短編:目に映るのはいつだって

嫉妬は厄介な感情だ。
まず、起点となる人体に相応の負荷が掛かる。爆発を抑え込むのに精神力を消耗する割に、周囲にもたらすプラスの効果は限りなく薄い。
そしてこの感情の発生によって状況が劇的に改善することは稀で、ややもすると不穏な空気を撒き散らして新しい厄災の種となる。面倒くさい奴、という不名誉な烙印を押されることも多い。
卑屈で醜く、挙句の果てには自己嫌悪さえ誘発する厄介なもの──それが嫉妬だ。




「あの…すみません」
横から声が聞こえて、カラ松は振り返った。
木製の杖に体重を預けた七十過ぎと思われる老女が、困惑げな表情を浮かべてカラ松を見上げている。
場所は、山手線の中でも比較的主要な駅の構内である。行き交う人の姿は多く、地面を踏み鳴らす足音や人声でそれなりに騒々しい。
「ん?」
「ここから数分先の所に高木ビルっていう建物があるらしいんですが、どう行ったらいいか分からなくて…教えていただけません?
囲碁クラブの教室があるんです」
囲碁クラブ。末弟を連想するワードだ。そんな雑念が過ぎったが、振り払って目の前の相手に向き直った。
老婦は地図を印刷したらしい用紙を取り出して差し向けてくるが、カラ松は戸惑いの色を濃くする。というのも、自分もまたこの周辺においてはストレンジャーなのである。赤塚区内ならいざ知らず、区を越えれば土地勘はないに等しい。
「フッ、熟女さえも惹き付けてしまう隠しきれない魅力を持つ…オレ。群衆の中でも一際眩い光を放つ一番星ってのも困った配役だぜ」
魅力的すぎるのも罪。
「それで、その…高木ビルにはどう行けばいいでしょう?」
女性に催促されてカラ松は我に返る。
「…ああ、すみません。ええと、その場所なら──」

「三番出口を出て、百メートルほど真っ直ぐ歩くとあるみたいですよ」

声の主は、ユーリだ。
カラ松の横からひょいっと顔を覗かせて、スマホの画面を女性に見せる。それから近くの柱に設置されている案内図で、現在地と出口を指差した。
方向を理解したらしい老女は何度もカラ松とユーリに頭を下げ、そのままユーリが示した方向へと向かっていった。

「助かった、ハニー」
彼女の姿が完全に見えなくなってから、カラ松は安堵の息を漏らす。
「ううん、スマホの地図アプリで調べただけだから。私自身、これのおかげでどこ行っても迷子にならなくて助かってるし」
「そうか…最近はスマホという手があるんだな」
「スマホが普及してから、道を訊かれるってことが減ったよね」
ユーリは感慨深げに呟くが、カラ松はスマホはおろかガラケーも持ったことがないから、とんど現実味がない。加えて、下手な相槌は打ちたくなかった。
「ユーリに近寄ろうとするゲスどもの、声をかける口実にならないのは幸いだ」
「意味が不明」

「しかし事実だろう?」
「開いた口が塞がらないってこのことかと痛感してる」
ユーリは可愛い顔に似つかわしくない複雑を極めた表情で、長い溜息を吐いた。

「オレはユーリのようにスマホを持ってないから、交番に案内しようと思ってた」
しかしカラ松がそう呟くや否や、彼女は一転して目を瞠る。
「ええっ!?何で驚くんだ!今まで何回かそうしてたんだが、そんなに駄目な手段だったか!?」
都心の駅前なら高確率で交番がある。仮に警官が不在でも、交番内の電話で連絡を取ることもできる。彼らなら土地勘もあるからと、そう思っての選択だった。
いつも警官に声をかけた段階でカラ松は離席していたから、結末を見届けたことはなかったが、まさか。
「違う、ごめん、そうじゃないの」
ユーリは慌てて首を横に振る。
「確かにその方法は確実だなって、目から鱗だったから驚いただけ。誤解させちゃったみたいでごめん」
「あっ、いや……オレが勝手に勘違いしただけだ。ハニーは悪くない」
「今までもそうしてたんでしょ?──親切なんだね、カラ松くん」
ユーリの微笑みを向けられて、カラ松は顔が熱くなるのを感じた。過去の経験が結果オーライでユーリの好感度を上げたらしいが、そんなことよりも、今この瞬間笑ってくれていることが嬉しくてたまらない。
「世のカラ松ガールズたちの愛に応えるのがオレの使命だからな。当然のことをしたまでだ」
賛辞を素直に受け取らず、天の邪鬼よろしく気取って茶化してしまうのは、悪い癖だ。

でもユーリがそう言うのなら、今後も道を訊かれたら積極的に答えようと心に決めたカラ松だった。




上記の出来事から数ヶ月が経った昼下がり。某駅のカフェやテイクアウトの店が軒を連ねる広々とした改札外エリアに、カラ松とユーリはいた。
「じゃあ買ってくるから、ここで待ってて」
最初に喉の渇きを口にしたのはユーリだった。ドリンクでも買うかとカラ松が提案し、目ぼしい店を見つけたものの、狭い店内には購入待ちの列。その現状を鑑みての、ユーリの発言だった。
「分かった。ナンパにはくれぐれも気をつけるんだぞ、ハニー」
「子供のお使いか」
「麗しいレディだと言ってるんだ」
そう言ったら、ユーリは少し困ったように笑いながら、手を振った。背を真っ直ぐに伸ばした足取りで、カフェへ向かう。
こういう時、一般的にはスマホなり本なりを出して、時間を潰すのだろう。生憎どちらも所持していないから、カラ松は何とはなしに傍らの案内図を見やる。乗り入れ路線の多い駅のせいか、案内図自体が煩雑で本末転倒だ。新宿駅や大阪駅のようなダンジョン駅とまではいかないが、構内で右往左往してしまいそうな構造である。
そんな中、カラ松の視線はある一点で止まった。ブロンドのロングヘアが美しい異国の女性。齢は自分と近いだろうか、大きなキャリーケースを引きながら、案内図の前で立ち止まる。カーディガンの下にチューブトップを纏い、りんごのような胸がたわわに揺れた
「…ジーザス」
うっかり口を滑らせてしまうほどには、童貞には目の毒だ。谷間もしっかりと視認でき、でかい
彼女は自身のスマホと案内図を見比べては、困り顔で首を傾げる。

「流れるブロンドヘアがビューティフルなレディ、何か困りごとか?」
声をかけたカラ松に、やましい気持ちはなかった──とは言わない。しかしそれ以上に、ユーリの存在が大きかった。親切だねと言ってくれた言葉が、リフレインする。
「I got lost…ah…道に迷いました」
たどたどしい日本語で告げた後、彼女は苦笑を浮かべる。
「このデパートメントストアに行きたいんです。でも行き方が分からなくて」
体ごと寄せてきたせいで、豊満な胸がカラ松の腕に当たりそうになる。挙動不審になりながらもスマホを覗くと、駅から少しばかり歩いた先にある百貨店だ。幸か不幸か、ユーリと向かおうとしていた場所である。
「オレもそこに行くんだ。一緒に行くか?」
徒歩で数分の地点だが、地下を通ったりと道が入り組んでいる。口が説明するよりも、同行した方が早い。
そう思っての提案だったが、美女は双眸を輝かせてカラ松の腕にしがみついた。
「ワオッ、サンキュー!あなた親切!」
今度こそ胸がカラ松の腕に当たる。意識を失わなかった自分を褒めたい。
「ち、ちょっ…レディ!」

「お待たせ、カラ松くん」

そうこうしている内に、両手にドリンクを抱えたユーリが戻ってくる。彼女の目に映るのは、ナイスバディな美女に抱きつかれるカラ松という絵面。
「ユーリ…っ」
「そちらの方は?」
ユーリは動じる様子もなく、外国人の女性へと顔を向ける。
「えっ!?あっ、このレディは、道を訊いて──」
狼狽えながらも腕を振り払い、釈明のため口を開く。すると美女は何を思ったのか、ユーリとカラ松を交互に見やってから、尋ねた。

「ガールフレンド?」

ネイティヴの発音だったが、この程度なら聞き取れる。日本語なら女の恋人を指すが、相手は外国人だ。女の友達、そういう意味合いでは間違っていないから、カラ松は頷く。
「ああ、イエス」
そう答えると、彼女はにっこりと微笑んだ。大人びた顔立ちだが、笑顔は子供のように無邪気で愛嬌がある。
対照的にユーリの顔には微かに驚きの色が見えたようだったが、気のせいか。
「どこへ行く予定って?」
「オレたちと同じ所だ」
「なるほど、それはラッキーだね。百貨店までは歩いて十分くらいです。でも道は分かりにくいので、ご案内しますね」




日本には観光で来ており、百貨店で開催されている物産展で土産を買いたいのだと美女は語った。
駅周辺には複数の百貨店が点在している。一見利便性は高いが、駅から直結のルートがなく、地上をはじめ地下街や歩道橋が複雑に絡み合っているため、地図アプリが示す時間内にはまず到着しない。
「ここだ」
歩道橋の階段を下りたところで、カラ松が建物の入口を指す。
「物産展をやってる催事場は八階だから、エレベーターを使うといい」
「エレベーターは、入ってすぐ左です」
カラ松に続いてユーリが言う。
「サンキュー!助かりました!」
胸の前で両手を組んだかと思いきや、カラ松の背中に両手を回して抱きしめる。肩の上から腕を回して肩を叩くような形で、いわゆるコミュニケーションとしてのハグだ。知識としては理解しているが、ここは日本だし、カラ松は童貞だ
「あっ、ちょ…っ、あの…!」
抱き返すわけにも、かといって突き放すこともできず、行き場のないカラ松の手が宙に浮く。
しかし彼女はカラ松の動揺を気にも留めず、すぐさまユーリにも同じハグをした。ユーリが驚いたのは一瞬で、すぐに困ったような苦笑顔になった。

それから彼女は英語でユーリに何か告げたようだった。聴き取ることは適わず、会話が終わるのを待つしかない。ユーリは口角を僅かに上げたまま相槌を打っていて、表情から感情は読み取れなかった。
最後に、美女がユーリに何かしらの問いかけを投げたらしい。
「オーケー」
ユーリは首を縦に振り、了承の意を示した。
異国の旅人は満足げに笑って、ユーリとカラ松に手を振りながら百貨店の自動ドアをくぐり、やがて見えなくなった。


「なぁ、ハニー」
風のような人だったと、カラ松は思う。
「さっき、ソーリーって彼女言ってなかったか?」
ユーリとの会話は聞き取れなかったが、単語くらいは拾える。それがたまたま謝罪の言葉だっただけで。
「うん、言ってたよ」
「手を煩わせたことに対してか?でも、こういう時普通外国ではサンキューだよな」
ソーリーを多用するのは日本人特有だ。
カラ松が顎に手を当て思案すれば、ユーリは小首を傾げて笑う。

「優しくていい彼氏ね、って言われた」

予想だにしなかった展開に唖然とするカラ松をよそに、ユーリは続ける。
「迷って困ってた時に声をかけてもらえたのが嬉しかった。あなたの彼氏なのに馴れ馴れしくしちゃってごめんねって、そう言ってたんだよ」
「…え。か、彼氏!?なぜ!?」
誤解されたことが嬉しくないと言えば嘘になる。しかし、勘繰られるならともかく、断言されるほどあからさまな接触はなかったはずだ。百貨店に来るまでの道中も、彼女を挟む格好で歩いていた。揃いのアクセサリーをつけているわけでもない。
動揺するカラ松に、ユーリはやれやれと肩を竦めた。
「ガールフレンドだって言ったのは、カラ松くんでしょ」
「…オレのせいなのか?」
「単語だけで訳すと女友達って字だけど──英語では『彼女』って意味だからね。相手が異性の女の子でも、友達ならフレンドって言うんだよ」

やらかした。

あの時の問いかけに対し、カラ松は躊躇なくイエスと答えた。誤解の元凶は自分だったという最悪のオチ。
顔に熱が集中する。ユーリはオレの彼女だ、そう宣言したに他ならない。それも本人の前で、臆面もなく堂々と。
「…その顔、やっぱり意味勘違いしてたんだ」
ユーリは苦笑する。す、と視線がカラ松から外れた。


「ドリンク持って戻ったらスタイルのいい美人と腕組んでるから、最初は何事かと思ったよ」
何気なく放たれた台詞に、小さな違和感を覚える。具体的根拠はと問われれば閉口せざるを得ないが、どことなく棘があった。
カラ松は自然と前のめりになる。
「な、なぁ、ハニー…ひょっとして、怒ってるのか?」
尋ねた声は上擦っていたかもしれない。
「デレデレしてるな、とは思った」
「してないぞっ、断じてそんなことはない!」
主観の吐露に対する事実の提示。疑念を抱かれ、本来ならば必死に否定して信頼回復に努めるべきシーンなのだろうが、頬の筋肉が緩むのを抑えられない。
「いやぁ、大きな胸押し付けられてテンションは上がってたよね」
「…それは、まぁ、親切の副産物とはいえあれほどの大きなものはラッキーだな、とは──って、違ぁう!」
いつもの癖でつられてしまった。ユーリは白けた顔でカラ松を見る。

「胸が当たって悪い気がしないのは生理的なもので、他のレディに目移りなんて絶対にない。それは今までもそうだし、これからもだ!」

「何でさっきからずっとニヤニヤしてるの?」
「し、してない」
「声も嬉しそうだし」
腕組みをし、ユーリは面白くなさそうに溜息をつく。
百貨店の入り口付近で立ち止まり、不穏な空気で言葉を重ねる男女一組。すわ痴話喧嘩と認識されてもおかしくない状況にも関わらず、カラ松は高揚していた。

「い、いや、嬉しくなんかないぞ。実に困っている。
誰よりもスマイルが似合う麗しのハニーがご機嫌斜めで、どうすればまた微笑んでくれるかをずっと悩んでるんだからな」

矢継ぎ早に言い放ち、カラ松は眉間に深い皺を刻んだ。
「天照大神を天岩戸から出す方がよっぽどイージーだぜ」
「どうだかなぁ」
しかし言葉とは裏腹に、ユーリは組んでいた腕を解いて──笑った。
「まぁいいや。私もテンパったとはいえ大人気なかった」
「えっ!?ええと、ユーリ、それは…ジェラシーだったと、自惚れていいのか?」
限りなくクロに近いグレーが眼前に提示される。色を確定したくて、カラ松は意を決して尋ねるけれど、ユーリは緩くほくそ笑むだけだ。
「さぁ」
グレーをグレーのまま、カラ松に差し出して。




「そろそろ行こうか。押し問答をするために来たんじゃないしね」
スマホの画面で時刻を確認してから、カラ松の腕を軽く叩く。誘導という名の強制だ。これ以上の追求は無駄だと、長い付き合いでカラ松は悟る。
煙に巻かれてしまうのはもはや様式美なのではと落胆しそうになるが、次の瞬間──ユーリはカラ松の腕を取った。
「…ユーリ?」
自分の二の腕に、ユーリの指が添えられる。

「私はカラ松くんのガールフレンド、なんでしょ?」

果たしてどちらの意味合いか。
いたずらっぽい眼差しが、きらきらと美しい。
「何度訊かれても、オレはイエスと答えるぞ」
ユーリはおかしくてたまらないというように、一層顔を綻ばせる。

「でも一番しっくりくるのは、やっぱり──ハニー、だな」

カラ松はユーリを見つめた。

「行こう、マイハニー」

短編:夢か現に落ちるとして

カラ松が目が覚めた時、本棚の時計は午前八時前を指していた。
カーテンの隙間から漏れさす白い光に朝の訪れを感じながら、六つ子にとって早朝とも呼べる時間帯に自然と覚醒したことに、しばし驚き呆然としたものだ。



兄弟は当然ながらまだ夢の中である。熟睡していて、起きる気配もない。
普段ならカラ松も躊躇なく二度寝を決め込む時間だが、布団への誘惑を一切感じないほどの心地良い目覚めだった。よく寝た、そんな感想さえ脳裏を過ぎる。
「…起きるか」
うんと背伸びをする。挙げた手を腹部まで下ろした時、ふと左手に違和感を感じた。持ち上げて手を見やると──薬指に見慣れない銀の指輪。
表面に多少細かな傷は見受けられたが、新品に近い。カラ松の指にピッタリ合うサイズ感で、まるでオーダーメイドのようだった。
「何でこんなものを…」
デザイン性のないシンプルなリングである。兄弟のうちの誰かの私物を拝借したまま眠ってしまったのだろうか。記憶は曖昧で、関連付けられるような出来事は何一つ浮かんでこない。
いかんせん昨晩は六人で飲みすぎた。いつ布団に入ったかさえ記憶にないのだ。その間に発生した出来事ならば、覚えていなくても無理はない。全員が揃った時にでも持ち主を確認しよう。

隣で眠る一松とトド松を起こさないよう布団を抜けたところで、カラ松は自分の格好に目を瞠った。水色のパジャマで眠る五人に対し、自分だけが長袖のシャツとジャージだったからだ。
二日酔いのせいか、頭の中に霧が広がっているみたいに、思考がままならない。考えること自体がひどく億劫で、体力を奪われる。



ぼんやりと一階に下りると、居間には松代と───ユーリがいた。
「ユーリ…っ」
反射的に名を呼んだきり、言葉が続かない。朝の八時だ。何か約束をしていただろうかと思考を巡らせるが、とんと覚えがない。というか、こんな朝早くに彼女が松野家にいることが異例である。
カラ松と目が合ったユーリは、なぜだか少し大人びて見えた。化粧を変えたのかもしれない。よく知らないが、女性は化粧で変わるというから。
「あら、カラ松。ユーリちゃんもう来てるわよ」
来客用のコーヒーカップをユーリの前に置き、腰を上げながら松代が苦笑する。
「おはよう」
ユーリは怒るでもなく、にこにこと愛嬌のある笑顔をカラ松に向けた。
「あんた、まさかユーリちゃんが来るってこと忘れてたんじゃないでしょうね」
松代の言い方から察するに、約束を交わしていたらしい。それにしてもやけに早い時間ではないかと訝りながらも、反故にしてしまった罪悪感がじわりと胸に浸透しようとする。
どう反応すべきか悩んでいたら、松代が溜息をつく。

「やぁね、この子ったら。結婚しても抜けてるんだから」

「え…」
聞き慣れない単語が飛び出してきた。
「そういうとこも可愛いからいいんですよ」
ユーリは口元に左手を当て、笑みを返す。その指には、シルバーの指輪が光っていた。カラ松と同じ指に、同じ形のリング。
眼前に提示されるいくつかの事実が、一つの事実に集約されていく。けれど見えてくる景色はあまりにも荒唐無稽な絵空事で、口にする勇気が出ない。
「結婚、って…」
カラ松が呟けば、あれぇ、とユーリがいたずらっぽく口角を上げた。
「もう、嫌だなぁ。久し振りの実家お泊りだから寝ぼけてる?」
「長年のだらしない生活習慣は、結婚したからってそう簡単には抜けないってことね、きっと」
松代が辛辣に吐き捨ててくる。
「あはは。まだ新婚だから現実味ないのかもしれませんよ」
そう言って、ユーリはカラ松を見る。

「ね、カラ松」

ああ、とカラ松は思う。
思い出したのだ。半年前に、一年の交際期間を経てユーリと結婚したこと、婚姻と同時に実家を出て二人で新居に住んでいることを。彼女は今、松野の姓を名乗っている。
昨日は数カ月ぶりにカラ松だけが実家に泊まり、六人で遅くまで酒を飲んだ。話題の大半はカラ松の新婚生活で、ひどく茶化されたっけ。
「そうね、それはありそう。私だって、ユーリちゃんが娘になったなんて今も夢のようよ」
「やだお義母さん、上手いこと言うんだから」
からからと女二人は笑い合った。




「久し振りに六人で寝た感想はどう?懐かしかった?」
カラ松の朝食をちゃぶ台に配膳しながら、ユーリか尋ねてくる。焼き鮭に卵焼き、しじみの味噌汁といった和朝食が並ぶ。
「…何とも感じなかった。見慣れた部屋といつものブラザーたち、というか。
むしろこの指輪に違和感を感じたくらいだ。誰かのをつけてしまったのか、って」
「それは重症だね。でもそうなると思ってたから、今朝は二日酔いに効くしじみのお味噌汁だよ」
ユーリは笑みと共に、カラ松の目尻を人差し指の腹でなぞる。もう片手はあぐらを掻いたカラ松の股の上だ。今にも吐息がかかりそうなほど顔が近くて、カラ松は咄嗟に息を止めた。茶を注いだ湯呑を運んできた松代は自分たちの距離感に驚くでもなく、微笑ましげに見つめる。
「ユーリ、今日は、その…どんな予定だったか、教えてくれないか?」
「今日?朝ご飯食べて身支度したら買い物の約束でしょ?
あ、晩御飯はお義母さんが食べていきなさいって言ってくれたから、ご馳走になって帰ろう」
言われてみれば、そんな約束を交わしたような気もする。
カラ松は自分の膝に置かれたユーリの手を取り、薬指で光る指輪をじっと見つめた。デザイン自体はシンプルだが、緩やかなウェーブラインが指の付け根にピッタリとフィットしている。
「カラ松、どうかした?」
不思議そうにユーリが首を傾げる。
「結婚、したんだな」
地面に足が着かない、ふわふわと浮いて漂っているような感覚が続いている。そのせいかふと口をついて出た台詞も、どこか他人事めいたものだった。
「そうだよ。カラ松と結婚してもうすぐ半年──って、本当どうしたの?熱ある?」
ユーリは手を伸ばして、カラ松の額に触れた。
「え、ちょ…っ」
「んー、熱はなさそう」
先程からやたら顔が近い。結婚している間柄とはいえ、実の親の前で堂々とイチャつくのは少々抵抗がある。

慌てふためくカラ松の腕が、湯気の立ちのぼる湯呑みにぶつかった。傾いた器から中の緑茶が盛大に溢れ、カラ松のジャージに滴り落ちる。
「うおっ!」
「わっ、だ、大丈夫!?」
ユーリは目を剥いて、カラ松の腿に台拭きを当てる。
「火傷しちゃう。着替え持ってくるから、とりあえずズボン脱いで」
「は?」
パードン?
「だから脱いでって」
「脱いだらパンイチなんだが」
公然わいせつ罪まっしぐらである。
「知ってるよ。でもこのままだと火傷するから、とっとと脱げ
苛立ってらっしゃる。
しかしカラ松はジャージパンツに手をかけようとするユーリの腕を掴み、断固拒否の姿勢を貫く。親とユーリのいる前であられもない姿になる羞恥心はもとより、今どんなパンツを着用しているのかがどうしても思い出せない方が割と深刻だった。
「ぬ、脱げるか!」
「今更何で照れるの。夫婦だよ?カラ松の下着姿なんて見慣れてるし、毎日洗濯だってしてるでしょ」
ジャージを引っ掴み、押し倒す勢いで脱がそうとしてくるから、カラ松は早々に白旗を揚げる。真剣な表情のユーリに迫られてなお拒絶できるほど、人間ができていない。とことん弱いのだ、ユーリには。

