短編:ガンガン行こうぜ

「今からうちに、面白いもの見に来ない?」
穏やかな休日の昼下がりにトド松くんから上記のメッセージが届いた際、何事かと詳細を問わずに二つ返事で了承し、のこのこと出向いた私は軽率だったと言わざるを得ない。悪魔の六つ子にすっかり感化されている。


最初の違和感は、玄関の三和土だった。大抵の場合、松野家の玄関は来客中かと見紛うほどの靴が置かれているのに、その時は数が異様に少なかったのだ。数えはしなかったが、みんな出払っているのかな、という印象を抱いた。
「ユーリ…!?」
そして出迎えてくれたカラ松くんは、私の姿を視認するなり目を瞠った。私の訪問は予想だにしていなかったと言わんばかりの反応で、表情には戸惑いさえ浮かんでいた。
「トド松くんいる?」
「え?トド松なら半時間ほど前におそ松たちと競馬に行ったが…何だ、あいつに用だったのか?」
末弟が意図的に逃亡を図ったことが察せられた。私と鉢合わせしない時間帯を選んで、彼の言う『面白いもの』に無関係な兄弟を連れて出たのか。『面白いもの』を用意するための外出という可能性も考えたが、電話をかけても出ないところを見るに、前者らしい。
カラ松くんが私の訪問を知らないのも、おそらく同じ理由からだろう。ということは、ひょっとして───
「用というか…ちょっと行き違いがあったみたい。
カラ松くんが迷惑じゃなかったら、ちょっとお邪魔していい?」
騙し討ちのような手法に対し、踵を返す選択肢も脳裏を過ったが、トド松くんが私に見せたかったものの正体に興味はある。事前にヒントだけでも聞いておけばよかった。
「もちろんだ。わざわざ訪ねてきたハニーを追い返すような真似がオレにできると思うか?ハニーならオールウェイズノーアポで歓迎するぜ」
左手を前にして腹部に当て、右手は後ろに回す。執事が主に敬意を示すみたいに、彼は恭しく頭を垂れた。

「お手をどうぞ、美しいマイスウィートハート」

上がり框に腰を下ろして靴を脱いだ私に、カラ松くんが手を差し出してくる。新規追加された愛称が長い、そしてクドい。
腰を上げるくらい大した動作ではないが、固辞するのは失礼な気がして、有り難く受け取った。
「トド松も馬鹿な男だ。ユーリとの逢瀬を差し置いてまで優先すべきことなんてないのにな」
カラ松くんは私が立ち上がっても手は握ったままで、さらに空いている片手を私の腰に回してくる。普段の彼らしからぬ濃厚な接触に、ダンス踊るんとちゃうぞ?と危うく素でツッコミを入れそうになった。




形式的に居間に案内され、出された座布団に腰を落ち着ける。スマホでトド松くんにメッセージを送るが、一向に既読にならない。さてどうするか。
「ユーリ」
悩む私の前に、カラ松くんが片膝をついた。
「トド松はいつ帰ってくるか分からないし、オレと出掛けないか?」
「今から?二階で待ってるのは駄目?」
スマホで時間を確認すると午後三時前、おやつ時だ。
「駄目じゃないが、待ち時間は有意義に過ごさないか?
隣の駅にコーヒーの旨いシャレたカフェができたらしいんだ。どうせ時間を潰すなら、ティータイムの方がよっぽど充実したものになる」
カラ松くんは微笑む。
「ユーリの貴重な休みを無駄にさせたくない」
嬉しい提案である。トド松くんへのメッセージは依然未読のままだし、折り返しの電話もない。もし松野家に留まることが必須条件なら、狡猾な末弟が手を回していないはずはないのだ。外出も許容範囲、そう判断した。
「そうだね。ダラダラ待ってるのも時間もったいないし、行ってみたいな」
「…良かった。一番にユーリと行きたいと思ってたんだ」
「でもせっかくカラ松くんと出掛けるなら、もっとオシャレしてきたら良かったかなぁ」
松野家に寄るだけの予定だったため、胸元にロゴの入った長袖のシャツとデニムという至極ラフな格好である。しかし直後、私の服装など推しを引き立てるパセリに過ぎないと思い直して冷静になる。
推しがイケてるから何も問題はなかった。
「あ、ごめん、今のは気にしな──」

「オレは、その姿のユーリですら十分すぎるほど可憐なレディだと思うぞ」

褒め殺しキタ。
「過剰な装飾は、ユーリを美しく彩るどころかノイズになる。
それに、仮に今の格好に気合いが入っていなくても、行き交う男の八割は振り返る美貌だ」
さすがに言い過ぎじゃないでしょうか。身に余る光栄を通り越して、薄ら寒い。
けれどカラ松くんは呆気に取られる私をもろともせず、目を細めた。

「その麗しさに寄り添うのを許されるのは、オレだけだ。そうだよな?───マイハニー」


つい数分前に脱いだばかりのスニーカーを再び履く。すぐ傍らでカラ松くんがブーツに足を通して玄関の戸を閉めた。鍵をかけないところを見ると、家の中にはまだ誰かいるのだろう。僅かな滞在時間だったとはいえ、挨拶をし損ねてしまった。
さて、カラ松くんはVネックの黒シャツに青ジャージという見慣れた普段着だが、左手の人差し指にシルバーのクロムハーツリングが映える。アクセサリーを一つ追加するだけで容易くエロスが倍増する推しの色気は業が深い今日も本当にありがとうございます。
「ユーリ」
平静を装う私に、カラ松くんが声をかけてくる。
「うん?」
振り返ると、彼はデニムのポケットから銀色のネックレスチェーンを取り出すところだった。人差し指の指輪を外して、チェーンに通す。
ペンダントトップにするらしいことを認識した矢先、カラ松くんの両手が私の首の後ろに回った。ネックレスチェーンが首筋に触れてヒヤリとする。思いがけなく突きつけられた現実から目を逸らすなと言わんばかりに。
「カラ松くん、これ…」
「お守りだ」
カラ松くんの手が離れて、首に僅かな重みを感じる。ハッと顔を上げたら、つい先ほどまで彼が指にはめていたリングが胸元で揺れた。
「ユーリに振り向く男がいたとしても、これでオレのレディだと分かるだろ?」
カラ松くんが指先でリングを摘み上げる。一目でメンズと認識するくらいの目立つデザインで、私の指には大きいサイズ感のもの。
「さすがにハニーの指に通すにはサイズが合わないからな。外にいる間はつけていてくれ」
イケボが毎秒口説いてくる。
予想外の事態ばかりが次々と発生するせいで、反応が追いつかない。結果、呆然としながらも受け入れる格好になってしまう。傍目にはさぞかし従順に見えるだろう。
「拒否権は」
「ない」
ですよね。

所有権を誇示する象徴のようだと感じてしまうのは、自意識過剰だろうか。
否、カラ松くんの今日これまでの言動から推察するに、あながち間違いでもなさそうだ。

「あとは───」
真正面から手のひらが差し出された。
「手?」
「虫除けに一番効果があるのは、これだろ」
今日はやたら積極的だ。頭打った?




休日の電車は、吊り革を掴む客がちらほら散見される乗車率だった。不規則な揺れと振動音に眠気が誘われる。車窓に流れる赤塚区の景色は、もうすっかり見慣れたものだ。
私たちが乗った駅で一人分の席が空き、カラ松くんが私に譲ってくれた。彼は私の前に立ち、吊り革に片手を引っ掛ける。自然と見上げる格好になった。
角度の鋭い眉と引き結ばれた唇、背筋を伸ばして胸を張る姿勢、整えられた体型。下からじっくり見上げていると、吸い込まれそうな感覚に陥る。
シンプルないわゆる大衆服を着こなすカラ松くんは、それなりに目を引く外見だ。私が装着する推しフィルターを取り払っても、その評価は大きく変わらない。懸念があるとすれば、調子に乗った時の厨二病サイコパス言動が全てを台無しにするどころかマイナス評価を叩き出してくるところか

「ユーリ?」
声で意識が現実に引き戻される。私の視線に気付いてか、窓の外に向けられていた彼の目が私と合う。
途端に、カラ松くん以外の人が私の意識の中で背景と化した。
「どうした?」
そう尋ねながら、彼はフッと笑って横髪を指で払う。
「オレが格好良すぎて見惚れたか?」
「うん」
「え」
「めちゃくちゃイケメンってわけではないんだけど、目が離せなくなるんだよね。ずっと見ていられるし、正直私の好きな顔。
あ、もちろんカラ松くんの良さは顔だけじゃなくて、類稀なイケボとか反応が可愛いところとか素で優しいとか、ムラッとくる要素は数多あるんだけども」
こういった返しに対して、いつもの彼なら十中八九赤面した。決まって素っ頓狂な声が上がり、体が強張った。自分から同意を求めがちなくせに、いざ望んだ回答が口にされればひどく動揺したものだ。

「そうか。好きなだけ見てくれていいんだぜ。ハニーを夢中にすることができて光栄だ」

だから、欠片ほどの躊躇もなく艶然と微笑まれた時に確信する。
ああ、なるほど、これが───


五分にも満たない短い乗車時間の後、隣駅で電車を降りる。
駅周辺は活気のある商店街とショッピングモールが隣接しており、特に休日の昼間は混雑しがちだ。人波は途切れることなく、忙しない様子で私たちの側を通り抜けていく。一秒として同じ景色は続かない。
「はぐれないように気をつけるんだぞ、ユーリ」
「手離さなかったら大丈夫でしょ」
駅を出てから、カラ松くんは自然な流れで私の手を取った。当たり前の流れみたいに無言で、視線は真っ直ぐ前を向いていた。まさしく一軍の所業。どこぞの一軍の霊が降臨したか?

人混みの流れにそって目的地への道を進んでいた時、ふと、私の目に留まるものがあった。黒髪を後ろに撫で付けたヘアスタイルが特徴的な、私と同世代とおぼしき爽やかな好青年だ。颯爽と私の傍らを通り過ぎた際に、柑橘系の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
思わず足を止め、後ろを振り返る。
「…ハニー?」
手が離れかけて、カラ松くんも立ち止まる。その呼び声に応じるより前に、彼が私の顔を間近で覗き込んできた。
「オレの側にいながら、よそ見はいただけないな。そんなにいい男がいたのか?」
荒々しく腰を抱き寄せられる。強引だが所作は柔らかで、傍目にはカップルが戯れているように見えるかもしれない。外から幾つかの好奇の目が向けられたが、その多くは好意的なものに見受けられたからだ。
「事実ではあるけど、視点が違うよ」
「視点?」
やんわりと抱擁を解きながら、私は息を吐く。

「カラ松くんに似合いそうな服着てるな、と思ったの」

濃紺色の服とシルバーアクセサリーの組み合わせが絶妙だった。出で立ちを目に焼き付けつつ、カラ松くんの手持ちの服で再現ができないかと思考を巡らせたせいで、一時的に動きが停止してしまったのだ。手を繋いでいたことさえ失念した。
「顔はよく見てないけど、カラ松くんの方が断然可愛いよ。比較にならない」
正面からカラ松くんを見据え、淀みなく答える。私と彼の間で定番の応酬となりつつある、些末な口論に終止符を打つ一撃──のはずだった。
しかしカラ松くんは私の言葉に頬を染めるどころか、片側の口角を上げて嘲笑に似た笑みを浮かべる。
「なるほど。さすがはオレ専属のコーディネーターだな」
からかうような声。
「とはいえ、一瞬でも目を離されるとは、オレもまだまだだな。ユーリのハートを捕らえておくには、オレ自身のセンスを一層磨く必要があるらしい」
腰に添えられる手に震えはない。私は目を見開いた。

「まぁ、仮にユーリの言うことが事実だとしても、ユーリの熱い眼差しで見つめられたが最後、射抜かれてしまう男は多い。
熱視線の安売りはするもんじゃないぜ」

私の攻撃はまるで歯が立たない。手強いな、こいつ。
スルースキルが高すぎる推しはちょっと可愛くない。


「今日はどうしたの?やけに褒めてくれるね」
確信に迫る。
彼がどのような回答をするのか興味がそそられた。
「感じたままを口にしてるだけだ。おべんちゃらでご機嫌を取ろうなんて魂胆はないからな。
そういう目的なら、ユーリを出迎えた最初の五分で片をつけてる」
すごい自信だ。松野家の六つ子でさえなければ、稀代の詐欺師として名を馳せた世界線もあったかもしれない実際馳せてたら事案だけども。
「それはどうだろうね。
私は少女漫画のヒロインみたいに格好いい王子様に憧れはないから、いくらカラ松くんが相手でも靡かないかもしれないよ」
「難攻不落くらいでちょうどいいんだ」
カラ松くんは訳知り顔で腕を組む。てっきり反論されると思っていたので、肩の力が抜けた。

「オレのどんな睦言にも屈しないユーリだからこそ、口説き甲斐がある。四六時中告げるくらいでバランスが取れているんじゃないか?」

上手く言いくるめられている気がする。私が投げるどんな言葉も、しっかと包み込んで倍にして返してくる。
「それを向けられる側の意向も重視してほしいなぁ。糠に釘すぎてげんなりしそうだよ」
「オレじゃ不満か?」
「不満とかじゃなくて、水と油って感じ。今の私たちは相容れないよね。…あ、でもそういう澄ましたツラを歪ませて泣かせるのも一興と考えればイケるかも
新しい扉を開きそうだ。
「はは、確かにユーリの言うことにも一理ある。お互いに譲れないなら、どちらかが根負けするまで続けるのもアリかもしれないな」
カラ松くんは愉快そうに肩を揺らす。今日のカラ松くんマジタフガイ。
「…告げてしまえば楽になる魔法の言葉があるんだ」
ぽつりと、どこか寂しげに呟かれる言葉。

「でもそれを言うのは…何というか…今じゃないと、そんな気がしてる。だから言えない」

今日の強気な彼らしからぬ逡巡が、言葉尻に感じられた。
どんな言葉で何を意味するものなのかは、これまでの経緯から察することはとても容易だったけれど、どんな反応が最適なのかまでは判断がつかない。カラ松くんの口から語られぬことに私があれこれと言及するのは、彼にとって本意ではないだろう。
「タイミングがあるってことだね」
「聡明なハニーなら察しがついているだろうな。しかし───オレが真実を語らない限りは、君の推察に過ぎない」
それがどれほど有力な仮説であろうとも、真実ではない、と。
「んー、そう挑発されると、カラ松くんの口を強引に割らせたくなってくるよ」
「情緒がないな、ハニー。ここぞという雰囲気を演出してから言いたい男心は、理解しておいて損はないぜ」
「明確な回答はしないけど、ヒントはくれるんだ?」
カラ松くんは微かに驚きを顔に貼り付けたが、すぐに笑って私に流し目を寄越す。
「その解釈は予想外だった。何でもペラペラと喋ってしまうのも一長一短だな、反省する」
両手を顔の高さまで上げて、お手上げのポーズを取る。腹の中は分からない。この話題はここまでだと、やんわりと幕を引かせる意味合いが大部を占める気がした。

「そろそろ帰るか?
トド松もいい加減戻っているかもな」
松野家を出てからスマホに着信は皆無だったが、私は口にしなかった。
「そうだった、トド松くんに会いに来たんだったね」
もう会う必要はなさそうだということも、胸の内に秘めておく。自分の答案が満点であるかを確かめるために、末弟に会おう。




日が沈む頃合いに、私たちは家に戻った。玄関は複数の靴で賑わっている。廊下を挟んで向かい側の部屋からは、聞き慣れた賑やかな声が響く。

「ねぇねぇ、カラ松兄さんとどうなった!?」

引き戸の開閉音を聞きつけ、トド松くんが玄関まで嬉々として駆けてきた。その双眸はランランと輝き、まるでお土産を待つ子供のように期待に満ちている。
『どうだった』ではない、『どうなった』。
「どうって……」
その時点で私の解答用紙に丸がつくのを確信した。
「暖簾に腕押しだった」
「は?」

トド松くんの顔が歪む。
「各所で熾烈な議論を繰り広げた挙げ句、双方譲らず平行線でターンエンド」
「討論会にでも参加してきたの?」
似たようなものだ。私は溜息をつきながら、やはり彼がこの度の諸悪の根源であると確信する。
「トド松くんさ、カラ松くんに何したの?
私が何やっても全然動じなくて、怖いもの知らずな態度で打ち返してくるんだよ。面白みないっていうか、手応えなさすぎて疲弊する」
「カラ松兄さんの態度は別にどうでもいいけど……ほら、何かなかった?男女のさ、二人の進展っていうか…」
「ないけど?」
即座に答えた私に、トド松くんは鼻白む。
「むしろ私が抱く未来が確実に遠ざかった気がするよ。鉄壁の防御で難攻不落
「おいコラ次男!」
青筋を立てたトド松くんがサンダルを引っ掛け、荒々しく玄関を出るや否や、家の前で一服していたカラ松くんの胸ぐらを掴み上げる。
「と、トッティ!?」
「せっかくお膳立てしてやったのに何やってんだ!つっかねぇなぁ、お前はもう!ヘタレ松がっ!」
末弟激おこ。突然激昂されたカラ松くんは、自分の非が理解できずに涙目だ。え、え、と単語にならない言葉を口から溢す。
その時なぜだか不意に、私は感じた。元のカラ松くんに戻ったな、と。


『積極的になる薬』
事の顛末を簡潔に説明すると、これまでのカラ松くんの強気な言動は、上記の薬──デカパン開発──を飲んだ結果ということらしかった。
試作品で二人分あるからと貰い受け、じゃんけんで負けたカラ松くんとチョロ松くんが犠牲となった。カラ松くんに発揮された効果はこれまでの通りだ。

「チョロ松は推しのSNSにこれまで登場した都内の全箇所を巡りまくる聖地巡礼を一昼夜ノンストップで敢行したんだよね。その反動で、今日は全身筋肉痛で二階で寝込んでる」
案内された居間にいたおそ松くんが、楽しそうに顛末を話してくれる。そういえば私が訪問した時、玄関に誰かの靴もあった。あれはチョロ松くんのものだったのか。
「チョロ松らしいっちゃらしいよな」
「不憫な気もするけど、成果を得られたならチョロ松くんも本望…なのかな」
私が言うと、おそ松くんはニヤリとほくそ笑む。
「いやー、それがデカパンの薬の厄介なとこでさ。副作用もあって、効果が切れたらその間のことは何も覚えてないの
「骨折り損のくたびれ儲けか」
「暇を持て余した六つ子の遊びと言ってよ」
やかましいわ。

「───で、オレはハニーに何かやらかしたのか?
謝罪案件なら今すぐ言ってくれ、土下座する
カラ松くんは切羽詰まった顔で畏まる。ニートの土下座は安い。
ブラザーへのやらかしなら最高にどうでもいいが、ユーリ相手なら話は別だ。もしユーリを不快にさせたなら許してもらえるまで謝る」
いつものカラ松くんだなぁと私は嬉しくなった。彼の緊張とは対照的に、私はふへへと声に出して笑ってしまう。
「嫌だと思ったことは一回もなかったよ。カフェでゆっくり過ごして戻ってきただけだし。カラ松くんがやたら自信満々で、自分の意見を譲ろうとしなくて大変だったけどね」
表現はあながち間違ってはいない。嘘は言ってない。
私から簡素に顛末を聞いた長男と末弟は、思惑が外れたらしくあからさまに落胆した顔になる。薬の力を借りて私たちの関係性に一石を投じようとでも画策したのか、いずれにせよ余計な手立てだ。
「なーんだ、つまんねぇの。ヘタレ松ここに極まれり」
「カラ松兄さんマジフラグブレイカーだよね。控えめに言ってクソだわ」
「何でそこまでボロクソ言われなきゃならないんだ…」




寝込んでいるチョロ松くんを見舞った後、カラ松くんに駅まで送ってもらう。いつの間にか外はすっかり暮れて、一日が終わりに近づこうとしている。
トド松くんの策略に乗った形ではあるが、ある意味では充実したと言えそうだ。いい暇潰しになったし、レアなカラ松くんを体験できた。ひょっとしたらもう二度と拝めないかもしれないと思うと、末弟には一応感謝しておくべきなのかもしれない。

「ユーリ」
突然、カラ松くんが立ち止まった。どことなく思いつめた表情に、私は真正面から向き合う。
「ブラザーに語ったことは…事実じゃなかったんだろう?」
「どういうこと?」
穏やかな笑みを貼り付けて、私は問いを返す。
「二人で出掛けている間、オレが自分の意見を譲らず自信家でユーリが苦労した……それは嘘じゃないが、正確でもない───そうだよな?」
私は返答に窮した。彼がどこまで真相に肉薄しているのか分からず、隠しておくべき内容ではない気もするが、私の口から告げていいものか判断がつかない。
彼は私の沈黙を肯定と捉えたらしかった。
「ブラザーたちの手前、気を使ってくれたんだよな…サンキュ」
「ううん、っていうか本当に何もなかったし、誤魔化したつもりもないんだけどね。言葉を選んでたら、結果的にああいう言い方になっただけで…」
私たちが歩く土手を数人の子どもたちが駆け抜けた。人通りの少ない河原で、沈みかけの太陽が水面に反射して眩しく光り輝いている。
「何もなかったのは、ユーリの主観だろ」
私が答えあぐねる間に、カラ松くんの右手が私の胸元に伸びる。首から下げた指輪を彼の指が摘み上げ、カチャリと金属音が鳴った。この時なってようやく、外し忘れていたことに気付く。
「あ…」

「ユーリが自分からオレのリングをつけるはずがない」

つい数時間前の行為を一切合切覚えていないのは、どれだけ不安だろう。口にした言葉も実行に移した行動も、他者の記憶にしかないのだ。取り返しのつかない失態を犯したのではとカラ松くんは疑心暗鬼に苛まれている。
答えは、私しか持っていない。
「…知りたい?」
我ながら意地の悪い訊き方だ。
「知りたい。自分自身に嫉妬する日が来るなんて起こり得るんだな」
カラ松くんは嘲笑し、苛立ちを隠すようにこめかみを指で掻いた。
「カラ松くん自身のことなのに」
「覚えてないのなら、他人も同然だ。一挙手一投足漏れなく教えてくれ。やらかしたことがあれば都度謝る」
恋の駆け引きじみた彼との会話を鮮明に覚えているけれど、カラ松くんの不安をいたずらに刺激するのは得策ではない。不用意にそれを口にすれば、呼び水になってしまう。

「なぁ」
声が、絞り出される。
「オレのリングを首にかけられても……ユーリにとっては、何でもないこと、だったのか?」
カラ松くんの顔が微かに苦悶に歪む。今日一日の出来事が私にとって心の琴線に触れない些末なことだったのか、と。
察しろと願うのは酷な気がした。私自身が繰り返し何もなかったと口にしていたから。
「言葉尻捉えて詰るのは勘弁してほしいな。トド松くんたちの前で、指輪をネックレスにして所有権を主張されましたなんて言ったら、火に油でしょ」
穏便に済ませるには、簡略化したあらすじを伝えるだけで十分だ。自分を犠牲にしてまでニートの暇潰しとなる餌を与えてやるほど、私はお人好しではない。

「え…オレ…ユーリの所有権を主張したの?」
「うん。オレのレディって言った」
私が答えると、カラ松くんは不快感を表情に表した。
「何というか…自分のことながら不愉快だな。見ず知らずの男にユーリが口説かれた話を聞かされてるようだ」
不条理を一応認識はしているらしい。何だかおかしくて、私は笑った。
それから自分の首に下げていたネックレスを外し、リングごとカラ松くんに返す。
「お守りの効果を信じなよ」
「お守り…」
「あと虫除け」
「え?」
カラ松くんが唖然とする───私がおもむろに手を差し出したからだ。
わけが分からない言葉を続けざまに聞かされ、挙げ句に手を求められ、さぞかし混乱を極めただろう。
けれど彼は条件反射のように、私の手に自分のそれを重ねた。
「ユーリ、これは一体……」

「今日のカラ松くんを真似してみました」

その一言で理解に至ったらしい。カラ松くんは空いている手で顔を覆い、長い息と共に混沌を吐き出した。盛大にやらかしてしまった、でも結果オーライだった、相反する感情を上手く処理しきれない顔だ。
でも私は──私にとっての『面白いもの』を、最後の最後で見ることができた。

短編:激まずドリンクを飲み干せ

『激まずドリンクを一リットル飲まないと出られない部屋』
私とカラ松くんが幽閉された部屋の壁には、上記のような指令が書かれていた。


はいはい、全部理解した。みなまで言うな。
通称『○○しないと出られない部屋』という、もうずいぶんと昔から二次創作で定番となっているシチュエーションネタである。閉じ込められた二人が無理難題に挑むことで、脱出までの試行錯誤や心理戦、関係性の変化を読者が楽しむアレだ。
当事者視点で述べれば、指示をクリアしない限り部屋から出られない絶体絶命の地獄

