曖昧に笑った。




そんな会話を交わしたこともすっかり忘れてしまったある日、目が覚めた瞬間から全身に漂う倦怠感を知覚する。唾を飲み込んだ喉に激痛が走り、体が熱い。ベッドのマットレスに肘をついてどうにか体を起こしたものの、体温計を取りに行く僅か数歩の距離で早くも力尽きた。
再び布団に潜り込んで、体温計を脇に挟む。表示された数値は平熱よりも二度ほど高い。風邪をひいたようだ。恨みがましく数値を睨みながら、うー、と唸る。

よりによって、カラ松くんと約束をした日に熱を出すなんて。推しに会って触って拝んでイケボに悶えて生きる糧を得る貴重な日に。
しかし、唾を飲む痛みに耐えるだけで体力を消耗していく今、会えるはずもない。仮に会えても、病原菌をうつす危険性も高い。
横になったまま枕元のスマホを手に取って、松野家に電話をかけた。

「はい、松野です」
どうか一発で出てくれという祈りが通じてか、受話器を取ったのはカラ松くんだった。
「…カラ松くん」
「その声はユーリか、おはようハニー。どうした、元気がないようだが」
気力を振り絞って明るく呼びかけようとしたのだけれど、一瞬で見抜かれてしまう。
「うん、ちょっと風邪ひいたみたいで…」
「え…そうか…分かった」
言葉を続けるのに僅かな間があって、なぜか重々しい空気が漂う。楽しみにしてくれていたのだろうか、だとしたら申し訳ない。埋め合わせはきっとしよう。
「ごめんね、だから今日会うのは無理で──」
「今から向かう」
話聞いてた?
「あ、あのねカラ松くん…だから」

「看病するって約束だ──ユーリ」

彼にしては珍しく、私の言葉に被せて有無を言わせない。掛け布団に一層顔を埋めたら、ごそりと布の擦れる音がした。頭に靄がかかって、拒否するのも億劫に感じられる。
「…本気?──あ、えーと、本気なのは知ってるけど…」
「ユーリが嫌なら無理強いはしないさ。ただ──」
急に優しい声音になる。推しは今日もいい声だ。

「オレが看病したいんだ。だからできれば…ハニーの許可を貰いたい」

私はつい笑ってしまった。
強引かと思えば謙虚で、控え目かと思えば強気で、愛嬌と凛々しさが同居する。
「じゃあ、お言葉に甘えてお願いします」
「オフコースだ、オレに任せておけ!」
気取った台詞で締めくくられて、私は通話終了をタップした。スケジュールに、カラ松くんとの外出予定が表示されている。
そうか。楽しみにしていたのは、きっと───私だ。




次に目が覚めた時、時計の針は九時を示していた。近所の内科の開院時間が九時半なのを思い出し、私は動きやすい服に着替えてマスクを着用する。保険証と診察券を入れた財布をショルダーバッグに放り込んだところで、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、見慣れた青いパーカー姿のカラ松くんが息を切らして立っている。
「ユーリ、待たせてすまない。大丈夫…そうじゃないな」
普段なら顔を合わせるなりカタカナ単語連発で気取ってみせるのに、そんな余裕もないほど私を案じてくれているらしい。
「唾飲むのも激痛」
「ええっ!?じ、じゃあ早く休まないと…」
「今から病院行こうと思って」
それならタクシーをと言いかけたカラ松くんを、首を横に振って制する。歩いて五分だからと極力短い文で伝えれば、彼は手を差し伸べた。
「バッグ、オレが持つ」
「でも」
「ユーリの看病に来たんだ。こういう時くらい頼ってくれ」
困ったように笑うカラ松くんに、遠慮なく甘えることにする。喉の痛みに耐えるのに精一杯で、いつも湯水のように溢れていた推しへの性欲がまるで沸かない。重症だ。



開院直後の内科は閑散としていたが、それでも待合席のソファには数名患者が座っていた。
途方もない疲労感で道中ほぼ無言だったが、カラ松くんは私に合わせてか、言葉数少なめだ。
「有栖川様」
受付で名を呼ばれ、診察室へと誘導される。緩慢に立ち上がれば、カラ松くんが声をかけてきた。
「ハニー」
「うん?」
「一人で大丈夫か?オレもついていこうか?」
その発言に私は驚いて目を瞠ったが、彼は真面目も真面目、大真面目だ。
「診察くらい一人で受けられるよ、平気。そこで待ってて」
言ってから、愛想のない表情も相まって突き放した物言いになったのではと思い、慌てて付け加える。
「──ありがと」
礼の言葉は無事カラ松くんに届いたようで、彼は満足気に微笑んだ。


診断の結果は、扁桃炎とのことだった。
案の定というべきか、予想通りというべきか。確信を得るために病院を訪れたようなものだ。解熱剤と消炎鎮痛薬が処方されて、ひとまず安心する。一刻も早く喉の痛みと倦怠感から開放されたい。
カラ松くんの待つ席に戻ると、彼は手を差し出した。
「処方箋渡してくれ、オレが隣の薬局で受け取ってくる。ハニーはいい子にしてここで休んでるんだ、オーケー?」
反論を許さない強制力があった。拒否する理由もない。薬手帳と財布はバッグの中にあること、半年以内に利用経験のある薬局だから質問票を書く必要はないことを告げる。カラ松くんは私のショルダーバッグを肩に掛けて、少し大袈裟にウインクしてみせた。
「辛かったら、家まで抱きかかえて帰っても構わないからな。ハニーならいつでもウェルカムだ、ノープロブレム」
「ごめん、それは私が構うしプロブレムだわ
バリバリ生活圏で羞恥プレイは御免被る。引っ越しやむなし案件になってしまう。
「オレの負荷なら気にしなくていいんだぞ。エンジェルウィングのように軽いユーリなら、ゼログラビティに等しい」
「もはや何言ってるか分からない」
ツッコむ体力がない。真顔で反論するのが精一杯だ。

いつものふざけた掛け合い発生にげんなりしていたら、向かいに座っていた高齢の女性が口元に手を当ててくすりと笑った。その視線は私たちに向けられている。
年は六十前後だろうか、緩やかなパーマがかかった白髪混じりの髪は明るく、ワインレッドのニットチュニックが鮮やかだ。
「ごめんなさいね。二人のやりとりが面白くって、つい」
言いながらも、くすくすと彼女の口からは笑い声が溢れる。
「フッ、意図せずにアダルトなレディのハートを撃ち抜いてしまったようだな。老若男女問わず魅了してしまう罪作りな…オレ」
ちょっと黙っとけ。あと早く薬局行け。

「病院に一緒に来てくれるなんて、素敵な旦那さんね」

「──だん…ッ!?」
彼女の言葉に驚愕したのは、カラ松くんだ。つい今しがたまでの自信に満ちた饒舌さは鳴りを潜め、口を開いたまま硬直している。
「はぁ…」
対する私は、吐息とも取れる曖昧な相槌を打った。
話題を切り上げるため、カラ松くんを薬局へ促そうと口を開きかけたところへ、受付の女性が誰かの名を呼ぶ。あら、と向かいに座る女性が腰を上げた。
「呼ばれたみたい。奥さん、お大事にね」
「ありがとうございます」
私は軽く会釈して、診察室へと向かっていく彼女の後ろ姿を見送る。そして、唖然としたまま私を見つめるカラ松くんの視線は無視させていただいた




「…ユーリ」
処方薬を受け取った帰り道。カラ松くんが僅かに染めた頬でちらちらと私を見やる。
「何?」
「その…さっきの、どうして否定しなかったんだ?」
上着を着て防寒は十分なはずなのに悪寒が走る。熱が上がっているのだろうか。
「夫婦に間違われたやつ?
だって面倒だもん、否定したら状況を詳しく説明しないといけなくなる」
言葉を発する億劫さと誤解を秤にかけて、私は前者を優先した。友人関係と言っても関係性を勘ぐられるに違いないし、自ら井戸端会議のネタを提供するつもりはない。仲のいい夫婦がいた、ただそれだけの些末な出来事ならば、遅かれ早かれ忘却される。

「それにカラ松くんなら別にいいよ、夫婦だと思われても」

その発言に、他意はなかった。
しかしカラ松くんは顔を一層赤くして、嬉しそうに笑う。
「──オレもだ」
「そっか」
私の頭の中は、症状の改善と快方に向かいたい願望で一杯だった。早く帰宅して薬を飲みたい。
「でも…端から見れば、オレとユーリは夫婦にも見えるんだな」
「見えるでしょ。病院についてきてバッグを持って、私の代わりに薬取ってくるなんて、彼氏でもなかなかしないと思うよ」
献身的というか過保護というか。私の意見に対して彼は、腑に落ちないとばかりに首を傾げた。
「ハニーが辛い時に、何もしないという選択肢はない。オレにできることは何でもする。もちろん、何もするなと言われればその通りにするさ」
それがハニー本心ならな、と。

「オレにとってユーリは、そういう相手だ」

もはや何で告白されないのか不思議だ。しかし今はツッコミを入れる体力もない。でもよくよく考えれば、私にとってカラ松くんも『そういう相手』だ。結局のところ、お互い様なのかもしれない。
「ふふ」
何だかおかしくて笑ってしまった。
「な、何か変なこと言ったか?」
「ううん、カラ松くんは変なこと言ってない。何でもないよ」
もうずいぶんと長く起きている気がしたが、時はまだ、正午前。



帰宅してすぐに薬を飲み、寝間着に着替える。起きて座っているだけでも体力を消耗していく。肩で息をする私を不安げに見つめるカラ松くんには、大丈夫だよとだけ声をかけた。空元気にすらならない、無意味な強がり。
「オレはまだここにいてもいいか?」
ベッドに潜り込む私に彼が問う。
「いいけど…何のお構いもできないよ。ひたすら寝てるだけになると思うし」
「それでもいい」
間髪入れずに答えてくるから、奇特な人だなと思う。自宅ならともかく、他人の部屋に長時間滞在は苦痛なだけだろうに。せめて退屈しのぎにと、本棚の本やテレビは好きに使ってくれて構わないこと、冷蔵庫やキッチンにある飲食物は自由に食してほしいことを告げる。
「そうだ、ユーリ。すまないが、家の鍵を貸しておいてくれないか?」
「…鍵?出掛けるの?」
「ああ、まぁ、買い物に行くかもしれないし」
私は二つ返事で了承する。ソファに置いたバッグのポケット内にあることを伝えると、彼はすぐに中からそれを取り出して、テーブルの上に置く。
それからベッド際で中腰になり、薄く浮かべた笑みと共に、大きな手で私の頭をゆるりと撫でた。

「ユーリはもう休むんだ──いいな?」

囁くような声で。
「何なら子守唄でも歌おうか?」
本人は冗談のつもりだったのかもしれない。十八番の歌があるのに兄弟は決して歌わせてはくれないと、いつだったか嘆いていた。私もその時は、子供じゃないしねと一蹴した覚えがある。
「うん、歌って」
「え?」
カラ松くんの目が見開かれる。
「聴きたいな」
もう半分ほど瞼は落ちていて、視界に映る景色は混濁していた。だからきっと、私がイエスと応じたのも、意識が朦朧としたせいだ。
「──オーケー、ハニー」
目一杯破顔してから、カラ松くんは目を閉じた。開いた唇からはいつかどこかで聞いた懐かしいメロディが紡がれていく。雑音のない空虚な世界に、彼の美しい歌声だけが響くように感じられた。

自分用にスポーツドリンクやゼリーを買い忘れたことを思い出したのは、意識が途切れる一瞬前のことだった。




一分程度の短い歌を終える頃には、ユーリはすっかり眠りに落ちていた。布団を肩まで被って、苦しげな寝息を立てている。
カラ松はユーリの髪に触れた。指の隙間からさらさらと細い髪が溢れていく。熱があるのは一目瞭然なのに倦怠感を堪えて笑う彼女が痛々しくて、居ても立ってもいられなかった。だからといって回復を促す特別な手立てがあるわけでもなく、側にいることしかできない。己の無力さを痛感させられると共に、ひょっとしたらそれさえも、ユーリにとっては煩わしいという可能性にも気付いている。
けれど。
「なぁ、ハニー」
寝顔を見つめながら、カラ松は語りかける。独白のように。

「オレは幸せだ。どうしようもないくらい、オレ自身持て余すくらい。全部──ユーリがいてくれるから」

熱を出したあの日、治るまで休んでいけと言い放たれたあの時のことを、今でも鮮明に覚えている。強引に奪われた手と、心配しているのだという言葉は、カラ松の心を鷲掴みにした。たまらなく嬉しかった。彼女にとって自分は特別だと、そう告げられた気がして。
そういえばあの時も、膨れ上がるばかりでどこにも辿り着けない愛しさを、ソファで眠るユーリに囁いた。答えを知る勇気がなくて、拒絶されるのが怖くて、今もずっと燻り続けているくせに。
幸福を感じているという言葉に、嘘偽りはない。しかし満たされれば満たされるほどに、より一層を渇望する。自分はこんなにも欲深い生き物だったのかと驚くほど、強く。
なのに、淀んでどろどろした醜い欲望に、ユーリはいつだって真正面から向き合ってくれる。その真摯さにどれだけ感謝し、どれだけ焦がれただろう。