何度も私に抱かれて今以上に恥ずかしい姿晒してるのに今更──」
「わあああぁぁあぁあぁ!」
「パンツくらいで恥ずかしがらないの」
「オレの自尊心は丁重に扱ってくれ!あと畳み掛けるの止めて!
朝から泣きたい気持ちになった。




熱湯を浴びたにも関わらず、火傷にならなかったのは幸いだった。ドタバタと忙しない朝が過ぎ、兄弟が起きないうちに外出の準備を整える。
玄関を出て戸惑いがちに伸ばした手を、ユーリは当たり前のように取ってくれた。手のひらが重なって、すぐに指が絡む。
口実を必要としない触れ合いに憧れていた。早くそんな日が訪れたらいいのにと、幾度となく願った。思わず笑みが溢れる。語り尽くせないほどの彼女への愛しさを、絡めた指に込めて、少しだけ力を強める。

「もしかして、カラ松疲れてる?」
「オレが?」
「さっきから何だか上の空だし。このところ仕事も忙しかったもんね。出掛けるの止めて今日はゆっくりする?」
平静を装っていたつもりだったが、ユーリにはお見通しらしい。
「フッ、さすがの洞察力だぜ、マイハニー。ハズバンドの体調を心配するハニーの心根は、さながら慈愛のゴッドネスといったところか」
カラ松の物言いに、ユーリは何か言いたげに眉間に皺を寄せたが、無言のまま鼻から長めの息を吐いた。
「…ま、冗談は置いといて。カラ松はお疲れってことで、今夜は抱かないでおくよ
またしても突然落下する爆弾。
「だ…ッ!?」
「平日はお互いに忙しかったから、今夜はカラ松抱きたかったんだけど。体調戻ってからだね。その時は寝かさないから、覚悟してね
うふふと照れくさそうに微笑む表情とは裏腹の、とんだドS発言
過去の情事の映像が、カラ松の頭のスクリーンにぼんやりと投影される。電気を消したベッドの上、キャミソール姿のユーリが熱っぽい瞳で──カラ松を組み敷いている。リップサービスよろしく耳元で愛を囁かれたら、もうどちらが上とか下とか、そんなことどうでもよくなってしまうのだ。それこそ付き合う前は、抱かれないぞと決り文句みたいに強気で言い返していたけれど。
「…勘弁してください」
カラ松は両手で顔を覆った。

「付き合う前を思い出すね」
顔は前を向きながら、ユーリは視線だけカラ松に寄越した。見惚れるなという方が無茶なくらい、華を纏ったような端麗な横顔。
「一年以上前になるんだな」
「うん。今も初な感じだけど、付き合う前はいつも緊張しながらカラ松が手を出してくるの。寒いからとかはぐれたらいけないからとか理由をつけて、こうやって」
空いている方の手を、カラ松に向けてくる。
その瞬間、数多の映像が怒涛のようにカラ松の頭を過ぎた。まるで鈍器で後頭部を殴打されたかのような衝撃だった。思考を遮っていた重苦しい濃霧が晴れて、視界が拓ける。
「…オレはその姿を、つい先日もユーリの前で晒したぞ」
一年付き合って、結婚半年。左手の薬指に銀の指輪。突きつけられる事実と装飾品になぜだか釈然としなかったのは、二日酔いがもたらす愚鈍さ故ではなかった。

この景色が──夢だからだ。

夢である自覚を持ちながら見る夢、いわゆる明晰夢というものなのだろう。
疑念を抱いたのは、湯呑みの中身が溢れた時だ。熱湯に近い液体が服にかかっても、温度を感じなかった。朝食も、明確な味を感じられなかった。
今だって、どんなに手に力を込めても──ユーリの温もりが伝わってこない。
「え?カラ松、何か言った?」
カラ松。
当たり前のようにそう呼んでくれることは純粋に嬉しい。叶えたい夢の一つだった。
「いや…オレたち、何でこの結婚指輪にしたんだろうな」
話題を切り替える。
夢の世界では、自分と彼女がどんな道を歩んできたのか興味が湧いた。少しだけ、あるかもしれない未来を垣間見たい。
「わー、他人事。すっごく悩んだの忘れたの?
フルオーダーするにはお金がないとか、凝ったデザインは格好いいけど長くつけるものだからシンプルが一番かもとか、何時間も話し合ったよね」
ユーリの言い草に、カラ松はフッと笑みを溢した。
ショーケースを前に議論を交わし合う自分たちの姿が、整合性を保つための捏造された記憶としてぼんやりと思い出される。先程から頭に浮かぶ記憶は一切合切が偽りだというのに、どうしようもないほど愛しさが込み上げるから、苦しい。
「すまん。うん、そうだったな」
そういう選択肢を選ぶ未来も、あり得るのだろう。


「なぁ、ユーリ。オレといて幸せか?」

この先無数に枝分かれしているであろう未来の中に、自分がユーリを幸せにする世界線があるのか、と。ふとそんな些末なことを知りたくなる。
社会的地位も富もない。職に就いて自立しているユーリとは対等でさえない。純粋な好意だけで睦言を語り合えるほど幼くもないのに、手元には行き場のない強大な想いがある。
夢でいい。夢でいいから、どうか──

「もちろん!カラ松と結婚して幸せだよ」

カラ松の不安を払拭するのは、いつだってユーリの笑顔だった。快活で裏のない、愛らしい表情。
「…ありがとう。それを聞けて良かった。年月が経っても変わらないな、ハニーは」
「少しは変わっていってると思うけど、カラ松への気持ちが減ることはないから、そういう意味合いでは変わらないのかもね」
とんでもない台詞を躊躇なく言い放って、カラ松を赤面させるのもそうだ。こういった応酬は今でさえ既に様式美となり、ユーリの口から紡がる言葉が甘いことを期待するようにもなった。カラ松の渇望を察したわけでもないのに、望むものを返してくれる。


カラ松は不意に立ち止まり、ユーリの両肩を掴む。互いに向き合う格好になった。ユーリはぽかんと口を半開きにしてカラ松を見やる。

「ユーリに伝えたいことがある」

思いの丈を、言の葉に変えて声に乗せた。
文脈も時系列も整合性もない。浮かんだものから矢継ぎ早に口にするせいで、時に言葉に詰まった。いつか必ず告げなければと、半ば使命感に駆られていた、支離滅裂で自分本位な想い。
公道だとか公衆の面前だとか、周囲の目を気にして躊躇う必要はない。これは自分の夢だ。行き交う他人は無機物に等しい。その証拠に、誰もカラ松に好奇の目を向けない。ゲームの村人よろしく、賑わいを演出するためのパーツに過ぎないのだ。

ずっと言いたかった、でも言えなかった、一年かけて積み重ねてきた想いと感謝を、ユーリへ。
現実ではまだ当面言えそうにないから、せめて夢の中の君に。

時間にすれば、一分二分程度の演説だったと思う。ユーリは抵抗も拒絶もせずに、ただ真っ直ぐにカラ松に向かい合っていた。
「──だから、その…幸せにするから、必ず」
虚像に未来を予告する。
目の前にいる数年後のユーリは、カラ松の願望が作り上げた自分にとって都合のいい映像だ。でも現実もきっと、大きな相違はないような、そんな気がする。
「今は、オレの覚悟を知っていてくれるだけでいい」
カラ松がそう言うと、ユーリは結婚指輪をはめた手を持ち上げて、カラ松の頬を撫でる。温もりのない、けれど感触だけは確かに感じる夢の中。

「知ってるよ」

彼女は目を細めて、笑った。




瞬きをした後、次に目に映ったのは、見慣れた襖だった。
今の今まで向かい合っていたユーリの笑顔はどこにもなく、そもそも場所が違う。横に伏せていた上体を起こせば、グリーンのソファが視界に広がる。
左手の薬指には、何もつけていなかった。つい今しがたまで確かにあって、デザインも色合いも明瞭に思い出せるのに。

「……ユーリ」
夢だと分かっていた。幻と理解した上で過ごしていた世界だった。なのに、大切なものをなくしたような喪失感がカラ松に伸し掛かり、息を止めようとする。
「はいはい、どうかした?」
だから、自身の深刻さとは真逆の軽快な声が帰ってきた時は、心臓が口から飛び出すかと思った。
「えっ!?は、ハニー、いるのか!?」
慌てて室内を見回すと、ソファを背もたれ代わりにカーペットに座るユーリと目が合う。彼女は丸い瞳でカラ松を見上げていた。
「十分くらい前からね」
膝を立てて、カラ松の顔を覗き込む。
「あー、汗かいてる。よく寝てたように見えたけど、嫌な夢でも見た?」
ユーリに言われて初めて、汗に濡れていることに気付いた。
「…あ、その、ハニー」
「何?」
「オレ…何か口走ってなかったか?」
「別に何も。というか、それを訊くってことは、やましい感じの夢だったの?」
ニヤニヤするユーリ。カラ松は緩くかぶりを振った。自分の盛大な告白は誰にも聞かれなかったことに、ひとまず安堵する。
「改めて決意をしただけだ。これからのことに対して」
曖昧な表現で濁しても、ユーリはその先を追求しない。いつだってカラ松の意思を尊重してくれる。その気遣いは嬉しくもあり、稀に物足りなくもある。我ながら贅沢な悩みだ。
「決意、ねぇ…」
「信じてもらえないだろうが…誰にも言ってない、でも必ず叶えようと思っていることだ。オレだって真面目に考えることもあるんだぞ」
眉をひそめてユーリを睨む。子どものように不貞腐れるカラ松に、ユーリはにこりとする。
夢の中と寸分違わず同じ笑顔で。

「知ってるよ」

短編:長男と居酒屋で

「ユーリちゃん、時間ある?俺と一杯やってかない?」
白い歯を覗かせて、おそ松くんはニカッと笑った。


仕事帰りに帰路に着く私と、パチンコで大勝ちした帰りのおそ松くんが出会う。偶然だねなんて盛り上がり、彼からの誘いで飲みに行く流れになった。

私たちは、いわゆる大衆居酒屋にやって来た。使い込まれた木製のテーブルと椅子が等間隔に並び、壁には所狭しとメニューの札が貼られている。入店したのが七時近かったから、既に店内は半分以上の席が埋まっていた。スーツ姿の男女も散見され、店内は有線のBGMが掻き消える程度には賑やかだ。
「ほんとにこんな店でいいの?俺は別に構わないけど」
おそ松くんは指先で頬を掻きながら、席に座る。引いた椅子が床と擦れて、ギギッと音を立てた。
「こういう所の方が良かったんだ。食事に気を使わなくていいし」
手拭きを運んできた店員に、ひとまず二人分のビールジョッキを注文する。

おそ松くんの行きつけの店に連れてってよ。
二人で飲むにあたり、私はそんな頼み事をした。
仕事帰りの疲れている時に、マナーだ何だのといった類に配慮しなければならない店は遠慮願いたかったから、彼なら確実に外すと踏んだのだ。結果は上々で、私は暖簾をくぐるなりにんまりとしてしまった。

「ユーリちゃん、それお世辞じゃなくて素で言ってんだよな?…何か、カラ松の苦労が分かる気がする」
おそ松くんはテーブルに頬杖をついて、苦笑した。
「気楽にしながら、おそ松くんとの会話に集中できる所が良かっただけだよ」
「そういうとこなんだって」
何がだ。
男と女が向かい合って食事をする場に、必ずしも色気や礼儀が必要とは限らない。フラットで気楽で無礼講、私が今望んでいるのはそういった場所だ。

「でもユーリちゃんのそういうとこ…俺は好きだな」

目を細めて言われた頃に、ビールとお通しの枝豆が運ばれてきた。グラスに汗をかいたジョッキが私たちの眼前に置かれるので、無言で持ち手を掴み、持ち上げる。
「俺とユーリちゃんの偶然の出会いに」
「私とおそ松くんの夜に」
言葉遊びを肴に。

乾杯。




肉じゃが、だし巻き卵、串の盛り合わせ、ポテトフライ、庶民的で馴染み深い料理が次々と運ばれてくる。一杯目のジョッキは一気飲みで空になり、おそ松くんはお代わりを注文。それもすぐさま胃に消えて、三杯目からは焼酎になる。
テーブルに並べられた料理がある程度減った頃合いには、おそ松くんはすっかり酔いが回っている様子だった。指先で縁を掴み、ゆらゆらと揺らしているグラスは、はてさて何杯目だっただろうか。
彼は枝豆を口に放り込み、口火を切った。

「俺たち六つ子の平穏を掻き乱したのは自分だって、ユーリちゃん自覚ある?」

私は刺身を口に運ぶ手を思わず止めてしまった。伏せられた彼の目は、どこに焦点が当たっているのか分からない。定まっているのさえ怪しい。
「何の話かな?」
努めて冷静に、続きを促す。
「カラ松の財布を拾って?街で偶然再会してご飯行って?会うようになってからもう一年くらい?
これ、これからも続くんだよね?」
指折り数える彼に、私はイエスともノーとも答えられない。
「あ、ごめんごめん。意味分かんないよな、急に」
おそ松くんは困ったように笑って、自分の髪をくしゃりと掻いた。
「六つ子としてずっと変わらなかった根幹が揺らいで、俺も動揺してるんだよ」
「根幹…」
「そ。馬鹿でクズで童貞な俺たち六つ子がいつも雁首揃えてる、これが根っこ。
もう二十年以上それが変わらず続いてきたわけで、まぁ当面何年かはこんな感じかなって漠然と思ってたところに──ユーリちゃんが来て、揺らいだ」
グラスの中の透明な液体が、揺さぶられることで波打つ。静かな水面に波紋を起こした。
「定着するのは予想外だったんだよな。しかも相手がまさかのカラ松」
競馬なら万馬券もんだよ、とおそ松くんはひらひらと手を振る。
「おそ松くんにとって私は厄介者だった、ってことかな?」
驚きはあったが、その可能性が脳裏を掠めたことはある。
全員横並びが当たり前で、裏切り者には手厳しい処罰を下すのが習わしだった環境下。均衡を崩しかねない部外者は招かれざる客なのではと、彼らと深く付き合うようになってから、ふと考えたことはある。
「んー、それは違うかな。邪魔とか、そういうのじゃないんだよなぁ。
だってほら、ユーリちゃんみたいな可愛い子は好きだし、親しくできるなら諸手を挙げて大歓迎だし?」
「じゃあ…」

「ずっといられたら困るな、って感じだったのかも」

おそ松くんはずいぶんと酔っている。
一年ほど付き合いだが、彼と込み入った話をしたのは、そう言えばこれが初めてだ。私たちはいつも上滑りする会話ばかり重ねてきた。飄々と掴みどころのない長男が曝け出す本音──に見えるもの──は、なかなかに衝撃的である。

「社会人やってる奴らって忙しいし、いつまでも同じ所でグルグルしてる俺たちとは環境も全然違うじゃん?
だから、ユーリちゃんもそのうちいなくなると高を括ってたんだよ。なのにいつまでもいなくならない。困ったなぁって、それだけ」
六つ子と異性との関係性に一石を投じたキンちゃんという子は、出会って間もなく地元に帰っていった。合コンした子とも尽く縁がない。だから私とカラ松くんの付き合いもその程度と軽んじていた、そんなところか。
「でもおそ松くんたちも、さすがに何年も同じままってことはないでしょ?
みんな年を取って、周りだって変わっていくんだし」
「まぁね、そりゃあるよ。
トッティがジム行きだしたとか、観るAVがDVDからVRになったり、そういう変化は確かにある」
AVの件は割とどうでもいい。
「外的要因は仕方ない部分もあるんだよな。
でもさ…結局戻ってくるんだよ。根っこは変わらないって変な自信があったし、実際その通りになってた」
キーワードは『変化』か。
私は喉を潤すドリンクをアルコールから水に変えて、おそ松くんの真意を読み取ろうと試みる。
ふ、とおそ松くんは不敵な笑みを浮かべた。

「でもユーリちゃんが現れて、カラ松は変わったんだ」




カラ松くんは私の前で煙草を吸わなくなった。自分の趣向よりも私の反応を優先して服を選ぶようになった。そして、スイッチさえ入れば、異性相手にも自然体で接することができるようにもなった。
「うん、カラ松くん変わったよね。
気を抜くと相変わらずすごいセンスの服着るし、厨二病発言も多々あるけど──でも、いい男だよ」
「うわ、ユーリちゃん言うなぁ。そういうのは本人に言ってやれよ」
「本人前にすると可愛いって感想が先立つから、言う機会がないんだよね。カラ松くんを褒めようとした途端、私の語彙力はすぐ旅に出ちゃう」
困っちゃうねと私は片手を頬に当て、悩ましげに溜息を吐く。おそ松くんは声を立てずに肩を揺らした。

「俺はカラ松みたいに変わる必要ないから、ずっと楽してたいの。苦労したくない、親のスネかじってダラダラしてたい」
「変わることに対してトラウマでもあるの?」
「いーや、そういう類のは全っ然」
そう言って、彼はグラスに僅かに残っていた焼酎をあおった。店員を呼んで、同じ物のおかわりを要求する。
「今まで好き勝手やってきたから、これからもしたいってだけ」
「そうかな?私には執着してるようにも思えたけど」
「執着って…えー、俺おそ松だよ?世界が誇るカリスマレジェンドの松野おそ松が、執着?あはは!」
おそ松くんは目尻に涙を浮かべるほど大声で笑うが、幸か不幸か、周囲の喧騒に程よく溶けていく。私の杞憂にしても笑いすぎじゃないのかと眉をひそめたところで、不意に彼は笑みを消し、遠くに視線を投げた。

「そっか…そう見えちゃう、か……執着、ねぇ」

実に不本意といった体ではあったが、おそ松くんが肯定に近い意思を示したのは驚きだった。
なぜなら、執着という概念は、松野おそ松という人物からは遥か彼方にありそうなものだったからだ。
「六つ子とか長男っていう肩書きに」
「うん」
「…こういうの、可愛い女の子と酒飲みながらする話じゃねーよな」
テーブルに頬杖をつき、おそ松くんが頬を膨らませた。口調も砕け、いい感じに酔っている。
「私は聞きたいな、おそ松くんの話」
「つまんない話だよ。聞いてても退屈だって」
「退屈なら続き催促しないし、自分の分のお金置いて帰ってるよ。仕事終わりのこの時間は、社会人の私には貴重なものなんだからね」
どこまで踏み込んでいいのかは、正直判断はつかない。知らない方がいいことも、世の中にはあるのだ。


「出る答えは、毎日違うんだ」
おそ松くんはそんな言葉を皮切りにした。
「変わった方がいいと思う日もあれば、やっぱ変わりたくねぇなって思う日もある。俺の機嫌とかその時の空気による感じ?
ブレブレなんだよね。だってその先のことなんて何も考えてないんだから。要は軸がないの」
たださ、と小さく呟かれる。
「でも今のカラ松が、ユーリちゃんと出会う前より確実に幸せだってのは分かる。腹立つくらい充実してて、ユーリがこうした、ユーリがああ言ったって、口を開けばユーリちゃんの話。始終ニヤニヤしてて鬱陶しいっつーか…すげー鬱陶しい」
大事なことなので二回言った?
「で、そういう底辺から抜け出そうとする弟を俺が縛っちゃ駄目だよなぁ、くらいはやっぱ思うわけ」
「意外に考えてるんだね」
素直な感想を述べたら、おそ松くんは苦笑いを顔に貼り付けた。
「そりゃ考えるよ。俺長男だし。弟たちの門出は祝ってやらないと」

ほらまた、と私は思う。六つ子の長男という名ばかりの肩書に呪縛されている。長男だからこうしなければならない、決り文句みたいな固定概念が彼の自由を制限する。
変化のない日常が、思考を奪う。他者との比較が、焦りを生む。危機感、焦燥感、そういった負の感情に対抗するために生まれた、これでいいのだと自身を納得させる呪文。
「おそ松くん自身は、どう思ってるの?」
私が両手で持つグラスについた雫が、ぽたりと一滴テーブルに落ちる。

「松野家の長男じゃない、松野おそ松としての意見を聞きたいな」

おそ松くんはほんの一瞬体を強張らせたが、すぐに肩を竦めておどけたポーズを取った。
「少なくともカラ松に関しては、なるようにしかならなくない?
俺が悪意をもって手出ししたところで、安々とひっくり返るほど軽いオセロ盤でもないだろ?」
一見私とカラ松くんの関係を揶揄するようで、容易く揺るがない信頼関係があると遠回しに断言されるのは、少々面映い。
「だから、さ」
頬どころか耳まで赤い酩酊した顔で、おそ松くんは軽いトーンで続ける。そこに深刻さや真剣味はまるで感じられない。冗談で私を煙に巻きそうな、いつもの声音。
なのに──

「いっそユーリちゃんがカラ松を攫っていってよ」

そう呟いた声は、いつになく抑揚がなかった。
「おそ松くん…」
「そうすれば、俺たちは変わらざるを得ない」
自らの意思ではなく、第三者の介入くらい大事にならなければ自分たちが変わらないことを、彼は自覚している。幾度か変わろうと決意して、けれど結局元の木阿弥になった。
だから、それこそ彼らの根底を揺るがし、二度と元の形には戻らないくらいの決定的な変化がなければ。


「──なーんてね。
はい、俺の話はこれで終わり~」

おそ松くんは笑いながらそう言って、円形に盛られたチャーハンをレンゲで掬う。大きく口を開けて頬張り、噛み締めるように口内で味わった。締めも大方食べ終え、長男との飲みは終盤へと近づく。
「おそ松くん、だいぶ飲んだね」
「酔わなきゃこんなしみったれた話できないって」
「あはは、そりゃそうか」
アルコールは時に言い訳の材料になる。大人だから行使できるズルい処世術だ。TPOを正しく選ぶ必要があるけれど。
「つか、俺だけめっちゃ喋って喉カラカラなんだけど。今度はユーリちゃんの話聞かせてよ」
「そうだね、いいよ。どんな話しよっか?」
私が笑みで応じると、おそ松くんは待ってましたとばかりに目を輝かせた。続けて、焼酎が半分ほど残ったグラスを顔の前に掲げる。
「これは忘れ薬ね」
「え?」
「だから、忘れ薬。これ飲んだら、今日のここでの会話はみーんな忘れちゃう厄介な薬。俺が何喋ったかはもちろん、ユーリちゃんから聞いた話も忘れるんだ」
一体彼は、何を。

