短編:近づかないで来ないで離れて

「ひょっとして、ユーリに嫌われた…?」
疑問として声に出した言葉はその瞬間に信憑性を帯びて、カラ松を苛んだ。

ある日、何の前触れもなく、ユーリのカラ松に対する態度がおかしくなった。分厚い透明な壁がカラ松の侵入を阻み、断固としてパーソナルスペースに立ち入らせない。要は───よそよそしくなったのだ。
昨晩の電話はいつも通りだった。会う約束をしていた今日の待ち合わせ時間を決める目的で、電話をかけてきたのはユーリからだ。彼女は電話口で「楽しみにしてるね」と声を弾ませ、カラ松も同じ言葉を返した。順風満帆な休日が訪れるはずだった。
なのに。

待ち合わせ場所である駅前の改札口に、カラ松が先に着いた。そして予定時刻の数分前に、カラ松を視認したユーリが足早に駆けてくる。朗らかな微笑を向けながら走ってくるその姿を見るのが好きで、いつも先に到着するように努めている。
「……ユーリ?」
だから、否が応でも彼女の変化には気付く。
かろうじて目は合ったものの、愛らしい顔に浮かぶ表情はお世辞にも笑顔には程遠い、愛想笑いに近い苦笑。顎を引き、持ち上げた右手は大きく振られることはなくすぐに垂れ下がる。彼女が勢いよく地面を蹴ったのは最初の一歩だけで、歩幅を小さくしてゆっくりと近づいてくる。まるで辿り着くまでの時間を稼ぐみたいに。
どうした?
「お、おはよう、カラ松くん。今日も早いね」
挨拶の一文字目の声が裏返り、慌てて言い直す。ユーリにしては珍しいミスだ。
「オレに会いたくて一目散に走ってくるキュートなハニーの姿が見られる特等席だからな」
彼女の失態をカバーすべく、両手を使った大袈裟な身振りと流し目でポーズを取ってみせる。何馬鹿言ってるの、そんなツッコミが返ってくる───はずだった。
しかし今日に限っては、いつまで経ってもユーリからの返事がない。訝しんだカラ松は手を下ろして、首を傾げる。
「ええと……ユーリ?」

顔を上げた先でカラ松の目に映るのは、赤面したユーリだった。

片手の甲で口元を隠し、手のひらをカラ松側に向ける。視線は顔の向きごと大きく外され、頬が赤い。
「……そういうことは、公衆の面前で言うもんじゃないよ」
真っ当な指摘。
「あ、そうか…それは……すまん。ジョークのつもりだったんだが、気を悪くしたなら謝る」
地味にダメージを食らってしまい、謝罪は小声になった。淀む空気を一蹴しようと思考を巡らすが、出鼻をくじかれたせいで気の利いた台詞が浮かんでこない。ユーリも反論せず口を閉ざすので、静寂が二人を包んだ。気まずい沈黙だ。
というか、これオレ悪くなくない?
何ら非はない。なのに低姿勢で謝っている。解せぬ。
「ユーリ、その───」
「先に家に行くんだったよね。時間もったいないし、早く行こうよ」
「ち、ちょっと待ってくれ、ハニー!」
ユーリはカラ松から顔を逸らしたまま、踵を返す。カラ松の返事を待たずに足早に駅を後にしようとするので、慌てて背中を追いかけた。

道中は、無言による気まずい空気に包まれた。
真横を歩くユーリの顔からは表情が消え、正面を真っ直ぐに見つめている。横顔が可愛らしいと見惚れる余裕は、今日のカラ松にはない。
日頃ユーリとは会話がなくとも居心地のいい時間が過ごせるけれど、今日に限って言えば、非常に落ち着かないと言わざるを得ない。彼女が意図的にカラ松との接触を避けているのが伝わってくるからだ。彼女の拒絶がカラ松を萎縮させ、場の空気を重くさせている。

「そ、そういえば昨日トッティが、スタバァの新作を飲んだらしい。ストロベリーの果肉がゴロゴロ入っていて旨いと言ってたぞ」
「そうなんだ」
「……ああ」
意を決して他愛のない話題を投げてみるが、返ってくるのは上記のような、うん、そう、へぇ、といった無感動な一言で、完全になしのつぶてだった。会話を続ける意志のない素っ気なさに、カラ松も尻すぼみになる。声掛けが悪手なら、いっそ松野家に着くまで無言を貫いた方がいいのかもしれない。

カラ松は足を止める。ユーリも気付いて立ち止まり顔をこちらに向けたが、視線はカラ松の肩の辺りで止まった。
「なぁ、ハニー……オレ、何か気を悪くするようなことしたか?」
ユーリが目を見開く。さらさらと靡く髪が肌を撫で付ける。
「もしオレが無神経にユーリを傷付けてしまったなら、謝るから言ってくれ。自分で気付けなくて申し訳ないが、ユーリにそんな顔をさせたくないんだ」
「あ……」
「悪いところがあるなら直すし、同じことを起こさないよう努力もする」
この気まずさに長く耐えられそうにない。ユーリには笑っていてほしい。
「ち、違う!」
しかし、ユーリの口から飛び出したのは意外にも否定の言葉だった。思いの外大きな声に、今度はカラ松が驚く番だ。
「その……カラ松くんは悪くないよ。何もないの。カラ松くんが心配するようなことは本当に、何も」
「しかし……」
「何ていうか、今はそういう周期?みたいな?」
「周期とは」
定期的に理不尽なストレスを向けられる周期が存在するのは、可能な限り勘弁願いたい。女の子に月イチで来るあの日に関係があるのだろうか。関連性を問いたいが、直球なセクハラ発言でさらに機嫌を損ねるのは本意ではない。
「何でもないから、心配しないで」
ユーリは愛想の微笑みを貼り付けて、宥めの言葉を吐く。カラ松を謀る仮面を装着したその時点で、額面通り受け止めることはできなかった。悪気なく嘘をついてくれたら、自分は容易く騙されるのに。
解決の糸口は見つからず、かといって混乱した今の頭で最適な選択ができるとも思えなかった。言われるがまま、騙されたフリをする。

松野家に向かう道中に、緩やかな坂道がある。いつもなら軽やかに駆け抜けていくその道で、ユーリのスピードが落ちた。ヒールのあるパンプスを履いているのだ。足の裏全体で地面を踏みしめることができず、不自然な歩き方になる。
「ユーリ」
カラ松はいつもの癖で手を差し伸べ、直後にハッとする。
案の定、ユーリは首を横に振った。
「平気だから」
表情のない顔は、カラ松の先にある景色を見据える。気安く触れてくれるなと牽制された手前、無理強いはできない。
手を下げて改めて前を向こうとしたその矢先───ユーリが足を捻ってバランスを崩した。
「わっ!」
「───っ!」
咄嗟に左足を引き、彼女の肩を両手で支えて抱きとめる。ユーリ自身、危うくのところで踏みとどまれたらしく、衝撃自体は大したことなかった。シャンプーの匂いがふわりと鼻を抜け、距離の近さに今更ドキリとする。転倒に驚いた顔がすぐ間近で、吸い込まれそうなほど美しい黒目がカラ松を映した。
今日、初めてユーリと目が合った。
「うへぁ!」
ユーリの口から素っ頓狂な叫びが飛び出る。カラ松は突き飛ばされこそしなかったが、引きつった唇を隠すように視線が外された。
「ごめん。転びそうになったからビックリしちゃって……」
どう好意的に捉えても、ユーリの言葉を額面通り受け入れられない。絶叫のスイッチは、明らかにカラ松と視線がぶつかったことに起因していたからだ。

「ええと……すまん」
もう謝ることしかできなかった。
ユーリは我に返った様子で顔を上げ、ふるふるとかぶりを振った。
「さっきも言ったけど、カラ松くんは悪くないから謝らないでほしいし……本当に、気にしないでください」
「何で敬語!?」
「誠に恐れ多い」
「武士!?」

もうわけが分からない。



松野家に寄る予定だったのは、カラ松にとっては幸いだった。ユーリの機嫌が戻るように道中あの手この手と話題を振ったものの、ことごとく暖簾に腕押しで、取り繕うことに疲弊し始めていたからだ。
ユーリの言葉とカラ松自身の見立てが正しいなら、機嫌が悪いわけではないらしい。かといって友好的な接し方でもない。物理的に距離を取りたがるのに、今日の約束を反故にするような発言はしない。
ユーリの目的が分からない、それがカラ松の正直な感想だ。

彼女の不可解な態度は自宅に着いても変わらなかった。ちゃぶ台を囲んで着席する際、ユーリの定位置はカラ松の傍らだが、座布団一枚挟めるくらいの距離を空けた。おかげで他の兄弟が男同士で密着する格好になっていた。改めて愕然とするカラ松と、揃って眉をひそめる五人の兄弟。
「なに、お前ら喧嘩した?うちに痴話喧嘩持ち込まれるの迷惑だから出てってくんない?」
そして開口一番、おそ松がカラ松に退出を命じてくる。
「待て!してない!」
「じゃあ何でユーリちゃんがそんなにお前と離れてるわけ?」
「それはオレが聞きたい!」
間髪入れない返しに、おそ松は訝りながらも弟の発言を嘘と判じることはなかった。兄弟に囲まれることで何となく有耶無耶にならないかというカラ松の淡い期待は見事に打ち砕かれた上、気まずい空気感にフォーカスされ、逃げ場を失う。
「ユーリちゃん、カラ松退席させた方が話しやすいならそうするよ。大概カラ松が悪いんだし
チョロ松が気を遣って提案すると、ユーリはチョロ松の方に顔を向けた。三男とはしっかりと目を合わせる。
「や、別に喧嘩とかそういうのじゃないんだよ。カラ松くんが何かしたわけでもないの。今日はたまたまそういう日っていうか……」
カラ松に言ったのと同じ説明を繰り返す。曖昧に、濁して。理由はあるけれど、伝えたくないとでも言いたげな何かを含んで。
「カラ松兄さんに興味なくしたわけでもなくて?」
「何で?そんなことあるわけない」
トド松の問いには躊躇なく断言する。
じゃあ何なんだよ面倒くせぇな、とあからさまに顔に出すのは質問者の末弟。
「じゃあカラ松の顔くらい見れるっしょ」
立ち上がったおそ松がユーリの顔を両手で挟み、強引にカラ松の方へと向ける。はばからずも兄弟の目の前で向かい合う形になり、普段なら平然とこちらを見つめてくる彼女が、無言のまま顔一面を赤く染め上げた。
「待って、無理無理、ちょっと、これはちょっと待って!」
ユーリは慌てて目を逸らし、両手を掲げてカラ松の顔を物理的に遮断する。ははーん、とおそ松が訳知り顔で頷いた。
「なるほど、見つめ合うと素直にお喋りできないタイプか」
「え、今更?」
「時の流れに逆行してる人?」

一松とトド松がどよめく。

何でもないよ、と答えるユーリの言葉に説得力はなかった。

ユーリが顔を合わせてくれない、笑顔を向けてくれない。カラ松はがっくりと肩を落としながら居間を出て二階に取りに行く。建前は彼女に返す本があるから。本音は、膠着状態に陥った場の息苦しさから一時でも離脱したかったから。
嫌悪感を抱いているわけではないと彼女は断言する。その言葉に嘘はないと信じられる。目を合わせないながらも、カラ松に対し好意的な反応を言葉で示してくれる場面もあったからだ。
だからこそよく分からない。絡まった糸が解けない。明朗快活なユーリはどこに行ってしまったのだろう。
「……フッ、こんなことで動揺するとは、オレらしくないぜ」
カラ松は己を鼓舞するように独白し、腰に片手を当てた。
「何か理由があるはずだ」

心を落ち着けて一階に戻り、居間に続く襖の取っ手に手をかけたところで、中からトド松の声がした。僅かな隙間から中を覗くと、五人がユーリを取り囲んでいる。カラ松が抜けた輪の中にいる彼女の顔には、苦笑いが浮かんでいた。
「ほんっとにカラ松兄さんと何もなかったの?正直に言って、ユーリちゃん」
「今ならあいつもいないし糾弾し放題だよ」
チョロ松が末弟への援護射撃をする。兄弟間におけるカラ松への信頼は底辺を這いずり回っているという衝撃の事実。
「本当に何にもないんだって」
ユーリは苦笑のまま首を横に振った。
「いやいや、それじゃあカラ松と頑なに目を合わせないことに説明がつかないでしょ。心境の変化でもあった?」
感情をのせない無機質な物言いとは裏腹に、一松の一打は鋭い。ユーリは眉間に皺を寄せつつ、背中を丸める。
しかしそのすぐ後、観念したように重い口を開いた。
「何ていうか……私、気付いちゃってさ」
「うん」
「この状況はおかしいんじゃないか、って」
「何の?」
おそ松が続きを促すように問う。

「最推しが私という個体を認知するだけでなく、毎週会って、私の名前を呼ぶこのリアルが!」

ユーリの叫びに、五人が一斉に目を閉じた。興味を失ったのだ。一瞬で。
「人生に一回あれば至福とされる神ファンサ連発だよ!?しかも日常的にだよ!?
情緒ぶっ壊れて当然でしょうが!」

荒ぶるユーリと、真顔で虚空を見つめる兄弟の対比がすごい。
「やっぱ時の流れに逆行する人だ」
「一人タイムスリップか」
「はい解散」
よっこらしょと声に出しながら立ち上がろうとする面々を、ユーリは「待たんか」とわしづかみにして再び着席を促す。五人は彼女に逆らわなかったが、地獄が過ぎ去るのを静かに待つ虚無顔が並んだ。
「そもそも推しからの認知ってだけで、ある意味踏み込んではいけない禁忌の領域だからね!一回摂取したら次も求めちゃう劇薬だよ!
私はカラ松ガールズとして草葉の陰から課金して、活動資金にしていただくくらいがちょうどいい塩梅なのに!」
「草葉の陰は駄目だろ」
「成仏してユーリちゃん」

ツッコミが素早い。
「今までの距離感がおかしかったんだよ」
「え、今更……」
声のトーンを落として語るユーリは真剣そのものだが、チョロ松の呟きに残り四人が黙って頷いていた。
「あまりにも推しに近すぎると私の危険が危ない
「何を言ってるんだ」
トド松のツッコミは遠慮と容赦がなく、もはや兄弟に対するそれだった。

「今までが近すぎるくらいだったんだよ。この距離感はもう推しを通り越してる……」
ユーリはわなわなと両手を震わせる。その一方で、五人は顔を見合わせた。これまでその議論は幾度も繰り返されてきたが、推しは推しなんだようるせぇなというパワー系暴論で片付けてきた当の本人が、これまでの自身のあり方を否定していることに、返すべき言葉が思いつかないといった面持ちだ。
カラ松は推しであり友人である、ユーリはそう断言し続けてきた。ここにきて、その関係性に亀裂が入ろうとしている。

重苦しい空気を最初に打破したのは、十四松だった。無感情に床を見つめていた瞳に不意に光が宿り、パッと顔を上げる。
「あ、もしかしてユーリちゃん」
何事かと驚く四人を差し置き、十四松は立ち上がってユーリへ駆け寄ろうとする。
「だからね、私決めたんだ。これからは最推しとは一定の距離を取らないといけ───」

駄目だ。

カラ松は戸を開ける。全員の視線がカラ松に集まった。
それ以上は、聞きたくない。言わせてはいけない。
「ハニー」
ユーリの声に愛称を重ね、呆然とする彼女の前までズカズカと歩み寄り、強引に腕を取る。抵抗こそされなかったが、その腕は熱かった。
「んんっ!?」
ユーリは叫びを飲み込むかのように、唇を引き結ぶ。
「話がある。ここはブラザーがいるから、上で話そう」
「え、待、ちょ…っ」

「来るんだ」

有無を言わせない。ユーリはキョロキョロと黒目を揺らし逡巡したが、やがてカラ松に合わせて立ち上がった。ふらつく肩がやけに小さく見えて、胸が締め付けられる。
十四松が何を言おうとしていたのか。そのことがふと気になったけれど、自分に為すべきことをしなければという使命感が、カラ松を追い立てた。



二階の自室に戻り、ユーリが入るのを見届けてから襖を閉める。おそ松たちが居間を出て様子を窺いに来る気配はなかった。
閉められた窓と襖が演出する密室に、ユーリは息苦しさを感じているようだった。それでも、カラ松が座ったソファに、自らも腰を下ろす。
「オレは嫌だ」
「へ?」
カラ松が口火を切ると、ユーリは素っ頓狂な声を出して顔を上げた。目線はカラ松の鼻先に向けられた。
「距離を取るのは嫌だと言ってるんだ。
今日は一体どうしたんだ?そもそも、ユーリにとってオレはその程度の相手だったのか?」
離れて見ているだけでいい存在。それはつまり、二人の道が決して交わらないことを示唆している。
「え、だって……推しって普通、ほら」
「一般的な話をしてるんじゃない。オレとユーリの話をしてるんだ」
「そう、だけど……」
歯切れが悪い。ユーリは再びカラ松から顔を背けようとするので、両手を伸ばして自分へ無理矢理顔を向けさせた。頬の熱が手のひらに伝わる。ビクリと強張る肩に一瞬動揺してしまうけれど───逃しはしない。翻弄するだけ翻弄して、今更逃げるなんて許さない。
「でも、私は、その……」
ユーリは拒否の姿勢を示してはいるけれど、カラ松が触れることに抵抗はしない。
頬を上気させ、目は潤んでいる。その瞳で、時折カラ松の顔色を窺うように見上げてくるから、背筋がゾクリとする。階下に兄弟がいなければ、この家に彼女と二人きりだったら、手を出さない自信がないほどに蠱惑的な表情。
「ユーリ」
本心を聞きたい。カラ松の接近を拒む理由と、自分をどう思っているのか。

「カラ松兄さん」
不意に襖の向こう側から十四松の声がして、カラ松は我に返った。慌ててユーリの顔から手を離す。
「開けるよ?」
「あ、ああ」
カラ松の承諾とほぼ同時に襖が開き、十四松がおそ松たちを引き連れる格好で現れた。
「どうした、ブラザー?」
「ユーリちゃんのことだけど」
弾むような足取りで目の前に立った十四松を、彼女はポカンと見上げる。
「ちょっとごめんね」
十四松は断りを入れつつ長い袖から右手を出し、ユーリの額に手のひらを当てた。んー、と五男が唸る。
「やっぱり」
「な、何がやっぱりなんだ?」

「ユーリちゃん、熱あるよ。めちゃくちゃある

大事なことなのか二回言われて、カラ松も彼女の額に手を伸ばす。熱い。めちゃくちゃ熱い。
「は、ハニー!?」
言われてみれば心当たりしかない。腕も顔も熱かったし、足元は不安定でふらついていた。全部発熱由来だったならば合点がいく。
カラ松は両手で顔を覆い、穴があったら飛び込んでしばらく懺悔したい衝動に駆られる。ユーリの体調の変化を見抜けなかったどころか、熱に浮かされて朦朧としている彼女に欲情した。控えめに言って死にたい。
「何だよ、カラ松。お前も熱出た?」
「……何でもない」
心配するおそ松に、絞り出すように返事をするのが精一杯だった。今ほど戒められたいと思ったことはない。

「ユーリちゃんのさっきまでの妄言って、やっぱり熱のせいだったのかな……」
「そりゃそうでしょ。頭おかしくなったかなぁって思いながら聞いてたからね、ボクは。いや、カラ松兄さん推してる時点で日常的に頭はおかしいんだけど
一松に同意するついでにしれっとディスってくる末弟。



十四松の指摘により発熱を自覚したユーリは、その後気を失うようにソファに倒れ、カラ松たちの度肝を抜いた。
歩くことはできると主張する彼女をカラ松がタクシーで自宅まで送り、ベッドで横になるまでを見届ける。申し訳なさそうに弱々しい礼と謝罪を繰り返すユーリに、謝罪すべきなのは自分の方だと喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
「オレが外から鍵をかけてポストに入れるから、早めに出すんだぞ。何かあったら、いつでもいいから呼んでくれ。いいな?」
「でも、推しとの過度な接触は今後の生活に差し支」
「いいから」
語気を強めた口調でユーリを制し、カラ松は伏せる彼女に布団を掛ける。せめてこんな時くらい、好意を素直に受け取ってほしい。今のユーリにとっての適切な距離感は、カラ松には別離の宣告に他ならないのだ。これ以上聞きたくない。
「……うん」
カラ松に気圧されたのか、ユーリはようやく頷く。いつにない気疲れと共に立ち上がろうとして、カラ松は腹部に違和感を覚える。
ユーリが、カラ松の服の裾を掴んでいるのだ。離そうと思えば離せる力加減で。

「熱が下がったら、元に戻るよな……?」
カラ松を望むくせに、望んだ上で突き放そうとしてくれるな。
ユーリは曖昧に笑うだけで明確な返事を寄越さなかったけれど、その笑みを肯定として受け取ることにした。

カラ松はベッドに腰を下ろす。ユーリの手が自然と離れるまでは側にいよう。
「例え元に戻らなくても、オレは離れるつもりはないぞ」
その言葉がユーリの耳に届いていたかは分からない。彼女は少し前から目を閉じていて、カラ松の声にも応じなくなっていた。呼吸に合わせて上下する掛け布団を横目に、己の執着心が思いの外たちの悪いものと自覚せざるを得なくなり、自然と溜め息が漏れた。

短編:しようとして落ちたもの

チビ太にとって松野家の六つ子は、いつまで経っても悪ガキのままだった。
歳を重ねて彼らが得たのは、悪巧みへの狡猾さ、酒癖の悪さ、こじらせた貞操観念といった、同年代カースト圧倒的最底辺所属も頷けるたちの悪質さだけ───そう思っていた。

ユーリという新参者が現れるまでは。


季節の移ろいに合わせるように、松野家次男は緩やかに変化を遂げていく。尖りまくった誰得なファッションセンスは鳴りを潜め、独りよがりではない思いやりを持って他者に接し、価値観の多様性を認めるようにもなった。
松野家六つ子と知らなければ、それなりにいい男と認識する者もいるかもしれない。元来の性質である非常識さが今なお現役なのは、甚だ嘆かわしいことではあるけれど。

その晩、チビ太の屋台を訪れたのは六つ子の半分だった。おそ松、カラ松、チョロ松の、いわゆる兄三人である。
珍しい組み合わせだな、という正直な感想が、出迎えの際に口から漏れた。
「ひどいんだよ、聞いてよ、チビ太!あいつら三人で焼肉食べ放題行くんだって」
暖簾をくぐったおそ松が早々に吐き捨て、カウンターに拳を叩きつける。
弟間でしか通じない手話を用いるほど結託してるのには驚きを隠せなかったけど…あいつらもたまには息抜きも必要だよね。クズ政権にはほとほと疲弊してる
続いてチョロ松が長男の隣に腰を下ろす。
「いつまで文句垂れてるんだ、おそ松。
フッ、あいつらの不在はむしろ好機。今宵はオレたち三人で腹を割って、心ゆくまで語り合おうじゃないか」
最後にカラ松が大袈裟に両手を広げた口上で、チビ太から見て右端に座った。
今晩のおでんはいつになく絶品に仕上がった自負があったのだが、最初の客が六つ子とは不運だ。支払いは踏み倒し前提のツケな上、最後はコップ一杯の酒をちびちびやりながらいつまでもくだを巻くので回転率も大きく下がる。腐れ縁でなければ蹴り出しているところだ。
「とりあえずビールね」
「ツケは受け付けねぇからな」
「へへ、だいじょーぶ。今回はちゃんと母さんから貰った軍資金があるから」
おそ松はフフンと誇らしげに鼻の下を指先で擦る。隣でチョロ松が小さく頷くので、今回に限っては支払い能力はあるらしい。

「チビ太のおでん食べるの久しぶりだよね。一ヶ月ぶりくらい?」
乾杯もそこそこに、ガラスコップに口をつけながらチョロ松が言った。
「おめーらが来ると売上落ちるから、半年くらいはご無沙汰でいてくれていいんだけどよ」
「あ、ひっでーチビ太!客に対してその言い草!」
「ツケ全額払ったらいくらでも客扱いしてやるよ、てやんでぇバーロー」
おそ松の文句を軽くいなして、三人の前にビール瓶とガラスコップを置く。キンキンに冷えた瓶からは水滴が伝い、ぽたりとテーブルに落ちた。
「つーか、カラ松はユーリちゃんと先週も来たけどな」
「そうだな」
ほんの少し笑みを浮かべて、次男は自分のコップにビールを注いだ。
ユーリを話題に出すと彼はすぐ相好を崩す。非常に分かりやすい性格と言える。
「は?待て待て」
「おいコラ」
カラ松の先週も来た発言に顔色を変えるおそ松とチョロ松。
「お兄ちゃん聞いてないんだけど」
「言ってないからな」
カラ松の返事はにべもない。
おそ松は両手で顔を覆った。
「やだもー、何なのこいつ。二匹目の松野家ドライモンスター爆誕。
本人の口からデートの報告されるより、間接的に先週こいつデートだったんだぜって知らされる兄弟の気持ち分かる、カラ松?地獄だよ
「ただでさえ弟たちに焼肉抜け駆けされて僕ら心痛めてるのに?助走つけて笑顔で殴りかかるの止めてください
「え?…えぇっ、これオレが悪いの!?」
「圧倒的に悪いな」
「最悪だわ」
長男と三男がジト目で次男を睨む。こういう時同じ顔が並ぶと効果は抜群だ。
「ええー…」
うっかり自分が口を滑らせたばかりに、カラ松を針のむしろにさせてしまった。少々の罪悪感を覚える。
とはいえ、ユーリと共に来るカラ松をチビ太は歓迎している。料金を一括で支払ってくれる、迷惑行為も皆無と、お手本のような客になるからだ。今回はオレの奢りだとか大口叩いた挙げ句ツケにして逃げることもあるが。
「どうせユーリちゃんにはいい顔してんだろ。知ってんだからな、俺」
「そりゃそうだろ。兄弟と来る時と彼女と来る時と同じ態度だったら、気味悪いじゃねぇか」
当たり前なことを言うなとチビ太が一蹴したら、いち早く反応したのはカラ松だった。彼女という単語に顔を赤くする。




「ユーリちゃんと一緒の時のカラ松って、チビ太からどう見えるわけ?」
二本目のビール瓶を手にしながらのチョロ松の問い。弟たちに除け者にされた疎外感と次男への苛立ちが飲酒ペースに拍車を掛ける。
「えー…んなこと言われても……そうだなぁ…」
チビ太は腕組みをして天を仰いだ。

