短編:兄弟欺くべからず

カラ松の様子がおかしい。
最初に感づいたのは、トド松だった。

そもそもナルシストをこじらせたカラ松の言動がおかしいのは日常茶飯事である。兄や弟たちからの無茶振りに気障ったらしく応えたり、手鏡に映る己と見つめ合う時間が長いのも変わらずルーティンとして繰り返されてきた。
しかしトド松の目は誤魔化せない。見知らぬ服──それも着回しのきくまともな服──と、外出の頻度が増えた。加えて少なくともここ一ヶ月ほどは、明らかに浮かれている。彼が何がしかの幸運を享受しているらしいことは、自ずと察せられた。そしてその理由は、外出先にあるようだということも。
何よりの変貌は、カラ松の表情だった。輝きを増した双眸と、だらしなく緩む口元は、まさしく───




急遽、六つ子会議が招集された。
トド松がカラ松の変化を疑い始めてからしばらくが経った頃である。
長男に呼ばれて居間に向かえば、招集されたメンバーはカラ松を除く五人。全員参加が開催の必須条件であるはずの会議に、次男が欠けている。その状況から、各々が本日の議題を推し測っている様子だった。
おそ松が神妙な顔でちゃぶ台の上で手を組む。

「みんなを集めたのは他でもない…うちの次男についてだ」

ああ、と息を漏らしたのは誰だったか。
誰もがやはりという顔をする。違和感を感じていたのはトド松だけではなかったらしい。
「何だ、みんなカラ松兄さんの異変に気付いてたの?」
「気付かない方がおかしいだろ。分かりやすすぎるんだよ、あいつは」
チョロ松が呆れ顔で腕組みをする。
「まさかカラ松が…って気持ちは正直あった。口にしたら負けみたいな気もしたし」
一松の言葉に、トド松は頷いた。
「そうなんだよね。カラ松兄さん、六つ子屈指のチキン松だから」
「あ、やっぱ異性絡みでファイナルアンサー?
十四松が長い袖を口元に当て、感情の読めない瞳でトド松を見る。彼の問いには、誰もが言葉を濁した。

「まずは状況の共有から始めよう。何か意見がある者は?」
裁判官なら槌を叩き決着の印とするように、おそ松は握った拳でちゃぶ台を叩く。
最初に手を挙げたのは一松だった。
「変わったのは、ここ一ヶ月か二ヶ月くらいだよね。土日にオシャレ…一張羅のあのクソダサい革ジャンじゃなくて、普通の服来て出ていってる」
「そうそう。でさ、そういう日って、兄さん機嫌がいいんだよね。朝起きるのも早いし、鼻歌歌ったりして」
十四松が同意した。
これもう間違いないだろ、とトド松は内心思う。ファイナルアンサー。
「そういえば、たまに電話してない?あいつが誰かに電話するのって珍しいよな」
おそ松の発言を受けてか、それまで顎に片手を当てて思案に耽っていたチョロ松が、あ、と顔を上げた。
「そういえばカラ松、この間僕が部屋に入った時に慌てて何か隠してたな」
「チョロちゃん、その話詳しく」
「大して興味なかったから忘れてたけど…えーと、何ていうか、こう手に収まるくらいの紙みたいなの持ってて、僕が入った瞬間に背中に隠したんだよね。あのサイズ感は写真?…いや、チェキ?」
「あ、そのシチュならぼくも遭遇したよ」
隠した物も次男の対応も同じような感じだったと、十四松は言う。
「気になって兄さんに追求したら、ペロペロキャンディくれた
「買収されやすいのはお前の悪いところだぞ十四松」
一松が真顔で嗜める。
「でも、その写真かチェキみたいなのをボクらに見られると都合が悪いっていうのは、事実みたいだね」
「ということはだよトド松、その仮説から導き出されるのは、カラ松に彼女ができたっていう…」
誰もが口にするのを躊躇っていた表現を、恐る恐るといった体でチョロ松が紡ぐ。他の四人は明言を避けて息を飲んだ。
先ほどの一松の言葉ではないが、カラ松に限って、という思いも確かにある。カラ松ガールズだの真実の愛だのと言う割に、基本的には口先だけなのだ。自分から行動を起こせと発破をかけたら挙動不審になり逃亡するような男。
「あのクソ松だし、それはないでしょ」
「ないない、あり得ない。カラ松兄さんに限ってそれはない」
「だよなぁ」
待ち体制がデフォのチキン松だもんね」
笑い声が室内に響く。限りなく真実に肉迫した仮説は、自分たち兄弟の経験則によって打ち消される。
「──待って、結論づけるのは真偽を確かめてからの方がいい」
憶測のみで判断して、結果的に痛い目に遭うことが何度もあったではないか。根拠のない仲間意識だけで、自分たちにとって都合のいい結論を弾き出したがるのは悪い癖だ。安堵して問題解決と判ずるのは早計だ。
トド松はハッとした。

「…その写真、まだ部屋にあるんじゃない?」

全員が無言で立ち上がった。


カラ松がエロ本やDVDを隠している本棚の裏に、それはあった。
水族館で同じポーズを決めて写っているカラ松と可愛い女の子の写真。日付はちょうど、カラ松の態度が変わり始めたと兄弟が感じた頃と重なる。
トド松たちは愕然とする。
「えっ、何この綺麗な子!」
「こんな可愛い子と付き合ってんのかよ、あいつ!ざっけんなっ」
「落ち着け、まだ彼女と決まったわけじゃない」
トド松とおそ松が続けざまに吐き捨てるのに対し、チョロ松は両手を前に出してクールダウンの要求。
「いやいや、あの馬鹿と同じポーズと決め顔とか、親密度高い証拠でしょうが!
一松が牙を剥き出しにして吠える。
「確かに」
十四松が深く頷き、次男に彼女ができた説が否が応でも現実味を帯びてきた。彼のあからさまな変化とこの写真は、トド松たちの仮説を裏付ける証拠に他ならない。
五人は自然と顔を見合わせる。

「…どうする?」




機会は早々に訪れる。
翌週末、例によってカラ松がデート服ともいえる出で立ちで姿見の前に立ち、服装を念入りにチェックする。十四松の証言通り、鼻歌を歌いながら。
カラ松ガールズからのナンパ待ちのために街へ繰り出す時も、機嫌よく身だしなみを整えることは少なからずあった。けれどやはり何かが、決定的に違う。カラ松の目は不特定多数ではなく、特定の誰かを見ている、そんな印象を受けた。
「カラ松兄さん、どっか行くの?」
スマホに目を落とし、極力何でもない風を装ってトド松は訊く。
「フッ、愚問だトッティ。オレを待ち焦がれているカラ松ガールズたちに顔を見せにちょっと、な」
少女漫画さながらの仰々しい眼力でトド松を一瞥した後、悩ましげに額に手を当てる。
「ふーん、そっか」
その返事にトド松は笑って、おもむろに指を鳴らした。

次の瞬間、カラ松の背後に四人の悪魔が音もなく舞い降りる

「……え」
カラ松は表情を凍りつかせた。
「ここ座れ」
「なん…」
「いいから座れってんだオラァッ」
一松に恫喝され、カラ松は当惑しながらも半泣きで従う。なぜ自分が責められているのか皆目検討がつかない、そんな不安が見て取れる。
「ど、どうしたんだ、ブラザー?
フーン、オーケーオーケー、オレがこれから出かけるのが寂しいん──」
「黙る」
「…はい」

萎縮して正座するカラ松の前におそ松が屈み、彼の眼前で例の写真を振った。
「この可愛い子、誰?」
「それは…っ」
カラ松の頬がさっと朱色に染まる。その反応だけで、カラ松が写真の女性に対して向ける感情を理解するには十分だった。あとは関係性だ。
「お前の彼女?」
「かのっ…!?ち、違うっ、そんなんじゃ…」
「ってことは、友達?」
「それは、まぁ…」
「っていうか、その服の様子だと、これから会うんでしょ?」
チョロ松の追撃には、あからさまに動揺して目を泳がせるカラ松。元来隠し事が下手な性質が、こういう時に災いする。