「その苦しみも辛さも、オレが代われるなら喜んで代わるのにな」

神通力があればなんて、夢みたいなことを思ったりして。
もう一度彼女の額に手を当てて、指先で前髪を掻き上げる。ユーリはううんと唸り、苦しげに眉をつり上げた。

いつだって強く想っていることも、伝えられたらいいのに。




喉の渇きで目が覚めた。
レースカーテンの奥に見える景色はまだ明るくて、スマホの時計で夕刻前と知る。
「目が覚めたか、ハニー」
頭に霧がかかるせいか、何でカラ松くんがここにいるんだろう、なんて頓珍漢な疑問が浮かんだ。しかしすぐに記憶が蘇り、ずっと傍らにいてくれた事実に、胸が温かくなる。
テレビにはバラエティ番組が映し出されているけれど、スピーカーから音は流れてこない。カラ松くんは私の前に膝をついた。
「何か飲むか?スポーツドリンクもあるぞ」
「うん…え?」
そんな物在庫していなかったはずだ。しかし私が問いを投げるより前にカラ松くんはキッチンに立ち、冷蔵庫から冷えたスポーツドリンクを持ってくる。
「何で、これ…」
「さっきコンビニで買ってきた」
言いながら彼は蓋を開けて、私に手渡す。
「何が食べられるか分からなかったから、ゼリー飲料とヨーグルトも冷蔵庫に入れてあるんだ。食べられそうなら持ってくるが、どうする?」
気遣いの紳士現る。
鍵貸して発言はこの展開への伏線だったのか。ここまで気遣えてなぜモテない童貞なのだろう、世の中の女性は見る目がなさすぎる。いやしかし、だからこそ全力で推していきたい。
「今はこれだけでいいかな。お腹減ったら食べるね───ありがと、カラ松くん」
今日も尊い。

私の礼に対し、カラ松くんは困ったように苦笑した。
「本当は代わりたいくらいなんだ。ユーリの辛い姿を見るのは、オレも辛い。でも離れて何もできないのはもっと嫌で…こんなことしかできないんだけどな」
「十分すぎるくらいだよ。退屈じゃなかった?テレビの音出してもいいよ」
私は眠れるからと言えば、カラ松くんは膝を立てた格好のまま私に向き直った。それから右手の人差し指を顔の前で振ってみせる。
「ハニー、こんな時までオレにジェントルに振る舞う必要はないぞ。まずは風邪を治すことを一番に考えるんだ。アンニュイなハニーも美しいが、オレは───いつもの元気なユーリがいい」
スッピンに緩い部屋着、髪も乱れていて、どう好意的に評価しても、今の私は清潔感や愛嬌とは程遠い。よそ行きを装おうとは思わないが、来客に対してもう少し愛想があって然るべきと多少反省はしている。
だから、そんな私の態度を目の当たりにしてもなお、変わらぬ態度で接してくれるカラ松くんが正直不思議でならない。あれちょっと待って、さっき完全にスルーしたけど、何気に美しいとか言われなかった?

「オレはもう少しここにいるから、何かやってほしいことや欲しい物があったら言ってくれ」
まるで従者のようにかしずいて、どうしてそんなに嬉しそうなのか。
私は少しだけ笑って、うん、と応じた。




次の覚醒は、外的要因による強制的なものだった。体が揺さぶられる感覚があって、強引に意識が浮上させられる。
最初に視界に飛び込んできたのは室内のシーリングライトが煌々と輝く様で、カーテンの閉められた室内に、夜が更けたことを悟った。
「起こしてすまない、ユーリ」
申し訳なさそうに眉を下げて、カラ松くんが言う。
「…あ、うん…どうかした?」
「終電がなくなるから、そろそろ帰るな。オレが出てから、玄関の鍵をかけてくれ」
もうそんな時間か。眠りすぎて頭が重い。私がぼんやりとしていたら、ああそうだ、とカラ松くんは思い出したようにズボンに手を差し入れる。
「借りた鍵を返しておかないとな」
取り出した家の鍵を、私に向けた。

後々思い返してみれば、この時の私は風邪をひいて心身共に弱っていたのだろう。体調不良を引き金に表層に現れた心細さと、それを穴埋めしてくれる存在。失い難く感じて、向けられた手をやんわりと押し返す。

「鍵、明日まで持っててよ」
「…ユーリ?」
「看病してくれるって約束は、連日でも有効?」
カラ松くんの目がみるみるうちに瞠られて、しかし驚愕はすぐに柔らかな笑みへと変わる。
「もちろんだ!ハニーが望むなら毎日だって構わないぞ」
それはさすがに鬱陶しいと本音が喉を突いて出かけたが、咄嗟に口を噤む。
だからといって、泊まっていけとも言えない。カラ松くんの水飴のように甘ったるい優しさが、今この瞬間どうしようもないほど心地良く感じるのは、私だけの胸に秘めておこう。
「もし何かあったら、夜中でもいいからすぐ電話してくれ」
カラ松くんの左手が私の髪に触れる。
「もうだいぶマシだから。大丈夫」
「そうか。明日は九時には来る。鍵はその時に返すから」
彼の手の平に包み込まれた銀色のそれは、私とカラ松くんを繋ぐ約束の証だ。曖昧で確証のない口約束が、間違いなく交わされたと証明するための。

「おやすみ、ハニー」

背を向けたカラ松くんが、やがて私の視界から姿を消した。閉じられたドアの鍵がかかる機械音が小さく響いて、周囲の空間には無音が広がる。決して広くない部屋がやたら広々と感じるのは、一人残された寂寞感のせいか。柄にもない。
「おやすみ、カラ松くん」
遅すぎる返事をして、私は再び目を閉じた。




ベッドから体を起こして、両手を思いっきり天井に伸ばす。カーテンの隙間から差し込む木漏れ日が清々しい。
喉の痛みは、嚥下時に僅かに痛みが走る程度に落ち着いた。体も軽く、体調は八割方回復したようだ。立ち上がって室内を闊歩しても疲労感は襲ってこない。カラ松くんが買ってくれたゼリー飲料を飲み干して空腹を満たしてから、シャワーを浴びて身支度を整える。せめて昨日よりはマシな格好を、と。
───時刻は間もなく、九時を迎えようとしている。

ガチャリ、と玄関を解錠する音がして。
「ユーリ!」
玄関先まで出迎えた私の姿を見て、カラ松くんは顔を綻ばせた。
「おはよう、カラ松くん」
精一杯快活な声を上げて、彼を出迎える。この部屋に越してきてから、他人が外側から鍵を開けるのは初めてだ。まるで自宅へ帰ってきた家族を歓迎するような、不思議な感覚に陥る。
「顔色が良くなったな」
「薬飲んで一日寝たら、結構良くなったよ。今日一日ゆっくりしたら治りそう」
計ってはいないが、もう熱もなさそうだ。カラ松くんは胸を撫で下ろしたとばかりに、肩の力を抜いた。
「良かった…一晩なのに、会えない時間がすごく長く感じたんだ。ブラザーたちには心配性だと叱られたが」
「うーん、それは確かに」
「その割に、自分たちも看病すると躍起になってたから撒くのに苦労した
しれっと衝撃発言。朝っぱらから楽しそうだなお前ら。
「一対五はさすがに分が悪いよな」
「え、その程度?悪魔五人相手は死を覚悟する恐怖
六つ子が本気になれば赤塚区界隈に逃げ場はない。どこに隠れようとも草の根分けて見つけ出し、確実に殲滅する。一個体でも破壊神相当なのに、それが五人ともなると想像を絶するカオスだ。よく生還したなマジで。

「今日も家でのんびりするか?」
「そうするよ。疲れたら休むけど、今はまだ眠たくないから、DVDでも観ない?」
玄関口で靴を脱ぎ、カラ松くんが部屋へとやって来る。
「オレは構わないが、疲れたら途中でも言うんだぞ、ユーリ。無理をしてぶり返したら、また辛くなるだけだ」
「ぶり返したら、カラ松くんが通って看病してくれるのかな?」
「…自業自得の場合はリジェクトさせてもらおう」
おっと手厳しい。冗談は控え目にするかと内心で決意した時、カラ松くんが私を見て目を細くする。
「──と言いたいところだが」
私たちは真正面から向き合う格好になって。

「ユーリが苦しんでる時は側にいたい」

何だか墓穴を掘った気がしないでもない。
「甘やかすと図に乗るから止めておきなよ。最初のうちこそ遠慮はするけど、絶対面倒くさいことになるって」
「望むところだ」
間髪入れずに受け止めないでほしい。昨日から甘やかされっぱなしで、優しさの標準値をどこに定めればいいのか悩ましくなる。
「言ったな、後悔しても知らないんだからね…でもありがと、カラ松くんの気持ちは嬉しいよ」
「オレは本気でそう思ってるぞ、ユーリ」
「…知ってる」
そうでなきゃ、終電で帰った翌日に朝早くから訪ねてこない。臥せった病人の側にいるだけなんて退屈だろうに、文句一つ溢さずに、むしろどことなく楽しげで。
だから、嘘だなんて微塵も思わない。

「ハニーからうつされる風邪なら、むしろ歓迎だ」


カラ松くんを部屋に入れるのに抵抗がなくなったのは、いつからだろう。外に遊びに行くのはもちろん好きだし、賑やかな松野家も気に入っているが、たまには私の家で二人でのんびりと過ごすのも悪くない。そんな、誰に語るでもない率直な感想が脳裏に思い浮かんでは、些末なこととして霧散していく。
部屋に入るカラ松くんの背中を見つめながら、私は静かに玄関の戸を閉めたのだった。

シックス・セイム・フェイシーズ

手持ちのカード二枚を畳の上に叩きつけ、おそ松くんが高らかに笑う。

「ふはははは、ひれ伏せ愚民ども!この絶対王者大富豪のおそ松様が、次の勝負も突破して連勝記録更新してやるよ!
はーい、いちまっちゃーん、最高のカード頂戴。いちまっちゃんが、持ってる、最高の、カード」
底意地の悪さ全開で、いちいち溜めて催促するおそ松くん。一松くんは大きく舌打ちして、カードをおそ松くんの頬に叩きつけた
「いっでぇ!」
「あ、ごめーん。大貧民風情が大富豪様に楯突いて申し訳ございませーん
抑揚のない声で述べられる謝罪の言葉。僅かさえこもらない詫びの感情が、一松くんの本心を如実に物語る。

何の話かというと───トランプの大富豪だ。


松野家の居間。たまには健全なゲームでもと発案者のトド松くんを筆頭に、六つ子と私の計七人で罵詈雑言と暴力制裁が乱発するドキドキ大富豪が開催されている。健全とは一体。
「相変わらず一松はギャンブルクソ弱いよね。で、カラ松、お前もカード一枚早く寄越せ」
チョロ松くんに手を差し伸べられて、ビクリと強張る貧民のカラ松くん。今回の敗北により平民から貧民に成り下がり、実質二位の座についた富豪のチョロ松くんに最も良いカードを渡さなければならない。
「ぶ、ブラザー…慈悲のハートはないのか」
「慈悲があったらルール違反だろうが──へぇ、いいカード持ってんじゃん」
涙目になる推しと、その眼前で片側の口角を上げて肩を揺らすチョロ松くん。何この卑猥な絵面。
カード交換も終了し、戦闘開始への緊張感が高まる中、手元のカードを眺めながら一松くんが溜息を溢した。
「いいよな、十四松は平民の地位キープで」
「いやいや、強くもないし弱くもないし、大した特徴もない微妙な地位に甘んじてる感じだよ~。言うなれば、キャラの薄いおそ松兄さん
「おい!」
向かい側からおそ松くんのツッコミが飛んでくる。
「七人いると戦略を立てるのが難しいよね。私もそろそろ平民から成り上がりたい」
カラ松くんの隣で思案顔をすれば、彼は緩く微笑んだ。
「ユーリは一発目の大貧民から徐々に地位を上げててすごいな。時の流れに合わせて堅実に成長を遂げる、同世代カースト中間層の人々のようだ
「言い方気をつけろ」
それ絶対褒めてない。でも貶してもないから反応に困る。

示し合わせたわけではないが、口を閉ざして寡黙になる面々。大貧民の一松くんがカードを抜き、新たな決戦の火蓋が切って落とされようとした───その時。
座布団の上に置いていたトド松くんのスマホが、不意にメッセージの着信を告げる。
「あ、待って、連絡来たからちょっとタイム」
慣れた手付きでパスワードを解除し、ディスプレイに視線を落とす。待ってましたとばかりな表情とスピード。待ち侘びていた連絡のようだ。
「トッティ、早くしろよな。せっかくテンション上がってきたのに、興醒めしちゃうよ」
「ごめんごめん、すぐ終わるから」
アプリを開いてメッセージを読み進めるトド松くんの表情が、みるみるうちに驚愕に瞠られていく。わなわなと震える両手と、あ、え、と声にならない声。
やがて絞り出すような絶叫が居間に響き渡った。

「えーっ!?」

積み上げていた座布団からおそ松くんが転げ落ち、一松くんは口に含んでいだお茶をカラ松くん目掛けて吹き出した。その他の面子はギョッとしてトド松くんを見やる。
「どうしたトッティ!」
「ゲホッゴホッ…な、何…」
「んー?何気にオレが一番の被害者じゃないか?」
「あーあ、ほらこっち向いてカラ松くん。お茶だから、拭けば大丈夫だよ」
片手をカラ松くんの頬に添え、もう片手に持ったタオルでお茶を拭き取ってやる。
「ちょっ、は、ハニー…ッ」
「すぐ終わるから動かない」
「……はい」
顔を赤くして私から視線を逸らし、固まるカラ松くん。濡れ具合を確認しながら拭き上げるため、添えた片手を額やうなじへと移動させると、彼はぎゅっと目を閉じた。肩に力がこもる。
可愛いなぁなんて思いながらタオルを首へ移動させれば、唐突にチョロ松くんに手首を掴まれた。
「ん?」
「待って待って、ユーリちゃん。申し訳ないけど僕たちの目の前でイチャつくのは止めて、心が折れる
「これのどこがイチャつきだと思うの?眼科行く?」
これだから魔法使い一歩手前の童貞は。