「カラ松のこと、どう思ってる?」




数日後、私は松野家の廊下でおそ松くんと鉢合わせする。
長男の本心を垣間見てからそう経っていないせいか、顔を見合わせた時に一瞬身構えてしまったが、おそ松くんは普段と何ら変わらぬ緩さで私を歓迎した。まるで何事もなかったみたいに、緊張感のない顔で。
「おそ松くん、この前の話なんだけど…」
私が躊躇いがちに切り出すと、彼はきょとんとする。
「話の続きって…え、何の話?つーか、俺何話した?いやー、酔っ払ってなーんも覚えてないんだよね」
大きく口を開けて笑いながら、寝癖のついた髪をくしゃくしゃと指で掻く。私は唖然とした。
だって、それではあまりにも──

「おそ松、ユーリ」

しかし運は私たちを尽く見放す心積もりのようだ。背後から低い声がかかる。
おそ松くんは、やべぇと呟いて眉間に指を当てたうん、やべぇ。
「どういうことだ?二人で出掛けたのか?」
「えーと…」
恐る恐る振り返ると、カラ松くんが仁王立ちで顔をしかめている。一番やべぇ奴が来た。
「この前な。ユーリちゃんの仕事帰りにたまたま会ったから、よっ酒でもどう?ってなったんだよ」
「おそ松くん、パチンコで買って余裕あるって言うし、私もご飯作るの面倒だったから」
事実を述べているだけなのに、我ながら言い訳がましく聞こえるのはなぜなのか。
「カラ松が考えるようなやましいことしてねぇから」
「お前が下心なしにレディと二人でいるシチュエーションが浮かばん」
尋常じゃない長男へのディスり。
「オレに言わないってことは、やましいことがあった証拠じゃないのか?」
「だってどんな話したか覚えてないんだから、しゃーねーだろ。お前にそう言ったところで信用しないのも分かってたし、火種にしかなんない話はしないに限る」
おそ松くんは両手を頭の後で組んで、気怠げに溢す。
「最近どう?ってやりとりした後、私も疲れてたから酔いが回るの早くて、あっという間に時間経ってタクシー乗ってた感じ」
「…本当か?」
訝しげなカラ松くんに、私とおそ松くんは同時に頷く。
「本当も本当。信用しろよ、カラ松」
「ユーリ…真実なんだろうな?」
「シカトかよ」
無視されたおそ松くんは白い目を次男に向ける。

「本当に居酒屋で飲んだだけ。あ、途中でイヤミさんが乱入してきて最後まで一緒にいたから、何なら聞いてみてよ」

カラ松くんにどんな感情を抱いているかと、おそ松くんが私に問いを投げたあの直後、突然現れたイヤミさんが泥酔状態のまま絡んできてちょっとした騒動になったのだ。引き剥がして早々に会計を済まし、彼から逃げるようにそれぞれタクシーに乗り込んだ。イヤミさんはその姿を目撃しているはずだから、れっきとした証人になる。
嘘は言っていない。意図的に一部を省いた、それだけだ。

「──分かった」
カラ松くんは数秒の沈黙の後、私たちに対して理解を示した。内心でホッとしていると、彼は前に躍り出て私の両手を取った。
「ユーリの事情は分かるが…いくらブラザーと言えど、他の男と二人で酒を飲みに行かれると心配になる。ハニーにはそれだけの魅力があるんだぞ」
束縛は全力でお断り申し上げますと真顔で言い返そうとして思い留まる。彼にはそんな意図なんてないんだろう。ただただ愚直に本心を告げているに過ぎない。
「心配してくれてありがと」
にこりと笑顔を作れば、カラ松くんも同じ表情を返してきた。
「だいじょーぶだよ、カラ松。今更ユーリちゃんに手出そうと思うような無謀な奴は、うちにはいないって」
呆れたようにおそ松くんが言う。しかし長男を根本的に信用していないらしいカラ松くんは、額に皺を寄せた。
「なぜ断言できるんだ?」

私はときどき不思議に思う。
松野家の長男は、もしかしたら何もかも、未来さえも見通しているのではないかと、そんな幻想を抱くことがある。間違いなくそんなことはないと、頭では分かってはいるのだけれど。

「お前が許さないだろうし、ユーリちゃんも靡かないよ…絶対にな」

短編:君への嘘

「ユーリ…二人で会うのは、これで最後にしよう」
寂しげな微笑みと共に投げられた言葉に、空気が凍りついた。


いつもと変わりない日々の続きのはずだった。
なのに、歳月を感じさせる築古の一軒家、第二の我が家同然と誤認するほど足繁く通った松野家の居間で、終焉を告げる声が静かに響き渡る。つい先程まで軽口を叩き合っていた和やかさは、見る影もない。
「…え」
私は絶句した。カラ松くんの視線は追求を避けるように、私の目から地面へと落ちる。
「じ、冗談止めてよ、もう。今日はエイプリルフールじゃないよ、カラ松くん。そんなことで私を騙そうったって、そうはいかないなんだから」
努めて明るい声を出す。重苦しい空気を変えなければと駄目だと、理由もなくそう思ったのだ。
「もう疲れたんだ」
けれど、カラ松くんは首を振った。私の抵抗に対する明確な拒絶を示す。
「一緒にいることも、待つことも」
そう告げられて、私は言葉に詰まる。心臓が強く鼓動を打ち、膝に置いた手が震えた。
カラ松くんは私の意見など、聞く耳を持っていない。否、容易く揺らがないほどに強固な決意をもっての発言なのだ。

私は今、カラ松くんに別離を告げられている。

「どうしたの?私何か気を悪くするようなことした?だとしたら──」
「逆だ」
「逆?」
「『何もしなかった』…だから、だ」
二の句が継げなかった。どういうことなの、なんて訊けない。
「もうすぐユーリに出会って一年になる。
いつかは…と思ってたけど、オレたちは何も変わらなかった。このままでいいのかと悩むようになって、そんな折に知り合った子がいて───デートに誘われたんだ」
心なしか嬉しそうに目を細めた彼に、私は終焉の訪れを自覚せざるを得ない。彼の心は既に別の女性に向けられている事実を、まざまざと突きつけられる。
「中途半端なまま彼女と向き合いたくない。だからもう会えない」
淡々と、けれど強く断言される。

「さよならだ…ユーリ」

デートの終わりの挨拶でも、カラ松くんはその言葉だけは使いたがらなかった。二度と会えなくなるような気がするから、と。私たちの間で禁忌にも等しく、意図的に封じていた台詞が、カラ松くんの口から紡がれる。
「…そんなの勝手すぎる」
きっと届かない、虚しい意義を唱えた。意味のない時間稼ぎの応酬だと、心のどこかで気付いているのに。
「私の気持ちはどうなるの?」
「すまない。ユーリのことは嫌いじゃない…ただ、今はもう何とも思わないだけで」
「そんな…」
もうどうしようもないことなのだと、彼の瞳が語る。

「ユーリちゃん!」

終わりを受け止める他ない私の前に、突如として十四松くんが現れた。
廊下と居間を隔てる障子を勢いよく開け放ち、彼にしては珍しく思い詰めたように眉を釣り上げている。
「ごめん…話、聞いちゃった。出した結論に後悔はないんだね、カラ松兄さん?」
「くどいぞ、十四松」
カラ松くんはにべもない。いかなる交渉も受け付けない、そう語るかのようだ。
「そっか。だったらユーリちゃん、今はまだ無理だろうけど、いつかぼくと…ぼくと───えーと……野球する?

「カットー!」




メガホンを手に当てながら、トド松くんが荒々しく室内に乗り込んでくる。
「何でそこトチるかなぁ、十四松兄さん。成否がかかってる大事な台詞なんだから、間違えないでよ」
「サーセン!」
悪びれもせず頭に袖を乗せる十四松くん。その傍らで、私とカラ松くんは顔を見合わせてくすりと笑う。
「そうだぞ、十四松。そんなんじゃダディとマミーは騙せないぜ」
そう。

今までの一連のシリアスは──六つ子の両親に仕掛ける壮大なドッキリの予行演習なのだ。

「カラ松くんの演技、真に迫ってて良かったよ。台詞間違いもないし、間の取り方も上手くてビックリしちゃった」
私は一度大きく深呼吸してから、カラ松くんに向き直る。台詞自体は長くないとはいえ、真実味のある彼の表現力には度肝を抜かれた。
「かつて演劇界の彗星と呼ばれしこの松野カラ松に、演じられない役なんてないんだぜ、ハニー」
顎に片手を当て恍惚の表情になるカラ松くんに対し、監督役のトド松くんがハッと失笑した。
「満を持して木の役だったくせに」
「人間の役だと、オレのカリスマ性が放つ輝きがオーディエンスを魅了し、舞台を食ってしまうからな。顧問の名采配だ」
ポジティヴ思考が過ぎる。
「ユーリもなかなかの名演技だったぞ」
「ありがと。でもこういうの慣れてないし、みんな見てる中で演技するのすごく緊張したよ。手も震えたし」
勝手知ったるメンバーしかいないが、慣れないことをして体が強張った。そんな中でも台詞を間違えなかった自分には及第点をあげたい。
「でもさ、ユーリちゃんの新しい相手が十四松ってやっぱダークホースすぎない?まだ一松の方がリアル感ある」
部屋の端で台本を開いていたチョロ松くんが立ち上がる。
「えっ、おれ!?」
彼の傍らでギョッとする一松くん。
「駄目駄目、いちまっちゃんには荷が重い。乗り換え先なら俺が一番可能性あるだろ。だから言ったじゃん、俺が最適だって」
トド松くんの背後から顔を覗かせるのはおそ松くんだ。意気揚々と鼻を鳴らす。しかしカラ松くんが即座にかぶりを振った。
「いや、相手がお前だと驚くとか以前に『止めておけ』となるから、ドッキリが成立しない
辛辣。

「ねぇ、これ台本の内容変えちゃ駄目かな?この流れだと、私結構ひどい奴だよ」
コピー用紙をホッチキス留めした簡易台本をトド松くんに差し向けて、私は提案を口にする。
気を持たせるだけ持たせておいて、いざ関係継続を拒否されたら、そんなつもりなかったけど他の女の所に行くのは許さんという浅ましさが滲み出ている役柄だ。
ふふ、とトド松くんは微笑む。
「上手く相手を騙すコツは、嘘の中に真実を混ぜることなんだよ、ユーリちゃん」
「まるで私がカラ松くんを弄んでるような言い草」
「え?違った?」
「概ね合ってる」
「ハニー…そこは嘘でいいから否定しろ
ツッコミよろしくカラ松くんの白い目が向けられる。軽蔑のジト目オイシイです。
「せっかくの結婚記念日なのに、息子の修羅場見ちゃうのはトラウマにならないかなぁ」
彼らは午前中二人きりでデートに出掛けると聞いている。楽しい気分で帰宅したところに昼ドラチックな修羅場が勃発していたら、水を差すことにならないか。
その懸念には、おそ松くんが答える。
「大丈夫だって、ユーリちゃん。俺らの親だよ?
メンタル鋼で心臓には剛毛だから、これくらいしないとスルースキル発動されて平常運行になる
どんな親だ。

「クラッカー鳴らすのは、父さんたちが入ってきた瞬間でいいんだよね?僕とおそ松兄さんは台所に隠れてればいい?」
「廊下側の障子のすぐ横がいいかな。で、開いた瞬間にサプラーイズって感じ」
「その間おれは台所でケーキ準備だよね」
「うん。一松兄さんは午前中にボクとオードブル取りに行くから、それも忘れないで」
ケーキについては、私がこちらに来る途中で受け取る手はずになっている。
さて、クズで駄目男で万年金欠のニート六人が、明後日に迫る両親の結婚記念日を盛大に祝おうと躍起になっているのには理由がある。
数日前、ドッキリの協力を求められた私は二つ返事で了承した。何て親孝行なのだろうと感動し、純粋に彼らを褒め称えようとした時のことだ。

「やらない理由がないだろ。
一年に一回盛り上げておけば、少なくとも当面の安泰が約束されるんだよ?

片側の口角を吊り上げて、おそ松くんが下劣な笑みを浮かべた。そしてその後ろでは、残りの五人が大きく頷いていたのだった。




居間では、トド松くんを筆頭に五人が雁首揃え、手順と配置の確認でやいのやいのと騒ぎ立てている。
私とカラ松くんは縁側を通って庭へ出た。静かな環境で芝居の練習をするためだ。
台本片手に、カラ松くんが別れの話を切り出す冒頭からスタートする。
「私、そんなこと言わないでって縋った方がいいかな?」
最も効果的で真実味のある演じ方が掴めない。だが、考えれば考えるほど深みにハマる気もして悩ましいところだ。
「んー、そこまでいくとユーリっぽくないな。流れ的に、顔に出さず耐える感じはどうだ?」
「ということは、カラ松くんの『何とも思わないだけで』の後に、少し間を開けて」
衝撃に打ち震えるように目を見開く。それから神妙な顔つきで一旦地面に視線を移し、僅かに唇を噛む。
「そんな…」
絞り出したように、苦痛を滲ませる。
「こんな感じかな?」
「いいぞ、グッドワークだ、ハニー!」
白い歯を覗かせて、カラ松くんが破顔する。つい先程まで冷徹な眼差しを私に投げていた人と同一人物とは、到底思えない。

「テンポは冗長になってないかな?演じてると分かんないんだよね」
「オレは問題ないと思うが」
開いた台本に目を落とし、カラ松くんは自身の人差し指を下唇に当てた。思案顔も最高に推せる。推しは今日も顔がいい。
「二人で会うのはこれが最後だとオレが切り出す前は、どうする?
いきなり核心に迫る会話が始まるのは不自然だよな」
「あー、確かに。じゃあさ、そこは私がスマホで面白い画像か何かを見せようとして…っていうのは?
で、カラ松くんは、ずっと言うか悩んでたけど意を決して、って感じで」
「いいな、そうするか。オレとユーリのテンションの落差が浮き彫りにもなって、一石二鳥だ」
カラ松くんは楽しそうだ。彼と演技について語り合うのはこれが初めてで、高校時代に演劇部所属と知ったのもつい最近のことである。
役がハマるというのは、今の彼のようなことを言うのだろう。用意された台詞を口にしているのに、誇張や不自然さは一切感じられない。まさか本当は彼の本心ではないかと、疑心暗鬼に駆られそうにさえなる。

けれど。
「カラ松くんにフラれるっていうのが、意外性あっていいお芝居だよね」
「え、そうか?」
私の胸に巣食う根拠のない黒いモヤを払うのは、他でもないカラ松くん本人だった。
「意外性というか…天地がひっくり返ってもあり得ない展開だぞ」
心外だとばかりに、溜息と共に吐き出された言葉。

「嘘や演技でしか到底言えない台詞だ。
ユーリに出会ってから今日まで、ユーリ以上のレディは街中で見かけたことさえないのに」

透き通るくらい青い空を背にした彼が眩しい。首を傾げた際に揺れる黒い髪が、太陽の光を受けて細く光った。こぼれ落ちるような瞬きに、目が眩む。
「台本があるから演じるが、こんな台詞をユーリに言うのはこれっきりだ──例え嘘でも、言いたくないんだからな」
台本を手の甲で叩きながら、苦笑するカラ松くん。
尊さは臨界点を突破し、私は天を仰いだ。


「実は…話の展開は私がトド松くんに提案したんだ」
このことは、言わないつもりだった。
会話の流れで明るみになるのは致し方ないと思ってたが、六つ子は脚本を書いた末弟の案と誤認し、トド松くんも立案者については言及しなないまま準備が進んだ。
わざわざ明るみにする必要性はない些末なことだが、カラ松くんが告げてくれた本心には報いたい。主役が望まぬ台詞を言わせるよう仕向けた、理由を。
案の定、カラ松くんは目を瞠った。
「普通には起こり得ない、いざ発生したら心底驚くようなドッキリを仕掛けたいって、そう言われたんだよね」
「演出家の素質もあるんじゃないか?」
褒められた。

「最初は逆の立場のを言ったんだけど、それは十分あり得るからって一蹴されちゃって」
私が肩を竦めると、カラ松くんは苦虫を潰したような顔をする。

しかし次の瞬間、カラ松くんはハッとして私を見た。

「ユーリは、起こり得ないと思ってるのか?
この台本通りのことだけじゃなく、立場が逆のことも…」

トド松くんが望んだ芝居は──『普通には起こり得ない』展開。
私は小さく笑う。
「思ってるよ」
何度も読み込んで癖のついた台本を縁側に放り投げ、そこに腰掛けた。乱暴に投げ出した足を上下にぶらつかせる。
「だから却下されたのが腑に落ちない」
日差しが照りつける地面に、ふと影が落ちる。間もなくデニムの足が正面から近づいてきて、視線を上向けると同時に──強く抱きしめられた。
心地良い体温が、触れ合う肌越しに伝わってくる。
「ね、カラ松くん」
「うん」
「反対も、起こり得ないことなんだよ」
「…うん」
彼の声は耳のすぐ横から聞こえてくる。小さな音量だが、私には風の音よりも明瞭だった。互いに相手の表情は窺えないけれど、確認する必要もない。
カラ松くんの背中に手を回すべきか逡巡していたら、彼はパッと離れて私の両肩を掴み、無邪気な笑顔を振りまいた。

「頑張ろうな!オレ最高にいい芝居するから!」

仮面が外れる。否、普段隠れている一面が顔を覗かせたと言うべきか。いずれにせよ、やる気になったのなら何よりだ。
「目指せオスカー!」
目指す方向は清々しいほど間違っているが。

「松野カラ松、とっておきの大芝居だ。
ユーリに告げる、最初で最後の別れの言葉──乞うご期待!」


練習を再開する。開始の合図と共に、カラ松くんの双眸からは熱が消えた。私に対する一切合切の興味を喪失した無機質な表情と、真正面から対峙する。

本当は、トド松くんは悩んでいたのだ。別れ話を切り出すのは私からの方が自然ではないか、彼はそんな疑問を私に投げかけたことがある。
それを極々自然な流れで、あくまでも彼の意思で、私が振られる立場になる物語に誘導した。
推しに手ひどく振られるのを、疑似では一度くらい体験しておきたかったから。
真実を口にしたら、きっとカラ松くんは呆れるのだろう。だからこれは、言わぬが花というヤツだ。

小さな小さな、君への嘘。




練習に練習を重ねたサプライズは、見事成功を収めた。
私とカラ松くんのドッキリ劇はおじさんとおばさんの度肝を抜き、十四松くんの乱入により混沌を極め、彼らによって荒々しく障子が開け放たれた瞬間に、両サイドに控えていたおそ松くんとチョロ松くんが盛大にクラッカーを鳴らす。唖然とするおじさんおばさんに、一松くんがホールケーキを差し向ける。ホワイトチョコのプレートに書かれた文字は『結婚記念日おめでとう』。

「ユーリちゃんも人が悪いわぁ。もうユーリちゃんに会えないかと本気で思っちゃった!」
居間のちゃぶ台を八人で囲む。テーブルには、切り分けたケーキと、湯気の立ち上るコーヒーが人数分。
「驚かせちゃってごめんなさい、おじさん、おばさん」
「ハニーが謝ることない。誘ったのはオレたちだ」
「そうだぞ、謝らなくていい、ユーリちゃん。娘に仕掛けられるドッキリってこんな感じなんだなぁって父さんドキドキしちゃった。これからはパパって呼んで
松造がしれっとぬかしおる。
「カラ松とユーリちゃんどっちか選ばなきゃいけないなら、ユーリちゃん一択よね」
松代も同調してきた。修羅場の予感。
「マミー!?」
「六人いたら一人くらい誤差っていうか、ユーリちゃんと入れ替わりなら合計六人だから何の問題もないわよね」
問題しかない。
「親がそれ言っちゃう?六つ子存続を揺るがす問題発言だけど?
おそ松くんが苦々しい顔で吐き捨てた。まったくもって長男の言う通りだ。
私は無言でケーキを口に運ぶが、もそもそとした食感が口内に広がるだけで、甘味が脳に伝達されない。

「娘という魅惑のポジションに、ニート風情が適うと思ってるのか?」

とどめを刺す松造。もうやだこの家族。
「父さんまで!?」
叫ぶ十四松くん。私、この計画に参加しない方が良かったんじゃなかろうか。諸悪の根源と化しているようで、気が気でない。
「だってカラ松はいつまで経っても進展させる気ないし」
「初で奥手が可愛いのは学生までよねぇ」
「父さんたちはユーリちゃんを娘にしたいんだよ、可愛いもん」
これで二人ともシラフ?マジで?何という地獄。
「父さんも母さんも、いい加減にしてしてくれ!」
眉根を寄せたカラ松くんが、すっくと立ち上がる。

「オレとユーリが入れ替わるなんてことがあってたまるか!あるとしたら、オレが出るかユーリが入るかどっちかしか───…あ」

威勢の良さは突如として失われ、しばしの沈黙の後、己の失態に気付いたとばかりに素っ頓狂な声が漏れた。
居た堪れなさは最高潮に達する。
「だ、だから…っ、じゃなくて!とにかく、二人にはユーリは渡さないからな!」
お前はもうお口チャックしろ。
面倒くさくなり、全力で聞かなかったことにした。隣の一松が指先で私の肩を叩き、秘蔵の猫アルバムをこっそり見せてくれたので、意識はそちらに集中させることにした。

後は野となれ山となれ。

短編:波乱の婚活パーティ

「そういや、婚活パーティってあるじゃん?」
六つ子たちとの会話が途切れて、数秒の沈黙が流れた頃のこと。
畳の上であぐらをかいた足を両手で持ち上げるような仕草で、おそ松くんがふとそんな言葉を口にした。
今回の物語は、この一言から始まる。

「トッティ行ったことある?」
松野家一階の居間にいるのは、おそ松くん、カラ松くん、トド松くん、そして私を含めた合計四名だ。
トド松くんは手のひらを模ったピンクのイスの上で、気怠そうにスマホをいじっている。
「ないよ。あるわけない。合コンだって、言うほど行ってないんだからね」
「合コンに参加できるパイプは持ってるくせにねぇ」
「そのパイプをことごとく潰してきてるのは誰だ。あ?」
ドスの利いた声でトド松くんは長男を睨みつける。長い歳月をかけて積もり積もった遺恨は、根が深そうだ。
しかしおそ松くんは鬼の形相に動じるでもなく、望んだ返答を得られなかったのが不満なのか、興味の対象を私に移した。背後には夜叉の顔をした末弟、恐ろしい絵面だ。
「ユーリちゃんはどう?行ったことないの?」
「ないよ」
間髪入れずに首を振る。視界の隅では、カラ松くんが胸を撫で下ろして息を吐いていた。そういう仕草は私の見えないところでやってくれ、可愛いが過ぎるだろ、抱くぞ
「だよな。ハニーには必要ない。行かなくていいぞ、今後も行かなくていい、絶対にだ
畳み掛けてきた。