「これまた絶妙な難易度の指令がきた…」
私は頭を抱える。
私たちが閉じ込められたのは、二十畳ほどの白い壁に囲まれた部屋だ。窓はなく、出入り口らしき頑丈な扉が一つあるだけ。ノブを回すも、当然びくともしない。
部屋の中央に丸いローテーブルがポツンと鎮座しており、その上に一リットルの液体が入ったペットボトルとグラスが二つ、壁に書かれた指令を達成するために必要な道具だけが置かれていた。他には何もない。
「なぜオレたちがここにいるのかとか、この指示を達成して本当に外に出られるのかという疑問は多々あるが──やらなきゃいけないんだな?」
カラ松くんが腕組みをして眉をひそめる。さすが当推し、飲み込みが早くて助かる。
「でもまだ達成できそうな内容で良かったよ。
どちらかの目を抉らないと出られないとか、腕を一本差し出さないと出られないとか、そういうのじゃないだけ全然マシ」
「何それ怖い」
カラ松くんが青ざめる。
「…というか、詳しいな、ユーリ」
「まぁ色々見たことあるから。ただこれの定番は、キスしないと出られないとか、告白しないと出られないとかで、恋愛系が多いはずなんだけどね」
「そっちが良かったんだが」
真顔で私に文句言われても困る。というか、私だって推しに全力でセクハラかませる大義名分得られるお題がいいわ、クソが。せっかく脱がせるのにおあつらえ向きなツナギを着ているのに、お触り禁止は拷問だ。

とはいえ、ああだこうだと文句を言っても、時間が無為に過ぎるだけだ。時計がなく時間経過が分からないため、早急に脱出してしまいたい。
私たちがすべきことは助けが来るのを待つことではなく、命じられた指示を達成することなのだ。
「ただ、飲むって言ったって……激まずって書いてあるのがハードル高いよね」
「余計警戒するよな」
ペットボトルにラベルはなく、中には透明度の高い琥珀色の液体。麦茶と言われれば納得できる色合いである。持ち上げて揺らしても、液体内に不純物はなさそうだった。
「ユーリ、成分表らしきものがあるぞ」
テーブルの周りを物色していたカラ松くんが、手のひらほどの小さな紙を掲げる。
「これを信じる限り、有害なものは入ってなさそうだが…」
彼の傍らから覗き込む。漢方薬や健康茶などで見かけたことのある生薬名が羅列している。あいにく生薬の知識に長けていないため、名前を見たところでそれが全て本当に生薬かさえ判断はつかない。
ただ───
「毒はないと思うよ」
「そうなのか?何か根拠が?」
だって、この○○しないと出られない部屋ってそういうものだから。セオリーだから。
「確証ないけど、たぶん。何なら私が毒味するよ」
「毒味ならオレがする」
即座に首を振って、カラ松くんが言う。

「ユーリを危険な目に遭わせられるか」

さも当然とばかりに。
私の顔に笑みが浮かぶ。そうだ、この人はこういう人だった。私を守るって、当たり前のように言い切ってしまう。
「オレがユーリのシールドになる。この成分表が正しいかも分からないしな」
カラ松くんは円卓に置かれているコップを一つ手に取った。
「それにいくら激まずと言ったって限度はあるし、オレたちを騙して時間を稼ぐためのブラフの可能性もあるだろ。そもそも匂いだってそんなにしない」
蓋を開けて匂いを嗅ぐ。激まずを彷彿とさせるような刺激臭はなく、むしろ茶葉を炒めた香ばしさに似たほのかな香りが鼻をついた。
「まぁ見てろ、ハニー。こんなもの一瞬で終わらせてやる」
柔らかく微笑んで、カラ松くんはコップに液体を注いだ。一度私の前に突き出して乾杯のポーズを取り、それからビールをあおるように半分ほどを一気に嚥下した。

はじめに、カラ松くんは目を閉じた。眉間に深い皺が刻まれる。
続いて、片手を眉間に当てて苦悶の表情を浮かべた。血色の良かった顔色は青白く変化を遂げる。
最後に、手にしていたコップをそっとテーブルに戻す。そうしてようやく、彼は口を開いた。

「まっっっっっっっっっっず!」

めちゃくちゃ溜めて言うやん。
「何だこれっ、クっっっっソ不味い!激まずとかいう表現が可愛く思えてくる圧倒的不味さだぞ!オレの味覚が死ぬ!もうヤだ!」
カラ松くんは涙目で声を荒げた。十分の一の消費で白旗上げるのは止めて。先行き不安すぎる。
「え、そんなに?大丈夫?全然変な匂いしなかったのに…」
激まずという言葉が現実味を帯びてくる。看板に偽りなしか。
カラ松くんは自分の口の端についていた液体を手の甲で拭った。こんな時に不謹慎だが、鬱陶しそうに口元を拭う仕草がエロくてたまらん
「や、待て、そうか…オレともあろう者が油断したぜ。こういう不味いものを口に入れる時は、鼻を塞げば良かったんだ」
淀んでいた瞳は輝きを取り戻し、カラ松くんは再びコップを握る。
お手本のようなフラグが立った。
しかし私は余計な口を挟まずに、カラ松くんの行く末を見守る。

───結果。

「ゲロマズ……っ!」
フラグ回収乙です。
「ちょ、マジで何なんだ、これ!
嗅覚を遮断してなお、口内の至る所で地雷爆発させた挙げ句に脳味噌に全力ストレート叩き込まれたような衝撃!もはや不味いってレベルじゃない……これは…精神破壊攻撃だ
表現がえげつない。
「ユーリ、悪いことは言わないから、止めておけ。オレが何とかするから…二十四時間くらいで
飲み干すのに丸一日かかってたまるか。
トイレも休息アイテムもない空間で二十四時間耐久レースは無謀だ。私は大きく息を吸って覚悟を決める。
「大丈夫だよ、カラ松くん。私も半分受け持つから」
根拠のない空元気に近いが、黙って指を咥えて見ているほど弱者ではないつもりだ。私は彼と対等でありたい。
「しかし、ユーリ…」
「一緒に頑張ろうよ」
カラ松くんはあまりの不味さに悶絶していたが、私とてロシアンたこ焼きや罰ゲームでセンブリ茶の一気飲み経験者だ。えぐみや辛さにはそれなりに耐性がある。
私は一度大きく深呼吸してから、コップに一杯分を注いだ液体を半分口に含んだ。

「うん、ごめん、正直に言う……クソマズ
鼻をつまんでいたはずなのに、聴覚味覚を通り越して痛覚に直接フルスイング。人間が口にしていい飲み物じゃない。毒の方がまだマシ。
辛すぎる物を食べると辛さよりも痛みを感じるというが、まさにそのレベルだ。味ではなく痛みが口内に去来する。あと引く不味さ
「うええぇぇえ、まっず!不味いのは分かってたけど、程度ってもんがあるでしょ!なのに体に良さそうな配合なギャップが絶妙に腹立つ!
「だ、大丈夫か…ユーリ?だからオレは止めておけと言ったんだ」
むせる私の背中をカラ松くんが優しくさする。
「イケると思ったんだよ!激辛とか塩辛い味覚殺しじゃなくて、生薬の不味さなら耐えられると思ったの!無理でしたすいません!
咳き込みすぎて鼻水も出てきた。一杯目なのに早くも顔はぐちゃぐちゃだ。




しかし、全て飲みきらなければここから脱出できないのだから、降伏は私たちの選択肢にない。こういうのは勢いが大事だ。グダグダと管を巻いて文句を言う余力は、行動に使うべし。
私は意を決して、残りの半分を素早く飲み込んだ。
「ユーリ…!」
カラ松くんは目を剥いたが、私は彼の反応に構わず二杯目をコップに注ぐ。
「ち、ちょ、ハニー、待て待て!連続はさすがに危険だ、クールダウンしよう」
コップを握りしめた手が制される。それから彼はツナギのポケットから白いタオルハンカチを取り出して、私の口を拭った。
「ユーリは無理することない。時間がかかってもオレがやるから」
心苦しそうに、カラ松くんは顔を歪める。

「ユーリには苦しい思いをさせたくないんだ…分かってくれ」

自分の境遇を顧みず自然に他人を気遣えるのはカラ松くんの強みだ。頼られると喜び、頼り甲斐があると認識されることを美徳とする。
しかし、自己犠牲との境目はとても曖昧である。彼が誤った方向へ片足を突っ込みそうになったら必ず止めようと、私は心に決めているのだ。
「──私も、そう思ってるよ」
ペットボトルを持つカラ松くんの手が止まった。私を見る。

「幸せなことはカラ松くんに独占してほしいけど、辛いことや悲しいことは誰かと分けた方が、ずっと楽だよ。私がいつでも半分受け持つから」

彼からペットボトルを奪って、彼のコップに一杯、私のコップにも同じだけ注ぐ。ほら、そうすればもう半分以上消費したも同然だ。
「早くここから出て、美味しい物食べに行こう」
「───…うん」
はにかんで、心の底から嬉しそうにカラ松くんは笑う。
「よしっ、そうと決まったらこんな辺鄙な所とはとっととおさらばだ!ハニーとのデートのためにオレはやるぜっ」
私たちは決起の意を込めてコップの縁を合わせた後、ひと思いに中身を煽った。


人間の飲むドリンクではないと先ほど記述したが、同じ感想が再び脳裏を過った。激辛で有名なデスソースとはまた次元が違うが、自分の意思とは裏腹に走馬灯が巡る。
視界が白濁して、体に力を込めなければ意識を手放してしまいそうだ。死へのカウントダウンが現実味を帯びてくるが、推しを抱かずに死ねるかという煩悩が私を現世に繋ぎ止める。推しへの下心は生命線。
極力平静を装ってチラリとカラ松くんを見やれば、肩で息をする彼もまた限界が近いことを物語っていた。
これ以上の消耗は危険だが、意識と引き換えになら最後の一杯がいけそうだ。共倒れになっては元も子もないし、カラ松くんのことだから私が倒れても介抱してくれるだろう。

私のそんな思惑を察したのかは分からないが、カラ松くんが先手を打ってきた。
「残りはオレが飲む」
「え、駄目だよ。だって、さすがに──」
「声が震えるほど疲弊してるユーリに、これ以上無理させられるか」
毅然と発したつもりだったが、自分の声は想像以上に掠れて弱々しいものになっていた。カラ松くんの手が、テーブルに置いた私の手に重なる。

「ラストくらい、オレに格好つけさせてくれ」

嘘つき。
危うく声に出してしまいそうになった。喉まで出かけた言葉を飲み込んで、仕方ないなぁ、と私は腕を組む。そこまで言うならと、不承不承譲歩した体で。
「その代わりと言っては何だが……無事出られたら、褒美をくれないか?」
「ご褒美?何がいいの?」
「フッ、さすがは聡明なハニーだな───内容はユーリが決めてくれ。それが褒美だ」
私は首を縦に振った。
「いいよ、期待してて」
二つ返事で了承すれば、カラ松くんは破顔する。一瞬の躊躇さえ、彼の決意に対して失礼な気がしたから。
昼か夜かも分からない白い部屋で平静が維持できる間に、脱出しなければ。

茶褐色の液体の残りをコップに流し入れ、カラ松くんは「よし」と声を出して気合いを入れた。液体が常温であることもまた、想像を絶する破壊力を生み出す一因である。冷えや熱で誤魔化されないから、味がダイレクトに伝わってくるのだ。本気で殺しに来ている。
「いくぞっ」
「いったれ!」
カラ松くんの奮起に呼応して、私も拳を振り上げた。
彼の喉がゴクゴクと鳴る。カラ松くんの顔が苦痛に歪むにつれ、不可思議な液体の量が徐々に目減りし、やがて空になった。テーブルにコップが叩きつけられる。
「っしゃ!オラアアアアァァアァ!」
カラ松くんは天を仰ぎ、両手を上げて盛大なガッツポーズを決めた。筆舌に尽くしがたい達成感に荒ぶる当推し。長らく優勝から遠ざかっていた贔屓の球団が九回裏で逆転優勝決めたみたいな喜びようである。




ガチャリと、扉の方から解錠の音が聞こえた。
「ユーリ、とっととずらかるぞ。オレはもうこのペットボトルを一秒たりとも視界に入れたくない
新たなトラウマ爆誕。
普段と比べ荒っぽい口調で吐き捨て腰を上げようとするから、カラ松くんの手を取ってそれを制する。
「…ユーリ?」
「ご褒美の件について、今ちょっとだけ話してもいい?」
「一刻も早く出たい」
やべぇ真顔だ。
「何分もかからないから」
私の二度の要請に彼は不満げに顔をしかめたが、再び床に腰を下ろした。
「あ、ついでに後ろ向いて」
カラ松くんの背後を指さして言うと、彼は渋々ながら従った。私の意図が分からないせいもあってか、そこはかとなく機嫌が悪い。私は声を立てずに苦笑した。

そして───後ろからカラ松くんの首にそっと腕を回す。

「……ッ!?」
カラ松くんの胸元で自分の手首を掴み、彼の肩ごと抱きしめた。私の顔の側に、彼の耳が来る。
「は、ハニー…っ、何を──!」
カラ松くんの声が上擦る。表情こそ窺えないが、耳は一瞬で赤く染まった。
「頑張ってくれてありがとう、カラ松くん」
ぴくりと肩が揺れる。
「一緒に閉じ込められた相手がカラ松くんで良かった。すごく見直したよ。私の推しはやっぱり最高だね」
「…や、それは、あの……」
「もし次何か起こったら、今度は私が必ず守るよ」
「……ん」
カラ松くんは小さく頷いて、私の顔に頬を擦り寄せてくる。まるで甘える犬か猫だ。男らしく気丈である体裁を望む反面、心を許した相手には別の側面を垣間見せる。これは、私だけに許された特権。
「化粧ついちゃうよ」
「構うもんか」
成人男性にしては弾力のある肌だ。いつだったか、トド松くんほどではないが丹念にケアしていると得意げに話してくれたことがある。なるほど、誇るだけあって効果は出ているらしい。

「で、本題なんだけど」
「は?本題って…何の?」
カラ松くんがきょとんとして私を見つめる。
「今日のご褒美の話。お礼言うのに時間かけちゃったよ、でもすぐ終わるから」
「え、今の…このハグは違うのか?──ジーザス、とんだ策士じゃないか
お褒めに預かり光栄。
このハグは私が推し成分を摂取したいからです、他意はないです、礼なんて口実です。ツナギを着崩した次男の色気おいしい。
「ふふ。これでご褒美なんだけど、『昼寝』ってどうかな?」
「昼寝?」
「うん。家で」
「ユーリの…」
「動いてないけど疲れちゃったから、一緒に並んで昼寝したい気分なんだよね。カラ松くんはどうかな?」
自分の希望を先に述べて意向を伺う形式は、他者とのコミュニケーションを円滑にする。
カラ松くんが褒美を私に一任する旨を口にした段階で、彼の望みをある程度推測するのは容易いことだった。だから私が先回りして語ることで、彼の独りよがりではないと背中を押すのだ。

カラ松くんは私の腕に触れる手に、僅かに力を込めた。
「…フッ、そうかそうかマイハニー!このオレと二人きりでまったり惰眠を貪りたいと、そういうわけだな?
男のフェロモンを放ちすぎるオレと密室で長らく共に過ごしては、独占欲が増長しても致し方ない!いいだろう、麗しのハニーには特別に、オレの時間を欲しいだけ進呈しようじゃないか」
「わぁユーリうれしー」
感激しておく。うっかり棒読みになったけど。


私たちは立ち上がって、扉へと向かう。蝶番が擦れる金属音と共に、外の世界の明かりが差し込んでくる。室内では感じられなかった温い風が、そよそよと私たちの頬を撫でた。
とりあえず私とカラ松くんをこの部屋に閉じ込めた首謀者はギチギチに締め上げるとして、今は脱出の喜びを共有しよう。
「ちなみに昼寝の後に晩ご飯もつけるよ」
「パーフェクトな案だ、文句のつけようがないな」
「でしょー」

扉を開け放つと、眩いばかりの白い光が私たちを照らす。カラ松くんと笑みを交わしながら、私たちは部屋を後にしたのだ。

短編:彼女に媚薬を飲ませたら

とても緩いですが、ユーリ(あなた)×カラ松の描写があります。





「いやー、だって面白そうじゃん」
いつもそうだ。
おそ松は物事の選択を迫られた時、面白そうか否かで判断する傾向がある。根拠のない楽観的な決断に兄弟は幾度となく煮え湯を飲まされ、否応なしに巻き込まれてきた。

ユーリが媚薬を飲んだ。

後にカラ松は、そう聞かされた瞬間に長男を窓から放り投げようと思ったと語っている。


六つ子は二階の自室に雁首を揃えていた。
「デカパンが栄養剤と間違えて飲ませたって連絡あってさ。こっちに来るって言ってたから、後はよろしく的な?」
松野家を訪ねる道中、ユーリはデカパンのラボに寄り、繁盛期で蓄積された疲労感を緩和しようと彼を頼った。いい薬があると快諾したデカパンは、栄養剤と瓶のデザインが類似していた媚薬を誤って飲ませてしまった、と。ユーリがラボを出た後に発覚し、注意喚起の電話におそ松が出たという経緯だ。
「ちょっとデカパン始末してくる」
「落ち着けカラ松。気持ちは分かるけど、すっごい分かるけど!
殺意を滲ませて立ち上がるカラ松を、慌ててチョロ松が制する。
「これが落ち着けるか!ユーリによりによって何てもの飲ませてるんだ、あの半裸パンイチ!」
激昂するカラ松だが、チョロ松の制止を受け入れ、渋々窓際に腰を下ろす。
なぜなら───既にユーリは松野家にいるからだ。
おそ松が電話を聞き終え受話器を置いたのと、彼女が玄関を開くのがほぼ同時だったらしい。

「っていうか、媚薬飲むとどうなるわけ?」
ソファの上で背中を丸めた一松が、純粋な疑問として提示した。
「んー、感度が絶妙に上がる感じ?
ほら、漫画とかAVでさ、適当に触っただけでも気持ちよくなっちゃう、本人はそんなつもり全然ないのにって展開あるじゃん」
眉唾だけどね、とトド松はスマホを振りながら苦笑する。
「僕ちょっとユーリちゃんの様子見てくるよ」
「おい待て、チョロ松」

無表情で立ち上がりかけた三男を、力づくで再び着席させたのはカラ松だ。抜け駆け禁止などという生ぬるい意味合いではない。今のユーリに自分以外の男が触れることは決して許しさない、断固とした意思故だ。
「おそ松兄さんは何でそんな状況のユーリちゃんを一階に置いとくの?帰らせた方がよくない?ガチギレのカラ松兄さんに殺されたい願望?
十四松が長い袖を口元に当て、あっけらかんとする長男に質問を投げかける。
「その辺は悩んだんだけど、デカパンがベータ版だって言うんだよ。要は試作品だから効果は出るかさえ分かんないし、続いたところで一時間が限度だって。
しかも遅効性で、うちに着く頃には症状が出るだろうって話だったんだけど、一階に案内した時はまだいつものユーリちゃんでさ」
つまり、確かなものは何一つない媚薬と名のついた試薬品。何ともはた迷惑なものを飲ませてくれたものだ。後で責任はきっちり取らせようとカラ松は心に誓う。

「それでボクらに報告しに来た、ってこと?」
「俺だけが背負うにはでかすぎる十字架だもん」
おそ松の手に余る案件。一見何の変哲もない、責任逃れが得意な長男らしい回答だったが、カラ松は鵜呑みにしない。
「ということは、背負える程度のサイズなら、媚薬のことをオレたちに隠してオイシイ思いをしようと目論む選択肢もあったわけか
「やだなー、カラ松。ユーリちゃんに手なんて出そうもんなら、お前が黙ってないだろ?
俺は危ない橋は渡らない主義なの」
おそ松はへらりとカラ松の攻撃をかわすが、どこまで本音か疑わしい。
「ユーリを帰らせるセレクトもあったはずだ」
そう告げれば、おそ松はすっと顔から笑みを消した。横目でカラ松を一瞥する。
「万が一帰り道で発症してみろ。見ず知らずの男とユーリちゃんが一夜の関係になったかもしれない。お前それでもいいわけ?」
「……っ、それは…」
気が逸ったとはいえ、失言だった。おそ松なりに最善の手を尽くした結果が今なのだ。
ユーリのこととなると頭が回らなくなる。媚薬と聞いたから、なおさら。

「行って来いよ、カラ松。お前が大事にしてるかわい子ちゃんの所にさ」

にっと笑った口からは、白い歯が覗いた。




ところが、事はドラマのように都合よく運ばないもので。
「みんな二階にいたんだー?」
軽やかな声と共に襖が開け放たれて、話題の主が颯爽と姿を現した。想定外の展開に言葉を失う六名とは対照的に、ユーリはにこやかに上機嫌だ。
「おそ松くん全然下りてこないから、私のこと忘れてるんじゃないかと心配しちゃったよ」
「っ…ユーリ……」
「あ、カラま───」
ユーリと視線が絡み合う。
だが、カラ松の名は最後まで紡がれることはなかった。

ユーリは顔面を両手で覆って崩れ落ちる。

「どうしたっ、ハニー!?」
「何事!?」
カラ松が駆け寄り、背中に手を添えてユーリの体を起こす。他の面々は動揺しつつも、距離を取って様子を見守った。
「くっ…」
歯を噛み締め、苦悶の表情を浮かべるユーリ。
「ひ、ひょっとして体調悪くなったとか…?洗面器いる?」
十四松がおろおろと不安げに体を揺らす。
一般的な媚薬の効果が発揮されるかすら怪しい薬を飲んだのだ。体調不良を起こした可能性も十分考えられる。
ひとまず客間で休ませようと提案しかけた───その時。

「推しが眩しすぎる…」

ユーリの口から突いて出た言葉は、カラ松たちの目を瞠らせた。
「は?」
後光が差して逆に目の毒。
っていうか目を合わせてイケボで呼び捨ての上に抱きとめてくるって、それもう何ていう神ファンサ?我が推し活人生に悔いなし
ユーリは皺の寄った眉間に手を当て、涙を堪えるポーズを取る。もう何がなんだか分からず、カラ松は口を半開きにしたまま固まった。
「あー」
一松が何かに気付いたように声を出し、ユーリの傍らに膝をつく。至近距離で彼女の顔を覗き込んだ。
「お、おい、一松…」
危険だと言いかけてカラ松は口を紡ぐ。危険なのはどっちだ?
「ねぇ、ユーリちゃん」
「何?一松くん」
「倒れてたら心配になるから、とりあえず起きよっか。こいつどかしたら立てる?」
「ごめんごめん、平気」
一松はカラ松を押しのけ、ユーリの視界からカラ松を遠ざける。すると彼女は頷き、気恥ずかしそうに笑いながらも平然と立ち上がった。一松の目をしっかりと見つめて。

「そういうことね、完全に理解した
謎は全て解けたとばかりに、おそ松が嘲るように片側の口角を上げる。瞳から先程までの輝きは失われ、完全に興味を失った面だ。
「どういうことだ?」
十四松やトド松も状況を正しく把握したらしく、溜息をつく者、苦笑いで肩を揺らす者がパラパラと出始める。カラ松だけが蚊帳の外だ。
「───まぁ、つまり」
そう言っておそ松はユーリの背後に立ち、彼女の頭を両手で包んだかと思うと、その顔を強引にカラ松に向けた。再びユーリと視線が絡む。
「え?」
「あ、ち、ちょ──」
ユーリの顔がみるみるうちに上気する。見つめ合った双眸は潤み、所在なげに持ち上げた手は微かに震えているようだった。彼女の口から途切れ途切れに声は出るのに、言葉にはならない。
これは、まるで。

「うちの推しは目で見るタイプの美容液だった!?

理解した。

「えー、これは駄目、ほんと危険、私の情緒がヤバイ。
もう普通に見慣れたと思ってたのに、瞬きする時間が惜しい。二十四時間飽きずに見られるってこういうこと?ビジュアルが良すぎる。
いやそれ以前に、この至近距離で同じ空気吸ってる?…は?同じ空気?
ユーリはじっとカラ松を凝視する。
「推し成分過剰摂取で吐きそう」
「止めろ」
素で制止してしまった。

おそ松は自愛に満ちた微笑を作って、人差し指で鼻の下を擦る。それからおもむろにカラ松の肩を叩いて、言った。
「後は任せた」
逃げる気だ。

長男を筆頭に四人が無言で立ち上がり、階段へと向かう。厄介事からいち早く離脱したい時の、生贄を見放す素早さと団結力は天下一品だ。
「カラ松兄さんにしかできない大事なミッションだよ、頑張れ!ボク応援してる!」
末弟は最高の笑顔でサムズアップ。
「僕らが対応するメリットないし」
チョロ松に至ってはメリットとか言い出した。
「なぁユーリちゃん、カラ松ってそんないい男?」
おそ松の捨て台詞とも思える何気ない問いは、ユーリの逆鱗に触れたようだった。鋭い目で長男を睨む。
「そんな安い一言で推しを語らないでくれる?片腹痛い。
そもそも同じ顔同じ顔っていうけど、顔全然違うし完全に別人格だから。まずはそこ把握して、オーケー?
そんな中でカラ松くんは、スタイルもイケボも性質も可愛さも最高峰の崇められるべき神の如き存在。可愛いと格好いいが同棲して、格好つけたがりのくせに格好つかずに結局可愛いくせに、素の仕草に本人無自覚の雄みが溢れるとんでもない逸材!
イタイ要素が最大のアイデンティにも関わらず、決して他人を傷つけず、しかもそれを取ったら普通にいい奴っていう身近さをも感じさせ

「はい解散」
おそ松が無表情で手を叩き、終焉の合図にする。
「待ちなさいニートたち、まだ序章の一割も語ってない。推しの、布教を、させろ
「解散」
二度目は、有無を言わせない力強さだった。ユーリは大人しく口を閉ざしたが、仏頂面で唇を尖らせる。というか、何でいちいち区切って言った?

