アスレチックとハイブリッドおでん

「実はオレ、ニートなんだ」
ハニーに話しておくことがあると、いつになく真剣な眼差しでカラ松くんから申し出があった時、私の財布から現金をちょろまかしたとか引っ越しするから遠距離になるとか、どんな爆弾が飛び出すのかと内心ひどく動揺したものだ。
だから告白されたその内容が別段大したことがなくて拍子抜けしたら、逆にカラ松くんに驚かれた。
「オレの話を聞いてたのかユーリ!?
高校卒業から社会人経験ゼロ歴を絶賛更新中のニートなんだぞ!」
「卑下してるのか誇ってるのか分からない言い方すんな。っていうか、ニートだから何なの?
そりゃその年でっていうのはまぁアレだけど、私と遊ぶのに何か不都合ある?」
手を振って追い払うような仕草をしたら、カラ松くんは鳩が豆鉄砲食らったような顔になる。
「ん、そうか、お金がかかるレジャーは厳しいか。それくらい?」
「は、ハニー…?」
「何その顔。別に私に迷惑かからないし、カラ松くんがニートでも自宅警備員でも全然気にならないよ」
費用をかけずとも遊び倒す方法はいくらでもある。楽しみ方を変えればいいだけの話だ。
私がそう言うと、カラ松くんは地獄から生還したように生気のある顔になり、勢いよく前髪をかき上げた。彼の背後に大量の薔薇が見えた気がしたが、幻覚か。
「フッ、さすがはオレが選んだミューズだ。キュートなスマイルが三割増しでいつも以上に輝いて見えるぜ」
彼氏にするとか結婚ってなったら、全力でお断りさせていただくレベルだけどね」
「───バイト探す」
「へ?」
ユーリに釣り合う男になる」

何なんだ。
まぁ、専業主夫路線に全力投球しない辺りは評価したい。




さて、カラ松くんが清々しくニート報告をしてくれたので、今後の遊びはその前提を踏まえたものにする必要がある。
公園のベンチで作戦会議を開いたところ、数駅先の広大な緑地公園に大人向けの本格的なアスレチックがあるという。市営アスレチックのため、使用料は何とワンコイン。屋外でも比較的過ごしやすい新緑の季節、アウトドアで一汗流すのもオツだという結論になり、ティシャツと伸縮性のあるデニム、スニーカーという本気スタイルで挑むことにした。
デザイン度外視で動きやすい服をチョイスするようにと命じたら、青いティシャツにスキニーデニムという安パイで来てくれた。本当にありがとう。
「まずは準備運動をしようじゃないか、ハニー」
「おうよ!」
本格アスレチックに挑む前に、バドミントンやサッカーボールのパス練習で体を慣らしていこうというカラ松くんの提案である。遊び半分の球技で推しとキャッキャウフフできるなんて何という甘酸っぱいイベントか、と提案を受け入れた時は思ったものだ。油断した。

カラ松くんが脳筋ゴリラだと知っていたら、全力で拒否したのに。

バドミントンの羽はカラ松くんのスマッシュ時に地中を抉るように埋まり、サッカーボールは文字通り星になった。サッカーボール消滅時に至っては、真横を通った風圧で私の右耳付近の髪を数本持っていったものだから、反射的にグーで殴った。殺す気か。
「すっ、すまないユーリ!ブラザーと運動する感覚で、つい…」
「つい、で殺されてたまるか!」
ちぎれた髪がはらはらと地面に落ちていく。顔色を変えたカラ松くんが私の傍らに駆け寄り、右側の頬を優しく撫で上げた。指先がそっと耳朶に触れる。
「怪我はないか?本当にすまない。ユーリに怪我をさせていたら、オレは───」
近距離での潤んだ瞳と上擦った色っぽい声は危険だ、押し倒したくなる。衝動に任せて不埒を働かないよう、私は息を止めて体を硬直させた。
しかしカラ松くんはそんな私の態度を緊張と誤解したようで、耳まで赤くして手を離す。
「あ、いやっ!…その、ハニーに傷をつけたら…責任は取る。もちろん傷をつけるような真似は絶対しないが、その覚悟はしてる、つもりだ」
ナチュラルに口説いてくるの本当止めていただきたい。
本人にその自覚はないのだろう、私に対する申し訳なさでその時その時の本音を口にしているだけなのだ。逆に尊敬する。え、これどうしたらいいの尊い。


準備運動になったような、なっていないような、よく分からない脳筋劇場を見せられた後、私たちはアスレチックへと挑む。
全長一キロに渡る、丸太渡りやターザンロープ、ロープ渡りに斜面ネット登り、定番の雲梯といった、市営とは思えぬ完成度の遊具が順番に配置されている。随所随所には監視スタッフも配置されている。
本格的なアスレチックを前に、スタート前から胸が弾んだ。
「ハンデつけて競争しようよ、カラ松くん」
「望むところだハニー、オリンピック選手も裸足で逃げ出す華麗な美技を見て、フォーリンラブするんじゃないぜ」
「よし───ではここに、2キロのアンクルウェイトが2つあります
「ユーリ、どこから出したのかは聞いてもいいやつか?」
カラ松くんが一瞬素になる。
「カラ松くんは両足首にこれつけてスタートね。あと1キロのリストウェイトもあります
「勝つために手段を選ばないハニーの心意気は買おう」
リストウェイトをカラ松くんに手渡し、私は彼のくるぶしにアンクルウェイトを巻きつける。片手で持つだけでもずしりと重い。
屈む私を見下ろす形になったカラ松くんは、なぜか目を反らして照れていた。
「ユーリ…こ、この角度はまずい」
「は?」
「その…伏せた目に睫毛がかかる表情が、ひどく扇情的だ」
マニアックな性癖キタ。
気の強い女が跪く姿がサディズムを掻き立てるならいざしらず、そんなレアな部分で欲情しないでほしい。
「…そんなものより、両手両足にウェイトをつけられて、まるで拘束されたのようなカラ松くんの方がよっぽどイヤラシイよねぇ」
「え?何か言ったかハニー?」
「ううん、何にも喋ってないよ☆」
スナップをきかせた手首を顎に当てて、うふふと微笑む。危ない、口が滑った。

勝負のルールは簡単。
相手に物理的な妨害を仕掛けない、他の挑戦者に迷惑はかけない、先にゴールに足がついた方が勝者。
そして敗者は勝者に好きなだけおやつを奢る。至ってシンプルなものだ。
「よーい、ドン!」
私の掛け声で一斉に地面を蹴った。

次の瞬間、私は彼に勝負を持ちかけたことを最高に後悔する。

カラ松くんから目を離した、ほんの一瞬の出来事だった。
重力を無視した超人的な跳躍と身体能力で、障害物をもろともせず疾風の如く駆け抜けていく。ああそうだ、カラ松くんは脳筋だったな。
ゆらゆらと揺れる丸太渡りは、丸太を吊り下げているロープにつかまるどころか、足を載せた丸太が傾くまでのほんの僅かな時間に、数個先の丸太に移動。斜面ネット登りは体重を感じさせない軽やかさであっという間に天辺だ。妖精かな?
そしてハンデとは何だったのか
「あ、あのゴリラめ…ッ!」
必死に追いかけるが、天と地ほどの能力差を見せつけられるだけだ。背中を追うべくスピードを重視するあまり、技術が追い付かない。
私がコースの三割も行かないうちに、カラ松くんのスニーカーがゴールの地を軽やかに踏み抜いた。
ベテランと思わしき監視スタッフも、彼の身体能力には目を丸くしている。
カラ松くんはシャツについた砂を払い、それから私に気付いて、高台の上から大きく手を振った。小さくしか見えないけれど、笑顔が眩しい。ああくそ、ムカつくけど可愛い。


