派生:ヒラさんと惑う

体調が良くなったら二人でデートをしよう。私とカラ松さんはそんな約束を交わした。
病人のような血色の悪さが日に日に改善され、声に覇気が出て、少しずつ笑みも垣間見せるようになった。経過が順調だったから、このまま健康になっていくものだと信じて疑わなかった。
時間をかけて作ってきたパズルがあと少しで完成なのに、残り数ピースがどこを探しても見つからない。最初からピースが欠けているパズルだと気付きもせずに、完成した絵はきっと美しい、そんな夢を見ていた。

結局───デートはできなかった。



カラ松さんと約束したデートを翌日に控えた夕方、私は自宅でスマホ画面を凝視したまま眉間に皺を寄せていた。カラ松さんから返事が来ないことにもどかしさを感じていたのだ。
出掛ける約束をしたはいいが、詳細は何も決まっていない。どこへ行くのかはもちろん、待ち合わせ場所や時間も未定で、ここ数日挨拶以外の連絡をしていなかったから聞きそびれていた。だから午前中にメッセージを送ったのに、もう半日近く未読のままである。
「電話しても大丈夫かなぁ……」
何となく緊張する。他愛ない用件ならまだしも、デートの催促をするみたいだからだ。
彼からの告白紛いの誘いを了承したものの、自宅に帰って冷静に振り返ったら、顔から火が出る思いがした。デートに誘われて意識するなという方が無理な話である。
しかし正直、嬉さはあった。異性として認識し始めていたし、一緒にいて居心地がいい。彼のことをもっと知りたい気持ちは、日を追うごとに強くなっている。

意を決して電話をかけたら、応答は思いの外早かった。
「……はい」
カラ松さんの声が聞こえた瞬間、自分しかいない部屋でピンと背筋を正してしまう。
「あ、カラ松さん?」
「ユーリさん……すまない、連絡できてなくて」
声高に弾む私とは裏腹に、カラ松さんの声には張りが感じられなかった。
「う、ううん、私こそ急に電話してごめんね。外にいるの?」
彼の背後から人の声や物音がして少々ざわついている印象を受ける。漏れ聞こえる会話は敬語だった。
「職場にいる」
「え」
カラ松さんが長らく勤めてきた会社は、極端な長時間労働を課し、見合う対価を支払わず、横行するパワハラで心身を疲弊させ、労働者を捨て駒のように扱ってきた典型的なブラック企業。電話口で彼の家族と偽り、長期休暇をもぎ取ったのが数週間前である。これ以上カラ松さんを追い詰めるなら出るとこ出るぞ、という苛立ちを他人の私が感じたほどだ。
私は言葉を失った。なぜ彼はそんな場所にいるのか。カラ松さんはそんな私の思考を読み取ったように、続けた。
「安心してくれ、退職の手続きはした。ただ業務の引き継ぎがあって、数日前から出社してるんだ」
初耳である。自宅で有給休暇を消化しているものだとばかり思っていた。
しかし、確かに退職に際して他者への引き継ぎは必要だ。立つ鳥が跡を濁さないために、数日間の出社は致し方ないと言えるだろう。
「そうなんだ」
「明日のことだよな?十時くらいにユーリさんの最寄り駅でいいか?」
ああ。どうしてだろう。
「うん、それでいいよ」
彼は私が聞きたかったことに答えてくれているのに、声音は優しいのに、早急にこの電話を切り上げたがっているように感じられるのは。
「植物園にでも行こう。病み上がりの外出にはちょうどいいな」
「もうすぐ仕事終わり?」
六時をとうに回っている。多くの会社は定時を過ぎる時間だ。
問いの返事には、数秒の間があった。
「いや……引き継ぎに意外と時間がかかっていて、まだしばらくかかりそうだ。ひょっとしたら今日は遅くなるかもしれない」
やたら歯切れが悪い。業務の引き継ぎのために深夜まで残業をしなければならない異常性に長く浸かっていた彼は、疑問を抱かないのか。
それはおかしいと声を荒げかけ、文句を飲み込む。もし最後に義理を果たしたいという思い故なら、尊重すべきなのかもしれない。カラ松さんの退職について、私は部外者に過ぎない。
「そっか、無理しないでね」
「もちろんだ。明日はユーリさんとデートだからな」
デート。そう、デートなのだ。
いつの間にか背筋を正すだけでなく、床の上で正座をしていた。

電話を切った私は、クローゼットから上着を取り出して羽織る。手近な鞄に取り急ぎ必要な物を放り込み、財布の中身を確認した。スマホの充電も満タンに近い。
そして、足早に自宅を出た。



ガラス張りのバーの窓際席からは、道路を挟んだ先にあるビルの入り口──カラ松さんが勤めている会社の自社ビルだ──がよく見える。
初めて会った日に名刺を貰っていたことが功を奏した。店のガラスに貼られているマジックミラーフィルムが街灯の光を反射し、外からは店内の様子が見えにくくなっている。
夜から明け方までの営業時間も有り難い。ドリンクを注文する際、長居するかもしれないと店員に伝えたら、色んなお客様が来ますからと慣れた様子で、意味深な笑みを返された。

ビルの電気はいつまでも煌々とついていた。窓ガラスの前を横切る人影も時折見受けられ、カラ松さんだけが冷遇されているわけでないらしいことが察せられた。とはいえ、それが彼を追い詰めた免罪符になるわけではないのだけれど。
ちびちびと飲んでいた二杯目のグラスが空になったところで、私は席を立った。スマホが日付の表示を変えて少し経った頃のことである。

カラ松さんが会社を出たのだ。

「カラ松さん」
私の呼び声に、世界の終わりを告げられたような驚愕を貼り付けた顔が振り返る。
「っ、ユーリさん!?」
くたびれたスーツとアイロンのかかっていないシャツ、引っ掛けられただけのネクタイ。初めて彼の部屋を訪ねた際にフローリングに落ちていた柄だ。
目は落ち窪んでいて、街灯の光の下とはいえ顔色も悪い。まるで初めて会ったあの時のように。
「何でここに……」
その疑問には答えなかった。
「もうすぐ退職するのに、体に鞭打ってまで引き継ぎするのは良くないよ」
私の言葉に彼は何か言いたそうに片手を持ち上げたが、行き場のないそれはすぐに下ろされる。
「……分かってる」
「また倒れるかもしれないし、倒れるだけじゃ済まない場合だって───」
「分かってる」
語気が強くなり、私の言葉を遮る。彼は笑おうとして口角を上げたが、それは笑みではなく、自嘲として私の目に映る。

「職場にいて仕事をしていると、必要とされるんだ。こんなオレでも生きていていいと感じる」
私でも分かるくらい憔悴して疲弊しきっているのに、目だけはギラギラと血走っている。良くない兆候だ。
「ユーリさんと過ごす休みは楽しかったし、いい気分転換になった。明日のユーリさんとデートを心待ちにしてるのもオレの偽りない気持ちだ。
ただ───」
カラ松さんは言葉を濁す。私に告げるべき内容ではないと判断したのだろう。言えば、私が異論を唱えるから。
深い夜の帳はお誂え向きに私たちの姿を世間から切り離し、他者からの視線を遮る。行き交う人々は異質さに好奇の目を向けることなく、通り過ぎていく。
「……いや、その、だから、明日の待ち合わせは電話した通りでいいか?
もう日付も変わってるし、ユーリさんが辛いなら昼からでもいいんだが」
私は首を横に振る。彼の空元気が虚しい。
「出掛けるのはまた日を改めようよ。明日は一日ゆっくり休んで」
「しかし、それは」
「デートは体調が回復してからって約束だったでしょ。お昼ご飯は作りに行くから、一緒に食べよう」
捨てられた大型犬みたいな悲痛な表情をされると前言撤回したくなるが、心を鬼にして毅然と対応する。私が彼に無理させてはいけない。心の回復のためには、体の回復が最優先だ。明日一日の休息は、応急処置くらいにはなるだろう。
「そ、そうか……そうだよな、すまない。オレばかり気が急いてしまったようだ」
カラ松さんは自分の首に片手を当てる。

「ユーリさんとのデートを楽しみにしてたから」

その気持ちはとても嬉しい。
「私も楽しみにしてたよ」
だって。
「声だけでもカラ松さんの様子がおかしいことにすぐ気付くくらいには、カラ松さんのことを気にしてる。すぐ無理するから、会って止めなきゃと思って」
自分の体調を二の次にして、為すべきことを為すために労力を振り絞る人だから。疲れたと口にすることを罪と感じてしまう人だから。
「そのためだけに深夜にここまで来たのか?オレがいつ会社から出てくるかなんて分からな───まさか…ッ」
唖然と目が見開かれる。私は曖昧に笑った。騙しきれる言い訳は思いつかない。
「ああもう!」
今にも泣き出しそうなほど顔をクシャクシャにして、カラ松さんが正面から私を抱きしめた。煙草の臭いが鼻を突く。
「何でオレなんかのためにそこまでするんだ……っ。君が体を壊したら元も子もないだろ!」
「帰ったらすぐ寝るから平気だよ」
「そういう問題じゃない!」
被せるように叱責される。
「こんな時間にユーリさん一人で電車は危ない。タクシーで家まで送る」
カラ松さんは私から手を離し、スーツのポケットからスマホを出す。画面上のタクシー配車アプリをタップしたが、数秒の思案の後スマホを元に戻した。
そうして、片手が差し出される。

「駅でタクシーを拾うのでもいいか?
オレのワガママで本当にすまないが───あと少しだけ、ユーリさんといたい」

「奇遇。私も、同じことを思ってたよ」
出された手を取った。
一刻も早くベッドに飛び込みたいのはカラ松さんの方だろうに、私とのたった数分を優先したいと望んでくれる。こんなささやかな平穏がいつまでも続いてくれたらいいのにと、願わずにはいられない。

なのに、触れた手の冷たさに、根拠のない不安が這い寄って私を苛むのだ。まるで終わりの始まりだと言わんばかりに。



翌日カラ松さんを訪ねたら、彼はまだ寝巻きのままだった。私の来訪を慌てて出迎える。
「す、すまん。さっき起きたところで、こんな格好で……」
しどろもどろに釈明する彼に、私は微笑で返す。
髪に乱れがなく、目は変わらず充血していて、急いで出てきたにしては整えられている掛け布団。そして、テーブルに置かれた開封済みのドリンク剤。
「よく眠れた?」
それに全てから目を背けて、持ってきた食材をキッチンに置きながら、私はできるだけ軽やかな口調で尋ねた。
「あ、ああ。帰ってからすぐベッドに入って、今起きたばかりだ」
有給休暇中に薄くなったはずのクマが、今はまた色濃い。
「良かった。うどんにしようと思うんだけど、起きたてでも食べれそうかな。きんぴらも持ってきたし、一応出すね」
「情けないが、今日の約束を取り止めにしてくれて良かった。こんな時間まで起きられないとは思ってなかったよ。寝坊にしてもひどすぎる」
私がキッチンで料理の準備をする中、彼は苦笑しながら部屋を片付ける。部屋の片隅に脱ぎ散らかしたスーツ──昨日着ていたものだ──をクローゼットのハンガーに掛け、ドリンク剤の小瓶をゴミ箱に入れた。一挙手一投足に体力を消費しているのが見て取れる。毒の沼地に足を踏み入れてHPが減り続けるRPGの冒険者のようだ。
開け広げた窓からは、網戸を通して心地良いそよ風が抜けていく。
「でしょ?やっぱりカラ松さんはしっかり休まないと。昨日会社まで行って張り込みした甲斐があったよ」
取り繕った不協和音の調べはひどく耳障りで、不快だ。指揮棒を振っているのは私か、それとも、彼か。

物の少ない部屋だ。本や雑貨といったいわゆる嗜好品がほとんどなく、最低限の暮らしを維持する家具や必需品が目立つ。だから、多少衣服や荷物が床に置かれていても、あまり散らかった印象を受けない。
冷蔵庫の中身も、幾つかの調味料とドリンク剤、ビール缶だけだった。生鮮食品は、辛うじて卵が数個入っているだけ。

「ご飯できたよ。そっち持っていくね」
トレイにうどんの丼ときんぴらをよそった小鉢を載せ、リビングに運ぶ。ベッド横に置かれたローテーブルがダイニングテーブル代わりだ。一人暮らし用の小ぢんまりしたサイズだから、二人分の食器を置くといっぱいになってしまう。
「ああ、ありがとう」
「もし足りなかったら言って」
腰を下ろして、二人で両手を合わせる。うどんの素を使った簡単な料理で、彩りのネギと油揚げは市販のものだから、調理自体には十分もかかっていない。
朝食を食べてから数時間たった私の喉に、箸で持ち上げた麺はスルスルと通る。合間に口にする麦茶も、冷たくて美味しかった。
「……カラ松さん?」
なのに、目の前のカラ松さんの手の動きは鈍い。最初に数本の白い麺を口に含んだきり、彼の箸は居心地が悪そうに出汁を掻き回す。油揚げときんぴらには手もつけていなかった。
「ん?どうした?」
カラ松さんは誤魔化すみたいに、麦茶のコップで唇を湿らせる。
「食欲ない?それとも口に合わないかな?」
私が言うと、彼はハッとしたように目を瞠り、大きくかぶりを振った。
「いや、美味しい。ユーリさんが作ってくれたんだ、不味いわけない。
ただ、その……起きたてでまだ食欲が湧いてないらしい。何せユーリさんが鳴らしたチャイムで目が覚めたくらいだから」
バツが悪そうに肩を竦めながら、カラ松さんは指先で肉感のない薄い頬を掻いた。無精髭が彼の不健康さを増幅させている。
「あー、そっか。ごめんごめん、ご飯作るの早すぎたね」
「オレが悪いんだ、ユーリさんは謝ることない。せっかく作ってくれたのに、食べきれなくてすまん」
「寝起きなら仕方ないよ。きんぴらは多めに持ってきて冷蔵庫に入れてあるから、後で良かったら食べて」
「ん、そうする」
箸が丼の上に置かれた。食事を終える仕草だ。ほぼ手つかずのうどんが、食欲をそそる湯気を立ち上らせていた。

シンクの三角コーナーに流される麺と具を、静かに見つめる。不思議と怒りや呆れの感情は湧いてこなかった。せっかく作ったのにとか、食べ物を無駄にしないでとか、食欲ないなら最初に言ってよとか、こういうシーンでお決まりの言葉は幾つも脳裏に浮かぶのに、浮かんだそばから立ち消えていく。
カラ松さんは、食器はオレが洗うよと気遣ってくれた。それをやんわりと制して私はキッチンに立っている。時間稼ぎの意味合いも、きっとあった。