改めて写真に写る仲睦まじい二人を眺めながら、おそ松が溜息をつく。
「あのさカラ松、何も俺たちはお前の邪魔しようってんじゃないんだよ。彼女ができそうなら応援もするし、童貞なりに協力もしたい意思もちゃーんとある。
なのにお前ときたら、ここ数ヶ月徹底的に俺たちにそのことを隠してきた。ちょうどいいラインが守れない奴は、俺も容赦しないよ?
おそ松たちの言うちょうどいいラインは、実のところトド松も測りかねるところではあった。明確な定義はなく、主観的な感覚で境界線が左右されるのだ。
カラ松は眉間に皺を寄せる。
「お前らに言ったら徹底的に妨害するだろ」
間違いない。
「いやいや、十四松の時とか、俺らは影から見守るだけにしてただろ」
「トド松のバイト仲間との合コンはぶち壊してたじゃないか」
「お前もな」
チョロ松のツッコミに、カラ松は閉口する他ない。確かにこいつもノリノリだった。忌まわしい記憶が蘇り、トド松は歯を噛みしめる。
「あれは恋愛とかじゃなくて、完全にパリピのチャラ男目指してただけだろうが。童貞ニートの分際で、一軍の仲間入り目論むのは愚の骨頂
一松が気怠そうに吐き捨てた。
「お前らほんとボクに対しては容赦ないな、そういうとこ殺意しか湧かない」
全員殴ったろか。


「もう何度も会ってるってことは、仲いいんだよね?」
興味深そうに問いかける十四松に対し、カラ松は顔を赤らめて分かりやすい態度を返す。
「えっ!?ま、まぁ…悪くはない、と思う」
「じゃあその子お兄ちゃんたちに紹介してよ、カラ松。お前の友達は俺らの友達
何というたちの悪いジャイアニズム。こういう悪魔がいるから、いくら合コンを開くパイプを持っていても自分はいつまで経っても童貞なのだと、トド松はつくづく思う。
「この子の名前は?」
「…ユーリ」
「へぇ、ユーリちゃん。可愛い子だよね」
「も、もういいか?そろそろ出ないと約束の時間に──」
壁掛け時計をちらりと一瞥するカラ松は、そわそわとして落ち着きがない。
「あ、そっか、今から会うんだっけ?じゃ、僕たちも準備して行こうか
チョロ松が腰を上げるのを合図に、カラ松を除く全員が一斉に立ち上がった。
「五分で用意する」
「アイアイ!」
「何着よっかなぁ」

「この写真、俺たちにユーリちゃん会わせてくれたら返すから」
次男だけにいい思いをさせてたまるものかと、口には出さない思いを共有し、有無を言わさず同行しようとする松野家六つ子。カラ松はしばし唖然としていたが、突然くくくと笑い声を立てて肩を揺らす。

「さすがはオレのブラザーだ…それを見つけたということは、オレが某闇ルートから手に入れた無修正の秘蔵AVもついにバレてしまったか」

聞き捨てならないセリフが飛び出してきた。
「えっ、そんなのあった!?」
「嘘!?」
見覚えのある本の表紙とパッケージしか見当たらなかったが、奥の方に隠しているのかもしれない。トド松たちは我先にと本棚に押し寄せ、体を積み重ねるようにして隙間を覗き込む。
兄弟の目が逸れた一瞬の隙をついて───カラ松が脱兎の如く逃げ出した

「くそっ、罠か!ホシが逃げたぞ、追えっ!」
「逃がすな!」

トド松たちはすぐさまカラ松の背中を追ったが、この逃亡は彼にとって多少の時間稼ぎにしかならないことは、既に分かりきっていることだった。宝とも呼べる大事な写真は長男の手中にあるのだ。
五人を説得するか、指示通りユーリを連れてくるか、はたまたユーリとの関係を断つか、選択肢は三つ。
かくして物語は、意外な方向へと進むこととなる。




「は、初めまして、ユーリです」

だって、まさかと目を疑うじゃないか。示された道筋の中で最難関の選択を実現してくるなんて。
カラ松とユーリとの写真を発見して数週間もしないうちに、写真の中で決めポーズを取る女性本人が、渋々といった体ではあるが、松野家玄関でトド松たちに頭を垂れた。
こうなると、自分たちは白旗を上げて認めるしかない。少なくともトド松はそう思わざるを得なかった。人質を取られたカラ松の懇願故とはいえ、拒否することもできたはずである。それを跳ね除け、手土産さえ持って現れた。その時点で、もう。

笑った顔が可愛かった。初対面でも臆せず接してくれた。
「ユーリ」
家の中でカラ松が彼女の名を呼ぶたびに、なぜかトド松が気恥ずかしい気持ちになった。早い段階で、その呼び声に込められた感情を察することとなり。


「それじゃあ出かけてくるぜ、ブラザー」
ユーリの訪問から一ヶ月ほどが経ったある休日の午後。ジャケットの襟を正して、トド松に二本指で敬礼するカラ松。
「今日もユーリちゃんと?」
ユーリとの関係性を明らかにし、兄弟に紹介した後は、彼女との逢瀬を隠そうともしなくなった。自分からユーリの名を出すことは少ないが、尋ねれば答えてくれる。それでもときどき会う相手を言わない時があって、トド松はからかうように訊く。
そうすると決まって、カラ松は顔を赤くしてどもるのだ。
「…あ、ああ」

しばらくは動向を見守っていこう。
うまくいくとは限らないし、次男は奥手に奥手を重ねたような男だ。早い段階で決定打を放つ勇気なんてきっとない。
ただ、自分たちの眼前でいい雰囲気になろうものなら迷いなく流刑に処そうと、トド松たち五人はそう誓い合ったのだった。

短編:カッとなってやった

夏の終わりだというのにうだるような熱気を孕んだ、ある昼間の出来事だった。


眩い太陽の日差しが容赦なく照りつけアスファルトを焼く炎天下、私とカラ松くんは商業施設が立ち並ぶ街中にいた。
ショッピングモールでの買い物を済ませた後、外のキッチンカーで買った冷たいドリンクで喉を潤す。透明なプラスチックのコップからは水滴が垂れて、指先を濡らした。

「なぁハニー、暑すぎるとは思わないか?
来週はセプテンバーだぞ、立秋だってとうに過ぎてる」
「暑いねぇ」
自動ドアをくぐって外へ出た途端、汗が吹き出る真夏日だ。無骨な手で不快そうに汗を拭う推しの色気はたまらん。二の腕とデコルテの露出本当にごちそうさまです。五万サマー。
「フッ、このままでは汗も滴るいい男になってしまうな。サマーめ、世のカラ松ガールズたちをこれ以上魅了してどうしようというんだ…っ」
カラ松くんは悩ましげに前髪を掻き上げる。
夏の推しのエロさは眼福通り越して無課金なことに戦慄するレベルなのは事実だが、如何せん言い方が腹立つ。ここは安定のスルーかと思案したところで、不意にカラ松くんが眉間に皺を寄せた。
「…痒い」
右手を自身のうなじに当てながら、忌々しそうな声。
「どうしたの?蚊にでも刺された?」
「首元がムズムズすると思ったら、案の定だ。ユーリを待っている時には腕を刺されたから、今日だけでもう二度目だぞ」
言いながらカラ松くんは二の腕を私に向けた。肩を覆う袖のすぐ下に、薄く赤い斑点がある。
今年の夏は、クーラーなしの生活は考えられないほどに厳しい猛暑日が続いた。そのせいか、この時期定番害虫である蚊との遭遇頻度が極端に減っていたのだ。彼らが活発に活動する気温は26度から32度とも言われており、35度を超えると活動停止する説も聞く。
立秋を過ぎ、暑さが多少──本当に多少だが──和らいできたここ数日、再び彼らを見かけるようになった気がするとは思っていた。その矢先の被害、である。

いずれにせよ、推しの血を吸う蚊が妬ましい。隠密の如く密やかに近づき、標的に悟られることなく吸血する。最高じゃないか。
「首、どこ刺されたの?」
「この辺だと思うんだが」
言いながらカラ松くんは、首を傾けて襟元を広げる。
覗き込むと、彼が示す箇所が赤い。しかも刺されたばかりらしく、ぷっくりと盛り上がっている。そのエロスたるや、視覚の暴力
「…あれ、もしかしてこのアングルって実は相当エッチなのでは?
うっかり本音が口を突いて出た。これは痒いだろうね、とか適当な建前を語るつものだったのに。
「険しい顔して言う台詞かっ」
当然だが、すぐさま失言を咎められる。しかし頬を赤くしながらなので、攻撃力は皆無に等しい。
「今なら吸血鬼の気持ちが分かる」
「会ったこともない他種族の気持ちを慮るな」
怒られた。

