次男への愛を宅飲みで叫ぶ

「いやー、女の子がいる飲みの酒はやっぱ旨いな!ありがとね、ユーリちゃん!」

乾杯の音頭があって、缶ビールを勢いよくぶつけ合う。
場所は、松野家一階の居間。時刻は夕食時の午後七時を少し回った頃。六つ子と私の合計七人、それぞれが片手にアルコールの缶を持ち、目的のないグタグタな宅飲みは幕を開けた。
男所帯に女が一人という、客観的に見れば狼の群れに飛び込んだうさぎさながらの危機的状況だが、案ずることはない。廊下を挟んだ向かいの部屋には松野家最強と名高い松代が控えている。
念には念を入れ、カラ松くんを私の傍らに据えた。少なくとも彼は私に不埒な手は出さないと信用に値する。いざとなったら肉壁として酷使するまでだ。

「ユーリちゃんの作ったおつまみ、すっごく美味しいよ!料理上手なんだね」
トド松くんが私作のポテトチーズ餅を頬張って、うっとりとした表情になる。
「いい奥さんになるね!末永くよろしくおなしゃす!
「おいこら十四松っ、なに褒めるついでにプロポーズしてんの!突拍子ない上に図々しすぎるだろ!僕だってぜひお願いしたいわ!
「チョロ松兄さんも、叱咤ついでに本音ダダ漏れじゃん…いやでもこのマグロの角煮マジ美味い、迷惑かけないからいっそおれと事実婚でもいいよ
一松くんもしれっと口説き文句を挟んでくる。何だこの無駄に押しの強い童貞たち。

そもそも松野家の宅飲みに参加するきっかけになったのは、実家から大量に送られてきた食材だ。
タイミング悪く前日にスーパーで食材を買い溜めしていたために、冷蔵庫は既に八割が埋まっていた。かといって廃棄するのは忍びなく、夏場に室内で保管するわけにもいかず、六つ子たちに消費してもらおうと画策。カラ松くんに相談したところ、食材は酒のつまみにして一緒に飲もうという流れになったのだ。
そうして、七人分の料理を詰めた大量のタッパーを提げた私は、松野家を訪れた。

「ユーリの手料理は美味いだろう、ブラザーたち?
三ツ星レストランのシェフからお呼びがかからないのが不思議なくらいの腕前だからな。美しさ賢さだけでなく料理スキルまでアメージングなミューズ、それがハニー」
ミュージカルさながらの大袈裟な手振りと声音で、カラ松くんは私への賛辞を述べる。
「は?カラ松お前、ユーリちゃんの手料理は日頃から食べてますアピール?ウザいんだけどマジで
「え、いや、そんなつもりは…」
おそ松くんに吐かれた毒をかわしきれず、カラ松くんは肩を落とす。
部外者の前でも、兄弟間のカーストは維持されるらしい。やっかみもあって、余計露骨なのかもしれないが。
六つ子に近づけば近づくほど、カラ松くんの立ち位置や家族からの扱いが明確に見えてくる。

「てかさぁ、カラ松兄さん今でこそユーリちゃんがユーリちゃんがーって感じだけど、ちょっと前にうちで同棲までしてたくらいぞっこんだった子がいたよねぇ」
早くも目の据わったトド松くんが、ビール缶を振りながらからかうような口調で言う。ちょっとその話詳しく。
「そういやいたね、異性と認めるのさえ癪に障るレベルの超弩級のデブスが
チョロ松くんの形容の仕方が容赦なさすぎる。
六つ子全員、彼女いない歴イコール年齢の童貞と聞いていたが、まさかカラ松くんには彼女持ちの期間があったとは。
興味を掻き立てられて、目を輝かせながらカラ松くんを見やれば、彼は青い顔をして足元を凝視している。
「そうそう、フラワーだっけ?
結婚式まで挙げてさ。ああいうのを共依存っていうのかな。あれマジでホラーだったからね。
でも一応あいつ、カラ松兄さんの初カノになるのかな?」
「いやぁ、彼女ってか明らか奴隷だったじゃん?
あの時はさすがにお兄ちゃんも心配したよ、カラ松。いいとこ一つもない相手なのに、自分がいなきゃ生きていけないって思うのは狂気の沙汰だよ。枯れてくれてほんと良かった、うん」
依存は、思考や行為のコントロール障害とも言える。
おそ松くんたちの会話から察するに、社会的弱者の拠り所とされることにカラ松くんは自分の存在価値を見出してしまったのだろう。トド松くんの言うように、互いの存在に囚われる共依存の関係だったと推測される。
随分ヘビーな話だなおい。
かくいうカラ松くん本人は、表面上は動揺の素振りなく取り繕っていた。しかし隣に並ぶ私からは、膝の上で強く拳を握り締めている姿が嫌でも視界に入る。

「───そういえば、バラエティとホラーのDVD持ってきたんだった。時間もあるしどっちか観ない?」
私は鞄から複数枚のDVDケースを取り出して、カラ松くんの前に突き出した。
「カラ松くんはどれがいい?」
びくりと肩が揺れる。もう一押し必要かと口を開けかけたところで、十四松くんがカラ松くんの背中に覆いかぶさった。
「兄さんっ、ぼくバラエティがいい!ここで漏らしてもいいならホラーでもバッチコイ
「ん、んん!?それは困るぞ十四松!」
二十歳過ぎた大人が漏らす宣告は止めろ。羞恥心仕事して。
「ブラザーがトイレに行けなくなるのは面倒だ。ハニーもいるから楽しく飲みたいし、バラエティにしよう」
トランプのカードを抜き取るように、カラ松くんがDVDケースを私の手から引き抜く。
「じゃ、これに決定ね。おそ松くんこれプレーヤーにセットお願ーい」
「ユーリちゃんのお願いなら喜んで──って、これ去年の年末の特番じゃん。ラッキー、見逃してたんだよこれ。ほら見て一松」
「あ、本当だ…確か録画し忘れてパチンコ行っちゃったんだんだよね、この時」

六つ子たちの興味はすっかりDVDに移行する。映像がテレビに映し出されると、彼らの口から語られる話題は、そのバラエティ番組に関連するものがメインになって、カラ松くんへの関心は失われたようだった。
ふとカラ松くんを一瞥すると、彼も同じように私を見つめていたから、二人で笑いながら肩を竦めた。




DVDを一枚見終わる頃には、松野家の居間はテーブルや畳にアルコールの空き缶が無造作に転がり、あらかた食べ尽くされて空になった皿が乱雑に置かれる無法地帯へと変貌を遂げた。
開始当初こそちゃぶ台を囲んで座布団に姿勢正しく座っていた六つ子たちも、ある者は床に寝転がり、ある者は壁に寄りかかり、自由な体勢で酒を飲む。その顔は揃いも揃って赤く染まっている。
私はというと、摂取量を調整してシラフに近い。松野家最高権力者の加護があるとはいえ、男所帯で泥酔する失態を犯すわけにはいかない。
作戦コマンドは、いのちだいじに。
「何だ、もう酒ねぇじゃん。トッティ、冷蔵庫から残り持ってきてよ」
空になった缶を振りながらチョロ松くんが追加を催促する。
「さっき持ってきたので最後だよ。ってかみんな飲みすぎ、ペース早くない?」
「ユーリちゃんが作ってくれた酒のあてが旨すぎるのが悪いんだろ。僕たちにとっては銀河系クラスで縁遠い女の子の手料理だぞ?そりゃビールだってノンストップにもなるわ」
どういう理屈だ。
だが、確かにそうだねとトド松くんも納得した様子で、腕組みをして深く頷く。

「ねぇカラ松兄さぁん、コンビニで追加のビール買ってきてよ~」
舌っ足らずな口調と上目遣いという、甘え上手な末っ子気質をここぞとばかりに発揮して、トド松くんはカラ松くんに擦り寄ってくる。その狡猾さたるや、実に分かりやすい。
自分が被害を被らないよう先手を取るため、一瞬の状況判断でターゲットを絞り、相手を意のままに動かすカードを切る。
欠点は、わざとらしすぎる。こんな安い懇願に引っかかるような奴がどこに───

「フッ、任せろトッティ。ビールでいいんだな?」

いた、いました。疑いもせず容易く引っかかる馬鹿が。
カラ松くんは手のひらを額に当て、悩ましげなポーズを取りながらも、満更でもない様子。そして末弟のお願い攻撃が有効と知るな否や、上の兄たちが便乗するのはもはや自然な流れだった。
「クソ松、ついでにおつまみも買ってきてよ」
「俺はアルコール度数強いヤツね。さっすがカラ松、頼れる男!」
「僕は梅酒とビールで。発泡酒とかは止めろよ」
一松くん、おそ松くん、チョロ松くんが畳み掛けるように買い出しを命じてくる。けれどカラ松くんに嫌がる様子はまるでなく、むしろ兄弟の視線が集まって頼られていることに充実感さえ感じているようだった。
「十四松は何がいい?」
発言がないのを不思議に思ってか、おそ松くんが訊く。
バランスボールの上に寝そべっていた五男は、大口を開けたまま空を仰いだ。
「うーんとね──」

「買い出しなら、私行くよ」

彼らの会話を遮って、私は手を挙げる。
「え、ユーリちゃんが!?」
「食べたいお菓子自分で選びたいし。ってことで、買い出し係は私とカラ松くんでいいかな?」
行こうか、と彼の肩に手を置いて外出を促す。
まさか私が同行に名乗りを上げるとは思ってもみなかったのだろう、カラ松くんは唖然とした顔になる。

「えっ、駄目駄目!ユーリちゃん行くなら俺が行く!」
「おそ松兄さんと深夜に二人きりとか危険すぎる。それなら僕がついていくよ」
「兄さんたちに務まるなら、おれでも良くない?」
「ぼく力持ちだから、ユーリちゃんの荷物持てるよ」
「落ち着いてよ兄さんたち。ねぇユーリちゃん、この中で一番安心して一緒に行けるのはボクだと思わない?」
めいめいが同行を申し出る。こんな展開になるだろうことは薄々予想していたが。
「全員かよっ!よし分かった!どうせお前ら譲る気はさらさらねぇんだろ?
だったら…ユーリちゃん争奪戦、松野家六つ子による仁義なき殺し合いを始めようじゃないか!」
「買い出し如きで死人を出さないでいただきたい」
おそ松くんの号令で躊躇なく戦闘の構えになる彼らに割って入り、とりあえず拳を下ろさせる。
二十歳過ぎた童貞の仁義なき戦いには興味はない。
「公平にじゃんけんしようよ。負けた人が私と買い出し係」
「負けた人!?異議あり!その認識は間違ってる!
チョロ松くんが吠える。
「はぁ」
「ユーリちゃんと深夜に二人きりで買い出しとか、どう見てもご褒美、いやむしろ勲章だろ!
いいか貴様ら、この買い出しはただのお使いじゃない、勝者のみが手にすることができる栄光だ!死ぬ気でいくぞクソ童貞どもッ!
「合点!」
そうして再び拳を振り上げる。今度は、じゃんけんの手を出すために。

カラ松くんも当然のように参戦しようとするから、私は立ち上がろうとした彼を片手で制する。
「…ユーリ?」
「行きたいっていう人に任せなよ」
他の兄弟には聞こえないよう小声で告げる。
「でも」
「カラ松くんは、留守番係」


複数回のあいこの末、勝利を手にしたのは───十四松くんだった。

「やったー、ぼくの勝ち!」
バレリーナのように両手を頭上に掲げてくるくると回転し、喜びの舞を踊る。
「くっ…まさかの十四松兄さん!これは安パイなのか!?」
「いやこれはダークホース…十四松というジャンルに正解や定石は存在しない。十四松はその場その場でやりたいことをやりたい放題するだけだ、一番手が読めないだけに厄介な相手だぞ」
「ユーリちゃん!何かあったらすぐ携帯にメッセージしてね、助けに行くから!
半泣きのトド松くんに手を握られた。
十四松くんと最も近しい一松くんにすら手厳しい言われよう。冗談なのか本気なのか。
「あははー、大丈夫大丈夫、何もしないよ」
「買う物はビールとアルコール度数強いヤツと梅酒とおつまみ、他はないね?」
それぞれから一定の軍資金を徴収し、財布に入れる。
「じゃ、行ってきまーす」
「行ってきマッスル!」




最寄りのコンビニまでは徒歩数分の距離だ。
重力を感じさせない軽やかな足取りの十四松くんの隣に並ぶ。街が寝静まる深夜の時間帯、住宅街やビルの多くは消灯しており、街灯の明かりを頼りに先へと進む。
そういえば、十四松くんと二人きりになるのは初めてだ。

「ユーリゃん、ありがとね」

不意に、礼を言われる。びっくりして目を剥けば、十四松くんの笑顔が近い。
「何のこと?」
「カラ松兄さんを守ってくれて。
兄さんに負担がかからないようにしてくれたんだよね」
思わず下唇を噛む。答えに窮して、時間稼ぎついでに髪を掻いた。
「お菓子が食べたかっただけだよ」
「でも嬉しかったから、ありがと。へへ」

十四松くんは遠い記憶を思い起こすように、宅飲み開始時に話題にのぼったフラワーという相手について語ってくれる。
彼女の正体は花の妖精だという。ほんの僅かな期間松野家の居候となり、死ぬ死ぬ詐欺でカラ松くんから冷静な判断力を奪った挙げ句、結婚式を挙げている真っ只中に本体が枯れて消滅した。何というはた迷惑な奴。妖精と呼ぶのもおこがましい。
自分がいないと駄目とか思っちゃう時点でカラ松くんは完全共依存だし、希望を叶えないなら死ぬとか、それもう心が病んでるただの危ない奴。
っていうかこのご時勢に妖精って、もうどこからツッこんだらいいの。
「今はユーリちゃんがいるから、カラ松兄さんもそういうことはないと思うけどね。
ユーリちゃんといる時や、ユーリちゃんの話をする時の兄さん、すっげー幸せそうなんだよ!」
コンビニの自動ドアをくぐる。
白を基調にした清潔感のある店内で、私たちは脇目も振らずアルコールが配置されている棚へと向かい、買い物カゴの中に次々と缶を放り込む。

「けどフラワーって人のことは、ぼくたちにも原因があると思ってるんだ」
「どういうこと?」
「カラ松兄さんが欲しいもの、ずっと知ってたのに」
「…ああ、それは一理あるかも」
「だよね!」
意図を理解してもらえたのが嬉しいとばかりに、十四松くんはにこりと白い歯を見せた。

「水の入ったコップを持ってるって想像してみて。
喉が乾いたら水を飲むでしょ。飲むと喉も気持ちも満たされてスッキリする。
愛情も一緒───カラ松くんは、みんなのコップが空になる前に自分の水をあげていくの。みんながそれを飲んで満たされるのが幸せだから」
十四松くんは私の手から買い物カゴを取る。ぼくが持つよ、という声と共に。
「でもカラ松くんのコップには、誰も水を注がない。喉は乾いていく一方なのに、誰かから水を貰っても、すぐ兄弟に渡しちゃう。
でも、喉が乾いて辛いなんて弱音は、絶対に兄弟には吐かない」
だから私は、カラ松くんのコップにこれでもかと水を注ぐ。目の前で飲めと命じる。せめて私といる時くらいは、誰かに渡してしまわずに、自分の喉を潤せと。
私がカラ松くんを傷つけない誓いを立てているのは、彼のコップを欠けさせないためだ。
水がなくなったら足せばいい。けれどそもそも受け皿となるコップが破損してしまったら、注いだ水は零れ落ちていくしかない。

愛するのは愛されたいから。ナルシストを気取っているのも、自己防衛のため。
今の私には、松野カラ松はそんな風に映るのだ。
「そっか、分かった!ぼくカラ松兄さんに水あげるよ!喜んでもらう!とりあえず二リットルでいいかな
十四松くんは冷蔵のショーケースから、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出そうとするので慌てて止める。
「それぶっかけるの!?単なる嫌がらせだよね!」
比喩だから、コップの水は例え話だから。

レジで会計を終え、缶ビールが大量に入った重量感のあるビニール袋を軽々と持ち上げる十四松くん。
暗く静かな帰り道、彼はいつになく饒舌に兄弟との思い出や彼らへの想いを語る。拙い言葉で、懸命に。
「兄弟だから甘えちゃってたのかなぁ。ぼくが平気だから兄さんたちも大丈夫かなって思ってたとこもあるし」
松野家の六つ子は固い結束で結ばれているように見えて、きっかけがあればいとも容易く崩れる脆さも内包している。
十四松くんは、カラ松くんへのイジリや兄弟間の亀裂を見過ごしてきたことに、いささかの後ろめたさも感じているのだろう。
「生まれた頃からの長い付き合いだから、言葉にしなくても察しろっていうのも分かるんだけど、伝わらないなら存在しないのと一緒だからさ。それは悲しいよね」
「うーん…あはは、酔ってるから頭回んなぁい。兄さんに喜んでもらいたいけど、ぼく何をすればいいんだろ?」
唸りながら首をひねる。
答えは単純明快だ。考えるまでもない。

「十松くんは、カラ松くんが好き?」
「うん、すっげー好き!」
「じゃあ、それをそのまま伝えればいいんだよ」
酔った勢いでいい。言葉にして伝えることが一番大切なことなのだ。
「そっか、うん、やってみマッスル!」
彼はビシッと敬礼のポーズを取って、それからいつものようにあははと笑った。




自宅に辿り着くや否や、十四松くんは玄関の引き戸を勢いよく開け放ち、ご両親が寝室で休んでいるのもお構いなしに居間に駆け込む。
両手に抱えていたビニール袋は、ふんぬという掛け声と共におそ松くんにダイレクトアタック。しかしそこは六つ子の長男、反射的に両手を広げてビニール袋を受け止めた。ビールへの執念凄まじい。
「カラ松兄さーん!」
ルパンが空中脱衣して不二子のいるベッドに飛び込むのを完コピしたポーズで、十四松くんは文字通りカラ松くんの胸元へ飛び込んでいく。
履いていたスリッパが宙を舞う。
「んん~どうしたんだ、マイリル十四ま───ヅォエッ!
十四松くんの頭がカラ松くんの腹部に命中した。会心の一撃だ。
目と鼻と口から液という液を噴出して、カラ松くんは畳の上に倒れる。
「カラ松兄さあああぁぁあぁぁぁん!?」
「え、ちょ…十四松何でっ!?」
トド松くんと一松くんが涙目で絶叫する。
そうだろうとも。帰宅して早々に五男が次男の息の根を止めるなどと一体誰が想像しただろうか。
この場に私がいたという痕跡全て抹消して帰宅したい。
さっきまでええ話やったやないかーい。

「それじゃ、死人も出たし私はこの辺で」
「待って待って、ユーリちゃん!色々放り投げて自分だけ現実逃避しないで!」
チョロ松くんに縋りつかれる。
凡人の私に松野家六つ子を使役するのは土台無謀な話だったのだ、帰らせてください

私の服を離すまいと必死なチョロ松くんを引きずりながら玄関へと向かおうとした矢先、カラ松くんの上に乗る十四松くんが口を開いた。

「ぼくね、カラ松兄さん大好きだよ!」

彼は兄のコップに水を注ぎたいと言った。溢れんばかりの水を、その手でもって。
チョロ松くんがポカンとして力を抜くから、私は踵を返して居間へと戻る。
「いつもぼくたちのこと好きでいてくれて、ありが盗塁王!普段冗談っぽくしか言えてないけど、ぼくもちゃんと兄さんのこと好きだよ」
えへへと照れ笑いしながら、カラ松くんの胸に顔を擦り付けた。
意識を失っていたとばかり思っていたカラ松くんは、おもむろに上半身を起こして、呆然としている。
「じ、十四松…?」
状況を理解できずしばらく呆気に取られていたカラ松くんだったが、向けられた言葉と行動の意味にようやく理解が追いついたらしい。目からぽろぽろと大粒の涙が零れる。
「お、オレも愛してるぞブラザーっ!」
「兄さーん!」
ええ話や。

しかしまだ水は足りていない。
抱き合っていちゃついている二人には聞こえないよう、声のボリュームを抑えて私は独白のように呟く。
「みんなからの愛情が足りないと、カラ松くんはまたろくでもない他人に奪われて都合よく酷使されちゃうかもなぁ。
っていうか、今度は私に依存してくるかも。困ったなぁ、そうなったら同棲して養って生涯大切に愛してあげなきゃいけないよねぇ
目的さえ果たせれば、手段は正攻法でなくてもいいのだ。
残りの四人を一度に確実に動かすには、彼らのコンプレックスを刺激するのが確実性が高い。
「カラ松兄さん!ずっと黙ってたけど…僕も兄さんのこと好きだよ!」
真っ先に行動に出たのはチョロ松くんだった。
「あ、ズリぃ!俺だってカラ松のこと大好きだから!ずっと家にいて!お前だけ彼女作ってリア充になったら泣くからなッ
「さらっと本音ブッ込むの止めてクソ長男!カラ松兄さん、もちろんボクも愛してるよ~」
おそ松くん、トド松くんも続けて輪の中に飛び込んでいく。
好き、大好き、愛してる。想いを告げる言葉が彼らの間で飛び交って、行為こそ打算的でも、その中に幾ばくかの本心があればいい。

残るは、一人。
最後まで抵抗すると踏んでいたので、案の定といったところだ。
「一松くんも行っとく?」
「…いや、興味ないし。ってか別にクソ松のことなんかどうでも」

「行きなさい、一松」

胸ぐらを掴み上げて、見下すように命じる。努めて、抑揚のない声で。
「は、はい…ユーリ様!」
途端に一松くんは恍惚の表情で頷き、ふらふらと兄弟の元へ向かっていく。
やりすぎた、死にたい。

しかし功を奏して、カラ松くんの持つコップには、色とりどりの水が溢れんばかりに注がれる。元々は、彼のコップから兄弟へと差し出したもの。それがやっと少し返ってきた。
カラ松くんは目が赤く腫れ上がるほどに号泣しながら、兄弟を抱きしめる。
「オレはブラザーたちを信じてたぜ…ッ。
───わあああぁぁ、良かったぁ!蔑ろにされても諦めずに生きてて良かったああぁぁあ!」
素で泣く推しもまた尊し。
それにしても、十四松くんの観察眼には脱帽する。
一見鈍感そうに見えるが、私の言動の意図を察したのは彼だけだったし、カラ松くんの希求にも気付いていた。五男、侮ることなかれ。


ひとしきり続いた野郎どもの抱擁が一段落ついた後、宅飲みの第二幕が始まった。
とはいえ、時刻は草木も眠る丑三つ時を過ぎ、ある程度酔いが回ったところへのアルコール追加なので、前半戦ほど長くは続かない。体力の大半は既に消耗している。
手のひらを象ったピンク色の椅子に腰掛け、六つ子たちが一人ずつ倒れるように意識を失っていくのを傍観していたが、私の瞼も次第に重さを増していく。
彼らが全員畳の上に転がって寝入ったのを確認して、私もまた椅子の上で意識を手放した。




微睡みから意識がすくい上げられる。煌々と明るい照明の眩しさで、瞼が持ち上がらない。庇を作るように片手を持ち上げたら、ぱさりと手元から何かが落ちる───タオルケットだ。
「…ん?」
光に目が慣れて、かろうじて片目が開く。しかし意識の半分はまだ夢の中にあって、いつでも眠り世界へと帰還できそうなくらい、ふわふわとした感覚だ。
ふと、眼前に大きな影ができた。

「ハニー…すまない、起こしてしまったか?」

泣き腫らして腫れぼったい目が、優しく細められる。
「何だ、カラ松くんか…このタオルケット、カラ松くんがかけてくれたの?」
「ハニーに風邪をひかせたくないからな。二階にソファがあるんだが、そっちに行くか?」
「ううん、面倒だしここでいいや」
そうかと返事をするカラ松くんが、不意に私の足元に跪く。まるで王に謁見する兵士のように。
「な、何?どうしたの?」
思わず飛び起きる。

「…ありがとう。ユーリには本当に頭が上がらない」

唐突すぎて返事を躊躇する。頭の中には霧がかかっていて、思うように働かない。
「フラワーのことも、買い出しのことも、十四松のことも───全部」
その双眸から今にも涙が零れそうな気がするのは、泣き明かした痕跡のせいか。
「ハニーはオレを守ってくれた」
本人にもバレていたらしい。しかし素直に認めるのは何となく癪なので、首を横に振って否定した。
「私がしたいことをしただけだよ。十四松くんのことは、相談に乗っただけ」
手を伸ばそうとしたら、カラ松くんが先回りして円卓から取ったコップを私に手渡す。
半分ほど残っていた烏龍茶を一気に飲み干した。温い液体が喉を使う感覚と共に、意識は次第に現実世界へと引き戻されていく。

「ハニーがいる今、フラワーのことは正直あまり思い出したくないんだ。
他にいくらでもやりようがあったとは思うし、ブラザーたちに心配もかけて、そのことは反省している…でも、彼女を救おうとしたことを後悔はしたくない」
「そっか」
私なら黒歴史確定だけどな、という本音は飲み込んだ。
「まぁでも、結婚式はさすがにやりすぎたとは思ってる。オレの人生を安売りしすぎた
自覚はあるんだ。
「でも今は」
続けてカラ松くんが言う。

「───ブラザーたちがいて、ユーリがいて、オレはなんて幸せなんだろうな」

噛みしめるように口にされる想い。
他の六つ子と同様にそこそこクズで。カッコつけのくせに、本当は打たれ弱くて繊細で、愛してほしいのに言葉にできなくて苦しんで。
「礼にもならないが、せめて夜明けまでの数時間はハニーのナイトになろう。
万一にもブラザーたちが君に手を出そうものなら、オレが必ず守るから、安心して休んでくれ」
そう言って私に背を向け、ピンクの椅子にもたれかかると、カラ松くんの頭が私の膝のすぐ横に並ぶ。
何と返事をしようか思案したのは、僅か数秒のことだったと思う。こつんと彼の頭が私の膝に当たるから、何事かと顔を覗き込めば、瞼を閉じて寝息を立てている。

「不安になったらいつでもおいで」
預けられた頭を優しく撫でて、私は囁く。
いつでもたくさん水を用意して、欲しいだけ注いであげるから。
そして推しに感じる私の萌えという萌え、熱き血潮を、何時間でも熱く語って差し上げよう