「イチャつくっていうのはね──」
「…んんっ!?」
言うやいなや、私と目が合い、素っ頓狂な声を上げたカラ松くんの肩を押し、畳に横たえた。
両手を掴んで頭上に掲げ、両手首を片手で押さえ込む。呆然とされるがままなカラ松くんに顔を近付けて、鎖骨から首筋、耳の裏へと、触れるか触れないかの指先だけで肌をゆるりと撫で上げる。
「…あ、あの…ユーリ?」
どこか扇情的に潤んだ瞳に、にこりと笑みを投げて、私はパッと手を離した。
「──こういうことを言うの。お触りだけでイチャつき認定しない。反省して認識を改めなさい、無職童貞たち
「申し訳ありませんでしたっ、ユーリ先生!」
おそ松くん、チョロ松くん、一松くん、十四松くんが揃って頭を垂れる。分かればよろしい。

それで、と話題の転換を促したのはおそ松くんだ。
「トッティは何で驚いたんだっけ?」
「ユーリちゃんのイチャつき実践講座が衝撃的で何も頭に入ってこねぇ」
「でもイチャつくっていうよりは襲って──」
「言葉を慎め十四松、ユーリ先生の御前だ
兄たちの視線が一同に集まる中、トド松くんは「当事者のボクですらうっかり失念しそうになったよ」と遠い目になる。ごめんね。
「──じゃなくて!ビッグニュースだよ、みんな!心して聞けクズども!」
カラ松くんも体を起こし、トド松くんに顔を向けた。

「六つ子の女の子たちとの合コンが決まったよ!」




「六つ子の女の子…」
発言の意味が理解できないとばかりに反芻するのはチョロ松くん。
「ボクら六つ子と、女の子の六つ子の六対六の合コン。仲間外れなし、全員参加、相手は乗り気」
トド松くんが兄弟一人一人の目を順繰りに見つめながら、ゆっくりと単語を発する。たぶん一番早く状況把握に至ったのは、私だ。
「へぇー、松野家以外にも六つ子っているんだ。しかも会う前から女の子が乗り気って、最高の前提」
私のその言葉を皮切りに、うぉーと歓声を上げる六つ子たち。
「マジかよ!?六つ子対六つ子ってもう全員カップル成立しかなくない!?やりー!」
「てか、六つ子が都内に二組いるってこと!?もはや六つ子のレア感皆無じゃんっ」
「オシャレな服ないんだけど、ジャージで合コン?いや行くけど、行くのは確定で
「アザス、トッティ!」
トランプを放り投げ、嬉々として踊り出す連中の輪の中で、カラ松くんは浮かない顔だ。胡座をかいた自分の足元をじっと凝視している。
「カラ松くん、どうかした?合コン嬉しくないの?」
不思議に思って私が尋ねれば、彼は眉根を寄せて顔を上げた。

「ハニーは、オレが合コンに行ってもいいのか?」

その問いかけには、首を縦に振った。
「参加云々は私が決めることじゃないと思うけど、六つ子と六つ子が雁首揃えるのは是非見たい
そしてあわよくば写真を撮りたい。間髪入れずに正直に答えれば、カラ松くんの瞳にじわりと涙が浮かぶ。その涙が一筋頬を伝ったかと思うと、彼はすっくと立ち上がった。
「うわああああぁあぁぁぁんっ、ハニーの馬鹿ああぁああぁぁ!」
泣き喚きながら居間を出て、荒々しく開け放たれる障子と、二階へ駆け上がる騒々しい足音。

えー。

おそ松くんは苦笑しながら頭の後ろで両手を組む。
「あーあ、カラ松泣いちゃった。さすがに今のはあいつに同情するよ」
「何それ。イエスはノーの裏返しっていう超絶面倒くさい女心じゃないんだから」
試し行為は良くない。止めてほしいなら正直に言ってもらわないと。
「困ったなぁ。六人全員揃うのが合コンの条件だから、カラ松兄さんが不参加になると合コンの話自体が立ち消えになるんだよね」
「だってさ、ユーリちゃん。俺たちの輝かしい未来のために、カラ松説得してきて。ユーリちゃんならできる」
おそ松くんに背中を押されて、私は半ば強制的に廊下に排出された。




二階に上がりながら、私は片手を顎に当てて思案する。まさかカラ松くんが拗ねて号泣するとは思わなかったので、対処法についての妙案は沸いてこない。なるようにしかならないなと腹を括って、私は六つ子の部屋に続く襖を開けた。
「カラ松くん」
彼はソファの上で膝を抱えて仏頂面だ。私が入ってきても、目線さえ寄越さない。気にも留めず、私は隣にどっかと腰を下ろす。スプリングが弾んで、カラ松くんの体が揺れた。
「合コンってさ、彼女作るために行くだけじゃないんだよ」
紡いだ私の言葉が意外だったのか、カラ松くんは僅かに目を見開いた。
「幹事役があったりするでしょ。当日の仕切りだったり、盛り上げ役、スムーズな進行役の人。そういうのになってみない?
おそ松くんたちは癖が強すぎるから、カップル成立をお膳立てする縁結び役って必要だと思うな」
小心者のカラ松くんにそんな大役が担えるのかは、この際棚上げだ。
「ユーリ…」
「お、やっとこっち向いてくれた」
そう言って笑えば、あ、とカラ松くんはバツが悪そうな顔になる。
「彼女が欲しいわけじゃないんでしょ?」
「そう、なんだが…ハニーは、嫌じゃないのか?」
オレが合コンへ行くことが、と。

私はその問いかけには答えずに、人差し指を彼の胸に突きつけた。
「カラ松くんは、合コン一回参加したぐらいで容易く彼女ができると思ってる?無職童貞彼女いない歴=年齢の分際で、異性から引っ張りだこの高打率打者になれるとでも?
「いや…その、あの…」
「そもそも双方の同意がないとカップルは成立しないよね?最悪断るって選択肢もあるもんね。
だから安心して行っておいでよ、私も近くの席陣取って顛末見届けるから」
肩を竦めて、当社比で目一杯可愛らしい笑顔を浮かべてみせる。
一瞬口車に乗りかけたカラ松くんは、しかしすぐさまハッとして眉間に皺を寄せた。
「ハニーが見たいだけなんじゃないか、それ」
「もちろん」
胸を張って正直に答えれば、カラ松くんは沈痛な面持ちで膝を抱えてしまうので、私は彼の頭を優しく撫でる。

「いざとなったら助けてあげるから、ね?」




その後は、六つ子女子との合コンを翌週末に控え、私こと有栖川ユーリによる合コン必勝法ならぬ『合コンをひとまず次回に繋げる』講座が開催された。
とはいえ、私が持ちうる合コンの知識を伝承するのではなく、彼らの持ち味──そんなものがあるのかという疑問は置いといて──を活かした交流のポイントの伝授と、好印象を持つ外見の創造に努力を全振りする。
メラビアンの法則では、初対面で相手に伝わる印象は視覚情報が55%と言われている。だから服装は異性からの評価が無難なカジュアルスタイルを前提に、きれいめ、清潔感、アメリカンテイストと、各自のキャラに合わせたコーディネート。奇をてらわず、限られた資金の中から手持ちの服と安価なブランド服を組み合わせていく。

現地での言動に関しては、下手な小細工をせずに、致命的な欠点を出さぬよう各自留意するに限る。小手先のテクニックが通用するほど合コンの世界は甘くない。
困った時は必要に応じて席を立ち、私のテーブルまで来て助言を請えとだけ告げておく。


夕刻、合コンが開催される都内の居酒屋。
トド松くんが予約したのは、可動式の間仕切りが設置された個室感のある店だ。店員をいかにして説得したかは不明だが、通路を挟んですぐ真向かいに私の席を予約する有能ぶり。

「それじゃあ、世界初、六つ子と六つ子の合コンを始めまーす」
各自手に持ったアルコールを掲げて、トド松くんの合図で開幕となった。まださほど店内に客がいない時間帯のため、一般的なボリュームの会話なら私の席でも聞き取れる。
「最初は自己紹介から始めようか。僕は進行役を務める六男の松野トド松です、気軽にトッティって呼んでね」
「…あー、えーと、長男の松野おそ松です」
「ま、松野カラ松…次男です」
トド松くんを除いた男性陣は、最高にぎこちない。下手なボケを噛ませずに喋るだけマシか。

「じゃあ次は私たちね、私は長女の───」
続いて女性陣の自己紹介。さて六つ子の合コン相手だが、ぶっちゃけ可愛い。一軍の際立つ美貌とまではいかないが、素朴で愛嬌のある子たちだ。肩より少し長い髪をそれぞれ異なる髪型にして個性を出している。クズで無職でダメンズを極めた松野家六つ子にはもったいない
「みんな髪型違うから全然六つ子に見えないよねー、全員可愛くてビックリだよ」
「トド松くんたちはすごく似てて、六つ子って感じだね。トレードカラーで分けてるって聞いたから、今日は合わせてきちゃった」
「あ、やっぱり!嬉しいなぁ、お揃いだね。記念に後で写真撮ろうよ」
さすがは手練の末弟、そつなく異性との会話をこなしていく。他の六つ子たちは、話題を振られれば返事をするだけで積極性に欠ける。そもそも全員顔がひきつってる。

「ユーリちゃん、俺やっぱ無理!秋口なのに色っぽい服されると下ネタしか出てこない!」
「女の子六人もいて誰と何話したらいいの!?無理ゲーすぎる!
「ユーリちゃん、おれと帰ろう、吐きそう。猫が集会開いてるとっておきの路地裏教えるから…」
「座り続けるの飽きた!全身の穴から色付きの水噴射する芸やっていい?新作!」
トイレに立つフリをして、アドバイスを請う者、戦線離脱を申し出る者が、長兄から順番にユーリ駆け込み寺へとやって来る。
「この合コンにおいて大事なことは一つだけ──成功させようと思うな、取り返しのつかない失敗さえしなければいい」
そう告げた上で各自の性質に合わせた最低限の助言をしていくが、そういえばカラ松くんが来ていない。一松くんと共に異性に最も耐性のない者として両端に追いやられ、通路から一番奥まった席にいる。
意外と馴染んでいるのかと覗き込めば、何のことはない、萎縮して縮こまっている

いざという時は助けると約束した手前、見過ごすわけにはいかない。運良く通路側の一松くんと目が合ったので、ジェスチャーでカラ松くんを呼ぶよう伝える。幸いにも意図を察してくれたようで、一松くんの一声でカラ松くんが席を立ち、私の隣に座った。
他の六つ子は向かい側だったのに、当然のように隣に並ぶあたり、私たちの距離感を如実に物語っている。
「ふ、フフン、どうしたハニー?
オレがハニー以外のレディに見惚れてるんじゃないかと心配したのか?」
「カラ松くん」
「……帰ってもいいだろうか。やっぱりオレはユーリ以外無理だ」
受け取り方次第では告白のような台詞だ。
「じゃあ、相手を私だと思って接してみたらどうかな」
「ハニーだと思って…?」
「そう。カラ松くん、私といる時はすごくスマートで気が利くんだし」

「それは、ハニーが特別だからだ」

んー?
「ユーリの笑顔が見たいから、どうしたら喜んでくれるか、楽しんでくれるかって考えられる。自分のことを後回しにしてもいいと思えるのは、相手がユーリだからだ」
そういうこと素面で言えるのに合コンでチキンは解せぬ。
曇りのない瞳で見つめられて、私は苦笑するしかない。口説き文句ぶちかましてるなんて、本人は微塵も思っていないのだろう。
「そっかそっか。でもおそ松くんたちのお膳立てに来たんだから、五人が自然に盛り上がれるように女の子たちをもてなすのは必要だと思うよ」
「ああ、なるほど…それもそうだな」
顎に手を思案顔になってから、私を見て薄く笑う。

「──ユーリに対してと同じくらいスマートにというのは難しいが、ベストを尽くす」

それからフフーンと意気揚々に鼻息を荒くして、いつものカラ松くんの調子が戻ってくる。その調子だ、次男。
「上手くできたら、もちろんハニーからはご褒美をもらえるんだよな?」
「いいよ、物によるけど」
「へっ?」
「無理言って参加してもらってるんだから。物によるけど
そこは念押ししておく。
「フッ、オーケーハニー!オレに任せておけ!合コンの一つや二つ、レディ全員をカラ松ガールズにするくらいわけないぜ!
目的変わっとるやないか。




さて、褒美につられて本気を出した次男の変貌は、目を瞠るものがあった。席に戻るや否や、六つ子の女の子たちに照れくさそうな微笑を向ける。
「さっきまでほとんど話せなくてすまない、ガールズ。君たちがあまりに可愛いから、緊張してしまってたんだ」
カラ松くんのその言葉に、顔を見合わせて笑う子が数名。
「今はもう平気なの?」
「ああ。君たちも初対面で、しかも合コンという会い方で、緊張してるはずなんだよな。そのことに思い至ったら、緊張もどこかへ行ってしまった」
「良かった。それじゃあ今からでも話そうよ。今ちょうど好きな食べ物の話になっててね──」
テーブルの上で両手の指を組み、僅かに前のめりの姿勢で耳を傾けるカラ松くん。話す相手に視線を合わせ、時に相槌を打ち、時に驚いた顔をして。場が和んでくると、わざと加減した気障な仕草と台詞で笑いを誘う。やればできるのがうちの推し。
次男の突然のトランスフォームに目をひん剥いて凝視するニートが五人ばかりいるが、まぁいい。