「媚薬のくせにエロ要素皆無とか」
「媚薬名乗るのもおこがましい」
「知ってた」
「しゅーりょー」
「効果が切れたら下りてきていいから。それまではお前が責任持って介抱しろ」
五人は列をなしてぞろぞろと部屋を出ていく。出遅れたカラ松は結果的に取り残されたのだが、早口で自分の兄弟の布教活動されたら誰でもそうなるよな、という感想はさすがに持った。




「政府は何してるんだろうね。当推しにSNSの公式アカがないなんて、国宝を蔑ろにしてるも同然の損失なのに。速攻で公式マーク取れるのに。
あ、そっか、私が作ればいいのか!推せる要素盛りだくさんの写真は腐るほどあるし、カラ松ガールズ増殖計画の企画書、今から急いで作るね!
「ユーリ…大丈夫か?」
頭が。
自分が公式アカウントを運営すればいい、そんなことを名案とばかりに目を輝かせるユーリに、カラ松は一抹どころでない不安を覚える。
カラ松を推す発言は今までも度々あったが、カラ松が苦言を呈すればあっさりと引くくらいの冗談の域を超えていなかった。それに知名度を全国区に拡大する野望を抱くことはあれど、ビジョン達成に向けて着手しようとするのはこれが初めてだ。
全力で止めなければ。

「私は大丈夫だけど…でもみんな変だったよね。私、何かしたかな?」
幻影を追い求めるみたいに廊下へと視線を投げ、ユーリがぽつりと呟く。その瞳はどこか寂しげで、ほんの一瞬でも彼女の頭を疑ったカラ松は自責の念に駆られる。
今この場でユーリを安全に守れるのは、自分しかいないのに。
「ユーリ…オレは……」
しかし謝罪が口にされることはなかった。ユーリが後ろ手でカラ松のシャツをたくし上げてきたからだ

「しれっと裾を捲るんじゃないっ」
「いやー、ごめん。急に推しの腹チラが拝みたくなっちゃって」
言いながら手はもう一本増え、胸元まで勢いをつけて引き上げた。腹部がユーリの眼前に晒されて、羞恥心に体温が急上昇する。
「こ、こらっ、ハニー!いい加減に──」
「このお腹まわりのライン、ほんっと理想的なんだよねぇ。程よく引き締まってて、背中から腰にかけては無駄がなく色気がある。みんなが憧れるセクシーな腹筋の代表格!」
ユーリは拳を振り上げて力説する。声高に称賛されると、悪い気はしない。しかも相手は他ならぬユーリだ。
「ま、まぁ…オレクラスともなると、これくらいは当然だ。フッ、ハニーたっての願いというなら仕方ない、存分に見惚れてくれていいんだぜ?」
「えげつないファンサきた」
言い方。


じっと見つめられていたのは、そう長い時間ではなかった。
けれどカーペットに座って膝を折り、開いた足の間にユーリがずいっと体を割り込ませた体勢は実質的に逃げ場がなく、なかなかに気恥ずかしい。
「で、どうすればカラ松くんは脱ぐ?」
裾から手を離し、カラ松を見上げてくる。
「ユーリ…この格好だとシャレにならないだろ」
「本気だよ」
「……え」
耳を貫いた声には、抑揚がなかった。
カラ松の背後は壁と、すぐ近くに腰高の窓。いつの間にか壁際に追い込まれていて、立ち上がろうにもユーリの体があまりにも近い。
「っ、ユーリ…?」
媚薬という言葉が、カラ松の脳裏をよぎる。もしも薬が今なおユーリの体内に作用しているとしたら、彼女の意図は何だ。停止しそうになる思考を回転させ、打開策を考える。

カラ松は体を強張らせたまま、ユーリから目を逸らさずにいた。弱みを見せたら負けだと、なぜかそう思ったのだ。
その様子に気付いたユーリが肩の力を抜き、ふっと笑う。
「怖がらせちゃったか」
体が離れる。
呆然とするカラ松の前で、ユーリは両手を広げた。手のひらを上向けて。
「おいで」
「何、を…」

「クレバーに抱いてあげよう」

満面の笑みでのたまう台詞じゃない。
「…若干オレ化してないか、ハニー」
自分のことは盛大に棚上げし、ついツッコんでしまう。あとその文句はいつか自分が言いたかった秘蔵の決め台詞なので、取られて非常に悔しい




答えあぐねていると、不意にユーリの瞳が鋭さを増した。口元から笑みは消え、殺意にも似た強い感情が双眸に宿る。そして、本能的に感じた危機感からカラ松が脱出を試みるより、ユーリの行動の方が早かった。
カラ松が背を預ける壁に、片手が伸びてくる。
「まったくもう、まどろっこしい」
苛立ちの混じる声で、ユーリが吐き捨てた。
「え…ええと、ハニー…?」

「口開けて」

「はぁ!?」
意味が分からず声を荒げたのを答えと判じたのか、開いた口にユーリが人差し指と中指を追し込んだ。二本の指の腹が、カラ松の喉を突く。
「…なん…っ!」
ユーリはカーペットに膝を立て、カラ松を見下ろした。冷静な、けれど熱を帯びた目が絡み合う。
欲情。頭を掠めた単語に、まさかと笑い飛ばせない。
「上手に舐めてごらん」
そう言いながら、差し入れられた指はカラ松の口内を怪しくうごめく。舌の上を緩やかに這い、口を広げて一本一本歯をなぞった。経験したことのない感触が口の中を蹂躙する。
誤って嚙んでしまわないように無抵抗を貫くのに精一杯で、そう意識すればするほどに長く細い指の感覚を唇と舌が強く感じてしまう。
「んぅ…っ…」
逃げようと舌を引っ込めれば、指はすぐさま追いかけてくる。逃がす気はないらしい。
せめて意識を逸らそうと両手を持ち上げたら、ユーリの腰に触れた。咄嗟にデニムのベルトごと腰を掴んだが、結果的に彼女の腰に両手を回した格好だ。まるで縋るみたいじゃないかと、足のつま先から熱がこみ上げる。
「はに、ぃ……」
口の中に指を入れられているだけなのに、腰が痺れる。思うように力が入らない。
「可愛くおねだりできたら、応えてあげる」
何に。何を。思考に至る回路は切断されて、考えること自体が億劫になっていく。
意図的に動かなくなった彼女の指を、自ら求めるように口に含んで舌にのせた。付け根からつま先へゆっくりと這わせる。
テクニックも性感帯も分からない。繋いだ時の感触しか知らないユーリの指を、口と舌を使ってひたすらに感じ取る。触れる場所が違うだけで、顔が赤らむほど興奮するなんて知らなかった。
「ぅ、んん…」
飲み込むタイミングを失った唾液が、口の端から垂れて落ちる。不快感よりも醜態をユーリに見られた恥ずかしさが先立って片手を上げたら、手首を掴まれた。
「駄目だよ」
「ぁ…ユーリ……?」
どうして、と言いかけた言葉は、虚空に溶けた。

ユーリがカラ松の唾液を舐め上げる。

「ひぅっ」
あと数ミリ近づけば唇に触れる、ギリギリの距離だった。
かつて感じたことのない生々しさを伴って、ぞくりと全身に快楽が走った。視界が白く染まりそうになる。
壁際に追い込まれ、さらに片手を奪われ、襲われているかのようなシチュエーションが、カラ松の興奮に拍車を掛けた。自分が少し力を込めれば立場は容易く入れ替われるのに、そうせずされるがままなのは、きっと───
「ん、あ、待っ…!」
制止は声にならない。言葉を発そうとすると、指に歯を立ててしまいかねないからだ。こんな時まで自分はユーリの安全を最優先にしている。

「ほら、カラ松くんはとっても可愛い」

ユーリもまた、心なしか余裕のない顔だ。掴まれたままの手首が熱いのは、きっと自分の体温のせいだけではない。切羽詰まったユーリを垣間見れた誉れをカラ松は誇らしく思う。やっとユーリにそういう感情を抱かせることができた。余裕がないのはいつもカラ松だけだったから。
しかし小さな優越感が穏やかに浸透した次の瞬間、ユーリはカラ松の口内から指を抜いた。自分の唾液にまみれた二本の指が目の前に晒されて、改めて直視した現実に目尻が赤くなる。体に触れられたわけでもないのに、息が上がった。
「や…ユーリっ…それ…」
タオルかテイッシュか、いずれにせよ何か拭くものをと、緩慢な動作だが腰を上げようとして、カラ松は絶句する。

指についた唾液を、ユーリが自分の舌で舐め取ったからだ。

「ッ!?な、何で…っ」
カラ松の問いには答えず、見せつけるみたいに舌先を指に這わせる。情事のワンシーンを連想させる絵に、眩暈がした。
「濡れちゃったから」
それから乱暴に手を服で擦り、彼女は再びカラ松に向き合う。
「初めてだから、今日はこれで勘弁してあげる」
カラ松の顔にユーリの影が落ちる。
「今日、は……?」
「うん」
ゆるりと、デニムの上から腿を撫でられた。膝から足の付け根にかけてのラインを、まさぐるように手のひらが這い、カラ松の腰はぴくりと跳ねる。

「次は───止めてって言うまで続けるからね」

「っ……は、ぁ」
「可愛い可愛いカラ松くん。お返事は?」
誘われて、もう何も考えられない。
「───…は」
カラ松が返事をしかけた矢先。

ユーリがバッと勢いよく顔を上げた。

「あれ」
素っ頓狂な声が上がった。
今の今まで発されていた艶のある声音は影も形もなく、突如として平穏な日常が戻ってきたような変貌だ。
「何でカラ松くんがいるの?…ん?ここ二階?───え?」
薬の効果が切れたのか。
発症中の記憶も喪失したようで、キョロキョロと不思議そうに周囲を見回した。憑き物が落ちたというのは、まさに今のユーリのようなことを表すのだろう。
不安げなユーリを見ているのは忍びなく、慌てて助け舟を出す。
「…つ、疲れてるんじゃないか?
二階に上がってきた時のユーリはボーッとしてたぞ。その上目の前で転びかけるから、焦ったじゃないか」
咄嗟の理由付けにしては及第点じゃないだろうか。ユーリの疲労はカラ松たちは知らないことになっているし、壁際に追い込まれた格好も転倒のせいにすれば一応の説明がつく。
ユーリは肩を竦めて溜息をついた。
「えー、やっぱカラ松くんから見ても私疲れてるかな?迷惑かけちゃってごめんね」
顔が近づいて、カラ松はドキリとする。先程までの情事もどきの行為が思い出されて、まともに目が合わせられない。
しかしユーリに懐疑心を抱かせないよう、この場を乗り切らなければ。
「カラ松くん、暑い?顔赤いよ」
演じろ、松野カラ松。赤塚高校演劇部で培った演技力を、今こそ発揮する時だ。

カラ松は片手を伸ばし、ユーリの髪に触れる。
「フッ、両翼を隠してガイアに降り立つ天使が通った道には、木漏れ日のようなぬくもりがいつまでも残るらしいな。オレが感じる暑さはそのせいだ」
「どういうこと?」
「───ユーリのことさ」
悠然と指を鳴らし、流し目で決める。たっぷりと意味ありげな間を取って。カラ松が気取れば気取るほど、周囲は真摯に受け止めなくなる。それを利用するのだ。
案の定、ユーリはプッと吹き出した。
「あはは、何それ。私のせいにしないでよ、もう」
ミッションコンプリート。グッジョブ、オレ。




ユーリを引き連れて階下の居間へ向かう。彼女を二階に留めておく理由はなくなった。
一階では、ちゃぶ台を囲むようにして五人がめいめい時間を潰しており、戸が開くや否や全員の視線がこちらに向く。
「あ、やっと終わった?」
畳に寝そべって微睡んでいたおそ松が、億劫そうに上体を起こす。
「終わった、って?」
ユーリが首を傾げる。彼女が媚薬を飲んだ後の記憶を失っていること、そもそも媚薬を飲んだ自覚さえないことも伝えなければとカラ松は慌てるが、カラ松の表情に何かを察した末弟が救いの手を差し伸べてきた。
「ユーリちゃんの推し語りがノンストップで超絶ウザかったから、正気に戻って安心してるって意味だよ」
「えっ!?私そんなことしてた!?」
してた。
「お前も沼に引きずり込んでやるっていう意気込みが尋常じゃなかった」
「一松くんまで…!
ごめん、全然覚えてない……ここ来る前にデカパン博士の栄養剤飲んだけど、効かないくらい疲れてるのかも」
背中を丸めてしょげる姿も愛らしいが、罪悪感を抱かせたいわけじゃない。
「く、薬の副作用ってこともあるんじゃないか?ほら、アレだ、よくあるだろ、デカパンだし」
あのパンツならあり得る、そんな空気を演出する。誰か一人からでも同意があれば、明確な根拠などなくとも、少なくともユーリを安堵させるだけの理由として成立するのだ。祈るように五人を見渡せば───チョロ松が頷いた。
「まぁ薬事承認受けてないし、効果は別として、安全性は怪しいところあるよな」
「ブラザーもこう言ってる。だからそう気に病むな、ユーリのせいじゃない」
宥めるように肩を抱き寄せれば、弱々しい笑みが返ってきた。

「てかさ、カラ松お前よく耐えたね。辛くなかった?」

おそ松の労いをきっかけに、カラ松の脳裏にはつい数分前までのユーリとの濃密な絡みが再現される。映像が、感触が、鮮明に思い出されてしまう。
従属した奴隷のように従って、次回をほのめかす甘美な誘いに脳味噌が蕩けそうになった。
「なっ、何でそれを!おそ松、お前まさかずっと見て───」
全身の血液が顔に集中する。体温が上がるのが自分でも分かる。
そして、そこまで口にしたところで、カラ松は我に返った。盛大にやらかした。
おそ松の顔からスッと表情が消える。
「ええとっ、いや、すまん、そういう意味じゃなく…」
「ユーリちゃん!」
カラ松が言い淀んでいると、それまでバランスボールに全身を預けていた十四松が突然軽やかに跳躍し、ユーリの前に躍り出た。
「二階で遊ばない?
もうすぐ一松兄さんの新しい友達の猫が遊びに来る時間なんだ。ユーリちゃん見たくない?」
「…ああ、もうそんな時間?
飼い猫みたいに人懐っこくて毛並みがいいんだよ。背中に三日月の模様もあって。おれもユーリちゃんに紹介したい」
一松は顔色一つ変えず五男の話に乗り、うっすらと笑ってユーリに体を向けた。ユーリは両手を合わせて破顔する。
「見たい見たい!」
「だよね!じゃあ行こう、ユーリちゃん!」
十四松も顔を綻ばせた。ユーリの背中を押して、バタバタと忙しなく部屋を出ていく。一松もその後ろに続いたと思いきや、振り返って長男にサインを送る。
『後で詳しく報告しろ』
おそ松は無言で右手の親指を立てる。
『任せろ』


三人分の足音が遠ざかっていく数秒間が、まるで永遠に感じられた。物音一つ聞こえなくなった静寂の中、微動だにしない三人に囲まれたカラ松は、さながら裁判で判決を言い渡される被告人だ。審判を待つ瞬間は、顔から血の気が引く。
何をどう説明したところで、彼らを納得させるだけの材料にはなり得ない。
「さて」
口火を切ったのは、おそ松だった。
「お楽しみだったようで何よりだよ、カラ松」
一切の音を立てずに三人は床から立ち上がる。

「媚薬の効果、教えてもらおうか」

短編:呪いと書いてまじないと読む

茜色の太陽が沈む夕暮れ時、長い影がアスファルトに伸びる。二つの影は私たちの足先から前方へと長く尖り、対となる本体に追随していた。今にも立ち上がり、一個体として動き出しそうな不気味ささえ漂わせながら。
視線の先で並ぶ影法師は肩を寄せ合うように、ゆらゆらと揺れる。
「久しぶりにチビ太の屋台にでも行くか?」
カラ松くんの軽快な声に、私の意識は現へと引き戻された。呆けていたことを悟られないよう、緩やかに頷く。
「いいね。おやつ食べ過ぎたから、食べたいっていうより飲んで話したい気分」
「フッ、ミートゥーだぜ。気が合うな、ユーリ。
まぁ、地上に降り立ちし美しきミューズを満足させられるのは、ガイア広しと言えどこのオレくらいなものだしな」
自分の胸元に片手を当て、カラ松くんは感慨深げに息を吐いた。ときどきかましてくる大仰な言動は未だ健在で、私のスルースキルも適度に磨かれていく。
彼の演技は、高ぶる感情の表現方法の一つであったり、照れ隠しであることも多い。理由を把握できるようになってからは、可愛いと思うようにもなった。

私は早足で二歩ほど前に出る。オレンジ色が溶ける地面の上に、闇から抜け出たみたいな彼の影。腕を額に当てたポーズが綺麗に再現されている。
「シャドウもイケてるだろ?」
私の視線に気付いたカラ松くんが、立ち止まって自画自賛する。躊躇なくそんな台詞が吐けるのは彼くらいだろう。
「本物の方がいいよ」
「…へっ!?」

片足で、彼の影を踏む。ちょうど胸元辺りを、軽く。

「私の推しは、本体の方がずっとずっと可愛いんだから」
断言するように告げたら、カラ松くんは目を瞠った。その顔の赤さは夕焼けのせいなのかそうでないのかは、もう判断がつかない。手の甲で口元を隠されたから、余計に。
「そっ、そういうことを急に言うのはズルくないか!?」
「だって本当のことだし」
影は本体の形を模った付属物に過ぎない。異形とも言える。
私は跳ねるようにして彼の前に躍り出た。

「それに、こうやって突然褒められたら──忘れられなくなるでしょ?」

強く印象に残して。記憶に刻んで。私を。
まるで刻印だと内心で苦笑したところで、カラ松くんが私の腕を取る。顔が至近距離まで近づいた。
「忘れないどころの話じゃない。
これ以上オレを夢中にさせたいとは、思いの外貪欲なレディなんだな」
「欲に際限はないんだよ。満足感なんてひととき持続すればいい方。でも反面、それが行動の原動力にもなったりするから一概に悪とも言えない」
「なるほど、一理ある。
さすがはハニーだな。貪欲で聡明で──しかもキュートだ」
カラ松くんが目を細めて微笑む。

私の一切合切を見透かさんとする、意志の強い瞳だった。




「そういえば、この前ユーリが夢に出てきたぞ」
松野家二階の六つ子の部屋で、カラ松くんからウーロン茶のグラスを受け取りながら、そんな話を聞かされた。私の顔を見て唐突に思い出した、そんな顔だ。
「私が?」
「ああ。ほら、先週会っただろ?その日の夜だ。
オレと離れたくないばかりに、夢の中にまで会いに来るとは大胆なハニーだ」
前髪を指先で横に払って、モテる男はツライぜとばかりに溜息を吐く。
「ふふ。それで、どんな夢だったの?私変なことしてなかった?」
夢の内容は支離滅裂なことも多い。現実世界では決して起こり得ないシチュエーションが忙しなく展開され、いずれも脈絡はない。
そして多くは、目が覚めたら忘れてしまう。
「確か…夜に突然うちに来て、オレを攫っていったぞ。どこへ行くかオレが訊いてもユーリは笑うばかりで要領を得なかった。
しばらく走って、辿り着いたのは歌舞伎町だ。ここで朝まで飲み明かそうと言ったユーリのあの楽しそうな顔は、今も目に焼き付いてる」
彼は透明感のある甘栗色の液体で、喉の渇きを癒やす。過去を懐かしむような遠い目は、どこでもない彼方に向けられていた。
「何ともディープだね」
「悪くない誘いだったぞ。誘い方がもう少しセクシーなら完璧だった」
他人の夢に無許可で出演させられた挙げ句の駄目出し。解せぬ。
「絶対にあり得ない、っていう展開じゃないのがまた微妙なところだね」
出演料寄越せという本音は胸にしまっておく。

「ユーリがすごく楽しそうで、だからオレにとっては───いい夢だった」


不意に訪れた静寂を、私たちは心地良さと共に受け入れる。言葉を紡ぐことが無粋になる気がして、私は半分ほど中身の減ったグラスに両手を添えた。
しかし、静寂はカラ松くんによって早々に破られる。彼が下ろした手が床に置かれていた雑誌に触れて、くしゃりと音を立てたからだ。
「あ、ごめん。変なところ置いてたね」
犯人は私だ。不定期に購読しているファッション雑誌で、カラ松くんもグルメや有名俳優のインタビューといったコーナー記事を読みたがるから、ときどき私が新刊を持ってくる。
「…おまじない?」
雑誌を手に取り、カラ松くんが呟く。表紙に『あなたの恋を叶える!読者が試した効果のあるおまじない三十選』と大々的にキャッチコピーが書かれている。
「うん、懐かしいよね。久々に聞いたよ、おまじないって言葉。まだあるんだね」
己の未来を非科学的存在に託し、結果が出るまでただひたすら胸を高鳴らせる。自分の力では到底成し得ない高望みをする時に、好転を祈って私たちは非科学的なそれに縋るのだ。感覚的には神頼みに近いが、一定の行為を成して誓いを立てる分、神よりも身近な存在である。

「カラ松くんは、神頼みってしたことある?」
私の問いに、彼は顔を上向けた。幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
「受験の朝にトンカツを食べたことはあるが…」
「願掛けかぁ。おまじないと言えないこともないかな」
一般的におまじないは、神仏などの神秘的な何かに頼り、願いを叶えようとする術を示す。
「こういうのはガールの得意領域じゃないのか?」
「確かに。小学生の頃に一度は流行るよ」
女子は男子に比べると早熟で、中学年高学年ともなると、恋愛をはじめ非科学的なことにも興味を示す多感な時期だ。一つのことに向ける熱量も、大人とは比べ物にならない。
「席替えで好きな人と席が近くなるとか、好きな人と話せるとか、そういうのは特にね。根拠は何もないのに、おまじないをすれば何とかなりそうな気がしてたよ。運良く叶ったらすごく嬉しくてさ」
カラ松くんがムッとするのが分かった。感情はすぐ顔に出る。
「ユーリは──」
ずい、と上半身が私に向けられる。
「ユーリはそういう…恋愛絡みのおまじないをしたことがあるのか?」
好きな人と隣の席になれますように。好きな人と話せますように。
接点を作る努力よりも、偶然に運命を委ねて一喜一憂する。経験を重ねた今でこそ、玉砕も覚悟の上で、不確かな運に任せずに自らの手で掴み取りに行く方を選ぶけれど。
「どうだろ、覚えてないな。あったかもしれない」
私は曖昧に笑って、首を傾げた。
カラ松くんにとっては納得できる反応ではなかったらしく、不服そうに眉間に皺を寄せる。

「オレはそういう…おまじないの類には疎い方だったな」
以前聞いた六つ子の小学生時代を思い出す。ひたすらに騒々しい日々。
「悪事を働くのに全力投球だった」
さすがは六人の悪魔。

「イヤミを不幸のどん底に叩き落とすために黒魔術くらいはやったかもしれんが」
おまじないの上位互換を幼少時に経験済みとは恐れ入る。話の展開考えて暴露しろ、怖いわ。
「あ、でもアレだぞ、黒魔術は成功前提の儀式であって、その後でちゃんと物理的にイヤミは始末したから
カラ松くんは慌てて弁明するが、弁明になってない。イヤミさんとどんな確執があったらそんな凄惨な処刑に繋がるのか。黒魔術もとんだ風評被害だ。
「あとは、遠足前のてるてる坊主とかくらいだな」
「あー、てるてる坊主は定番。やるよね」
和やかな展開に移行したので、先程のぶっちゃけ発言はスルーさせてもらおう。ありがとうてるてる坊主。




カラ松くんがパラパラと雑誌を捲る。開いたのはおまじない特集だった。恋愛に関するものがメインだが、金運や仕事運といった読者層が興味を持ちそうな項目に関しても幾つか紹介されている。
私も横から覗き込む。
「カラ松くん、見てこれ。面白そうだよ」
「どれどれ」
私の指先を辿った先を、カラ松くんの目が追う。
「…『関係が進展するおまじない』?」
「効果じゃなくて、手段の方。腕にボールペンで相手の名前を書いた上に絆創膏を貼って、三日間剥がれないようにするってヤツ」
単発的な行動で済むまじないが多い中、少々根気を要する手法だ。絆創膏が剥がれると効き目がなくなってしまうと書かれているから、取り扱いには細心の注意を払わなければならない。

二人の関係を進めるには、何らかのきっかけが必要なこともあります。そんな「恋のきっかけ」を引き寄せてくれるおまじないです。

そんな謳い文句と共に。
トリガーなんてなくとも進展するものはするし、しないものはしない。冷静に文句をつける余裕はあるのに、なぜか引き付けられるキャッチコピー。
このおまじないのおかげで放課後に彼と二人きりになって告白されました、なんて信憑性を疑う読者コメント付きだ。