「ちぇっ、何だー、つまんねぇの。
てかさ、女の子と出会えるイベントに街コンってのもあるよな?あれって、合コンと何がどう違うわけ?」
「参加者の層が全然違うんだよ、おそ松兄さん。異性と出会う場っていうのは同じなんだけど、どんな出会いを求めてるかによって選ぶもんなの」
トド松くんが体を起こしておそ松くんに言う。
「結婚相手を探したいなら、婚活パーティ一択。大手で主催するような婚活パーティだと身分証明が必要になるから、年齢詐称とかがない点が強み」
婚活を始めたばかりや、結婚相談所の利用に抵抗がある層が多く参加している。また、自己紹介の時間が設けられ、異性全員と会話する機会があるのも大きなメリットだろう。
そういう意味では奥手な人も気軽に参加しやすいが、限られた時間で相手を知り、かつ自分を好印象付けるための高等技術が要求される。これはもう、場数をこなして経験値を積むしかない。
「街コンは、初対面ばっかりの大規模な合コンって感じかな」
比較して考えたことがなかったので、私は言葉を選びながら説明する。興味深そうに目を開きながら、おそ松くんはふむ、と腕を組んだ。
「一般的な合コンは幹事同士に繋がりがあったり、参加者もその友達か知り合いが多いから、身元が確か。この安心材料は大きい。人数も数人程度の小規模だしね」
「俺が行った合コンも、そういや四人だったな」
「お前がセクハラで一人勝ちしたヤツね」
「いやいやトド松、俺その後一生モノのトラウマ植え付けられたからね。女の子は地獄の使者
お前の身に何があった。

つまり、とおそ松くんが背筋を正す。
「婚活パーティは結婚相手探し、街コンは多くの女の子と知り合える、合コンは身元が確かで安心──ってとこ?」
「そうだね」
私は頷く。街コンが示す境界線はひどく曖昧だが、大まかにはそう判別していいだろう。
「ただ街コンは、性別関係なく気の合う人を探したいって人が参加する場合もあるから、必ずしも恋人探しの場ってわけじゃないよ。まぁ、その辺は主催側のテーマによるかな」
明確な定義はなく、合コンや婚活パーティも街コンのカテゴリに含まれることがある。言葉が流行り始めた頃こそ、街ぐるみの大規模コンパイベントと意味づけられていたが、時の流れと共に、人との出会いの場と広義の意味として捉えられるようになってきた。
「…やけに詳しいな、ハニー」
カラ松くんが私を疑いの眼差しで一瞥する。
「一応結婚適齢期なもので。友達とそういう話をすることも多いよ」
「ユーリも、その…自分のことを話したりするのか?」
歯切れの悪い口調。膝の上に置いた両手が所在なげに動いて、そわそわと落ち着かない様子が見て取れる。
「私の場合は推しの良さを息継ぎなしで早口で捲し立てるから、早い段階でストップがかかるんだよね。
犯罪級のエロさとか可愛さとか、もうこれ性別逆で全然いいよね私が倒して可愛い声で喘がせて声枯らしてやりたいっていう情熱はたぎっているのに、なのにだよ!
私は握りしめた拳をわなわなと震わせた。燃えたぎる熱量を発散できないフラストレーションは溜まる一方だ。
「ボクその友達の気持ちすごくよく分かる」
「あ、俺も」

長男と末弟が真顔で挙手。何でやねん。
カラ松くんに至っては、室内だというのにサングラスを装着して私から顔ごとそっぽを向いた。耳が真っ赤だ。そういうところだぞ、推しよ。

コホンと咳払いして話題を戻す。
「そんなわけで出会いの場にも色々あるわけだけど、婚活パーティはさくらがいたり、街コンは身元証明いらないこともあって、本気で付き合いたいなら合コンや友達の紹介っていうのが一番安心なのかも、って私は思っちゃうかな」
「となると、やっぱ人脈とかパイプが必要ってこと?あー、そういうの俺駄目、面倒くせっ」
おそ松くんは苦虫を噛み潰したような顔で、片手をひらひらと振った。彼は努力や苦労を人一倍忌避する男だ、それを乗り越えてまで彼女を求める欲はまだないらしい。
「つかさ、ユーリちゃんとカラ松が知り合った経緯って、カラ松のナンパってことになる?」
もう興味は他のことに移っている。
「えっ、ナンパ!?…そ、そうなる…のか?」
カラ松くんはサングラスをつけたまま、上擦った声を発した。
「カラ松くんは私よりもおばあさんの荷物運びを優先しようとしてたから、どちらかというと私からのナンパかも」
全身から怪しさしか滲み出てないカラ松兄さんを、ユーリちゃんよく信用したね」
「二人で会うのはしばらく外だったし、早い段階でチビ太さんっていう友達も紹介してくれたし…」
それに、と私は続ける。

「私がカラ松くんを信用したいと思ったから、かな」

信用に値すると判断を下したのは、他でもない自分だ。他者からの進言があったわけでもない。私は私が感じた印象を信じようと思った、信じると決めた。
「うわぁ、惚気けだ」
「完全に惚気け。訊いた俺が馬鹿だった」
二人は顔を寄せ合いひそひそと、しかし私たちにしっかりと届く声量で話す。そしてカラ松くんはというと、唇を引き結んで震えていた




「婚活で思い出した。明日私、婚活パーティ行くんだよね」

「は!?」
お茶請けのポテトチップスを口に放り込みながら告げれば、唐突な告白に三人は目を剥いた。純粋な驚きを顔に貼り付けるおそ松くんとトド松くんとは異なり、カラ松くんの眉間には青筋が浮かんでいる。ボリボリと軽快な咀嚼音だけが室内に響く。
「え、この流れでそれ言う?」
「カラ松兄さんとの惚気けを平然と言い放った後の婚活宣言」
「鬼の所業」
「天国から地獄」

ひどい言われようだ。
しかし客観的な視線でもって事実だけを取り上げれば、彼らの抱く感想に行き着くのが自然ではある。納得して私は顎に手を当てた。
「は、ハニー…オレの聞き間違いか?もう一度言ってくれ。明日どこへ行くって?」
カラ松くんは平静を装いながらも眉を引きつらせる。返事次第では容赦しない、そんな雰囲気が漂っていた。
「婚活パーティ」
「ええっ、何で!?オレがいるのに!?」
動揺と苛立ちが混在した感情でもって、ちゃぶ台に拳を振り下ろす。私たち三人は咄嗟にお茶請けやグラスを持ち上げて難を逃れる。カラ松くんの湯呑だけが転倒して、畳の上を転がった。空で良かった。
「結婚相手を探してるのか!?そんなに結婚したいなら、オレに言ってくれれば…っ」
「待て待て、話を聞きなさい」
怒り心頭の推しの顔もそそるという正直な感想は置いといて、私は片手を上げてカラ松くんの発言を制する。
「友達の付き添いで行くだけだよ。最近婚活始めたばかりで、一人で行くのは怖いからどうしてもって頼まれたの。参加費用も出してくれるって言うから」
ある程度名の知れた結婚相談所が開催するパーティだが、経験のない人間にとっては得体のしれない催しに他ならない。女性の参加費は比較的低価格だが、それでも数日分のランチ代に相当する費用を二人分負担するというのだから、友人の不安と意気込みは察せられた。
「し、しかし…」
「付き添いでって話はするから、彼女欲しい人には見向きもされないよ」
「問題はそこじゃない!」
カラ松くんは声を荒げる。
「ユーリほどの魅力に溢れたアフロディーテが無防備に参加してみろ、男どもが列を成して我先にと接点を持とうとしてくるはずだ!
それだけユーリが婚活パーティに行くのはデンジャーなことなんだぞ、アンダスターン!?
ちゃぶ台に足をのせる勢いで熱弁するカラ松くんと、まるで理解できない私たちとの間に、埋まらない溝が生じる。
「芸能人じゃないんだから、それはない
「ユーリちゃんは確かに美人だし可愛いよ?
それくらいは俺にだって分かるけど、お前の理論は理解できない
もはやカラ松くんは過保護通り越して毒親にクラスチェンジしようとしている。そんな次男を容赦ない言葉で切り捨てる兄弟に、私は内心でエールを送った。


カラ松くんを迎えに来ただけなのに、松野家に長居をしてしまった。
長男と末弟による鋭いツッコミによって婚活の話題には終止符の打たれ、カラ松くんと共に松野家を出る。徒歩圏内にある赤塚区のショッピングモールへと向かう道すがら、カラ松くんが不意に口を開いた。
「ユーリが参加するっていう婚活パーティ、どこでやるんだ?」
一見他愛ない質問だが、私は警戒する。これまでの経験上、カラ松くんが不機嫌になった原因についての詳細を尋ねてくるパターンは、予期せぬ展開へのフラグになりがちだからだ。少々頭を使えば誰でも思い至る、一つの仮説。
「都内のカフェを貸し切ってやるって聞いたよ」
しかし有耶無耶に誤魔化したり、白を切るのは私自身が望まない。少なくとも彼には、誠実でありたいと思う。
「ってことは、そう大人数じゃないのか」
「一人ずつ自己紹介タイムがあるしね。総勢二十人くらいだったかな」
スマホを取り出し、友人からのメッセージに記載されたURLをタップする。画面にはパーティの詳細が記載されているページが表示され、カラ松くんは傍らから興味なさげに一瞥した。

「オレは、行ってほしくない」

半ば予想していた台詞。私は驚かなかった。控えめな、けれど確固たる意思が宿った言霊だった。
どうして、と訊いたら彼は答えてくれるのだろうか。理由を知っていて問うのは無粋だと、分かりきっているのに。
「参加するのは、少なくとも彼女を作りたいとか、あわよくばワンナイトとか、そういう意図がある奴らばかりだ。そんな野獣の檻の中にユーリが飛び込むのを、見過ごすわけには行かない」
「うん」
私は時間を稼ぐように、相槌を打つ。
「でも…ごめんね。行かないと友達が困るし、本当に何も起こらないし、私は終わったら直帰するから」
「…男はまだ空きがあるんだよな?」
あ、これ絶対アカンパターン。
聡くない私でも分かる、最悪な展開にもつれ込んでグダグタになるヤツ、何なら私の信用さえ地に落ちるレベルのことやらかすヤツ。悪魔降臨の序章。
全力で阻止せねば。

「駄目だからね。何考えてるか予想つきまくるからなおのこと、ぜーったい駄目!
来たら本気で怒る──っていうか、その場で脱がしてエロいことするよ?もうこの街歩けなくするよ、いいの?」
「うぐ…っ」
カラ松くんは怯む。だが白旗を上げたわけではないらしい。
「じ、じゃあハニーにハイエナが寄ってくるのを、指を咥えて黙って見てろっていうのか?」
「ハイエナ言うな。真剣に結婚相手探しに来てる人もいるんだよ」
「余計看過できん」
くそ、言葉選びを間違えた。
「とにかく、明日の婚活パーティは邪魔したら駄目だからね!私の視界に入るのも禁止!」
いかに推しと言えど、友人との関係性を破壊しかねない目は早期に摘んでおくに限る。友人は安くない費用を負担してまで私を頼ってくれているのだ、その信頼には応えなければ。

念押しして制止をかけたが、カラ松くんは最後までイエスの言葉を口にしなかった。




そして私の不安は的中することとなる。
参加者が各々席につきスタッフが開始の挨拶を始めた時──男性席が一つ、空いていた。

「今日はほんっとありがとう、恩に着るよ、ユーリ!」
友人の乃月(のつき)は、また合わせ場所で私と会うなり、手を握って両目を潤ませた。彼女は学生時代のクラスメイトで、社会人になってからも交流がある友人の一人だ。
「もしいい人がいたら、私のことは気にしないで二次会でも何でも行っておいで」
「そういう人がいるといいんだけど」
乃月は胸に手を当て、緊張を解すように大きく深呼吸する。
「ユーリも、いい人と出会えるかもよ?」
「興味ない」
ばさりと切り捨てれば、乃月はニヤリととほくそ笑む。
「ユーリって本当に推し一筋なんだね。会えば推しさんの話ばっかりだし、どんな人かちょっと興味出てきた」
「沼への誘いとなるけど覚悟はいい?」
「あ、やっぱ前言撤回」
その拒絶の姿勢たるや、道端で差し出されたチラシをスマートに拒否するかの如し。


司会者の持つマイクのスイッチが入り、店内のスピーカーから音が反響する。
店内はブラウンとグリーンを基調とした落ち着いた雰囲気が漂い、歩道に面した一面は大きなガラス窓で開放感もある。参加者が座る四人がけのテーブルは、それぞれが十分な距離を空けて配置されていることもあり、周囲の会話で自分の声が掻き消される心配もなさそうだ。窮屈さも感じられない。
「本日は私どもが主催するパーティにご参加くださり、誠にありがとうございます」
時刻通りに婚活パーティは始まった。司会者からはパーティの目的と、おおまかな流れや所要時間が説明される。

基本的な流れは、次の通りだ。
最初に、自己紹介カードに記入した内容に沿って全員と数分ずつ会話をする。その後、誰が気になるかをメッセージカードに記入しての中間集計が行われ、カードは次のフリータイムで該当する相手に手渡される。受け取った側が向かうも良し、記入した側が積極性を発揮するも良し、気になる相手と話せる最後のチャンスだ。
終わりには、各々がカップルになりたいと思う相手の番号を記入したメモをスタッフに提出。カップルが成立した場合は、二人で帰れるよう送り出される。

「初めまして。よろしくお願いします」
「あ、えと、はい、こちらこそお願いします」
一人に与えられた時間は三分。通路側に座る男性が席を移動していくスタイルだ。
自己紹介カードには名前や年齢に始まり、趣味や特技、好きなタイプや食べ物を記入する欄が設けられている。A4サイズのそのカードを、向かい側に座った相手と交換して、トーク開始である。
「有栖川さん、っていうんですね。俺こういうところ初めてで、緊張しちゃって…」
「私も初めてです。どんな話をしたらいいか悩みますよね」
定番とも言える切り出しを幾人かと繰り返し、営業スマイルを顔に貼り付けてやり過ごしつつも、私の心は浮足立つ。男性席の空席が気になって会話に集中できない。

カラ松くんの前で申し込み画面を開いた時、男性席が一つだけ空いていたのを覚えている。
そして、カラ松くんと別れてしばらくして──満席になった。

気もそぞろのまま、パーティは進行する。
誰とどんな話をしたのかどころか、どんな顔の異性と向かい合ったのさえ全く記憶に残らない。
途中の休憩時間に席を立ち、トド松くんに電話をかける。彼は家にいて、容易く捕まった。
「カラ松兄さん?さっき出掛けたよ」
「どこ行ったか知らない?」
「さぁ…普段着だったし、パチンコとかじゃない?」
室内にいる他の兄弟にも確認してもらったが、誰一人としてカラ松くんの行方を知る人はいなかった。しかしそれもそうだろう、何しろ相手は二十歳過ぎた大人だ、いちいち目的地を告げて家を出る必要性はない。
それに普段着で外出したのが事実なら、婚活パーティに参加者として乗り込んでくる可能性は低いと判じていいかもしれない。ドレスコードこそないが、全員が上品な大人カジュアルに定義される出で立ちが暗黙のルールだ。男性陣はシャツとチノパン、またはスーツが目立つ。パーカーやスタジャンならば、まず間違いなく、浮く。

だが、受付という包囲網を掻い潜って突如出現する危険性も否めない。
例えば、異性と会話すしている最中に音も立てず背後に忍び寄り、抑揚のない声での牽制。もしくは私がトイレに立つなどで一人きりになるのを見計らい、声をかけてくる、などだ。
まるでドラマや漫画のような、けれど実際やらかされると最高にはた迷惑なシチュエーションで妨害してくるのも、奴ならやりかねない。十分に起こり得る。ドラマチックに野獣の檻からハニーを救い出すオレ、とか自分に酔ってそう。

獲物を狙うスナイパーの如き鋭い眼光で周囲を警戒し続けていたら、いつの間にかパーティは終わりを迎えていた。
見事カップルとして成立した男女を称える拍手を聞きながら、私は拍子抜けした気持ちだった。一つ空いたままの男性用については、パーティの終盤に思い立ってスタッフに訊けば、何のことはない、体調不良で欠席とのこと。

結果的に、カラ松くんは会場に現れなかった。至極喜ばしいことなのに、同時に落胆もしている自分に驚く。




「カップル成立おめでとう。二次会楽しんでおいて」
乃月は気になる相手とのカップリングが成立し、会場を出て早々に二人での飲みに誘われたという。私は喜んでそれを見送る。
「ありがとう!ユーリが一人になっちゃうけど本当にいいの?」
「元々付き添いって約束だったでしょ。気にしないで」
「そう?じゃあ遠慮なく。でも初めての人と二人で飲みとか、ちょっと緊張するなぁ」
胸に手を当て不安げに息を吐く彼女に、私は微笑んだ。
「少なくとも乃月にはいい印象を抱いてると思うよ、あの人」
「どうして?」
乃月は瞠った目を私に向けた。
途中の休憩時間に彼女から気になる参加者がいると報告を受けてから、彼の動向を注視していたのだ。
「話す時必ず向かい合うようにしてたし、腕も組んでなかった。話題も積極的に振ってくれてたでしょ?
女慣れしているかまでは分からないから、注意するに越したことないけどね」
他の女性と接する際に、何度か腕を組む彼を見た。腕組みするのは、面倒だったり警戒しているサインとも言われている。
加えて、乃月に投げていた話題の多くはオープンクエスチョン、相手にイエス・ノーではなく自由に発言させる機会を与える質問形式だ。人の性質にもよるので一概には言えないが、相手に興味を持っていることを示す根拠の一つとなる。

分析しながら、ふと私の脳裏に浮かぶ姿があった。
「…ふふ」
我知らず笑いが溢れる。全部、カラ松くんが私に対してやってくれていることだったから。あなたに興味を持っていますと、彼はいつも全身全霊でもって示してくれる。
「ユーリ?」
乃月は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「ごめん、ちょっと思い出し笑い」
カラ松くんは真摯に私と向かい合ってくれているのだ。ずっと、最初から変わることなく。そう思ったら、無性に会いたくなった。




婚活パーティではカップルにならずとも、異性の顔見知りは増える。会場出口付近では、話が盛り上がった者同士で連絡先を交換したり、複数人で二次会へ繰り出そうとする姿もちらほら見受けられた。
私もグループの一つから誘いを受けたが、断って駅へと向かう。
何もないからと、彼に誓った。パーティが終わったら真っ直ぐ帰る、と。


「ユーリ」

だから。
私の希求を見計らったように背中に声がかかった時は、世界から一瞬音が消えた。その声だけが、この世に存在する全てだとさえ思えた。
「…カラ松くん」

推しいいいいぃぃいいぃぃいいぃぃ!

「すまん…どうしても気になって、もう終わる頃かと…」
首筋に手を当て、申し訳無さそう視線を私に向ける。
「尊…じゃなくて、謝る必要ないでしょ」
今日も推しが尊い。顔がいい、声がイケボ、スタイルも抜群、可愛いのにエロい。総合的に見てもはや存在が罪。
脳内の私が雄叫びを上げて狂喜乱舞するが、懸命に律して爽やかな笑みを浮かべる。
「ずっと待っててくれたの?」
カラ松くんはスマホどころか暇を潰すアイテムさえ、常日頃から所持していない。待つのには慣れていると聞いたことはあるが、しかし。
「いや、つい数分前に着いたところだ」
「あ、そうなんだ」
「婚活パーティが予定通り終わって駅に向かうなら、このくらいの時間だろうと思って」
私は息を飲んだ。
カラ松くんは約束を守ってくれたのだ。昨日言葉にされなかった様々な葛藤や文句を、全部飲み込んで。
「…まぁ、会えなかったら会えなかったで、公衆電話から携帯に鬼電するだけなんだが」
物騒なこと抜かしおる。
「一人か?」
「友達はカップルになった人と飲みに行くって。だから私はお払い箱だよ」
任務終了の意味合いだったが、カラ松くんは緩く首を振る。
「ノンノン、違うだろ、ハニー」
それから人差し指を自分の口元で振って、おどけてみせた。

「ハニーの目の前には、その友達が選んだ奴よりもっといい男のオレがいるじゃないか。これからがメインだ」

気軽に口にできない本音を、気安く吐ける冗談に込めて。
私は否定もせず、曖昧に笑う。
「時間はあるんだろ?一杯付き合わないか、マイレディ」
「そうだね」
私はポーズの一貫として差し出されたその手を取って、恭しく口元まで持ち上げる。
「では、しばらくお付き合い願おうかな──王子様?」
カラ松くんは予想だにしていなかった私の反撃を食らい、一瞬にして首から上を真っ赤に染め上げたのだった。




「婚活パーティは堅苦しかったから、何にも考えずまったりしたいなぁ」
成果を上げるつもりはさらさらなかったが、それでも愛想笑いと営業トークの長時間使用で消耗し、いささか肩が凝った。
「頑張ったな、ユーリ」
「気を張るから疲れるし、私には合わないってよーく分かった。でも疲弊せずに楽しめるタイプなら、いい出会いの場なんだろうなぁ」
日頃異性と出会う機会のない人にとっては、同じ目的を持った同士が顔を突き合わせる場が用意されるのは、有り難いことだろう。自分は不向きと知れただけでも、いい経験にはなった。
しかしカラ松くんは表層のネガティヴ部分だけを受け取って、我が意を得たりとばかりに唇を尖らせる。
「だからオレは行ってほしくないと言ったんだ」
「行ったからこそ合わないと分かったんだよ」
反論すれば、彼は眉を吊り上げた。
「婚活パーティだぞ、合う合わないの問題じゃない。彼氏や彼女が欲しく金払って来てるわけだろ、意気込みが違う。
それにユーリは相手に困ってないじゃないか。主催者の想定するターゲットですらない」
ド正論をぶちかまされる。
「誰かに連絡先は教えてないだろうな?」
「信用ないなぁ。何もないって約束したでしょ」
「信じてないわけじゃない。男の方がユーリを放っておくはずがないと思っただけだ。オレでさえ声をかけたレディだしな」
そう言われて、私はくすぐったい気持ちになる。

「カラ松くんが真剣に参加したら、女の子の連絡先くらい余裕で貰えると思うなぁ」
「はぐらかすな」
「だって、こんなに可愛い成人男性だよ?世の女性が放っておくわけない。
向かい合ってお酒飲む絵面だけで翌日断食でも余裕ほろ酔いで頬を染めた推し、呂律の回らない推し、箸が転がっただけで爆笑する推し…何と尊いことか」
「ハニーッ!」
声高に怒られた。