「カラ松くん、血液型は?」
「A型だ」
「ということは、特別刺されやすいタイプってわけでもないね」
一般的にはO型が狙われやすいらしい。
「そういうの関係あるのか?というか、ただでさえ暑いのに、さらに痒いのは不快だ」
掻きむしりたくなる衝動を抑えてなのか、カラ松くんは首筋に手を当てた。気怠げに溜息をつく。
「じゃあさ、これからは特に予定ないし、うちでダラダラしよっか?」




私の家に着くなり、カラ松くんはリビングの姿見で家に刺された箇所を確認する。時間の経過と共に痒みは薄れたようだが、焼けた肌に残る赤みが気になるらしい。
「フッ、数ある人間の中で、他の誰でもなくイケてるオレの血を吸いたい、と…そういうことか」
何というポジティヴ思考。いっそ見習いたい。
そんなことを考えながら冷えた麦茶をテーブルに置いたところで、不意に指先に違和感を覚えた。
「嫌だなぁ、私も刺されてたみたい」
「え?」
右手の人差し指第二関節が腫れている。可動域が減り、知覚した途端じわりと熱を持つ。痒みと僅かな痛みが溶け合った強い感覚が指先にまで広がって、何とも言い難い不快感が私を襲う。
「虫刺されの薬あったかなぁ」
「どれ、見せてみろ」
差し出すより前に私の手を取って、彼は眉根を寄せた。
「…ユーリの体を傷つけたゲス野郎がいるんだな」
「表現気をつけて」
「オレの血だけじゃ飽き足らず…っ」
「同じ蚊とは限らないよ、冷静に」
「指は特に痒いよな。掻いたら駄目だぞ、ユーリの綺麗な指に跡が残る」
親か。

「刺された場所によって腫れ方が痒さが違うの、止めてほしいよね」
救急箱に常備していた虫刺されの薬を塗りながら、私は溜息を吐く。指先からツンとした刺激臭が広がった。
「体質や年齢によっても痒みの出方は違うらしいな」
「確かにそうかも。刺された患部が盛り上がる人もいれば、注射針の跡みたいなのが残るだけって人もいるしね」
「虫刺されの痒みは、アレルギー反応だと聞いたことがある。そうだとすると、アレルギー体質であればあるほど強い痒みが出るのかもな」
言いながらカラ松くんは無意識に腕の跡を掻こうとして、慌ててグラスへと手を戻した。痒みを軽減したいがためについつい患部に爪を立てがちだが、掻き壊してしまうと患部に細菌が感染して悪化するだけだ。
「ユーリは跡が目立つから、虫除けは徹底にした方がいい。まだしばらくは奴らの季節だ」
彼の忠告には、素直に頷いた。
虫刺されの跡は存外目立つ。加えて年を重ねるにつれ、痕跡の消滅に日数がかかるようにもなってきたから、刺されないようにする対策は必須なのである。
「見える位置に跡があると不格好なんだよね」
絆創膏で隠す手もあるが、あらぬ誤解を招く事態にも繋がりかねない。悩ましいところだ。
「ああ…キスマークでもつけられたんじゃないか、ってからかわれるヤツか?」
「それは隠したら、の場合ね。見える分には勘違いされないよ。だってほら、キスマークと虫刺されの跡って全然違うでしょ」
手首のスナップを効かせてひらひらと振り払う仕草で、私は笑う。カラ松くんからも同じ反応が返ってきて、自然と話題が別の事柄に移り変わる──はずだった。
「なるほど、さすがはハニーだ」
感慨深く首を縦に振るカラ松くんに対し、私の五感が警鐘を鳴らす。

「まるでキスマークをつけたことがあるような言い方だな?」

横顔のまま、目線だけが私へ寄越された。口角の上がった唇は笑みの形を作ってはいるが、双眸はひどく冷たい。抑揚のない、静かな声。

「それとも、つけられた方か?」

地雷踏み抜いた。
冷笑と呼ぶに相応しい表情を顔に貼り付け、カラ松くんはゆっくりと私に顔を向ける。私は反射的に視線を逸らした。
「なぁ…ユーリ」
その問いに正しく答えたところで、沸騰した感情は綺麗サッパリなくなると言えるのか。むしろ火に油を注ぐだけだろう。ならば私の選択は、沈黙の一択だ。




しかしいくら無言を貫いたところで、カラ松くんが納得するはずもない。返事をしない理由を都合悪く解釈し、怒りを募らせていくばかりだ。
ここは多少の遺恨を残す覚悟で喧嘩するかと腹を決めたところで、突如忌々しい羽音が耳を掠めて私は目を剥いた。
「うわっ、ヤだ、蚊がいる!」
生理的な不快感に首を思いきり振れば、カラ松くんも驚いて体を強張らせた。
素早く黒目を動かして、標的の位置を見定める。僅かな音と視界に映る小さな黒点を見逃さない。
「カラ松くんっ、そっち!右!」
「マジか!?」
彼は次の瞬間大きく一歩足を下げて、腰を落とした。俯瞰して見た室内の先で認識した標的を、両手で叩く。一度目の攻撃は回避された。間髪入れずに放った追撃は、体勢を崩して失敗する。
敵は私たちの敵意を知ってか知らずか、ふらふらと不規則に動き回る。
「くそっ、ちょこまかと!」
カラ松くんが青筋を立てて声を荒げた。怒りに我を忘れる推しも最高に推せる。スマホが手元にないのが心底悔やまれた。
「こうなったら奥の手だッ」
カラ松くんは両手を左右から上下へと移動し、構えを変えた。そして続く三発目、胸元に上げた手を勢いよく下ろして、ついに標的を仕留めることに成功する。
「やった!」
私は歓声をあげてガッツポーズ。
けれど喜びは長くは続かなかった。カラ松くんが広げた両手には、鮮血がべったりと広がっていたからだ。だって、それはつまり──

何気なく触れた自分の腕に、いつもとは何か違う妙な感覚を覚える。まさかと思い、恐る恐る目を向けると、肘から下の前腕に親指大の赤い腫れ。
「災難だな、ハニー」
手のひらの血をティッシュで拭いながら、カラ松くんは苦笑する。
「気付かなかった…」
「虫除けを徹底的にすべきだと話をした側からこれか」
「帰ってきた時に玄関から入ってきたんだろうね」
痒みを認識する前に処置しようと、テーブルに置きっぱなしにしていた薬に手を伸ばした───しかし、その手は容易く奪われる。

「ノンノン、キスマークの件がまだ終わってない」

チッ、誤魔化せなかったか。
手首を緩く掴まれたまま、いつの間にか壁際に追い詰められる。力ではどう足掻いても彼には敵わない。どうやらキスマークの話は、地雷中の地雷、ド本命だったらしい。
「えー…」
言っても言わなくても結論は目に見えているのだから、せめてここは僅差でマシな言わない選択を尊重してくれてもいいではないかと、私は内心腹立たしい気持ちになる。
「チェックメイトだ、ユーリ」
もう後はない、と。
片方の膝を立て、彼は私を見下ろす。

「あ、蚊がもう一匹
「ええッ!?どこだっ、どこ!?」
カラ松くんは素っ頓狂な声を上げて、千切れるほどに首を左右に振った。そこに隙が生じる。
火事場の馬鹿力ならぬ咄嗟の瞬発力を発揮し、掴まれた腕ごと引き寄せて、あっという間にカラ松くんと位置を入れ替わった。フローリングに尻をついて怯える彼と、立ち塞がり追い詰める私という構図が出来上がる。
起死回生、形勢逆転である。
「……へ?」
「さて、チェックメイトはどっちかな?」
明かりを背にした私の影が、カラ松くんの顔に重なる。