「やろう」

次男坊が何か言い出したぞオイ。
「やろうって……これを?」
カラ松くんは私の問いに頷き、悩ましげな吐息を吐きつつ腕を組んだ。
「抗えないデスティニーで引き寄せられているオレとハニーには不必要この上ないが、効果があると豪語するこのおまじないとやらの効力を、この目で確かめてやるのもやぶさかじゃないと思ってな」
呆気に取られる私をよそに、カラ松くんは畳み掛ける。展開に思考が追いつかない私は、口を半開きにしたまま言葉を失っていた。
彼が期待したであろう反応を返さなかったためか、カラ松くんは顔を朱に染めて、動揺しつつ両手を眼前で大きく振った。
「───な、なんて。
…っ、すまん、調子に乗った…聞かなかったことにしてくれ」
気まずそうに視線を逸らすから、私は咄嗟にかぶりを振る。
冗談じみた口調の中に、見え隠れしていた本音。湖に落ちた一本の髪の毛のようなそれを、私は掴む。
「違う、ごめん、違うの。その、ほら…もう何年もこういうおまじないからは縁遠かったから、実践するイメージがつかなくて、驚いただけ」
だから。
「いいよ、やろう」
「ユーリ…」
カラ松くんははにかんだ笑顔を見せてから、私の気が変わらないうちにと階下から必要な道具、ボールペンと絆創膏を取ってくる。

そもそもおまじないは呪いとも書くように、相手に分からないように行うのが基本だ。事前に身を清めたり丁寧に行う必要性など、呪術的な意味合いも多分にある。ポジティヴなイメージが先行するおまじないだが、呪い(のろい)とは表裏一体と言えるだろう。
だから、相手に実施を宣言した上で目の前で行うこのおまじないに、どれほどの効力が見込めるかは定かではない。
ないよな、普通。

肘の近くに、ボールペンで相手の名前を書く。本人を目の前にして体に名前を書く行為は何となく気恥ずかしいものがあった。細いペン先が肌を滑る感覚はくすぐったくて、反射的に身を捩りたくなってしまう。
「三日後に絆創膏を剥がしたら、その日から一週間以内に相手との間に何かが起こる…ねぇ」
「オレとユーリが同時にやるんだから、勝率は二倍だな」
やり方が根本的に間違ってるから勝率もクソもないと思うが。
私が乾いた笑いを溢すと、カラ松くんは絆創膏を差し出しながら意味ありげに笑みを作る。

「起こらなければ、起こせばいいだけの話だ」

関係性を進展させるための何かを。
「帳尻を合わせればいい。そうすれば、結果的には叶ったことになるだろ?」
「強引すぎない?」
「大義名分になるじゃないか。自然と起こればそれはそれで問題ないし、仮にオレがユーリに何かしたところで、おまじないのせいだと言える」
静かに語る彼の腕に私は触れる。袖を捲ったパーカーに隠れる位置に、絆創膏で覆われているとはいえ、私の名が書かれているのは不思議な感覚だ。
間接的な接点。所有物の証みたいな。
「それ、事前にネタばらししたら意味ないんじゃない?
黙ってたら、私を体よく騙せたかもしれないのに」
「そこがミソだ、ハニー」
カラ松くんはニヤリとほくそ笑んだ。
「一週間、きっとユーリは何が起こるのかとドキドキするだろ?」
右手の親指と人差し指で、私の髪を摘む。微かに皮膚が引っ張られる感覚が、今この場面が現実だと私に知らしめる。

「オレのことで頭がいっぱいになることが、オレの思惑だ」

呆気に取られる私をよそに、彼の口上は続く。
「──なんて言ったら、もうユーリの頭からオレが離れなくなったんじゃないか?
腕に名前を書いてることだし、絆創膏を見るたびに思い出すはずだ。まるで───呪いみたいに」
のろい。
それこそ呪術的じゃないか。
一笑に付そうとして失敗する。目には見えない魂胆が言葉に乗って、私の思考を呪縛する。
「でもそれは…諸刃の剣だよね」
私は彼の頬を両手で包み、にこりと微笑みかけた。

「私にかけた呪いは、カラ松くんにもかかってるんじゃない?」

まじないは両者に施されているから、私たちの立場は同等だ。どちらかが優位なんてない。
「───っ!」
案の定、カラ松くんの頬が見る見るうちに赤く染まる。頬に触れる私の手にも、その熱が伝わってきた。顔を背けようにも、私の両手がそれをさせない。逃さない。
「……咄嗟のカウンターにしては上出来じゃないか、ハニー」
「知ってると思うけど、私はされるよりする方が好みなんだよね」
「一筋縄ではいかない、というわけか」
「私を出し抜こうとするなら、慣れない挑発はしない方がいいかも」
けれど、悪くない案ではあった。私の恥じらいを誘発し、冷静さを失わせる効果が発揮できていれば、今頃は彼の手の上だったに違いない。
しかし申し訳ない、私は攻めだ

「私が一週間の間にカラ松くんに何かしても、免罪符になるってことだよね?」

直後、カラ松くんの顔が赤から青になったことは、言うまでもない。




「……早まったかもしれん」
がっくりと肩を落として項垂れるカラ松くん。
「まぁまぁ、とにかくまずは三日間の第一関門を突破しないとね。絆創膏を剥がれないようにするって意外と大変だよ」
「フッ、その辺はノープロブレムだぜ、ハニー」
カラ松くんは軽快に指をパチンと鳴らす。
「水に強い絆創膏だ」
さすが抜かりない。

「とはいえ、オレはブラザーたちと毎日銭湯通いだからな。怪しまれないよう、細心の注意を払う必要はある」
三日に渡り、五人の目を欺くのは決して容易いことではない。妙なところで感の鋭い連中だ。貼り替えられない絆創膏を怪しむ可能性は十分あるし、何なら強引に剥がしにかかる危険性も孕んでいる。
カラ松くんはようやく事の重大性に気付き、ハッと顔を上げた。
「…これ、何気に難易度高くないか?」
今更気付いたか、とんだドMめ

「いや待て、乗り越えるべきハードルが高ければ高いほど、得られる対価も同等に高いはずだ。ハイリスク・ハイリターン……要は、オレの力量が試される愛の試練というわけか。いいだろう、受けて立つ!」
楽しそうで何よりだ。私はいち抜けたい。
そうは思うものの、互いの腕に相手の名を刻み、特定の期間誰の目にも触れないよう隠す行為に、意味もなく背徳感を感じるのはなぜだろう。悪事を働いたわけでも、道徳に反したわけでもない。
ああ───なるほど、これが『まじない』か。
信じる信じない以前の、これがまさに。

「言っておくがユーリ、オレはドリームを追い求める探求者だが、同時にリアリストでもある」
カラ松くんが口を開くので、私は彼の目を見る。
「つまり、何だ…おまじないなんて非科学的なもの、普段はやらない男なんだぞ」
「あ、うん、言ってたね」
疎い方だったと。念押しされるまでもなく、記憶している。
「特に相手ありきの願望に対しては」
窓から差し込む日差しがカラ松くんの瞳を照らして、キラキラと輝く。どこからともなく甲高い鳥の鳴き声が聞こえる。

「本気で振り向いてほしいと思う相手には、得体の知れないものなんかに頼らずに自分の力で何とかしたい。そう思って努力してる」

静かな空間に響く、ひどく耳障りのいい声。
「……つもりだ」




ユーリを駅まで見送って部屋に戻ると、自室には誰の姿もなく、自分たちが出た時のままだった。空になったコップを片付けようとして、ソファの隅に放置された雑誌に目が向く。ユーリが持ってきたものだ。
「忘れていったのか…」
独白して、拾い上げる。
「後でユーリに伝えておこう」
ソファに腰を下ろし、パラパラと捲る。女性誌はコンテンツが充実しているし、ファッションの幅も広く、学びも多い。今回のおまじない特集は、老若男女問わず一定数いる占いや開運に興味を持つ層をターゲットにしているのだろうか。そんなことをぼんやり考える。

ふと、ページを捲る手が止まった。特集の中に『影を踏む』おまじないを見つけたのだ。

この前、夕暮れ時に影の話をした。影もイケてるだろなんて気取ったら、本物の方がいいと返された、あの時──

彼女は、カラ松の影を踏んだ。

視線を地面に落とし、偶然を装ったような澄ました顔で。
「そうだ…それで、その日の夜にオレは───」

ユーリの夢を見た。

影を踏むおまじないの効果は───相手に興味を持ってもらう。
カラ松は目を瞠ったが、やがて肩を揺らす。
「興味なんて生易しいもんか」
そんな漠然とした対象だったのは、ほんの一時だけだった。それどころか、最初から心が奪われていたと言っても過言ではない。

カラ松はそっと雑誌を閉じる。ユーリが施した術に気付いたことを、彼女に悟られてはいけないと思ったのだ。雑誌は忘れていったのではなく置いていったのではないか、そんな猜疑心にさえ駆られる。
告げたら最後、彼女の手のひらから二度と降りられなくなるような、そんな気さえして。
けれど、今はもうそれさえも───
「そういうことか……ユーリ」
ソファから立ち上がる。もう半時間もすればユーリが自宅に着く頃合いだ。時間を見計らって電話をかけよう。

「これがおまじないの効果ってヤツか」

別れたばかりなのに、どうしようもなく彼女に会いたいのは。

短編:派生の方々と一緒

※カラ松派生キャラがメインの話です。




運命の歯車が狂い始めたのは、知らない街に足を踏み入れた時からだった。

予定のない休日の午後、少し長く電車に乗って、名前も聞いたことない駅で下車をした。高層とまではいかないビルが立ち並び、人通りは多くもなく少なくもない、特段見所のなさそうな街に降り立つ。スマホも地図も見ずに気ままに一時間ほど歩けば、長らく感じたことのなかった新鮮なときめきが胸に湧き上がり、私の足取りは自然と軽くなった。
見知らぬマップを散策して新しい景色に出会う、まさしく冒険だ。


「やっべ、迷った」
しかし胸の高鳴りはそう長く続かなかった。
大通りを避け、路地を見つけるたびに入り込んでいたら、いつの間にか立派な迷子の出来上がりである。土地勘のない街での散歩は現在地を見失いがちだ。どの方角から自分がやって来たのかさえ分からない。
とはいえ、心配無用。こういう時の文明の利器、スマートフォンである。現在地から駅までの最短ルートを検索し、示す通りに進めば万事解決だ。そんな結末を見越しての無謀な散歩だった。
「便利な世の中になったもんだね」
独白してスマホのディスプレイをタップした私は、次の瞬間に絶句することになる。

圏外。

「は?何で?」
焦ってスマホを振るが、表示は変わらない。不具合かと再起動しても、電波は届かない。Wi-Fiならいざしらず、キャリアの電波が届かないほど寂れた街ではないと思うのだけれど。
不運にも、周囲は人気のないシャッター街。長らく使用された形跡のない錆びたシャッターが数十メートルに渡って並び、朽ちた外壁や塗装の剥がれた看板も相まって、寂寞感が漂う。見渡す限り、人の姿はない。
「とにかく、人を探さなきゃね」
駅までの道のりさえ分かれば、どうとでもなる。

数十メートルほど歩いた先で、ようやく人を発見した。路肩に停車した黒い車の助手席側のドアに寄り掛かり、煙草を吹かす男性。これぞ天の助けと、私は足早に向かう。
「あの、すみません!」
彼が装着する黒いサングラスに、不安げな私の顔が映る。
年は私より少し上だろうか、コバルトブルーのシャツに車のボディカラーと同じ色のスーツを着崩した若い男の人だった。鎖骨の上でゴールドのチェーンネックレスが光る。
私は言葉を失った。だって、だってそれは───

「どうした?迷子か、お嬢さん」

疑惑は確信へと姿を変えた。
けれど『彼』は、そんな物言いはしない。私に対してお嬢さんなんて呼称は使わない。
都内の街中だというのに圏外を示す携帯、まるで人気のない寂れた商店街、知らない景色。この状況が示す一つの仮説は、到底受け入れられるものではなくて。
「あ、あの…私……」
何を言えばいいのだろう。何の冗談だと、一笑に付せばいいのか。
黒目を彷徨わせる私をよそに、彼は指先で自分の前髪を払う。
「キュートなロストチャイルドのお嬢さん。交番へ案内してやりたいが、いかんせん縁遠いんだ。それにここは危険だから、離れた方がいいぜ」
「えっ、危険って…」
「オレは忠告したからな」
言うや否や、彼は素早く私の腰に片手を回した。抵抗すべきか思案する暇もなく、ほぼ強制的に地面に膝をつく格好になる。
すぐ傍らで、ガシャンと鈍い破裂音が耳を突き抜け、車体が揺れる。片側のサイドミラーがアスファルトに転がったのを見てようやく、狙撃という単語が脳裏を掠めた。
けれど脳が理解を拒否しようとする。正常化バイアス故か、恐怖感はちっとも湧いてこない。
「…間一髪、命拾いしたな」
眼前の彼は愉快そうに笑って、私の肩越しに視線を向ける。
「───あ」
振り返った先のビルの屋上で、太陽の光を受けて何かが鈍く光った。黒い影は、私たちに何かを向けている。
私がその正体に気付くより、彼が動くのが先だった。腰から引き抜いた拳銃を高く上げ、引き金を引いたのだ。

耳をつんざく轟音。立ちのぼる硝煙。床に落ちる金の薬莢。
「まだ追っ手がいるな」
「…はい?」
認識の処理が追いつかない。
「乗りかかった船だ、お嬢さん。安全な場所まで連れてってやるから、オレに命預けてくれるか?」
全力でお断りします。
反射的に口にしそうになったのを、すんでのところで飲み込む。彼は返事を待たずに、私を車の助手席に押し込んだ。




追っ手がいると彼は言った。そして強引に車に乗せられ、シートベルトを厳命される。思いきりアクセルが踏み込まれる。その時点で次の展開はやすやすと予測できた───カーチェイスだ。
シートベルトがなければ体がフロントガラスを突き破っていたに違いない。ベルトが幾度となく胸元を圧迫し、吐き気を催しながらも私にとっての命綱をしっかと握る。文句の一つでも言いたいが、口を開けば舌を噛みそうだった。
ハンドルを握る黒いスーツの彼は、サイドミラーで照準を合わせながら、背後に向けて何度かトリガーを絞った。
手慣れてやがる。もう何が何やら。後ろの車が横転して火を吹いた気がしたが、見なかったことにしよう。
「お嬢さん、名前は?」
「えっ!?あ、ええと……ユーリです」
「…ユーリ、か」
彼は片側の口角を上げる。

「オレは───カラ松だ」

ああ。
やはり。
私は驚かなかった。確かめないようにしていた現実が、ただ突きつけられただけ。
これがパラレルワールドってヤツかと、私は気が遠くなった。


いつの間にか日が暮れていて、辺り一面が茜色に染まる。車に乗っていたのは一時間もなかったと思うが、雑居ビルが立ち並ぶ閑静なビジネス街と思わしき場所でようやく解放された。
その内の、一階が車庫になっているビルに車を入れた。騒々しい音を立ててシャッターが下り、彼はガレージの奥に設置されたドアを開け、私をその先へと促す。
待て待て。
「…あの、カラ松く──さん」
「ん?」
「もう外暗いし、追いかけてくる人もいないなら…私、ここでお暇していいですか?」
私は帰りたいのだ。無関係を装いたいのだ。本物の銃を慣れた手付きでぶっ放すような危険極まりない輩とは、今すぐ他人になりたい。いや最初から他人だけども。
カラ松くん──面倒なので名目上この名で呼ぶことにする──は、腰に手を当て、気怠げに溜息を吐いた。
「奴らに顔を見られたのにか?」
有無を言わさず関係者として巻き込まれる絶望感ってこういう気持ちか。

事件の目撃者はいつも切ない。
「…や、でも、私本当に関係ないですし……」
「一般人に素性を知られたオレの身にもなれ」
知らんがな。お前の落ち度やんけ。
「ブラザーたちにプロ失格と罵られる」
あ、五人の悪魔たちもいるのか。意味もなくホッとする。
「絶対誰にも言いませんから」
「見ず知らずのお嬢さんを信じられると思うか?」
カラ松くんは腰のホルスターから銃を抜き、私の胸に突きつける。僅かな躊躇もない。向ける眼差しは冷徹で、やはり私の知る彼ではないのだと思い知らされる。
だとしても。

「私はカラ松くんを悲しませないよ」

押し返すように触れた銃口は冷たかった。
言ってから、くん付けしてしまったとハッとする。私よりも年上らしい彼に対して、失言だ。
「あっ、違うんです!あの、知り合いにすごく似た人がいて、その人も同じ名前で、それでつい──」
カラ松くんの右手の人差し指にはタコができている。銃の扱いに慣れた手だ、親指の腹も厚い。そして全体的にセクシー、物憂げな表情も加わって尋常でなくセクシー。セクシーの神と呼んで差し支えない。
可愛いの権化であるカラ松くんとは異なる様相が眼福すぎるからぶっちゃけ離れがたいし、呼吸するように欲情もする。
「……ユーリ」
その呼び方も、声も、本当にそっくりで。
抱きてぇなぁと心底思ってしまうのも致し方ない。仕方ないね。
「えっと、だから、本当に!推しの名に誓って口外はしませんので!」
言いながら私はスマホを取り出す。幸いにも圏外は解消されていて、ヒャッハーこれで帰宅じゃああぁぁと歓喜して地図のアプリを立ち上げる。
しかし私を待ち受けていたのは、落胆だった。現在地から自宅までの経路を検索しようとして、エラーが出る。該当する住所は存在しない。最寄り駅の名前も微妙に異なる。次いで松野家を調べるも、同じ結果だった。
何でなん?
「──で、帰れそうなのか?」
絶望を顔に貼り付けた私をからかうように、カラ松くんがニヤニヤと尋ねてくる。私は無言で首を横に振った。
「仕事に支障が出るから放流したいところだが、奴らを潰すまでの辛抱だ。しばらくメイドとして雇ってやる。
ブラザーたちには、オレの女とでも言っておくか」
「……お願いします」
答えた私は、苦虫を噛み潰したような顔だったに違いない。

「人前ではオレの連れらしく振る舞うんだ。分かったな───ハニー」




連れてこられたビルは彼にとってアジトのようなものらしく、私には客間が与えられた。ベッドやデスクといった最低限の家具が備えられており、ビジネスホテルの一室のようだ。
共有スペースとなるリビングはダイニングと繋がっているために間取りは広く、開放的だった。その半面、インテリアはひどくシンプルで、彼の趣味や感性はほとんど感じられない。悪い言い方をするなら、殺風景な印象。
私は彼の家政婦として、生活空間の清掃や食事を任された。家事で衣食住が保証されるなら安いものだし、打開策を見出すまでの我慢だ。

さて、そんな歪な生活を始めて数日が経った頃。最寄りのスーパーで食材の買い出しを終えた帰り道のことである。
スニーカーのつま先にコツンと何かがぶつかる感覚がして、私は足元に視線を落とす。銀色の懐中時計だ。持ち上げた私の手のひらでカチコチと時を刻む。
「落とし物?」
近くに交番はあるだろうかと周囲を見回した次の瞬間、私の目にうさ耳が飛び込んでくる。正確を期すなら、うさ耳をつけた子供の後ろ姿だ。可愛いなぁと思ったのもつかの間、振り向いたその子と目が合う。

カラ松くんだ。

否、カラ松くんの顔をした小さなうさぎ、それが子供──と私が当初認識した──の正体だった。きらびやかな青いスパンコールのジレに、赤の蝶ネクタイ。パンツの下から覗く足は白い毛に覆われ、形状もうさぎそのもの。
私は無言で目頭を押さえた。これ、見なかったことにして帰ってもいいだろうか?
私のキャパはもうとっくにゼロよ。何なんだこの世界、推し祭りか
「えーと…カラ松…くん?」
不思議の国のアリスに出てくるような白うさぎに、声をかける。正しい呼び名かは自信はない。
「時計を見なかったか?」
「え?」
「時計を落としてしまったんだ。このままでは遅刻してしまう」
ハートの女王でも待っているのか。
「もしかして…これ?」
「ああ、それだ!ありがとう、これで間に合う」
私の腰ほどの小柄なうさぎは、幼さの残る顔で私に微笑む。
「それじゃあ」
別れの挨拶もほどほどに、軽やかなステップで私の傍らを駆け抜ける。跳ねるような足取りで狭い路地裏に入るので、私は、あ、と声を漏らした。
「待ってカラ松くん!その先は───」

行き止まりのはず。

我に返った私が静止すべく覗いた時には、彼の姿は既になかった。




「遅かったじゃないか、ハニー。寄り道か?」
リビングのソファで、シャツ姿のカラ松くんがタブレットから顔を上げた。サングラスを外し、スーツの上着を脱いでいるだけなのに、ラフな格好に見えるから不思議だ。相変わらず表情は冷ややかだが。
「帰りに変な物を見て…」
どうせ言っても信じてもらえないだろう。私も幻覚を見たような気持ちだ。自分の目に自信が持てないのは心細い。
「ふむ」
けれどカラ松くんは私の言葉を否定しなかった。
「まぁ、少なくとも寄り道しなかったのは確からしいな」
「何で分かるんですか?」
エスパーか?
私が目を剥いていると、カラ松くんは立ち上がって私の襟に触れた。
「ここに発信器をつけてる。万一ユーリが攫われても助け出せるようにな」
「それは…心配してくれてるってこと?」
目の前にいるカラ松くんの眼光は鋭い。滅多に笑わないし、愛想も悪くぶっきらぼうだ。懐いた飼い犬のように屈託なく笑う『彼』とはまるで違う。
でも───
「匿うと約束した手前、安々と奪われちゃプロの名折れだからな」
信頼できる人だと思うのは、思い違いだろうか。
「既にお前の存在は知られているだろうから、オレの弱点として狙われる可能性がある。…誤解もいいところだが」
早々にその誤解を解いて解放してくれませんかね。
「なら、せめて足手まといにならないよう努力します。何ができるか分からないけど、迷惑かけないよう──」
それに、早くこの夢から覚めなければ。
「不要だ」
「でも」
私の反論は、カラ松くんによって遮られる。彼の無骨な手が、私の髪に触れた。

「しばらくいろとユーリに言った責任は取る。
攫われてもすぐ助け出してやるから、安心して拉致られろ」

安心できないし拉致られたくないんですがどうしたらいいですか。

「───それで、いつまでそうやって突っ立ってるつもりだ?」

カラ松くんは煙草に火をつけ、口の端に咥える。紫煙を立ちのぼらせながら、蔑むような一瞥を私に向けた。
「可愛がってほしいなら、ソファに移動してやってもいいぜ」
クククと肩を揺らして、意地の悪い台詞を投げてくる。
「遠慮します」
「シャイなハニーだ。我慢は体に悪いぜ」
「最高に冷静で平常心です、どうぞお構いなく
たちの悪い冗談だ。彼の本心が読めないから余計に、受け流すのに労力を要する。




自室の窓を開けたら、涼しげな風が私の頬を撫でる。そよそよとカーテンが揺れた。
この世界は夢なのか平行世界なのか、それさえ判断がつかないまま数日が過ぎた。本当は全部今まで通りで、私の認識だけエラーを起こして幻を見ているような、そんな気もするのだ。
順応するよう努めているが、ふとした瞬間に途方もない不安が押し寄せる。万一帰れなかった時のことも、想定しておくべきかもしれない。

「ユーリ」

いつの間にかドアが開いていて、カラ松くんが入ってくる。
「まだ起きてたのか?」
私は思わず笑ってしまう。
「深夜に堂々と異性の部屋入ってくるあたりは、本家とは違うんだよねぇ」
「ほんけ?」
珍しくきょとんとするカラ松くん。
「前に言った、そっくりな人の話ですよ。顔も体格も声も同じなのに、性格が全然違うから変な感じだなって」
「ユーリが帰りたいのは、そいつに会いたいからか?」
突然、不穏な空気が漂う。あいにくと、変化に気が付かないほど私は鈍くない。
「それもあります」
「…お前の男か?」
「違うけど、違うとも言いきれないような関係でして」
何せ唯一にして至高の推しなので。私の知る彼が元祖で本家なら、今目の前にいるマフィアか殺し屋の一味のようなカラ松くんや昼間出会った白うさぎは、派生といったところか。

「そうか」
小さく呟いて、カラ松くんは私の肩を抱き寄せる。
「……より一層帰したくなくなった」
一軍みたいなこと言うやん。
「冗談キツイです、カラ松さん」
さん付けは未だに慣れない。気を抜けば、いつもの癖でカラ松くんと呼びそうになる。
「どんな仕事をしているかは聞きませんが、私は足手まといにしかなりませんよ。
私のせいでカラ松さんが危険な目に遭うのは嫌です」
「そう…なんだよな」
「でしょ?」
「ユーリのような素人を守りながらできる仕事じゃない。お荷物なのは間違いないんだ。
なのに…手放すのを惜しいとさえ感じてる」
カラ松くんはハッと忌々しげに自嘲する。
「お前がスパイじゃないという確証さえ持てないのに、だ」
信じてと懇願することは容易い。
しかし最終的に結論を出すのは彼自身な上、辿り着くまでには長い時間をかけて信頼を積み重ねる必要がある。たかだか数日衣食住を共にした薄い関係性で、信用しろと言う方が無理な話なのだ。
「その辺は行動で示すので、見ててください」
だから取るべき行動は一つ。
「推しは幸せでなければいけませんから!」
私の行動原理は揺るがない。例え平行世界の別人でも、夢の中の幻想でも、推しは幸せであれ。

両手の拳を握って鼻息荒く力説する私に、ついにカラ松くんは吹き出した。ここに来て初めて見る、彼の笑顔だ。
「ははは、何だ、推しって。お前本当に変な奴だな、ユーリ」
まだ幾分警戒心はあるが、彼の頬に赤みが差した。ほんの少しだけ声が軽くなる。
「ま、なるようになるだろ。起こってもいないことを考えるのは不毛だな」
「一理ある」
「少なくともカタがつくまでは、ユーリはオレの連れ合いだ」
不意に、耳元に唇が寄せられる。耳朶に触れるか触れないかの近距離、微かな吐息が皮膚にかかって、思わず目を瞠った。

「よろしく頼むぜ、相棒」

イケボは人を殺す。




それ以来、何かにつけて私の部屋にカラ松くんが訪れることが多くなった。晩酌の誘いだとか夜の警護だとか様々な建前でもって、すげーグイグイ距離を詰めてくる。ニートの本家もこう積極的であったなら、今頃は名実ともに一軍所属だったに違いない。
私も私で、推しの誘いを断れず許容してしまう。絵面が最高すぎるからだ。特に余裕ぶった眼差しで銃の手入れをする姿に至っては、具現化した尊さの襲撃でしかない。気を抜いた時に見かけようものなら、神々しさで目がやられる。つまりは弱いのだ、推しに。

だからといって踏み込んだ関係性になりたいのかというと、答えに窮する。前にも後ろにも進めずに困惑しているというのが正直なところだ。

この世界に来てからもう何度目か分からない溜息を吐いたら、額が何かにぶつかった。
「わっ」
慌てて視線を上げると、イケてる顔面と目が合う。ブルーのインナーに白いシャツを重ねた、学生服を着崩したような格好の青年だ。艶のある青い髪を、鬱陶しげに掻き上げる。
「いってぇな、前見て歩きやがれ」
声が。
「ご、ごめんなさい!よそ見、してて……」
誰か、どうか嘘だと言ってくれ。
「つまんねぇ顔してるからだろうが、ブス」
力の限り殴りてぇ。
開幕五秒で喧嘩売るスタンスを売りにしてるのか、こやつは。
「あの…」
言い淀んでいると、彼は腕組みをして私の顔を覗き込んできた。近い近い。
「あー、何だそのツラ、悩みでもあんのか?」
「はぁ、うん、まぁ…」
他人に言っても詮無いことだ。そういう思いもあってか、返事が投げやりになってしまう。
「このオレ様が目の前を通ってるってのに気付きもしねぇんだ、よっぽど大層な悩みなんだろ?
特別に聞いてやってもいいぜ」
「ええー……」
いらん、帰れ。
本音は表情に出たが、幸か不幸か言葉にはならなかった。私に構わず今すぐ解放してくれという願いは誰に届くこともなく、呆然と立ち尽くす。

小さなメモを手渡される。白い紙に、右上がりの癖字で書かれた文字が並んでいる。
「どうしようもなくなった時は連絡しろ」
ポンと頭を撫でられて。
「一回だけなら助けてやる」
言葉を返せずにいる私にカブスカウトのように二本指で敬礼し、彼は背を向けて去っていく。細く長く影が遠ざかり、やがて雑踏の中に紛れて消える。
私は受け取ったメモに目を落とす。そこには携帯番号と、彼の名前が書かれていた。

───カラ松。

推し祭り開催中か?