「オレは絶対に参加しないからいいんだ。女の子の連絡先もいらない」

苛立ちの混じった横顔が、遠くを見つめる。
「え、そう?」
驚いた私にちらりと視線を向けて、フッと目を細めた。穏やかな黒目には、私の顔しか映っていない。

「一番欲しい連絡先は、もう持ってるからな」

いつだって明確には語られない言葉の真意を、私が知らないとでも思っているのか。それともこれは言葉遊びの一環か。
私は駅の方角へと一歩踏み出して、息を吐く。
「私は欲しいなぁ」
「…え」
視界の隅に映った彼の顔は、絶望に打ちひしがれていた。ほんの一瞬まで、花が咲き誇るみたいに微笑んでいた面影はどこにもない。

「今持ってるのは家族共用だから、その人にだけ繋がる専用の連絡先があったらな、って思うよ」

ハッと瞠られる双眸。
「…あ…そ、それは、ユーリ、あの──」
頬には朱が差し、声は上擦った。ころころと変わる表情は見ていて飽きない。カラ松くんは慌てて私の背中を追いかけてくる。
「でも、今日は誰が出るかなって予想しながら電話するのは楽しいから、悩むところ」「ユーリ…その言い方だと、ユーリの欲しい連絡先というのは、つまり」
私はにこりと微笑む。

「待ってるよ、カラ松くん」


私はカラ松くんの腕を取って、先へ促す。
「さー、とっとと行こ!疲れたし、チビ太さんの所で二人で愚痴聞いて」
それからは二人でハイブリッドおでんへ向かい、私の婚活パーティに纏わるあれやこれは終止符を打つ。大団円、ハッピーエンド───のはずだった
「えーと、すまん、ハニー…実は、金が…」
カラ松くんが逡巡を見せるので何かと思えば、彼は申し訳無さそうにそう告げる。何だ、そんなことか。
「迎えに来てくれたお礼に半分出すよ」
「いや、あー、その…帰りの電車代でギリなんだ」
どれだけ金がないんだと呆れたところで、ふとある事実に思い当たる。ああ、そうか、婚活パーティに乱入しなかったのは私を信じていたわけではなく、参加費が捻出できなかったのか
す、と現実に戻る私のハート。
「ん、待てよ、チビ太の店…ということはツケがきく──よし行くか、ハニー!金のことは気にするな!」
正真正銘のクズがここにいます。
けれど笑顔を顔に広げてご機嫌なカラ松くんに水を差したくなくて、ツケ云々のくだりは聞かなかったことにする。
チビ太さんには後でカラ松くんの分も払っておこう。

短編:マッサージにありがちな話

「ユーリ、片側空けてくれ」

夏は中盤を迎え、窓の外では蝉の大合唱が絶え間なく響く騒々しい昼間のこと。松野家二階の六つ子の部屋で、ユーリが二人がけのソファに寝そべっていた。
「えあ?」
読み耽っていた漫画から顔を上げて、ユーリは間の抜けた声を発する。
「あ、ここ?いいよ」
肘掛けにまで伸ばしていた足を折り、一人分のスペースを空ける。カラ松は雑誌を手に、ユーリの隣に腰を下ろした。
「座ってもいいんだけど、足置いてもいい?」
「足?」
「足伸ばしたいから、カラ松くんの膝の上に足置いてもいいかなってお伺い」
ああ、とカラ松は合点がいく。
「ユーリがいいなら、オレは構わないが」
「ありがと」
単行本の上から愛嬌のある双眸を覗かせて、にこりと笑う。その笑顔のためなら、自分にできることは何だってしたいと思う、罪作りな表情だ。
承諾後、ユーリは躊躇なくカラ松の腿の上に両足を投げ出した。涼しげなハーフパンツから伸びる足は何も纏っておらず、いわゆる生足だ。

「…オレが相手とはいえ、無防備すぎないか?」
否、カラ松が相手だというのに警戒心が欠片もないと明記した方がいいか。いずれにせよ、看過できない。
「足高くするとむくみ解消になるらしいね」
「噛み合ってないぞ」
「ちょうどいい高さだよ」
何の話だ。
「いや、まぁ…ハニーがいいなら、いいんだが」
足置き場にされること自体に不快感はないから、止めろと言うつもりは毛頭ない。ならば、ただ難癖をつけたいだけなのではという不本意な結果に辿り着く。
釈然としない気持ちを抱えながら雑誌を開こうとして、ふとユーリに顔を向けた。
「というか、むくんでるのか?」
「んー、どうだろう。むくんでるかは分かんないけど、ここ何日か立ち仕事が多くて足がダルいのは事実なんだよね」
だから今日は外出ではなく自宅でのんびりしたいと言ったのか。
パチンコで勝利を収め、久しぶりに軍資金が潤沢にあるとカラ松が告げたにも関わらず、ユーリはどちらかの自宅で過ごす案を推した。

「マッサージするか?」

言ってから、カラ松は慌てて両手を振った。
「あ、別に、その…いやらしい意味ではなく、外出を渋るくらい疲れてるならと思ってだな…ブラザーたちにしたこともあるし」
弁明するほど言い訳がましくなる。
しかしユーリはぱぁっと顔を綻ばせて、首を縦に振った。
「え、いいの?じゃあお願い!」




片手で足首を固定し、もう片手でつま先を掴んでゆっくりと全体を回す。
指の長さと爪の形が自分のそれとはまるで違って、軽々しく足先に触れるのは不思議な感覚だった。付き合いの長い兄弟の足ですら、これほどまじまじと眺めたことはないだろう。
「あー、いい感じ。その調子でやって」
ユーリは高らかに言う。
「まだ準備運動みたいなものだから当然だろ。これで痛かったら問題だ」
親指と人差し指を使って、足指を一本ずつ丁寧に伸ばしていく。少し上に反らすようにするのがコツだ。ユーリの反応を見て、力を加減する。

足の裏には、体の不調を確認するためのツボが幾つか存在する。その内の、定番と言われる箇所を順番に指で押していった。
「いったー!」
土踏まずを押した瞬間、ユーリが叫び声を上げる。
「え、ま、ちょ、痛い痛い痛い痛い、痛いからッ!
「ここが痛いのか?」
位置を確認するという建前で、本音はユーリが痛がる様子が面白くて、カラ松は一層力を込める。
「いででででででっ!」
「土踏まずを痛がるのは、消化器が弱ってる証拠らしい。
胃もたれとかあるんじゃないか?ちゃんと栄養あるもの食べてるか?」
漫画を開いたまま胸に置き、ユーリは不服そうに天を仰いだ。
「…耳が痛い台詞」
「不精はよくないぞ、ハニー」

人差し指と中指の付け根も多少痛みを感じるようだったが、耐えられないほどではないらしく、眉間に皺を寄せるに留まる。
「い、痛…っ、でも、気持ちいいかも…もうちょっと、ん、強くして」
合間合間で痛さを堪えるために呼吸を止め、緩急をつけながら弱々しい声で告げられる。表情も相まって、ぶっちゃけエロい
「つ、強くしていいのか?」
「…うん、いいよ」
唇から漏れるような湿り気を帯びた声。急激に体の熱が上がって、カラ松の口調は自然と上擦ったものになる。
「あだだだだ!」
だから力加減には失敗もする。
「ちょうどいいラインってもんがあるでしょーが!」
そして怒られた。


ユーリのスマホを借りて、画面に表示されるリンパマッサージとかいうのを試してみる。ふくらはぎ辺りは気持ちいいらしい。少々力を入れても、ユーリは平然としていた。ときどきツボを指圧すると、ぴくりと足が反応する。
「ん…そこ、気持ちいい…」
漫画を読みながら恍惚とするユーリ。蕩けるような、普段絶対にしない表情だ。膝を立てるように足を動かす都度ハーフパンツが僅かに捲れ上がり、白い腿が覗く。
「カラ松くん…っ、もう少し、ゆっくり…」
声だけ聞けば立派に情事の最中のそれだ。キツイ。
「わざとか?」
「え、何が?」
「喘がないでくれ」
「喘いでないけど」
「無自覚か。そろそろキツイんだが、マジで」
「あ、手疲れた?ごめんごめん、カラ松くんの気持ちよくって
「言葉攻めも勘弁してくれないか…」
ため息混じりに片手で顔を押さえたら、ユーリはようやくカラ松の意図するところを理解したらしく、肩を揺らして苦笑した。
「防御力に難ありだねぇ」

マッサージを施していた手を離し、足の間に体を割り込ませる。
片側の腿に手を差し込んで持ち上げながら、自身の上体をユーリと重なるように近づけた。ちょっとした仕返しだ。いつも余裕ぶってからかってくる、彼女への。
「カラ松くん…?」
異変を察知し、動向を窺うように名を呼んでくる。浮かぶ戸惑いの色は、まだ微か。
「腿のストレッチだ。別にエロい意味じゃない」
「そう?」
「ああ」
抑揚のない声で、ユーリから視線を逸して告げた。窓ガラスを通して聞こえてくる蝉の鳴き声が、ひどく遠い。この部屋だけが世界から切り離されたような非現実感が、一帯を支配しようとする。

「なら、もうちょっと強くしてよ」

「え」
「カラ松くんがもっと近づいたら、強くできるよね?」
どうして、と危うく喉まで出かける。カラ松の目論みに気付いていないはずがないのだ。なのに。
「…いいのか?」
「ストレッチなんでしょ?」
妖艶な微笑み。カラ松の小手先の技などお見通しだと言わんばかりの平静さをたたえて。
カラ松はほんの少しだけ力を強め、戸惑いながらも互いの胸が触れるくらいまで体を寄せた。このまま胸が触れ合えば、早鐘のように打ち付ける鼓動が伝わってしまうのではないかと、柄にもない不安に駆り立てられる。

刹那、すっと伸ばされた両手に、カラ松は体ごとユーリに引き寄せられた。

「え、ちょ…ッ、ユーリ!?」
「ごめん、手が滑った」
首に回された手を緩めず、耳元でユーリが囁いた。吐息が耳にかかって、ぞくりと腰に響く。
「重力無視して滑る手があるか」
「あるんだなぁ、これが」
いつまでもユーリに全体重をかけ続けるわけにもいかず、片手で肘をつき、もう片手を彼女の背中の下に潜り込ませる。
「ねぇ、カラ松くん──下に、誰かいる?」
「いや…誰も。いるとしたらマミーくらいか」
仮に松代が在宅していたとしても、彼女には昨日話の流れでユーリの訪問を報告している。日頃単独行動が多い危険分子のおそ松たちに至っては、揃ってトト子のライブに顔を出しているから、終了時刻を過ぎるまで帰宅はあり得ない。カラ松たちを邪魔立てする者は誰も、いない。
「なら問題ないね」
何が。
そう問うのは、もはや無粋だ。




しばしの苦慮の末、カラ松はユーリと体勢を入れ替える。自分の腹の上にユーリが跨る格好になった。
「どうして?」
「重いだろ」
「私が乗っても重いよ」
「フッ、心配は御無用だぜハニー。ハニーの体重なんて、エンジェルウィングさながらの軽やかさだ」
「そう?」
カラ松を見下ろしながら、溢れた髪を細い指先で耳に掻き上げる。
「もちろん、まだマッサージを続けるというなら、元の体勢に戻さないといけないんだが」
ユーリを組み敷くのは、体を重ねるのは、いつか、自然とそうなった時でいい。理由をつけた結果ではなく、互いに望んだ、その時に。
土壇場ヘタレなのは認める。いい雰囲気に持ち込むだけ持ち込んでおいて、最後まで致せない不甲斐なさは当面の課題だ。

「あ、それなら私もマッサージできるよ」
無邪気に笑ったかと思うと、ユーリはソファの上で片手の指を絡め、強く握りしめてくる。
「どうかな?」
「…上手いじゃないか、ユーリ」
「でっしょー」
子供みたいな笑顔と、艶めいた接触のギャップに思考が追いつかない。彼女が何を考え、何を思うのかは、もう予測がつかくなっている。
ユーリがカラ松の胸に顔を埋めた。全体重を預けてくるものの、先述したように重さはまるで感じない。ただ愛しい温もりがあるだけだ。
ユーリの愛用するシャンプーの香りが、カラ松の鼻孔をくすぐった。
「足、カラ松くんのおかげで軽くなったよ」
「ああいうマッサージでいいなら、いつでも歓迎だ。ハニー専属契約でもするか?」
「いいね。契約金は必要?」
「ちょうど今、十分すぎるものを貰ってる最中だ」
そう答えたら、ユーリはふふと笑った。


駆け引きを仕掛けたら、意図を察しながらもユーリは全部受け止めてくれる。まるで恋人じみたこの瞬間が、たまらなく幸せだと思う。
だから十中八九敗北を期すると分かっていても、手を出してしまうのだろう。

そうこうしているうちに、いつしか睡魔に意識を奪われる。微睡みの中、繋ぐ手の感覚だけがやたらと鮮明で、カラ松は揺れる気持ちを振り切り、力強くその手を握り返した。

しばらく経ったその後、スマホの充電切れによりいち早く帰宅したトド松の怒号によって覚醒を促され、イチャついたまま寝るなと正座で説教を食らうのだった。
マッサージをしていただけだと弁解を試みかけたが、卑猥な隠語を使うんじゃないと火に油を注ぐ未来が目に見えたので、二人して大人しく背中を丸めたのである。

短編:その男、忠実な番犬につき

「なぁユーリ…初めて、はやっぱり重いのか?」

カラ松の問いの意味を測りかねるとでも言いたげに、ユーリは目を丸くした。そりゃそうだ。吐き出した言葉は、一人悶々と脳内で巡らせた思考の絞りカスみたいなもので、脈絡もない上にあまりにも抽象的だ。自分が彼女の立場なら、きっと同じ反応をする。
「何の話?」
そう返されるのも折り込み済みで。
「仮に今後オレが誰かと付き合ったとして、二十歳超えて童貞の男は荷が重いと思われるんだろうか?」
「えー、そんなの人によるとしか言いようないなぁ」
ユーリは肩を竦めて苦笑する。
窓を隔てた向こう側で雨が降りしきる休日の午後のことだ。どちらともなく外出は億劫だという意見が出て、ユーリ宅で気ままに過ごしていた。他の誰に聞かれることもないから、少々込み入った話をするにも都合がいい。
「女の未経験は勲章だけど男の未経験は恥だっていう、ダブスタな考えする人もいるしね。正解なんてないから、議論するだけ不毛だと思うよ」
飽き飽きしたとばかりの表情で、ユーリは手首を振る。カラ松の意図を汲みつつも曖昧に濁した、至極模範的な回答だ。
ユーリは湯気が立ち上る温かいカップを手に取り、縁に口をつけた。

「しかし、ユーリの体を見た男はもうこの世にいるわけだろう?」

「んっふ!?」
吹き出したコーヒーがテーブルに盛大にぶちまけられる
「ああ、コーヒーそんなに熱かったか?服にかからなくて良かったな、ハニー」
「ゲホ…っ、ち、ちょっ、何っ、わざと!?この絶妙なタイミングは私を陥れるトラップなの?
「え?」
「タイミング考えてマジで!」
よく分からないまま声を荒げて叱られる。とにもかくにも、カラ松はユーリが噴出したコーヒーをティッシュで拭き上げた。幸いにも、被害はテーブル内に留まったようだ。
「いや、リッスンケアフリーだ、ハニー。オレが言いたいのはつまり、元カレとかいう奴が既にユーリのか──」
「あ、うん、そこはもういい。でも、もう何年も前の話だよ」
「例えば、その…か、仮の話だが、オレとユーリが付き合ったとしても、オレより前に触れた奴がいるわけだ。ユーリの魅力から考えれば、元カレの一人や二人いて当然だとしても──何か複雑な気持ちになる」
過去に嫉妬したところで、為す術がないことは分かっている。この会話でいかに理不尽で、そもそも抱くだけ無意味な感情であることも、だ。
「それ、不特定多数に裸体を見せてきた成人男性が言う台詞じゃないよね
「…確かに!」
カラ松はハッとする。成人になってからだけでも、公衆の面前で全裸になること多数、今までお縄にならなかったのが不思議なくらいは裸体を晒してきた。そこに躊躇の文字はなかった。
「目から鱗だぜ、ハニー…っ」
「不運?にも私はまだ見てないから、そういう意味ではカラ松くんと同じような感覚なのかも」
ユーリは困ったように笑って。
「ズルいっていう気持ち、かな?」
「ユーリ…!」
カラ松は口元が緩むのを堪えられなかった。自分が抱える感情よりはずっと軽いかもしれないが、彼女もまた同じ思いを感じてくれている。

「でも恥じらいのない全裸にはさほど興味ないからね。推し本人無自覚のチラリズムとか、羞恥心盛り盛りの一部脱衣が好み」
「そういう生々しい本音は今は聞きたくなかったぜ」


そう言えばと呟いて、カラ松はユーリを見やる。
「ユーリは、どんな男がタイプなんだ?」
「好きになった人がタイプだよ」
間髪入れずに返ってくる返事。幾度となく同じ問答が繰り返されてきた過去を物語るようだった。彼女自身、煙に巻くつもりは毛頭ないのだろうが、カラ松には物足りない。
不服な表情に気付いたのか、ユーリは小さくうーんと唸って、指先で首を掻いた。
「フェチみたいなものはあるけど、定義っていうか、共通点みたいなのはあんまりないんだよね。しいて言えば、優しいとか一緒にいて安心するとか、そういうありきたりなヤツだし」
遠い過去に思いを馳せるみたいに、ユーリはぼんやりと天井を見上げる。

「だってほら、恋はするものじゃなくて落ちるものっていうでしょ?」

ひょっとしたら、逃げ口上だったのかもしれない。カラ松の追求をかわすための。
しかしカラ松の腹に、すとんと落ちるものがあった。

「恋は落ちるもの…そうだな、理由なんてないな──本当に、一瞬だったから」

見た目も仕草も声さえも、一切合切がカラ松を惹きつけて止まなかった。
たった数秒間の、取るに足りないやり取り。サングラス越しに交わした視線の先で、はつらつとした軽やかな姿が強く印象に残った。後に聞いたところによると、あの時ユーリはカラ松の顔さえ認識しておらず、再会時は記憶とリンクすることさえなかったという。つまりは、その程度の出会いだったのだ。
なのに自分はずっと忘れられなくて、夢にまで見たのを、昨日のことのように思い出せる。
「ふふ、経験あるって言い方だね」
肩を揺らしてユーリが笑う。
「へっ!?あ、ああ…うん」
こうして二人きりで過ごせるようになるなんて、想像もできなかった。

「知れば知るほどハマっていく麻薬だと感じてる」

もしもユーリが誰かに本気になってしまったら、その時はどうするだろう。最悪の想定もしなければと思うのに、答えどころか勇気さえまだ、出ない。
まぁ、危険分子となり得る芽は摘んでおくだけなのだが




決意を新たにしたばかりのある日、ユーリと出掛けた街中で見知らぬ男に会う。
「有栖川さん」
商店街のアーケードを通り抜けようとした矢先だった。名を呼ばれたユーリは振り返る。その声がやけに軽くて、カラ松は眉をひそめた。
「あ、こんにちは、奇遇ですね」
振り向いた先にいたのは、二十代後半とおぼしき青年だった。ジャケットとデニムのラフな出で立ちだが、足の爪先から頭のてっぺんまで清潔感がある。身につけている服も、一見簡素だが質は高い。
ユーリは屈託ない笑みを浮かべる。向けられた者が勘違いをしそうになるほどに愛らしいが、カラ松には儀礼的なものに見えた。これは間違いなく、愛想笑いだ。
「職場の人か?」
関係性を計りかねてカラ松が尋ねると、ユーリは首を振った。
「ううん、近所に住んでる人。何度かコンビニやスーパーで会って、話をするようになったの」
「たまたまスーパーでぶつかったのがきっかけなんです。それから何度か顔を合わせて、よく来てるよねって僕が話しかけて。ね?」
なるほど、いわゆるナンパというヤツか。それにしても馴れ馴れしい。何が、ね、だ。
摘んでおくべき芽がやって来た。

臨戦態勢を整えたところで、男がにこりとカラ松に微笑む。
「はじめまして。有栖川さんの彼氏?」
「オレは──」
「友達です」
カラ松が口を開くより前に、ユーリが答えた。確かに事実だが、釈然としないものが湧き上がる。
「今は彼氏いないって、先週言ったばかりじゃないですか」
「え、そうだっけ?ごめんごめん」
軽やかな笑い声を溢して、ユーリの肩に気安く触れてくる。関係性の返答に対してカラ松がぴくりと眉を吊り上げたその一瞬を、彼は間違いなく目で捉えていた。
宣戦布告か、いいだろう、受けて立つ。

「はじめまして、松野カラ松です」
青年と向かい合うためという建前でユーリのすぐ傍らに立ち、おもむろに腕時計で時刻を確認する。
「そろそろ行かないと間に合わないんじゃないか?──ユーリ」
呼び捨てで、名を呼ぶ。有栖川さんと他人行儀に名字を使う輩とは、そもそもの立ち位置が違うのだと示すように。
「あ、もうそんな時間?」
ユーリはカラ松の手を掴んで、時計を見るために自分に寄せる。彼女にとっては自然な行為だが、距離感を見せつけるにはおあつらえ向きな仕草だった。
案の定、微笑む青年の口角が微かに不自然な形になる。
「有栖川さんとは親しいの?」
「まぁ、それなりですね。毎週ほぼ必ず会ってるもんな?」
同意を求めれば、ユーリは素直に頷いた。
「そうだね、習慣って感じ」
「ああ、そうなんだ、習慣…ね」
手を当てて隠した彼の口元は、ほくそ笑んだように見えた。可能性を見出さないうちに早急に始末する必要がある。カラ松の望む結末はただ一つ、完膚無きまでにフラグをへし折ること、以上

「有栖川さんって本当可愛いよね。
スーパーでいきなり話しかけた僕に対しても、本来なら不審がって警戒するところを愛想よくしてくれたし。しかも一人暮らしで自炊でしょ?健気だよね」
「もう、そんなの普通のことですよ。おだてたって何も出ませんからね」
「いやいや、本当のこと言ってるだけだから。最近よく会うよね。
今日みたいな私服もすごく似合うけど、仕事帰りに見る時の服もセンスあるなぁっていつも感心してるんだよ」
相手は遠慮なく手札で勝負を仕掛けてくる。卓上にカードが出されるたびに鬱憤が溜まっていくが、よくよく見れば、内容は表面的なものに過ぎない。ユーリと彼の関係は、つまりはその程度の薄っぺらいものなのだ。