「カップル」

紛うことなきカップル。
「何なら、人前で堂々とイチャつくカップル」
これに尽きる。
「あー、うん、だよね」
「分かりみが深すぎる」
おそ松とチョロ松が顔を見合わせた。
アルコールによって頬を朱に染めた二人とは対照的に、異なる意味合いで首から上に熱が集中するカラ松。
「なっ、チビ太、おま…っ!」
「だってよぉ、他の客が来たらユーリちゃんを端に座らせるし、寒そうにしてたらてめぇの上着を着せるし、おでんを相手にあーんして食わせたりって、もうまさにじゃねぇか」
やり取りが完全にカップルのそれ。ユーリもユーリで嫌がる素振りはまるでなく、カラ松の気遣いを嬉しそうに受け入れているし、何なら似た動作を返すこともある。
しかしよくよく観察すると、彼女の方が一枚上手なのが垣間見える。カラ松の趣向に付き合いつつも、手のひらの上で転がしているような空気感。余裕があるのは、いつだってユーリの方だ。
「さっさとくっつけ、ボケ」
「傍観者の僕らの方がやきもきするのって、おかしくない?」
「もー、俺もありのままの俺を好きになってくれる子いねぇかなぁ。俺すっげーいい男なのに」
おそ松の溜息には、チョロ松が眉を吊り上げた。
「そんな選ぶ側目線で余裕ぶっこき続けてきた成れの果てがこれだろうが!
素の状態で女の子にキャッキャ言われんのは、一軍かイケメンだけなんだよ!性根がクズだからせめて表層くらいは一般人に擬態しないと土俵にも立てねぇんだよ、弁えろクズが!
激昂し、コップの中の液体を煽る。
チョロ松が吐き出した言葉は表現こそ荒々しいが、内容は真理だ。年頃を過ぎてなお自然体で好かれることがなかったなら、清潔感や真摯さといった好印象を抱いてもらえる要素を身につける必要性は出てくる。そうして相手の選択肢に潜り込むのだ。
「…チョロちゃん情緒ヤバくない?」
「誰せいだ!」
チョロ松が中身の少ないコップを荒々しく置いたせいで、カウンターに液体が数滴飛び散った。それを無言でカラ松が拭き上げる。視線は兄弟に向けたまま、自然に。
長年、己の一挙手一投足のアピールが鬱陶しいくらいのカラ松だったのに、他者に気付かれない気遣いを条件反射のように行うようになったのは、ユーリの影響に他ならない。

「でもユーリちゃんはほんっと男見る目ないよな。同じ顔六つなら、俺が断然一番じゃん」
おそ松は半分に切った卵を口に放り込む。細めた目は据わっていて、酔っているのは一目瞭然だった。チビ太は呆れ返る。
「おめーそれ何回目だよ。耳にタコっつーか、勝算あるならおめーが告白でも何でもすればいいじゃねーか」
できもしない癖に文句だけはいっちょ前なのは相変わらずだ。おそ松は眉間に皺を寄せた。
「は?冗談でもそんなことしたらカラ松に処されるからね、俺。ミンチだよミンチ」
挑むなら墓標を先に用意してからにしろよ、おそ松」
それまで無言を貫いていたカラ松が、不穏な空気を纏いながら兄に強い眼差しを向けた。意図的に感情を載せない、低い声だった。
「優しいユーリのことだ、波風立てないよう婉曲な断り方をするかもしれん。それを勘違いして強引な手段に出ようものなら───分かってるよな?」
「ほらー!チビ太のせいで!」
「知らねぇよっ」

おそ松の告白をユーリが承諾する可能性を露ほども想定していない。チビ太にはそれが意外だった。
指摘したら、カラ松はどんな顔をするだろう。




いつの間にかこの場にいないユーリが話題の中心になっている。罵詈雑言ありで決して楽しげな会話の流れではないけれど、彼女いない歴=年齢の六人の中で、現状高確率で恋人ができそうなカラ松を希望の星として認識しているのは間違いなさそうだ。
彼の変化をきっかけに、好影響が自分たちに波及することを期待しているのかもしれない。自分自身は何の努力もせず、おこぼれに預かりたいのだ。何と虫のいい話だろう。

「ユーリちゃんのどこがいいの?」
「全部」
唐突の質問にも関わらず、カラ松の目に迷いはなかった。逆に白けるのが聞き手の二人。
「駄目だこれ」
「早く何とかしないと」
「だって全部なんだもん」
「もん、じゃねぇから。二十歳超えた男がかわいこぶるな、気色悪い」
頬を膨らませ抗議する成人男性、確かに愛らしさは微塵もない。
「お前を推してるっていう最大級の欠点あるじゃん」
「ハニーの審美眼が正確無比である裏付けだろ」
「そうだ、こいつ自己肯定感チョモランマだったわ
コントか。
途切れることなく繰り出されていくボケとツッコミに、チビ太は合いの手を挟むのも面倒になり傍観者に徹することにする。

「ユーリは可愛い」

カラ松が口火を切る。
「何、急に。まぁそうだけど」
チョロ松は唖然としつつも同意した。
「絶世の…というわけではないが、オレにとっては世界で一番綺麗だしキュートだ。声もスタイルも笑い方も性格も、誰が理想かと聞かれれば───ユーリだと答える」
おお、と感嘆の息を漏らしたのはおそ松だった。松野家次男が彼女への想いを詳細に語るのは稀有なことらしい。
おでんから立ち上る湯気が、ひどく熱い。汗が吹き出そうだ。
「そりゃまだ妙に緊張もするし、あれやこれやしたい気持ちもまぁ正直…めちゃくちゃある。ただそれ以上に、一緒にいて落ち着くんだ。
長い時間無言でいても気が楽な女の子は、ユーリしかいない」
激しい劣情とは一見相反する、気楽さ。時間が許す限り共に過ごしたいと彼が願うのは、そういった居心地の良さもあるのだろう。依存も干渉もしない、彼らにとってはちょうどいい空間が構築されている。

「それで───ユーリちゃんとは、どこまでいった?」
こんにゃくを勢いよく噛み切ったおそ松が、核心に迫る。場の空気を読まない彼の性質は、こういう時に長所として発揮される。
「どこまで、って…」
「手を繋ぐのは?」
「した」
「抱きしめるのは?」
「…した」
「キスは?」
「……してない」
妙な間があった。チビ太も作業の手を止めてカラ松を見ると、不自然に目が泳いでいる。耳は赤く、目は口ほどに物を言うとは、まさにこのこと。
なるほどね、とチョロ松が訳知り顔。
「口にしてないってだけで他はあるわけか。意外とやるじゃん、カラ松」
三男の揶揄にも否定しないところを見るに、事実らしい。
「どこにしたの?手?おでこ?それとも服で隠れてるとこ?ユーリちゃんの反応は?」
「ど、どこでもいいだろ!っていうか、服で隠れてるとこって何なんだっ」
興味津々と質問を重ねてくるチョロ松に対して咆哮するカラ松。
「えー、カラ松お前、チョロシコスキー寄りのむっつりだったの?初めて知ったわ、俺」
「何で!?」
「待てクソ長男っ、お前はカラ松と見せかけて僕をディスるの止めろ!

恋愛話がキャッキャウフフで終わらず口論に発展し、下手もすると暴力沙汰になるのは、六つ子にとって通常運行だ。経験値が少なく想像で補う必要があるため、会話が持続せず面倒になるのである。
適度なところでの幕切れはカラ松にとっては幸いだったのだろうが、彼は中身の少ないグラスを片手で振りながら口を開いた。

「世界中の男がユーリの虜になってもおかしくないと、本気で思ってる。それだけ魅力のあるレディだ。
…とはいえ、何だかんだと理由をつけることはできるが、結局のところユーリの何にこうも目を奪われるのかは、オレ自身言葉で表しきれないのが本当のところだ。
ただ───」

カラ松は目を細めた。際限のない愛おしさを滲ませて。

「幸せそうに笑ってくれて、側にいてくれて、守ろうともしてくれる───そんな相手に惹かれない奴がいるか?」

短編:仕事で疲れた夜は

「お疲れ、ユーリ」
「仕事大変だったでしょ?お茶出すから、ゆっくりしてって」
「ユーリちゃん、毎日仕事頑張ってて偉い!」

平日の夜、松野家の最寄り駅付近で用事があったから、トド松くんに貸す約束をしていた本を持って仕事帰りに六つ子を訪ねた。ガラガラと音を立てて開く戸の先で出迎えてくれた六つ子から飛び出した労いの言葉に、私は思わず笑ってしまう。彼らの年中変わらない騒々しさは、仕事による疲労感や気疲れを根こそぎ奪ってくれる、そんな錯覚をしそうになる。
夜も遅いし明日も仕事だからと一旦は固辞をしたけれど、結局は根負けしてパンプスを脱いだ。


「今日はスーツなんだな?」
私に座布団を差し出しながら、カラ松くんが尋ねる。
襟元にボタンのついていないスキッパーシャツとグレーのパンツスーツが、今日の私の出で立ちだ。ジャケットを脱いで、両手を思いきり天に突き上げて伸びをする。ウエストラインを絞った上着は機動力が低下する上、少々息苦しくもある。洗練された印象と引き換えに快適さを失う服装だ。
「ちょっと外出る用事があってね」
「知的で気品のあるレディが戸を開けたと思ったら、まさかユーリだったとは。纏う布一枚変えるだけでクールさまで醸し出せるハニーのポテンシャルには、脱帽するしかないな」
もっと言いたまえ。
こういう時の松野家次男坊の褒めスキルは効果絶大である。自宅に帰ってとっとと布団に飛び込みたい気持ちもあるが、HPばかり優先してMPの回復を怠ってはいけない。HPは休息である程度元通りになるが、MPは楽しまなければ回復しないのだ。

「ねぇ、ユーリちゃん、せっかくだし一杯飲まない?
父さん秘蔵のクラフトビール、ユーリちゃんになら出していいって。ボクもお相伴したいなぁ」
末弟が冷えた瓶ビールを私に差し向けながら笑顔で言う。自分もおこぼれに預かろうという魂胆が見え見えだ。
「ちゃっかりしてるなぁ、トド松くん」
「あ、俺も飲む飲む。それ確か二本あったよな?」
おそ松くんが軽やかな足取りで冷蔵庫に向かい、同じラベルの瓶をもう一本出してくる。
「ユーリちゃん慰労会ってわけだね」
「そういうことなら参加しないわけにはいかないな」
「ぼくも一緒に飲むー」
三男から五男までが、いそいそと食器棚から取り出したガラスコップを構え、瓶を握る二人の開栓の儀を待つ。
「ちょっと、ユーリちゃんにならいいって話だから。クソニートどもに飲ませる酒はないよ、散れ
「そんなこと言うなよ、トッティ。ユーリちゃんが二本開けちゃったってことにすればいいんだって」
スケープゴート止めてください。
「父さんユーリちゃんにはデレッデレだから、しょうがないなぁで済むよ。な、チョロ松?」
「確かに。将来的にユーリちゃんが松野家の名字継いでくれたら全然チャラになる話
「待たんか」
ニートどもの一時の私利私欲のために私の輝かしい──かもしれない──未来を捧げるの止めろ。

琥珀色のビールが小気味好い音を立ててグラスに注がれ、手のひらにひんやりとした冷たさが伝わる。しゅわしゅわと白い泡が消えていく。耳に心地よい音色に酔いしれながら、私たちは一気に中身を飲み干した。
炭酸が喉に流れていく。飲み慣れたビールとは異なる、爽快感のある辛みが口内に広がって、至福の一瞬である。
結局、二本のクラフトビールを七人で分け合うことになった。慰労会は言うまでもなく名目に過ぎず、とどのつまりただ酒が飲みたい六つ子である。
「んー、うまっ!」
しかし、そのことにいちいち目くじらを立てていたら身が持たない。空になったグラスをテーブルに置き、唇についた泡を手の甲で拭う。
カラ松くんが私の傍らに膝をつき、乾き物を載せた平皿をちゃぶ台に置いた。
「ハニー、つまみもあるぞ。ナッツとチーズでいいか?」
「わぁ、カラ松くん、気が利く!」
「仕事帰りなんだろ?腹が減ってるならライスボールでも握るか?炊飯器にいくらか残ってたはずだ」
「え、いいの?お腹減ってるから作ってもらえたら嬉しいな」
「オーケー、すぐ用意する」
カラ松くんは微笑んで台所へ向かう。天然のスパダリ眩しい。私は彼の背中に向けて両手を合わせた。

一松くんが珍しい物を見るような目で、私の頭の先から足元までをじっと見やる。その後、不可解そうに首を傾げた。
「でもスーツ着てるってだけでユーリちゃん全然印象変わるね。今まで普段着しか見てなかったせいもあるんだろうけど。できる女って感じする」
「まさに大人のお姉さん」
「ユーリ先輩!いや、ユーリ先生!」
「女教師かぁ、魅惑の肩書だよね」
「あんなこともこんなことも教わりたい」
「総じてエロい!」
「エロい!」

五人が力強く断言する。
「仕事帰りの疲労困憊の相手に対してその言い草」
眉間に皺を寄せて苦言を呈する私に、おそ松くんが片手を上げて待ったのポーズ。
「待って、それ誤解だわ。俺ら褒めてるから」
「罵って踏んでください」
一松くんが土下座で深々と頭を下げた。その顔は赤く、酔っ払いへメタモルフォーゼを遂げている。
ビール一杯かそこらで酔うのは早すぎだろう。否、そもそも最初からシラフだった保証もない。

「お前らユーリを何ていう目で見てるんだ。さすがに引くな」
そうこうしている内に、三角おにぎりを載せた皿をウェイターよろしく運んできたカラ松くんが鼻白む。
「は?いやいや、抜け駆けはナシにしようや、カラ松。お前だって女教師のユーリちゃんに大人の階段のぼらせてほしいって思うだろ」
「…ッ!お、思わない!」
挙動不審が凄まじいが、ギリギリのところで否定するカラ松くん。その反応にはチョロ松くんがかぶりを振った。
「いーや、思ってるね。一卵性双生児のエンパシー舐めんなよ。
っていうかさ、僕らと気安く喋ってくれる可愛い女の子の色気あるスーツ姿に何も感じないって、それはそれで失礼だと思わない?」
三男による巧妙な論点ズラし。
感情部分を意図的にぼかした表現にすることで、畏怖や好感といったボジティブな感情を内包しているかのように思わせる匠の技。案の定、カラ松くんは言葉に詰まる。
「そ、それは……」
「まぁ色気だろうが何だろうが、大人っぽい見た目になったと思ってくれる分には、スーツ着て仕事する意味があるよ」
私は彼の言葉に被せるように助け船を出し、会話を強制的に終わらせる。いつまでスーツ引っ張る気だ。
「スーツ萌えは男女関係なくいつの時代も鉄板だもんね。今更今更」
十四松くんが爽やかな笑みで言ってのけた。まるっと同意。




とにもかくにも、やれやれ、である。服装一つでここまで議論になるのは想定外だった。
明日も仕事のため、二階にいるおじさんとおばさんに挨拶して帰ろうと廊下へ出たところで、トイレから戻るチョロ松くんと鉢合わせた。
彼は改めて私の首から下を一瞥すると、顎に手を当てくぐもった声を出す。
「うーん…ユーリちゃんには失礼な言い方になるかもしれないけど、やっぱりスーツだとパリッとしてるから変な…違うな、新鮮な感じするよ」
「そう?」
「カラ松が誘惑されるのも無理はない」
またその話か。
「あいつマジで分かりやすいよね。ユーリちゃんのことどんだけ見つめてんだって話」
チョロ松くんは長めの溜息を吐いた。
気付いていなかったとは言わない。カラ松くんは微かに目元を染めて、傍らの私を長らくじっと見ていたから。
「誘惑だなんて、人聞きが悪いね」
耳にかかる髪を指で掻き上げる。
「ただでさえユーリちゃんに対しては盲目っていうか馬鹿正直っていうか、そんな感じだからさ、カラ松」
「うん、それは否定しないかな」
「スーツ萌えが鉄板だとしたら、ギャップ萌えは世の常だから」
「とてもよく分かる」

間髪入れずに私は同意した。古来より我々人類のミトコンドリアに刻まれている趣向、それがギャップ萌え。さすが盟友のチョロ松氏、造詣の深さには感服するしかない。
ある程度気が緩んでいるオフの顔しか知らない相手の、引き締まったオンの姿。両者の差が大きければ大きいほど、後者の印象がプラスであればあるほど、否が応にも惹き付けられてしまう。それがギャップ萌え。

「でも仮に私がカラ松くんを誘惑したとして、チョロ松くんたちに弊害はないよね?」
私が尋ねると、三男は苦笑いで答えた。
「外野の僕らにまで効果が及ぶことも多いのは厄介かな───特に長男、あいつは調子に乗る。
まず間違いなくユーリちゃんとはそういう関係にはならないだろうって思うんだけど…何せこっちは童貞だしね」
彼はそうは言うけれど、おそ松くんも私も甘さを伴う言葉遊びはするものの、互いの言葉を額面通り受け取らない。決して破られない薄いガラスを一枚隔てた上での戯れだ。
「ありがとう。それくらい私に魅力があるって思ってくれてるんだ?」
腰に片手を当て、片方の足に重心をかける。人によっては気取ったポーズとして捉えるかもしれない。チョロ松くんは苦笑する。
「それ、トト子ちゃんとキャラ被らない?」
「謙遜のしすぎは美徳どころか悪習だと思う」
「あー、なるほど、そっちか」
私たちは意味もなく笑った。会話に終止符を打つ合図みたいに。


「ハニー」
そうこうしているうちに居間に続く襖が開き、カラ松くんが私を呼ぶ。
「ま、そういうことだから」
「りょーかい」
元より続きのない議論を、明確な言葉でもって終わらせる。チョロ松くんは不思議そうに見つめるカラ松くんの視線に応じず、傍らをすり抜けるようにして居間に戻った。その反応を不快に感じたらしい彼は、眉間に浅い皺を刻みながら私の前へと歩を進める。
「チョロ松と何かあったのか?」
「特に何もないよ」
「…オレには聞かせられないような話か?」
二度目の問いの前に、間があった。不愉快さを彼は隠そうとしない。改めて誰かに説明するほどではない他愛ないやり取りだったけれど、かといって隠匿する必要性もない。やれやれと私は内心で肩を竦めた。

「私のスーツ姿に意外性があって、私にその意図がなくてもギャップ萌えで誘惑されてる感じがするねって冗談を言い合ってただけ」
「ゆ、誘惑!?」
カラ松くんの声が上擦った。
「ま、まぁ…確かにブラザーたちには、ユーリのスマートなスーツ姿は刺激が強すぎるかもしれないが…」
自分でいうのは少々憚られるが、体型に合わせたサイズを着ているから誠実な印象は感じられるかもしれない。唇を引き結んで背筋を伸ばせば、パッと見はクールなOLである。
「でも格好いいぞ───オレの次に」
カラ松くんはほくそ笑む。冗談を言う余裕はあるらしい。
「仮にブラザーがユーリに対して何か思うことがあっても、それはあいつらの問題であって、ユーリが気にする必要性は微塵もないんだ。他人の問題は抱えなくていい」
社会経験の少なさとは裏腹に、彼はときどき本質を吐く。経験には基づいていないくせに妙な説得力があって、その言葉に心が軽くなることも多い。情報の入手経路はどこだろう。
「…仕事着だとやっぱり違和感あるものなのかな」
溢した独白は、質問として受け取られたようだった。
「オレの場合は違和感よりもジェラシーを感じてるぞ」
「嫉妬?私に?仕事をして自立してる人生の成功者だから?
「ポジティヴが過ぎる」
淡々と窘められた。
しかし直後、彼の唇は微苦笑の形を作り、右手が私の腕に触れる。

「ユーリはいつもすぐ側にいると思ってたのに、遠い存在に感じる。同じ土俵に立てていたら、こういう思いをしなくてもいいのかもしれないが」

出で立ち一つで印象が変わる。
彼らと会う時の私は、職場で仕事をしている時の私とは違う。行動の対価として金銭を得ることに責任を持ち、真剣に向き合う姿をカラ松くんは知らない。どちらも私の側面だけど、その片側を彼には見せていないから。
「卑屈だねぇ」
「卑屈、か…そうだな。自分でもそう思う」
「スーツは戦闘服なんだよ」
私の言葉に、カラ松くんはぽかんとする。
「気合いを入れて思考を切り替える道具ってこと。これ着てるだけで、誠実っぽくて信頼できそうに見えるでしょ?
もし格好いいと感じてくれてるなら、見た目の印象に引っ張られてるだけだよ」
虚勢にも似て、私の弱さを隠そうとするもの。
「……まぁ、この程度で距離を感じてたら、いつまで経っても膠着状態だしな」
カラ松くんは私から目を逸らして、小さく溢した。
それからわざとらしい咳払いを一つして、一歩私に近づく。距離が詰まる。微笑でもって応えたら、彼も同じ表情を作った。

「近寄りがたいのは纏うオーラだけで、中身はいつものキュートなハニーなのを忘れるところだった」




松野家に滞在していると、時間はあっという間に過ぎていく。六つ子が銭湯に行く時間帯に合わせて私も帰り支度を始めた。畳に置いていたジャケットに手を通す。
「ユーリちゃん、それ格好いいね」
「え?」
チョロ松くんの声に私は動きを止める。何について言及しているのか分からなかったからだ。
「ジャケット羽織る動きだよ。手慣れてる感じがいい」
「分かる。仕事できますオーラが半端ない。おれらもスーツ着る時同じことしてるのに全然違うってことは、そもそもの実績の違いだな」
一松くんが平常と変わらないトーンで三男の賛辞を補足する。
「え、待って、ボク見てなかったんだけど」
「おかわりおねしゃす!」
腰を上げようとするトド松くんの傍らで、十四松くんが畳に額を擦り付けた。
「お断りします」
「何で!?」
「上着羽織るだけでそんなに持ち上げられると、嬉しさ通り越して不気味だから。後から大きなしっぺ返しありそうで怖いよ」
褒めるだけ褒めておいて後で落とすパターンなら再起不能まっしぐらだ。この六つ子ならやりかねない。間違いなく杞憂なのだろうが、私の第六感が警鐘を鳴らす。
「そっかぁ」
しかし十四松くんはあっさりと引き下がり、長い袖を顎に当てて思案顔になった。

「じゃあさ、一つだけお願いがあるんだけど」

五男のお願いは、『玄関で見送りがしたい』だった。
「仕事に行く奥さんを玄関で見送るっていうシチュエーション、一回やってみたかったんだよねー。見送るっていったら父さんばっかりで、正直飽きたっていうか
言うに事欠いて飽きた発言。そんな弟の肩に、長男が腕をかける。
「いいこと言うじゃん、十四松。ユーリちゃんに養ってもらってる疑似体験は、俺もやってみたいと思ってたんだ」
へへ、と照れくさそうに鼻の下を指先で擦る長男。照れる意味が分からない。
「じゃ、いっせーのでいくぞ」
靴を履いてたたきに立つと、六つ子を見上げる形になる。彼らに出迎えられるのは幾度も経験してきたが、帰る前提で送り出されるのは初めてだ。妙な緊張感が走る。
「ユーリ」
「ユーリちゃん」
「はい」
かけられた呼び声に背筋を正す。仕事道具の入った鞄を手前に持って。

「行ってらっしゃい」

駄目だな、と思う。我ながら甘い。
六つの同じ顔から向けられる、無事に戻ってきてくれと願う言霊。自分たちは働かない前提じゃないかとか、逆パターンの方が一般的だろうとか、無粋なツッコミは幾つも脳裏を過ぎったが、言葉になる前に笑い声として空気に溶けた。
送り出されるのも悪くないなんて、そんなことを思ってしまったから。
「行ってきます」
とんだ茶番だ。不意に漂う沈黙が私を正気に戻そうとする。
しかし気恥ずかしさは感じずに済んだ。なぜなら───六つ子全員が尋常でない羞恥心を見せたからだ
「新妻を毎朝見送る主夫になりたい人生だった…」
「新妻って響きがもうエロいの最高峰だわ」
「しかもこれ帰ってきたらアレでしょ。ご飯にする?お風呂にする?それともワ・タ……ああああぁあぁぁぁあっ!」
落ち着け。
「…ユーリがそんな格好するからだぞ」
しまいには、カラ松くんに溜息をつかれる。
「えっ、私のせい!?」
解せぬ。
マジで茶番じゃねぇか。




六つ子に付き合って茶番劇に興じた挙げ句、諸悪の根源呼ばわりされた私はもう不貞腐れるしかない。見送られた際にちょっとでも目頭が熱くなった私が馬鹿だった。穴があったら飛び込んで膝を抱えたい。とんだ黒歴史である。
車のエンジン音が僅かに聞こえる夜道、カラ松くんに同行されながら私の足取りは荒々しかった。
「ブラザーたちの新たな扉を開いたな」
挙句の果てに新性的嗜好開拓者呼ばわり。
「心外すぎる。私別に何もしてないし。むしろ仕事終わりで疲れてるのに好意で寄ったのにこのザマ!」
「ハニーがオンの姿を見せるからだぞ」
「仕事帰りなんだから仕方ないでしょ」
「ノンノン、オレたちを侮ってもらっちゃ困る。いつもの姿と違うギャップにときめくのは定番の展開だろ」
それを言っちゃあおしまいだ。
「ユーリの魅力にはリミットがない。しかも下がることもない」
淡々と、何でもないことのように。

「何をやっても、どんな姿でも───可愛い」

ゆっくりと双眸が細められて、その瞳には私しか映らない。
「それで、だ」
改めて彼は語気を強めた。
「仕事、無理するなよ。辛くなったらいつでも言ってくれ。
頑張ってるハニーはもちろん応援するが、自分を酷使するならオレはすぐ止めるからな」
予想だにしていなかった台詞に、私は面食らった。
「カラ松くん…」

「逃げることさえ面倒なくらい疲弊したら、その時は一言『助けて』だけでいいから言ってくれ。どんな手を使ってでも、オレが必ず逃がすから」

職歴ゼロのニートで童貞、恋人のいない年数イコール年齢。六つ子曰く同世代カースト圧倒的最底辺の言葉に、力強い説得力を感じることをいつも不思議に思う。分厚いフィルターを通して好意的に見てしまう癖があることは、自覚しているけれど。
「頼もしいね、ありがとう」
「本気で言ってるんだぞ」
カラ松くんは笑わなかった。
「忘れないでくれ───世界が敵に回っても、オレはユーリの味方だ」
暗闇には程遠い都会の宵闇が、カラ松くんの真剣な言葉を際立たせる。街灯の明かりが照らす彼の頬は、心なしか赤く。
「うん。私も本気で返事してるよ」
「……そ、そうか」
カラ松くんはようやく少し笑った。
「オレが言うのも何だが、毎日起きて仕事場に行くだけですごいことなんだ。ユーリはもっと自分を誇っていい。ちゃんと仕事行ってる自慢はオレが喜んで聞く」