さて、その後のことを少しだけ記述しておこう。
同じ顔をした五人の黒スーツ集団が窓を蹴破って突撃かましてきたり、デレ期が訪れたツンデレカラ松くんに溺愛されたり、げっそりとやつれて行き倒れるリーマン姿のカラ松くんを街中で目撃したりとこれまた散々な目に遭うことになる。

だからこれは、私が見た長い長い夢の、ほんの始まりのお話だ。




※続きません。

短編:推しのポテンシャル

我々は往々にして、他人に対してレッテルを貼っている。湾曲したレンズを通してラベルをつける。この人はこんな人、といった類の身勝手に決めつけた印象だ。先入観、固定概念が入り交じり、事実実態からは遠ざかる。
しかし印象は一定ではなく、接触によって都度更新されるものである。加えて、新たに得た印象がこれまでのレッテルを覆すポジティブなものだった場合、相手への評価は爆上がりする。心理学でいうゲインロス効果───俗に言うギャップ萌えだ




私が待ち合わせの駅前に着いたのは、約束を十分過ぎた頃だった。
直接的な原因は電車の遅延だが、所詮は言い訳だ。だから階段を駆け下り、人の波を掻き分けるようにして足早に約束の場所へと向かう。

「えっ、その…困ります…っ」
不意に、私の耳が声を捉えた。戸惑いがちに紡がれるその声は、聞き慣れたものだ。柱の影から、胸の高さまで所在なげに持ち上げられた手だけが覗く。手首に装着された腕時計には、見覚えがあった。
「カラ───」
「いいじゃんいいじゃん、お兄さん暇でしょ?」
声の主の向かい側に、二十代とおぼしき女性が二人見える。彼女らはにこやかな笑顔で誘いをかけていた。
割って入るべきか判断がつかず、私は数メートル離れた場所でひとまず呼吸を整える。
「暇じゃなくて、あの…友人を待ってて…」
「えー、友達って男の子?」
「ならこっち二人だし、私たちと君たちでちょうどよくない?」
「あ、それいい!」
女性二人は興奮して盛り上がる。しかし彼にとってその反応は想定外だったらしく、緩やかな拒絶を示す手に力がこもった。

「っ……か、彼女なので!……だから、すみません」

たどたどしく、けれど毅然と言い放たれた言葉。よほど彼女たちを振り切りたいとみえるが、いかんせん威力が低い。
「やだー、嘘ぉ!」
「体よく断ろうったって駄目だよー」
なるほどなるほど、完全に理解した私の推しに手を出そうって輩か。
気持ちは分かる。分かりすぎて何なら彼女たちには握手を求めたい。何しろ当推しは可愛いの極みだし、絶妙にエロいし、かつイケボ標準装備という最高品質だ。接点を作るために積極的に声をかけるその行動力たるや、同士として尊敬に値する。
しかし相手を困らせるのは度し難い。対推しといえど、礼節は重んじるべきだ。


「カラ松、お待たせー!」

私は大袈裟にはしゃいで、背後から彼の腕を両手で取った。
「───ユーリっ!?」
カラ松くんの声が横からかかるが、呼び声には応じずに体を擦り寄せた。直後、今まさに眼の前の彼女たちに気付いたとばかりにハッとしてみせる。
「えーと……カラ松の友達?」
「へっ!?…や、違──」
念のため言質を取っておく。
「ごめんなさい、私の彼氏に何かご用ですか?」
彼氏。ひゅ、と息を呑んだのはカラ松くんだった。お前は余計なこと言うなよ、絶対だからな、フリじゃないからな。
「えー、マジで彼女だったんだ?」
「何だ、残念」
二人は顔を見合わせて、苦笑した。肩を竦める仕草には愛嬌さえ感じられる。
「ごめんね、彼氏のことナンパしちゃった」
「私たちが強引にしてただけだから。この子ちゃんと断ってたよ」
「……はぁ」
彼女たちのあっけらかんとした様子に、私は肩透かしを食らった気分だった。推しに仇なす者は滅すべきと意気込んだ私の独り相撲だったらしい。申し訳ないことをした。
二人は軽く頭を下げ、背中を向けて去っていく。群衆に紛れて見えなくなるまで、私たちは無言で見送った。

静寂に終焉を告げたのはカラ松くんだった。
「すまん、ユーリ…助かった」
「あ、うん」
ずっと腕を組んだままだったのを思い出し、私はそっと手を離す。
「カラ松くん、困ってるみたいだったから助け船出そうとしたんだけど…」
余計な手出しだっただろうか。
「っていうか、カラ松くんナンパされるの初───」
気まずさを誤魔化すために笑いながら顔を上げ、私はようやくカラ松くんの顔を見た。そこで私の目に飛び込んできたのは───

どちら様ですか?

「……あ?」
驚きのあまり野太い声が出た
私の眼前に立っていたのは───まさしく一軍所属の人だったからだ。見た目は正真正銘松野カラ松その人だが、髪型がまるで違った。
額を覗かせたアップバングに、束感のある無造作ショート。イケてるメンズが自慢の顔面をひけらかす際に選択する髪型の一つである。額を露出することで強気な眉が一層印象的だ。ニキビ一つない滑らかな肌も眩しい。
私は開いた口が塞がらなかった。
「…カラ松くん、だよね?」
「えっ!?ああ、良かった…放心してるからどうしたのかと心配したぞ、ハニー」
あ、うん、間違いなくうちの推しだ。
「って…もしかして、オレが彼女とか言ったからか!?」
例によって勘違いと誤解が甚だしい。どこの少女漫画の鈍感ヒロインだ、お前は。
「すまん!あれは何というか、あのレディたちへの断り文句であって…別にユーリに対してそういう風に意識してるとか……んんっ、ちょっと待て、タイムっ、タイムだ!」
赤くなった顔を片手で押さえて、大きな溜息を吐くカラ松くん。苦悩する表情も実にイイ。
「何というイケメン…」
「…ハニー?」
「ホテル行く?」
情事へ誘う言葉がナチュラルに私の口を突いて出た。
「はぁ!?」
「いや、だって、何その髪型…完全にイケてるメンズ
そりゃナンパもされるわ。こちとら欲情もする。
ただでさえ一軍に引けを取らない出で立ちと、自信に満ちた顔つきから、雰囲気イケメン──私にとっては最高クラスの顔の良さだが──を立派に務めていた。彼を構成するパーツの中で、眉付近で真っ直ぐに切り揃えられた髪型は没個性的であり、同時に六つ子らしさの象徴でもあった。そのシンボルが失われ、洒落たヘアスタイルを手にした今、彼は名実ともに一軍だ。

「…ああ、これか」
カラ松くんは自分の髪に触れ、乾いた笑いを溢す。
「今朝は寝坊した挙げ句、寝癖がひどかったんだ。シャワー浴びてる時間もないから、ワックスで固めてきた。
……へ、変か?」
セクシーな肉体美とイケてる顔面のコラボは殺傷能力が高すぎる。私は早くも虫の息だ。




さて、イケてる男子へと変貌を遂げたカラ松くんに対し、推し活に余念がない私が平常心を維持できるはずもない。瞬きする時間さえ惜しみ、連写しまくってスマホの充電は数分で半分以下になり、動画では舐めるように全身を撮影したあたりで、本人からいい加減にしろとストップがかかった。
体のラインがしっかりと出るVネックの黒シャツにスキニーデニム、足元はエンジニアブーツというシンプルながら罪深い出で立ちも、私の暴走に拍車を掛けたと言っていい。推しは今日もすこぶる尊い。

複合施設が軒を連ねる、人通りの多い通りを歩く。休日を謳歌する学生から、携帯で通話しながら颯爽と闊歩するサラリーマン、仲睦まじい家族連れまで、様々な人が私たちの傍らを通り抜けていく。
私とカラ松くんは肩を並べて、目的地までの最短ルートを進んでいた。
「…なぁ、ユーリ」
不意に、カラ松くんが居心地悪そうに眉を下げた。
「その、異様に視線を感じる気がするんだが……」
私に不安げな表情を向け、言外に救いを求める。フィジカルが強く、己に対して確固たる自信を構築しているように見えて、案外小心者。
私は口角を上げて答える。
「今日のカラ松くんが格好いいからじゃない?」
「格好いいのはいつもだろ?」
即答か。そこはブレない。

私は右手の人差し指を下唇に当て、思案する。彼に伝わるように伝えなければ。
「いつも以上に色気が出まくってるっていうのかな。隣にいる私なんて、霞むどころか引き立て役感が凄まじいくらい」
私としては、自分のことを卑下するつもりは毛頭なく、分かりやすい比較対象として例に上げたつもりだった。
しかしカラ松くんは看過できないとばかりに鼻白む。

「ユーリ以上に輝いてるレディはいないだろ。どこにいてもすぐに見つけられるくらい綺麗なのは、オレが保証する」

違う、そうじゃない。
相変わらず私のこととなると自分を二の次にする癖があるな。悪い気はしないけれど。

「フッ、まぁハニーを含めたオーディエンスがオレの虜になるのも無理はないな。どんなヘアスタイルもパーフェクトに似合ってしまう…オレ!
無自覚に魅了してしまうのも、生まれながらのギルドガイに科せられた宿命…」
カラ松くんは額に手を当て、切なげに吐息を漏らす。今日も絶好調で何よりだ。
「似合ってるよ」
「そ、そうか…?」
「うん。すごくいいと思う」
より一層抱きたくなった、という本音は隠しておく。私がにこりと微笑めば、カラ松くんは気恥ずかしそうに視線を落とした。
「オレとしては仕方なくという感じだったんだが…ユーリにそう思ってもらえるなら、寝癖が直らなくてラッキーだった」
へへ、とカラ松くんははにかんで笑う。可愛いの権化は本日も健在。




ショッピングモールのトイレを出ようとした時、今まさに中に入ってきた二人組の女性とすれ違う。年はおそらく私と近い。
私が彼女たちに関心を抱いたのは、二人が顔を赤らめていたからだ。何か特別な出来事の直後、そんな印象を受けた。イベントで有名人でも来ているのかと、そんなことを思った矢先のこと。
「ね、あの人見た?」
「黒い服の人?うん、見た見た。格好良かったよね!」
おや。
私の足は自然と止まる。
「誰か待ってる感じじゃなかった?やっぱ彼女かな?」
「そりゃそうでしょ。この階、女性向けフロアだよ。男子トイレは下の階にもあるし」
「やっぱそうだよね。デートかぁ…いいなぁ」
うっとりと感想を溢しながら個室へと消えていく彼女たち。立ち止まった私の正面には等身大の姿見があって、鏡に映る私は──満足気にほくそ笑んでいた。

「カラ松くん、お待たせ」
「ユーリ!」
私を視認するなり、ぱぁっと頬に朱が差す。目が合って、私もへらりと笑ってしまう。先程すれ違った女性たちに彼が褒められて、何となく誇らしい気持ちだった。
「どうした、ご機嫌だな」
「ふふ、カラ松くんと一緒で楽しいからかな」
返答としてはあながち嘘でもない。意図的に言わないことがあるだけだ。
カラ松くんは私の言葉に僅かな疑いも抱かず、素直に受け取ったようだった。嬉しそうに目を細めた後、チッチッと口元で人差し指を振る。
「ノンノン、ハニー。オレの台詞を取らないでもらいたい。ユーリの貴重な休日を共に過ごせるのは、何ものにも代え難い栄光だぞ」
砂を吐きそうになるほど甘ったるい台詞にも、もうすっかり慣れてしまった。時に冗談めいて、時に真剣に、彼は胸中に巣食う感情の一部を吐き出す。私だけに。
「次はどこに行きたい?アクセサリーでも見に行くか?」
「いいよ。カラ松くんに似合うのあるといいね」
てっきり欲しい物でもあるのかと思ったが、どうやら違うらしい。カラ松くんは緩くかぶりを振った。
「オレのじゃない。ユーリのを見に行くんだ」
「私の?」

「アクセサリー一つで印象が大きく変わるだろ?オレは色んなユーリを見たい」

この人は、自分が人を惹き付けているなんて思いも寄らないのか。いつもは自分の魅力を盛大にひけらかすくせに、他者からの視線には無頓着だ。彼がかつて望んだ群衆からの羨望の眼差しをこれでもかと浴びているのに、今の彼の目には──私しか映っていない。




それから幾日か経った頃、トド松くんから怒涛の電話があった。風呂上がりに何気なくスマホを持ち上げたら、数十件の着信履歴が表示されていたのだ。若干引いた。
「ちょっとユーリちゃんっ!ボク聞いてないんだけど!」
折り返すなり、耳をつんざく怒鳴り声。すぐさまハンズフリーに切り替え、テーブルに置く。
「ごめんトド松くん、急にどうしたの?何の話?」
タオルで髪を拭きながら、私は努めて冷静に返す。彼が言及したい内容は大方予想がついていたが、私が察していると知れば一層怒り狂うだろうから、しらばっくれておく。

「ファッション誌の公式SNSに、カラ松兄さんとカップル扱いで写真が投稿されてるでしょ!」

やはりその話題だったか。
「えー、あれ本当に投稿されたんだ?すっかり忘れてたよ」
驚いた演技ですっとぼける。
「っていうかトド松くん、あのSNSチェックしてるんだ?
やっぱ流行に敏感なだけはあるね、さすがだなぁ」
「え?や、ま、まぁ…都内のトレンド押さえるならフォローすべきアカウントだし?見てて当然っていうか?」
「だよね。トド松くんならフォローしてるかなって思ってたよ。
先週投稿されてた新店のショップは見た?トド松くんの好みに合いそうなお店だったよ」
「え、そうだった?まだ見てないかも。後で確認しとく」
「今月はオープンセールなんだって」
話題は流行りのファッションに移行し、和やかに会話が弾む。スマホのスピーカーからトド松くんの笑い声が聞こえてきて、私もにこやかに微笑む。
「──って煙に巻こうったって、そうはいかないからね」
突如として吐き出される言葉は無機質な声音に乗って。
チッ。騙されなかったか。さすがは荒波に揉まれてきた歴戦のニートだけはある。

何を言われるのかと僅かに警戒した矢先、末弟は長い溜息の末、独白のように小さく言った。
「……ま、いいや。兄さんたちには言わないでおくよ」
「別に秘密にするつもりはないけど」
隠し立てするようなことでもない。見つかったなら事実を話すまでだ。
「あれこれツッコまれて疲弊するのはボクだから。そういう面倒なのに対処するだけで体力使うんだよ。特にあいつら相手だと」
末弟の苦労が偲ばれた。




「───ということがありまして」
トド松くんとの電話から数日後、我が家の最寄り駅近くにあるカフェのテラス席で、アイスコーヒーをマドラーでかき混ぜながら私は語った。プラスチックコップがかいた汗が、ぽたりとテーブルに落ちる。
「……カップル…」
カラ松くんは私の手元に視線を落として、呆然と単語を反芻する。
気にするのそこか。でも見て、いい感じに撮れてると思わない?
さすがはプロのカメラマンの撮影!」
私は相好を崩しながら、彼にスマホの画面を向ける。写真の中で私とカラ松くんは、互いの肩を触れ合わせて立っている。足が長く映るような角度に始まり、喧騒の中の撮影とは思えないほどの人気のない背景、自然体な被写体のポーズ、どれを取っても絶妙だ。
私が写っているのはいささか気恥ずかしい思いもあるが、いかんせん推しが素晴らしい。当推しの良さという良さが最大限に引き出されている。
しかも、前後の投稿に比べていいね数も数割増しという反響だ。

あの日、街を歩いていたら声を掛けられた。数十万のフォロワー数を誇るファッション誌の公式SNSに写真を載せたいという。
自分のファッションセンスに絶対の自信があるわけでもない私は、恐れ多いと辞退すべきかカラ松くんに助けを求めるように視線を向ける──それが間違いだった。彼は声を掛けられて当然とウェルカムの構え次男坊の自尊心の高さ舐めてた。

「あ、このコメント、美男美女だって」
写りの良さはカメラマンの技術に依るところが大きいが、思わずにんまりしてしまう。
「オレがイケてるのは事実だしな」
躊躇皆無で、世の理であるかの如くしれっと言い切りおった。その自己評価の高さはどこから来るのか。
「世間がようやくオレに追いついただけだ」
もはや清々しい。
「…しかし、まぁ」
カラ松くんは下唇に指を当て、思案顔になる。

「ユーリの可愛さが正当に評価されるのは嬉しいな」

彼は笑う。
「これで世間的にもオレの目は確かだったと証明されたぞ、ハニー」
私を世界で一番綺麗だとかミューズだとかいう過大評価に、そう思ってるのはカラ松くんだけだよとかわしてきた。その度に彼は不満げな顔をしてきたが、根に持っていたのか。
カラ松くんへの賛辞が大半を占めるコメントの中、彼が注視するのは私に向けられた意見ばかりで。
「ユーリに関するオレの審美眼は間違いなかったわけだ。数多のレディも、ユーリの神秘的な引力の前には肩なしだから、当然と言えば当然だが」
怒涛の称賛。居た堪れない、助けて。

コップに口をつけて、話題を変える。
「でも今日はいつもの髪型なんだね」
カラ松くんが髪型を変えたのは、あの日の一度きりだった。
「まぁな」
持ち上げた右手で前髪を緩く掻き回した後、彼はテーブルの上で両手を組む。
「髪型を変えたあの日に改めて痛感したんだ…オレはただでさえ、着飾らずとも存在自体がテンプテーションなギルドガイだということを。カラ松ガールズを卒倒させながら街を歩くのは、民衆を惑わし戦争の火種にもなりかねない
そして心底心苦しそうに、長い吐息を吐き出す。さながら、己の言動一つで世界を掌握できる権力者の嘆きだ。反応に困る発言きたこれ。
「そっか」
軽い相槌に留める。同意も否定も悪手でしかない。

「ユーリは…あの髪型の方がいいか?」
僅かに前のめりの姿勢で、カラ松くんが尋ねる。

「ユーリが前の方がいいと言うなら、次からはあっちにする」

それを聞いて、私は笑ってしまった。
「この前の髪型も似合ってたけど、今の方が見慣れてるからなぁ。
どんな髪型でもカラ松くんはカラ松くんだよ。坊主でも茶髪でも、何でも。私にとっては全部カラ松くん」
意思決定を他人に委ねてはいけない。
「だからね、カラ松くんがいいと思う方にしたらいいと思うよ」
決定的に似合ってなかったり、魅力を激減させるものについては口を挟ませていただくが、基本的にはやりたいことをすればいい。アイデアや意見を求められたら、その限りではないけれど。
「うん…そう、か」
窓ガラスを通して照りつける柔らかな日差しが、血色のいいカラ松くんの頬を染める。
「なら、いつも通りでいく。ユーリが気に入ってくれたのは、この姿のオレだしな」
「たまに髪型変えると新鮮で楽しいけどね。
ただ、純粋にモテたいなら、この前の髪型一択。ほんと、すごい人気だったから」
「ユーリ以外にモテたところで意味ないだろ」
鼻で笑うようにコーヒーを嚥下したところで、カラ松くんはカッと目を見開いた。震える手でカップをテーブルに戻す。
「……ウェイトだ、ハニー。今…モテたって言ったか?」
「え?うん、ナンパもされてたし?」
「ジーザス…っ!そうだったのか!あれがナンパか!
気付いてなかったのか。マジか。
「むしろ何だと思ってたのか知りたい」
マジで。
「他のレディといることで変な誤解されたくないし、とにかくユーリが来るまでに離れてもらわないととしか考えてなかった…」
「可愛い子だったのに?」
「え…そうだったか?…覚えてない」
「じゃあさ、もし私と待ち合わせしてなかったらどうしてた?」
その問いかけに、カラ松くんはハッと鼻で笑う。
「小学生でも女子というだけで緊張するオレだぞ?」
愚問でした。何かすいません。


膠着状態に陥った空気を断ち切ったのは、カラ松くんだった。裁判官が決着の印とする槌を叩くように、拳を振り下ろす。カップの中身が振動で波打つ。
「とにかくだ、オレは他のレディはそういう目で見てない。
仮にヘアスタイルを変えてモテるようになったとしても、ユーリがオレを見る目が変わらないなら、オレにとっては無用のステータスなんだ」
「私にモテる条件が、ダサいことだとしたら?」
困惑を誘うだけの意地の悪い質問だと自分でも思うが、彼がどう答えるか興味があった。案の定、カラ松くんは眉間に皺を寄せ、小さく唸る。
だが思案に耽る仕草をしたのは、ほんの数秒の間だった。
「……折衷案を検討させてもらいたい」
苦肉の策といった様子が見て取れた。私の歓心を買うためにアイデンティティを投げ出すような決意に至らなかったことに、私は内心安堵する。
「良かった、自分らしさって大事だよね」
誰のためでもない自分のために、ブレない芯は必要だと思う。処世術として人に合わせることも少なくないが、流されるのと合わせるのは似て非なるものだ。波に飲まれてはいけない。

「私はね、従順でつまらない駒は欲しくないんだよ」
テーブルに頬杖をつき、もう片手の人差し指でカラ松くんの顎に触れる。喉仏が突き出され、ごくりと音が聞こえるようだった。
従属はいらない。
「ユーリ…」
私は、対等でありたい。

「さっきのSNSの写真、保存はしておいてくれ」
ああ、やはり人気のバロメータとして気にはするのか。
「もちろん。コメントも一応控えておくね」
私がそう告げると、カラ松くんは一瞬不思議そうに首を傾げたが、すぐにこくりと頷いた。彼の反応に違和感を覚える。
「そうだな、せっかくだしな」
「あれ、必要なかった?カラ松くんが後で見返したいかなと思ったんだけど」
「オレがか?
確かにハニーとのツーショットに関しては記念に残しておきたいが、一歩間違えば崇拝の対象ともなりかねない、何なら歴史書に名が残るであろうレベルのオレがイカしてるのは、周知の事実だろ?
つまり、称賛は感動に値しない、と。さすが松野家トップオブナルシストの異名を欲しいままにする次男だ。
「メディア掲載記念って感じかな?」
他人にカメラを向けられることに抵抗のない──むしろ積極的にフレームインしてくる──カラ松くんだから、ツーショットなんてもう数え切れないほど撮ったけれど、有名メディアのSNSに掲載されるのは初めてのことだ。最初で最後かもしれない。
彼のためではなく、自分のために後で保存しておこう。貰ったコメントも含めて。
「別にメディアはどうでもいいんだ。有名だろうが無名だろうが」
「じゃあ───」
なぜ。
私が呆気に取られていると、カラ松くんはテーブルに置かれていた私のスマホを持ち上げ、該当の画面を突きつけた。

