「ひょっとして、ユーリに嫌われた…?」
疑問として声に出した言葉はその瞬間に信憑性を帯びて、カラ松を苛んだ。
ある日、何の前触れもなく、ユーリのカラ松に対する態度がおかしくなった。分厚い透明な壁がカラ松の侵入を阻み、断固としてパーソナルスペースに立ち入らせない。要は───よそよそしくなったのだ。
昨晩の電話はいつも通りだった。会う約束をしていた今日の待ち合わせ時間を決める目的で、電話をかけてきたのはユーリからだ。彼女は電話口で「楽しみにしてるね」と声を弾ませ、カラ松も同じ言葉を返した。順風満帆な休日が訪れるはずだった。
なのに。
待ち合わせ場所である駅前の改札口に、カラ松が先に着いた。そして予定時刻の数分前に、カラ松を視認したユーリが足早に駆けてくる。朗らかな微笑を向けながら走ってくるその姿を見るのが好きで、いつも先に到着するように努めている。
「……ユーリ?」
だから、否が応でも彼女の変化には気付く。
かろうじて目は合ったものの、愛らしい顔に浮かぶ表情はお世辞にも笑顔には程遠い、愛想笑いに近い苦笑。顎を引き、持ち上げた右手は大きく振られることはなくすぐに垂れ下がる。彼女が勢いよく地面を蹴ったのは最初の一歩だけで、歩幅を小さくしてゆっくりと近づいてくる。まるで辿り着くまでの時間を稼ぐみたいに。
どうした?
「お、おはよう、カラ松くん。今日も早いね」
挨拶の一文字目の声が裏返り、慌てて言い直す。ユーリにしては珍しいミスだ。
「オレに会いたくて一目散に走ってくるキュートなハニーの姿が見られる特等席だからな」
彼女の失態をカバーすべく、両手を使った大袈裟な身振りと流し目でポーズを取ってみせる。何馬鹿言ってるの、そんなツッコミが返ってくる───はずだった。
しかし今日に限っては、いつまで経ってもユーリからの返事がない。訝しんだカラ松は手を下ろして、首を傾げる。
「ええと……ユーリ?」
顔を上げた先でカラ松の目に映るのは、赤面したユーリだった。
片手の甲で口元を隠し、手のひらをカラ松側に向ける。視線は顔の向きごと大きく外され、頬が赤い。
「……そういうことは、公衆の面前で言うもんじゃないよ」
真っ当な指摘。
「あ、そうか…それは……すまん。ジョークのつもりだったんだが、気を悪くしたなら謝る」
地味にダメージを食らってしまい、謝罪は小声になった。淀む空気を一蹴しようと思考を巡らすが、出鼻をくじかれたせいで気の利いた台詞が浮かんでこない。ユーリも反論せず口を閉ざすので、静寂が二人を包んだ。気まずい沈黙だ。
というか、これオレ悪くなくない?
何ら非はない。なのに低姿勢で謝っている。解せぬ。
「ユーリ、その───」
「先に家に行くんだったよね。時間もったいないし、早く行こうよ」
「ち、ちょっと待ってくれ、ハニー!」
ユーリはカラ松から顔を逸らしたまま、踵を返す。カラ松の返事を待たずに足早に駅を後にしようとするので、慌てて背中を追いかけた。
道中は、無言による気まずい空気に包まれた。
真横を歩くユーリの顔からは表情が消え、正面を真っ直ぐに見つめている。横顔が可愛らしいと見惚れる余裕は、今日のカラ松にはない。
日頃ユーリとは会話がなくとも居心地のいい時間が過ごせるけれど、今日に限って言えば、非常に落ち着かないと言わざるを得ない。彼女が意図的にカラ松との接触を避けているのが伝わってくるからだ。彼女の拒絶がカラ松を萎縮させ、場の空気を重くさせている。
「そ、そういえば昨日トッティが、スタバァの新作を飲んだらしい。ストロベリーの果肉がゴロゴロ入っていて旨いと言ってたぞ」
「そうなんだ」
「……ああ」
意を決して他愛のない話題を投げてみるが、返ってくるのは上記のような、うん、そう、へぇ、といった無感動な一言で、完全になしのつぶてだった。会話を続ける意志のない素っ気なさに、カラ松も尻すぼみになる。声掛けが悪手なら、いっそ松野家に着くまで無言を貫いた方がいいのかもしれない。
カラ松は足を止める。ユーリも気付いて立ち止まり顔をこちらに向けたが、視線はカラ松の肩の辺りで止まった。