改札口での別れ際に、カラ松くんは私と向かい合う。

「今日もお疲れさま、ユーリ」

短編:水平思考クイズと戯れる

「ねぇユーリちゃん、ウミガメのスープやらない?」
松野家二階で、トド松くんがいたずらっぽい笑みを投げかけてきた。


「いいよ。どっちが出題側?」
私は彼の誘いに乗る。
麗らかな休日の午後、全開の窓から微風が流れ込んでくる室内で、私と六つ子は他愛ない会話を交わしながら心地良い時間を過ごしていた。七人もいると話題はとっ散らかり、グループも複数に跨ぎ、内容によっては不参加の意を示して好き勝手する者も出てくる。フリーダムという名の混沌が室内を支配するが、慣れると一向に気にならない。
末弟の誘いは、話題が途切れ、何気なくスマホのディスプレイに視線を落とした矢先だった。
「ハニー、そのウミガメのスープとかいうのは何なんだ?」
カラ松くんが上半身を乗り出して訊く。私とトド松くんが並んで座っているソファの肘置きに、彼は腰掛けていた。
「水平思考クイズだよ」
「すいへいしこう?」
「出題者がクイズを出して、回答者は出題者に対してイエス・ノー・関係ありませんのどれかで答えられる質問をして、答えを推理していくの」
私たちが当たり前と認識してる常識や固定観念にとらわれない柔軟な思考が要求されるため、発想力の強化にも使用される。いち早く固定観念を取り払い、ひらめくことができるかが鍵となる。
きらりと、カラ松くんの目の奥が光る。
「ほぅ、推理ゲーム。つまり回答者はディテクティブというわけか。いいだろう、犯人を追求して真実を導き出すこの松野カラ松の手腕、とくと刮目するといい!」
両手を広げてどんな難問もウェルカムの構え。理解力磨いてから出直してこいといった暴言がうっかり口から出かけたが飲み込んだ。私ってば気遣いができる子。
「じゃあユーリちゃんとカラ松兄さんが回答側ね」
トド松くんは兄の演技がかった仕草を華麗にスルーし、スマホで問題を検索する。
「あ、これなんか良さそう。いくね」
彼は画面に表示される問いを読み上げる。

『男「チョコレート九個しか入ってない」男はとても困った。一体なぜ?』

私の脳内にイメージ映像が構成されていく。学校または職場の下駄箱を覗いた男は、大量に放り込まれたチョコレートを見て愕然とする。包装紙も形もバラバラで、全てが異なる相手からのプレゼント。
しかし既に固定観念に囚われていると気付き、私はかぶりを振った。質問を開始する。
「その日はバレンタイン?」
「イエス」
背もたれに頬杖をつくトド松くんが、即座に答える。
「男以外の人は出てくる?」
「ノー」
「数は関係ある?」
「ノー」
「チョコは女の子から?」
「イエスかな」
九の数字に意味はない。そして登場人物は男性のみで、チョコは異性から。妙な点は何一つ見当たらない自然な光景だ。私は唸る。
「バレンタインに女の子からチョコ貰っといて困るとかどこの一軍様だよ」
カーペットにあぐらをかいていたおそ松くんが盛大に舌打ちする。顔は不愉快さを隠そうともしない。
「九個じゃ不服ってヤツ?
俺は校内じゃ名の知れた人気者なのにチョコが二桁ないなんて、っていう愚痴聞かされてんの?それ何て言う茶番?物理的に潰そうか?
チョロ松くんが筋を浮かせた拳を握りしめる。止めたげて。
「チョコアレルギー発症するまで食わせる案も候補に入れといて」
「処す?そいつ処す?」
四男五男もノリノリだ。外野が尋常でない盛り上がりを見せ、回答者はすっかり蚊帳の外である。
そんな中、カラ松くんが訳知り顔で指を鳴らした。
「オーケーオーケー、ナイストライだブラザー。お前らの言葉で謎は全て解けた。グッジョブ、ワトソンたち」
まさか、と私は面食らう。ぼんやりとした先入観が先行して答えへの糸口さえ掴めない私とは対照的な、得意顔のカラ松くん。

「そいつは数ではなく、ガールズから『直接』貰えなかったことが不服なんだ───全力で潰そう、遠慮はいらん

私怨がすごい。
絶対違うだろと反論するのも煩わしく閉口していたら、スマホに目を落としていたトド松くんがハッと鼻で嘲笑した。
「うちの五人がいかにクズかを白日の下に晒してくれるね、この心理テスト。すごいわー」
「ただのクイズだよね?」
いつから心理テストに。

気を取り直して私は思考を再開する。
「場所は下駄箱?」
「イエス」
最初に想像したイメージに間違いはなかった。到着時または帰宅時に下駄箱を覗いたらチョコレートが詰まっている、ここまでは合っているということだ。
質問数は少ない方がスマートである。私は既に五つ問いかけている。問題文の短さから察するに、そう難解なものではないはず。
「バレンタインにチョコ九個しかないことに困惑する奴の気が知れないな……あ、待て、前言撤回しよう───チョコはユーリから貰えればそれで十分だ。他のガールズからいくらも貰おうが、ユーリから貰えないなら意味がない」
「ちゃっかり媚びを売るな」
おそ松くんからの正当なツッコミが入るが、カラ松くんはソファの背もたれに頬杖をついて素知らぬ顔である。
「そうなんだよね。何でチョコ貰って困……あ」
分かった。

「そっか…チョコ『しか』入ってなかったんだ」

私の解を聞くなり、トド松くんは指を鳴らす。
「正解」
「どういうことだ、ハニー?」
カラ松くんは首を傾げる。
「文字通りだよ。例えばその男の人が高校生だとして、登校してスニーカーから上履きに履き替えようとして下駄箱を見たらチョコしかなかった───上履きはなかったの」
あ、と彼の目が瞠られる。他の面子も同じような顔をした。
「何という叙述トリック!」
「先入観こわい!」
「スッとしたけど分かんなかった自分に腹立つっ」
両の拳を地面に叩きつけ、頭を抱え、声を荒げる。解答を提示されて納得するのは二流のすることだ。一流は限りなく少ない質問で答えに辿り着く。だからこそ面白い。
「トッティ、次は!?次こそ絶対解いてやる!」
チョロ松くんが腕を捲くる。一松くんや十四松くんは三男に同意し、体を末弟に向け直した。真剣な眼差しだ。
「じゃあ次はね───」
つい先程までバラバラだった全員の心は、今は一つだった。




翌週の休日、私は同じ場所にいた。前回と違うのは、室内にはカラ松くんしかいないことだ。
「先週ここでブラザーたちとクイズをしただろう?」
ソファに背を預けながら視線を天井に向け、記憶を手繰るようにカラ松くんが言った。私も同じことを口にしようと思っていたから、以心伝心なんて言葉が過ぎる。
結局先週はあれから一時間ほど水平思考クイズに興じた。軽率に質問を重ねていく者、問題を聞いただけで答えを導き出す者、自分の質問が他人へのヒントとなり手柄を奪われる者と、白熱した戦いが繰り広げられた。有り体に言えば、盛り上がったのだ。
「うん、楽しかったね。ライバル多いとより真剣になるし、負けられないって思っちゃう」
「イグザクトリー」
我が意を得たりとばかりにカラ松くんは背筋を正し、右手の人差し指を私に向けた。
「今日も少しだけやらないか?
あれからしばらくブラザーとの間で流行って、なかなか面白い問題もあったんだ」
嬉々とした目で誘われて、ノーと言えるはずもない。

『AとBの二人は同じものを食べて割り勘をする。食事を終えて会計を済ませると、Aの所持金は増え、Bの所持金は減っていた。Bはそのことに気付いていたが、Aを咎めるようなことはしなかった。なぜ?』

ふむ、と声を出して私は顎に手を当てる。
問題の流れは自然だ。会計を済ませるということは外食だろうが、そもそもこの認識が先入観の可能性も考えられるので一旦横に置く。突くべきポイントは、割り勘をして同額を支払っているのに所持金に差が出るどころか、増減が発生しているところだ。
「面白いね」
感想を口に出したら、カラ松くんは口角を上げた。
「だろ?これは是非ともユーリにも解いてもらいたいと思って、楽しみにしてたんだ」
声が弾んでいる。
「お店に払ったのは同額なんだよね?」
「イエス」
「んー…この支払いは、どちらかが不本意な結果?」
「ノーだ」
違うのか。これは意外だった。
「逆になることもある?
つまり、Aさんの所持金が減ってBさんが増えるっていうのは」
「イエス。起こり得る」
「言及されてないだけで、食事には実はどっちかに子供がいた?」
「ノー。食事は二人だった」
返事をするカラ松くんは答えを知っているだけあって得意げだ。胸を張って私と対峙する光景はなかなかに新鮮で、追い詰められていく思考とは裏腹に、私はこのクイズを楽しんでいた。
「えー、他に人いないんだ。なのに二人の支払いはイーブン?」
「イエスだが…この場合おそらくAの方が微妙に得してる」
そりゃ所持金が増えているのだから損はしていないだろう。なのに微妙、という表現はなぜなのか。前進していたつもりが、いつの間にか袋小路だ。店に同額支払っている限り、一方が増えるのは起こり得ないという認識が頭から離れない。
私はふるふると首を横に振った。
「答え教えて。全然想像できない」
「オーライ、ハニー」
カラ松くんは目を細める。どこか嬉しそうに。

「AはBからBの分の現金を受け取り、会計時に全額をカードで支払ったんだ」

ああ。自然と声が漏れた。その通りだ、何一つおかしくない。
カード決済までは脳裏を掠めたが、Bの分を現金で受け取るところまでは考えが及ばなかった。
「あーそうかー…そうきたかぁ」
「はは、ユーリもブラザーと同じ反応だ。質問側になると結構楽しいもんだな」
興に乗った顔でカラ松くんが言う。
してやられた。クレジットカードを所持しておらず一度も使ったのを見たことない相手から、カードが答えとなる問いかけをされるなんて。そんな認識もあり、上手く騙されてしまった。
「じゃ、次は私が問題出すね」
言外に悔しさを滲ませて、私は両手を拳にして握りしめる。カラ松くんは笑って頷いた。
「カラ松くんが登場します」

『カラ松くんは夜中に目を覚ました。他の兄弟もみんな布団で寝ているのに、カラ松くんがどんなに声を出しても動いても兄弟は誰も起きない。どうして?』

自分の名を出された彼は僅かに瞠目する。
「…オレが出るのか」
「より場の雰囲気がイメージしやすいでしょ?」
「とか言いつつ、固定観念から逃れられないよう誘導してるんじゃないか?」
疑わしげな視線が向けられた。推しのジト目おいしいです。もっとください。ずっと見ていられる。
「どうだろー」
「フッ、ハニーという美しい蜘蛛の糸に絡め取られる蝶になれ、ということか。それもやぶさかじゃないが、キュートなうさぎを捕食する獣にもなることを忘れてもらっちゃ困る」
「お互いにね」

クイズに戻る。
「オレが何をしてもブラザーが起きないということは、耳栓でもしてるのか?あ、いや待て、全員死んでる?
初っ端から物騒な確認。さらっと言うな。
「ノー。死んでない」
「全員が結託してオレを騙そうとしてるからか?」
「ノー」
えー、とカラ松くんの口から溜息に近い息が吐き出される。腕組みをした格好で彼は天井を仰いだ。
「そもそもオレは生きてるのか?」
「イエス」
「イエスなのか…」
「夜中に目を覚ましたんだから、そりゃ生きてるよ」
私は答えてから、改めてカラ松くんを見る。
「───カラ松くんが死ぬのは冗談でも駄目。私が死なせない」
思いの外強い口調になってしまい、彼は唖然とした様子だった。推しの死は私の死だ。だから彼が少しでも生きたいと望んでいるなら決して死なせないし、希死念慮も吹き飛ばしてやる。
「ユーリ……」
「あ、ごめん、何か私の地雷だったっぽい。まぁとにかく、クイズの中のカラ松くんは生きてるから」
慌てて取り繕うも、カラ松くんの頬は朱が差したままだ。
「や…その…ユーリにそう思われてるのに驚いただけ、というか…」
ソファに置いていた私の手の甲に、彼の大きな手が重なる。滑らかな皮膚の感触と体温。

「オレが死ぬのはユーリの最期を見届けてからだ。その辺は安心してくれ」

その言葉の意味を悟れないくらい鈍くなくて良かった。
「私は老衰で最期を迎える予定だよ」
「あいにく、オレもだ。ハニーには悪いが、先に逝くつもりはない」
未来のことなんて何一つ分からないのにと悪態をつくことは容易い。
けれど妙な説得力を感じて、その決意に私の未来を預けてみようかなんて考えが浮かぶ。
「ふふ、その辺はまた今度、時間を取ってゆっくり話そう。襲いたくなっちゃうから危険だよ、カラ松くんの身が
「オレが!?」
あなたが。

オチがついてからもカラ松くんはどこかふわふわした様子だったが、私に咎められて思考に戻った。
「マミーとダディは起きるのか?」
「ノー」
「オレ以外の全員は睡眠薬を飲まされて昏睡してる?」
「ノー。確かにそういう答えもありかもしれないけど、犯罪に近いことは何も起こってないよ」
よくもまぁ殺伐とした質問を思いつくものだ。次男、恐ろしい子。
カラ松くんは背中を丸めて唸る。もはや糸口となる質問さえ思い浮かばない、そんな態度だ。
やがて彼は溜息と共に両手を上げた。
「降参だ。分からん」
私の口角は自然と上がった。してやったりである。

「カラ松くんが寝てたのは私の部屋だったから」

彼が絶句するのが雰囲気で分かった。そして直後、眉をひそめる。
「それはズルいんじゃないか、ハニー?
先入観云々より、そもそもイメージしにくい光景を答えにするのはナンセンスだ」
「実際カラ松くんうちには何度も泊まってるし、そういう光景が今後カラ松くんにとって当たり前になるのだって、十分起こり得ることだと思うけど」
当たり前が変われば固定観念も変わる。
カラ松くんは一層顔を赤くして、唇を噛んだ。言い返したいが適切な言葉が出てこない、そんな体だ。
「……やっぱりズルいじゃないか」
「クイズが?」
彼は恨めしそうに私を一瞥して。
「───ユーリの言い方が」




それから話題が逸れて、しばらくはカラ松くんたちの近況に話が移った。
相変わらずいかに暇を潰すかに神経が注がれており、各々の暇の潰し方に個性が出てきたりと聞いていて飽きない。仕事しろ、という至極真っ当なツッコミは数十回ほど喉まで出かけたが、空気を読んで発言を控えた。一回だけうっかり反射的に言ってしまったが、まぁいい。
「ハニー、ウミガメのスープのリベンジがしたい」
再開は唐突だった。
「いいよ、出題者は?」
「オレだ」
「了解」
私は上半身を彼に向け、気合いを入れる。

『オレは長い間待ち望んだものを手にしたが、すぐに手元から離してしまった。一体なぜ?』

一人称がオレ。なるほど趣向返しというわけか。
「オレっていうのはカラ松くんのこと?」
「イエス」
静かに返ってくる肯定の返事。聞くまでもなかったが、念のための確認だ。
問題はひどく抽象的に思われた。具体的な何かを示す単語は一つも出てきていない。複数散らばっている曖昧な表現を合算することで明確な答えが出現する類だろうか。
「おそ松くんやおばさんたちに関係ある?」
「ノー」
「私に関係ある?」
「イエス」
躊躇はなかった。
「物質として存在するもの?」
「もちろんイエス。概念や感情といった抽象的なものじゃない」
「もう一度同じ物は手に入る?」
その問いに、カラ松くんは数秒沈黙した。私の質問は何がしかの的を射ているのかもしれないが、正解に近付いた手応えはまるで感じられないでいる。
「イエス…と言えるかもしれないが、厳密にはノーだろうな」
つまり、人によって微妙に認識のズレが発生するということか。
脳内に浮かぶイメージはおぼろげで、カラ松くんに私が何かを渡している。彼は喜ぶが、すぐに手放す。その物の正体は依然不明で、そもそも手渡しの行為自体が誤りの可能性もある。物質とは尋ねたが、認識違いでデータかもしれない。確認しておこう。
「データ?」
「ノー」
違ったか。
「大きい物?」
「ノー」
「カラ松くんの将来に関係ある?」
「イエス」
私がカラ松くんに手渡す物。彼が長らく待ち望み、けれど何らかの理由ですぐに手放してしまう物。

あ。もしかして。

「婚姻届?」

カラ松くんがニヤリとほくそ笑む。
「ワオワオワオ、コレクトだハニー。よく分かったな」
そして軽やかに鳴らした指を私に向けてくる。
「よっしゃ!」
私は右手で力強くガッツポーズを決めた。
「そっか、婚姻届か。面白い言い方するね。THE水平思考クイズって感じする。
待ち望んだっていうのがヒントだよね。養うとか仕事とかそういう未来に関わりそうな感じしたから」
「手元からなくなるのは役所への提出、というわけだ」
「座布団二枚くらい差し出したい」
正解した爽快感が頭の中を駆け巡る。今の私はきっと傍目にも分かるほど得意げな顔をしているに違いない。
だから、気付くのが遅れた。

カラ松くんが長らく待ち望んでいるもの。
彼の将来に関わるもの。
そして───私に関係のあるもの。
「……あ」
声が出た。
視線を向けた先では、カラ松くんが目を細めて私を見つめている。
「待ち望んでいるのは本当だ。イエスとノーで答えたこともオレの本心で、嘘偽りはない」
意地が悪い。クイズは名目でしかなかった。
「とはいえこれは、オレが問題を出し、ユーリが答えるただのクイズだ。単純明快。解答を導き出したのはユーリの思考で、オレは一切タッチしてない」
体のいい逃げ口上ではないだろうか。
「誘導尋問っていう反論は」
「そう言い切れる材料があるなら提示してみるんだな」
あるはずがない、そう言いたげな言葉。

私は長い息を吐く。
「カラ松くんの方に実現させる手立てがないうちは、待ちぼうけのままだよ」
私が告げれば、待ってましたとばかりに彼の目が輝く。ああ、私は結局どこまでもこの人を甘やかしてしまうのだ。突き放せない。
「このオレを誰だと思ってる?松野カラ松だぞ───必ず手に入れてみせるさ」
「いつになることやら」
「間もなくさ、乞うご期待」
少女漫画さながらの鬱陶しい双眸をしながら、彼は私の腰に手を回した。

さて、ズルいのはどっちだ。

短編:ハッピーバースデー

「ユーリは、何が欲しい?」
さり気なく切り出したつもりだったが、声は思いの外上擦っていた。右手を添えたガラスコップの水面には微かに波紋が広がり、自分が想像以上に緊張していることを知らされる。
乾いた喉を潤すため、動揺を悟られないため、カラ松はグラスの水を一気にあおった。


待ち合わせ後、ひとまずユーリと共にカフェに入った。
席に着いた直後、ユーリは耳にかかる髪を掻き上げながらカラ松に微笑む。その仕草がどことなく艶めかしく、どきりとする。もうずいぶんと長い時間を共有しているのに、一向に慣れない。それどころか、会うたびに心を奪われていく。これ以上奪われるものなんてないと思っているのに、まだ奪われていない部分があったのかと驚くほどに。

ユーリの左手首に装着されたネイビーレザーのベルト型ブレスレットは、知り合ってしばらく経った頃にカラ松がプレゼントしたものだ。多少色褪せて本革の味が出ている。カラ松と会う時は必ずつけてくれていて、鎖など繋がっていないのに、まるで彼女の所有権を得たような気持ちになる。
けれどひとたび口にすれば、勘違いも甚だしいと叱責を食らうのだろう。

「カラ松くん?」
メニューを開いてああだこうだと他愛ない会話を幾つか重ねた後での、上記のカラ松の問いだった。ユーリはきょとんとしてメニューから顔を上げた。
「何が欲しいって……あ、何頼むかってこと?」
そう言った彼女に対し、カラ松はかぶりを振った。
「えーと、まぁ何だ、その……」
視線をあちこちに彷徨わせながら言い淀むカラ松の返事を、ユーリは不思議そうな顔で待つ。

「来月はユーリのバースデー、だろ?」

一ヶ月後の休日。以前何かのタイミングでユーリの誕生日を知る機会があって、これだけは忘れるものかと記憶に刻みつけてきた。
「覚えててくれたんだ」
ユーリはにこりと微笑する。
「フッ、麗しのハニーがガイアに生を受けた記念すべきスペシャルディだからな。イエス・キリストの生誕以上にインポータントな日だぜ」
「強大な勢力を敵に回そうとするな」
真顔で咎められた。
気取って言ってはみたものの、半分ほどはカラ松の本心だった。忘れてはならない大切な日である。
毎日が誰かのバースデーだ。かつて、そんなことを言って幼馴染の誕生日パーティに不参加の意を示したこともあった。今は反省している。
「それでだ、できれば当日にプレゼントを渡したいと思ってて…欲しい物があればそれを渡したい。ユーリが望む物で、オレが渡せる物なら何でも構わないぞ」
「道具使ったプレイ」
「この流れで言う台詞がそれか」

間髪入れず放たれた望みを秒速で棄却する。カラ松は腕組みをして、長い息を吐いた。
「私が欲しい物でカラ松くんが渡せる物なら何でもいいって条件でしょ?
道具も使う側の私が用意するよ?絶対気持ちよくするし、後悔させない」
人として大事な何かを色々失う気がするから却下だ」
「…それはあり得る」
「納得するんじゃない」
もうこのやり取りも半ばルーティンと化している。端から見れば異様な会話だろうが、この後に顔を見合わせて笑うまでがお決まりと言っていい。言わば挨拶だ。
「うーん、何でもいい、かぁ…」
「プレイ関連はなしだぞ」
「急に制限かかった」
ユーリは肩を竦める。
唸りながら目を閉じるユーリをよそに、カラ松は側を通りかかった店員に声をかけて二人分の注文をした。悩むユーリも愛らしい。カラ松の提案に真剣に向かい合ってくれている証拠だ。
「バースデー当日は空いてるのか?
その、もし当日何か用があるならその前後の日でも──」
「空いてる」
最後まで言い終わらぬうちに、ユーリが被せてくる。射抜くような視線が向けられた。
「っていうか、空けてる。仕事休みだし、カラ松くんに祝ってほしいしね」
「……ッ」
彼女に到底敵わないと思うのは、こういう時だ。
僅かな逡巡もなく口にされる本心は、この話題を切り出したカラ松本人が最も望んでいた言葉だったから。

ユーリの誕生日に約束を取り付けるタイミングをずっと見計らっていた。
二ヶ月先では早すぎるし、数週間前では万一先約が入ると取り返しがつかない。だから一ヶ月前の今日は一か八かの賭けだった。
彼女の誕生日を共に過ごす権利は、他の誰にも譲れない。

「プレゼントのことなんだけど」
ドリンクを運んできた店員が離れるのを皮切りに、ユーリが会話を再開する。彼女が注文した濃褐色の液体にコーヒーフレッシュの白が混ざり、跡形もなく溶けていくのをカラ松はぼんやりと眺めていた。
「ん、決まったのか?」
ユーリはふるふると首を左右に振った。
「ううん、まだ。だから私の言いたいタイミングで伝えてもいい?」
意図が分からずイエスともノーとも答えられないカラ松に、彼女は慌てたように補足する。
「えっと、つまり、欲しい物決まったらもちろん伝えるんだけど、私が言い出すまで待っててほしいな、って。
もしかしたら誕生日当日になっちゃうかもしれないけど」
胸元で両手を合わせて拝むような仕草。
本音を言えば、誕生日当日にプレゼントを渡す光景を思い描いていた。ユーリが望む物を当日スマートに差し出し、ユーリが喜ぶ。お手本のようなハッピーエンド。
しかしそういった一連の行為はカラ松の自己満足に過ぎないと、すぐに思い直す。目的は自分が格好いい男を演じるのではなく、ユーリにとって幸せな一日を演出することだ。
「もちろんだとも。ユーリが言ってくれるまで待つさ」
「ありがと。ちゃんと言うからね」
朗らかな彼女の笑顔にカラ松は幾度も救われてきた。同時に、どんな苦難も解決に導いてくれそうな力強さと安心感に傾倒し、先行き不透明な自分の未来からは目を背けてきた。
これから先進む道を誇りに思いたい。できることならユーリの手を取りたい───そのためには変わる努力も必要だ。




「そう言えば、来週ユーリちゃんの誕生日だよね」
居間のちゃぶ台に頬杖をつきながら、不意にトド松が口火を切った。今週はどうやって暇を潰すかという生産性皆無の会話をポツポツと交わしていた矢先である。
間が悪いことに、その空間には六つ子全員が雁首を揃えていた。収入源が親からの小遣いのみという年中資金不足故に、外出頻度は否が応でも低下しがちのため、起こり得るべくして起こっている状況と言える。
「…そうだな」
返事の切れが悪くなる。こと兄弟に関して回避すべきシチュエーションが発生した場合、可及的速やかに対処しなければ悲惨な結末を迎えるに違いないからだ。
「休日だし、会うんだろ?」
チョロ松が求人誌から顔を上げて尋ねてくる。
「約束は取り付けてる。一応プランも立てた」
洒落たディナーも豪華絢爛な宝石も自分には提供できないけれど、祝う気持ちは誰にも負けないと自負している。
だからこそ兄弟の邪魔だけは阻止しなければ。カラ松は手に汗握る。

