目指せ優勝!赤塚区大運動会(前)

「そういえばユーリちゃんはさ、大縄と玉入れに参加申し込みしといたから」

松野家でちゃぶ台を囲み、他愛ない話に花を咲かせていた時、唐突におそ松くんが私に告げた。共通認識内の決定事項と言わんばかりに。
「──は?」
話の脈絡のない、彼の意図がまるで掴めずにメンチ切る私をよそに、突然真顔になり口を閉ざす六つ子たち。状況説明を求めて視線を投げると、おそ松くん以外が一斉に目を逸らしたこいつら全員グルか。
何に参加するんだという質問は、もはや意味を成さない。大縄と玉入れと聞いた時点でお察しだ。
なぜ面子に含まれているのかとか、私の意向は聞かないのかといった、然るべき説明や手順をすっ飛ばして有無を言わさず巻き込むのが松野家クオリティ
「来週だから。一緒に頑張ろうぜ、ユーリちゃん!」
何を。
無邪気なおそ松くんの笑顔とは対照的に、私は苦虫を潰しまくった顔だった。




翌週の日曜日、天候は清々しいほどの秋晴れ。
さて、私は赤塚区内の小学校グラウンドで開催される行事に、強制的に参加させられていた。その行事とは───赤塚区大運動会。
赤塚区域をさらに細分化した、いわゆる町内会主催の運動会である。
松野家の六つ子たちも当然参加者に名を連ねている。それはまぁいい、奴らは暇を持て余したニート、たまの社会奉仕も必要だ。
そこに赤塚区民でもない私が参加する理由は単純明快、若い女性の参加者が極端に少ないからときた。へそで茶が沸くわ。
おそ松くんから事後報告で申し込みを聞かされた時は、六つ子全員の顔面にパイを叩きつけた後に土下座させようと本気で思ったが、参加種目が団体競技だけならと譲歩し、貴重な休日を使って参戦するに至る。

運動会といえば、紅白に分かれてのチーム戦だ。
私と松野家六つ子たちは白組で、白いハチマキを各自額に巻く。
おそ松くんたちはトップスを白い半袖シャツで揃え、ボトムスにはトレードカラーのジャージパンツ。一松くんに至っては普段着とさほど変わらない出で立ちだ。
「俺たちニートの、有り余る体力を見せつける時がやって来たな」
「フッ、ジャージ姿もギルティなほどイケてるぜブラザー」
「はぁー、何が悲しくてこの年で運動会なんて出なきゃなんないかなぁ」
おそ松くん、カラ松くん、チョロ松くんが三人で顔を見合わせる。やる気の有無が明白だ。
「途中棄権ってありかな?いやいや逃げるんじゃない、戦略的撤退ってヤツ」
「一番速いのはぼく!」
「どうでもいいけど、ボクの足だけは引っ張らないようにしてよね」
十四松くん、一松くん、トド松くんは端から自分本位だ。上三人よりも危険視しておくべきかもしれない。

「───っていうかさ」

おそ松くんが盛大な溜息を吐き出した。忌々しげに私を一瞥しながら。
「ユーリちゃん、その格好何なの?」
「え、何って…」
ウエストを絞ったタイトなロゴ入りのティシャツに、カーキ色の膝下丈カーゴカプリパンツ。動きやすさ重視の、何の変哲もない服装である。
チッチッと口許で指を振って、おそ松くんは声を荒げた。
「運動会で女の子といえば、短パンが鉄板だろ!揺れる胸と弾ける肢体に健康的なエロスがあって然るべきでしょうがッ!期待したぁ!
「期待したぁ!」
他の五人もおそ松くんに倣って叫ぶ。止めろ。
「万一にも転んで膝怪我したら嫌だからね。二十歳を過ぎてからの自己治癒力の衰えと、傷跡の残りやすさを侮るなよ

「いやでも待って、兄さんたち」
重大な事実に気付いたとばかりに、トド松くんが声をひそめる。
「どうした、トッティ?」
「ボクらは、ブルマの体操服が定番のAVに毒されてたんじゃないかな。
よく考えてもみてよ、ある程度隠されてはいるけど、タイトな服でユーリちゃんの体のラインが綺麗に出ててセクシーだ。服の中の聖域はボクらの想像力に託されてるんだよ──これって逆にエロくない?
「エロい!」
「天才かトッティ!」

深く頷く一同。本当止めろ。
「膝下からくるぶしまでの限定肌露出って案外イイね…性的嗜好変わりそう」
一松くんが私の足元を見てニヤける。
「ちょっと一松、そんな変態みたいな目でユーリちゃん見るのは───分かる。結構イイな
チョロ松くんも四男に倣って視線を下げた。
「そういう目で見ないで!散れニート村っ!まだ運動会始まってもないのに、何のプレイこれ!?」
両手で胸元をガードしながら、私は怒鳴る。

「みんなー!見て見てー、トト子の今日のファッション!」
這い寄るニートたちを蹴散すか否かという一触即発の張り詰めた空気を変えたのは、軽やかな足取りでやって来たトト子ちゃんだった。
チェリーピンクのシャツに桜色フリルのミニスカート、三分丈の短いレギンス。可愛らしさを全面に押し出した格好を、これでもかとばかりに見せつけにやって来る。
「今日も超絶可愛いよトト子ちゃん!」
「セクシーすぎる!眩しい太腿ありがとうございますっ」
突如表れた美貌の幼馴染に傅いて、トト子ちゃんを崇めるおそ松くんたち。様式美の、見慣れた展開だ。彼女にとって松野六つ子たちは、恋愛対象には未来永劫成り得ないが、承認欲求を満たすにはちょうどいい人材なのだろう。つまりは、都合のいい男たち

「──で、カラ松くんは崇め奉らないの?トト子様の御成だよ?」
彼は私の隣に立ち、他の五人が颯爽と駆けていくを無言で眺めていた。
「ん?…ああ」
カラ松くんは私を見つめて、柔らかな笑みを浮かべる。
「オレはユーリ派だからな」
「いつの間に派閥が」
トト子様と同列にされるなんて、何と恐れ多い。
それにしても、開会式も始まらない準備段階の時点で、平常運行で一通り騒ぎ倒してくれたニートたち。前途多難な予感しかしない。
「どうしたのーユーリちゃん、トト子の可愛さに度肝抜かれた?
あはは、と甲高く笑うトト子ちゃん。

平和って何だろうなぁ。




開始時刻の朝九時半、朝礼台前に紅白分かれて参加者が整列し、開会式が執り行われる。町内会長による挨拶から始まり、続く準備体操と選手宣誓。参加者は小学生から還暦過ぎの高齢者まで、延べ二百人は超える大所帯である。
ざっと見たところ、二十代三十代の割合が少なめだ。特にその世代の女性は一割にも満たない。六つ子たちだけでなく、区外の私に招集がかかったのも頷ける。
「それではみなさん、優勝目指して頑張ってくださいね」
司会者の声が、開幕の合図。
秋の赤塚区大運動会、決戦の火蓋は切って落とされた。

第一プログラムは二人三脚である。
松野家から参加するのは、おそ松くんとトド松くんの長兄末弟コンビ。
集合場所の入場門へ意気揚々と駆けていくのを微笑ましく見送っていたら、突如おそ松くんの大声が耳を貫いた。
「聞いてない!何でトド松とペアなわけ!?」
何事かと近付けば、参加人数が三十人近いにも関わらず、兄弟でペアを組めと指示されたことが腑に落ちない様子だ。隣に並ぶトド松くんも顔をしかめている。
合法的に女の子とイチャつけるからこれにしたのに!女の子じゃないなら俺参加しないよ!」
正直か。
「それが…松野家の方とは組みたくないという女性側からの嘆願書がありまして、申し訳ありませんがご了承ください」
「まさかの嘆願書」
トド松くんが無表情で呟いた。衝撃を通り越した虚無が彼を襲う。
「じゃあさ、もう年頃の可愛い女の子じゃなくて、既婚子持ちの熟女でもいい…っていうかむしろ熟女魅力に最近目覚めた派なんだけど、どうにかなんない?
──あ、てか俺にはユーリちゃんいるじゃん!ユーリちゃん、トド松とチェンジ!」
「ざっけんなクソ長男!ボクだってユーリちゃんとがいいに決まってるじゃん!おそ松兄さんがユーリちゃんと代われっ」
お前が代われ、いやいやテメーが代われ、とガン飛ばしながら対峙する二人を、案内役が背中を押して列へと強引に誘導する。

「おそ松くん、トド松くん、格好いいとこ期待してるよー!」
小競り合いは聞こえなかったことにして、私は応援席から二人に向かって手を振った。
「オッケー、見ててよユーリちゃん!」
「ボクたち頑張るねー」
私の営業用スマイル一つで二人はころっと態度を変える。松野家の童貞は相変わらずチョロい。

紅白合わせて四組が五十メートルの直線を走り、順位に応じて点数が付与される。
隣り合った足首を白い紐で固定して、おそ松くんとトド松くんがトップバッターでスタートラインに並んだ。黙っていれば決して見目は悪くない──見すぎてゲシュタルト崩壊してる気もするが──彼らが、腰を落として正面を凝視する姿は様になる。おそ松くんがスターターに何か確認しているようだったが、内容までは聞き取れなかった。
スターターのピストルの発砲音と共に、二人はいち早く地面を蹴る。
「とっととゴールしてユーリちゃんに褒めてもらうぞ!
リア充直視で目が潰れる前に終わらせるよ、おそ松兄さんっ」
掛け声もなしに揃う足並み。さすがは一卵性かつプレーンのおそ松くんを基盤にしているだけあって、息はピッタリだ。

途中、恥じらいながら身を寄せ合って歩を進める二十代男女ペアに素早く足払いをかけて故意に転倒させたりしたものの、他の三組に大きく差をつけて、圧倒的な速さでゴールする長兄末弟コンビ。
「私怨でリア充倒さないの!反則になったら一位取り消しだよ?」
さすがに他害は看過できず、ゴール先で仁王立ちになり二人に説教する。
「大丈夫だって、ユーリちゃん。二人三脚に『敵を倒すな』ってルールないの確認した上でやったから
からからと笑うおそ松くん。計画的犯行だったか。
「でもほら見てよ、一位だよ一位!褒めてユーリちゃん、格好良かっただろ?」
ゴールドのリボンをつけた胸を張り、おそ松くんは瞳を輝かせる。
「もー、そうやってすぐ話を変えて…」
まるで尻尾を振る犬のようで、憎めない。叱責すべく尖らせた唇も、すぐに緩んでしまう。

「一位おめでとう、よく頑張りました」
「へへ、とーぜん」
私がそう言えば、おそ松くんは誇らしげに鼻の下を指で擦った。




小学生以下対象の競技などを挟んで、私が参加する大縄のプログラムが開始される。
今回は、回し手が十メートルを超える長い縄を回す中に、男女が向かい合う形になるよう順番に入り、最後まで飛び続けられたチームが勝ちとなる。一つの大縄に入るのは、男女六人ずつ。
私と共に参加するのは、チョロ松くんだ。
「お互い先頭か…チョロ松くんが向かい側だと安心する、頑張ろうね」
「僕もユーリちゃんが前だと心強いよ。あいつらと一緒じゃなくて本当良かった」
あいつら呼ばわりされた六つ子たちはというと、レジャーシートの上で菓子を摘んでいた。
私とチョロ松くんは無言で拳を突き合わせて、互いの健闘を祈る。
ロープの左右に男女で分かれ、開始の笛の音と共に縄をくぐる彼の後に私が続き、私たちは大縄の中央で向かい合った。

自分の後ろに五人入ることを踏まえて、徐々に距離を詰める。
ジャンプ時に膝を衝突させない、けれど六人目が十分な余裕をもって飛べる立ち位置を、ぶっけ本番で判断するのは困難だ。かといって背後を振り返れば、間違いなくバランスを崩す。
「ユーリちゃん、もう一歩前に詰めて──そう、いい感じ」
「男性六人目が入ったよチョロ松くん…あ、意外に後ろはスペースあるっぽい」
だから私たちは、自分の背後を相手に託した。我ながらいいチームワークだ、さすがは推しを持つ同士、心通う所があるのだろう。
「あとは、飛び続けるだけだね」
紅白それぞれ二チームのうち、赤チームが一組、全員が入る前に足を取られて離脱している。
「スタミナ勝負か…僕が苦手なとこだな」
「私もそんなに自信ある方じゃないよ。でも負けるのは癪だし、本気出す」
そう言ったら、チョロ松くんはくすりと笑った。

「ほら、揺れてるって!」
観客席側からおそ松くんの声がして、私とチョロ松くんはそちらに目を向けた。
カラ松くんが自粛を求めるように首を横に振りながらおそ松くんの肩を叩くが、彼は鼻息荒く何かを抗議している。その背後では残り三人が、眉間に皺を寄せて長男を見つめる。
そうこうしているうちに、おそ松くんと目が合った。
彼は胸の下に手を当てて、両手でそれぞれボールを持つようなポーズを取った。意味を察したらしいカラ松くんは顔を赤くして、おそ松くんの頭を叩く。
「ハニーをそんな目で見るな、おそ松っ!」
「いやだから胸が超揺れてんだって!エロいじゃん、童貞殺しじゃん、見るしかないだろ!」

後で締めよう。

純粋に応援する気はないのかと顔を歪めれば、向かいのチョロ松くんが茹でダコさながらの顔で私の胸をガン見している。もう嫌だこの六つ子たち。
「ちょっと、チョロ松くんッ」
「あ!あの、いやそのっ…これはわざとじゃなくて、僕の目線の位置にちょうど胸があるっていうか」
「なら顔見て、顔!」
「こ、この状態で顔見ろとか公衆の面前で羞恥プレイ!?
正気の発言か。
私の動揺とチョロ松くんの極限状態を察したカラ松くんが、囲いのロープを跨ごうとする。私が制止の声を上げるより先に、おそ松くんが彼の肩を掴んで引き止めた。
「もうちょっと揺れてるのを見たい」
これ以上ないほど真剣な眼差し。
ツッコミよろしくカラ松くんの右ストレートがおそ松くんの顔面に決まる。よくやった次男。
後はチョロ松くんさえ正常に機能すれば、勝利への希望は捨てずに済む。

と思ったのも束の間───チョロ松くんが鼻血を噴出して、崩れ落ちた。

「チョロまぁぁぁぁあぁあぁつ!?」
叫んだのはカラ松くんだった。ロープを飛び越えて私たちの元へと駆け寄ってくる。
私は咄嗟に後ろに飛んで血を浴びるのは回避したが、当然チームは敗退。紅組に勝利を譲る結果になった。
「無事か、チョロ松?」
「僕を心配すると見せかけて、ユーリちゃんの肩抱いてんじゃねぇぞクソ松」
続いてやって来たトド松くんから受け取ったタオルで血を拭いながら、チョロ松くんが吐き捨てる。確かにカラ松くんは、私をチョロ松くんから引き離すように両手で肩を抱いていた。
「…あっ、こ、これはだな、ついいつもの癖で…すまん、チョロ松」
「いつも!?いつもユーリちゃんの肩抱いてんのかゴルァっ!」
「ち、違──」
いつもの癖で私を優先的に守ろうとした意味合いだったのだと思うが、釈明の時間は与えられず、カラ松くんはチョロ松くんから平手打ちを食らう羽目になる。この光景以前も見たな。

「ごめんねユーリちゃん、うちは上に行くほどクソ度合いが高いんだよね」
「知ってる」
トド松くんの苦笑を受け、私は間髪入れずに同意した。




チョロ松くんが顔を洗いに席を立つのと同時に、借り物競走参加者の招集を告げる放送が流れる。
「オレの出番のようだな──いいかオーディエンスたち、オレの想像を絶する神々しさに、サンシャインが二つに増えたと錯覚するなよ、オーケー?」
「とっとと行けクソ松」
「んー?」
一松くんに一蹴されて、不思議そうに首を捻るカラ松くん。
「はは、シャイなブラザーだぜ。
ユーリとブラザーたちに、一位をプレゼントするから期待して待っててくれ」
しかし気に留めた様子もなく集合場所へと向かっていく。ポジティヴだなぁ。

私はレジャーシートに腰を下ろした。十四松くんの横で菓子を頬張り、カラ松くんの順番が来るのを待つ。列の並び順からするに、出番は中盤頃になりそうだ。
彼は片膝を立てて腰を落とし、必死に借り物を探す走者たちの行く末を見守っている。端正な横顔だ。一般的に称されるイケメンとは違うけれど。でも。
「カラ松くん、勝つかな?」
「どうかな。脳筋でアドバンテージはあると思うけど、借りる物と、それ持ってる人を大声出して探せるかによるよね」
私が手にするポテトチップスの袋に手を突っ込んで、一松くんが答えた。
今まさに、金髪の人だのサングラスを持っている人だの、走者たちが借りたい物を叫びながらグラウンドを駆け回っている。
「カラ松兄さんはシャイ松だから、大声は難しいかもねー」
「シャイ?チキン松の間違いじゃね?」
十四松くんとおそ松くんは言いながら、クーラーボックスからペットボトルを取り出した。カラ松くんの自信とは対照的に、期待ゼロの控えチーム。

何気なく見つめていたら、カラ松くんと視線が重なった。一瞬驚いた顔をしてからふにゃりと筋肉を弛緩させて、嬉しそうに手を振ってくる。可愛すぎてヤバイ。尻尾を振る幻覚さえ見える。


ピストルの号砲と共に、カラ松くんが風の如く飛び出した。
持ち前の瞬発力と反射神経を遺憾なく発揮して、白線の引かれたトラックを颯爽と駆ける。他の走者を引き離して、真っ先に地面に置かれた封筒から用紙を抜き出した。
一瞬、彼が硬直したように見えた。僅かに目を瞠って、用紙に書かれた文字を凝視する。

そして次の瞬間、カラ松くんの目は私を捉えた。

袋の中から出したチップスを一枚口に運ぶまでの短時間で、彼は私たちの元へと向かってきて、私に差し伸べる左手。
「オレと来てくれ、ハニー」
白いハチマキの先端がひらひらと揺れる。
「え…は?なに、何て書かれてるの?」
「いいから早く」
どことなく気恥ずかしさを漂わせながら、カラ松くんが急かす。

「ユーリじゃないと──駄目なんだ」

真っ直ぐな眼差しには逆らえない。走者たちが続々と封筒を拾い上げ、借り物の名を呼び始める。勝利への貪欲さが反射的に腰を上げさせるから、私は彼の手を取った。
スニーカーを履いたままだったのは僥倖だ。
駆け出した私がカラ松くんの横に並ぶと、どちらともなく手を離して、ゴールに広がる白いテープを目指して走る。

借り物を手に背後に迫るライバルが視界の隅に入ったが、速度を上げたカラ松くんが改めて私の手を取り、追随する彼らを引き離してテープを切った。
ゴール先で待ち構えていたチェック係が、用紙に記載された借り物のお題と私を見比べて、「はい、オッケーですよ」とにこやかに微笑む。名実共に一位を獲得した私たち。
「わー、やったやった!一位だよカラ松くん!」
「グッドワークだユーリ!」
一位のリボンを受け取り、気分が高揚した私たちは軽やかにハイタッチ。

ほくほくした気持ちで客席に戻る道中で、私は気に掛かっていた疑問を口にした。
「でさ、結局お題は何だったの?」
「…えっ?」
カラ松くんはあからさまに動揺を見せた。不自然に目が泳ぐ。
「フ…フフン、ディテールを気にするのは野暮だぜ、ハニー。約束通り一位になったからノープロブレームでオールオッケーじゃないか、な?」
「そうだけど…」
用紙を受け取ったチェック係の笑顔が、どうにも釈然としないのだ。まるで微笑ましく見守るような、単なる勝利への賛美ではない何かを感じた。
「個人の主観に左右されるようなお題だった?」
例えば料理上手そうな人とか、友達が多そうな人とか。
「うーん、まぁそんなところだ。なぁユーリ…もう勘弁してくれないか?」
彼にしては珍しく、口を割らない心積もりらしい。心なしか朱に染めた頬を緩めて、彼の顔には苦笑が浮かんだ。
責め立てて強引に聞き出すのは好みではない。私は、分かった、と受け入れる。

不意に、ひらりと。
不規則にたなびく白い物体が目に映って、私は思わず振り返る。
二位の座を射止めた走者のお題を受け取る際に、チェック係の手元から溢れたそれは、表を上にして地面に音もなく舞い落ちて。
太く大きなフォントで書かれたその文字に、私は目を引き剥く。

『一番可愛いと思う女性』

ああもう。どうしてこうも、彼は。
いつも過大なほどの称賛や美辞麗句を並べ立てるくせに、肝心な時には言葉を濁して明かそうとしないのか。体中の熱が顔に集中して、カラ松くんの顔が見れない。気付かなかったフリを装えない。

「ん?どうした、ユーリ?」
「今すぐホテル連れ込んで泣かせたい…性欲メーター振り切った」
私が真顔で言い放つや否や、バックステップで大きく距離を取り、カラ松くんは臨戦態勢で構える。俊敏すぎる、忍びの者か。

「すまない…そのフラグを立てた覚えはない、バグだと思うから全力でへし折ってくれ
「えー無意識かぁ、凄まじい破壊力だなぁもう。童貞殿堂入りしてるのが不思議すぎる」
独白のように呟けば、異議ありとばかりにカラ松くんは反論する。
「待て、事情はよく分からないが、好きで記録更新してるわけじゃないぞ。新品は早めに卒業したい」
「新品、いい表現だね。そういえば、あと十年くらい童貞でいたら魔法使いになれるって噂があるけど、本当なのかな。どう思う?」
「魔法使い云々は真意を測りかねるが、年を追うごとに童貞こじらせていくのは間違いない。今だって色々手遅れな気がしてる」
「見慣れたAVは所詮、夢が詰まったファンタジーだもんね」
そういうしているうちにレジャーシートに辿り着き。

「お前ら、借り物競走の帰りに何で下ネタ談義になってるの?違う世界線から来た?
おそ松くんからツッコミが入った。




昼休憩を挟んで、午後の部が始まる。
手作りの弁当が食べたいと喚く成人済み六つ子の制御を面倒臭がったおばさんから軍資金を頂戴し、おばさんが主食のおにぎりを、私がおかずを担当して弁当を用意した。
休日の早朝から自分含めて七人分のおかず作りは、一日分の体力を消耗するに等しい重労働だったが、推しを始めとする彼らが奪い合うようにして頬張り絶賛する光景で、容易くチャラになってしまった。我ながら単純だとは思う。
「おいコラチョロ松、テメェさっきから唐揚げ何個目だっ!俺まだ一個なんだけどっ」
「細けぇな!だったら先に卵焼き食い尽くした詫び入れてもらおうか!?アァン!?」
「ごちゃごちゃうるさいな…ユーリちゃんの手料理ならもう何でも超絶有り難いじゃん、弁えろよ底辺ども
「タコさんウインナー、ウマー!」
「ほんっとユーリちゃんの手料理最高!あ、これSNSに上げてみんなに自慢してもいい?」
ポーズを決めてシャッターボタンを押すトド松くんの自撮りの背後に、兄弟がころぞって変顔で写り込む。末弟のリア充進撃ロードは全身全霊で妨害するお決まりの流れだ。結果的に自分たちの首も締めているのだが、果たしていつ気付くのだろうか。

「ハニー…この量、かなり大変だったんじゃないか?」
二人分のおかずを紙皿に取り分けて、カラ松くんが私の隣に並んで座る。
「大変だったけど、これだけ喜んでもらえたらお釣りくるかな。手料理食べてもらう機会なんてそうそうないし」
そこまで言ってから、カラ松くんの不服そうな表情に気付き、訂正する。
「──カラ松くんを除いて、ね」
回数だけでいえばさほど大きな差はないが、我が家に足を運んで、という濃厚な接触があるのはカラ松くんだけだ。
「フッ、そうだろうとも。ハニーの愛に溢れた手料理を食せるのは、選ばれし民のみ…っ」
「そんな大層なもんじゃないよ」
カラ松くんの戯言はさらっと受け流して、受け皿に載せられたブロッコリーの胡麻和えを一つ口に入れて、もう一つをカラ松くんの口許に寄せる。彼は反射的に口を開けて頬張ってから、咀嚼しながら目を剥いた。

「あーっ、兄さんとユーリちゃん、ぼくたちほったらかしてイチャつくの禁止ー!ぼくもアーンしてほしい!」
「ぶ、ブラザー…すまん、無意識なんだ…追求しないでくれ」
十四松くんに指摘されて、カラ松くんは片手で顔を覆った。耳が赤い。
「ああごめん、餌付けする感覚だった
憚らずもイチャつくかの如くアーンする格好になっていたが、他意はない。
「ならぼくも餌付けしてほしいです!」
「おれも」
「僕だって!」
そうして一列に並ぶ六つ子たち。こういう時の団結力には定評がある。
「うん、そっかそっか、してほしいかぁ──でもごめんね、散れ
私は餌付けがしたいのであって、餌付けされたい連中はいらんのですよ

たまには雨の日の過ごし方

「ユーリとこうやって過ごせるなら、雨も悪くないなって思えるんだ」
まるで映画のワンシーンのように。
降りしきる雨音を背にカラ松くんはそう言って、嬉しそうに笑う。




その日は朝から雨が降っていた。
女心と秋の空とはよく言ったもので、秋の空模様の変わりやすさは、数日後の天気予報さえ当てにならないことも多い。移り気な女心に関しては、ひと括りにするなと異論を唱えたいところだが。

カラ松くんとの待ち合わせを数時間後に控えた私は、松野家の固定電話に電話をかける。受けたのは運悪くおそ松くんで、こちらのカラ松くん呼び出し要求に応じず、軽い口調で口説いてくる。
「ねーいいじゃん、ユーリちゃん。俺とデートしようよ!」
スマホから聞こえるのは、弾むような快活な声。受話器の奥の表情は想像に難くない。
「しないよ。カラ松くん出して」
「何でカラ松は良くて俺じゃ駄目なの!?
同じ顔じゃん!俺の方がぜってーコミュ力あるし、ユーリちゃんも楽しいって。後悔させないから!ね?」
デートとは名ばかりのヤリモク同伴と、推しをしこたま愛でる会を一緒にしないで」
「人のこと言えなくない?」
気のせいだ。
「てか俺ならセクハラオッケーだし、触り放題だよ?むしろ大歓迎」
「恥じらいのないオープンエロスに興味はない」
「うわ…ガチトーンだ
ユーリちゃんも大概だよね、と呆れ声が返ってくる。訊かれたから答えただけなのに、心外だ。

しばらく両者一切譲らない勧誘と拒絶の応酬が続く中、ふと二階から降りてきたらしい誰かの足音が小さく聞こえてくる。
「──おそ松?」
スマホを通して聞き取れる音量は僅かだったが、その呼び名で相手がカラ松くんと分かる。げっ、とおそ松くんが声を上げた。
「何だよカラ松、俺は今取り込み中」
「…待て、その電話ひょっとしてハニーからじゃないのか?」
「ピンポン!根気よく口説いてたと───」
おそ松くんが言い終わらないうちに、突然派手な衝突音が轟いた。手から離れたであろう受話器は、吹っ飛んだらしく下駄箱の戸にゴンゴンと当たる。思わずスマホを耳から遠ざけた。
「ちょっ…すごい音したけど、おそ松くん大丈夫!?」
私の問いかけに応じたのは、カラ松くんだった。
「いや何、心配ない。赤い彗星が通り過ぎただけだ
シャアか。
赤しか合ってない。

「おそ松が迷惑をかけたみたいだな、すまないユーリ。今日の件か?」
「あー…うん。雨降ってるから、予定してた公園散策は無理だなと思って。
そっち行ってもいいし、カラオケとかの室内にするか、会うの来週に延期するのでもいいよ。何か希望ある?」
ふっ飛ばされたであろうおそ松くんの生存確認はしておくべきなのか悩みながら、当初の目的を果たすのを優先する。
「金欠だから他の場所はキツイな…かといってうちは今日は六人全員揃ってて、ゆっくりできないし…」
うーん、とカラ松くんが唸る。
「じゃあ延期かな?」
「それは嫌だ」
何その言い方、底抜けに可愛い
ガラスコップに注いだ麦茶に口をつけて、私は彼の返事を待つ。
雨の中の外出は、否応なしに人をアンニュイな気分にさせる。そんなことをぼんやり考えていたら、あ、とカラ松くんが声を発した。
「ファミレスでもいいか?」
フリードリンク代くらいならあるし、と。
「いいよ。でも何でまたファミレス?」
私は立ち上がってクローゼットを開けた。アスファルトに叩きつける雨の様子と、松野家最寄りのファミレスまでの距離と移動方法を鑑みて、着ていく服を吟味する。