彼が望むのは、私の口から真実が語られることだ。
「私がキスマークをつけたことがあるか、それともつけられたか、それが気になるんだよね?」
「うっ…そう、だ」
カラ松くんは僅かな逡巡を見せた。いざ真実を眼前にして怖気づいたような、そんな顔だ。
おのれの浅はかな嫉妬のせいで、こちとら必要のない策を巡らす羽目になったんじゃ、濃厚なベロチューかまして腰砕けにしたろかなどと、内なる般若の私が一瞬顔を覗かせたが、深呼吸で心を落ち着かせる。
そんなことをすればセクハラ通り越して事案だ。ここは穏便に済ませなければ。
「この蚊に刺された跡をよーく見て」
腕を上げ、先ほど刺されたばかりの箇所をカラ松くんに突きつける。
「…ユーリ、なに、を───ッ」
最後まで言い終わらぬうちに、カラ松くんはぴくりと眉をひそめた。

私がカラ松くんの手首を引いて、彼の前腕に口づけたからだ。

私の唇が腕に触れるのを見せつけるような角度で、手首に近い皮膚の薄い部分を力強く吸い上げる。カラ松くんは呆然としたまま動かない。
触れていたのは、数秒だった。口を離すと、腕には鬱血痕が色濃く残った。細長く歪な形で、痣に近い印象を受けるもの。
丸い突起や、鮮やかな赤みが目立つ虫刺されとは、大きく違う。

「キスマークはつけたことあるよ──カラ松くんに、ね」

ニヤリと笑えば、カラ松くんはようやく意識を取り戻したように瞠目した。
「な…っ!?」
「これで満足?」
「き、詭弁じゃないか、ユーリっ!」
荒げた声は裏返っていて、よほど動揺したとみえる。顔色はタコさながらだ。チッチッと私は彼の前で人差し指を振った。
「とーんでもない。これが私の答え。カラ松くんが聞きたかった嘘偽りない真実だよ」
不純物や混ざりもののない、純度百%の真実。
これでどうだ、と私は胸を張った。




「おそ松くんたちに何か言われたら、蚊に刺されたとでも言っておいてよ」
次男含む童貞村の連中には、どうせ見分けなんかつくわけないのだ。そもそも、キスマークなのではと揶揄される心配すらないかもしれない。
しばし呆然と、腕につけられたキスマークを見つめていたカラ松くんだったが、やがて唇を尖らせた。
「何だかうまく言いくるめられたような気が…」
「これじゃ足りない?もっと強烈で蕩けるようなのしてほしいのかな?喜んで
フローリングの上で立てた彼の両膝を割って、その間に体をねじ込む。腿の下に手を差し込めば、傍目には行為に及ぶ寸前とも受け取れる際どい格好になる。
「わあああぁあぁあぁっ、ユーリっ、ち、違う!ちがぁう!」
「私は正直に答えたのに納得しないなら、これはもう体に教えるしかないよね」
「手段が卑猥!」
手のひらで顎のラインをなぞるように触れると、カラ松くんは顎を引いて嫌がるポーズは取るのだが、恨めしげに私を睨む目つきは蠱惑的にも感じられた。拒否の感情の中には、間違いなく相反する意思も含まれている。
私が気付いているとは、彼自身露にも思っていないのだろうが。


その後、カラ松くんは事あるごとに自分の腕を一瞥するものだから、その都度私は何とも言えない居たたまれなさに苦しむこととなった。黒歴史増産おめでとう私。
その上、初めての情事に及ぶ前のような恥じらいを顔に浮かべられては、もういっそここで抱いて既成事実作った方が早くない?おあつらえ向きに密室だ、などという思惑さえ頭をもたげる。
「そんなに気になるなら、絆創膏でも貼る?」
「何で?貼る必要ないだろ」
「じゃあそんなに何回も見ないでよ。こっちが恥ずかしくなる」
私の台詞に、カラ松くんは唖然とした。
「えっ…そ、そんなに何度も見てたか?」
「見まくってた」
自覚がなかったのか。指摘されてようやく自覚した彼は、今度こそ顔全体を朱に染め上げて言葉を失う。可愛い以外の形容が見当たらない。可愛い推しは存在が罪深い。

カッとなってやった。
後悔は───さて、どうだろう。

短編:メイドおでん

※おそ松さん3期15話「てやんでぇいメイド」に関するネタバレがあります。





あの日のことを端的に表現するなら、地獄、の一言に尽きる。

冷静なツッコミもままならないほどにチビ太の挙動に動揺し、気が付けば自宅の布団の中で朝を迎えていた。全てが夢だったのかもしれないとカラ松は心を落ち着けようとしたものの、スタジャンのポケットに突っ込まれていたおぞましいチェキによって、精神は再び奈落へと突き落とされたのだった。
だからその数日後に、サービスに改良を加えたからモニターとして来いと召喚された際には、全力で拒否した。けれど無料でいいからどうしてもと食い下がるので、指定された日に不承不承ハイブリッドおでんを訪れる。

そこでカラ松が目にしたのは──メイド姿のユーリだった。

「お帰りなさいませ、ご主人さま」
恭しく頭を垂れて、ユーリはカラ松を出迎えた。
黒のワンピースに重ねた白いエプロンは、華美な装飾の一切を排除したようなクラシカルデザインで、スカートはミモレ丈。ワンピースの折り返した袖は白い。頭上には白いフリルのカチューシャが揺れている。
「ユーリ…っ!?」
「新人メイドを雇ったんだぜ、バーロー」
チビ太は前回同様の金髪ウィッグにカラシ色のメイド服である。いやに高い声音で、自慢気に鼻の下を擦った。
「ハニー、何で…───何でメイド服のスカート長いんだ!こういうシチュエーションならミニで露出の高いメイド服がお決まりじゃないの!?
言いたいことが数多ある中で、最初にカラ松の口を突いて出た言葉がそれだった。
胸が強調されたり、デコルテラインの露出が高かったり、いわゆるエロいメイド服で、何でここにカラ松くんがいるのヤだー☆となるのがお約束の展開だ。しかしユーリの服装は鉄壁も鉄壁、露出のろの字もない。
ユーリは薄く微笑みながら、カラ松の肩を叩いた。
「ごくごく平凡な勤め人のミニ丈メイド服とニーハイでの絶対領域晒しは、社会的な死を意味するんだよ」
「理由が生々しい」
「成人のメイドに夢を見るな」
「出迎えられて早々に手厳しすぎる」

一日限定で接客バイトをしてくれないか。チビ太からそんな依頼があったそうだ。
休日の前夜数時間限りで、おでん二日分という対価の支払いあり。割のいい条件だと思い、彼の誘いに乗った結果のメイド服着用ということらしい。
「オイラはコックも兼ねてるからな。メイドが足りねぇって気付いたんだ」
「そういう問題じゃない」
カラ松は真顔で首を振るが、チビ太は己の選択が最善と信じている様子。
屋台のおでんとメイドに関連性がなさすぎるとか、チビ太の外見でメイド服は視覚の暴力だとか、そういった根本的な部分には考えが及ばないらしい。
「まぁまぁ、カラ松くん。
そんなわけで一日限りですが、ご主人さまのメイドを務めさせていただきます、ユーリと申します。よろしくお願いしますね」




ユーリはスカートを僅かに持ち上げて一礼した後、カラ松の傍らで地面に膝を立てた。疑似とは言え主人と使用人という関係性ではあるから、使用人が跪くのは当然なのだが、カラ松は動揺を隠せない。
言葉を失っていたら、おしぼりが差し出される。丸く畳まれたそれを両手で広げて、カラ松へと捧げるような仕草。
「おしぼりです」
「…あ、ああ…」
快活で気取らないいつものユーリとはまるで違う所作に、いちいち緊張する。彼女が顔に浮かべる笑みも、服装のせいかどことなく妖艶に感じられた。
「こちらが本日のドリンクメニューです。何になさいますか?」
「え…ええと、じゃあビールで」
「承知いたしました。私が愛を込めてお作りしますね」
分かっている。メイド喫茶定番の営業トーク、マニュアル化された単語であることなど百も承知。それを発したユーリ自身に間違いなく深い意味はないが──メイド最高
「チビ太、この間は悪かった。メイドおでん…実にエクセレントな方針転換だ、お前商才あるな
万感の思いを込めてカラ松は言う。
「へへっ、だろー?これからは回転率より客単価上げてかなきゃな!」