敗北は確定したが、ゴールするまでがアスレチック。半分ほど到達した時点で、私の息はこれでもかとばかりに上がっていて、日頃の運動不足が悔やまれる。
カラ松くんが跳躍してクリアしたクモの巣ネットをのそのそと下り終え、五メートルほどの高さの斜面をロープで登るステージへ辿り着いた。既に体力を削られているため、手の力は体力マックス時の七割出るかどうか。
登りきれるか断言できないが、挑むしかない。
「ハニー」
ロープを握って斜面に足をかけたところで、頭の上から声がした。
「か、カラ松くんっ」
カラ松くんが、斜面の上部から顔を覗かせている。その額には一筋の汗も浮かんでいないのだから、開いた口が塞がらない。
「額から流れる汗と上下する肩がセクシーだぜ、さすがは神々のいたずらで地上に降り立った魅惑のエンジェル」
「からかいに来たならゴールに戻ってくれない?ここが正念場なんだから」
切れのいいツッコミを考える余裕もない。口から言葉を吐けば、その分だけ腕から力が抜ける。
斜面を半分ほど登ったところで右腕をロープから外して、さらに上部をつかもうとした───が、足を滑らせて右手は虚空をつかむ。体が後ろに傾く。これはまずい。
「ユーリッ!」
名を呼ばれたところまでは、覚えている。

次に気が付いた時には、カラ松くんに腰を抱きかかえられた状態で宙に浮いていた。もう一方の彼の手は斜面に垂れ下がるロープを握っている。

「ハニー、怪我してないか?」
「え…えっと、大丈夫…だと思う」
「そうか、ならよかった」
カラ松くんはにこりと破顔する。今にも肌が触れてしまいそうなくらい、彼の顔が目と鼻の先だ。
「ご、ごめんカラ松くん!私は大丈夫だから、重いし、下ろし───」
「このまま登るぞ、離れるなよ」
そう言うとカラ松くんは私の腰を一層抱き寄せ、斜面を蹴り上げた。軽々とした動作だったが、重い一撃だ。その反動を利用して私たちの体が頂に着地する。
着地寸前にカラ松くんの片手が私の膝裏に添えられ、プリンセスホールドさながらの体勢でふわりと降り立つ形になった。何という紳士。っていうかゴリラマジゴリラ。
「はは、どこが重いって?
ブラザーたちに比べたら、ユーリはフェザーみたいなもんじゃないか。腰も細いし、まるでガールだな」
申し訳ないが、その発言には異議を唱えざるを得ない。
「女ですが」
「…え?」
凍りついた後、私の腰に回っている左手の存在に気がついたらしい。直後、ズザザと音を立ててカラ松くんが飛び退いた。コントか。
「わーっ!ご、誤解だっ、すまないユーリッ!
そ、そういう変な下心はなくてだな、とにかく助けたい一心で…その、気安く触るつもりは全然なくて…」
タコみたいに顔を赤く染めながら、地面の上で正座する。弁明が進むにつれて少しずつ音量が落ちていくのは、釈明は受け入れてもらえないだろうという自信の欠如のようにも感じられた。
根拠のない自信に満ちあふれているかのようで、本当は誰かからの信頼を渇望している。
「……信じてほしい」
絞り出すように紡がれた言葉。
救いを求めるかのような懇願だった。

「当たり前でしょ、信じるよ。危ないところを助けてくれたのに、誤解なんてするわけない」
地面についた彼の手を取って、私は笑う。私を助けるために服が汚れてしまっても、文句一つ言わずに気遣うような人なのだ。
「ありがとう、カラ松くん」
このままいい雰囲気っぽいところで終わらせておこう。推しの顔が近すぎて鼻血噴出寸前だったなんて、口が裂けても言わないでおくべき台詞だ。
地面についたカラ松くんの右手を取って、私はその無骨な手の甲に口づけた。
「…いっ!」
「さぁ、ゴールまであと半分。エスコートしてもらえるかな、カラ松王子?」
大袈裟な口調でおどけてみせれば、カラ松くんは頬を朱に染めながら笑って、私に手を取られた体勢のまま立ち上がる。
「オフコースだ、マイレディ」


それから私はカラ松くんに先導されながら、息も絶え絶えにアスレチックのゴールに辿り着く。日頃体を動かしていない社会人の体力のなさを舐めていた。明日は間違いなく寝込む。
ただ、いつになく楽しそうにはしゃぐカラ松くんを見ていたら、疲れなんて吹っ飛んでしまうから不思議なもので。
「カラ松くんがこんなに脳筋だなんて想像しなかったよ」
「のうき…?
ニートのマイナスイメージを払拭するのはちょうどいいと思ったんだが、ハニーのその様子じゃあまりグッドインプレッションではなかったようだな」
「だから、別にマイナスイメージじゃないってば」
「幻滅される要素の方が多いから、少しでもユーリにはいいところ見せたかったのにな」
何度もないようにカラ松くんはそう言ったが、目の奥に翳りが見えたのを私は見逃さなかった。
この時私は、どう答えればよかったのだろう。

彼が所望したアイスとスナック菓子を、公園に隣接するコンビニで購入してから、アスレチックの近くまで戻ってベンチに腰かける。私はリュックから除菌シートを出して、一枚カラ松くんに差し出した。
「はい、これで拭くといいよ」
「嫌だ」
「は?」
「拭いたら、ハニーのキスが消えるじゃないか」
早くも忘れたい黒歴史を思い出させるな。
「拭かなきゃ雑菌やら何やらが増殖するでしょう!ああもうっ、いいからとっとと拭けーっ!」
静かな緑地公園に、私の叫びがこだました。




コンビニで買い込んだスナック菓子をつまみながら他愛ない会話に花を咲かせていたら、時刻は夕方の六時を回っていた。
少量ずつを定期的に口に入れていたから、がっつり食事を摂りたいという気分ではないが、夕食を抜くほどの満腹感ではない。フードコートやファストフード店で軽く食べて帰ろうかと私が提案したら、それならいい場所があるとカラ松くんが言うので、彼の案に乗ることにした。