「──たまには、ユーリとゆっくり話がしたい」

珍しいな、と思った。
そして同時に、昼間に長時間二人きりで語り合う機会が今までなかったことに思い至る。私たちの会話といえば、酒が絡んだり、他の面子がいたりして、そこで生まれる会話はあくまでも副産物的なもの、メインディッシュを彩る装飾だった。
スマホを耳に当てながら、そうだね、と私は言う。室内に置かれた鏡に映る自分の顔には、笑みが浮かんでいた。




ランチタイムをいくらか過ぎたファミレスの窓際。客の入りは六割といったところで、閑散でも混雑でもない、程よく人の気配がする。
有線から流れる洋楽に耳を傾けていたら、前方からよく見知った顔がやって来た。

「ユーリ」

顔を綻ばせて、カラ松くんが手を挙げる。向かいのソファに腰を下ろすと、水とおしぼりを運んできたホールスタッフにドリンクバーを注文。手の甲に付着した雨粒を払いながら、彼は困惑した表情で大袈裟に息を吐いた。
「やれやれ、オレとハニーの逢瀬に嫉妬した天界のヴィーナスが朝から泣き通しで参ったぜ。罪滅ぼしに、後で涙を拭ってやらないといけないな」
詩人が来た。
「…革靴を履いてこなくて良かった」
こっちが本音っぽい。
そう言うカラ松くんは、ラグラン袖のシャツにデニム、足元はスニーカーとラフな格好だ。デニムの裾は、跳ねた水で濡れている。
「雨だと、着ていく服はいつもより気にするよね」
ドリンクバーに飲み物を取りに行くため立ち上がり、カラ松くんを促す。
そんな私の格好は、水滴や泥が跳ねても目立たないよう、黒のボトムスにショートのレインブーツにトップスは秋らしいグレイッシュトーンと、全体的に落ち着いた色合いでまとめている。
「でもいいこともありそうだ。レイニーデー限定の特典がさっそく一つあった」
「特典?」

「雨仕様のユーリが見られる」

息を吐くように口説くイタリア人か。
これでカラ松くんのメンタルが鋼だったら、今頃は彼女がいるどころかハーレムを築き上げていても不思議ではない。豆腐メンタルの推しに栄光あれ。


グラスに注いだドリンクで時折口を濡らしながら、そういえば、という話題提示の言葉を皮切りにして会話が始まる。視界の隅に映るのは、雨粒に濡れた窓ガラス。
「子供の頃ってさ、遠足とか運動会の前の日に、次の日雨が降らないようにてるてる坊主作ったよね。懐かしいなぁ」
「てるてる坊主を作るハニー…さぞかしキュートなリトルガールだったんだろうな」
腕組みをしてカラ松くんは感慨深そうに頷く。
「話の腰を折らないの」
「オレの知らないユーリは知りたくて当然じゃないか?」
「常識だろみたいな言い方」
自分の幼少時に興味を持ってもらえるのは嬉しいが、前フリなく切り込んでこられると咄嗟に反応できない。湯気の立つコーヒーカップを指で持ち上げて、液体を喉に流し込む。

「カラ松くんの子供の頃はどうだったの?」
その問いには、そうだな、と目線を天井に向けて、彼は思い出の引き出しを開けるようと試みる。
「傘をなくすのは日常茶飯事で、水たまりに飛び込んで泥だらけになったり、傘を剣に見立てたちゃんばらで壊したり…マミーのゲンコツを受け続けた記憶が強いな。しかも全く懲りずに執拗に繰り返して損失額だけがうなぎ登り、最終的にマミーが白旗を上げた
同じ顔のTHE悪ガキが六人、どう足掻いても絶望

「──ハニーは、オレたちの傘の色を知ってるか?」
「知ってるよ。トレードカラーと同じ色だよね」
玄関の傘立てに家族分の本数が刺さっているのを何度か見た。家族の人数分と予備を含めた数は、大家族さながらの大所帯であることを再認識させられたものだ。
「何年か前だったと思うんだが、オレたちがあまりに傘を壊したりなくしたりするから、マミーが安いビニール傘を買ってきたことがあるんだ。一見、そっちの方が経済的だろ?」
カラ松くんのグラスに浮かぶ氷が、カランと揺れた。
「でもある雨の日、六人全員揃って出掛けようとした時に、傘が一本足りなかった。ダディもマミーも傘を持って出ていて、運の悪いことに予備もない。
紛失者は名乗り出ない。オレたち全員が他の五人を容疑者として認識し、誰もが疑心暗鬼になり、そのうち殺し合いになった
「相合い傘で仲良く行こうという結論にならないのが松野家らしいね」
さすがというべきか。
結局、殺し合いの再発を防ぐべく採用された対策は、トレードカラーの傘に戻すことだったらしい。さもありなん。

カラ松くんが語る顛末の詳細を聞きながら、私は声を出して笑う。程よく賑やかな店内は、私の笑い声を雑音の中に溶かす。
外は降りしきる雨。
曇った窓ガラスの向こう側には、傘を差して行き交う通行人たち。ガラス一枚隔てた先は、まるで別世界のように感じられる。

「こういう雨にまつわる昔話は、雨が降ってるおかげで聞けたのかも」
「そう考えると特別だな」
「うん、ちょっとオツだよね」
私が笑う姿を見て、カラ松くんは相好を崩した。けれどふと、何か思いついたのか彼は唇に指を当てて思案顔になる。
「…ああ、でも」
独白のように、ぽつりと口から溢れる言葉。

「───ユーリが一緒ならどんなことでも、オレにとっては」

少しだけ、照れたように。

「特別だ」


どう返すのが最善か、即座に適した言葉が出てこない。聞こえなかったフリも、誤魔化すことも、冗談と一笑に付すことも、今は何か違う気がして。
「うん、それは私も同じ。
カラ松くんといると、ファミレスでくだ巻いて喋るのもすごく楽しいもんね」
「ほ、ほんとか、ハニー!?」
「そうじゃなきゃ、今日だって来ないよ」
「あ、いや、まぁそうだよな……ただ、その…いざユーリの口から言われると、やっぱり嬉しいな」
照れを隠すように、肩を竦めて顔を綻ばせるカラ松くん。実に可愛い、今日も全力で推せる。

幼い頃は、雨の日も楽しくて仕方なかった。
私たちの目に映っていた世界は、晴れでも雨でも関係ないくらい、いつでもきらきらと美しく輝いていたのだろう。
歳を重ねるにつれて億劫になった雨の日の外出なのに、そういえば今日は、一度も面倒だと感じなかった。




ドリンクを二度お代わりし、途中追加注文したデザートで腹を満たした頃、ひとしきり続いたとりとめもない会話が途切れる。
メッセージの着信を告げるスマホの画面が明るく灯り、ふと見やると、夕刻を示す数字が並んでいた。
翳りを落とす雨雲のせいで外は始終薄暗く、時間の流れが読めない。そのせいか、かれこれ数時間二人で語っていたことになる。徒然と語り、時に笑い声を上げ、終えて残るのは言葉を出し切った満足感。
どちらともなく、そろそろ頃合いかと声に出し、互いのコップが空になったところで席を立った。

「──ジーザス」
しかし会計を終えて店を出たところで、カラ松くんが吐き捨てるように言う。
「どうかした?」
「オレの傘がない…」
傘立てを覗き込めば、色とりどりの傘が無造作に差し込まれている中で、丁寧に折り畳まれた青い傘が一本入っている。
「それじゃないの?青だよ」
「似てはいるが、柄のデザインと長さが違う。オレのじゃない」
ということは。
「フッ…きっとあわてんぼうのレディが、オレのアンブレラをミステイクで持って行ってしまったんだな」
困った子猫ちゃんだぜと悩ましげなポーズを決めた後、スッと真顔になって。
「でかい借りを作る覚悟で迎えを呼ぶか」
何そのハイリスクローリターン。

「迎えなんて呼ぶ必要ないよ。傘ならあるでしょ、ここに」
「ユーリ、しかしそれは」
自分の傘をひょいと持ち上げて、カラ松くんの言葉を制する。私はにこりと笑みを浮かべた。

「家まで送ったげる」

機械的に降り続く細かな雨が、傘の布に当たってパタパタと軽い音を立てる。
黒く染まったアスファルトをレインブーツ踏みつけると、小さな水しぶきが上がった。いつも同じように歩いているだけなのに、跳ねた水滴で黒いパンツが濡れてしまう。
長靴で水たまりに飛び込んだ幼少時の、汚れを厭わない無邪気さはどこへ忘れてきたのだろう。臆病に慎重になることが大人になることだとしたら、あまりにも虚しい。

「せめて傘を持たせてくれ」
私が広げた傘の柄を、カラ松くんが取る。
「ありがと。紳士だね、カラ松くん」
一人用の傘に二人の大人が入ると、雨粒を避けるには、嫌でも至近距離にならざるを得ない。並んだ腕が触れるか触れないかの際どい距離感を保つのが、何となくくすぐったい。
「ハニーにジェントルに振る舞うのは当然だ」
「ふふ、それって私にだけ?」
「いやもちろんハニーだけじゃなく、このガイアに生きる全てのカラ松ガールズたち全員にオレは等しく優しい───と、言いたいところだが」
言葉を区切ったカラ松くんを見やれば、彼と目が合った。

「ユーリのことを一番甘やかしたいんだ」

は、と私の口から息が漏れる。

「ユーリが、いつもオレにしてくれるのと同じように」

「えー、私そんなに甘やかしてるかな?そりゃカラ松くんはめちゃくちゃ可愛いけど
「…さらっとそういうことを言わないでくれ」
カラ松くんは赤面する。その言葉そっくり返そう。
だって本当のことだよと笑ったら、傘を持っていない方のカラ松くんの腕が目に映った。無骨な指先から雫が垂れている。爪の先から手首、腕へと視線を向ければ、しっとりと雨で濡れている服の袖。
頭で結論を導き出すのは、カラ松くんが持つ傘の手元を握った後だった。
「…ユーリっ!?」
「これじゃ意味ないよ」
そう言って、強引に傘をカラ松くん側へと差し向けた。生地からはみ出た私の片腕にひんやりと冷たいものが触れる。
「それはこっちの台詞だ。ユーリが濡れるだろ」
「カラ松くんが濡れるよりはマシ」
「すまないが、ここは譲れないぞハニー」
雨の中足を止め、睨み合う私たち。どちらも相手を想うがために、己の意思を貫こうとする。
ならば、視点を変えよう。いずれか一方の意見を採択するばかりが、正解ではない。

半歩分の距離を詰めて、カラ松くんの胸に背中を寄せる。
「…へ?」
「要は、生地の外に体が出なければいいんだもんね?」
横並びになるからはみ出るのなら、一部を重ねて、幅を縮めれば済む。服や腕が触れ合うのも厭わず、私は彼に寄り添った。
「行こう」
声をかけて前方へと足を踏み出す。

しかし今度は互いの歩調を合わせる難易度が上がり、スピードが落ちる。自分から言い出した手前、舌の根も乾かぬうちに前言撤回は少々抵抗がある。どうしたものかと思案していたら、不意に肩を抱かれる感覚がして、反射的にびくりと跳ねた。
「カラ松くん…?」
「こ、こうすれば…その、ハニーも歩きやすいんじゃないか?」
傘のハンドルは反対側の手で持ち替えて。
「…別に、た、他意はないぞ!
うちはすぐそこだし、ユーリが濡れないようにするためであって…何だ、ええと…」
全部雨のせい。
雨が降っているから、傘をささないと濡れてしまうから、送っていくと宣言したのは自分だから。起こる事象全てを、今日の陰鬱な雨のせいにして。
「嫌だなんて思ってないよ──ちょっと、ビックリしただけ」
こういう時は決まって、彼が歴とした異性であることを再認識させられる。慣れない感覚への戸惑いと共に、頼り甲斐のような安心感が胸に広がるのだ。
「何か照れるね」
くすぐったさを誤魔化すように笑えば、カラ松くんは柔らかな微笑を浮かべて、静かに言った。

「──ほら、やっぱりハニーはオレを甘やかすじゃないか」




少しして、松野家の玄関前に辿り着く。
私に傘を渡して、玄関の軒先へとカラ松くんが移動する。雨に打たれる私と、突き出た軒に守られるカラ松くん。あちら側とこちら側、そんな言葉が脳裏を掠めた。
「ありがとう、ユーリ」
「どういたしまして。傘、早いうちに新しいの用意しなね」
私のその忠告に、あ、と声を上げた後、カラ松くんは片手で顔を覆う。
「…そうだった…またマミーに怒られる」
傘の一つくらい自分で買える財力は必須だと思うが、口にして余韻を台無しにするのは本意ではない。
空を厚く覆うくすんだ雲から零れ落ちる柔らかな雨が、降り止まないうちにいとまを告げよう。離れ難いと、胸が不穏にざわつく前に。

「何か…いいな」
「ん?」
「送ってもらうなんて初めてで…しかも相手がユーリで───嬉しい」
自然と互いの顔が綻ぶ。
明確な終わりは告げない。彼が中に入り、戸が閉まったら踵を返そう。それじゃあとカラ松くんが玄関の引き戸を開けるのが、終わりが始まる合図。

と思ったのも束の間、開けた引き戸の奥で、廊下を歩くチョロ松くんと目が合った。
何でそんな所に、という疑問が沸いたのはきっと私だけではなかっただろう。
愕然と目を瞠られる。彼の手元からぽろりと雑誌が落ちた───エロ本だ。しかも健全なアルバイト雑誌で挟む巧妙なカモフラージュ付き。さすがはチョロシコスキーの異名を欲しいままにする三男、むっつり度合いに磨きがかかっている。
とりあえずエロ本から視線を上げて、にこりと笑顔を作っておく。
「え……ユーリ、ちゃん…?」
会釈どころか声をかけられた。
「こんにちは、チョロ松くん」
「ああブラザー、ハニーに送ってもらったもらったんだ───って、どうした、おっちょこちょいだなチョロ松、何か落ち……え、まさかそれ…エロほ
刹那、真顔なチョロ松くんの平手打ちが飛んだ
小気味良いスピード感、チョロ松の名は伊達じゃない
「…えっ、えぇッ!?」
打たれた頬を押さえてカラ松くんが唖然とする。
「エロ本じゃねぇし。ユーリちゃんの御前で名誉毀損すんの止めてくれる?訴えるよ?訴えて勝つよ?
エロ本じゃないと断言するなら、まずは床に落ちたエロ本拾おうか。証拠品をばら撒いた状態で裁判案件だと言い放つ度胸は認める。
っていうか、御前って。神扱いか。

「えーと…」
さてどこからツッコもうかと考えを巡らそうとしたら、スパーンと玄関奥の障子が勢いよく開け放たれた。松野家うるさい。
「ユーリちゃんの匂いがした!」
「わーほんとだ。やっほーユーリちゃん、今日も一段と可愛いね」
わらわらと飛び出してくるのは、十四松くんとトド松くん。
「うん、超可愛い!」
「雨に濡れてもいいようにダークトーンでまとめてるのかな?それとも秋仕様?とっても似合うよ」
十四松くんはド直球で褒めてくるし、トド松くんは私以上に女子力高く観察眼も鋭いし、お前ら何で童貞なの。

乾いた笑いを溢せば、察したカラ松くんが三人を制する。
「もうこの辺でいいだろう、ブラザーたち。ハニーをこれ以上引き止めたら、外が暗くなってしまう」
「あ、そうだね、気が利かなくてごめん、ユーリちゃん。気をつけて帰って…っていうか、駅まで送ってくよ?」
ようやく床の本を拾い上げたチョロ松くんが、心配そうに訊いてくる。
「ありがと、でもそれじゃあカラ松くん送ってきた意味なくなっちゃうから、気持ちだけ受け取っとくね」
「またねー、ユーリちゃん!」
「カラ松兄さん関係なしに、いつでも遊びに来てね」
十四松くんとトド松に手を振って、私は彼らとの逢瀬に一旦終止符を打つ。

「じゃ、またね」
けれど、別離を告げて背を向けようとした私に、カラ松くんが戸惑いがちに手を伸ばしてくるのが見えて、立ち止まる。言うか言うまいか逡巡した末に、万一私が気付けば告げようというくらいの、些末な心残りを聞くために。
「その…家に着いたら電話してくれ」
私はおどけて肩を竦めてみせる。
「次の約束?それなら今でもいいよ、来週は今のところ予定入ってないし」
そう返せば、カラ松くんは緩くかぶりを振った。

「ユーリが無事帰れたか知りたいんだ」

子供じゃないんだからと一笑に付そうとして、思い留まる。
「…うん、分かった。着いたらすぐ電話する」
まるで寂寥感に胸を押し潰されるような、片時も離れたくない熱量が胸の内で燃え上がるような、いずれにしても恋人同士さながらの会話である。彼は時に、己が感じたままを率直に告げてくるから、実に厄介だ。
こういう時、おそ松くんのように本心を冗談で包んでくれていたら、と思うことがある。そうしたら、私も軽く受け流せるのに、と。




数日が経ったある日のことだ。
休日にカラ松くんと出掛けた帰りの電車の中、窓に水滴が叩きつけられる音で降雨に気付く。私の最寄り駅まであと二駅というところだった。空を見上げれば、灰色の空。
スマホの天気予報アプリが示す天気は、曇りときどき晴れ、降水確率二十%。雨が降るなんて夢にも思わなかったから、生憎と傘を持ってきていない。
「奥の方は雲が薄くなってるし、夕立かな?」
「先週に引き続き今日も雨、か…フフン、巷のカラ松ガールズを愛の奴隷にしてしまうほどギルティな、雨も滴るいい男になってしまうじゃないか」
「濡れて帰ってもいいけど、今着てる革ジャンは終わるよ」
「ノン!それは困る」
真顔で首を振ってきた。
私の推測が正しくこれが夕立ならば、長くても数十分で止むだろう。傘を買うのは不経済だし、駅のホームで時間を潰せばいい。
別れた後の予定を何気なく告げれば、カラ松くんは何を思ったか「ならオレも付き合う」と、私の最寄り駅で共に電車を降りた。

幸い時間には余裕がある。
温かい缶コーヒーを二つ買って、電車が出たばかりで人気のないホームのベンチに並んで腰をかけた。一つをカラ松くんに渡し、蓋を開ける。

「実は──」
コーヒーを一口飲んだところで、静寂を破るようにカラ松くんが切り出す。
ちょうど天気予報アプリの、雨雲の動きをリアルタイムで確認できるボタンをタップしようとしたところだった。
「雨はあまり好きじゃなかったんだ。
外出は面倒だし、服や靴は濡れるし、革ジャンは死ぬ。今日みたいな夕立なんて、特に」
線路に激しく叩きつけられる雨と、倦怠感を誘う雨音。

「でも…ユーリとこうして過ごす時間が少し延長になるなら、夕立も悪くないなと思うんだ」

私はカラ松くんからスマホに視線を戻して、アプリから指を離した。ホーム画面に戻して、かばんの中に仕舞う。
「…ユーリ?どうした、何か調べ物があったんじゃないのか?」
ううん、と私は首を振る。
安易に解答が得られる機械は、いつしか私たちにとって手放せない物になった。でも何となく、生き急いでいるような気がしてならない。時間に追われて、依存しているような、支配されているような感覚に陥ることがある。

「終わりが分からない方がいいこともあるかな、と思って。
この夕立は数分かもしれないし、数十分かもしれない。昔はみんなこうやって、止むのを待ってたんだよね」

調べれば何でも手に取るように分かる時代の弊害か。人は容易く答えを求めたがる。
私の意図を汲み取ってか、カラ松くんは優しく目を細める。それからゆっくり噛みしめるように言った。
「いいな、こういうの」
「うん、たまにはいいね」
「いつ止むか賭けないか?」
「いいね、何賭ける?ランチ一回分?」
うーん、と彼は唸って。
「負けた方が、今度会うときの行き先を決めて、当日も相手をエスコートするのはどうだ?」
「えー、そんなのでいいの?」
張り合いないなと笑えば、じゃあ、とカラ松くんは突然顔を近づけてくる。私の手元に黒い影がかかった。

「──もっと欲張ってもいいって言うんだな、ハニー?」

いつになく真摯な眼差しと低い声音が、私を捉えた。軽口も気障なポーズも、愛嬌のある笑顔もないそれは、彼に力で敵わない現実を容赦なく突きつけてくる。
「それは…」
関係性の変化は、博打の代償として差し出すものでも、勝利の栄光として得るものでもない。仮に手に入れたところで、一時的なかりそめの従属に過ぎない。
だからこれは絶対に──
「違う、と思う」
平静を装って、絞り出した私の答え。目は逸らさない。彼に伝わるように、伝えなければならないからだ。
「うん」
カラ松くんは視線を缶コーヒーに戻して、ぽん、と私の頭を撫でる。緊張の糸がぷつりと切れた瞬間だった。
「…冗談が過ぎたな、すまん」
私は大きく吸い込んだ息を、時間をかけて吐き出す。
「あと少し冗談が続いてたら、息の根止めるレベルで締め上げてたよ」
「え、あ…ご、ごめん」
「謝り方がちょっとなぁ…アンアン泣かせたいから今夜うち来る?
「本当ごめんなさい!」
カラ松くんはベンチに両手をついて深々と頭を下げた。少々やり過ぎた気がしないでもないが、溜飲を下げることはできた。


雨の日だからといって、別段普段と何ら大きく変わることはない、私たちの過ごし方。

いつの間にか、雨は止んでいて。
白い雲の谷間からは、オレンジ色の優しい光が射し込んでいた。

ラブストーリーは意図的に(後)

歪さが目立つ通行人たちの中で、過去のカラ松くんと私だけは人間の体を成していた。私は元カレと去っていったが、カラ松くんはまだベンチの上で活字に目を向けている。
思考を巡らすより先に、足が動いた。
建物の影に落ちた暗がりから、日の当たる明るい場所へ。
「ユーリ…っ!?」
サングラスというフィルターを外したら、太陽の光がやたら眩しくて、私は目を細める。カラ松くんの制止の声を振り切って、公園へと足を踏み入れた。

「──松野カラ松くん」

名を呼ばれた少年は、不思議そうに顔を上げた。
「あ、えっと…誰、ですか?」
悠長にしている時間はない。私は単刀直入に告げる。
「初めまして。私はね、未来でカラ松くんと友達になる、有栖川ユーリ」
「友達って…か、からかってるんですか?」
本と鞄を胸に抱えて、カラ松くんは声を震わせた。投げられる声の質は、聞き慣れたカラ松くんそのもので、私の胸に不思議な安堵が広がる。
警戒する彼の肩を気安く叩きながら、意識してにこやかな笑みを浮かべた。
「うん、変な人が変なこと言ってるって思うよね。私だって君の立場なら絶対そう思うよ。
でも本当のこと。何年か経ったら───カラ松くんは、街で私と出会うんだよ」
私はカラ松くんの腕を取って、自分の左手につけていたシルバーのバングルを彼の手首に通す。
「その時まで私を覚えていられるように、プレゼント。
こうでもしないと、将来不安になった誰かさんのせいで将来面倒事に巻き込まれちゃうからさ。
結構気に入ってるヤツだから、大事にしてよね」
これは手枷だ、私と彼を繋ぐための。この世界が私たちどちらかの夢や思い出なら、私物を譲渡するこの行為に意味なんてないけれど。だとしても。
「え、ええと…お姉さんは、彼女にはならないの?」
疑いの眼差しは崩さないくせに、興味本位の問いを投げてくるから、つい笑ってしまう。
内気なナリをしていても、異性に関心のある年頃なのだ。
さて、どう答えたものか。
きらきらと双眸を輝かせて見上げてくる姿が可愛くて、私は思わず幼いカラ松くんを抱きしめる。
「えっ、ちょ…ッ」
「そうだなぁ、もし…もしカラ松くんが───」


言い終わるのを待ち構えたように、地面がぐにゃりと歪んで、平衡感覚が失われる。ベンチは膨張して真っ二つに分裂し、太い幹の木が根元から抜けて宙に浮き、青々と茂った枝棚がこちら目掛けて降り注ぐ。黒く大きな影が、私の周囲に広がった。
かろうじて制服姿のカラ松くんを突き飛ばすことには成功したものの、足が竦んで動けない。万事休すかと、最悪の事態を覚悟する。

「ハニー!」
建物の影からカラ松くんが躍り出て、呆然と立ち尽くす私を抱いて横へ飛んだ。私が下敷きにならないよう、上体を捻った彼の背中が地面に着地する。
「ご、ごめん…」
「ここから離れるんだ!」
度を過ぎた干渉の影響で、世界の均衡が崩れる。
「またね、高校生のカラ松くん!」
「あ…あの…っ」
砂場に尻もちをつく過去のカラ松くんに別れを告げて、彼から離れるために駆け出した。アスファルトの地面が粘土のような柔らかさで波打つから、不安定な足元に幾度となく足がもつれる。どこからともなく出現した瓦礫は空に舞い上がり、時折地上に降り注いだ。
遠ざかれば遠ざかるほどに、地面の揺らぎは小さくなっていく。
途中で何度か転倒しかけながらも全力で駆け抜けたら、街は次第に落ち着きを取り戻し、いつしか何事もなかったように静寂が戻った。




空がオレンジ色に染まる夕刻。
私とカラ松くんは、人のいない寂れた公園のブランコに腰掛ける。古びたブランコが、きいきいとチェーンの摩擦音を立てながら揺れた。
ショルダーバッグの中に財布が入っていたのは僥倖だ。自動販売機でジュースを買うことができた。適当に二本購入し、一本をカラ松くんに手渡す。
「ん──サンキュ、ハニー」
ジュースを両手で握ったまま、腿の上に肘を置く。彼の視線は地面に落ちた。
「ううん、さっきのお礼。助けてくれてありがとう、カラ松くん」
そう告げれば、カラ松くんは私を一瞥して、苦笑する。
「いくら何でもさっきは無茶しすぎだ、ユーリ。この世界に干渉しすぎるなとイヤミに言われただろう?」
「そうなんだけど、もしかしたら戻れるかな、って思って」
「…え?」
「カラ松くんが言うように、ここが『二人が出会ったか確認したい』世界だったのなら、すれ違ったことを確認して、納得した時点で帰れるはずでしょ?
でも何も起きなくて、カラ松くんはあからさまに落胆してた。ということは、本当の望みは『確認したい』じゃない───『出会いたい』だと思ったんだよね」
「──あ」
腑に落ちたらしい。
カラ松くんは脱力した後、はは、と乾いた笑いを溢した。
「…どうしようもないロマンチストだな」
「ロマンチストだなんて…そんないい感じの表現はおこがましい
「ごめんなさい」
しかしその予測も見当違いだったらしい、今なお私たちはこの世界に留まっている。
トリガーなんて存在しないのか。
だとしたら、夢が覚めるまでこの不安定な世界を彷徨い続けるしない。あまりに無謀だ、狂気の沙汰である。私は所在なげに、バングルを失った手首をさすった。

飲み干した缶をカラ松くんが投げる。
缶は緩やかな弧を描いて、ゴミ箱の中央にすとんと落ちた。
「ユーリ、一つ聞いていいか?」
じっと正面を見据えたまま。
「どうしたの?」
「彼氏と待ち合わせをしたあの後、どこへ行ったか覚えてないか?」
無茶言いおる。
存在さえ忘却の彼方だった元カレと、数年前の某日どこへ何しに出掛けたなんて記憶しているものか。
馬鹿言うなと呆れ果てた次の瞬間、私は思い立ってバッグの中からスマホを取り出した。電波は圏外だが、充電は十分に残っている。
待ち受けからカレンダーアプリを起動。機種変更するたびにバックアップデータをクラウド保存し、新しいスマホへと引き継いでいるのだ。予定さえ入力していれば、ひょっとしたら──

「あった!」
天才か。いや天才だ。過去の私にありがとう。
待ち合わせの時間と場所。そしてその後向かう先が簡素に入力されている。
「映画に行ってるよ。
このタイトルは確か…あ、そうそう、駅近の映画館で観て、その後にすぐ解散したんだっけ。全然関係ない予定が三時間後に入ってるし、間違いないよ」
掘り起こした記憶は意外なほど鮮明な映像で、私の脳裏に蘇る。きっかけさえあれば意外と思い出せるものなんだな、なんて感心するほどには。
「グッジョブだ、ハニー。
映画館へ向かおう。今行けば、出てくる時間には間に合うはずだ」
意気込んで、カラ松くんが立ち上がった。
「え…は?いやいや、何で?何の公開処刑?精神的に殺そうとしてる?
恋愛に夢中になっている自分自身を、否応なしに見せつけられる精神的苦痛は計り知れない。苦悶の表情でのたうち回ってもいいのか。
「行くのは別にオレだけでもいいが、別行動しない方が安全だろう?」
「それはまぁ、そうなんだけど…」
「もしかしたら、帰れるかもしれないんだ」
はぁ、と私は息を漏らす。もう抵抗する気は起きなかった。何をするつもりかは知らないが、帰れる可能性が少しでもあるなら、カラ松くんに望みを託そう。