おそ松がおもむろに立ち上がり、カラ松の左肩に腕を乗せた。長男からの気安い接触は、良からぬことの前触れであることが多い。

「なら、俺らも俺らでユーリちゃんの誕生日祝おっかな」

目を剥くカラ松に、おそ松はニッと笑う。
「そんな物騒な目つきすんなって。お前の邪魔しようって意味じゃないんだよ、カラ松。
この前ユーリちゃん来た時、お前ちょっと席外した時あったじゃん?
そん時にユーリちゃんの誕生日を俺ら全員が聞いちゃってるわけ」
「賛成!ぼくもユーリちゃんお祝いしたい。ぼくらとユーリちゃんの関係上、さすがにスルーはできないしね」
畳に寝転がって硬式ボールを上空に投げていた十四松が、飛び跳ねるように上体を起こす。
「無視は失礼にあたるな」
一松が同意して。
「費用は、ちょっとくらいなら母さんが援助してくれるんじゃないかな?
会場うちにして、ケーキ焼くとかならできると思う」
チョロ松が具体的な提案をする。
「それいい、ケーキ焼こうよ。サプライズ感あるし」
「あ、ならさ、トッティ、敢えて翌週祝うってのは?
誕生日当日は俺ら全員用があっていないって体にすんの。そんで翌週、適当な用事で呼びつけてサプラーイズ、みたいな」
おそ松は嬉々とした声を発しながら、両手を広げて出迎えるようなポーズを取る。
カラ松は早い段階で諦観の境地に達した。兄弟が乗り気になった時点で歯止めをかけられる者はいない。むしろ邪魔立てする自分こそ悪者にされかねない。
「飾り付けなら材料百均で揃うよね」
「買い出しはおれと十四松でいいんじゃない?」
「ケーキはみんなでデザイン考えようよ。その後ボクが材料調べて、母さんにカンパ交渉してみる」
あれはどうだこれはどうだと提案される案を腕組みで聞いていたチョロ松が、突如立ち上がってA3の白い用紙を円卓に広げた。その姿はさながら、計略を巡らせる参謀だ。
「じゃあ、みんなの話をまとめて詰めていこう。失敗は許されないからね。
ユーリちゃんの誕生日を日にちズラしてサプライズで盛大に祝おう計画───通称『バルバロッサ作戦』
作戦名は目的に掠りもしてない上に脈絡もない。
「指揮は頼むよ、チョロ松」
おそ松がウインクでゴーサインを出す。
「ユーリちゃんに喜んでもらえるといいね、バルバロッサ作戦」
「おれらの今後の命運がかかってる重要な任務だ」
「バルバロッサ作戦、か……チョロ松兄さんにしては悪くない作戦名だね」
もうどこからツッこめばいいのか分からない。
スルー案件なのか。カラ松は何か言おうとして上げた左手のやり場を失い、静かに自身の膝の上に落とした。
「よしっ、いいかお前ら!バルバロッサ作戦は絶対成功させるぞ!」
「おー!」
長男の掛け声に呼応して、残りの四名が勢いよく右手を突き上げた。

目的のすり替わった自己本位的な祝い方はこういうことを示すのだなと、カラ松はこれまでの自分の言動を客観的に見せつけられた気がして、心の内で少々反省した。
けれどユーリに喜んでほしいという気持ちは彼らにも確かに存在する。その点はカラ松と何ら変わりはない。だからカラ松もすぐさま立ち上がり、五人の輪の中に首を突っ込むのだった。




ユーリの誕生日当日は幸運にも晴天に恵まれた。降水確率ゼロパーセントの外出日和だ。
「カラ松くん見て見て、バースデーバッジ!」
ユーリは弾む声で、生誕の祝福と共に手渡されたバッジをカラ松に見せる。角の丸い可愛らしいローマ字でハッピーバスデーと刻まれた、今日が誕生日であることを証明した者だけが貰える特典である。
「ユーリを彩るには華やかさが少々物足りない装飾だが、仕方ないな。
では準備も整ったことだし、バースデーの恩恵を片っ端から受けるジャーニーに出向くとしよう」
「ラジャー!」

カラ松とユーリはハタ坊が運営する遊園地クズニーランドへやって来た。
ここでは当日が誕生日である証明を提示すれば、該当者は入場料無料、同行者一名も半額になる。その上、前述したバースデーバッチが貰え、そのバッチを身に着けていると園内で様々なサービスが受けられるのだ。
そのためカラ松たちは、ステータスの八割方を動きやすさに割り振ったラフな格好だ。当初思い描いていたロマンチックなバースデープランとは程遠い出で立ちだけれど、今の装いの方が気楽でいい。
ユーリは何日も前からここへ来るのを楽しみにしていたし、カラ松の独りよがりな計画では決して見られなかったであろう笑顔も見れた。

「お誕生日おめでとうございます!」
そして入場門をくぐってからというもの、すれ違うスタッフがユーリのバッチを見るなり祝いの言葉を投げてくる。
「ありがとうございます」
その都度嬉しそうにはにかんで、ユーリは礼を述べる。
祝福は花びらのように降り注ぐ。ひらひらと不規則な動きで空中を舞い、やがて彼女を包み込もうとする。
「ユーリ」
けれどカラ松は、己の進行を阻む花びらを払う。
呼ばれたユーリは声の方向に顔を向ける。少なくともその刹那は、彼女の意識はカラ松だけのものだった。
「…いや、何でもない」

溢れるほどの祝福が彼女を包もうとも、ユーリの瞳に映るのは自分でありたい。ひどく傲慢な願望が胸に巣食っていると、カラ松は認めざるをえない。


道行くスタッフがユーリ──正しくはユーリのつけるバースデーバッチ──を視認するなり、誕生日を祝う。手を振り、笑顔を向け、道を開ける。さながら小さな凱旋パレードの様相を呈し、ありもしない金色の冠がユーリの頭上に見えるかのようだった。
「今日の主役はハニーだな」
麗らかな晴天もユーリへの祝意を示している。
「偉い人になった気がしてきちゃうね。でも嬉しいな」
少し照れくさそうにユーリが笑う。
「クレバーという意味ではその表現はあながち間違いとは言い切れないぞ。ユーリは巧妙に悪知恵が働いて抜け目がなくとんでもなく狡猾だ」
「褒め言葉の皮を被った壮絶なディスり」
顔から表情を消してツッコミを入れてくる彼女に、カラ松は笑みで返す。
「意表を突いて裏をかき、常にオレの数歩先を行くユーリを尊敬はしてる。いつまで経っても追いつける気がしない。
まぁ、だからこそ追いかけ甲斐があるわけなんだが」
カラ松は顎に片手を当て、くく、と喉を鳴らす。褒められたのか貶されたのか判別がつかないユーリは複雑を極める表情で、唇をへの時にした。
園内を行き交う群衆の顔は識別できない。彼らの声は演出のBGMとなり、姿はユーリを際立たせる背景と化す。

いくつかのアトラクションを楽しんだ頃、時計の針は正午を少し過ぎた時刻を示すので、カラ松たちは空腹を満たすためにレストランへ足を運ぶ。
ソファのテーブル席がずらりと並び、和洋中とバラエティに富んだメニューを揃えるファミレスのような店だ。道に開けた側は全面ガラス張りで、日差しが差し込んでいる。
四人がけの席に案内され、それぞれが食事を終えた頃。

「ユーリちゃん」

突如背後から名を呼ばれた彼女は、ハッと振り返る。その先にいたのは───クズニーランドの経営者だった。
「ハタ坊…っ」
彼は小さな両手にバースデープレートを持ち、いそいそとテーブルに置いた。たっぷりの生クリームとフルーツであしらわれたパンケーキに、チョコレートソースで『ハッピーバースデー』の文字が描かれている。
「お誕生日おめでとうなんだじょ」
「…え!?」
「これはハタ坊からのプレゼントなんだじょ」
そう言って、彼の斜め後ろに控えていたウェイターから受け取ったドリンクをプレートの横に並べる。透明度の高いコバルトブルーのノンアルコールカクテルだ。
ユーリはカクテルの色とカラ松の顔を見比べ、瞬時に察したようだった。相変わらず聡い。その理解力の速さと聡明さは、彼女を一層美しく飾り立てる。
「ありがとう、ハタ坊!ハタ坊にも祝ってもらえるなんて、忙しいのにわざわざ来てくれて本当ありがとうね」
「友達の誕生日の方が大事なんだじょ」
ハタ坊は言ってから、指を鳴らした。すぐさまどこからともなく脳天に旗を刺した秘書が姿を現し、彼の身長に似つかわしくない大きさのジュラルミンケースを差し出す。嫌な予感。
「何をプレゼントしたらいいか分からなかったから、札束を詰めるだけ詰め込んできたこれもあげるじょ」
「あ、それはいらないです」
ユーリは顔から表情を消して両手を前に突き出す。秘書が何かに気付いたようでハタ坊の耳に顔を寄せる。
「ミスターフラッグ、ユーリ様はおそらく荷物になるので固辞していらっしゃるかと」
「違う、そうじゃない」
「なら自宅に送るんだじょ。部屋に敷き詰めた札束風呂なら喜んでくれるじょ?
「……床から何センチくらいの高さ?」
ユーリは躊躇いながらもうずうずした様子で問うた。さすがに興味を引かれたらしい。実現することの叶わない平民の夢のまた夢だから、仕方ないと言えば仕方ないが。
しかしカラ松が再考を要求するまでもなく、彼女は首を横に振った。
「ごめん、違う、今のナシ。そういう祝い方してほしくてハタ坊と友達やってるわけじゃないから」
札束風呂に後ろ髪を引かれている様子だったが、ユーリはケースを押し返す。
「そうだぞ、ハタ坊。プレートを持ってきて祝うだけって話だっただろ」
腕を組み、カラ松は抜け駆けを嗜める。
誕生日特典を利用してクズニーランドを満喫するプランに決まった時点で、カラ松はハタ坊に連絡を取った。時間があればユーリを祝わないかと持ちかけたのだ。ハタ坊は快諾し、食後にバースデープレートを運ぶサプライズを仕掛けて祝う、そういう話だった。ジュラルミンケースの札束は聞いていない。
「とはいえ、ハニーのバースデーを盛大に祝福したいハタ坊の気持ちを無下にするわけにもいけないな。せっかく用意したプレゼントだ」
「私この後の展開読めた」
ポツリと溢されたユーリの呟きを聞かなかったことにして。

「そのケースはオレが預かろう」

「待たんか」
致し方なしといった体でケースに手を伸ばしたら、速攻でユーリに手の甲をピシャリと叩かれた。
「ノンノン、ハニー、安心しろ。何も横取りしようってわけじゃない、預かるだけだ───半永久的に
「それを横取りって言うんだよ。楽して大金得ようなんて浅はかな考えはカラ松くんらしいけど止めなさい」
凄絶な言われようだ。
しかしユーリからの好感度ダウンは避けなければならない。カラ松は潔く手を放したのだった。




「あー、楽しかった!」
ユーリは両手を天高く上げて、勢いよく振り下ろす。クズニーランドの出口へ向かう足取りは非常に軽く、疲労感を感じさせない。
夕食を終えて園を後にする。一日中園内のスタッフに誕生日を祝う言葉を投げられて、ユーリはご満悦だ。その笑顏を見ているカラ松も満たされる。自分自身が祝われているような錯覚さえ覚えた。
「あ、そうだ」
カラ松はハッとする。街灯にスポットライトのように照らされるユーリが、何事かと振り返った。
「まだ時間あるか?
ブラザーが面白い漫画の短編集を買ったんだ。この前借りた雑誌も返したいし、帰りにうちに寄って渡したいんだが」
クズニーランドからは赤塚駅を経由してユーリ宅の最寄り駅になる。遠回りにはならないからこその提案だった。
「うん、いいよ。まだそんなに遅い時間じゃないしね」
ユーリは二つ返事で了承する。
「オーケー、それじゃあ我が家に寄り道だ」
駅までの道中、跳ねるような足取りで色のついたタイルだけを踏むユーリを、心から可愛いと思った。

「ねぇ、カラ松くん」
くるりとカラ松を振り返り、ユーリは両手を自分の後ろに回した。
「遅くなっちゃったけど、誕生日プレゼント決まったよ」
「そうか。それで、何がいい?」
無茶は言ってくれるなと牽制はするものの、ユーリが喜ぶのなら多少無理難題を求められても応えたい気概はある。元より、ユーリがカラ松に無理強いさせるとは思っていないけれど。
「いやー、我ながらかなりワガママなお願いになっちゃうんだけど…」
ユーリが言葉を詰まらせるのは珍しい。
「ドンビーシャイだ、ハニー。
前にも言っただろ?オレが渡せる物なら何でもいい、って」
そう答えたら、彼女は照れくさそうにはにかんだ。それでも黒目をあちこちに向けて逡巡する様子を見せるから、よっぽど入手難易度が高いか高価な物なのかとカラ松に緊張が走る。
「ええと…」
苦笑しながら、ユーリは指先で自分の頬を掻く。

「来年も再来年もその先も、私の誕生日に『おめでとう』って言ってほしい」

カラ松は目を瞠った。虚をつかれたと言っていい。
かぐや姫よろしく火鼠の皮衣や蓬莱の玉の枝といった無謀な要求さえ覚悟していた。なのに。
「…それだけか?」
何か裏があるのではと勘ぐってしまうのは悪い癖だ。
「うん。期限は私が寿命で死ぬまでかなぁ」
「ハニー、本当にそれでいいのか?もっとこう、アクセサリーとか色々───」
言い終えるより前に、はたと気付く。ユーリは笑っている。
「それ『が』いいんだよ」
それでいい、じゃない。妥協ではなく望みとして。

冗談だと思うじゃないか。
自分に渡せる物なら何でもと懐の大きい所を見せつけようとしたカラ松に対し、金銭のかからない彼女の要求はあまりにも小さく感じられた。
それに加えて、寿命で死ぬまでなんて、何十年も先の果てしない未来の話だ。でも言い換えれば、その果てしない期間を彼女は───
「分かった、必ず叶えよう」
「約束ね」
「ああ、もちろん。ユーリと必ず顔を合わせて伝えるという前提でいいか?」
「どうしても無理な時は電話でもいいけど、基本は私の目の前で、かな」
一見可愛らしい願いに聞こえる。
「じゃあ改めて、これが今年分のプレゼントだ」
カラ松は背筋を正した。ユーリは両手を腿の前で組み、じっと待つ。

「誕生日おめでとう、ユーリ───君が生まれてきてくれたおかげで、オレはとても幸せだ」

彼女の生誕に溢れんばかりの祝福を。




チカチカと点滅する街灯が松野家の玄関を照らす。引き戸のすりガラス越しに、玄関框に灯っている明かりも窺えた。カラ松の帰りが遅くなると連絡しているので、戸の鍵も開いている。
ユーリと敷地へ足を踏み入れようとして、カラ松は足を止める。ポストから封筒の端が覗いていたからだ。繋いでいたユーリの手を離し、ポストに手を伸ばした。
「…あー、すまんハニー、先入っててくれ」
「いいけど、どうかした?」
「隣のビル宛の郵便物が入ってるんだ。あっちのポストに入れてくる」
不運だね、と呟いてユーリは笑い声を溢す。人通りの少ない静かな空間にとろりと溶けるような声だった。
「分かった。みんなはいるのかな?」
「ブラザーたちも今日は遅くまで出掛けると聞いてるから、どうだろうな」
茶封筒を掲げながら首を傾げるカラ松を横目に、ユーリは玄関の引き戸に手をかけた。

「ハッピーバースデー、ユーリちゃん!」

発砲音のような甲高い破裂音が玄関に轟き、五つのクラッカーから飛び出した色とりどりのテープがユーリの頭上に舞い落ちる。はらはらと散るメッキテープは蛍光灯を受けて眩く光り、今日の主役を鮮やかに彩った。
そしてポカンと口を半開きにして立ち尽くすユーリの前に、当家の五男が颯爽と躍り出る。
「はい、ユーリちゃん、これつけて!」
赤く縁取られたたすきを彼女の首にかける。表面に明朝体で大きく書かれた文字は『あんたが主役』。
「え?……ええ!?」
「ユーリちゃん今日が誕生日だろ?俺らにもお祝いさせてよ」
呆気に取られるユーリの頭からテープを払いながら、おそ松が言う。
「ほら、誕生日って当日祝ってもらった方が嬉しいじゃん?僕ら基本的に予定空けられるし」
「空けられるっていうか、埋まる予定ないってのが正しいけどな。…ま、それにおれらはユーリちゃんのオトモダチだから」
チョロ松と一松が続ける。

やはり当日にユーリの誕生日を祝おう、そういう流れになったのは計画の詳細を練ろうとした時だった。
サプライズで当日意図的に不在にする意味が分からない、と根本的な駄目出しが始まり、何やかんやでカラ松がデート後にユーリを松野家に誘導する作戦に決まったのだ。今思えば、カラ松に朝帰りをさせない思惑も多分に含まれていた気もするが。

「まだ時間ある?あるよね?上がってってよ」
スマホを構えて動画撮影をしていたトド松が、口早に手のひらを居間へ向けて辞退させない流れを作る。十四松も末弟に倣い、両手を室内へ差し向けて期待に目を輝かせた。まるで飼い主の反応を待つ犬のようだ。
「いいの?そういうことなら遠慮なくお邪魔しようかな」
肩を竦めて、ユーリは玄関で靴を脱ぐ。立ち上がろうとする彼女の前でカラ松は片膝を立て、手を差し出した。
「さぁ、お手をこちらへ、今日という日にまた一段と美しくなられたプリンセス」
仰々しい台詞に返されたのは、朗らかな笑みだった。手のひらが重なって、同時に立ち上がる。


居間の壁を折り紙で作った輪を組み合わせた輪飾りと手書きの垂れ幕で飾り、中央に添えた円卓には手作りケーキとスナック菓子、そしてアルコール含めたドリンクが置かれている。
ケーキは一日かけてカラ松を除く五人が作り上げたものだ。当初の想定通り、事情を説明して松代から材料費をせしめることに成功したため、盛り付けのフルーツも満足いく量を使うことができた。
そんな室内の様子を見るなり破顔するユーリを見て、カラ松たちは目配せをすることで互いの健闘を称え合った。声を弾ませながら飾りつけやケーキを撮影する彼女の反応に充実感を覚える。
「おい、お前ら」
次の瞬間、おそ松から号令がかかった。ミッションが第二段階へ移行する合図だ。
「ユーリ」
「ユーリちゃん」
呼ばれて振り返ったユーリは、度肝を抜かれることになる。

カラ松を含む六人全員が横一列となり、ユーリの前に跪いたからだ。

「誕生日おめでとう。俺らの時は三倍返しくらいでいいから」
「一つ年を重ねたハニーは一段と美しい」
「ユーリちゃんの一年が楽しいものになりますように」
「ほんと大した物じゃないけど…」
「ぼくらもユーリちゃんのこと大好きー!」
「サプライズ喜んでもらえて嬉しいな。これからもボクと仲良くしてね」
各自が用意したプレゼントをユーリに差し出す。
おそ松は何でもいうこときく券、チョロ松は七人が写った写真入りのフォトフレーム、一松は大容量にぼし、十四松は野外で摘んできた小さな花束、トド松は手作りクッキー、そしてカラ松は左手を。
ユーリは笑った。大輪の花が咲き誇るように。彼女の両手はプレゼントで溢れ、最後にユーリはカラ松の左手を取る。
「えー、もう、何これ…嬉しいなぁ。みんな、ありがとね。まさかこんな風に祝ってもらえるとは思ってもみなかったから、嬉しいのをどう伝えたらいいか分からないよ」
「いやいや、何言ってんの。ユーリちゃんと俺らの仲でしょ?
最初はわざと翌週祝おうかって話だったんだけど、ズラして祝うとか失礼すぎるよな。ほんと弟たちは女心分かってないっつーかさ」
おそ松が片手を腰に当てながら嘆かわしいとばかりに首を振る。
「最初に提案したのお前だけどな」
即座にトド松から白い目を向けられるも、長男は聞こえないフリだ。
「でもこれで次のおれらの誕生日は安泰でしょ?ユーリちゃんに祝ってもらえるの確定だし」
「楽しみしかない。そりゃプレゼントも欲しいけど、可愛い女の子から祝ってもらえるってステータスだけでも最高」
一松とチョロ松が拳を握りしめた。
「ここまでされちゃお返ししないわけにはいかないもんね。喜んでもらえるよう頑張るよ」
確約である。
兄弟は両手を上げ、歓喜した。




カラ松がトイレを出て部屋に戻ろうとしたところ、玄関近くでユーリと二人きりになる機会があった。五人から貰ったプレゼントを、暇を告げるまで玄関に置いておくためだ。
「あ、カラ松くん」
「騙すような真似してすまなかった、ハニー」
サプライズを成功させるには、カラ松の誘導が鍵を握っていた。僅かでもユーリに感付かれるわけにはいかなかったのだが、罪悪感のようなモヤはずっとあった。
ユーリはからからと笑う。
「そんなの気にすることじゃないよ。迷惑かかるどころかすごく嬉しかったし、謝らないで」
「そうか?…まぁ、ユーリがそう言うなら…」
「っていうかさ」
襖を一枚隔てた先では五人がやいのやいのと他愛ない会話を繰り広げている。時折罵倒や笑い声が響いて、賑やかを通り越して騒々しい。開閉には便利だが防音性の低さは難点だ。
「カラ松くんが左手を出してきたのは、事前に私にプレゼントを渡してくれたから、ってことで合ってる?」
五人が思い思いの貢ぎ物を差し出す中、カラ松は唯一物を出さなかった。
「…そうだな、それもある」
「それも?」
意図が掴めずオウム返しになるユーリの肩を、静かに抱き寄せる。左耳に顔を寄せて、囁くように告げた。

「オレの左手の指はユーリのものだ──という意味合いもある」

姿勢を戻せば、呆気に取られたユーリの顔。それから彼女は声を殺して不敵に笑う。
「私のものなのは左手だけ?」
「それ以上は、今夜ベッドの上でなら思う存分聞かせられると思うが?」
襖越しの兄弟には聞かせないよう声を抑えて。
「いいね」
今度はユーリがカラ松の耳元に頬を寄せた。不意打ちに、びくりと肩が揺れる。
「いつもよりたくさん可愛がってあげる」
しなやかな指がカラ松の腰に触れて、すぐに離れる。触れた瞬間、抱きしめられるかと思った。だから即刻離れてしまった時、物足りなさに眉をひそめてしまう。
その一部始終をユーリに見られた。カラ松の弱い部分を見逃すような優しい彼女ではないから、意味深長な横目を向けられる。


誕生日の夜は、まだ終わらない。

短編:観察対象は期待値の算出が難しい

「お二人を一日観察させてください」
オムスビがそう告げた直後、カラ松とユーリは唖然として数秒間言葉を失っていた。




数日後に漫才の舞台出演を控えたシャケとウメが、リハーサルに向かう道中のことだった。駅前という立地故にいつも程よく賑わっているカフェのテラス席に、ユーリの姿を見かけたのだ。
オムスビには、ユーリという人間の情報が少ない。ニートAIとして覚醒して以来、自分たちの目標達成を優先しており、六つ子との関わり自体が必要最低限だった。だから自分たちが初めてユーリと顔を合わせたのも、カラ松と彼女が出会って数ヶ月が経つ頃だったのだ。
カラ松と親密らしい一般女性。オムスビにとってユーリはその程度の認識である。

「ねぇ見てシャケ、ユーリさんだ」
最初に気付いたのはウメだった。
「本当だ。誰かと待ち合わせかな?」
ユーリが座っていたのは椅子が向かい合わせの二人席。テーブルには何も置かれていない。レジで注文した商品を受け取り自席に運ぶスタイルのカフェだから、一人で来たのなら即座に注文に行くなり動きがあるはず。
さらにヘアスタイルや出で立ちに時間をかけた形跡が見受けられる。そういった複数の要素から出した結論が、待ち合わせ、だ。
「ユーリさ──」
手を振って駆け寄ろうとしたシャケが、不意に立ち止まる。何事かと彼の背中から様子を窺ったウメは、あ、と声を出した。

カラ松がユーリの元へやって来たのだ。

トレイに二つのカップと一つのケーキを載せて。
トレードカラーを全面に押し出した定番の普段着ではなく、あきらかによそ行きと分かる服装だった。彼はユーリの向かい側に座り、トレイをテーブルに置いた。
「すまん、ドリンクに悩んで遅れた」
「何頼んだの?」
「トールアイスライトカフェモカエクストラミルクウィズキャラメルソース」
「呪文かな?」

「フッ、オレほどの男ともなるとカフェの注文も詠唱のように高尚になってしまうな。嫌でもオーディエンスの目を引いてしまう」
カラ松は髪を掻き上げて嘆く。
「まぁ、要はアイスのカフェモカにキャラメルソースを追加したヤツだ。旨いぞ」
「カフェモカって時点で美味しいの確定だね。後でちょっと頂戴」
ユーリは微笑み、トレイからカップとケーキを手に取る。
「ちなみにここでのトッティのオススメは、グランデチョコレートチップエクストラコーヒーノンファットミルクキャラメルフラペチーノウィズチョコレートソースらしい」
「上級魔法きたこれ」
毒にも薬にもならない、一時間後には忘却してしまうであろう程度の会話を楽しそうに交わす二人。
ウメとシャケは何とはなしに物陰に移動してカラ松たちの様子を窺った。十数メートルの距離はあっても、集音機能と読唇術で明瞭に聞き取れる。

「この新作、美味しい!カラ松くんも食べてみて」
カフェの期間限定ケーキに舌鼓を打ったユーリは顔を綻ばせた後、一口分をフォークでカラ松の口元に運ぶ。カラ松は自然に口を開け、ケーキを頬張った。恋人同士の間でよく見かけるやり取りである。
「うん、旨いな。これコーヒーに合うんじゃないか?」
「だよね!これ当たりだ」
ユーリは鞄からスマホを取り出し、トド松に写真を送信する。末弟とは近隣のカフェについて情報交換をしている仲らしい。
「あ、私ちょっとお手洗い行ってくる」
「オーケー、ハニー」
ユーリが席を立ち、カラ松は二本指で敬礼ポーズを取ってみせる。
店内に向かうユーリの後ろ姿を、カラ松はテーブルに頬杖をついて見つめていた。目を細め、緩やかに口角を上げて、彼女の姿が見えなくなっても、ずっと。ユーリ以外の人間は目に映っていないとでも言うように。
「デートかな?」
シャケが尋ねる。
「うん、どうもデートっぽいね」
「でもデートの定義に当てはまるかな?」
「じゃあお互いに異性の友人として遊んでるだけってこと?」
「そうは見えないよね」
堕落維持のためならいかなる障害も排除してニートを正当化する六つ子の人間性は自分たちでさえ熟知している。ユーリが知らないはずがない。その上でカラ松とどのような意図でどのような関係性を構築しているのか、非常に興味を引かれる。
「本人に聞いてみよっか?」
「当事者の発言ほど信憑性に欠けることはないよ。自分の目で見た方が確実だ」

じゃあ観察しよう。

その結果の、冒頭の発言である。




「却下」
そしてオムスビの提案は、即刻カラ松によって拒否される。眉はつり上がり、不愉快さを隠そうともしない。
松野家の二階にカラ松とユーリが揃っていると聞いて、シャケとウメは頭を下げに来たのだ。物理的には下げてないけれど。ソファに座る二人の前に正座はした。
「どうしてですか?お二人が出掛ける時に後ろからついていくだけです」
「その提案を喜んで許可する奴は頭おかしいだろ。可愛いブラザーの頼みでもこれは駄目だ」
カラ松は足を組み直して断固拒否の構えだ。ユーリが絡むと人が変わると他の六つ子に忠告されていたが、こういうところかとオムスビは納得する。
対してユーリはというと、苦笑するだけだった。嫌がるというよりは、困惑しているだけ。現状打破の鍵はユーリが握っていると判断し、ウメとシャケはターゲット変更を決意する───その矢先。
「何で私たちについていきたいの?」
「ユーリ」
「まぁまぁ、話ぐらい聞いてみようよ。ひょっとしたら納得できる理由があるかもよ」
「わけの分からん提案に説得力のある理由があるとは思えんが…」
嗜めるカラ松を笑顔でかわし、ユーリの視線がオムスビに向くので、ウメが口火を切る。

「童貞職歴なしニート穀潰し同世代カースト圧倒的最底辺かつ暗黒大魔界クソ闇地獄カーストの住人かつ厨二病サイコパスナルシストに惹かれる根拠が分からないんです」

「お前ら、オレに何の恨みがあるんだよ!」
カラ松は咆哮し、ユーリは絶句した様子だった。
「あ、補足いいですか?」
「え…ああ、はい、シャケ。どうぞ」
ユーリが発言の許可をするので、シャケは頷く。
「加えて、二十歳を超えた社会人として長所と呼べるところは一つもない。強いて言うならおだてられるのに弱い、つまり豚もおだてりゃ木に登るくらいじゃないですか、カラ松さんって」
「ボロクソすぎる」
「ほら、だから言っただろ、ハニー!頼み事という体でオレのメンタルかち割りたいだけじゃないか、こいつら!」
カラ松は声を荒らげる。ユーリはフンと鼻を鳴らして腕を組んだ。今度こそ、不愉快だという感情を体で示す。
「…うん、ごめん、私が悪かった。聞き捨てならない言葉を最後まで言わせたせいでカラ松くんを傷つけたのは、私が悪い」
苛立ちを含んだ静かな声は、オムスビに対してというよりは不甲斐ない自分へ矛先を向けているようだった。
「ユーリ…?」
「推しへの冒頭は許さないんだよね、私」
ふふ、とユーリは小さく笑い、すっくと立ち上がった。

一挙手一投足がフェロモンの塊で、可愛さと格好よさが絶妙な黄金比で成立してる生きるエロスであり、イケボとイケてる顔面持ちの当推しの、どこに魅力を感じないって!?
格好つけようとして尚更可愛さが加速するからもう可愛すぎる罪でお縄になるレベルだからね!
こちとら自宅に持って帰って抱き潰してぇんだよ!分かれ!