「頬が赤くなってるな。君が酔う姿はキュートで愛らしいが、次はソフトドリンクにして少しペースを落とした方が良さそうだ。
ドリンクメニューは──ああ、あった。どうする、何がいい?」
「梅酒ロックばっかりもう三杯目でしょ?え、よく見てるなって?当たり前じゃん、ボクらと合コンしてくれる可愛い六つ子の女の子だよ。楽しい時間だったなって思ってほしいもん、無理してほしくないんだ」
「もし良かったら席を替わらないか?…あ、ええと───その席、エアコンの風が直接当たるだろ?」
「温かいお茶頼んでるから。上着も必要なら貸すし、いつでも言って。でも…気付かなくてごめんね」
次男と末弟無双のお時間です。
悠々と夕食を食べながら、すごいなぁと感心しつつ眺める私。格好いいと可愛いのイケボコンビがナチュラルに口説いてくる合コン、最高じゃないか。もう駆け込み寺は必要なさそうだ。


呆気に取られていた面子のうち、一番に口を開いたのは十四松くんだった。
「カラ松兄さん、さっきとは別人みたいだね──ユーリちゃんといる時みたい

五男が素で爆弾を投下した。合コンにおいて他の女の名を出すのはマナー違反と知っての暴挙か。
その手があったかとばかりに、チョロ松くんが続く。
「本当だね、カラ松。他の女の子に気のあるようなことしたら、ユーリちゃんに嫌われるんじゃない?」
「え…いやこれはユーリが、ユーリと会っている時と同じようにすればいいって──」
「はい出たよ、カラ松のユーリちゃん贔屓。てかお前ユーリちゃんいるのに合コンとかひどくない?それって裏切りじゃない?」
「えぇっ!?おそ松、お前…っ」
お前が合コンに出ろって言ったんじゃないかと彼の顔は物語る。
兄弟を思って尽力する次男を陥れようとするのか。ここに来てまでリア充は完膚無きまで叩き潰すクズっぷりを遺憾なく発揮する、さすが松野家六つ子。

険悪な雰囲気が漂い始める男性陣に対し、女性陣は戸惑いを隠せない様子。カラ松くんの前に座る子──服の色から見て次女──が、おずおずと問いを投げる。
「えーと…ユーリちゃんっていうのは、もしかしてカラ松くんの…彼女?」
「かの…っ!?…あ、その、まだ──」
「友達以上の可愛い子」
声が裏返るほど動揺するカラ松くんより先に、一松くんがトドメを刺してくる。捕食者と非捕食者の関係性なので、友達以上の表現はあながち間違いではない。
「えー本当?カラ松くんモテるんだ?」
「ひょっとして片思い?待って待って、それ詳しく聞きたい!」
「ユーリちゃんの写真あるよー、カラ松兄さんにはもったいないくらいいい子なんだぁ」
「トッティ!?」
最後の砦のトド松くんまでも、合コンにおける己の地位確保のためにあっさりと手の平を返す。兄弟全員が敵に周り、女の子たちはユーリという人物を肴にして盛り上がろうとする流れ、まさに四面楚歌だ。

泣きそうになったら助け舟を出すかと決意したところで、視界の隅に見慣れた色のスーツが映る。想定外の出来事に、体が固まる。店員に先導されて廊下を進むその人は、やがて聞き覚えのある声に振り向いて、すだれの奥を覗き込んだ。

「おや六つ子たち、奇遇ザンスね」

特徴のある語尾と、口内に収まらない出っ歯──イヤミさんだ。

「い、イヤミ…何でよりによってお前がここに…」
「最悪だ」
「イヤミじゃーん、久しぶり~。お前居酒屋に来れるお金あんの?」
チョロ松くんと一松くんが眉間に皺を寄せる中、十四松くんの発言が何気に一番ひどい
「チッ、六つ子如きが合コンザンスか、いいご身分ザンスね───ミーも仲間に入れてちょーよ!誰かミーのお嫁さんになってほしいザンス!誰が誰だか分からない六つ子より、ミーが一番キャラが立ってるザンス!」
席へ案内してくれた店員を強引に追い払い、無理矢理女の子側の席へ座ろうとするイヤミさん。
「ちょっとイヤミ、勝手なこと止めてよっ」
「レディたちが嫌がってるのが分からないのか。一刻も早く出ていけイヤミ、潰すぞ
奥側に座っていたトド松くんとカラ松くんが彼を制止しようと通路側へ向かおうとするが、何せ快適空間よりも座席数を優先した大衆居酒屋での大所帯だ、スムーズに進めず途中で詰まる。さもありなん
そうこうしているうちにイヤミさんは無許可でテーブル上の食事を貪り始める。ドン引きする女性陣、発狂する松野家六つ子。
「っざけんなイヤミ!勝手に飯食ってんじゃねぇよッ」
「調子乗んなよクソが!」
「二度と朝日が拝めないように沈めてやる!表出ろっ」
ニート六人全員が揃って飛びかかり、お決まりの乱闘勃発である。

私が席を立つまでもなく、いち早く戦線離脱したトド松くんが女の子六人を外へ連れ出す。
「怖かったでしょ、ごめんね。気分変えよっか?カラオケでも行く?」
トラブルもチャンスに変えて兄弟を容易く裏切る、さすがはドライモンスター末弟。
「総ざらいすんじゃねー!」
しかし多勢に無勢で戦闘不能に陥るイヤミさんの屍を越え、満身創痍の五人が抜け駆け許すまじと駆けてくる。みんなで仕切り直ししようと思っただけだよとトド松くんは笑って肩を竦めたが、兄たちに背を向けた瞬間思いきり舌打ちするのを私は見た


トド松くんへの悪態をつきながらも、女性陣へフォローの言葉を投げかけ、夜の街へと消えていく彼ら。
さて駆け込み寺のお役はごめんだと会計を済ませて帰ろうとしたら───出口の先でカラ松くんが立っていた。
「ユーリ」
「行かないの?」
ああ、と彼は答える。

「少し、話をしないか?」




満天の星空とは縁遠い都会の夜空の下を、私たちは歩く。どこへ向かうのか訊かないまま同行すれば、人気のない住宅街の公園へと辿り着いた。錆びたベンチに腰掛けて、何となく気軽に話題を振れない雰囲気を悟る。
「一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあるんだ」
「何?」
その時点で、何に対する問いかけかは漠然と想像がついた。

「オレが合コンに行くのは、ユーリはどう思った?
他の女性と、二人になるかもしれないような場所に行くことを」

そうだね、と一呼吸置いて、私は自身の膝の上で両手を組む。質問を質問で返し、畳み掛けることで合コンへの参加を促し、それでやり過ごしたとばかり思っていた。けれどカラ松くんにとっては看過できない問題だったらしい。

「いいか嫌かで答えるなら───嫌、かな」

苦笑交じりに私が告げると、カラ松くんの目が瞠られて、それから口元が緩んだ。
「ハニー…っ」
「カラ松くんの場合、女の子から強引に迫られたら断れない感じがするんだよね。それで後々後悔はしながらも、別れられずにズルズル付き合い続ける最悪パターン突入しそう
歓喜に満ちた笑顔がカラ松くんから消えていくのを横目で見ながら、私は続けた。語弊のないように、伝わる表現で。
「だからね、そうならないように私が近くにいたい、っていうのはある」
「ユーリ、それは」

「私がカラ松くんを、不幸にはさせないよ。幸せになってほしいし、それを見届けることができたらな、って」

何をもって幸せと定義づけるのかは分からない。ゴールがあるのかさえ不明だ。ただ漠然とした独善的な感情に突き動かされている。カラ松くんのためと称した自己満足にも感じられる。
しかし、迷惑ならば言ってほしいと結ぼうとした私に、彼から向けられた表情は柔らかく、破顔とも呼べるものだった。
「ユーリ…」
ああもう、とカラ松くんの口から溢れる文句は空気に溶ける。整った髪をぐしゃぐしゃと掻いて、彼は唇を尖らせた。
「ご褒美に何を貰おうかずっと考えてたんだぞ。ユーリがくれるっていうから、どこまでなら許容してもらえるかとか、普段なら頼みにくいことにしようかとか!───なのに」
遠くの繁華街の賑わいが僅かに耳に届く程度の静寂。人目を憚る必要も、私たちを遮るものも、ここにはない。

「ユーリのその言葉が、十分すぎるご褒美だ」

なにこれ可愛ええ。
うちの推し本当可愛い。笑わせたいし泣かせたいし抱きたいし、妄想が捗って大変。

脳内を駆け巡る欲望の渦を悟られまいと、何でもないフリをして私は無言で肩を竦める。

「なぁハニー、でもそれはその、つまり…オレのことを─」


しかし彼のその言葉は、途中で六つ子の出現によって遮られることとなる。
「カラ松兄さん発見伝!」
「オイコラクソ松!ユーリちゃんと何しけこもうとしてんだボケっ」
なぜかスライディングで駆け込んでくる十四松くんに、中指をおっ立てて物騒な顔つきの一松くん。その後ろに残り三人が続いてくる。全く想定外の出来事に、私とカラ松くんは揃って目を剥いた。
「ブラザー!?何でここが…」
カラ松くんの疑問には、したり顔のおそ松くんが答える。
「馬鹿め!こんなこともあろうかと、お前のポケットに小型GPSを仕込んでおいたんだ!
こんなこともあろうかと。予測していたのか、六つ子怖い。
「合コン相手は?」
「六つ子揃ってないと意味ないだろうが単細胞松!黙って途中棄権とか正気かお前は!六人で来れる時にまた連絡してねってアドレス交換したよ、ありがとね!
トド松くんに至っては、罵りたいのか感謝したいのかもうよく分からない。
「良かったね。次に繋がったんなら御の字じゃない?」
「御の字っていうか奇跡っていうか。ただ結局カラ松がユーリちゃんと二人きりで一番いい思いした気がするんだよね。それは僕的には最高に腹立つ
「分かるよチョロ松、俺もカラ松をパイルドライバーで埋めたい
──でもまぁ、とりあえずチビ太んとこで飲み直そうぜ。んで次回の作成会議!」
金もうないからツケだけど、とおそ松くんはからからと快活に笑って、それから私に向き直った。

「ユーリちゃんも行くだろ?」

当たり前とでも言わんばかりに。
六つ子全員が私に視線を投げて、返事を待つ。
そして、ユーリ、と。カラ松くんが乞うように私の名を呼んでくるから。二つあったはずの選択肢はもう一つしか残されていない。
静かな公園に吹き付ける風が、誰も乗っていないブランコを揺らした。

童貞を惑わす彼女の香り

香りは、人の心と体にダイレクトに訴えかける、本能に深く関わる感覚だ。
人間の脳は匂いや香りに騙されやすいと言われている。匂いによって人を印象付けた経験に、覚えはないだろうか。
心身に影響を与えるだけでなく、過去と関連付けることで、時に古の記憶を呼び起こしたりもする。




「ユーリ」
日の照りつける日中でも少し肌寒さを感じるようになったある日、駅の入口に立つ私に声をかけたのは、カラ松くんだった。
どこか気怠げに視線を落としていた彼の双眸は、私を認識した瞬間に輝きを増して、弾むように小走りで駆け寄ってくる。Vネックの青いシャツに黒い薄手のミリタリージャケットを重ねた、細身のシルエット。袖を捲くった腕には、シルバーのバングルが揺れる。
控えめに言って、ただのイケメン。

「おはようカラ松くん、早い到着だね」
約束の時間にはまだ十五分ほど余裕がある。
「それはオレの台詞だ、ハニー。いつからここにいた?今来たばかりというわけじゃないだろう?」
詰問するようにカラ松くんが問う。眉間には皺が寄っている。
「トド松くんがこの近くに新しいカフェができたっていうから、新店調査がてらお茶してたんだ。でもお客さん増えて満席になったから、早めに出てきたの」
「ああ、なるほど。それで…」
唇に人差し指を当て、納得はした様子。それでも、待ちぼうけで冷えたんじゃないかとか、風邪でもひいたら大変だとか、過保護なことを言ってくる。これが素だというのだから、天然タラシの素質が凄い。お姉さん喜んで課金しちゃうぞ。
「いい雰囲気のお店だったし、今度一緒に行こうよ」
そう誘えば、一瞬驚いた顔をしてから、すぐに顔の筋肉を弛緩させて笑みを浮かべた。たまらなく嬉しいと、その顔は雄弁に物語る。
「そんなにオレと行きたい?
ハッハー、ハニーは本当にわがままなキティだな。しかしいいだろう、この松野カラ松、キュートなハニーが望むなら、どこへでも華麗にエスコートしてみせよう!」
恭しく頭を垂れて、王子が姫の前で跪くようなポーズを取るカラ松くん。相変わらず、気障な態度の時は仕草がいちいち大袈裟だ。


戯言はスルーに限る。さて行こうかと一歩踏み出した時、不意にカラ松くんが私と物理的に距離を詰めてくる。
「秋の妖精がついてきてるぜ」
何事かと構える私をよそに、気取った表現で私の髪に手を伸ばす。かさりと乾いた音がして、反射的に見やれば、彼の手に一枚の小さな枯れ葉。カフェから駅までの道中、オレンジ一色に染まった紅葉の美しい並木道を通ってきたせいだ。
「…ん?」
枯れ葉から手を離したカラ松くんは、僅かに顔を突き出して不思議そうな顔をする。くん、と鼻を鳴らして。
「…何だかいい匂いがする」
「あ、気付いた?」
何となく気恥ずかしくて、私は首を竦める。
「実はちょっと前から、香水つけ始めたんだ」