とある公園の側に案内され、そこにあったのは今時珍しいリアカータイプの屋台。ハイブリッドおでんという珍妙な看板が掲げられている。
カラ松くんは慣れた様子で屋台に近づき、暖簾をくぐった。手招きで誘われるので、私も恐る恐るといった体で彼の隣に並んで椅子に腰を下ろす。
什器の中では様々なおでんの具材がぐつぐつと煮込まれていて、香ばしい出汁の匂いが食欲をそそった。立ち上る湯気の奥で、大将とおぼしき男が声をあげる。
「へいらっしゃ…何だカラ松か」
男と呼ぶには幼気なスキンヘッドの青年(少年?)が、カラ松くんの顔を見るなり気安い言葉をかける。どうやら顔馴染みらしい。
「今日は一人か───って、え?……ええぇぇえぇぇぇッ!?」
カラ松くんを一瞥した直後、傍らに並ぶ私の存在に気がついたらしいが、目が合うなり絶叫された。
「そんな大声出さなくてもいいだろう、チビ太。オレだってカラ松ガールズの一人や二人連れてくるさ」
「ユーリです、初めまして」
カラ松ガールズじゃないけど、と訂正するのは何となく面倒だったので省略する。
「お、おいらはチビ太だ、よろしくユーリちゃん───じゃなくて、えっ…カラ松、お前ついに彼女できたのかよ!」
「フッ、ヴィーナスをも魅了するオレと、ゴッドに愛されしマイエンジェルユーリが出会ったのは運命のいたず───」
「友達です」
カラ松くんの痛い台詞をバッサリと切り捨てて断言する。
「ははは、言われてやんの」
「ほ、放っといてくれっ!
…まぁいい。ハニー、チビ太とはオレたち兄弟が子供の頃から付き合いだ。口と性格は悪いが、おでんの味は保証する。何が食べたい?」
「どれも美味しそうで迷うなぁ。それじゃあ、まずは大根とこんにゃくと卵と、あと牛すじで」
「チビ太、二人前で頼む」
あいよ、とチビ太さんは応じて、慣れた手付きでおでんの具材を皿に載せていく。
「いやぁ、カラ松が女の子連れてくるなんざ、明日は雪でも降るんじゃねぇか。しかもこんな美人、おめーにはもったいなさすぎだろ」
お世辞のうまい大将ですこと。もっと言ってくれていいのよ。
「ブラザーたちには、しばらくシークレットにしておいてくれよ、チビ太」
カラ松くんは、異性の友人の存在を兄弟に知られるのを恐れている。よほど不味い事情があるらしいのだが、私にはまるで想像できない。けれどチビ太さんは彼の一言で全てを察知したようで、眉間に皺を寄せて深く頷いた。
「サービスするからたくさん食べていってくれよ、ユーリちゃん」
「はい、いただきます!」
両手を合わせてから、おもむろに割り箸を手にする。パキンと割り箸を割る音が小さく響いた。


「───でよぉ、こちとらカラ松を誘拐したって言ってんのに、あの兄弟誰も心配しやがんねぇでやんの。あん時ゃ、さすがのおいらも肝が冷えたな」
他に客がいないのをこれ幸いと、チビ太さんはカラ松くんの悲惨すぎる壮絶な過去を次々披露してくれた。エピソードは尽きることを知らず、私は一度吹き出したらもう駄目だった。抱腹絶倒とはまさにこのことで、笑いすぎておでんを食べるどころではなく、涙も止まらない。
すぐ隣ではカラ松くんが憮然とした表情でおでんをつついていて、さすがに申し訳なくて声をかけようとするのだが、ここにきて思い出し笑いが加わって息もできない。
「ハニー、いくら何でも笑いすぎじゃないか?」
隣に本人がいるんだぞ、とカラ松くんは拗ねた様子。
「は、はひ、ごめっ…だって、いちいち面白いことやらかしてる上に、カラ松くんの扱いが尋常じゃなく不遇のコンボはきっつい」
「女の子をおいらの店に連れてきたら、こういう話になるに決まってんだろ、バーロー。何期待してたんだカラ松」
呆れ顔になるチビ太さんの向かいで、カラ松くんは琥珀色の液体を煽った。
「さすがにそこまで話す必要ないだろ…」
「盛り上がったじゃねぇか、なぁユーリちゃん」
チビ太さんはどこに問題があるのかと言わんばかりだ。その事実に相違はないので、私は深く同意しておく。

しばらくして、不意にカラ松くんが意味ありげな視線をチビ太さんに投げた、ような気がした。ただ彼の顔を見ただけなのかもしれないけれど、チビ太さんは直後僅かに目を瞠って、あ、と思い出したように声を出した。
「悪ぃ、釣り用の千円札金が切れそうなのを忘れてたぜ。
ユーリちゃん、ちょっとここ見ててもらえるか?すぐ戻ってくるから」
「あ、はい、いいですよ」
私が返事をするや否や、チビ太さんは財布を持って駆けていく。小柄な後ろ姿は、今でも少年で通用する。
「今日は一年分笑ったなぁ、カラ松くんたち武勇伝持ちすぎ。でもカラ松くんが嫌な思いしたなら、ごめんね」
「ハニーのキュートなスマイルを見れるなら、オレはいくらでもピエロになろう」
カラ松くんはいつもの気障ったしらい口調と仕草でポーズを決める。しかしすぐに元の体勢に戻り、唇に緩い笑みを浮かべて私を見やった。

「言っただろ?幻滅されることの方が多いって」

風が吹いて、ゆらゆらと屋台の暖簾が揺れる。
氷と液体が注がれたガラスコップに触れる私の指に、つと透明な水滴が垂れた。辺り一帯を包むのは、虫の鳴き声が微かに聞こえる程度の静寂。

「やだなぁ、今までの話のどこに幻滅する要素があるの?」

「へ?」
「付き合いが長くて、大人になっても馬鹿に付き合ってくれるなんて、いい友達じゃん。
幻滅どころか胸張って自慢できることだよ、カラ松くん」
カラ松くんは目を見開いた。そんな風に考えたことなどなかった、とでも言うかのように。
「そう、なのか…」
「いい友達持ったね」
羨ましいくらい、と私が本音を紡いで微笑めば、驚きの表情を浮かべていたカラ松くんはやがて照れくさそうに私から視線を反らす。
私はそんな彼の様子を横目で眺めながら、味の染みた大根を箸で二つに割り、口の中に放り込んだ。

「よぅ、客なのに店番させてすまねぇなユーリちゃん」
そういうしているとチビ太さんが駆け足で戻ってきた。いえいえ何もしていませんよと手を振って返す。
「ん?何だカラ松、顔が赤いぞ。酔ってんのか?」
「……そうかもな」
カラ松くんは手で口元を押さえる。チビ太さんに見られたのが気まずそうだ。
「烏龍茶しか飲んでねぇくせに」




ひとしきり堪能して、夜は更けていく。軽く食べて一時間程度で帰る心積もりだったが、いつの間にか日はどっぷりと暮れて、黒い夜空に星が瞬いている。
「すっかり遅くなっちゃった。そろそろ帰ろうかな」
ごちそうさまでしたと両手を合わせたら、チビ太さんは嬉しそうに笑った。
「楽しかったから、ここは私が出すね」
「ハニー、それは──」
「いいからいいから。美味しいおでんと楽しい話のお礼」
そういえば、カラ松くんと夜まで遊び倒したのは初めてだ。
異性と二人で出掛けるなんて、そう何度も続かないだろうと当初は思っていた。
けれどカラ松くんとは思いの外フィーリングが合うもので、話が途切れた沈黙さえまるで気にならない。レディファーストは徹底するし、さり気なく道路側を歩いてくれるし、気遣いも紳士レベルなのだが、聞き手を苛立たせる痛い言動が全てを相殺している。
逆に言えば、それさえなければモテるのではないだろうか。
たぶん、顔も悪くないのだし。

「ユーリ」
カラ松くんが私の名を呼んだ。
「夜も遅い、送っていこう」
ほら、こういうことが自然とできるのだ、カラ松くんは。
「あ、いや、家を知られるのが嫌なら、近くまででもいいんだ。オレが誘って遅くなったんだし、帰るまでのユーリのガード役にさせてくれないか?」
私が唖然としたのを勘違いしたらしい、慌てて両手を振ってやましい気持ちがないことを強調する。
「他意はないって分かってるよ。ちょっとびっくりしただけ。
でも送ってもらうと、カラ松くんが遠回りになりそうなんだけど、いいの?」
「送らせてほしいんだ」
そこまで言われては断れない。

「そっか、じゃあお言葉に甘えて」
私が答えると、またなチビ太と屋台の奥に言葉を投げて、私の隣に並ぶ。デニムのポケットに無造作に両手を突っ込んだ格好で。
「こっちの方角でいいか、ハニー?」
「うん、ありがと」
隣に並ぶことに、いつの間にか違和感がなくなっている。初めて二人で出掛けた時は、一応異性だという認識が自分の中にあって、大なり小なり緊張したものだが、今や私のパーソナルスペースに侵入されても大した拒否感はない。