「ユーリさん」
食器や器具をあらかた洗い終えてタオルで手を拭いていたら、部屋着に着替えたカラ松さんが背中に声をかけてきた。
「ユーリさんが昨日言ってた漫画って、これだよな?」
スマホのディスプレイに映る単行本の表紙イラストに、私は頷く。
「あ、うん、それそれ。覚えててくれたんだ?」
昨日タクシーの中で、私が最近読んでいる漫画の話題になった。半年前にアニメ化したことで一時流行ったスポーツものの漫画だ。現在も月刊誌で連載していて既刊の数は多くなかったため、大人買いしたことをカラ松さんに話した。
「たまたま広告で出てきたんだ。今はこういうのが流行ってるんだな」
カラ松さんは長らくの自宅と会社の往復で、娯楽に関する情報に疎い。彼の情報収集と言えば、通勤の合間にスマホアプリで最低限のニュースを確認するだけだったらしい。
「興味あるなら、今度仕事帰りにでも持ってくるよ」
私の提案に、カラ松さんの顔が少しだけ明るくなる。
「えっ、いいのか?」
「水曜とかどう?」
「今週も引き継ぎで出社だが、早く帰れるよう調整できると思う」
緩く微笑むカラ松さんに、私は胸を撫で下ろす。
心待ちにしていることがある。未来に心を弾ませることができる。彼はまだ、こちら側にいる。
「じゃあ会社出たら連絡してよ。ここまで持ってくるから」
「あ、それなら───」
カラ松さんは仕事用の鞄に手を差し入れ、鍵を取り出した。キーチェーンから外したそれを、私の手に載せる。使い込まれたディンプルキーだ。
「良かったら、家で待っててくれ。家にある物は好きに使ってくれていいから」
「はい!?」
声がひっくり返った。
だって、異性の自宅の鍵を持つというのは、恋人同士とか、そういう意味合いでしか考えられないではないか。確かにデートに誘われて了承したけれど、この関係に新しい名称が与えられたわけではなく、つまり何が言いたいかというと───混乱している。
「や、あの、私別に遅く来るのは全然っ、大丈夫っていうか!」
「鍵はもう一本予備がある」
予備の話しとるんとちゃうねん。危うくツッコミを繰り出しそうになり、私は下唇を噛みしめる。

「ユーリさんだから持っててほしいんだ」

ああ、ズルい。
切羽詰まった表情で言われて、誰が拒絶できようか。平凡に生きることさえ困難に感じている彼の小さな願いを、私は振り払えない。
「……分かった。仕事終わったら、ここで待ってる」
「そうしてくれ」
受け取った小さな鍵は、私の手にはひどく重かった。

それから一時間ほどして、カラ松さんの家を出る。私が側にいては体を休めることができないからと、もっともらしい口実を口にして───私は逃げたのだ。

ゴミ箱とキッチンには食事の形跡がなかった。例え昨日が可燃ごみの回収日だとしても、昨晩会社を出てから自宅に帰るまでカラ松さんは食事を摂っていない。ほぼ丸一日、固形物を口にしていないことになる。
やつれた顔と覇気のない声と、失われ続ける体力。体力の喪失は心の疲弊に直結する。

私にはそれを指摘できなかった。追求していいものか判断がつかず、気付かないフリをした。彼が守ろうとした彼の矜持を、部外者の私が軽々しく砕けない。
けれどこの選択が正しかったのかも自信がなく、どす黒い靄を胸の内に抱えたまま帰路に着いた。
得体の知れない不穏は、足音もなく忍び寄る。

せめて、私はカラ松さんにとっての逃げ道でありたい。そう願うのはおこがましいだろうか。
彼を救うなんてたいそれたことを公言するつもりはないが、進むことも戻ることもできず途方に暮れた時、一時的な逃げ場くらいにはなりたいと思う。
平日に漫画を貸すと言ったのは、様子見の意味もあった。大きなヒビの入ったガラスが割れて粉々に砕けてしまわないように。本格的な修理が始められるようになるまでは、慎重に扱わなければいけない。



約束の水曜日、定時で帰るつもりが少し遅くなってしまった。カラ松さんに到着予定時刻のメッセージを送り、駅にほど近い弁当屋で二人分の弁当を購入した後、電車で彼の家に向かう。
廊下に面した窓に明かりはついておらず、その時点で彼の不在を悟る。当然室内も真っ暗で、電気をつけリビングの床に腰を下ろした。到着の連絡を入れるものの、先程送ったメッセージもまだ未読のままだった。定時帰宅は難しいと言っていたし、忙しいのだろう。
必要以上に室内の物に触れるのは抵抗があったので、持ってきた漫画を開いた。半時間は真剣に読み耽っていたものの、いつしか船を漕ぎ始め、ベッドを背もたれにして眠ってしまった。

ガチャリと金属が触れ合う音で目が覚める。自分が眠りこけていたことを、その音とスマホが示す時間で知った。玄関ドアのレバーが下りる。居住者の帰還である。
私は彼の帰宅を諸手を挙げて歓迎できなかった。今の時刻が───夜中の十一時半過ぎだったからだ。
「……ユーリさん!?」
そして彼は、私の姿を視認するなり目を剥いた。まさか私がいるとは思ってもみなかった、そんな顔だ。よれたワイシャツに皺のついたスーツ、げっそりとこけた頬は、ダウンライトによって悲愴感を増している。
しかし次の瞬間、カラ松さんはハッとして眉根を寄せた。
「っ、そ、そうだったな……約束、してたんだよな。すまん……忘れてた」
「メッセージも送ったよ」
「えっ!?い、いや、それは……充電が切れそうだったから見てないんだ」
バツが悪そうに視線を逸らす。私は手つかずの弁当を一瞥すると、立ち上がって玄関口でカラ松さんと対峙する。

「これ以上隠さないで」

向き合わなければ、私の前から彼はいなくなってしまう。そんな確信に近い予感がした。
「はは、何を言うかと思ったら」
カラ松さんは笑いながらコートを掛け、スーツの上着を脱いだ。
「君との約束を忘れてたのはうっかりしてたからで、それについては本当に申し訳ない。思いの外引き継ぎの内容が多くて、そちらに気を取られてしまっていた。
携帯も充電が残り一桁だったから、極力見ないようにしてたんだ」
時間は既に夜中だったが、長いうたた寝のおかげで私の意識はハッキリしている。
「タクシー呼ぶから、早く帰った方がいい。明日も仕事だろ?この埋め合わせは今度するから」
カラ松さんはスマホを手に取り、タクシー配車アプリをタップした。スラスラと述べられた口上は一見信憑性があり、一つ一つの理由は自然なものだ。場面が場面なら、あっさりと信じて彼の多忙さを気遣ったかもしれない。
でも───

彼は私の目を見ない。その意思表示が何よりの答えな気がした。

「実はお弁当買ってきてるの。遅くなっても食べやすそうな豆腐ハンバーグ。私が帰ったら食べてね」
「ああ、そうする。ありがとう」
話題が変わったことに、彼の顔に安堵の色が浮かんだ。
「───本当に?」
だから追求する。
「もちろんだ」
まだ嘘を重ねるつもりなら。
「もう二日くらいご飯食べてないでしょう?」
ゴミ箱の中身が、数日前と大して変わっていなかった。人様宅のゴミを検めるなんて褒められた行為ではないが、ゴミの日に出された形跡もない。見ている私の胸が締め付けられる痩せ細った姿も、長らく食事を摂っていないなら納得がいく。
日に日に衰えていくのを黙って見過ごす限度はとうに超えた。
「携帯を見る気力もないんでしょう?誰かとやり取りする余裕がないから、私のメッセージも見なかった。
食事をしない。毎日のように深夜まで帰らない。なのに仕事には欠かさず行く。ここまでくると、退職するっていう話も疑わしく思えるよ」
「───ハッ」
カラ松さんは嗤った。顎を突き上げ、蔑むように。私が彼を非難していると認識したのだろう。
「オレを信用してないのか?」
「嘘をつき続けられたからね」
「他人のことを考える余裕があるとは、羨ましいことだ」
彼の眉間に皺が寄る。
「オレが長い間どれだけ苦労してきたか、どれだけ会社に貢献してきたか、君には分からないだろ?
オレたちはそもそも生きる世界が違うんだ」
不運なことに、私はこの言葉の先に続くであろう言葉を早い段階で察してしまった。それでもカラ松さんから目を逸らさないのは、精一杯の抵抗だ。

「君にとって、オレは通過点でしかない」

実質の別離宣言。
恋人同士ではなかったけれど、限りなくそれに近い関係だと思っていた。人ではなく駒であることを良しとする非道な会社からの脱出に戸惑い、それでも改めて出直すことに喜んでいたのに。
「もう会わない方がいい。そうすれば君は今みたいに疑心暗鬼に駆られることもないし、オレも疑われずせいせいする」
「何で……何でそんなこと言うの!?」
私は言葉を荒らげた。ヤケクソで放った台詞ではなく、カラ松さんの本意を知りたかった。
しかし直後、彼の拳が私の真後ろにある壁を打ち、鈍い音が響いた。私は壁際に追い詰められる。部屋のシーリングライトの光はカラ松さんに遮られ、私には黒い影が落ちた。
「君が悪魔に見えるよ。オレの世界を破壊して、嘲笑ってるみたいだ」
「悪魔……」
「弱者を救う女神になるのは楽しいか?自分が偉くなった気がするだろ?
情けをかけられるオレは惨めでしかないがな」
冷笑しながら、吐き捨てられる。アイラインを引いたような濃い目尻のクマとは対照的に、私を排除しようと双眸はギラついていた。殺意にも似た、強い感情。
「そういうところに腹が立つんだ」

人が変わったように吐かれる暴言。これがカラ松さんの本性なのか、精神が病んでいるせいなのか判断がつかない。本性なら、一目散に逃げなければ自分の身が危うい。
終電ギリギリの深夜、一人暮らしの異性の部屋、防音性能に優れた鉄筋コンクリートの角部屋。まるで狂気の沙汰。

「カラ松さんだから何とかしたいんだよ!」
彼の瞳に動揺が浮かんだ。
「カラ松さんにしかしない。これまでも、これからも。一緒にいたいから、何とかしたいの。
それが偽善だっていうなら、偽善で全然いいよ!」
足に力が入らなくて、気を抜けば崩れ落ちてしまいそうだ。
「だから本当のこと言って。腹割って話して。私もそうするから」
カラ松さんの瞳に宿る侮蔑の色が、私の決意を揺るがそうとする。離れた方がいい、共倒れになる前に逃げろと、脳裏に警告も響く。
「正直に話してるさ!その結果がこれなんだよ!
あの時会わなければ良かったんだ!そうすれば他人のままでいられた」
彼の言葉は私の存在を否定するのに、今にも泣き出しそうな目をする矛盾。
「こんな生活続けたら死んじゃうよ!」
「放っておいてくれっ、ユーリさんには関係ないだろ!」
「関係ある!止められなくてカラ松さんがいなくなったら、私は一生後悔するからっ」
解けない呪いが、永遠に私の枷となる。不幸になると分かっていながらみすみす彼を手放すのだから、相応の罪を背負うことになる。私の希望はどこにも届かないまま。
カラ松さんは苦々しげに視線を床に落とす。

「君の人生に……オレはいるべきじゃない」

それなら、どうして───今にも泣き出しそうな顔をするのか。
充血した彼の目から一筋の涙が溢れ落ち、顎を伝ってポタポタと水滴がフローリングに落ちていく。
カラ松さんは壁から手を離し、ふらつきながら一歩後ずさった。
「違う…そうじゃない。違うんだ……」
嗚咽に混じり、首を振る。声は小さく震えていたが、深夜の静寂の中ではしっかりと聞こえるくらいの音量だった。
彼は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、私と目を合わせる。

「……助けてくれ、っ」

必死に絞り出した願い。乱暴に振り払った私の手を求めて、身勝手だとは思わないのか。相手を傷つけ、自分を追い込んで、落ちるところまで落ちなければ助けさえ求められない。たった一言が言えない。
馬鹿な人。本当に馬鹿、大馬鹿だ。
「職場には行かない方がいいと分かってるのに、何もせず家にいると気が狂いそうになる……仕事を辞めたオレに何の価値がある?誰に必要とされるんだ?
誰にも必要とされないのは怖い…っ、世間から切り離されたくない……」
余裕のある人なら、そんなことかと一笑に付すであろう苦悩。
しかし彼は心を蝕まれているが故に、優先順位をつけられずに長期的な焦燥感と不安感に駆られている。抜け出せない負のループの中にいる。仕事を失う大きな穴を埋める術が思いつかない。彼にとって仕事は生活の中心だったからだ。今後その穴を埋めるためにアルコールやギャンブルに手を出すであろう未来は、容易く想像できた。
つい一週間前は、幸せそうに笑っていたのに。

「私が必要としてる!」

彼の苦悶がたまらなく悲しい。それを自覚した途端、両目が熱くなった。頭の奥が締め付けられる感覚がして、涙が落ちる。
「ユーリ、さん……?」
「仕事辞めたらしばらく休もう!一年くらいなら私が養ってもいいっ、私の給料で何とかする!
家でご飯作って掃除と洗濯してくれたら、私すっごく助かるし!」
途切れそうになる声を必死に絞り出した。なりふり構わず、カラ松さんを抱き寄せる。彼は驚愕こそすれ、抵抗しなかった。
「カラ松さんは一生懸命やったよ。それで無理だったんだから、もう会社からは離れなきゃ。
頑張ってきたカラ松さんが必要とされないなら、私なんてもっと必要とされないよ」
「そんなこと……っ」
自虐的に笑ってみせたら、背中に回された腕に力がこもった。
「そんなことあるか!ユーリさんが駄目なんて、そんなこと、あるはずない!」
私はまた笑った。泣き笑いになって、声は出なかったけれど。

「カラ松さんだってそうなんだよ」

私の言葉に、彼は手に力を込めることで応えた。単語にも声にもならない互いの不規則な嗚咽だけが、深夜の狭い室内に広がる。
服が伸びるくらい強く掴まれる。使い物にならなくなったら、カラ松さんの最後の給料で新しく買い直してもらうのもいいかもしれないなんて、思考に余裕が出た。
「ユーリさ……ユーリっ、オレは…ッ、オレは───」
何か言おうとする彼の頭を抱き込んで、顔を私の肩に埋めさせる。無理に言葉を紡ぐ必要はない。
今日は彼も私も泣いていい。涙が枯れるくらい泣いて底に辿り着いたら、あとは上がるだけだ。



私が手を放しても、カラ松さんはまだ私を抱いたままだった。
目を離したら、塵のように消えてしまいそうな人だ。この世界に執着していないから、何の痕跡も残さずにある日突然いなくなってしまうのではないかと、私は不安で仕方がない。
「……ひどいことをした」
「うん」
「ユーリさんを傷つけた」
「うん」
「許してくれと言える立場じゃないが、許してほしい」
「うん」

耐え難い状況に追い込まれた人は身勝手になる。寝不足、空腹、そして疲労がその要因だ。全てを兼ね備えた今のカラ松さんが他人に苛立ち暴言を吐くのも当然と成り行きと思えば、腹も立たない。ただ、たまらなく悲しいだけで。

「───側にいてくれ、ずっと」

このタイミングでそれはズルい。

「はい」

でも、この返事は絆されたからではないことだけは明言しておこう。深夜に虚ろな瞳で会社を出た彼を見たあの時から、覚悟を決めていたことだから。

行き先は、おとぎ話のような美しいハッピーエンドではないだろう。茨の道しか広がっていないかもしれない。
それでも私たちは、惑いながらも切り開いていくしかない。地獄になんて落ちてやるものか。美味しいお店を新規開拓するも良し、のんびり過ごせる公園を見つけるも良し、思う様体を動かせるジムに通うも良し。少しずつ世界を広げていこう。彼の新しい居場所を見つけるのだ。