「よく分かります。ユーリは浴衣姿も最高に可愛いんですよ。…あー、いや、風呂上がりの部屋着も、だな。気を抜いている時なんて、ほんと特に」
手札の枚数も威力も、圧倒的にカラ松が有利だ。攻撃は最大の防御なり。敵と見なしたからには──潰す
カラ松の意図を察したらしいユーリは、眉間に皺を寄せてじろりと睨みつけてくる。
「ちょっとカラ松くん、何を──」
「ユーリ」
だが彼女が紡ごうとする言葉を封じて、カラ松は目を細める。
「仕事帰りに頻繁にスーパーに行くのは、聞き捨てならないな。
そろそろ日が長くなるとはいえ、できるだけ寄り道せず家に帰るんだ。どこの馬の骨だか分からない奴が声をかけてくるかもしれないからな
「それは僕のことを言っているのかな?」
互いに笑顔を貼り付けた応酬に、不穏な空気が漂う。
「ああ、すみません、そんなつもりは毛頭ないんですが…思い当たる節でもあるんですか?
「ボディーガード気取りよりはマシだと思うけど。いや、番犬…かな?」
二人の間で見えない火花が散る。
褒め殺しの対象にさせられたユーリはいつの間にか笑みを消し、白けた表情で遠くを見つめている。それから背中に回した手で、青年の目には留まらないようカラ松の服の裾を引いた。そろそろ止めろという合図だ。
承知いたしました、マスター。

「おっと、いい加減行かないと映画の時間に遅れてしまうな。すまない、ユーリ」
「今から急げば間に合いそうだね」
カラ松にはにこりと微笑んでから、ユーリは青年に向き直る。
「お話の途中なのにすみません。チケットを予約してるので、これで失礼します」
他人行儀な丁寧語は崩さない。
「ううん、こっちこそ長話しちゃってごめんね。楽しんでおいでよ。また連絡するね」
食い下がらず潔いのは称賛に値する。しかし去り際にユーリの腕に触れるのは予想外だった。最後にちらりとカラ松を一瞥した瞳からは、燻る闘争心が垣間見えた。




青年の姿が人混みに溶けるまで、カラ松は射抜くような視線を彼の背中に向け続けていた。視界から完全に消えてようやく、警戒心を解いてユーリに目を合わせる。
「…まったく、とんだ部外者だ」
彼が触れたユーリの肩に手を置き、カラ松は溜息を吐く。
「というか、連絡って何だ。まさかハニー…あいつに連絡先を教えてるのか?」
「あいつって…一応相手は年上だからね」
「ハニーに色目を使う男はあいつで十分だ。馬の骨の方がいいか?」
「悪化させてどうする」
ユーリは呆れ果てたとばかりに、乱暴に髪を掻いた。細い髪の一本一本が、太陽の光を受けてきらきらと光る。そんな姿さえ綺麗だと思うのは、欲目なのだろうか。
「連絡先って言っても、SNSのIDだよ。たまにメッセージが来るから、返事してるだけ」
自分の知らぬところでやり取りをしている事実は腹立たしいが、ブロックしろとは口が裂けても言えなかった。ユーリの私生活に干渉する権利はないのだ。それこそ彼氏でもなければ、発言権さえない。
「家は?」
「家?」
「ユーリの家は知ってるのか?」
訊けば、ユーリは大きくかぶりを振って否定した。
「まさか。外でたまたま会うだけの人だよ。教えるはずないでしょ」
「相手はそう思ってないようだが」
「私がそう思ってるんだから、そうなの。関係性っていうのはね、お互いの見解が合わなければ低い方が事実としてまかり通るんだよ」
立ち止まっての小競り合いは、人通りのある通路では否が応でも目立つ。ユーリは歩き出しながら、努めて冷静に言った。

「言っとくけど、タイプじゃないよ」
カラ松を安心させるためではなく、自分にかかった嫌疑を晴らす口振りだ。
「恋は落ちるものなんだろう?」
しかしカラ松が口走ったのは、売り言葉に買い言葉だった。喧嘩を売っているようにも聞こえる、棘のある言い方。重苦しい険悪なムードが、自分たちを取り囲もうとしている。
「わー、カラ松くんって昔の台詞いちいち覚えて掘り起こしてくるタイプ?さそり座の男?」
しまったと思っても後の祭りだ。ユーリは不満げに唇を尖らせた。
言い訳の一つ二つがぱっと脳裏に浮かぶが、下手な弁明は自分の首を絞めるだけだ。聡いユーリを口車に乗せる自信もなかった。カラ松は覚悟を決める。

「ユーリの言った言葉は、忘れないようにしてる。それが例えどんな些細なことでも、だ」

想定外の展開だったのか、ユーリは言葉を失い立ち止まる。
「ユーリは何が好きで、何が嫌いで、どういったことで喜ぶか、どんな価値観を持ってるか、オレは知りたい」
「…そ、そうなんだ?」
呆気に取られた顔をした後、ユーリは僅かに目尻を下げる。胸中に湧き上がったカラ松への苛立ちは、速やかに霧散したようだった。
「オレがそう思うことは、ハニーにとって負担か?」
「ううん」
ユーリはにこやかに微笑んでカラ松の頬に触れる。
「茶化してごめん。でもあの人とは本当に何でもないし、これからだって何もないよ」


自分たちの会話を振り返れば、見事に恋人同士のそれだと気付いて、カラ松は一人顔を上気させる。カラ松は真剣そのもので、応じるユーリに他意はない。となると、告白していないだけで実は既に付き合っているのでは?と甚だしい勘違いをやらかしそうになる。童貞こじらせると被害妄想も逞しくなるらしい。実用性なさすぎるスキルはいらない。
「でも正直助かったよ。好意持たれてるのは知ってたから、度が過ぎるようならカラ松くんに彼氏役お願いしようと思ってたんだよね」
ユーリはホッと胸を撫で下ろす。
「何だ、気付いてたのか」
まぁ、これまでもあれだけあからさまな態度だったとしたら、気付かない方がどうかしているが。
「そりゃね。でも直接的じゃないから、断りにくかったっていうか。
この前彼氏いないって答えたのも、好意に気付く直前だったからタイミング悪くて」
「フッ、ナイスアシストだっただろう?」
カラ松は気取って前髪を掻き上げる。
「ハニーがあの男とディスタンスを取りたがってるのは、最初の態度で分かってたからな」
「──へ」
素っ頓狂な声が上がった。
「…私、そんなに態度に出てた?」
「いや、ユーリのスマイルは完璧だったぞ。愛想笑いには見えなかった」
「だったら何で…」
唖然とするユーリに向けて、一層目を細めた。

「誰よりもユーリを見てるからだ」

僅かな相違も見逃すまいとしている。
涙を隠させないように、虚勢を張らせないように。彼女を苦しめる要因の一切を引き受けるくらいの覚悟なら、とうにできているのだ。ユーリのためなら、悪にだってなる。

「リングでも買うか?」
「はい?」
「薬指に。そうすれば牽制にもなる。もちろん金はオレが出す」
「尊死に至るから無理」
ユーリは真顔でノーサンキューの構え。
「そん…?」
「許容できる尊さには限度があるの。キャパオーバーになると卒倒する危険性だってあるんだから。ハタ坊のパーティの時も指輪は断ったでしょ」
真剣な眼差しでこんこんと訴えてくるが、彼女の主張はカラ松の耳から耳へ抜けて何も残らない。振り払うために持ち上げられた彼女の左手を、両手で取る。
そして四角い台座のシグネットリングを、ユーリの左手薬指に通した。カラ松の右手の人差し指に、今しがたまではめていたものだ。厳かな挙式とは縁遠い騒々しい青空の下、しなやかな指に強い存在感を放つシルバー。
まるでサイズの合わないそれは、不安定に揺れて、ぽろりとカラ松の手に戻る。
「…さすがに合わないか」
カラ松は肩を落とす。もしサイズが合えば、魔除けとしてしばらく持たせようかと思ったのだけれど。
「──ユーリ?」
始終無言で俯くユーリを不審に思い、怒らせたのではと不安げに覗き込む。次の瞬間──

ユーリは顔を覆って崩れ落ちた。

糸の切れた操り人形さながらの弛緩ぶりに、カラ松は度肝を抜かれる。
「えっ!?は、ハニー、大丈夫か!?」
「…無理、しんどい、いい加減観念して抱かせろ」
「えと、ご、ごめん!?でも抱くのはナシで!
「ああもう、何なの、ほんと何なの!無自覚アサシンで寿命削られるこっちの身にもなってよ!
ちょっとその指輪貸して───いいから寄越せ!
鬼の形相で、文字通りカラ松の手から引ったくる。

その後、立場逆転の状況再現によって、最初から最後まで赤面し通しのカラ松が瀕死になるまでが様式美である。

短編:夏の推しが尊くてツライ

汗ばむ陽気故に、肌の露出が増える夏。
存在そのものが既に尊いと形容される推しが一層尊く感じられるのは、もはや自然の摂理と言って差し支えないだろう。少なくとも私は、そう思いながらこの夏を過ごしている。


「ははは、止めるんだ、じゅうしまーつ!」
ある真夏日の午後、私が松野家の玄関の戸を叩こうとすると、庭からカラ松くんの軽快な声が聞こえてきた。
大型プールを買ったから庭で遊ばないか、そんな心躍る誘いを受けたのが数日前。そして今日は手土産と着替え一式を持って馳せ参じたというわけだ。
独特なイントネーションで名を呼ばれた十四松くんが、明るい笑い声を彼に返す。庭で準備をしているのだろう。私は敷地に入り、庭へと向かうことにした。

角を曲がった私の目に飛び込んできたのは──ノースリーブパーカーと七分丈のカーゴパンツを着た推しの姿だった。
ホースを片手に、十四松くんに満面の笑みを浮かべている。

私は言葉もなくその場に崩れ落ちる。
「わぁっ、ユーリちゃん!?」
最初に気付いたのはこちらに体を向けていた十四松くんで、その叫びに驚いてカラ松くんが背後を振り返る。
「ユーリ!ど、どうした!?」
私を認識するや否や、水の流れ続けるホースをプールに投げ捨て、カラ松くんが駆け寄ってくる。
この時になってようやく、縦五メートル横三メートルほどの巨大な大型フレームプールが、庭の大半を占拠していることを視認した。十四松くんはその中で、水鉄砲を構えている。
「エロい…」
カラ松くんが傍らで膝を立てるのも構わず、私は両手で顔を覆う。
「は?」
「唐突なノースリーブで痛恨の一撃食らった…パーカーなのにノースリーブって何なの。手も足も露出は控えめなのに、その控えめが逆にエロいって何なの…っ!?
露骨な肌見せよりも卑猥。ホースを持ち上げる片手からは脇チラも拝め、さらに足元は無防備にもサンダルだ。これはもう圧倒的色気の暴力。タンクトップとショートパンツの過激な出で立ちには痛さしか感じないから、やはり本人の無自覚がキーワードなのか。
「ノースリーブは殺戮兵器」
「ハニー!?」
「大丈夫大丈夫、ただの致命傷だから
「来て早々に瀕死はヤバイぞ」
太陽の下で水と戯れる推しの絵の、何と素晴らしいこと。開幕一秒でもう推し成分お腹いっぱい。

「フッ、隠しても隠しきれないオレのセクシーさに魅了されてしまったというわけか、マイハニー。今のユーリはさながら、溢れ出るギルティな色香に惑わされ、蜘蛛の糸に絡め取られた可憐なバタフライだな」
よく見れば、カラ松くんの片側の頬には水滴が付着している。先程の笑いながらの叱責は、五男の水鉄砲によるいたずらを咎めたものらしい。天使かよ。




松野家の庭に出現した大型プールは、厚手の塩化ビニール生地を耐久性のあるスチールフレームで固定する、空気入れが不要のタイプだ。ただしその巨大さ故、家庭用ホースで水を溜めるのに軽く数時間を要する。
「よくこんな大きなプール買えたね。みんなで割り勘したの?」
心地よい表情でプールに浸かる六人を尻目に、私は外からアルミパイプを手でなぞる。
「父さんが買ってくれたんだー。ユーリちゃんも入るって言ったら速攻で購入ボタン押してくれた
さすがは六つ子の親。
トド松くんもその反応を見越して、商品ページを表示したスマホを突き出したに違いない。策士だ。
「ハニー、まだ入らないのか?気持ちいいぞ」
プールの縁に片腕をかけ、カラ松くんが私に言う。一緒に風呂入ろうみたいな言い方とポーズ止めろ、絵面が洒落にならない。ゴチです。
「そうだね、じゃあ私も準備して──」
言い終わらないうちに、私の腹部に水がかかる。十四松くんが私に水鉄砲を向け、にこやかな笑み。
「ユーリちゃんを撃破しやした!」
「あ、ちょっと十四松、何やってんのっ」
水鉄砲を小脇に抱えて敬礼のポーズを取る十四松くんを、チョロ松くんが嗜める。
「まぁまぁ、この陽気ならすぐ乾くよ」
「トッティの言う通り!早く着替えないと、もう一撃いきまっせー」
おどけたポーズで水鉄砲を構える十四松くんは、改めて銃口を私に向ける。その姿はさながらスナイパーだ。
「十四松、ハニーに悪ふざけは止めるんだ」
カラ松くんがすっくと立ち上がる。彼としては、おそらく兄弟のイタズラを制止したかっただけなのだと思う。しかし立ち上がった拍子に波打った水がプールから溢れ、私の衣服を一層濡らした。
「カラ松くん…」
「わああぁぁっ、すまんっ、ハニー!」
カラ松くんは謝罪と共に濡れた両手で私の肩を抱く。唯一無傷だった胸から上もこれでアウト。わざとか?これはわざとなのか?
「あーあ、カラ松が一番悪ふざけしてるよな」
「確かに。トドメさしたのはお前」
おそ松くんと一松くんの掛け合いを聞き、私は頭痛がしそうだった。

さりとて、プールに入らないという選択肢はない。
濡れた服を縁側で脱ぐ。中に水着を着込んでいたのが幸いだった。
「元はと言えば十四松くんのせいだからね。ちょっとその水鉄砲貸して。報復する」
「いいよー。もう一丁あるから勝負しよっか、ユーリちゃん」
空の水鉄砲を投げて寄越してくるので片手で受け取り、プールの縁をまたぐ。
「ユーリ、足元には気をつけるんだぞ」
「ん?…あー、はいはい、分かった分かった」
カラ松くんの忠告を受けて、私は軽く笑う。
なぜなら、プールの水面にはおそ松くんと一松くんが撒き散らかしたスーパーボールが大量に浮かんでいたからだ。縁日で使う専用の網を用意して、どちらが大量にすくえるか今まさに勝負の乗っ最中。
しかしまぁ、スーパーボールは水に浮くから注意する必要もない。そう思って底に足をつけた瞬間──私の体は傾いた。
足の裏に、円形状の何かを踏んだ感触。驚く間もなく、視界には青い空がいっぱいに広がる。

「ユーリ…っ」

幸いにも、私の体は水中に沈むのを免れた。傍らに立っていたカラ松くんが、咄嗟に私の肩と腰を抱きとめたからだ。
「だから気をつけろと言っただろう?」
私を見下ろす視線には、呆れも多分に含まれていた。
「えっ、だって、スーパーボールは沈まないはずじゃ…」
「沈むタイプの玩具も何個かあるんだ。人の忠告は大人しく聞いておくもんだぞ、ハニー」
それを先に言え。
だが彼の注意を話半分に聞き流した私にも非はあるので、喉まで出かけた文句は飲み込んだ。
「おそ松、ハニーが危うく転ぶところだっただろ。タマゴはさっさと回収しろ」
タマゴ型の玩具なのか。そういえば水泳訓練用に、そんなグッズがあったような気がする。
それにしても、と私は抱きとめられた格好のままカラ松くんを見上げる。濡れて後ろに撫で付けられた髪からぽたりと落ちる雫と、程よく引き締まった体を伝う水滴が最高峰にエロいし、長男に向けるジト目と、私には決してしない容赦のない物言い、さらに胸と腹筋が顔の真横
「んんんんんんんんんっ!?」
もう止めて、私のライフはゼロよ。




「はい、カラ松くん」
ひとしきりプールで戯れた後、水分補給のための休憩時間に、手土産のアイスキャンディを六つ子に配る。
「ん、サンキュー」
透明のビニールを破ってカラ松くんは口に咥えた。六つ子たちは縁側に一列に並び、直射日光を浴びながらアイスで体を冷やす。カラ松くんは極々自然に端に陣取るから、配り終えた私の席は自然と彼の隣になる。
晴天の真夏日、気を抜けばアイスはすぐに溶けていく。私は隠密さながらにそっとスマホを構えた。
「…何をしてるんだ」
溶けて垂れそうになるアイスを舌ですくって、カラ松くんが低音で言う。
「お気になさらずに」
もう何十年と使い古された定番の絵だが、アイスキャンディを咥える推しのエロさたるや、筆舌に尽くし難し。情事を連想させる行為としてしばしば魅惑的に認識され、ただのアイスだぞそんな馬鹿なと切り捨ててきたが、考えを改めよう、とてもエロい
濡れそぼった体、液状になったクリームをゆるりと舐め取る仕草、その際の無感情とも思える気怠げな半目、私を咎める低い声音、どれを取っても妖艶でしかない。こんな色っぽい生き物が地球上で童貞として生きてていいのか、むしろ今までよく童貞守れたと称賛に値するんじゃないのか。マジで昇天するぞ、私が。
「アイス食べてるだけだぞ」
「そこがいいの」

「…ユーリ、自分のアイスが溶けてる」
呆れたように指を差されて視線を戻せば、片手で握っていたアイスのクリームが、棒を伝って指に落ちていた。乳白色の液体が今なお腕を目指して肌を伝う。
「あ、本当だ」
推しの撮影に夢中で自分の分をすっかり失念していた。
しかし放置するのも本意ではないので、まずは本体のクリームを素早く舐め取る。続いて手首を持ち上げて、皮膚に直接舌を這わせた。お世辞にも上品な作法ではないが、どうせこの場には六つ子しかいないのだ。味わうよりも億劫さが先立ったため、我知らず不機嫌な表情になっていてかもしれない。
おおまかに舐め取って残りをタオルで拭いた頃、突き刺さる視線に気付いて横を向くと、六つ子が全員揃って赤い顔で私を凝視していた。
「…何?」
首を傾げて問うたら、数名がびくりと肩を竦める。
「いや…Sっ気すごい顔してた
「襲われたい」
「抱いて」

続けざまに吐き出される感想に、私は閉口する。

「私は推ししか抱かないよ」

「へぁっ!?」
カラ松くんは私の回答を聞くなり素っ頓狂な声を上げて、目を剥いた。僅かに残っていたアイスが棒ごと手を離れ、地面に落ちる。
「あーあ、もったいないよ、カラ松くん」
「だ、誰のせいだと思ってるんだ!語弊のある言い方するんじゃないっ」
事実を述べたまでなのに怒られた。解せぬ。




一足先にプールを出て、二階の部屋で缶ジュースを飲む。濡れた服はまだ乾かず、庭の物干し竿に吊るされてゆらゆらと風にたなびいている。
取り急ぎカラ松くんの青いティシャツとトド松くんの短パンを借りて、私はソファの上であぐらを掻いた。彼らと身長にさほど差異がないせいか、自分の部屋着と称しても違和感はない格好だ。
全開にした窓から入る風を受けてくつろいでいたら、誰かの階段を上がる足音が近づいてくる。
「ハニー、服のサイズは───」
開いた襖から現れたのはカラ松くんで、私の姿を視認するなり息を飲んだ。
「サイズ?サイズはちょうどいいよ。ありがとね」
「…あ、ああ、そ、それなら…いいんだが」
カラ松くんは装着してもいないサングラスのズレを直すみたいに、こめかみに指を当てる。
「ユーリ、その格好…」
言い淀む声。

「可愛いな…」

んんっ!
私は必死に己を律して、唇を引き結んだ。可愛いと口にする推しの方が何倍も可愛い。
いつもなら、オレほどじゃないがなかなか似合うじゃないかハニー、ナイスなチョイスだぜぇなんて苛立ちを誘発する気取りを見せるくせに、ときどき素で褒めてくるの止めて。
「ありがとう。みんなは?」
「片付けながら水風船投げをしてるから、もうしばらく庭にいるじゃないか?」
「えー、水風船いいなぁ。私も次は参加しよっと」
「それは構わないが、オレはおすすめしない。十四松の一人勝ちだからフラストレーションが溜まるぞ」
松野家フィジカル担当かつ、家族から軟体動物と称されるほどの柔軟性を併せ持つ四男。全員の攻撃を的確にかわす光景がありありと想像できた。さすが、蛇口に隠れる技を持つ男だけのことはある。

確かになぁと納得していたら、カラ松くんが姿見の前でゴールドのチェーンネックレスを装着しようとする姿が目に映った。今の出で立ちは先程の健康的なパーカーではなく、体のラインを強調するVネックのティシャツだ。僅かに俯き、両手を首の後に回す。
何という色気の塊。小首を傾げて金具を留める手付きが妖艶で、目が離せない。既に底を尽いているライフをさらに削ってくる苦行。
これが全部無自覚っていうんだから、うちの推しは小悪魔が過ぎる。いっそ分かりやすい誘惑なら、一笑に付して振り払えるのに。

私はそっと彼の背後に立つ。大きな全身鏡に、私の体が映り込んだ。
「ん?何だハニー、手伝ってくれるのか?」
嬉しそうに顔を綻ばせるカラ松くんには答えず、右手の指先で彼の剥き出しになったうなじをなぞった。
「ひぁ…っ」
カラ松くんの口から大きく裏返った声が漏れる。何もそこまで反応しなくともいいのにと顔をしかめかけて、立ち上がるまで冷えたジュースをずっと握っていたことを思い出す。
「あ、ごめん」
「…は、ハニー!?」
しかし振り返った彼の顔に浮かぶのは、驚きの感情だけではなかった。頬が赤いのは、ひょっとして。私はカラ松くんの耳元に口を寄せ、そっと耳打ちする。
「──ちょっとだけ、気持ち良かった?」
「な…っ、ち、違、そんなこと…」
図星か。
私は無言で、うなじに這わす指の数を増やした。襟首からうなじ、そして鎖骨へと、複数の指の腹でゆっくりと撫でる。必死に声を殺した吐息と共に、カラ松くんは逃げるように前傾姿勢を取ろうとする。

私は覆いかぶさるようにして、彼のうなじにふっと息を吹きかけた。

「っ、ぁ…!」
「ごめんねー、来てすぐからの度重なる推しのエロさでムラっときちゃって
「言い方!」
ここが六つ子の部屋でなければ、決して逃しはしないのに。
さて、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶とやらは、果たして一体どちらなのか。