肩が触れ合いそうな距離の中、私たちは帰路に着いた。

水族館ではしゃぐ大人二人

水族館の割引チケットは、健保組合の季刊誌についてきたものだ。
元々の入場料が高額のためなかなか気軽に行けなかったが、割引券を入手できた上に興味をそそられる館内イベント開催期間中とあっては、行かざるを得ない。友人を誘おうとしていたところだったから、カラ松くんの登場はちょうどよかった。


現地に到着し、チケット売り場に並ぶ。時刻は午後二時を回っていたが、売り場には数十人という列ができていた。窓口は二つあり、チケットをさばく受付嬢の見事な手さばきから見るに、待機時間は数分というところだろう。
「この間からチンアナゴの展示が始まってるんだよ。みんなもそれを見に来たのかもね」
チケット片手に私は浮足立つ。一刻も早く中に入りたい。
「ハニー…オレの聞き間違いかもしれないんだが、何を見に来たかもう一度言ってくれないか?
「何って───チン・アナゴ」
カラ松くんの意図することを汲み、私はわざと前半にアクセントを置いて、ゆっくりと口にする。
案の定、カラ松くんは腕を組み目を閉じた格好のまま、顔を赤くした。これ絶対勘違いしてるやつや。
「これこれ、こういう細長い魚だよ」
チラシを見せると、ようやく腑に落ちた様子で胸を撫で下ろす。
「テレビで観たことある気がするな。確か、体の半分が砂の中にあるんだろう?」
「そう、最近は有名になってきたもんね。一回実物見てみたかったんだけど、ここの水族館入場料高いからもう何年も来てなくてさ」
「オレは今日ユーリと来たのが初めてだ」
そんな返事がくるとはまるで予想していなかったから、思わず目を瞠ってしまった。
「男同士で行くような場所じゃないしな。
オレの初めてをハニーに捧げよう、感謝してくれていいんだぜ」
「誤解を生む発言は自重しようか」
そうこうしているうちに、自分たちのチケット購入の番が回ってきた。カラ松くんが自分の分の料金を私に渡して、私がそこに割引券と一人分を追加して窓口に支払う。
自然な流れだったが、待て待て、まるでカップルみたいな共同作業じゃないか。何シレッと支払ってんだ私たちは。




館内に入って早々にも人の列ができていた。見て回るのに時間がかかりそうかと思いきや、各種展示コーナーに続くエスカレーターの前に記念撮影コーナーがあって、その待機列である。
この水族館で人気のあるジンベイザメの模型と並んで、スタッフが無料で一枚撮影してくれるというものだ。撮影した写真は、帰りに出口で貰えるらしい。
今日の日付が入ったボードの前に立つ家族やカップルの、幸せに満ちた笑顔が眩しい。そういえば数年前に手のひらサイズの写真を貰ったような記憶があった。
「ちょっと並ぶけど、せっかくだし写真撮ってもらう?」
「ハニーがそう望むのなら、フォトの一枚や二枚喜んで撮ろうじゃないか」
「楽しみだね~」
男女一人ずつという組み合わせで写真を撮っている者は多いが、肩を寄せ合ったり、抱き合ったりと、いずれにしても非常に距離感が近い。
何気なく隣に立つカラ松くんをちらりと見やると、期待に満ちた双眸で撮影コーナーを見つめている。楽しみにしていらっしゃるご様子。
「ジンベイザメ、イカしてるなぁ」
そっちか。
ポーズを決めかねているうちに順番が来て、カラ松くんはジンベイザメの口元に立つ。手招きされて横に並んだ時には、彼はもうカメラのレンズに視線を向けていた。


混雑していたのは記念撮影コーナーまでらしく、一旦館内に入れば客は程よく流れている様子で、窮屈さは感じられなかった。
釣りが趣味だというカラ松くんは、アジやヒラメといった食卓に並ぶ類の魚に関心が向くようで、都度水槽の前で立ち止まっては興味深げに覗き込んでいる。
私はというと、一歩下がってカラ松くんのそんな姿を眺めるのが楽しくて仕方ない。ぽかんと口を開けたまま水槽上部を見上げる彼は、幼い子どものようだった。

とか言いつつも私自身、途中で発見したチンアナゴ展示コーナーで、ガラスに顔を貼り付ける勢いでガン見している姿をカラ松くんに見られて、爆笑されるというオチが待っていたわけだけれど。
「聞いてよカラ松くん!チンアナゴってこんな愛嬌ある顔してるけど、巣穴に入る時はくねくねしてしっぽから入ったり、巣穴は粘液で固めて崩れないようにしたり、集団で暮らしてて漂ってくるプランクトンがご飯だったり、よく似てるけどチンアナゴとニシキアナゴは違う種類で───
「ハニーのそういうところ、オレはいいと思うぜ」
ちゃんと聞けよ。
カラ松くんは、よく見ないと分からないくらいのチンアナゴの小さな動作を見逃すまいとする私の真横に並んで、事もあろうに私の顔を見つめてくる。
「な、何かな、カラ松くん?」
「いや何、水槽を見つめるハニーの瞳に散りばめられた光の美しさに、言葉もなく立ち尽くしているだけさ。オレがギルドガイなら、ユーリはさしずめギルドレディだな」
逆チンアナゴの刑に処してやりたい。


ペンギンやイルカといった人気のコーナーを過ぎて、この水族館のメインとなる水槽はもう目の前だ。
「カラ松くん、この先ジンベイザメの水槽だって」
「おお、ついに…っ」
通路を進んだ先に、建物の高さにして三階分相応の円柱の巨大な水槽がそびえ立っていた。
分厚いアクリルの板を挟んだ先で、全長十数メートルはあろうかという巨体が優雅に体をくねらせている。
こちら側と向こう側。それぞれに広がる異世界が、今はすぐ側にある。手を伸ばせば届くくらい、近く。
「アメージングだな、ユーリ」
「うん、すごいね」
自分がひどく小さく見える。小人にでもなった気分だ。
「カラ松くん、ジンベイザメと写真撮ったげるよ」
こんな気持ちを何と表現すればいいだろう。
私は周囲に人が少なくなったのを見計らって、後ろに下がりながらスマホのカメラを起動する。
ああ、そうだ、これは───

「非現実的だね」
「うん?」
「生息地を考えればジンベイザメと私たちは交わらないはずなのに、今はこんなに側にいるなんてさ。ファンタジーみたいな」
スマホのレンズをカラ松くんに向ける。彼はジンベイザメの水槽に片手を添えるようにして、少し笑っていた。
「オレはずっと、非現実的な感覚がしてる」
薄暗がりの中、ディスプレイの中のカラ松くんと視線が絡む。