たまたま立ち寄った専門のショップで購入したのだ。すれ違った人に好ましい印象を持たせるような、日常使いができる優しい雰囲気のものを、と所望して。
「香水…そうか、どうりで…」
「ふんわり香るくらいのものだと思うんだけど、大丈夫?強すぎない?」
問われたカラ松くんはもう一度私に顔を近づけて、鼻を鳴らす。
「近づくといい香りなのが分かるくらいで、嫌な印象は全くないな。
こう…凛とした中に少し甘さがあって、でも爽やかで──ユーリに、よく似合ってる」

彼の嗅覚と表現の的確さに、思わず感心する。
私がつけているのは、砂糖が入ったストレートティーのような、ほんのりとした甘さとナチュラルさが調和した、日常使いでも飽きない爽やかさを謳っている。香りそのものに強い癖がなく、ほのかに香り続ける。
「でも…由々しき問題が一つあるな」
「問題?何?」
「ハニーの魅力に気付く男が増えてしまうじゃないか。
ただでさえアフロディーテも太刀打ちできないほどキュートなのに、触れずにはいられない魅惑の香りを纏ったユーリは、さながら空腹のライオンの前に現れた子うさぎだ
平然と、さも当然の如く言ってのける。それがどれほどの破壊力を持つ言葉なのか、本人は気付く余地もない。
「変な虫がつきやすくなるのは、看過できないプロブレムじゃないか?」
もう勘弁して。
「ないと思うけど。でもまぁ…万一そういうことがあったら、カラ松くんヘルプで呼ぶね」
「その時は、光の速さで助けに行く」
本当に来そうだから笑えない。




「香水の効果で、ハニーが近くに来たらすぐ分かるのは、いいかもしれないな」
並んで歩きながら、カラ松くんがふと思いついたように言った。
「そんなに強い香りじゃないよ」
「そうなんだが、普段ユーリの匂いが印象に残ることなんて、そうそうないだろ?
たまに…あー、何だ、その…シャンプーのような柔軟剤のような、そんな匂いがするなと、思うくらいで」
微かな香りさえ感じられるほど密接するシチュエーションを思い出したらしく、カラ松くんは顔を赤くして私から視線を逸らす。

自分の体臭なんて、ついぞ考えたこともなかった。
誰しも自分の匂いには鈍感だと思う一方で、そういえば、と私は思わず口に出していた。
「カラ松くんは、いい匂いがするよね」
「…へ?オレ!?」
目を剥いたカラ松くんの声が裏返る。
「うん、カラ松くんの肌の匂い。
何度かくっついた時に、いい匂いがするなって思ってたんだよね」
体臭の要素となる成分は、肌の細菌や皮脂、毛穴から分泌される汗など数百種類と言われている。人によって匂いが異なるのも、女性の匂いは甘いと言われるのも、理由は科学的に解明されているのだ。
好ましい匂いと感じる相手は、遺伝子的にも相性がいいという。
「そ、そうか…?
清潔にするようには心掛けてはいるが、何せうちは男所帯だし、風呂も銭湯だし…」
自信なさげに自分の腕の匂いを嗅ごうとするから、私はカラ松くんの首筋に無遠慮に顔を近付けた。Vネックから覗く鎖骨に欲情したのは内緒だ、本当すいません。
「──ユーリ!?な、何を…っ」
抵抗はされなかった。驚きの言葉と共に両手が上がったが、顔を寄せた私に自分の顔が接触しないように顎を上げるから、その行為は歓迎していると誤解されそうだ。
柔らかな肌が、戸惑いがちに差し出されて。これがドラキュラなら、乙女の首筋に牙を立てるところだ。
「…うん、やっぱりいい匂いだよ」

カラ松くんから離れてにこりと微笑めば、彼は耳まで赤く染め上げて、手の甲で口元を隠す。
「ユーリっ…こういうのは、急にしないでくれないか。その…心の準備が…」
「あ、そうだね、ごめん」
私が素直に謝罪すると、カラ松くんはハッとして首を横に振った。
「…いや、違───すまん、やっぱり今のは取り消しで」
あ、とか、ええと、とか、不明瞭な一語を発するばかりで口ごもるのは、紡ぐ言葉を選ぶように。やがて意を決したのか、大きく口を開く。

「こういうことは、オレ以外の男には絶対にしないでくれ」

オレになら、いくらやってもいいから、と。

耳に抜ける雑音の一切合切が掻き消えてしまうほど、カラ松くんの口の動きと声に意識が集中する。懸命なその様子がたまらなく可愛くて、私の頬は自然と緩んだ。




その日の午後、外での用事を済ませた私たちは松野家を訪れた。安定した収入のないカラ松くんと高頻度で会うには、互いの家が一番手っ取り早い。特に松野家の場合は高確率で六つ子の誰かが在宅していて、私の訪問を歓迎してくれる。

いち早く気付いたのは、トド松くんだった。
「もしかしてユーリちゃん、香水つけ始めた?
爽やかないい香りで、落ち着いた大人の女性って感じー。ねぇねぇ、どこのブランド使ってるの?」
来客用のカップに注いだコーヒーを円卓に置くため、私の傍らに膝をついたトド松くんが、興味深げに訊いてくる。さすがは松野家における童貞脱却の第一候補と言わしめた末弟、鋭い観察力だ。
「マジで!?そういやさっき廊下ですれ違った時、何か違うなって思ったんだよね」
ポテトチップスを頬張りながら、おそ松くんが目を剥いた。
「えー、おそ松兄さん気付かなかった?
ユーリちゃんが玄関入ってきた時から、紅茶みたいな美味しそうな匂いしてたよ」
「相変わらず十四松の嗅覚は犬並みだよな、逆に怖い
一松くんがぽつりと呟いた感想には同意しかない。香りのタイプを大まかに把握することさえ素人には困難だというのに、紅茶をベースにした点を彼は的確に突いてきた。
「女の子がつける香水って、魅惑のアイテムだよねぇ。
スメハラとか何だとか言われる時代だし、他の匂いが分かんなくなるくらいキツイのは僕も苦手だけど、横通った時にさり気なく香ってくるなんて超セクシー。もう恋に落ちる予感しかない
恍惚の表情で天井を見上げるチョロ松くん。
「そう、それだチョロ松!」
突如立ち上がり、おそ松くんは一大事とばかりに私に人差し指を突きつけてくる。何事かとぽかんと口を開けるその他の面々。

「可愛い女の子ってだけでいい匂いするのに、香水とか何その童貞殺し!
その香水つけたら、ユーリちゃんが側にいるみたいじゃん?ってことは、実質ユーリちゃんになれるってこと!?俺=ユーリちゃんの方程式が成立!これってもはや付き合ってることになんない!?

拳を握りしめ、鼻息荒く捲し立てる理論は、途中から清々しいほどに破綻していた。
「お前頭おかしいぞ、おそ松」
カラ松くんが私のツッコミを代弁してくれた。
「でもユーリちゃんの香水は、すごくいい匂いがするよ。砂糖菓子のようなくどい甘さじゃなくて、スッキリした爽やかさの中にほのかな甘みがある感じ。ボク好きだなぁ」
「可愛い子は存在自体が尊いのに、香水つけた可愛い子なんて天界の人だよね、ユーリちゃんは女神説はあながち間違いじゃない
テーブルに頬杖をついて微笑を浮かべるトド松くんに対し、チョロ松くんは真顔で言い放つ。
「強化アイテムで、ユーリちゃんの魅力アップってことだね!ユーリちゃんすげぇ!」
トド松くんの向かい側で、十四松くんが長い袖をくねらせた。お世辞だとしても、褒められるのは悪い気がしない。それほどでもないよと私が謙遜したところで、ノンノンとカラ松くんが人差し指を振った。
「冷静になるんだ十四松。ユーリが一層魅力的になるということは、それだけ虫が寄り付きやすくなるということだ───駆除する準備は整えておく必要がある
「ウォーミングアップは二十四時間万全でっせ、兄さん」
「そうか、さすがだな。心強いぞブラザー」
「その準備は確実に無駄になるから今すぐ止めろ」
童貞ニートどものフィルターには、私はどう映っているんだ。度の過ぎた賛辞はむしろ興醒めなのだが、カラ松くんに至っては本気で私の身を案じているのだから、たちが悪いことこの上ない。今だって、私の制止の声に愕然として目を瞠っていた。




「カラ松くんは、マリン系か柑橘系かなぁと思うんだよね」
ショッピングモールの一角にある香水コーナーで、私は比較的メジャーで安価な香水が並ぶアクリル棚を覗き込む。
「んー、ハニー、ガイア最高峰にギルティストなオレに相応しい香りは、言葉でひと括りにできるほど単純じゃないぜ。幾重にも絡み合う男女の恋心のように複雑で、かと思えば水面に波紋を広げる一滴の雫のように静粛で──」
「黙って」
「あ、はい」
カラ松くんは気落ちして、私の視線の先を追う。
棚の端に香りを試すための細長い白い紙、いわゆるムエットが置かれていたので、テスターを吹き付けて嗅いでみる。
「香水ってさ、つけるシーンによっても選び方が変わってくるんだって」
「つけるシーン?」
「そう、私みたいに日常使いだったり、フォーマル、デート、リラックス用──とかね。
人とは違う特別なものをっていう気持ちも分かるんだけど、それだと匂いの存在感が強すぎて、カラ松くんの良さが霞むのは本末転倒でしょ?」
自然で気取らない香りの方が、意外と似合う気がするのだ。青い海のように爽やかでフレッシュな雰囲気なんて、特に。私の勝手な印象で、本人の願望とはかけ離れているかもしれないけれど。

「私は──爽やかで可愛くて、ちょっとセクシーなカラ松くんがいいな」

ムエットから漂う柑橘系のさっぱりとした香りに気を奪われて、カラ松くんから返答がないことにしばらく気付かなかった。カラ松くんに似合うのではと提案しようと目線を移した際、顔を真っ赤に染め上げた彼が視界に入る。本音ポロリしすぎた、申し訳ない。
ここはフォローすべきかと思案を巡らせるより先に、カラ松くんが普段以上に大袈裟な身振りで額に手を当て、悩ましげなポーズを取る。
「…フッ、そんなにオレの匂いが嗅ぎたいか。安心するといい、オレの胸はいつでもハニーのために空けてるぜ!
「そう?じゃあ予約しとく」
「え!?……ほ、本気か?」
躊躇なく返したイエスの言葉には、悪ふざけと本心が混同している。少し大仰な流し目で微笑めば、熱の集中した顔には、愛嬌のある笑みが浮かんだ。

「──なら、ユーリ専用でいつでも空けておく」




結局、カラ松くんに合う香水の発見は至らなかった。一番イメージに近い物を手首に吹き付けて試そうかとテスターを向けたが、私の香りが判別つかなくなると辞退された。
「ずっと嗅いでいたくなるような香りだからな」と笑顔でぶち込まれた天然砲を、平然と対応した自分に勲章を贈りたい
まぁ香水なんてオプションつけずとも推しは最高に可愛いから問題はない。沼万歳。

「お待たせ、カラ松くん」
女子トイレで化粧崩れを軽く直し、モールの通路に設置されているベンチに腰掛けるカラ松くんに声をかけた。腕と足を組み、どこか物憂げに天井を見上げるその姿は、相変わらず様になっている。ときどき、彼が童貞であることを、とても不思議に思う。
「ハニー」
そんな彼が私を見るや否や破顔して、ハニーと呼ぶのだ。にゃーちゃん超絶可愛いよと、魂で叫ぶチョロ松くんの気持ちがよく分かる。
「帰りは、駅まで送っていくだけで本当にいいのか?家までだっていいんだぞ」
「まだ夕方だし、心配しなくたって大丈夫だよ」
子どもじゃないんだからと一笑に付した時、カラ松くんが首を傾げた。
「ん?香水の匂いが強くなったような…」
彼の反応に、へぇ、と私は感嘆の声を漏らす。
「分かる?だいぶ時間が経ったから、つけ直したの」
「それにしては、匂いが少し違う気がするな。紅茶というよりは…少し甘い果物みたいな、上手く表現できないんだが」
「…すごいねカラ松くん、そんなとこに気が付くんだ」
まったくもって恐れ入る。嗅覚が優れているのは十四松くんだけではないらしい。

「香水って、時間の経過に合わせて香りが変わっていくんだよ」
香水は様々な香料をブレンドして作られていること、成分によって揮発する時間が異なるために香りに変化が現れること。
人と会う時は、半時間から一時間前につけるといいとされている。ミドルノートと呼ばれる香りが漂う頃で、これは香水として最もいい香りの時間帯だからだ。
「奥が深いんだな」
「変化を楽しめるのも香水のいいところだよ。──そうだ、私の香水を気に入ってくれたなら、カラ松くん試してみない?」
そう言って、私は鞄から香水を詰め替えたアトマイザーを取り出し、カラ松くんの手首に向けてプッシュする。
私がつけているのはオードトワレと呼ばれる、3~4時間程度香りが持続するタイプだ。外出時間が長い日は途中で香りが消えてしまうため、詰め替えを持ち歩いている。
「自分でつけると、また印象が違うな」
「体質によっても変わるから、カラ松くんがつけた場合と私がつけた場合も、厳密には香りは違うと思うよ」
香りの変化を知覚しやすいように手首につけたので、手を挙げるたびに強く鼻孔をくすぐるだろう。