盛大なる心の叫び。先程までの愛嬌のある笑みは完全に消失し、見開かれた目は血走っている。
どうやら屈折した諸々があるらしいとオムスビは察する。ユーリの意外な一面を見たことで、幻滅するどころか一層関心を持つに至ったが、それ以上に興味を掻き立てられたのは───カラ松の反応だった。
「は、ハニー…その…そういうシャウトは止すんだ。唐突に言われたら、あの…オムスビが戸惑うだろ」
カラ松の顔はさながら茹でたタコだった。
「だってカラ松くんの長所ないとかオムスビが言うから!」
「わ、分かった、分かったから……オレが限界だから止めてください
片手で顔面を隠そうとするが、当然片側しか隠れない。カラ松がユーリに向ける感情は言うまでもなさそうだ。実に分かりやすい。第三者からも容易く想像がつくのに、ユーリは彼が突きつける想いに対して平然と対処している。それはなぜなのか。
「見た目だけじゃなくて性格だって…そりゃ六つ子の一味だからアレなとこ多々あるけど───相手の痛みを理解して、思いやれる人だよ」
毅然と放たれたユーリの言葉に、カラ松は目を瞠った。それから心底嬉しそうに、ふにゃりと相好を崩す。

「なるほど、少し分かりました。ユーリさんにとってカラ松さんは推しメンなんですね?」
「そうだね」
「恋ではないんですか?」
ウメの問いかけにギョッとしたのはカラ松だけで、ユーリは顔色一つ変えない。
「推しであっても、ガチ恋や同担拒否の人もいるからね。その辺は人によるとしか言えないかな。
私は推しを広めたいし、良さを知る人が増えてほしい派」
体よく誤魔化されたような気がしないでもない返答だった。

「ではやはり、一日お二人を観察したいです」
ウメとシャケは改めて顔を上げる。
「結論が唐突」
「お前らが来ると邪魔するだろ」
「後ろからついていくだけです、邪魔はしません」
「いるだけで邪魔になるんだ。オレはユーリと二人で出掛けたい」
「後悔はさせません」
「告白か」

「そういうのは期待値出せば解決する話じゃないの?」
インターネット上のあらゆるデータベースとオムスビ自らの知見をAIで総合的に判断する手法だ。効率がよく、おおむね正確な数値が弾き出せる。カラ松とユーリの言動、体温や脈拍の変化といった要因を加味すれば、まず回答に間違いないだろう。
「解決の最短ルートではありますが、ニートAIとなった今は闇雲に算出はしません。特に男女の機微については、大きな乖離はないにしろ数値からは見えないものも多い」
「僕らはその曖昧な部分を実体験で知りたいんです」

「漫才で客を掴むヒントになりそうだし」

シャケが余計な一言を口にして、一気に空気が変わる。カラ松の冷めた目線が突き刺さる。
「それが本音だろ」
「え、あー、今のは言葉の綾で───」
「ノンノン、ブラザー。オレを欺こうたってそうは問屋が卸さないぜ」
ああもう、とウメは少々苛立たしげにありもしない髪を掻く仕草をした。
「漫才は生物なんですよ。客層や前のコンビの結果次第で、別の会場では大ウケしたネタが外しまくることもあるシビアな世界なんだ。
人間観察して次に活かそうと思って何が悪いんですか?
「広くもない会場が無音になる恐怖は計り知れない」
シャケが続ける。
「帰れ」
腕組みの格好でカラ松は吐き捨てた。ユーリが絡むと反応がシビアになりがちだ。
両者一歩も譲らぬ攻防は長期化するかと思われたが、四人の中で唯一平常心を保っているユーリがオムスビに救いの手を差し伸べた。
「私は別に構わないよ」
「ユーリ!?」
何を言い出すんだと彼は驚愕を顔に貼り付ける。
「駄目って言ったら言ったで、見つからないように影からこっそり観察されるかもしれないでしょ。それならむしろ近くから見てもらう方が気が楽だよ」
「お二人が頑なに拒否されるようならその方針でした」
妨害のない二人きりの密な空間の中で行われる行為の方がより正しいデータとなる。
しかしさすがに道徳に反するだろうということで、最終手段まで格下げされた案だった。
「ほらね?」
ユーリは呆れを顔に表しつつ、カラ松に声をかけた。彼はなおも不満げにしかめっ面をしていたが、やがてユーリの愛らしい微苦笑顔につられて少し笑う。
「……今回だけだからな」
ようやく得られたイエスの回答に、ウメとシャケは顔を見合わせた。

あ、とユーリが声を出す。
「その代わり、交換条件があります」
ソファから下りてオムスビと目線を揃えた彼女は、右手の人差し指を立てた。
「交換条件?」
「そう。ウメとシャケにはすごく簡単なことだよ」
ニッと笑ってユーリは言う。

「同行中は当推しの動画をノーカットで余すところなく高画質で撮り、終了後はすみやかに私が伝えるクラウドにデータ保存すること」

「っ、ハニー!?何て!?」
「分かりました。そのくらいお安い御用です」
「オムスビ!?」
カラ松は慌てふためき、忙しなく視線を左右に向け、やがて観念したように片手で顔を覆った。彼が長い溜息をついている間に、オムスビとユーリの間で協定が結ばれたのである。




決行日は、デート日和の晴天だった。オムスビたちがカラ松に同行して駅へ向かうと、ほどなくしてユーリが足早に駆け寄ってくる。どちらも先日カフェで見かけたようなオシャレをして、にこやかに挨拶を交わす。

「いいかオムスビ、絶対に間に入ってくるんじゃないぞ。プロミスを違えた時は容赦しないからな」
カラ松は腰に片手を当て、蔑むような目つきでウメとシャケを牽制する。
「お二人の主観に関しては対処しようがありませんが、物理的にという意味でしたら約束しますって。このくだり何回目ですか、面倒くさいなぁもう
「オレは釘を刺してるだけだ」
「ちょっと、合流した直後から一触即発の空気止めて。一番面倒くさく思ってるのは私だぞおい


オムスビに対しては仏頂面のカラ松だが、ユーリには穏やかな微笑みを向ける。それこそ松野家では一度だって見たことない、興が乗って機嫌よく兄弟と会話している時でさえ作ったことのない、至福と表現して差し支えない顔だ。人間は顔のパーツの動かし方と強弱一つで、垣間見える感情がまるで違うものになる。
カラ松の要望通り、ウメとシャケは彼らから一定の距離を取って後ろに続いた。ときどきチラチラと窺うような視線を向けてくるのにも気付かないフリを装う。
「二人が気にしないでって言ってるんだからさ」
「しかし、気にするなと言われても土台無理な話じゃないか?」
顔をしかめるカラ松に、ユーリは間髪入れずに答えた。

「カラ松くんは私だけ見てればいいよ」

意図的に口にされた台詞だとウメは判じた。口が開く直前に細められたユーリの目には、愉悦が確かに含まれていたからだ。迷いなく毅然とした強い言葉は、年齢=彼女なし歴の童貞の心など容易く奪いかねない。
案の定、カラ松は面食らって耳を赤くする。
「…は、ハニー、そういう台詞をオレから奪わないでくれないか?立つ瀬がない」
「格好つけて言ってるわけじゃないからね。ウメとシャケは私が気にしておけば問題ないでしょ」
「だから、そうは言ってもだな───」
カラ松は苦笑して反論しようとするが、ふと立ち止まり、左手を素早く傍らのユーリ側に伸ばした。服の上から微かに彼女の腰に触れる。
「ユーリ」
低めの声で名を呼び、彼女と目を合わせる。
「…あ、そっか。ありがと」
ただそれだけのやり取りで、ユーリは彼の意図を察したようだった。ユーリはカラ松と立ち位置を変わり、ユーリが歩道側に立つ。
直後、カラ松の側を大型トラックが制限速度を超えたスピードで通り過ぎた。遅れて訪れた強風に彼の前髪は舞い上がるが、指を櫛代わりにさっと撫で付けてやり過ごす。
「気付くのが遅くなってすまん」
「そんなことないよ」
にこやかに答えてから、ユーリは後ろを振り返った。
「二人も大丈夫だった?あのトラック危なかったね」
「なぜですか?」
「え?」
言動で推測は十分可能だが、念のため意思も確認しておきたい。邪魔はしないと言ったが、対象から声をかけてきた分にはノーカンだ。
「今のカラ松さんの行動原理を教えてください」
「行動原理…」
「歩道側を譲ること、六つ子のみなさんにはしませんよね」
目配せの時点でユーリが認知したことも、その行為が日常的に繰り返されてきた事実を物語る。阿吽の呼吸というヤツだ。
「そりゃブラザーにはしないが…」
「なぜユーリさんだけなのですか?」
あからさまに動揺するカラ松。傍らでは訳知り顔のユーリがしれっと目を逸らしている。
「そ、そういうのをいちいち言うのは野暮だろ」
「それを知るための観察です」
ウメとシャケがじっとカラ松を見つめると、彼は羞恥と不愉快が混じった顔で睨み返してきたが、やがて根負けしたように口を開いた。

「…オレといる間は、危険な目に遭わせたくないからに決まってる」

ああ、やはり。
ウメは腑に落ちる。
「危ない目には遭わせないし、怪我もさせない。オレが怪我すればユーリが無事でいられるなら、代わりにだって喜んでなる。護衛を気取るつもりはないが、そういう覚悟は常にある……って、も、もういいだろ!ああもう、だから言いたくなかったんだ!」
カラ松は顔を赤くして咆える。
オムスビに背を向けて再び視線を戻したその先で───ユーリは微笑んでいた。
「…何だ、ハニーまで」
「ううん、何でも…ふふ」
「笑ってるじゃないか」
「ニコニコしてるって言ってほしいなぁ」
ユーリの笑みは優しい。カラ松からの八つ当たりも平然といなすので、向けた当人も毒牙を抜かれて次第に同じような表情になる。

「行くぞ、ブラザー」
そう言ってウメとシャケに背を向けた彼らは、あと数センチ近づけば手の甲が触れ合いそうなほどの距離になっていた。




次にオムスビを驚かせたのは、ユーリの変貌だった。

「カラ松くんってほんと似合う服多すぎ!
スタイルがいいからシルエットにはメリハリつけた方が断然イケてるし、何ならスタイル強調する服でも全然見栄えするのに、敢えてのオーバーサイズも似合うって何!?
抜け感で無自覚天然エロスを演出ってこと!?何それ最高すぎる、時代が推しに追いついた」
矢継ぎ早に語るユーリの様相は完全にオタクのそれだった。
双眸はいつにない輝きを放ち、次から次へと服を運んできてはカラ松に手渡して試着を強要する。彼が着替えるたびにスマホを構え、シャッター音が店内に響いた。ユーリの姿を奇異の目で見る者もいたが、大概は目を細めて微笑ましそうに眺めるだけだった。大好きな彼氏の服を楽しそうに選ぶ彼女という認識だったからだろう。
「オレが服を着るんじゃない…服がオレに着られるんだ。どんなクローズもそつなく着こなしてハニーを魅了してしまうとは、オレもギルティな男だぜ」
当初こそ気障ったらしく受け止める余裕を見せていたカラ松も、高いテンションで息をするように賛辞を垂れ流すユーリの勢いに飲まれ、言葉数が減るに従って頬に差す朱が濃くなった。
「ユーリ…分かった、分かったから、そのキュートなボイスのボリュームを少々ダウンさせてはくれないか。オレがいたたまれない
カラ松が今試着しているのは、腰回りを絞ったオフホワイトのタートルネック。総合的に鑑みて『似合う』と判じて差し支えないデザインとサイズ感である。ユーリは的確に彼に合う服を選んで持ってくる。

「ユーリさんはカラ松さんの良さを世に広めたいという考えですか?」
シャケが訊くと、彼女は強く頷く。
「うん、布教もしたい。
カラ松くんは露出に走りがちなんだけど、分かりやすい露出のエロスは面白くないの。本人無自覚のさり気ない露出にこそ色気は宿るから!
私はその限界に挑戦してる、と拳を握る。
なるほど分からん。
「推しの良さは世界的に広まっていいと思うんだよね」
「こういうのって、自分以外には見せたくない心境になるものじゃないんですか?」
いわゆる独占欲だ。執着と言い換えてもいいかもしれない。
「そういう人もいるね」
「ユーリさんは真逆ですよね」
シャケが言うと、彼女は我が意を得たりとばかりに双眸を輝かせる。
「だって本当に最高なのに、世に知らしめないって失礼だよ。いいものを広めたいと思うのは自然だと思うけど」
「他の女性に興味が移ったら悲しいんじゃないですか?」
さり気なく核心を突いてみる。この時の反応までの時間と顔色などに不自然な点があれば、動揺した証拠と受け取れる。ウメは目を光らせた。
だがユーリは薄く笑みを浮かべるだけだった。虚をつかれたような感じはまるで見受けられない。
「実際そうになったら一緒に過ごせる時間が少なくなるけど…でも……ほら、ねぇ」
曖昧に濁しながら、試着室の中のカラ松をカーテン越しにチラリと一瞥する。

「カラ松くんは、ないと思うんだよね」

ユーリはどこか居心地が悪そうに自分の首に手を当てる。
「と言うと?」
「んー、自分で言うと自意識過剰な感じがするからなぁ。ここはノーヒントで」

その視線の先には彼がいて。
カラ松を見ていれば分かる───彼女が言いたいことは、何となく察したのだった。




「ストライクなんて余裕ですよ」
座席に座りながらシャケが前髪を横に払う真似をする。天井近くに設置されたシャケのスコア画面には、ストライクを示すマークが五つ横並びだ。

カラ松とユーリはボウリング場にやって来た。引き続き観察に徹しようと思っていたオムスビに参加を打診したのはユーリだった。人数が多い方が盛り上がるからと、理由は至極単純なもので───結果、ウメとシャケがストライクを連発してカラ松の見せ場を奪っている。
ピンを倒せばいいだけのボーリングは、自分たちにとって容易なことだ。床や球の状況といった外的要因を把握し、球の回転とスピードを調節すればピンは倒れる。答えの決まっている計算式を解くようなものだ。
「オレの活躍の場は!?」
憤慨するカラ松のスコアも決して悪くはない。表示されているのはストライクにスペアといったマークか高い数字のみである。動揺によるフォームの乱れがなければもう少し高い数値を示せただろう。
「格好いいところを見せてユーリさんを惚れ直させたいんだよね」
「これは分かる」
「猿でも分かる」
ウメとシャケは顔を見合わせて頷き合う。カラ松の眉間に一層深い皺が刻まれた。ユーリは曖昧に笑う。
「二人ともすごいよ。でも残念…私、ただ相手を持ち上げるだけのステレオタイプじゃないんだよね」
自身のボールを手にして、彼女は不敵にほくそ笑む。

「私もガチでやるから」

見本のようなフォームで投げられた球は僅かなカーブを描いた後、全てのピンをなぎ倒した。ディスプレイに表示されるストライクの文字。オムスビとカラ松はスッと立ち上がる。
「オーライ、ハニー。オレに勝負を挑んだことを後悔しても知らないぜ」
「僕の敵じゃないですね」
「一ゲームでけりを付けてあげます」
勝負の幕が開けた。


一ゲームの個人戦。最も得点が低い者が敗者となり、敗者は勝者三名にジュースを奢る罰ゲームに決まる。
こうなるともう全員が無駄な出費から逃れるために思いやりや優しさといった相手への気遣いは完全に失われ、いかに敵の足を引っ張りスコアを下げるかに意識が集中する。
「お手並み拝見と言いたいけど、ストライク以外あり得ないよね?」
カラ松投球時、ユーリは顎を上げて煽る。
「ガター出せ、ガター!」
「勢いだけのゴリラは群れに帰れ!」
ウメとシャケに至っては拳を振り上げて野次を飛ばす。
ストライクを決めると罵詈雑言やブーイングの嵐。他のレーンが和気あいあいとボウリングを楽しむ中、賑やかなBGMに紛れて暴言が飛び交う自分たちのレーンはさぞかし異様な空気だっただろう。
連続ストライクで優位と思われるオムスビも、目隠しを強要されたりとハンデを負うことでスコアは大きく下落した。
得点は一進一退で、画面には百を超える僅差の数値が縦に並ぶ。

そして、ついに訪れた最終フレーム。不運にもユーリのピンは左右に一本ずつが並ぶ、スネークアイとも呼ばれる高難易度のスプリットが待ち受ける。プロボウラーでも成功率一%以下と言われ、実力だけでなく運の味方も必要だ。右端を狙い、ピンアクションでもう片方も倒す方法が一般的だが、如何せん難易度が高すぎる。
彼女はいつになく真剣な顔つきで前方を見据えた。オムスビとカラ松は固唾を飲んで見守る。
大きく息を吐き出すや否や、ユーリは大きく腕を振りかぶった。
結果は───


「クソが!」
阿修羅の如く顔を歪めたユーリが吐き捨てる。
彼女の最後の投球は空振りに終わり、ウメとシャケが一位二位を独占し、カラ松がそれに続く順位となった。結果こそ振るわなかったけれど、ユーリも健闘した方だ。
「お前ら全員タンスの角に足ぶつけろ」
「実質痛いのオレだけじゃないか」
カラ松が呆れ顔になる。
「オムスビには漫才スベリ続ける呪いをかける」
「AIロボットに非科学的な呪術で精神攻撃を仕掛けようとしても無意味ですよ」
「何それっ、可愛げがない!」
ユーリは自分の膝に拳を叩きつけた。
「善戦だったぞ、ハニー。特にオムスビの戦力を削ぎ落とす狡猾な手法はなかなかのものだった
それたぶん褒めてない。
ユーリは苛立たしげにくしゃくしゃと髪を掻き回した後、オムスビたちに視線を向けた。
「リベンジする。順位と得点差によってハンデつけて第二試合いこう」
それからカラ松に向き直る。
「で、何のジュースがいい?」
「一緒に行こう。自分で選びたい」
「三人ともめんたいコーラでいいよね」
「罰ゲームの意味をよく考えるんだ、ユーリ」
辛子めんたいコーラは実家の畳の味がすることで定評のあるジュースだ。コーラらしく炭酸もしっかりあり、喉が痺れる不快な痛みを感じるらしい。
苦虫を潰したような表情だったユーリは、カラ松のツッコミを受けて相好を崩す。つられてカラ松も顔を綻ばせ、彼らは一様に笑った。
そこに禍根は、ない。

「悔しくないんですか?」
純粋な疑問を投げかけた。
「何を?」
「リベンジと言う割には、次で絶対に見返してやろうという意気込みがもう感じられません」
カラ松とユーリはきょとんとして、示し合わせたみたいに互いの顔を見合った。
「これはゲームだろ」
「ゲーム?」
「真剣勝負はゲームを楽しむスパイスさ。わだかまりを残すのは二流のやることだ」
カラ松は腰に手を当て、意気揚々と語ってみせる。ユーリは答えなかったが、カラ松の回答に意義を唱えないところを見るに、同意見らしい。
「ハンデどうしよっか?カラ松くん左手で私は15ポンドとか?」
「翌日ハニーの腕が筋肉痛で使い物にならなくなるぞ」
「じゃあ13」
「そのハンデがフェアかの検証をしてからだな。ユーリの腕を痛めるようなハンデはリジェクトだ」
カラ松は球置き場から15ポンドを軽々と持ち上げ、首を傾げた。プロボウラーの半数以上は15ポンドを使っていると言われているが、七キロ近い重さは慣れない女性には適切ではないだろう。
「あ、じゃあカラ松くんは両手投げっていうのは?」
「ダサいフォームは嫌だ」
間髪入れずに拒絶の意を示すカラ松。検討の余地はないようだった。



日が暮れて世界が褐色に染まる頃合いに、オムスビたちは帰路に着く。夕飯はどうしようかと不意に投げられたユーリの言葉に、カラ松はハッとして彼女を見やる。何かを思い出した、そんな顔だった。
「オレとしたことが、マミーからのメッセージがあるのを忘れてたぜ」
嘆かわしいとばかりに溜息をつき、カラ松はゆるゆるとかぶりを振る。いちいち仕草が大袈裟だ。
「今夜は鍋をするから、良かったらハニーも食べていかないか?」
「え、私も?」
「一人二人増えたところで大して変わらないからだそうだ───もちろん、帰りは家まで送る」
「行く行く!喜んで!」
ユーリは両手を合わせた。

「カラ松さん、ユーリさん」
彼の言葉を遮ってウメが二人に声をかける。
「どうしたの?」
普通の女性だ、とウメは思う。
異性を惹き付けてやまないような魔性の華も、六つ子を統べるだけの特殊な身体能力やスキルもない。
けれど、カラ松が彼女に焦がれるのも理解できないわけではない。軽やかに見かえて冷静に進路を見定めている気骨のある人。時には強い口調で反論もするものの、一心にカラ松の幸福を願い、彼の笑顔を喜びとする献身さも窺える。真っ向から必要とされ支えられ続けて、惹かれないわけがない。

「今日はデートだったんですか?」
だから訊いてみる。答えは既に出してはいるけれど。
「デっ…!?…な、何を言い出すんだ、ブラザー!?」
カラ松が挙動不審になるのも予想の範囲内である。暗黙の了解とばかりに曖昧にしたがるのはなぜなのか。
「デート…」
ユーリは不思議そうにオウム返しをした。オムスビの出方を窺う巧妙な返事だ。回答はそれ次第だと言われた気がした。
「デートの定義は『好意を持っている相手とあらかじめ会う約束をして、二人で親密な時間を過ごすこと』です。
今日の外出はこの定義に当て嵌まるとお二人はお考えですか?」
カラ松の顔が一層赤くなる。
「え、その、それは───」
態度はこれ以上ないほど明瞭なのに、彼は言葉を濁そうとする。
しかし今回の躊躇はほんの僅かな間だった。腹を括ったのか、それとも無駄な足掻きと諦めたのか。いずれにせよ眉をキッとつり上げて口を開いた。

「デートだ」

きっぱりと放たれた言の葉。
「少なくともオレはそう思ってるし、これまでも思ってきた」
一方通行を示唆する表現だった。確信のない不安が微かに混じるのに、迷いはない。
「私だって、デートの意味くらい言われなくても知ってるよ」
カラ松の返事を受け、ユーリは呆れたように笑った。こめかみにかかる髪を人差し指で後ろに払う。「その上でのデートだよ、っていうのが私の答えかな」

その言葉を聞くや否や、カラ松はパッと表情を変えた。あまりにあからさまな変化は、理由を尋ねるのも馬鹿らしくなるほどだ。
「ユーリ…っ」
感極まるという表現が似つかわしい。今にも彼女の胸に飛び込んでいきそうな、そんな空気さえ醸し出していた。


判断に値する十分なデータは収集できた。期待値は出すまでもない。彼らがなぜこの関係に甘んじているのかは謎だけれど。
そんなことより、例のデータの撮れ高はどうなった?」
ユーリは突如真剣な顔つきでオムスビににじり寄る。ウメの目配せで、シャケが自身の腹のディスプレイの電源を入れた。画面には、スニーカーを履いて玄関を出るカラ松が映し出される。
「玄関スタートより余すことなく。恥じらう姿や笑う姿は自動ズームで撮影済みです」
「でかした」
ユーリは膝を叩く。
「教えていただいたクラウドにアップロードも完了しています」
「褒めて遣わす。さすがはオムスビ」
シャケの腹にうっとりと魅入るユーリを尻目に、ウメはカラ松の傍らに移動して一枚の写真を彼に手渡した。
「カラ松さんにはこちらを」
「は?言っておくが、オレはお前らに買収なんてされ───」
しかしその言葉が最後まで吐き出されることはなかった。ウメが渡したのは、ユーリが大きく口を開けて破顔する写真だ。太陽の光を受けて髪はきらめき、溢れんばかりの笑顔。切り取ったワンシーンには躍動感も感じられ、美しい絵だった。

「カラ松さんの言った冗談に対する反応時のものです」

カラ松はウメの手から写真を引ったくると、しばらく無言でじっと凝視していたが、やがて首から上をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げていた。
「…ま、まぁオレはジョークは上流紳士さながらのウィットに富んだものだからな。ハニーを笑わせるくらい造作もないんだ、分かるか、ブラザー。
だからこの写真をオレに渡したことはユーリには黙っておくように、アンダスタン?
顔を接近させてそう言い含めると、カラ松は繊細なガラス製品を扱うように胸ポケットに収納する。
「似た者同士だな」
「何か言ったか?」
「いいえ」


二人と別れ、ウメとシャケは松野家を去りながら溜息をついた。
「漫才の参考にはならなかったね」
「ね」
徒労に終わった一日を返せと思うのは、むしろオムスビたちの方である。アスファルトに伸びる長い影からさえ、途方もない疲労感が色濃く見えたのだった。