「ユーリと出会えた瞬間から、夢の世界にいるような気がしてるんだ」

カシャリ、とシャッターの音が小さく響いた。
何となく無言のままカラ松くんの傍らに戻ると、彼は口元を手で押さえて私から目を逸らす。
「えーと…」
「き、聞かなかったことにしてくれないかハニー」
「何で?」
「いや、何でって…その、口が滑ったというか、言葉の綾というか…」
彼の言い訳を聞き流しながら、私はスマホのアルバムアプリをタップして、先ほど撮影したばかりの写真を開く。ジンベイザメを背にして、柔らかな笑みを浮かべるカラ松くんが写っている。
「非現実ってさ、現実にあらずって書くでしょ?」
「あ、ああ…」
「泡みたいに消えるわけじゃないんだし、とっとと現実にしてもらわなきゃ困るよ、カラ松くん。
いつか覚める夢と違って、この現実はこれからも続くんだからさ」
うん、いい写真が撮れた。服はファストファッションとはいえ、革靴と腕時計が程よくアクセントになっていて、いいスタイルだ。
「ユーリ…」
「この先進んでいくと、また違った角度でジンベイザメが見れるんだよ。
私たちが見てるお互いの姿も、氷山の一角。いつ相手を好きになるかなんて分からないし、逆にいつ幻滅するかも分からない。どうなるか分からないから人間関係は面白いよね」
先手を切って私が歩を進めると、カラ松くんはすぐ後ろをついてくる。
「確かに、今ユーリに見せているオレもまた、松野カラ松のほんの一部だったな。一部というか欠片というか……でも、例え君の氷山の隠れた部分を見ても、オレはきっと───」
「あ、イワシの大群がいるよカラ松くん。煮付けにしたら絶対美味しいやつ!」
「ハニーのお望みとあらば、ガイアに降り注ぐレインの数だけ釣ってきてやるさ」
「いいね!」
釣りたてのツヤツヤして引き締まった魚を考えるだけで涎が出そうだ。約束だよ、と声をあげたら、オーケーユーリ と弾む返事。
また会う新しい約束を取りつけながら、楽しい時間は過ぎていく。




いつしか薄暗闇を抜けて、出口に着いた。眩しくて目を細めたら、カラ松くんも同じ顔をしていたので、やっぱりどうしてもこんな顔になるよね、と肩を竦める。
入退場ゲートのスタッフに写真の引換券を渡して、小さな写真を受け取った。私とカラ松くんが並んでポーズを取っているものだ。
「ユーリ、それ見せてくれないか」
「いいよ」
写真の中のカラ松くんは、片足に重心をかけながら腰に手を当てている。顔は斜め四十五度で、口元にはニヒルな笑みを浮かべたポーズ。
で、私はというと───
「なっ、ちょっ…ハニー、これは…ッ」
「いい感じでしょ?」

カラ松くんとまったく同じポーズなのだった。完コピは無事成功、いい仕事した。充実感すごい。

「ああもう…君は本当に、オレの予想を超えることばかりするな」
「普通に撮っても面白くないしねぇ。家に飾ってくれてもいいのよ」
「……本当に?」
「え?」
マジで?

冗談ですごめんなさい止めてくださいと言いかけて、思い留まる。手のひらサイズの小さな写真を、大事そうに両手で持つ姿を見たら、この期に及んでノーとは言えない。
「…うん、カラ松くんにあげる」
カラ松くんの表情がぱぁっと明るくなる。まるで大きなひまわりが咲いたみたいに。
「ありがとうユーリ…宝物にする」
調子に乗った結果の産物を宝物にされる恥ずかしさは、筆舌に尽くし難い。体中の熱が顔に集中していくような気さえする。
これを素でやっているのだとしたら、非常にたちが悪い。


「ハニー、何かペンと紙を持ってないか?」
水族館から駅へ戻る途中の帰り道、ふと立ち止まってカラ松くんが私に問いかける。バッグの中に手帳とボールペンが入っていたので、メモ欄のページを広げて手渡すと、彼はその場で紙の上にペンを走らせた。
「──これ、受け取ってくれ」
癖の強い字で書かれた、数字の羅列。何を意味するのかは一瞬で理解できた。
「うちの電話番号だ。
それで、もし、よかったら…ハニーの連絡先も教えてほしい」
まだ会って三回目だよとか、私も一応異性だからとか、断る言い訳はいくらでも思い浮かんだのだけれど。
ジンベイザメコーナーの前で吐露した彼の心情に、嘘ないと思えた。連絡先を尋ねるのも、カラ松くんにとっては清水の舞台から飛び降りるほど勇気のいる行為だったのだろう。
私はカラ松くんからペンを受け取り、空いているページに数字とアルファベットを書いていく。そのページを手帳から外して、カラ松くんに差し出した。
「はい、私の番号とメールアドレス。いつでも連絡して」
「ユーリも、オレのセクシーボイスが聞きたくなったらいつでも電話してくるんだぜ」
「あはは、はいはい、そうしまーす」
異性の家に電話をかけるなんて、プライベートでは働き始めてから初めてのことではないだろうか。兄弟ならまだいいが、親が出たら意味もなく緊張してしまいそうだ。
高いハードルだなと多少げんなりしたものの、ほくほく顔で写真とメモ用紙を抱えるカラ松くんを見ていたら、全部大したことではない気がするから不思議だ。

駅のコインロッカーで服を取り出し、カラ松くんと向き合う。
「それじゃ、今日はここで解散しようか」
「オレとのデートが君のメモリーに刻まれる、優雅で充実したサタデーになったなハニー」
デートという感覚はなかったが、フリーの男女が二人でそれっぽい所へ出向けばそういう呼び方になっても致し方ない。そうだね、と適当に返事をしようとしたところで、発言した本人が突然顔を真っ赤にして動揺し始めた。
「ユーリとデートって……えッ?あ、いや、何でもない!」
可愛いなぁ。
「次は約束通り、釣りかな?いつ行くかは、また近いうちに決めよう」
「…あ、ああ。それじゃユーリ、また」
「うん」
「───楽しかった、ありがとう」
「こちらこそ」
少しずつ少しずつ。
こうやって、人は互いの氷山の隠れた部分を知りながら関係性を深めていくのだろう。それが結果として吉と出るか凶と出るかは、誰にも分からないことだ。
けれどカラ松くんに会うたび、知らない一面を見るたびに彼に対する興味は深まっていくばかりだから、少なくとも今は友人として、楽しい時間を共有できればいいと私は思っている。




スマホのディスプレイに、知らない番号からの着信があった。
否、知らないと表現すると語弊がある。つい先日知ったばかりで登録を忘れていた番号というのが正しい。
部屋のベッドに腰掛けて、電話に出た。冒険に出る直前のような、胸が躍る興奮を覚えたのは内緒にしておこう。
「もしもし───カラ松くん?」
電話の奥で、私をユーリと呼ぶ、心地良い声が聞こえた。

初デート前にしておくべきことがある

後ろ髪引かれる思いを断ち切って勇気を出し、また会う約束を交わしたところまではよかった。再現VTRを見たいくらい、実にドラマチックな流れである。
しかし直後、各種SNSのアカウントはおろか携帯さえ持っていない、唯一の連絡手段は家電(しかも黒電話)という現実を突きつけてきたのには、さすがに不純異性交友する気あんのかお前はと問い質したくなるくらいには脱力した。

「オレの場合は、必要とあればガールズの方からやって来るからな」
「冗談は服のセンスだけにしとけよ」
「まぁ、冗談でなくそういう事情なんだが、家の電話はブラザーたちが出る可能性があるから危険だ。どれくらい危険かと言うと、地雷原に大型ミサイルを打ち込んでくるレベルでの破壊活動になるから、少なくともしばらくは避けたい」
「カラ松くんの兄弟はテロ組織か何かなの?」
似たようなものだな、と感慨深げに呟かれる。これやっぱり逃げた方がいい案件なのでは。
脳内で数百種に渡る逃走案を巡らせていたら、カラ松くんは照れくさそうに指で頬をかいた。
「…いや、まさかユーリからオーケーが出るとは思わなかったから、何の準備もしてなくてな」
ここでその顔はズルい。
かといって携帯の番号を気軽に教えられるほど、カラ松くんをよく知っているわけではない。無害そうに見えるとはいえ、年頃の異性なのだ。
「それなら、待ち合わせの約束するっていうのはどう?」
「待ち合わせ?」
「うん、来週の土曜日の午後一時、駅前のロータリーに集合するの。水族館の割引チケットがあるんだけど、一緒にどうかな」
カラ松くんの目がきらきらと輝きを増していく。うんうんと何度も首を縦に振った後、私が苦笑しているのに気付いたのだろう、思い出したように気取ったポーズを決める。
「ユーリがそこまで言うのなら、この松野カラ松、ハリケーンが来ようがタイフーンが来ようが必ず君のもとに馳せ参じよう。一週間会えないからって、枕を涙で濡らすんじゃないぜレディ」
「じゃ、約束ね。楽しみにしてるよ」
今度は笑顔で手を振って、カラ松くんと別れる。家に帰ったら、忘れないうちに財布の中にチケットを入れておこう。