リベンジ・レンタル彼女

違和感は、根拠のない所には発生し得ないものだ。
例えば人に対する場合、相手の行動パターンであったりこれまでの実績と照合した結果のエラーが、違和感という不明確な感覚となって去来する。おそらく本当はもう少し複雑で、その時の様々な感情や環境も踏まえて、総合的に弾き出されるものなのだろう。
須らく、何らかの理由は存在する。

だから私がおかしいと感じたのも、きっと裏付けできる根拠はあったのだ。
彼が一歩踏み出すタイミングが一瞬遅かったとか、不意に眉をひそめたとか、見逃しても不思議ではないほどの小さな変化が、私の目には映った。


「カラ松くん、どうかした?」
散策の足を止めて、私は尋ねる。
「ん?どうしたハニー?」
住宅街を抜けた先、東京都が管理する広大な自然公園に入ってすぐの、池にかかる橋の手前。
幅数メートルの広い橋の上には、池を眺める人や会話に花を咲かせる人たちの姿がぱらぱらと見受けられる。何の変哲もない穏やかな景色だ。
「何かあったの?」
湿度の高い夏も間もなく終わりを迎えようとしているが、照りつける日差しはまだ強く、水面の照り返しが眩しいくらいに感じられた。
「いや何、ノースリーブを着たハニーの白い肌が、サンシャインに負けないくらいの輝きを放っているせいで、視界がホワイトアウトしたようだ」
そのまま遭難させてやろうか。
私は眉間に皺を寄せて、カラ松くんの胸に人差し指を突きつける。
「嘘つき。だって、これで二回目だよ」
「ハニーのノースリーブは初見だが」
ノースリーブから離れろ。

「この場所でカラ松くんの様子がおかしくなったのが、今ので二回目」

この公園を訪ねるのは今回で二度目だった。
前回カラ松くんの様子に違和感を覚えた時、気のせいかもしれないと胸中の言葉を飲み込んだ。けれど今回のことで、疑惑が確信へと変わる。
「ユーリ…」
カラ松くんは呆気に取られた様子だった。
「…動揺しないように努めていたつもりだったんだがな。ハニーには何でもお見通しか」
見透かされたにも関わらず、心なしか嬉しそうだ。
「言いたくないなら言わなくていいよ。ここが苦手なら、場所変える?」
私の提案に対しては、カラ松くんは首を横に振った。
「───嫌な思い出があるんだ、ここには」
少し話してもいいかと前置きをしてから、彼は橋の欄干に背中を預ける。私は隣に並んで、彼が口を開くのを待った。


レンタル彼女。
意外な単語がカラ松くんの口から飛び出してきた。
「道を歩けば十人中五人の男は確実に振り返るほどの美貌だった。恋に疎いオレたちはすっかり夢中になって、まんまとイヤミとチビ太の策略に嵌ったというわけさ」
イヤミさんとチビ太さんによる、レンタル彼女で一儲けする画策が事の発端となった。
デカパン博士の薬によって彼らは美女となり、松野家六つ子をたらし込んで有り金を毟り取ることに成功するが、最終的に正体がバレてカラ松くんたちから報復を食らう。
彼女という魅惑の存在と見かけの美しさに心を奪われていた松野家六つ子の絶望たるや、想像を絶するものだったに違いない。
そもそもレンタル彼女自体、用法用量を誤り身を滅ぼす者が後を絶たない危険なものだ。
「そんなに美人だったの?」
「そりゃもう、絶世の美女だったぞ!
流れるような金髪に長い睫毛、微笑みの似合う形の良い唇と抜群のスタイル、そして色気漂う声。極めつけに服装が、胸の谷間が見えるエロいシャツとミニスカート!」
拳を握って力説し始めた。
「そんな美人がオレを彼氏扱いしてくるんだ、そりゃ勘違いだってするさ!童貞殺しにも程があると思わないか、ハニー!?」

ほう。

「カラ松くん、童貞だったんだ?」
これは初耳。
「──…え?」
「つまりチェリーボーイだと」
「…知らなかった?」
「知らなかった」
その返答に対し、彼がハッと息を飲むのが分かった。失言だったらしい。
「あ、大丈夫、薄々そうじゃないかと思ってたから」
「トドメさしてくるの止めてくれないか」
両手で顔を覆うが、隠れていない耳は真っ赤だ。指の隙間から、ああああぁぁと言葉にならない絶望が漏れてくる。カラ松くんにとってその事実は、曖昧に濁しておきたかった不名誉だったのかもしれない。

「で、カラ松くんはイヤミさんとここでデートした時に、痛い発言だけで八十万を請求された、と」
「カッコいいから一万値引きするって言われて喜んだんだから、ほんと馬鹿だよなぁ。脈アリだと思ったんだ、あの時は本気で」
長年異性といえばトト子ちゃんしか側にいなかった六つ子にとっては、美しい上に自分たちに好意を示してくる相手に心惹かれるのは、至って当然の流れだったと言える。
というか、あわよくばエロいことに繋げたい一心だったのだろう
「だからイヤミとチビ太だった時のショックは、正直トラウマレベルというか…」
見た目がまるで別人とはいえ、長年腐れ縁同然の相手に欲情した実績は消えない。私も想像しただけで切腹したくなる。
「…ただ、その、勘違いしないでくれ。
美女とかそういうのはあくまで当時思ってたことで、今はその容姿も何とも思わないし、むしろユーリの方がずっと──」
「ずっと?」
我ながら意地の悪い問いだ。返ってくる言葉は、聞かずとも容易に推測できるのに。
カラ松くんは困ったように苦笑しながら、私にだけ聞こえるほどの声で小さく告げた。

「…何でもない」

そう言うカラ松くんの方がずっと可愛いんだが、どうしたらいいだろう。
「まぁ、最終的にはイヤミたちから金は取り返して元通りにはなったんだ。
でも何となくしこりが残って、嫌な場所になってるんだよな。それがいつまでも消えなくて困ってる」
「それだけ強い印象を残すくらいの美貌だったってことだね。
美女薬かぁ──ということはひょっとして、女である私が飲めば絶世の美女に!?
お世辞にも美男と呼べる外見ではない二人が美女に変身したのだ、私ならばさらなる効果が期待できるかもしれない。
しかしカラ松くんはぽかんと口を開けたまま、不思議でたまらないといった風に異議を唱える。
「ハニーはこれ以上綺麗になってどうするんだ」
「…は?」
「今でも十分すぎるほど綺麗なのに」
うん、待て待て、まずは落ち着こう。
ここはいつもの気取ったポーズでボケを重ねて私のツッコミを誘発すべきところだろう。空気を読め、私のボケを拾え。


不意に、カラ松くんが手を打った。
「そうだ!ユーリがレンタル彼女をすればいい!」
「しません」
「せめてオレの提案を聞いてくれ、ハニー」
どうせろくでもないことに決まっている。聞くまでもない。
「男は上書き保存っていうじゃないか。嫌な思い出は上書きすればいいんだ。一時間五百円で頼む
「激安!」
それはイヤミさんたちが提示した六つ子特別価格ではないか。一般的なレンタル彼女の価格は一万近いはず。
厄介な頼み事は敬遠したい一方で、少なからず興味を感じる自分もいる。
何しろレンタル彼女という名目があれば、合法的に推しにセクハラし放題
結論を出すために理性と欲望を秤にかけたら、あっという間に片側に傾いた。

「───レンタル期間は今日の九時までね」

「オーケー、商談成立だ」
カラ松くんが指を鳴らす。
こうして、私は期間限定でカラ松くんの彼女を演じることとなるのだった。




公園散策の予定を変更し、ショッピングモールのメンズアパレル店を訪れた。カラ松くんの秋服を彼女としてコーディネートする目的だ。
「やっぱカットソーにカーディガンかなぁ。それともサテンブルゾン?でもロング丈カットソーにざっくり編みのニットも絶対似合うと思うんだよね」
推しに合う秋服のイメトレは、脳内で何度も繰り返してきた。任せろ。
いそいそと棚から商品を引っ張り出してきては、カラ松くんの胸元で広げてイメージを膨らませる。
トップスは単体で着ると野暮ったくなりがちなので、トップスとボトムスの間にレイヤードを挟んで、スタイルにメリハリをつけることにする。
カラ松くんの場合、黒や紺といった濃いカラーが似合うので、中間に白を入れて上下の色を引き立てるのが良さそうだ。

私が選んだ白のカットソーと紺のニットを着た格好で、試着室のカーテンをカラ松くんが開ける。
「…どうだ?」
「うん、似合う似合う!大人っぽくていいね」
イメトレの甲斐あって、想像していた通りよく似合っている。
私が褒めると、カラ松くんは満更でもなさそうに鏡の前でポーズを決めた。
半袖に比べて極端に露出は減っているのに、エロスを感じるのはなぜだろう。聖域は隠されてこそ真価を発揮するのか。
「お連れ様の秋物をお探しですか?」
あれもいいこれもいいと上機嫌で服を合わせていたら、私とさほど年が変わらない女性の店員が声をかけてきた。
にっこりと笑みを作って、力強く頷く。
「はい、彼氏に似合う服を探してるんです」
「……か、彼氏!?」
顔を赤くしたカラ松くんが、素っ頓狂な声をあげた。
「ただでさえ可愛いのにこれ以上可愛くなったら困るんですけど、私としてはやっぱりもっと彼氏の魅力を引き出したいっていうか、全面に押し出したいんですよね」
この辺は本音の吐露に等しい。彼氏を推しに変換すれば、完全に本心だ。
「あら、ご本人の前でそんなこと仰るなんて、素敵な彼女さんですね」
突然店員に話を振られたカラ松くんは、目を丸くする。
「い、いや…その…オレにはもったいないくらいで…」
「ふふ、ではもっと素敵になっていただきましょうか。彼氏さんスラッとしてらっしゃるから、細身の服も似合いそうですよね」
これなんかどうでしょうと持ってくるトップスは、どれもカラ松くんのイメージを損ねない物ばかり。さすがは人気アパレル店の店員、チョイスが的確だ。
その後店内で松野カラ松ファッションショーを開催し、最終的にはカラ松くんが一番気に入ったという、一番最初に私が見立てたニットとカットソーを購入して店を出る。
実にいい目の保養になった。来週一週間は余裕で仕事頑張れる。




時刻は夕方の五時を過ぎた頃。立秋を迎え、太陽が水平線へと沈む時刻が日に日に早まっていく季節、見上げた空はまだ青い。
次の目的地を決めかねているところだったので、私は道中でカラ松くんをカフェに誘った。
カウンターで注文した冷たいドリンクを受け取り、ソファ席に腰かける。空調の効いた室内で、肌に浮かぶ汗が冷気を纏って体を冷やす。
「テラス席にしたかったんだけど、さすがにこの暑さだと誰もいないね」
「外が良かったのか?
日除けのパラソルがあるとはいえ、この気温だと椅子自体が熱そうだ」
言いながら、カラ松くんはコーヒーの注がれたカップを一気にあおる。
「うん、そうなんだけどね…」
私はガラス窓に映る空席のテラス席を見つめながら、不意に胸に湧き上がった懐かしい思いに浸る。テーブルに頬杖をついた格好のまま、記憶の引き出しから取り出した断片で映像再現を試みていたら、カラ松くんが優しく目を細めるのが視界の隅に映った。

「───ユーリと、初めて出会った場所だもんな」

ああ、と自然と声が漏れた。
「覚えてたの?」
「忘れるもんか。オレのメモリーに刻まれたハニーとのファーストエンカウントは、スローモーションで思い出せるぐらいクリアに覚えてるぜ」
両手を広げて自己陶酔する大袈裟な仕草で、カラ松くんは熱を込めて語る。
「あれ、でも待って。私あの時、このお店を出てたよ」
「テラス席で本を読むハニーのことはときどき見てたんだ…可愛い子が座ってるな、って」
遠くに視線を投げながらぽつりと呟いて、次の瞬間ハッと我に返るカラ松くん。
横文字を織り交ぜたポエムは意気揚々と口走るのに、正直な思いを吐露するのは未だに戸惑いがあるようだ。
「い、いやっ、何だ…その…そう!ハニーの熱い視線を感じた気がしてたんだ!
フッ、オレはカラ松ガールのラブビームには敏感だからな」
財布を手渡した時が第一印象ではないのは、驚きだった。テラス席で本を開いていた時、同行者がいないからと完全に気を抜いていたから、お世辞にも美しい立ち居振る舞いではなかっただろう、死にたい
でも、それにしても。
「あの時、もしカラ松くんが財布を落とさなかったら」
「ユーリが、オレの財布を拾わなかったら」
何もかも偶然の産物だ。誰かが意図的に仕掛けたわけでも、裏で糸を引いたわけでもない。
けれど。
「街内でユーリと再会した時は、息が止まった」
軽快なジャズが流れる静かな店内に、カラ松くんの声が溶け込んでいく。

「…オレは、運命だと思ったよ」

私たちは、用意されたシナリオを演じる役者ではない。
自分の意思で道を決め、時に迷い、暗闇の中を懸命に進んでいくのだ。これから先だって、今のような平坦な道が続く保証はどこにもない。
しかし、理想の結末に向けた舵を取ることはできる。そして過ぎ去ったからこそ言えるのだ───運命だった、と。


「前回のレンタル彼女の時、晩ご飯って…あ、そうか、みんなでホテルの高層階にあるレストラン行ったんだっけ?
予約せずに行って席あるようなとこ?」
「トッティが言うには人気店らしいからなぁ。電話して聞いてみようか?」
「あー、ううん、いいよ。今後もそのお店行く予定ないんでしょ?
だったら中華のチェーン店でも行こうよ、餃子食べたい」
「オレが出すから遠慮しなくていいんだぞ」
費用は心配しなくていいとカラ松くんは言うが、問題はそこじゃない。
「カラ松くんは、今は私の彼氏でしょ?」
テーブルの上に両手を頬杖をつき、カラ松くんに微笑んでみせる。
「えッ!?…あ、ああ」
「それならさ、彼女の私が喜ぶお店に連れて行ってよ。そっちの方が嬉しいよ」
虚栄が効果を発揮するのはあくまで一時的なものだ。いずれは疲弊して、破綻する。

「…彼女になっても、ユーリはユーリなんだな」
感慨深けにカラ松くんが呟く。
「付き合っても基本はたぶんこんな感じだと思うけど…まぁ、レンタルされてる身だしね」
金で雇われたかりそめの恋人なのだ。仕事というフィルターを通せば、いくらでも相手を立てるし、ある程度の鬱憤は飲み込んで愛想笑いだってできる。
普段と変わらないように見えるのも、遊びの一環という意味合いも大きく影響している。紆余曲折があって結ばれた関係性ではないからこそ、そこに熱量はない。
でもその真実は語らない。彼は知らなくていいことだ。
「このことで、実はさっきからずっと思っていたんだが───」
両手を組み、視線をテーブルの上に落として、カラ松くんは眉間に皺を寄せた。言葉にすることにいくらかの抵抗があるようだったが、やがて重い口を開く。


「オレたち、いつもと変わらなくないか?」

核心をついてきた。
うん、私もそう思ってました。

二人だけで出掛けることも、カラ松くんの服を選ぶことも、カフェで向かい合って談笑することも、何度も繰り返している日常だ。
レンタル料を貰うどころか、彼女らしくないとペナルティが課せられてもおかしくない。
「何にも変わらないね。ごめん、私の気が利かなくて…」
トラウマ払拭目的をすっかり失念して、普通に楽しんでました。ほんと申し訳ない。
「ち、違う、いいんだ。ユーリが悪いと言いたいんじゃない」
「でも一応彼女なわけだしさ」
「それはまぁ、そうなんだが…」
何とも煮え切らない態度の中、カラ松くんは指先で照れくさそうに頬を掻く。それから私に聞こえない程度の小さな音量で、ぽつりと零した。

「そっか…いつもと変わらない、か」


空になったマグカップを返却口に戻し、私たちは自動ドアを抜けて店を出る。
何がきっかけだったかは忘れてしまったが、あれからすぐ話題が移り変わって、ひとしきり会話に花を咲かせたら、いつの間にか夕暮れ時だ。
街灯の明かりが一つまた一つと点いて、夜の帳が下りるまでのカウントダウンが始まる。
「カラ松くん」
歩き出そうとするカラ松くんを呼び止めて、私は右手を差し出した。
「どうした、ハニー?」
「手を繋ぐのと腕を組むの、どっちの方が好き?」
「───え」
体を強張らせて戸惑う様子から、言葉の意味を察していないのではなく、私に対しての遠慮か、真意を測りかねているように見受けられた。

「ユーリ…オプションで八十万とかないよな?
「新しいトラウマ生産してどうする」
乙女の恥じらいを返せ。

「本気か…?」
「彼氏彼女っぽいことだと思って。こういうの苦手なら、別の方法考えるよ」
「いや、違…」
カラ松くんは咄嗟に手の甲で口元を隠した。隠しきれないその表情からは、僅かな困惑と、嬉しくてたまらないといった感情が溢れ出ている。
私に視線を戻して、彼は意を決したように手を差し伸べた。

「───お手をどうぞ、マイハニー」

私がその手を取って指を絡めると、一瞬ぴくりと硬直したものの緊張はすぐに解けて、重ねた手を力強く握り返してくる。
言葉を紡ぐのは野暮な気がして、どちらともなく口を噤む。
アスファルトに長く伸びる二つの影もまた、仲睦まじく手を重ねていた。




夕食を終えて店を出る頃にはすっかり夜も更けて、夜の街へと仕様を変える。店舗やビルを彩る鮮やかなイルミネーションの中を、派手な装いの女性たちがすり抜けていく。
自動ドアをくぐる時、カラ松くんは恐る恐るだが無言のまま私の手を取るから、私も抗わなかった。繋いだ手の熱さに、どうしようもなく気分が高揚する。

けれど無情にも約束の時間訪れて、私の自宅へ向かう道の途中、重ねていた手をすっと離す。
時刻は、約束の午後九時。
「ご利用ありがとうございました。レンタル彼女、ここで契約終了です」
感情のこもらない営業スマイルを浮かべて、私はぺこりと頭を下げる。
「なーんてね。終わり方はこんな感じかな?」
「複雑な男心を理解し、手のひらで転がすハニーの手腕、さすがだったぜ。格安では見合わないくらいにいい時間だった」
「え、そう?意外と天職だったりして。
採用募集かかってたら、話だけでも聞いてみよっかなぁ」
演技だというのは、見目に明らかだったと思う。実行する気なんて毛頭ない、カラ松くんの冗談っぽい賛辞に乗っただけの、言わばフリだ。
なのに。

「───それだけは駄目だ!」

カラ松くんがいつになく険しい顔で撥ねつけるから、私は言葉を失った。
騒々しく車が行き交う夜の歩道に、不自然な静寂が漂う。
「他の男とデートなんて」
推しの男の部分を垣間見るとか、ギャップ萌えが過ぎる。
「…ごめん、嘘うそ、冗談だよ。そんなことしないって」
戸惑いながらも強く否定すると、カラ松くんは弾かれたように我に返る。
「ああ、いや…というか、オレの方こそすまん。冗談って分かってたんだが、ユーリが他の男とこういうことするのを想像したら、つい…」
何をしても可愛く見える推しだから私も心地よく演じられるであって、見ず知らずの他人相手に同じ価値を提供できるかといえば、答えはノーだ。
いや少し語弊があるな。何しても可愛いというわけではない、たまにイラッとはする、殴りたくなることもある
「そ、そうだ、費用を払わないとな。えーと、九時までだから…」
「──いらない」
ポケットから財布を取り出そうとするカラ松くんを制して、私は首を振る。
「カラ松くんからそうやってお金貰うのは、やっぱり嫌だな。だからこれはレンタル彼女ごっこ。そういうことにしようよ」
意外だとばかりにカラ松くんは目を見開いた。
「結局ほら、あんまり彼女っぽくないままだったし」
「そんなことはないさ」
街灯に照らされる彼の横顔は、真っ直ぐ前を見つめていた。

「いつもと変わらない。それを知れただけでも、レンタル彼女をしてもらった甲斐があった」

前提条件を変えることで、新たに見えてくる姿がある。
当たり前と感じていること、当然と信じていること、それはただの思い上がりで、不変なんて存在しない。失ってようやく気付く真実があるように、立ち位置を変えることで発見がある。
「トラウマはなくなったかな?」
「おかげさまでな」
「それは何より」
私は笑って、空を仰ぐ。白い三日月の浮かぶ夏の夜空。
デニムのポケットに差し込もうとするカラ松くんの手を、思いきって取ってみる。
「…っ、ユーリ!?」
「予定変更。家に着くまで、レンタル彼女延長してよ」
まるで甘酸っぱい青春の一コマのようだと内心で自嘲する。年甲斐もなく吐いた気障な台詞に吐血しそう。リセットボタン押したい。

「え…それ、延長料金で八十万とか言わないよな?
「トラウマ健在かよ」
何だこの茶番。


いい加減にしろと私が手を離せば、カラ松くんは焦って縋り付き、私の手に指を絡めてくる。ごめんという言葉と共に。
そんな言葉が聞きたかったわけじゃない。失策だった。だから、ごめんねと私の謝罪を上から被せて、繋がれた手をしっかりと握り返す。
カラ松くんが子どものような無邪気な笑顔で笑って、私はようやく肩の荷を下ろすのだった。

私と奴らと夏祭り

夏祭りというものは、往々にしてある種のノスタルジックを感じさせる場だ。
限られた軍資金で回る夜店を吟味した幼少時、同行者の普段とは違う装いに胸が高鳴った青春時代。二度と戻ってこない遠い日々を懐古しながら、賑わいの中に溶け込んで、刹那の郷愁に身を浸す。


花火大会が行われる日の夕方に、駅で落ち合う約束をしていた。
慣れない浴衣と下駄に体の自由が奪われる。その反面で、夏の風物詩を満喫しようとする自分は嫌いじゃない。
カランコロンと地面を鳴らす下駄の音色は、幻想の世界へと誘うかのような妖しささえ感じさせる。

カラ松くんは先に駅に着いていて、声をかけようと手を挙げたところで、不覚にも呼吸が止まりそうになる。
彼は細い白縞の描かれた紺色の浴衣を纏い、腕を組んで遠くを見つめていた。着崩した浴衣の胸元からは鎖骨が覗いている。
エロい。
その一言に尽きる。エロ神が降臨した。眼福の極み。
何がエロいってそりゃ合法的にチラリズムが拝み倒せるし、帯解いたら一気にベッドインに持ち込めるギリギリの際どさと、年にそうそう何度も着用しないレア感、そんなトリプルコンボが発動するところに尽きる。

「ユーリ」

己の煩悩を鎮めている最中に、カラ松くんがこちらに気付いた。私の姿を視認した後、悩ましげな表情で片手を額に当てる。
「ハニーの浴衣姿があまりに美しすぎて、夜空を彩るはずの一輪の花がガイアで咲き乱れたかと錯覚してしまったぜ。その七色の輝きはオレには眩しすぎる。サングラスを忘れたのが悔やまれるな」
「ついに発光体扱い」
相変わらず気障ったらしいのはブレないなと苦笑したら、賑やかな周りの声に紛れて、カラ松くんが口を手で隠しながら小声で続けた。

「その…すごく、綺麗だ」

それはこっちの台詞だ。
「浴衣で行きたいと頼んだのはオレだが、まさかここまでとは思ってなくて…他の男も大勢いるのを考慮してなかった。
ユーリ、今日はちゃんとエスコートするから、オレから離れないでくれ」
うん、と私は頷いて笑う。
「カラ松くんも似合うね、浴衣。やっぱり青が一番似合うよ」
「そう言ってもらえると、着てきた甲斐がある」
私の賛辞に目を細めたところで、カラ松くんは手を伸ばして私の髪飾りに触れた。花をモチーフにしたかんざしだ。
「ハニーにも青があるじゃないか」
花は、ブルーダリア。
「とてもよく似合ってる」
「お揃いだね」
「ああ…いいな、こういうの」
照れくさそうにカラ松くんが微笑んで、私たちの夏祭りはいつになく穏やかな空気に包まれながら始まろうとしていた。

かに思えた。

不意にカラ松くんの肩が叩かれて、彼ははにかんだまま振り返った。けれど次の瞬間、苦虫を噛み砕いたかのような不愉快極まりない表情になる。

「はいこんばんは、松野家リア充撲滅警察です」
六つ子たちがいた。しかも揃って浴衣姿で。
「実は松野家の次男が、浴衣着て花火デートに出掛けるってタレコミがあってね、ブチ壊すしかないと思って来たわけ」
「タレコミとは何のことだおそ松、オレはお前たちに話した上で来てる」
カラ松くんは冷めた双眸で彼らを睨むが、そもそも正論が通じる相手ではない。
「いやいや、夜のデートってだけで現行犯逮捕案件なのに、もし朝帰りにでもなったら俺らが待ちきれずに発狂して殺し合い始めるくらいメンタルやられちゃうんだよね。
だから一緒に行こうぜ。抜け駆けはぜってー許さねぇ───じゃなくて、ユーリちゃんの安全は俺たちリア充撲滅警察が守る」
節子、それ警察ちゃう、こじらせた非リア集団や。
おそ松くんは実に晴れやかな笑顔で両手を広げる。
「ね、いいでしょカラ松兄さん。ボク、カラ松兄さんやユーリちゃんと一緒に花火見たいな」
その後ろではトド松くんが瞳を輝かせて訴えかける。弟からの頼み事には滅法弱いカラ松くんの弱点を上手く突いた攻撃だ。
「し、しかし…」
案の定、カラ松くんは決心が揺らいだ様子。
「諦めなよカラ松。どうせ拒否っても、こいつらのことだから地の果てまで追いかけて徹底的に妨害するよ。まぁ僕もだけど
さらっと自分も加えてくるチョロ松くん、正直か
「そうそう、ボディーガード侍らせてるとでも思ってくれたらいいよ」
「カッコいい!ぼくらユーリちゃんのボディーガード!」
一松くんと十四松くんもノリノリだ。
「そりゃまぁ、天界のヴィーナスたちもこぞって嫉妬するくらい艶やかなユーリを害虫から守るにはガードは必要だが、六人は多すぎないか?」
まずはボディーガードの必要性から疑問視しようか。
「ユーリちゃんの可愛さは、お前一人で簡単に守れる程度のもんなの?
この人混みだと、俺たち六人いてやっと死線をくぐり抜けられるくらいじゃない?ぶっちゃけ六人でもギリギリだよ?」
「確かに!」
カラ松くんは目から鱗とばかりに大きく頷いた。
馬鹿なの?脳みそミトコンドリアなの?
もう好きにして。