映画の終了時刻を映画館内のディスプレイで確認してから、私たちは一旦外へ出る。出入口から少し離れたベンチで待機する際、私だけ再びサングラスを装着。
そうこうしているうちに、映画を終えた客たちがぞろぞろと建物から排出される。抱えたパンフレットや会話の内容からして、私と元カレが観ていた映画に間違いない。自然と肩が強張った。
「ノンノン、リラックスだ、ユーリ。緊張する姿も新鮮でいいが、美の女神アフロディーテも裸足で逃げ出す微笑みが、ハニーには一番似合うぜ
「各方面から叱責を食らう発言止めて」
カラ松フィルターどうなってるんだ。
「…大丈夫、取って食ったりしないさ」
カラ松くんが優しく笑って、再び出口へと顔を向けるのと時を同じくして、当時の私と元カレが姿を現わした。肩が触れ合うほどの距離感で、楽しそうに談笑しながら。
出口の自動ドアをくぐって数歩進んだところで、元カレは片手を挙げて軽やかに別れを告げる。かつての私はにこやかに応じ、名残惜しそうに背中が見えなくなるまで見送っていた。まだ一緒にいたい思いを隠して強がるのが傍目にも分かるから、何ともむず痒い。
「ねぇカラ松くん、一体ここで何をし──」
その問いかけが最後まで紡がれることはなかった。尋ねようとした視線の先に、カラ松くんの姿がなかったのだ。
「…は?あれ?」
慌てて周囲を見回すと、彼は有栖川ユーリ──つまり私なのだが──と対峙していた。

「えーと…どこかで会いました?」
目を丸くして首を傾げる、若い頃の私。カラ松くんはこちらに背中を向ける格好になっていて、彼の表情を読むことはできない。
「オレの名は松野カラ松。静寂と孤独を愛する───あー、いや、そんな前口上はいい。
信じてもらえないと思うが、数年後にオレはユーリ…君と出会う。街中で再会してオレが食事に誘って、それからは毎週のように会うことになる」
若い私は怪訝そうに眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げる。完全に不審者を見る目つきだ。逃げ出さないだけマシか。

「その時君が会うオレは、今の彼氏よりもずっといい男だ」

大した自信だ。実家暮らしでニートで童貞で、同世代カースト圧倒的最底辺と自称するくらいなのに。
でも同時に、もしかしたら、万一にも、そういう可能性もあるかもしれないな、とも思う。

「…どうか、覚えていてくれ。ユーリ…オレは、ずっと───」

次第に声のボリュームが絞られて、その台詞は最後まで聞き取ることができなかった。
驚愕を顔に貼り付けて目を瞠る私の姿だけが、目に映る。彼女は、一体何を聞かされたのだろう。
だがすぐに、長考するだけの余裕は失われる。再び、世界がぐにゃりと形を変えて歪み始めたのだ。
「また会う時までさよならだ、ハニー」
二本指の気取った敬礼を投げて、カラ松くんはその場を後にする。道路に停車していた半数以上の車が、空へ舞い上がり、一部が隕石のように落下を始めた。車体は破損し、ガラス片やパーツの欠片が無残に飛び散る。これは間違いなく殺しにきてる。
「さぁ、とっとと逃げるぞ!」
私の手を引いて駆け出すカラ松くんの顔は───心なしか満足げだった。




地面の段差を利用して障害物を避ける。
「こんな時に何だけど、カラ松くんだって人のこと言えないよね!」
並走する彼に向かって私は声を荒げた。
「ああ、無茶したな」
反省の意思など微塵もないとばかりに、カラ松くんはさらりと言ってのける。飛来する鉄製のゴミ箱を回避するため、彼は軽やかに跳ねた。叩きつけられるゴミ箱、ばらばらと散らばっていく空き缶たち。
「私が高校生のカラ松くんに会ったから、それで良かったんじゃないの?」
「それだと、この時代ではオレしかユーリに会ってないことになる。逆も必要だと思ったんだ」
ああ、とつい声が出た。なるほど、合点がいく。
亀裂の入ったアスファルトを飛ぶ。裂け目の奥に広がるのは、漆黒の闇。
「まぁ…実を言うと、それは後付けというか、言い訳みたいなもんなんだが」
「別の目的があったの?」

「マーキング」

ニヤリと鼻につく笑みを浮かべて。けれどどこか照れくさそうに。
「元カレより、オレの方が何倍もイカしてるだろ?」
「はぁ!?マーキングって、何それ!」
「フーン、いいだろう説明しよう。マーキングというのは目印や標識をつける──
「単語の意味を説明されるのは想定外だった!ごめんいらない!」
走りながらのツッコミは体力を消耗する。危うく段差で転倒するところだった。
カラ松くんは数十センチの高低差などもろともせず、私の先を行く。だが私たちの距離が広かないのは、彼が随所随所で背後を振り返り、私が遅れてないかを確認してくれるからだ。
「──で、実際どう?
嘘か本当かは置いといて、私とカラ松くんの出会いを目の当たりにした感想は?」
「…そう、だな」
カラ松くんは苦笑する。
瓦礫やゴミが舞う青空に、不似合いな稲妻が走った。空が荒れている。
「これで良かったんだと思う。
もしオレたちがさっき見たように、本当にこの時期にユーリと会っていたんだとしたら、顔も見ずにすれ違ったままでいい。
仮に目が会って、言葉を交わしていたとしても、彼氏がいる相手にまた会いたいという勇気もなかっだろうし、ユーリだって首を縦に振らなかったはずだ」
自家用車が近くに落下した地響きに足を取られる。
あわや尻もちをつくかというところで、腰に回ったカラ松くんの腕に助けられた。体勢を整え、再び地を蹴る。
「ってことは、満足した?」
「した。ハニーとは数ヶ月前に会うこの運命で良かったんだ」
「実はずっと前に会ってましたなんて都合のいい展開、あるわけないよ」
本当ドリーマーが過ぎると唇を尖らせて愚痴れば、カラ松くんは頷いて笑った。

「例え何度運命を繰り返しても、オレは今の年でユーリと出会いたい」

眩暈がする。
自分の意思とは裏腹に、視界が徐々に白濁していく。何気なく見つめた自分の手は透けて、その先にいるカラ松くんの服がうっすらと見える。
いつの間にか、空には闇の帳。物語の終焉を告げるかのように、静かに広がる、黒。
「結局、夢か思い出の世界かは分からないままだったね」
言葉を発することさえ億劫になっていく。向かい合うカラ松くんの体は、もう上半身しか知覚できない。
「イヤミの言うことだからな。でも、これで元の世界には帰れそうだ」
「お疲れでした」
「また後でな、ハニー」
晴れやかなカラ松くんの笑顔。
夢から覚めることを自覚するなんて、不思議な体験だ。覚めたいのに覚めなくて足掻く夢なら幾度も経験してきたけれど。

「──いい夢だった」

最後に聞こえたカラ松くんの声に応じるだけの気力は、もう残されてはいなかった。
せめて手を振ろうと腕を持ち上げた直後、私の意識はぷつりと途切れる。




頭に靄がかかったような、気怠げな目覚めだった。
ちゃぶ台に突っ伏して居眠りをしていたらしい、額を置いていた右腕には赤い跡が残っている。喉がカラカラだ。
コップの麦茶を飲み干したら、生温い液体が喉を通る感覚で、次第に意識が鮮明になっていく。
「…寝てた?え?何で?」
隣を見やれば、カラ松くんは畳の上に体を横向けて熟睡している。重力に逆らえず流れる前髪からは強気な眉が、捲れたシャツからは白い脇腹が覗いている。半開きの唇が、ごにょごにょと言葉にならない寝言を呟いた。
推しの寝顔美味しいです。
無防備すぎる。腹チラ最高。寝てるだけでエロいは罪。食べたい。
寝起きとは思えぬ回転の速さで、私はスマホの撮影ボタンを連打する。
開いた口の端から垂れた涎を確認した時には、思わず目頭を押さえた
「…んん?」
定位置に戻ろうと立ち上がった際に、一際高い音で畳が軋む。その音と時を同じくして、カラ松くんが眩しそうに目を開いて覚醒した。
「おはよう、カラ松くん」
寝顔の視姦なんてしてませんでしたとばかりに、極上の笑みを取り繕って起床を歓迎する。
「ああ、ユーリ……え、えっ?」
カラ松くんは数秒の間ぼんやりと私と見つめ合っていたが、やがて双眸を見開いて飛び起きた。
「オレ、寝てたのか!?」
「うん、でも大丈夫だよ。よく分からないけど私も寝てたみたいで、今起きたとこ」
「何だとっ!?ジーザスっ、ハニーの寝顔をじっくり眺めるチャンスをみすみす逃した!?
思考回路一緒か。
「何で二人揃って昼寝なんてしてたんだろうね」
「分からん」
「疲れる夢を見た気がする」
「それは分かる、オレもだ」
顔を見合わせて、笑う。
チクタクと時を刻む壁掛け時計の針は、間もなく正午を示そうとしている。半時間ほど眠っていたようだ。
「腹減ったな、ユーリ。何か食べに行こう」
円卓に手をついて立ち上がるカラ松くん。
うん、と生返事をした私は、彼の手首できらりと光る物に目が留まった。

年季の入った、シルバーのバングル。

表面には細かな傷が幾つも見受けられた。
そういえばもう何年も前、私も同じようなデザインのバングルを持っていたっけ。安物だったけど気に入っていたのに、いつの間にかなくしてしまった。あれは、どこへいってしまったのだろう。
それにしても、紛失したバングルに──よく似ている。


誰かが言った。
真実なんてない。あるのは無数の各人の解釈。
私たちが常々真実と呼ぶのは、最も有力な解釈の一つでしかない。

イヤミさんは言った。
私とカラ松くんが過ごした不思議な空間は、夢、思い出のどちらかであろうと。

「ねぇカラ松くん、そのバングル───」

それもまた解釈でしかないのなら、さぁ、私たちの旅路は、一体どんな『解釈』が有力なのだろう。

ラブストーリーは意図的に(前)

※えいがのおそ松さんに関するネタバレがあります。ご注意ください。





あの時ああしていれば、と誰しも一度は思いを馳せた経験があるだろう。
選ばなかった選択肢の先にある未来を身勝手なほどに美しく飾り立て、手に入れ損ねた栄光を遅ればせながら渇望する。
こんなはずじゃなかったという現状への不満か、己の意思で進んだ道への後悔か、それとも、より輝かしい未来があったはずと思い込んだ安い夢物語か。
二度と戻れないと知っているからこそ、その後悔は時としていつまでも心の奥底で燻り続ける。




一瞬、気を失っていたような気がする。
私の目の前には、ちゃぶ台の上で頬杖をつくカラ松くん。
「あ、えっと…何の話してたんだっけ?」
松野家の居間である。
休日、いつものように手土産を持参して、客間も兼ねている居間の円卓で菓子をつまみながら、カラ松くんと他愛ない話をしていた。
話題が途切れ、テーブルの上のスナック菓子に気なく手を伸ばした──はずだった。
「話…?いや、すまんユーリ、ええと…」
カラ松くんもまた思案顔で、顎に指を当てる。
円卓の上には、何も置かれていなかった。中央向けて伸ばした私の右手は、何かを掴むポーズのまま虚しく宙に浮いている。何これ恥ずかしい。
「なぁ…この部屋、おかしくないか?」
カラ松くんが険しい表情で立ち上がる。おかしいのは私の挙動ではと言いかけて思い留まる。視界に映る光景への違和感は、同じように感じていたからだ。
壁の鴨居に飾られた賞状の数と位置から始まり、壁掛けカレンダーのデザイン、襖の模様に微妙な相違がある。つい先程まで、見慣れた光景が広がっていたはずだったのに。
「ハニー、外へ出よう」
一見穏やかな誘いだったが、有無を言わさない強制力があった。
傍らに置いていたショルダーバッグを肩に掛け、音を立てないように忍び足で家を出る。音を立てて、万一にも誰かに見つかってはいけない、そんな気がした。


「カレンダーの日付が、高校三年の頃のものだった」

松野家から遠ざかる道中で、カラ松くんがぽつりと呟いた。すれ違う他人と顔を合わさぬよう、視線を落とし気味にして私たちは歩く。
「あのカレンダーには見覚えがある。
それに部屋の様子は、オレたちが高校の頃にそっくりだ…」
「そんなまさか──」
何の冗談だと言いかけて、不意に視界に入った空き地に言葉を失う。
『あるはずのもの』が、そこにはなかった。
松野家に通う道すがら、数ヶ月かけて少しずつ建設される様子を見守ってきた一軒家が、そこにあるはずだった───いや、あったのだ、つい今朝までは。
白い外壁と青い屋根、南向きの広いベランダ、外観だって鮮明に思い出せる。
「ユーリ、デカパンに会おう」
カラ松くんが意を決したように言う。
「困った時のデカパンだ」
便利屋みたいに言うやん。

しかし、確かに何らかの手立てを講じてくれそうな存在ではある。私とカラ松くんは踵を返して、デカパン博士が当時居住を構えていた場所へと向かう。

───と、その時。
「その必要はないザンス」
カツンと、杖の先端がアスファルトを叩く音が響く。
年季の入った木製のステッキを軽やかに回転させて、イヤミさんが私たちの前に立ちはだかった。

「イヤミさん!」
「イヤミ、それはどういう意味だ?」
カラ松くんは左手を斜め後ろに伸ばしながら、私の前に立つ。スパダリ降臨の瞬間である。アザス!
「ミーはこの世界でチミたちを導く案内人ザンス。ここがどこなのか、なぜチミたちがここにいるのか、知りたいんザンショ?」
イヤミさんを信じられる根拠はどこにもない。過去の悪事を鑑みれば、信用に値しないどころか、まず疑ってかかるべき危険な存在だ。
しかし、私たちが欲しい答えを所持していると彼は言う。
「話を聞いてみようよ、カラ松くん」
「ユーリ…」
「だって本人がこう言うんだよ、手がかりくらいにはなるかもしれない。それに、デカパン博士には後からでも会えるよ」
出口の見えない迷宮で下手に足掻くよりは、解決の糸口になりそうな材料は少しでも多く得ておく方が得策だ。
「賢い選択ザンス」
イヤミさんはいつになく白い出っ歯を輝かせて、不敵に微笑んだ。不承不承といった体でカラ松くんが腕を組む。
彼の背中に隠れるようにしていた私が、後ろ手にした自分の手の甲を思いきり摘み上げると───鈍い痛みが走った。




一軒家が建っていたはずの空き地へと手招きで誘導される。
「ここはチミたちどちらか、あるいは両方の『この時代に向けた強い願望』が反映された世界ザンス」
イヤミさんは背筋を正して告げた内容は、あまりに抽象的で、ピンとこない。
口を半開きにして呆気に取られていると、彼は続けた。
「夢または思い出の世界、そう表現した方が分かりやすいザンスね」
夢、その仮説には異議を唱えたい。先程私が感じた痛覚はどう説明するのか。
「人は、かつて進まなかった道の果てに、今より良い未来があったのではと夢見る哀れな生き物ザンス。
過去に戻ることも、選ばなかった道の先を見ることもできないと知りながら、あの時ああしていればと悔やむ。その強い後悔や願望が、この世界を作り上げた」
選択肢によっては、回避できた不幸もあったのではないか。そんな思考に至ったことはもちろんある。回数だって、一度や二度ではない。
「あまり長居はしない方がいいザンス。この世界の物や人に触れるのも、極力控えてチョーよ」
「それは、黄泉戸喫かな?」
「よもつへぐい?」
カラ松くんが首を傾げる。
「黄泉の国の食べ物を食べてしまうと、この世には戻れなくなるってこと」
度を越した干渉をすれば、この世界に取り込まれて元の世界への帰還は絶望的ということか。俄然、緊張感が高まる。
「もし仮にオレたちどちらかが作り上げた世界だとしたら、オレたちはどうしたらいい?どうやったら戻れるんだ?」

「いつか目覚めるかもしれないし、願望を叶えれば戻れるかもしれないザンス」

掴みどころのない曖昧な回答。クエストクリアへの明確な一本道が用意されていると期待しただけに、拍子抜けだ。
私の表情から落胆の色を感じ取ったらしいイヤミさんは、くく、と小さく笑う。
「そんなに簡単にミーを信じていいんザンスか?」
「何を──」

「ミーの言うことが真実かどうかなんて、保証はどこにもないザンスよ」

私とカラ松くんはどちらともなく顔を見合わせる。
「でもイヤミ、お前は──」
私たちが再びイヤミさんへと顔を向けると───そこにはもう、彼の姿はなかった。
だだっ広く、身を潜める場所など皆無な平地である。私たちが目を逸していたのも、数秒という僅かな時間。
そして極めつけに、アスファルトの歩道から空き地に続く地面に残された足跡は、二人分。ぞわりと、背筋に冷たいものが走った。
「と、とにかく情報を整理しよう、ユーリ」
「整理も何も…有益な解決策は何一つなかったよ
「とっ散らかした上に丸投げだったな」
カラ松くんの瞳が絶望に濁る。
「イヤミーっ、帰ってこい!ギブミーヒント!」
「せめてフラグ立てるか回収可能な伏線置いてけ!深いこと言ったようで全体的にフワフワさせただけとか、案内人名乗るな!導かれるどころか、がっつり迷子だわ!
何しに来たんだ、あの出っ歯。




顔を上げて世界と向き合ってようやく、非日常的な異世界感を突きつけられる。
建築物や生き物といった、この世界に存在する全ての物質は、所々で歪な形を成していた。欠損、歪み、他物質との結合。澄み切った青い空には電柱や家電といった粗大ゴミが、重力を無視してゆらゆらと浮遊している。
ひと目で現実世界でないと判別できる、異様な光景だ。
「オレかユーリか、どちらかが作り上げた可能性もあるんだよな」
あてもなく歩きながら、カラ松くんが溢す。
「もしオレの夢だとしたら、オレの目の前にいるユーリは、オレの記憶から作られた架空の存在ということになるのか?」
私とカラ松くんの存在から疑問視する。全ての根底を揺るがす問いかけだ。
「その可能性もあるね。もちろん、逆も」
ということは。
「私の夢なら際どいセクハラしまくりたいんだけど、万一夢じゃなくて思い出の世界だったら、元の世界に戻った時に気まずさマックスだよね。悩むなぁ
「悩むな!」
カラ松くんは両手を胸の前に交差してガードの構え。女子か。

私たちとすれ違う他人は、一見何の変哲もない人間そのものだ。ときどきのっぺらぼうだったり、パーツの一部が欠損していたりと怪奇ではあるけれど。
不思議なのは、その中でいわゆる一軍と呼ばれるスタイルのいい美女に限っては後光が指していることだ。モブが多い中で美人の存在感が半端ない
「これ間違いなくカラ松くんの世界」
「き、決めつけないでくれ、ハニー!」
「だってそうでしょ」
「オレじゃない!だって見てみろ、オレはこんな難しい字は今も読めないぞ!
本屋のショーウィンドウに貼られたポスターの新刊名を指して彼は言う。
書かれていたタイトルは『魑魅魍魎が跋扈する』。一般的にも難読の部類だが、二十歳すぎのいい大人が読めないことに胸を張るな
「ということは、私たち二人共通の夢?思い出の世界?そういう可能性もあるのかな…」
「何とも言えないな、まだ情報が少ない」
カラ松くんは下唇を尖らせて唸った。
デカパン博士に会いに行って事情を説明するかとも考えたが、イヤミさんの語りを信用するなら、他人との必要以上の接触は危険だ。博士も例外ではない。
「───あ」
不意に、カラ松くんが声を上げた。
前方から向かってくるブレザー姿の女子高生たち。その中に一際輝く、見慣れた姿を発見する。

トト子ちゃんだ。

栗色の長い髪をしなやかな指先で掻き上げ、周りを囲む友人に向けて明るい微笑を浮かべている。邪気や自己顕示欲の欠片もない、慈愛に満ちた笑顔。
「トト子じゃなかった。ドッペルゲンガーかな?
世界には自分に似た人物が二人はいるという。
「気持ちは分かるが、あれはトト子ちゃん本人だぞハニー」
マジでか、闇が深い
「こっちに来るぞ。隠れるんだ、ユーリ」
カラ松くんは彼女に顔が知られている。咄嗟に電信柱の影に身を潜めて、彼女たちが通り過ぎるのを待った。
「トト子は進路どうする?やっぱ都内の女子大受験するつもり?」
「うーん、どうしようかな。今年で卒業って実感沸かなくて、実はあんまり絞れてないの」
友人からの問いかけに、悩ましげに頬に手を添えて溜息をつくTHEヒロイン。
トト子ちゃんとその友人たちは、模試の結果や残りの高校生活をいかに有意義に過ごすかに話題を転換しながら去っていく。その後ろ姿は次第に小さくなり、やがて笑い声も聞こえなくなった。

電信柱から離れて、私たちは再びあてもなく歩き出す。知り合いと接触しては不都合が多いため、二人揃ってカラ松くんのサングラスを装着。簡易的な変装だが、一定の効果は見込めるだろう。
「今年卒業だって」
「やっぱりそうか。ということは高校三年の時期で間違いないな」
カラ松くんが見たカレンダーの日付とも符合する。
「高校三年…よりによって、何でこの年なんだ」
表情が強ばった。
何かあったのかと、事情を尋ねるのは誰にだってできる。しかし不用意に口にした疑問に回答を得られたとして、何らかの責任を持つことができるかと問われれば、答えは否だ。聞こえなかったフリをして、私はカラ松くんの出方を窺う。
「──オレたち、さ」
困ったような表情で眉間に皺を寄せ、彼は切り出した。
「うん」
「この頃…すごく仲が悪かったんだ。
周りが大人に近づいたせいか、六人いつも一緒なのをからかわれたり、人格を勝手に区別されたりし始めた。卒業後の進路だって、全員同じというわけにはいかない。
変わらなきゃいけないことに嫌気が差して、向き合うこともしないまま、少しずつ話さなくなって…正直、高校の頃のことはよく覚えてないんだ」
苦笑交じりに述懐される、かつての松野家を覆った暗い過去。
何だ、と私は思う。そんなことか、と。

「そういう時期ってあるよね。
特にカラ松くんたちは生まれた時からずーっと一緒なんだもん、仲悪い時期もあって当然。でも思い出したら恥ずかしくなるんだよね、何でそんなことしてたんだろう、馬鹿だなぁって。
いわゆる黒歴史ってヤツ。私にもあるよ」
教えてあげないけど、と付け加えて一笑に付せば、カラ松くんは僅かに瞠った双眸を緩く細めた。

内的要因外的要因どちらにも影響されやすく、自分の信念こそが絶対と盲信する多感な時期。精神的にも未熟な成長過程で、誰もが通る道だ。他人が聞けばそれこそ笑い話だが、当人にとってはいつまでも目を背けたい古の記憶。
多大な後悔と僅かな懐古の念がごちゃ混ぜになった記録を、私たちは親しみを込めて黒歴史と呼ぶ。
「ユーリがそう言うと、大したことじゃない気がするから不思議だ」
「でも当事者にとっては一大事なんだよね」
うん、とカラ松くんは一呼吸置いて。

「それでも───オレは救われる」

抑揚のない声で、独白のように想いは小さく紡がれた。




やがて目に飛び込んでくる、赤塚高校のブレザー。
すわカラ松くんの知り合いかと手を庇代わりにして見やれば、顔を確認する前にカラ松くんに首根っこを掴まれて建物の影へと引き込まれた。
「な、何!?」
「ハニー、静かにっ」
地面に膝をついたカラ松くんは手を伸ばして、私の口を塞ぐ。

「───あれはオレだ」

何だと?
「高校三年のカラ松くん…?制服姿、の…?」
尋常じゃない威力を持つパワーワード。
記憶に刻むまでは死ねないと意気込んで手を振り払い、建物の影から顔を覗かせる。視線の先からやって来るのは、俯き気味に背を丸め、不安げに眉尻を下げた内向的な少年だった。
誰あれ。
頬にできたニキビが思春期の若さを彷彿とさせる。
「え…えっ?──ええぇぇえッ!?」
ブレザーの少年とサングラス姿のカラ松くんを交互に何度も見比べて、私は驚きの声を上げた。
「ちょっ、ハニー!気付かれるぞ!」
「何が起こったら内気な少年がポジティブナルシストにクラスチェンジするの」
真逆すぎる。生命の神秘。
それにしても、まるで覇気のない風体だ。足の運びは重く、歩を進めるのさえ億劫と言わんばかりである。

自宅へ帰る途中かと、彼が向かう先へと何気なく目を向けたその先で、私は思いがけない人物を目撃する。
「あれは…」
私よりも先に、カラ松くんが驚きの声を発する。

有栖川ユーリ───数年若い私自身が、反対側からやって来たのだ。

何年も前に着ていた記憶のある服装と、少しだけ幼い顔立ち。ショルダーバッグの紐に片手を添えて、真っ直ぐに前を向いている。風で靡く髪を指先で抑えながら、背筋を正した軽やかな足取りが、カラ松くんとは対照的だった。
視線を地面に落とすカラ松くんと、前だけを見据える私が、数メートルという距離を保ったまますれ違う。視線は一瞬も絡まない。相手の存在を認知さえしないまま、互いの背中が通り過ぎていく。
「過去の自分を見るって変な気分…ドッペルゲンガーに会うって、こんな気持ちなのかな」
自分の姿は、鏡や写真といった媒体を介して知覚する。人物として対象を目にするのは、居心地が悪いような、おかしな感覚だった。
「それに、この頃の私たちは他人なんだよね。生活圏が少し被ってたとはいえ、すれ違ったらまぁこうなるのが自然か」
実際見ると不思議だねと笑って相槌を求めても、カラ松くんは去っていく昔の私の背中を無言で見つめたままだ。
──どこか、思いつめたように。

「お待たせー!」

若い私がきらきらした眼差しで手を振った。
それに呼応するように数メートル先でにこりと微笑む爽やかな青年。彼の隣に並んだ私は、差し出された左腕に手を絡めて寄り添う。
「やべぇ」
思わず声に出していた。

この時期に付き合っていた彼氏がいたのを、思い出したのだ。

こまめに連絡を取って、精一杯のおしゃれをして、彼しか見えなくて。すぐに別れてしまったし、今はもうきっかけがなければ思い出せないけれど。
「何この地獄…過去の自分の乙女っぷりを否応なしに直視させられる拷問キッツイ…」
確かにそういう時期もあったし、嫌な過去でもないが、廃れて久しい初心な乙女心を自分の姿で再現されると心臓が痛い。服も化粧も気合い入れちゃってまぁ。
「彼氏が、いたんだな…ユーリ」
ぽつりと溢された言葉は、私から視線を外したまま。ひゅ、と空気が冷える。
「短い期間だったけどね」
「そうか」
「…うん」
何だこの気まずさ。
「───自分の目で見るのは、想像してたよりキツイな」
壁に背を預けて、カラ松くんは自分の額に手を当てる。口からは重苦しい溜息が漏れた。
「過去の話だよ。私だって今思い出したくらいだし」
「分かってる。分かってるんだが…すまん、自分でもどういう感情なのか説明できない」
カラ松くんの苦悩をよそに、仲睦まじい男女は商店街へと消えていく。
高校生のカラ松くんはというと、閑静な住宅街の中にある、遊具の少ない小ぢんまりとした公園のベンチで、A4サイズの冊子を読み込んでいた。台本のようにも見える。
「でも、分かったことがある」
忌々しく吐き出すかのような口調だった。


「ここは、オレが望んでた世界なんだと思う」

突然口にされたその言葉を、咀嚼して飲み込むのに時間がかかった。
今にも泣き出しそうな顔で、カラ松くんは私を見やる。
「もしも、と夢を見てた世界だ」
それは。
「もしかしたら、とずっと思ってた」
世界から、一切の音が消える。人の会話や車のエンジン音、工事音、複数の音色が奏でる騒がしい演奏がぴたりと止んで、カラ松くんの声だけが広がった。