去り際、一際小さな声で「オレも」という独白が聞こえた。
これからの一週間、その一言のおかずにしてご飯何杯でも食べられそうだから困る。




一週間後の土曜日は、あっという間に訪れた。
平日の辛い仕事も、体力と冷静な判断力を奪うだけの残業も、カラ松くんと水族館に行く約束があったから、それを楽しみに乗り切ることができた。カラ松さまさまである。
大型連休が過ぎてしばらく経った初夏の季節、トップスは半袖か長袖かで迷った末、七分袖のロゴティシャツとくるぶしを見せたボーイフレンドデニムに、足元はレザー調スニーカーという、動きやすさ重視の服装に落ち着いた。ナイロンベルトの腕時計をつけて、手首の寂しさを補う。
姿見でコーディネートを確認してから、このユーリともあろう者がカラ松くん相手に何をオシャレ決め込んでいるのだと多少の自己嫌悪に陥りつつ、軽い足取りで駅前へと急いだ。

腕時計の針は、一時の五分前を指している。
息を切らしながら辺りを見回すと、自分と同じようにロータリーを待ち合わせに利用しているであろう待ち人たちが多いことに気付く。
そんな中、腕組みをして駅舎の壁に寄りかかるカラ松くんを発見して、自然と頬が緩む。
「カラ松くんお待たせー!」
手を振って駆けつければ、カラ松くんがふと顔を上げる。
その姿を見て、ぶっちゃけ速攻でUターンして帰宅しようかと思ったのは秘密だ。

なぜ気付かなかった、なぜ思い至らなかった。
ファッションセンスが壊滅的で救いようがないという大事なファーストインプレッションをすっかり失念していた自分の大馬鹿野郎。
革ジャンに金のチェーンネックレスというところまでは、初対面時と同じだった。今回はそこに眩しいほどのラメ入りパンツと、頭蓋骨の存在感が半端ないベルトが追加されている。
センスの破壊王は健在どころか、確実に悪い方へと進化を遂げている。
「フッ、ゴッドも裸足で逃げ出すオレの魅力に声も出ないようだなハニー」
そして出会って三回目にして愛人呼ばわり。
もう帰りたい。
「仕事帰りのセクシーな服も良かったが、私服もソーキュートだぜ」
人のコーディネートを客観的に判断できる程度の一般的センスはあるらしい。だったらなぜ、というのが正直なところだ。

「カラ松くん…水族館はちょっと後でもいいかな?」
「どうしたハニー、どこか寄りたい所でもあるのか?」
私は唇を尖らせてから、むんずとカラ松くんの手を取って歩き出す。
「ちょっ… ユーリ!」
「いいからついてきて」
カラ松くんの手を引きながら私の頭の中に巡るのは、彼の魅力をいかにして最大限引き出すかという手段ばかりだった。




辿り着いたのは、誰もが知っているファストファッションのアパレルショップ。ショーウィンドウの中では、複数体のマネキンが初夏の服を涼しげに着こなしている。
「ユーリ、ここは…」
「今からカラ松くんのカッコ良さをもっと魅せるコーデをします。もちろん私の奢り。拒否権なし、オーケー?」
善は急げと店内に入ろうとすると、カラ松くんが不安げに私を見つめていた。
「ブラザーたちから散々こき下ろされたことはあるが、ハニーから見てもそんなに駄目なのか、オレの服は…」
ここの返答は悩むところだ。イエスと言えば彼を一刀両断にするだけだし、ノーと言えば彼の自尊心を傷つけない言い訳が必要になる。つまり、嘘をつくことになる。
どこかで聞いたことがある、上手く嘘をつくコツは真実を少し混ぜることだと。
「カラ松くんのセンス云々じゃなくて、カラ松くんが普段選ばないような服でもっとカッコよく見せられるんじゃないかなと思うのですよ、私は。
端的に言えば、私色に染めたいっていうか───推しに注ぎ込む金は惜しくない
むしろご褒美だ。
「おし…?」
「まぁまぁ、こっちの話。
それでね、カラ松くんは細くて筋肉質だから鎖骨と腕は出した方がセクシーだと思うんだよねぇ。くるぶしも出した方がいいかな」
とりあえずは、重ね着にも対応して着回しのきく服がいいだろう。次に応用できる選択は重要だ。
店に着く前にある程度構想は練っていたので、選ぶのに時間はかからなかった。合いそうなサイズの物を戸惑うカラ松くんに押し付け、試着室へと送り込む。
男性のコーディネートをスマホで検索しつつ待ち合いの椅子に腰かけていたら、少ししてカーテンが開く。
「ユーリ、ど、どうだろうか?」
私がチョイスしたのは、Vネックの白い半袖に黒のスキニーデニム、濃茶のベルトという実にシンプルなものだ。元々身につけていたチェーンネックレスと革靴は、着用を続けても問題ないと判断。
体のラインを出して露出度が上がっただけで、見違えるような色気が漂う。
「尊いッ!ありがとうございます!」
あと少しのところで、平身低頭で地面に頭を擦り付けるところだった。私の大声にカラ松くんがビクリとして涙目になってしまい、申し訳ない気持ちになる。
「うん、すごく似合うよカラ松くん。その格好で水族館行こう、カッコいい!」
「カッコいい…?そ、そうか、ユーリがそう言うなら」
「これなら間違いなくモテるよ」
「モテる…うん、素晴らしい響きのワードだ。しかしカラ松ガールズたちにとって、一層声をかけにくいの存在になるのは悩みどころだな」
ポジティブで何より。

着てきた服はまとめてコインロッカーに入れて、カラ松くんの横に並ぶ。やはり私の見立て通り、無骨さの窺える部位を露出することによって、一層引き締まって見える。
帰りにスマホで写真を撮って今後のおかずにしようと、私は固く心に誓ったのだった。
「なぁユーリ、この服本当に貰っていいのか?」
せめて半分くらいは出そうかと言うカラ松くんに、私はかぶりを振った。
「ファストファッションだからそんなに高くないし、これからも着回し用に使ってくれたら全然いいよ。思ってた以上に似合うしね~」
カラ松くんはたぶん、素材はいいのだ。絶望的なファッションセンスと中二病さながらの痛い言動が際立って変人扱いされるだけで、黙っていればそれなりに可愛い。
あ、と私は声に出す。
「どうした、ハニー」
何事かとこちらを見やるカラ松くんの顔に手を伸ばす。

「女の子と遊ぶ時は、サングラスは外そうね」
だからこれは帰りまで預かります、と彼の目元からサングラスを外すと、自然と目が合って、憚らずも見つめ合う形になる。
真正面から瞳を覗き込むのは、そういえば初めてだなと思っていたら、にらめっこに耐えかねて先に目を反らしたのは、カラ松くんだった。
「ちょ、ま、待ってくれユーリ!それは反則じゃないか!?」
「照れるな照れるな。見つめ合うと素直にお喋りできないなんて、彼女いない歴の長さを如実に物語るだけだよ」
「有名曲の歌詞に混ぜてさらっとオレをディスるの止めて!」