「ユーリがいい笑顔で写ってる」

それが理由の全てだと言わんばかりに。

私の台詞を奪わないでくれと苦笑すると、自分だけだと思うなよとカラ松くんは不敵な笑みで応じる。やがて互いの視線が絡んで、どちらともなく肩を揺らして笑った。
晴れた日の、穏やかな昼下がりのことである。

短編:白銀の世界で恋人たちは

「雪の降る日に、ユーリと出掛けたかった」
カラ松くんは相好を崩しながらそう告げて、改めて私をじっと見つめた。

「……調子こいてすいませんでした」




彼と会う予定の週末、東京の天気予報は雪だった。積雪によっては交通網に影響が出るから、会うのは延期しようかという私の提案をカラ松くんは拒否し、雪だからこそ会いたいと電話口で力説してきた。日頃私の意向を優先してくれる彼にしては珍しい懇願だったから、天気が荒れないことを祈りつつ、雪がちらつく中外へ繰り出したのである。

「フッ、ハニーよ。オレは今日驚くべきファクトに気が付いたぜ」
待ち合わせ場所である駅の構内。お決まりの挨拶を済ませたところで、カラ松くんは人差し指で前髪を横に流す仕草をした。
「スノウ…それは美しい。喧騒の街東京を白く染める純白、そして───」
右手の手のひらを上向けて、外へと私の視線を促す。

「ほぼ雨だ」

知ってた。
体に触れたら一瞬で液体に変わる結晶、傘は必須。視界と足場への悪影響が追加される分、雨よりも厄介な天気である。
やっと気付いたのかと白けた目を彼に向けたら、ネイビーカラーのダウンジャケットの肩口だけ、色が少し濃くなっている。
「カラ松くん、肩濡れてるよ。傘さして来なかったの?」
「え?…ああ、オレが出た頃はまだ小降りだったし、まぁ…その───」
あからさまに歯切れが悪くなった。無言で続きを促すと、カラ松くんは諦観の様相を呈し、吐息と共に本音を口にした。
「ここ何年も雪が降ってる間は基本ひきこもってたから、ここまで面倒くさいと思わなかった」
「さすがニートのプロ」
ツッコミが思わず口を突いて出てしまった。
「オレの想定を上回るスノウ…やるじゃないか」
感心してる場合か。
「実は…憧れてたんだ」
カラ松くんは鼻先を指で掻きながら、照れくさそうな表情をする。

「雪の舞う中、ユーリと二人で並んで歩けたら、と」

微苦笑と共に紡がれる本心。
「漫画でよくあるだろ?
鼻についた雪を拭うとか、白い息を吐きながら語り合うとか、そういうのをやりたいと思っていたんだが……冷静になった今は煩わしさが勝つ。
オレが今家のこたつで温もりたいと思うくらいだから、ハニーを呼び出した罪悪感がすごい
ようやく現実を直視し始めたらしい。駅のコンコースで傘を畳む人たちは、一様に大儀そうな顔つきに見えた。降雪に胸を高鳴らせているのはほんの一部に過ぎない。
「雪って、漫画やドラマのようなロマンチックなものじゃないと思うよ」
「うん」
「降るのが強くなってもし電車止まったら、カラ松くんがタクシー代出してよね」
「それは…も、もちろんだ!」
カラ松くんは強く頷く。私の機嫌を損ねるまいとした焦りが窺えた。
しかし直後、ハッとして私を見据える。
「そうか、雪をオプションにせずメインに据えていれば…スキーデートにすれば良かったのか!
懲りてねぇ。
何が何でも雪をエンジョイしたい勢力か。私は呆れつつも、彼のその真っ直ぐさが羨ましくもあった。
「次はリベンジだ、ハニー!」
瞳を輝かせて同意を求めてきたら、もうノーとは言えなくなる。
「そうだね」
「オレ、金貯めておくから」
期待に胸をふくらませて破顔する推しは可愛いの極み。拒否の選択肢は消えた。私は従順なイエスマンとなり、彼の笑顔を求める。
「はは、ユーリも息が白いな」
絵面が軽率に最高得点を叩き出してくる。我が推し活に悔いなし。


雪が本降りの様相を呈し、景色が白く染まる。悠々と散歩できる雰囲気でもなく、私たちは駅からほど近いショッピングモールで時間を潰すことにした。天気予報では、ややもすれば小降りになるという予測だったためだ。
案の定、一時間後私たちが外へ出た時には晴れ間が覗いていた。降ったり止んだりの不安定な一日らしい。
「やっぱり晴れている方がいいな」
「だねー」
地面には白い絨毯が広がっている。レインブーツで踏みしめれば、シャリッと音を立てた。不意に差し込んだ太陽の光が反射して、私は目を細める。
「ユーリ」
カラ松くんが微笑みと共に手を差し出してくる。
「足場が不安定だ───さ、お手をどうぞ」
従者か執事のように、少々大袈裟にも見える仕草で。けれど意外と様になるのが、松野カラ松という男だ。
私は彼と同じ表情で、その手を取った。

呼吸するたびに白い息が空気中に吐き出される。雪が積もるだけあって気温は低く、体温は容易く奪われる。吹き付ける風が孕む冷気に首を竦めたら、カラ松くんがふふと笑った。
「どうかした?」
「あ、いや…」
決まりが悪そうに、目が逸らされる。
「…夢が一つ叶って嬉しい、そんなことを思ってた」
雪の舞う中、私と並んで歩けたら──先程彼が語った夢を思い出す。

「オレの予想通りだった。白い背景も相まって、今日のユーリはいつも以上に綺麗だ」

キュートだぜ、なんていっそ茶化して言ってくれれば、私も笑って受け流せたのに。これは本心の吐露だ。私に受け止めてくれと希う。
「ありがとう。カラ松くんにそう言ってもらえると嬉しい」
だから私も真正面から受け止める。何か言葉を告げるべきか逡巡するより前に、私の口から大きなくしゃみが出た。空いている片手で鼻を擦ったら、驚くほど冷えている。
「わっ、手冷た!どうりで寒いはずだよ」
「雪はまだ降るみたいだしな」
カラ松くんはしばし目線を上向けて思案した後、繋いでいる私の手ごと無造作に自分のアウターのポケットに突っ込んだ。私は言葉を失う。一軍の方々がやることをしれっとかましてきたぞ、こいつ。
「オレのワガママでハニーをコールドにしてしまっただろ?」
無邪気か。
「にしては大胆だね」
え、と驚きを顔に貼り付けてから、カラ松くんは自らのポケットに視線を落とした。視覚で現状を確認し、脳で認識と情報処理に至る。
「……あ」
反応は体全員でもって表された。
「えっ、あ…っ、あの、い、嫌か?」
「ううん。とんでもない」
ああ、とカラ松くんは安堵の息を漏らす。
「実は…やってみたかったんだ。ほら、これもよくあるだろ、恋人の手をこうやって温めるヤツ」
それから目尻を朱に染めて、はにかむように苦笑した。恋人。カラ松くんは自分がどんな強大な爆弾を落としたか自覚のないまま嬉しそうに前を向くから、私は気付かなかったことにした。私の菩薩級に広い心と気遣いに感謝しろ。

「雪絡みでやりたいこと、全部やってみる?」
乗りかかった船だ。私の休日に雪が降るなんてそう頻繁にあることでもない。
「やりたいこと…」
「カラ松くんの憧れ、私も興味あるし」
推しに関する新情報は課金してでも得るべし。
「ハニー…っ!」
カラ松くんは感極まった様子で破顔する。つかの間の晴れ間が、彼の顔を明るく照らした。




私たちは井の頭公園へとやって来た。私たちにとっては、目的のない散策時の定番コースになっている。都会の公園とは思えないほど緑と湖が広がり、四季折々の景色を美しく彩りつつ、閑散と喧騒の間の程よい人気を感じられる場所だ。
公園に着く頃には再び雪がちらつき、木々や道を一層白く染め上げていた。見慣れた光景がひたすらに白いその変貌は、まるで異世界への入り口だ。踏みしめた二人分の足跡は、降り積もる雪で隠される。

「雪景色だねぇ」
私は感嘆の声を漏らした。普段に比べて人気が少ないせいもあるのだろう、景色も空も全てが白い、世界。
「さすがに来園者は少ない、か…」
周りを見渡しながらカラ松くんが言う。
「こんな日にベンチに座ってまったり、ってわけにはいかないよね」
「だな。不審者と勘違いされかねん」
私たちは道中のキッチンカーで買ったホットコーヒーをカイロ代わりに両手で抱え、歩く。純白の絨毯に、不揃いな足跡を刻みながら。
遠くの方で子供たちが、傘もささずに駆け回っている。体が濡れるのも構わず、足元の雪で玉を作って相手に投げたり、手で掬った雪を散らしてみたり、キャッキャッと明るい歓声が私たちにも届く。
何だか少しだけ羨ましくなって、私はカラ松くんが持つ傘から抜けた。雪を浴びる。
「ユーリ?」
サラサラと舞い落ちる結晶は、手のひらに触れるなり溶けていく。形を確かめる暇もないほどあっという間に、幻想は現実に姿を変える。
雪を純粋に楽しめなくなって、大人への変貌を自覚した。と同時に、何か大切なものを失ったようにも感じていた。雪がもたらす不便や不快が先立って、愉悦に蓋をしたのだ。

「ユーリ、雪が──」
「楽しいね」
「…ユーリ?」
「冷たくて白くて綺麗で、神秘的」
私は軽快な足取りで進む。純白の絨毯に誰よりも早く足跡をつけたくて、長靴で走ったあの頃みたいに。両手を横に伸ばして、緩く体を回転させる。くるくると回る景色の中で、カラ松くんが笑っている。

「スノーフェアリーみたいだ」

独白に似た呟きだった。
「お世辞が上手いね」
「歯の浮くような台詞だからか?」
何だ、自覚はあるのか。そうかもねと同意を示そうとしたら、カラ松くんに先を越される。
「ストレートな表現の方がいいのか?」
その返しは予想外だった。
「──綺麗だ。眩暈がするくらい、本当に、嘘偽りなく」
熱を帯びた双眸は細められ、白い息と共に空気に乗って届く言葉。私は目を閉じ、自分の鼻筋に指先を当てる。私の語彙は死んだ。
悶絶を必死に堪えていたら、す、と手のひらが向けられる。
「スマホ貸してくれ」
「何か撮るの?」

「雪景色はまた来年以降も見られるが、雪の中で舞う今日のユーリは、今日しか見られないだろ?」

細やかな白い粒が舞い落ちる景色で、鼻を赤くしたカラ松くんが微笑む。
雪景色に佇む推し、尊さが限界突破




少しの間、傘もささずに二人で雪を浴びた。数十メートル先も見渡せない不便な視界、目に映る景色はどこまでも白に覆われている。
「付き合ってくれてサンキュ、ハニー」
傘を広げて私に向けながら、カラ松くんは言った。
「ううん、結構楽しかったよ。最初、辛辣な言い方してごめんね」
私の詫びには、穏やかな笑みが返ってきた。
「ユーリの叱責は当然だ。オレだって雪の日におそ松に意味もなく付き合わされたら殴る
長男が不憫。慈悲はないんですか。

「夢も叶った。今日はラッキーデーだ」
「あれ、それはまだじゃない?」
「まだ、とは?」
カラ松くんがきょとんとするので、私は笑う。言い出しっぺが願望を失念してどうするのだ。
だって、彼が望んだのは───

「雪の舞う中、私と二人で並んで歩く──でしょ?」

雪が降っていなければ叶ったことにならない。私の意向に気付いた彼は、頬を紅潮させて嬉しそうに破顔する。
「一分だけオレにくれ」
傘を畳みながら、カラ松くんが告げた。彼の黒い髪に雪の結晶が落ちる。うっすらと地面に積もった白い絨毯に、大きさの異なる二つの足跡を残しながら、私たちは黙って歩いた。
どんな言葉も野暮な気がした。


「手も足も冷たいねー」
レインブーツとはいえ、寒さは直に伝わる。外気に晒されている両手は言わずもがなだ。
「フッ、いいことを教えてやろう」
両手に息を吐きかける私を横目で見ていたカラ松くんが、フフンと鼻を鳴らす。
「オレのここは、ハニー専用でいつでも空いてるぜ」
ダウンジャケットを広げ、胸元を強調した。いつでも包み込んでやると、そう言いたいのだろう。そういうのは身長差や体格差があるから効果的なのであって、目線が並ぶ私相手には横からの風避けにしかならない。絵面が良くない。
「あ」
しかし私の脳裏に、一つの案が浮上する。
「ねぇ、カラ松くん」
「ん?」
「ちょっと両手出してみて」
彼は私の発言に僅かな疑念も抱かず、向かい合う格好で、手のひらを上向けて素直に差し出してくる。私はそれを取って、自分の手ごとジャケットの両サイドのポケットに突っ込んだ。カラ松くんは驚きに目を見開く。
「っ…ユーリ…!」
「欠点は、ここから動けないことだね」
名案だと思ったが早計だったようだ。さてどうするか。思案を巡らせる私とは対照的に、カラ松くんは呆気に取られたまま動かない。

「あはは、やだもー!」
そうこうするうちに、少し離れた場所から軽やかな女性の笑い声が耳に届く。私たちは反射的に顔を声の方へ向けた。
視線の先では、彼氏と思わしき二十代の男が彼女の両手を包み込んでいる。互いに突き合わせた顔には笑みが浮かんでいて、微笑ましい光景だ。
「……カップルか」
しかしカラ松くんは眉根を寄せて忌々しげに呟く。若いカップルに対する六つ子の敵対心と劣等感は凄まじく、そこに妥協はない。リア充に親でも殺されたんか。いや両方生きてるけども。
というか。
「私たちも同じじゃない?」
端から見れば。
「いや待てハニー、オレはもっと高尚な──」
「だって、ほら」
私のジャケットに差し込まれた彼の両手に目を向けると、カラ松くんはハッと我に返った様子だった。
「えっ…しかし、これはあの……えぇっ!?」
声がひっくり返った。無自覚ってヤツは怖いな。まぁそこが可愛い。

やがてカラ松くんは空気を変えるように、わざとらしく咳払いを一つした。
「ユーリの恋人役という大役を仰せつかったのはマイプレジャーだ。この松野カラ松、今日一日つつがなく勤め上げてみせよう」
「わざわざ演じなくても、自然とそう見えてると思うよ」
私たちが互いに心地良いと感じる距離感は、ただの友達にしてはあまりにも近すぎる。
カラ松くんは鼻先を一層赤くしながら、フッと笑う。
「いつになく大胆なことを言うじゃないか、ハニー」
「雪のせいかな」
「……そうかもな」
声を立てず、肩を揺すって笑う。


「なら、これからオレがらしくないことを言っても、全部雪のせいにしてくれよ」

そう言って彼は、私の耳に唇を寄せた。生温い吐息と共に紡ぎ出される言葉は、私の耳にしか届かない。目を閉じて、声に意識を傾ける。
何もかも全部、降り積もる雪のせいにして。

六つ子が嫌悪するカップルという器に、私たちも無自覚に溶け込んでいく。

短編:近い近い近い

玄関の戸を開けて上がり框に視線を落とすと、乱雑に放り出された複数のスニーカーから少し離れた場所に、見慣れたパンプスがあった。
「…もう来てるのか」
ユーリが。
壁掛け時計の針は一時半を指している。彼女が松野家を訪ねると言ったのは間違いなく二時だから、ずいぶんと早い到着だ。
居間からは襖を通して何人かの会話が漏れ聞こえてくる。その中にユーリの声はないが、相槌を打つに留めているのかもしれない。そう思い、引手に手を掛けた。

「おかえりー、カラ松兄さん」
バランスボールに全身を預けた十四松が、大きく口を開いてカラ松を出迎える。居間にいるのは、一松、十四松、トド松の三人だった。
「お前、ユーリちゃんとの約束ほっぽって出掛けるとかマジかよ」
一松が信じられないとばかりに眉根を寄せた。
「それがさ、ユーリちゃん、暇だったから前倒しで来たんだって。さっき一松兄さんがトイレ行ってる間に言ってたよ」
トド松がスマホから視線を上げて笑う。一松は納得したように頷いたが、それでもユーリの訪問を待ち構えるでもなく平然と外出していたカラ松の心境は分かりかねると言いたげな顔だ。
「ユーリは?上か?」
「うーん、たぶんまだ縁側かな」
「縁側?」
十四松の声に、カラ松は首を傾げる。ユーリが松野家を訪問した時は、必ず居間か二階にいるからだ。まだ、という意味ありげな言葉も気にかかる。
けれど五男はカラ松の疑念など知る由もなく、へらりと気の抜けた笑みを浮かべた。

「半時間くらい前に、おそ松兄さんと一緒にいたんだよねー」




さほど手入れのされていない庭に続く縁側。年季の入ったガラス戸が開け放たれていて、その間から二つの長い影が、重なるように室内に長く伸びていた。
おそ松とユーリは、肩を寄せ合うようにして談笑している。彼らの手元には分厚い本のような物があって、互いに指を差しては言葉を紡ぎ、時に笑みを溢す。顔を見合わせる二人からは、仲睦まじい関係性が窺えた。

「ユーリ」
傍らに膝をつき、名を呼ぶ。努めて冷静に、感情を殺して。
「ん?…あ、カラ松くん、お帰り!」
パァッと彼女の顔が綻ぶ。いつ見ても愛らしい笑顔だ。体から力が抜ける。
「遅くなってすまない、ハニー。散歩から帰ってみたら靴があって驚いたぞ」
カラ松はユーリの肩に手を置く。
「ごめんごめん。意外に早く着いちゃって」
両手を顔の前で合わせて謝罪のポーズを取るユーリ。おそ松と肩を並べている姿をカラ松に見られても平然としているのは、戸惑う理由がないからなのだろう。
それは長男も同様だったらしく、あっけらかんとした表情でカラ松を見やった。
「お、やっと帰ってきた?
てかさこれ見てよカラ松、懐かしくない?子供の頃の俺らってマジで見分けつかねぇよな」
おそ松が古びたアルバムを突きつけてきた。小学生の自分たちが写真の中で暴れている。
「私も識別頑張ってみたけど、全然駄目だったよ」
「でも性格は結構個性あったんだよ。な、カラ松?」
「写真だけだとほんとクローンだよね」
ユーリが再びアルバムに視線を落としたのを好機と捉え、カラ松は無言で長男をじろりと睨む。ありったけの感情を込めた眼光のつもりだったが、おそ松は苦笑いするだけで懲りた様子はない。その図々しさは、さすが六人の頂点に君臨する器なだけはある。

「そんな睨むなって。俺がここで寝っ転がってアルバム見てたら、ユーリちゃんが来ただけ。無罪だから」
「推しの幼少期という二度と戻れない過去を垣間見る機会を逃す手はないよね。現在の推しを構築する欠かせない要素な上に幼いというだけで可愛さ桁違いの生き物なんだよビジュアルが最高すぎるありがとうございます」
「うわぁ、超早口」
ユーリは息継ぎなしに捲し立て、しかも真顔だ。おそ松は若干引き気味な模様。
だが彼女の肩に置いたまま微動だにしないカラ松の手を見て何かを悟ったらしい長男は、ククッと意味深な笑い声を漏らして、アルバムを閉じる。
「カラ松も戻ったし、一旦中戻ろっか、ユーリちゃん。このままここにいたら、痺れを切らしたあいつらが押しかけてきそうだし」
「そうだね。あ、でもそれ後でまた見せもらってもいい?」
「いいよ。つか、部屋で続き見たらいいじゃん」
「やった!じゃあ私持っていくよ」
ユーリはおそ松からアルバムを受け取り、軽快な足取りで廊下を駆け出していく。後ろ姿はすぐに見えなくなって、遠くから兄弟が彼女の帰りを歓迎する声が響いてくる。

カラ松はじっとおそ松を見据える。ユーリとのアルバム受け渡し時に、二人の指が僅かに触れ合ったのを、カラ松は見逃さなかったのだ。ユーリはまるで気に留めていなかったが、おそ松はピクリと片方の眉を吊り上げていた。
「だから、んな睨むなって」
長男はあぐらをかいて、肩を竦める。
「まぁお前が惚れ込むのも分かるよ。可愛いもんな、ユーリちゃん。アルバム見てた時すげーいい匂いしたし、今なんか手が当たってぶっちゃけヤバかった
「東京湾に沈む覚悟はできてるか?」
「ガチめの殺意は止めろ」

おそ松に非はない。それは嫌というほど理解している。自分だって彼の立場なら、同じ感想を抱いたに違いないから。
諸悪の根源があるとしたらそれはきっと──ユーリの距離感なのだろう。




その日、居間にいたのはカラ松とトド松だけだった。例の如く暇を持て余し、カラ松はファッション誌で、トド松はスマホで時間を潰す。
無言の時間が長く続き、しばらくしてどちらからともなく声をかけたのを皮切りに、会話が始まった。
ユーリとの曖昧な関係をひとしきり揶揄された後、SNSの話に移行した。流行りのSNSは一通り網羅している事実と、最も使用頻度が高いのは写真や動画を共有するサービスであることを末弟はつらつらと語る。
「普段はどんな写真を上げてるんだ?」
「んー、映えるものなら何でも。高尾山みたいな景色が綺麗な所とか、映えスポットとか……ああ、あとオシャレなスイーツなんかも」
画面をタップしながらトド松は言う。
「さりげない感じで映える写真撮るのって大変なんだよねー。盛ればいいってもんでもないし。
でも見てこれ、この前すっごいいい感じに撮れたパンケーキタワー!」
「パンケーキタワー」
名前からして圧倒的質量のパワーワード。そして突きつけられた画面に映るのは、八枚重ねのパンケーキの上からホイップクリームと色とりどりのカットフルーツがこぼれ落ちるインパクトありあまる代物だった。
どうやらカフェで頼んだものらしく、木製のテーブルとドリンクも写っている。
「oh…カロリー爆弾じゃないか」
「当然シェアしたよ。こんなの一人じゃ無理無理」
トド松は手首を振りながら苦笑する。言われてみれば、テーブルの向かい側に誰かが座っているようだ。テーブルに置かれた白い片手が見えた。女性らしい。

「……ん?」
その手に見覚えがあった。否、正確にはその手首に。なぜなら、その手首につけられているブレスレットは───カラ松が贈った物だからだ。
「相手は、ユーリか?」
問いかけた声は上擦ったかもしれない。
けれどトド松はケロリとした顔で、間髪入れずに頷く。
「そうだよ」
「そうだよ!?」
今度こそ声は裏返る。
「オレ聞いてないんだけど!?」
「えー、そうだった?
二週間くらい前の休日にユーリちゃんと外で待ち合わせして…って、事前に言ったと思ってたんだけどなぁ」
トド松は首を傾げる。とぼけているのか本心なのか判断がつかない。
改めて彼の投稿を見ると、日付は確かに二週間前。言われてみれば、姿見の前でやたら髪型や服装を確認する末弟を見た覚えがある。
「ごめんごめん。でもお昼前に出て、夕方帰ってきたでしょ?何もないよ、残念だけど
最後の一言。
外出時間が短いからといって男女の関係がなかった証明にはならないが、そこは年齢イコール童貞の二名、納得してひとまず落ち着く。

「てか、ユーリちゃんから聞いてなかったんだ?ウケる」
スマホで口元を隠し、トド松が鼻で笑った。反射的に拳に力が入ったが、反論できない。
「でもおかげで、いい匂わせが撮れたよ。奥にいるのは彼女ですかってコメント入っちゃったし?」
その問いかけに対し、トド松は『ご想像にお任せします』と茶化して返信している。肯定も否定もしていないから嘘ではないが、一般的にグレーの返答は黒に近い。少なくとも相手はそう認識しがちな心理を、彼は巧妙に利用している。

カラ松は溜息を吐いて腕を組んだ。
「…ユーリは相手との距離を詰めすぎるのがプロブレムだな」
気に入った相手に対して、その態度が顕著だ。和やかな笑顔でパーソナルスペースにするりと入り込み、対象者を懐柔する。
しかしだからといって依存に導かず、信頼を得た後は一定の距離を保ち、適切なタイミングで親しさを演出してくる。
「人たらしのプロだ」
「分かる」

トド松はすぐさま同意を示した。
「言っておくが──」
カラ松は居住まいを正して、円卓を挟んで末弟に向き合う。鋭い眉を一層吊り上げて。

「オレは、お前たちにだってユーリに触れさせたくない」

彼女の優しさは、六つ子にとって依存性の高い麻薬に等しい。今は辛うじて平和を維持しているが、それはカラ松がストッパーの役割を担っているからで、均衡が傾く危険性は常に孕んでいる。異性に耐性のない我々六人は、ちょっと優しくされるだけで即座に落ちるチョロい童貞なのだ。

トド松は微かに驚愕の色を顔に滲ませたが、すぐに片方の口角を上げて意地悪く笑った。
「そういうのが嫌なら、とっととどうにかしなよ。ユーリちゃんの言動にカラ松兄さんが口出しできるくらいの関係に、さ。
ユーリちゃんはカラ松兄さんの友達だけど、ボクの友達でもあるんだよ」
トド松はゆらゆらとスマホを振ってみせた。その無機物の中には、SNSでのユーリとのやり取りが記録されている。それなりの頻度でメッセージを送り合っているらしいが、カラ松が中身を覗いたことはないし、細かな内容も知らない。
カラ松とユーリの間には、明確な一線が引かれている。