「オレとユーリは、もっと以前に会ったことがあるんじゃないか──って」

平行線の二つの運命が、交わる時。
「ユーリは覚えてるか?
いつだったか、オレたちの家近辺の土地勘があるって言ってたこと」
とんと記憶にない。ただ彼の言うことは事実だから、私自身がそう語ったのだろう。
「年も住む地域も出身校も違う。でもさっきもハニーが言ってたように、生活圏が重なっていたなら、オレたちが覚えてないだけで、ドラマみたいなことが実はあったんじゃないか。
それを確認できたらいいのにって、ずっと思ってた」
だからこれはオレの願望の世界なんだ、と彼は紡ぐ。
「カラ松くん…」
「でも、そうだよな…もし本当にたまたますれ違っていて、それが今見たようにこの時期のこの瞬間だったとしたら、こういう結果になって当たり前だ」
何で考えもしなかったんだろうな、と彼は忌々しげに自嘲する。
視線が絡むことはおろか、個体として認識さえしないまま、通り過ぎる赤の他人。一人は他人と会話をするのさえ躊躇する内向的な性格で、もう一人は特定の恋人がいて他の異性が眼中にない状況。
私はにこりと微笑んで、カラ松くんの肩に優しく触れた。
「ユーリ…」
「ドリーマーが過ぎる、帰れ」
「辛辣」

待て待て、とカラ松くん。
「ツンデレのツンが過ぎるぜハニー。
ここは感傷にふけるオレをフォローして、仲を深めた暁に熱いハグがあって然るべきなんじゃないのか?
さては照れてるんだな。ビンゴ~?
「控えめに言って、童貞こじらせクソロマンチスト」
「控えめの意味知ってるか、ハニー?」
存じ上げません。

モテ薬で危機一髪

「これが約束の薬だす」
「サンキュー、デカパン」
カラ松くんがデカパン博士から受け取るのは、白い紙袋。袋の中には、市販薬のようにアルミ包装された錠剤が数種類入っていた。




その日、私とカラ松くんは所用でデカパン博士の研究所へと足を運んでいた。
カラ松くんが受け取ったのは、デカパン博士特製の栄養剤だ。
数日前に風邪を引いた一松くんの治りが遅く、平常時でも一般人の半分ほどしかない体力ゲージがみるみる底を尽き、熱は下がったものの風邪特有の倦怠感が継続中。今や、布団から起き上がるのさえ億劫なほど消耗しているらしい。基礎体力が赤子レベル。
まずは体力回復が優先と判断したカラ松くんたちは、博士に効果の高い栄養剤を依頼した、そういう経緯である。
「食後に一錠ずつ、一日三回飲むだスよ。二日もすればかなり元気になるだス」
「分かったぜ、ブラザーにそう伝える」
処方されたのは三日分だった。カラ松くんはひいふうと中身を数えて、過不足のないことを確認する。
「博士は本当に色々作ってるんだね。薬から機械までって対象範囲広すぎ」
カラ松くんの後ろから顔を覗かせて、私は改めて感心する。騒動の種になることも多いが、何らかの賞や特許が取れても不思議ではないほど画期的な発明品も多い。
誰もがきっと一度は夢見た、どこでもドアやタイムマシンだって、実はもう既に開発しているのではなかろうか。
その疑問を投げかけると、デカパン博士は笑った。
「ホエホエ、実はタケコプターは作ったことがあるだス。浮遊効果も確認できたんだスよ」
「マジで」
欲しい。
「高速回転して首から下が千切れてもいいなら持ってくるだス」
「全力で遠慮させていただきます」

死因がタケコプターとか笑えない。期待した私が馬鹿だった。
「ユーリ…」
カラ松くんが絶望に満ちた瞳で私を見てくる。末路を私で想像するな。

「──まぁ、過去の犯罪歴は置いといて」
タケコプター試して誰か死んだのか。
「女性向けにも、栄養剤としてテストで作ったアンチエイジングサプリがあるだスよ。ユーリちゃん試しにどうだスか?」
「おお、いいんじゃないか?
ユーリがこれ以上美しくなる必要性はどこにもないが、美貌にますます磨きがかかったら、カリスマモデルも目じゃないな」
「え?ええ~、やだもう私そんな飲みます飲まずにいられるか今すぐお出しください
デカパン博士が言うには、美容効果が謳われている二十種類の成分を、市販薬の数倍の量で配合した錠剤とのことだった。危険成分は一切なく、極めて安全安心と強調される。しかしこの人の発明品は最高か最低かの両極端だから、油断はできない。
「ユーリちゃん、こっちだよーん」
メイド姿のダヨーンに手招きされて、薬剤の並ぶ棚に案内される。出会い頭にミニスカートのエプロン姿は驚愕通り越して恐怖だったのだが、ダヨーンのメイド服に誰もツッコまないのはなぜなのか。見慣れてるの?デフォなの?
「ハート型のピンクの錠剤だスよ」
「任せるよーん、見たことあるよーん」
博士はダヨーンに言い伝えて、カラ松くんに向き直る。手渡した薬の副作用の可能性や、万一数日経っても効果がなかった場合の対処法などを説明しているようだ。カラ松くんは腕組みをしてふんふんと聞き入る。

ダヨーンが、手の平サイズの小瓶を棚の奥から取り出した。ガラス瓶の中には、一センチに満たない錠剤が幾つか入っている。彼は蓋を開けて、私の右手に一錠をぽとりと落とす。
「一個で十分効果があるよーん、水で飲むといいよーん」
「ありがと。わぁ、可愛いデザイン。こういうディテールも凝るっていいよねぇ」
渡された錠剤は、大小のハートが重なったダブルハート。淡いピンク色も可愛らしい。
口の中に放り込み、渡された水で嚥下する。
「ダブルハートなんてこだわった形、もしかしてこのために型まで作ったとか?」
率直な疑問を口にしたら、デカパン博士が振り返った。

「ん?ダブルハート?」

不穏な空気が漂い、胸騒ぎがする。
六つ子に関わった上で発生するこういう事案は、往々にして平和から遠くかけ離れた壮絶な展開に発展することが多い。私が六つ子連中と縁切りしたくなるのは、八割方こういう時だ。
地獄が始まるゴングが鳴った。私はそう確信する。
「ダヨーン、間違いなくハートを選んだだスか?」
「ハニー、どうした?」
カラ松くんも駆け寄ってくる。
「…ちゃんとハートだったよ。可愛いダブルハート」
「それは別の薬だス。ワスが言ったのは、一般的なハート型のことだスよ」
博士は瓶の中身を見るやいなや、愕然と目を瞠った。

「これは───モテ薬だすな」

今回はそういうパターンかぁ、とどこか冷静に受け入れる自分がいる。慣れって怖い。
「モテ薬!?デカパンっ、ハニーは大丈夫なのか!?」
「大丈夫かどうかは…ワスには何とも言えないだス」
博士は声のトーンを落として言う。お前が作った薬だろうがというツッコミは無意味だろうか。
「ダヨーンのせいじゃないよーん、わざとじゃないよーん、本当だよーん」
ダヨーンはいつもと変わらない表情と口調だが、目線を私から逸らす。ひょっとしてわざとか?
「一つ言えることは、一刻も早く安全な場所に逃げた方がいいだス」
「どうして?たかがモテ薬でしょう?」
「このモテ薬は、体中から通常の何千倍のフェロモンが出て、性的対象として自分を見る人間の性欲を掻き立てる代物だス。その結果、増幅した性欲によって理性を失い、本能のままユーリちゃんに求愛してくるんだスな」
原理がやたら生々しい。
普通モテ薬というと、唐突にありとあらゆる異性から優しくされたり告白されたりツンデレ発動されたりして、モテ期突入しちゃったどうしよう~困ったゾ☆的な、乙女心をくすぐる王道展開のはずだ。
性欲故の求愛とか、下手すると犯罪スレスレ案件じゃないか。そんな危険なものなぜ作った?
ツッコミ所があまりにも多すぎて、私は投げやりな気持ちになる。
「効果が持続するのは三時間だス。
薬が体内で溶け出すまであと数分、早く逃げるだスよ」
「逃げた方がいいよーん」
「いや、ダヨーンはまず私に謝って。故意にしろそうでないにしろダヨーンのせいだし、謝られても現状が打破できるわけじゃないけど、私の精神安定上必要
人差し指を突きつけ、無表情で謝罪を要求する。だがダヨーンは私から目を逸したまま微動だにしなかった。
釘バットで殴りたい。

「ユーリ!」
カラ松くんが私の腕を掴む。
「デカパンの言う通りにするんだ。ここもデカパンとダヨーンがいて、いずれ危険になる。とにかく外へ避難しよう」
「逃げるって言ったって、どこに──」
「考えるのは後だ、行くぞっ!」
強引に手を引かれて、別れの挨拶もそこそこに私とカラ松くんは研究所を後にした。




違和感は、研究所を出た瞬間から感じていた。
殺気や人の気配を感知する能力はおそらく人並みで、どちらかと言えば鈍い方だと思う。けれど外へ出て数歩進んだ途端、鋭い視線が体中に突き刺さるのを嫌というほど感じた。恐る恐る顔を上げれば、歩道を歩く男という男が一様に立ち止まり、私に顔を向けている。
その光景はホラー以外の何ものでもない。
「──っ!」
あまりの衝撃に、声が出なかった。口内の唾液が上手く飲み込めない。
カラ松くんは硬直して眉をひそめた後、静かに私に告げた。
「絶対にオレから離れるなよ」
「言われなくとも!」
叫ぶように告げて、私はカラ松くんの左腕に自分の腕を絡める。
「え、なっ…ユーリ!?」
「ごめん、しばらく彼氏役して!安全な場所に着くまででいいから!」
彼と恋人同士を装えば、何らかの抑止力にはなるかもしれないと踏んたのだ。横に彼氏がいる女に、そう簡単に声をかけるものか。

そう思っていた時期が、私にもありました。

「可愛いね!名前何ていうの?今からデートしよう!」
「一目惚れです!俺の彼女になってください!」
「君以外の女なんて考えられない。結婚を前提に付き合ってくれっ」
熱視線を送ってきていた男たちが、私の周囲をあっという間に取り囲む。彼らは揃いも揃って、隣にカラ松くんがいようがお構いなしに口説き文句を投げてきた。
ある者は従者のように跪き、ある者はパーソナルスペースに不躾に踏み込み、徐々に近づいてくる。
「か、彼氏いるし、ごめんなさい!無理、ほんと無理っ」
ふるふると首を振って断固とした拒否を示すが、その程度で引き下がるほど薬の効力は弱くはないようだ。彼らの目には私しか映っていなかった。カラ松くんのことは、存在さえ認識していないのかもしれない。
私は咄嗟にカラ松くんの背中に回る。肉壁発動して私を守れ。骨は拾う。
「ハニーが嫌がってる、道を開けろ」
カラ松くんは低い声音と振り払う仕草で拒絶の意向を示すが、彼を障害物と認識した男たちに突き飛ばされて私との距離が開く。私の意識もまたカラ松くんに向き、防御に隙ができた。

ガラ空きだった背後から伸びた誰かの手が、私の背中に触れる。

「うひぃッ!」
人間、予想だにしない出来事に遭遇すると変な声が出るものだ。思わず背を反らして感触から逃れようとするが、背後に回った男性陣たちは嬉々として距離を詰めてくる。
「か、カラ松くんっ!」
とっとと助けろ。そんな言葉が喉まで出かけた。余裕がないと口まで悪くなってしまうのは悪い癖だ。
「ユーリ!」
カラ松くんは両手を伸ばし、私を胸の内に抱き寄せた。掻き抱くといった表現が適切といっていい、狂おしいほどの抱擁。決して離すまいとする強い意思が感じられて、ゾンビ紛いの理性を失った連中に囲まれているシチュエーションでなければ、尊死待ったなしの案件だ。
かと思いきや、次の瞬間にカラ松くんが私の背中と膝裏に手を差し入れて、お姫様抱っこの要領で抱え上げてくる。
「ハニー、しっかり掴まっててくれ」
「えっ、えぇ!?」
もうわけが分からない。
「人の多い場所から離れるのが先決だ、全力で逃げるぞ!」
言うやいなや、脱兎の勢いで駆け出すカラ松くん。私は、彼の首にしがみついて逃走の成功を祈るしかない。
すれ違いざまに魅了される人もいて、追いかけてくる男たちの人数は増える一方だが、一切合切を振り切ってカラ松くんは走った。




ガシャンと騒々しい音を立てて閉めた引き戸を、後ろ手で施錠する。
玄関口で私を下ろして鍵をかけ、ようやくカラ松くんは大きく息を吐き出した。引き戸に預けた背は徐々にずり落ちて、やがて地面に尻をつく。米俵を抱えて全力疾走し続けたのだ、消耗して当然である。
「だ、大丈夫?」
「…ああ。ユーリが無事なら…いい…」
息も切れ切れに、カラ松くんは笑った。上げた顔からは、一筋の汗が首筋を伝う。
「ちょっと待ってて、何か飲み物貰ってくる」
上がり框で靴を脱いでいたら、私の背後で障子が開く音がした。
「んもー、人が気持ちよく昼寝してたってのに、うっせぇなぁ。お前ら、まっ昼間から何やってんの?鬼ごっこ?」
寝癖のついた髪を掻きながら、おそ松くんが現れる。瞼は半分ほど落ちかけていて、昼寝から起きたばかりといった様子だ。
「あ、うん、ちょっと色々あってね。昼寝の邪魔しちゃってごめん、おそ松くん。
ところでお茶かお水貰いたいんだけど、台所ってどこ?」
「麦茶が冷蔵庫にあるけど。母さんいないから勝手に取ってきていいよ。場所はあっち」
「ありがと!」
立ち上がり、おそ松くんが指差した方向へと向かう。

──と、次の瞬間、背後から抱きすくめられた。

自分の身に起こったことを理解するのに、数秒を要した。あまりにも想定外だったからだ。
「…なぁ、ユーリちゃん」
耳元から聞こえる囁き声。おそ松くんの髪が私のこめかみに触れて、やたらくすぐったい。カラ松くんとはまるで違う匂いと、感触。同じ顔で似たような体型なのに、顔を見なくても別人だと分かる。

「──今から俺と一発やらない?」

ブルータスお前もか。

いや、むしろ当然の流れだ。そうりゃそうだろう。私たちはなぜ松野家が安全だと錯覚したのか。
それにしても清々しいくらいの性欲直球発言。さすがは松野家六つ子のプレーン
しかし感心している暇はない。おそ松くんの右手が私のシャツに侵入し、素手で腹部を撫で上げた。全身が総毛立つ。
「ちょっ、放してっ!」
「おそ松!」
立ち上がったカラ松くんが、私たちの間に両手を差し込んで強引に引き離す。
「んだコラ、カラ松。俺とユーリちゃんの邪魔すんじゃねぇよ」
「おそ松、冷静になれ」
「俺はいつだって冷静だし真剣だよ?」
一触即発の空気が漂う。今のおそ松くんには何を言っても無駄だ、話が通じる状態ではない。

「玄関で騒がないでくれない?猫が逃げる…」
「みんな揃って何してんの?やきゅう?」
逃げようとカラ松くんに声をかけようとしたその時、奥の廊下と居間から、一松くんと十四松くんがそれぞれ顔を覗かせる。厄介な童貞が増えやがった。
彼らもおそ松くん同様に、私を視認するなり目の色を変える。それを瞬時に察したカラ松くんは、踵を返して二階へ続く階段を指で示す。
「上に行くんだ、ハニー!」
「させるかクソ松ゴルアアァアァ!」
「ユーリちゃんとセクロスするのはぼくっ!」
「お前ら、童貞卒業は兄ちゃんに譲れッ」
一松くんと十四松くんが空中に跳躍し、おそ松くんは手を伸ばす。カラ松くんを障害物として知覚はしているが、障害の撤去よりも獲物を仕留めるのが優先なのか、私を着地点にロックオンしているのは明白だった。
「───すまない、ブラザー!」
カラ松くんは、下駄箱の上に置かれていたゴキブリ駆除スプレーを手に取り、兄と弟たちの眼球に向けて思いきりトリガーを引いた
「カラ松テメエエェェッ!」
「目がっ、目がぁっ!」
ムスカがいる。

三人が怯んだ隙に、私たちは階段を一目散に駆け上がった。




本棚とソファで入り口にバリケードを張るが、敵は攻撃力瞬発力共に秀でている十四松くんを筆頭に、欲望を満たすためならなりふり構わない面子が揃っている。即席の壁は、多少の時間稼ぎにしかならないだろう。
窓際まで下がって脱出方法を思案するが、窓から屋根を伝って下りるか、三人を振り切って強行突破しか選択肢はない。安全なのは前者だが、私が無事下りられるかという一抹の不安と、靴を取りに戻る際に戸を開ける音で気付かれる危険性がある。
決めかねているうちに、バリケードの奥にある襖が力強く叩かれた。
「ここを開けて、ユーリちゃん!」
「大丈夫、怖いこと何もしないよ~、ただちょっとデートしてご飯食べて疲れたら休憩するだけだから!」
休憩で余計疲れるかもしれないから、何なら泊まりでも!」
ホテル連れ込む気満々じゃねぇか。
「ユーリ…何か、その、どこに出しても恥ずかしいブラザーですまん
カラ松くんが素で謝罪してきた。
「ううん…みんなのせいじゃないから。薬のせいだよ、全部モテ薬のせい」
だが、恐怖と不安と苛立ちが混ざり合って、魔女の鍋のようにふつふつと泡を立てて煮立っていく。何で私がこんな目に遭わなければいけないのか。おそ松くんたちにも、非なんてない。彼らもまた被害者なのだ。

爆発した感情は、やがて怒りとして意識の表層に現れた。
「あーもうッ、うるさいうるさい!何が一発だ何がセクロスだ、童貞ニートども!
例え本心ではそう思ってても、そういう下心は上手く隠して振る舞うのが大人でしょうが!私はここを出たいのっ、安全な場所でゆっくりしたいの!
これ以上迫ってくるようなら、みんなのこと嫌いになるからねっ、絶交だから!
力の限り叫んだら、バリケードの向こう側が急に静かになる。それからひそひそと囁き合う声が聞こえたかと思うと、おそ松くんがもう一度襖をノックした。今度は、弱々しい力加減で。

「…ごめん、ユーリちゃんに嫌われるのは困る。
でもここにいられたら俺たち我慢できそうにないからさ、早く逃げてよ」

おそ松くんの、いつもの声のトーンだ。
感情を抑えた、努めて抑揚のない声で紡がれる言葉。
「だったら…三人とも一階の居間に戻って。私たちが外に行くまで、絶対に出てこないで」
沈む私の声を聞くカラ松くんが、居たたまれない顔で私を見つめていた。
「うん、分かった…」
「ユーリちゃん、カラ松兄さん──ごめんね」
「おれたちのこと…嫌わないで」
そして遠ざかる三人分の足音。遠くでぴしゃりと襖が閉まる音がして、それを合図にカラ松くんが無言でバリケードを外していく。
空気が張り詰める。私は唇を噛んで、下ろした両手の拳を強く握りしめた。ぎりぎと皮膚に食い込む爪の痛みが、冷静さを取り戻させる。

一度大きく息を吐いて、襖を開けた。


「とでも言うと思ったか!馬鹿めええええぇぇッ!」

死角から飛び込んでくる三人。
ああ、と私は思う。
おそ松くんの率直で裏表のない明るさや、一松くんの無愛想な中に秘めた優しさ、十四松くんの無邪気な笑顔が、走馬灯のように駆け巡る。いつも楽しかった。本当に、充実して飽きない日々で。いつまでも続けばいいなと夢を描いた。
だから私は───

「お前らの浅知恵なんぞ、最初からお見通しじゃボケエエエェエェェ!」

隠し持っていた殺虫剤で、雑魚三匹を始末する。

「二十歳超えた童貞の性欲に理性が勝てるわけあるか!私に攻撃力がないと見誤ったのが敗因だっ、一昨日来やがれ!
そう吐き捨てて、さぁ行くよとカラ松くんに手招きをする。床に転がって両目を押さえている間は戦闘不能だが、状態異常はいずれ復活する。

廊下で悶絶しながら転がる兄弟を一瞥して、カラ松くんは苦しそうに口を開いた。
「あの…ハニー…」
「何?」
「こんなことを頼める立場じゃないんだが…ブラザーたちのことを、嫌いにならないでほしい。
オレ含めて全員クズでクソだが、間違ってもユーリにこういうことはしないはずなんだ」
真摯な眼差し。私に気を遣いながら控えめに、けれど間違いないと断言する彼らへの信頼。
ふふ、とこんな状況なのに思わず笑ってしまった。
「嫌いになんてならないよ、当たり前でしょ───みんな、大事な友達だよ」
「そうか…良かった、ありがとう」
「さ、行こう。私の家に行けば誰もいないし、薬が切れるまで安全に過ごせると思う」




久しぶりに全力疾走をした。
確実にタクシーを拾える駅前まで走って、強引に女性運転手の車に乗り込み、自宅までの住所を叫ぶ。マナー違反と叱咤を受けるのも厭わないつもりだったが、私たちの剣幕に圧倒されてか、女性運転手は二つ返事でハンドルを切った。
背後の連中は振り切ってくれと、アクション映画さながらの無茶な指示も聞き入れてもらい、薬の効果で魅了された連中を撒くことにも成功。安息の地は近い。まさかエンジンの音に癒やされる日が来るとは、夢にも思わなかった。
マンションの周囲に人がいないことを確認して、カラ松くんと共に自宅の鍵を開ける。緊張からか、らしくなく手が震えた。なかなか鍵を回せない自分に苛立っていると、カラ松くんが自分の手を上から重ねて、ゆっくりと鍵を回す。
「…ありがと、カラ松くん」
最後の最後まで、助けられている。彼がいなければ、きっと乗り越えられなかった。

中に入って施錠した途端に緊張の糸が切れて、靴を脱ぎ捨てた後は廊下に座り込んでしまう。薬の効果が発揮されてから、まだ一時間も経っていないが、休憩なしで丸一日働き詰めだったかのような疲労感が体中に広がっていく。
「大丈夫か、ユーリ?」
「疲れたぁ、もう無理ー、もうモテるのほんと嫌っ、勘弁して!」
少女漫画のような淡いときめきや可愛いハプニングなんて幻想だ。這い寄るゾンビを蹴散らすバイオハザードの世界と言った方が正しい。丸腰で戦い抜いた私を誰か褒めて。
しかし、冷静になってふと気付く。

──カラ松くんと密室で二人きりになるのは、今の状況では危険すぎるのではないか。

モテ薬で何千倍のフェロモンが放出されているなら、異性かつ童貞歴の長いカラ松くんにも効果があるはずだ。最初から彼だけは味方だと信じていたから、薬の効力が及んでいるなんて考えにさえ至らなかった。あまりに浅慮な自分を恥じる。
私が不安げに見上げると、カラ松くんは身を屈めて床に片膝をついた。
「どうした?水でも持ってこようか?」
優しい口調は、いつもと何ら変わらない。彼はいつだって私を気遣って、私を喜ばそうと一生懸命で。力で捻じ伏せることなど容易いと知りながら、決してその選択だけは選ばない。
それは、なぜか。

「カラ松くんには…モテ薬、効いてないの?」

正直なところ、彼になら、という思いは僅かながら沸いた。
万一の時は襲撃を逆手に取り、言葉巧みに誘導してむしろ抱くくらいの意気込みは頭の片隅にいつもあったし、その流れに持ち込む自信もあった
しかし私が言い出すまで彼自身もまるで思い至らなかったらしく、今気付いたとばかりに顎に手を当てて思案する。
「ああ…そういえば効いてないようだ」
別に何ともない、と両手を広げてみせる。
「女の子より自分のことが好きなナルシストだから?」
「感心すると見せかけた巧妙なディスり」

「違う?ということは…実は男の人の方が好き?」
「なぜその結論になる」
結果から逆算する仮説としては、方向性は間違っていないと思うのだが。
「まぁ、モテ薬なんて効果がなくて当たり前だ」
カラ松くんは気怠げに前髪を掻く。

「薬なんかなくても、オレはずっとユーリが───」

しん、とした静寂が辺りを包み込んだ。
窓ガラスから差し込む日差しが、カラ松くんの黒い髪に反射してきらきらと輝く。その双眸には、唖然とする私の顔だけが映る。
「ユーリが…その、何というか…」
言葉を濁して、カラ松くんの顔が耳まで赤くなる。
言いかけたその台詞が最後まで語られることはなく。

カラ松くんは顔を真っ赤にしたまま、眉間に皺を寄せながら額に片手を当て、悩ましげなポーズを決めた。
「──フッ、常にガールズたちを魅了しているサキュバスの化身同然であるこのオレに、モテ薬なんて邪道なもの効くわけがないだろう!アンダスターン!?
大袈裟な身振りで声高に演説するカラ松くんを無視して、私は大きく息を吐き出した。
「まぁ何でもいいけど、カラ松くんに効果ないなら良かった」
理由はこの際不問にしよう。

とにもかくにも、二人とも全力で逃げ回って疲労困憊だ。ひとまずお茶を出すために立ち上がろうとしたら、優しい眼差しと共にカラ松くんの手のひらが私の頭を優しく撫でる。
「ハニーが不安なら、薬の効果が切れる時間まで外で待とう。鍵をかけてくれたっていいぞ」
その提案には、首を横に振った。この期に及んで何を言うんだ、この人は。
「駄目、そんなことさせられないよ。カラ松くんのおかげで無事に家まで来れたんだから」
効果が切れるまであと二時間。
「お礼しなきゃね。何がいい?」
「ハニーを守るのは当然だ、礼なんていい」
そう言うと思ったから、私は人差し指を彼の鼻先に突きつけた。カラ松くんは驚いてきょとんとする。
「人間関係をより円滑にするコツはWin-Winであることだよ、カラ松くん。
お礼をさせてもらえると、私はスッキリするしカラ松くんは得をする。悪い話じゃないと思うんだけどな」
もちろん金額や内容によって限度はある。
「コーヒーやカラオケ代私持ちとか、今日の晩ごはん奢るとか、あと何があるかな…えーと…」

「ユーリの手料理が食べたい」

天井を見上げていた視線をカラ松くんに戻せば、少し照れ臭そうに微笑みながら。
「夕方、二人で一緒に買い物に行って…って、こういうのでもいいか?」
自然と頬の筋肉が緩む。
「うん、もちろん!
じゃあ夕方買い出しに行こっか。ハンバーグでいい?」
「肉!?ふふ、分かってるじゃないか、さすがはハニー!」
肉メニューに瞳を輝かせた。
付け合わせやスープの材料をメモに書き出しながら、カラ松くんと顔を突き合わせてああだこうだとメニューを考える。
一緒に住んでいたら、こんなやりとりを何度も重ねるのだろうか。ふとそんな仮定が頭に浮かんだら、肩が触れ合うほど近い距離感に、今更ながら少し緊張する。
「何だか、嬉しいな」
ぽつりと溢れる言葉と、細められる双眸。
「こういうのに憧れてたんだ───思いきって言ってみて良かった」

尊さは許容限界値を超えた。

スーパーで買い出しをする推し、食材を吟味する推し、エプロン姿の推し、料理をする推し、何このご褒美絵図のオンパレード。殺す気か。心臓が保たない。
「あ、あのさ、料理する時のエプロン…デニム生地の格好いいヤツがあるんだけど、カラ松くん使う?」
命が惜しくば止めておけばいいのに、自分でとどめを刺しに行く私
「いいのか!?それじゃあ、ハニーと一緒に料理する時専用にしよう」
カラ松くんはにこりと破顔する。

私の血管の一本か二本がプツリと切れた音が聞こえた。
プライスレスな推しの笑顔は、尊さという名の攻撃で私の寿命をゴリゴリ容赦なく削っていって───世界は、今日も平和です。

6つ子に生まれたよ

使い込まれたギターの弦が、カラ松くんの無骨な指で弾かれる。そうして紡がれた音色は、松野家二階の室内に響いた。
「六つ子に生まれたよ」
「あいあい」
「六倍じゃなくて」
「六分の一」
ギターが奏でる旋律に乗って、サングラスをかけたカラ松くんが語るように歌い、十四松くんが絶妙なタイミングで合いの手を入れる。
カラ松くんはギターを構えるためにソファに腰を下ろして足を組み、その傍らに十四松くんが立つ。少し離れた畳の上で、私は彼らの歌に耳を傾けていた。