六つ子たちと行動を共にするまでの経緯には言葉を失ったが、一緒に行くことには別段抵抗はない。結論に辿り着くまでの茶番が長いのが問題なだけだ。
さて、体は大人頭脳は子供のニートが六名勢揃いすれば、夜店巡りも一筋縄ではいかないのは自然の摂理。

おそ松くんとチョロ松くんは、クジに挑む。
「止めときなよおそ松兄さん。こういう夜店でのクジは当たりが入ってないのが定石じゃん。母さんから貰った小遣いは有限だぞ」
「チョロちゃん、常識に縛られてたら柔軟な発想はできないよぉ。
万一にも当たりが入ってる可能性だってあるだろ。箱を開けるまで猫が入ってるか入ってないか分からないって、何とかいう猫の話にもあんじゃん?」
「シュレディンガーの猫な。しかもその解釈は誤解だからな。つかクジ引いて何になんの?お菓子とかおもちゃとか、どう見ても二十歳すぎの大人が喜ぶラインナップじゃなくない!?」
チョロ松くんから全否定を食らいつつも、おそ松くんは自分の欲望に素直に従う。そして案の定、ハズレの景品ばかり抱える羽目になった。
「ユーリちゃんに全部あげる」
「大量のスライム貰っても困る。ソロプレイ時にでも使いなよ、新しい道が開けるかもよ
「天才現る」
「お前ら真顔で何つー会話してんの!?」
活用法を提案しただけなのに、赤面したチョロ松くんからツッコミが入った。

十四松くんとトド松くんに目を向けたら、彼らは射的の銃を構えている。銃口にコルクを詰めて放つ一般的なタイプのものだ。
「ボクこれ苦手なんだよね、当たったことなくてさ」
「袖の長いぼくの服があれば余裕でっせ、トッティ」
「え?」
「いくらでも伸ばせるから」
「それは腕が?袖が?聞かない方がいいやつかな?」
トド松くんは笑顔を浮かべたまま凍りつく。十四松くんはそんな弟の様子を気にも留めず、右腕をぐるぐると回してみせる。
「とりあえず腕の関節全部外したら数センチは伸びるかも、やってみるね
「止めて」
今度は真顔になった。
それから細工なしの状態で二人は射的に挑戦し、それぞれ一個ずつ的に当て、菓子の景品を手に入れる。
「あはは、お菓子貰っちゃった!ユーリちゃんにあげマッスル」
「ボクのも貰って。ユーリちゃんのために頑張ったんだ」
私は思わず目頭を押さえた。
ここには天使しかいなかったんや。

天使たちから貰ったお菓子を巾着に入れたところで、カラ松くんと一松くんの姿が目に留まる。彼らは玉子せんべいの屋台前にいた。
玉子せんべいは、たこせんと呼ばれる駄菓子の上にソースやマヨネーズ、揚げ玉や卵を乗せて食べるものだ。見るからにジャンクな、しかし癖になる味に定評がある。
「フッ、クジのヴィーナスはご機嫌斜めのようだ。俺の愛を拒絶するなんて、最近構ってやれなかったから拗ねてるんだな」
割り箸を握りながら気取ったポーズを決め、溜息をつくのはカラ松くん。
その店では、玉子せんべいの上に乗せる目玉焼きの数がクジによって決まるらしい。大当たりを引けば三個、当たりは二個、ハズレは一個とボードには書かれている。カラ松くんが引き当てたのはハズレだった。
「ハズレのくせにカッコつけてんじゃねぇよクソ松、退け。こういうのは利益出すために大抵ハズレになんだよ、大当たりなんて出るはずないだろ、馬鹿か」
暴言に容赦がなさすぎる。無慈悲な唾を吐き捨てながら、一松くんもまた割り箸を引く。
「ほら見ろ、おれだって───」
言いながら掲げた割り箸の先端は、赤く塗り潰されていた。

「あ」

声を上げたのは、たぶん三人一緒だったと思う。
「お兄さん大当たり!すごいね、大当たりは五十本中一本しか入れてないんだよ」
「え、え…ええ!?」
戸惑いを浮かべた表情のまま、一松くんは露店の女性から目玉焼きが三個載った玉子せんべいを受け取る。
「グレイトだ、ブラザー!」
「うっせぇ!こんなとこで、ただでさえ枯渇して砂漠化してる運使ってどうすんだよ!パチンコや競馬で当てた方が圧倒的にコスパいいだろがボケェッ!
確かに。
「ただでさえ勝負運ないのに、もう止めておれの運貯蓄はゼロよ…」
「一松くんは相変わらずネガティヴ思考が凄まじいね」
ぶっちゃけ面倒くさい。
「いやでも、さすがに三個載ってると見栄えもするな。一松ラッキーボーイ」
「半熟卵三個とか贅沢の極みだよ、良かったね」
「いやいや、たかだか数百円だよこれ…」
私とカラ松くんが笑顔でサムズアップすると、一松くんは悪態をつきながらも満更ではなさそうだ。背中を丸めて、玉子せんべいにかぶりついた。

「ユーリ」

カラ松くんが、受け取ったばかりの玉子せんべいを私に向けてくる。
「ん」
言葉こそ発しないが、一口どうだ、と伺う顔だ。ソースの匂いに空腹が刺激されたところだ、有り難く頂戴することにして、一口かじる。
「旨いか?」
「うん、美味しい。私も買おうか悩むな」
正直に答えたら、カラ松くんはにこりと破顔した。それから私が食べた部分に口をつけて、次の瞬間ハッとしたように目を見開く。頬が赤く染まっていくその理由に、私はすぐ思い当たった。
ピュアがすぎる。少女漫画か。




「ハニー、荷物持とう」
十四松くんとトド松くんから貰った菓子や、自分で買ったりんご飴の入った巾着袋は、それなりに膨張しててパンク寸前だ。巾着袋は浴衣との相性がいい反面で、収納力がなく実用性には欠ける。
「ありがとう、助かる」
「浴衣というだけでも十分大変だろう?使う時は言ってくれ」

夏祭りに来て夜店を巡るのは、花火が打ち上がるまでの時間潰しであると同時に、この時期にしか味わえない独特な空気を感じるためなのかもしれない。
汗ばむ気温の中、履き慣れない下駄を鳴らして、色とりどりの提灯と明かりで作られたアーチをくぐれば、その先は別世界に繋がっているかのような錯覚。
どこからともなく聞こえてくる祭囃子は、幻想へと誘う魔法のように奏でられていく。
前を歩く六人の背中を追いながら、ふと唐揚げの露店が目に留まる。カップに入れ放題で五百円。こんがりときつね色に揚がった鶏肉と、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「ね、カラ松くん、美味しそうな唐揚げが───」
見惚れていたのはほんの数秒のことだったと思う。
しかし視線を元に戻した時、その先に六つ子の姿はなかった。
慌てて人混みをかき分けて進むが、彼らは一向に見つからない。全員が異なる色の浴衣を着ているから、目立たないはずがないのだけれど。
「あ、そうだ、携帯──はカラ松くんか…」
財布も携帯も入った荷物は全部、カラ松くんが持っている。つまり、今の私は完全に手ぶら。帰りの電車賃さえない状態だ。しくった。


しばらく歩いて彼らを探したが、この人混みでは闇雲に探しても埒が明かない。通行の妨げにならないよう端に寄り、さぁどうしようかと腕を組んだところで、誰かに背中を叩かれた。
六つ子たちかと口元を綻ばせて振り返る。
「お姉さん、一人?」
しかしそこにいたのは、二十代半ばと思われる浴衣姿の青年二人だった。明るく染めた髪と耳に光るピアスの外見、初対面での馴れ馴れしいタメ口。待ち人ではなかった落胆と、第一印象の悪いモブの出現に、思わず顔をしかめる。
「さっきから見てたけど、一人で来たんでしょ?
いい角度で花火が見れる穴場知ってんだけど、どうかな?一緒に行こうよ」
「はぐれた人を探してるので、すみません」
「ウソウソ。連絡取る様子もなかったじゃん、暇でしょ?」
それは携帯も財布もないからだと反論しようとして、口を噤む。自分が不利になるネタをバラまくだけだ。
「暇じゃないです」
眉根を寄せて、話しかけるな散れオーラを全身から醸し出すが、一向に諦める様子はない。
「そんな可愛い格好して一人なんてもったいないよ。遠慮しないで、行こうぜ」
「大丈夫、心配しなくても俺ら怖くないって」
「ちょっ──」
青年のうちの一人が手首を掴んでくる。表面上は誘っているという体だが、有無を言わさない力が込められている。
苛立ちの中で僅かに湧き上がる恐怖に、足が竦む。

「いいじゃん、付き合ってあげれば」

どこからともなく聞こえた声。
人が大勢行き来する喧騒の中、その声は確かに私に向けられていた。
「…仕方ないな。いいよ、付き合う」
私が観念したように言うと、彼らはニヤリとお世辞にも愛嬌があるとは言えない笑みを浮かべて、顔を見合わせた。手首の拘束が外れる。
浴衣の裾を翻して、さぁどうぞとばかりに私は手を広げた。

「───私のボディーガードたちも一緒になるけど、いいよね?」

私の背後にずらりと並ぶのは、同じ顔をした六人の青年たち。
憎悪を込めた鋭い眼光を向ける者、不敵な笑みで出迎える者、無表情で見下す者。一様に敵意を剥き出しにして彼らの前に立ちはだかる。
「うちのお嬢さんに声をかけるなんて、目の付け所が違うねぇ。お礼にさ、俺たちボティーガードも君らのお相手させてよ」
六人の中央に控えるおそ松くんが拳を鳴らす。
「ハニーに気安く触ってくれたんだ、是非お願いしたい」
カラ松くんに至っては、侮蔑を通り越して殺意さえ漂っていた。触るな危険。
「あ、いや、俺らは別に…なぁ?」
「そうそう!と、友達見つかって良かったね、それじゃ!」
去り際に不意打ちで強く肩を押され、体が後ろによろめく。
「おっと」
咄嗟に肩を抱きとめてくれたのはカラ松くんだった。
しかし私がバランスを崩して転倒しかけたことに六つ子全員の意識が向いてしまい、脱兎の勢いで人混みに消えたナンパ男たちを見失ってしまう。実害がなかったとはいえ不愉快な思いはしたのだ、報復されるところは正直見たかった


「チッ、ヘタレ野郎どもが。ユーリちゃんナンパしようなんざ百年早ぇんだよ、一昨日来やがれ」
大きく舌打ちするおそ松くん。思いの外頼り甲斐がある背中に呆気に取られていたら、カラ松くんが私の顔色を窺ってくる。
「…ユーリ、無事か?」
「う、うん、何ともないよ」
「良かった…人混みで見失ってしまって、本当にすまない。オレのせいで怖い目に遭わせたな」
カラ松くんのせいじゃないと、私は首を横に振る。
「そんなこと──」
「一瞬でも目を離したオレが悪い」
今にも泣き出しそうにカラ松くんの顔が歪む。まるで責任の所在が、彼にあるかのように。自ら作り上げた十字架を背負う必要はどこにもない。だから断固否定した、真正面から彼を見据えて。
「カラ松くんは悪くない」
「ユーリ…」
カラ松くんが何か言いかける中、私たちの間に首を突っ込んで、私の手を遠慮なく握ってくるおそ松くん。
「なぁなぁユーリちゃん、俺すげーイケてなかった?まさしくヒーローって感じだっただろ?
俺に惚れるフラグ立ったよな、今すぐフラグ回収するからホテル行こう
「即物的すぎるだろおいこらゲス松」
しかしすぐにチョロ松くんに首根っこを掴まれた。好感をドストレートに伝えてくるところは評価するが、如何せん表現がゲスい
どう返事すべきかと苦笑していたら、トド松くんが頬を膨らませて吐き捨てる。
「ほんっと止めて、おそ松兄さん。兄弟ランキングのワースト殿堂入りするよ」
「まぁまぁ、おそ松兄さんはプレーンだからさ。おれらと違ってキャラっていう皮被ってない剥き出し状態だから、少しは勘弁してあげなよトッティ」
一松くん、それフォローになってない、むしろ抉ってる




花火の打ち上げ前まで一時間を切った頃、後少し露店を楽しんだら土手に移動しようか、そんな話になる。
残された時間でどの店に行くか、童心に帰ったように目を輝かせて見回す六つ子たちの後ろ姿を、私は微笑ましい気持ちを眺めていた。
何気なく隣を一瞥すると、カラ松くんと目が合った。彼は照れくさそうな微笑を浮かべた後、自分の唇に人差し指を当ててウインクしてみせる。
意図が測れず目を点にしていたら、カラ松くんは突然私の手を取り、別の道へと誘導する。
前を歩く松野家兄弟は、私たちの離脱には気付かない。色とりどりの浴衣姿が次第に小さくなっていく。
「カラ松くん、どこ行くの?」
「先回りするだけさ」
彼の言葉通り、手を引かれて連れられた先は、もう少ししたら向かおうとしていた目的地だった。

河川敷の土手は、今日の花火大会における絶好の鑑賞スポットだ。ビルや大きな建物といった障害物に阻まれることなく花火が鑑賞できるから、シートを敷いて席取りをする見物客も多い。
「ブラザーがここに来るまでの少しの間でいい、ユーリと二人で過ごしたいんだ」
空いている場所に腰を下ろしたら、カラ松くんがぽつりと呟くように言った。
「半時間もないけどね」
「その半時間を、オレにくれないか?」
いつになく真摯な眼差しに、私は言葉を失う。
人混みが奏でる騒々しいくらいの雑音が、二人の声を狭い空間に閉じ込める。あまりに人が多すぎて、私たち二人のことなど気にも留めない。

「夢だったんだ───こうやって、ハニーと祭りに来るのが」

気恥ずかしさを誤魔化すように髪を掻きながら、カラ松くんは私を見つめたまま続ける。
「だから、こうして夢が一つ叶って嬉しい」
「そう思ってもらえるのは光栄だな」
こちらこそ、推しと夏祭りなんて課金してないのが申し訳ないレベル
浴衣姿だけでも美味しすぎるのに、ボティーガードとか逃避行ごっことかミニイベント盛ってくるの何なの、無課金でいいのか本気で心配になる
「でもカラ松くんからのお誘いがなかったら、私から誘ってたと思うよ。夏はやっぱりお祭りは外せないもんね」
「こうやって、季節ごとのイベントをハニーと楽しんでいけたらいいな」
「いっそのこと一年通して定番イベントコンプしちゃおっか。たまにはおそ松くんたちやトト子ちゃんも誘ってさ」
我ながらナイスアイデア。休日に推しや仲間たちと騒ぎ倒してエネルギーを充電すれば、仕事への活力にもなる。
「はは、いいなそれ。ということは、軍資金調達のために、銀のヴィーナスには是非とも微笑んでもらわなければ」
「いやいや、そこは仕事しなよ。真っ当な方法で稼ごうよ、ニート歴更新する気満々か
オレを養ってくれていいんだぜ、ハニー」
瞳を輝かせながらの気取ったポーズで、カラ松くんはぬけぬけと言い放つ。苦虫を潰したような顔の私と顔を見合わせて、それから二人で吹き出した。

「さっきのナンパ野郎は許せないが、ユーリに声をかけた気持ちは分かる」
雲ひとつない星空の下、生暖かい風が吹き抜けた。
「困ったな…これ以上他の男に、その浴衣姿を見せたくない」
足元から頭のてっぺんにかけて熱が駆け巡る感覚がした。咄嗟に気の利いた台詞が出てこない。

エッロ。
これもうドエロやん。R指定でもおかしくない色気。

着崩した浴衣から見え隠れする肌と照れた顔だけでも昇天ものなのに、ここに来てウィスパーボイスで口説き文句ときた。イケボの正しい有効活用。


「───あー、いたいた!おーいユーリちゃん!」

タイムリミットを告げる鐘の音が鳴ったら、王子様との逢瀬は終わり。
シンデレラは後ろ髪引かれる思いを振り切って、カボチャの馬車へと戻るのだ。
「時間切れ、か」
そう言って苦笑したカラ松くんは、次の瞬間私の視界から消えた

チョロ松くんの飛び蹴りが命中した模様。

「クソ松テメェっ、ユーリちゃん拉致って抜け駆け気取りか!?あぁん!?浅いんだよテメェの考えは!
リア充撲滅警察の包囲網舐めてんじゃねぇぞ!
その設定はまだ継続中なのか。
「逃避行ごっこは二人きりの時にやってもらおうか。
俺らと行動共にしている時に勝手にやられると、もはやただの迷子なんだよ
おそ松くんの意見には、反論の余地がない。よくよく考えれば仰るとおり。
「…ま、ユーリちゃんは被害者だからさ。クソ松は帰ってから改めて処刑だ
土手を転げ落ちたカラ松くんを冷めた双眸で見下ろしてから、一松くんは私の隣に腰かけた。それを見ていた十四松くんは、あー、と声を上げる。
「一松兄さんズルい!ぼくもユーリちゃんの隣がいい!」

「ねぇみんな、そろそろ花火の時間だよ」

最初に、栓を開けるような音がした。
それから鮮やかな火花が暗闇に放たれて、夜空を美しく彩っていく。遙か上空で無数の星が瞬き、見上げる観客の瞳を輝かせる。ある者は歓声を上げ、ある者は言葉もなくただ立ち尽くす。
か細い光の集合体は刹那の輝きの後に空気に溶け、その姿を散らしていく。
「綺麗だねぇ」
そう呟いたのは、六つ子のうちの誰だったか。
誰もが口を綻ばせて、黒い夜空に咲き乱れる色とりどりの花に心を奪われる。



いい夏だった。
遊び倒したという表現が一番適切と感じたのは初めてだ。
来年もまた同じ夏を過ごしたいと望む心とは裏腹に、同じ夏は二度と来ないことを頭では分かっている。私たちは一年分大人になり、街は歳月と共に姿を変える。
だからこう願うのだ、来年はもっと楽しい夏になりますように、と。
幸せが、この花火のように降り注ぐように。

あったかもしれない珍事件

とても緩いですが、ユーリ(あなた)×カラ松の描写があります。
(この話は読まなくても本編に影響ありません。苦手な方は回れ右で)






目が覚めたら、カラ松くんが目の前にいた。

ありのまま起こったことを話そう。
何を言っているか分からないと思うが、大丈夫安心してほしい、私にもさっぱり理解できていない。

そもそも眠っていたのかどうかさえ記憶が定かではない。
ただ気が付いたら、地面に片膝をつくカラ松くんの両脇を足で挟む格好になっていた。背中には白い壁があって、座った格好のまま壁際に追い込まれた姿という方が分かりやすいだろうか。
「…へ?」
「は、ハニー…っ!?」
カラ松くんもまた、今私の存在を知ったといわんばかりに声を上げた。
顔と顔の距離は三十センチもない。いくら何でも近すぎる。
「何これ…え、ち、ちょっと、とりあえずカラ松くんどいてくれる?」
「いや、すまないユーリ、どきたいのは山々なんだが…」
カラ松くんは顔を歪めた。そういえば彼の腕の位置がおかしい。右手は頭の横で何かを持ち上げるようなポーズを取ってはいるが、よく見ると天井に触れている。
とにかく離れようと私は足を引っ込めようとするが、まず靴の爪先が壁に当たった。続いて膝を曲げようとしたら、膝が見えない壁に触れる。
「んん?何なの、これ?」
両手を横に伸ばしたら、肘が九十度も曲がらないうちに行き止まりにぶち当たる。

箱に閉じ込められている?

何、だと?
「拉致?誘拐?人体実験用の収容所?
「ハニー、不吉なワードを羅列しないでくれないか」

よしよし落ち着けユーリ、クールになれ
なにはともあれデニムのパンツを履いている時で良かった、スカートなら社会的に死んでいた
「私たちが何でここにいるのか、カラ松くん知ってる?」
「それが…よく思い出せないんだ。朝家を出たところまでは何となく覚えているんだが…」
私は家にいたと思う。食材の買い出しに行こうと思い、買い物メモを作っていた辺りまでの記憶はある。
「とにかく、ここを出ないとね」
私たちが閉じ込められた箱は、体感的に一立方メートルほどのサイズのようだ。私は尻をついているのでマシだが、カラ松くんの跪くような格好はいずれ保つのが辛くなる。
「そ、そうだな…この密着した状況は、その…キツイ」
カラ松くんの顔が赤く染まっていく。
「ボタンとか何かないかな」
手の届く範囲で触れたり叩いてはみるものの、水族館の水槽にも似た、分厚いアクリルの板のような触り心地が続くだけで、亀裂やボタンといった脱出の糸口になりそうなものはない。
「カラ松くん、ちょっとごめんね」
彼の背中側を覗くために、私は上体を起こしてカラ松くんの脇の下に顔を突っ込んだ。自然と密着する形になるが致し方ない。
不可抗力のセクハラ美味しいです。
「な…っ、ユーリッ」
「あー、やっぱり何にもないかぁ」
息苦しくないということは、空気孔はどこかにあるらしい。そして私とカラ松くんは照明の下にいるかのように、互いに顔や体がはっきりと認識できている。ということは、この壁は白いではなく透明で、白く見えるのはこの箱が置かれている部屋の色ということなのか。


ふとひらめいて、カラ松くんに聞いてみる。
「カラ松くんの力で壊せないかな?」
「…やってみるか」
彼は右腕を動かして、どこまで肘を下げられるかを確認する。
「ユーリ、少し我慢しててくれ」
何のことかと疑問に思う間もなく、カラ松くんの左手が私の頭に回って、強く引き寄せられる。先ほどとは比にならないほど体が触れ合って、不覚にも呼吸が止まった。
そして次の瞬間、カラ松くんの重い一撃が壁に放たれる。

放出した力が吸収されるような、鈍い音が響く。
カラ松くんはゆっくりと拳を下げて、静かに息を吐いた。
「───頑丈だな」
そこでようやく私を抱いていることを思い出したらしい。カラ松くんは慌てて手を離した。
「…あ、す、すまないユーリっ!万一割れた時に怪我したらいけないと思って、他意はなく…」
「だ、大丈夫…ありがと」
危うく尊死するところだった。
どう見てもご褒美です、いい匂いした。

カラ松くんは眉間に皺を寄せて、私から視線を反らす。頬は変わらず赤く、居心地が悪そうだ。
「どうにかならないか、これ…長く耐えられる自信がない」
「いつも仕事を頑張ってる私に、カラ松くんの赤面を間近で視姦できるご褒美を神が与え給うたと思ったら、数時間は余裕
「真顔で冗談言ってる場合か」
「いや本気で」
「オレのメンタルもたないから、ごめんなさい許して見ないで
そういうとこだぞ。

「いやまぁ確かに、この格好はそのうち限界くるね。物理が無理なら呪文はどうだろ?」
「呪文…?」
「例えばほら、開けゴマ!オープンザセサミー!みたいな」
呪文の定番を叫んでみる。これは、呪文が分からない時にとりあえず言ってみる常套句だ。これを足がかりにして、何か妙案が浮かぶといいのだけれど。

───と思っていたら。

パキ、と亀裂音がした。

それから私の背中が徐々に後方に傾くから、咄嗟に手を伸ばしたカラ松くんに抱き寄せられる。ラッキーセクハラ再び。
バタバタと分厚い板が倒れる騒々しい音が響いて、カラ松くんは天井に当てていた右手を地面に下ろした。
「開いたな…」

開けゴマで開くなよ、空気読め。

逆に恥ずかしいじゃないか。
しかし私の見立て通り、やはり箱は透明で、部屋の壁が白かった。ワンルームほどの小さな部屋に、ぽつんと箱だけがあった状態だ。
そして危機を脱して思い至る。
この箱、二次創作で見たことある。
幸いにもカラ松くんはそういった界隈の知識を持ち合わせていないらしい、そのまま純粋培養で生きてほしい。
「ハニー、ここに引き戸がある」
部屋全体が白い壁に覆われていて気付かなかったが、カラ松くんが小さな凹みを発見した模様。
「良かった、これで出られるね」
「いや、まだ何かあるかもしれない。念のためハニーはオレの後ろか、扉の横に隠れていてくれ」
こういう状況でも相手を気遣うカラ松くん、いちいちイケメン。スパダリ値はカンスト間近。
彼は扉に耳を当て、扉の奥から物音がしないことを確認してから、ゆっくりとドアを開いた。




あ、と声を出したのはカラ松くんだ。

白い部屋を出た先には、さらに部屋が広がっていた。白い面に囲まれた二十畳ほどの室内に、ダブルベッドと引き出し付きのサイドテーブルだけがぽつんと置かれている。
出口と思わしき観音開きの扉はあるものの、固く閉ざされている。

マジかよ。
二段構えは聞いてない。

観音扉の上には電光掲示板が設置されていて、私とカラ松くんが近づくや否や、電源が入って文字が浮かび上がる。

『どちらかが相手を泣かさないと出られない部屋』

この部屋も、二次創作で見たことある。
さっきのより馴染み深い有名な方。

「どちらかが相手を泣かさないと出られない…」
カラ松くんが反芻する。
おあつらえ向きに用意されたベッドと、表示された指令。私の中で自然と導き出される答えに、困惑せざるを得なかった。今日どんな下着だったか、どうしても思い出せない。
「困ったな」
腕組みをして眉間に皺を寄せるカラ松くん。
「さすがにレディに暴力は振るえない」
「そっちか」

ですよね。

「この棚には何が入ってるんだろうな?」
「あっ、ちょっと待ってカラ松くん、それは━━」
相手を泣かさないと出られない部屋のベッド横のサイドテーブルなんて、中身はアレ系しかないではないか。
だが私の制止は間に合わず、カラ松くんは引き出しを開けてしまう。
「あー…」
コメントしづらいとばかりの、声にならない声が彼の口から漏れるので、私も恐る恐る引き出しの中身を覗き込んだ。

入っていたのは、ナイフ、包丁、アイスピックといった───凶器。
殺し合えと?