「なぁ、ハニー……オレ、何か気を悪くするようなことしたか?」
ユーリが目を見開く。さらさらと靡く髪が肌を撫で付ける。
「もしオレが無神経にユーリを傷付けてしまったなら、謝るから言ってくれ。自分で気付けなくて申し訳ないが、ユーリにそんな顔をさせたくないんだ」
「あ……」
「悪いところがあるなら直すし、同じことを起こさないよう努力もする」
この気まずさに長く耐えられそうにない。ユーリには笑っていてほしい。
「ち、違う!」
しかし、ユーリの口から飛び出したのは意外にも否定の言葉だった。思いの外大きな声に、今度はカラ松が驚く番だ。
「その……カラ松くんは悪くないよ。何もないの。カラ松くんが心配するようなことは本当に、何も」
「しかし……」
「何ていうか、今はそういう周期?みたいな?」
「周期とは」
定期的に理不尽なストレスを向けられる周期が存在するのは、可能な限り勘弁願いたい。女の子に月イチで来るあの日に関係があるのだろうか。関連性を問いたいが、直球なセクハラ発言でさらに機嫌を損ねるのは本意ではない。
「何でもないから、心配しないで」
ユーリは愛想の微笑みを貼り付けて、宥めの言葉を吐く。カラ松を謀る仮面を装着したその時点で、額面通り受け止めることはできなかった。悪気なく嘘をついてくれたら、自分は容易く騙されるのに。
解決の糸口は見つからず、かといって混乱した今の頭で最適な選択ができるとも思えなかった。言われるがまま、騙されたフリをする。
松野家に向かう道中に、緩やかな坂道がある。いつもなら軽やかに駆け抜けていくその道で、ユーリのスピードが落ちた。ヒールのあるパンプスを履いているのだ。足の裏全体で地面を踏みしめることができず、不自然な歩き方になる。
「ユーリ」
カラ松はいつもの癖で手を差し伸べ、直後にハッとする。
案の定、ユーリは首を横に振った。
「平気だから」
表情のない顔は、カラ松の先にある景色を見据える。気安く触れてくれるなと牽制された手前、無理強いはできない。
手を下げて改めて前を向こうとしたその矢先───ユーリが足を捻ってバランスを崩した。
「わっ!」
「───っ!」
咄嗟に左足を引き、彼女の肩を両手で支えて抱きとめる。ユーリ自身、危うくのところで踏みとどまれたらしく、衝撃自体は大したことなかった。シャンプーの匂いがふわりと鼻を抜け、距離の近さに今更ドキリとする。転倒に驚いた顔がすぐ間近で、吸い込まれそうなほど美しい黒目がカラ松を映した。
今日、初めてユーリと目が合った。
「うへぁ!」
ユーリの口から素っ頓狂な叫びが飛び出る。カラ松は突き飛ばされこそしなかったが、引きつった唇を隠すように視線が外された。
「ごめん。転びそうになったからビックリしちゃって……」
どう好意的に捉えても、ユーリの言葉を額面通り受け入れられない。絶叫のスイッチは、明らかにカラ松と視線がぶつかったことに起因していたからだ。
「ええと……すまん」
もう謝ることしかできなかった。
ユーリは我に返った様子で顔を上げ、ふるふるとかぶりを振った。
「さっきも言ったけど、カラ松くんは悪くないから謝らないでほしいし……本当に、気にしないでください」
「何で敬語!?」
「誠に恐れ多い」
「武士!?」
もうわけが分からない。
松野家に寄る予定だったのは、カラ松にとっては幸いだった。ユーリの機嫌が戻るように道中あの手この手と話題を振ったものの、ことごとく暖簾に腕押しで、取り繕うことに疲弊し始めていたからだ。
ユーリの言葉とカラ松自身の見立てが正しいなら、機嫌が悪いわけではないらしい。かといって友好的な接し方でもない。物理的に距離を取りたがるのに、今日の約束を反故にするような発言はしない。
ユーリの目的が分からない、それがカラ松の正直な感想だ。
彼女の不可解な態度は自宅に着いても変わらなかった。ちゃぶ台を囲んで着席する際、ユーリの定位置はカラ松の傍らだが、座布団一枚挟めるくらいの距離を空けた。おかげで他の兄弟が男同士で密着する格好になっていた。改めて愕然とするカラ松と、揃って眉をひそめる五人の兄弟。