一分にも満たない短い歌は、始まったかと思えばすぐさま佳境に差し掛かる。
「六つ子に生まれたぁ」
「六つ子に生まれたぁ」
「六つ子に生まれたよ~」
各自のソロの後、二人の重なる声が反響、やがてギターの音が消えて静寂が漂う。数秒置いて私は座布団の上で膝を立て、演者の二人を労うために両手を大きく叩いた。


歌が終わるのを見計らったように、部屋の襖が開け放たれる。姿を現したのは、眉をひそめたチョロ松くんだ。
「お前らまたあの変な歌歌って───って、ユーリちゃんどうした!?
チョロ松くんが叫ぶのも無理はない。彼が部屋に入った時、私はスマホを頭上に掲げたポーズでひれ伏していたのだから。
「こいつらに何かされた!?」
「いや、ごめん…尊さ通り越して無理案件だっただけ…心臓キュッてなった
「意味分かんねぇんだけど!」
普通はそうだと思うよ。
「チョロ松、オレたちはハニーに歌を聴かせていただけだぞ。そもそも聴きたいと言ったのもハニーだ」
ギターをソファに置き、カラ松くんは言う。隣では十四松くんがうんうんと無言で頷いていた。
「…え、でも歌っていってもあれ、聞こえてたけど、六つ子に生まれたってヤツだろ?
歌詞も合いの手も意味不明な歌じゃん」
「…違う、全然違うよ──チョロ松くんは何も分かってない」
緩慢な動作で上体を起こし、私はチョロ松くんの顔を見つめる。至近距離で顔を突き合わせられた彼はギョッとした後、僅かに頬を赤く染めた。
ただでさえ魂を震わせるイケボのビブラートを効かせた腰砕けな歌声、ギターの弾き語りという高度なモテ技、『う』母音発音時のナチュラルなキス顔…どれを取っても尊さ振り切ってるでしょ!
「うん、最高にどうでもいい」
「推しと天使のデュエットってだけでも限界突破だよ!?」
「痛いナルシストと軟体狂人の間違いじゃなくて?」
「違うってば!」
歌は終盤に向かうにつれて一文字の発音が長くなる。目を閉じて唇を尖らせる蠱惑的な表情、自然に上を向く顔、何度も拝みたくなって当然ではないか。脳味噌が沸騰してもおかしくない。
私の熱い語りを否応なしに聞かされるカラ松くんと十四松くんは、満更でもなさそうに顔を見合わせてハイタッチ
「兄さん…ユーリちゃんにこんなに持ち上げてもらって、後でどんでん返しこない?戒めとく?
「フフーン、安心しろ十四松。ユーリはこれで通常運行だ、ノープロブレム
「ヤバイね!」
「ああ、そうだな…嬉しいんだが、急に言われるのは、何ていうか…心臓に悪いな」
「さすがドM松兄さん、ブレない!」
ときめく要素は皆無だったよ、と十四松くんは敢えてのツッコミ役。カラ松くんは気恥ずかしそうに首を掻いた。
そんな二人の他愛ないやりとりを眉間に皺を寄せつつ傍観するチョロ松くんが、溜息の後に私に告げる。
「僕もね、ユーリちゃんが言うことは何でも理解して肯定したいよ。好感度爆上げしてのし上がりたい欲だってぶっちゃけあるよ
でもね、こいつらの歌の良さだけは一ミリも同意できない、ごめん
謝られた。

「そうかなぁ?
この気持ちを一番分かってくれるであろうポテンシャルを秘めてるのは、チョロ松くんだと思うんだけどな」
私は座布団での居住まいを正す。
彼は心外だとばかりに双眸を瞠って、カラ松くんと十四松くん、そして最後に私へ次々と視線を移した。
「チョロ松くんには、橋本にゃーっていう推しがいるでしょ?
ライブにはもちろん行くし、SNSもチェックして、雑誌に一ページでも掲載されてたら買うくらいの愛がある」
「ま、まぁ…にゃーちゃんは確かに好きだけど…」
「ライブでの生歌っていいよね。その場にいる観客にしか見せない表情があるし、目が合った気がするだけで胸がときめいて、この人はひょっとしたら自分のことを認知してるんじゃないかって思う」
「ああ、うん、そうっ、そうなんだよ!
何度も歌われてる曲でも、その日のそのライブは人生で一度きり!
にゃーちゃんは地下アイドルだからハコはそう大きくなくてさ、目が合いやすいんだよね!もちろん僕を見てるって確証はないけど、いつもライブ来てくれるファンだって認識してもらえたら笑顔で死ねる!
「それで本人や公式から新情報や燃料の供給があるとテンション上がるんだよね。推しの新たな一面を知る感動はひとしお、妄想も捗る」
「分かってるじゃん、ユーリちゃん!
にゃーちゃんって猫キャラで可愛くて私生活謎なんだけど、この前SNSで屋台のおでん食べてる投稿あってさ!庶民的なとこもあるにゃーちゃん超絶可愛いよ、最の高ッて叫んだよね!夕飯は飯三杯いけた!
両の拳を床に叩きつけて力説するチョロ松くんを、私は笑顔で見つめる。やはり私の睨んだ通りの人材だ。カラ松くんと十四松くんはぽかんと放心して置いてけぼりだが、この際気にしない。
「私もね、同じなんだ。カラ松くんの趣味知ったのがつい最近。ギターの弾き語りするなんて全然知らなくて」
「いやそれは誤解だ、ユーリ。ユーリにはとっくに話したと思い込んでたし、そもそも家で時間のある時にやってるだけだから、特別二人でいる時の話題にすべきことでもないと思って…」
カラ松くんは懸命に弁明しようとするが、私がそれを途中で遮る。
「しかもさ──ねぇカラ松くん、既存曲は楽譜どうしてるんだっけ?」
「…え?トッティのスマホ借りて耳コピだが」
「ほら見ろ、この才能の塊!」
ギターの弾き語りができるだけでも十分ハートを撃ち抜かれるのに、演奏曲は全て耳コピによる再現。尊さ振り切るどころか、完全に殺しにきている。無自覚アサシンと呼ぶに相応しい。
カラ松くんは無言でサングラスのズレを直した。その口角は上がっている。
「フッ、シャイなブラザーたちからはノイズ扱いしかされてこなかったが───ユーリに喜んでもらえるなんて…へこたれずに続けてた甲斐があった」
「良かったね、兄さん」
涙目になるカラ松くんの頭を、笑顔の十四松くんが撫でた。

うん、とチョロ松くんは一呼吸置いて。
「にゃーちゃんに置き換えたら、ユーリちゃんの気持ち少しは分かる気がするよ。カラ松に魅力は微塵も感じないけど、推しを貶されたら嫌な気持ちになるよね」
「分かっていただけて嬉しいよ」
「推しを持つ物同士、もっと仲良くやれる気がする」
私とチョロ松くんはどちらともなく差し出した手を強く握る。この時私たちの気持ちは、間違いなく一つだった。


十四松くんが野球の練習に出掛け、チョロ松くんは私が手土産に持ってきたロールケーキを切り分けるためにキッチンへ下りる。部屋には私とカラ松くんが残された。
彼が愛用しているアコースティックギターは、細かな傷や経年変化による木材の色が目立つ。けれど音の狂いがないようチューニングされ、ソファに置く際の手付きも優しく、大事にしているのは自然と伝わってくる。
「ハニー…その、隠していたわけじゃないんだ。さっきも言ったが、話したとばかり思っていたし、ハニーといる時にギターを弾く必要性も感じなかったから…」
「分かってる、責めたいわけじゃないんだよ。そんな才能があるんだって驚いただけ。意外だったけど、何となくカラ松くんらしい感じもするよね」
私が笑ったら、カラ松くんはギターを腹部に抱え、右手の中指でサングラスの位置を正す。
「オレは第二のオザキだからな」
何て?
「いや、オザキをリスペクトしていると言った方が正しいか。オザキの生き様を倣って華々しく生き、静かに散る…オレ
二十代半ばでこの世を去ったオザキの散り様は、なかなかセンセーショナルだったと記憶しているが。
「──と、ずっと思ってたんだけどな…最近は早死にはしたくないと思ってる。できるだけ長く生きていたい」
カラ松くんの指がギターの弦を弾く。

「こうやってユーリと過ごす時間の方が、オレにとっては価値があることなんだ」

サングラスに隠れて、表情は読み取れない。私を見ているのか、見ていないのかさえも。
どう解釈すべきか悩んでいたら、カラ松くんはオザキの代表曲をギターで奏で始める。弾き慣れているのだろう、コードの押さえ間違いもない完璧な演奏だ。
「オザキ以外にレパートリーってあるの?」
「いや、ないが…何か聴きたい曲があるのか?」
「バラードとか聴いてみたいな。路上でラブソングの弾き語りしてると、つい足止めちゃうから。素敵だよね」
陳腐でもありきたりなフレーズでも、誰かを一途に想う歌は心惹かれるものがある。
カラ松くんはしばし虚空を見上げた後、サングラスを外してニヒルな笑みを浮かべた。
「オーケー、ユーリ。それくらい朝飯前だぜ。この松野カラ松、喜んでキュートなハニーの願いを叶えよう」




それから数日後の金曜の夜、カラ松くんから携帯に連絡があった。
歌を聴かせる準備ができたからいつでも訪ねてきてほしい、と。たまたま翌日何も予定を入れていなかったので、土曜の午前中に訪問すると告げて、約束通り松野家を訪れる。
玄関の引き戸を開けようと手をかけたところで、トレーニング帰りらしきユニフォーム姿の十四松くんに合う。全身泥だらけで、充実感に溢れている。
「やぁユーリちゃん、今日も遊びに来たの?」
「うん、カラ松くんが新しい曲弾けるようになったって呼ばれたんだ」
そっかぁ、と彼は口を大きく開けて微笑んだ。
「入って入って。カラ松兄さんはたぶん二階だよ。ぼくもお風呂入って着替えたら行くから、一緒に遊ぼう」
そう言って十四松くんは引き戸を勢いよく開け放ち、ただいまーと声を上げる。玄関は静まり返っていて、出迎えもない。
「お邪魔します」
「じゃあまた後でね、ユーリちゃん!」
乱暴に靴を脱いで、風呂場へと走っていく。白い靴下も土や砂で黒く汚れていて、まるで活発な小学生のようだ。かと思えば仮想通貨や株価の値動きに異常な感心を示し、彼の生態は謎に包まれている
私は玄関で靴を揃えて、二階に続く階段を上った。

部屋の襖を開けようとして、僅かに漂う嗅ぎ慣れた匂いがふと鼻孔をくすぐった。
匂いの正体を突き止めるより前に、襖が一センチほど開いているのに気付く。この時、中を覗こうという悪戯心が沸いたのは、本当に偶然だった。身を屈めて息を潜め、部屋の様子を窺う。
視線の先に───カラ松くんはいた。
ガラスが開け放された腰高窓に腰をかけて、煙草をふかしている。物憂げな瞳で虚空をぼんやりと見つめるその先で、紫煙はゆらゆらと空へ舞い上がる。気怠そうに吐く息は白い。
床に置かれた灰皿には、既に二本ほどの吸い殻があった。
そんな顔もするんだと感心していたら、足元の床がミシッと音を立てて軋む。

「誰かいるのか?」
「まずっ…」
私は慌てて立ち上がり、何でもないように表情を取り繕って、襖を開けた。カラ松くんは私の顔を認識するなり、口から煙草を抜いた。
「ユーリ!もう来てたのか?」
「…あー、うん、家の前で十四松くんに会って、入れてもらったの」
「そうか、気付かなくてすまん。…あ、空気悪いよな、ちょっと待っててくれ」
煙が立ち上る煙草を灰皿に押し付けようとするから、私は咄嗟に制する。
「気を使わなくていいよ。煙草、まだ火を付けたばっかりでしょ?」
カラ松くんの指の間から伸びる煙草は長い。
「しかし…」
部屋の臭いと副流煙のことを気にしているのだろう。煙草の煙は、喫煙する当人の主流煙よりも、喫煙者の周囲にいて受動的に煙を吸う副流煙の方が有害と言われている。
カラ松くんは、私といる時は絶対に煙草を吸わない。多くの場合、所持すらしていない。不意に鼻をつく特有の匂いから、カラ松くんが喫煙することは知っているけれど。
「新鮮だから、もうちょっと見ていたいな。
カラ松くんのことは、よく一緒にいるから結構知ってるつもりだったけど、私に見せない顔も多いんだね」
隣に座って、私はにこりと微笑む。
彼は煙草の灰を灰皿に落としながら述懐した。
「レディの前では格好良く見せたいのが男心ってヤツだ」
だとしたら。
「情けないところも全部見たいのが女心かもよ」
男と女の思考は、ときどき相容れない。
「ユーリは…」
カラ松くんは一旦言葉を区切る。

「ユーリは、どっちがいい?」

そんなの決まってる。
「もちろん、色々知りたいよ。でも全部じゃなくていいかな。心を開いていくのに合わせて少しずつ見せる感じ。今日みたいに不意打ちだと、ビックリして面白いもんね」
「フッ、意図せずハニーのハートを射抜いてしまったか…ヴィーナスどころか恋のキューピットさえオレに従属してしまうとは、魅力がオーバーフローしたようだな」
寝言は寝て言おうか。
「──でも」
カラ松くんは真顔になって続ける。

「今後もユーリの前では吸うつもりはないんだ。ユーリにはずっと元気で…そうやって笑顔でいてほしい」

窓枠に置いた片膝に頬を添えて、カラ松くんは目を細めた。どストレートに殺し文句を吐いてくる。無自覚アサシンのお時間です。
「それに、毎日吸ってるわけじゃない。何日かに一度くらいで、金欠の時はしばらく吸わなくても全然いけるし──いつかは、止めようと思ってる」
「へぇ、何でまた」
「そりゃそうだろ。キスする時に口が煙草臭かったら───って、あ、その、これは…まぁ、いつかのそういう時にも備えたい、というか…」
語尾は次第に小さくなり、カラ松くんの顔はみるみる赤く染まっていく。これは聞かなかったことにしてあげるべきか。童貞で彼女いない歴=年齢のピュアボーイだしな、キスにロマンや夢も見るよなと内心で納得して。
「あっ、そう、そうだ!新しい曲を聴かせるんだったな!今準備する!」
短くなった煙草が灰皿に押し付けられる。先端に灯っていた火が消えて、残骸のようにポツンと残った。




カラ松くんが窓際に座り直し、ギターを抱えた。幾度か弦を弾いて音を出した後、前奏の音色が流れ始める。
心地よく耳を通り抜けていくメロディ。知っている曲だ。何年か前に流行って、私自身何度も繰り返し聴いた懐かしい歌。
穏やかな旋律にのって語られるのは、男が女へと宛てた愛の告白。

自分たちの出会いは偶然なのか運命なのか分からないけれど、きっと奇跡だと思うんだ。
昨日よりも君が好きで、明日もきっと今日よりも好きになる。いつもありがとう、好きだよ、愛してる、どんな言葉でも想いは伝えきれない。
一生側にいてほしい君へ、永遠を誓おう。二人を分かつ最後の一瞬が訪れるその時まで。
君がいるから、この世界は美しい。

そんな内容の歌だ。
ありきたりな表現と言われればそれまでだが、誰にでもあてはまるからこそ多くの共感を呼び、誰もが一心に耳を傾けた。ある者は愛する誰かを想い、ある者はまだ知らぬ深い感情への憧れを抱いた。
演奏を終え、カラ松くんの指がギターの弦から離れる。何と言葉にしていいか分からないまま、私は惜しみない拍手を贈った。
「ありがとう!自分でリクエストしておいて何だけど、想像以上!歌も演奏も最高、本当にすごいね。
カラ松くんは元々声質もいいし、コピーバンドやったら絶対売れるよ、金の匂いがする!
「有名になるのがいいが、ガイアのカラ松ガールズどころか天界のヴィーナスたちさえも、オレの歌声に酔いしれてしまうのは困るな。世界戦争が勃発するじゃないか
レディたちの愛に応えようにも、この身は生憎一つしかないし、十四松のように分身はできない
本人は何気ない発言のつもりだが、十四松くんが分身できることに驚きを隠せない。忍者の末裔か何かか。

「…オレの歌は、ユーリだけが聴いてくれればいい」

ぶっ込んできたよ、この人。
「ハニーのために選んで練習した曲だしな」
私明日熱出してぶっ倒れるんじゃなかろうか。
「これも耳コピでしょ?
すごいなぁ…ギターのこと詳しくないけど、もっと時間かかると思ってたよ」
「フッ、この松野カラ松にかかれば造作もないことだ」
得意げに悦に入るカラ松くん。やはり才能かと目を瞠っていたら、突然障子が開いて一松くんが姿を現した。会話に意識が向いていて、階段を上る足音にまるで気付かなかった。
「──嘘つけよクソ松、寝る間も惜しんで練習しまくってたくせに。
おかげでこっちは歌詞完全に覚えるわ、暇な時うっかり鼻歌で出るわ、今ならカラオケで十八番と胸張れるレベルだ。どうしてくれる
チッと大きく舌打ちして、それから私にぺこりと頭を下げる。
「いらっしゃい、ユーリちゃん。あ、この前のロールケーキ最高に美味かった。後で店の場所教えて」
「ほんと?気に入ってもらえて良かった。
遠くないし、カフェも併設してるから、何なら今度一緒に行こう。あそこね、他のケーキも美味しいんだよ」
定番品で、黒猫の顔を模したチョコレートケーキもあるのだ。一松くんはきっと驚いて、そして喜ぶだろう。猫を前にすると途端に瞳を輝かせる彼は可愛い。
「ハニー、オレの目の前でブラザーとデートの約束するのは止めてくれないか」
ずいっとカラ松くんが私と一松くんの間に体を割り込ませる。その眉間には、不機嫌ですと言わんばかりの皺が寄っていた。
「デートじゃねぇよ」
「デートじゃない」
しかし一松くんからは踵落としを、私からは肘鉄を食らい、カラ松くんは無残にも畳に沈む。私は長い溜息をついて吐き捨てる。
「男女で出掛けたらすぐデートって思うの、モテない童貞の思考だから」
「あ、でもユーリちゃん…カラ松のこれはむしろ嫉妬──」
「ブラザー!おおマイブラザー!黙ってくれないかブラザー!」
一松くんが言い終わらないうちに、彼の肩をがくがくと揺さぶりながらカラ松くんが大声で被せてくる。その目は血走っていて、余裕のなさが窺えた。
彼の表情で内容は何となく察したが、聞こえなかった素振りをしておこう。

「で、でもまぁ、曲を選ぶのは楽しかったぞ。
普段オザキばかりで、歌詞に自分の気持ちをのせて歌うことはしないんだが…たまには悪くないな」
カラ松、おいこら推しお前。突拍子もなくビックリ発言を日常会話に織りまぜて発するのは止めていただけないか。ほらもう一松くんに至っては気まずさ爆発寸前で私から視線を逸している。下手にツッコめば面倒なことになる、私も一松くんと同様に「お、おう」程度で流すことにした。
「ん?どうした、ユーリ?」
無自覚アサシンどころか、無差別無意識ヒットマンでしたか」
「人聞きが悪すぎる異名!」
何もしてないだろうと困惑の表情を浮かべるカラ松くん。あなたの天然砲で絶命の危機に陥る人もいることを忘れないでほしい。

仕切り直して、私はカラ松くんに向き直る。
「じゃあカラ松くん、もう一回アンコールお願いします」
おれはもう耳タコだからいいやと、一松くんは下唇を尖らせて部屋を出ていく。丸まった紫色の背中を二人で見送って、足音が聞こえなくなってようやくカラ松くんはギターを抱え直した。
「ユーリのお望みとあらば、この声が枯れるまで何十回でもアンコールに応えよう──行くぜ」
穏やかな旋律に彼の声が重なる。
空は青く晴れ渡り、開けた窓から通り抜ける爽やかな微風。明るく眩しい世界は、美しいメロディをどこまでも運んでいった。




汗ばむ陽気に誘われて、灰色のアスファルトを軽やかに駆ける。
道中で買った、六人分のカラフルなアイスキャンディー。自宅から持ってきた大きめの保冷剤に挟んだとはいえ、溶けてしまわないかと一抹の不安を抱えながら。
松野家まであと数メートルのところで、塀の前に設置されている木製のベンチで猫を撫でる四男が視界に入った。彼の膝の上で、恍惚の表情をしながらされるがままな三毛猫がたまらなく愛らしい。
「一松くん発見伝」
猫を驚かせないよう控えめに声をかければ、一松くんは僅かに唇で笑みを作って私を出迎える。
「あ、ユーリちゃん。最近毎週来るね」
「カラ松くんがお財布に百円しかないって言うからさ。今日はアイス買ってきたよ、おやつに食べよう」
小学生の財布事情かよとのツッコミは無意味である。おれも所持金それくらいかなぁと同意するニートが目の前にいるからだ。
どこからともなくギターの音色が聞こえてきて、私は顔を上げた。二階の、六つ子たちの窓は閉まっている。一松くんは私の視線の先を目で追って、静かに答えた。
「…ああ、カラ松だよ。たまに縁側の方の屋根で練習してる」
「そ。じゃあ二階上がらせてもらうね。アイス、冷凍庫入れておいてもらえる?」
「分かった…いつもありがと」
一松くんにアイスと保冷剤の入ったクーラーバッグを押し付けて、私は極力音を立てずに二階へと上がる。足を忍ばせて、まるで泥棒だ。幸いにも、家の中では他の兄弟に出会わずに彼らの部屋に辿り着くことに成功した。

窓を少し開けて、ベランダに人がいないことを確認する。一松くんの言う通り、屋根に登っているのだろうか。ギターの音はその先から聞こえてくる。
ベランダに出ると、私に背中を向ける格好でギターを抱くカラ松くんが目に入った。不意に見えた横顔は目を閉じていて、楽器が奏でる旋律だけに意識を傾けている。歌う姿は心底楽しそうだ。自然と笑みが溢れる。
ウォーミングアップの練習を終えた後の曲の伴奏には、聞き覚えがあった。

「六つ子に生まれたよ」
十四松くんの合いの手は入らない。屋根の上にいるのはカラ松くんだけのようだ。
「六倍じゃなくて」

「六分の一」

手すりに頬杖をつきながら歌った私の声が、カラ松くんに届く。彼はハッと振り返って驚きの表情を作ったが、私がへらっと笑って応じると、これ以上ないくらいに嬉しそうに目を細めた後、私の方へ向き直って続きを奏でる。
「六つ子に生まれたよ」
「ウィー」
「育ての苦労は」
「考えたくない」
「六つ子に生まれたよ~」
「ポーン」

私は目を閉じて、十四松くん担当の合いの手を紡ぐ。
くだらない歌と一笑に付すのは簡単で。けれど、癖になるテンポと、カラ松くんと十四松くんの掛け合いのような仲睦まじい姿は、いつまでも記憶に残って離れない。いい歌だ、とても。


弦から指を離して、カラ松くんが私を見る。
それから声を上げて笑うから、私は満足気に口の筋肉を緩めた。
カラ松くんがいて、六つ子たちがいて、あっという間に過ぎる時間。こういう何てことのない穏やかな日々さえ楽しいと思えるのは、実はとても贅沢なのではないか。頬を撫でるそよ風に秋の気配を感じながら、私はそんなことを思うのだった。

チャイナでナイト

金曜日の定時帰りは、明日への希望に満ちた心浮き立つ魅惑の時間帯だ。
いつも翌日へと持ち越される、業務に関する煩わしい懸念の放棄、持て余すほどの長い余暇、仕事用の仮面を捨てて好き放題振る舞える開放感。帰路に着く足取りも軽やかだ。このつかの間の晴れやかな心地がいつまでも続けばいいのにと、週末になるたびに私は思う。
そのまま自宅に帰るのももったいなくて、駅前のショッピングセンターで秋物の服でも見て行こうかとふと思い立つ。給料日も近いし、一着くらい買ってもいいかもしれない。

先日読んだファッション誌の内容を脳裏で反芻しながら駅へと向かっていたら、視線の先に見覚えのある後ろ姿が映る。
紫色の細身のスーツに、艶やかな内巻きの髪。おそらく特注であろう奇抜なロイヤルパープルのスーツは、一度会ったら忘れない特徴的な後ろ姿である。
「イヤミさん」
声をかけるか、正直一瞬の躊躇いがあった。イヤミさんには極力関わるなと、カラ松くんから忠告を受けていたからだ。
根拠のない胡散臭さは外見からも感じられたが、私自身は彼と数回挨拶を交わした程度の関係で、この時はまだカラ松くんの危惧を深く受け止めていなかった。
「…ん?──ああ、ユーリちゃんザンスか」
イヤミさんは振り返った後、あからさまに興味なさげな反応をする。反射的に名前が出る程度には認知されているらしい。
「仕事帰りザンスか?」
「はい、定時で帰れたので買い物でもして帰ろうかと。イヤミさんはお出掛けですか?」
「ミーはこれからビジネスで忙しいザンス。
…チミ、仕事帰りに買い物ということは、今夜の予定は特にないってことザンスね?」
嫌な予感がビンビンしまくる。
「あ、えと、私は…」
飛んで火に入る夏の虫!───もとい、これぞ天の助け!いいとこで会ったザンス、ユーリちゃん!」
今の絶対前半が本音だろ。
「予定がないなら、ミーの仕事を手伝ってチョーよ!簡単なチラシ配布ザンス。もちろんバイト代も出すザンスよ」
「えっ、いやでも私仕事終わったばっかりっていうか、そもそもうちの会社副業禁止ですし」
カラ松くんの忠告が脳裏に浮かぶので、両手を前に出して首と共に横に振る。
「社長のポケットマネーから出してもらえば問題ないザンス。時給二千円でどうザンスか?
「詳しくお話を聞きましょうか」
チラシ配りで時給二千円は正直美味しい。受けるか否かは内容を聞いてから判断してもいいだろう。イヤミさんは長い出っ歯の伸びた唇をにんまりと曲げて、詳しい説明を始めた。


「さっきも言ったように、仕事内容はチラシ配りザンス。繁華街に新しくオープンした中華料理屋の知名度を上げる目的で、店の前で配りながら呼び込みするだけの簡単なお仕事ザンス。
拘束時間は今夜の七時から十時までの三時間。どうザンスか?」
イヤミさんは立ち話で業務の詳細を語る。内容自体は、単発の派遣バイトによくある単純なものだ。
「そんな簡単なことで時給二千円って、何か裏があるんじゃないですか?」
平均でいえば、時給千円前後が妥当なところだろう。高額な時給には必ず理由があるはずだ。
しかしイヤミさんは私の不信感などお見通しといったように、ふふんと鼻を鳴らした。
「チミはフラッグコーポレーションを知ってるザンスか?」
私は目を瞠る。
「新進気鋭のコンサル会社ですよね」
何の後ろ盾も持たずに立ち上げたコンサル事業で成功を収め、めきめきと右肩上がりに業績を伸ばしている注目の企業である。社長がどう贔屓目に見ても小学生という風貌も話題を呼んだ。
「そこが外食産業にも手を伸ばそうとして作ったテスト店舗ザンス。プレスリリースも出してるから、ネットで検索すれば出てくるザンスよ。怪しくもいかがわしくもない、運営元は信頼できる店ザンしょ?」
「確かに…」
「というか、上場企業でもないフラッグコーポレーションを知ってるとは、意外と情報通ザンスね。あの六つ子の側に置いておくにはもったいない人材ザンス。奴らとつるんで何の利益があるザンスか?
「不利益しかないかの如き言い方」
推しと過ごせる時間はプライスレスで、私の心が癒やされるという大きなメリットがある。しかしまぁ、イヤミさんに言ったところで一ミリも共感はされないだろう。
「───で、やるザンスか?やらないザンスか?」
脳内の天秤は激しく揺れ動いたが、やがて片側に傾いた。