それでも止めずに熱視線を送り続けたら、やがて根負けしたカラ松くんが吹き出して、いつになく楽しそうな笑い声をあげるから、つられて私も笑ってしまう。
デートはまだ、始まったばかり。

不本意な出会いと再会

「また、会ってくれないか?」
戸惑いがちに紡がれた何気ないその一言が、その後の私たちの関係を変える大きなきっかけになった。
松野カラ松、後に私にとって爆弾級の推しメンとなる男である。



ある休日のこと。カフェのテラス席で私は温かいカフェオレを飲んでくつろいでいた。先日仕事帰りに買った推理小説の新刊をゆっくり堪能するためだ。
自宅ではどうしても気が散ってしまうので、集中しようと近くのカフェに足を伸ばした次第である。しかし射し込む日差しの心地良さに、幾度となく船を漕ぎかけて一向に進まない。
そのたびに顔を上げて、意識覚醒を兼ねて道行く人々の姿を目で追ってみる。肩を寄せ合う仲睦まじい男女、手を繋いで笑い声をあげる家族、忙しなく駆け抜けるスーツ姿の会社員。
私の視界に入るのはほんの一瞬だが、通り過ぎていく全ての人々に人生がある。彼らもまた同じような目で私を見ているのかもしれない。そう考えると、何とも不思議な光景だった。
傲慢に、世界を俯瞰的に見る。

「…あれ?」
ふと、私の視線がある一点で留まる。
「あの人、さっきからずっといる気が…」
足を組んだ格好でベンチに腰掛けている男。革ジャンに金のチェーンネックレス、黒いサングラスという異彩を放つ出で立ちで、その存在はただでさえ際立っていた。よくよく見ると、時折わざとらしく髪を掻き上げたり腕を組み直したりと、ポーズへのこだわりも見受けられる。
誰かを待っているような気もするが、そうでないよう雰囲気もして、何を目的としているのか判断がつかない。
不審者さながらの男を眺めながら、すっかり冷めたカフェオレに口をつける。
その時、私の側を通る若い女性二人の会話が耳に入った。
「ちょっと、あいつ今日もいるよ」
「えーやだやだ止めて。目合わせちゃ駄目よ、こっち見てくるんだから」
「マジ?ヤバっ、早くあっち行こ!」
ちらちらと横目で様子を窺う彼女たちの視線の先は、サングラスの青年。

常連なのかよ。

不覚にも小声でツッコんでしまった。
言われてみれば、声をかける相手を品定めしているようにも見て取れる。絶望的なファッションセンスにも関わらず、口許には笑みさえ浮かべて、自信に満ち溢れている様子。
不審者さながらではなく、本物だったか

しかし外見からは狂気的なものは感じないし、サングラスで目元は隠されているが、どことなく愛嬌のある顔立ちをしている。口を開けば意外と平凡な人物なのかもしれない。
頬杖をついてぼんやりと眺めていたら、青年に動きがあった。腕時計を一瞥し、待ち人来たらずといった体でおもむろにベンチから立ち上がる。
同時に、パンツのポケットから折りたたみ財布がぼろりと落ちた。
「あ」
私は思わず声をあげる。
彼は財布の落下に気付かず、その場を立ち去ろうとしているようだった。行き交う人々は忙しなく、地面の落下物に気付く様子もない。
私は空になったカップをゴミ箱に投げ入れ、足早に出口を抜けた。

「──あの!」

落ちた財布を拾い上げて声をかけるが、自分が呼び止められたとは露にも思わなかったのか、彼は振り返らない。仕方なく、青年の前方に回り込んだ。
「え」
「お財布、落ちましたよ」
向かい合うと目線が並んだ。黒いサングラスに私の顔が映り込む。肌の艶から見て、年齢はさほど変わらない気がする。
「おおっ、サンキューだぜ愛しのカラ松ガール!」
大袈裟に両手を広げた歓迎のポーズ。
あ、たぶんこれ逃げた方がいいやつ
「何て美しいんだレディ。彗星の如くガイアに降り立ったミューズとこの地上で出会えるなんて、君がオレの財布を拾うのもきっと運命の導きに違いない」
電波を受信していらっしゃる。
キザったらしく前髪を掻き上げる仕草が最高に腹立つ
「麗しいレディ、二人の出会いを記念してこれから祝杯でも───」
小学生時代リレーの選手に選ばれた実力をここで遺憾なく発揮するため腰を落とした次の瞬間、ショルダーバッグの中から電話の着信音が鳴り響く。
ナイスタイミング!
「あ、えっと、電話がかかってきたみたいだから行かないと。それじゃ」
財布を持ち主に押し付けた後、私は踵を返して足早にその場を後にする。
背中に何か声をかけられたような気もしたが、スマホで通話を始めた私の耳には届かなかった。

その日の出来事は、帰宅してベッドに入る頃にはすっかり忘れてしまっていた。街中に変わった人がいて、たまたま財布を拾って渡しただけの、取り立てて記憶に残るようなことでもない内容だった。



それから数日経った、仕事帰り。オレンジ色の夕焼けがビルの隙間に落ちていく夕暮れ時に、私はヒールでアスファルトを鳴らしながら帰路に着く。
定時で帰れたので、時間には多少余裕がある。早く帰ってご飯が食べたいけれど、作る時間が惜しいから外食して帰ろうか。ファストフードよりも定食が良いか。そんなことをつらつら考えながら、赤信号で足を止めた。
道路を挟んだ向かい側では、二十代とおぼしき若い青年が、シルバーカーを押す高齢の女性と並んで信号を待っている。
「もうすぐそこだから。悪いね、お兄ちゃん」
青年は胸元でサッカーボールサイズの風呂敷包みを抱えている。老女の荷物を運ぶ若い青年という構図のようだ。
彼はにこりと微笑んで何か答えたようだが、トラックの通過音に掻き消されて、私の耳には届かなかった。

信号が青に変わり、彼らが横断歩道を渡り始めた。
無事こちら側まで白線を渡り切るのを、何となく見届けたくなって、信号機の下で彼らをじっと見る。
ラフな格好をした若い青年は、老女の小さな歩幅に合わせて足を進めていた。加えて、彼女の背中にギリギリ触れない距離を保った状態で右手を出し、転倒にも気を配っている。
もしかしたらその時、私の顔には笑みが浮かんでいたかもしれない。
あと数歩で辿り着くというところまで見届けて、私は満足して白線へと踏み出した───その時。

「レディ!」

聞き慣れない呼び名、けれどつい数日前にどこかで耳にした覚えのある単語に思わず振り返れば、風呂敷包みを抱えた青年と目が合った。
「やっぱり!あの時の麗しのカラ松ガール!」
「…は?」
待て待て、カラ松ガールなどという不名誉な呼び名で呼ばれる筋合いはない。っていうか、カラ松ガールって何だ。