「なに、お前ら喧嘩した?うちに痴話喧嘩持ち込まれるの迷惑だから出てってくんない?」
そして開口一番、おそ松がカラ松に退出を命じてくる。
「待て!してない!」
「じゃあ何でユーリちゃんがそんなにお前と離れてるわけ?」
「それはオレが聞きたい!」
間髪入れない返しに、おそ松は訝りながらも弟の発言を嘘と判じることはなかった。兄弟に囲まれることで何となく有耶無耶にならないかというカラ松の淡い期待は見事に打ち砕かれた上、気まずい空気感にフォーカスされ、逃げ場を失う。
「ユーリちゃん、カラ松退席させた方が話しやすいならそうするよ。大概カラ松が悪いんだし」
チョロ松が気を遣って提案すると、ユーリはチョロ松の方に顔を向けた。三男とはしっかりと目を合わせる。
「や、別に喧嘩とかそういうのじゃないんだよ。カラ松くんが何かしたわけでもないの。今日はたまたまそういう日っていうか……」
カラ松に言ったのと同じ説明を繰り返す。曖昧に、濁して。理由はあるけれど、伝えたくないとでも言いたげな何かを含んで。
「カラ松兄さんに興味なくしたわけでもなくて?」
「何で?そんなことあるわけない」
トド松の問いには躊躇なく断言する。
じゃあ何なんだよ面倒くせぇな、とあからさまに顔に出すのは質問者の末弟。
「じゃあカラ松の顔くらい見れるっしょ」
立ち上がったおそ松がユーリの顔を両手で挟み、強引にカラ松の方へと向ける。はばからずも兄弟の目の前で向かい合う形になり、普段なら平然とこちらを見つめてくる彼女が、無言のまま顔一面を赤く染め上げた。
「待って、無理無理、ちょっと、これはちょっと待って!」
ユーリは慌てて目を逸らし、両手を掲げてカラ松の顔を物理的に遮断する。ははーん、とおそ松が訳知り顔で頷いた。
「なるほど、見つめ合うと素直にお喋りできないタイプか」
「え、今更?」
「時の流れに逆行してる人?」
一松とトド松がどよめく。
何でもないよ、と答えるユーリの言葉に説得力はなかった。
ユーリが顔を合わせてくれない、笑顔を向けてくれない。カラ松はがっくりと肩を落としながら居間を出て二階に取りに行く。建前は彼女に返す本があるから。本音は、膠着状態に陥った場の息苦しさから一時でも離脱したかったから。
嫌悪感を抱いているわけではないと彼女は断言する。その言葉に嘘はないと信じられる。目を合わせないながらも、カラ松に対し好意的な反応を言葉で示してくれる場面もあったからだ。
だからこそよく分からない。絡まった糸が解けない。明朗快活なユーリはどこに行ってしまったのだろう。
「……フッ、こんなことで動揺するとは、オレらしくないぜ」
カラ松は己を鼓舞するように独白し、腰に片手を当てた。
「何か理由があるはずだ」
心を落ち着けて一階に戻り、居間に続く襖の取っ手に手をかけたところで、中からトド松の声がした。僅かな隙間から中を覗くと、五人がユーリを取り囲んでいる。カラ松が抜けた輪の中にいる彼女の顔には、苦笑いが浮かんでいた。
「ほんっとにカラ松兄さんと何もなかったの?正直に言って、ユーリちゃん」
「今ならあいつもいないし糾弾し放題だよ」
チョロ松が末弟への援護射撃をする。兄弟間におけるカラ松への信頼は底辺を這いずり回っているという衝撃の事実。
「本当に何にもないんだって」
ユーリは苦笑のまま首を横に振った。
「いやいや、それじゃあカラ松と頑なに目を合わせないことに説明がつかないでしょ。心境の変化でもあった?」
感情をのせない無機質な物言いとは裏腹に、一松の一打は鋭い。ユーリは眉間に皺を寄せつつ、背中を丸める。
しかしそのすぐ後、観念したように重い口を開いた。
「何ていうか……私、気付いちゃってさ」
「うん」
「この状況はおかしいんじゃないか、って」
「何の?」
おそ松が続きを促すように問う。
「最推しが私という個体を認知するだけでなく、毎週会って、私の名前を呼ぶこのリアルが!」
ユーリの叫びに、五人が一斉に目を閉じた。興味を失ったのだ。一瞬で。
「人生に一回あれば至福とされる神ファンサ連発だよ!?しかも日常的にだよ!?