「…やります」




そして半時間後、私は新装開店したばかりの中華料理屋の前に立っていた───なぜか、チャイナドレスを着て
中華といえばチャイナドレスがお決まりザンスなどと頭の沸いた発言をして、イヤミさんは私に衣装と称して押し付けてきた。梅の花の刺繍が全身に散りばめられたロング丈のドレスで、足さばきによっては太腿が露わになる深いスリットが開いている。
ボディラインを強調するシルエットと光沢のあるサテン生地。その上に白いパンプスを履けばどこからどう見てもコスプレだ
真夏はとうに過ぎ、昼間はまだ半袖で過ごせる季節といえど、さすがに夜は冷える。腕が剥き出しの格好は少々肌寒いが、数時間くらいならば辛抱できる。
「意外と似合うザンスね、ユーリちゃん。そのお色気で頑張って勧誘してチョーよ」
「まだ赤とかピンクじゃないだけマシか…」
イヤミさんがチャイナドレスを取り出した衣装ケースの中には、他にも様々なカラーのドレスが詰まっているようだった。そんな中で、なぜ華やかさよりも上品な印象が強い紺色なのか。夜の繁華街で目立とうとするなら、もっと明るい色の方が映えそうなものだが。
「チミがつけてるブレスレットの色に合わせただけザンス。不服なら赤や白でもいいザンスよ」
「い、いえ、これでいいです!」
私は手首のブレスレットを隠すようにして、苦笑する。たまたまつけていた、カラ松くんから貰った紺のレザーブレスレットが功を奏した。さすが推し。ありがとう推し。
「チラシ配りのバイトはもう一人呼んであるザンス。それまではユーリちゃん一人で配っておいてチョーよ」
「はーい」
気のない返事をして、段ボール箱目一杯に詰まったフライヤーの束を手に取る。ハガキサイズで、食欲をそそる料理の写真と店までのアクセス、各種SNSのID、期間限定の割引クーポンが情報として盛り込まれている。
店の基本情報を頭に叩き込んで、私は大きく深呼吸した。




「お姉さんが接客してくれるなら、行ってもいいかなぁ」
夕暮れを過ぎて黒いカーテンが空一面にかかり始める頃、仕事終わりの会社員たちの第一幕が開ける時間帯だ。酒に潰れた大人はまだ少なく、馴れ馴れしく声をかけてくる男の多くはシラフである。酔っ払い相手ならば適当に捌けるが、そうでない場合の対処には骨が折れた。
しかし、繁華街にチャイナドレス姿でフライヤー配布をしているのだ、ある程度のナンパは挨拶代わりと納得するしかない。憎むべきは、他に仕事があるからと早々に店内に戻ったイヤミさんだ。
「ごめんなさい、私の仕事はお店にご案内するまでなんですよ」
もう何度目のナンパだろうか。今回は二十代後半と思わしき男二人組。女一人だから陥落させやすいと見くびられるのは心外だ。
「じゃあ仕事終わったら、俺たちと一緒に飲まない?」
「その格好のまま来てほしいなぁ。お店の売上に貢献してあげるからさ」
握られそうになった手を咄嗟に引いて、私は営業用スマイルを浮かべる。
「仕事の後は約束があって無理なんです」
お呼びじゃないんだよ失せろ下衆どもと吐き捨てられたらどれほど楽だろう。しかしイヤミさん経由とはいえ一応給料の発生している仕事だ。下手を打てば店の今後の信用にも関わる。

「あー…えっと、そう、彼氏と約束してて!終わる頃に迎えに来てくれる予定で、本当ごめんなさい」
しかし敵はなかなか引き下がらない。
「えーまたまたそんな事言って。彼氏いるならそんなエロい格好しないでしょ」
「もしマジなら迎え断ってよ。今日くらい俺らと飲んでもいいじゃん」
「てかそもそも彼氏いるとか嘘でしょ?」
体のいい断り文句だもんねと嘲笑しながら、今度こそ手首を掴まれた。
嫌悪感で反射的に足を引けば、今度は背後から回された何者かの腕に体ごと引き寄せられる。
しまった、後ろにもいたか。
背中が誰かの胸と密着して、容易くは逃げられない。万事休す、もうクビ覚悟で暴れるしかない、そう決意を固めて右手に力を込めた───その時。

「──ハニーに気安く触らないでもらおうか」

ふわりと鼻腔をくすぐる匂いと、耳元で発された声。
私を抱き寄せる力を強めて、声の主は続けた。

「オレが彼氏だ」

鋭い眼光が男たちを真っ向から捉える。まるでドラマのワンシーンのようだと、ぼんやりとした頭で思ったら、安心感から体の硬直が溶けていく。
「…人の女に手を出そうとしたんだ、相応の覚悟はできてるんだよな?」
ゆっくりと私の体から手を離して、指の関節を鳴らしながら彼は一歩前へと躍り出る。手の甲には筋が浮かんでいた。
「え、彼氏って…マジかよ…」
「いや冗談冗談ッ、ちょっとからかっただけ!マジで彼氏いるなんて思わねぇじゃん!?」
距離を取っている私でも、ピリピリとした威圧感が肌に伝わる感覚がするのだから、正面から睨みをきかされている彼らが感じる脅威は想像を絶する。触らぬ神に祟りなし。
「すまないが、虫の居所が少々悪くてな、冗談で納得できそうにない」
重々しいもう一歩を踏み出すと、ナンパ男たちは顔色を変えて今度こそ一目散に逃げ出した。あっという間に人混みに紛れて、姿が見えなくなる。
彼らが視界から消えたのを確認してようやく、私は安堵の息を漏らし、背中を向ける彼に声をかけた。

「ありがとう───カラ松くん」

危機一髪で私を救ってくれたカラ松くんは、緩慢な仕草で振り返る。
「…ユーリ」
私を呼ぶ声はいつになく低く、抑揚がない。重なった視線の先にある双眸は、完全に据わっている。これたぶんマズイやつ。
「あ、あの、これは…」
「オレは怒ってるんだぞ」
ですよね。
「夜の繁華街でそんな格好をしていたら、誘ってくれと言ってるようなものだ。オレが来なければどうなってたか、分かってるのか?」
カラ松くんは腕を組んで仁王立ちになる。彼に叱られるのは初めてではないだろうか。そもそも滅多なことで激昂しない温厚な性質だ。
「うん…ごめんなさい」
「ユーリはもう少し危機感を持つべきだ」
最悪暴れてバイトもバックレたらいいかとは考えていたが、力で捻じ伏せられる、または後をつけられるといった可能性はまるで考慮していなかった。その場しのぎの対処しか念頭になかったのは、確かに迂闊だった。

「だからイヤミには関わるなと、あれほど忠告したのに…」

「え?」
なぜそれを。
だが直後、チラシ配りのバイトをもう一人呼んでいる、そう言ったイヤミさんの顔が思い出される。
「もしかして、チラシ配りのバイトに?」
「バイト代を弾むから来てくれと電話で呼ばれて、ブラザーたちから押し付けられたんだ。最初は二人だったのに途中で一人でいいと言われて、変だと思ったが…引き受けて良かった」
「そ、そっか…もう一人って、カラ松くんのことだったんだ」
殊勝な顔をしながら、私は内心でガッツポーズを決める
脳筋が助っ人に来てくれたなら百人力だ。わらわらと寄ってくる不届きな連中の接客は任せて、私はフライヤー配布に集中できる。
「それで来てみたら、まさかユーリがチャイナドレス姿で絡まれてるとはな」
眉間に皺を寄せて嫌味を吐いてくる。通常運行がデレなので、ツンな態度はレアだ
「忠告を無視したことに関しては、私が浅はかでした」
「本当に反省してるのか?」
怒った態度も可愛すぎるのでもう勘弁してください。ニヤけるのを堪えるのが辛い。尊さ通り越して昇天案件になりそうだ。
してます、と答えた後、ついに限界がきて吹き出してしまった。カラ松くんは心底呆れたとばかりに長い溜息をつく。
「ユーリ…あのな、オレは本気で」
「うん、ごめんね。
でもカラ松くんがヒーローみたいに現れて助けてくれたから。格好良かったし、嬉しかったよ」
「そうやって有耶無耶にしようとしたって──」
まるで反省する素振りのない私に叱責を続けようとするカラ松くんだったが、そのポーズを維持できたのは僅か数秒だった。
やがて頬を緩ませ、柔らかな表情になる。

「ああもう…その言い方は卑怯だぞ、ハニー」

頬を赤く染め上げて、ふにゃりと口元が綻ぶ。
「頼むからオレを心配させないでくれ」
「次からは気をつけるよ」
「安請け合いをするところは信用できない」
なかなか辛辣な言われようである。けれど妙に浮かれしまうのは、私の欠点を指摘する軽口を叩けるほどの関係性になったせいだろうか。
そんなことを考えていたら、カラ松くんは私を見て口ごもりながら小さく呟く。
「ああ…ユーリ、さっきの、その…彼氏のフリをしたのは、あくまで方便で…」
「うん、分かってる。気にしてないよ」
「…そ、そうか」
安堵したような気落ちしたような、何とも表現し難い複雑な顔でカラ松くんは視線を地面に落とした。

「とにかく今は仕事を終わらせるのが先決だな。到着したことをイヤミに伝えに行こう」
そう言って入り口の自動ドアをくぐろうとしたところで、ダンボールを抱えたイヤミさんが中から姿を現した。カラ松くんの姿を見て、あ、と声を出す。
「おや、やっと来たザンスか十四松」
「カラ松だ」
相変わらず六つ子を見分けをつける気が毛頭ない。しかし毎回的確に別の名を出してくるから、実は故意なのかとも訝しんでしまう。
「ちょうど良かったザンス、さっそくこれに着替えてユーリちゃんと二人でチラシ配りをしてチョーよ。チラシについてる割引券の使用率によっては、バイト代を上乗せするザンス」
しれっとハードル上げてきやがった。
イヤミさんはダンボールの中から取り出した服をカラ松くんに投げる。彼はそれを受け取ると、私を一瞥してからイヤミさんに釘を刺す。
「すぐ着替えてくるから、イヤミはハニーの側にいろよ。絶対離れるな、いいな?」
「分かったザンス。分かったからさっさと着替えてくるザンスよ、トド松」
「カラ松!」
これはもうわざとなのか。




数分後に戻ってきたカラ松くんの格好を見て、私は膝から崩れ落ちる
中華料理屋、自分のチャイナドレス、カラ松くんに渡される着替え、仮説を立てるには材料が揃いすぎていた状況下にも関わらず、何も考えず呆けていた自分を呪う。
カラ松くんは───紺のカンフースーツで現れた
立ち襟、中央の一文字ボタン、白く折り返した袖、緩めの黒いパンツと、カンフーイメージ全開の装いである。袖を折り返しているため、両手首が露出してセクシーだ。
その戦闘スタイルは、カラ松くんの自信に満ちた強気な表情をより華やかに彩っている。

「いいものを見せてもらった…ッ」
糸の切れた傀儡のように、私は地面に膝をつく。
「え…ユーリっ、どうした!?」
突然倒れる私にカラ松くんは目を剥いて、駆け寄ってくる。屈んだ際に、私の視界に彼の足元が映って、カンフーシューズとパンツの間からくるぶしが覗いていた。白い肌がエロい。
「我が人生に一片の悔いなし…」
「ハニイイイィィ!?」
「何ザンスかこの茶番」
イヤミさんが呆れ果てたところで私は身を起こし、彼に詰め寄る。
「カラ松くんが来てる衣装、仕事終わったら貰ってもいいですか?っていうかください!バイト代から引いてもいいから!」
「今日限りの使い捨ての衣装ザンス、終わったら煮るなり焼くなり好きにしていいザンス」
「っしゃ!」
「その代わり、仕事を受けた責任はしっかり果たして売上に貢献するザンスよ」
そう言い残してイヤミさんは店内に戻っていく。お任せあれ。
呆然と立ち尽くすカラ松くんの背中を叩いて、私は鼻息荒く気合いを入れる。金よりも価値のある報酬が約束された。
「よし、カラ松くん頑張ろう!フライヤー配りまくるよ!」
「え、あの、ハニー…?」
「綺麗なお姉さんたちをジャンジャン呼び込んでね。今こそカラ松くんの魅力を存分に発揮する時!
「…フッ、オーケーだぜハニー。禁忌ともいえるオレの色気を放出する時が来たか。オレのテンプテーションで、カラ松ガールズたちを愛の虜にしてやろう!」
扱いやすくて助かる。




カラ松くんは、思いの外女性客に受けが良かった。
夜のネオン街で働く女性たちにとって彼の言動の痛さは、たちの悪い酔っ払いに比べれば遥かに可愛いレベルなのだろう。逆にカラ松くんが圧倒されてたじろぐ場面が多く見受けられる。その様子があまりに可愛かったので、私に助けを求める視線は華麗にスルーさせていただいた
しかし、イヤミさんには啖呵を切ったものの、地道なフライヤー配りでは集客に限度がある。ターゲットは店の前を横切る社会人に限定されるからだ。成功を収めるのならば、母数を増やしたい。
そんなことを考え始めていた時、突然黒塗りのベンツが店の前でエンジンを止める。スーツ姿の青年が運転席から降り、恭しく後部座席をドアを開けた。任侠の世界に生きる人の来店かと警戒心を強めたところで、降りてきたのは意外な人物だった。

「───何だ、ハタ坊か」

カラ松くんがそう声をかける。
降りてきたのは、フラッグコーポレーションの代表取締役社長であるミスターフラッグその人だった。
「お疲れ様だじょー」
「繁盛してるか様子を見に来たのか?」
「そうだじょー。ターゲット層のニーズとミスマッチがないかも確認して、今後の運営方針の参考にするんだじょー」
気の抜ける口調だが、言ってることはまともだ
「え、えぇっ?カラ松くん、ミスターフラッグと知り合い!?」
「ん?ああ…ユーリには言ってなかったか。ハタ坊とは小さい頃からの友達なんだ───ハタ坊、彼女はユーリ、オレの友達だ」
「よろしくだじょー」
ミスターフラッグから手を差し伸べられて、私は挙動不審になりながらも慌てて握り返す。
「有栖川ユーリです。お会いできて光栄です、ミスターフラッグ」
「ハタ坊でいいじょー、敬語もいらないじょー」
地元では比較的知名度が高くなりつつある企業の社長に、呼び捨てタメ口の合わせ技は恐れ多すぎないか?
しかもミスターフラッグは表情が読めない。冗談なのか本気なのか判断がつかずに逡巡していたら、カラ松くんが私の肩を叩き、こくりと頷いた。
「…よ、よろしくね、ハタ坊」
「よろしくだじょ、ユーリちゃん。みんなの友達なら、ハタ坊とも友達だじょー」
唐突にランクアップする関係性に戸惑いを隠せない。地元では名の知れた実業家に、出会って数分で友達扱いされるとは。

しかしこれは好機だ。私は先ほどからの懸念をハタ坊に訊いてみる。
「ミスターフラ…じゃなくてハタ坊、今日のお店の集客は他にどんな方法を用意してる?
フライヤー配りだけだと限界があるから、もし他に案があるなら教えてほしいんだけど」
「特に考えてないじょ。ユーリちゃんに案があれば言ってほしいじょ」
「案っていうほどじゃないけど、例えば有名人を呼んでSNSに投稿してもらうとか。ターゲット層が繁華街に来るようなサラリーマンってことなら、その層に人気の人なら興味持ってもらえるんじゃないかな?」
持続的な売上は期待できないが、瞬発的に効果はあるだろう。料理の味や接客に自信があるなら、口コミを広げる起爆剤にはなり得る。
何らかのツテがあればいいのだけれど。
「おおっ、さすがハニー、冴えてるじゃないか」
カラ松くんに褒められた。
「ハタ坊はSNSやってないの?」
「一応やってるじょ」
ハタ坊がオーバーオールのポケットからスマホを取り出した。それからSNSのアカウントが映る画面を向けられて、私は言葉を失う───フォロワー百万人
目を凝らしてもう一度画面を見る。やはりフォロワーは百万人。
「ええええぇっ!?地元でちょっと名の知れた企業の社長どころじゃない、全国的に知名度の高い芸能人レベルの驚異的フォロワー数!」
そして驚くべきは、フォロワー欄に並ぶ著名人の名前だ。レジェンドクラスの芸能人たちだけでなく、米国の前大統領までが相互フォロワーに名を連ねる
何者?
「いやいや、もうこのアカウントで新店オープンしましたって呟くだけでお客さん来るから!芸能人必要ない!」
「分かったじょー」
ハタ坊がこなれたフリック操作で、繁華街に中華料理屋を開店した旨を投稿すると、直後からいいねがつき始め、あっという間にその数字は数千に跳ね上がる。
今度行きたい、近々寄るといった店に興味を示すコメントに紛れて、収録で近くにいるから今から向かうとお笑い界のレジェンドと呼ばれる大御所芸人からコメントが書き込まれる。マジかよと唖然としていたら、数分後には高級車が店前に乗り付けてレジェンド本人が姿を現した。
フランクにハタ坊の肩を抱き店内に入ったかと思えば、テーブルに料理が並び始める頃には各SNSでレジェンドが店の料理を絶賛、その投稿を見たファンが大挙して駆けつける騒ぎにまで発展する。そして、訪れたファンと気さくに交流するレジェンドの写真がSNSで大量に投稿拡散され、店は常時満席、鳴り止まぬ電話で年内の予約が埋まった。
用意されていたフライヤーは一瞬で捌け、私とカラ松くんは人手の足りないホールの手伝いに急遽駆り出される。約束の三時間は、あれよあれよという間に過ぎていったのだった。

「また儲かったじょー」
またって何だ、またって。




結局、当初の約束だった三時間では終われず、拘束時間は四時間に延び、ラストオーダーをとり終えたところでようやくお役御免を言い渡された。
休憩を取る暇もなく酷使された私とカラ松くんは、販促衣装を脱いで私服へと着替えると、深夜営業の居酒屋へと足を伸ばして、遅い夕食を食べる。アルコールの注がれたグラスで乾杯したら、一気に気が抜けた。乾いた喉が潤って心地良い。そう言えば水を飲む間もないほど働き詰めだったことに、今さら気付いた。
「旨い!労働の後の一杯は最高だな!」
「うんうん、染み渡るよね」
仕事に次ぐ仕事で体力的には限界だったが、カンフー服の推しを長時間間近で拝めた上に、衣装までゲットできたのは大きい収穫だ。眼福ここに極まれり。
かと思いきや、カラ松くんは懸念事項があるとばかりに深な顔でテーブルの上で手を組んで、ぽつりと零す。
まともな場所で真面目に働いてオチも何もないんだが、果たして良かったのか…」
「それが普通だから」
真っ当な仕事で背徳感を感じてどうする。
「ユーリの服装にはハラハラしっぱなしだったけどな。ああいう服は着ない方がいい──というか、オレが着てほしくない」
「うん、分かった」
「あっさりか」
私が間髪入れず承諾したので、拍子抜けした模様。
「今回はバイトを承諾した責任もあって仕方なくコスプレも受けただけだし、それに…ホールでの接客中も、カラ松くんに助けてもらいっぱなしだったから」
店内でチャイナドレスを着た若い女性スタッフは私一人だったせいか、夜が更けるほどに男性客に絡まれたり、特に太腿に妙な視線を感じることが何度かあったのだ。
他のスタッフは接客や片付けで手一杯の修羅場。助けを求めることも裏方に逃げることも叶わない中で、カラ松くんは男性客への配膳を代わってくれたり、私に向けられる視線の盾になってくれた。
「カラ松くんの株が上がりまくりな一日だったよ」
彼はずっと、私を守ってくれた。

「カラ松くんに叱られたのも、初めてかな」

感情の起伏のない低いトーンで淡々と諭された時、カラ松くんへの反発心はまるで沸かなかった。こういう顔もするんだと、新しい発見をしたような新鮮な気分になっただけで。
「あれはユーリに警戒心がなさすぎるからだ。オレのいない時に今日みたいなことが起きるんじゃないかって不安になる」
「普段は家と職場の往復だから、何も起こらないよ」
「ユーリが起こさなくても、他の男が起こすかもしれないだろ」
「心配性だなぁ」
限りなく可能性の低い事象だと笑い飛ばそうとしたら、思いの外真摯な眼差しを返される。

「当たり前だ。ハニーに何かあったら正気じゃいられない」

「はぁ…」
我ながら間の抜けた声が出た。呆気に取られる私とは対照的に、顔を赤くするカラ松くん。彼は両手を胸の前で振った。
「──ッ、い、いや、今のは言葉の綾で!何ていうか、その…っ」
視線をあちこちに彷徨わせたカラ松くんは、やがて話題転換の糸口を見つける。
「そ、そういえば、貰ったバイトは何に使おうか悩むな!ハニーはどうする?」
「あー…うん、これねぇ…どうしよう」
私は鞄に入れていた茶色い封筒を取り出して、歯切れの悪い声を出した。封筒の上からでも少々厚みがあるのが分かる金額。
イヤミさんの依頼以上の仕事をこなした自負はある。フライヤーは早い段階で捌け、集客に大きく貢献し、今後数ヶ月に渡る売上を作った。私としては、バイト代に多少色を付けた謝礼があるとラッキー程度の考えだったから、これでも固辞しまくって減額された額だ。
何しろ当初は、厚み数センチに渡る札束を手に載せられた。目を剥いて固まったら、追加で上乗せしてこようとするから、慌てて拒否する。札束を積み木にするんじゃありません。
何とか大金の享受は回避できたが、それでも分不相応な報酬を貰い受けたわけで。

「オレの分は、ユーリが預かっておいてくれ」
カラ松くんは自分の封筒を私に差し出した。
「え!?何で!?」
「ブラザーたちに嗅ぎつけられたら、間違いなく強奪される」
あ、はい、私もそう思う。
「ハニーになら安心して預けられる。何なら、必要があれば使ってくれたっていい」
カラ松くんは本気だ。彼の信頼には応えなければと身が引き締まる。
「もしハニーの使い道が決まらなければ、このバイト代で…そうだな、そのうち二人でどこか遠くに出掛けないか?」
いつも近場ばかりだから、と。無職故に年中金欠なのを気にしてはいるらしい。
「遠出か、いいね、その案乗った。そうと決まれば、みんなにはバレないようにしないと。
私とカラ松くんだけの秘密だね」
同じ秘め事を共有する共犯者というわけだ。
共犯者、どことなく甘美な響きに聞こえるのは私だけだろうか。

「ハニーといると、飽きるどころか毎回新しい発見があって不思議だ」
だから毎日でも会いたくなるんだろうなと独白して、私と目が合う。カラ松くんは、照れくさそうに肩を竦めてビールを呷った。

あなたのことだけ知らない(後)

街が装いを変えて移りゆく季節の中でも、自分の側で微笑んでいたその姿だけは、変わらないでいてくれると信じて疑わなかった。根拠なんて当然何もない。
あまりに自分勝手な思い込みだと身をもって知るのは、いつだって失ってからだ。

ユーリの記憶が戻らないまま、無情にもタイムリミットが訪れる。
水平線の向こう側に太陽が沈む頃、思い出巡りはまた日を改めようとユーリが戸惑いがちに口にする。カラ松に拒否権はなく、同意する他ない。
夕食でもどうだと誘うのは躊躇われた。二人で共有していた、二つで一つだった思い出が失われた今、カラ松が語る思い出は彼女にとっては空想の産物でしかない。


最寄り駅で入場券を購入し、ホームでユーリの乗る電車を待つ。
「せめてドアが閉まるまで見送らせてくれ」
いつになく離れ難くて、少しでも側にいたかった。
当初こそユーリは首を横に振って辞退したが、カラ松の悲痛な思いを察してか、しばらくして仕方ないなと肩を竦める。

ホームは電車を待つ客で溢れている。制服姿の学生たち、仕事帰りのサラリーマン、すれ違う人々の様相は様々で、地面を踏み鳴らす足音や会話の声で周囲はガヤガヤと賑やかだ。自分たちの声を掻き消してくれる、おあつらえ向きな環境。
「なぁ、ユーリ」
「うん?」
「もし…もしこのまま、君がオレのことを思い出せなかったら」
正直、まだ現実を受け入れられない。明日になれば何もかも元通りになって、ユーリはまた以前のようにカラ松の名を呼んでくれるのではないか。叶わないと知りながら、そんな淡い期待を抱いている。
「その時は──」
けれど、向き合わなければ。もう一度、ユーリと共に歩みたいと願うならば。

「もう一度、オレと友達になってくれないか?」

ホームに滑り込んだ電車のドアが開いて、乗り降りする乗客がカラ松とユーリの脇を通り抜けていく。大勢の人混みに溶け込んでも、ユーリだけが一際輝いて見える。
例え存在を忘れられても、彼女の態度がよそよそしくなっても、ユーリを想う自分の気持ちは一ミリだって変わらない。

「もちろん!っていうか、今だって友達でしょ?」

白い歯を覗かせて、ユーリはにこりと微笑んだ。

息が止まった、運命だと思った、オレが必ず守る。
関係性の変化を恐れて濁してきたユーリへの愛しさは、時に率直に、時に冗談っぽく気取って、使い古された陳腐な言葉に込めて伝えてきた。
回りくどいカラ松の口説き文句を聞くたび、ユーリはどんな感情を抱いていたのだろう。今となっては、本人に確認する術もない。

「この電車で帰るね」
「夜道には気をつけるんだぞ、ハニー」
「大丈夫だって。でもありがと、じゃあね」
カラ松の目の前でドアが閉まった。
まるで今の自分とユーリを隔てる距離のようだと思ってから、カラ松は内心で自嘲する。どこまでロマンチストを気取るつもりなのか。
しかし遠ざかる電車から目を逸らせずに、その姿が完全に視界から消えるまでカラ松はいつまでも見送っていた。

もう一度最初から始めればいい。
これまでだってずっと一方通行だったのだから。
今後の方針が決まった途端、胸に巣食っていた暗雲はたちどころに霧散して、急に晴れやかな気持ちになる。
明日の約束をどうするかを聞き忘れたことを、帰路に着く道中でようやく思い出した。




自室にはおそ松以外の四人が揃っていて、めいめいが夕食までの時間を潰している。
トド松は充電が復活したスマホを手にしていて、充電器が見つかったのかと問えば、ソファの裏に落ちていたと言う。その後電源が入るようになったスマホでデカパンに連絡を試みたが、外出しているのか、何度電話しても応答がなかったらしい。
他の兄弟はトド松から一通り事情を聞いているようで、部屋に戻ったカラ松に何とも言えない憐憫の目を向けてくる。気安い慰めは、かえって相手を傷付けることを知っているかのように。

「僕明日は朝六時に起きるけど、他に誰か早起き組いる?」
求人情報誌から顔を上げて、不穏な空気を変えるかのようにチョロ松が訊く。応えたのはトド松だ。
「はいはい、ボクも六時起き。スマホの目覚ましかけるから、うるさかったらごめんね」
「僕が起きなかった場合は起こしてよ」
「いいよ、ボク明日は絶対二度寝しないし」
胸に片手を当て、フフンと鼻を鳴らすトド松。妙に自信たっぷりだ。
カラ松は夜風を取り込むために開け放した窓の枠に腰を掛け、三男と末弟の他愛ないやりとりを眺める。
「何その自信。そこまで言われると逆に二度寝させるために十四松との完徹素振り特訓コース突入させたくなる
「それボク確実に肉体的に死ぬよね」
「トッティ!ぼく明日全然予定ないから特訓してもいいよ!やる!?トッティやる!?
「狂人は入ってこないで!話が余計こじれる!」
あははーフラれちゃった、と十四松は相変わらずの感情の読めない笑顔で体をくねらせる。そんな弟の頭を一松が無言で撫でた。
「何で二度寝しない自信あるって言っただけで拷問コース勧誘の流れになるんだよ、この兄弟ほんと頭おかしい
「いやだってお前が腹立つこと言うから」
「言ってねーし!一欠片だって言ってねーから!
…はぁ、もういいよ。明日は朝からユーリちゃんとデートだし、お肌に悪いことはしたくない」

「ユーリちゃんとデート!?」

叫んだのは、カラ松とトド松以外の三人だった。カラ松は正直出遅れて、理解が追いつかず呆然とする。
「トッティお前…クソ松がユーリちゃんと駄目になったからって、後釜狙ってんの?」
何か大事なことを見逃しているような気がして、眩暈がする。
「失礼なこと言わないでよ。ユーリちゃんがオッケー出してくれたんだよ」
トド松は心外とばかりに口を尖らせた。
自分は、何か重大な勘違いをしているのではないか。

振り出しに戻ったのなら、もう一度始めればいいと思った。
しかしその関係は、対象者がユーリとカラ松の二人である前提があって初めて成立する。
ああ、そうか───スタート地点まで戻ったのは、カラ松だけなのだ。

彼女の中で五人の兄弟の立ち位置は、今までと変わらない。
ということは、カラ松に関する記憶と思い出を失った今、少なくともカラ松の知る交遊関係のうち彼女に最も近いのは、スマホを通じて交流のあるトド松だ。自分が知らないだけで、男友達や異性の同僚もいるだろう。彼ら全員にアドバンテージがある。
ユーリにとっての『一番』は、既に誰かに取って代わられた。
背筋に冷たい緊張が走る。
なぜ今までそんな当たり前のことに気付かなかっただろう。ユーリにとっての一番は不動だという驕りがあったのか。