カラ松くんは無言で引き出しを閉じる。見なかったことにしたよこの人。
「手っ取り早いのは、やっぱりカラ松くんが私を殴ることじゃない?」
「それはできない、オレのポリシーに反する」
最短にして確実な解決法は、にべもなく拒絶された。
「ユーリの言いたいことは分かるが、脱出のためとはいえ君を殴ったら…オレは一生自分を許せない」
そう言うと思った。なぜ聞いてしまったのだろう、答えは聞くまでもなかったのに。
「それじゃあ、私がカラ松くんにガツンと一発お見舞い」
「フッ、ハニーのマシュマロのような柔らかい手では、ペインを感じるどころかラブに満ちたスキンシップになってしまうぜ」
「悲しい話する?」
「持ちネタがないな。ブラザーたちから蔑まれ存在を忘れられた話ならあるが
「それはガチすぎて泣けない」

泣くだけなら簡単なのだ。目を開けっ放しにして眼球を乾燥させれば事が済む。
だが指令は『どちらかが相手を泣かす』ときている。引き出しの中身を見たせいで、バイオレンス前提のアイデアしか浮かんでこない。どうしよう。
「他の手段を考えようハニー。幸いにも、制限時間はないようだし」
「そうだね、ちょっと休憩しよっか」

実は、案はあったのだ。
何でもいいからきっかけを作ってカラ松くんに因縁をつけ、人格否定といった類の罵詈雑言を浴びせるというもの。
彼の涙腺は比較的緩いと聞いている。他者からの、しかもある程度信頼している相手から、存在価値やアイデンティティの否定、攻撃的な言葉をダイレクトに受ければ、いとも容易く彼は折れるだろう。
しかしこの方法を選択すれば最後、後にいくら弁明しても遺恨は残る。二度と元には戻れないほどの深い溝さえ構築されるかもしれない。
それは絶対に避けたい。

カラ松くんが私に手をあげないと約束するように──私は、カラ松くんを傷つけない。




どれくらい経っただろう。時計がないから時間の感覚が分からない。
ベッドに腰掛けてカラ松くんの筋トレを眺めていたが、しばらくすると空腹を感じ始めた様子で、腹部を押さえながら肩を丸めて私の横に並んだ。
密室での閉塞感で冷静な判断力が失われる前に、彼に告げておくことにする。
「私、カラ松くんに嫌な思いはさせないからね」
「…ユーリ?」
「怪我させたり、嫌な気持ちにさせたり、そういう手段でここを出ようとするのは絶対しないから」
カラ松くんは目を大きく見開いた後、優しくその目を細めた。

「なぁユーリ、オレは君がそう思ってくれてるだけでいい。それだけで十分嬉しい。
ユーリが無事にここを出ることの方がよっぽど大事なんだ」

だからこそ、だ。
ここは松野家ではないから、カラ松くんが犠牲になる道理はない。自己犠牲の精神はいらない。
「大丈夫、私が必ずカラ松くんを必ず外に出してあげる」
私がすべきことはそれだけだ。
あとは痛みや苦痛のない妙案さえ浮かべば解決する。再び頭をフル回転させて案を練ろうとした傍らで、カラ松くんが嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ユーリがそう言うと、本当に解決できそうな気がするから不思議だ。
もしオレにできることがあれば言ってくれ、何でも協力する」
「何でも…」

言ったな?

一つ、アイデアが浮かぶ。
苦痛を伴わない方法だが、成功率は五分五分といったところか。失敗すれば代償は大きいが、成功に導く根拠のない自信が私にはあった。
後で思えば、この時点で普段の冷静さは既に失われていたのかもしれない。
「───本当に、私に任せてくれる?」
「策があるのか?」
「成功するは分からないけど…やってみる価値はあると思う」
カラ松くんは躊躇わず、首を縦に振った。
「分かった、ハニーに任せる」


カラ松くんが宣言すると同時に、彼の肩を押してベッドに横たえる。腹部を跨いで馬乗りになってから、私は努めて抑揚のない声でカラ松くんに告げた。
「これはノーカンだから。
この部屋を出たら、全部忘れるって約束して」
「え…えっ!?」
「あと…えっと、抵抗しないでもらえると助かる」
まさか推しを組み敷いて見下ろす日が来るとは、夢にも思わなかった。推しとの過度な接触は死を意味するからだ。気恥ずかしさも相まって、顔が熱い。
「ユーリ、一体──」
その問いには答えず、持ち上げたカラ松くんの右手に口づけると、彼が息を飲むのが分かった。

屈むと、黙っていれば愛嬌のある顔がすぐ目の前にあって、吐息が顔にかかるほど距離が縮まる。親指の腹で彼の乾いた唇をなぞりながら、首筋にキスを落とす。何度かついばむようなキスをして、おもむろに舌を這わせた。
「…ッ、ユーリ…っ、何を」
カラ松くんの両手が私の肩を押し返そうとする。力では到底敵わないが、中断する勇気も仕切り直す強引さも、私は生憎持ち合わせていない。
だから手首を掴んで、ベッドに沈める。抵抗してくれるなよという意図を込めて。

それから彼の右手の指を一本一本くわえて、指の間も丁寧に舐めあげる。その間、視線はずっとカラ松くんから逸らさない。彼がどんな表情をするのか、この手段が成功するかを見極めるためだ。
「ッ…ちょ、待っ…」
抗おうとするも、その力は徐々に弱まるばかりで。眉間に皺を寄せながらも、私を見るその顔はみるみるうちに朱に染まっていく。
「───あ…っ!」
五本目の指を口に含んだところで、一際高い声が上がった。カラ松くんは私の手を振り払い、慌てた様子で両手で自分の口を覆う。

私は思わず内心でほくそ笑んだ。
いける。

「怖かったら、背中につかまっていいから」
どこからどう見ても狼側の発言、正気に戻ったら吐血しそうだ。
今は行為に集中しなければと、文字で書くとゲスの極みでしかない決意を固めて、私は再びカラ松くんに覆いかぶさる。
不用意に言葉を発せば言葉攻めになってしまいそうなので、無言のまま頬を寄せて耳朶に緩く歯を立てた。びくりとカラ松くんの腰が跳ねる。
「ユーリ…ほんとに、待っ…」
「大丈夫、心配しないで」
強張る体と潤んだ瞳、掠れて艶めく声に、ぶっちゃけたぎる。そんな顔を間近で見せつけられて欲情するなという方が土台無理な話だ。
私はカラ松くんの耳の裏や周りにゆっくりと舌を這わせて反応を窺う。
「っ…む、無理…っ」
衝撃を逃がそうとシーツを強く握りしめる彼の様子には、嗜虐心が刺激された。声を出すまいと耐える様子もたまらない。本人には決して言えないけれど。
カラ松くんに触れながら、冷静にタイミングを見計らう。

もういい頃合いだろうか。
「───ッ!」
仕上げとばかりに耳の中に舌をねじ込んだら、声にならない声がカラ松くんから上がった。
つ、と一筋の涙が彼の目尻を伝う。

直後、観音扉が音を立てて開かれた。



「っしゃ、開いた!」
私はカラ松くんの腹の上で渾身のガッツポーズを決める
「……へ?」
「成功したよ。こんな場所からはとっとと脱出しよう」
カラ松くんは顔を赤くしたまま呆然としている。事後みたいな表情止めて、死にたくなる。
「あ…そ、そうか、そうだったな…」
私はカラ松くんからから離れて、ベッド際に座り直す。
「それで、えっと、その…落ち着いたら、言って」
カラ松くんから視線を逸しながら告げると、その意味を理解した彼は、あ、だの、う、だの言葉にならない声を発した後、枕を腹部に抱えて顔を埋めた。傷つけはしなかったが、非常に申し訳ないことをした
でもノーカン、これは不可抗力だからノーカン。
呪文のように私は心の中で唱え続けた。




「あれ、ユーリちゃんも来てたの?」
部屋から出た私たちに軽やかな声をかけてきた人物がいる。チョロ松くんだ。
「…はぁ?」
何がなんだか分からず、メンチ切るような声を出してしまったが、よくよく周りを見回すと、怪しげな機材や実験用具が至るところに置かれている。
デカパン博士の研究所だ。以前カラ松くんと来たことがあって、見覚えがある。
「え、ってことは、あの部屋はデカパンさんが作ったってこと?」
「何の話?
あ、カラ松も勝手にウロウロするなよ、どんな危ない薬があるか分かったもんじゃないんだからな」
チョロ松くんは溜息をつきながらカラ松くんに言う。
「あ、ああ…すまない」
「何だよボーッとして。顔赤いぞ、熱でもある?」
「いやっ、何も…っ、何でもないぞチョロ松!」
「ユーリちゃんはユーリちゃんで夜叉みたいな物騒な顔してるし、ほんと何なんだよ」

彼が訝しんでいる間に、部屋の奥からホエホエと独特な声を発しながら、研究所の主がやって来る。その手には、怪しげな液体の入った小瓶。
「頼まれた薬を持ってきただス。
ホエホエ、ユーリちゃんも来てただスか、こんにちはだス」
「こんにちは…って、ちょっと博士!あの箱は博士が作ったの!?」
「何のことだスか?」
「四角い箱の中に閉じ込めたり、指示されたことしないと出られない部屋のやつ!」
ああ、とデカパン博士は腑に落ちた様子。チョロ松くんはきょとんとしている。
「お蔵入りになったサンプルのことだスな。
部屋の端に置いていたはずなんだスが、触ったんだスね?」
「え…オレ!?」
カラ松くんが唖然とする。
「まぁ覚えていないのも無理はないだス。
あれは、触った人間を箱の中に閉じ込めて実際に体験させるもの。精神崩壊や重篤な危機を回避するために制限時間も設けているんだスが、より本格的にするために、箱に触る一時間ほど前の記憶も消しているだス」
「何それ怖い」
記憶操作までやらかすのか、このパンツは。
「で、でもハニーは家にいたはずだ!何で巻き込まれたんだ?」
そうだ。たまたま今日が休日だから大きな問題にならなかったが、勤務中だったらどうしてくれる。バックレ疑惑浮上か事案だぞ。

「触った人物が、その時頭に思い浮かべていた人物を呼び出すようになってるからだスな」

カラ松くんの顔が一瞬で赤く染まる。
「な、何を…っ」
彼がしどろもどろになっているのを無視して、チョロ松くんが小声で私に尋ねる。
「ねぇユーリちゃん、うちのカラ松が何かやらかした?」
「別に。二次創作でよくある、○○しないと出られない部屋を体験させられただけだよ」
「おい待て最高じゃねぇか」
チョロ松くんのお口が悪い。
「で、何?ああいうのって、男女の関係性を深めるために使われるやつでしょ?
ってことは、カラ松とユーリちゃんの間にそういうことがあったって解釈になるよ?あいつだけちゃっかりいい思いしたってこと?」
息継ぎなしに畳み掛けてくるチョロ松くん。さすがその界隈に精通しているだけあって詳しい。
「おいカラ松、お前ユーリちゃんに手出した?」
突然話を振られて、カラ松くんはあからさまな動揺を見せる。こういう時に隠し事ができない素直さは裏目に出そうだ。
「だ、出してない!ゴッドに誓って何もしてないぞ──オレは!
お前はもう黙っとけ。

「カラ松くんは私に何もしてないよ。
泣いたら出られるって指示だったから、カラ松くんに泣いてもらっただけ」
「…それならいいんだけど。でも普通はキスするとか愛を叫ぶとか、そういうもんじゃないの?二次創作舐めてんの?
「あれは興味本位で作ってみただけだス。脱出後の人間関係に支障が出ないよう、緩い指示しか入れてないだスよ」

十分遺恨を残しそうな命令を引いた気がするが?何なの、大当たりなの?

そもそも研究所で変な物触るなよ馬鹿かと、チョロ松くんがカラ松くんに説教をしている間に、私はデカパン博士に小声で確認を取る。
「ねぇ、記憶操作できるくらいなら、今日あったことを忘れる薬もあるんでしょ?とっとと出しやがれください
「それなら心配ないだス。
一晩寝たら、箱の中であったことは全て記憶から消去されるだス」
「…そうなんだ」
私は胸を撫で下ろす。だとしたら、今日の出来事は夢だ、長くてリアルな夢を見ていたに過ぎない。
このことはカラ松くんには告げないことにする。万が一にも彼が、今日のことを忘れないようにと記録を残したら厄介だから。
明日目が覚めたら、私たちは元に戻るのだ。何もなかった。関係性を変えてしまいかねない出来事なんて、何一つ起こらなかった。

ターニングポイントは───まだ来てはいけない。


だからこれは、「あったかもしれない」事件の話。

フラグを折る男

仕事を終え、いつもと同じ道を通って自宅へ帰る途中のこと。
変わらぬ景色、すれ違う見知らぬ他人、ぼんやりと晩ごはんの献立を思案する自分自身、全てが単調な日常の繰り返しに思えた。
歩いているだけで汗ばむ真夏日の夕方、日が暮れ始めているとはいえ、外を歩くと自然と汗が体を伝って不快だ。

その時、背後を振り返ったことに深い理由はなかったと思う。
誰かに呼ばれたような、繋がれた紐を引かれたような、しかし全て気のせいの一言で済んでしまうような、何とも表現し難い感覚だった。
視線の先に、見慣れた姿が映る───カラ松くんだ。
自然と頬の筋肉が緩む。忙しなく過ぎていく日常の中で、彼は私にとって癒やしとも呼べる存在だったからだ。何せ推しだから。
推しはいいぞ、乾いた大地を潤すオアシスだ。推しがいる人生は素晴らしい。

カラ松くんは両手を膝につき、肩で息をしている。その正面には、自転車から降りて彼を気遣う様子の若い女性。フレアスカートの似合う可愛い子だ。
そして彼が彼女に差し出す右手の中には、手のひらサイズの小さな犬のぬいぐるみ。外れたチェーンがぬいぐるみの頭部からぶら下がっているところを見るに、走行中に外れて落ちたのだろう。
「あ、ありがとうございます…っ」
女性は両手でぬいぐるみを受け取る。大切なものを扱うかのように。
「色褪せるくらいずっとつけているんだ、よっぽど大切なものだろうと思って…間に合って良かった」
腕で額の汗を拭いながら、カラ松くんは安堵の笑みを浮かべる。今日も推しは可愛い。
「はい…すごく大事なものなんです。何度も呼び止めてくれてたのに、気付かなくてごめんなさい」
「キュートなレディのためなら、フルマラソンの距離でも喜んで走りきってみせるさ。女性に優しくするのは男として当然のことだ」
気障ったらしい台詞も健在で、元気そうで何より。
持ち主の女性がカラ松くんに礼を言ってさよならかと思いきや、彼女はキーホルダーをリュックにつけ直した後、カラ松くんに向き直る。
「あ、あの…私のせいですごく汗かいちゃったし、お礼に近くのお店で冷たいものでも…」

フラグが立った。

貴重な分岐点だ。イエスかノーか、選択は一つしかない。ゆめゆめ間違えるなよ。
私は一人手に汗握る。
しかしカラ松くんは何を思ったか、首を横に振った。
「君の貴重な時間を少し貰えたことと、そのスマイルで十分お釣りが来る」
砂を吐く台詞いただきました、ありがとうございまーす。
いやいや違うだろ、同性の私から見ても可愛いと思う女の子からお茶に誘われて断るなんて、賢者モードか何かなのか
「それに、今から用事があるんだ」
タイミングが悪かったのか。それなら仕方ないと一人納得する私。
けれど女性は、はいそうですかと引き下がらない。
「それじゃ、今度改めてお礼をさせてください。それで、あの…連絡先を教えてもらえませんか?」
「オレは、可憐なヴィーナスの落とし物を拾えた光栄な男、というだけさ。だから気にせずに───あ」
顔を上げたカラ松くんと、目が合った。

「ユーリ!」

満面の笑みが顔いっぱいに広がって、カラ松くんが手を振ってくる。
「次は落ちないよう気をつけな、レディ」
「あ、あの」
彼に差し伸べようとした手は宙に浮いたまま、彼女は淋しげに視線を地面に落とした。去っていく自転車の後ろ姿を見つめながら、私は何とも言えない気持ちになる。

カラ松くんは真っ直ぐに駆け寄ってきて、私を見て一層喜びを溢れさせる。
「仕事帰りか?」
「う、うん。今ちょうど通りかかって」
盗み見してましたなんて口が裂けても言えない。
「フッ、この広い世界でハニーと巡り合うとは何という偶然、いやこれは間違いなくデスティニー。ハニーの小指に結ばれた赤い糸が、オレをこの地に引き寄せたに違いない」
一通りポエムを吐いてから、私の服装を見て続けた。
「仕事帰りのユーリは相変わらず格好いいな。いつも以上に大人っぽく見えて、眩しいくらいだ」
ギャップ萌えさせるコンボは卑怯だ。息をするように褒めてくるの止めて。
「ハニーさえ良ければ、どこかで軽く食べて帰らないか?」
え、と思わず声が出た。
「カラ松くん、用事は…?」
「用事?万年暇を持て余したニートに、急を要する用事なんてあるわけないじゃないか
胸を張るな。
「…そっか。用事がないなら、定食でも食べて行こうか。行きつけの所があるんだ」
すぐ近くだからと、私はカラ松くんを先導するように歩く。

ふと、彼がベッキベキに折ったフラグについて思いを馳せる。
松野家兄弟間におけるカラ松くんのヒエラルキーが底辺のため、彼自身自己評価が低くなりがちだけれど、今の女性然り、真摯な眼差しと豊富な語彙力で好意を告げられて、嬉しく思う異性も一定数いるはずだ。
大袈裟な演技の鬱陶しさを除けば、見目も決して悪くない。
ということはやはり、痛い言動とウザさが問題か。今しがたのように、ポエムの量を控えめにすれば、人によっては好意的に受け取る可能性もある。

「テレビの星座占いで、今日は双子座が一位だったんだ」
カラ松くんが不意に話しかけてくるので、私は思考を中断する。
「『思わぬ出会いがあるでしょう』、これはユーリと会うことを示していたんだな」
「すごいね、当たったわけだ」
「さっき目が合っただろう?
あの時、人混みの中でユーリだけが輝いて見えたんだ…会えたらいいなと思ってたから、夢か幻だと思った。
幻でも十分だったのに、こうして隣にいるから、嬉しいのを通り越して正直…その、どうしたらいいのか悩むな」
口説き文句が増し増しで来た。
照れる仕草の色っぽさに、今週これをおかずに生きていけそうな気さえする。
神よ、推しに幸あれ。




それから少し経った、休日の夜。
個人経営の居酒屋にカラ松くんとやって来た。いくつかのカウンター席とテーブル席が三つほどの、夫婦とアルバイトの青年一人で回している小さな店だ。
席は半分以上が埋まっていて、私たちは入口に近いテーブル席に通される。
先に入店したカラ松くんは通路側の椅子を引き、自然と私を壁側へと誘導する。上座を譲る所作も、いつの間にか自然になった。どんな時でも、彼は必ず下座に座る。
「ハニーは明日も休みだったか?」
「そうだよ」
「じゃ、今晩はゆっくり飲めるな。帰りは送っていくから」
さすがに酩酊するまでは飲まないよと笑って返して、私たちはそれぞれアルコールと料理を注文する。

「ハニーはいつも本当にオシャレだな」
ジョッキのビールを一杯飲み干した頃、カラ松くんが唐突に切り出したので、口に含んでいただし巻き卵を吹き出しかけた。
「どうしたの、急に」
「最初に出会った日から今日までずっと、オシャレの洗練度が更新され続けてるじゃないか。今日だって、服装からアクセサリーに至るまで人目を引く上に統一感があって、しかもトレンドまで意識してる。女性ファッション誌の表紙飾るかコラム連載持てるレベルじゃないか」
「ん、んん!?」
おいおい褒めすぎた、構わんもっとやれ
お世辞と分かっていても、真っ直ぐな瞳でそう言われて悪い気はしない。

「そんなユーリの隣を歩けるオレは役得だな」

もういい、今日の支払いは私が持とう。
鞄から財布を取り出してカラ松くんの顔面に投げつけたい。何なら財布ごと持っていけ。
「そ、そうかな…カラ松くんだって、前よりもっとオシャレになってきたよ。
私があげた服も着回してくれて、嬉しいな」
今日のカラ松くんは、紺のポロシャツにベージュのクロップドパンツという爽やかな出で立ちだ。ポロシャツの襟ぐりが深いため、ボタンを外して肌を露出させた姿からは、程よい色気も漂う。今日もありがとうございます。
「ユーリは…こういう服が好きなんだろう?」
「カラ松くんに似合うと思うからね。素材いいんだから、服で化けるよ」
「───だから、さ」
小さく答えたカラ松くんの耳が赤く染まっていく。
「いや、その…世のカラ松ガールたちの期待を裏切らないためにも、見惚れるくらいの美のカリスマである必要があるからな」
右手を額に当てて、悩ましげなポーズを決めるカラ松くん。そうだねーと私は適当に返事をしておく。



会話の途中で、不意にカラ松くんが立ち上がった。
テーブルにはほとんど空になった二杯目のジョッキと、食べかけの料理がいくつか並んでいる。
「すまないハニー、煙草が切れてた」
珍しいなと思った。なぜなら彼は、私の目の前で煙草を吸ったことがなく、言及することさえほとんどなかったからだ。たまに衣服から煙草の臭いがするから、嗜むことは知っていたけれど。
「外の自販機で買ってきてもいいか?すぐ戻る」
「暗いから気をつけてね」
「ついでに熱燗注文しておいてくれ」
店を出るカラ松くんの背中を見送ってから、頼まれた熱燗ついでに何か注文しようと思い、テーブル端に置いていたメニューに手を伸ばして、はたと気付く。

カラ松くんの財布がテーブルに置きっぱなしだ。

今ならまだ声の届く範囲にいるかもしれない。そう思って、入口のガラス戸を開けて外へ出る。
クーラーの効いた涼しい室内から一転、生温い微風が肌を撫でた。
店は、商店街の一角にある。目の前は車一台が何とか通れるといった道幅の道路。街灯が少なく、シャッターが下りた店もあるため、夜間は薄暗い。
そんな中、見慣れたシルエットが数メートル先に見えたから、財布を握る手を持ち上げて声をかける。
「カラ松く──」
だが彼のすぐ側で他の影が動くので、私は咄嗟に口を噤んだ。

「嫌がるレディを強引にエスコートするのは、紳士的じゃないな」

カラ松くんが二つの影の間に割って入る。彼の台詞から察するに、強引なナンパを仲裁しているようだった。
私は慌てて電柱の影に隠れる。
「テメェには関係ねぇだろ!」
怒鳴り声の主は酔っているようだ。
「関係なくても、見過ごすわけにはいかないだろ」
「うっせぇ、そこ退け!」
男の手がカラ松くんの胸元に伸びてくるが、彼は素早く体を捻り一撃を避けた。空振りした腕を掴み、相手の体を回転させて背中で捩じ上げる。
顔色一つ変えず、何でもないことのように。
「レディに強引なことをしても許されるのは、嫌がるフリの時だけだ。それ以上この人につきまとうなら、オレが相手をしよう」
やだ、イケメン。って、私がときめいてどうする。
酔っぱらいは大きく舌打ちをした後、捨て台詞を吐いて千鳥足で逃げていく。カラ松くんに庇われていた女性は、不安げに彼を見つめていた。

「大丈夫か?」
彼女を振り返り、カラ松くんが声をかける。ナンパ男に向けていた抑揚のない低音とは違う、優しい声音で。紳士が降臨、拝み倒したい。
「あの…ありがとうございました」
「この辺は人通りも多くないし、特に君のような美しいレディのひとり歩きは危険だな」
美しいと聞いて、私は身を乗り出した。助けた女性は、化粧映えする二十代半ばの美女だ。服装は半袖ブラウスとタイトスカート、仕事帰りのOLといったその格好からはスタイルの良さも窺えた。
「怖かった…」
「もう戻ってくることはないさ。行き先は?駅?
ああ、それならすぐそこだな」
「あ、あの…助けてもらったお礼を、させてもらえませんか?」

またフラグ来た。

前回は可愛い子だったが、今度はカラ松くん好みの美女だ。しかも今度は、恐怖から救ってくれたヒーローという好印象しか抱いていない。言動も全てイケメンのそれだった。据え膳食わぬは何とやら。

「すまない、連れを待たせてるんだ」

カラ松くんはにべもなく彼女の誘いを断る。
ああ、そうだった。煙草を買いに行くという理由での離席だったのだ。何というタイミングの悪さ。
───本当に、そんな理由だったのだろうか。
店の入口は上半分は透明なガラス張りで、カラ松くんは外の様子が自然と視界に入る席に座っていた。ならば、これは。
「駅まで行くなら、ここから見届けよう」
「でも…」

「彼女に誤解されるようなことはしたくない」

カラ松くんは揺るがない。
そんな風に思ってくれているのに、据え膳とか心が汚れたこと思ってすみませんでした。
カラ松くんの『彼女』という表現を誤解して受け取ったらしいその女性は、視線を地面に落として悲しげに微笑んだ。
頭を下げて改めて礼を述べてから、駅へと向かうためにカラ松くんに背を向ける。彼は約束通り、彼女の姿が見えなくなるまでその背中を見送っていた。
私は、音を立てないよう店内に戻る。そして熱燗を頼み忘れていたことに気付いて、慌てて店員を呼んだ。




少し経って、カラ松くんが席に戻ってきた。
テーブルに置き忘れた財布を目に留めて、苦笑する。
「オレともあろう者が、煙草を買いに行ったはいいが財布を忘れてたぜ」
「もう一回買いに行く?」
意地悪な問いかけだったか。カラ松くんは首を振って、席につく。
「いや、せっかくこうしてユーリといるのに、煙草を買いに行く時間がもったいない」
言いながら触れた熱燗のお猪口がまだ熱いことに、カラ松くんは不思議に思ったようだった。
「ユーリ…」