「嫌なら名前呼んで。それがセーフワードね」
「セーフ、ワード…?」
「そう。止めてほしいときの合言葉」
止めてという言葉は、本気の拒絶なのかフリなのか判断がつかないことがあるから。
告げた後、私は背後からカラ松くんの顎に手を回して、少々強引に持ち上げる。戸惑いと高揚感の混じった表情が、鏡に反射した。
「…っ、ハニー、誰か来たら…」
「来たら分かるよ。それに階段上りきるまで猶予あるから」
木の板を踏み抜く音は意外に響くものだ。それに何も情事に及ぼうとしているのではないから、手を離せば一瞬で元通りになる。全て計算の上で、私はにっこりと微笑んだ。
「こ、こら…ッ」
「大丈夫大丈夫、怖いことは何もしないから」
空いている方の手でカラ松くんの腰をひとしきりさすったら、服の中に手を侵入させる。この時にはもう、私の手と彼の腹部の体温に大きな差はなくなっていた。
柔らかな自分の体とはまるで異なる、どちらというと弾力性に欠ける、けれど厚みのある質感。腹筋から上部へと手を移動させようとしたら、カラ松くんが目を瞠った。
「ちょ、それはっ…ユーリ…っ!」

「うん、分かった」

即座に手を離して降参のポーズを取れば、唖然としたのはカラ松くんの方だった。
「……あ」
咄嗟に口を突いて出た、そう言いたげな顔だ。
「え、あの…」
「約束通り、おしまい。いやー、便利だね、セーフワード。でもセクハラちょっとやりすぎたかも、ごめーん」


「──ユーリ」

目線を落としたカラ松くんから、いつになく抑揚のない低い声音で名を呼ばれて、私は戦慄した。思い過ごしかもしれないが、禍々しいオーラが漂っている気さえする。よし、逃げよう。
私が一歩後ずさろうとした矢先、軽々とすくい上げられて、いわゆるお姫様だっこの状態で体が宙に浮いた。カラ松くんは眉根を寄せ、無言で私を見下ろす。
「あ、あの、カラ松くん…」
ここは誠心誠意謝罪すべきかもしれない。危機感を覚えて口を開きかけたところで、ソファに横たえられる。
「なぁ、ハニー」
けれど起き上がることは許されない。カラ松くんが私の腹部に馬乗りになったからだ。冷笑に近い笑みが、私を見下ろす。
「オレとハニーは対等だよな?」
ヤバイ。
「いやぁ、まぁそうだけど、さすがにこれはいささか乱暴なシチュエーションじゃないかな?」
「目には目を、歯には歯を、だ」
それ復讐ですやん。

「その気にさせておいて…ユーリだけ満足するのは、なしだと思わないか?」

雄みがすごい。
可愛いのに格好いい、二つの顔が当然のように同居する最強の当推し。危機的状況にも関わらず、組み敷かれて無感情な双眸で見つめられる展開は激レアじゃないのかと高揚する自分を自覚したら、危機感なくて申し訳ないがムラッときたその顔歪ませて抱きたい。
カラ松くんのこんな姿が見れるのは、きっと私だけの特権だ。
というか、何これ、今日はエロスの目白押し。星座占いで軒並み一位だった?それとも今年の運を使い果たせという神のお告げか?
「セーフワードはあるんだよね?」
訊けば、そうだな、とカラ松くんは失笑する。

「カラ松、だ。カラ松くんじゃない───カラ松」

私は肩を揺らして笑った。
「分かった、了解」
それから、幸いにもまだ自由な両手を持ち上げ、カラ松くんの首の後へと回し、力を込めて引き寄せた。
「な…っ!?」
唖然とするカラ松くんを抱き込み、耳元で囁く。

「カラ松」

「……ッ」
カラ松くんが勢いよく上体を起こす反動で、腕が振り払われる。私の両手は宙に浮かんだまま、行き場を失った。
火がついたように赤面する彼は、片腕でもって口元を隠す。
「は、早すぎるぞっ、ユーリ!」
悪人を演じきれない、そういうところも可愛い。とても、可愛い。
「ごめんね、こっちの位置はどうも趣味じゃなくて──っていうか、ええとね、実は」

「おい、カラ松」

いつの間にかカラ松くんの背後に、チョロ松くんが立っている

「…あ」
遅かったか。
私を見下ろしたまま顔面蒼白にして、カラ松くんは硬直する。自分が攻める立場ならいち早く気付けただろうが、立場が逆転したために動転し、察知するのが遅れてしまった。
「ち、チョロ松、違うんだ!これには事情があって、その──」
「やかましい!」
三男が振り下ろしたどこからともなく取り出した巨大なハリセンが直撃し、カラ松くんは盛大に吹っ飛んだ。
ツッコミ時のチョロ松くんの攻撃力はカンストするから恐ろしい。
「あー…」
私は体を起こし、障子に突き刺さるカラ松くんに憐憫の眼差しを向けた。助かったと安堵する気持ちもあるが、元はと言えば私に非があるから、申し訳なさが先立つ。
「白昼堂々とユーリちゃん襲ってんじゃねぇぞ、クソ松!恥を知れっ」
吐き捨てるチョロ松くんの怒号が室内に響き、騒ぎを聞きつけて残りの六つ子たちが何事かと不審がって顔を出す。

その後、チョロ松くんを始めとする彼らに事情説明をして納得させ、さらに不貞腐れたカラ松くんを宥めるのに膨大な時間を要するのだが、ここでは省略しよう。


あれもこれも全部、夏の推しが尊すぎるのが悪いのだ。

短編:誰が彼女の隣で寝たのか

誰が彼女の隣で寝たのか。
それはオレだと、彼が言った。




雨が降り出したと気付いた頃には、既に雨足は強くなっていた。
「雨がキツくなってきたな…」
片側の窓を開け放した枠に腰掛け、外を見やるのはカラ松くんだ。その手には今日何本目か知れないビール缶を握っている。
アスファルトに叩きつける雨音は次第に勢いを増し、吹き付ける風に乗って室内に入り込もうとしてくるから、彼は窓を閉めて施錠をする。透明のガラスはすぐに水滴に濡れ、築年数の経過による立て付けの悪化も相まって、ガタガタと揺れた。
「本当だ。早めにタクシー呼ぼうかな」
スマホに表示される時刻は、九時を回った頃。私は例によって、松野家で六つ子たちと宅飲みの真っ最中だ。
「一時的な可能性もあるし、もう少し様子を見てもいいんじゃないか?」
「んなこと言って、ユーリちゃんが早く帰るの嫌なだけだろ、カラ松」
一番飲んだ酒量の多いおそ松くんが、ビール缶を振りながらからかうような声を出す。
「そ、そんなわけあるか!オレは単に、その、一つの選択肢を──」
「あー、ヤバイよ、ユーリちゃん。これからの天気、超悪くなるみたい」
カラ松くんの否定を遮ったのはトド松くんだ。私の目は自然と末弟に向く。
「どういうこと?」
「赤塚区一帯に大雨暴風雷のトリプル警報発動中。区民は厳重に戸締りをして家から出るな、だって。荒れるよ、これは」
スマホで見せてくる雨雲レーダーでは、色の濃い巨大な雨雲が赤塚区を中心に東京を覆い尽くし、しばらく停滞する予測が示されている。交通情報では、最寄り駅までの電車が運行停止。
極めつけに、どこか遠くでごろごろと雷鳴の音。
「これ以上悪くならないうちに帰った方がいいかも」
「そうする。片付けできなくて申し訳ないけど、それじゃ私──」
十四松くんの提案に頷き、自分の荷物を持ち立ち上がったところで、一際強い風がすぐ側の窓を叩いた。衝突といった表現が正に正しく、思わず飛び退いた先でカラ松くんに肩を支えられる。
「今のは強いね。警報も出てるし、外に出ると危険だよ」
「でも一松、早くしないとユーリちゃんが帰れないじゃんか」
ふらつく足で一松くんとチョロ松くんが窓際に寄る。二人はガラス越しの景色を一目見て、眉をひそめた。それが彼らの率直な感想だった。

「泊まってったら?」

へへ、と笑いながらおそ松くんが言う。
「あ、遠慮します」
私はすぐさま真顔でノーの構え。普段ならお言葉に甘えていたかもしれない。今までだって、宅飲みの末路で泊りがけになったこともある。
しかし今回は私が速攻で拒否したのには理由があった。なぜなら──松野家の両親が不在だからだ
昨晩から夫婦で県外に泊りがけで旅行しており、帰宅は明日の午後。松代の加護のない状態での宿泊は危険極まりない。

「おそ松…お前のクソくだらないクソ下品な下心が透けて見えてるぞ。今からユーリに指一本でも触ってみろ、手刀でその指切り落としてやる
次男のモンペ発動。これはこれで面倒くさい。
ジト目でおそ松くんを睨むカラ松くんの近くで、トド松くんが付き合いきれないとばかりに溜息と共に首を振る。
「まったく、おそ松兄さんはほんっと──何ていい案を思いつくんだ、素晴らしすぎて言葉にならない
「分かりみが深い」
「家の中の方が安全だしね」
「まるっと同意」

六つ子たちは次々と、反旗を翻すが如く長男サイドにつく。
「ブラザー!?」

「え、何で?俺何か変なこと言った?
客用の布団もあるじゃん。母さんたちいないから、隣の部屋も空いてるし」
そして当の本人は、なぜカラ松くんに責められているのか分からないと目を瞠った。長男が一番まともだった。何かごめん。
そうか、部屋と布団があるならマシか。それなら、と前向きな返事をしようとしたら、チョロ松くんが、あ、と大きな声を上げた。
「駄目だ、おそ松兄さん。布団は…ない」
「は?」

「父さん母さんと客用の布団…全部庭に干したままだった

外は随分前から降りしきる雨。庭に設置された物干しには雨除けなんて上等なものはなく、つまり。

「オレたちの布団しかないってことか…」

カラ松くんが事実という名の絶望を告げた。




「ハニーが風呂に入る。絶対覗くんじゃないぞ、ブラザー!」
風呂に続くドアの前をカラ松くんが陣取って、声を荒げる。相変わらず外は暴風雨が猛威を奮っており、時折照明がチカチカと不安定に点滅した。
私は着替えとタオルを胸に抱えて、彼の徹底した防御態勢に苦笑するしかない。
「カラ松くん…さすがにそこまでしなくても…」
マミーのいない我が家はアマゾンの奥地と心得ろ、ユーリ。キュートなうさぎは一瞬で丸呑みにされてしまう」
恐ろしいこと言いおる。
「ちょっと、いくら何でも言い過ぎじゃないの?トッティ激おこー」
「そうだよ、カラ松。冷静に考えてみろよ。覗きで得られるメリットに対して、デメリットがでかすぎる。だってお前間違いなく殺しにくるだろ?
チョロ松くんの物言いが至極真っ当に思えてくる。
「ハイリスクローリターンすぎる」
「だよねー」
一松くんの呟きに十四松くんが同意した。
「いーや、どこかの新宿のスナイパーよろしく、美人が風呂に入ってたら十中八九ソワソワしてあわよくばと侵入を試みるのが我が家の童貞村だ
「お前は俺たち兄弟を何だと思ってるんだよ」
おそ松くんにさえ呆れられ、私は頭を抱えた。ガード云々はもういいから、早く風呂に入らせてほしい。

「大事なのは──ユーリちゃんの次に誰が風呂に入るか、だろ!」

長男お前コラ。ちょっと見直した私の純情を返せ。


フェイスタオルで髪を拭きながら脱衣場を出る。カラ松くん率いる六人は、居間で思い思いの時間を過ごしていた。
「お待たせー。お風呂先に入らせてもらってありが──」
しかし私は礼を最後まで述べることなく、絶句した。六人全員が目を剥いて私を凝視していたからだ。
「えっ、な、何…?」
慌てて自分の身だしなみを確認するが、服は正しく着ているし、化粧も残さず落としたし、瞠目される要因がまるで見当たらない。
無意識に一歩後ずさったら、彼らは揃って崩れ落ちた

「これが噂の彼パジャマ…っ」

そっちか。
当然ながら着替えの持ち合わせがなかったため、カラ松くんの予備パジャマを借りたのだ。メンズものだから少々オーバーサイズ感はあるが、漫画などでお決まりの袖から手が出ないなんてこともなく、それなりにジャストサイズ。
エッッッッッッロ!何これ、彼女できたらこんなにオイシイシチュ盛りだくさんなの!?死ねる!」
「同じ布団で寝るとか、逆に拷問な気がしてきた…っ」
「酔っ払った時はその辺何か有耶無耶にできるけど、今ほぼシラフだからダイレクトに心臓にくる
「カラ松、お前いつもこんな拷問に耐えてんの?ドMなの?
顔を真っ赤に染め上げて叫ぶ面々を尻目に、カラ松くんはすっくと立ち上がり私の腕を取って廊下へと引っ張っていく。問答無用で連れ出されて、私は閉口した。掴まれた腕が痛い。

「ハニー…オレが浅はかだった」
何が。
「ブラザーたちの言った通りだ。その格好はエロ過ぎる
「ただのパジャマなのに?」
隠すところはしっかり隠れている。というかむしろ、肌は八割方隠れているのにこれ以上どうしろと。
「服装だけじゃない。濡れた髪と上気した肌とボディーソープの匂いと、全部ひっくるめて童貞殺しなんだ」
「童貞殺し…」
単語の理解が追いつかず、真顔で反芻する。

「いくらブラザーたちといえど…ユーリのその姿は、他の男に見せたくない」

だから、と彼は続ける。
「本当は、オレとユーリだけで別の部屋にいければ…」
そこまで言って、カラ松くんは溜息を吐きながら片手で顔を覆った。
「いや…抑えが効かなくなるから、それも駄目だな…くそ」
視線を地面に落とし、忌々しそうにチッと舌打ちする。雄がここにいます。誰か、誰かここに私のスマホを今すぐ!
「と、とにかく、落ち着くまではキッチンにいてくれ。ブラザーたちはオレがどうにかする。いいな?」
確認の体裁は取っているが、実質の強制だ。不承不承私は頷き、カラ松くんに誘導されるようにキッチンのダイニングチェアに腰掛けたのだった。障子を一枚隔てた居間では、どのペアが先に風呂に入るかで戦争が勃発していた。




私はダイニングテーブルに肘をつきながらスマホでニュースとSNSを読み耽る。火照っていた体はすっかり冷めて、乾ききらない髪に触れるとひんやりと冷たい。ドライヤーを借りるのを忘れていたことを、今になって思い出す。
SNSによれば、近隣の地区では停電も発生しているらしい。風呂に入る前に一階の雨戸を閉めようとしたカラ松くんたちが、あっという間に全身びしょ濡れになり着替えを余儀なくされたほどだ。吹き荒れる風も、家を揺らすかのように勢いを増している。帰宅を強行しなかったのは得策だったかもしれない。

「ユーリ」
呼ばれてディスプレイから顔を上げれば、濡れた髪を後ろに撫で付けた姿のカラ松くん。私は無言でスマホを向けた。
「撮るんじゃない」
「大丈夫、動画だから」
「大丈夫とは」
手首のスナップをきかせて振り払う仕草をしながらも、私のスマホを取り上げようとはしない。冷蔵庫から取り出したピッチャーの麦茶を、無言でガラスコップに注ぐ。
「自宅で風呂上がりの無防備な推しの絵とかSSRだからさ」
「ソシャゲか」
「課金してでも手に入れるべき」
「…そうか」
「撫で付けられた髪とチラ見せの鎖骨と、裸足…そりゃこちらの性欲もマックスになるよね
また私の推しフォルダにレア絵が増える。一度は拝みたいと思っていた、完全プライベートのパジャマ姿が今まさに目の前にある。悦に入ってたら、カラ松くんが私の前に立ちグラスの麦茶をあおった。

「…ユーリだけだと思うな」

「はい?」
テーブルにグラスが置かれる。それから彼は右手を伸ばして私のこめかみに近い髪を掻き上げ、スッと耳に掛けた。
「オレがユーリのその姿を見て、平然としていられると思ってるのか?」
私を見下ろすその顔は熱を帯び、余裕はない。
「…思わない方が良さそうだね」
ここは素直に彼の意向に従っておいた方が良さそうだ。スマホをテーブルに伏せ、私は苦笑いを浮かべた。
「分かったなら、いい」
いつになく低い声だ。カラ松くんは苛立たしげに自分の髪を掻き回す。

「今夜眠れるかどうかだって、怪しいんだからな」




二階に布団を敷いた後、何とも言えない居心地の悪い空気が流れた。
カーテンの向こう側で時折轟く雷鳴を不安に感じながらも、誰もが就寝を言い出せない。悪天候はまだしばらく去りそうもなく、赤塚区にしつこく留まっている。飛来物が当たって窓が割れなければいいのだが。
「一松、オレと代わってくれ。ユーリは端で寝かせる」
口火を切ったのはカラ松くんだった。
「一番端なら、万一窓が割れても怪我せずに済むだろ」
私の身の安全という理由を付け加えて、全員にノーとは言わせない。
「そりゃまぁ、いいけど」
かろうじて無事だった客用の枕をカラ松くんに投げて、一松くんはトド松くんの隣に移動する。

「うん、分かるよ。カラ松の隣が安牌ってのはよーく分かる。でも納得いかない
おそ松くんは唇を尖らせる。
「言っとくけど、ユーリちゃんに夜這いかけたらすぐさま外に叩き出すからな、肝に銘じとけ」
「だ、誰が夜這いなんてするか!オレはハニーに対しては常にジェントルだぞ、なぁハニー?」
チョロ松くんの警告に、己を律して冷静に振る舞おうとするカラ松くん。しかし自分の胸元に寄せた手は微かに震えている。
「私がカラ松くんに夜這いはあり?」
「ユーリっ!?」
「それもなし。兄弟が抱かれる喘ぎ声とか精神的ダメージが計り知れない
特に隣にいるおれの心が死ぬ、と一松くんが代表して告げ、カラ松くんを除く全員が深く頷き、同意の姿勢を見せる。
「何でオレがされる側なんだ…」
「される側でしょ?」
「される側だよな?」

オレ以外の認識が一致してる!何で!?」
何も知らぬは本人ばかりなり。

その時、一際けたたましい雷鳴が鳴り響き、突然部屋の照明が落ちた。狭い室内に闇が広がる。
「停電か…」
「どっか落ちたんだね、嫌だなぁ」
私とトド松くんがスマホのライトをつけて照明代わりにするが、これ以上起きていても仕方がないというのが全員の意向だった。
「寝よっか、もう遅いよ」
あっけらかんと言い放ち一足先に布団に潜り込む十四松くんに続き、私たちも彼に倣う。
「はい、じゃあもうとっとと寝る。おやすみ」
「おやすみー」


スマホのライトを消せば、室内は月明かりも差し込まない暗闇。
肩を少し動かすと、カラ松くんのパジャマにぶつかる。元々六人で少々余裕のあるサイズの布団なのだ、一人増えとその分だけ窮屈になるのは火を見るより明らかなこと。それでも誰も不平を唱えないのは、私に気を遣ってくれているからなのだろう。

「カラ松くん」
十四松くん側の窓には、今なお雨風が勢いよく叩きつけ、ガタガタと不穏な音を立て続ける。小声で語りかける分には、一松くんにも届かないに違いない。
「どうした?眠れないのか?」
首だけ私に向けて、カラ松くんが言う。
「ううん、すごい雨と風だなと思って。台風が直撃したみたい」
「朝には止むさ…怖いか?」
すぐ側から聞こえる優しい声と、暗闇に慣れて少しずつ見え始める彼の輪郭。私は小さく頷く。
「雷は少しずつ近づいてきてるから、落ちたら怖いな…」
「大丈夫だ」
カラ松くんの左手が、私の頭に触れる。
「この近くは避雷針がある建物が多い。うちに落ちることはそうそうないさ」
「そっか。でもそれって──」
雷を誘導することになるよね、と言おうとした私の口から代わりに飛び出したのは、短い悲鳴だった。

カーテンの向こうが光った次の瞬間に、耳をつんざく破裂音が響いたのだ。

「うおっ」
「ひっ」
反射的に体を縮こまらせたら、カラ松くんが私の背中を思いきり引き寄せた。彼の胸に顔を埋める格好になって、目を瞠る。
「こっわ。ちょっと何今の。絶対近くに落ちたよね?」
「くわばらくわばら。もうとっとと寝るに限る」
トド松くんと一松くんの声がして、私はびくりと硬直する。頼むから、今ライトをつけないで。
「ユーリちゃん、大丈夫?」
おそ松くんの名指しに驚いたのは私だけではなかった。背中に触れるカラ松くんの手も、微かに反応する。
「だ、大丈夫!ちょっとびっくりしただけ!」
「つーか、十四松もう寝てるんだけど。一番窓に近いくせにすげーな」
「ある意味一番幸せだな」
距離はないのに、音量を上げなければ正確に相手に届かないほどの雑音。チョロ松くんとおそ松くんの興味はすぐ十四松くんに移って、私は胸を撫で下ろした。
しかし元の位置に戻ろうにも、一枚布団のデメリット故に、今体を動かせば布団の不自然な動きで不審がられてしまう。それを理解しているのだろう、カラ松くんも横向きのまま動こうとしない。

私はそっとカラ松くんの胸に片手を当てた。
「は、ハニー…っ」
咎める声が頭上に降りかかるが、気付かないフリをする。早鐘のような鼓動が一枚の布を介して私の手に伝わる。
「しっ、大きな声出すと気付かれるよ」
「い、いや、でもこれは…」
「動かないの」
見上げたカラ松くんは、闇の中なので色こそ判別がつかないが、眉を下げて戸惑いの色を浮かべている。少々意地悪が過ぎただろうか。それでも離れないでいると、彼の左手は私の背中から頭へと移動して──一層強く胸に抱き込んだ。

「…煽ったのはユーリだからな」

そう吐き捨てた声は、言葉とは裏腹にひどく弱々しかった。




「おっはよーございまーす!」
カーテンと窓を全開にすると、眩いばかりの日差しが室内に差し込んだ。電信柱に止まる鳥の鳴き声も、清々しい朝の訪れを告げる。
「…母さん…まだ朝早い…」
一松くんは目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、頭から布団を被る。
「えー、まだ九時過ぎじゃーん。あと一時間は勘弁してよ、母、さ──」
枕元のスマホで時刻を確認したトド松くんは、最初こそ気怠そうに不満を訴えたが、何かに気付いたようで、次第にその声は小さくなっていった。

「ちょっ…ユーリちゃんっ!?」

一番早く飛び起きたのはチョロ松くんだった。続いてトド松くんが、瞠目しながら上半身を起こす。
「そ、そうだった…忘れてた」
「ああぁあああぁ、何でせめて夜中に寝顔覗くとかしなかったんだ、俺の馬鹿!」
枕に顔を埋めてひとしきり後悔を見せるおそ松くんの背中を、十四松くんが軽く叩く。
「いやーでもおそ松兄さん、ぼくはユーリちゃんの彼シャツでお腹いっぱい。それ以上は命に関わる
「ハッ、確かに…一気にステップアップより、徐々にレベル上げた方が俺らの精神にはいいな。よく言った十四松」
「安心しておそ松兄さん、ユーリちゃんの彼シャツ写真は何十枚と撮ってあるから
トド松くんはフッと前髪を掻き上げて、カラ松くんさながらの気障ったらしいポーズを決める。胸を張るところを全力で間違えている。