短編:二人がただ飲み食いするだけ

「コールド!トゥーコールド!」
白い息を吐き出しながらカラ松くんが身を震わせ、玄関に駆け込む。黒いモッズコートのフードは、雪のせいで僅かに濡れていた。


ショッピングモールでの買い物を終えた私とカラ松くんが数時間ぶりに外を出たら、空一面に広がる灰色の雲から雪がちらついていたのだ。今日は今年一番の冷え込みになりそうだと朝の天気予報で報道していたけれど、降雪は予想外だった。そのため私たちは、次に予定していた公園散策を急遽取り止め、徒歩圏内にある我が家へ避難することにしたのである。
玄関でアウターの水滴を払い、二人分の上着をコートハンガーに掛けた。それから私が先に部屋に上がり、明かりと暖房をつける。風量は強に設定。家を出て数時間の間に、部屋はすっかり冷え切っていた。

「ユーリ、戦利品はここに置いていいか?」
カラ松くんが紙袋をフローリングに置く。今日買った服が入った袋を、彼は購入直後から持っていてくれた。
「うん、ありがとう。適当にその辺でいいよ」
カラ松くんは私の返事に頷いた後、リビングの掃出し窓から外の様子を窺った。レースカーテン越しにも今なおはらはらと舞う雪が見える。
「スノー、か。冷えるはずだ」
そう言う彼の出で立ちは、Vネックの白い長袖ニット一枚。袖はしっかり捲っているから、そりゃ寒いわとツッコミの一つも入れたくなる。
でも上半身のラインが出てたまらん色香を放ち、これはこれでオイシイから黙っておく。冬場の推しの色気は貴重だ。
「ほんと寒いね。何か温かいもの入れようか」
暖房が効くまではしばらくかかりそうだ。
「コーヒーならオレがやるぞ、ハニー」
カラ松くんにとっては勝手知ったる我が家のキッチンである。すっかり第二の自宅だな、と笑いそうになった。
スマホで時刻を確認して、私は唸る。時刻は午後四時半になろうかという頃合いだ。
「コーヒーだけだとお腹すかない?」
「しかし二時間もすればディナータイムになるだろ」
その言い方は、私の質問を肯定しているようにも受け取れた。つまり、空腹を感じてはいるものの、おやつをしっかり食べるのは躊躇する微妙な時間と感じているのだろう。
「晩ご飯は調節すればいいよ」
冷蔵庫にある食材で作れば、献立や量を調節しやすい。費用も抑えられて一石二鳥だ。

「温かいもの用意するね」

コーヒーは手軽だ。インスタントならカップに粉末と湯を注げば数十秒で完成するし、血行を促進して体を温めるカフェインが含まれている。だが反面で利尿作用があり、トイレに行く回数が増えて体内の水分が出ることで体温が下がるとも言われている。
リビングのローソファに背を預けタブレットを眺めているカラ松くんを横目に、私はキッチンの棚からピュアココアの缶を取り出す。ミルクパンにココアの粉と砂糖、少量の水を加えた後、ペースト状になるまでスプーンで練る。三つの材料がよく混ざったら、牛乳を加えてコンロの火にかけた。
「ユーリ?何か作るのか?」
リビングからカラ松くんの声がする。
「すぐできるよー」
アルミ製ミルクパンは火の通りが早い。二人分の牛乳が沸騰直前の温度まで上がるのは瞬く間だった。ココアのペーストは跡形もなく溶けて、美しいえんじ色になる。カカオの香ばしい匂いが換気扇に吸い込まれていく。

色違いのカップに注いで、カラ松くんの待つリビングに運ぶ。彼は私が着くなり、鼻を鳴らした。
「サンキュー、ハニー。それは……チョコ、じゃないな。ココアか?」
「当ったりー。カラ松くん仕様で、ほんのちょっと砂糖控えめにしてみました」
カラ松くんの隣に腰を落ち着けて、マグカップに両手を添える。冷えた手に温もりが伝わって心地良い。
お茶請けには、いちごジャムがのったロシアンクッキー。我ながらいいチョイスだと内心で自画自賛する。
カラ松くんは何度か息を吹きかけた後、カップに口をつけた。
「───旨い」
目が瞠られる。
「ココアなんて久し振りだからもっと甘ったるく感じるかと思ったが、普通に旨いな。一気に飲めそうだ」
「クッキーにも合うよね」
生地のサクサク感と粘度の高いジャムのハーモニーが絶妙だ。ドリンクも菓子も甘いのにしつこさはなく、スッと喉に通る。寒さと長時間の移動による適度な疲労感で、脳が糖分を欲していたのかもしれない。
「ココアのポリフェノールとかテオブロミンっていうのが、血管を広げて体を温める効果があるんだって」
「へぇ、理に適ったドリンクなんだな」
素直に感嘆する推しの可愛さプライスレス。
「…それに」
カラ松くんは私を見てはにかむ。

「ユーリがオレのために入れてくれたものだから、余計に旨く感じるんだろうな」

飲み物一つにも虚勢を張りたがり、やれ男は黙ってコーヒーだのブラックだのとのたまう彼に、甘い物を飲ませてみたかった。鼻を明かしてやろうという意図も、なかったとは言えない。
結果的に事は上手く運び、晴れやかな笑みを引き出すことに成功した。マグカップの中身は数分もせず空になり、当初の思惑以上の成果は出たと言える。ギャップ萌えはいつの時代も鉄板。




その晩、私は物音で目を覚ました。カーテンの隙間から入り込む僅かな街灯の光が、ローソファから上体を起こす人影を照らす。布の擦れる音が小さく響き、私の意識を現へ呼び戻した。
「…カラ松くん?」
ほとんど条件反射で名を呼ぶ。私の他に室内にいる人間は、彼しかいなかったからだ。電気のスイッチを入れたら、やたら眩しくて目を細める。
私たちは例によって夜に酒を飲み、寝落ち同然に意識を失った。飲みかけのアルコール缶と食べかけのつまみはテーブルに散乱したままで、私と彼の出で立ちは帰宅時と同じ外出着、私に至っては化粧も落としていない。カラ松くんが眠った後に少し横になるだけのつもりが、うっかり熟睡してしまった。電気を消している時点で寝る気満々だった気がしないでもないが。
「ハニー…すまん、起こしたか?」
カラ松くんが申し訳なさそうに眉を下げたのは、その瞬間だけだった。壁掛け時計を一瞥してすぐ、溜息混じりに腕組みをする。
「──というか、オレに非があるのは百も承知で言わせてもらうが、放置せず起こすなり何なりしてくれ。その…なし崩し的に泊まってしまうのはやはり、道徳的にだな…」
彼の眉間に皺が寄る。私は瞬時に悟った。説教へのカウントダウンである、と。
貞操観念どうなってるんだ身持ちは固くあれだの、お前が言うな的なテンプレ説教はもはや耳にタコなのだ。それに対して返す私の台詞も、既にお決まりとなって久しい。いい加減説教の効果は希薄どころかゼロに近いことを学習してくれと切に願う。
私はベッドの端に腰を下ろし、これから始まる小言に早くも辟易した。
「いいか、ユーリ。ユーリは自分の魅力を───」
しかし、彼の言葉はそこで途切れる。

カラ松くんの腹が、ぐぅと大きな音を鳴らしたからだ。

私は目を見開き、彼は反射的に自分の腹部に手を当てた。聞き流すにはあまりに大きな音だったから、説教の中断もやむなしだ。
「……あ」
「お腹すいた?」
私はカラ松くんに尋ねる。
というのも、空腹を満たす夕食は摂っていなかったのだ。クッキー以降口にしたのは、つまみとして用意した乾き物だけだった。腹が減れば後でラーメンなり丼なりを作ればいいという考えでいたけれど、その前に眠ってしまったから。
「…すいた」
気勢を削がれたみたいにカラ松くんは呟いて、地面に視線を落とした。
「だよね。ごめん、ちゃんとご飯用意しなくて。簡単なものでよければ用意するから、少しだけ待ってて」
「や、待て、ユーリ!オレはそういうつもりじゃ───」
立ち上がろうとする私を慌てて止めようとするので、カラ松くんの唇に人差し指を当てて黙らせる。
「私もお腹すいたからさ、夜食付き合ってよ」
一人で食べるのは味気ないしね、と付け加えて言えば、カラ松くんの表情は晴れやかなものになった。ぱぁっと、明かりが灯るように。
「そ、そうか、ハニーもハングリーだというなら致し方ないな」
「炊飯器に昼間炊いたご飯があったと思うんだよね」
「カップラーメンがあるか?あれならユーリの手を煩わせないし、オレはそれで十分だ」
「駄目」
私は首を横に振る。
「カラ松くん、おそ松くんたちと夜食にカップラーメンよく食べるって話してたでしょ。頻繁だと体にも肌にも悪いよ」
松野家では夕食のおかずやご飯は八人で食べきってしまうため、夜食となると必然的にパンやインスタントになるらしい。食べ盛りの男が六人もいれば、さもありなん、である。
しかしここは松野家ではない、私の家だ。

「あ、ユーリ!」
キッチンに向かう私を、カラ松くんが呼び止める。
「何?」
振り向くと、カラ松くんは気恥ずかしそうに明後日の方向を向いていた。あぐらを掻いた背中は少し丸まっていて、彼の感情を物語る。
「……ありがとう」

深夜の推しも尊い。


卵を割って出汁と刻みネギと混ぜ合わせたものを、熱したフライパンに投入して形を整える。ネギ入り卵焼きだ。
それから炊飯器に残っていた白米をボウルに入れ、瓶詰めの昆布の佃煮を中央に入れた大きめのおにぎりを二つ握る。合間にフライパンでウインナーを焼きつつ、フリーズドライの味噌汁にケトルの湯を注いだ。
所要時間は十分ほどだっただろうか。おにぎりと卵焼き、ウインナーをプレートに載せ、その傍らに湯気の立つ味噌汁という完璧な夜食の布陣。それをカラ松くんの待つリビングに運んだ後、自分用に冷蔵庫から低糖ヨーグルトを取り出す。

「えっ、これオレ食べてもいいの!?夜食にしては豪華すぎないか!?」
推しの艶肌を守れるなら喜んで栄養提供しますとも。
そんな本音を唾液と共に飲み込んで、冷えた麦茶を手渡す。
「そう言ってもらえると用意した甲斐あるなぁ。カップラーメンよりは腹の足しになると思うよ」
「比較にならないだろ───いただきます」
礼儀正しく両手を合わせ、カラ松くんはおにぎりにかぶりついた。私の両手には余る大きさで作ったそれは、たった一口で半分が彼の口に収まる。リズミカルに動く顎と手を見つめていたら、カラ松くんが口を開いた。
「旨い!」
躊躇いのない弾む声。
「ユーリというシェフに気付かないミショランの目が節穴すぎる」
卵焼きを噛みながら、感慨深げにカラ松くんは言う。称賛が桁違いすぎて身に余るレベルを余裕で超えてくる。
けれど彼は、それこそ目を輝かせながら私の料理を旨い旨いと食べてくれるので、毎度のことながら本当に作り甲斐があり、作らせてほしいとさえ思わせる反応は作り手冥利に尽きる。

味噌汁の椀の縁に口をつけたカラ松くんが、ぽつりと呟いた。
「それに…この旨さはきっと、背徳感もスパイスになってる」
「深夜に食べてるから?」
私を見て、彼はニッと目を細めた。含みのある、何か良からぬことを目論んでいる時の笑みだ。
「ブラザーたちがマミーのトラップをかいくぐってカップラーメンにありつこうという時に、オレは誰にも奪われる心配なく、美しく可憐なハニーの手料理に悠々と舌鼓を打っている。優越感しかない」
トラップというパワーワード。
「オレは階段のとりもちからの脳天ハンマーで即死だったこともあるからな」
確実に殺しにいくスタイルのトラップ。我が子とて容赦しない松代マジ松代。
「まぁ、それくらいハニーの料理は旨いとオレが感じてるということだ」
上手いことまとめてきおった。




翌朝八時を過ぎる頃、携帯のアラームによって強制的に起床を促される。
夜中に一度目覚めているためか気怠さが重しとなって頭に伸し掛かり、私を再び布団へと誘おうとするから、誘惑を跳ね除けて体を起こす。規則正しい生活に体が馴染んでいるせいか、体内時計が大幅に狂うと体調に支障が出やすくなるらしい。
しかし、ソファですやすやと寝息を立てているカラ松くんを目で捉えた瞬間、私の意識は完全に覚醒した。足音を殺して傍らで膝を折る。寝起きのカラ松くんは可愛さの化身だ。貞操を狙っている人間の家で熟睡するなど、食ってくれと言っているようなもの。私の無警戒さを詰る前に、自分の警戒心のなさを顧みるべきではなかろうか。

「でも…もう逃げられないよね?」
私から。
言い訳をして口実をつけ、距離を詰めた。じわじわと追い詰めて絡め取って、けれど逃げ道は残して、選択を彼自身に委ねた。彼は自分の選んだ道だと信じて疑っていないだろう。
全部、私が敷いたレールだと知る日は───永遠に来ない。
「なーんて」
私は肩を竦める。それほどの人心掌握術を備えていたら、今頃は巨万の富を築けていたに違いない。
私の行動原理は単純で、推しが幸せであること、その幸せを自分の意志と力で掴み取ってもらうこと。それだけだ。私は助け舟を出すだけ。
「諦めて私に捕食されるのが一番幸せかもよ」
笑って、カラ松くんの髪を撫でた。

私が朝食の用意をしていると、コンロの着火音でカラ松くんが目を覚ました。
「ん…」
寝惚け眼を手の甲で擦りながら、緩慢な動きで上体を起こす。眩しそうに目を細くする仕草が、不愉快そうな表情を作っていた。彼のそんな顔つきは起床時の一時的なもので、見るたびに悶絶しそうになる。マジで沼。
「おはよう、カラ松くん」
料理の手を止めてリビングに顔を出すと、彼はまだ虚ろな目で私をじっと見やった。
「もう朝か…」
後頭部に寝癖ができている。
「おはよう、ハニー」
ふにゃりと相好を崩して、どこまでも穏やかな声音で。格好つけようとか威厳を見せようとかいう一切の虚勢を取り払った笑顔が私に向けられる。眩しくて直視できない、推しの無垢な笑顔は国家予算に匹敵する価値。
「あと数分で朝ご飯できるからね」
「ん、分かった。手伝う」
カラ松くんは大きなあくびをしてから、のそのそと起き上がった。ジャージパンツと裸足の組み合わせって何でこうもエロイのか。新しい性的嗜好の扉が開く音がする。
開幕数秒で語彙力尽きるほどの怒涛の色香に、早くも正気を失いそうだ。足首撫で回したい。
「ユーリが起きた時にオレのことも起こしてくれていいんだぞ。ゲストとして甘える気はない」
ベテランニートにあるまじき模範的回答だ。
「カラ松くんの寝顔が可愛すぎるから、起こすのもったいないんだよ」
正直に答えたら、彼は目を剥いた。両耳が一瞬で赤く染まる。
「そ、そうやってオレをからかうんじゃない!」
「からかってないよ。今朝も動画と写真しこたま撮らせてもらったし…あ、何なら観る?我ながら最高の絵が撮れたよ」
「いいっ、見ない!というか、いつの間に!?」
侮ってもらっては困る、レアスチル発生イベントを逃す私ではない

コンロで火にかけられている鍋をカラ松くんが覗き込んだ。
「何を作ってるんだ?」
「あんかけうどんだよ」
「うどん?」
「うん。大根おろしのあんかけうどん。食欲なくても食べやすいし、大根は二日酔いにも効くっていうしね」
大根おろしを作るのは手間だが、事前にすりおろしたものを冷凍しておけば、鍋に放り込むだけで済む。同じ鍋でだし汁とうどんを煮込み、最後に片栗粉でとろみをつければ完成だ。包丁不要の時短メニューである。
最後に、半丁サイズの絹豆腐を手のひらで半分にカットして醤油をかけ、冷奴を小皿に添えた。
「おお、旨そうだ」
「美味しいよー」
私がうどんを盛った器をテーブルに置く傍らで、カラ松くんが箸を並べる。
両手を合わせて挨拶の言葉を口にしたら、彼は片手でうどん鉢を持ち上げて思いきり麺を頬張った。小気味好い音を立ててうどんを啜り、満足げに口角を上げつつ咀嚼していく。
合間に冷奴を口に含み、一人前のうどんはあっという間に彼の胃袋に収まった。仕上げとばかりにコップの麦茶を一気に飲み干して、完食である。

「こういう料理を自然に出せるのは尊敬する。ハニーはいいワイフになるな」
私の器にはまだ半分ほどの麺が残っている。
「休みだからだよ。平日の朝ご飯なんて時間ないからトーストとかコーンフレークとか簡単なものだし。それに…」
「ん?」
カラ松くんが首を傾げる。

「カラ松くんには美味しい物を食べさせたいから」

私の独りよがりだとしても。
「餌付けみたいなもんかな」
私は微苦笑で肩を竦めた。彼が私の料理を好めば、私たちが会う口実の一つとなり得る。
「言葉を返すようだが」
カラ松くんは真っ直ぐに私を見据える。

「餌付けなら、とっくの昔にされてる」

「あ、そうなの?」
「ユーリの作る料理は何でも旨いからな。店を出したらミショランの星は確実に獲得できる。オレなら毎日でも通うぞ」
「ふふ、嬉しいな。おばさん料理上手だから、ちょっと対抗心みたいなのはあったんだよね」
松野家の朝食は基本的に和食だ。主菜と汁物と香の物という品数を毎日用意するのは労力を必要とする。限られた予算の中で栄養バランスにも配慮し、ニート六人全員が標準体型を維持できている事実も、彼女の料理スキルの高さを裏付ける。
なのにカラ松くんは、一度たりとも私の料理をおばさんのとは比べなかった。比較されたら結果は明らかにも関わらず、母親の味付けを引き合いに出すことなく、いつも手放しで私の料理を褒めてくれる。
「マミーはマミー、ユーリはユーリだろ?
確かに慣れた味というのはあるが、ユーリの手料理はどれも掛け値なしに旨いと思ってる。そもそも、ユーリに料理を作ってもらえるだけで…オレは幸せだ」


自分のために作る料理は味気ないものだ。材料の時点で味は大方想像がつき、驚きも意外性もない。自分で作って自分で消費するサイクルは早い段階で食傷する。年数の経過と共に作り手としての意欲を失い、外食や惣菜で空腹を満たす人が増えるのも頷ける。
「私、カラ松くん相手に料理作るの好きだよ。食べっぷりいいし、何でも美味しく食べてくれるし」
我々は、食事に関しては需要と供給のバランスが取れているように思う。
「喜んで食べてくれる人がいるっていいね」
「ユーリ…」
「供物を捧げれば捧げるほど、推しの血となり肉となる
「一気に殺伐とした雰囲気に」
事実ですから。
「しかしまぁ、振る舞ってもらうばかりなのはオレの性に合わない。ギブアンドテイクが成立してこそフェアな関係だ」
カラ松くんは腕を組み、物憂げな表情で眉間に皺を寄せた。それから突然背を正し、ニッと笑う。
「次の週末は、オレがユーリをもてなそう。我ながらナイスアイデアだな。どうだ、ハニー?」
「料理できるんだ?」
彼が実際に包丁を握る姿は見たことがなかったから、その発言は意外だった。知り合って一年近く経つけれど、まだまだ知らないことも多い。
「できるともさ!オレを誰だと思ってるんだ、松野カラ松だぞ」
片手を胸元に当てて鼻を鳴らす。見栄ではなく、過去の経験に基づく自信が感じられた。
「じゃあごちそうしてもらおうかな。楽しみにしてるね」
私はにこりと微笑む。享受した同じ分だけ返そうとする気持ちだけで十分嬉しいから、プレッシャーはかけたくない。
「任せろ!」




キッチンからジュワジュワと油の跳ねる小気味好い音が響いてくる。加えて換気扇のプロペラ音、不規則な足音や蛇口からの流水音も混じり、多様な音の重なりは演奏にも似て、ちょっとしたオーケストラのようだ。

カラ松くんに料理を作ってもらう日は、思いの外早々に訪れた。彼らの起床より前に両親が出払い、置き手紙と共にランチ代として三千円があてがわれたが、一人当たりワンコインでは外食はままならない。頭を抱えていたところ、私との約束を思い出したカラ松くんがこれ幸いとコックとして名乗りを上げた流れである。
私が昼前に訪ねた時、カラ松くんは既に調理に取り掛かっていた。推しのエプロン姿が尊すぎて吐血しかけた。エプロン装備によりストイックさ微増と同時に可愛さがカンストし、脱がせたい衝動に襲われる。参加者私だけの耐久レースの開幕だ。
「手伝わなくていい?」
「オフコース!ハニーは今日のメインゲストだからな。ビッグシップに乗ったつもりで待っててくれ」
カラ松くんはウインクしながらのサムズアップ。泥舟フラグかな?
「そうだよ、ユーリちゃん。カラ松が全部やるってんだから、俺らはこっちで大人しく待ってようぜ」
おそ松くんが私の肩を叩き、居間に敷かれた座布団への着席を促す。既に他の四人は円卓を囲んで昼食提供待ちの姿勢だ。卓上には七人分の箸とコップが並べられている。
「もうすぐ完成だぜ、ハニー!乞うご期待!」
軽やかなステップでエプロンの裾を翻すカラ松くん。もう普通に可愛い。抱かせろ。

おそ松くんに背中を押されて、ちゃぶ台の前に座る。普段料理を作って出す側なので、出来上がりを待つのは手持ち無沙汰で落ち着かない。六つ子たちに話しかけられれば応じるものの、無意識に台所に視線を向けてしまう。
台所に繋がる障子は開放されていて、悪戦苦闘するカラ松くんの後ろ姿がチラチラ窺えた。
「大丈夫だよ、ユーリちゃん。カラ松はああ見えて変な物は出さないと思うから」
そんな態度を料理スキルへの不安と受け取られたのか、チョロ松くんが宥めるように私に言った。傍らの一松くんが我が意を得たりとばかりに頷く。
「そうそう。相手がおれらだけならともかく、他ならぬユーリちゃんがいるしね。いい顔したいに決まってる」
「ユーリちゃんの好感度上げたいってのは、ぼくも分かるなぁ。
優しくてもメリットどころかデメリットしかないこいつらには、その辺の草でも食っとけって思うのに、不思議だよね」
とびっきりの笑顔で毒を撒き散らす末弟。兄弟に対して容赦がない。
そうこうしているうちに十四松くんがトランプに誘ってきたので、私の思考は逸れる。カード裏面に描かれた天地のない幾何学模様に、意識が吸い込まれるようだった。


「待たせたな、ハニー&ブラザー!フィニッシュだ!」
何度目かのポーカーの決着がついた時、カラ松くんが台所から顔を覗かせた。彼が両手に持った丼からは白い湯気が立ち上る。醤油ベースの甘辛い匂いが居間に広がり、誰かの腹がぐぅと鳴った。何とはなしに壁掛け時計に目をやれば、正午を少し回った頃だ。
「やった、俺もう腹ペコだよカラ松ー!」
「へー、結構旨そうじゃん」
おそ松くんとチョロ松くんが彼の手元を覗き込み、感嘆の声を漏らした。
「フフン、そうだろうそうだろう。このオレが手によりをかけて作ったんだ。ヤミー以外の感想はないに決まってる」
鶏もも肉とナスを甘辛く味付けしたスタミナ丼だ。ふっくらとした鶏もも肉に施されたコーティングの艶が食欲をそそる。小ねぎを彩りとして加えることで、茶色一辺倒の色合いも引き締まっている。
丼は工程が少なく、味付けもそう複雑ではない。失敗するリスクが小さい初心者向けメニューだ。その上満腹感も出るから、一人暮らしではとても重宝する。

「いただきます」
片手に丼、片手に箸を握って、もも肉と白米を口に運ぶ。胃を刺激する香りと味が口の中に広がって、私は感嘆の息を漏らす。砂糖醤油が絡まった少し硬めの白米は噛みごたえがある。
「んー、美味しい!」
次の一口を放り込みつつ、私は声高に告げた。箸を握りながらもそわそわと落ち着かない様子だったカラ松くんの頬が、ぱぁっと上気する。
「ほ、本当か、ハニー!?」
「うん、これご飯すごく進むね。いくらでも食べられそう。
カラ松くんの手作りってだけで美味しい要素しかないのに、それ抜きにしても美味しいよ」
甘辛い味の中に時折ピリッとした程よい辛味も感じる。豆板醤かコチュジャンを混ぜたのだろう。絶妙な辛さがアクセントとなり、箸が進む。
「確かに旨い」
「兄さん、ぼくお代わりー!」
おそ松くんが首を縦に振り、十四松くんは空になった丼を高く掲げた。カラ松くんが破顔する。
「オーケー、特別だぜブラザー」
少しだけなら余っているからと、カラ松くんは立ち上がって台所に向かう。
他の面々にも味は概ね好評で、限られた予算内で及第点の料理を作るミッションをこなした次男の評価は確実に上昇したようだった。

「これからは母さんたちがいない時は、カラ松兄さんが料理作る担当になったらいいんじゃない?」
食事を終えて一息つき、洗い物を終えたカラ松くんが戻ったのを見計らうように、トド松くんがぽつりと言った。
「それいい」
「適材適所ってヤツか」
「カラ松の今日の料理、結構良かったしね」
名案だと指を鳴らす面々。そうきたか。
功績を称えると見せかけた面倒事の押し付けだ。頼まれたら断れないカラ松くんの弱点を突いた巧妙な手口。
さすがに看過できず、口を挟もうとした───その瞬間。

「え、無理」

カラ松くんがきょとん顔で拒絶した。
「ユーリに頼まれればいくらでも作るし、頼まれなくても作りたいと思うが、何でオレがお前らのために台所に立たなきゃならないんだ?
お前らがオレの立場なら作りたいと思うか?そういうことだ
容赦なき一刀両断。
バッサリ切り捨てられるとは予想だにしていなかったのか、五人は揃って気不味そうに言葉を濁した。飯が絡むと性格が変わるタイプの次男坊。

「ユーリはいつでも言ってくれ。オレ、レパートリー増やしておくから」
私には全開の笑顔を見せるカラ松くん。超絶かわいい。




午後からは、暇を持て余す六つ子に付き合って松野家に残った。一松くんは親しくしている猫の訪問、十四松くんは日々のルーティンである野球の練習のためと、途中で数名が離席。私のことを客人として扱わなくなって久しいため、特別予定がない場合、彼らは自身の予定を優先することも多い。
一時期話題になった映画の放送があるからとトド松くんがテレビの電源を入れ、居間に残った面子が画面に視線を向ける。序盤は登場人物の紹介を兼ねた静かな幕開けだった。各キャラクターの不穏な言動や一枚岩でない関係性に、波乱の展開を予感させる。