「あ、うん」
誤魔化すか、正直に話すか。意味のない声を出して時間を稼ぐ一秒の間に、脳を目まぐるしくフル回転させる。

「カラ松ガールは、いいの?」
「見てたのか…」
「お財布持っていこうとして。見るつもりなかったんだけど…」
カラ松くんは目を細めて笑う。
「彼女はカラ松ガールなんかじゃないさ。酔っぱらいに絡まれて困ってたレディだ」
お猪口に酒を注ぎながら、カラ松くんは答えた。
いつの間にか客は増えて、店内の席は九割埋まっている。高らかな笑い声や賑やかな会話が混じり合い、雑音として耳を突き抜ける。
「本気で言ってる?」
「へ?」
「助けた後にカラ松ガールになってたのに?
この前の、キーホルダー拾ってあげた子もそうだよ。その目は節穴か?ブラックホールか?
お猪口から日本酒が零れ落ちそうになり、カラ松くんが慌てて一気に煽る。
気付いていなかったのか、意識していなかったのか、いずれにせよ数日前と合わせてフラグを二本真っ二つにしたのは紛れもない事実だ。
「フッ、そうか、ついに時代がオレの魅力に追いついたか。
シャイなカラ松ガールたちには、オレからの歩み寄りが必要だったんだな」
まぁあながち間違ってはいない
そうかぁ、そうだったのかぁと悦に入るカラ松くんの様子が面白くてしばらく黙って眺めていたけれど、アルコールによる酔いも手伝ってか、口が滑る。

「でも、カラ松くんに彼女ができるのは嫌だなぁ」
カラ松くんの眉がピクリと動く。
「ん、んん?それはどういう意味かなハニー?」
彼はテーブルの上で両手を組んで平静を装っているが、頬が朱に染まっていく。
「こうして二人で飲みに行ったり、遊びに行ったりできなくなるでしょ?」
「…うん、そうなんだ。
大勢のカラ松ガールズに囲まれるより、ハニーと二人でこうして過ごす方がよっぽど楽しいから困るんだよな」
私に話してはいるが、ほとんど独白だった。
「誰かに好意を持ってもらえるのは嬉しい。でも今はもう、誰でもいいわけじゃない」
ちびちびと日本酒で口を湿らせながら、カラ松くんが言う。

「好きな相手に好きになってもらいたいなんて、虫のいい話なんだろうか」

カラ松くんの恋愛観を聞くのは初めてだ。
いつものように茶化すのは失礼な気がしたから、私も嘘偽りなく本心を答える。
「カラ松くんだけじゃない、私だって同じように思うよ。好きな人に好きになってもらいたいって、普通のことだと思う」
「…そういうもの、だよな。今まで経験がないから、どういう状態が普通なのかよく分からないんだ」
ブラザーたちには聞けないし、と自嘲するように笑う。
「自分だけが想っているのは苦しいな」
「うん」
「でも同時に楽しくもある…見たことのない世界が広がっていて、すごく綺麗なんだ」
遠くを見つめるカラ松くんの視線の先には、どんな情景が広がっているのだろう。頬を上気させて嬉しそうに微笑む姿からは、恋煩いの苦悩や悲壮感といったマイナスの感情はまるで感じられない。

「ユーリにも同じ景色を見せたいくらいだ」
私はいつも願っている。
カラ松くんの行く未来がどうか幸福に満ちたものであるように、と。





熱燗が二本空になった時には、カラ松くんの目は完全に据わっていた。酔っぱらい爆誕である。
他の兄弟と違って酒に強くはないと聞いていたが、外で酔うまで飲むのは想定外だった。放置して帰りたい。
他愛ない世間話が一段落した時、無言の時間が私とカラ松くんに訪れた。ガヤガヤとした雑音は途切れなく響く中で、私は料理に手を伸ばし、カラ松くんは水の入ったコップを両手で包む。

「なぁ、ユーリ───デートをしないか?」

静寂を破ったのはカラ松くんだった。
問われた真意を測りかねて、私は何でもないことのように返事をする。
「いいよ、今度は何して遊ぶ?」
その回答は彼の望むものではなかったらしい、カラ松くんはゆるゆるとかぶりを振った。
「違うんだ。二人で会うのは同じでも、視点を変えてみてくれないか?
デートの相手というフィルターを通して、オレを見てほしい」
ガラスコップの中で溶けていく氷を見つめながら。私と視線は合わせない。
酩酊による戯言ならば聞き流せばいい。ただ、そうでないなら?
「そういう話は、お酒を飲んでない時にしようね」
いずれにせよ、答えに窮する。酒を飲んで酔っている、冷静な判断が下せるとはお世辞にも言い難い状況だ。
「シラフの時じゃ言えないから、今言ってるんだ」
カラ松くんは畳み掛けてくる。
「逃げ道を用意してから挑むのは、ズルいな」
「ああ、ほんとにな…」
「お酒を飲んでるのはカラ松くんだけじゃなくて…私も、だからさ」
アルコールのせいにして逃げられるのは、何も彼だけではない。
ああ、とカラ松くんは頷いた。
熱に浮かされるような、眩暈がするような、仮にこの先何かを口走ったとしても、それは全部酒のせい。彼が本来望む真心には届かない。

「それでもいいんだ」

だったら、言葉も感情も、嘘も真実も全部混ぜてドロドロに溶かしてしまえばいい。

「…分かった、いいよ。カラ松くんが今の言葉を覚えていられたら、ね」

右手の小指が差し出される。
骨太で、繊細な指。
約束を交わす儀式に何の意味があるのか。契約の証はどこにもない、ただの行為に過ぎない。

けれど私たちは指を重ねた。

静かに、愉悦を感じるかのようにカラ松くんが頬を染め上げる。
「ありがとう、ユーリ」
交わした小指の温もりを離すまいと、私たちは指切りをしたまま動かない。
「…約束だ」
満足気に艶やかな笑みを浮かべた次の瞬間、カラ松くんは寝落ちした
それはもう見事な、意識を失うと表現しても過言ではないくらい、いきなりテーブルに突伏してのログアウト
すっげぇいい笑顔で爆睡するから、とりあえず無言で写真に収めておく。

とにもかくにも、新たなフラグが立った。
さて、このフラグを立てたのは、私とカラ松くん果たしてどちらなのだろう。




寝落ちしたカラ松くんは呼んでも叩いても起きる気配がないので、トド松くんに連絡を取り迎えを要請したら、なぜか五人全員でやって来た
「ごめんねユーリちゃん、兄さんたちに電話聞かれちゃって…迎えに行くって言ったらついてくるって聞かなくてさ」
「土曜の夜はこれから始まるんだよ、トド松。
てか、女の子とのデート中に寝落ちするとか、カラ松も腹が据わってるねぇ」
呆れたように溜息を吐きながら、おそ松くんがカラ松くんを背負う。
「これから僕らカラオケ行こうかって話になってるんだけど、ユーリちゃんも行かない?」
「おそ松兄さんが競馬で勝ったから、奢りだって」
チョロ松くんと一松くんに誘われる。
明日の予定も特にないし、酔いを覚ますのと、消化不良の発散にはちょうどいいかもしれない。
「行く!」
半時間ぶりに立ち上がったら、足元がふらついた。咄嗟にテーブルに手をついて事なきを得る。
正常な判断が下せるくらい平常心のつもりだったが、やはり酔いが回っているようだ。だとしたら先ほどの返事もきっと、気の迷いに違いない。


カラオケに興じて二時間ほどが経った頃、ソファに転がされていたカラ松くんが目を覚ます。
酔っ払った一松くんと十四松くんがしっとりしたバラードを艶っぽい仕草で歌い上げているところへの覚醒だったから、十秒ほど硬直したまま瞼一つ動かさなかった。気持ちは分かる。
それから辺りを見回して私を見つけると、親を見つけた迷子のような安堵に満ちた顔をして駆け寄ってくる。
「ユーリ…その、オレ…」
「途中で寝落ちしちゃったんだよ、覚えてる?」
「…あー、やはりそうか。熱燗二本目が少なくなって、次何頼むかとかいうところまでは覚えてるんだが。
ハニーがブラザーたちを呼んでくれたのか?」
あ?今何つった?
そうかー、そこかー、それたぶんデートの話よりだいぶ前だなー。うふふー。

フラグ三本目、終了のお知らせ。

「はい、カラ松くんアウトー」
無機質な声音で私は告げる。デデーン、と年末恒例長時間番組の某効果音がどこからともなく聞こえてきた。
「十四松くん、カラ松くんにタイキック
「いいよー」
「え、ちょっ、は、ハニー何の冗談」
「兄さん、歯ぁ食いしばって
「じ、十四ま───いっだあああぁああぁぁぁッ!」
カラ松くんの断末魔がカラオケルームに轟いた。

カラ松くんには、フラグブレイカーという称号を授けよう。
破壊なくして創造はあり得ないというが、いくら何でも破壊しすぎだ。可愛い女の子とイチャイチャしてリア充になれる輝かしい未来が目と鼻の先で、破壊と創造を繰り返して何一つ得ないなんてお前は神か。暇を持て余した神々の遊びか。

しかし、条件自体はまだ生きている。
デートを了承するにあたり提示したのは、『カラ松くんが私をデートに誘ったことを覚えていること』だ。つまり、私が彼に思い出させれば、その時点で有効となる。

なんて。

だからこのフラグはまだ、折られてはいない。

夏だ海だビールが美味い(後)

「突然ですが、今からビーチフラッグスしまーす!」
海の家で昼食を済ませ、各々がレジャーシートの上で休憩がてら好き勝手過ごしていた時のことだ。何を思ったか突然おそ松くんが声を上げた。
果てしなくデジャヴ。松野家初訪問時に、同じような展開があったではないか。私の第六感が今すぐ逃げろと警鐘を鳴らす。
それはカラ松くんも同様だったらしく、咄嗟に私を庇うように片手を広げた。
「へへ、ユーリちゃんとトト子ちゃんは不参加だし安心して。俺ら六つ子によるデスマッチだから」
不穏なワードが飛び出したが大丈夫なのか。
「ルールは簡単、二十メートル先にある空のペットボトルを取った奴が優勝。誰かが取るまでは凶器の使用以外は何でもあり。デッドオアアライブ、命がけのゲームだ」
「優勝したら何か賞金でもあんの?
おれ暑いの無理だし、不戦敗でもいいんだけど…」

「トト子ちゃんとユーリちゃんの二人からキスしてもらえる」

「あ、参加します」
一松くん意見覆すの早すぎるだろ。
そっかぁ、それなら出るしかないかなぁ、とそれぞれが『致し方なし』という謎の空気を漂わせながらウォーミングアップに入る。
「ちょ、ちょっと待ておそ松。
ゲームをするのは構わないが、ハニーとトト子ちゃんの了承も得ずに勝手に決めるのは良くないんじゃないか」
カラ松くんの背中で、私はうんうんと深く頷く。
こちらには、六つ子といかなる既成事実も作りたくないと豪語しているトト子ちゃんもいるのだ。勝手に賞品にされてたまるか。

「トト子、別にいいよ」

「は?」
まさかの、最後の砦が裏切ってきた。もう誰も信じられない。
「と、トト子ちゃん!?何言って…」
「ただのキスでしょ?
その代わり、ゲーム終わったらトト子とユーリちゃんにかき氷奢ってよね」
何でもないことのように言うので、私は耳を疑った。

トト子ちゃんが提示した褒美の要求を飲むおそ松くん。かき氷を奢る対象に私も入っているせいか、二人とも承諾したものと解釈して準備を進めていく。
「で、カラ松はどうすんの?不参加?」
「…いや、出る」
おそ松くんの問いに不承不承といった体でカラ松くんは答え、それから私に向き直った。
「ハニーの唇は誰にも奪わせないから安心してくれ!」
「え、いや私そもそも──」
賞品提供するなんて一言も言ってない。
しかし私が言い終わらないうちに、カラ松くんはおそ松くんが木の枝でラインを引いているスタート地点へと赴いた。
この事態の収拾をどうつけるつもりなのかとトト子ちゃんを横目で見やると、彼女は私の視線に気が付いて、それから───




勝負が行われるのは、ビーチフラッグスにおあつらえきな平坦な砂浜。おそ松くんがどこからともなく取り出したメジャーで距離を計測し、ゴール地点にペットボトルが置かれる。
さて準備完了というところで、その様子を見ていたトド松くんがおもむろに砂浜の上に膝をつく。
「念のため、砂浜に障害物かないかチェックさせてもらうよ、おそ松兄さん」
「運も勝利に必要な要素なんだけど…っていうか、トッティもしかして俺がお前らを蹴落とす罠でも仕掛けてると思ってる?
「───まさか。砂浜の上を走るんだから、ガラス片でもあったら大変じゃん」
私は見た、トド松くんが一瞬真顔だったのを
「走力と瞬発力、そして腕力、ビーチフラッグスに必要とされるであろう全てのスキルがトップクラスに秀でているぼくが圧倒的有利だよね。おそ松兄さん短絡的すぎ。失策に気付いてない?いやむしろこれも計算のうちなのか?」
十四松くんが抑揚のない声で口早に独白する。侮蔑とも見える視線をおそ松くんに向けながら。
「でもいいやー、ユーリちゃんぼく頑張るね!」
しかし次の瞬間には、いつもの無邪気な笑顔で私ににっこりと微笑んだ。二面性のある男、それが松野十四松。

五人がスタート地点に並ぶ。脳筋二名にはプラス五メートルのハンデが設けられた。
「…あれ、一松は?」
チョロ松くんがきょろきょろと辺りを見回す。そういえばビーチフラッグスへの参戦を決めてから姿を見ていない。
不在なら棄権にするかとおそ松くんが思案し始めたところで、海水浴場入口の方角から一松くんが姿を現した。
「ごめんごめん、トイレ行ってた」
「遅いよいちまっちゃん。でもこれで六人揃ったな。俺が合図したら一斉にスタートだぞ、準備はいいか」
世紀の馬鹿六人による下心満載のビーチフラッグスの幕が切って落とされようとしていた。とりあえず私は、録画ボタンを押したスマホを構えておく。
「よーい」
全員、ゴールの反対側を向いてうつ伏せになる。

「ドン!」

各人、一斉に勢いよく体勢を変えて砂浜を飛び出した───ように見えた。
初っ端から砂浜に足を取られて体勢を崩す者、転倒する者多数続出。
そりゃそうだ、ビーチフラッグスを甘く見てはいけない。元々はライフセーバーが行なう、走力や反射神経を鍛えるためのスポーツだ。二十メートルという一見短い距離だが、平坦な地面とは異なり、きめ細やかな粒子でできた砂浜は、走者の足を容赦なく引きずり込もうとする。
そんな中、カラ松くんと十四松くんは比較的早く立ち直り、五メートルというハンデをあっさりとクリアしてスタート地点に並ぶ。

「そうはいくかっ!」
しかし刹那、背後を振り返ったおそ松くんが彼ら二人に向けて砂を撒き、目潰しを仕掛けた。
「うわっ!お、おそ松お前…ッ」
「わー、兄さんひどい!」
効果は絶大で、砂を撒かれた二人はその場に崩れ落ちる。
「はははっ、ゴリラ二匹の動きは封じた!あとは引きこもりとウンチだな覚悟しろよ!」
「不名誉な略し方すんじゃねぇクソ長男!運動音痴と正しい名称を使え!」
チョロ松くんが吠える。
「へっ、テメェらの走りなんざ止まって見て───いっでええぇえぇえぇッ!」
このまま軽やかなに駆け抜けるかと思ったおそ松くんが、不意に片足を抱えて飛び上がった。
その様子を見て、トド松くんが嘲笑するように高らかに笑った。トッティどうした。
「兄さんがゴリラたちを封じて優位に立とうとするのは、とうにお見通しさ。いつまでも可愛い末っ子だと思うなよ!」
「トド松お前…っ、金平糖をまきびし代わりに…!?」
「ごめんねおそ松兄さん。
チョロ松兄さんと一松兄さんも、足元にはよくよく気をつけることだね
勝つためには手段を選ばない、末っ子の本気を見た
名指しされたチョロ松くんと一松くんは、体を硬直させて立ち止まる。砂浜に埋もれた金平糖は、いわば地雷だ。どこにあるかは、仕掛けた本人のみぞ知る。
この勝負、トド松くんが優勢か。

不意に、一松くんが左手の親指と人差し指を口にくわえた。高音の笛の音が辺りに鳴り響く。
「な、何?」
思わずシートから立ち上がって私は様子を窺う。
直後、私の視界に映ったのは、どこからともなく現れた野良猫たちが、トド松くんに頭突きを食らわせる姿だった。それを見てニヤリとほくそ笑む一松くん、果てしなく邪悪な面構えだ。
「愚かな奴…おれが何も準備せず、こんな不利なゲームに挑むとでも思った?」
ひょっとして一松くん、ゲーム開始までしばらく離席している間に、海水浴場付近の野良猫たちを手懐けていた、だと?
「まさか、そんな…」
信じられないと呟けば、一松くんは私の方を振り返ってヒヒッと笑った。

私が信じられないのは、彼らの計画性の高さや人間離れした特殊スキルに関してではなく、ビーチフラッグスやるだけなのに本気出しすぎな大人気なさなのだけれど。

その執念を他のことに向けたらきっと大成するのに。
まぁそれをしないからニートなんだなと一人納得していたら、視界の隅でカラ松くんがゆらりと立ち上がるのが映った。
「カラ松くん!」
「君が心配することは何もないさ、ユーリ」
片目はまだ完全には開かないらしく、眉間には深い皺が刻まれている。既に一位との距離はだいぶ開いていて、ここから挽回の可能性は限りなく低い。
しかし彼は静かに地面を蹴った。その後ろを、時を同じくして復活した十四松くんが無言で続く。

おそ松くんとトド松くんは負傷により戦線離脱。
現在一位候補は無傷のチョロ松くんと一松くんだが、運動神経と体力はチョロ松くんが優勢のようで、彼が数メートル先を行く。
そこに必死の追い上げを見せるのがカラ松くんだ。あっという間に一松くんを抜き、金平糖を回避するためトド松くんルートを通り、チョロ松くんに並ぶ。
あまりに懸命な彼の表情に、かける言葉が見つからない。
ペットボトルはもはや目と鼻の先。
飛び込んで手を伸ばした両者。
勝者は───

チョロ松くんだった。

「いよっしゃあああぁあぁああぁぁっ!」
チョロ松くんの命の叫びが轟く。
ほんの数センチ届かなかったカラ松くんは、言葉を失いその場に崩れ落ちた。私は彼に駆け寄る。何と声をかければいいのか。
「ユーリ…すまない、必ず守ると約束したのに…」
「あんなにハンデあったのに二位なんてすごいよ、カラ松くん。健闘したね」
「一位になれなきゃ意味ないじゃないか…」
ああ、と私の口から吐息が漏れる。
「そのことなんだけど」
けれど、私の言葉は最後まで紡がれることはなかった。
「ユーリちゃん、さっさと終わらせてかき氷食べようよ」
トト子ちゃんに呼ばれたからだ。
カラ松くんは何とも言えない苦悶の表情を浮かべて、片手を私の方に伸ばそうとする。しかしトト子ちゃんがぐいっと私の腕を強く引いたたため、彼の手は虚空をつかんだ。

砂だらけになった仏頂面の敗者たちに囲まれて、チョロ松くんは一人ご満悦だ。
「チョロ松くん、優勝おめでとう!」
両の手のひらを合わせて頬に添えた、愛らしいポーズを決めるトト子ちゃん。
「トト子とユーリちゃんからプレゼント贈呈しまーす」
私たちはチョロ松くんにキスをする。

キスはキスでも、投げキッスを。

「頑張ったねー、チョロ松くんすっごく格好良かったよ」
「うんうん、ドキッとしちゃった」
それから二人で、チョロ松くんの手を両手でしっかりと握り、頬を赤く染めたりなんかしながら大袈裟に持ち上げる。憎からず思っている異性を両サイドに侍らせて、悪い気はしないのだろう、チョロ松くんの顔が緩む。
「そ、そうかな…いや、そうだよね。つい大人気なく本気出しちゃったなぁ」

うわぁ、チョロい。

ゲーム開始前、私が一抹の不安を覚えていた時、トト子ちゃんは耳元で囁くように言った。おそ松くんはどこにキスするとは明言しなかったよ、と。
だから、その事実に彼らが気付く前に了承してゲームを開始させた。まるで女っ気のない初心な連中のことだから、好意のあるフリをして手でも握れば確実にオチる。トト子ちゃんはそう踏んだのだ。そしてその読みは的中した。
また、万一敗者の誰かが気付いたとしても、口にすればそれは己の不利益にしかならないから、決して声には出さないだろう、とも。さすがトト子様、伊達に六つ子との付き合いが長いわけではない。

「優勝できて良かったぁ、僕もうしばらく手洗わない
「オレが言うのも何だが…それでいいのか、チョロ松」
「シッ、カラ松兄さん黙って!」
カラ松くんがぽつりと馬鹿正直に本音を零したが、トド松くんの両手で口を塞がれる。
何にせよ、トト子ちゃんの妙案で切り抜けることができた。次からはおそ松くんがゲームを提案してきたら、なりふり構わず全力で逃げよう




ビーチフラッグスの死闘から一時間ほどが経過した頃には、海へ入ったりシートで休憩したり波打ち際で砂の城を作ったり、各々気ままに過ごすようになった。
その時たまたまテントの下にいたのは、一松くんとトド松くんと私の三人だった。ビーチの暑さに疲弊し始めた一松くんの回復のため、トド松くんが海の家で葛アイスを仕入れてきてくれる。
「…え、何これ美味い」
葛アイスは初めてという一松くんが、目を輝かせた。
「アイスと違って溶けないし、カロリーも低め。再冷凍もできるから、人気なんだよ」
アイスを咥えた自分をスマホで自撮りした後、トド松くんはあっという間にアイスを平らげてしまう。
私がようやく自分の分を開けた時、海から上がってきたトト子ちゃんが目ざとく見つけて声を上げた。
「あー、ユーリちゃんのアイスいいな!トド松くん、トト子の分も買ってきてよ!」
「うん、いいよ。でも味の種類が多かったから、自分で選んだ方がいいんじゃないかな?」
「そうなの?じゃあ行く行く、お店まで連れてって」
ビーチサンダルに足を引っ掛けて、トト子ちゃんはトド松くんを連れて足早に去っていく。忙しない人だ。

「わぁ、これ美味しい!」
「ユーリちゃんは何味だっけ?」
「柚子。ほんのり甘い柑橘系って感じで、すごくさっぱりしてる。一松くんも食べてみる?」
食べかけで申し訳ないけど、と差し出したら、一松くんは目を瞠る。
「え、ちょ…い、いいの?社会のゴミに施したこと後悔して後から死にたくならない?
死にたくはならないが、面倒くさい奴認定はする
「しないよ。その代わり、一松くんのソーダ味も一口頂戴」
「…いいけど」
一松くんが首を伸ばして、私の葛アイスに歯を立てる。
その時───

「ハニー!」
カラ松くんが海から戻ってきて、大声で私を呼ぶ。私は反射的に振り返るが、一松くんは気にも留めずアイスに歯を立てた。
「これもうま。葛アイス開発した奴天才すぎですやん。ノーベル平和賞受賞待ったなし
「だよね、世界平和に貢献する美味しさ
分かる。
一松くんと何度も首を縦に振って、葛アイスの美味しさを共有していたら、私の傍らに腰を下ろしてカラ松くんが身を乗り出してくる。
「一松ばかりずるいぞハニー」
「アイスのこと?」
「オレにも一口、いいだろ?」
瞳を輝かせて見つめてくる姿は、さながら犬のよう。
「しょうがないな、いいよ」
断る理由もないので承諾すれば、カラ松くんは笑顔のまま大きく口を開けるので、アイスを差し向けると、彼は思いきりかぶりついた。
「あっ、カラ松くん食べす──」
「美味いっ!アイスの味のチョイスでさえ至高のものを選んでくるとは、さすがユーリだな」
食べすぎを叱責するつもりが、屈託なくそう言われてしまっては、これ以上文句が言えなくなる。本当にずるい。おかしくてつい吹き出してしまったら、カラ松くんもつられてより一層柔らかい微笑みになる。

「なになに、ユーリちゃん、何か面白いことでもあった?」
そうこうしているうちにトド松くんが戻ってきて、不思議そうに首を傾げた。




喉を潤そうとクーラーボックスを開けると、お茶が切れている。残っているのは清涼飲料水と炭酸だ。まだしばらくは海で過ごすだろうし、ついでに数本買っておこう。
自分の荷物から財布を出して、私は海水浴場から歩いて数分のコンビニへと向かう。

海水浴場を出たところで、背中に声がかかった。
「ハニー、オレも行こう」
振り向かずとも誰が分かる。
「カラ松くんも、何か買いもの?」
「いや、ユーリに変な虫がつかないようにガードしに来た」
「はぁ!?」
まるで予想していなかった理由だったので、素っ頓狂な声が出る。だがカラ松くんは真剣な顔つきを崩さない。
「ハニーは自分の魅力を侮りすぎじゃないか?
地上に遣わされたエンジェルは、いくら羽を隠しても、数多の石ころの中で輝くダイヤモンドのようなものなんだぞ。現に今だって、オレが来なければ───」
カラ松くんは語尾を濁して、憎々しげに背後を見やる。なるほど、声をかけやすい一人の時を狙われかけた、というところか。魅力云々というよりは、攻略可能物件に見られた可能性の方が高いが。
「まぁ、それに…」
「うん?」

「…少しでいいから、ユーリと二人になりたかったんだ」

聞いてよ奥さん、これで私たち付き合ってないんですよ。
世の中って不思議だなと思いつつ、カラ松くんが横に並ぶ。
「ハニー、ちょっと聞いていいか?」
「何かな?」
平静を装いつつも、私は警戒する。カラ松くんがこういう風に前置きをしてくる時は、決まって返事に困る内容だったりするのだ。
「さっきのビーチフラッグスで、ハニーにはチョロ松は格好良く見えたのか?」
「ああ、あれ?」
ドキッとしちゃったとか、生涯二度と言わないであろう女子っぽい台詞を吐いた。できるだけ自然体で、本気っぽく見えるよう全力で
「まぁ格好良かったかな。優勝したしね」
他の面子に問題がありすぎたせいもあるから、マシという意味ではその通りだ。だから思ったままを口にしたら、カラ松くんは不満げに唇を尖らせた。

「…オレは?」

褒められたい子供か。でも可愛いからいい、許す。
二十歳過ぎた大人が嫉妬して拗ねるとか、面倒くせぇとか思っちゃうものだけど、可愛い推しは正義
潮風になびく髪を片手で押さえながら、カラ松くんに告げる。
「約束守ろうとしてくれたもんね。私にとっては、カラ松くんは一番格好良く見えたよ」
「一番…そうか、一番か」
あの時、心配することなんてないと紡がれた言葉と強い眼差しは、まるでヒーローのように私の心を救った。打開策を用意してはいたけれど、カラ松くんが優勝してくれたらと、心のどこかで願ったのは確かだ。
でも今はまだ、そのことは秘密にしておこう。