反射的に部屋を飛び出していた。
十四松の自分を呼ぶ声が背中にかかった気がしたが、振り返って応じる余裕はない。乱暴に靴を引っ掛けて、人気のない夜道を走った。


「カラ松兄さん、どうかしたの?」
「さぁ?何だあいつ、すごい慌ててたけど」
一松とトド松は窓から身を乗り出して、カラ松が玄関を出る後ろ姿を唖然と見送る。事情を尋ねる間もなく、青い背中は闇夜に溶けて消えた。
「っていうかトッティ、ユーリちゃんとデートってマジ?」
「──あー、デートっていうのはボクの認識。朝一に並ばないと買えない人気のスイーツ一緒に並ぶだけだよ。買ったらそれで解散」
待機時間含めても、長くて三時間といったところか。デートと呼ぶにはあまりにも色気のない逢瀬。
「個数制限あって、ユーリちゃん、ボクら六人に食べさせたいんだってさ」
「…ええ子やん」
「だよね」
二人でしみじみと呟いて、それから揃って深い息を吐いた。
「さて、あとは容疑者のキングオブクズのご帰還を待つだけか」
「兄さんと呼ぶのもおこがましい。あいつを処刑しないことには今日は終われないね」
部屋に揃う四人が容疑を否認する現状で、有力候補はおそ松一人に絞り込まれた。いずれにせよ、デカパンと連絡がつけば犯人は確定する。

ガバッと音を立て、弾かれたように十四松が体を起こす。
「訪問者の匂いをキャッチ!データ照合───パターン赤、兄さんです!」
「第一の長男か。総員、戦闘配置だ
「何で使徒襲来っぽく言うの」
十四松と一松の唐突なコントに、トド松はついていけない。
そうこうしているうちに、軽やかに階段を上る足音とご機嫌な鼻歌が近づいてきて、赤いシャツが姿を現した。
「兄ちゃん帰ったよー!いやー参った参った、パチンコで確変止まらなくなっちゃって、もうウハウハ───ってあれ?何、どした?お前ら揃いも揃って機嫌悪いの?」
「お前のせいじゃボケエエエェェエェェッ!」
四人の叫びがハモった。
「え!?ちょっと待って、なになに!?どゆこと!?」
「デカパンからこの薬貰ったの兄さんでしょ!?
言い逃れは許さないよ、正直に吐いてよね!」
トド松はデカパンシールの貼られた小瓶を突きつける。
眉間に皺を寄せてしげしげと見つめた後、あ、とおそ松は声に出す。見つかっちゃったかぁと、まるでイタズラが見つかった子どものように肩を竦めて。
フルスイングで殴り飛ばしたい衝動を必死に堪え、チョロ松はトド松に続いて問う。
「ユーリちゃんがこれ口にして、カラ松のこと忘れたんだって。カラ松はどうでもいいけど、あいつがいたから僕らとユーリちゃんに濃い接点があったも同然なんだぞ。
お前どう落とし前つけてくれんの?指詰める?体の関節という関節外す?
チョロ松は怒らせると怖い。
しかし四人の狼狽など我関せずといったおそ松は相変わらずの飄々とした態度で、彼らの怒りに油を注ぐ。
「えー…そっかぁ、ユーリちゃんが飲んじゃったか。マズった、置いとく場所失敗したな」
「こいつ余裕あるな、爪一枚ずつ剥がしていくか
「待ってチョロちゃあんッ!」
工具箱からペンチ持って来いと末弟に指示する三男を両手で制してから、おそ松は苦笑して言う。

「ってかさ、そんなカッカするようなことじゃないって。だってこの薬は───」




インターホンを押す指が震えた。
息は切れ、こめかみや首筋から流れる汗がぽたりと地面に落ちる。
「カラ松くん!」
玄関を開けたユーリは、カラ松の姿を見て目を瞠った。
服装がさっきまでとは違う、体のラインを隠すゆったりとしたシャツに、ジャージパンツという部屋着だ。カラ松は予期せぬ訪問者だったに違いない。
「こんな時間にどうしたの?」
夜も更けた時刻に女性の一人暮らし宅への訪問。肩で息をする今日が初対面の男。
身の危険を感じて当然の状況で、玄関を開けてくれたのは不幸中の幸いだった。
「あ、あのね、カラ松くん──」
ユーリが拒絶の言葉を放つ前に、カラ松は告げる。
「ユーリ」
焦がれるように名を呼んで。

「オレのことを思い出せなくてもいい!もう一度始めからでもいい!
それでもいいから、だから…っ、これからもユーリの一番近くにいさせてほしい!」

絞り出した声は掠れ、悲痛な叫びとなってマンション内に反響する。共用廊下で点滅を繰り返す切れかけた電灯が、不安を煽るかのようにチカチカと不規則に明かりを灯す。
昨日までの日々に戻れないことよりも、居場所を奪われる方が、ずっと苦しい。

「オレ以外の男に、その場所を譲らないでくれ…ッ」

片手でドアを開けたまま呆然とするユーリの顔が滲む。目頭が熱い。
「と、とにかく中入って!」
ユーリはカラ松の腕を取って、玄関内へと引き込んだ。廊下に誰もいないことを確認してドアを閉めた時、口から漏らした安堵の息がカラ松の首筋にかかるから、思わず息を呑んだ。
一人暮らし用の狭い玄関口に二人が立つと、今にも密着しそうなほど距離が近い。気安く触れたいと渇望していた肌が今は間近だ。
足を引いてカラ松から離れようするユーリの腕を咄嗟に掴んで、強引に自分と向き合わせる。
「カラ松く──」
「定職にも就く、パチンコだって止める。できることは何でもする!だから───」
気ばかりが急く一方で、どこまで身勝手なのかと冷静に分析するもう一人の自分もいる。望んでいたはずのユーリの幸福は、幸せにするのは自分でありたい願望にいつしか取って代わっていた。

「…明日のトド松とのデートだって、本当は行ってほしくないんだ」

ユーリが顔を上げる。
乱暴に振り払われた直後、ユーリの両手がカラ松の腕を掴む感触があった。あっという間に立場が逆転する。キッと自分を見つめる双眸には、力強ささえ感じられた。
「待って待って、落ち着いて!トド松くんとデートって何のこと?」
彼女は大きくかぶりを振った。
「トド松くんとは明日朝一にスイーツ買いに並ぶだけだよ、買ったらすぐ帰るし、デートじゃない。
カラ松くんとの約束は午後からだったよね?」
「…え」
どうしてそれを、という言葉が喉まで出た。
「もしかして、私から連絡ないからドタキャンになったと思った?
信じてもらえないと思うけど、お昼ぐらいからついさっきまで何してたのか全然覚えてなくて、今ちょうど電話しようと思ってたんだ」
遅くなってごめんね、と。
何度目の謝罪だろうか、今日はずっとユーリに謝られてばかりだ。

世界が本来あるべき色を取り戻し始める。暗澹とした灰色に染まっていた景色に鮮やかな色が溶け出して、部屋中に広がっていく。
「ユーリ、ひょっとして記憶が…」
カラ松に関する記憶を一切喪失しているなら、明日の約束を覚えているはずがない。約束を交わしたのは、薬を飲むより以前のことなのだから。だとしたら。
「きおく?」
「…なぁハニー、オレと初めて会った場所を覚えてるか?」
「カラ松くんのお財布拾った所のこと?」
「今まで二人で出掛けた場所は?」
ユーリは淀みなく答えていく。今日カラ松と共に回った場所さえも。
「え、何?何のクイズ?もしかして、夕方までのこと覚えてないって言ったから、痴呆症の可能性示唆してるの?止めて、私の心が大きな傷を負う
胸いっぱいに広がる安堵を脳が認識したら、もう駄目だった。
堰を切ったように溢れる涙が止まらなくなって、ユーリには見られないように腕で拭ったら、余計に顔中に広がってしまう。
不意に、タオルハンカチの柔らかな繊維が目尻に触れる。カラ松の涙を拭きながら、ユーリは困ったように笑った。
見慣れたユーリの顔だ、とカラ松は思う。まるで警戒心のない、カラ松に全幅といっていい信頼を寄せている表情。
安堵と共に訪れた途方もない脱力感に体の力が奪われる。と同時に、細いしなやかな指がカラ松の背中を叩く。もう我慢しなくてもいい、そう言われた気がして。
カラ松はユーリの肩に顔を埋め、今度こそ声を上げて泣いた。




込み入った話を玄関で続けるわけにもいかず、ひとまず部屋に上がってもらい、カラ松くんに冷えたお茶を出した。
「そっか、私記憶喪失だったんだ」
しゃくりあげながら切れ切れに顛末を語るカラ松くんの言葉を繋ぎ合わせて、私は空白の半日の全貌を知るに至る。
思い出して良かったこれでハッピーエンドだねとなるべきなのだろうが、そうは問屋が卸さない
貴重な休日の半日どうしてくれる。ニートたちはいい、奴らは毎日が休日だ。しかし私は社会人、休日はかけがえのない休息の時間である。推しを愛で推しをいじり倒し、あわよくば欲望のままにセクハラをかます有益となるべき時間を、事もあろうに無為に過ごした、と。

主犯のおそ松は極刑に処す、と心の中で復讐を誓っていたら、カラ松くんが重い口を開く。
「それで、その…オレがさっき言ったことなんだが…」
私から目を反らしたまま、いささか居心地が悪そうにガラスコップを両手で包んでいる。
「うん。定職に就くって」
「就かない」
「あとパチンコも止めるって」
「止めない」
おいおいこの人真顔だよ、澄み切った瞳で言い切りやがった。さっきまでの鬼気迫る様子は何だったのか。
「そんなこと言ってない」
「自分に都合のいい展開になったから前言撤回ときたか。いい感じに松野家六つ子らしいクズっぷり」
カラ松くんも六つ子の一員であることを再認識させられる。推しの欲目で見がちだが、所詮は彼らの中ではまだマシ、というレベルか。
「一般ピープルとは一線を画した際立つ才を持つ…オレ。フッ、そう褒めるなハニー」
「褒めてない」
さっきまでのドラマっぽい展開の必要性を問いたい。もう半分以上告白だったような気がしたが、気のせいだったらしい。
私の辛辣な返答に首を竦めて、カラ松くんはようやく私と目を合わせる。

「でも───ユーリに迷惑かけた埋め合わせはする。今はそれで勘弁してくれ」

今は。
ただの言葉の綾なのか。それとも、未来に何かしらのリターンがあると期待してもいいものか。しかしそれ以上踏み込んで聞くのは野暮な気がして、私は納得したフリをした。




チョロ松に首根っこをつかまれ足の半分が宙に浮いた格好で、おそ松はデカパン貰った薬の効能と副作用を説明する。弟の乱暴に強く抵抗しないのは、自分の行為にやましさがあった事実を物語ると同時に、三男の背後に殺意を持った三名が控えていた恐怖故でもある。
「───ってことは、あの薬の効果は六時間。
効果が切れたら、元の記憶を取り戻す反面、記憶を失っていた時間帯の記憶をなくすってことで間違いないな?」
「うん、そう。な?カッカするようなもんじゃなかっただろ?」
ちょっとした遊び心だったんだよ、と笑うのはおそ松。
「リアタイで巻き込まれたボクは生きた心地しなかったんだけど?一回首の骨折る?」
「やったれトッティ」
ボキボキと指を関節を鳴らすトド松の背中を一松が押す。
「それか僕がチョークして気管潰すのでもいいよ。おそ松兄さんはどっちがいい?」
十四松が片手を口元に当てて、ふふふと笑う。
「待ってえええぇえぇ!どっち選んでも死ぬ未来しか見えない!
「生かしておく気ねぇから。
我ら童貞の希望の女神であるユーリちゃんに迷惑かけた罪、万死に値する」
ニートで童貞で実家寄生という三重苦を気にも留めず、友人として別け隔てなく接してくれる貴重な異性だ。カラ松が特別視されていることを面白くないと感じることはあれど、次男を出し抜いてトップに君臨する無謀さも理解している。
トト子が憧れで高嶺の花なら、ユーリは大事な友人だ。

いや待ってよチョロ松兄さん、とトド松がハッと何かに気付いた顔になる。
「カラ松兄さん、もしかしてユーリちゃんの所に行ったんじゃ…」
「何、だと…」
チョロ松は目を剥く。顔を上げて壁がけ時計を見やれば、彼女が薬を飲んだ時間から六時間が経過した頃合いだ。記憶の戻ったユーリと、元に戻ってほしいカラ松が出会えば、その後の展開は想像に難くない。
「…おい元凶長男、もしこれでカラ松が朝帰りにでもなってみろ。お前を東京湾に沈めるからな
「チョロ松の目がマジだよ、お兄ちゃん怖いよ。
確かにユーリちゃん巻き込んだのは俺が悪かったよ。でもさ、記憶喪失なんてドラマとか漫画でしか見たことないじゃん?実際にちょっと体験できるって言われたら興味沸かない?」
「それは…まぁ…」
チョロ松を筆頭に、顔色を窺うようにして顔を見合わせる四人。全く興味がないとは言い切れないのが正直なところだ。
しかし十四松が異議を唱える。
「でも最終的に忘れるんじゃ、自分がやっても意味ないよね。六時間無駄になるだけなら、ぼく飲みたくないなぁ」
「うん、デカパンの薬にはそういう致命的な欠陥があったりするからね。誰かが飲んで焦るのを見る立場が一番楽かも」
「そうそう、自分以外の誰かが記憶喪失になってるのを高みの見物するが楽しいんだよ───今回おそ松兄さんが画策してたように、ね
十四松、一松、トド松の三人がゆらりと立ち上がり、じっとおそ松を見つめる。
「な、何の話かな?」
おそ松はあからさまに動揺して宙に目を泳がせた。地面に転がる瓶をチョロ松が拾い上げて、彼の眼前に突きつける。

「飴はユーリちゃんが食べたのを合わせて五個しかない。
お前が食べさせようとしてたのは自分を除く僕ら五人──そういうことだよな?」

状況証拠が全てを物語る。
六時間経てば全員が記憶喪失だった間のことを忘却し、何もなかったように日常を続けていく。曜日の感覚さえ曖昧な暇を持て余したニートなのだ、六時間前後の記憶がなくとも実害は皆無といっていい。
おそ松は言葉もなく及び腰で後ずさるが、背後にあるのは壁だ。逃げ道となる三方向は武器を構えた四人の兄弟に囲まれている。
「え、あの、その…暴力は良くないと思うんだ。もう夜だし近所迷惑に…」
「始末しろ」
「あいあいさー」


近隣一帯に、おそ松の断末魔が轟いたとか轟かなかったとか。


それから二時間ほど経った頃、主犯の長男にどう説教すべきか悶々としながら帰宅したカラ松は、布団で簀巻きにされた中から原型を留めないほどに殴打されたおそ松の顔を見て、溜飲を下げたのだった。

あなたのことだけ知らない(前)

不変の日々は存在しない。
一見昨日と同じように見える事象も、成長や発展といった進化を遂げるものもあれば、劣化老廃して衰退していくものもある。
姿かたちが多少変わるだけなら大した問題ではない。
破損、消滅、死別、そういった類の、二度と同じ形には戻らない変化もまた、世界の至る所で実際に起こっている現実だ。

幸せだった日常を突如喪失したとして、絶望の淵に立たされた者は、それから何を頼りに生きていくのだろうか。




ガラガラと音を立てながら、松野家の玄関引き戸が開け放たれる。
出迎えてくれるのはカラ松くん。訪問予定時刻を事前に告げているので、よく来てくれた、そう言わんばかりの笑みが顔いっぱいに広がる。
「今日もいつになく麗しいな、ハニー。
雲の多い生憎の天気だと思っていたが、ユーリに会って原因がハッキリした。ユーリの煌めく美しさにサンシャインが照れて隠れているせいだな
「お邪魔しまーす」
カラ松くんの戯言はスルーして、私は靴を脱いで玄関を上がる。松野家訪問もすっかり慣れたもので、玄関の戸を叩くのに緊張感がなくなったのは、いつ頃からだったか。
カラ松くんに通されたのはいつもの居間で、中央に配置された円卓の上には、スナック菓子や酒のつまみが無造作に置かれている。
「借りてた本を探してくるから、ここで待っててくれ」
「分かった、急がなくていいよ」
「テーブルの上にあるヤツは好きに食べてくれていい。おそ松がパチンコの景品で貰ったらしい」
「いいの?やった、遠慮なくいただきます」
両手を顔の前で合わせて感激のポーズを取ったら、カラ松くんの口から、あ、と声が漏れた。それから嬉しそうに相好を崩して、私の腕を見やる。

「それ…付けてくれてるんだな」

前回出掛けた際に、ハンドメイドマーケットでカラ松くんからプレゼントされたブレスレット。カラ松くんをイメージさせるかのような紺のレザーが、私の手首で揺れる。
「うん。せっかくだからカラ松くんと会う時はつけようと思って」
「そ、そうか…いやその、そうしてくれるのを多少期待してたのは確かなんだが、いざユーリの口から言われると、何というか…」
照れくさいのか、声の音量が徐々に絞られていく。

「───幸せに天井ってないんだな、と思う」

はにかんだ笑顔が眩しい。
推しが幸せな世界にありがとう。
「このアクセが一番身につける頻度高くなりそうだよ」
「へ?」
「他の友達より、カラ松くんに一番よく会ってるからね」
連絡手段が家電かトド松くんを介すしかない不便さもにも慣れて、たまに家電に出る他の六つ子たちと会話を交わすのも、楽しみの一つになった。
声の聞き分けもできるようになって、今なら出だしの挨拶だけで誰か判別できる。
「一番…ほ、本当かハニー?」
「嘘ついてどうするの。毎週のように会ってるんだから、そりゃ一番頻度が高くもなるでしょ。こちとら仕事してる社会人だよ?」
私がカラカラと笑ったら、カラ松くんは顔を僅かに朱に染めて、人差し指で頬を掻いた。
続く言葉を紡ぐために彼が口を開きかけた時、障子を通した向こう側で玄関の戸がガラリと開かれる音が響く。誰かが帰宅したようだ。
「…余談が過ぎたな。と、とにかく取りに行ってくる!」
カラ松くんは私に背を向けて、忙しない足取りで部屋を出る。

カラ松くんと入れ違いに部屋に入ってきたのは、トド松くんだった。
「あれ、ユーリちゃん来てたんだ?いらっしゃーい」
ダスティピンクのシャツと七分丈のパンツという外出用の勝負服。会ってきたのは女の子か、少なくとも六つ子のうちの誰かではなさそうだ。
「カラ松兄さんが気持ち悪い笑い浮かべて二階上がっていったけど、何かあった?」
「あったっていうか、他の友達よりカラ松くんに一番会ってるなって話しただけ」
私の返事を聞いて、トド松くんは眉間に皺を寄せる。
「え、ほんとに?あの羞恥心をゴリゴリ削ってくる痛さに一番会ってる?ドMなの?人としてヤバくない?
「真顔で抉ってこないで」
誰かに指摘されると心臓がキュッとなる。
だが、確かにカラ松くんは痛い言動が多くて、もう止めて私のライフはゼロよと顔を覆いたくなることもある反面、それを遥かに凌駕する可愛さや愛嬌があるのだ。
彼に魅力がなければ、週一という高い頻度で会うこともない。
「あ、そうだ、スマホの充電もう切れかけなんだった。ごめんユーリちゃん、二階から充電器持って来るから待ってて」
そう言い残して、トド松くんもまた慌ただしく二階へと駆け上がっていく。
遠ざかる足音を聞きながら、私はテーブルのお菓子に手を伸ばした。




貸していた本を受け取るというのは、ユーリが松野家を訪ねた二つ目の目的に過ぎない。本来の目的は、明日カラ松と二人で出掛ける予定を立てるためだ。
つい一時間ほど前に、近くまで寄ったから今から行ってもいいかと打診の電話があって、兄弟が揃って不在なこともあり、二つ返事で快諾した。
「ねぇカラ松兄さん、スマホの充電器見なかった?」
カラ松がユーリから借りていた本を手にしたところで、帰宅したトド松が二階の部屋へと上がってくる。
「充電器?さぁ、オレは見てないぞ」
「えー、この部屋に置いといたはずなんだけどなぁ」
「念のため下にないか探しておこう」
お願いねというトド松の声を背に、カラ松は階段を下りる。
ユーリに出会って数ヶ月、憎からず思う相手が傍らにいる緊張感に空回りする頻度こそ減りはしたが、彼女の顔を見るたびに口角が上がる癖は一向に治らない。可愛くて愛しくて大切で、掴みどころのないふわふわした感情が、会うたびに体の中に広がっていく。
居間へと続く障子を開けたら、ユーリはいつもの柔らかな笑顔で出迎えてくれる。

───はずだった。

「ユーリ、待たせたな。何か飲み物を持ってこよう。麦茶とアイスコーヒーどっちがいい?」
菓子を提供しておきながら飲み物を出し忘れていた。
円卓の上でスマホを操作していたユーリは顔を上げ、目を瞠ってカラ松を見る。なぜか不思議そうな顔をするので、何かあったのかと思い彼女の隣に腰を下ろした。
「ん?どうした、ユーリ?」
その時、違和感は確かにあった。
肘を伸ばし切るより前に彼女に触れることのできる距離──当たり前になっている適度な距離感だ──にカラ松が並んだ刹那、ユーリは僅かにだが腰を引いて距離を取ろうとした。
「え、と…」
カラ松の双眸を見つめたまま、ユーリは口を開く。

「誰ですか?」

問われた真意を測りかねた。
「んん?どうしたハニー、オレをからかっているのか?
今日はエイプリルフールじゃないぞ。ああそうか、飲み物も出さずに待たせたから怒っているんだな。よし分かった、それなら明日はハニーの望む所どこへでも連れて行こう、これで怒りを鎮めてはもらえないか?」
左手を胸に当て、右手はうやうやしくユーリへと差し向ける。これで跪けば、王女に求婚する王子そのものだ。
しかし。
「あ、あの…ハニーって?どこかで会いました?」
戸惑いがちに紡がれる辻褄の合わない言葉たち。
この時カラ松の脳裏に浮かんだのは、ユーリの逆鱗に触れるようなことがあったか、ということだった。瞬間的に弾き出された答えは、否。彼女を怒らせる嘘偽りはおろか、明るみになっては都合の悪い隠し事さえない。
だとしたら、自分が席を外した数分間に何かが起こったのか。そもそも、目の前にいるユーリは本当にユーリ本人なのか。
事実と疑問と仮説が複雑に絡み合う中、彼女が自分に向ける眼差しに不可解なものを感じていた。
これは───

「カラ松兄さん、二階には充電器なかったんだけど、その辺に落ちてない?」
髪を掻きながら、トド松がスマホ片手に居間へ足を踏み入れる。
「トド松くん!」
途端にユーリは救われたように目を輝かせた。
そこでようやくカラ松は、ユーリから向けられていた違和感の正体に気付く───警戒心だ。
「ごめんトド松くん、この人って親戚の人?私、初対面だよね?」
問われたトド松はきょとんとする。
「え、何言ってんのユーリちゃん。カラ松兄さんと喧嘩でもした?」
「え?」
「え?」
話が噛み合わない。
トド松は呆気に取られた様子でカラ松を見やるが、カラ松もまた同じような顔をしていたために埒が明かないと思ったのか、再びユーリへと視線を戻す。

「トド松くんたちは、五つ子だよね?」

「カラ松兄さん、ユーリちゃん超怒ってんじゃん。早く謝って、土下座して。痴話喧嘩にボクを巻き込まないで
「ウェイトだトッティ!喧嘩なんてしてない!
オレが二階に上がるまではいつものユーリだったんだぞ!」
一人で対処する自信がなくてトド松に縋り付く。
「じゃあその数分の間に何かバレたんじゃない?居間に隠してたヤバイブツないの?白状しとけ
「ない!ゴッドとハニーに誓ってそんな物はなぁい!」
カラ松の取り乱しようと、基本的に自分たち六つ子に嘘はつかないユーリの性格を鑑みて、今目の前の事象に嘘偽りがないとトド松は判断したのだろう。
「ユーリちゃん、本当にカラ松兄さんが分からないの?
カラ松兄さんが妙なことしたなら頭丸めて針山の上で土下座させるから、正直に話してよ」
「何気にオレへの信頼ゼロだなトッティ」
カラ松のツッコミは、当然ながら無視された。
トド松は充電の切れかけたスマホをタップして、ユーリに見せる。
「…え、何で一緒に写ってるの?てか二人は本当に兄弟なの?
ち、ちょっと待ってよ、絶対今が初対面なんだけど、これって私の方がおかしい?」
スマホに保存された、カラ松と共に写る数々の写真を見せられて、ユーリは愕然とする。それからハッと気付いたように鞄から自分のスマホを取り出すと、目は一層見開かれた。
ディスプレイに映し出される写真にはカラ松の姿、スケジュール帳の予定の項目にはカラ松という文字が、幾つも映し出されている。
傍目にも分かるほど、彼女の顔から血の気が引いた。

「マジかー。ごめん、えーと…カラ松くん、だっけ。全然覚えてない」
「ハニー…」
「やだ、もしかしてハニーって私のこと?止めてよ、彼女っぽくて誤解されそう」
肩を竦めて笑いながらの拒否だったが、心臓を鷲掴みにされた感覚だった。
目の前にいるのはユーリの姿をした別人だと、そう思い込みたい自分がいる。日々の生きる糧であり心の支え同然だった彼女から、自分に関する記憶だけが抹消されて、心地良かった距離感さえも拒絶される。




不意に、トド松が円卓の上に菓子に手を伸ばした。
乱雑に散らかった菓子類の中から、手のひらサイズの小瓶を取り出してみせる。
「ユーリちゃんがカラ松兄さんを忘れた原因って…これじゃない?」
コルクの蓋がついた小瓶の中には、七色に光るオーロラシートに包まれた、男所帯の松野家には似つかわしくないラッピングの飴が入っていた。
反射的に壁際に置かれたゴミ箱を覗き込めば、トド松の推理を裏付けするかのように、開かれた飴の包み紙が一番上に捨てられている。
「ほら見てこれ───デカパンのシールが貼ってある」
ひっくり返された瓶の底には、縞模様のパンツのシール。推測は確証へと変わる。

「ちょっとデカパン殺してくる」
「わああぁぁぁ、カラ松兄さん落ち着いて!兄さんが言うとシャレにならないんだよっ!」
トド松に腰に縋りつかれた。
「電話するから!デカパンのことだから何か策はあるはずだって!」
幸いにもデカパンはすぐにつかまった。
トド松はすぐさまハンズフリー通話に切り替えて、円卓の上にスマホを置く。
「ホエホエ、どうしただスか?」
カラ松は身を乗り出した。
「単刀直入に聞くぞ、デカパン。うちにある瓶詰めの飴、デカパンが作ったんだよな?
あれは何だ?」
「ユーリちゃんが、カラ松兄さんのことだけ忘れちゃったらしいんだよ」
カラ松とトド松の焦燥を感じ取ったかは不明だが、デカパンは変わらず気の抜けた声で告げる。

「あれは、食べた後『一番最初に見た人物に関する記憶を失う』薬だス」

言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
咀嚼して飲み込むにはあまりにも残酷な事実が、カラ松の胸に鋭い切っ先を突きつける。その剣でもって己の心臓を貫けと言わんばかりに。
「──元に戻す薬はないのか?」
心臓が早鐘のように鳴って、自分の声さえも遠く聞こえる。
「ないだス。あれは──」
「ちょっとデカパン!ないって何!?
誰に頼まれたか知らないけど、実害出てるんだよ!製造者責任でどうにか───」
しかしトド松が最後まで言い終わらないうちに、通話が切れる。スマホの充電がゼロになったらしい。
「あー、もう、電池完全になくなった!充電器どこー!?」
円卓の上には、うんともすんとも言わなくなった無機質な塊だけが残された。
「家電からかければいいんじゃないか!?」
「スマホにしか番号入れてない。いちいち覚えてないよ」

あの、とユーリが恐る恐るといった体で発言する。
「つまり…私がデカパン博士の飴を食べた直後に見たのがカラ松くんだったから、カラ松くんのことだけを忘れた、ってこと?」
ユーリが不安げに見つめる先は、トド松だった。いつもなら、こんな時一番最初に視線を向けてくれるのは自分だったのに。
「…そうみたいだな」
「そっか。こういう超絶ヒロインっぽい記憶喪失イベントが自分に降りかかるって考えたこともなかったから、何て言ったらいいのか…博士の薬はほんと、馬鹿とハサミは使いようって感じ
結構余裕はありそうだ。
「──でも、カラ松くんはたまったもんじゃないよね。失礼な態度取ってごめんね」
ユーリは苦笑しながら頭を下げた。
そんな顔をさせたいわけじゃない。ユーリには、いつだって笑っていてほしい。