一緒に。

派生:マフィアと暮らす

「じゃあいい子にしてるんだぞ、ハニー」
カラ松さんは私の髪にキスを落として、玄関ドアの向こうへと姿を消した。どこへとも、誰と一緒だとも、何一つ告げずに。


私は平行世界にやって来たらしい。
表現が曖昧なのは、私自身がよく分かっていないからだ。休日に少し遠出しようと思い立って電車に乗り、見知らぬ駅で降りたら、東京都内のはずなのに私が知る東京とは微妙な差異のある景色が広がっていた。スマホは常に圏外で、登録している電話番号に公衆電話から電話をかけたら、全て別人が出る。
困り果てた時にカラ松さんに出会い、ひとまず現状把握しようと質問を投げた矢先に、彼への襲撃に巻き込まれた。半ば拉致されるように連れて行かれた先は彼のアジトで、銃を所持している上に使い慣れている様子から、カタギでないことを察するのは容易だった。
「しばらくメイドとして雇ってやる」
そして、帰るアテのない私に、彼は所有するマンションの一室を与えてくれた。
私の顔は狙撃者に目撃され、カラ松さんの仲間として認識されている可能性がある。だから、彼を襲った相手を特定して始末するまでの間、表向きは彼の恋人として期間限定の同居が始まったのである。

青いシャツに着崩した黒のスーツ、それが彼の私服であり仕事着だった。第一ボタンを外した胸元にはギラギラと眩いゴールドのネックレスを下げている。そして仕事で外出する時は決まって、黒の手袋を装着する。まるで暗殺者さながらの出で立ちだな、とぼんやり思ったことがある。残念ながらこの感想は、当たらずも遠からずだろう。
「仕事が仕事だからな」
カラ松さんは仕事内容を曖昧に濁す。私も追求はしない。
仕事のない日は一日リビングや自室でのんびりしていることも多く、そういう時はスーツの上着を脱いで少しラフな格好になる。銃は装備こそしないが、ソファの隙間や枕元など、手を伸ばせば常に手の届く範囲にある。どうやら今日はオフの日らしい。

「今夜のご飯は家で食べる?」
「ん?」
煙草をふかしながらスマホを眺めていた彼が、首を曲げて私を見る。私が鞄を持っている様子から、買い出しが必要かを見極めたい故の問いだと察したようだった。
「今のところ呼び出しはないな」
「なら、今日は鶏肉安いみたいだから焼き鳥にしま…するね」
同居するのに敬語は他人行儀だと、タメ口を押し切られた。どう好意的に見てもカタギではない風貌から漂う謎の威圧感に気圧され、未だに慣れない。
夕食に関しては、キッチンの引き出しに竹串が入っているのは確認済みだから、肉と長ネギと、あとは野菜の煮物でも作ればいいだろう。リビングのテーブルで買い出し用のメモにペンを走らせていたら、カラ松さんが私の手元を覗き込む。
「荷物持ちが必要なら車出すぞ、ユーリ」
「えっ」
やべぇ人を足にする度胸が私にあると思うてか。
「あ、ええと…そんなにたくさん買うわけじゃないし…」
「しかしユーリの言う鶏肉が安いスーパーは、ここから徒歩半時間はかかる。車で行けばすぐだろ」
私は目を瞠った。どこのスーパーに行くかは言及してない。しかもスーパーの特売チラシが投函されたのは今朝だ。その情報収集力と洞察力の鋭さには脱帽するしかない。
射抜くような鋭い目つきは笑っているようだったが、私の口は同じ表情を返すどころか不自然に引きつった。
「はぁ…じゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな」
ノーと言えないプレッシャーを感じて、私は苦笑した。脅迫ってこういうヤツか。
「オーライ。ハニーの手料理を食べられる栄光のためなら、運転手くらい喜んでなるさ」
その言葉にどれほどの本心が混じっているのか。全てが虚像で、彼の手のひらで怯える私を見て愉悦を感じている気がしてならない。ドSの所業。

私の肩を引き寄せて玄関に向かうカラ松さんの体からは、私と同じ柔軟剤の匂いがした。




空気が変わったのは、買い物帰りだった。
ガレージに車を入れたのを見計らったようにカラ松さんの携帯が鳴ったのだ。彼は私に荷物をキッチンまで運ぶよう片手で合図してから、足早に自室に戻った。着信者の名前が表示された画面を見るなり表情が僅かに険しくなったのを、私は見逃さなかった。
カラ松さんは仕事の電話を私に聞かせない。飲み屋のホステスや気心の知れた女性の電話に軽口で応じる姿は幾度か見てきたが、それだけだ。
そして仕事の電話があった日は決まって、夜になるとフラッと出ていく。外出時と変わらない姿で戻ってくることもあるし、服が不自然に汚れていることもある。

「ユーリ、これから少し出てくる」
冷蔵庫に食材を詰める私に、気怠げに首元に手を当てながらカラ松さんが告げる。予感的中だ。
「遅くなりそう?」
「その時は途中で連絡する。気乗りしないがちょっとばかり野暮用でな…面倒なことにならなきゃいいが」
全てが曖昧な言葉たち。
私の無言をどう解釈したのかは知らないが、カラ松さんは不敵に微笑む。
「安心しろ、他の女とデートするわけじゃない」
むしろそっちの方が健全だから有り難いのだが、という本音は飲み込んだ。ジャケットの中にホルスターを装備して、黒い手袋をつけた不穏なデートなどありはしないだろうけれど。

そうして、冒頭の髪へのキスへと繋がる。


九時を過ぎても、カラ松さんからの連絡はなかった。
焼き立てを食べてもらいたいから、下準備された串が冷蔵庫で今も待機中だ。煮物は鍋の中ですっかり冷めている。ダイニングテーブルに並べられた食器は、主人の帰宅を静かに待ち侘びる。
彼の仕事中は、私から連絡を取らないよう厳命されている。任務遂行の妨げになるかもしれないからだ。だから私には何もできない。決められた場所で待つ他には、何も。
カラ松さんとの連絡専用スマホを握って溜息を溢したところで、画面が光って番号が表示された。すぐさま電話に出る。
「カラ松さん!?」
「すまん、今夜はもうちょいかかりそうだ。先に休んでてくれ」
いつもの声音だったが、背後で何発か銃声がした。バタバタと近づいてくる足音もする。
「え、ちょ──」
「食べそこねた手料理は明日の楽しみにするさ」
私の声を遮り、一方的に言うだけ言って電話は切れた。
今どこいるんだとか、何をしているんだとか、せめて無事なのかだけでも教えてくれればいいのに。行き場のない不安が足元から這い上がり、私を覆い尽くそうとする。
切れた息を必死に整えている演技くらい───私にだって分かる。

日付が変わる少し前に、ガレージのシャッターが開いた。電気を灯していない暗がりに、街灯と車のライトの明かりが差し込む。私は立ち上がって、腰に手を当てた。ひどく長い時間が経過したような気がした。
車を降りた彼は、バックモニターに映る私を視認してさぞかし度肝を抜かれたことだろう。何とも言えない表情で、エンジンを切った車から降りてくる。手袋はしていなかった。
「驚いた。まさかハニー直々の出迎えがあるとはな」
「たまたまね」
「別段用事もないガレージにたまたま来たら、たまたまオレが帰宅した、と」
「そう思ってもらってもいいよ」
カラ松さんは肩を揺らした。
「はは、強情だな」
彼のシャツからはもう柔軟剤の匂いは漂ってこなかった。代わりに鼻をつくのは、土と硝煙と、そして血の臭い。
空元気ではないらしいことに、私はひとまず胸を撫で下ろす。薄暗がりのせいで判別がつきにくいが、砂埃で汚れてはいるものの、致命的な怪我は負っていないようだった。
「……心配した」
ここは正直に言ってもバチは当たらないだろう。私はカラ松さんを見つめる。
「連絡するって言ったのに全然来ないし、来たら来たで銃の音はするしカラ松さんも余裕なさそうだし…そんな時に私に連絡なんかしてる場合じゃないでしょ、って思って、でもずっと早く帰ってこいって思ってたくらい、心配だった。
無事に帰ってきてくれて今はホッとしてるよ……ああ、そうだ───おかえりなさい」
「ユーリ…」

不意に、抱きすくめられる。
私の顔は青いシャツに埋まった。頬に砂がつく。

「心配かけて悪かった」

私にだけ聞かせるような、小さな声だった。私を抱きしめる手に力がこもる。
カラ松さんの心臓の音が大きくて、この人が今日も生きていて良かったと思う。
「ところで、だ」
声に軽さが増した。抱擁を解いて、彼の片手が私の肩に回る。
「今宵のハニーは一段とキュートだな。明日にかけてオレのベッドの特等席が空いてるんだが、どうだ?」
「突然のセクハラ」
「遠慮は体に悪いぜ」
「しつこい」
鬱陶しくて両手でスーツを押し返したら───ぬるりと、不快な感触がした。手のひらに付着したのは、乾きかけた赤黒い血液。
ハッとしてカラ松さんを見ると、彼はいたずらがバレたような気まずい表情になる。
「あー、オレとしたことがレディファーストを忘れていた。シャワーはユーリが先に浴びるべきだな」
「で、でもこれ…っ」
「オレの血じゃない。スーツの色のせいで気付かなかった」
彼は胸元からハンカチを取り出して、私の両手についた血痕を拭う。よくよく見ると、カラ松さんの爪の間にも血液が付着した形跡が見受けられた。帰宅前に証拠隠滅でもしてきたのだろう。現場ではどれだけの血が流れたのか。
「何なら一緒に浴びるか?
ああ、我ながらいいアイデアだな。その代わり、一旦オレと風呂に入ったら最後、出られるのは声が枯れ果てた夜明けだぜ」
名案とばかりに高らかに指を鳴らすので、私は眉根を寄せた。そう言われて誰が了承するか。
「私一人で行くから!絶対入ってこないでよ!絶対だからねっ」
肩を怒らせながら風呂場へ向かう私に、カラ松さんは苦笑する。
そして直後、背中に声が投げられた。

「…ただいま」




「スマホを捨てる!?」
素っ頓狂な私の声がリビングに轟く。

ある日の昼下がり、話があるからとカラ松さんに呼び出されて二人がけのソファの隣に座るや否や、単刀直入に切り出された指示は私を唖然とさせた。
「繋がらないとはいえ、関係者の連絡先やこれまでの写真といったユーリの個人情報てんこ盛りのブツだ。万一同業者の手に渡ったら命取りだぞ」
この世界にやって来た時から私のスマホは一貫して圏外で、Wi-Fiさえ繋がらない。
加えて、家族や友人の電話番号は全て赤の他人の所有番号になっていた。つい一ヶ月前に電話したばかりの友人の番号に至っては、もう十年近く使っている番号だと答えられてしまう始末である。
「破壊して処分するのがベストだ」
「でも、いつか使えるようになるかもしれないでしょ」
「訪れるかも分からない未来のために、自分の身を危険に晒すのか?」
カラ松さんは冷静だ。それを冷酷と感じてしまうのは、私が彼の意見に真っ向から反発しているからだろう。
「携帯がいるというなら、これを使えばいい」
カラ松さんは真新しいスマホを私に投げた。見た目やサイズ感は今の物に近い新品だ。
「指紋認証で、オレとユーリ以外の奴が開けようとした時点でデータは完全に抹消されるようにした。契約者からも足はつかない」
用意周到だ。
カラ松さんの言うことは正しい。世間に対して胸を張れる立場でない彼に擁護されている私が彼の意に反することはすなわち、カラ松さんを危険に晒すことに他ならない。恩を仇で返すに等しいのだ。
しかし、二つ返事で了承もできない。このスマホに保存されているデータこそ、私が有栖川ユーリである最後の砦だからだ。いつか戻れた時、元通りの生活にすぐ戻るためにもこれは必要なのである。

「調べたが、ユーリがこれまで住んでいたという住所はなかった。この免許証の番号も登録されてない。有栖川ユーリという人間は存在しないんだ」
彼は私が財布に入れていた運転免許証を基に、私の身元を調べてくれていた。預けていた免許証を指先で弄ぶ。
「お望みなら戸籍まで辿るか?」
「…ううん、そこまではしなくていいかな」
現住所がないなら、戸籍を調べたところで結果は変わらないだろう。ただ不思議と、落胆していない自分がいる。
この世界で、私は名もなき異端者だ。名前さえも、私が自称しているに過ぎない。
「これが偽造なら、実によくできてる。本物と見分けがつかない精巧さだ」
「本物だからね」
「だろうな。このレベルを作れるなら一生仕事にあぶれないぞ。何なら専属の契約をしたい」
何の仕事かは聞かないことにする。
「だからこそ余計に、そのスマホは処分すべきなんだ」
カラ松さんは二本指で摘んでいた免許証を私に投げた。緩やかなカーブを描き、私の両手の上に落ちる。

「帰れる手立てなんてないだろ」
「それは、そうだけど…」
「ユーリに残された選択肢は三つだ」
カラ松さんは足を組み直しつつ、右手で三本指を立てる。
「引き続きオレの庇護下にいるか、新しい戸籍で生きるか、ホームレスとして生きるか」
一つ目は現状維持。
二つ目はカラ松さんに戸籍を偽造してもらい、他人の名で生きることだ。この世界で自立できる代わりに、有栖川ユーリの名を失う。
最後は、カラ松さんの元を去り、自分自身で生きる方法。ただし前述の通り戸籍もなく頼れる親族もいないため、組織に所属することは一切できない。

「私は、カラ松さんと一緒にいたい」

提示された選択のうち、最良なのは一番目のように思われた。善良な市民とは程遠い彼の庇護下にいることは、実は最も危険なのかもしれない。いやむしろ最高に危険だろう。
けれど、少なくともカラ松さんは私の絵空事みたいな境遇を信じてくれた。その上で、暮らす場所を与えてくれている。この人を失ったら、私は今度こそどこへも行けない。
「ユーリ、お前……」
「あと一日、時間貰ってもいい?せめて家族の番号くらいは暗記しておきたいし」
そう言ったら、カラ松さんはきょとんとする。
「暗記も何も…バックアップ取っておけばいいだろ
何やて?
「中のデータはオレの管理するクラウドに放り込んでおけばいい。オレ以外は絶対に触れない領域だ」
「え、ちょっと待って……今までのシリアスなくだり必要だった?
「オレはそのスマホを捨てろと言っただけだ」
中のデータにまでは言及していない、と。
すれ違いコントか。
あまりの馬鹿さ加減に両手で顔を覆って天を仰いだら、カラ松さんが堪えきれなくなったとばかりに腹を抱えて笑い出した。笑い事ちゃうねん。
「ははは、いや、すまん。でもおかげでハニーからのラブコールも聞けたことだし、オレにとっては一石二鳥だ」
ぶん殴りたい。
人を小馬鹿にする腹立たしい笑みはしばらく続いたが、やがてフッと柔らかく微笑んで。