そんな二人の会話をよそに、ユーリはチビ太の立つ支給側へと回り、冷えたビールとグラスを取り出す。ドリンクの用意もエンターテイメントの一貫であるとばかりに、見惚れるくらいしなやかな手付きだ。その姿にカラ松が見惚れたのは言うまでもない。
トレイに載せたビールがカウンターに運ばれてきて、コースターの上にグラスが置かれる。
「失礼いたします」
聞き慣れない丁寧な物言いに、カラ松はくすぐったい気持ちになる。グラスに注がれる黄金色の液体がしゅわしゅわと軽快な泡音を立てた。
「コースターにチビ太の顔はないだろ、クッソいらない」
しかもメイド姿の、だ。余計いらない、目が潰れる。
「チビ太さんはメイド長でありオーナーですから」
「ハニーのコースターはないのか?言い値で全部買う
「ありません」
ユーリの口調は丁寧だが、返事はにべもない。

注文したおでんは、ユーリが皿によそってくれた。屋台の席で、おでん屋に似つかわしくない装飾が施された異質な外観、彼女はメイド服という非日常感が強い状況下にも関わらず、勘違いをしてしまいそうになる。
「ユーリは…何か飲まなくていいのか?」
「え、私?」
「給仕してくれる相手に奢るとか、この場合そういうのはアリなのか?」
メイド喫茶のルールは知らない。カラ松の質問に、ユーリはチビ太と顔を見合わせた。チビ太は顎に手を当てしばし思案した後、片手でオーケーのマークを作る。
「ご相伴に預かり光栄です、ご主人さま」
「ユーリのドリンク代くらいはオレが出す。好きなのを頼んでくれ」
「はい!ではチビ太さん──アルマン・ド・ブリニャックをボトルで
「せめて一杯目くらいは遠慮するんだハニー」
世界中のセレブ御用達の最高級スパークリングワインを、躊躇なく注文する度胸は買おう。




しかし至福の時間は長くは続かなかった。
「お客さんだよーん」
膝上丈のメイド服を着用したダヨーンが屋台の前に現れたのだ。
「ダヨーン…っ!?」
「あ、はーい」
驚愕するカラ松とは対称的に、ユーリは軽やかな返事と共に席を立つ。
「え、えっ?ダヨーンまでメイドやってんの!?っていうか何でお前がミニなんだよ!その太もも露出は誰得なんだ!
「ダヨーンは呼び込み担当なんだって」
「ユーリちゃんをご指名だよん」
この地獄に指名制度なんてあるのかと眉をひそめた先で、ダヨーンが手にするパネルに目が留まる。新入りメイドがご主人さまをお迎えというキャッチコピーと、メイド服姿のユーリの写真。ピンク色の丸文字書体が、夜の店を彷彿とさせる。
「おいダヨーン、そのパネルいくらで買える?
「買うな」
真顔のユーリからツッコミが入る。メイドどこいった。

ダヨーンに連れられてやって来たのは、三十前後とおぼしきスーツ姿の男だ。仕事帰りなのか、背中には黒いリュックを背負っている。
屋台に辿り着いた当初こそ不安げに黒目をあちこちに彷徨わせていたが、笑顔のユーリを認識するなり、視線は一点に集中した。それがカラ松は気に入らない。
「おかえりなさいませ、ご主人さま」
ユーリはカラ松を出迎えた時と同様に、頭を下げて客を迎える。口調も声音も振る舞いも、カラ松に向けられたものと同じに感じられた。

「あの…この後予定があって時間がないから、一杯だけとかでもいいかな?」
逃げ口上なのか事実なのかは判別がつかないが、席につくなり客はそう言った。警戒されていることはユーリも重々承知の上だろう、何しろチビハゲと顔のでかいおっさんの女装が際立つイロモノ店だ。本物のメイド喫茶の方々に謝れ。
「外出のご予定があるのですね?
かしこまりました、ではお出かけ前の軽食としてご用意いたします。ぶらり立ち寄りセットがございまして──」
椅子に座る男の傍らに跪き、ラミネート加工されたメニュー表を広げながらそつなく対応する。さすがは現役社会人。しかし相手が屈んでメニューを覗き込むせいか、やたら距離が近い。
近づかなくてもメニューくらい見えるだろうが、とカラ松は内心で毒づいた。
「つまり、ドリンクとおでん一品でワンコインってこと?おでんの具は何でもいいの?」
「はい、ご主人さまのお好きなものをお選びください」
「焼酎だったらどんなのがあるの?ユーリちゃんのオススメは?」
「今すぐお出しできるものは、こちらです。私のオススメは、そうですね…」
気安くユーリの名を呼ぶなと、危うく口を突いて出そうになった。
ユーリは手のひらを上向きにしてメニューを示す。スーツ姿の男は目を凝らすためにさらに近づいた。
男が、ユーリに対してタメ口なのも癪に障る。彼女の方が見目明らかに年下で、店員と客という関係上、客が優位性を態度に示すのは往々にしてあることではあるが。しかし。

「ユーリ」

カラ松はカウンターに肘をつき、空になったグラスの縁を掴んでぶら下げ、ゆらゆらと揺らす。声は自然と低いものになった。
呼び捨てで名を呼んだのは、ささやかな牽制だった。ちゃん付けで呼ぶお前と自分では、そもそもの関係性が違うのだと、軽薄で醜く、浅ましい誇示。
「はい──あ、失礼いたしました、ご主人さま」
男の注文をチビ太に伝達し、ユーリは再びカラ松の傍らで膝を折る。空になったグラスに気付かなかった謝罪を受けつつ、カラ松はビールが注がれる様子をじっと見つめた。ユーリがどんな顔で言葉を紡いでいるか、一度も視線は向けずに。


男は先の宣言通り、ドリンク一杯飲み干す頃に席を立った。滞在時間にして半時間もない。
ユーリは基本的な接客だけを受け持つ係のようで、以前カラ松が強要された賭け事紛いのゲームはチビ太とダヨーンが担当した。唐突にドスの利いた声を発して課金を要求する女装メイドから一刻も早く逃げたかったのかもしれない。
いずれにせよ、男とユーリの間に物理的な距離が発生したのは幸いだった。

「ユーリちゃんとのチェキってないの?」
しかし、支払いを終えた最後の最後で男から爆弾が投下される。
カラ松はハッとしてユーリを見た。
メイドカフェにおける一般的なチェキは、客とメイドが寄り添って映るものだ。互いの手を合わせてハートを描いたり、仲睦まじく肩を寄せ合ったりもする。前回の黒歴史通り越して地獄絵図さながらのチビ太とのチェキの記憶が強烈すぎて反応が遅れてしまった。
ユーリはカラ松の戦慄に気付いた様子もなく、客に向けて緩やかに頭を垂れた。
「申し訳ございません、新人メイドとのチェキのサービスはないんです。メイドは世を忍ぶ仮の姿なので
微妙に殺伐としている
「その代わり、メイド長とのチェキなら撮影中はお触りもし放題なので、是非どうぞ」
メイド長チェキお願いしまーす、と軽やかな声。地獄の再来だ。
「おう、いい度胸だな、てやんでぇ!
メイドと言えばやっぱチェキだよな、分かってんじゃねぇか。五千円コースと一万円コースがあるけどどうする?」
チェキの価格帯に選択肢が増えている。どこに需要があるというのか。
チビ太とダヨーンに首根っこ掴まれて連行されていくスーツの男を、カラ松は同情的な目で見送った。数日前の自分を見ているようで、他人事ではない。彼は間違いなく、二度と来るかよクソがと心に誓うだろう。




「二人のお客様を一人で接客するのは難しいね」
ユーリは顎に手を当て唸った。
メイドという特性上、一人の客に一人が担当としてつかなければ、接客自体が不自然なものになる。店内に主人は二人も三人もいらないのだ。
「というわけで──お待たせして申し訳ございません、ご主人さま」
婉然と微笑んで、ユーリはカラ松の傍らに座る。

「ユーリ」
「はい」
「もう止めてくれ」
「…止める?」
カラ松は上半身を捻ってユーリに向かい合った。カウンターに何気なく置かれた彼女の手に、自分のを重ねる。
「チビ太とは何時までの契約だ?残りの時間は全部オレが買う」
これは依頼ではない。