情緒ぶっ壊れて当然でしょうが!」
荒ぶるユーリと、真顔で虚空を見つめる兄弟の対比がすごい。
「やっぱ時の流れに逆行する人だ」
「一人タイムスリップか」
「はい解散」
よっこらしょと声に出しながら立ち上がろうとする面々を、ユーリは「待たんか」とわしづかみにして再び着席を促す。五人は彼女に逆らわなかったが、地獄が過ぎ去るのを静かに待つ虚無顔が並んだ。
「そもそも推しからの認知ってだけで、ある意味踏み込んではいけない禁忌の領域だからね!一回摂取したら次も求めちゃう劇薬だよ!
私はカラ松ガールズとして草葉の陰から課金して、活動資金にしていただくくらいがちょうどいい塩梅なのに!」
「草葉の陰は駄目だろ」
「成仏してユーリちゃん」
ツッコミが素早い。
「今までの距離感がおかしかったんだよ」
「え、今更……」
声のトーンを落として語るユーリは真剣そのものだが、チョロ松の呟きに残り四人が黙って頷いていた。
「あまりにも推しに近すぎると私の危険が危ない」
「何を言ってるんだ」
トド松のツッコミは遠慮と容赦がなく、もはや兄弟に対するそれだった。
「今までが近すぎるくらいだったんだよ。この距離感はもう推しを通り越してる……」
ユーリはわなわなと両手を震わせる。その一方で、五人は顔を見合わせた。これまでその議論は幾度も繰り返されてきたが、推しは推しなんだようるせぇなというパワー系暴論で片付けてきた当の本人が、これまでの自身のあり方を否定していることに、返すべき言葉が思いつかないといった面持ちだ。
カラ松は推しであり友人である、ユーリはそう断言し続けてきた。ここにきて、その関係性に亀裂が入ろうとしている。
重苦しい空気を最初に打破したのは、十四松だった。無感情に床を見つめていた瞳に不意に光が宿り、パッと顔を上げる。
「あ、もしかしてユーリちゃん」
何事かと驚く四人を差し置き、十四松は立ち上がってユーリへ駆け寄ろうとする。
「だからね、私決めたんだ。これからは最推しとは一定の距離を取らないといけ───」
駄目だ。
カラ松は戸を開ける。全員の視線がカラ松に集まった。
それ以上は、聞きたくない。言わせてはいけない。
「ハニー」
ユーリの声に愛称を重ね、呆然とする彼女の前までズカズカと歩み寄り、強引に腕を取る。抵抗こそされなかったが、その腕は熱かった。
「んんっ!?」
ユーリは叫びを飲み込むかのように、唇を引き結ぶ。
「話がある。ここはブラザーがいるから、上で話そう」
「え、待、ちょ…っ」
「来るんだ」
有無を言わせない。ユーリはキョロキョロと黒目を揺らし逡巡したが、やがてカラ松に合わせて立ち上がった。ふらつく肩がやけに小さく見えて、胸が締め付けられる。
十四松が何を言おうとしていたのか。そのことがふと気になったけれど、自分に為すべきことをしなければという使命感が、カラ松を追い立てた。
二階の自室に戻り、ユーリが入るのを見届けてから襖を閉める。おそ松たちが居間を出て様子を窺いに来る気配はなかった。
閉められた窓と襖が演出する密室に、ユーリは息苦しさを感じているようだった。それでも、カラ松が座ったソファに、自らも腰を下ろす。
「オレは嫌だ」
「へ?」
カラ松が口火を切ると、ユーリは素っ頓狂な声を出して顔を上げた。目線はカラ松の鼻先に向けられた。
「距離を取るのは嫌だと言ってるんだ。
今日は一体どうしたんだ?そもそも、ユーリにとってオレはその程度の相手だったのか?」
離れて見ているだけでいい存在。それはつまり、二人の道が決して交わらないことを示唆している。
「え、だって……推しって普通、ほら」
「一般的な話をしてるんじゃない。オレとユーリの話をしてるんだ」
「そう、だけど……」
歯切れが悪い。ユーリは再びカラ松から顔を背けようとするので、両手を伸ばして自分へ無理矢理顔を向けさせた。頬の熱が手のひらに伝わる。ビクリと強張る肩に一瞬動揺してしまうけれど───逃しはしない。翻弄するだけ翻弄して、今更逃げるなんて許さない。