「…そうか、オレと一緒がいい、か」

心なしか嬉しそうに、私を見つめたのだった。




さて、私は今まさに危機的状況にある。
薄暗い廃ビルの一室で椅子に座らされていた。その周囲をスーツ姿の五人に囲まれている。幸いにも手足は拘束されていないものの、退路は全て断たれている。気を抜けば押し潰されそうな威圧感が息苦しい。
買い物帰りに道路沿いの歩道を歩いていたら、私の傍らに白の車が一時停車して、若い男性が助手席の窓から声をかけてきた。スマホ片手に市民ホールへの道を尋ねられ、それならここからほど近い場所だからとスマホを覗き込んで───覚えているのはそこまでだ。
次に気付いたら、この椅子に座らされていたというわけだ。端的に言えば、誘拐された。容易く、赤子の手を捻るように。
室内はかつてオフィスだったような内装だ。いくつかの古びたデスクと椅子が乱雑に置かれ、埃を被っている。割れたガラス窓の隙間からは、そよそよと風が入ってくる。外の明るさから推測する限り、拉致されてから長い時間は経っていないようだった。
「あの……」
「ん?いやー、ごめんねぇ。ちょっとの辛抱だからさ、たぶん」
私を取り囲む五人のうち、リーダー格らしい赤いシャツの男が、キャスターチェアに反対向きに座り、背もたれに両腕を載せながら軽い口調で言う。
「大丈夫、痛いこともしないから。俺らこう見えて紳士だし?」
私に危害を加えるつもりがないなら、何が目的で私をこんな場所に連れ去ったのだろう。
───その矢先、どこからか階段を駆け上がる騒々しい音が近づいて、ドアが蹴破られた。

「オレの女に何してくれてんだ、ブラザー?」

侵入者はカラ松さんだった。私は呆気に取られる。
「ユーリっ、無事か!?」
「あ、うん…」
思わず頷いたら、彼は眉を下げて安堵の色を示した。初めて見る表情だった。
それからカラ松さんはリーダー格の男──彼はブラザーと呼んだ──に鋭い眼光を向ける。
「もう一度訊く。オレの女に何してくれた、おそ松?」
おそ松と呼ばれた男性は、へへ、と笑いながら人差し指の先で鼻の下を擦った。
「さっすが、カラ松!この子が突然連れ去られてもちゃーんと奪い返しに来る手はずになってるの、手際がいいねぇ。一人前の仕事してて、お兄ちゃん嬉しいわ」
感激の言葉を口にするが、感情はまるでこもっていない。
「カラ松の彼女にはさ、兄弟として挨拶しておかなきゃと思ったんだよね。結果的に、手荒に拉致しただけになっちゃったのはごめんって」
まるで悪びれた様子のない彼に、カラ松さんは青筋を立てる。
「役者が揃ったことだし、自己紹介しよっか。オレは松野おそ松、こいつ含めた俺ら六人の長男ね」
続いてチョロ松、一松、十四松、トド松と彼らはそれぞれ名乗る。本名かどうかは怪しいが、血縁関係らしいことは顔つきを見れば一目瞭然だった。
カラ松さんには仕事仲間の兄弟がいると聞いたことがある。出で立ちは黒のスーツと色付きのシャツと似通っていて、意図的に服装を合わせているのだろう。

「てかさ」
おそ松さんは、す、と表情を消した。

「お前に女ができたっていうからどんな手練かと思ったら、めちゃくちゃ素人なのはどういうこと?」

私は動揺を隠すのに精一杯だった。私の拉致は、お手並み拝見の意味合いもあったのだ。
「そうだよ、カラ松兄さん。素人の子には手出さないって決まりだったじゃん」
トド松さんが、呆れたように言う。
「お前だけ何勝手に約束破ってんだって話」
気怠げな表情の一松さんは、眉間に皺を寄せる。
「旨い寿司食い飽きて家庭料理食べてみたいっていう気まぐれ?
良くないなぁ。その辺の女の子を彼女にしたら俺らにも累が及ぶんだよ、カラ松」
口調は軽いが、事と次第によっては容赦しないという顔だ。口元にはにこやかな笑みが広がっているが、目はまるで笑っていない。
おそ松さんが腕を動かしたタイミングでスーツの裾が揺れ、サイドのホルスターと銃が覗いた。カラ松さんが握るのと同じ種類の銃だ。
「しかも、所持してたスマホからは何の情報も出なかった。この携帯用意したのお前だろ、カラ松」
チョロ松さんは私のスマホを掲げる。さっそくスマホが奪われる機会が訪れるとは、あの時大人しく以前のスマホを破棄しておいて良かった。あのスマホを見られたら、どんな追求を受けていたか分かったものではない。
この世界での私は、ある意味でカラ松さんにとって都合がいい人間だ。私のことをいくら調べても、どこにも辿り着けない。

しかし、私を匿っていたことをカラ松さんは兄弟にどう釈明するのだろう。冷や汗がこめかみを伝う。

「こいつは、オレを襲撃した奴の顔を見た」

「へぇ」
おそ松さんが興味深そうな声を出す。椅子の背もたれが、ぎし、と音を立てた。
「ユーリはオレへの襲撃に巻き込まれ、その時に敵の顔を見てる。
あの時あの場所にオレがいることを知ってる奴はいないはずだ。だから裏切り者の面通し用に置いてる。表向きはオレの女ってことにすれば、何かと話が早いだろ」
カラ松さんは微かな動揺さえ見せずに、しれっと盛大なホラを吹く。
「折を見て説明するつもりだったが、手荒い歓迎を受けて涙が出そうだぜ、ブラザー」
呆れを覗かせた苛立たしげな双眸をおそ松さんに向けた。自分の隠し事は全力で棚上げし、拉致を咎める鋼の如き度胸は、もはや尊敬に値する。
「そうだとしてもさ、せめて護身術くらいは覚えといた方がいいよ~。カラ松兄さんと一緒にいるってことは、こういうことが日常茶飯事になりえるってことだからね」
十四松さんがニコニコと、私に忠告する。愛嬌のある表情とは裏腹に、アドバイスは不穏そのものだ。
「…心に留めます」
「うんうん、ユーリちゃん素直でいいね!頑張って!ぼく応援する!」
「護身術ならボクが教えてあげる。カラ松兄さんは身を守るんじゃなくて倒しに行くスタイルだから、役に立たないし」
トド松さんが両手で拳を作り、鼓舞するポーズを作った。
「勝手にすればいいけど、僕らに迷惑かけることだけはしないでよね」
「自分のケツは自分で拭けよ、カラ松」
チョロ松さんと一松さんは不承不承といった体だ。歓迎はしないが、反対もしない。万一にも自分たちに被害が及べば、カラ松さんごと切り捨てる。
「当然だ」
そしてカラ松さんは、当たり前のことを言うなと低い声で吐き捨てた。

おそ松さんが椅子から立ち上がってシートを回す。椅子はくるくると回転し、やがて動きを止めた。
「ま、お前がいいならいいけどね。
そんなわけで、これからよろしくな、ユーリちゃん───長い付き合いになるといいね」
容易く死んでくれるなよ、と。
背筋がゾッとした。




解放されて車に乗り込んだカラ松さんは、エンジンをかけるなり長い溜息を吐き出してハンドルに額を当てた。
「おそ松に嗅ぎつけられたのは想定外だった…」
同じ内容を説明する予定だったとしても、後手に回ったことで結果的に彼らの心象を悪くした。特におそ松さんは納得しているかさえ怪しい。
「ごめんなさい…私が簡単に捕まったせいで、カラ松さんにも迷惑かけてしまって…」
私は助手席で小さくなる。カラ松さんは肩を竦めた。
「ユーリのせいじゃない。もっと早くにあいつらに説明しなかったオレの責任だ。
どうせ事実を言ったところで馬鹿にされるのがオチだろうし、あんな説明でも当面の時間は稼げるだろ───いや、稼いでみせるさ」
「カラ松さん…」
ギアを入れてアクセルを踏む。
「怖かっただろ。ブラザーがすまない」
珍しく殊勝な顔つきだ。私の方が恐縮してしまう。
「あ、ううん、違うの。驚きはしけど、確かに言われてみれば、カラ松さんと一緒にいるってことは、こういうことが今後も起こるかもしれないんだよね」
ターゲットはカラ松さんでも、彼のウィークポイントとして私を狙ってくる。事実はどうあれ、少なくとも外部は私をそう扱うはずだ。
「そうだな。それにユーリはブラザーたちの顔を見た」
「え」
「基本的にオレたちは他人に素性を明かさない。仕事に差し支えるからだ。
なのにおそ松はその禁を破った。それはつまり───オレたちを裏切るなという脅しだ。裏切れば最後、地の果てまで追ってくる」
「はぁ…」
私がポカンとしているので、カラ松さんは意外そうな顔をする。今日は彼の珍しい表情ばかり見る気がする。
「怖くないのか?」
そうか、そういう意味か。問われて初めて意味に気付く。

「私がカラ松さんを裏切ることはないから、起こらないことに対しては別に何とも…」

別のことで彼らの逆鱗に触れないよう気をつけようとは思うけれど、脅し自体は私には微塵も効果を発揮しない。決して起こり得ないことだからだ。
「…なるほど。さすがはハニー、いい女だ」
くく、と押し殺すみたいにカラ松さんは笑った。


ビル地下のガレージに車を入れて、シャッターを下ろす。太陽の光を失った車庫の電気をつけながら、カラ松さんは車のドアを閉めた。車庫内に人工的な明かりが灯る。
「ユーリ」
重々しい空気の纏う呼び声に、彼の顔を見つめることで返事をする。いつになく真剣な眼差しに、茶々を入れてはいけない気がした。
「これを渡しておく」
スーツの胸ポケットから取り出されたのは───指輪だった。
マットなシルバーリングの中心にダイアのような小さな宝石が埋め込まれている、シンプルなデザインのもの。無造作につまみ出したそれは、ケースに入っているわけでもない。
「これは…?」
「宝石部分は蓋になっていて、外せるようになってる。中にあるのは───毒だ」
カラ松さんは視線を手のひらの指輪に落としながら私に語る。意外に睫毛が長くて、綺麗だななんて思考が逸れる。
「小さな粒だが、致死量の劇薬だ。万一捕まってどうしようもなくなった時のために、な。
オレといるというのは、そういうことだ」
感情のこもらない静かな語り口を聞くのは、私だけ。足元が浮つく感覚がして、現実味がない。

「…覚悟があるなら、受け取ってくれ」

覚悟。
非力な私がカラ松さんと共にいるなら、足手まといになってはいけない。彼を危険に晒さないために、幕引きの手段を用意しておくのは至極当然の流れだ。
突然見知らぬ世界で襲撃に遭い、身分のない私は生活のために犯罪組織の一員に縋るしかなく、犯罪の片棒を担いでいる実感さえないのに、選択を求められている。彼に命を預けるか、逃げるか。
ずっと平々凡々と生きていて、平穏はこの先も当たり前に続くと思っていた。

「うん」

逡巡は一瞬だった。
私が選んだ道だ。誰に強制されるでもなく、自らの意志で進むと決める。
「引き続き、よろしくお願いします」
「引き返すなら今だぞ」
「戻る道なんてないよ。それに、使わなくて済むよう護身術含めてこれから色々身につけていくから」
「…そうか」
フッと笑みを浮かべて、カラ松さんは私の左手の人差し指にリングを通した。安物の指輪だけれど、ずしりと重い。
厳かな儀式のようだった。ロマンチックもドラマチックも程遠い。改めて自分の立場を思い知らされ、私の心臓は早鐘のように鳴った。少し手が震える。
「で、次はオレの番だ」
重苦しい空気を変えるように、カラ松さんは軽やかな口調で人差し指を立ててみせた。話はもう終わったものだとばかり思っていたので、私は面食らう。
「オレは、ユーリにこれを使わせないように最大限の努力をする。どんな時でも必ずお前を守って、奪われてもすぐに奪い返す」
その言葉は、まるで。

「それがオレの、お前への覚悟だ───ユーリ」

反射的に握りしめた自分の拳は冷たかった。目の前で起こっているのは、紛うことなき現実だと再認識する。
「カラ松さんは、それで──」
「みなまで言うな。危ない橋を渡ろうとしてるのは自覚してる」
彼は自嘲気味に口角を上げた。
「…まぁ、どうせ死んだら地獄行きなんだ。ゴールが一緒なら、オレの好きなように生きるさ」
銃の引き金を引くことに躊躇いを覚えなくなったのは、いつからなのか。血に濡れた服で平然と口説けるのは、どんな神経なのか。そして、これまでどんな過去を生き、どれだけの人を殺めてきたか、私は知らない。

結局のところ、考えたところで過去は変わらないのだ。だったら、前を向こう。今の私にはこの世界から抜け出す手立てがないし、この世界で生きるならカラ松さんの側がいい。
「ユーリもあまり気負うな。近いうちに、お前の顔を見た奴も必ず始末する」
「あー、そういやそれ未解決だったね」
私たちが同居に至った理由をすっかり失念していた。
「今後想定外のことが起こったとしても、何とかすればいい。人生そういうもんだろ」
適当だなぁと呆れるものの、起きてもいない事象に対していたずらに不安がっても仕方ないのは同意だ。

「そこで」
突然カラ松さんの口調が軽くなった。右手が私の肩を掴んで、彼の胸に引き寄せる。
「より相手を知るために、ハニーとは今夜からベッドで親睦を深めないとな」
「おっさんのセクハラか」
調子に乗ったらベッドに誘ってくるのは何なんだ。
「私なりにすっごく覚悟決めて、まだ心臓バクバクしてるってのに、茶化されるのは心外なんだけど。怒るよ」
じろりと睨んだら、カラ松さんは意外そうに僅かに目を剥いた。
「ジョークを言ってるつもりはない。最大の愛情表現のつもりだが?」
「まだ言うか」
耳元から聞こえるカラ松さんの声は、驚きを含んでいるようだった。しばらく──といっても数秒だけど──無言の時間があった。
「…なるほど、どうやら認識の相違があるらしいな」
パッと手が離れる。よく分からないが、認識を改めてセクハラを改善してくれるなら願ってもない。


そういえば。
「今日、どうして私の居場所が分かったの?」
「ん?」
カラ松さんは片手を自分の腰に当てる。
「スマホは早々にチョロ松さんに取られて電源切られちゃったし」
携帯のGPSを追跡することは不可能だった。なのにおそ松さんはカラ松さんの出現を織り込み済みのようだったし、実際カラ松さんは私の元へ辿り着いたのだ。
「…ああ、そのことか」
カラ松さんはニヤリと笑って、私の首から下がるネックレスを指さした。
「その中に発信機が入ってる」
スワロフスキーのペンダントトップ。私が元々所持していたものだ。
「───というのはダミーで、もう一つはユーリにも気付かれないように毎日場所を変えてつけてる」
「そんな、いつの間に…っ」
まるで気付かなかった。

「オレの側にいる最高にいい女を、タダで攫わせてやるわけないだろ」

カラ松さんは私の後頭部を掴んで乱暴に抱き寄せると、こめかみに長いキスをした。振り払おうという思考に至った時には既に彼の唇は離れ、満足げにほくそ笑む眼差しが私を見下ろす。
「唇は次までのお預けにしといてやる」
「……はぁ!?いや、次なんてないからね!」