「だから──仕事とはいえ、他の男にかしずくようなことはするな」

懇願だ。
正直な気持ちを吐露するかに、逡巡はあった。正当な報酬を得て、己の意思で業務を請け負った彼女の決意に水を差すのは本意ではない。数時間のバイトとはいえ、チビ太とユーリ間で締結された契約行為である。
「…オレが嫌なんだ」
ユーリが他の男に親しげに接するたびに、どうしようもなく掻き乱される。
「一旦引き受けたお仕事を放棄はできません」
けれどユーリは、毅然とカラ松の懇願を拒絶した。
「ハニー…っ」
半ば予想していた反応ではあったし、受け止める覚悟もあったはずだった。なのにいざ本人の口から聞かされて、頭が真っ白になる。
あからさまに顔に出たカラ松の落胆に、ユーリはふっと目を細めた。

「ですから、残りの時間はご主人さま専属ということでいかがでしょう?」


その後チビ太との交渉により、ユーリは客が来れば案内はするが担当としてはつかないことが確約された。本格的にぼったくりバーの様相を呈してきたメイドおでんだが、チビ太が承諾したことだ、訪れた客がどのような末路を辿ろうとカラ松の知ったことではない。
「楽しかったんだけどなぁ」
客がカラ松だけになったところで、ユーリは椅子に腰掛けてグラスの水を飲む。
「メイドが?」
「何かを演じるってことが、ね。
メイドっていう仮面をつけた私に対し、お客さんがその役に価値を認めて金銭を支払う…奥が深いと思わない?」
カラ松は間髪入れずにかぶりを振った。
「思わない。ハニーが他の男に仕えるのは見てて不愉快だ」
正直に告げたカラ松の本心は、ユーリを複雑そうな面持ちにさせるだけだった。
「それにこういう疑似恋愛のような客商売は、客が入れ込んでストーカーになるケースも聞く。ユーリのメイド姿はキュートだ、それはオレが保証する。
だからこそ…嫌なんだ」
ユーリの美しさも可愛さも、ときどき子どもみたいに無防備になる姿も、他の男を魅了するために安売りしないでほしい。いっそ恋人だったら、どうだ自慢の彼女だぞと胸を張れただろうか。
仮説の検証は、いつかできる日が訪れるのだろうか。


困ったように笑うユーリを見て、やはり誰よりも綺麗だと、カラ松は心底思うのだった。

短編:ラッキースケベを拝みたい

窓を開けた松野家二階、おそ松とカラ松は自らの口から吐き出す紫煙を、何とはなしに眺めていた。

「女の子とエロいことしたいよなぁ」
灰皿に煙草の灰を落とすタイミングで、不意におそ松がしみじみとした口調で呟く。
「何だ、突然」
反射的に問いかけたが、長男の発言に常に意味があるかと言えば、決してそうではない。暇を持て余した自分たち六人全員に言えることではあるけれど。
「いや俺ね、生まれてからこの方ずっとご無沙汰だからさぁ──え、お前したくないの?」
「馬鹿にするな」
意外だとばかりに瞠目されるから、カラ松は眉をひそめて長男を睨む。
「したい。オールウェイズそう思ってる」
「良かった、お前も相変わらずのクズで安心したよ」
思春期の余りある性欲を、望む形で発散できないまま成人を何年も過ぎたのだ。視聴するAVは厳選に厳選を重ねるし、いつか訪れるかもしれない初体験には幻想紛いの夢も見る。それ故だろうか、失いたくないと渇望する相手ができた今、何よりも美しい宝石に傷をつけたくなくて、宝物を扱うように恐る恐るとしか触れない。

「可愛い子なら誰でもいいや。トト子ちゃんやユーリちゃんならより大歓迎」
口の端に煙草をくわえた格好でおそ松は言う。
「オレは誰でもいいわけじゃないが、まぁ…」
純粋な性欲の発散と、好ましいと感じる相手を抱きたいと願うのは、辿り着く結論は同じにしろ根本的な部分は別物であるとカラ松は思う。
「あ、お前はユーリちゃん一筋だもんな。童貞のくせに操立ててご立派だよほんと」
くく、とおそ松は喉を鳴らす。揶揄する意味合いが強い口調だった。
くわえていた煙草を指で挟んで、カラ松は長男に鋭い視線を向ける。

「お前がハニーをどう思おうと勝手だが、もしも現実に手を出した時は──命はないと思え」

「おお怖い」
おそ松はひょいっと肩を竦めた。
「でもいきなり本番ってのは俺らもハードル高いし、まずはラッキースケベくらいがちょうどいいよな」
「ラッキースケベ…?」
「そ。たまたまちょっとエッチなシチュエーションになるヤツ。ほらアレだよ、転んだ弾みに女の子胸触っちゃうとか、ああいう類の」
漫画やAVによくある、ご都合主義の展開というものか。年々表現は際どくなり、そう都合よく発生してたまるものかと異議を唱えたくなるが、男のロマンであることは確かだ。
「…ああ、それはいいな。意図せず、というわけだな
「あくまでも偶然」
二人で頷き合う。
「高望みしてるわけじゃないんだし、パンツくらいは見れてもいいと思うんだよな」
「純真なホワイト…いや、下着は案外大胆でセクシーなブラックも悪くない」
カラ松は水着姿のユーリを記憶から引き出して、色の変化をイメージする。自然と険しい顔になるが、考えていることはただのエロだ
「そうっ、そういうの想像するだけで滾る!女の子がどういう考えで下着選んでつけてるのとか、服装と下着のギャップとか、いい!」
「いずれにせよ、見たいな
「見たいっ」
二人の意向は完全に一致する。

「トト子ちゃんはミニスカだからいつでも見えそうなのに、全然見える気配ないんだよなぁ。回し蹴りとかもするのに…不思議だ」
「ユーリもあれでなかなかガードが硬い。まぁ…緩ければそれはそれで害虫が寄ってきて面倒なんだが」
季節問わず肌が見れるとなると、それは嬉しい反面、自分たちと同じような視点を持つ輩は当然少なからず出現する。トト子は六つ子を一網打尽にできるクラスの攻撃力を持つが、ユーリは違う。だからこそ自分が守らなければと、独りよがりな正義感と共に彼女の傍らにいる。
「あー、ラッキースケベ起こんないかなぁ」
おそ松が溜息と煙を同時に吐き出した時のことだった。

一松が襖を開けて中に入ってくる──なぜか下はパンツ一丁で

「ごめんいちまっちゃん、俺そういうラッキースケベは求めてないんだわ
おそ松は真顔でノーセンキューの構え。
「は?らっきー…何?」
しかし一松は唖然とする兄二人を気に留める様子もなく、堂々と室内に足を踏み入れる。
「一松…なぜパンイチなんだ?」
危うく地面に落としかけた煙草を指で持って、カラ松は訊く。
「猫に粗相されたから着替え取りに来たんだよ。つか、ジロジロ見ないでくれる?見物料取るよ?
「スケベといえばスケベの範疇だけど、ぜんっぜんラッキーじゃない!見物料って何だよっ、むしろ迷惑料として金貰いたいぐらいだわ!
おそ松が崩れ落ち、そんな兄を一松は眉をひそめながら一瞥する。
「着替え取りに来ただけで何でこんなに文句言われんの」




おそ松と上記のような会話をしたのが、昨日の今日だ。
だからその翌日に、松野家の玄関をくぐったユーリがいつになく色気のある出で立ちだった時は、一瞬体が動かなかった。
Vネックのタイトなニットワンピースに身を包み、足元は黒のタイツ。見えている素肌は少ないにも関わらず、胸の膨らみや腰のくびれが強調されて嫌でも目が向く。ワンピースも膝上丈で、女性特有の柔らかさが全面に出る服装だ。
要は、かなりエロい。
「ハニー…」
「ん?」
玄関の上がり框でブーツを脱ぐ際に、白いうなじがちらりと覗く。唇を寄せて痕を残したい衝動に駆られる。カラ松は下唇を噛んだ。
「その格好はさすがに…アレじゃないか?」
「あれって?」
「童貞には刺激が強すぎる」
頬が熱い。隠すように片手で口元を隠せば、ユーリは立ち上がってワンピースの裾を摘み上げる。
「これが?生足でもないのに?」
「ユーリっ!」
カラ松は声を荒げて嗜める。幸いなことに兄弟は全員出払っているが、いつ誰が帰宅するとも知れない。叱責を受けたユーリは、小さく笑い声を上げた。
「あはは、ごめん。でもそうかぁ、普通の格好だと思ったんだけどな」
「自覚ないのか?男の夢と希望が詰まった勝負服だろ
「人様の服に、勝手に夢と希望を詰め込むな」
タイトなワンピースは、スタイルが顕著に表れる。普段布に隠されて想像を困難にしているものが、今は脳内イメージを手助けする。露出と形状で言えば水着などの方がよっぽど下着に近いはずなのに、あからさまな肌見せよりも薄いヴェールに包まれている方がカラ松の想像力を掻き立てる。
ユーリの所作一つ一つが色香を纏い、髪を掻き上げる何てことはない仕草さえ、目の毒だ。