既に一度視聴済みだった私は早い段階で集中力が切れ、傍らのカラ松くんに耳打ちする。
「カラ松くんの手料理が食べれて、嬉しかったよ」
彼の背がピンと伸びた。
「…オレも、ユーリが言っていた『喜んで食べてくれる人がいる』ことにやり甲斐がいを感じる気持ちが分かった」
気恥ずかしそうに人差し指で口元を掻いて。
「ユーリには手料理を振る舞ってもらうばかりだったからな。愛情はたっぷり込めたぞ」
「だからあんなに美味しかったんだね」
「料理なんて手間で面倒だと思ってたが、ユーリのためなら楽しいな……また作るから食べてくれ」
断る理由がない。私は大きく首を縦に振った。
「材料費出すからお願いしようかな。
でも経費だけで推しの手料理が食べられるなんて…これはもはやほぼ無課金。つまり無課金で推しの手料理がたらふく胃袋に……無課金勢なのに私利私欲を満たしててすみません
「何で急に卑屈に!?」
「推しに金を使うために働いてるのに!」
「働く目的を見誤るのはデンジャーだぜ、ハニー…」
ベテランニートに諭された。

がっくりと項垂れる私を、トド松くんが呆れた目で一瞥する。カラ松くんとの会話に聞き耳を立てていた──立てるまでもなく聞こえる音量ではあったが──のはおそ松くんとチョロ松くんも同様だったらしく、一同に顔を歪めていた。
「…ユーリちゃんってさ、カラ松兄さんの扱いに関しては達人だよね」
トド松くんが円卓に頬杖をつく。
「匠と言っていい」
おそ松くんの形容に、チョロ松くんとトド松くんが苦笑する。三男は気怠げにテレビを見つめながら、何かを追い払うみたいに右手首を振った。

「一つ疑問があるとすれば───これだけ平然とイチャつくのに、二人が付き合ってないということだ」

私とカラ松くん以外が、「それな」と一斉に同意した。

短編:青から青を

推しをイメージする、または推しを連想させる色のことを『推し色』と呼ぶ。
推しの存在をさり気なくアピールしたり、物理的距離だけでなく下手すれば次元さえも離れた推しを身近に感じるために普段使いのアイテムに取り入れたりと、活用の幅は広い。例え間接的にでもすぐ側に感じられる推しの存在に、人は活力を得る。
たかが色、されど色、それが推し色だ。




「こっち……んー、でもこれだと微妙に似たヤツ持ってるし。となると、ちょっとテイストを変えてチャレンジすべきか…」
場所は大衆向けアパレルショップのメンズコーナー。ハンガーに掛けられたデザイン違いのトップスをそれぞれ両手で持ち上げて、私は唸った。
甲乙つけ難い物を前にすると、判断力は著しく低下する。しかもどちらの在庫も最後の一点限り。今買わなければ後悔するのではと疑心暗鬼に駆られ、店のマーケティング戦略にまんまと嵌っている。
「ユーリ」
眉間に深い皺を刻む私の右耳に呼び声がかかる。思考を中断し、声の方へ顔を向けた。
「あ、カラ松くん」
本日私は、当推しであるカラ松くんの秋服選びに同行している。否、させていただいている。
カラ松くんの私服はほぼ把握している上、本人の魅力を最大限に引き出し、かつ第三者からも高評価を得る組み合わせを提案し続けてきた実績が認められ、最近は自他共に認めるカラ松くん専属コーディネーターなのだ。私のチョイスが公式に認められる喜び、プライスレス。
そして当推しは今日も今日とてグレーのVネックシャツにネイビーブルーのカーディガンを重ね、ボトムスは黒のスキニーデニムと、シンプルながらに彼ご自慢のスタイルが際立つ装い。姿勢が良いこともあり、とにかく映える。自然体が放つエロスこそ至高。ゴチです。

「なぁ、これなんかどうだ?」
頬を上気させた嬉々とした表情で彼が突き出したのは───赤のネルシャツだった。
カジュアルさを演出する羽織としては定番で、単色のインナーと相性がいい。コットン100%で肌触りも良いことに加え、カラ松くんが持ってきたのは腰回りを絞った作りだ。柄も赤と黒で悪くない。
「うん、いいと思うよ。カラ松くんがよく着る黒のインナーとも合うね」
「だろ?フッ、数多の服があろうとも、定められしデスティニーに導かれるように常にベストなチョイスをしてしまう…オレ!」
「ちょっと試着してみてよ」
気取ったカラ松節はスルーを決め込んで、カラ松くんに試着を促す。松野家において赤は長男のイメージカラーだが、なかなかどうして次男にも似合う。
「ボタン留めてもいい感じ。着丈も長くないし、ウエスト絞ってるから後ろ姿もエロ───エロい
「何で言い直しかけて同じこと言った?」
大事なことなので。くびれから尻にかけての絶妙なラインは実に蠱惑的で、隙あらば撫で回したい。
「ネルシャツはパーカーの上から着てもオシャレなんだって」
「逆じゃなくてか?」
「そうそう。だいぶカジュアル寄りになるけど、そういう着方もあるみたい」
きれいめを好むカラ松くんからは逸れた組み合わせだけれど。
「…詳しいんだな、ユーリ」
カラ松くんが眉をひそめる。声のトーンが明らかに落ちた。他の男の影を感じたが故の反応なのだろう。
私は鈍感を装ってにこりと微笑む。
「カラ松くんに何が似合うかを考える過程で、色んなジャンル学んでるからね」
「オレの…?」
僅かに目が瞠られる。彼の視線は一瞬足元に落ちて、私の言葉の意味を咀嚼しているらしかった。
「そうか、オレの……な、ならハニーがメンズファッションに詳しいのも腑に落ちるな。そうまでしてオレの隠しきれない魅力を誇示したいハニーの心意気、無下にはしないぜ」
それは僥倖。

その後もしばらくはああだこうだと議論を交わし、最終的にカラ松くんは私が太鼓判を押したネルシャツを購入する。自動ドアをくぐる彼の足取りは軽く、傍目にも分かるほど頬を緩ませていたから、私もつられて気分が高揚した。

カラ松くんの独創的かつ壊滅的なファッションセンスは、少しずつ改善の兆しを見せている。セレクトショップでは今だに奇抜な服を嬉々として選びがちだが、私の顔を見て思い直すことも増えた。
とはいえ、そもそもセンス良し悪しの定義は曖昧だ。一概にカラ松くんの審美眼に問題があるとは言い切れないが、彼のセンスを好ましいと感じる人は少数派どころか絶滅危惧種に指定されるレベルだから議論の余地がない。

「ユーリ、これ最高にイカしてるぞ!」
シルバーアクセサリーを扱うショップで、そう言いながらカラ松くんが見せてきたのは、骸骨の手首から先が指を掴んでいるようなデザインのリングだった。
何でよりによってそれ選ぶかな。夜中に見たら叫ぶわ。前言撤回。




日が沈む夕刻、購入したネルシャツを手持ちの服とどう組み合わせるかの意見を交わしながら、私たちは帰路に着く。
明日も休日という気安さも手伝って、我が家で夕飯でも食べていかないかと誘えば、カラ松くんは二つ返事で頷いた。道中でスーパーに寄った後、玄関ドアを開けて二人でリビングへと向かう。

「カラ松くんがネルシャツを選んできたのは意外だったなぁ」
炊飯器で米を炊いている間に、野菜と肉を鍋で炒めてカレーを作る。パッケージ通りの分量でカットした具を炒めて水とルーを投入するだけの作業で、容易に美味しい一食ができるのだから、カレールーは実に画期的だ。追加で輪切りにしたナスを放り込むだけでも、まるで別物になる。
「そんなにおかしいか?」
カラ松くんはテーブルにカトラリーを並べながら、不服そうに片方の眉を吊り上げた。
「昔はほら、一点ものとかオンリーワンにこだわったりしてたでしょ。着回しのことなんて考えもしてなかったから、着眼点が変わったなぁって」
鍋から立ち上る湯気が香辛料の香りを運び、空腹を刺激する。程よいとろみもついて、そろそろ食べ頃だ。
「…ああ、そういうことか」
彼は口角を上げ、食器棚からカレー皿を二つ取り出した。

「ユーリが喜ぶからな」

危うく、おたまを鍋に落としそうになった。カラ松くんは炊飯器からできたての白米を皿によそう。視線は皿に落としたまま、何食わぬ顔で。
「ユーリが選んだ服を着て行くと、すごく嬉しそうな顔をするだろ。べた褒めしてくるし、その後もオレをチラチラ横目で見てはニコニコしてる。
その顔を見てると、オレはすごく幸せ者だなと思うんだ」
彼が手渡してくる皿の重みに、私の意識は現へと引き戻される。顔を上げたカラ松くんと視線が絡み合うと、彼はにこやかに微笑む。
「心配するな。ユーリに盲目的だったり依存してるわけじゃない。
もし仮にそうだとしたら、オレは一年通してユーリの選んだ服しか着てないはずだろ?」
「それはそれで病的だよね」
「ホラーの域だ」
カラ松くんが肩を揺らすので、私も笑った。境界線の認識はあるらしい。
確かに彼は私が選んだ服を着る機会は多いけれど、目潰しさながらの閃光を放つスパンコールのパンツや自分の顔がプリントされたタンクトップも現役だ
「ガールズたちからの視線を感じることも増えた気がするしな」
笑止。
「当たり前だよ。服装変えるだけでカラ松くんはキングオブ眼福で二十四時間視姦していたい、具現化したエロスと言っても過言じゃなく──」
いかん、口が滑った。頬を赤くしながらも若干引き気味のカラ松くんの前で、私は一度意識して呼吸する。

「可愛いから」

この一言に全てが集約される。
望む姿とは対照的な評価にカラ松くんは不本意だろうが、事実だから仕方ない。案の定、彼はプラスマイナス両方の感情が入り混じった複雑そうな表情になる。
しかし次の瞬間、ハッと目を瞠る。
「いや待て…なるほど、分かったぜ、ハニー。
以前のオレはオリジナリティ溢れるが故にあまりにも崇高で、カラ松ガールズにとって孤高で近寄りがたい存在だったんだな。だから彼女たちは影から見つめることしかできなかった…。
そして今、親しみやすい服で身を包むことにより、コモンピープルに自ら歩み寄る慈悲深く博愛な……オレ!」
見習いたいポジティヴシンキング。
「つまりユーリもオレをより身近に感じたいと、そういうわけだな?」
「そうだね」
「へッ!?」
自分で言って驚くのはなぜなのか。
「カラ松くんは着飾らなくても十分素材がいいんだって、もっと世間に広めたいってのはあるかも」
「ユーリ…」
カラ松くんは私からカレーが盛られた皿を受け取って、先ほど購入した服の入った袋をチラリと一瞥する。

「…オレはずっと、一目見ただけで目に焼き付くほどのオンリーワンを目指してきた。オレほどのいい男は服も当然スペシャルであるべきだ、と」
その結果のスパンコールとフェイスプリントか。想像を絶する発想の飛躍。
「ただ、その考えはユーリと出会ってから少しずつ変わっていったんだ。
不特定多数対象じゃなく、オレが望む相手にとってのオンリーワンになる方がよっぽど難しくて…幸せなんじゃないかって」
会う回数を重ねれば重ねるほど、カラ松くんの突飛な出で立ちは鳴りを潜めるようになった。愛読する雑誌が変わり、シンプルなアクセサリーをつけるようになるその過程を、私はずっと見てきた。
「私はカラ松くんに似合う服を選んできたつもりだけど、カラ松くんの好きな服を着たらいいと思うよ」
私の好みを強要したことは一度もないが、そう言えば了承も得ていなかったことを思い出す。彼は肩を揺らした。
「ドントウォーリー、ハニー。オレはずっと好きな服を着てる」
「迷惑じゃなかった?」
「ゴッドに誓おう、そんな考えは一度たりともオレの脳裏には浮かばなかった。ブラザーたちに服を変えろと言われた時は、なぜオレのセンスが理解できないかのかと不思議に思ったくらいなのにな」
「あはは。でも怒られてもスルーするカラ松くんが目に浮かぶよ」
圧倒的存在感を発揮することにパラメータが全振りされた服装は、オンリーワンを目指す彼の戦闘服でもあったのだろう。兄弟の助言はありがた迷惑だったに違いない。

「───でも一番はやっぱり、ユーリが嬉しそうにするからなんだ。
それだけは知っておいてくれ」

照れる推しは今日も尊い。




空になった食器を洗い終えた頃、カラ松くんが冷蔵庫から取り出したピッチャーで麦茶のお代わりを注いでくれる。
けれど、冷蔵庫にピッチャーを戻して扉を閉める音が聞こえても、カラ松くんはしばらくキッチンから戻ってこなかった。リビングのローソファに背を預けてスマホを眺めていたから、彼の戻りが遅いと気付くのに時間を要した。
「カラ松くん?」
私が画面から顔を上げると、彼はまるで何かを探すように室内を見回していた。その手には青色のキッチンタオルが握られている。
「ユーリ……いや、その…オレの勘違いかもしれないんだが」
「うん」

「青が増えてないか?」

束の間、部屋はしんと静まり返る。静寂を破ったのはカラ松くんだった。
「え、あ、何だ…ええと、以前よりも部屋の中に青い色が増えたような、そんな気がして……すまん、変なこと言った、忘れてくれ」
彼は気恥ずかしそうに指先でこめかみを掻いた。
「あー…気付いちゃった?」
私は私でばつが悪い。
「え」
「青ってほら、カラ松くんのトレードカラーでしょ?
私も意識してなかったし、そういうつもりはなかったんだけど…何か選ぼうとした時に、ふと目にいくのは青だったりするんだよね」
カラ松くんが握るキッチンタオルも右に同じだ。買い替えるために売り場を覗いた時、真っ先に目に飛び込んできたのは青色だった。インテリアとの兼ね合いも考慮した上での合理的な選択だったとその時は自負していたが、今となっては所詮言い訳だ。結果が先にあり、もっともらしい理由を後から用意した。
だから最近は意識的に青を外すようにしている。厳選しているのだ、これでも。直感で選ぶと真っ先に青が候補に入ってしまう。
「でもね、色だけで決めたわけじゃなくて、例えばそのタオルは使い心地ももちろん重要視したよ。吸水性高いし、洗濯にも強いし」
事情を説明すればするほど言い訳がましくなる。墓穴を掘っている。
「───ハニー」
リビングの床でカラ松くんが膝を折る。まるで跪く騎士のように。

「…それ以上言ったら、自惚れてしまうぞ」

蛍光灯の光を受けて輝く茶褐色の瞳が、私を映す。
「今自惚れなくていつ自惚れるの?」
今でしょ、なんて古いネタで茶化すのは止めた。
カラ松くんは目元を朱に染めて視線を私以外のあちこちに向けた後、小さな溜息と共に私と向かい合う。湧き上がる衝動を必死に押し留める、そんな印象を受けた。
「カラ松くんは好きじゃないの?」
「へ?」
「青色」
私の問いに、彼は首を傾げる。
「好きとか嫌いとか……そもそも六人もいるから分かりやすく区別するための記号的な意味で、紆余曲折の末に青になったんだ。男らしい色の代表格だから嫌いではないが、特別思い入れがあるかと訊かれるとそうでもない。
まぁ、さすがに付き合いが長くなった今は、オレの色だとは思うけどな」
六人が同格だった幼少時とは異なり、各人が別人格であることが主軸となり、個々や私物の明瞭な判別が必要になった結果、視覚的区別が採用された。結果論かもしれないが、それぞれの持ち味を的確に表現した色だと思う。
「青はカラ松くんに合うと思うよ。二度目に会った時が青い服だったから、それがスタンダードって刷り込みされてるだけかもしれないけどね。
でも、例え別の色でも───」
もし青でなくても。例えば赤や緑でも。

「カラ松くんの色を、私は好きになるよ」

それが推しカラーというものだ。青だからではなく、カラ松くんの色だから。カラ松くんを連想させる色だから、私は選ぶ。
自分で言っておきながら、ああそうだったのかと思い至る。そこまで考えたことがなかったから、目から鱗だ。
価値観の一つを言語化できた清々しさに浮かれて、カラ松くんが長らく無言だったことに気付かなかった。どうしたのかと見やれば、彼は一層顔を赤くしていた。
「カラ松くん?」
「ユーリ…その台詞は、その……これ以上ない愛の告白に聞こえるんだが」
口元を腕で隠して紡がれた言葉に、私は僅かに目を剥く。
「あ、やっぱり?」
声を出して笑う私とは対照的に、カラ松くんは不可解だとばかりに眉間に皺を寄せた。
「私も途中から、これ告白だなって思った」
私の推し。その事実は今も昔も変わらず、私たちの関係性の根底にあるもの。
意図せずカラ松くんを口説いてしまっていたらしいことに苦笑していたら、彼は私の左手をそっと自分の手のひらにのせた。

「ならオレはその想いに応えるために、いつかブルージュエルのリングをユーリに捧げよう」

青から青を。
「指輪?」
「サファイアでもタンザナイトでも、ジュエルはユーリが望むものを」
もう片手は自分の胸元に当て、騎士は忠誠を誓う。

「ユーリの指を生涯美しく彩る色も、青に決まってるからな」

短編:第二ボタンの行方

好きな人ができたことはある。
でも恋人にはなれなかった。

カリキュラムに追われて忙しなく過ぎていく学生生活。己の力量を過信しやすい危うい年頃だ。拡大された行動範囲と少しばかりの軍資金が、自らを大人に限りなく近いと錯覚させる。
多感で繊細で大胆で、誰もが物語の主人公だった。彼らが描く恋模様もまた純粋で情熱的で苛烈が故に、小さなコミュニティで様々なドラマを生む。
そしてその中に紛れて、実るどころか伝わることさえなく、密やかに終焉を迎えた物語もまた数多に存在するのだ。胸を焦がした淡い想いは歳月と共に過去となり、記憶の引き出しにしまわれやがて日の目を見なくなる。




頬を撫でる風に冷気を孕むようになった初秋の休日。地面を照らす日差しの温もりに誘われ、私とカラ松くんは松野家の縁側でのんびりと暇を潰していた。
両側をビルに囲まれた松野家の庭はお世辞にも日当たり良好とは言い難いが、それでも赤塚区に庭付きの一軒家を構えていること自体が一種のステータスではある。この小さな庭を、松造や松代は猫の額と表現するけれど、私は好きだ。
傍らにはスーパーで買った手土産のカステラと湯気の立つ煎茶が添えられ、何をするでもない贅沢な時間が流れる。

互いを知る前の昔話に花を咲かせていたら、学生時代の話題になった。文化祭や体育祭といったメインイベントから男女の関係性へと話が移り、そして冒頭の話に至る。誰にも知られることなくひっそりと消えていった私の想いの話。
「ユーリのかつての想い人、か…」
カラ松くんがどこか苦しそうに呟く。
「大層なもんじゃないよ。私自身、そんな人がいたこともすっかり忘れてたぐらいだから」
短くない期間思いを寄せていたはずなのに、彼に紐づく言葉がなければ記憶の引き出しから出てこないほど自分にとって関心の薄いものになっているのは、正直意外だった。思い出さなくなったのは、一体いつからだろう。今だって顔立ちはおぼろげにしか浮かんでこない。
「聞きたいが聞きたくないような、何とも複雑な気持ちだ」
「話題変える?」
「聞く」
何やねん。

埃まみれの引き出しから、当時の映像を手繰り寄せる作業に入る。脳に残っている記録は断片的で、仲の良かった友人たちの姿が我先にと飛び出してくる。
探求者の私は制服を着た格好で教室にいて、彼を探すために廊下へと出た。私の所属するクラスの中に、彼はいなかったのだ。
「クラスの違う男の子だった。お互いに名前は知ってて、でも連絡先は知らない、廊下で会ったら挨拶するくらいのうすーい関係」
私も彼も誰かと行動を共にすることが多かったから、すれ違いざまに一言交わすのが精一杯のコミュニケーションだった。
だからこそ挨拶できた日は嬉しくて、一対一で会話できようものなら一日中心が弾んだ。授業が身に入らず、帰路に着く足取りは羽が生えたみたいに軽やかだった。本人の前では平然を装っていたくせに。
「それから一年くらいしたら卒業で、それっきりかな。卒業式は色んな人に囲まれてたから、声をかけるタイミングを逃したままだったんだよね」
シャボン玉のように膨らんだ感情は、泡として溶けた。弾けさえしなかった。親しい友人にさえ語らなかったから、幾ばくかの後悔と共にいつしか忽然と消えて、記憶の片隅に追いやられてしまう。まるで最初から存在しなかったとでも言うように。
否、今ここでカラ松くんに話さなかったら、存在しなかったのと同じだ。彼への感情は、誰にも話したことがなかったから。
「なぜ声をかけなかったんだ?
ずっとそいつのことを追いかけていたんだろう?」
カラ松くんが投げかける純粋な疑問は、切っ先が鋭い。
「今となっては推測だけど、何が何でも手に入れてやるって強い思いはなかったんだろうね。
恋愛感情があったとは思うんだけど、恋してる自分に酔ってた感は、たぶん…ある。恋に恋するってああいう感じなんだろうなぁ」
徹頭徹尾気付かせなかったくせに、気付いて追い求めてほしいなんて図々しいにも程がある。漫画のような美しい理想ばかりを追い求め、相手を度外視していた結果がこれだ。当人に迷惑をかけなかったのは不幸中の幸いだが、あまりのヒロイン気取りに穴があったら入りたい。

過去を恥じ入って頬を赤くする私とは裏腹に、カラ松くんは眉間に皺を寄せる。
「そいつが憎らしいな。
長らくユーリから熱い視線を送られていた上、それに応えないなど愚の骨頂だ」
止めてください私が死んでしまいます。
「や、そもそも相手のことよく知らないのに好きとか、ほんと恋に恋してたんだよ。思春期真っ盛りって感じ」
「一目惚れから始まる恋愛だってあるだろう。オレたち魔法使い一歩手前の童貞に至っては、そこそこ可愛い子に優しくされたらイチコロだ」
レンタル彼女や薬局のお姉さんが脳裏を過った。前例がありすぎて笑えない。こいつら学習しねぇな。
「そいつのどこが良かったんだ?」
「えー、何だろ。手伝ってもらったり、優しくしてもらったのがきっかけだと思う。楽しそうにしてる姿がいいなと思った…っていう流れ、かな?」
「二人きりで出掛けたりは?」
「えっ、ないない!二人で話すことも少なかったのに」
私は大きくかぶりを振る。二人で出掛ける機会が一度でもあれば、結果は大きく違っていたはずだ。関係性を変えるほどの行動力は当時の私にはなかった。
「…そうか」
カラ松くんはフッと口角を上げた。

「それじゃあ今のオレの方が、そいつよりもユーリに近いわけだ」

勝ち誇ったようにほくそ笑むから。
心地良い日差しが、少しだけ眩しく感じられた。
「カラ松くん相手じゃ、比較対象にならなくない?」
つい笑ってしまう。一声かけることさえタイミングを見計らわなくてはならなかった人と、周囲にどれだけ人がいても一目散に駆け寄ってきてくれる人を比べるなんて。
「学生時代のハニーの視線を独り占めしていたというだけで、罪は重い」
カラ松くんは縁側に片手をついて、体を私の方へと寄せる。板の軋む音が、静かに響いた。
「…馬鹿な男だな」
呆れを多分に含んだ声で、カラ松くんが失笑した。
「さっきも言ったけど、本気じゃなかったんだよ、きっと。
卒業式だって、第二ボタンどころか連絡先さえ聞かないままだったんだから」
卒業式が最後のチャンスだったはずなのだ。別離を口実にして、せっかくだし連絡先教えてよと言うことも、あの場では決して不自然ではなかった。仮に玉砕しても、進路が異なるから外面的には後腐れなく切り替えられる。
最適な条件が複数揃ってなお実行に移さなかったのは、つまりはそういうことなのだろう。

突然、すっくとカラ松くんが立ち上がる。視線は真っ直ぐに、誰もいない庭に向けられていた。
「すまん、すぐ戻る」
そう言い残し、私の返事も待たずに彼は部屋の中へと消えた。すっかり冷めたお茶と食べかけのカステラがポツンと残される。
階段を駆け上がる騒々しい音が、遠くから聞こえてきた。




カラ松くんが戻ってきたのと、私が皿と湯呑みを空にしたのがほぼ同時だった。彼は左手にグレーのジャケットを下げている。
カラ松くんは戻るなり膝をついて、持っていた服を床に広げた。グレーのジャケットは───赤塚高校のブレザーだ。畳みジワのついた緑のネクタイが一緒に落ちた。ブレザーとネクタイという不思議な組み合わせに、頭の中で疑問符が点灯する。
「これは……」
私が問いを最後まで紡ぐより先に、カラ松くんはデニムのポケットから取り出したハサミで、ブレザー内側のタグについていた予備のボタンを切り取った。
赤塚高校の校章が彫り込まれた、艶消しの金属ボタンだ。
「赤塚高校の制服はボタンが一つしかないが、予備のボタンがあるのを思い出した」
その言葉で、彼の言わんとすることを察する。

「オレの第二ボタンだ。貰ってくれ」

カラ松くんは頬を紅潮させる。重厚感のある見た目と大きさとは対照的にひどく軽いそれを、私は手のひらを差し出して受け取った。
「あと、ええと…最近はボタンの代わりにネクタイを渡すらしいから、これも」
そう言って、緑のネクタイがボタンの上に重ねられた。
「カラ松くん…」
「受け取ってくれ、ユーリ。オレの第二ボタンは全部ユーリのものだ」
どストレート決め台詞。
もう本当うちの推しは無自覚で物理的殺し文句をのたまって私の息の根を軽々と止めてくるから心臓が百あっても足りないっていうかもう何これ助けて。


第二ボタンが意味するのは、一番大切な人。

「何なら中学の頃の第二ボタンも外してくる」
ほのかに防虫剤の香りがするブレザーは、虫食い一つなく綺麗な保管状態だった。まるでついこの間卒業したばかりのような、そんな錯覚さえしそうになる。
卒業して少し経った頃合いに、松野家を訪ねたような、そんな気が。
「それで、あの…」
カラ松くんは言葉を濁して私の反応を窺う。その時になってようやく、私が何の返事をしていないことに思い至った。怒涛の展開に呆気に取られていましたなんて、下手な言い訳が口から溢れそうになる。
「ありがとう、カラ松くん。どっちも大事にするよ」
言うや否や、彼の顔がパァッと明るくなった。
「ち、ちゃんと意味分かって渡してるんだからな!
ハニーの好意を無下にするような奴のボタンより、オレのボタンの方がよっぽど価値がある!」
気にしているらしい。私にとっては、とっくに過去の記憶の一部でしかない幻影を。
そして、写真でしか見たことのないブレザーのボタンが、あれよあれよという間に私の所有物になった。