夕方近くまで海水浴を満喫してから、私たちは車を出して最寄りのスーパー銭湯へ向かった。仮眠を取って夜に備えるためだ。
そして夜の帳が落ちた頃、最寄りのスーパーでアルコールとつまみを買い込み、日中遊び倒した海水浴場を再度訪れる。
月夜の薄明かりに照らされた海が、幻想的にゆらゆらと穏やかに波打っている。昼間とはまるで異なる光景に、私は息を飲んだ。

海水浴場の入口から砂浜へと続くコンクリートの階段にどっかと座り込み、おそ松くんはビールのプルタブを開ける。
「夜の海でビールなんてオツだよなぁ!俺ら超夏満喫してるじゃーん!」
そう、これからが第二の本番だ。わざわざ銭湯で仮眠を取ったのもこのためである。
六つ子とトト子ちゃんはおそ松くんを囲むように腰をかけ、それぞれが気ままにアルコールを煽った。未成年にはできない、大人のオツな海の楽しみ方だ。

「トト子いい気分になってきちゃったぁ。特別に一曲歌いまーす!クソニートども、しっかり崇め奉れよ
「ありがとうございます、トト子ちゃーん!」
二本三本開けた頃には、酔っぱらいたちのできあがりだ。日中の疲労も相まってか、全員酔いが回るのが早い。
トト子ちゃんの歌声に合わせて、六つ子たちはつまみのパッケージを振り回す。

機嫌よく熱唱する彼らを肴に、私はちびちびとお茶を飲む。
全員すっかり忘れているだろうが、この酒盛りが一段落つけば車で帰宅するのだ。車を動かすには運転手がいる。運転手は当然シラフでいなければいけない。
誰か一人くらいはそれに思い至るかと期待したが、一斉に缶ビールを飲み干すのだから参った。
「ユーリ」
ふと、カラ松くんが私の隣に並ぶ。彼はトト子ちゃんのオンステージに参加していなかった。
「カラ松くんは、飲んでないの?」
酒の臭いがしない。
「帰りはオレが運転するから、ユーリは飲んでいいぞ」
何ということでしょう、気遣いの紳士現る。
「ブラザーたちもトト子ちゃんも既にあの調子だからな」
「車の中で爆睡しそうだよね」
せめて車に乗るまでは意識を保っていてほしいものだ。
「もしみんなが微睡の世界に落ちてしまったら、オレとハニーだけで秘密の話でもしよう」
唇に人差し指を当てて、カラ松くんはいたずらっぽくウインクしてみせる。それは性癖とか属性とかいう卑猥な話だろうか。ぜひお願いします。

不意に、私とカラ松くんの間に静寂が訪れた。少し離れた場所ではトト子ちゃんたちが大声で騒いでいるのに、ひどく遠く感じる。
コンクリートの上に置いた手は、数センチも動かせば触れ合うほどに近い。タンクトップから覗くがっしりとした腕と骨ばった手に、彼が異性であることを嫌でも認識させられた。
「…なぁ、ユーリ」
うん、と私は応じる。

「来年もこうしてみんなで…いや、できれば来年は、二人で来れたらいいな」

何気なく、さり気なく。
打ち寄せる波の音と、カラ松くんの瞳に映る月明かりに、眩暈さえしそうなほどに。
「うん、来年も来ようね」
「それは」
「次は───二人で」
素直な気持ちを吐露する。全部、夜の海が見せる幻想のせいにして。
けれど、カラ松くんがこれ以上ないほどに顔を綻ばせるから、これでいいのだと思うことにした。今年は人目もあったから自制したが、来年は人前でもセクハラかますし、むしろ抱く。




SNSで、トド松くんから海で撮った写真が送られてくる。彼の可愛い自撮りや他者とのインカメ写真はもちろん、私たちが思い思いに過ごしている風景を切り取ったものまで、ざっと数十枚。そこに私が撮ったものを追加して、一つのアルバムが完成する。
増える思い出の数だけ、六つ子との距離は縮まっていくのだろうか。そしてその道は、どこに辿り着くのだろうか。

ある日、電話口でふとカラ松くんが零した。
「海水浴で一つ心残りなのは、ハニーとの写真を撮るのを忘れてたことだな」
確かに撮らないままだったなと思ったのもつかの間、トド松くんから送られてきた写真の中身を頭の中で反芻して、カラ松くんに声をかけた。
この時私の顔は、きっと笑っていたに違いない。
「ううん、すごくいい写真があるよ」

差し出した葛アイスを大口でかぶりつかれた時のものだ。互いに顔を見合わせて、これ以上ないくらい楽しそうに笑っている。
意識したことはなかったが、私たちはいつもこんな顔をしているのだろうか。

「トド松くんが撮ってくれてた」
「えッ?は、ハニー、ちょっと待っててくれ」
ガチャン、と受話器が荒々しく台の上に置かれる。
それから廊下を走る足音に、障子を勢いよく開け放つ音が続いて、六つ子の誰かうわっと驚く。
「トッティィィイィィィィ!」
「えっ、ちょっと何、キモいんだけど!」
「この間の写真見せてくれ!」
保留のない黒電話だから、松野家の騒々しいやり取りが筒抜けだ。
カラ松くんご所望の写真が見つかるといいのだが。

スマホを通して彼らの騒々しい声を聞きながら、アイスコーヒーを注いだグラス片手に、カラ松くんが戻ってくるのをのんびり待つことにした。

夏だ海だビールが美味い(前)

潮騒のように鳴り響く蝉の鳴き声が、夏の幕開けを感じさせる。
鬱々とした雨の季節が過ぎ、ニュースで梅雨明けが宣言されたのはつい数日前のことだ。

その日私たちは、松野家の縁側でスイカにかぶりついていた。
きっかけは、私の実家から届いたスイカだった。丸ごと一つ届いたのはいいが、一人で食べ切れる自信がなくて気紛れに松野家に差し入れたら、おそ松くんが突如スイカ割りを提案し、私含めた全員が乗った。
スイカ割りの方法は至ってシンプル。挑戦者はタオルの目隠しとおもちゃのプラスチックバットを装備し、外野の指示に従って歩を進めてバットを振り下ろすという定番のものだ。
トド松くんと私は女子力高めにあーんとかやだーとか言って空振りし、キャッキャウフフ。続く一松くんは目隠しをしているのに的確にカラ松くんを殺りにきて、カラ松くんは見当違いの場所に全力で振り下ろしてバットを損壊
その後、脳筋第二号の十四松くんが体を高速回転させてバットを振り回してきたので、広範囲攻撃で命中率を高める作戦かと思いきや、足を滑らせてスイカに踵落とし
その衝撃でスイカは真っ二つに割れた。
「あーもう、何やってんの十四松ーっ!俺の出番は!?」
「サーセン!」
「いや、僕ら出番なくて良かったかもよ、おそ松兄さん。いい感じに割れた」
母さんに切ってもらってくるねと、チョロ松くんはスイカを置いた新聞紙ごと両手に抱えて台所へと出向き、次に戻ってきた時には綺麗な三角形に切られたスイカがお盆に並んでいたというわけだ。


額から吹き出る汗がこめかみを伝って流れて、地面にぽたりと落ちる。
不快さを感じて手の甲で払おうとしたら、それより先に伸びてきた指先が私の首筋に触れて、汗を拭う。
顔を上げれば、カラ松くんが目を細めて私を見つめている。
「汗も滴るいい女だな、ハニー」
「…は」
「俺の目が黒いうちはイチャつかせねぇぞこの野郎」
私とカラ松くんを両手で押しのけ、強引に割って入ってきたのは、おそ松くんだった。イチャつくという単語に反応して、カラ松くんは顔が赤くなる。
無自覚だったらしい。末恐ろしい次男だ。
「もうホント何なの、十四松はスイカ割っちゃうしカラ松はユーリちゃんにベタベタするし」
「いやほんとサーセン、兄さん」
十四松くんは別に悪くない。
「ユーリちゃんも、嫌なら嫌って言った方がいいぜ?」
「あ、うん、今が嫌かな
私を諭すと見せかけて、肩をがっつり組んできている。馴れ馴れしいことこの上ない。
「おそ松兄さん、それセクハラ。やだねーデリカシーない男って」
松野家トップオブゲス野郎なだけはあるよね…」
一松くんとトド松くんがひそひそと顔を突き合わせて長男をこき下ろす。その意見には同意しかない。

「おそ松、ユーリから離れろ」
しかしカラ松くんが制止するより先に、私が肩に乗った気安い手をつまみ上げる。
「いでででっ!もうユーリちゃんってば、いけずぅ」
「いけずじゃない、嫌なの。っていうかこの暑いのに密着されると、余計暑苦しいから止めて」
「じゃあ涼しい所行こうぜー、せっかく貴重な女の子がいる夏なんだからさぁ。
───あ、そうだ、海なんてどう?海水浴!」

海水浴。
それは、ほぼ裸体の推しが合法的に拝み放題の夏限定イベント。
露出する素肌、しなる肢体、弾ける汗、海で戯れる推しの笑顔、プライスレス。

最高やんけ、という心の叫びは胸に秘めて平静を保っていたら、一松くんとトド松くんがあからさまに嫌そうな顔をした。
「えー、海なんて肌焼けるだけじゃん。何度も日焼け止め塗るとパサつくし」
「クソ暑いし潮風でベタベタになるし…何がいいんだよ」
弟たちの渋い反応を見て、チョロ松くんは腕を組む。
「うーん、コンサートとかの予定が重ならないなら考えてもいいけど、まぁ暑いのは確かだよな、カップルばっかだし」
いずれにしても前向きな回答ではない。何だよノリ悪ぃなぁと、おそ松くんは唇を尖らせて仏頂面になる。
そんな彼らの様子を見回して、一番肩を落としているのはカラ松くんだった。
「そうか…ブラザーたちが乗り気じゃないなら仕方ないな。
それじゃあハニー、予定通り海は二人で行こうか

ガバッと体を起こす松野家その他五人。

最初に声を上げたのはやはり長男だった。
「おいっ、焼けるからやだーとか言ってる場合かお前ら!六つ子からリア充が出るぞ!
「ごめん兄さんっ、実はボク海行きたかったんだ!」
「お、おれもたまには行ってもいいかなと思ってた。クソ松狩りに行く
一松くんとトド松くんが速攻で寝返った。
「こういう時のお前らクズどもの尋常じゃない団結力、僕は好きだな」
チョロ松くんも参戦の模様。
「おおっ、行く気になってくれたかブラザーたち!楽しいサマーメモリーにしようじゃないか!」
何も知らぬはカラ松くんばかり。兄弟から蔑ろにされがちにも関わらず、彼自身は兄弟で過ごす時間を大切に感じているらしく、私に彼らのことを語る表情はいつもとても優しい。
まぁ、人数が多い方が楽しいのは間違いないだろう。

「いつ行く?明日?ぼくらニートで暇だから、ユーリちゃんの都合に合わせマッスル」
「そうだなぁ、元々来週の金曜日に休み取る予定だったし、金曜はどう?」
「ここから車で二時間くらいの所に、海が綺麗な海水浴場があるみたいだよ。どうせならいい海行きたいよね、レンタカー借りてさ」
トド松くんがスマホの画面を見せながら、提案してくる。海水の透明度が高く、砂浜も白く粒が細かいと有名な場所だ。
夏休みの時期なので、土日は確実に終日混雑する。できるだけ海に近い駐車場に車を停めるなど快適さを求めるとなると、平日の朝早くに現地着が必須だ。
「おし、次の金曜にそこで決定な」
すっくと立ち上がり、おそ松くんが意気揚々と居間のカレンダーに赤ペンで書き込んだ。予定が決まるや否や、水着やスナック菓子、パラソルはどうしようかと六つ子たちが顔を突き合わせて相談を始める。指揮はチョロ松くんが執り、必要事項をメモ帳に書き出していく。
そんな彼らの背中をカラ松くんが嬉しそうに眺めていて。

「晴れるといいな、ユーリ」
それから私に、にこりと微笑んだ。




当日は、雲ひとつない快晴。
日中は三十五度近い気温になる予報も出ており、台風の接近もなく海は穏やかで、絶好の海水浴日和だ。
さて、日が昇ったばかりの早い時間に集合し、当初の予定通りレンタカーを借りて海水浴場へと向かう我々だが、なぜか借りたミニバンのハンドルを握るのは私だった
おかしいよね、日頃暇を持て余しているニートが六人もいるのに、毎日仕事に明け暮れて貴重な有休を使って来ている私が運転とか舐め腐ってるだろ。
という愚痴は置いておくとして、実はこれにはれっきとした理由がある。

トト子様がいらっしゃっているからだ。

男六人に女が一人は寂しいとニートたちが調子に乗り、勇敢にもトト子ちゃんに誘いをかけたところ、他にも女の子がいるならとオッケーが出た。
私は今日が初対面である。
本物のトト子様は写真よりも可愛く、かつ愛らしい声で、六つ子たちが長年に渡り首っ丈になるのも頷ける、魅力に溢れた子だった。
そして、そのトト子様が車内と言えど六つ子と隣に座るのは無理と笑顔で言い放った後、私が運転席で彼女が助手席に座れないなら行かないとなり、六つ子たちにドライバーを懇願されたという経緯だ。
しかし私とて、何の見返りもなくいいよと言えるわけがない。レンタカーとガソリン代全額を六つ子が負担するなら、という条件で了承した。

高速でひたすらアクセルを踏み込んでいる時、トト子ちゃんが私に声をかけてきた。
「ユーリちゃん、よくこんな奴らと仲良くできるね。黒歴史増えるよ?
半時間ぶりに話しかけてきたと思ったらこれかよ。
「トト子ちゃん、それブーメラン」
「付き合いが長いだけで、仲良くしてないよ、利用してるだけ。デートは完全拒否だし、二人で写真も論外、誤解を生みそうないかなる既成事実も作らせない鉄壁の防御だよ」
眩しい笑顔で語る内容ではない。
トト子ちゃんの魅力を、いつだったか六つ子に聞いたことがある。自分の欲望に忠実で、その一切を曝け出す素直さに惹かれているのだ、と。
そんな松野家兄弟は一人残らず、慣れない早朝起床のために後部座席で爆睡している。ニートの朝の弱さ舐めてた。
「トト子ちゃんはうんざりしてるかもしれないけど、私はみんなと一緒だと楽しいよ」
「新鮮なのは最初のうちだけだと思うなぁ」
「六対一なら確かに自衛してても大変そうだね。でも私は基本、一対一だから」
ああ、とトト子ちゃんは頷く。
「カラ松くんでしょ?
ユーリちゃんほんっと物好きだね。トト子には無理だな、六つ子の誰かと一対一とか本気で無理、自害した方がマシ
ここまでバッサリ言われているのに、トト子ちゃんに夢中な六つ子の気が知れない。全員ドM属性なのか。
「…まぁ、カラ松くんは言動が痛いのを除けば、すごく真っ直ぐだけどね」
独白のようなトト子ちゃんの呟きに、私はつい笑ってしまった。

ああ、やはり。
彼女は、六つ子全員をよく見ている。




早朝に出発したのが功を奏し、海水浴から徒歩数分圏内の臨時駐車場に車を停めることに成功した。二時間ぶっ通しで運転させていただいたので、タープテントやレジャーシート、クーラーボックスといった海水浴必須の荷物はもちろん、女性陣の荷物も全てニートたちに運ばせる。
先陣を切って歩く私とトト子ちゃんの後ろを荷物を抱えた六人が続き、その様子はさながら下僕を従える女王様だ。

夏休み期間中ということもあり、朝といえど海水浴客は多い。
海の家とシャワー室がほど近い砂浜に陣取ることにして、チョロ松くんがカラ松くんと十四松くんに招集をかける。
「そこの脳筋二人、僕が指示する通りにテント組み立てて」
「フッ、任せろブラザー」
「あいあいさー」
六角形のフレームを広げて、屋根となるフライをかぶせるだけだが、さすが脳筋たち、地面に固定するペグを打ち込むのもスムーズで、あっという間にテントが完成する。
一松くんとトド松くんがその下に大きなレジャーシートを敷いて、八人分の拠点完成だ。
直径六十センチのクーラーボックスを二つ、おそ松くんがやれやれとシートの上に置くと、直後に着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
「よーし、一番乗りしたい奴は俺について来い!」
その声にはカラ松くんと十四松くんが名乗りを上げる。同じようにシャツを脱ぎ、サーフパンツ姿になる。
「あれ、カラ松兄さん、ビキニパンツじゃないんだね?
何、やっぱりユーリちゃんがいるからカッコつけたい感じ?」
ラッシュガードと麦わら帽子を装備した完全防備のトド松くんが、いち早く違和感に気付く。
「あ、いや、トッティこれは…」
ビキニ着たらセクハラ歓迎と判断して触り倒すって言ったら、半泣きで今着てるやつ買ってたよ」
「ユーリちゃんのセクハラが、カラ松兄さんのダサいファッション抑止力になるのに驚きを隠せないんだけど」
普通はそうだと思う。
「むしろご褒美じゃ…」
一松くんは黙っていてほしい。

「ユーリちゃん、トト子たちも行こっか?」
にこりと微笑みながらトト子ちゃんが上着を脱ぐと、ショッキングピンクのビキニが現れて、不覚にもドキリとする。程よく肉感もあり、スタイルも申し分ない。

「ありがとうございますトト子様!」
六つ子が全員ひれ伏した。

「おいニートども、一番可愛いのはだぁーれ?」
「トト子ちゃんです!」
「一番水着が似合うセクシーな女の子は誰ー?」
「もちろんトト子ちゃんです!」
腰に手を当ててモデルポーズのトト子ちゃんと松野家六人とのコントさながらのやりとりを尻目に、私もこっそりシャツを脱ぐ。
フロントクロスになったオレンジのビキニに、デニムのショートパンツ。自分用の浮き輪を抱えて彼らの礼拝が終わるのを待っていたら、不意にカラ松くんと目が合った。
彼は一瞬唖然とした後、タコのように顔を赤く染めていく。
「は、ハニー…」
いや待て待て、こういうシチュエーションは苦手だ。どう反応すればいいか分からないし、どうだセクシーだろうガハハとか言ってしまったら、トト子ちゃんとキャラが被るし。
「おおっ、ユーリちゃんもいいね!エロい!」
どストレートに感想を述べたおそ松くんは、次の瞬間にカラ松くんのエルボーを食らうことになる
「なっ、何すんだよカラ松!」
「ユーリをそんな目で見るな!」
「トト子ちゃんを散々そんな目で見ておいて、すげぇダブスタ!てか、顔真っ赤にして、お前も十分ユーリちゃんをそういう目で見てんじゃんかエロ松っ」
「ち、違…ッ」
一触即発の空気かと思いきや、先ほどから海と私たちを交互に見やっていた十四松くんが、我慢の糸が切れたとばかりに声を張り上げた。
「兄さーん、誰も行かないならぼく一番乗りで海入るよー!」
「あ、俺も行く!一番は長男って決まってんだろ!」
「マイリル十四松、オーシャンとウェーブが呼んでいるのはオレだっ」
今しがたまでの喧嘩はどこへやら、おそ松くんとカラ松くんは十四松くんに続いて海へと駆けていく。チョロ松くんが溜息をつきながら、脱ぎ捨てられた三人分のビーチサンダルを拾って、シートの横に並べた。
「うちのクソ長男がごめんね、ユーリちゃん」
「う、ううん、ビックリしただけだから全然。チョロ松くんは海入らないの?」
「貴重品コインロッカーに入れてきたら入ろうかな。トト子ちゃんとユーリちゃん、先に行って待っててよ」
そう言って、車の鍵や各自の財布をまとめて入れたバッグを持ち上げてみせるチョロ松くん。
トト子ちゃんは、SNS映えしそうなピザ型の浮き輪を小脇に抱えて、私が動くのを待っている。行かない理由はないので、お待たせと声をかけて立ち上がる。
照り返しがあまりに眩しくてサングラスをかけたら、カラ松くんみたいと笑われた。




海水は足元の砂が透けて見えるくらいに透明度が高く、エメラルドグリーンともコバルトブルーとも表現できる美しい色が一面に広がっている。海水浴客の賑やかな声に混じった潮騒が耳に心地良い。
少し離れた場所では、真っ先に海へと向かっていった三人組が顔を寄せ合って何事かを相談している様子。ちなみにトト子ちゃんはピザの浮き輪の上に寝転んで、セレブさながらに優雅に波の上を漂っている。
私に行こうと声をかけたものの、一緒に遊ぼうとか、同じ場所にいようとか、集団行動をしたがる傾向はないらしい。適度にドライな関係は楽でいい。
足のつかない場所まで泳いだら、浮き輪から両腕を出して背を預ける。不規則な揺れが眠気を誘い、快適だ。
しばらくこのまま漂っていようと身を任せたところで、不意に名を呼ばれる。

「ユーリ!」

カラ松くんの声だ。
顔を上げて三人組の方を見やると、三人が一人ずつ肩に乗って縦長に伸びていた
「ユーリちゃん見て見てっ、三人合体技・松野家トーテムポール!」
技名を叫んだのは、十四松くんだ。彼を土台に、カラ松くん、おそ松くんが順番に相手の肩に足を置いて直立している。
二十歳超えたいい大人が海でやることか、というツッコミはさておき、危険な技にも関わらず完成度が高く安定している。
「すごーい!十四松くん重くないのー?」
私が手を振ると、十四松くんはにっこりと破顔して手を振り返してくれる。マジ天使と眼福していたら、彼に足首を支えられていたカラ松くんが体勢を崩す。
「わっ、こら十四まぁつ!」
「え、ちょっ、待って待てヤバイッ」
「あ」
土台が崩れれば全体は言うまでもない。崩れた塔は後ろへと傾き、三人とも背中から海へ落下して、水しぶきが上がった。
十四松くんが海水に腰まで浸かる位置だったから、大怪我をするほどの衝撃はないだろうが、浮き輪に入った格好のまま彼らに駆け寄る。

「だ、大丈夫?」
「あはは、失敗しちゃった。ユーリちゃんにいいとこ見せたかったのに」
一番ダメージの少ない十四松くんは、すぐに起き上がって頭を掻いた。
次の瞬間、その背中を羽交い締めにする影が水中から出現する───おそ松くんだ。
「やってくれたな十四松!お兄ちゃんが礼をくれてやるっ」
「えっ、何なに?おそ松にい──わぁッ!」
問いかけが終わらないうちに、おそ松くんのジャーマンスープレックスが決まって二人とも海に沈む。
その様子を苦笑しながら見守っていたら、カラ松くんが濡れた髪を鬱陶しそうに両手でかき上げながら体を起こして立ち上がった。伏せた双眸、濡れた睫毛から滴る水滴、引き締まった肌の露出、セクシーすぎてヤバイ。語彙力が追いつかない。
「…ああ、ハニー」
「カラ松くんも、大丈夫だった?」
押し倒したい衝動を必死に押さえて、さも心配してましたという表情を取り繕う。カラ松くんは額の滴を払って笑った。
「はは、油断大敵だな。でもすごい合体技だっただろ?」
「うん、スマホ持ってくれば良かった。でも邪魔しちゃったみたいでごめんね」
「今日のユーリは海を照らすサンシャインよりも眩しいギルドレディだからな、十四松が魅了されたのも無理はないさ」
水着のオレンジ色を掛けたのだろうか。
相変わらずだなと思っていたら、少ししてカラ松くんは私から目を反らして、言い淀む。
「…その、さっき言いそびれたんだが…よく似合ってるな、ユーリ」
「あ、ありがと…」
「正直、目のやり場に困っている」
臭い台詞の後に素直な意見が続く二段階攻撃は、ギャップも相まって効果バツグンだ。私に。
「カラ松くんも水着似合ってるよ」
「そ、そうか?」
オールバックのカラ松くんに微笑まれた。守りたいその笑顔。
「ユーリにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいな」
ああもう、尊い。
二時間の長距離運転も、トト子ちゃんとの扱いの差も、全部どうでもよくなる。何で私スマホ持ってこなかったんだろう。

たまには病もいいもんだ

違和感は、音もなく足元に這い寄る混沌だ。
小さな綻びは次第に拡大し、浸透して、気が付いた頃にはもう元には戻れない。

休日の昼下がり、三連休の初日とあって街は人で溢れている。
かくいう私は、カラ松くんを誘って今話題のコメディ映画を観に行ってきたところだ。
公開二週目と連休が重なったためか、座席は八割方埋まっていて、時折シアター内から笑い声が上がるのもご愛嬌。私とカラ松くんも、上映中に何度か吹き出したくらいに楽しめた。

「面白かったね!」
ポップコーンの空箱と飲み終えたジュースを店員に渡して、映画館を後にする。
コメディ作家として名高い脚本家兼演出家の新作で、上映前からテレビやSNSで話題になっていたものだ。くすっとする小ネタも至る所に散りばめられていて、もう一度観たくなる。
「つい声が出てしまうほどファニーな作品だったな。
散々笑わせた後に、人間の温かさを感じさせてグッドな余韻を残す流れも良かった」
「全員どこか抜けたところがあるのも人間臭いっていうか、憎めないのもいいよね」
カラ松くんが共感してくれて嬉しい。
パンフレットは買うべきだっただろうかと後ろ髪引かれながら、そういえば、と私は先ほどから気になっていた疑問を口にする。
「カラ松くん、ポップコーンあんまり食べてなかった?
もしかして、キャラメル味苦手?」
上映前、Mサイズくらいなら一人でも完食するというから、思いきって買ったLサイズ。結局、半分以上を私が食べてしまった。
「いや、すまんユーリ。
買う前は余裕で食べられる気がしたんだが、どうも手が進まなくて…」
「ああ、確かに甘かったしね」
「ドリンクをメロンソーダにしたのが敗因かもしれないな」
「何という甘味料の暴力」
そりゃ手も止まるわけだ。