「でも、私は、その……」
ユーリは拒否の姿勢を示してはいるけれど、カラ松が触れることに抵抗はしない。
頬を上気させ、目は潤んでいる。その瞳で、時折カラ松の顔色を窺うように見上げてくるから、背筋がゾクリとする。階下に兄弟がいなければ、この家に彼女と二人きりだったら、手を出さない自信がないほどに蠱惑的な表情。
「ユーリ」
本心を聞きたい。カラ松の接近を拒む理由と、自分をどう思っているのか。
「カラ松兄さん」
不意に襖の向こう側から十四松の声がして、カラ松は我に返った。慌ててユーリの顔から手を離す。
「開けるよ?」
「あ、ああ」
カラ松の承諾とほぼ同時に襖が開き、十四松がおそ松たちを引き連れる格好で現れた。
「どうした、ブラザー?」
「ユーリちゃんのことだけど」
弾むような足取りで目の前に立った十四松を、彼女はポカンと見上げる。
「ちょっとごめんね」
十四松は断りを入れつつ長い袖から右手を出し、ユーリの額に手のひらを当てた。んー、と五男が唸る。
「やっぱり」
「な、何がやっぱりなんだ?」
「ユーリちゃん、熱あるよ。めちゃくちゃある」
大事なことなのか二回言われて、カラ松も彼女の額に手を伸ばす。熱い。めちゃくちゃ熱い。
「は、ハニー!?」
言われてみれば心当たりしかない。腕も顔も熱かったし、足元は不安定でふらついていた。全部発熱由来だったならば合点がいく。
カラ松は両手で顔を覆い、穴があったら飛び込んでしばらく懺悔したい衝動に駆られる。ユーリの体調の変化を見抜けなかったどころか、熱に浮かされて朦朧としている彼女に欲情した。控えめに言って死にたい。
「何だよ、カラ松。お前も熱出た?」
「……何でもない」
心配するおそ松に、絞り出すように返事をするのが精一杯だった。今ほど戒められたいと思ったことはない。
「ユーリちゃんのさっきまでの妄言って、やっぱり熱のせいだったのかな……」
「そりゃそうでしょ。頭おかしくなったかなぁって思いながら聞いてたからね、ボクは。いや、カラ松兄さん推してる時点で日常的に頭はおかしいんだけど」
一松に同意するついでにしれっとディスってくる末弟。
十四松の指摘により発熱を自覚したユーリは、その後気を失うようにソファに倒れ、カラ松たちの度肝を抜いた。
歩くことはできると主張する彼女をカラ松がタクシーで自宅まで送り、ベッドで横になるまでを見届ける。申し訳なさそうに弱々しい礼と謝罪を繰り返すユーリに、謝罪すべきなのは自分の方だと喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
「オレが外から鍵をかけてポストに入れるから、早めに出すんだぞ。何かあったら、いつでもいいから呼んでくれ。いいな?」
「でも、推しとの過度な接触は今後の生活に差し支」
「いいから」
語気を強めた口調でユーリを制し、カラ松は伏せる彼女に布団を掛ける。せめてこんな時くらい、好意を素直に受け取ってほしい。今のユーリにとっての適切な距離感は、カラ松には別離の宣告に他ならないのだ。これ以上聞きたくない。
「……うん」
カラ松に気圧されたのか、ユーリはようやく頷く。いつにない気疲れと共に立ち上がろうとして、カラ松は腹部に違和感を覚える。
ユーリが、カラ松の服の裾を掴んでいるのだ。離そうと思えば離せる力加減で。
「熱が下がったら、元に戻るよな……?」
カラ松を望むくせに、望んだ上で突き放そうとしてくれるな。
ユーリは曖昧に笑うだけで明確な返事を寄越さなかったけれど、その笑みを肯定として受け取ることにした。
カラ松はベッドに腰を下ろす。ユーリの手が自然と離れるまでは側にいよう。
「例え元に戻らなくても、オレは離れるつもりはないぞ」
その言葉がユーリの耳に届いていたかは分からない。彼女は少し前から目を閉じていて、カラ松の声にも応じなくなっていた。呼吸に合わせて上下する掛け布団を横目に、己の執着心が思いの外たちの悪いものと自覚せざるを得なくなり、自然と溜め息が漏れた。