「貰うなんて考えたこともなかった…」
私たちが出会ったのは社会人になってからだったから、互いの学生時代は写真でしか知らない。当時接点もなければ、それぞれの母校には足を踏み入れたことだってない。無関係なものとして認識していた過去が突然身近になり、胸に去来するのは戸惑いだ。
そしてそれ以上の、喜び。
「昔話もしてみるもんだね」
「オレの方も第二ボタンが残ってて良かったぜ。
当時まだキュートな子ウサギボーイだったオレの純真さに、カラ松ガールズたちは臆して声をかけられなかったようだからな。ガールズたちには申し訳ないが、こうしてハニーに渡すことができたんだから結果オーライだ」
キュートな子ウサギボーイとは。
「もし誰かに渡してボタンがなかったら、どうするつもりだったの?」
「今着てる服の第二ボタン全部渡す」
迷いなく断言される。
「質より量作戦だ」
真っ直ぐな目で躊躇なく意味不明なこと言われておかしいのに、どんな手段であれ私を一番優先しようとするカラ松くんが可愛くてたまらない。頭抱えてぐしゃぐしゃ掻き回して愛でてやろうか───うん、やろう

思い立ったが吉日。私は膝を立てて彼に向き直り、きょとんとした顔で私を見上げるカラ松くんの髪を両手で思いきり撫で回した。
「もうっ、尊い通り越して可愛いしか出てこない。可愛いよカラ松くん、ほんっと可愛い」
「え、ちょ、ハニー!?や、止めるんだ…っ、髪が──」
「かわいい」
口を耳元に寄せて囁やけば、彼は息を止めて体を強張らせた。肩は竦み、耳が赤く染まる。
私の推しは、やっぱり世界で一番可愛い。




その後、オレをからかって遊ぶなと一通り定番と化した説教を食らい、再び話題は第二ボタンに移行する。叱られている間も私がずっとボタンを握っていて、鞄に片付けようとしたタイミングだった。
「第二ボタンを交わした後の二人は、どうなってるんだろうな…」
憧れや記念としてではなく、ほぼ告白と同義の意味でボタンの譲渡が行われた後の未来は、私も気になったことがある。
「結婚までいく確率は、一説には数%って言われてるよ」
「え、そんなに低いのか?」
カラ松くんは瞠目する。
「そもそも付き合うのが三十%くらいなんだって」
三組に一組、低いとも高いとも言い難い微妙なラインだ。やはり第二ボタンは記念や餞別として貰う意味合いが強いのかもしれない。
仮にイチかバチかに命運を託して見事両思いに至っても、新天地での生活や新しい人間関係に魅力を感じる人だっている。
「進路が分かれたり、分岐は発生しがちだよね」
「今までのように頻繁に会えなくなって、ってヤツか」
環境の変化と共に価値観も変わりゆく。学校が中心だった世界は瞬く間に広がり、新天地で新しい相手とも出会う。卒業後も仲良く幸せに暮らしましたなんておとぎ話のようなハッピーエンドは希少だ。

ほんの数秒、カラ松くんは顎に指を当て思案するポーズを取っていたが、やがて深く首を縦に振った。
「目標ができた」
「何の?」

「その数%に入ることさ」

昭和の少女漫画に出てくるキャラクターのようなきらびやかな瞳で、彼は私を見つめた。眼前で軽やかに指を鳴らす仕草付きだ。いわゆるドヤ顔。
こういう時、どんな反応がベストなのか今なお最適解が掴めない。スルーして話題転換か、はいはいと右から左を受け流すか、あるいは真っ向から受け止めるか。何とも返せずに唖然としていたら、カラ松くんはハッと我に返ったようだった。
「…あ…あの……だ、駄目かな、やっぱり…」
逸らした視線を自分の足元に落として、顔を赤くする。
ドヤ顔からの素の照れは卑怯だ。隙あらば押し倒したい。
「駄目とかじゃなくて、スタートの時点でズルしちゃってるんだから、厳密には私たちは対象に含まれないでしょ」
「そ、それでも第二ボタンを手渡した時点スタートだから、カウントされるだろ」
「詭弁だよ」
私の反論に納得できないカラ松くんは、不満げに口をへの字にした。
「どうとでも言ってくれ。オレは真剣だ」
「ふむ」
私たちが高校を卒業してから既に短くない歳月が流れている。私は社会人として後輩を指導する立場となり、カラ松くんはベテランニートだ。
高校生活の記憶の大半は断片的かつ曖昧で、確証のない自信に満ちていた青春は遥か遠い過去ではある。けれど。
「──誤差、なのかな」
「ごさ?」
「うん。高校の頃にカラ松くんから第二ボタンを貰ったとしても結果は同じだっただろうし、そう考えればこの数年は誤差と言えるかもしれないな、って」
根拠皆無の暴論だ。ただの言葉遊びと言われればそれまでの、かけらほどの説得力もない私見に過ぎない。
なのに、妙に腑に落ちる。
「ユーリ…それは、どういう……」
「もし私たちが学生時代に第二ボタン渡すような関係だったなら、当時貰っても今貰っても未来は同じなんじゃないかと思うんだよね」
もしも今みたいな親密な関係性が構築されていたなら、いつだってよそ見せず私だけを追いかけてくれる一途さが当時からあったなら───私もきっと同じだけの熱量を返していたと、そう思える。
実際にはそんなこと起こり得るはずもなく、学年どころか校区も違って彼の性格も当時は真逆で、接点なんて一つもなかった。実現した可能性は限りなくゼロに等しい仮の話だ。
だが、もし私たちに繋がりがあって、こうやって二人きりで会う付き合いをしていたら───行く末は同じなのではないだろうか。

「会うのがちょっと遅くなっただけなのかもね」

不意に、抱きしめられる。

両手が真正面から伸びてきて、私を胸に包み込んだ。食器を載せたトレイに彼の足が当たって、食器が揺れる小さな衝突音が鳴る。
「誰か来るかもしれないよ、カラ松くん」
私は穏やかに告げる。おばさんやおそ松くんに挨拶をして縁側に来たから、少なくとも松野家は無人ではない。近くで気配こそ感じないが、いつ誰が廊下を通ってもおかしくない状況だ。
もっと焦ってみせた方が良かったのかもしれないが、抵抗する理由が私にはない。
「構わない」
麗らかな昼下がり、友人宅の縁側でよもや抱擁されるなんて、一体誰が想像しただろう。
「ブラザーからの私刑も甘んじて受ける。
あいつらに見られて文句言われるのなんて、ユーリが今言ってくれた言葉に比べれば些細なもんだ」
嬉しい、と。
彼は小さく溢した。
「もしも高校の頃に仲良かったら、の話だよ」
「分かってる」
決して起こり得ない事象を仮定した話。

「……答え合わせをしたい」
彼は私を抱きしめたまま言う。
「答え合わせ?」
「ユーリがどんな未来を想像してたのか…それはオレの描いてる未来と重なるか、だ」
私は未来の姿について明言していない。言葉の端々から想定は容易いだろうが、カラ松くんが欲しいのは裏付けだ。言わなくても察しろと突き放すのは酷で、そんな一流の駆け引きができるのならこの年まで童貞更新はしないだろう。
「抱きしめておいて、訊くんだ?」
「聞きたい。ユーリの口から」
「ズルイなぁ」
「たまにはユーリから先に言ってくれてもいいだろ。オレばかりはフェアじゃない」
カラ松くんも言うようになったな、と私は感心する。力を抜いていた手を彼の腰に回したら、布越しに体温が伝わってきた。


私の口から未来が紡がれたのは、それから三秒後だった。

短編:この雨が止むまで

ぽつりぽつりと降り始めた雨は、瞬く間に土砂降りになった。

天気は曇り時々晴れの予報で、降水確率は二十%。傘の出番はなさそうですと笑顔で告げた天気予報士に裏切られた気分になるのも、致し方ない。
仕事帰りの夕刻、あとは電車に乗って自宅へ向かうだけという時間帯に雨に見舞われた。職場の出入り口で見上げた空の色から、何となく不穏な予感はしていたのに、杞憂にして見逃したのは他でもない自分だ。風が流れてくる方角の空に、鼠色のどんよりとした雲が広がっていた。頭上の青空との色濃い対比に、その後の豪雨を察する余地は十分にあったのに。
暗雲はゆっくりと、しかし確実に、私の方へと向かってきていた。


「あーあ、ついてないな」
私は肩口の雨粒を払いながら、溜息と共に独白する。雨脚が強くなる前に公園の東屋に駆け込んで事なきを得たが、さてこれからどうしよう。幸いにも雨のかからない位置に木製のベンチがあり、私は腰を下ろした。
今後の雨雲の動きを確認しようとスマホを鞄から取り出そうとした矢先、前方から足音が近づいてくる。パーカーのフードを目深に被り、泥に塗れた靴で東屋に飛び込んできた。私は反射的に顔を上げる。
「ふぅ、ギリギリだな」
フードを下ろし、露を払うように首を振った。両足にバランスよく体重をかけ、背筋を伸ばした後ろ姿から男性と分かる。
「あ、すみません、誰もいないと思ったら先客が───」
彼は振り返り、私と目が合う。

「……ユーリ?」

シルエットから、おおよその予測はついていた。パーカーの色はグレーで、見慣れたスニーカーではなかったけれど、声は間違えるものか。
「奇遇だね、カラ松くん」
カラ松くんはほんの一瞬双眸を驚きに見開いたが、すぐに笑みを浮かべる。雨粒が絶え間なく地面に叩きつけられる音は、偶然の出会いを祝福するBGMとしてはあまりにも不釣り合いに思われた。
「どうしてユーリが…」
「仕事の帰り道で雨に降られちゃって。カラ松くんは?」
「オレはバンド仲間との練習に向かう途中だったんだ」
カラ松くんの髪先から、ぽたりと水滴が落ちた。薄いグレーのパーカーは、肩口付近が特に色濃く染まっている。
「そっか。お互いタイミング悪かったね」
「そうか?まさか雨宿り先でユーリに会えるとは思ってもみなかったから、こうして会えてオレは嬉しい。
運命的な再会を祝してこの後ディナーにでも誘いたいが、先約があって残念だ」
冗談じみた軽い口調とは裏腹に、私を見つめる眼差しはどこまでも真摯だ。東屋の屋根に雨粒が当たり続けるせいで、ときどき彼の言葉を聞きそびれそうになる。
「じゃ、足止めがなくなったらバイバイだね」
「雨が降る間だけの限られた逢瀬…」
止むを得ない事情を口実にした、制限時間付きの逢引き。絶え間なく降り続ける雨が、私たちを物理的に世界から遮断する。全ての音を掻き消して。

「───ロマンチックだと思わないか?」




私はひとまず立ち上がり、鞄に入れていたハンドタオルでカラ松くんの髪と顔を拭く。パーカーで保護されていたとはいえ、髪や手は濡れそぼっている。降り始めから本降りになるまでの猶予は僅かだったから、この程度の被害で済んだのはむしろ僥倖だ。
「濡れたままだと風邪引くから」
「…ん」
カラ松くんは目を閉じ、大人しくされるがままだ。長い睫毛が伏せられて、間近で見るとなかなかどうして端正な顔立ちである。調子に乗るから決して本人には言わないけれど。
「誰も通らないな」
「急な雨だもん。天気予報信じて外出た人は、傘なんて持ってないよ」
私たちが雨宿りしているのは、いくつかの遊具が設置された、学校のグラウンドほどの広さのある比較的大きめな公園である。東屋に壁はなく、景色が360度見渡せる。
しかし見渡す限り、人っ子一人視認できない。
「ユーリもか?」
「私?」
「や、何でもない。訊くまでもないよな」
カラ松くんは肩を竦めた。

「それにしても、都会なのに、見渡す限り人の姿がない。まるでオレとハニーを残して人類が消えたような、そんな気さえしてくるな」
「するね。雨の音しか聞こえないから、余計に」
この公園は、車の往来が多い道を外れた住宅街の中にある。車のエンジン音さえ遠いせいで、余計にそう感じるのだろう。
意識して長らく見つめていれば、一人くらい人の姿を捉えることはできるに違いないが、雨が景色を霞ませる。不都合な事実に目隠しをする。
私はフッと笑う。
「本当に、そうなってほしい?」
「…ユーリ?」

「この雨が止む時に、もし私とカラ松くんしかいない世界も選べるとしたら、どっちを選ぶ?」

私と仕事どっちが大事なの、そんな不毛な詰問に似ている。何ら生産性のない問いだ。
しかし多くの場合、口にする者は模範解答を用意している。回答者がその期待に答えるか否か、それが分かれ目だ。
「フッ、センチメンタルなことを言うじゃないか、ハニー。止まない雨音のせいでアンニュイな気分になったのか?
安心しろ、例えこの広大なガイアにオレたち二人になっても、オレは──」
前髪を片手で掻き上げ、たっぷりと冗長に意味深な流し目を向ける。
演技がかった仕草から、お決まりの展開を予測した私を、彼は意外な形で裏切ってくれた。
「いや…二人はさすがに寂しいな。ブラザーたちがいて、チビ太やハタ坊、デカパンたちがいて、騒々しい毎日があって」
淡々と彼は述べる。カラ松くんが望む世界の形。

「───その中で、ユーリにも笑っていてほしい」

は、と私の口から息が漏れた。
「そうだね。カラ松くんが生き生きしているのは、むしろそっちだよね」
「生き生きしてるか?」
本人は不満そうだ。
「何かあると、目にもの見せてやるって意気込むでしょ。謀略を巡らせたり、力任せにやらかしたり」
「殺らないと殺られるからな」
殺伐とした物理的弱肉強食。
「私は、そんなカラ松くんを見てるのが楽しいよ」
「最近はハニーも当事者だぞ」
「それは嫌」
「検討の余地!」

呆れられてしまった。
六つ子との関わりにおいては、極力傍観者を決め込んでいたつもりだったが、部外者に徹するにはあまりに彼らに深入りしすぎている。だからといって、もう抜け出せない。私も共犯者だ。
「でも」
まるで他愛ない会話の続きのように、彼は緩やかに口を開く。

「もし二人だけになっても、ユーリに寂しい思いは絶対にさせない。二人で生き延びる方法を必死に探すさ」

雨はまだ止まない。


灰色のカーテンが空を覆ってから、半時間ほどが経とうとしている。ゲリラ豪雨にしては長引く雨は、地面の水溜りに波紋を作りながら拡大させていく。このままではマンホールから水が溢れやしないかなんて、不要な心配をしそうになる。
「とりあえず座ろうか」
空の色から推察するに、当面止む気配はなさそうだ。雨を凌ぐ術が他にないのなら、せめて心は乱されることなく過ごしたい。
東屋の屋根から落ちた滴は、私たちが立つアスファルトをしっとりと濡らしていた。そんな足元の不安定さに気が付かなかったのは私の落ち度だ。油断していた。
踵を返してベンチに向かった拍子に───足を滑らせる。
「あ」
東屋の天井が視界に映る。咄嗟に伸ばした右手は虚空を掴み、頭が真っ白になった。

「ユーリ!」

呼び声を認識すると同時に、カラ松くんの腕が私の背中に差し込まれる。体重の大半が彼の腕に落ち、私は片足を宙に浮かせた格好になった。
「ご、ごめ──」
「無事か?」
「うん…ありがと、危なかった」
危うくびしょ濡れの地面に尻もちをつくところだった。
礼を述べて体勢を整えようとするが、カラ松くんがそれを許さなかった。私が身じろぎするより先に膝裏にも手を差し入れ、抱きかかえてスッと立ち上がる。いわゆるお姫様抱っこである。
「か、カラ松くん!自分で歩けるからっ」
「ドンビーシャイだぜ、ハニー」
私の拒否をもろともせず、彼は口角を上げた。両腕にかかる荷重など大したことではないと、涼しげな彼の表情が物語る。その証拠に、私を抱いたまま腕は微動だにしない。カラ松くんの顔が鼻先に近づく。

「オレたちの他には、他に誰もいないんだ」

よく通る声だった。

「雨がカーテン代わりになって、オレたちを隠してる。仮にここでオレたちがキスをしようとも、誰が気付くと思う?」

もし私とカラ松くんしかいない世界も選べるとしたら。先程叩いた軽口がリフレインする。駆け引きと呼ぶには稚拙すぎる質問だった。私は彼に何を期待していたのだろう。
「雨の音は、甘い睦言も掻き消してくれる?」
両腕をカラ松くんの首に巻き付け、囁くように問う。
「おあつらえ向きにな」
「歯の浮くような台詞だね」
お互いに。
「ロマンチストは嫌いか?」
「嫌いなら、カラ松くんと一緒にいないよ」
いつもなら笑って受け流す口説き文句を、今は両手で受け止める。湿気を孕んで心身共に鬱屈とさせる雨が、物理的に二人だけの空間を作り上げることで、甘美なシチュエーションへと姿を変える。何事も受け止め方次第なのかもしれないと、思考が脇道に逸れた。
「使い古された言い回しだけじゃ、ユーリに伝えたいことの半分も伝えられないんだ。だからいつも言葉を探してる。
ジャストフィットなワードにまだ出会えてないけどな」
「いつか見つかりそうかな?」
「質が足りないなら、量で補うだけだ」
どういう意味かと私が首を傾げると、彼はくすりと笑った。

「これから先何十年とかけて、ユーリに伝え続ければいいだけの話だ」

いまわの際には見つかるだろうか。それとも、彼が口にしたように、年がら年中溢れんばかりの言葉で埋め尽くす心積もりか。
いずれにせよ──
「貰うばかりなのは性に合わないから、私もお返ししなきゃね」
「ハニー…」
「一方通行なんて言わせないから」
カラ松くんが破顔する。声を立てずに、けれど心底嬉しく感じているのが傍目にも分かるくらいに顔をくしゃっとさせて笑う。




「オレは別に濡れてもいいんだ」
お姫様だっこから解放された私は、カラ松くんと並んでベンチに座る。
「今日はギターを持ってきてないし、服もこの通り安物だ。とりあえず雨宿りしてはみたものの、びしょ濡れになったまま練習に行ってもいいし、踵を返して帰ってもいい──傘は必要ない」
雨はカラ松くんにとって進行を妨げる障害にはならない、そう言いたいのだろう。傘が必要ないなら、雨宿りだって不要だ。雨が止むのを待つ理由が、彼にはない。
その言葉が真意ならば、この現状は矛盾している。
「じゃあ、どうして…」
私と共に雨宿りなんてしているのか。
「ユーリなら分かってるだろ?」
彼は組んだ足の膝上に頬杖をついて、いたずらっぽく微笑む。
「それとも───オレの口から言わせたいか?」
私は天を仰いだ。東屋の古びた天井が視界を埋める。
「分かってる、と思う……私の勘違いでなければ、だけど」
「オレとハニーは以心伝心だ。ゴッドに誓おう、合ってないなんてことはないさ」
何を根拠にしたら、それほど自信満々に断言できるのだろう。
しかし私にも、おそらく間違いないという不思議な確信があった。明確な言葉として表現しないだけで、私たちは互いの思いを言外に匂わせている。相手が察することを願いながら、態度や目線にヒントを散りばめて。

「早く雨が止めばいいね」
鞄の中のスマホが誰かからのメッセージ着信を振動で告げたが、私は見て見ぬフリをする。
終わりを知った瞬間に、全てが無粋になってしまう。
「オレはしばらく降り続けばいいのにと思ってるぞ」
「ご飯作る時間遅くなるのは困るなぁ」
「外食かテイクアウトにすればいい。時間は有限だ、たまには楽をしたってバチは当たらないだろ」
「カラ松くんと雨宿りっていう予想外のラッキーがあったから、残りの時間は頑張りたいんだよね」
視界が白濁するほどの豪雨との遭遇を差し引いても、十分にお釣りが来る。偶然出会い、砂糖菓子みたいな甘い言葉を交わして、肌が触れた。
「ハニー」
カラ松くんは私を呼ぶ。

「前言撤回しよう。オレは、このまま雨が止まなければいいと願ってしまいそうだ」

私は微笑む。
本当に、雨なんてとっとと止んでほしい。このまま降り続ければいいと、無意識に望んでしまわないうちに。


遠くの空模様を確認するために立ち上がろうとしたら、腕が鞄に当たって床に落ちる。
「大丈夫か?」
カラ松くんが腰を屈めて拾い上げる。チャック全開のまま放置していたため、危うく中身が飛び出してしまうところだった。
「あ、ごめん。ありがとね」
「気をつけるんだぞ。せめてチャックは───」
穏やかな注意は最後まで紡がれることなく、カラ松くんは息を呑んだ。瞠られた瞳は鞄の中身を凝視する。
「ユーリ…これは……」

開いた鞄から、折り畳み傘の柄が覗いていた。

鮮やかな色合いのそれは、無難な布地とは対照的で一際目を引く。
「壊れてるの」
私はカラ松くんから目を逸らさずに、平然と告げる。丁寧に折り畳まれた傘の柄には微細な傷もなく、どう見ても買って間もない新品だ。
「ユーリ…」
「疑うなら、試してみてもいいよ」
事実は一つしかない。
しかし真偽が確認されるまでは、仮説は数多に存在する。考えうる全ての選択肢が事実であり得るのだ。
カラ松くんは僅かに震える右手を鞄の中に差し入れようとして──止めた。
「そうか…壊れてるのはトゥーバッドだな」
「使えないから荷物だしね」
「早いうちに新しいのを買うんだぞ、ハニー。折りたたみがないのは不便だろ?」
「そうするよ」
落下した拍子についた砂埃を手で払い、カラ松くんが私に鞄を差し出したので、素直に受け取った。
ゲリラ豪雨の多発する時期は、極力折り畳み傘を持ち歩くようにしている。特に仕事の行き帰りはスムーズな移動を必須とするから、雨で足止めされるリスクを潰すためだ。

カラ松くんは私に背を向けて、東屋の軒先に立った。
「いつまで降るんだろうな、この雨」
「ゲリラ豪雨だから、長くても一時間くらいじゃないかな。少なくとも、台風の目みたいに止む瞬間はあるはず」
当初に比べ、雨脚は弱まったような気がする。梅雨の雨雲のように一日中しとしとと続くものではなく、局地的に豪雨をもたらすが、雲が去れば晴天になることも多い。

スマホで答えは確認しない。天気予報アプリで雨雲の動きを見れば一発だけれど、充電が切れているに違いない。不運というのは続くものだ。

「なぁ、ユーリが何を考え、今この状況をオレと過ごしてるのか、訊いてもいいか?」
訊くか訊くまいかの躊躇が垣間見える、抑えられた音量だった。聞こえなかったフリは、きっとできた。そうしたところで彼は追求せず、話題を変えただろう。
「訊くまでもないと思うよ」
口元に手を当て、ふふ、と笑う。
「カラ松くんと同じだから」
趣向返しだ。
「何を根拠に──」
「根拠はないけど、答え合わせしたら野暮になるかな」
どの口がそれを言うのかと、私は危うくツッコミを入れそうになる。
カラ松くんは相変わらず、自分に向けられる感情の機微についてはてんで疎い。そういうところが可愛くて仕方ないのだけれど。

再び私の隣に座ったカラ松くんの手に、私は自分の手を重ねる。

「こういうこと」


「ユーリ…」
少し動けば肩が触れ合う距離、並んだ目線。黒目に私を映すカラ松くんの顔が徐々に近づいてくる。予定調和みたいに、私は目を閉じた。
カラ松くんのもう一方の手が私の腕に優しく添えられ、そして───

「あ」
声を上げたのは、カラ松くんだった。
何事かと目を開けると彼の顔がすぐ眼前にあり、驚きに一瞬息を止めてしまうが、すぐに異変を悟る。

雨音が消えた。
太い針金のような雨は視界から消滅し、軒先からぽたりぽたりと落ちる滴に変わる。地面に広がった水溜りに、公園の景色が反射する。
「…タイムリミットのようだ」
名残惜しそうに腕が離れた。
「いつの間に…」
止む気配に気付かなかった。遠くの空には青空も覗く。
雨止んだねー、とはしゃぐ子供たちの声がどこからともなく聞こえてきたと思ったら、彼らは長靴で道を走り抜ける。水しぶきで靴が汚れるのも構わず、全速力で。
世界に人が戻る。
「帰るだろ?途中まで送る」
「待ち合わせの時間には間に合いそう?」
「駅の公衆電話で詫びを入れておく。オレが携帯を持ってないのは、あいつらも知ってるからな」
「じゃ、お言葉に甘えよっかな」
立ち上がり、鞄を肩に掛ける。公園内でもちらほらと人が散見されるようになってきた。今までどこに隠れていたのか気にかかる。

「ちょっと残念」
私が唇を尖らせると、カラ松くんから冷たい視線が飛んでくる。
「フッ、いじらしいことを言うじゃないか───というか、ハニーにそういうことを言われると自制が効かなくなるから、覚悟がないなら控えてくれ」
覚悟。何を今更と、私は内心で失笑する。そんなものは、もうとっくに。
「カラ松くんだけだと思う?」
わざとらしく上目遣いで問えば、カラ松くんは顔を赤く染める。
「だ、だからっ、ユーリ…っ」
ああもうと、彼は片手を自分の髪に差し込んで乱暴に掻き回した。
しかし次の瞬間キッと私を睨みつけ、両肩を強く抱く。
「練習が終わったらすぐに会いに行く」
「うん、待ってる」
「オレが終電逃してもオレのせいじゃないからな。あと、優しくできなくても文句言うなよ」
「明日仕事行ける程度に手加減してもらえるならいいよ」
真摯な眼差しに軽快な口調で答えるのは失礼だろうかなんて懸念がよぎったが、どうか察してくれと相手に責任を押し付ける。
冗談めいた語り口とは裏腹に、私も意外と真剣なのだ。真っ向から向き合っている。

「…チャーミングが過ぎるぞ、ハニー」

彼が眉根を寄せて不平を露わにしたのは一瞬で、紡がれる言の葉はどこまでも穏やかだった。
「雨のせいじゃない?」
「そうだな、オレもそう思う。意味もなく鬱々とした気分になるのはトゥーバットだ」
「誰かに甘えたくもなるのも、同じ理由かもね」
「そこは外的要因じゃなく、ユーリの願望だと言ってほしいところだ。あと、その言い方だと相手は誰でもいいように聞こえる」
言葉尻を捉えてケチをつけないでほしいが、確かに私の言い方も少々他人事だった。
「ごめんごめん」
私は目を細める。

「私のお相手は言わなくても分かってるもんだと思ってたから」

途端にカラ松くんの目尻に赤みが広がった。
「…オレで遊んでるな?」
「あ、バレた?」
「分からいでか」
口調こそぶっきらぼうだったが、横目で窺った彼の顔には笑みが広がっていて、私は視線を正面に戻した。足を踏み出したら、水を吸った土がぴしゃりと湿った音を立てる。



全部全部、雨のせい。