「こんな所でレディと再会するとは…オレと君を繋ぐ赤い糸には、女神も嫉妬しているに違いない」
この気障ったらしい口調には聞き覚えがある。
そう、確か───

「フッ、オレの愛を試しているのか?
オーケー、受けて立とう、もちろん覚えているさ。あの日君はヴィーナスも裸足で逃げ出す微笑みとともにオレに財布を差し出してくれた」
「あっ、あの時のグラサン!」
サングラスの印象が強かったので、まるで分からなかった。
太く吊り上がった眉と双眸からは気の強さが窺える。先程老女に向けていた微笑はむしろ穏やかで、愛らしく感じたのだけれど。
それにしても、先日の度を越した奇抜な服より、袖をまくった青いパーカーとスキニーデニムというラフなスタイルの方がよっぽど似合う。
「運命の再会を祝して静かなバーでカクテルを…と言いたいところだが、今生憎こちらのレディとの先約があってな。すまない」
むしろ好都合だ。
しかし今までの強気な発言とは対照的に、次第にトーンダウンする声。彼は戸惑いがちに、ちらりと老女に視線を向けた。
「ただ、その…ちゃんとお礼ができてないし、と…」
歯切れが悪い。夕焼けの色が重なって判別がつきにくいが、頬は僅かに朱に染まっている。何だこいつ可愛いかよ。

私は盛大な溜息をついてから、渡りかけた横断歩道を引き返して老女に微笑みかける。
「お婆ちゃん、お邪魔でなければ私も荷物運ぶのついてっていいかな?」
「いいよ、どうせすぐその先までだから。こちらこそデートの邪魔しちゃって悪いね」
違いますよ~と速攻で否定する私の側で、青年はなぜか赤い顔をして首筋を掻いている。気取った台詞を躊躇なく言い放つ度胸があるかと思えば、揶揄されて照れる初なところも持ち合わせているらしい。

「さ、行きましょう───お礼してくれるなら、ラーメンでお願いします」
「…え?」
「餃子もつけて」
「…あ、ああ!それなら美味い店があるんだ、任せてくれ」
青年は破顔する。その横顔は幼気で、不覚にも鼻血が出そうなくらい萌えた



無事女性を目的地に送り届けた後、青いパーカーの青年が私を案内したのは、オフィス街を抜けた商店街の一角にある中華屋だった。
個人経営の店舗なのだろう、カウンター席とテーブル席がそれぞれ片手で数えるほどの席数で、柔和な中年店主とその妻と思われる女性に出迎えられる。夕食にしては少し早い時間帯だが、すでに席は半分ほど埋まっていた。
二人がけのテーブル席に案内される。
「ヘイマスター、オレは唐揚げセットで醤油ラーメン。レディはどうする?」
「うーん、味噌ラーメンと餃子一人前で。
っていうかレディなんて変な呼び方止めてください」
高々に指を鳴らして注文する姿や、気取った仕草は、ほぼ初対面の相手に対して非常に申し訳ないがいちいち癪に障る
「ああ、そうか、自己紹介がまだだったな───オレはカラ松、松野カラ松だ」
「私は有栖川ユーリです」
「この間は財布を拾ってくてれて助かったぜ。何しろその数時間前に、久しくご無沙汰だった銀のヴィーナスがオレに微笑んで、財布が厚くなったところだったんだ」
危うく「日本語でOK」と言いかけたが、手首のスナップをきかせて何かをひねる動作でおおよそ内容に見当がついた。
「パチンコで買ったんですか」
「イッツコレクトだ、マイフレンド」
フレンドに昇格しおった。

しばらく他愛ない会話──大半がボケとツッコミだった気がするが──を続けているうちに、彼が私よりも一歳年下と分かる。
「それじゃ、今からは松野くんにタメ口で話してもいいかな?」
「もちろん構わないさ。…それに、その…カラ松、でいい」
「え?」
彼は消え入りそうな声で呟いたかと思うと、次の瞬間ハッとした様子で両手を胸元で振った。
「あ、いやっ、これは…そ、そう!名字で呼ばれ慣れてなくて、名前の方がしっくりくるんだ!」
「そう?じゃあ───カラ松くん」
「あ、ああ…そう呼んでくれ、ユーリ」
おいおい何で私のことは呼び捨てやねんこの野郎、というツッコミはこの際捨て置くことにする。理由は単純、可愛いからだ。可愛いは正義。

ラーメンと餃子が運ばれてくる。レンゲでスープを一口味わってから、おもむろに麺を頬張った。濃厚な味噌スープの絡んだ細麺が口いっぱいに広がって至福の時である。労働後の一杯(ラーメン)は美味い。
「おいしーい!カラ松くん、いいお店知ってるね!」
「だろ?ラーメン一つで、君のそのキュートなスマイルが見れるなら安いもんだ」
カラ松くんはうんうんと満足げに頷いた後、不意に眉尻を下げて私の顔を覗き込んでくる。
「ユーリは、本当にラーメンで良かったのか?
イタリアンとかカフェとか、ガールズはオシャレな所が好きなんだろう?」
自分に遠慮しているのでは、と懸念しているのだろうか。何て野暮なことを聞く人だろう。私は笑って首を横に振った。
「がっつり食べたい気分だったから、ラーメンがいいの。
オシャレな所もいいけど、特に仕事帰りは気楽に好きなもん食べたいじゃん。すぐ出てきてお腹もふくれるラーメンはマジで最高」
「フッ、ボーイッシュで爽やかなカラ松ガールズも新しくていいかもしれんな」
「喋ってないでさっさと食べる」
「あ、はい」
カラ松くんは私に叱られてようやく、自分のラーメンに手を伸ばす。
湯気の立つ麺を豪快に口に入れた後、目を細めて咀嚼する。美味しそうにご飯を食べる人だ。
「今日もパーフェクトにデリシャスな出汁がきいてるぜ親父」
かと思えば気取ってカブスカウトのように二本指を立てて敬礼するので、そのうちうっかりフルスイングでぶん殴ってしまいそうだ


よくよく考えれば、年頃の異性との食事だったことを、全力でラーメンと餃子を堪能した後に思い出した。
初対面だというのに着飾らずに話すことができて、遠慮なくツッコミさえ入れてしまえるほど気楽に過ごせる相手に出会ったのは、何年振りだろう。カラ松くんのキャラが濃すぎたせいもあるだろうけれど。
このまま別れるのは名残惜しい気もする。

「今日はありがとう、ご馳走様」
中華屋の暖簾をくぐって外へ出てから、私はカラ松くんに礼を述べる。
「オレの方こそ、ユーリとのスウィートな時間を楽しませてもらったぜ」
「このお店気に入っちゃった。カラ松くんが食べてた醤油ラーメンもいい匂いしたから、次はそれにするね」
「味噌ラーメンもいいチョイスだった。この店は何食べても外さないからいいぞ」
「うん、頑張って制覇するよ。楽しみが増えた」
スマホで時間を確認すると、午後八時過ぎ。食後も何だかんだと趣味嗜好の話で盛り上がり、あっという間に過ぎた二時間だった。
財布を拾ったお礼をされただけの接点で、連絡先を聞くのは不遜だろうか。自然な流れで次へと繋げる切り出し方ができなくて、誘うタイミングを逃す。
それじゃ、とカラ松くんに背を向けて一歩踏み出した───その刹那。

「あ、ちょ…待ってくれ、ユーリ!」

手首をつかまれて、振り返らざるを得なくなる。
再び視界に入ったカラ松くんの表情は、捨てられた子猫のような寂寞感に満ちていた。掴まれた手が熱い。

「その、あの…また、会ってくれないか?」

これはもう告白だろうがという私の心の叫びは横に置くとして、視線を地面に落とし、頬を上気させながら途切れ途切れに紡がれる言葉に、どうして無慈悲な拒絶ができるだろう。
もしこれが演技だとしたら、オスカー賞ものである。
きっと、出うる限りの勇気を振り絞ったのだ、彼は。
私の出す答えは、とっくに決まっていた。

「うん、いいよ」

仕方ないな、なんて言葉を紡いで。
ドラマみたいな、そうでないような、これが私とカラ松くんとの出会いである。