一緒にいたいなんて殊勝なことを言うのはもっと先にすべきだったと、私はいつになく強い後悔の念に苛まれるのだった。

性悪神父はかく語りき

「神父様、じゃあまたね!」
「はい、また来週お会いしましょう」

聖書を胸に抱えた神父は、見た者を虜にするような爽やかな微笑で、ミサを終えた子どもたちが元気よく聖堂を飛び出していくのを見送った。聖職者の出で立ちは、丈の長い黒のカソックに金色の刺繍が施された青のストラ、胸元には年代物のロザリオという、一般的な祭服だ。
古びたステンドグラスから差し込む色とりどりの光は、聖堂内を美しく彩る。幻想的な光を背負いながら神の言葉を語る神父は、まさに神の使いだ。
「シスターもバイバイ!」
「さようなら、気をつけてね」
私は神父の傍らに立ち、ひらひらと手を振る。黒い修道服に身を包む、神に仕え神父を支える者だ。
この教会でのミサは毎週日曜に行われている。信者でなくとも自由に参加できる開かれた集まりなため、暇潰しや興味本位で教会を訪れる者も多い。建物自体が華美でなく築年数も経っているが故に、扉を開けるハードルが低いのも要因の一つだろう。
とはいえ、割合としては敬虔な信者が多くを占めている。ミサでは毎回『聖体拝領』と呼ばれる、キリストと弟子たちが過ごしたいわゆる最後の晩餐を模し、キリストの体を受け取る儀式があり、神の体の一部であるパンを受け取れるのは信者に限られるためだろう。

「神父様!」
参加者の大半を見送ってさぁ片付けをと私たちが教会の中へ戻ろうとした時、若い男性が居ても立っても居られないと切羽詰まった様子で神父の名を呼んだ。私と神父は揃って振り返る。
「どうされました?」
穏やかな、何もかもを包み込んでくれそうな声音で神父が問う。
「…相談があります。その…最近、仕事も何もかも上手くいかなくて……僕が空気読めなくて鈍くさいのが原因なんでしょうけど…そんな僕でも、神様は見捨てずにいて下さるんでしょうか?」
要領よく立ち回れない要因に目星はついているけれど、不確かな未来への漠然とした不安に苛まれる。大丈夫だよ、そんなその場限りの言葉を求めて。
「神はいつでもあなたと共におられます」
神父は微笑んで言う。胸から下げるロザリオが、日光を受けてキラリと光った。
「───あなたの幸せも願っておられますよ」
彼が望む言葉を、代弁者として告げる。

「こんな言葉があります。
『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである』と」

現状を悲観するのではなく、これからの未来に楽しみや幸福を見出す視点を持つこと。視点が変われば意識と行動が変わる。人は変えられずとも、自分は変えられる。
物事を見る枠組みを変えるのは、心理学でも用いられる珍しくない手法だ。
「……はい!ありがとうございますっ、頑張ります!」
みるみるうちに晴れやかな表情になった青年は頭を下げ、町へと駆け出していく。私たちは笑みと共にその後ろ姿を見送った。


「…ユーリ、今日の献金はいくらだ?」
教会から人気がなくなったのを確認した後、神父は声のトーンを落として私に尋ねる。スッと微笑を消し、億劫そうな顔。両手で胸に抱いていた分厚い聖書で自身の肩を叩く。
「数日分ってとこです、カラ松さん」
私もまた優しいシスターの仮面を外し、腰に手を当てた。私たちは他人の目がない場所では互いを気安く名で呼ぶ。
「オーケー、上出来だ。いい酒とつまみを手配しておいてくれ」
カラ松さんは空中で聖書を一回転させた。ありがたいお言葉が並ぶ書物の扱いは、人目がなくなると途端にぞんざいになる。
献金は教会の運営資金、ひいては私やカラ松さんの生活費ともなる貴重な資金だ。ミサという業務を行い、対価として現金をいただく。神父目立ての参加者も多く、仮面を被るのも大事な業務の一環である。
「今夜は遅くなりそうだしな」
「何かあるんですか?」
私の質問に、彼は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「───仕事だ」




町が眠る丑三つ時、私とカラ松さんは人里離れた廃屋に足を運ぶ。他者との交流を避けるために建てられた一軒家で、所有者が亡くなって久しい。家を囲むように立ち並ぶ木々は道を隠すかのようだった。風に揺れた木々のざわめきは、この後私たちに不穏をもたらす警告のようにも感じられる。
朽ちて長い年数が経過した屋敷は建物の所々に穴が空き、玄関扉の蝶番は今にも外れそうなほど傾いている。その建物の前で、同業者の男性が私たちの到着を待っていた。
「首尾は?」
「まぁまぁってとこかな。逃げ出さないようにはしてある」
初老の彼は親指を立てて玄関ドアを示した。カラ松さんと同じような黒いカソックに身を包んでいる。
「なら上出来だ」
カラ松さんが片側の口角を上げた。
家の周囲からはほのかに神々しい気が漂う。彼が結界を張ったためだろう。
「後は任せたぞ、カラ松神父」
「オーライ」
私たちに背中を向けてこの場を後にする彼に、カラ松さんは左手を振った。
「さぁ、ビジネスの時間だぜ、ユーリ」
拳を鳴らしたカラ松さんはストラを外して私に寄越す。肩にかけているだけだから外れやすい上、万一損傷すれば買い直すにしろ修繕するにしろ費用がかかるからだ。ストラのないカソックはほぼ黒一色で、暗殺者さながらである。黒は闇に溶ける。
カラ松さんが扉を開けると、錆びついた蝶番が音を立てた。手持ちのランタンが電気の通っていない室内を明るく照らす。
「はい!」
私は頷いて、彼の後ろ姿を追った。


カラ松さんは神父であるとともにエクソシスト──いわゆる悪魔祓い──の能力を持つ。
司教に許可されて名乗る資格としてではなく、実績を積んで名を挙げてきた実力者である。無免許医のようなものなので肩書として名乗ることはしていないが、様々な経路を辿って依頼は途切れることなく舞い込んでくる。
カラ松さんに悪魔祓いの依頼が来るのは、すなわち───その辺のエクソシストでは太刀打ちできない厄介な相手である、ということだ。

今回の対象者は、若い浮浪者の男性だった。私とカラ松さんが室内に踏み込むと、太い柱に縄で縛り付けられた姿が目に入る。床に尻をつき、がっくりと項垂れていて表情は見えない。気を失っているのだろう。
「っ…うぅ…」
カラ松さんが歩を進めた際に、床がぎしりと軋んだ。その音に反応して、浮浪者の彼はくぐもった声を溢した。
「ああ、何と悲しい光景でしょう」
カラ松さんは首から下げた十字架を握りしめ、嘆かわしいとばかりに首を横に振った。
「苦しいですよね。今救って差し上げます」
地面に片膝をつき、頑丈に結ばれた縄を緩めた───その刹那。

カラ松さんの眼球に向け、鋭い爪が伸びた。

「おっと」
しかし彼は軽やかに横へ跳ねて避ける。服の裾がひらりと舞う。
だからすぐさま攻撃対象は彼の後ろに待機していた私へとシフトする。痩せこけた浮浪者とは思えぬ俊敏な動きに、私は呆気に取られて立ち尽くす。瞬く間に距離が詰まり、獣の如き長い爪が振り下ろされた。
「ぎゃっ!」
叫びと共に弾き飛ばされるのは、浮浪者の体。
「…残念でした」
私のにこやかな声に呼応するように、手元のランタンの火が揺れる───飛んできた浮浪者をカラ松さんが拳で地面に叩きつけたからだ。
その間に私は革製のトランクケースからパーツを取り出し、素早く組み立てる。そうしてできた私の背丈ほど長さのある赤い槍を、カラ松さんに投げた。
私の手にはずしりと重い槍を彼は軽々と受け取るや否や、床に転がる浮浪者の顔面の横に思いきり先端を突き立てる。
「救ってやるって言っただろ?」
底意地の悪い笑みが、カラ松さんの顔に浮かぶ。

「───オレの手で、な」

男は飛び起きてカラ松さんの間合いから逃げた。唸り声を上げるだけで人の言葉を発しないのは、知能の低い低級霊の部類に入る。とはいえ凶暴性によっては、名ばかりのエクソシストでは対処しきれないケースも多く、カラ松さんに除霊を要請がくる。そんな流れが定番化しつつあった。
「ユーリはそこから動くなよ」
「もちろんです」
私の役目は『囮』だ。
エクソシストとしての能力はおろか神への信仰心も皆無に近いけれど、なぜか私の半径数十センチには見えない障壁があって、悪霊は私に触れることが叶わない。この特異性をカラ松さんに買われて、悪魔祓いに駆り出されている。
というのは建前で、メイン業務は諸々の後始末だったりもするのだけれど。

カラ松さんが地面を蹴って相手の懐に飛び込むのは、一瞬の出来事のように感じられた。右手の槍の切っ先を躊躇いなく男の心臓部に突き刺す。続けざまに槍を振り上げると、胸元から上は真っ二つになった。
「お前の罪は赦される。何しろオレの手で塵も残さず消滅させてやるんだからな」
崩れ落ちる肢体の頭部を荒々しく踏みつけると、浮浪者の肉体は塵のように霧散した。彼が消滅した後には何も残っていない。ただ解かれた縄が落ちているだけだ。




悪魔が跡形もなく消滅したのを確認した後、カラ松さんは服についた砂埃を面倒くさそうに手で払った。
「お疲れ様でした」
「ん」
私が声をかけると、彼は赤い槍を私に寄越した。固い床に突き刺したにも関わらず、傷は一つも増えていない。元々多少の使用感はあったが、どんなに乱暴に扱おうともいつだって変わらぬ鈍い輝きを放つ。だからこそ不気味だった。
加えて、カラ松さんが持つからこそこの槍は真価を発揮する。彼以外が手にしたところで悪魔が祓えるわけでもなく、殺傷能力も格段に落ちる。さながら、武器の形をしたおもちゃだ。
いつどこで手に入れたのか、気にはなるけれど問うたところで私が求める答えは返ってこないのだろう。カラ松さんはそういう人だ。

「こっちの仕事の方が割がいいってのは皮肉だよな」
朽ちかけた椅子に腰掛けて、カラ松さんは煙草に火をつけた。
「しかも表立っての仕事ではないので、収支を適当に誤魔化さなきゃいけないのも骨が折れます」
「そりゃそうだ。自分たちでは退治できないから無資格者に頼みましたなんて、エクソシストが聞いて呆れる」
口から紫煙を吐きながら、カラ松さんは皮肉を溢す。
「なーにが神だよな」
ゆらゆらと不規則に揺れるランタンの炎が、彼の顔を照らしている。

「オレが直接手を下さないと悪魔一匹始末できないなら───神なんていないんだよ」

彼の胸を飾るロザリオも、肩から下げるストラも、彼を神父に見せかける道具に過ぎない。
私も同様に、修道女としての経験も知識もないまま彼の下で働いている。神に祈る行為も形式的なものだ。誓願を立てて信仰生活を送るなんて堅苦しい生活を強制されない分、カラ松さんの側は気楽でいい。
「…ユーリも怪我はないか?」
そして意外と、私のことを気遣ってもくれる。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか」
カラ松さんは煙草を咥えたまま立ち上がり、私の頭を撫でた。気怠そうな顔とは裏腹に、手つきはとても優しい。
「カラ松さんこそ、怪我してますよ」
手を上げて彼の頬に触れる。敵の初撃が掠ったのだ。傷口は浅いが、血が滲んでいる。
「こんなのすぐに治る」
彼は私の手を掴んで、不敵に笑った。

カラ松さんが神父を生業とするのは、体裁がいいからという理由の他に、ミサ以外では比較的時間に縛られない生活ができるからだ。彼の人望と功績でそれなりに献金もあり、あくせく働く必要がない。妻帯はできないが、それ以外に主だった制限もない。
「生臭神父ですよね、カラ松さんって」
武器を片付けるためにトランクケースを開けながら私は苦笑する。節制などという言葉は、彼の辞書にはない。
「オレに敬虔な信仰心なんてあると思うか?
いもしない神に縋って何もしないのは時間の無駄だ」
召命──神に聖職者への道に進むよう命じられること──など感じたことはない、と以前彼は私に語ったことがある。なりたくてなったわけでもない。世間体がよく都合もいいから選んだに過ぎない、と。
「神がいるとしたら、オレだな。オレなら、内容とリターン次第では願いを叶えてやる」
彼は冷笑した。
献金さえ差し出せば欲しい言葉を告げる。神の名を騙って安堵もさせる。必要に応じて物理的な行動にも出る。今回の依頼のように。
「そういうの、私以外の前で絶対言わないでくださいよ」
「ユーリだから言ってるんだ」
そう言って彼は意味ありげな視線を向ける。強い眼差し。

「仮に他言したところで、ユーリがオオカミ少年になるだけだしな

こいつのこういうとこほんとぶっ飛ばしたい。上司だから言わないけど。言わないけども!
「地域密着型の神父を侮るなよ」
本職の神父の方々に謝れ。
「全ては神父様の手の内、ということですか」
「心外だ。ユーリには荷物持ちと雑用係として絶大な信頼を置いてるのに。それじゃ物足りないか?」
くく、と喉を鳴らしてカラ松さんは言い、吸い終えた煙草をテーブルに擦り付ける。その吸い殻を処分するのも私の仕事だ。私たちがこの場にいた痕跡は抹消しなくてはならない。
「…いーえ、十分です」
「なら、こんな辛気臭い所はとっととおさらばするか。今日買った酒で祝杯だ」
カラ松さんは立ち上がり、背後を振り返らずに廃屋を後にした。


「今日は子どもたちがマフィンを持ってきてくれたんですよ」
私は手作りマフィンとホットミルクをトレイに載せ、カラ松さんのいるリビングへ運ぶ。
教会に隣接している小さな一軒家を居住区として、私とカラ松さんは暮らしている。当然寝室は異なるが、共同生活を行っているから、その事実だけ見れば同棲だ。
なのに神父と修道士の肩書き故に、通俗的な視線を向けられないから不思議ではある。
「何でミルクなんだ。酒だって言っただろ」
ダイニングテーブルに頬杖をつき、カラ松さんは悪態をつく。黒いカソックを脱ぎ払い、白いインナーシャツと黒のパンツ。畏まった仕事着から一転、ラフな格好である。
「深夜のアルコールは明日…もう今日ですね、今日の仕事に差し支えます」
「本業はちゃんとこなした」
「片手間で神父やってるみたいな言い方しないでください。どっちも本業ですからね」
司祭が聞いて呆れる。どんな手を使って聖職者として潜り込んだのか。
カップを置く手がつい荒くなってしまい、白い液体が大きく波打った。カラ松さんは私の苛立ちを気に留める様子もなく、口角を上げた。その頬には傷一つない───先程受けた傷さえも。
「傷…もう治ったんですね」
まだ数時間しか経っていないのに、血が止まるどころか跡さえ残っていない。あの時私は見間違えたのか、そんな不安に苛まれそうになる。
「あんなのは怪我のうちに入らないさ」
「はぁ…」
エクソシストとしての高い素質と怪しい槍だけでも、疑念を抱くには十分な要素だ。この司祭は果たして人間なのか、と。
「ま、別に何でもいいですけど」
私が早々に興味を失ったのは、カラ松さんは意外だったらしい。僅かだが目を瞠った。
カラ松さんには、行き倒れていたところを拾ってもらった恩義がある。修道士としての役割と生活する場も提供してもらった。贅沢をしなければカラ松さんと共に安穏に暮らせる。彼が私に危害を加えないことが明確なら、正体なんて些末なことなのかもしれない。
カラ松さんは湯気の立つホットミルクに口をつけて、ニヤリとほくそ笑む。