食事ができていると告げたら、六つ子たちはめいめい気怠そうにあくびをしながら、不揃いな足音を立てて階段を下りていく。二階の部屋には、カラ松くんが残った。
「ユーリ」
「ん?」
私は努めて明るい声を出した。カラ松くんは気まずそうに首筋を掻く。
「…昨日はすまん」
「謝るようなことしたっけ?」
「え…いやしかし、あれは…」
「少なくとも私は、謝ってもらうようなことはないと思ってるけどな」
緩い微笑みを投げたら、カラ松くんは目線を上げて私を見やる。
「ハニー…」
「カラ松くんのおかげで、あの後雷が近くに落ちても怖くなかったから、むしろお礼を言わなきゃね」
あの後も何度か、稲妻から雷鳴の間隔が短い雷が落ちたのだ。甲高い衝突音と呼ぶに相応しい爆音に、私はその都度気が動転しそうになったが、カラ松くんは耳を塞ぐ代わりに頭ごと包んでくれた。
「フッ、オレはハニーの忠実なナイトとしての役目を果たしたまでだ」
「さすがー」
流し目でポーズを決めるカラ松くんを棒読みの称賛で適当に受け流して、私は開け放した窓の外を見る。
薄雲の広がる晴天、鳥のさえずり、心地よいそよ風。昨日の嵐などなかったと言わんばかりの晴れ晴れとした景色が広がっていた。けれどどこからともなく飛来した木の枝やゴミが地面に散乱し、爪痕はしっかりと残されている。
庭に干しっぱなしの布団も回収させなければと溜息をついたところで──私の肩にコツンと何かがぶつかる。

カラ松くんの額が、私の肩にのせられていた。

「我慢した」

その意味が分からないとは言えない。だから私は笑う。
「うん」
「すごく我慢したんだ」
「そっか」
「褒めてくれ」
私は腕を上げて、彼の後頭部に手のひらを置いた。わしゃわしゃと少し乱暴に掻き回す。
「いい子いい子、よく我慢しました、花丸」

「…次はもう無理だからな」

不意に、肩がすっと軽くなって温もりが離れる。振り返ると、カラ松くんが私に背を向けて階段へと向かう姿。
その両耳は、ひどく赤かった。

短編:蝶でも雲でも

ユーリのことなら自分が一番知っていると、自惚れていた。
休日の多くを共に過ごし、限りなく恋人同士に近い駆け引きを繰り返し、一番近くにいると彼女本人からの明言が、カラ松の自信に拍車を掛けた。
けれど自分の知らないユーリを目の当たりにして、思い上がりだと気付かされる。




ユーリと出掛けたある日の夕刻、初めて入った居酒屋は個室を売りにしている店だった。とはいっても、障子やすだれで隣のテーブル席と仕切られているだけの、個室もどきだ。それでも他者の姿を視認しないというだけで、居心地の良さは格段に違う。
カラ松とユーリは、L字型のソファ席に案内される。ユーリを上座へ促し、通路側に自分が腰を下ろした。オレンジ色の間接照明が、温かみのある雰囲気を演出している。
「珍しい配置だな」
向かい合うより距離が近く感じて、何となく落ち着かない。対称的にユーリは慣れた様子で、きょとんとしている。
「何回かこういう席に通されたことあるよ。二人だと、向かい合うより話しやすかったりするんだよね」
「面積の有効活用といったところか」
「そうかも。あとカップルには喜ばれる──ほら、手を伸ばさなくても触れちゃう」
薄く微笑んで、ユーリはカラ松の頬に指先を当ててくる。肘は曲げたまま、少し手を持ち上げただけの小さな動作で。
カラ松は息を呑んだ。
「は、ハニー…ッ、からかうのは止すんだ」
「いやー、ご飯時もこんなに推しと近いと眼福だね。うっかり手が滑りまくる気しかしない
ユーリはにこにこと邪気のない笑顔で、テーブル上の両手を何かを揉みしだくように動かした。表情と言動のギャップが凄まじい。

メニュー端末をテーブルに置いて二人で覗き込むと、ユーリの長い睫毛が間近に迫った。僅かに開いた唇に指を当てる仕草が蠱惑的に映る。心臓に悪い。
「あ、そうだ、ユーリ」
「ん?どれがいいか決まった?」

「念のために聞くんだが、以前こういう席に案内された時、相手はもちろんレディだったんよな?」

問いを受けたユーリは、うっすらと浮かべた微笑を貼り付けたままだった。動揺は、微かにさえ見受けられない。
「そんなことを聞いてどうするの?」
質問に対しては肯定も否定もしなかった。緩やかに、話題の転換を図ろうとする。
カラ松は一抹の不安を覚えた。いつもなら明瞭に、違うよ、と首を振ってカラ松を安心させてくれるのに。
「どうも、しないが…」
声が掠れる。
しかし、その返事が悪手だった。本音を隠してユーリに次の一手を委ねる、いつもの癖が災いする。
「だったら、本当大したことじゃないし、この話はもう終わり。
そんなことより、お腹すいたから早く注文しよう。ここネットで調べたんだけど、アルコールメニューが豊富なんだよ。カラ松くんと飲み比べしたくて選んだんだから」
晴れやかな声音は、それ以上の追求を拒むかのようだった。


「それ、一口頂戴」
カラ松が注文した日本酒三種飲み比べセットを指差しながら、ユーリが言う。ウォールナットの木台に三つのグラスが並ぶ、洒落たデザイン。グラスに注がれた透明な液体を見つめる彼女の双眸は、きらきらと輝いている。
「フッ、キュートなハニーのおねだりを断るのは男じゃないな」
「やった、さすが!」
軽快に指を鳴らして、カラ松が差し出したグラスを受け取った。躊躇いもなくグラスに口をつけて、至福の顔をする。血色の良い唇が触れた飲み口から、カラ松は目が離せない。
「私のも飲む?これも美味しいよ」
二つ目の日本酒に手を伸ばしながら、反対側の手で鮮やかな黄色に染まったグラスをカラ松に向ける。ユーリが飲んでいたのは、一口サイズにカットされたパイナップルが浮かぶパインサワーだ。小さな気泡がしゅわしゅわと音を立てて、飲み口近くで弾ける。
「え、あ、オレは…」
押し付けられる形で、カラ松の手にパインサワーが収まる。
飲み口には微かにリップの跡がついていて、童貞には目の毒だ。これが間接キスか。否、回し飲みだけでいうならユーリと幾度か経験はあって、今回が初めてでもない。しかしそれは彼女が飲んだ痕跡がない故に心理的にフラットな状態だったから、かろうじて自然体で受け止めることができたのであって、唇の跡は超絶にエロい、動揺もしまくる、生きてて良かった
数秒の逡巡の末、意を決してカラ松がグラスを持ち上げた───その時。

「あ、ごめん、跡ついてたら気になるよね

ユーリはそう言って、備え付けの紙ナプキンで素早く飲み口を拭った。
「え」
「え」
「何で!?」
涙目で叫ぶカラ松。
「え、なにっ、ごめん!?

掴みどころのない雲のような人だと、カラ松は思う。
異性と過ごした経歴をひた隠しにしながらも、カラ松を特別扱いするユーリの心の内が、カラ松には読み取れない。カラ松という一人の男をどう認識してどんな感情で向き合ってくれているのか、まるで分からないのだ。それこそ、雲を掴むような感覚さえする。
小さな雫がぽとりと落ちて、波紋が広がる。しかしこの時はまだ、漠然とした不安に過ぎなかった。




転機は、突然訪れる。
平日の昼過ぎ、ユーリとのデート先候補を探すために街へ出た。ビジネス街も近く、社会人とおぼしき男女の往来も多い。慣れた様子で小型のキャリーケースを引く者、スマホで通話しながら歩く者、スーツと革靴で颯爽と闊歩する者。彼らは一様に真っ直ぐ前を見つめていて、職歴のない自分には眩しく映る。

そんな群衆の中で、一際輝く光を見つけた。
道路とガードレールを挟んだ向かい側の歩道を歩く姿は、遠目にも彼女だと判別がつく。シルエットで見分けがつくと胸を張れるくらい見慣れた外見と所作。
「──ユーリ?」
認知と同時に、口を突いて出た。シンプルなカットソーにチェック柄のワイドパンツ、足元はポインテッドトゥパンプスという洗練された装い。不覚にもドキリとして、立ち止まる。街中で偶然見かけた、ただそれだけで自然と口角が上がってしまうから、どうしようもないくらい彼女に惹かれている事実を再認識せざるを得ない。
けれど次の瞬間、思わぬ光景がカラ松の視界に飛び込んでくる。

ユーリの傍らには、男がいた。

彼女よりも少しばかり年上だろうか、スーツが似合う長身が目を引いた。こちらに声は届かないけれど、肩が触れ合うほどの至近距離で仲睦まじそうに談笑している。
排気ガスを撒き散らしながら通り過ぎていくトラックを挟んだ、道路の向こう。断続的な車の騒音が、カラ松とユーリの間に物理的な距離を作る。
声をかけるのは躊躇われた。自分は完全に普段着で、住む世界が違う気がして。

「あ」
しかし視線を外して通り過ぎようとしたら、目が合った。彼女が驚いたのは一瞬で、すぐに顔を綻ばせる。
「カラ松くん!」
ユーリは片手を挙げて、大きく振った。カラ松とのデートの待ち合わせ場所に駆けつけてくる時と同じ笑顔で。
上手く笑い返せた自信はない。カラ松が同じような動作を返したら、ユーリは背後を振り返って何か説明しているようだった。それから男がユーリからカラ松に視線を移動させて、にこやかに頭を下げてきた。カラ松も緩く頭を垂れる。
「───ら、またね!」
声を張り上げてユーリは何か告げたようだったが、車の騒音に掻き消されてカラ松には聞こえない。男と肩を並べて、ユーリは遠ざかっていく。

この時、彼女の背中を追いかけていたら、その後の展開は変わったのだろうか。
横断歩道が数十メートル先にしかなく、逡巡するうちに姿を見失う。数日経って電話で話した際も彼について言及はなく、聞きそびれてしまった。あの男は誰なんだと、ただその一言が、どうしても言えなかった。


心のうちにモヤを抱えたまま、幾日かが過ぎる。
ユーリは少なくとも表面上は変わりなくカラ松に接してくるから、杞憂だったのではと自分を納得させようとした頃──再び『あの男』と会うこととなる。
否、正確を期すならば、見かけた、が正しい。

それも、ユーリの傍らにいる姿を、だ。

前を通りかかった知名度の高い一流ホテルの玄関口に、乗用車が一台停車した。車でやって来る宿泊客は少なくないから、それ自体は珍しいことではない。カラ松が視線を向けたのも、本当に偶然だったのだ。
だから、運転席からあのスーツの男が降りてきた時は目を疑った。彼は颯爽とボンネット側に回り、助手席のドアを開ける。そして現れたのが──ユーリだった。
「何で、ユーリが…」
男はわざとらしい仕草で、従者の如く恭しくユーリに手を差し伸べる。冗談は止めてよというような口の動きが見て取れたが、ユーリは笑って男の手を取った。ホテルスタッフに車の鍵を手渡して、二人は自動ドアをくぐる。

居ても立ってもいられず、カラ松は足早に彼らの後を追った。
どちらもフォーマルに近い装いから、ホテルの部屋で逢瀬という雰囲気ではないが、用もなく二人きりでホテルを訪ねるわけがない。
カラ松が再びユーリたちの姿を見つけたのは、彼らが高層階専用のエレベーターに乗り込んだ後だった。閉じられたドアの前で、限りなく溜息に近い息を吐く。
「…フッ、この松野カラ松とあろう者が何を焦っているんだ。ハニーがオレを裏切って他の男とデートなんてするはずがないじゃないか。
きっと、そう…きっとビジネスか何かで──」
平常心を取り戻すため声に出したその直後、エントランスホールの端に設置されている立て看板に目が留まった。高さ1メートルほどの看板の中央には、純白のドレスに身を包んだ若い女性が写っている。
「だから、あんな嬉しそうな顔をするわけが…」
このホテルで実施するウェディングフェアの案内らしい。

開催日の日付は今日、場所は───高層階の披露宴会場。

「──…嘘だろ」
思わず呟いたカラ松の側に、若いカップルが立つ。
ウェディングフェアの参加者らしい。チャペルや披露宴会場への期待感を弾んだ声に乗せる。ユーリとスーツの男の面影が、彼らの姿に重なった。

その後どうやって自宅まで戻ったのかは、よく覚えていない。




「ハニーの浮気者おおぉぉぉおぉぉぉぉ!」
大衆向けの居酒屋、もう何杯目かの日本酒のロックをあおって泣き叫ぶカラ松の傍らで、トド松は顔をしかめる。同じ顔の醜態ほど醜いものはない。唯一幸いだったのは、他の酔っぱらいたちの騒々しい声が、カラ松の嗚咽を掻き消してくれることだ。
「付き合ってないから、浮気もクソもないけどね」
スマホの画面を眺めながら、トド松は容赦なく切り捨てる。
帰宅した次男をたまたま玄関で出迎える形になってしまったのが、運の尽きだ。拉致同然に連行されて、愚痴に付き合わされている。
「オレというものがありながら、何であんないい男に…っ」
「顔もスペックも負けてるの自覚してるのは評価する」
ユーリと見知らぬ男がホテルに入っていったのが、よほどショックだったらしい。顔中の穴という穴から液体を垂れ流し、テーブルに水たまりを作っている。率直に言って、汚い
「だってお前っ、車もあっていい時計して、アイロンかかったスーツだぞ!清潔感もあって金も持ってる、勝てる要素がどこにあるというんだ!
「クソさの自覚も、評価に値する」
客観的に自分を見れているのは素晴らしい。
「ウェディングフェア見に行くくらいの仲って、もうゴール寸前じゃないか!」
「そりゃまぁ、推しと恋人は違うっていうし?」
抑揚のない声で素直な感想を口にすれば、カラ松は今なお涙が溢れる目でトド松を睨む。
「トド松っ、お前少しくらいオレを慰める気はないのか!?」
「あるわけない。一年近くも中途半端な関係やってる兄さんの自業自得だし、相手の方が顔もスペックもいいんでしょ?ボクが女の子なら絶対そっち行く」
小皿に盛られた枝豆に手を伸ばし、口の中に放り込む。

「てかさ、ユーリちゃん本人には何も確認してないんだよね?」
トド松は呆れ顔で、テーブルに頬杖をついた。
二人が平日の街中に連れ添って歩いていたことと、一流ホテルに行ったのは事実だ。しかしユーリと彼の関係性と、ウェディングフェア参加云々は、カラ松の憶測に過ぎない。
「…ユーリに聞けるわけないだろ」
「何で?何でそういうとこだけ少女漫画乙女チック街道まっしぐらなのかな、この痛松は。違うかもしれないじゃん」
絶望するのは真実を確かめてからでも遅くはない。
だがトド松とて、カラ松の心境が分からないではないのだ。他人事だから冷静に正論を突きつけられるが、いざ当事者の立場になったら、同じように取り乱すに違いない。
カラ松は下唇を噛んで、トド松から目を逸らした。
「それは…もしユーリの口から肯定されたら、オレは…オレはどうしたら──」

「私の口から否定されるパターンは、考えたことないの?」

「え…」
トド松の背中にかかった、呆れ果てたと言わんばかりの声。カラ松ははちきれんばかりに双眸を見開いて、トド松の背後を凝視した。
「来てくれてありがとう、助かったよ」
スマホをポケットに仕舞いながら、トド松は笑って後ろを振り返る。

そこに立っていたのは──スマホを片手に掲げ、白けた顔のユーリ。

「っ、ユーリ…!?」
「そうだよ」
にこりともせずユーリは頷く。
トド松はジョッキに残っていたぬるいビールを一気に飲み干して、イスから立ち上がった。
「それじゃ後はよろしくね、ユーリちゃん。ここの代金はカラ松兄さん持ちだから」
「了解、お疲れ様」
投げられた挨拶には、ひらひらと手を振って応える。
え、あ、と言葉にならない声を溢すカラ松は、席を立ち出口へ向かう末弟を追いかけたりはしない。眼前に立つ相手に、意識の一切を奪われているからだ。

「トッティ、今日も頑張った。出来の悪い兄弟の尻拭いしてあげるなんて、ほんっといい子」
トド松は独白して、繰り返される受難の日々を密やかに労った。




突如として現れたユーリを、戸惑いでもってカラ松は出迎える。滲んだ視界に映る彼女は、僅かだが眉間に皺を寄せている。
「ど、どうした、マイハニー。さては一週間オレに会えない寂しさを募らせて、恋の翼で舞い降りてきたな?」
袖で涙を拭いながら努めて冷静に振る舞おうとするが、ユーリは無言でトド松の腰掛けていたイスに座った。
「勝手に勘違いしてやけ酒?私に説明の余地はないのかな?」
カラ松が飲み干したグラスをゆらゆらと振って、ユーリは口をへの字に歪めた。
「…あ、ええと、その…」
「事実を誤認したまま突っ走るのは良くないよ」
誤認。
「で、でも…男と親しげに歩いてただろ?」
仲睦まじそうだったのはカラ松の主観だとしても。間を開けず、二度も同じ相手と共に過ごしていた事実は消せない。
「うん、それは否定しない。親しげなのもまぁ、そう見えるだろうね。
着眼すべきは、関係性とシチュエーションだと思う」
「関係性とシチュエーション…」
カラ松は唖然として反芻する。ユーリは側を通りかかった店員に、ドリンクとグラス一杯の水を注文した。

「あの人は会社の先輩。カラ松くんが見かけたのは、買い出し途中の私たち」

パズルのピースが繋がって、絵柄が見え始める。しかしそれは、カラ松が想定していたものとは百八十度異なる様相を呈している。
「甘いものつまみながら会議や打ち合わせすることもあって、それ用のストックね。もちろん仕事だし、勤務時間中だよ」
だからカラ松に会っても手を振るだけに留めたのだと、ユーリは述べる。確かに、辻褄は合う。
仕事中だからまたね。前半が掻き消えたあの台詞を補完するなら、こんなところか。
「なら、ホテルで一緒にいたのは…」
カラ松が肩を竦めて訊けば、ユーリは、ああ、と笑った。
「取引先の祝賀会のことかな。見かけたのは入り口?なら、入ってすぐの所で上層部の人たちと合流したんだけど、そこは──なるほど…見てない、と?」
運ばれてきたドリンクに口をつけて、ユーリは肩を揺らした。
「どっちも仕事だよ。それ以前に私は相手を先輩としか見てないし、先輩に至っては既婚者で愛妻家だから。間違ってもそういう関係になることはないなぁ」
「彼氏候補とか、そういうのも…」
「ないない」
ユーリは手と首を同時に振った。
彼女の説明によって全ての事象に合点がいくけれど、確証はどこにもない。辻褄合わせの口実とも判ずることもできる。でも──

「カラ松くんが不安になることは、何もないよ」

力強く断言される、その言葉だけを待っていた。
ただ一言、ユーリの口からそう言ってほしかった。
目の前から手が伸びてきて、優しく頭を撫でられる。人目がなければ、胸に飛び込んで泣きたいくらいの安堵感がじわりと広がる。自分なんて比にならないほど、ユーリは格好いい。見せかけだけの自分とは根っこが違う。
だからこそ憧れ、希求し、腕の中に抱きとめておきたいと望んでしまう。
いつも掴み所がないくせに、こういう時だけ強く痕跡を残していくところも、特に。




温かいタオルで涙の跡を拭われた。気恥ずかしいから辞退しようと頭では思うのに、されるがままにカラ松は目を閉じる。躊躇なく顔に触れてくる細い指が心地いい。
一息ついた頃、カラ松は意を決して切り出した。
「ユーリ…どうして隠してたんだ?」
「何を?」
「その先輩とやらと一緒にいたことを、だ」
「隠してないよ。だって仕事だよ?」
言われてみればユーリの言う通りだ、腑に落ちる。彼女にとっては業務の一環に過ぎず、取り立てて会話に上らせる話題でもない。間を置かず、何なら平日毎日会うのも、職場なら当然だ。
「それに、前の居酒屋の件は…」
ここぞとばかりにカラ松は恨めしそうな視線を送る。
以前居酒屋でカップル向きの席を利用した相手の性別を隠されたことを、まだ根に持っている。ここぞとばかりに蒸し返したのは、ちょっとした仕返しのつもりだった。
「あー」
ユーリは大きく口を開けて、それから微笑を浮かべる。
「言ったら面倒くさいことになると思って。カラ松くん妬くから」
「……ッ」
反論できない。

「…妬いたら、おかしいか?」
「カラ松くん…」

「ヤキモチくらい、オレだって焼く」

カラ松は口を尖らせて抗議する。
けれどユーリがどんな反応を示すのか直視する勇気がなくて、直後にすっと視線を外した。まるで拗ねた子供だ。目指しているはずの男らしさなんて、欠片もない。

二人の間に、しばし静寂が漂った。
「……ユーリ?」
肩透かしを食らったみたいで慌てて正面を見やれば、ユーリは眉間に寄った皺を指で押さえていた
「ど、どうした?オレ、何か変なことを──」
「シコい」
「は?」
「拗ねる推しとか、シコい要素しかない。シコいの最上級シコティッシュホールドであると言わざるを得ない
悩ましげに長い溜息を吐くユーリ。
「シコティッシュホールド」
猫好きの一松が聞いたら卒倒するぞ、と脳内でツッコミを入れるほどの余裕は出てきた
「…はは」
自然と笑いが溢れる。
馬鹿馬鹿しい。本当はとても簡単なことだったのだ。ああだこうだと思案を巡らせた挙げ句に辿り着いた結末は、単純明快な犬も食わない些末なもの。
「やっぱり、カラ松くんは笑ってる方がいいね」
「そうか?」
「うん、可愛い!」

ユーリにはもっと相応しい男がいる。
例え真実がそうだとしても、納得して受け入れるかどうかは全く別の問題だ。それができないからこそ、こうやって足掻いているのだから。
ユーリが蝶でも雲でも構わない。いつかきっと──捕まえてみせる。

決意を新たにカラ松が意気込んだところで、実は居酒屋で飲んでいる途中からトド松とユーリ間で通話が繋がっていて、愚痴が当人にダダ漏れだと知り、果てしない羞恥心と後悔で死にたくなるのだが、ここでは割愛しよう。