カラ松くんと並んで歩きながら、観たばかりの映画について語り合う。否、私が一方的に演説する。
元々原作の漫画を数年前に読んでいたこと。実写にあたり俳優陣たちが、原作のキャラクターを上手く演じていたと感じたこと。
私の熱い語りを、カラ松くんは時折相槌を打ちながら聞いてくれる。
話の途中、目の前の信号が赤になっているのが見えて、横断歩道の前で私は足を止めた。
しかしその横を踏み出す足が不意に視界に入るから、思わず声を上げる。
「カラ松くん」
その呼び声で、目の前で風船が割れたように我に返る気配がした。
「…あ、ハニーか」
「ハニーか、じゃないよ。信号赤だよ」
「すまない、少しぼんやりしていたようだ。今日のハニーのスマイルが、魅惑のエンジェルのように愛らしくて俺を誘惑したせいかな」
カラ松節入りました。
冗談言うなと、私は手首のスナップをきかせた追い払う仕草で一笑に付す。
思えば、呼び捨てやハニー呼びされるのも、気取った台詞を投げられるのも、慣れとは怖いもので、すっかり抵抗がなくなった。
だが、少なくとも一般的な呼称ではないことを今更に痛感する。自分でハニーって言って鳥肌立ったからだ
「それでね、映画の原作本が家にあるんだけど、良かったら読まない?」
「借りていいのか?」
「展開が違う部分もあるから、ぜひ読んでみてよ。
この後どっか行きたい所がなければ、うちに取りに行ってもいいかな?」
幸いにも、ここから自宅までは徒歩圏内だ。逸る気持ちを押さえて、私は尋ねる。
カラ松くんはふっと笑みを浮かべて私を見やった。
「楽しそうだな、ユーリ」
「へへ、映画観てテンション上がってる」
原作と映画の両方の情報と感想を、早くカラ松くんと共有したい。そして気取らないカフェや居酒屋で、感想をのんびり語り合うのだ。考えただけで最高ではないか。
「それじゃ、善は急げだ。漫画を取りに行こう」
スキニーデニムのポケットに両手を突っ込んだ格好で、カラ松くんは私の先を歩き出す。
コバルトブルーのシャツの捲くった袖から覗く、細身に見える割に筋肉質な腕。左手首には三連のレザーブレスレットが揺れている。
カラ松くんは、黙っていればそれなりにいい男だ───たぶん。
「ハニー?」
「ううん、何でもない。行こっか」

いつもと同じ日常、いつもの延長線。そのはずなのに、何となく引っかかる。何かが違う。
けれど違和感の正体は分からなくて、私は漠然とした不安を抱えながら、カラ松くんの背中を追った。




マンションの前にやって来た。カラ松くんには、何度か自宅前まで送ってもらったことがある。
「すぐ取ってくるから、待ってて」
「ああ」
バッグから自宅の鍵を出して、家に入る。
1DKの、ごくごく一般的な一人暮らし用の賃貸マンションだ。築浅の駅チカ物件だから、家賃は相場よりも少し高めだが、鉄筋コンクリートでオートロック、風呂トイレ別という好条件で気に入っている。
本棚の中から映画の原作本を取り出して、アパレルのロゴが入った紙袋に放り込む。
「そういえば…」
静寂の中、違和感の正体にふと思い当たる。
あくまでも私の主観だが、カラ松くんの口数がいつもよりも少なかったような気がするのだ。癪に障る気障ったらしい軽口も控えめで、寒色の出で立ちも相まって、冷静な青年という印象を受けた。
何か悩み事や懸念すべきことがあるのだろうか。本を渡すついでに、機会があれば聞いてみよう。私で役に立てることがあるかもしれない。
───事態が一変するのは、この数秒後のことだ。

漫画の入った紙袋を下げて、オートロックの玄関を飛び出した。
「カラ松くん、お待たせ」
彼はいつものように、にこやかな笑みと共に、私が出てくるのを出迎えてくれる───はずだった。

しかし目に入ったのは、私の呼び声にも応じず、電柱に寄りかかり苦しげに肩で息をする、普段の彼からは想像できない姿だった。

「カラ松くん、どうしたの!?」
「ユーリ…いや、大丈夫だ、心配ない」
問題ないという言葉とは裏腹に、絞り出される声は弱々しい。
無理矢理取り繕ったような笑みが痛々しくて、彼を支えようと咄嗟につかんだカラ松くんの腕は、ひどく熱かった。
「…いつから?」
問うのは野暮だったかもしれない。魚の小骨が喉に引っかかったような違和感は、彼に会った時からずっと感じていたから。
その正体を見極めようとせず、見ないフリをしてきたのは、私だ。
「映画の前からだよね?気付かなくてごめん」
「ノンノン、謝らないでくれユーリ。自分の体調よりも、三連休にハニーに会うことを優先したオレに責任がある」
まぁそれは確かに。ほんと何考えてんだ。
しかし、このまま帰れと言えるほど鬼にはなれない。
女一人暮らしのワンルーム、相手は知り合って数ヵ月の異性、防音の密室。様々な不安要因が頭を掠めたが、肩で息をしているカラ松くんが目の前にいるのだ、私が選ぶ答えは決まっている。
「すぐに帰るから、ユーリは家に──」
「うちで休んでいきなよ、カラ松くん」
私を気遣おうとする彼の台詞に被せて、強引に手を引く。
「ちょ、ユーリ…っ」
「そんな調子なのに、無事帰れるって保証ある?
途中で行き倒れたら後味悪いし、風邪薬もあるから、とりあえずうちにおいで」
まるで、帰さない理由を探しているかのように。
「いや、待ってくれハニー…気持ちは嬉しいが、女の子の部屋だぞ」
カラ松くんは目を瞠って抵抗しようとするが、私はもう一本の手も使って、彼を自宅へと誘導する。
「───私が、カラ松くんのことが心配なの」
自信家を演じる反面で、誰かに必要とされることを切望する彼に、絶大な効果を発揮する言葉。半分本心で、半分は意図的だった。
こうでも言わなければ、カラ松くんは意地でも帰ろうとしたに違いないから。

彼は、もう抗わなかった。
熱に浮かされたように上気した顔を手の甲で隠しながら、私に手を引かれるまま部屋のドアをくぐる。




虚ろなカラ松くんを部屋の中に案内して、クローゼットから引っ張り出したフリーサイズのティシャツと、ウエストがゴムになっているジャージパンツを手渡す。しかしカラ松くんは、ふるふると首を横に振った。
「い、いや、服はこのままでいい!」
「スキニー履いたままで休まるわけないでしょうが。私ので嫌かもしれないけど、体締め付けない方がいいから」
「嫌じゃなくて、その…余計熱が上がる気がする。彼シャツならぬハニーシャツは上級者アイテムすぎないか?
「脱がされるか自分で着るか選んで」
「…着替えます」
着替え一つでうるさいニートだ。
彼が着替えている間に、ダイニングで風邪薬と水を注いだコップを準備する。お盆に置いて部屋に戻ると、カラ松くんは顔を真っ赤にしてシャツの裾を引っ張っていた。
私のシャツを着る推し、尊い。

「これ飲んだら、ベッドで寝てて。後のことは、起きてから考えようよ」
優しく言い聞かせるように、けれど有無を言わさない強さで。
カラ松くんは今は何も考えず、体を休めることだけに意識を向ければいい。
「ユーリは…?」
「私?ここにいるけど、いない方がゆっくり寝れるかな?」
「…いてほしい」
やけに素直だ。意識は既に朦朧としているのかもしれない。
カラ松くんが意識を手放したのは、お休みと私が声をかけてから僅か一分足らずのことだった。


もし夜までに目覚めて、少しでも回復していればタクシーを呼べばいいかと、今後の案を練っていた時、数日前にトド松くんから来たメッセージの内容を思い出した。
この三連休、松野家の両親は二泊三日の温泉旅行に出ている、と。その状況でカラ松くんを帰すことはつまり、腹をすかせた野獣の群れの中に、手負いの小動物を放り込むに等しい。
おそらくただの風邪で、今までも熱がある時は家にいただろうし、彼らもさすがに病人に対して無茶なことはしないと信じたい───が。
いやこれ、帰したら死亡フラグ乱立するやつだろ、間違いない。
私はちらりと横目でカラ松くんを見て、盛大な溜息を吐いた。

カラ松くんが次に目を覚ましたのは夜中だった。熱を計ると四十度、ぼんやりとしたままトイレへの往復と水分補給をした後、意識を失うように再び眠りにつく。
ベッドをカラ松くんに明け渡したので、私はすぐ横に設置しているローソファーに横になった。同性の友人ではない人の気配を感じながら眠るのは、不思議な感覚だ。
スマホからトド松くんにメッセージを送った後、部屋の電気を消して私も目を閉じた。




翌朝七時を過ぎて、目覚めたカラ松くんがベッドから体を起こす。
私はそれより前に起床していて、トド松くんからの不在着信が多すぎて充電が切れたスマホを眺めながら朝食を摂っていた。
着信数十回、メッセージほぼ百件。ストーカーか。
「あ、おはよう、カラ松くん。体調はどう?」
彼はしばらく虚ろな瞳で私を見つめた後、見知らぬ部屋にいる理由を思い出したかのように、ハッとして姿勢を正した。
「は、ハニー!?
え、もう朝なのか?まさかオレ、ずっとここで…」
「一晩寝て少しはマシになった?」
「すまないっ、ハニーのベッドを占領してしまって!もう大丈夫だ、すぐ帰───」
カラ松くんは慌ててベッドから下りようとするが、立ち上がろうと腰を上げた途端に平衡感覚を失う。ふらつく彼を支えたら、まだ体が熱い。
「熱が下がったら帰っていいよ」
「でもそれじゃ、ユーリが」
「ご両親がいない松野家なんかに帰ったら、治るものも治らないでしょ。トド松くんから聞いてるよ。ほら、まだ熱が三十九度あるんだし」
体温計が示す数値を見せたら、カラ松くんは文字通り頭を抱えた。
トド松くんには後で電話しておくよ、と伝えたら、ようやく観念したのか、脱力して私に向き直る。
「で、何か食べられる?何食べたい?」
努めて普段通りに、私は尋ねた。拗ねたように下唇を突き出すカラ松くんの姿が可愛らしい。
「…お粥」
そして彼は、小声でぽつりと呟いたのだった。


私とローテーブルを囲んで、カラ松くんが卵粥を頬張る。
彼が食事している間にトド松くんに電話をかけたら、呼び出し音が鳴った瞬間に応答してきた上に、開口一番に『ドクソ松兄さんに何もされてない!?』と貞操の心配をされたクソ松がドクソ松に無事昇格。
昨晩メッセージでも伝えていたが、高熱があること、両親が不在中はユーリ宅で療養させることを改めて口頭で説明したところ、五人から一斉にカラ松くんに対する怒涛の罵声を浴びることになった。反論しようとしても畳み掛けてくるので、説得は無理と判断し、電波が悪いことにして電話を切る。自宅の住所を彼らに知らせていなくて本当に良かった。
「帰る前に遺書を用意しておいた方がいい気がしてきた」
カラ松くんは心も病みそうだ。


私がお茶のおかわりを運んできたところで、カラ松くんが唐突に口を開いた。
「なぁハニー、昨日から泊めてもらってることには感謝している」
「うん」
「ただ…オレだって男だ」
その時点で何を言いたいか概ね察したが、気付かないフリを装って続きを促す。
「知ってるよ」
「女の子の部屋に男を泊めることを、危険だと思わなかったのか?」
それ聞いちゃうかぁ、野暮だなぁ。何も聞かず、何も言わず、与えられるものを享受していればスマートなのに。
しかし、それが自然にできるなら、その人はもう松野カラ松ではないな、とも思う。

「カラ松くんを信用してるからだよ」

正確を期すなら、今の表現は少し語弊がある。
「カラ松くんを信じてる私を信じてるんだ。カラ松くんを泊めるのは、私が選んだこと。
だからもし万一のことが起こったら、それは私の責任」
もちろん、最悪のパターンも想定して枕元には防犯ブザーを忍ばせていたし、返り討ちにする戦略も数パターンは用意していた。
「でもさ、私を傷つけるような真似は絶対しないって、そう言ったのはカラ松くんだよ」
アスレチックで囁かれたその言葉を、私は覚えている。
「それはまぁ、そうなんだが…ユーリが他の男にもこういうことしてると思うと、さすがにちょっと冷静ではいられない」
待て待て、異議あり。
「ちょっと、その尻軽みたいな言い方止めてよ。そんな簡単に男の人泊めるわけないでしょ」
「え?」
「私がそんなに軽い女に見える?」
何だこのヒロインっぽい台詞は。生まれて初めて使ったぞ。大袈裟に、恨みがましくじろりと睨みつけたら、カラ松くんは大きくかぶりを振った。
「もちろんそんな風に見たことなんてない。
ハニーはいい女だ。何しろ神々からの寵愛を一身に受けてガイアに遣わされた、唯一無二のミューズだからな」
熱があって辛いだろうに、いつもと変わらない気障な口調で私をからかう。何馬鹿なこと言ってんの、と一笑に付したら、居心地の悪い空気が解消されて、カラ松くんはようやく肩の力を抜いたようだった。

「ユーリを傷付けるようなことはしないさ───絶対に」




三日目の、連休最終日。
まだ日の昇りきらない薄暗い明け方近くに、カラ松の意識が覚醒する。見慣れぬ天井の景色には少し慣れたものの、ユーリの部屋で目覚める気恥ずかしさは、縮小どころか拡大する一方だ。
兄弟のものとはまるで違う人の気配と、布団や衣服から感じる彼女の匂いに、眩暈さえする。夢と現の境目はひどく曖昧に感じていた。これが夢なら、どうか覚めないでほしいとさえ。
体を起こして、額に手を当てる。三日目にして熱はすっかり下がったようだ。
ふと枕元に視線を落とすと、メモが置かれていて『喉が乾いたら、冷蔵庫から好きに取ってね』という見慣れた文字。言葉にできない想いが込み上げて、息ができない。

カラ松は、ローソファーで寝息を立てているユーリの傍らに膝をついた。
スマホを握ったままの片手はソファーから落ち、口は半開き。腹部にかけていたはずのタオルケットも半分以上が床に落ちていて、お世辞にも綺麗な寝相とは言えない。
なのに、自然と笑みが溢れるほどに愛しい。
街中ですれ違って再会したあの瞬間、これは運命だと思った。思わず声をかけて、食事に誘って、また会いたいと想いを告げた。奥手な自分からは想像もできない積極性の発揮は、相手がユーリだったからに他ならない。
誰にも奪われたくないと思う一方で、ニートで甲斐性のない自分がユーリを幸せにできる自信もなくて、言葉にできない想いは膨張していくばかりだ。
「ユーリ」
小さく名を呼ぶ。

「オレと出会ってくれてありがとう。
君に会ってから、オレは幸せでたまらないんだ」

何もかもがユーリに敵わない。なのに、それが嬉しくて仕方ない。
彼女から与えられるもの全てがきらきらと眩しいくらいの輝きを放っていて、世界が色鮮やかに染め上げられていく。
不意に、このまま何もかも奪ってしまいたい衝動に駆られる。奪うのは実に容易いことで、手を伸ばせば事足りる。力に関しては圧倒的に自分が優位なのだ。
けれど。
「いつか伝えたいことがあるから、それまで待っていてくれないか?
オレは、ユーリ、君を───」
ユーリの手からスマホが落ちて、フローリングに転がる。地面に伸びる弛緩した手に指を絡めて、カラ松は彼女の寝顔に自分の顔を近づけた。

唇の真横に、そっとキスをする。

欲望と理性に折り合いをつけようとして、かろうじて理性が勝利を手にした。
それでも、彼女への罪悪感と羞恥心で心臓が破裂しそうになっているから、どうかこのまましばらくは目覚めないでほしい。




玄関の戸が開閉する鈍い音で私は目を覚ました。
飛び起きてベッドを見ると、もぬけの殻だ。私が貸したシャツとジャージは丁寧に折りたたまれて、枕元に鎮座している。
もつれる足を奮い立たせて、玄関へ走った。
「カラ松く──」
「おはよう、ハニー」
ふにゃりと、私だけに向ける柔らかい微笑を浮かべた彼が、玄関口に立っている。その手には、コンビニのビニール袋。
「熱は…」
「もう大丈夫だ、二日間ハニーが懸命に看病してくれたおかげだな」
玄関口で靴を脱いだ後、カラ松くんの手が私の頬をするりと撫でる。ナチュラルにタラシてくる辺り、完全復活の模様。
「泊めてもらった礼に、とりあえずコンビニでコーヒーとサンドイッチ買ってきたんだ。一緒にブレックファーストといこうじゃないか」
おお、気が利く。
「ありがと。起きたらカラ松くんがいなかったから、心配したよ」
「ああ、それはすまない。オレが起きた時まだユーリは寝てたから───」
そこまで言って、何かを思い出したかのようにハッとするカラ松くん。瞬間的になぜか耳まで赤くなった。
「な、何っ!?熱ぶり返した!?」
「いや、これはその、違…っ」
「…あっ、ひょっとして洗濯してた下着でも見ちゃった!?」
「見てない見てない!」
じゃあ何なんだと訝る私をよそに、カラ松くんはそそくさと部屋に戻っていく。
結局、その後カラ松くんが口を割ることはなく、そのうち私もどうでもよくなって、穏やかな朝の時間が流れることになる。

ハムときゅうりのサンドを両手でつかみながら、私は今日が連休最終日だということを思い出した。
「カラ松くんの体調がいいなら、今日もどっか遊びに行く?」
カラ松くんはとっくに食べ終わっていて、缶コーヒーをあおっていた。
「なら、今日はオレがハニーをエスコートしよう」
「カラ松くんの奢りってこと?」
「マイプレジャー。ボーリングかビリヤードなんてどうだ?」
俄然私のテンションが上がる。どちらも間違いなくポーズがオイシイやつじゃないですか、本当にありがとうございました。
スマホの充電はフルにしていこう。

「──ユーリに看病してもらえるなら、たまには風邪をひくのも悪くないな」
空になった缶コーヒーを指で弄びながら、カラ松くんが照れくさそうに呟いた。
「今回は事情が事情だったから、ほんとーに特別なんだよ。普通ならタクシーに押し込んでるから」
「フッ、いきなりスペシャルを引き当てるほど運も味方するとは、やはりオレはギルドガイ」
釈然としないが、確かに一理ある。うーむと腕を組んで唸っていたら、カラ松くんが続けて言った。
「もしユーリが風邪をひいたら、いつでも言ってくれ。通って看病する」
カラ松くんなりの、今回のことに関する責任と感謝が伝わってくる。言葉だけでも十分なのだけれど、その気持ちが嬉しいから、ここは素直に受け取ることにした。
「期待しとく」
「りんごくらいなら剥けるぞ」
目を輝かせて言い放つ台詞がそれってどうなの。可愛いかよ。

この後、まずは互いに身支度を整えようという話になって、私の家のシャワーを使ってよとかそれはさすがに恥ずかしくて無理とかいう果てしなく無駄な攻防が、半時間に渡って繰り広げられることになるのだが、それはまた別の話。

松野家六つ子による災厄(後)

それからしばらくは平穏だった。
十四松くんは一松くんを縛り付けたバッドで素振りを始め、上から三番目までの長兄たちは麻雀の攻略法について真剣に議論を交わし、トド松くんと私は流行りのスマホアプリ談義に花を咲かせる。時間が経つのを忘れるほど純粋に楽しんでいた。
そんな穏やかだった空気を一変させたのは、おそ松くんである。

「突然ですが、今からゲームしまーす!」
私を含めた全員の視線が彼に集中する。だが、顔色の読めない十四松くん以外が、また馬鹿なこと始めたよと言わんばかりの呆れ顔なのが衝撃だった。
初見の私だけは、この後の展開が読めずに警戒する。
「名付けて、カラ松当てゲーム!」
今すぐ逃げた方がいいと私の直感は告げる。
「ルールは簡単、俺ら六人の中で誰がカラ松かをユーリちゃんが当てるだけ。
外した時の罰ゲームは、カラ松以外と日替わりで一日デートね☆」
挑戦者と罰ゲーム指定かよ問答無用だな。
「いや、それ私に何のメリットもないよね?」
「ははーん、さては当てる自信ないな?」
「そんな安い挑発に乗らないからね。
全員がフェアな前提ならまだ検討の余地あるけど、ハイリスク・ノーリターンって何なの、笑わせるな
今日会ったばかりの六つ子との日替わりデートは、考えただけで胃が痛い。カラ松くんだから一日いても飽きないのであって、彼以外の相手と──それも罰ゲームとして──丸一日出掛けるくらいなら、家で暇を持て余していた方がよっぽど有意義だ。

「おそ松、そんなことをさせるためにユーリに来てもらったわけじゃない。
冗談が過ぎるようなら、オレにも考えがあるぞ」

カラ松くんが膝を立てて私を庇う。さすが、ユーリを必ず守る発言は伊達じゃない。その調子で全力で私を守ってくれ。
しかしおそ松くんに諦めた様子は微塵もなく、ニヤリと意味深に笑う。他の四人に至っては、異性とのデートという褒美に釣られて既に参加側に回っている。
「なぁカラ松。イヤミですら区別がつかないくらい同じ顔をした俺たちの中から、たった一人のお前をユーリちゃんが見つけてくれるんだぜ。
最高にロマンチックだと思わないか?」
「それは…」
カラ松くんの声が揺れた。
さすがは六つ子、彼の琴線に触れるワードを熟知している。
「それともアレかなカラ松。ユーリちゃんとは、俺たちの変装と区別もつかない程度の付き合いなんだ?」
「…分かった、そこまで言うなら受けて立とう!」
「受けて立つのは私だからね?カラ松くんは出題者側で、いうなれば敵だからね?」
何なのこの六つ子。
「───あーもう、分かった。やるやる、参加します。
その代わり、私が勝った場合のメリットは用意してもらうよ。でないと割に合わないからね」
人差し指を唇に当てて、私は思案する。
負ければ六つ子と順繰りでデートという、貴重な休日と体力を消耗する内容だ。それに見合うだけの価値は欲しい。
「そうだなぁ、とりあえずカラ松くんに写真を返すっていうのは、私の目の前でやってもらおう。
それから…あ、一人一つ私のお願いを聞くのはどう?
お願いの期限はなしで、私が使いたい時に使うの。もちろん、お金が絡んだり、無理な要求はしない」
「オッケー、商談成立。おいお前らっ、全力でカラ松演じろよ!」
「アイアイサー!」
おそ松くんとカラ松くん以外の四人が、姿勢を正して敬礼する。
「カラ松もアイコンタクトとか小細工なし!バレるようなことしたらロマンもクソもないんだからな!」
「ぼくたち準備してくるから、ユーリちゃんはここで待っててね」
十四松くんが愛らしい微笑を浮かべて、兄弟に続いて軽やかに部屋を出ていく。カラ松くんが、ふと我に返ったように私を振り返ったが、おそ松くんに背中を押されて障子の奥へと消えていった。


次に現れた時、彼らはまさにカラ松くんそのものだった。
全員が同じ青いスーツを身に纏い、彼を象徴する鋭い眉と自信に満ちた態度。つい先ほどまで確かにあった各自の個性は完全に消滅し、巧妙に松野カラ松に擬態している。
個体ごとに僅かな身長差や体格差こそあれど、カラ松くんと確信する身体的サイズを私が把握しているわけでもない。
「ハニー、オレがカラ松だ」
「君なら本物のオレが分かるよな?」
「マイエンジェルユーリ、オレの手を取ってくれ」
どれも本物っぽく、どれも偽物くさい。これ全員オスカー取れるレベルの演技力ではないだうか。こういうとこだけ本気出すのが松野家か。
言動で見分けがつきやすかった一松くんと十四松くんですら、自分の特徴を完全に隠している。
面白いのでスマホで写真に収めておこうとレンズを向けたら、思い思いにポーズを取ってくれるが、いずれもカラ松くんっぽい感じがする。難易度は高い。
けれど、自然と口角が上がる。
我こそが松野カラ松とそれぞれが主張する中、私は迷わず一人の手を取った。

「これが本物のカラ松くん」

選んだのは───右から二番目。
「な、なぜだハニー、それはオレじゃなくチョロ松で───」
一番左が焦りの表情を浮かべる。
「ゲームは私の勝ち。カラ松くん当てたら終わりでしょ?」
惑わそうったって、そうはいかない。
私の選択が揺るがないと知るや否や、動揺を装っていた一番左は、ハッと嘲笑して髪をかき上げた。
「あーあ、こんなあっさりバレちゃつまんねぇなぁ」
こういう言い方をするのは、たぶんおそ松くんだ。
「ユーリちゃんすごい!でもぼくもめちゃめちゃ似てたでしょ?」
「いやいやいや、これ分かるってヤバくない!?何で!?
六つ子のボクらでも、一松兄さんがカラ松兄さんに扮した時に全然気付かないくらいだったんだよ!」
十四松くんに褒められ、トド松くんは驚きと共に興味深い過去話を振ってきた。ちょっとその話詳しく。
「何でって言われてもなぁ…」
答えにくい質問だ。数値やデータに基づいた判断ではないのだ。これは───

「ハニーっ!」

どう表現すべきか悩んでいたら、カラ松くんが私の胸に飛び込んできた。私の肩に顔を埋めて号泣する。
彼が抱えていた不安は、一抹どころかとても大きなものだったのだろう。
抱きしめて、頭を撫でてやる。
「よしよし、もう大丈夫だよカラ松くん」
相手は大の男だが、子供を持つ母親の気持ちが分かるような気がする。
「ちょっとちょっと、俺たちの前で堂々とイチャつくの止めてくんない?」
「お、おそ松っ、これはその、違っ…」
慌てて私から離れるカラ松くん。しかし五人は納得いかない顔で彼を睨めつけていて、カラ松くんは針のむしろだ。

うらやまけしからん罪で、カラ松処刑───やれ、十四松」
「兄さんいっくよー!」
「え、ちょ、待っ───おおおぉおぉぉぉッ、ギフギブだ十四まああぁああぁぁつ!」
慣れた様子でカラ松くんに卍固めを仕掛ける十四松くん。苦悶に歪むカラ松くんの表情をトド松くんがスマホで録画し、ディスプレイを一松くんが覗き込む。チョロ松くんは腕を組んだ格好で、調子乗んなクソ松が、と吐き捨てていた。三男怖い。