「悪魔と契約したからさ」

「悪魔……?」
「ああ。悪霊の魂を定期的にくれてやる代わりに、体を強化させた」
寝言は寝て言え。
「…カラ松さん、私をからかって楽しいですか?」
頬張ったマフィンは甘い。荷物持ちで疲弊した体力を回復してくれる。
メンチ切るレベルで眉をひそめた私に、彼は肩を揺らした。
「からかう相手としてはかろうじて及第点だ。反応がいまいちだが、退屈しのぎにはなる」
殴りたい、このドS。
「安心しろ、オレはよほど重篤にならない限りは死なない。
足手まといなお前のことは何かあったら守ってやるし───」
マフィンにかぶりついて。

「ユーリを残してオレは死なない」




私たちの元に厄介な仕事が舞い込んできたのは、それから数日後のことである。
一般のエクソシストで対処できない時点で十二分に厄介なのだけれど、電話口で私に依頼の申し出をしてきた依頼者の声は、剣呑な雰囲気だった。

そうして訪れたのが、町の中心地から離れひっそりと佇む廃屋の洋館だ。かつては富豪の別荘地だったらしいが、廃棄されて長い歳月が経過している。私の背丈をゆうに超える大仰な門は植物の蔦に覆われ、傾いていた。屋敷全体は高い塀に囲まれている。ホラーハウスとして映画やドラマの撮影地になりそうな廃墟だ。
現在の所有者が取り壊すために業者に調査を依頼したところ、屋敷に入った人間は二度と出て来なかった。悪魔の仕業ではないかと派遣されたエクソシストもまた、足を踏み入れたきり戻ってこなかったという、そんな曰く付きの洋館である。
例の如く深夜訪問のため、明かりは手元のランタンと月明かりだけ。鳥の鳴き声にさえ恐怖を覚えるのは、きっと───外観のせいだけではない。得体のしれない不安が、足元に這い寄る。

「ユーリ」
私が先陣を切って門を開けたところで、カラ松さんに呼ばれる。
「妙な空気だ。お前は中に入らない方がいい」
いつもなら面倒くさそうに現場に入るカラ松さんの眉間に、皺が寄っている。
「え…」
「オレが一人で行く」
「…ユーリ!?」「あ、そうですか?よく分からないですけど、じゃあこれ───あ」
武器が収納されている鞄を手渡そうとして、私は前のめりになる。何かに右足首を掴まれて、勢いよく引っ張られたのだ。

背後から足を引かれたため、腹部を地面に打ち付けた。生い茂る雑草がクッション代わりになったけれど、それでもなお強い衝撃に一瞬目の前がホワイトアウトする。足に纏わりつく紐のような何かは、転倒した私を屋敷へと引きずり込もうとする。
「ちょ、な、何…っ」
鞄から手を放してはいけない。これはカラ松さんの大切な悪魔祓いの道具だから。
かろうじて自由なもう一方の手を腰に差し込み、折りたたみナイフを引き抜く。体が地面に擦れる痛みに思考がままならないが、奪われた足首に目をやると、白い蔦のようなものが巻き付いている。刃を振り下ろして断ち切ったが、いつの間にか私の体は屋敷内にあって、目の前で扉が閉ざされた。暗闇が私を覆う。

「お手本のような捕まり方だな、ユーリ」
私を追ってきたカラ松さんも滑り込めたらしい。僅かに乱れる呼吸を整えながら、修道服が砂まみれになった私を鼻で笑った。
「…どういたしまして」
「自力で危機を脱したのは褒めてやる。よくやった」
「伊達にカラ松さんの相棒やってませんから」
「頼りにしてるぜ」
埃とカビの混じった、廃屋ならではの臭いが鼻をつく。そしてそれとは別に、生き物の気配。
閉じられた扉はびくともしなかった。カラ松さんが自分のランタンを私に寄越したので、持ち上げて周囲を照らす。
そして映し出されたのは───

屋敷内全体を白い糸で覆い尽くす、巨大な蜘蛛。

玄関入ってすぐの玄関ホール正面に、劣化した真紅の絨毯が敷き詰められた吹き抜けの階段がある。その階段上から吊り下げられたシャンデリアにぶら下がるみたいにして、私たちの身長以上はありそうな巨大蜘蛛が糸を張り巡らせていた。
腰から上は男とも女とも取れる形で、下半身が蜘蛛のそれ。
ホール全開に広がる巣から糸が伸びてきて、鋭利さを伴って私たちに降り注ぐ。カラ松さんは表情を変えずに軽やかに避けた。彼のような俊敏さを持たない私はいつものように防御に徹する。
そのはずだった。

パリン、と何かが割れる音がした。針みたいな糸が私の腕を掠める。二の腕にチリチリとした痛みが走った。
「……何、で」
「──チッ」
次の瞬間、カラ松さんが私を抱いて飛んだ。右に左にと体が揺れる。糸が突き立てられた床は割れ、激しい音を立てていく。
私の障壁が破られたのだと思い至ったのは、それから少し経ってからだった。糸が掠めた腕が少し熱を持つ。
「ユーリを持ったまま倒せというのは難易度が高いな」
言うに事欠いて、持つ、とか言いやがった。抱いてとかいう表現があるだろうが。
「悠長なこと言ってる場合ですか!カラ松さん、私なら自分で何とかしますから!」
「どうにかならないから怪我したんだろうが」
悔しいが、反論できない。
しかし私を抱えながらでは回避が精一杯に違いない。槍だってまだ私が持つ鞄の中で、組み立てる時間もないのだ。
これは万事休すかと眩暈がしたところで、カラ松さんが攻撃を避けるために私を落とした。
大事なことなので二度言う、落とした。故意に。
そして何か、異国の言葉のような理解不能な言葉を呪文のように口にして、カラ松さんが叫ぶ。

「おそ松!」

聞いたことのない名だった。
「はいはーい」
気の抜けた声がすぐ背後から聞こえて、私は目を剥いて振り返る。
そこにいたのは、『悪魔』だった。鮮血に似た赤い翼と尻尾を生やし、後頭部には同色の角。スーツのような衣服に身を包み、人間の姿に擬態してはいるけれど、その両足は宙に浮いている。
「呼んだ?カラ松」
悪魔は人の言葉を操る。それから私と目が合うと、ニッとほくそ笑んだ。
「用があるから呼んだんだ」
「だよな。知ってた」
ふわふわと漂っているだけかと思いきや、この悪魔の周囲には見えない結界が巡らされているようだった。私とカラ松さんを狙って振り下ろされる糸が、尽く弾かれている。
「ユーリを守れ」
カラ松さんの双眸は悪魔には向けられず、蜘蛛を捉えたまま。
「いいけど、俺をわざわざ呼び出して頼むっつーことは、代償は高くつくよぉ」
空中であぐらをかき、だらしのない笑みを作るおそ松という悪魔。
しかしカラ松さんは動揺の片鱗も見せず、トランクケースの槍を素早く組み立て、構えた。
「お前の力が弱くて障壁が破られたんだろ。挽回くらいしろ、ド底辺悪魔」
「あっ、ひっど!悪魔使いが荒い司祭なんて聞いたことねぇからな!」
「知ったことか。
ユーリに傷一つつけてみろ、二度と再生できないようお前も消滅させてやる」
そう吐き捨てながら、カラ松さんはこれ以上ない殺意のこもった目で悪魔を見た。

悪魔は長い溜息を吐き、私に手を差し出した。爪が赤く、長い。
「じゃあ、はい」
「はい、って…」
「俺と手繋いどけばユーリちゃんは絶対安全だから」
悪魔から人間を守る悪魔という構図はかなり異様だったが、考えるだけ無駄か。
「…おそ松」
カラ松さんは訝しげに彼を睨む。
「ほんとだって!今ってねみたいな広範囲のヤツでもいいけど、これ結構体力使うし、別料金貰うよ?いいの?」
カラ松さんは唇を尖らせた悪魔に舌打ちして、地面を蹴った。白い糸を槍で薙ぎ払いながら、蜘蛛の懐を目指す。

「あの……おそ松、さん」
「うん?」
よく見たら、瞳も赤い。コウモリに似た翼を広げて、彼は私と目線の高さを合わせた。
愛嬌がある軽口は見せかけで、狡猾さと残忍さが窺える鋭い目が彼の本性だ。
「槍も、あなたの物なんですね」
色がとても似ているから。カラ松さん以外が手にしても効果を発揮しないことが不思議だったけれど。
おそ松さんはニッと笑う。
「そ。あれはね、俺とカラ松の契約の印。
あれを使って悪魔祓いすると俺に栄養が入るんだ。あいつは俺に食事を提供する、俺はあいつが簡単にやられないように肉体強化して、それから───ユーリちゃんを守る」
ああ。やはりそうだった。
障壁は、私の力ではなかった。不思議と落胆の気持ちはなく、ようやく腑に落ちたといったところ。
「ぶっちゃけ渡す武器も悩んだんだよねー。オーソドックスに剣でも良かったけど、使いやすくてリーチもあるし、やっぱ槍かなぁ、みたいな。
だからこの世界で一番有名な槍にした
待て。
この世で最も名の知れた槍と言えば、あれしかない。

「ロンギヌスの槍」

聞かなかったことにしよう。
私は感情の出口にシャッターを下ろす。
「カラ松一応神父っていうからさ、それに見合ったヤツ。探すの苦労したよ」
ロンギヌスの槍は世界各地に複数存在している。展示されているものもあれば、一般向けに公開されていないものまで。どれが偽物なのか、そもそも本物なんて存在するのか、真実はようとして知れない。それを、この悪魔は。




カラ松さんは階段の手すりからの軽やかな跳躍で、シャンデリアの蜘蛛へ槍を振るう。数多の遠距離手段を持つ敵の致命的な欠点は、本体の移動ができないところだ。攻撃を振り切って懐まで飛び込めば、一撃を見舞える。
しかし、叩き込めたのは一度だけだった。二度目の攻撃は糸に絡め取られ、カラ松さんの手から槍が奪われる。
「──チッ」
大きく舌打ちして態勢を整えようとした彼の体に、白い糸が巻き付いた。巣に引っかかった蝶を捕縛する蜘蛛そのものだ。
カラ松さんは攻撃手段を失い、体を拘束される。
「おそ松さんっ」
私の叫びに、悪魔は首を横に振った。
「駄目駄目。俺の契約者はカラ松だから。あいつが助けてって言うなら考えるけど、部外者の命令はきけないよ」
っていうかさ、とおそ松さんは横目で私を見る。
「あいつが悪魔の俺に命乞いなんてすると思う?」
「絶対ない」
「だろ」

意見の一致を見た。
なら仕方ない、と納得してしまいそうになる私も私だ。
けれど彼を助けたい私の意志とは裏腹に、両足は地面にくっついたみたいに動かず、赤い悪魔に掴まれた手も離すこともできない。無策で飛び出したところで力を持たない私は足手まといにしかならないが、せめて一瞬でも相手の気を逸らすことはできるかもしれない。
ただ、そういう私の浅はかな思考も見越しての、ユーリを守れ、だったのだろう。

カラ松さんは糸に絡め取られ、為す術もなく吊るされている。人の形をしていた蜘蛛の腹部が大きく縦に割れた。口を開けたのだ。透明な唾液は床に落ちた途端にじゅわっと音を立てて蒸発し、木材を溶かした。
あの口に飲み込まれては一巻の終わりだ。
さっと血の気が引く私とは対照的に、カラ松さんは愉快そうに笑った。
「いい開けっぷりだ。どうせ食うなら、一気にいってくれよ」
彼の体が徐々に蜘蛛に近づく。
「そう、いいぞ。もっと開け、大きく」
カラ松さんの声に呼応したわけではないだろうが、人間一人丸飲みできるくらいまで口が開いた。唾液が糸を引くグロテスクな口内に、思わず目を背けたくなる。
私からはもうカラ松さんの表情は窺えない。
「カラ松さん!」
彼の体が蜘蛛の口に接近した、次の瞬間だった。

銃声が響いた。

右足を上げることでカソックの裾が捲れ上がり、右股に装着していたレッグホルスターから素早く銃を抜いたのだ。広い館内に反響する砲音と、耳障りな破裂音。ボタボタと耳障りな音を立てながら、かつて蜘蛛だった肉片が地面に落ちる。
肉体が崩壊したことでカラ松さんの束縛も解け、彼は颯爽と地に降り立った。顔についた肉片と血痕を鬱陶しそうに服の袖で拭う。
「勝負のカードは複数用意するのが鉄則だろ」
カラ松さんは不敵に笑って、オートマチックの銃を慣れた手付きでホルスターに戻す。
「ちなみにあれも、俺が貸したヤツね」
おそ松さんが私に耳打ちする。カラ松さんにいくつ武器を貸し出しているのだろう、この悪魔は。
「じゃ、俺はこの辺で。またいつかね、ユーリちゃん」
多分に含みのある笑みを私に向けて、おそ松さんは静かに闇に消えた。飛び散った蜘蛛の欠片は砂と化し、やがて消滅する。
屋敷の中は何事もなかったみたいな静寂が漂い、戦いの痕跡と私とカラ松さんだけが残された。
「おそ松は指示を守ったようだな」
無傷な私に一瞥をくれて、カラ松さんは言う。私は拳を握りしめた。
「……しました」
「ん?」
「心配しました!すっごく心配したんですよ!何で武器は槍だけじゃないって事前に教えてくれないんですか!」
私は声を大にして叫ぶ。
足が震えて、心臓が破裂するかと思った。カラ松さんがいなくなってしまうんじゃないかと不安でならなかった。なのに一歩も動けない自分が、途方もなく情けなかった。
カラ松さんは腕を組む。
「だからだ」
「は」
「だから言わなかった。
ユーリはすぐ顔に出る。オレに勝算があると分かってたら、おそ松に守られても平然としてただろ。それが敵にバレたら命取りになるんだ」
「……ッ」
もしカラ松さんが銃を所持していると知っていたら、私はどんな顔をしていただろう。悪魔の傍らで、彼の身を案じることができたか。自問自答して出た答えは当然、否、だ。
言い返せない。
「敵を欺くにはまず味方から。古典的兵法だが、一定の効果はある」
「ひっど!」
間違いなくまだ隠し要素あるやん。
今後もカラ松さんがピンチになるたび、私は先程のような絶望を味わうことになるのか。私はさながら彼の絶体絶命をより効果的に演出する役者だ。
「約束は守ってるだろ?」
苦虫を噛み潰したようなしかめっ面の私の肩を抱き寄せて、カラ松さんは言う。

「ユーリを残してオレは死なない、って」

私は僅かに目を剥く。冗談ではなかったのか。
「何かあったら守ってやるとも言ったはずだが?」
耳元に唇を寄せて囁く姿は一見睦言のようだが、文句があるのか、と問われているに過ぎない。ランタンの光を反射する彼のロザリオが紛い物に見えた。大切な祈りの道具なのに、窮地に陥ったら迷わず引きちぎられて目眩ましに使われるそれは、今までのぞんざいな扱いの名残として細かな傷がついている。
「役には立てないけど、私だってカラ松さんを守りたいと思ってるんですよ」
「…へぇ」
今度は彼が瞠目する番だった。
「カラ松さんが目の前で危ない目に遭ってるのに、ただ見てるしかできないのは拷問です」
「今夜はやけに情熱的だな、ユーリ」
「そうですね。聞き分けのない神父様にはこれくらい強く言わないと響かなさそうですし」
私が溜息混じりに言うと、カラ松さんは眉をひそめた。
「ただ、どうやら認識の相違はあるらしい」
「相違…ですか?」
「ああ。ユーリはいるだけで十分役に立ってるから安心しろ」
「はぁ…」
「お前がいるからオレはこの世にしがみついてるんだ」
隙間風の音が耳を抜ける。