「いい香りだよね」
同意を求めるよう訊けば、カラ松くんは自分の手首を口元に近づけて、うっとりと陶酔するように目を細めた。

「───うん」

カラ松くんが「ああ」ではなく「うん」と答える時は決まって、気取った仮面が外れて無意識に気を緩めている。そこにあるのは、満足感や充足感といった、彼の器を温かな液体で満たす幸福の要素だ。要は、セクシーがすぎる
「ハニーが側にいるような気がして、いいな」
卒倒しなかった私を誰か褒めて。




不思議な感覚だった。
微睡んでいるような、魔法をかけられているような。
己の手を顔に近づけるたびに、ユーリの纏う香りが強く漂う。彼女と別れてしばらく経つのに、振り返ればまだ傍らにいるような気さえする。快活さに満ちた、カラ松が好きな笑顔で。
手首を寄せずとも、香りは不意にも訪れて、カラ松をドキリとさせる。心臓に悪い。

「ただいま」
玄関の引き戸を開けて言えば、居間に続く障子が開いて、チョロ松が顔を出した。
「おかえり。もうすぐご飯だから、席ついとけよ」
「分かった。ブラザーたちは?」
「二階にいるから、呼びに行くとこ。お前暇だったら食器並べるくらい手伝っといてよ」
ん、と返事をして、上がり框で靴を脱ぐ。
よろしくなと肩を叩かれた直後、チョロ松が目を剥いて、握りしめるようにカラ松の両肩をがしっと掴んだ。カラ松はギョッとして硬直する。叱責される覚えは全くないが、何かやらかしたのだろうか。
「ぶ、ブラザー…どうし」
「ユーリちゃんの匂いがする」
「え」
咄嗟に言い逃れできなかった。外出時、兄弟は各々別の用事で不在だったから、ユーリと会うことは告げずに家を出た。書き残しや伝言も残していない。しかし、それはいつものことで、事後報告で事が済むことも多かった。
「あ、ああ…ユーリと会ってきた」
正直に答えれば、そんなことはいい、とチョロ松は切り捨ててくる。

「抱いたの?」

「んんっ!?」
意味が分からない。なぜその言葉が出てくるんだ。
「ユーリちゃんを抱いたのかと訊いてるんだ」
チョロ松の瞳孔は開いている。けれど声は抑揚がなく平坦で、いつにないそのギャップがカラ松を戦慄させた。
「だ、抱くというのは」
「営んだかってことだよ!」
「えええぇえぇっ!?だ、抱いてない!抱いたこともない!それどころか今日は手さえ握ってないぞっ!何、怖っ!
「じゃあ何でお前からこんなに強くユーリちゃんの匂いがするんだよ。どんだけ密着したら移るんだってレベルで匂いがするんだけど」
自分のみが認知している段階では、かろうじて許容範囲だった。しかし他人に認識される想定は欠落していて、突きつけられた客観的な現実は、カラ松の顔に熱を集中させる。
「…そんなに、分かるものなのか?」
口から出てきた言葉は、釈明でも誤魔化しでもない、素朴な疑問だった。
「分かるに決まってんだろ。ユーリちゃんがつけてる香水の匂いしまくり。つか、ユーリちゃんがつけてるから芳しいんであって、お前がつけてたら違うからね」
「そうか…そんなに、か」
チョロ松のオラついた眼力は、ユーリの香りの前では効力を発揮しない。たかが香り一つで惑わされる自分はどうかしてると思う反面で、カラ松に容易く幸福をもたらしてくれるユーリの存在感を痛感させられる。
やはり彼女は、自分にとってなくてはならない女性だと、もう幾度目かの再確認。
何がそんなにおかしいんだよと、チョロ松に指摘されて初めて、自分が笑っていることに気が付いた。




銭湯に行くまでの数時間、他の兄弟たちから散々香水の香りを揶揄されたのも、改めて思い返せばほんの束の間の出来事だった。
体を流して湯に浸かり、再び脱衣所に戻った時、第三者の元まで漂っていたほんのりと甘い紅茶の香りは、まるで最初からそんなものはなかったかとでも言うように、消滅していた。洗い流せば消える、ただそれだけの、当然の摂理。
なのに───

「そりゃ消えるよ、むしろ消えなかったら困るでしょ」
銭湯から帰ってすぐ、縋るように電話をかけたら、軽やかな声でユーリはそう言った。ちょうど彼女も風呂上がりだったらしく、時折タオルで髪を拭くガサガサした音が響く。
「そんなに気に入った?何なら、小分けにしたヤツあげようか?」
電話越しに濡れた髪のユーリを想像して、にわかに浮き立つ。無防備な服装と、触り心地の良さそうな柔らかな体と、形の良い唇と。顔を見られない通信手段で良かったと、この時ほど自宅の黒電話に感謝したことはない。
「…いや、オレはいい」
カラ松は小さく答える。

「あれは、ハニーの香りだ」

寂しさは紛れるどころか、増大してしまうから。
「オレのはまたそのうち考える」
より一層、会いたくなってしまうから。
限りなくノーに近いグレーの言葉で誤魔化せば、ユーリはカラ松の意図を悟ったのか、そっか、とだけ応じる。彼女はカラ松に強要はしない。ベターな道筋を示すことはあれど、最終的な選択はカラ松に委ねてくれる。
一人の人間として尊重されるのは嬉しい。けれど裏腹に、時に物足りなさも感じることがあって、与えられるものが増えるほどに貪欲さも比例する己の醜さに苛まれる。

会っていても足りなくて、かといって会わなければ渇望する。胸を掻き乱す想いは、なかなかに厄介な存在だ。
ユーリの側にいたい。
その一言を伝えるのに、いつも遠回りばかりしている。




時は過ぎて、それから数日後のことである。

「居間には母さんの友達が来てるから、ユーリちゃん二階上がってて。紅茶入れてすぐ行くよ」
トド松くんと、話題のショコラティエの新作ケーキを買いに行った帰り。割り勘で一通り買い揃えて、松野家で試食会の開催をしようという流れだ。ケーキの箱を抱えたトド松くんは、ウキウキ顔で台所に消えていく。
居間からは、女性二人の賑やかな話し声が聞こえてくる。邪魔にならないよう足音を忍ばせて二階へと上がった。

襖を開けると、毛布に包まれてソファで惰眠を貪っている人物が目に入る。誰もいないと聞いていたので少々驚いたが、顔を覗けば──カラ松くんだ。僅かに口を開けて、穏やかな表情で眠っている。寝顔も相変わらず可愛い。
床に膝を立て、上から顔を覗き込む。頬をつついたり髪を梳いたりしてイタズラを仕掛ければ、カラ松くんがううんと唸る。
おもむろに瞼が半分ほど持ち上げられて、寝ぼけ眼の瞳に私の姿がぼんやりと映った。
「あ、起き──」
しかし、私の言葉は遮られる。

音もなく伸ばされた両腕に、抱きすくめられたからだ。

「ユーリ…」
力強い抱擁で、私は彼の胸に顔を埋める格好になる。化粧が移るとか、トド松くんが上がってくるとか、様々な懸念事項が脳裏を過ぎったが、抗うほどの抑止力にはならなかった。服越しにカラ松くんの匂いがする。彼の胸の鼓動に合わせて心が落ち着いて、穏やかな感情へと誘導されていく。


抜け出すタイミングが掴めないまま、どれくらい密着していただろうか。
しばらくするとカラ松くんが片手で目を擦り、その刺激をきっかけに意識が浮上した様子だった。窓から差し込む日差しに眩しそうに目を閉じながら、自分が誰かを抱きしめていることを認識する。
「ああ、すまんブラザー…寝ぼけてて…」
私の背中から手を離して、カラ松くんは再び手の甲で目を擦る。まだ目は開かない。
「ううん、いいよ」
「…はは、何だお前その声。それじゃまるでハニーみたいじゃ…ない…か…」
瞼が持ち上がるにつれて消え入る声。私と視線がぶつかった瞬間に至っては、文字通り飛び起きた。猫みたいに。
「ユーリ!?…え、ええっ、何でここに!?」
「トド松くんとスイーツを食べに」
そう言えばカラ松くんには伝えていなかったっけ。
「あぁっ、その、す、すまん!ハニーが来るなんて知らなくて、さっきのは夢かと──」
しかし夢のせいにしても抱擁の言い訳にはならないと気付いたようで、顔を赤くしたまましどろもどろになる。
「ユーリの匂いがしたような気がして、ええと…だから、つまり…」
「そんなに強い匂いだった?」
「えっ、いや全然…ただ、ユーリの匂いだな、って」
「そっか、そんなもんなんだ。今日はここにつけたんだよ」
そう言って私は後頭部の髪を掻き上げた。うなじや耳の後ろには太い血管があり、香水は血管が通っている部位につけるのが良いとされている。

説明するための仕草だったのだが、カラ松くんにとっては刺激が強すぎたらしい。びくりと肩が硬直したかと思うと、床に落ちた毛布を慌てて拾い上げて膝の上に置き、じっと俯く。察した。
「なぜ勃つ」
「た…っ!?は、ハニーが急にうなじを見せてくるからだろう!?」
「水着や浴衣の時だって勃たなかったのに?たかが首出しただけで」
「されどうなじだ!しかもハニーのうなじだぞっ!童貞歴絶賛更新してる新品の、免疫力のなさを舐めるな!
威張るな。
なのに、どれどれ見せてごらんと毛布をめくろうとしたら、全力で抵抗される
「やだー!」
そして泣かれた。子どもか。


「ユーリちゃん、お待たせー」
そうこうしているうちに、トド松くんがコーヒーとケーキを載せたトレイを持って二階へと上がってくる。かたや美味しそうなチョコレートケーキ、かたやうなじに欲情して涙目の成人男性。対比がすごい。
「あれ、カラ松兄さんいたんだ?」
「え、ああ、おおっ、トッティ!」
不審者感丸出しで声を上げるカラ松くん。私はトド松くんの目を逸らすために、咄嗟にカラ松くんの前方に踊り出る。
「──あー、うん、そうそう、昼寝してたんだって。
トド松くんケーキもう一個あったよね?せっかくだし、家にいる三人で食べちゃおうよ。カラ松くんのコーヒー入れるの手伝うね」
「そんな、いいよ、お客さんなのに。ユーリちゃんのコーヒー冷めちゃうよ」
「全然!大丈夫!どうせ少し冷ましてから飲むし。ね、行こう」
トド松くんに笑顔を向けながら、戻るまでに下半身をどうにかしておけと、後ろ手でカラ松くんに合図を送る。彼が認識したかは定かではないが、トド松くんの後を追って階下へ向かう際に目が合ったその表情は、少し困惑したような、でもとても穏やかなもので。


彼らの前で香水をつけるのは控えたほうが良さそうだ。そんな結論を私が出すに至るのは、至極当然な流れだったといえる。

目指せ優勝!赤塚区大運動会(後)

騒々しい昼休みはあっという間に過ぎ、午後の部が始まる。
第一プログラムのパン食い競争に参加するのは、十四松くん。コースは二百メートルの半分を使い、途中の通過ポイントで木の棒に吊るされたパンの袋をくわえてゴールへ向かう。軽く跳ねれば容易にパンに届く高さで、十四松くんには物足りないレベルと思われた。
しかし一般庶民にとっては、揺れるパンを口だけで獲得するのは意外に手こずるもので、現に第一走者の半分はパンの下でぴょんぴょんと何度も跳ねる。

「食後一発目にパン食い競争ってエグくない?食指動かなさすぎる
「おそ松兄さん、腹満たす目的の競技じゃないから
トド松くんの返答が至極真っ当で、ツッコミというよりはただの指摘だ。
「でも十四松って、赤塚高校パン食い競争記録保持者だよね?
どんな難関も十四松ゾーンに入りさえすれば、パンも貰えて一位獲得も余裕。赤高のトビウオと呼ばれた十四松のためにあるような競技」
一松くんの発する単語がいちいち破壊力がすごい
とりあえず、十四松くんが一位ほぼ確定ということだけは伝わった。
しかし。

「問題は、主催者が赤高のトビウオを知らないはずがない──ってことだ」

チョロ松くんがごくりと唾を飲む。
シリアスシーンっぽいけど、たかが町内運動会のパン食い競争だからね?