カラ松くんの断末魔が室内に響き渡る中、いつの間にか隣にはおそ松くんがいて、彼は私に問う。
「で、ユーリちゃんはうちの次男とはどうするつもり?」
「どうって…」
「見ての通り、カラ松は本気だよ」
深い意味のない冗談のような軽口だが、こちらに向ける双眸は私の出方を用心深く窺っている。それはおそらく、突如出現した異端者に対する警戒心。
私はおそ松くんに向き直って、微笑んでみせた。
「──さぁ、おそ松くんが何を言ってるのか私にはさっぱり」
わざと不自然な間を開けて答えたら、おそ松くんは白い歯を覗かせて笑った。
「はは、ユーリちゃんいい性格してる。俺、そういう子好きだよ」
「私もおそ松くんみたいな人、嫌いじゃないな。身が引き締まるよ」
「ってことはさ、俺たちにもまだチャンスあるってことじゃん?
俺たち六つ子は色んなタイプ揃ってるし、今から一つに絞るのはもったいなくない?」
そうじゃないんだよ、と返事をしかけて止める。
そうじゃないんだ、推しというものは。
見た目や声や言動といった様々な要素はあるけれど、具体的にどの要素が胸を貫いたかなんて分からないくらい感覚的なものなのだ。
しかし説明したところで理解しろというのは酷だ。だから返答は濁して、肩を竦めた。
「とにかく、この勝負は私の勝ちだから約束は守ってもらうよ。写真渡して」
「…ちぇっ、賢い女は嫌われるよ?」
おそ松くんはジャケットの内ポケットから写真を出して、私に手渡した。
いつぞやの、水族館で撮った二人の写真。まださほど月日は経っていないのに、少し懐かしい。

「カラ松くん、写真返してもらったよ」
「本当かハニー!」
卍固めで脂汗を浮かべていたカラ松くんの瞳に生気が戻る。十四松くんが力を抜いて彼を開放するや否や、一目散に私の元へと駆けてきた。
「ありがとう…良かった、オレにとっては本当に大事なものなんだ」
心の底から安堵したように肩の力を抜くカラ松くんを見て、他の五人が顔を見合わせた。
やりすぎただろうか、という感情が垣間見える。
そうだ、と不意にチョロ松くんが手を叩いた。
「そろそろ遅くなるし、みんなでユーリちゃんを駅まで送ろうか?」
「いいね、そうしよう。今日は楽しかったよユーリちゃん。また遊ぼうよ、後でメッセージ送るね」
「あ、ありがと。でもそんな…大所帯で見送られるのは逆に申し訳ないし、駅結構近くだし、ここで十分だよ」
全力で首を横に振って辞退しようとするが、六つ子はそれを謙遜と受け取ったのか、私の背中を押して玄関まで向かおうとする。
慣れないVIP扱いに、ああもうどうにでもなれと半ば投げやりになった、次の瞬間。

スパーンと障子が開け放たれた。

現れたのは、エプロン姿の中年女性だった。
「お黙りなさいニートたち」
見た目はどこにでもいそうな平凡な主婦像そのものだが、不思議な威圧感がある。丸い眼鏡の奥がきらりと光った。
「母さん…っ」
ラスボスが来た。
「初めまして、カラ松くんと仲良くさせてもらってます、有栖川ユーリです」
障子を壊す勢いでぶち開けた理由を尋ねるのは横に置いて、私は瞬時に態度を切り替える。姿勢を正し、彼女に向けて頭を下げた。第一印象は大切だ。
私が挨拶すると、彼女は六つ子たちに向けていた殺気はどこへやら、柔和な表情で私に微笑んだ。
「こんにちは。まさかカラ松が女の子をつけてくる日がくるなんて…はぁ、諦めずにニートたち養ってた甲斐があるわぁ。
ユーリちゃん、カラ松はもう本当どうしようもないくらいベテランニートだけど、これから末永くよろしく頼むわね
いや、養いませんからね。
「母さん、僕たちユーリちゃん送ってくるよ。
貰ったケーキの残りが冷蔵庫にあるから、母さんと父さんで食べて」
それじゃあね、と踵を返そうとしたチョロ松くんは首根っこをおばさんにつかまれて、畳の上に転倒する。
「うわっ、な、何!?」
「見送りはカラ松一人にさせてあげなさい」
「へ?」
「そうやっていつも六人で集ってるから、あんたたちはいつまでも彼女ができないのよ。
抜け駆け、裏切り、先回り、持ちうるスキルを駆使して独占に向けて奪い合いなさい。女の子が絡んだら兄弟とて敵と思え
もはや母親の台詞じゃない。

おばさんが演説している間に、カラ松くんは私と五人の間にさり気なく体を割り込ませた。それから人差し指を自分の唇に当てて、こっそりと私にウインクする。
「悪いなブラザーたち。そういうわけだ、ユーリはオレが責任持って送ってくる」
「ちょっ、待てよカラ松!」
「行こうハニー!」
手を引かれて、玄関から飛び立すように外へ出る私たち。
また今度ねと言い放った私の言葉は、まるで捨て台詞のようになってしまった。
思いの外逞しい無骨な指が、私の手首をつかんでいる。真っ昼間だけれど、逃避行のようだと思ったのはカラ松くんには内緒にしておこう。




「ハニー、今日は本当に助かった」
何かお礼がしたいと言うので、駅近くのコンビニでジュースを奢ってもらった。そんな安いものでいいのかと心配される。
「ううん、意外に楽しかったよ。警戒していたのが申し訳ないくらい。
ね、もうすぐ夏だし、そのうちみんなで海とかお祭りとか行こうよ、絶対楽しいと思う」
「グッドアイデアだ、ハニー。ブラザーたちも喜ぶな」
またトド松くんにも連絡しておくね、と告げたところで、カラ松くんが、あ、と声を上げた。
「それは…二人で行くのとはまた別に、だよな?」
「ん?」

「オレは、これからもユーリと二人で遊びに行きたいんだ。
ブラザーたちも含めて会うのは何回かに一度くらいにして、それ以外は今まで通りオレと過ごしてくれないか?」

いつものように赤面で切れ切れに語られるのはなく、他愛ない会話の延長として自然に紡がれた言葉。
これが無意識下だとしたら、とんだ天然のタラシだ。
「私もそういう風に考えてたよ」
「そ、そうか…なら良かった。さすがはオレのミューズだ」
調子が戻ってきたようだ。
「あと、その…今日はオレを見つけてくれてありがとう。すごく…嬉しかった」

同じ顔をした六人の中から、一人しかいない本物の手を取った、あの時。
見間違えるわけがない。
そもそも同じに見えるのはあくまで外見だけの話で、彼らは何もかもが違うのだから。

「何て言ったらいいのか…本当に、嬉しかったんだ」

うん、と私は頷いた。
優しい時間が流れていく。
電車が駅に着くアナウンスが鳴っても、私たちはしばらく改札前で笑い合っていた。

松野家六つ子による災厄(前)

それは、あまりに突然だった。
「ユーリ、オレのブラザーたちに会ってくれないか?」
いつになく真摯な眼差しで懇願されて、私の思考は停止した。付き合ってないのに?というごくごく自然なツッコミさえままならないほどに動揺したのだ。


一時間前に遡る。
休日の午後、晴れ渡る青空の下で私は公園のベンチに腰掛け、カラ松くんを待っていた。
出会ってから数ヶ月、いつの間にか私にとって彼と会うのは習慣のようになりつつあることに、ふと気が付いた。
会わない週末だってもちろんあるのだ。ただ、そんな時は仕事帰りに軽く飲みに行ったり、チビ太さんの屋台で騒いだりしていて、何だかんだと週一で顔を合わせている。
時折、私に対する好意も遠回しに感じることがある。
嘘みたいだろ、これで付き合ってないんだぜ。
まぁそういう関係もあるさ、と開き直ったところで、私の視界の先に人影が映る。
「カラ松く──」
待ち人来たりと顔を上げて、私は言葉を失った。
「は、ハニー…遅くなってすまない…」
私の目の前に立つのは、砂場の上で高速ローリングでもしたのかと思うほど、髪は乱れて砂埃で汚れた姿のカラ松くんだった。両手を膝につき、息も絶え絶えに謝罪の言葉を口にする。
「ど、どうしたの!?」
魔王討伐した直後の勇者さながらの満身創痍である。しかし見たところ大きな怪我はないようで、肘や頬に小さなかすり傷がある程度だ。
「…撒いてきた」
「撒いた?」
スパイ活動でもやっているのか。

「ああ───ブラザーたちを

兄弟に追いかけられてなぜ傷だらけになるのか。互いにいい年した大人だろう、分別はないのか。というか、そもそも追われるほど何やらかした。
聞きたいことが多すぎてツッコミが追いつかない
「と、とにかくその怪我と汚れはどうにかしないと」
カラ松くんをベンチに座らせて、私はすぐ傍らにある水道でタオルを濡らした。適度に絞ってから、カラ松くんの頬に当てる。
「…いッ」
「ばい菌が入ったらいけないから、ちょっとじっとしてて」
聞きたいことは山程あるけれど、傷の手当てが先だ。傷口周りの汚れを濡れタオルで拭ってから、絆創膏を貼って応急処置をする。非常用に入れっぱなしにしていたのが功を奏した。
「ユーリ…」
「何があったかは、聞いてもいいのかな?」
そう訊けば、服についた砂を払いながらカラ松くんは頷いた。
いつになく深刻そうな表情で天を仰ぐので、私は息を呑む。彼の口からどのような真実が語られても、平静を保って最後まで聞こうと心に誓い、膝の上で拳を握り締めた。

「昼過ぎのことだ。ランチを終えたオレが出掛ける準備をしていると、ブラザーに聞かれたんだ、どこへ行くのかと。
カラ松ガールに会いに行くと答えたオレに、不審なものを感じたのだろう。部屋にはオレともう一人しかいなかったはずなのに、音もなく忍び寄る他のブラザーたちにいつの間にか囲まれていたんだ」
「……んん?」
まぁいい、聞こう。
「で───不覚にも人質を取られた」
「人質…」
「ハニーと水族館に行った時の写真だ」

子供か!

膝の上で握り締めた拳をツッコミにして、顎の下から盛大にぶち込んでやりたい衝動に駆られる。成人式済ませた大の大人たちが何やってるんだ。
「その後は命からがらブラザーたちから逃げてきたものの、写真はブラザーたちに奪われたままなんだ。奪還には、ある条件をクリアする必要がある」
そう言ってカラ松くんは縋るように私を見た。
嫌な予感しかしない。

「ユーリ、オレのブラザーたちに会ってくれないか?」




それから一週間後、私はカラ松くんの兄弟に会うために松野家の最寄り駅までやって来た。
手土産のケーキを抱えたまま、盛大に溜息を吐く。
本当はあの日これからすぐにでもと嘆願されたが、全力で拒否した。友人の兄弟──しかも全員異性──に突然会いに行くのは戸惑うし、六つ子というのもこの時点で初めて聞いた。
全員ニートでいつでも在宅しているから大丈夫と言われたが、成人男性六人全員ニートなんて、それ何ていう地獄絵図。度肝を抜かれる新情報入手後に、笑顔でサムズアップできるわけがない。
それでも翌週にはこうして赴くことにしたのは、大事な写真だから取り返したいんだと涙目になるカラ松くんに絆された結果である。
深く考えずとも、私が彼の兄弟に会う道理は何一つない。単に好奇の目で晒されに行くようなものだ。

やっぱり帰りたいなと後ろ向き思考になったところで、カラ松くんが私の元に駆けてくる姿が見えた。
「今日も一段とキュートだぜ、ハニー。待たせてしまって、すまない」
「おはよう、カラ松くん」
「…ブラザーたちのことも、本当にすまない」
「止めてよ決心が鈍る。貴重な休日に神経すり減らしに行くんだから、この埋め合わせは必ずしてもらうからね」
もちろんだ、とカラ松くんは首を縦に振った。埋め合わせという言葉に、妙に嬉しそうなのが腹立つ。
「埋め合わせは当然だが、今日は必ずユーリを守る」
「まも…」
待て待て、私が今から行くのは一介の友人宅のはずだ。来客にかける言葉じゃないぞそれ。
「オレの身を犠牲にしてでもハニーの身の安全は保証するから、安心してくれ」
不穏なワードしか出てきてない。
私は何をするためにどこへ行くのだったか。全てが曖昧になっていくような感覚がして眩暈がした。


松野家の前に到着する。町中にある、テナントビルに挟まれている何の変哲もない一軒家だ。
玄関の引き戸を開ける前に、カラ松くんが私に忠告する。
「家の中では、できるだけオレの側にいてくれ」
血に飢えたモンスターでも待ち受けているのか。レベル上げしてから出直した方がいいのでは?
「えっと…中にいるのって、カラ松くんの兄弟だよね?」
怪物や妖怪退治の方がよっぽどイージーモードだぜ、ハニー。だが…ユーリに危害を加えるほどブラザーたちは外道じゃないさ」
そう願いたいところだ。
カラ松くんが玄関の戸を開ける。私は大きく深呼吸して、彼の後ろに続く。
戸車の音を聞きつけてか、玄関の上がり口の奥にある障子がピシャリと勢いよく開いた。思わずびくりと肩が上がる。

私を出迎えたのは、同じ顔をした五人の青年だった。

いや、正確を期すならば六人か。カラ松くんと同じ顔が五つ、いずれも目を瞠って私を凝視する。服は全員同じようで色とボトムスが違う。ひょっとして、互いにそれで見分けているのか。
「あ、あの…」
私が何か言う前に、兄弟が畳み掛けてきた。
「ちょっ…マジで実在してたのかよカラ松!ネットから拾ってきた画像との巧妙なコラだって信じてたのに裏切られた!オレのピュアな心返して!
「え、いや待ってよ、写真よりよっぽど綺麗な子じゃん!カラ松は痛い割に無害な奴だけど、あくまで無害なだけで、プラスの要素は皆無なのにっ」
赤いシャツの青年は床にひれ伏し、緑シャツの彼は早口でまくし立ててきた。
「…クソ松自害しろ」
「わー、女の子女の子!いい匂いするね兄さん!」
紫は毒を吐き、黄色は焦点の合わない目で両手をくねらせる。
一癖も二癖もありそうな濃厚な面子が勢揃いだ。早くもSAN値がガリガリ削られていく
「初めまして、ぼくトド松。今日は来てくれてありがとう、これからよろしくね」
かと思いきや、ピンク色をまとった一番幼気な青年はにこりと愛嬌のある笑みを浮かべて、私に右手を差し出してきた。
良かった、まともな人もいそうだ。そう思って私も手を差し伸べようとした、その時。
「おいトド松!何シレッと抜け駆けして自分だけいい子ちゃんぶってんだよ!そういうとこお兄ちゃん嫌いだな!」
「一番腹黒いくせにホント抜け目ないよね、控えめに言ってクソ
赤と緑がピンクを詰る。
ピンクの青年は傷付いた様子で俯くので、何もそこまで言わなくてもと口を開きかけたが、直後に私は見た。彼が大きく舌打ちするのを。


「いい加減にしないかブラザーたち、客を玄関で立たせてていいのか?」
カラ松くんの鶴の一声。
五人は渋々といった体だったが、兄弟間に向ける爪を隠して私に向き直る。
「は、初めまして、ユーリです」
カラ松くんと同じ顔が目の前に五体は圧巻だ。ただでさえ成人男性が横に五人並ぶと存在感があるのに、顔だけでなく身長や体格に大きな差がないのも、一際圧倒される理由の一つだろう。
「あの、これ、うちの近所にある美味しいケーキ屋さんのケーキです。今日はお招きありがとうございます、良かったらみなさんでどうぞ」
営業用スマイルを作って、私の目の前に立っていた、長兄と思われる赤いシャツの青年に渡す。
「お、やったおやつゲット!サンキュー、ユーリちゃん」
「…天使やでぇ」
「一松兄さん、心の声だだ漏れですがな」
紫と黄色の語りがなぜか関西弁。
助けを求めるようにカラ松くんを見たら、彼は苦笑いを浮かべていたが、兄弟のやりとりを眺める双眸には愛しささえ溢れているように感じられた。
「ユーリ、上がってくれ」
「あ、うん…お邪魔します」
カラ松くんに促されて、式台に腰を下ろして靴を脱ぐ。
「えぇッ、カラ松兄さんユーリちゃんのこと呼び捨てなの!?付き合ってないって話だったけど本気で言ってる?いつリア充にクラスチェンジしたの?
「トト子ちゃんですらちゃん付けなのに、抜け目ないな」
ピンクと緑がカラ松くんに刺々しい視線を向ける。
トト子というのは、初めて聞く名だった。

「───チョロ松、せっかくだしこれ食べようぜ。コーヒーも用意してくんない?」
手土産のケーキを押し付けられた緑はチョロ松という名らしい。チョロ松と呼ばれた彼は、仕方ないなぁと呟いて部屋の奥に消えていく。
そしてその場に留まった赤いシャツの青年は、含みのある笑みを浮かべながら、式台から立ち上がる私の手を取った。
「なぁなぁ、ユーリちゃん。カラ松なんて止めて俺にしない?」
「はぁ?」
同じ顔して口説くのは勘弁してくれ。しかし注意して見れば、声と表情はカラ松くんより軽快だ。
「六つ子だから顔も一緒だしさ。コミュ力と女の子楽しませるスキルなら、ぜってー俺の方があると思うし」
「いや、止めるとか止めないとか以前に、私は…」
「知ってる、付き合ってないんだろ?なら余計ちょうどいいじゃん」

「───おそ松」

カラ松くんが私と彼の間に割って入る。いつになく低い声。萌える。
これが私のために争わないで展開というやつか。まぁ別にどうでもいいが、いつになったら部屋に上がれるのだろう。玄関での攻防がやたら長い。
「ユーリを怖がらせるな」
「何だよ、そうカッカすんなよカラ松。場を和ませるためのお茶目な冗談じゃん」
「お前が言うとジョークにならないんだ」
カラ松くんの意見には同意する。おそ松と呼ばれた彼とは冷静に向かい合ったつもりだが、本気なのか冗談なのか判断がつかなかった。
「ボクら、カラ松兄さんに女友達ができたって聞いて、どんな子なのかぜひ会ってみたかったんだ。でも急でビックリしたよね、ごめんねユーリちゃん」
さぁ遠慮せず上がってと、トド松くんが奥の部屋へ案内してくれる。
カラ松くんは、私の後ろから黙ってついてきた。




通されたのは、松野家の六つ子が日常的に過ごしているという居間だった。部屋の角にテレビが一台と、中央に円形のちゃぶ台が置かれている。
ちゃぶ台を囲むように六つ子たちが思い思いに腰を下ろす姿は、何か和む。
私のために用意されていた座布団を有り難く受け取り、案内された上座に座る。カラ松くんは私の右隣に座った。
その後一通り自己紹介を受けたが、何せどれも同じ顔なので、一度名乗られたくらいでは色と名前が一致しない。
ひと目で判別がつくのは、十四松くんだった。袖が異常に長くて、言動がやたらフワフワしている。明るい狂人と称されていたが、その通り名がこれほど似合う人物もいるまいて。

「でもユーリちゃんみたいな子と友達だなんて意外だなぁ。
カラ松、お前女の子の趣味変わった?」
おそ松くんがからかうようにカラ松くんを肘で小突くが、カラ松くんは何のことかまるで分からないとばかりに首を捻った。
「そうだね。だってカラ松兄さんの好きなタイプって、年上でグラマーで気の強い人でしょ?」
スマホ片手にトド松くんが笑う。松野家で唯一スマホを携帯し、各種SNSにも精通しているのが自慢らしい彼。先ほどアカウントも聞かれた。
なるほどと私は内心で頷く。うん、何か分かる気がする。
「ブラザーたちとそういう話をしたことがあったか?」
しかし当の本人はとんと思い当たる節がないらしく、しきりに腕組みをして唸っている。コーヒーとケーキを運んできたチョロ松くんが、助け舟とばかりに答えた。
「ああ、そりゃみんな知ってるよ。だってカラ松秘蔵のAVシリーズって大体魅惑のお姉さん系───
「わああああああああぁぁぁああぁッ!」
カラ松くんの叫びが轟いた。
テーブルに置かれたコーヒーカップの中身が揺れて、波紋が広がる。
「なっ、なぜそれを…ッ」
「あれで隠したつもりなんだもんなぁ」
顔を真っ赤にしてどもるカラ松くんとチョロ松くんの攻防を興味深く眺めていたら、不意に背中を叩かれる。振り返ると、背中を丸めた一松くんの仏頂面が近い。
「ほら、これ…」
す、と差し出されたのは、魅惑のお姉さんシリーズのパッケージたち。セクシーな流し目で誘いつつ、溢れんばかりの豊満な胸を手のひらで隠す仕草は、同性でもドキリとする。
思わず、おおう、と声が出た
「すごい、これが…」
「あんさんも物好きでんなぁ」
「いやいや、一松くんには構いませんよ。おお、このウェーブヘアのお姉さんは、特に使い込まれた感があって───」
「ハニイイイイィイィィッ!」
カラ松くんは叫ぶのに忙しい。

「一松っ!ユーリにそういうのを見せるのは止めてくれ!」
一松くんと私の間に割り込んで、カラ松くんは床に散らばったDVDを回収する。私は彼を安心させるため、彼の肩を優しく叩いた。
「大丈夫、下ネタズリネタどんと来いだから。これくらい全然序の口、シラフでも余裕レベルだよ」
「いや逆に辛い!オレの性癖ネタにされるのは心折れるから止めて!」
あ、これ素だ。
下手に照れて拒絶反応を示すよりはよほどフォローになると思ったが、傷を抉ることもあるようだ。
「まぁ、好きなオカズと好きなタイプって全然違ったりするよなぁ、知らんけど
「分かる分かる~、単なる性欲解消と恋愛は全然違うもんねぇ。
カラ松兄さんもユーリちゃんには、そうなんだよね?」
おそ松くんが指先で鼻を掻きながら言い放った適当な台詞と比べると、十四松くんの言葉にはどこか説得力がある。
「んんんっ!?な、何のことだマイリル十四松?
オレとハニーは…別に、そんなんじゃ…っ」
「そうなの?じゃあユーリちゃん、今度ぼくとデートしようよ!」
「それは許さん」
間髪入れず、カラ松くんは真顔で却下する。


「何だよカラ松、ノリ悪すぎ。調子狂うなぁ、もう」
おそ松くんが唇を尖らせた。
「トト子ちゃん相手の時は、全員揃ってアプローチするのに全然抵抗ないじゃん。
超絶可愛い姿を間近で見せてもらえるだけでご褒美みたいな感覚だったくせに、ユーリちゃんの場合は俺たちのお触り禁止って何それ、マネージャー気取りかよ」
ちょっと待て、私の推しに推しキャラがいるのは聞き逃がせない
「トト子ちゃんって?」
「俺たちの幼馴染みたいな子で、マドンナ的存在の超可愛い子!今はアイドルやってるんだぜ。
今まで色んな女の子に会ってきたけど、何だかんだで結局トト子ちゃんが一番可愛くて、俺たちのことも分かってくれてて、離れられないんだよなぁ」
「ほら、この子だよ」
トド松くんがスマホで写真を見せてくれる。
ツインテールとカチューシャが印象的な可愛い女の子が、裏ピースを作ってカメラ目線で笑顔を向けている。彼女の背後で、トド松くん以外の松野家兄弟が死屍累々の如く積み重なっているが、そこはスルーすべきなのか。
「へぇ、みんなこういう子が好みなんだ」
素直な感想で、他意はなかった。六つ子全員が首ったけになるのも頷けるほどの美人だ。
「ユーリ、違───」
「でもユーリちゃんも可愛いし、せっかくの縁だし、もっとお近づきになりたいんだよね。
まずは俺たち六つ子と友達からってのはどう?」
カラ松くんが何か言いかけた上に、おそ松くんが被せる。
「友達になるのは大歓迎。こちらこそよろしくね」
にこりと微笑んで了承すれば、おそ松くんは鼻の下を指でこすった。ガキ大将が照れ隠しにするような仕草で、悪い印象はない。
「ユーリちゃんと友達になれるのは嬉しいけど、おそ松兄さんのその言い方は不安要素しかないなぁ。まずは、って何だよ。何も下心がないといいけど」
「うっせーチョロシコ松。下心の膨張率はお前が一番高いの俺は知ってるんだぞ」
「誰がチョロシコ松だ!どストレートにエロトークかまして女の子ドン引きさせるのがデフォのエロクソ長男に言われたくねぇよ!」
「一見紳士面して、頭の中ではドエロ展開させてるむっつりよりは清々しいだろーが!」
長男と三男が互いに胸ぐらをつかみ合い、ガンを飛ばす。他の兄弟が誰も制止しないところを見ると、いつものことなのか。

何だコラやんのかコラと罵り合う二人の隙間を掻い潜るように、カラ松くんが私の傍らにやって来る。
「ち、違うんだハニー。
トト子ちゃんは、何というか、昔からの憧れで…今は、ユーリがいるから、その…」
歯切れが悪い。適切な表現ができず苦戦しているようなので、助け舟を出す。
「トト子ちゃんは、アイドルみたいな感じってこと?」
「…そ、そうなんだ!」
必死に弁明しなくてもいいのに、と私は吹き出しそうになる。
「───ヒヒッ、果たしてそうかな?
トト子ちゃんにおれたち全員が個別に呼び出された時、バスローブ着てワイングラス揺らしてたクソはどこのどいつだったかな…」
不覚にも吹いた。
一松くんの不意の一撃がツボに入ってしまった。いつの時代のトレンディドラマだ。
「あははっ、何それ!カラ松くん気合い入れすぎ!」
「あわよくばワンナイトを期待するのは分かるけど、バスローブで寝室待機は通報案件だよねぇ」
「クソ松がクソ松たる所以だよな」
四男と末弟に散々な言われようだ。案の定、カラ松くんは涙目で肩を震わせている。
「ま、まぁまぁ、ほら、私は全然気にならないからさ。チビ太さんのとこで聞いた話と同じで、マイナス印象は全くないよ」
「えっ!?ユーリちゃん、カラ松とチビ太の店行ったの!?」
チョロ松くんと喧嘩していたはずのおそ松くんが反応した。本当忙しないな松野家の六つ子たちは。
しかしその騒々しさのおかげで、体が強張るほど全身を駆け巡っていた緊張の糸は、いつの間にかすっかり解れていた。