決定打となったのは、それから一ヶ月が経った頃のことだ。
日の沈む夕暮れ時、煙草を買いにコンビニに向かう道中でチョロ松とユーリに会った。二人は時折拳を振り上げて、何やら熱く語り合っている。双眸に光が灯り、頬は心なしか上気しているようにも見えた。
今朝のチョロ松がやたら浮き立った様子だったので不思議に思っていたが、腑に落ちる。謎は全て解けた。

「ユーリ、チョロ松!」
驚きに声を荒げたら、二人は揃ってカラ松に顔を向けた。
「あ、カラ松」
「わぁ、すごい偶然だね!どっか出掛けるの?」
チョロ松もユーリも和やかな目を寄越してくる。
「や、待て、なんで二人ともそんな冷静なんだ?というか、二人でどこ行ってたんだ?」
混乱したカラ松は反射的に口を開いたせいで、彼女の浮気現場に出くわしたみたいな言い方になった。その問いには、チョロ松が嬉しそうに答える。

「にゃーちゃんのライブ」

よくよく見れば、チョロ松は手提げ袋──側面に橋本にゃーの顔が大きく印刷されている──を持っている。出掛ける時両手は空いていたから嘘ではなさそうだ。
しかし、それにしても。
「何でユーリが一緒なんだ?」
「互いの推し活について理解をより深めるために」
「何て?」

予想外の回答に眉をひそめたカラ松に、ユーリはにこりと笑みを作る。
「チョロ松くんと推しの話してたら、橋本にゃーさんのライブは楽しいっていうから、今回チケット取ってもらったんだ。
楽しかったよ!コールも猫にちなんだもので、こだわりがあってね」
「にゃーちゃんのライブは女の子少ないから、ユーリちゃんめちゃくちゃ浮いちゃったけどね。しかも僕と一緒だったもんだから、親衛隊のみんなに、彼女さんですか?なんて勘違いされてさ」
「男性ウケする感じのキャラだもんね。私悪目立ちしちゃったよ。
でも臨場感はライブならではって感じで、箱がそんなに大きくないから、推しが近いのはたまらないなと思ったよ」
「でしょ?CDで聴くのもいいんだけどさ、ライブはお金出す価値ある」
「分かるー。推しの生声って本当ご褒美、生きる糧
ユーリは頬に手を当ててから、うんうんと強く頷きチョロ松に同意を示す。

「ウェイトウェイト」

カラ松は胸の高さに片手を上げ、彼らの熱弁を制する。
「……チョロ松の彼女?」
聞き捨てならない台詞だ。カラ松の声は自然と低いものになった。チョロ松は至極面倒くさそうな一瞥をカラ松にくれて、溜息をつく。
「ちゃんと友達だって紹介したよ。そんなことでイラつくな、カラ松」
「これから家でグッズ見せてもらうんだよ」
だからその話はこれで終わりだと、ユーリが顔に貼り付けた笑顏で圧力をかけてくる。
「カラ松くんは出掛けるんだよね?
違うなんて言わせねぇぞと言外に仄めかして。
全部カラ松の被害妄想で、彼女は微塵もそんなことは思っていないのかもしれないけれど、ユーリはカラ松の嫉妬を喜ばないどころか疎ましがる傾向にあるから、直感はたぶん正しい。
「コンビニに行くところだったが…止めた。オレも帰る」
「そう?
あ、コンビニで思い出した。手土産代わりのおやつ買いに行ってくるよ。二人は先に戻ってて」
「ユーリちゃん、そういうのほんと気を使わなくていいから。いつも持ってきてくれてるんだし」
「でも私がお腹減っちゃったから」
どこか照れくさそうに笑って、オレンジ色に染まるアスファルトを蹴って去ろうとする。長く伸びた彼女の影がカラ松の足元を離れるので、咄嗟に片足を前方へと踏み出した──その時。

「なら、カラ松置いてく。荷物持ちにでも使って」

ユーリから遠ざかりながらチョロ松が言う。表情から感情が読み取れず、カラ松は息を呑んだ。
傍らを三男が音もなく横切って、密やかな声でカラ松に告げた。
「貸しにしとく」




ユーリが男と二人きりでいる姿を見るのは、これが初めてでもない。幾度となく見かけたし、軽々しいナンパを阻止もした。だが彼女が社会人として生きる以上、異性との接触はこれからも当然起こり得ることで、制限を設けることは実質不可能だ。
こういう時、警戒心がないとカラ松が叱責し、その場を収めるためにユーリが謝るのがお決まりのパターンだった。そして宥めるように、特別だよと言ってくれる。おそらくは本音で告げてくれているその言葉を、致し方なしと受け取ることで自分は溜飲を下げている。何と尊大で傲慢な態度だろうか。

「ユーリ」
名を呼べば、微笑みと共に振り返る愛しい人。
「荷物はオレが持つ。ほら、その…荷物持ちに使えってチョロ松も言ってただろ」
「いいの?」
ユーリは自分の手元に視線を落として、幾つかのスナック菓子が無造作に詰め込まれたビニール袋を見る。
「じゃあお言葉に甘えて。ありがと」
指一本でも支えられる重量の袋を彼女から受け取った。ユーリの両手が自由になる。
だから──
「ん」
手を差し出した。
「ん?」
首を傾げるユーリ。さすがに脈絡がない上に唐突すぎたらしい。

「手、繋がないか?」

ユーリは呆気に取られた様子だった。見開いた瞳にはカラ松の顔をしっかりと映している。
失言だったかと、出した手を引っ込めそうになった時、ユーリがようやく言葉を発した。
「私が抱く18禁ルートフラグ立った?」
真剣な顔で不穏な発言。
展開がおかしい。
「苦節一年、やっとフラグ立たせるイベント全回収できたんだね。感慨深い」
「努力する方向性を百八十度間違えてるぞ」

あとそういったフラグは立ってないし立たせない───たぶん、きっと、おそらく。
「違うの?なぁんだ」
チッと舌打ちしたのは聞き逃さなかった。

それでもユーリは、手を握り返してくる。躊躇はなく、自然な流れで。
異性と手を繋ぐなんて、学生時代のフォークダンス以来と断言できる程度の経験しかなかった。だから未だに緊張するし、切り出すのには毎度勇気を振り絞る。
想いは募るばかりで、受け入れてほしくて、けれど決定打を口にできないまま歳月だけが過ぎていく。
ユーリの距離感を責める資格なんて、本当はどこにもないのだ。
「カラ松くんが何を考えているのかは分からないから、これは独り言なんだけど──」
前方を見据えたまま、ユーリが静かに前置きをした。

「私が手を繋ぐのは、一人だけだよ」

彼女が紡いだ言の葉は空気に溶ける。
「例え同じ顔が六人分あったとしても、一人だけ」
ときどき、ユーリはエスパーなんじゃないかと思う。カラ松の心のモヤを読み取って、それを晴らす的確な言葉を向けてくれる。容易く察して、悠々とすくい上げる。
「でもおそ松くんたちと友達として仲良くするのは歓迎してほしいなぁ。カラ松くんの兄弟なんだしさ」
そして、最善の妥協点を見出そうともする。
「ユーリはそういう意向なんだろうが、ブラザーたちが同じとは限らないだろ」
「んー…まぁ、一応異性だしね」
その点はユーリも理解しているらしい。男女間の純粋な友情は稀有だ。

「こうやって無警戒で近づかれれば、誰だってユーリをキュートだと思うし、パーソナルスペースに入って来られたら気があると勘違いするし、頭から離れなくなる」

カラ松はずいっとユーリに顔を近づける。
「極端すぎない?異世界の男を無双するチートヒロインか
「すぎない!現にオレが───」

オレがそうだったから。

勢いに任せても言えないチキンな自分が憎い。
限りなく黒に近いグレーな台詞なら、するりと口を突いて出るくせに。
「…は、ハニーは、何とも思わないのか?」
「私?」
「オレがこんなに近づいても、だ」
シャンプーか柔軟剤か、それとも彼女自身の匂いか、いずれにせよ好ましい香りがカラ松の鼻孔をくすぐった。二人の距離は、それくらい接近している。
「ふふ」
ユーリは表情を緩めた。

「ブチ押し倒したくなる」

カラ松は瞬間的に悟る、踏み込んではいけない領域の扉を叩いてしまったことを。
「……ごめんなさい」
「我慢できずに手出しちゃったら事案だから、その時は抵抗してね
卑猥な台詞を爽やかな笑顔でさらっと言ってのける。
こうなると、カラ松は白旗を上げざるを得ない。一瞬でも躊躇を見せたら、つけ込まれるからだ。彼女は虎視眈々とカラ松の貞操を狙っている。
いや、自分の貞操の危機はむしろ歓迎だし、何ならこちらからお願いしたいくらいではあるのだが、ベッドで主導権を握る立場を譲りたくないという小さな矜持が進展を阻む。けれど根負けするのはきっと自分の方だとも、思う。

「魅力的ってことだよ」
「分かった分かった」
「その言い草、さては信じてないな」
ユーリは不服そうに眉を寄せた。カラ松は音を立てずに溜息をつき、口元に笑みを作る。
「信じてるさ」
言おう言うまいか、一瞬の逡巡の後。

「ここが外じゃなかったらハグしてるくらいには」

唖然と半開きになった彼女の口から、やがて笑いが溢れた。軽やかな、楽しそうな音色を奏でる。
「言うようになったね」
「童貞なのにな」
「それ自分で言っちゃうんだ?」
「言う。いい加減ハニーには自覚してもらいたい」
風向きを変える。ユーリはほんの少し目を伏せて、耳にかかる髪を掻き上げた。
「自覚するって何を?」
カラ松の予測していた問い、何もかも見透かしたような彼女の瞳、予定調和のように交わされる会話。

「自分がそんな童貞を虜にしてるギルドレディだってことを、だ」

ユーリの距離感には、これからも悩まされるのだろう。
平穏とは程遠い受難の日々に違いないが、トラブル続きの日常も存外悪くないと思っていることは、ユーリには当面言わないでおこう。昔はこんなことで頭を抱えていたのだと、いつか笑って言える日が来るまでは。

短編:せめて噛まれたい

とても緩いですが、ユーリ(あなた)×カラ松の描写があります。





違和感に気付くのは比較的容易なことだった。
その日カラ松くんは、七分袖でも過ごせるほど暖かな秋口だというのに、ツナギの袖を下ろした格好で我が家を訪れたのだ。


「十四松に噛まれた…」
私が不思議そうな顔をして見つめたせいか、質問を投げるより先にカラ松くんが袖を捲くる。彼の左腕には───綺麗な歯型がくっきりと跡を残していた。
健康的な肌に赤い跡。よほど力強く噛んだらしく、見事なまでに肌が窪んでいる。
「一卵性の兄弟間で何絶妙にエロいことやってんの?ナチュラルなBL?耽美な世界への誘い?受けて立つ
「立つな」
私の覚悟は瞬殺された。不満げに眉をひそめるカラ松くん。
「あとエロくない。下手すれば暴力だぞ」
「致す行為だって相手が嫌がったり乱暴にしたら暴力とも言えるでしょ」
「論点がズレてる」
「つまりね、噛んで体に跡を残すのはエロいって私は言いたいの」
「ウェイトだ、ハニー。オレは要約を望んだんじゃない。続けるな
噛まれた箇所をさすりながら、彼はすげなくあしらう。私へのツッコミにも切れ味が増し、ますます目が離せない当推しである。

とはいえ、推しの腕に歯型が残るのは私としても望むところではない。袖を捲くったスタイルを見慣れてしまったから、袖を下ろした姿は何となく変な感じだ。
「ちゃんと冷やした?」
私が訊くと、カラ松くんは愚問とばかりに頷いた。
「当たり前だ。肌質や体型もトータルコーディネートされたオレのパーフェクトボディを損なうのはガイアの損失だからな」
心配無用だった。訊かなきゃ良かった。
私が腕にそっと触れると、カラ松くんはピクリと硬直する。
「跡が残らないといいね」
「全力で祈っててくれ。オレの美貌に傷がつくとかあり得ん…っ」
カラ松くんはわなわなと体を震わせた。
兄弟喧嘩の域を超えた血みどろの殺戮を繰り広げたり、地獄に片足突っ込んで腐乱死体になりかけたこともあるそうだし、傷跡については心配する必要はなさそうだが。まぁ、言わぬが花というヤツか。


「童貞こじらせてついに兄弟間でエロいことしたのかと思ったよ」
配慮とオブラート皆無だな、ハニー」
頬に手を当てて首を傾げたら、さすがに不服そうなジト目が向けられた。いやしかし、松野家兄弟は全員こじらせ気味の童貞だから、興味本位という可能性も否定しきれない。ただ素直に言ったら怒られそうなので、本音は隠しておく。
「SMのプレイであるでしょ?」
「でしょ?じゃない」
カラ松くんは盛大な溜息を吐いて、私に事情を語る。

「寝ぼけた十四松に噛まれたんだ」

布団の配置的に遠いカラ松くんがなぜ、という疑問がまず頭に浮かんだが、そんな問いは見越していたのだろう、カラ松くんが鼻を鳴らす。
「昼飯後に昼寝していた十四松が、オレの雑誌を背中に敷いてたから、どかそうとしたら……これだ」
十四松くんはただでさえ力の加減を不得手とするから、食い千切られなかっただけマシと言えるかもしれない。
「タイミング悪かったんだね」
「雑誌を取るのに払った代償にしては大きすぎる」
だから跡が消えるまでは袖を下ろしている、と。
「──というか、ユーリのその兄弟間で云々の推測はおかしくないか?歯型くらいで飛躍しすぎだ」
私の傍らに座り、淹れたてのコーヒーが注がれたカップ片手にカラ松くんが不平を唱える。
「そうとは言い切れないよ。
さっき言ったようにSMや性的にもままあるプレイだし、キスマークみたいに所有権を主張するようなイメージを持つよね」
「キスマーク…」
「個人的には、キスマークより主張は強いって感じるかも。歯型は唯一無二だから」
さながら刻印だ。運が悪ければ長く跡が残るし、サイズ的にも目を引く。
カラ松くんはしばし前方を見据えて思案に耽っているようだったが、やがて私に顔を向けた。カップをローテーブルに置いて。
「ユーリ」
「うん?」

「腕、噛んでもいいか?」

何でそうなる。
「当然どうした。リアル肉食系肉?
「やってみたい」
何を。いや、ごめん、愚問か。
微かに上気した頬で、体を近づけてくる。欲情した推しの表情は正直ご馳走だが、噛まれるのは勘弁。ああでもインナーのVネックから胸元露出は反則だろ、最高に目の保養。
「待って、さすがに待って」
誘惑を振り切って、私は毅然と拒絶の意志を示す。
ゾンビに噛まれたのかって職場で心配されるから却下。
っていうか、加減できる保証ないよね?跡残ったら半袖着れなくなったら困るし嫌。そもそも私はそういう趣味ないの」
混乱を極める脳内を落ち着かせて、私はカラ松くんを片手で押し返した。
「…駄目か?」
「駄目。やる方ならまだしも、される側は無理」

「やるならいいのか?」

墓穴掘った。
しまったと思ったが後の祭りだ。面倒くさい展開になってきた。しかもおあつらえ向きなことに、二人きりの密室である。
しかしキラキラと目を輝かせて私の返事を待つカラ松くんを見たら、無下にできなくなる。私はとことん推しに甘い。
「新たな性的趣向発見に至るか、心底後悔するかの二択だと思うけど…」
「ウェルカムだ!」
ウェルカムなのか。鬱陶しいテンション始まった。




期待に胸を高鳴らせるカラ松くんの肩を押し、ローソファに横たえた。彼の股の間に膝を立てて、デニムの上から腿の内側を撫でる。
「は、ハニー…?」
セクシャルな意味合いを込めての、愛撫に近い接触だ。カラ松くんが戸惑うのも無理はない。
かくいう私は、彼に触れながら、跡を残す場所を吟味していた。なし崩し的に実行する側になったものの、体を噛むなんて経験がない。痛みだけが残るトラウマを防ぐにはどうすればいいか、冷静に考える。
片手を腿に添え、もう片方の手で黒いシャツの上から上半身に触れていく。
「……っ」
カラ松くんが息を呑んだ。顔は先ほどよりも赤い。
「嫌なら止めるから、言ってね」
私は言いながら、ツナギの袖からカラ松くんの腕を抜くよう誘導する。彼は少々恥じらいはしたものの、抵抗しなかった。体のラインが出る黒いシャツが、私の視界に映る。
このシチュエーション、もはや据え膳では?
「…嫌、じゃない」
片手で口元を隠し、私から目を逸しながらも、彼は言い切った。
「オレから言い出したことだし…その…これは少し緊張してるだけ、というか…」
「可愛いが過ぎる」
うっかり本音を口走ってしまった。
私の性欲をマックスまで爆上げしてるなんて微塵にも思っていないのだろう、この次男は。可愛い、エロい、そして厄介。
「……え」
「ほんと可愛いね、カラ松くん」
跡をつけるなら太腿なんかが妥当なのだろうが、デニムを脱がすと限りなく情事なので、首や肩辺りがいいのかもしれない。
肩にするとして、前からか後ろからか、それも問題だ。押し倒して散々触っておいて申し訳ないが、この体勢ではやりにくいことが判明する。
「起きて」
にこりと差し出した私の手に、おずおずと片手が伸ばされる。勢いをつけて上体を起こしたら、私は彼の後ろに回った。


跡は一つ残せば十分だろう。
カラ松くんはあぐらを掻いて、視線を床に落とす格好。いざ尋常に勝負と意気込んで、うなじにかかるカラ松くんの髪を横に寄せるため指を寄せたら、一瞬にして彼の背筋がピンと伸びた。変なところを触ってしまったようだ。
「ユーリ…っ、い、今の…!」
「あ、ごめん。髪の毛邪魔だったから、避けようとしたんだけど」
「えっ、あ、そ、そうだよな!すまん!」
こちらこそすまん。
改めて、無防備な白いうなじに程近い肌に歯を立てた。吸血鬼にでもなったような気分だ。
「…んん…ッ!」
カラ松くんが驚きの声を漏らす。
痛みを与えないようにという意志が強いあまり力を加減したため、最初の一撃は皮膚が僅かに凹むに留まった。あっという間に元に戻ってしまう。
「失敗しちゃった。意外と難しいなぁ」
もう少し強めでいくか。
「いやでも、これは…ヤバイな」
カラ松くんは片手で自分の口を覆う。
「軽々しく頼んだのを反省してる」
「じゃあ止める?」
我ながら意地の悪い質問だ。案の定、カラ松くんは恨みがましい目で私を睨む。普段の凄みはまるで感じられないほど弱々しいものだけれど。
「…言うと思うか?」
「だよね」

もう一度同じ場所に歯を立てる。今度は力を込めて、跡をつけるイメージをしながら。
さすがに痛むのか、カラ松くんが肩を強張らせたのが伝わってくる。私が彼の両肩を押さえているから、無理矢理強要しているような感覚に陥る。それはそれでソソるのは秘密だ。
「は…っ……どうした、ハニー…?」
口を離しても無言だった私を訝ってか、カラ松くんが訊く。十四松くんが残したものに近い痕跡が、弾力のある肌に刻まれている。インナーで隠れる位置、色は濃いが数時間もすれば綺麗に消えそうないい塩梅。
「ん、いい感じかも」
私が頷くと、彼はホッと安堵の息を吐いた。
「大丈夫?痛くなかった?」
「平気だ。痛いというよりは、気持ちよ───」
そこまで言って、彼は言葉を切った。しばし漂う静寂。
「ノープロブレムだ!」
突如轟く渾身の叫び。いくら何でも勢い任せにするのは無理があるだろうと思ったが、黙っておく。私は空気の読める子。
聞かなかったことにして手鏡を渡し、跡を確認してもらう。カラ松くんは不思議そうに鏡を覗き込み、肩に跡があると知るや否や、目を見開いた。恐る恐る歯型に触れる。
「何時間か経ったら消えると思うよ。出血させないようにと思ったら、これくらいがベストかな」
持続性だけで言えば、キスマークに軍配が上がるのだろう。

「ユーリなら、いいのに」

顔を上げれば、相好を崩すカラ松くんの顔が近い。
「血が出ても?」
「ユーリがつける傷なら消えなくてもいい」
私だけに聞こえるような絞った音量で彼は囁く。この部屋には他に誰もいないのに。
私は首を振った。
「それは駄目。一生気にしちゃう」
「ユーリが苦しむのは困るな」
でも、と彼は言う。

「ユーリがつけた跡に一生縛られるのは、オレにとってはむしろ幸せなことだと思うんだ」

まるでスティグマじゃないか。
キスマークも歯型も、刹那的だからこそ戯れとして扱える。傷が残れば、ただの怪我だ。
自分がつけた傷跡を見ると、一時は相手の肉体ごと手に入れた優越感に浸れるかもしれない。その錯覚こそが背徳感を掻き立て、欲情を引き出す。荒々しい熱情に浮かされるのは短期間で、以降は残骸の空虚に苛まれる。
「例え離れても、側にいられるような気がする」
私が残した跡に触れて、カラ松くんは微笑む。
「だから、駄目だって」
ソファに置かれた彼の手の甲に、私は手を重ねた。歪な執着に引きずられてはいけない。
「こうやって好きな時に触れるのに、傷の方がいい?」
「…良くないな」
彼は私に塞がれたのと反対の手を持ち上げて、私の頬から後頭部にかけての髪を指で梳く。緩く、優しい手つきで。
「変なこと言った。忘れてくれ」
「カラ松くんはどうしたい?」
白か黒か決着をつけるのだ。有耶無耶に収束させてはいけない。何となく、そんな気がした。
カラ松くんは照れくさそうに片手を首に当て──意図的ではないだろうが、私の残した歯型に触れながら──口を開く。

「ユーリに触れていたい」




十四松くんのつけた噛み跡が少しずつ薄くなるように、私のそれもまた時間経過と共に色を薄くしていく。消失するのが不服なのか、カラ松くんは何度も姿見で跡を覗くから、しつこいと小言の一つも言いたくなる。
幾度目かの確認の際、私は静かに彼の背後に回った。
「…ユーリ?」
背中から両腕を回して、腹の前で手を組む。一見甘えるような仕草だ。カラ松くんもそう思ったのだろう、鏡越しに私を見つめる瞳は蕩けそうだった。
「ん?どうした?」
柔和な問いかけには答えず、私はおもむろに唇を彼の耳元に寄せて、軽く耳朶を噛んだ。
「ひぅ…ッ…!」
呼吸をし損ねたような甲高い声が漏れる。カラ松くんは反射的に体を捻ろうとするが、私の両腕が体勢変更を許さない。
「耳は性感帯かな?」
「は、ハニー!?なっ、何を──」
「何をって」
クスクスと笑い声を溢しながら、私は再度彼の柔らかな耳に唇を寄せる。二回目は少しだけ力を緩め、口づけのような感覚で。
「ちょ、は…っ、ぁ…」
抵抗は意味をなさず、嬌声に近い吐息に変わる。
目の前の姿見に映し出される朱に染まった顔を自覚して、彼は苦々しそうに目を逸らした。抗いたい理性と、抗えない欲望との葛藤は察するに余りある。

「言ったよね?新たな性的趣向発見か後悔するかの二択になるよ、って」

大事だから傷はつけない。消えない跡も残さない。
それ以外の方法で、両者にとって利になる方法でもって、私は彼の意識を惹き付けるのだ。決して後悔はさせないから自らの足で歩み寄っておいでと、誘う。
充足感に、ほんの少しの快楽を混ぜて──

せめて声を殺そうと歯を食いしばる彼の姿を鏡越しに見つめながら、私は静かにほくそ笑んだ。

短編:アイドル始めません

灼熱のスポットライトに照らされたステージ、眼前に広がる百人単位の視線、フロア内に響き渡る軽快なテンポの音楽。現実味のない景色に思考を奪われつつ、体が覚えたステップをただひたすらに実行する。意識は一点に集中させる。
右足を引いて上半身を回転させ、客に背中を向けた。肩越しに斜め右下に視線を落とし、マイクを握る手から力を抜く。曲の転調と同時に、体の向きを再びステージに戻し、私は唇から音色を紡ぐ。

フロアの最奥、間接照明さえ僅かにしか当たらない暗闇の中、私の目はカラ松くんを捉える。彼は真っ直ぐに、私を見つめていた。




その日、私はトト子ちゃんに拉致られた
折り入って話があるからといつになく申告な声で呼び出された先に現れたのは、魚に食いつかれたが如きの異様な被り物イカ下足が数本垂れたワンピースに身を包んだトト子ちゃんだった。呆然とする私の手を取って、挨拶もそこそこに有無を言わさず連行したのは、小さなライブハウスの控室である。