「ハニー、今からオレと出掛けないか?」

膝に置かれたユーリの手をカラ松が取ると、彼女は顔を上げて目を見開いた。
ユーリのために自分ができることは何か、思慮を巡らせることも、自分の考えをまとめることもできなかった。
考えるより先に、体が動く。
「今までオレと行った場所を案内したい。何か思い出せるかもしれない」
「カラ松くんと?」
ユーリは目を泳がせて逡巡する。断る文句を探すかのような素振りで、頭の中が真っ白になった。緩やかな拒絶は、カラ松の首を真綿で締め上げていく。
「行ってあげてよユーリちゃん」
万が一何かあったらうちの家電に連絡してくれたらいいから、と。
目を細めて笑みを浮かべながら後押しをしてくれたのは、トド松だった。

「ボクら六つ子の中で、ユーリちゃんと一番仲が良かったのは───カラ松兄さんなんだ」

トド松が敵に塩を送るとは、ついぞ思いもしなかった。
しかしその言葉を聞くや否や、ユーリは鞄を持ってすっくと立ち上がる。
「分かった。行こう、カラ松くん。私頑張ってみる!」
「ハニー!」
「いやハニーじゃないけど」
「オレにとってハニーはハニーだ。異議はノンノン、リジェクトさせてもらうぜ」
顔前で人差し指を振って気取ってみせたら、ユーリは不服げに眉をひそめた後、耐えきれず吹き出した。
ああ、やっと笑ってくれた。
喪失したものはあまりに大きいけれど、たったそれだけのことが、今は嬉しくて仕方がない。




人を好きになるのに理由なんてない。
その言葉を、脳で理解して腑に落ちるところまでを身を持って経験したこの歳になって、ようやく心から同意することができる。
なぜ好きになったかを探求する時点で、既に好きになっていることが多い。原因はきっとあるのだろうけれど、理由の認知はしばしば遅れ気味だ。
そもそもカラ松の場合、理由付けをする必要性は微塵もなかった。互いに側にいて心地良い関係を築けているなら満足で、好みと感じるポイントを細分化すればするほど、好きな箇所の増減に一喜一憂することになるからだ。
逆もまた同様で、自分が相手に必要とされている理由の分析は疲弊する。
自己肯定感が低くなりがちだったカラ松が、この境地に至るようになったのはつい最近のことで、それもこれもユーリという存在があったからだ。

時間が許す限り、ユーリと通った多くの場所の中から、特に印象深い地をなぞる。
運命的に出会った街中、初めて二人で出掛けた水族館、打ち上げ花火を見上げた土手。
いずれもユーリにとって既知の場所だった。しかしやはりカラ松に関わる過去だけすっぽり抜け落ちて、カラ松を落胆させる。

「他の五人のことは覚えてるのに、一番仲が良かったっていうカラ松くんのことだけ分からないって、よく考えるまでもなく失礼だよね。
でもほら、デカパン博士の作った薬だから、副作用とか失敗とかあるかもよ。そのうち急に思い出すとか。くよくよしなさんな」

あははとユーリはあっけらかんに笑った。
何の脈絡もなく突然六つ子一人分の記憶を失い、初対面にも関わらず馴れ馴れしい他人、まるで身に覚えのない記録、自分だけが蚊帳の外という過酷な状況下で、それでもユーリはカラ松を気遣う。
一番不安なのはきっと、彼女自身なのに。
「ユーリ、その…手首につけてるレザーのブレスレットなんだが───」
つい先日カラ松がユーリにプレゼントしたものだ。
記憶を取り戻す糸口になり得ないかと切り出したが、最後まで台詞を紡ぐ前にユーリが言葉を被せてくる。
「あ、これ?いいでしょ?すごく気に入ってるんだ!」
ユーリは晴れやかに破顔する。
向けられた相手の唇が思わず緩んでしまうほどの活力に溢れた、大きな向日葵が咲き誇るような、カラ松にとっては愛しくてたまらない彼女の表情の一つ。
「どこで買ったかは覚えてないんだけどね」
「ああ、ハニーによく似合ってる…そうか、そんなに気に入ってるのか」
それ以上はなぜか言えなかった。
自分が贈ったという真実は、彼女の笑顔を壊してしまうような気がしたからだ。

どうせ忘れられるなら、長い歳月が経ち記憶の中の姿さえ朧げになって、いいこともそうでないことも全部ひっくるめてノスタルジックな思い出として彼女の中から消えていく方が、よほどマシだ。
少なくとも幾ばくかの間は、記憶の中で生きることができるから。
だから、こうやって突然物語の舞台から降りて、もう戻らないと告げられると、それまで共有してきた思い出は行き場をなくして宙ぶらりんになるしかない。
どんな思いだったのか、何を考えていたのか、この先どんな未来を想像していたのか。いつか聞けたらいいと思ってた問いに、答えてくれる者はもういない。

───なのに。

「持ってるアクセの中では、一番のお気に入り」

カラ松の憂いを一蹴するかのようにユーリは言って、暗く沈むカラ松を容易くすくい上げる。
彼女の記憶は消滅したのではなく、薬の作用によって封じられているだけなのではないか。
何となく、そんな気がした。

推しからの贈り物

何気ない贈り物というのは、得てして贈る側に何らかの魂胆があることも多い。
相手との良好な関係を築くツールとしてであったり、相手の負担となる頼み事を快く承諾させる布石であったり、不要物の処分であったりするかもしれない。
平たく言えば、下心というものが、その行為には付随してくる。


「そろそろ新しいアクセが欲しいんだけど、どういうのがいいかなぁ」
場所は松野家の居間である。
開け放した窓の外は洗濯日和な晴天。円卓の上に広げた男性向けのファッション雑誌を、私はトド松くんと眺めている。
「合わせる服にもよるよね。トド松くんは可愛い感じの服が多いから、レザー物とかバングルが似合いそう」
例えばこういう感じかな、とモデルを指差して示すと、彼はうんうんと目を輝かせる。
「ピアスなんかもセクシーでいいかも」
「セクシー…?え、ちょっ、そういう目で見るの止めて!もっと好きになっちゃう!
トド松くんの横顔を見つめて感慨深げに呟けば、唐突に告白される。何この急展開。
しかし、六つ子の中では比較的中性的な要素が強い彼だからこそ、ジルコニアやフープピアスといった小ぶりなデザインが似合いそうではある。
「ピアスかぁ…ちょっとハードル高いかなぁ。兄さんたちと喧嘩した時に、耳ごと持っていかれそう
「グロい!」
破壊力のある言葉をさらっと言い放たないでほしい。
そもそも二十歳過ぎたいい大人は、通常運行で兄弟間で取っ組み合いの喧嘩をしないし、ピアスをつけた耳を引き千切るなんて言語道断だ。だが一般的という言葉が通用しない治外法権が松野家六つ子
私が眉間に皺を寄せて恐怖を示すと、さすがに失言だと思ったのか、トド松くんは慌てた素振りで両手を横に振った。
「まぁまぁ、ピアスはそういうわけだから。でもありがとね、ユーリちゃんにそう言ってもらえたのは嬉しいな」
ひょいっと肩を竦めて笑みを浮かべるトド松くん。
六つ子全員、基本は同じパーツを持っているのに、表情や表現が異なると、当たり前だがまるで別人だ。つぶさに観察していると、一人ひとり個別で会っても確実に相手を判別できるレベルになるのに、そう時間はかからなかった。

「じゃあハニー、オレには何が似合うと思う?」

話題が一段落するのを見計らったように、会話に加わるのは──カラ松くんだ。
私とトド松くんが雑誌片手に流行りのファッションについて議論している間、彼は愛用の手鏡で自分の顔を眺めていた。トド松くんに言わせると、家では手が空くと大概鏡と向かい合っているらしい。
「まぁオレは、ガイアに存在する全ての物質の源のような、唯一にして究極の男だからな。何でも似合ってしまうのは仕方ないことだが、その中でもこの松野カラ松の魅力を一際引き立てる物を、 ユーリのその愛らしい唇で教えてはくれないか?」
手のひらを広げた腕を伸ばして、誘うかのようなポーズを決めるカラ松くん。その双眸はいつにない輝きを放っている。
わなわなと肩を震わせていたトド松くんは、カラ松くんの演説が終わるや否や大きな声を上げた。
「痛い発言止めてっ、聞いてるこっちが羞恥心で死ぬ!
「ふふ、そうだね。カッコつけてるのに可愛いから、声が枯れるまで抱くぞって思っちゃうもんね」
「微塵も思わないよ!何だこの痛い奴とドSの挟み撃ち!」
トド松くんがファッション雑誌を畳に叩きつける。末弟が男らしさを最大限に発揮するのは、今のようなツッコミ時だと思う。
「だってほら、カラ松くんって推しじゃん?
「認識共有してる前提で話を進めようとしないで。知らないから。てか興味ないから」
それは残念。
カラ松くんはカラ松くんで、私の抱くぞ発言に顔を赤くして、両手で顔を覆っている。たった一度の反撃で容易くダメージを受けるくらいなら、迂闊に攻撃という選択をすべきではない。
しかも私にとって今の台詞は、反撃どころか日常会話の一環だ。言葉攻めと称するのもおこがましい。

地面に叩きつけられた雑誌を拾い上げて、私は思案する。
「カラ松くんの場合は、アクセサリーはゴツいのがいいんじゃないかな?
存在感があってアクセントになるようなモチーフとか、こういうロックテイストなやつ」
具体的な例を示そうとページをめくって、カラ松くんに見せてみる。ロックテイストで有名なブランドのオータムコレクションの紹介ページだ。
チェスのコマやトランプのマークをモチーフにしたシルバーアクセサリーが、紙面上で眩い輝きを放っている。
「おお…っ、イカしてるなぁ」
「あー、確かにここのアイテムはカラ松兄さんっぽいね。
…でも同じテイストを目指してるはずなのに、カラ松兄さんが選んでくる物が尽くクソダサいのはなぜなのか
それは私も知りたい。


その後トド松くんはひとしきりカラ松くんの絶望的センスをこき下ろした後、不意にこちらに視線を向けて、にこりと笑みを作った。
「ユーリちゃんは、プレゼントとして貰うならどんなアクセサリーがいい?」
「え?…うーん、何とも言いにくいなぁ」
氷が溶けて色が薄くなった麦茶のグラスを両手で握りながら、私は天井を仰いだ。
「私の好みに合う物、って感じかな。明確にこれが好きって物はないんだけど、好みじゃないとか自分で似合わないと思う物って、あんまりつけないから」
プレゼントしてくれる気持ちはもちろん嬉しい。ただ、身につけるかどうかはまた別の問題である。アクセサリーはコーディネートにアクセントを添えるもので、主役にはなり得ないし、違和感を与えるのは論外だ。
「うん、何か分かる。
ボクももし貰えるとしたら、使い回しききそうなバングルとかがいいかなぁ」
「相手との関係性にもよるしね」
「え…ガールズへのプレゼントにアクセサリーっていうのは、鉄板じゃないのか?」
カラ松くんは意外とばかりに目を剥いた。
「鉄板だよ」
私は間髪入れず肯定する。なぜなら、と理由も付けて。
「物によっては高値で買取されるからね
複数の相手から同じ品番のアクセ貢がせた後に一つ残して売っぱらって、これあなたに貰った物~っていう手法をする人には、カラ松くんは間違いなく最高のカモ」
「えー…」
童貞が抱く夢を全力で破壊していくその姿勢、ボク嫌いじゃないよ」
どうもありがとう。

「何にせよカラ松兄さんは、間違っても女性にアクセサリーなんて贈ろうとしちゃ駄目だからね」
「ホワイ、なぜだブラザー。
ハニーを始めとするカラ松ガールズに、オレのアガペーを伝えるには、愛の輝き同然のジュエリーを贈るのがベストだろう?」
「そのクソ性欲をアガペーに例えるな、アガペーに謝れ
「あと私別にカラ松ガールズじゃないからね、その他大勢と一緒にするなら泣かせるよ?
カラ松くんは悩ましげな仕草で女性にアクセサリーを贈る必要性を訴えたが、私とトド松くんから辛辣な眼差しを向けられると、意気消沈して涙目になる。
「ご、ごめんなさい…」




それから数日後、カラ松くんとショッピングモール内の一角に店を構える雑貨店に立ち寄った日のことだ。
特にこれといった目的のない、暇潰しの冷やかしだったのだが、ショーウィンドウに飾られている腕時計が目に留まる。
私が隣から消えたことに気付いたカラ松くんが振り返るのと、私がその場を立ち去ろうとしたのがほぼ同時だった。そしてこういう時は決まって、オレも見たいから見ていこうと彼は言う。また後日改めて来ればいいいかと思った私の胸中を見透かすかのように。
「腕時計が気になるのか?」
腰の高さほどの透明な陳列ケースを上から覗き込みながら、カラ松くんが言う。ケースの上に設置された手のひらサイズの鏡に、私たちの顔が映り込む。
「実用じゃなくて、アクセサリー感覚でつける物買おうかなぁって思っててさ。でも耐衝撃とか防水とか、実用性に全振りしてるのも捨て難い」
「実用性に全振り…ああ、なるほど。こういう時計本体が大きいタイプか」
私の意図を理解するや否や、カラ松くんは店員を呼びつけて、アクリルのケースに鎮座している腕時計の試着を願い出る。
白い手袋をつけた店員によって、陳列ケースから凹凸のある黒い大型ケースにブルー液晶の腕時計が取り出された。それが私の腕に巻かれると、半袖から覗く腕の上で際立った存在感を放つ。
「ユーリの手首につけると、白くて華奢な腕が引き立つな」
言いながら右手で私の左手を持ち上げ、覗き込むように時計をまじまじと見つめるカラ松くん。
近い近い。
何なら肩は触れ合ってるし、長い睫毛との距離は三十センチもないし、これ完全にカップル

「似合ってるぞハニー。何ていうか…可愛い」

口元を指で隠すようにして、カラ松くんはふにゃりと笑う。
格好良くあろうとする表層の意識が失われた素のカラ松くんは、無意識でタラシてくるし、普段とのギャップ萌えを用いて一撃で殺しにかかってくるから厄介である。可愛いのはお前だ。
「…あ、その…ち、近づきすぎたな、ごめん」
その上、密着に気付いて慌てて離れる初心なところももはやたまらん、推せる。もっとこの魂の叫びを正しく表現したいが、称賛に関する語彙に乏しいことが悔やまれた。

「ユーリがどう感じてるかは分からないが、オレはいいと思う」

笑顔で被せてきた。
生憎と現金の持ち合わせがないけれど、もうこの腕時計はクレジットカード切ってでも購入するしかない、そう思い詰めるところまで無自覚で追い込んでくるのが、カラ松くんが天然タラシたる所以。
「だよねぇ。うん、私もこれ格好いいと思う」
眼前に左手をかざしながら力強く頷けば、カラ松くんは胸を撫で下ろすかのように目を細めた。
「でも気軽に買える値段じゃないし、ちょっと考えることにするよ。
付き合ってくれてありがとう、カラ松くん」
店員にも礼を述べ、私たちは店を後にする。
他の商品とも比較して、それでもなお魅力的に感じるようなら購入候補にしようか。
そんなことを考えながら軽やかな足取りで別の店舗へと向かおうとする私とは対照的に、カラ松くんは名残惜しそうに何度か雑貨店を振り返っていたのだけれど、私はまるで気が付かなかった。




都会の喧騒から逸れた静かな緑地公園が今日に限って賑わっているので、何事かと人混みに流されて先へ進めば、イベント用のタープテストが整然と設営されているエリアへと辿り着いた。
テント下には長テーブルが横一列に並んでいて、その上に様々な雑貨やハンドメイド製品が趣向を凝らしたディスプレイで飾られている。
通路を埋め尽くす訪問客数と賑わいの様子から、開催から数時間は経過していると思われる。ハンドメイドマルシェとロゴの入ったトートバッグを持つ客もいて、比較的大きなイベントらしかった。

「わぁ、ハンドメイドマーケットやってるよ、カラ松くん」
「見ていくか?」
「もちろん!」
逸る気持ちを抑えて、マーケットの門をくぐる。
ハンドメイド市では、アクセサリーや雑貨、家具といった手作りの品が並ぶ。出店者の嗜好やこだわりが反映された品からは、大衆向けに開発された物とはまるで違う温かみを感じる。
「ハニーはこういうのが好きなのか?」
私が目を凝らしてディスプレイを覗き込んだり出店者と言葉を交わす姿を、カラ松くんは斜め後ろから不思議そうに眺めている。
「宝探しみたいでワクワクするから好きだよ。
ハンドメイドってその名の通り手作りで、同じ物は二つとない場合も多いからね」
言わば蚤の市だ。
掘り出し物に出会えるかもしれない、未知への期待感に胸を膨らませながら店舗を回っている時間が一番心が弾む。琴線に触れる物に巡り合えば感動するし、もし結果は芳しくなくとも、非日常的な高揚感は残る。

「同じ物は二つとない、か」
ふむ、と声を出してカラ松くんが思案顔になる。
「世界に一つしかないトレジャーを探求する果てしない旅路というわけだな。
松野カラ松という男がこのガイアに一人しか存在しないように、美の化身であるユーリを華やかに仕立て上げる装飾もまた一つであると───つまりはそういうことだな?」
全然違う。
「そこまで壮大なものじゃないけど…」
「そうか…いや、そうだったな。オレとしたことがうっかりしていたぜ。
ハニーのためにしつらえたと錯覚するほどに似合う物は確かに星の数ほどある。ただその中で、お眼鏡にかなうのはハニーに選ばれし物のみということか
頼むからもう黙って。
カラ松節に当てられた出店者の女性が、口を半開きにしたまま呆然としている。ポエムの聞き手が私一人ならば容易く受け流せるが、初見ならば理解が追いつかないのが自然の反応だ。
認識を新たにすると共に、すっかり適応している自分の行く末を、今更ながら懸念した


カラ松くんを連れて順繰りに店を回る道中、これは思うアクセサリーに出会う。それは、ディスプレイ用のワイヤーネットに吊り下げられていた。
天然氷を切り出したようなエッジの効いた形のレジン製のペンダントパーツで、パーツ上部から下へ行くほどにグラデーションが色濃く広がり、その中で細かなラメが光を反射して輝いている。透明感のある階調には、心惹かれるものがある。
グラデーションにも幾つか種類があり、新緑の季節を感じさせる爽やかなライム色、夕暮れから夜の帳までを表現した宵闇の色、波打ち際から深海にかけて濃さを増す青など、実に多様だった。
「カラ松くんはどれがいいと思う?」
全色購入したくなる衝動を抑え、カラ松くんに意見を求めたのは、単なる気紛れだった。

「青」

即答だ。
コンマ一秒の躊躇もなかった。
「青…」
思わずオウム返しで彼の言葉を反芻する。
「ハニーには青がいいと思う」
「青が似合いそう?」
「似合うのもあるが、青は、その…」
目を逸して言い淀むカラ松くんの意図を、彼の出で立ちから察する。松野家六つ子におけるカラ松くんのシンボルカラーが、それだ。

「じゃ、この緑ください」

「ええッ、何で!?今の流れだと青を買うのが自然じゃないか!?
「参考にはしたよ」
「緑だとチョロ松になる!」
いちいち六つ子に変換するな。
その解釈ならば、かき氷でイチゴ味を食べたらおそ松くん推し、レモン味食べたら十四松くん推しになるのか。
「この前言ったでしょ、アクセサリーは自分の好みに合う物がいいって」
「…言った。でもなユーリ、ここは忖度しないか?」
「しない」
カラ松くんを無視して緑のペンダントを頼むが、私の背中で諦めずに青がいいのにと唸る輩がいるものだから、売り子の女の子が戸惑っている。
私は深い息を吐いてから、カラ松くんに告げた。
「その代わり、食べ物はカラ松くんの好みに合わせる。
あっちに唐揚げのお店があるから、飲み物も買って少し休憩しよう。奢ったげるよ」
カラ松くんの好物と、奢りという魅惑の言葉を提示すると、カラ松くんの目が輝きを増した。
効果はてきめんだ。
「フッ、本当にユーリはワガママな子猫ちゃんだな──仕方ない、その条件でディールだ!」




広いエリアの端に設けられた休憩スペース。揚げたての唐揚げと飲み物を抱えた私たちは、並んでベンチに腰を下ろした。
カップに刺さったストローに口をつけて、喉の渇きを潤す。冷えた液体が喉を通過して、体の中へと流れていく感覚がする。

カラ松くんが望んだ色を購入しなかった事情を説明すべきか、目まぐるしく頭を回転させる。グリーンが気に入ったのももちろん動機の一つだが、実は他にも理由があったのだ。そのことを弁明する道理も義務も私にはない。
しかし、たまたまグリーンを選んだだけでチョロ松推しと勘違いされるのは遺憾ではある。

そもそも私が青を選ばなかったのは───推しに関わるグッズは厳選しているからだ。

推しは日常生活における癒やしであり肥やしだが、愛で方や崇拝方法は人によって大きく異る。身の回りを固めたいタイプもあれば、よりすぐりのみを配置するタイプも存在する。
わざわざ声を大にして公言するような趣向ではないから、先ほどだってカラ松くんの意見を一蹴したのだけれど。
「あのさ、カラ松くん、さっきのこと───」

「ユーリ、ちょっと待っててくれないか」

突然ベンチから立ち上がったカラ松くんから、飲みかけのドリンクと唐揚げを押し付けられる。まさか遮られるとは思ってもみなくて、あまりに突然のことだったから、ついうんと気の抜けた返事をしてしまう。
それを了承と受け取ったカラ松くんは人混みの中へと駆け出して、あっという間に視界から消えた。
トイレは方角が違うし、そもそも目的を告げずに離れるのは珍しい。私は脳が空っぽになったみたいに、しばらくカラ松くんが向かった方角を見つめていた。
「何か食べ物でも買いに行ったのかな」
独り言を呟いて、カップに入った唐揚げを口に放り込む。にんにくと生姜の風味が口内に広がって空腹が満たされていく。自覚はなかったが、お腹は減っていたらしい。
暇潰しがてら、入口でスタッフから渡されたパンフレットを開き、出店者の販売商品をチェックする。八割方は回り終えていて、あとの二割はペット関連のグッズが多い。
一松くんが猫好きだから、足を運ぶとしたら猫関連かななどと考えを巡らせながら。


スマホを眺めていたため待ち時間はさほど苦にならなかったが、それでも半時間ほどは一人で過ごしただろうか。カラ松くんが連絡手段を保たないので、私は約束通り彼の帰還を待つしかない。
それにしてもどこまで出掛けたのかと訝しんだところで、息を切らしたカラ松くんが戻ってくる。
「す、すまない、ユーリ…遅くなった」
「ううん、いいよ。何か買い物でもしてたの?」
何気ない問いかけのつもりだったが、カラ松くんの肩がぴくりと動く。
「あ、うん…何というか、まぁ…」
歯切れが悪い。肯定も否定もせず曖昧に誤魔化す時は、イエスと同意義と相場が決まっている。
私は口を閉ざして、カラ松くんの出方を窺うことにした。隠すにしろ打ち明けてくるにしろ、彼の意向に沿うつもりだ。無理に聞き出すつもりは毛頭ない。

数秒の沈黙の末、カラ松くんはポケットから紙袋を取り出して、私に差し出した。
「これを…貰ってくれないか?」
「へ?」
渡されたのは、ロゴのスタンプが押されたクラフト紙製の紙袋だった。
手のひらに収まるサイズで、そのロゴには見覚えがある。先ほどパンフレットを広げた際に、出店者として掲載されていた店舗名だ。
「…いいの?」
「ああ。開けてみてほしい」

マスキングテープの封を剥がして取り出した中身は───ネイビーレザーのベルト型ブレスレット。

ハニーには青がいいと思う。
ついさっき告げられた言葉が脳裏を過る。

「もし気に入ったら、つけてみてほしいんだ」
らしくなく低姿勢だ。
普段なら、これはまさしくハニーのために作られたオーダーメイドに違いない、いやむしろハニーがこのアクセサリーにオーダーメイドされたんじゃないかハァンとか自信たっぷりに講釈を垂れそうなものだが。
「いやいや、気に入るとかのレベルじゃないでしょ!これすっごく格好いいよ!ありがとう、大事にするね!」
ブレスレットを両手で包み込んで、私は声を張り上げた。
推し本人からのプレゼントなんて、貰わない理由がない。別枠、別腹。
さっそく左手首に巻きつけようとするが、なかなかベルトがバックルに入らない。気ばかりが急いてもたついていたら、カラ松くんが両手を伸ばして私の腕に通してくれる。
そして小さく笑みを浮かべる唇と細められた瞳が、今の彼の感情を如実に物語っていた。
私の腕に触れる無骨な指をぼんやりと見つめていたら、バックルを通して隠れた部分のレザーに刻印された英文字が目に入る。

その文字は───

「気に入ってもらえて良かった」
確かめるより前にカラ松くんが口を開いたので、私の意識は彼に向けられる。
「この前トド松に美的センスがズレてると散々言われたから、売り子の人にも意見を貰ってたんだ。それで、話し込んでるうちに遅くなってしまった。
…女性にアクセサリーのプレゼントなんて初めてだから、何がいいかも分からなかったし」
最後の一言の破壊力。
「これ、どうして──」
貰わない理由はないが、そもそも貰う理由もないのだ。思い当たる節は何一つない。

「オレの選んだアクセサリーをつけるハニーが見たかったんだ」

その思いは上澄みだ。掘り出せば、もっと複雑に絡み合った感情が下層に沈殿している。なのに言葉にしないのは、言葉にすることを良しとしないのか、それとも本人さえも無自覚なのか。
「勝手だよな。センスはズレてるし、自分で選びたいユーリの気持ちも尊重してない。完全にオレの独りよがりだ」
カラ松くんの手が私の腕から離れる。
「──でも、こうしてユーリに喜んでもらえて嬉しい」
太陽を背にして、照れくさそうに笑う。髪の一部がきらきらと金色に輝いて、眩しいくらいに。
「自分で選んで贈った物をつけてもらえるのって、こんなに嬉しいものなんだな。
すまん、どうしてもニヤけてしまうから…あんまり見ないでくれ」
表情を覗かせまいと噛んだ唇を手の甲で隠して、顔ごとそっぽを向いて私から視線を反らす。
ジュースや菓子のような、気軽に手を出せるほど安い買い物ではなかったはずだ。私の反応も気を揉んだに違いないし、数日前のトド松くんの罵倒も尾を引いていた。
だから、そんな不安の一切合切を振り払っての彼の決断には、言葉が出ない。
「その顔スマホで撮影していい?」
「何でそういう話の展開になる。止めてくれ」

携帯を向けたら、両腕で顔を隠された。




駅の改札口でカラ松くんと別れて、定刻通りホームに入線した電車に乗り込む。私の背中でドアが閉まり、窓の外の景色が流れていく。
吊り革に伸ばした左手、カラ松くんから貰ったレザーのブレスレットにふと目が留まって、その時ようやく刻印された文字のことを思い出した。
ブランド名や作家名といった類だろうかなんて些末なことを考えながら、手首からブレスレットを外して文字を見た瞬間、私は目を瞠る。

───やられた。

帰り際、ハニーだけの一点物だぞ、とカラ松くんはいたずらっぽく笑った。
ハンドメイドだから、同じ商品は作らないという作家のこだわりだと思って、そうなんだとその時は気のない返事をしたのだけれど。
その本当の意味を、油断しきっていたタイミングで目の当たりにさせられた。

プレゼントには、贈り手の思惑が隠されていることがある。
例えばブレスレットは手錠を暗示するが故に、『束縛したい』思いを込めるとも聞く。そんな上等な魂胆を彼は持ち合わせていなかったに違いないが、レザーの巻かれた左手首に体中の熱が集中する気がして、相好を崩しそうになるのを必死に耐える。
ド天然装って核爆弾投下してきたよ、うちの推し。
いや、装うというのは語弊がある。きっと本気で無意識なのだろう、彼はひたすらに真っ直ぐだから。

次会う時、どんな顔をしてブレスレットをつけていけばいいのだろうか。
ベッドに入って寝付くまでの数時間、私は今後の対応に頭を抱えることになるのだった。

ブレスレットに刻印されていた文字は─── From K。