ついに十四松くんの番がやって来る。
腕を振り回しながらマッスルマッスルと威勢のいい声を上げて、位置につく──とその時、十四松くんのコースのパンだけが、木の棒から外された。そしてコース外から釣り竿を使って垂らされた糸にぶら下がっている物へと代えられる。
百歩譲って、パンを吊るす方法の変更はいい。私が面食らったのは、パンの位置がどう好意的に見ても三メートル以上の高さにあることだ。
走者たちが右往左往する微笑ましいパン食い競争が一転、記録保持者に対してのハンデがえげつない熾烈な競技へと姿を変える

カラ松くんが苦々しげに下唇を噛む。
「クッ…やはり奴らは、赤高のトビウオを見過ごさなかったか。だが逆に言えば、それだけの脅威であることは今なお健在ということだ」
「カラ松くん…」
お前は何を言ってるんだ。
「可哀想な十四松兄さん…高校時代、パン食い競争でのジャンプはどう見てもイルカっぽい感じだったのに、イルカってツラじゃないと一蹴されてトビウオの異名を貰ったばかりに…」
本当どうでもいい。

しかし彼らの懸念は現実となり、案の定十四松くんは苦戦を強いられる。一メートル超えの脚立を使ってようやく届くかという高さを、ジャンプだけで達しろというのが土台無理な話なのだ。
「わーん、届かないよー!」
天使の脚力をもってしても届かない高さを要求する運営陣に、無性に苛立ちが募る。人力で釣り竿を用いるなら、届くか届かないかのギリギリの駆け引きを楽しめばいいのに下手くそか
「十四松くーん、頑張ってーっ!」
外野から私は声を張り上げる。
「うん、ユーリちゃん!見てて、ぼく頑張るからねー!」
声援一つで、十四松くんの表情がぱぁっと明るくなる。
直下から飛ぶのが駄目ならと、数メートルの助走つけた跳躍を試みるが、それでもまるでパンには届かない。
その内、敵対する赤組の走者がパンを引きちぎることに成功する。
何かできることはないか、そう考えた時、私の脳裏に過るものがあった。自分のバッグを漁って、取り出した物を天高く掲げる。

「十四松くんっ!一位になれたら、ネズミーランド限定のレインボーペロペロキャンディあげるよー!」

配色の美しさと均整のとれた形、濃厚かつ芳醇な味わいで、人を惹き付ける魅力を兼ね備えた人気キャンディである。たまたま友人からの土産で貰ったが、直径十センチ近い糖分を摂取する気になれなくて、彼に譲ろうと持ってきたものだ。
「限定ペロキャン!?」
十四松くんの目の色が変わった。

「この戦いが終わったら、ぼくはユーリちゃんから、ペロキャンを貰うんだ…ッ」

死亡フラグを立てるな。
口から吐き出される長い息と共に、体を軸にしてゆるゆると回転を始めた。コマのように回る体の周囲に砂が舞い上がり、時折強風が観客席まで吹き付けてくる。何だこの展開。
カラ松くんは矢面に立ち、私を風から守ろうとする。
「見ろハニー、十四松が十四松ゾーンに入った──これで勝利は約束されたも同然だ…」
「十四松ゾーン」
ツッコミは禁止ですか、そうですか。

タイフーンのように高速回転する彼が発生させた風は向かい風となって、パンをくわえたライバルをゴールへ進ませない。
「行け十四松っ、赤高のトビウオの実力を見せつけてやれ!」
「パン食い競争にお前の名が記述されたその瞬間から、勝負の行方は決まっていたんだッ」
向かい風になびく髪を押さえながら、おそ松くんとチョロ松くんが叫ぶ。
だから、町内会の運動会だからね?

高速回転を維持したままの十四松くんが蹴った地面は、トランポリンかと見紛うほどの反発をもって、彼の口をパンの袋へと辿り着かせる。紐ごと勢いよく引きちぎって、竜巻状態のままゴールのテープを切った。
「やったよユーリちゃん!一位ゲットー!」
目をキラキラと輝かせて、十四松くんは手にしたパンの袋を振り回した。




有志メンバーによる応援合戦や、シニア限定の○×クイズなど、幾つかの競技を経て、一松くんと私が参加する玉入れの招集がかかった。

「あー面倒くさい」
ジャージのポケットに両手を突っ込み、一松くんは背中を丸める。
「面倒なのに玉入れ参加で大丈夫?結構体動かす競技だと思うんだけど」
「大勢参加するから、一人くらい外野で突っ立ってても大して変わんないでしょ?だからだよ」
なるほど、納得。両親から強制されたから参加の義理は果たすが、プラスアルファの努力はしない方針らしい。
「まぁユーリちゃんは頑張ってよ。ユーリちゃんが楽しそうにしてるの──可愛いし」
消え入りそうな声で紡がれたその言葉を、私は確かに聞いた。頬を僅かに赤くして、一松くんは私から視線を逸らす。
「かわ──」
「ちょっと待って、こういうのは聞こえないのがお決まりじゃないの?
真顔で反芻されると羞恥心で死ねる
じゃあ何で言った。

それにしても、と私は周囲を見回す。何かがおかしい。他の競技と変わらない和気あいあいとした空気の中に、殺伐とした気配を感じて、私は眉間に皺を寄せる。
「ユーリちゃん…?」
視線を巡らせる私に倣うように、一松くんもまた一帯を観察する。
トラックの内側左右で白組と紅組に分かれて、籠から一定距離を取って円状に囲む。一見、何の変哲もない玉入れだ。だが得体の知れない不安に駆られた私は、一松くんの隣を死守する。

「あ、分かった」

一松くんが低いトーンでぽつりと溢す。
「参加者の割合がおかしいんだ」
「割合?」
「そう。普通玉入れって老若男女入り混じるもんだけど、見てみなよ他の参加者───八割が男で、女の人は五十代以上ばっかり」
紅白共に各三十人以上が参加しているにも関わらず、二十代女性は私しかいない。そして、なぜか男性陣から集中する意味深な視線。数少ない女性からは、憐憫の情に似た目線を向けられているような気がしてならない。杞憂だろうか。
「おそ松兄さんからは玉入れとしか聞いてないんだけど、ユーリちゃん何か知ってる?」
「ううん、私も玉入れとしか聞いてな──」
言い終わらないうちに、マイクを持った司会者の声がスピーカーを通して聞こえてくる。

『では午後の目玉競技、スプラッシュ玉入れを行います!』

何て?

『今から係が水風船を持っていきますので、その水風船を籠に投げ入れてください。通常の玉入れ同様、多くの数を入れたチームの勝利です。
制限時間は六十秒。水風船は破れやすいので、落ちた拍子に割れて服が濡れてもご容赦くださいねー、ハハハ

サークルの中にばら撒かれる、大量の水風船。不明瞭だった全てのパーツが一つに繋がって、私と一松くんはほぼ同時に外野のおそ松くんをきっと睨めつけた。
私たちの殺気に気付いた彼は、にこやかにウインクしてサムズアップ

「よし、クソ長男は後で始末だ」
一松くんが青筋を立てて拳を鳴らす。頼もしい、やったれ。
「ユーリちゃんは逃げることに専念しなよ。オレと同じように端にいれば、一分くらいなら濡れずに済むんじゃない?」
「そうだといいけど…」
ひしひしと感じる、無遠慮に向けられる幾つかの眼差し。そういった類に聡くない私でも、真正面から見つめられれば嫌でも気付く。
一松くんが気怠そうに息を吐き出すのと、開始のホイッスルが鳴るのが同時だった。


参加者たちは、地面に転がる水風船を拾い上げ、籠へ向けて投げていく。
宙に舞う色とりどりの水風船。掴んだ瞬間に勢い余って破裂させる者、降ってきた水風船が直撃して服を濡らす者、誤って靴で踏みつけ爆発させる者など、一般的な玉入れとは異なる様相を呈する。そのたびに客席はどっと沸いた
積極的に参加するメンバーから二メートルほどの、サークルの縁ギリギリに立つ距離を保てば、被害は何とか免れそうだ。
戦線離脱は罪悪感が残るが、安堵して肩の力を抜いた、その時───

私の真横を、弾丸よろしく高速の水風船が通り過ぎた

「ッ!?」
「ちょっ、ユーリちゃん…大丈夫!?」
一松くんの顔色が変わる。きっと、私も同じような表情をしていたに違いない。
「な、何とか…でも今の、間違いなく狙ってたよね?当てに来てたよね?」
「十四松並にキレのあるストレートだった…」
玉入れ参加メンバーに本職の方がいらっしゃる疑惑が浮上。
私を狙った理由は考えたくない。
白シャツは透けやすいとか、二十代女性が自分だけだとか、弾き出される解答は一つしかないけれど、認めたくない自分がいる。これが正常性バイアスか。

「伏せろっ!」

不意に、いつになく大きな一松くんの声が響いた。
そしてほぼ時を同じくして聞こえた破裂音と、水しぶき。
「い、一松く──」
素早く私の前方に躍り出て、迫りくる水風船を薙ぎ払った彼の右半身に水滴が滴る。ぽたりと地面に落ちて、足元に広がる水たまり。
「一松くん!」
「ユーリちゃんは動かないで」
真正面を見つめたまま微動だにせず。

「おれがどうにかする」

そう言い切った直後、立ち位置をずらして腿で水風船の直撃を受ける。私は息を飲んだ。彼が足を動かさなければ、屈んだ私の背中で破裂していたかもしれないからだ。
外野では、鬼のような顔をしたカラ松くんがロープを乗り越えようとして、他の四人に抑え込まれていた。やいのやいの騒いでいるようだが、玉入れの阿鼻叫喚で、彼らの声はこちらまで届かない。

籠目掛けて水風船を投じる大勢の中に紛れた、プロ投手さながらの手腕を持つスナイパー。一松くんの足の隙間から様子を窺うが、目星がつかない。
何より一松くんは、奴らを仕留めるよりも制限時間を耐える方が得策と判断したらしい。
爪を立てた猫のポーズで構え、時折飛来する水風船を次々と撃破していく。代償として自分が濡れることなど厭わずに。その命中率は百%、さすがは日頃十四松くんの野球に付き合っている相棒だけのことはある。


『試合終了ー!みなさん、白線までお戻りください!』

「…良かった」
力なく呟いた一松くんの声が、強く印象に残った。その表情は、彼に守られる私には見えなかったけれど。




試合は、僅差で白組が勝利を収めた。
ほぼ防御に徹した二人と、数名のスナイパーが離脱していたにも関わらず、チームは健闘してくれた。

「ユーリっ、無事か!?」
退場門をくぐった途端、待ち構えていたカラ松くんが血相を変えて駆け寄ってくる。
「私は大丈夫だよ。全然濡れなかった」
「ハニーを守ってくれてサンキューだぜ、ブラザー!」
双眸を輝かせてカラ松くんが仰々しく両手を広げた。土砂降りに遭ったような全身びしょ濡れの一松くんは、チッと舌打ちして眉間に皺を寄せる。
「ユーリちゃんはテメーのもんじゃねぇだろ」
「男気溢れたガーディアンだったぞ、一松!」
一松くんのツンな態度も何のその、白いバスタオルを彼の頭にかけて、カラ松くんは朗らかに笑う。
私は改めて一松くんに向き直った。
「本当にありがとうね、一松くん!驚くわ感動するわで、私もう今日は一松ガールだよ!
「い、一松ガー…えっ!?」
両手を握りしめて私が言うと、一松くんは顔を赤くして目を瞠った。
「いやいや、おれみたいなクズにもったいない…そんな施しいらないし…っていうか別に、ちょっと濡れただけだし」
一見気のない返事だが、タオルで隠れた顔は綻んでいる。へへ、と一松くんが小さく笑って、肩が揺れた。

「えーっ、何で一松ガール!?」
異議を唱えたのは、カラ松くんだった。
「カラ松ガールになるのは断固リジェクトなのに!?
やだやだっ、ハニーがカラ松ガール差し置いて一松ガールになるのは嫌だー!
「うるさいよカラ松くん」
「うるさい黙れクソ松」
「そういうとこに限って二人の息が合うのも嫌だー!」




松野家出発時の朝、念のためにとおばさんから六つ子に渡されたボストンバックの中には、数人分の着替えが入っていた。この事態を予測したのかと勘ぐってしまう反面、さすがは長年彼らの母親を務めていることはあると感心する。

運動会も終盤に差し掛かり、最終種目の紅白代表リレーの招集がかかった。足に覚えのある者ばかりが集い、大会一番の盛り上がりを見せる競技だ。見る側も俄然テンションが上がる。
「フッ、オレの出番か」
シートからすっくと立ち上がるカラ松くんに反して、その他五人はシートに寝転がってひらひらと手を振るだけだ。
「適当に蹴散らしてこいよ脳筋」
「紅組と拮抗してんだから、最後で男見せろよ」
六つ子たちに威勢がないのは、つい今しがたまで参加してきた騎馬戦で消耗しているためだ。何でもありの男女混合戦で、大将かつ指揮官のトト子ちゃんに捨て駒として散々酷使された結果、性も根も尽き果てている。
紅白リレー出場者のカラ松くんだけは、順番が前後する競技には参加不可という大会側のルールにより、騎馬戦不参加。それ故、はつらつとしているというわけだ。
「活躍期待してるよ、カラ松くん──あ、暇だし入場門まで送ってく」
死屍累々の五人と共に待機するのが躊躇われたのもある。

入場門へと向かう道中の会話で、彼がリレーの最終走者と初めて知る。
「え、本当にアンカーなんだ?すごいね!」
「フッ、当然だ。どんな相手だろうとすぐさま追い抜いて、トップになる自信があるからな。それならオレを最後に配置するのがベストな采配、だろ?」
キメ顔で自信たっぷりにウインクを決めてくる。

「このファイナルリレーのとびっきりのビクトリーを、ユーリに捧げよう」

いつも通りの大袈裟な振る舞い。
私が笑ってスルーするのもお決まりの流れ───のはずだった。

「ちょっとっ!あなた今、告白リレーの優勝を贈るって言いました?」
本部席の前を通った時のことだった。
ジャージ姿の三十代のおぼしき男性が、本部席の椅子から勢いよく立ち上がって私とカラ松くんにマイクを向ける。首からは『司会進行』と書かれたカードがぶら下がっている。
「え…ああ、言ったが…」
呆気に取られながらも、カラ松くんは首を縦に振った。
「お隣にいるのは、あなたの彼女?」
「ハニーのことか?」
「ハニー!なるほど、そういうご関係!分かりました!」
どういうご関係。
一見会話が成立したように見えるが、これ絶対誤解してるヤツやん
「えーとあなたは…おおっ、白組アンカーの松野カラ松さん!」
長テーブルに置かれていた参加表を手に取り、彼は唐突にマイクを掲げた。