「ユーリちゃん連れてきたよ」
トト子ちゃんがドアを開けると、ピンク色の長髪に猫耳を装着した女の子が、スマホから顔を上げた。
──橋本にゃーだ。
チョロ松くんが推している地下アイドル。一緒に撮ったチェキや彼女が載った雑誌を何度か見せてもらったから記憶している。ライブ終わりなのか、傍らには小さめのキャリーケースが一つ。
「何で橋本にゃーさんが…?」
「私のこと知ってくれてるんだ?ありがとねー」
小首を傾げて微笑む仕草は、可愛らしい。
「ユーリちゃん、こいつのこと知ってんの?変わってんね」
橋本さんとは裏腹に、トト子ちゃんは眉間に思いきり皺を刻んで不服顔だ。口調も刺々しい。
「は?お前より私の方が断然知名度あるしな」
橋本さんは鼻で笑う。唐突なキャラチェン。
「チョロ松くんの推しの子だよね?だから、何度か写真を…」
「だとさ。お前の知名度じゃねーんだと。ざまぁ
最高に帰りたい。私何でここにいるの?
「うっせー!つか、身近に私のファンがいるならやっぱ知名度あんじゃん。えーと、ユーリちゃんだっけ?弱井トト子から何て聞いてる?」
どうもトト子ちゃんと橋本さんの間ではある程度の話が済んでいるらしい。当事者の私だけが蚊帳の外である。
「相談があるってことだけ。急に連れてこられて、何が何やらって感じです」
「拉致ればノーとは言いにくいでしょ」
しれっと恐ろしいこと言ってきた。となるとこの状況は、お前に拒否権はねぇぞという前提?
「ユーリちゃんにお願いがあるんだ」
橋本さんは立ち上がり、私の前に立った。エメラルドグリーンを思わせる瞳が、じっと私を見つめる。

「来月のライブに、私と弱井トト子とのグループで出て欲しいの」

「無理です」
全力でノーセンキュー。
早っ!待って待って!今の緊迫したシチュエーションだと、流れ的にせめて詳しい話を聞こうかって展開になるでしょ!」
「聞いても無理です。誰にもの頼んでると思ってるんですか?相手考えてください」
極めて平凡な一社会人である自分の適性を鑑みた故の発言だったが、果てしなく上から目線になってしまった。
「トト子たちがよく使ってるこのライブハウスの人がさ、ここより大きめの箱でライブ共催するんだ。ちょっと有名なアーティストの前座で色物になるんだけどね。
でもそこに来るライブ関係者たちの目に留まる可能性があるなら、私は出たい」
トト子ちゃんが腕組みをして語る。軽い口調だが、目は真剣だ。アイドルとして売れて有名になるための絶好の機会を、決して逃すまいとする強い意思が伝わってくる。
「もちろん報酬も均等に分配する。チャージバックじゃなく固定型で、実入りは大きいんだ」
実際の金額も橋本さんから提示されたが、その界隈に疎い私には、その額が適当なのかの判断がつかない。
「それに…ユーリちゃんの職場、副業は禁止じゃないもんね?」
トト子ちゃんが緩く微笑む。なぜ知っているのか。
「三人目は自分たちで探せって言われて──」
「ユーリちゃんならトト子の引き立て役にちょうどいいかなって
純真な目で本音がダダ漏れ。
「アイドルに興味ないから立ち位置に文句言わなくて、でも頼まれたら手を抜かない便利な子ってユーリちゃんくらいなんだよね」
私を持ち上げると見せかけた壮大なディスり
二人には悪いが早々に暇を告げよう。手を振って出口へと体を向ける私に、トト子ちゃんはそっと耳打ちする。

「カラ松くんの幼少時のアルバム贈呈」

「最善を尽くして引き立て役やらせていただきます」




双方の利害は一致した。
私の変わり身の速さに橋本さんはしばし目を瞠っていたが、私の気が変わらないうちにとキャリーケースを開けて何やら光沢のある布を取り出す。
「テーマは『うさぎ』。で、これが衣装ね」
畳に広げられたのは、不思議の国のアリスに登場する白うさぎを彷彿とさせる鮮やかな色合いのステージ衣装だった。
白のワイシャツにとサテン生地の青いベスト、ボトムスはベストと同じ生地で、裾レースの膝上丈スカラップキュロット。白いジャケットの折り返した袖は、格子の白と黒と目を色違いに並べたチェック柄だ。ジャケットのフラワーホールから垂れるゴールドのラペルチェーンが胸元を彩る。
加えて白いうさ耳のカチューシャをつければ、もはやコスプレの域。色物扱いだから致し方ないとしても、キュロットの膝丈が膝上十センチを超えるのはキツイ
「意外と似合うじゃん」
橋本さんに褒められたが、嬉しくない。姿見に映る自分はまるで別人だった。
トト子ちゃんと橋本さんは、同じデザインのワインレッドカラー。さすがは見目麗しいアイドル、コスプレ衣装も難なく着こなして鏡の前でポーズを決めてみせる。
「推しの幼少時の写真だけでは見合わない気がしてきた…」
「何で?うさぎのユーリちゃん可愛いよ?トト子の次の次の次くらいに
ありがとう、それ褒めてるか微妙なライン
推しのレアアイテムに釣られた自分を恥じつつ、いい加減覚悟を決めなければと思った辺りで、不意に控室のドアが開いた。

姿を現したのは──カラ松くんだ。

「ユーリ!?」

「カラ松くん!?」
なぜ彼がこんな所に。
トト子ちゃんの平然とした表情から察するに、手はず通りといったところか。カラ松くんは唖然としつつも私の出で立ちに顔を赤くした。
「ど、どういうことだ、何でユーリが…!?」
「見ての通りだよ。来てくれてありがとう、カラ松くん」
うさ耳と衣装の装いで浮かべる彼女の笑顔は愛らしい。
「トト子ちゃん、これは…」
「ユーリちゃんに出てもらうならカラ松くんの許可は必要かなと思って、トト子が呼んだの」
余計なことを。
「許可?…というかハニーも、目のやり場に困るその格好はどういうことだ?」
「いや、どうもこうも策略に嵌められたというか陥れられたというか…みなまで言わないで。キツイのは分かって──」
「そうじゃない」
カラ松くんは私の言葉を遮る。

「ユーリには似合いすぎる。他の男の前ではそんな格好するんじゃないぞ」

私の服装から目を逸らしながら、カラ松くんが言う。
「何これ、最高に分かりやすい」
「でしょ。これが盲目ってヤツよ」
橋本さんとトト子ちゃんの白けた視線が背中に刺さる。
「ごめんね、カラ松くん。ライブで着る衣装だから、ユーリちゃんだけ他の人に見せないって約束はできないな」
「ライブ?それにさっき言ってたオレの許可とか…一体何の話なんだ?」
私は首を傾げる。
「カラ松くん、何も聞いてないの?」
「聞くも何も、ユーリについて大事な話があるから急いできてほしいと電話があって駆けつけたんだ。で、いざ来てみたらユーリがいて、しかもこんな卑猥な服を着てるから驚いてる」
彼もまた被害者だったか。あとさらっと卑猥とか言うな。
そして私が深い溜息をついた傍らで、嬉々として顛末を語り始めるトト子ちゃんと橋本さんであった。


控室に備え付けられた年代物のちゃぶ台を囲み、橋本さんのファンから差し入れで貰ったクッキーをお茶請けに、私たちは今後のスケジュールを話し合う。控室には茶を入れるための一通りの道具もあり──なぜか私が──茶を入れ、各自の前に置く。
「事情は分かった」
一通り彼女たちの話が終わり、カラ松くんが頷く。
「ユーリがやると言ったなら、オレはユーリの意思を尊重する…が、ユーリの本名は出さない方がいいんじゃないか?」
さすがはカラ松くん、私の意向を理解している。
「身バレしないように身元情報の扱いは注意するし、化粧とウィッグで雰囲気変えればバレないと思う」
汗をかいても落ちにくいメイクを施すから、と橋本さんは言う。

ステージで歌うのは一曲だが、ダンスとフォーメーションもあるので、練習は必須である。
「後で音源送るから、各自で練習ね」
「合同練習とリハの日は私がスケジュール組むから、
ユーリ ちゃんID教えて」
言われるままに私は橋本さんとSNSのIDを交換する。チョロ松くんの推しのプライベートIDをゲットしてしまった。

その後トト子ちゃんと橋本さんが立ち位置やソロパートの分配で対立し、口論になる。私たちがいる手前取っ組み合いにまでは至らないものの、アイドルとは思えぬ暴言が互いの口から吐き出されていく。
「ハニー」
低い声で呼ばれて、私はぎくりとする。彼がこういった呼び方をする時は、得てして彼の意に沿わない事態が勃発した時なのだ。
「オレはハニーを応援するし、ライブサクセスのために力も貸す。しかし…ただの善意で参加を了承したとはどうしても思えない」
「ええと、それは…」
「何か裏があるんじゃないか?」
深読みキタコレ。
いやしかし、私の思考パターンや趣向を先例と照らし合わせた末の、彼なりの疑問に違いない。そして、カラ松くんに嘘はつきたくない私の出す答えは、決まっている。
幼少時の写真を餌に釣られた真実を知るや否や、カラ松くんは耳を真っ赤に染め上げた。
「そんなもの、うちでいくらでも見れるだろう!」
「見たいんじゃなくて、欲しいんだよ。撮ってるシーンも違うと思うし!」
「だからって、たかだかオレの写真欲しさに無謀なことを──って、え?…オレの写真のために……はぁ!?」
カラ松くんは両手を拳にして、ちゃぶ台を叩いた。

「オレのハニーが可愛すぎる!」

お前のじゃない。
いつの間にかトト子ちゃんと橋本さんの口論は止んでいて、彼女たちはまたもや鼻白んだ顔で私を見つめていた。止めて。
「ソーキュート…っ」
言い換えて畳み掛けるな。




翌日から私の予定は、多忙を極めた。
仕事終わりから就寝までの合間を縫って歌詞の暗記とダンスに勤しみ、昼休みにコソコソと練習もした。アイドル専業のトト子ちゃんたちとは違い、練習に費やせる時間が少ない。足を引っ張らないためにも私は必死だった。

だから、カラ松くんと会う休日に私が疲弊しきっていたのは、当然の展開だったと言える。
「疲れてるなら無理に会わなくていいんだぞ、ユーリ」
カフェの窓際に設置された対面のソファ席。通りに面したガラスに映る彼は、浮かない顔だった。
私はコーヒーに砂糖を落としながら、首を振る。
「メンタル回復には、ある程度のライフ消耗も止むを得ない」
「…つまり?」
「私がカラ松くんに会いたいの」
仕事と練習に明け暮れる日々に、癒やしは必要だ。語気を強めて言い放つと、カラ松くんは僅かに目を見開き、そして破顔した。
「じゃあ今日は夕方までのんびり過ごそう。夕飯はハニーの家で食べるか。簡単なものでいいならオレが作るから、その間ハニーは寝て休む。オーケー?」
「うん!」
カラ松くんの提案は渡りに船だった。感情に体がついていかないことが悔やまれる。
報酬に目が眩んで請け負うんじゃなかったとまで思いそうになる。けれどそれは、本気で取り組んでいる二人に失礼だ。考えを切り替えろ。
スプーンで琥珀色の液体をかき混ぜていたら、カラ松くんがテーブルに上半身を乗り出してきた。

「頑張って結果を出そうとするユーリは格好いいんだ、もっと自分を誇っていい。オレが自慢したいくらいなんだぞ」

私は呆気に取られる。
推しの癒やし効果舐めてた。メンタルの回復量ヤバイ。
「今日の晩餐は任せておけ。オレが腕によりをかけて振る舞おう」
「ふふ、何を作ってくれるの?」
「んー…そうだな、チャーハン、とか?」
啖呵切ってチャーハンかと私は笑いそうになる。
「わ、いいね。楽しみにしてる」
「アイドルの体調管理に気を遣う…オレ。フーン、マネージャーというジョブも悪くないな」
一人悦に入るカラ松くん。
「本業でアイドルとか絶対ないから。
アイドルってキラキラしてるけど、そんな気軽になれるもんじゃないんだよ。地道な努力が必要だし、人脈や運もいる。今回だって他に人がいないって言うから受けたけど、練習しないと二人の引き立て役すら務まらないんだからね」
「言っておくが、オレだって一回限りだから納得したんだからな。
ユーリが他の男たちに愛想を振りまくのは、これっきりにしてもらおう。絶対に正体はバレないようにな」
言われるまでもない。ウィッグを被って化粧も変えるし、何なら付け黒子もつける。だから案ずるなと声をかけようとしたら、その矢先にカラ松くんは自身の髪を片手でぐしゃぐしゃに掻き回す。

「すまん…本当は、オレが嫌なんだ。ユーリのことを心配してるのも事実だが、それ以上に…オレが──」

「カラ松くん…」
「ユーリが、遠くに行ってしまいそうな気がして」
弱々しい声で紡がれる言葉。私は耳にかかる髪を掻き上げ、ふっと笑う。
「キラキラファントムストリームこじらすな、働け」
「すいません」





ライブの日、私たち三人は一日限定のグループと紹介があった。トト子ちゃんと橋本さんは普段はソロ活動をしていること、私の素性は本人の希望により非公開であることも合わせて説明してもらう。
金髪のロングカールウィッグをかぶり、いつもとテイストの違う化粧、そして下唇の近くに付け黒子をつけた。変装よろしく顔を変えた私を見たカラ松くんは、しばし呆然としたものだ。
ホールは千客万来で、百人規模の来場客で溢れていた。大勢の客を前に、うさ耳と色物のコスチュームを着てステージに立つ。経営陣の前でのプレゼンとはまた大きく異なる緊張感が私たちを包む。

ステージに立った橋本さんが、最前列を見てにこりと笑う。男性陣が彼女の笑顔に応じ、ペンライトを振った。SNSを見て駆けつけた彼女のファンだ。その中にはチョロ松くんもいて、目を輝かせて橋本さんとトト子ちゃんを見つめる。
私とも視線がぶつかったので、絶対に私だと気付くんじゃねぇぞと念を込めて目を細めたら、赤面された。

「橋本にゃーです!普段は猫耳、尻尾、ブレザー、みなさんの性癖くすぐる超絶愛玩ヒロインやってます」
「魚介類を愛してやまないお魚アイドル、弱井トト子です!デビュー曲は『鱗を剥がさないで』です、みんな買ってねー」
二人はうさぎの格好で猫だの魚だのとのたまう。けれど会場からは小さくない笑い声が溢れて、ひとまず彼らの関心を得たことが窺える。掴みはオーケーというヤツだ。
目が眩むようなスポットライトを浴び、音源に合わせて声を出す。思考より先に動く体。舞い上がる二人の髪が煌めいて、フロアに響き渡る歌声はどこか他人事のようにも感じられた。
マイクを持たない側の腕を横に広げて、指先に力を込める。弧を描くようにすぐさま胸元に引き寄せ、肩を竦めながらサビに入る。二人の歌声を掻き消さない声量を意識しつつ、歌声を重ねた。

フロア奥に酒を嗜むラウンジコーナーがある。カウンターチェアに座っているカラ松くんの姿を私の目が捉えた。目線を上げる振り付け時にほんの一瞬垣間見えたに過ぎないが、彼は感情の読めない表情で、私の動きだけを追っていた。

百人以上の客がいても、すぐに分かる。薄暗い空間に溶け込む黒の出で立ちでも、彼の姿だけは。




「おっつかれー!」
控室に入るなり、三人でハイタッチ。
それから橋本さんは、差し入れの冷えたペットボトルを投げて寄越す。
私は礼を告げながらパイプ椅子に座り、背もたれに思いきり背中を預けた。ノーミスクリア、我ながら最高の引き立て役、すんばらしー。顔に出さず自画自賛。
メインアーティストの演奏が控室にまで漏れ聞こえてくる。室内には出演を終えた三人だけだ。
「沸いたねー。他人の曲だったってのが気に入らないけど」
トト子ちゃんは高らかに足を組み、ボトルのドリンクをあおった。ステージ上で見せた純真さとはかけ離れた貪欲な精神。
「休憩時間には顔売りに行かなきゃね」
橋本さんは鏡の前で化粧直しに余念がない。
「当然。このために名刺作ってきたんだから」
「やるじゃん、弱井トト子」
「当然だろ」
乱暴な応酬の後、顔を見合わせてニヤリとほくそ笑む二人。その頭上で白いうさ耳がふわふわ揺れている絵面は、違和感しかない。

「ハニー!」
そうこうしている内に、カラ松くんが控室に飛び込んでくる。
「一番輝いてたな!こんな小さな箱はユーリには合わないっ、武道館目指せる圧倒的存在感だった!エクセレント!マーベラスっ」
控室に轟く大きい声は、幸いにもステージの演奏でかき消える。
「嬉しいけど褒めすぎだよ、カラ松くん」
「オレは本気だ!一回きりの約束で良かった、ハニーのカリスマ性は新興宗教の教祖クラスだ!」
思考が危ない。
私は立ち上がって彼を中に引き入れると、ドアの外の様子を窺う。廊下には誰もいない。
「チョロ松くんは?」
「会ってないな。オレがここに来ることは話してないし、後で適当に偶然を装っておけばいいだろう」
確かに。トト子ちゃんの応援に来たとでも説明すれば納得するだろう。
「本当に頑張ったな。たった一回きりの出演のために、寝る間を惜しんで練習してたのを見てたから感慨深い。グレートサクセスだ、ユーリ」
私の本心も知った上で労ってくれる、その賛辞は素直に嬉しい。成功の高揚感がまだ胸の内で燻っているから、今にも目尻に涙が浮かびそうだった。
「…ありがとう」

「最後に見送りあるから、それまでは衣装脱がないでね」
スマホのディスプレイに目線を落として、橋本さんは言う。
「希望者には握手もするから」
続けて発された台詞を、私は来場者へのサービスの一環だろうなくらいに気軽に捉えていたのだが、カラ松くんが眉根を寄せた。
「ウェイト」
それから橋本さんの前に立ち、腕を組む。

「聞いてない」
「言ってない」

互いに向け合った鋭い眼光からは火花が散るかのようだった。雲行きが怪しくなってくる。ぶっちゃけクソだるい
「ファンサは当然だしね」
「ユーリはアイドルじゃない」
「今日限りは私たちとグループ組んでるアイドルだから。本人も異論ないでしょ」
「どこの馬の骨ともしれない野郎どもに気安く手を握られろと?」
「承認欲求を満たしてくれて、なおかつ課金もしてくれる大事な人たちだから」
要は価値観の相違である。どちらが正しいという話ではなく、このままでは水掛け論がヒートアップするだけだ。
トト子ちゃんは我関せずの体で、置かれていた雑誌を気怠そうに眺めている。
「希望者だけっていうし、その中でも多くの人は橋本さん目当てだと思うよ」
報酬を得る以上、今日は最後まで彼女たちの引き立て役を貫くと決めている。カラ松くんの心配は嬉しいが、大人しく引き下がりやがれ
しかし彼は眉間に寄せた皺を一層深くした。
「分からんぞ。三人とも可愛いからな──特にハニーは別格だ」
途端にトト子ちゃんと橋本さんは苦虫を潰した顔になる。推しが本当にすいません。
「とにかく終わるまでは邪魔したら駄目。トト子ちゃんと橋本さんに迷惑かけたら──襲うよ
「っ、ハニー…」
私の凄みに目を瞠り、カラ松くんは項垂れる。言い過ぎたかと良心の呵責に苛まれそうになるが、私が何か言うよりカラ松くんが妥協案を見出す方が早かった。

「…分かった、手出しはしない。ただし、側で見届けさせてもらうからな」


メインアーティストの演奏が終わり、私たちは出入り口近くで待機する。
「ありがとうございました!良かったらソロライブにも来てくださいね」
客の多くはこのライブの主役目当てだから、見向きされないのは端から折込済みだった。しかしトト子ちゃんと橋本さんは商魂逞しいもので、今後のライブスケジュールが記載されたチラシを配布する。私は愛想笑いを浮かべて彼女たちを彩る花に徹する。
ときどき握手を求めてくれる客もいて、もちろん笑顔で応じた。僅か数秒の触れ合いで、世辞も多分に含まれているだろうが、気にかけてくれるのは喜ばしいことだ。
「にゃーちゃん!超絶可愛かったよ!」
聞き慣れた声がして振り向けば、顔を綻ばせたチョロ松くんが橋本さんと握手を交わしていた。
「あ、トト子ちゃんももちろん!猫も魚もいいけど、うさぎも最高だった!」
後がつかえているので、やり取りはほんの一瞬だ。チョロ松くんが私の前に来る。
「ありがとうございました」
声音を変えて、私は礼を述べる。彼は少し照れくさそうに視線を外したが、すぐに顔を上げた。
「ええと…君は、今回限りの助っ人なのかな?」
「はい。これからも是非二人を応援してくださいね」
チョロ松くんにとっては言われるまでもないことだが、他人ならこう言うだろうと想定した台詞を口にする。彼は頷いて、笑った。

「にゃーちゃんとトト子ちゃんを支えてくれて、ありがとね」

しっかと手が握られる。
「ち──」
「チョロ松」
危うく名を呼びそうになるのを、カラ松くんの声が遮った。
「えっ!?あ、え、カラ松?何だ、お前も来てたの?」
「トト子ちゃんの応援にな。こんな所で会うとは奇遇だな、ブラザー」
チョロ松くんの肩を抱き、カラ松くんは外へと向かう。去り際にちらりと一瞥が寄越された。三男からは見えないようひらひらと手が振られたので、彼のことはカラ松くんに任せることにした。

「あの」
客を八割方見送ったところで、一人の男性に声をかけられた。私と同世代くらいだろうか、優しい雰囲気を纏った人だ。
「あ、はい」
「素性は非公開ということでしたが、もし活動をしてるならSNSとか…せめて場所を教えてもらうことはできますか?」
予想だにしていなかった問いだ。私は硬直する。傍らの橋本さんが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「すみません…元々活動してなくて、今回は二人のサポートとして入っただけなんです。今後も予定はしていません」
明確にしておかなければと意気込んだら、棘のある物言いになってしまった。
「でも──楽しかったです。
見てくださって、ありがとうございました」
これは本心だった。今後も足を踏み入れるつもりは毛頭ないが、達成感には未だに酔いしれている。
男性はダメ元の確認だったようで、にこりと笑みを見せてくれた。
「そうですか…。
歌も踊りも、荒削りで一生懸命なところがすごく良かったです。一曲があっという間でした」
私の胸に温かいものが広がる感覚があった。引き立て役だのメインに添える彩りだのと卑下していたが、人を喜ばせるという実りのある結果を残せたのだ。
別れを告げる彼に、私は深々と頭を下げた。




「ユーリ」
来場客の見送りを終え、控室に戻ろうとした頃にカラ松くんが戻ってきた。
「あ、お帰り。チョロ松くんはいいの?」
「途中で別れてきた。ハニーを置いては帰れない」
まだ宵の口だ。
「──というか、一人だけ長く話してる奴がいたな。そいつとは何の話をしてたんだ?」
見ていたのか。それならそうと最初から素直に訊けばいいものを。うさ耳のカチューシャを外しながら、私は笑う。
「褒めてくれたの」
「褒めた?」
「そう。上手くなかったけど頑張ってたねって。そう言ってもらえると嬉しいね」
もしかしたら取るに足らない世辞だったのかもしれないけれど、それでも私の心は満ちる。
「ユーリの努力はオレが一番知ってる」
なぜか張り合おうとする当推し。

「トト子ちゃんとにゃーちゃんを際立たせるために、敢えて目立つことをしなかったのも、仕事終わりに毎日練習してたのも、その努力をひけらかさず去ろうとしてることも……全部知ってる」

どこまでも真摯な瞳が、私を見つめた。唇を真一文字に引き結び、下ろした手は強く握りしめて、ただ真っ直ぐに私を捉える。
私には、それで十分だった。

アイドル二人に挨拶を済ませて、カラ松くんと共にライブハウスを後にする。化粧を落とし私服に着替えたら、完全にお役御免だ。
「ユーリちゃん!」
完全に気を抜いていたから、弾む声で名を呼ばれた時は思わず目を剥いた。
「…チョロ松くんっ」
ライブハウスから数メートルも離れていない通りである。ライブが終わってから一時間以上が経過しており、まさかこんな所でチョロ松くんに出くわすとは思ってもいなかった。ヤバイ。
「カラ松と一緒だったんだ?」
「あ、その、チョロ松くん、私…」
「ユーリちゃんもトト子ちゃんの応援?」
破顔するチョロ松くん。私は即座に頷いた。
「そう、はい、応援。トト子ちゃんと、私、話、盛り上がって、つい」
「…ハニー、日本語に不慣れな外国人みたいな喋り方になってるぞ
お前は黙っとれ。

「そっかぁ、にゃーちゃんもトト子ちゃんも超可愛かったよね!あの衣装はマジでレアだよっ、奮発してチケット買って良かったぁ。
っていうか、ユーリちゃんも行くって知ってたら誘ったのに」
「ホントダネー、キガツカナカッタナァ」
「ハニー…」
憐憫の目を向けるんじゃない。こちとら罪悪感と疲労感でいっぱいいっぱいなんだよ。
「あ、でもカラ松とデートか。じゃあ邪魔しちゃ悪いな」
「それは違うから大丈夫」
「何でそこだけ真顔で断言するんだ、ユーリ」

すかさず否定した私と不服そうなカラ松くんを前に、チョロ松くんは苦笑する。それから思い出したように、あ、と声に出した。

「もう一人の子も、お綺麗だったよね」

何と返せばいいのか、一瞬の躊躇いがあった。肯定するのは自画自賛乙だし、かといって否定すれば三男の感想に異議を唱えるに等しい。
黒目を左右に動かして思案していたら、不意にカラ松くんの右手が私の背中に触れた。

「ああ、綺麗だった。それに───すごく頑張ってたな」



一日限りのアイドルはこうしてひっそりと幕を閉じた。
充実感はあったり、表向きの輝かしさからは窺えない努力も垣間見ることができ、楽しくなかったと言えば嘘になる。麻薬のような優越感も身に沁みた。
でも私は、絶対に───アイドル、始めません。