「ユーリのいる町だから守ろうと思える」

視線は私から逸らされて、彼方を見つめていた。独白のような言い方だ。
「…カソック、帰ったら直しますね」
先ほどの戦闘で裾が切れてしまっている。幸い切り口は鋭利だから、目立たないよう補修できるだろう。服の修繕はいつも私の役目だ。
「頼むぜ、相棒」
「こういう時だけ調子いいんですよねぇ、ほんと」
「素直と言ってくれ」

神父としてのカラ松さんの周囲には、彼目的の女性が未婚既婚関わらず両手で余るほどいるけれど、彼が冗談でも肩を抱いたり告白紛いの甘い台詞を吐くのは、そういえば私だけだ。素直というのも、あながち間違いではないかもしれない。

肩に回っていた手に力がこもり、ほんの少しだけ引き寄せられた。

ヒラさんを拾う


今朝たまたま観たニュースの合間の星座占いで、私の星座が上位に食い込んだ。
気分転換の散歩でいいことがあるかも、なんてワンポイントアドバイスがあったからというわけではないが、盛夏の晴天に誘われて外に出た。軽い運動がてら、近くのコンビニで新作のスイーツでも買おうか。
そんな軽い気持ちだったのだ。


突き抜ける青空の上に、アイスクリームを彷彿とさせる入道雲が浮かぶ。夏も本番間近で、外をしばらく歩けばこめかみから汗が伝い落ちた。
近所の公園入り口に差し掛かった時、遊具に視線を向けたのは偶然だった。土曜の午前とはいえ日差しは強く、いつも賑やかな園内がやたら静かだったから。

公園脇の古びた木製ベンチに、スーツ姿のサラリーマンが腰掛けている。夏日だというのに上着を着ている彼は、目線を地面に落としていた。距離が離れているから表情は読めないけれど、少なくとも生き生きとした感じではない。
園の中央に設置された時計が示す時刻は、午前十時。出勤時間にしては遅めだから、出先までの時間潰しなのかもしれない。
そんなことを考えながら横切ろうとした───その矢先。

藍色のスーツが、崩れ落ちた。

「ちょ…っ!」
私はほぼ条件反射で彼に駆け寄った。
見なかったことにして万一ニュースにでもなるような結末になったら夢見が悪くなる。周りには人っ子一人いないのだ。
「大丈夫ですか!?」
膝をつき、抱き起こす。濃い色合いのスーツは熱を孕み、砂にまみれていた。この時初めて彼の顔を見たが、ひどくやつれて顔色が悪い。
「……あ」
乾いた唇から声が漏れた。良かった、意識はあるようだ。
「すぐ救急車呼びますね!」
ポケットからスマホを取り出して、震える手で番号をタップしようとするけれど、救急車を要請する番号が咄嗟に頭に浮かんでこない。三桁だ、三桁の分かりやすい数字のはずなのに。
「…ま、待ってくれ!」
筋の目立つ手が私の手首を掴んだ。
「大丈夫、だから…ちょっと立ちくらみがして、それだけ、だから…」
台詞とは裏腹に、声は掠れている。唇の色だっていいとは言えない。
「でも体調悪そうですよ」
大丈夫の言葉を鵜呑みにできるほど察しが悪い人間ではない。
納得いく理由を聞くまで離れないぞという私の意思を感じ取ったのか、スーツの彼は決まりが悪そうに私から視線を逸らす。

「……一昨日からろくに食べてないんだ」

「はい?」
私の口から出たのは、さぞかし素っ頓狂な声だったに違いない。
「時間がなくて水しか飲んでなかったから。
すまん…もう平気だ。適当に何か買って行く。とにかく会社に行かないと───」
しかし立ち上がろうとした彼の体はふらつき、再び地面に落ちてしまう。慌てて支えた私の服もすっかり砂まみれだ。
「こんな体調で仕事行ったら駄目ですよ」
「しかし、仕事が…」
「駄目ったら駄目ですってば!」
これが社畜か。
「家まで送ります。近くですか?」
「いや、その…電車で一時間くらいの所で…」
通勤時間の長さ。
砂だらけのスーツと、今にも気を失いそうなほど痩せ衰えた体。ここで私が見捨てたら、この人は確実に無理して出勤しようとするだろう。そうなれば、今度は命が危うい。
幸いなのは、私の家がここから徒歩三分という好立地なことだった。




玄関ドアを開けると、クーラーの涼しい風が吹き抜ける。エアコンをつけたまま散歩に出たのは僥倖だった。
玄関で上着を脱がせ、私も汚れたシャツを脱ぎ捨てる。
「上がってソファで休んでてください。すぐ何か用意します」
「や、あの、やっぱりこういうのは…仕事もあるし…」
「いいから!」
ふらついている癖に口だけは達者だ。背中を押して、半ば強引にリビングへ移動を促す。ローソファに座らせ、冷蔵庫で冷えた未開封のミネラルウォーターを手渡した。
女の一人暮らしの家に若い異性を連れ込むことが、世間的にどう見られるかくらい理解している。この選択が軽率であることも、それ故若干の危険性があることも、承知の上だ。全て、私が責任を負う。
「体が弱ってる時にコンビニ弁当とかは良くないです。雑炊でいいですね?」
「あの───」
彼の──そういえばまだ名前も聞いていない──返事を待たずに、一人用の土鍋にだし汁を沸かす。醤油やみりんで味を整えたら、炊飯器のご飯を投入して煮立てる。その間に卵や小ネギを用意して、柔らかくなった米に溶き卵を混ぜていく。蓋をして少し蒸らしたら、小ネギを散らして雑炊の完成だ。

木製の雑炊スプーンと合わせてトレイに載せたら、リビングで待つ虚ろな瞳の彼に出す。
「とりあえず食べましょう。文句や話は腹ごしらえしたら聞きます」
「…いいのか?」
ボトルの水は手つかずだった。封を開けて、彼に差し出す。
「そのために作ったんですよ。さすがにあのまま放ってもおけないし、今日は休みで時間もあったし」
「そ、そうか…じゃあ遠慮なく……いただきます」
弱々しい声で、両手を合わせて頭を垂れる。それから遠慮がちにスプーンで掬った湯気の立つ雑炊に息を吹きかけ、口に運んだ。
「…旨い」
目が瞠られる。僅かに弾む声に私は満足して、微笑んだ。
後片付けしなきゃと言い訳がましく呟きながらキッチンに向かい、汚れた食器を洗う。流水音が私の気配を隠し、彼を一人にした。

だから彼の頬に一筋涙が伝ったことも、私は知らない。


食事はあっという間に終わり、改めてスーツの彼が私に礼を述べた。緩められたネクタイは使い込まれていて、シャツにも皺が寄っている。倒れた拍子に付着した汚れを除いても、日頃の手入れを怠っていることが見て取れる出で立ちだった。
「申し遅れました。松野カラ松と申します」
胸ポケットから取り出した名刺を差し出しながら、彼は名乗る。
「あ、こちらこそすみません。
有栖川 ユーリです」
私も仕事用の名刺を出す。彼は自分の名刺の位置を下げながら、私の名刺を受け取った。
年を聞いたら、さほど離れていない。
「ユーリさん、か」
「改めてよろしくお願いします」
「タメ口で喋ってくれて構わない。というかむしろ、助けてもらったオレの方が口調には気を配るべきだったな。すまない」
「そういうの気にしないでくだ───じゃなかった、気にしないで、カラ松さん」
くん付けの方が良かっただろうか。というか松野さんが妥当だったか。出会い方が特殊すぎるせいで、何と呼べばいいのか分からない。
「ユーリさんが気にしなくても、オレが気にする」
それは。

「オレはユーリさんに救われたんだ」

場合が場合でなければ、告白のような台詞だ。
「そうだ、いい加減職場に連絡しないと……」
しかしカラ松さんは言った直後、気を失うようにソファの背もたれに倒れ込んでしまう。
「えっ、ちょっと、カラ松さ──」
慌てて手を伸ばすと、半開きの口から規則正しい寝息が聞こえてきた。気絶したらしい。過酷労働、社畜ここに極まれり。


カラ松さんから貰った名刺に書かれた社名の口コミを、検索エンジンとSNSで検索する。案の定、悪評ばかりが結果として表示された。
長時間に及ぶサービス残業、タイムカードを押さない休日出勤、パワハラやセクハラが横行する悪質な労働環境などなど。どれも匿名の投稿だから信憑性は疑うべきだけれど、カラ松さんの様子を見る限り、あながち間違ってはいない気がする。
「さて、どうしたものか…」
ひとりごちたところに、カラ松さんの携帯が床の上で振動する。スマホの画面には『部長』の文字。
一度目は無視した。けれど留守電に切り替わった途端に切れ、再度電話が鳴る。私は数秒の逡巡の後、画面をタップして電話に出た。
「も───」
「松野くんっ、今何時か分かってるのか!?出勤時間はとうに過ぎてるんだぞ!」
もしもし、と言う間もなく、耳をつんざく怒鳴り声が響く。スマホを耳から離して、カラ松さんを起こさないようキッチンへ向かう。
「さては寝坊か!?ハッ、いい度胸だな!
唯一の取り柄だった無遅刻無欠勤を取ったら、君には何が残るというんだ?何で貢献してくれるんだ?え?」
聞くに堪えないだみ声。
「もしもし」
毅然と声を発したら、相手が驚愕したのが電話越しにも分かった。
「あっ、え、ええと…松野くんのご家族の方ですか?」
「はぁ、まぁ」
「あの、松野くんは……」
「申し訳ありません、本人から連絡ができる健康状態ではないため、代わりに電話を取らせていただきました。
体調不良のためしばらくお休みさせてください。有給休暇の使用は可能ですか?」
「は!?有給休暇!?
いやいや、待ってくださいよ。無断欠勤の挙げ句に有給申請なんて都合が良すぎると思いませんか?こっちは繁盛期でただでさえ人手不足なんですよ」
「ではお手を煩わせてはいけませんので、休暇については就業規則の確認と合わせて、後ほど御社の総務にお電話させていただきますね」
有給休暇のルールや申請期限は、就業規則に定められている。当日の申請が認められないなら、診断書を取って傷病休暇の手もある。
「ちょっとあんた、いい加減にしないと───」
「あー、そうだ。お伝えし忘れてました」
今まさに思い出したとばかりに私は彼の言葉を遮る。

「この電話は録音してます」

電話口の相手は、蛙の鳴き声みたいな発声をした。
「電話だけだとほら、言った言わないがあるじゃないですか。お互いのためにと思いまして───で、いい加減にしないと何でしょうか?
こういう時スマホは便利だ。ボタン一つで録音ができる。
開口一番盛大に罵ってくれたこともあって功を奏したらしく、部長は急にトーンダウンする。
「な、何でもありません…松野くんの休みは、有給休暇で処理しておきますので…」
「ありがとうございます、そうしていただけると助かります」

にこやかに電話を切った直後、私の穴という穴から冷や汗が噴き出した。完全にやらかした。




「ごめんなさい!」
カラ松さんが目覚めたのは、それから半日後の夕方だった。私は体を起こしたカラ松さんに、平身低頭で頭を下げる。
初対面の相手の電話に勝手に出た上、上司に対して家族と偽り、啖呵を切ったことを告白する。我ながら、差し出がましいにも程がある行為だ。恐喝まがいに有給休暇をもぎ取ってしまったため、私のせいでカラ松さんがクビになったら───あれ、それはそれで好都合なのでは?
「…ユーリさん?」
カラ松さんが怪訝そうな顔で私を見つめてくる。いかん、本音が顔に出た。
「会社の人に何か言われたら全部私のせいにしていいから。もし何かあったら責任も取る。録音データも渡す。だからほんと、ごめんなさい…」
けれど、私の謝罪は彼に届いていないようだった。カラ松さんは虚ろな視線を床に落とす。
「そうか…有給なんてあったのか」
「え?」
「自分の都合で仕事を休むなんて考えもしなかった。自宅と会社の往復がずっと続いて、たまの休みは一日寝るだけで、何なら会社近くの満喫で寝てた方が多かったかもしれん」
はは、と肩を揺すって自嘲する。

「ずいぶん視野が狭くなっていたようだ。礼を言わなきゃな。ありがとう、ユーリさん」

カラ松さんは緩めていたネクタイを外した。
「会社の人以外と話すのも久しぶりだし、何だか緊張するな」
「カラ松さんはとにかく休んだ方がいいよ」
少し寝たくらいでは取れない目元の濃いクマ、乾燥してやつれた頬、不健康に肉が削げ落ちた体。私でなくても心配する風体だ。
「休む……そうだな。何だか今も他人事みたいな気がしてる。
誰かの手料理を食べたのも本当に久しぶりだった」
それからカラ松さんは、休むって何したらいいんだろう、などととぽつりと呟くので、こいつ思いの外心身的にやべぇのでは、と他人事ながら危機感を抱いたのは内緒だ。


女の一人暮らしに長居してはいけないと帰ろうとする彼を呼び止め、半ば強引に夕食を摂らせ、ようやく解放する。
「今日一日、ユーリさんには本当に世話になった」
もう何度目か分からない謝辞。
「カラ松さん、連絡先教えてよ」
「は?」
「そんなフラフラした体で一時間も電車乗らせるの不安すぎる。でもさすがに送っていけないから、家着いたら連絡して」
本当はその足で実家に帰って静養した方がいいと思うのだけれど、家族に心配はかけたくないと頑なに嫌がるから、せめて。
「…あ、ああ」
私の気迫に押されてか、カラ松さんは慌てた様子でスマホを出した。連絡先を交換して、私の携帯に彼の名前が登録される。
彼もまた自分の画面をじっと見つめる。心なしか嬉しそうな、そんな表情だ。
「迷惑じゃなかったら、明日はそっちに行ってもいい?」
「……そっち?」
「カラ松さんの家。
あ、もしかして彼女とかいる?なら今のは聞かなかったことにしてくれていいよ」
「な、何で!?…や、か、彼女はいない、けど…」

「これも何かの縁だし、しばらく面倒見るよ」

手を放したら、ポッキリと折れてしまいそうな気がするのだ。生かさねば。
「しかし、その…掃除できてなくて汚いし」
「掃除もするし、エッチな本出てきても見なかったフリするから
「そ、そういう話じゃなくてだな…」
カラ松さんは思考を巡らせて断り文句を探そうとするが、疲労もあってか早い段階で白旗を上げた。メッセージアプリで住所を送ってくれる。
「ありがとう。じゃあ明日の午前中に行くから───また明日ね」
玄関ドアを開けると、外界が現れる。カラ松さんを苦しめた世界には、いつの間にか夜の帳がおりている。私たちを隔てる世界。

「また明日」

カラ松さんが笑った。
出会って初めて見る、彼の微笑だった。




「おはよう、カラ松さん」
翌朝、電車で一時間近くかけてカラ松さんの自宅チャイムを鳴らした。到着したのは九時半を過ぎた頃だったが、玄関ドアを開けたカラ松さんはパジャマ姿で、私を見るなり眉根を寄せた。
「ユーリさん…すまん、寝過ごした。こんな格好で申し訳ない」
顎の無精髭と寝癖がより一層悲壮感を漂わせるが、昨日よりは顔色はマシに見えた。スーツ姿では疲労の色を濃く滲ませ、パジャマ姿は病人のようで、つまりは疲弊しているのだ。とても。
「ゆっくり寝られた?」
「え?…あ、まぁ。目覚ましも気付かなかった」
「そっか、なら良かった」
カラ松さんがきょとんとする。
「寝るのも体力いるからね。長時間しっかり寝れるのはいいことだよ」
寝られないなら問題だが、熟睡できるなら御の字だ。限界ギリギリ手前で踏みとどまれているということだろうと前向きに捉える。
「朝ご飯食べられる?サンドイッチ持ってきたんだけど」
「いる!」
食い気味に返事が来る。私は笑った。
「ユーリさんの手料理旨かったから……って、待て、さすがに部屋が───」
往生際が悪い。
「掃除もするって言ったじゃん。お邪魔しまーす」
「あ、ち、ちょ…っ」
カラ松さんの手が私の腕を掴む。反射的に振り返ったら彼の顔が間近だった。
ああ、パンダみたいなひどいクマだ、乾燥した唇は皮が剥けている。そんな感想が過ぎって、今日も全力でこの子を生かさなければと決意を固める。
カラ松くんはというと、私と目が合うなり慌てた様子で腕から手を離した。
「わぁっ、す、すまん!」
何が?