意識しないようにすればするほど、逆効果となってカラ松を苦しめる。こんな時、兄弟が一人でもいれば気も紛れて抑止力になるのにと、先程とは真逆のことを思ってジレンマに陥った。
カラ松はソファの上で長い息を吐き出す。それから自分の膝に肘を付き、顔を覆った。
「おそ松があんなこと言うから…余計意識するじゃないか」
ユーリもユーリだ。今日に限って、よりによってあんな服を着てくるなんて。今日一日冷静でいられる自信がない。

そんな雑念が頭を過ぎった頃、部屋に続く襖が開け放たれる。
「さむさむ、廊下はやっぱり冷えるねー」
トイレを使うために一階に下りたユーリが戻ってきたのだ。後手に襖を閉めて、両手を擦り合わせながら軽快な足取りでカラ松の元へと駆けてくる。
その刹那、視界に広がる光景にカラ松は目を瞠った。

ユーリが床で足を滑らせたのだ。

「ユーリ…ッ」
反射的に手を伸ばすも、距離が離れすぎている。カラ松の救助は間に合わず、ユーリはカーペットの上に盛大に尻もちをついた。
「痛たたっ…」
「だ、大丈夫か?」
苦痛に顔を歪めながら腰に手を当てるユユーリに駆け寄り、しかし次の瞬間硬直して唾を飲む。
ワンピースの裾がたくし上げられて、太ももが露わになっている。

ジーザス。
タイツを履いているとはいえ、触り心地の良さそうな足が剥き出しだ。しかも当の本人は、打ち付けた尻の痛みでそれどころではない様子。至近距離で眺め放題。
「ユーリ、無事か?」
努めて平静を装い、紳士ぶって声をかける。
見ず知らずの異性相手なら間違いなく、恥も外聞もなく凝視して目に焼き付けた。しかし眼前にいるのは他でもないユーリである。太ももは眼福だったが、無闇に評価を下げる選択肢は選ぶべきではない。
「こんな所にクリアホルダー置いてるの誰!?痛いんだけどっ」
B5サイズほどのそれを拾い上げて、思いきり投げつける。誰が放置したかは定かではないが、日中室内が多少散らかっているのはいつものことだったため、気付けなかった。
「足首捻ってないか?──ほら」
カラ松が改めて差し伸べた手を取ってユーリが立ち上がる──その瞬間。
「あ」

どちらともなく上がった声を合図にするかのように、ユーリの全体重がカラ松にかかった。

反応しきれずに、体勢を崩して仰向けに転倒する。見慣れた天井が視界に映り込んでようやく、自分の状況の理解に至った。
咄嗟にユーリを胸に抱え込んだために受け身も取れず、後頭部を床にしたたか打ち付けてしまう。瞬間的に視界が混濁して、何も考えられなくなる。
「──つッ!」
「カラ松くん!」
ユーリが上体を起こしたのは感触で察することができたが、眩暈のせいで表情が捉えられない。
「たんこぶできてない!?痛かったよね、本当ごめん!」
けれどその悲痛な声音から、泣きそうな顔をしていることは判別がつく。違う、そうじゃない、そんな顔をさせたくはない。
「平気だ…ユーリ」
だから心配するなと言おうとして、カラ松は言葉を失う。

顔を覗き込んでくるユーリの胸元が露わになって、谷間とブラ紐が見えた。

こうなるともう元々僅かにしかない誠意だとか良心とかは行方をくらませる。原始的な性欲だけが残って、目が離せない。今日はその色か。
「私のこと見える?気分悪くなったりしてない?」
ユーリの顔が一層接近して、カラ松は体を強張らせた。カラ松が返事をしなくなったのを、脳震盪でも起こしたのでは案じているらしい。インナーの内側はさらにカラ松の顔に近づく。
「ちょ、は、ハニー…ッ!?」
ハッと我に返り、声を必死に絞り出す。このシチュエーションで顔を近づけられるのは、実に不味い。
「へ…っ、平気だッ、オレは何ともな───」
顔を寄せてくるユーリを押し返そうとして、今度こそカラ松は頭が真っ白になった。

持ち上げた片手が、ユーリの胸をわしづかみする格好になったのだ。

下着で形を整えられた胸は、手のひらにすっぽりと収まって。けれど親指が触れた先からは、肉まんのような弾力が伝わってくる。触れたものの正体を頭で理解するより早く指が動いて、結果的に揉んでしまう。
ラッキースケベを拝みたいよな、とおそ松と冗談を交わした記憶が脳裏を過ぎる。あの時の自分を葬りたい。ラッキーだとかツイてるだとか、心待ちにしていた花開くような喜びは底なしの絶望により一瞬で掻き消える




「…いつまで触ってるの?」
抑揚のないユーリの声に、否が応でも正気に戻らざるを得なくなる。
わあああぁあぁぁぁっ!す、すまんっ、違…違う、そういう意図は、なくてッ」
組み敷いて見下ろしてくる双眸に、カラ松は裏返った声で弁明する。とにかく今は、自分に明確な意図がなかったことを伝えなければ。
しかしカラ松が続きを発するよりも先に、ユーリがカラ松の後頭部に触れた。その行為にセクシャルな意味合いなどないはずなのに、ぞくりと腰に電気が走る。
「大声出せるなら心配なさそうだね───で、私の胸を触ってくれた代償は高くつくんですが
にこりと穏やかに微笑まれる。カラ松の腹の上から下りる気配もない。しかもなぜか丁寧語。怖い。
「えっ、何…え!?」
顔から血の気が引くのが自分でも分かる。
なぜなら、ユーリが蠱惑的に目を細める時はいつだって、その後の流れは決まっていて。カラ松は歯を食いしばり目を瞑った。

「嫌そうな顔。どうせ、また襲われるんじゃないかって心配してるんでしょ?」

くすくすと溢れ落ちてくる笑い声。細い指がカラ松の頬を突いた。
「…ち、違うのか?だって、この姿勢はまさにというか…」
「しないよ。そもそもは私が転んでカラ松くん巻き込んじゃったのが原因だから、相殺」
「…え」
「受け身を取れたはずなのに、私を守ってくれたでしょ?──ありがとう」
感謝の言葉は耳元で妖しく囁かれる。それからユーリはカラ松の前髪を掻き上げるように額から後頭部にかけてをゆるりと撫で上げた。床に体を横たえたまま、もたらされる愛撫に身を委ねる心地よさは、何とも形容し難い。
よいしょ、という掛け声と共にユーリはカラ松の腹から下りて、手を伸ばしてきた。その意味が一瞬分からなくて唖然としていたら、ユーリは首を傾げた。
「ん?まだ痛む?」
「…あ、い、いや…平気だ」
その手を取って上体を起こし、カラ松は両手で顔を覆う。

言えない。あっさり身を引かれて落胆しているなんて、絶対に言えない。
一撃ずつ打ち付けられる攻撃によって、日ごとに着実に城壁は崩されていく。いつか拒否しきれなくなる日が訪れることをカラ松は恐れている。そして同時に、望んでいる自分も確かにいる。
もう後戻りできないところまで惹かれているから。辿り着く結末が自分の求める形でなくても、手に入れることができるなら、それで十分じゃないかと飲み込みたくなるくらいには。