『ご参加のみなさん!ここにおられる紅白リレー白組アンカーの松野カラ松さんが、リレーの勝利を彼女にプレゼントするそうですっ!
果たして彼の愛は通じるのか!?みなさん応援してくださいねー!』

スピーカーを通じて広がる司会者の声に、歓声が湧き上がる。
プログラムも終盤に差し掛かり緊張感が緩和された頃合いに、降って湧いたドラマチックなイベントは、場にも慣れて弛緩した彼らの感情に揺さぶりをかけた。
「…帰りたい」
私は文字通り頭を抱える。

しかしカラ松くんは対照的に、司会者からマイクを奪い取り嬉々として壇上に上がる。

「ハッハー、待たせたなボーイズ&ガールズ!
この松野カラ松、いかなる試練も乗り越えてハニーに勝利を捧げてみせようっ!乞うご期待!」

マイクを通して反響するイケボ。盛り上がる観客たち。うん、声はいい、実にいい。問題は内容だ。
「カラ松くん…大丈夫?」
司会者にマイクを返した彼に、私は声をかける。
「うん?どうしたユーリ、オレが負けるか心配なのか?」
「何ていうか…勝ってほしいけど、こんなに大勢の前で宣言しちゃっていいのかな、って」
彼の意気込みをこの場の全員が知るところとなった以上、何が起こるか予測がつかないのだ。
しかし私の不安をよそに、カラ松くんは私に笑顔を向ける。
「それなら、オレの勝率が劇的に上がるおまじないがあるんだが、頼まれてくれないか?」
「いいよ、私にできることなら」
即座に頷けば、彼は一層目を細めた。

「ゴールで、オレを待っていてくれ」




運動会のトリを飾る紅白リレーが始まった。
紅白各チームから足の速さに自信のある猛者が集い、バトンをつないで走る、言わずと知れた競技だ。最終走者はチームカラーのたすきを肩にかける。鋭い眼差しで遠くを見つめるカラ松くんの白いはちまきとたすきが、ひらひらと風に揺れていた。
走者は二十代から三十代が過半数を占めており、紅白リレーに出場するだけあって走る姿には迫力がある。観客席からは歓声が飛び交い、スピーカーから流れるBGMと相まってグラウンドの熱気は高まっていった。

両者抜きつ抜かれつの互角の戦いが続く。
拮抗しているならばカラ松くんが有利か。

そう思った次の瞬間───白組の走者がバランスを崩して転倒する。

紅組に大きく引き離される。
叫ぶ観客と私の動揺とは裏腹に、カラ松くんは無表情のままだ。スタートラインに立ち、感情の読めない顔でバトンを持つ白組走者を見つめる。二百メートルトラックで半周の差が開いたまま、紅組のバトンはアンカーへ渡った。アンカーはトラックを二周回る。
転倒した白組走者は足を捻ったのか、体勢を整えて再び走り出した際のスピードが、明らかに落ちた。それでも走りきり、カラ松くんの手にバトンをつなぐ。
私は、祈るような思いだった。
半周以上の差はあまりにも痛手だ。ここからどうやって挽回するというのか。
けれどバトンを受け取った時、カラ松くんの口が動いて、前走者に何かを告げた。
「後は任せろ」
彼が紡いだのは、唇の動きから察するに、おそらくこんな言葉だったと思う。

そうしてカラ松くんは───ニヤリと、笑った。

紅組を追うため、弾丸の如きスピードで軽やかに疾走する。両者の違いは、走法だった。力強く地面を蹴る紅組に比べて、カラ松くんは地面からの反動を利用して弾むように走る。歩幅、足の回転、いずれのスキルもカラ松くんが圧倒的に高いことが、素人目にも明白だった。
見る見るうちに距離が縮まっていく姿に、客席から彼の名を叫ぶ声援が幾つも上がった。
彼がトラックを一周を走り切る頃には、半分以上の差を取り戻す。

アンカー両者が最終トラックへ突入し、私はテープ係にゴール地点へと誘導される。テープの先に立ち、彼がゴールするのを待つ。
「カラ松くん!」
私の叫びは、観衆の応援に溶けてしまう程度の音量に過ぎなかった。
けれど。
届いていないはずなのに──不意に、目が合うから。
「カラ松くん、頑張れー!」
視線を絡めたまま力の限り振り絞った。

私の声援に応じるように、彼はコーナーで僅かに失速する紅組アンカーを抜いて、ついにトップに躍り出る。

「やった!」
一度追い抜きさえすれば、勝利確定だ。破顔して思わず手を振る。
最終の直線でさらに加速したかと思うと、テープを切る直前で大きく減速してテープを切った。
大逆転劇で収めた勝利に、BGMを掻き消すほどの喝采が沸き起こる。鳴り止まない拍手と賛辞の声。
「──ユーリ」
名を呼ばれて、ほとんど無意識に両手を伸ばしていた。
地面に投げ捨てられる白いバトン。スピードを落としながらカラ松くんが飛び込んできて、私を力強く抱きしめる。
「おめでとう、カラま───へ?」

直後、脇の下に添えられた手に持ち上げられて体が宙に浮いた。

「えっ、ち、ちょっと…ッ」
まるで高い高いをされる子供のように。

「約束通り勝ったぞハニー。言った通り、とびっきりのビクトリーだっただろ?」

にかっと白い歯を覗かせて、誇らしげに笑うカラ松くん。
推しの大正義すぎる可愛らしさとか度肝を抜かれる逆転劇への感動だとか、色んな感情が高ぶって、抵抗する気力が削がれていく。
「…うん!」

『やった!やりました、松野カラ松さん!
彼女へ愛も無事届いたようです!ハッピーエンドっ!みなさん、素敵な恋人同士のお二人に今一度盛大な拍手を!』

感極まった司会者の叫びが、スピーカーから流れてくる。
そうだった、そういう設定だった
すっかり失念していたが、よくよく周りを見渡してみれば、結末を見届けた大勢の観客たちの視線は私たち向いていて、つまり晒し者同然だったわけで。うん、もう何ていうか、死にたい。穴があったら入りたいどころではない、存在を抹消したい、タイムマシンでやり直したい。

そしてその数秒後、般若の形相をした六つ子たちが観客席から駆けてきて、誰が誰の恋人だオラなどと暴言を吐きつつ、カラ松くんを絞め上げることとなる。会場はどっと沸いて、赤塚区大運動会は無事全ての競技の終わりを迎えた。




赤塚区大運動会は、白組の優勝で幕を閉じた。
町内会長による労いの後、紅白各代表者に優勝と準優勝トロフィーの贈呈、参加者全員に参加賞として入浴剤セットが配布される。
さて解散かと気を抜いていたら、司会者が壇上で声を上げる。

「では最後に、本日のMVPの発表です!栄えあるMVPは───松野家六つ子のみなさん!」
名指しされた六つ子の面々は、揃って面食らった顔になる。
「え、マジ?マジで俺ら?」
「活躍どころか恥を晒した覚えしかない
おそ松くんは興奮気味に周囲を見回し、チョロ松くんはげんなりと眉をひそめる。
「松野家のみなさんには『いい意味でも悪い意味でも運動会を盛り上げてくれましたで賞』をお贈りします!」
笑い声に包まれて、六つ子の傍らにいる私の肩身も狭い。
「最高にいらない…」
「帰れ帰れー」
一松くんと十四松くんは断固拒否の構え。そりゃそうだ。

「そしてもう一つのMVPは───有栖川ユーリさん!」

嫌な予感が押し寄せる。
『悪魔の六つ子を手玉に取っていたで賞』です!お疲れ様でしたっ」
誰が賞名つけたんだ、悪意の塊すぎる
「ちょっと止めてよー。ボクたちはいつものことだからいいけど、ユーリちゃんは一般人なんだよ」
トド松くんが頬を膨らませた。言い方が芸能人っぽいが、内容的には概ね合っているから不思議だ。
MVPの商品は一ダースのカップラーメン。私の分も彼らに譲ると、おそ松くんと十四松くんが箱を掲げながら小躍りする。
「さすがユーリちゃん、俺らの女神なだけはある」
「ユーリちゃん、ありが盗塁王!」
「さっそく今日の夜食にしようぜ、十四松」
閉会の挨拶があり、お疲れ様でしたと参加者全員が揃って頭を下げる。
いつも通りな松野家の面々と、いつも通りに騒々しい一日が終わりを告げる。幾度となく、もう二度とこいつらとは行動を共にしないと心に誓っても、結局次の約束を交わして、懲りずに繰り返す。
六つ子とつるむのは悪くない、むしろ好ましいと思う自分は、たぶん、どうかしている。




シートの上の荷物を六つ子たちと片付けていたら、荷物を持ち上げようとしたカラ松くんの右腕が視界の隅に入る。
何気なく顔を向ければ目が合って、自然と言葉が口をついて出た。
「楽しかったね」
忌憚ない感想だった。
「ユーリが楽しめたなら良かった。今更だが、強引な誘い方で、その…すまなかった」
彼ら自身も本意ではない参加だったのだろう。だからこそ私を道連れにするのに、正攻法では断られると思ったのか。
「ほんとそれ。次からはちゃんと誘ってよね。
でも色々新しい発見や再確認したこともあって、収穫が多い一日だったかな」
一呼吸置いて、私はにこりと微笑む。
「特に───カラ松くんのことで」
「えっ!?…お、オレ?」
「そう」
「ふ…フフン、さすが目の付け所が違うなハニー。オレの勇ましい活躍の数々を目の当たりにして一層魅了されたというわけか。存在さえもギルティな…オレ
当たらずも遠からずではあるが。

「これが沼ってヤツなんだ、って」

「……ぬま?」
カラ松くんは素っ頓狂な声をあげる。
「だってカラ松くん可愛いんだもん。どんなイケてる活躍しても、最終的に感想が可愛いに集約されるって、まさに沼。これぞ沼。ハチマキ巻いたジャージ姿の運動会スタイルだけで、語彙力追いつかない可愛さって最高だよね。公式からの怒涛の供給マジ有難い
荷物を詰めたリュックを背負いながら淡々と語り、ふと彼を見やったら、タコよろしく顔を真っ赤にして硬直していた
「…カラ松くん?」
「え、あ…何というか……えーと、ユーリ、その」

「二人共何やってんの、そろそろ帰るよ。あ、ユーリちゃんは荷物持たなくていいよ、カラ松お前彼女の分全部持て」
チョロ松くんが振り返って声をかけてくる。各自荷物を抱えて、帰り支度は準備万端のようだ。
「あ、ああ…分かった、チョロ松───ハニー、疲れてるだろ、荷物を渡してくれ」
「ありがと、じゃあ任せちゃおうかな」
ゴミを詰めたビニール袋を手渡して私たちが並んで歩き出すと、チョロ松くんがおもむろに茶色い封筒をひらひらと掲げてみせた。
「ねぇユーリちゃん、六時から近所の居酒屋で慰労会という名の飲み会しようと思うんだけど、ユーリちゃんも来るでしょ?
母さんから資金貰ってるんだ、お弁当のお礼も兼ねて奢らせてよ」
「え、いいの?行く行く、喜んで!」
「何だよチョロ松、自分だけユーリちゃんにいいとこ見せやがって。てか、親に金出してもらってる時点で格好良くないも何ともからね」
「うるせぇクソ長男。テメェのせいで鼻血噴出してぶっ倒れる醜態見せた時点で、好感度は最底辺なんだよ、もう後は上がるしかないんだよ、最速で上げさせろよ
大縄の事件を根に持ってるらしい。対するおそ松くんはきょとんとしていて、反省の念がないのか既に忘却の彼方なのか。
「驚いたけど、別に好感度は下がってないよ。大変だったよね、チョロ松くん」
「えー、ユーリちゃんフォロースキル高すぎる。もう普通に好きー
チョロ松くんの顔が花が咲いたようにぱぁっと明るくなった。
「それは光栄」
片手を胸に当て、少し大袈裟な仕草で返す。けれどすぐ傍らには、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた人がいて。

「待ってくれ。それは…駄目だ」
「駄目?好きでいてもらえるのは嬉しいよ」
友達として、という言葉は敢えて除外した。付け加える方が不自然な気がしたからだ。私が首を傾げれば、カラ松くんは私を真っ直ぐ見据えたまま口を開く。

「だったら、チョロ松よりオレの方がよっぽどユーリが、す…す──」

「カラ松兄さん、ユーリちゃん、早く帰ろうよー」
ボクもう疲れたよ、と。可愛い末っ子が気怠そうに言うから。
すの続きを発するべく横に広がった唇からは、やがて静かな溜息が漏れた。
「……ああ、すまん、トッティ。そうだな、早く荷物を置いて飲みに行こう」
それからチラリと、心残りがあるような目で私を一瞥するので、私は助け舟を出した。
「帰りが遅くなったら、カラ松くん送ってくれる?」
我ながら役者だと内心で苦笑する。しかし依頼された側には満面の笑みが広がって、彼は大きく頷いた。
「もちろん!プリンセスを無事に送り届けるのはナイトの務めだ、任せてくれ」


笑い声を上げる者、倦怠感を吐き出し者、茶々を入れる者、三者三様の後ろ姿と横顔を少し後ろから眺める。私の顔には自然と笑みが浮かんでいて、やっぱり彼らといるのは飽きないなと思う。
郷に入っては郷に従えの真逆を行く六人が織り成す、予測できない物語の共謀者というのは、私にはいささか荷が重い気もするが、いつどんな時でも、必ず私を守ろうとしてくれる人もいるから。

日が暮れ始める茜色の帰り道、足元に伸びる七人の長い影は、どこか愉快そうに見えた。