カラ松さんの部屋は、一般的な単身世帯向けの1DKだった。彼は散らかっていると言ったが、空になったペットボトルや脱ぎ散らかした衣服の散乱は目立つものの、異臭の原因となる生ゴミや食べカスといった類はほとんどない。多忙故に食事と睡眠を両立できず、やむを得ず食事を切り捨てた成れの果てのように見えた。
「これ、サンドイッチと、そこのコンビニで買ってきたスムージー。コーヒーの方がいい?」
朝から少々重いかとも思ったが、栄養第一だ。少しでも食べやすいよう、サンドイッチには水分となるきゅうりを多めに挟んだ。
「十分だ。ユーリさんの手料理なら何でも嬉しい」
「それ食べたらカラ松さんは休んでて。寝ててもいいよ。仕事のことは考えない。まずは食う、寝る、以上。
私、もうちょっとしたら買い出し行ってくるから。作り置き何品か置いてくね。費用は後で精算でいい?」
畳み掛けるように告げる私に呆気に取られつつも、彼は少し笑って頷いた。
「何なら財布ごと持っていってくれ。万札も何枚か入ってるから」
「昨日会ったばかりの人に財布任せるのは良くないよ」
「昨日会ったばかりの奴の家に、甲斐甲斐しく世話しにくるユーリさんに言われたくないな」
言い返された。
「オレが悪い奴だったらどうする気だ?」
「えー…どうしよう」
それはついぞ考えたことがなかった。

「渡した名刺だって偽物かもしれない。だとしたら、そもそもオレは松野カラ松でさえないことになる。
電話してきた上司と名乗った男も、オレが属する犯罪グループの主犯格だって可能性もないとは言えないだろ?」

私の目の前には、真実は何一つないのかもしれない。虚構で繋がる細い縁は、吹けば飛んでしまい二度と元には戻らないほどに儚きもの。
「でも、それでもいいかな、って思ってるよ」
私は自分の髪を掻いた。
「ユーリさん…」
「偽善かもしれないけど、昨日の倒れる姿見ちゃったら見捨てられないからさ」
何だか気恥ずかしくて苦笑する。私の前では松野カラ松でいてくれたら、元気になってくれたら、とりあえずそれでいいかな。楽観的で後先考えない奴だと呆れられそうだけれど。
「───すまない、悪ふざけが過ぎた。冗談にしては悪質だが、本気で言ったわけじゃない」
どうして今にも泣き出しそうな顔をするのだろう。
カラ松さんは財布から免許証を取り出して私に差し出した。
「これも偽造じゃないかと疑われたらどうしようもないけど、オレが松野カラ松である証拠だ」
「そんなことしなくても…」

「ユーリさんに嘘は言わない」

縋るように。
「…何かオレ、浮かれてるのかもしれないな」
休暇が久しぶりすぎて?
最高にハイってヤツだぜ。
「とにかく、警戒しないでほしいというか…いや、見ず知らずの男だから警戒するべきなんだが…その…」
矛盾を孕んだ願いは最後まで紡がれず、彼の思考の内に溶ける。
「うん、私も色々軽率だって分かってるから、指摘してもらえて助かるよ。ありがとう」
人を拾ったようなものだから。友達の紹介とか同じ施設を利用してるとか、いわゆる普通の初めましてではないから、互いに相手の素性を警戒するくらいがちょうどいいのかもしれない。

でも、近くのスーパーまで買い出しに出掛けながら、カラ松さんに渡す作り置きのレシピをあれこれ考える私は、これもうオカンやん、と思うのだ。上京して体調を崩した息子を見舞い、あれこれ世話を焼く過保護なオカン。




一週間分くらい作っておこうとしたら食材は思った以上に多くなり、時間を食ってしまった。
玄関の鍵は開いていて、カラ松さんはベッドに寄りかかりながらうとうとと船を漕いでいた。サンドイッチを入れていたプラスチックの使い捨て容器は空っぽで、ゴミ箱に放り込まれている。
「おかえり、ユーリさん」
カラ松さんは私の帰宅を視認するなり、相好を崩した。自然に笑える人だったんだな、なんて感想を抱く。窓からの日差しは優しく彼を照らし、少しだけ血色よく見せる。
「ただいま。起きてたんだ?」
「ユーリさんが帰るまでは、と思って」
いじらしい。うちの子いい子すぎない?
カラ松さんは私が抱えるビニールを受け取り、冷蔵庫の前に置く。
「もう寝てていいよ。今から作り置き作ったり、ゴミ片付けたりするから」
「そうする…正直まだ眠い」
彼は大きくあくびをした後、微睡みながらベッドに横になる。倒れ込んだ、という表現の方が合っているかもしれない。すぐに微動だにしなくなったので覗き込めば、早くも夢の国の住人になっていた。
昨日の今日だ。休息が足りていないはずだから、泥のように眠ればいい。

作り置きの料理を百均で買ってきたパックに詰め、冷蔵庫と冷凍庫にそれぞれ保管する。炊飯器のご飯とインスタントの味噌汁を合わせれば、数日分にはなるだろう。見事なオカンっぷり、我ながら上出来だ。
料理器具を洗い終えたところで、部屋の端に放置されていたスーツの上着を拾い上げた。昨日着ていた物とは違うが、昨日同様にひどくくたびれている。
「…クリーニングに出した方がいいかな?」
だとしても、本人の許可を得てからにしよう。
ひとまず、クリーニングが必要そうな服をひとまとめにしようと持ち上げたら、ひらりと紙が落ちた───給与明細だ。
数ヶ月前のもので、総支給額こそ低いものの、残業時間は僅か数時間、一見限りなくホワイト会社が示すような数字。
「……嘘つけ。なーにが残業五時間だ」
カラ松さんの言葉を一切合切信じるというわけではないが、通勤時間の長さに見合わない交通費の支給額と、求人情報サイト記載の新入社員給与にも満たない基本給に、反吐が出そうになる。
うちの子を馬車馬のようにこき使いやがって。

「とりあえず退職届かな」

やっぱり仕事に行かなければ、などという戯言を彼が言い出す前に。


カラ松さんは泥を体現するかのように眠っていた。私が室内で音を立ててもピクリともせず、時折居心地が悪そうに寝返りを打っては、苦しげに唸った。彼の眠りが心地良いものとなるには、当分かかりそうである。
さらにカラ松さんは覚醒と同時に飛び起き、枕元の目覚まし時計を鷲掴みにした。示す時刻に顔色を失う。
「なん……ッ!」
「カラ松さん」
それから私を見て、あ、と声を漏らした。
「ユーリ…さん…」
夢と記憶が混じり合い、どちらが現実かを思い出すように。
「仕事の夢でも見た?」
私の問いには、曖昧な笑みが返ってきた。否、笑みのような強張った表情だ。カラ松さんは長い溜息を吐いて、片手を首筋に当てる。
「心臓が止まるかと思った」
どこまでも不憫だ。
何としてでも助けたいと思うのは、おこがましいのだろうか。

昼食の時間はとうに過ぎていたので、軽く玉子丼を作る。昨日に続き卵料理だが、食べやすく栄養価も高いので便利な食材だ。玉ねぎと合わせることで甘みも感じる。
カラ松さんは例に漏れずあっという間に完食した。米粒一つ残っていない丼は綺麗なもので、実にいい食べっぷりである。
「料理って優しい味がするものなんだな」
「そう?」
「ずっとコンビニ弁当かチェーン店の定食を流し込む感じで、食事というより腹を膨らませる作業というか…そんな感じだったせいかな。
でも、ユーリさんの料理が旨いのも間違いない」
そう言われて悪い気はしない。へへ、と私が笑うと、彼もつられて微笑んだ。

「こういうの、幸せだな…」

かみしめるような言い方だった。
「カラ松さんの幸せはこれからだよ」
まずはクマを消して顔色を健康的にし、体重を適正に戻して、それから。短く切られた爪には縦線が入り、小さな凹凸もある。

「何かユーリさんにお礼がしたい」
顔を上げて、カラ松さんが私に言う。
「私に?」
「ああ。やってもらうばかりだから、オレも何かユーリさんに返したいんだ」
私はレースのカーテン越しに窓の外を見る。晴天で風光る空。
「そうだなぁ……じゃあ、カラ松さんが元気になったら一緒に遊びに行くのはどう?」
「え?あ、なら、今からでも───」
彼は財布を手にして立ち上がろうとするので、私は慌てて制する。
「駄目駄目、今は回復を優先しなきゃ。
よく寝て栄養のある物をしっかり食べて、日中起きれるようになったら日差し浴びたり散歩したりして、まずは健康的に過ごせるようになるのが一番だよ。
それが自然にできるようになったら、人のために時間を使って」
他人のために時間を使うのは、体力も精神も消耗することだから。
「ユーリさんは貴重な休日を二日もオレのために使ってるじゃないか」
「私は健康で文化的な生活ができてるからいいの」
「詭弁だ」
「不健康の見本みたいな顔色してる人に言われても、説得力ないんですけど」
私たちは一触即発の空気で睨み合ったが、すぐに顔面の筋肉を緩めた。反論できる元気が出てきたことが私には嬉しい。




次の週末も彼の自宅に差し入れを届けた。平日は私が仕事で立ち寄れないから、顔を合わせたのは休日だけだったけれど、彼は毎日スマホに食べた食事内容や体調のメッセージを送ってくれ、それだけでも彼の体調が少しずつ快方に向かっていることは見て取れた。
そして二週間後の休日、いつものように訪ねた私を出迎えた彼はパジャマや部屋着ではなく、シャツとデニムというラフな姿だった。
「おはよう、ユーリさん」
心なしか弾む声。

「ええと、あの…最近朝は散歩に出てて、もし良かったら一緒にどう、かな?」

リハビリだな、よしきた。私は二つ返事で了承する。
短い袖から覗く腕は少し肉付きがよくなり、顔の血色も先週よりいい。

東京都が管理する緑地公園まで足を伸ばした。歩いたのは十分程度だが、カラ松さんは息切れもせず私にペースを合わせてくれる気配りまで見せる。
「あ、アイス売ってるよ、カラ松さん」
公園入ってすぐの広場に、ソフトクリームとドリンクを販売するキッチンカーが停車していた。数人が列を作り、冷たい物を買っている。
「買うか。ユーリさんは何味がいい?」
「バニラかな」
「じゃ、オレもそれで」
「こんな短期間で買い食いできるレベルまで回復するなんて感無量すぎる」
「何目線?」

親目線。

今日も相変わらず夏の空で、照りつける光は暑くて眩しい。
「夏だねぇ」
手のひらをひさし代わりにして上空を見上げたら、私の視界にカラ松さんの横顔が映り込む。目のクマはまだ残っていて頬もこけているけれど、出会った当初よりは生気に満ちた顔つき。吊り上げた眉と真っ直ぐに先を見据える瞳は凛々しく、横顔も端正で───

この人って、こんなに格好良かったっけ?

持ち上げた手も大きく、痩せているからだけではなく筋張って、私のそれとはまるで違うもの。肩幅だって、そういえば広い。
「カラ松さんって男の人だったんだね」
初めて知ったとばかりに感嘆の声を上げたら、カラ松さんは目を剥いた。
「え!?むしろ何だと思ってたんだ…」
「いや、何ていうか、ごめん……ずっと子どもみたいな感じだったから。とにかく何とかしないと、と思って」
産んでないのにな。
異性である事実を認識はしていたものの、意識はしていなかった。なのに家まで押しかけて世話を焼いて、迷惑ではなかっただろうか。こいつ何やってるんだと呆れ返っていたのではないか。
今更ながら己の無鉄砲な言動に羞恥を覚える。今すぐ帰りたい。

カラ松さんはこめかみに指を当てて苦悶の表情をしていたが──本当にすまんかった──やがて私に向き直る。

「オレは男だよ」

彼の両手が私の手を包む。男の人の手だ。体中の体温が一気に上昇する。
「少なくともユーリさんを抱えられるくらいには、な」
「ん?…え、わっ…ええっ、ちょ!」
彼は身を屈め、私の膝裏に手を差し込んで軽々と抱き上げた。いわゆるお姫様抱っことかいうヤツである。
ひっくり返ったような私の声に、公園を散策していた人たちの何人かが好奇の目を向けてくる。
「か、カラ松さん…っ」

「来週、オレとデートしてくれないか?」

「え」
「前に言ってただろ?オレを介抱してくれたお礼として」
今それ言う?
「そ、そっか…散歩にも出られるようになったしね。うん、いいよ、行こう」
だから一刻も早く下ろしてくれ。
カラ松さんは満足げに笑う。
「で、その次は───お互い一人の男と女としてオレとデートしてほしい」
ここまでくると、畳み掛けられる情報量の多さに、呆気に取られる以外の反応ができない。私は開いた口が塞がらないまま、目をぱちくりさせた。
男の人だと理解したのもつい今しがたなのに。
「ユーリさんが今までオレを意識してこなかったとしても」
カラ松さんは私に顔を近づける。

「オレにとっては最初から、ユーリさんはキュートな女性だ」

カラ松さんの頬に朱が差した。気恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに微笑む表情から、目が離せない。
とにかく何か言葉を発しようと口を開けかけたら、カラ松さんが眉を下げる。
「あー、すまん、性急すぎたな。嫌なら断ってくれていいから」
「ぜっ、全然!そういうのじゃないの!」
私は声を荒げる。カラ松さんを傷つける気は皆無であることだけは、すぐに伝えなければ。
両手で自分の頬を覆ったら、ひどく熱を持っていた。
「うちの子ってこんな格好よかったんだって改めて気付いて、情緒がヤバイ
「はは。じゃあ返事はイエスってことで」
「…はい」

もっと顔が近づいて、額にキスが降ってきた。


先日拾った子は、いい男でした。