「ユーリは…」
声が掠れた。
「ユーリは、怒らないのか?」
「怒る?」
居住まいを直しながらきょとんとするユーリ。
「その…不可抗力とはいえ、胸を触ってしまったわけだし」
彼女はちらりと自分の胸を見下ろしてから、再びカラ松に目を向けた。
「疚しい気持ちがあるわけだ?」
「や、まぁ……ない、とは言えないから」
正直に答えれば、ユーリは呆れたようにくすりと笑った。
「何で素直に言っちゃうかな。そういうのは黙ってたら分からないよ、普通」
「他の男に同じことされても、そうやって笑って許すのか?」
だとしたら聞き流すわけにはいかない。
自分と同じように彼女に触れて許された不埒な輩がいるなら、一人残らず一発見舞ってやらなければ気が済みそうにない。
ユーリはこの話題を一笑に付して流そうとしたのだろう。しかしカラ松の真剣な眼差しに気付いてか、顔から笑みを消した。
「他の男の人には、そもそもこんなに近づかないよ」
そう言ってから、ああ、とユーリは吐息を吐いた。両手を上げて降参のポーズを取る。
「分かった、私も正直に言う。カラ松くんだから安心して完全に気を抜いてました。触られたのだって、カラ松くんはそういうことわざとしないと思ってたし。でもそうだよね、これからはもっと──」

「いい」

ユーリの言葉を遮って、カラ松はかぶりを振った。
「…え」
「そういう理由なら、いい」
不埒な行為を許されて首の皮一枚繋がっただけでも僥倖だというのに、思わぬところでユーリからの信頼を再確認させられた。

だから、実は下着もしっかり見えていた事実は墓まで持っていこうと心に誓ったのだった。

短編:不毛な会話に花が咲く

「カラ松のどこがいいの?」

脈絡もなく突然おそ松にそう問われたユーリは、一瞬微かに当惑を滲ませたように見えたが、すぐに笑みをたたえて淀みなく答えを明示した。
好ましい相手がいると告げた時、往々にして他者から上記のような質問が投げられる。返事を聞いたところで質問者が得られるメリットなど皆無に等しいのに、なぜ訊かずにはいられないのか。
実に不毛な問いかけだと、トド松は思っている。




昼食を終えて一時間ほど経った頃のこと。松代から買い物を命じられたカラ松が、財布と買い物メモをデニムのポケットに入れて出掛けたのを見かけた。
だからその数分後に、まるで入れ替わりのようにユーリが訪ねてきた時は驚いたものだ。

「カラ松くんいないの?買い物?
おっかしいなぁ、この時間に行くって言ってたつもりだったけど。私が時間間違えたかな」
「歩いて行ったから、戻ってくるのは半時間後くらいだと思うよ。まぁとりあえず上がって上がって。ちょうどみんな揃ってるんだ」
ユーリが手土産を手にしているのを見るに、松野家で過ごす予定だったことが窺える。
「ふふ、実はそれ見越してお菓子買ってきたんだ。みんなで食べよう」
上がり框で脱いだ口を揃えて、ユーリはにこりと微笑んだ。明るく快活なその声は、静かな空間によく通る。彼女は同世代カースト圧倒的最底辺かつ暗黒大魔界クソ闇地獄カーストの住人と自負する自分たちに対しても、別け隔てなく接してくれる。向けられる笑顔も時にトド松をドキリとさせるから、カラ松でなくとも、ユーリに惹かれるのは自然の理と言えるだろう。
しかし、彼からユーリを掻っ攫おうなどとは思わない。
ユーリに関して次男を敵に回せば、死神が速やかに首を狩りに来る


ユーリが手土産に持ってきたのは、徳用のスナック菓子だ。彼女はチョロ松から受け取った直径三十センチほどの木製サラダボウルに菓子を流し入れ、ちゃぶ台の中央に置く。はいどうぞと差し出され、どちらが客なのかと笑ってしまいそうになる。
「てかさぁ、カラ松いないから訊くんだけど」
さっそく手土産のクッキーに手を出しながら、挨拶もそこそこにおそ松が切り出した。

「ユーリちゃん、カラ松のどこがいいの?」

トド松は茶を吹き出しかけた。空気を読まずに場の雰囲気をぶち壊すことに定評のある我らが特攻隊長が、クラッシャーの名に相応しい働きをする。確かにその内容はこの場にいる全員が興味を示すものではあるし、カラ松不在時にしか訊けない問いではあるが、タイミングくらいは考えて発言しろクソ長男
「どこが…」
案の定、ユーリはきょとんとする。
「そう。無害っていう評価はあるけど、それはあくまでも俺たち六つ子の中でのことであって、一般的な男と比べたら明らか底辺じゃん?
世の中にはもっといい男しかいないのに、何でよりによってカラ松なわけ?」
「ああ、それは気になる。ユーリちゃんほど綺麗な子がカラ松に執心なのは疑問しかない」
背中を丸めた一松が、おそ松の発言に乗っかった。
「そんなの決まってるでしょ」
しかしユーリは不愉快な素振りも見せず、即答する。

「全部」

迷いのない回答だった。こう訊かれたらこう答えようと、最初から回答が用意されていたみたいに明瞭な。
「全部?」
「加点方式で推しに昇格したわけじゃないんだよ。こういうのは感覚的っていうか、私の中に推さねばなるまいっていう使命感が生まれたの。分かる?」
「さっぱり」
何名かが口を揃えた。
「カラ松くんの一挙手一頭足が、生きる原動力になるの。視界に入るだけでテンション爆上がり」
「それもういっそ恋愛感情として好きなんじゃ…」
「あ、待って、なるほど」
ユーリの発言に理解が及ばず唸る一松を、チョロ松が制する。
「一緒くたにするなよ、一松。推すことと恋愛って似て非なるものなんだよ、推しがいないお前らには分かんないかなぁ。そりゃイコールになるケースもあるし、同担拒否ってタイプの人もいるけどさ」
「…あー、うん、あのさ、チョロ松兄さんの通りなのかもしれないけど──ドルオタの童貞には言われたくないかな
トド松は首を傾げながら真顔で言い放つ。異性と付き合った経験がない以上、我々は優劣なく横並びだ。
それぞれが不快さを顔に滲ませる中、ユーリだけは両手を合わせてにこやかな表情になる。
「さすがチョロ松くん、分かってくれて嬉しいよ」
「え?」
ユーリが何か言い出した。
「当然。同じ志を持つ者同士だからね」
ドヤ顔で握手を交わす二人。
「おいチョロ松、お前分かった風な口きいてるけど、所詮は彼女いない歴=年齢だからな」
「女の子絡むとポンコツだしね」
「今がまさにそれ」

ユーリはいい子だ。彼女を選んだカラ松の審美眼は確かだと太鼓判を押したくなるほどには、見目も性格もいい。ただ推しのチョイスは残念の一言に尽きる。しかし、だからこそ変人揃いの松野家に馴染めているとも言えるかもしれない。




「じゃあさ、敢えて好きなパーツを上げるとしたら?」
おそ松が追加で投げかけた問いは、明らかに興味本位なものだった。
「顔とスタイルと声かな。内面で言うなら、カッコつけなのに抜けてるところとか特に。でも、カラ松くんからどれか一つがなくなっても推さなくなるわけじゃないよ」
湯気の立つ湯呑に口をつけて、ユーリは語る。
要素を言語化すれば、その瞬間から嘘になる。最初に強い感情の噴出があって、他者に説明するための理由はあと付けで用意することが多い。そして自分で明文化しておきながら、要素だけで好きになったわけじゃないと、前提を覆すジレンマに陥るのもままあることだ。

「カラ松くんがカラ松くんなら、それでいいんだよ。私はただ──幸せになってほしいだけ」

にこりと微笑むユーリに、なぜかトド松はたまらなく気恥ずかしい気持ちになった。人前で躊躇いなく優しく言い切ることのできる強さには、羨望さえ覚える。
「何かすっげー盛大なノロケ聞かされた気分…俺もユーリちゃんみたいな子にそう言われたい!」
「正しくはノロケじゃないけど、童貞には似たようなもんだよね」
おそ松の叫びに、チョロ松が同調した。


「でもカラ松兄さんとエロいことしたいんだよね?」
指が隠れるほどに伸ばした袖で口元を覆って十四松が尋ねると、ユーリは腕組みで大きく頷いた。
「したい、是が非でもお願いしたい」
即答か。さっきまでのいい雰囲気どこいった。
だが、十四松が口にした表現に対してはユーリは異議を唱える。
「厳密にはカラ松くん『に』エロいことしたいんだよね。私が一方的に攻める感じ?
気持ちよくなるよう頑張るから、可愛い顔で啼いてほしい
何でもない会話の一部であるとばかりに、平然とした口調でユーリは言う。
「ヤバい」
「爽やかな笑顔でとんだどエロ」
「変態の領域」

自分たちの性癖や性的趣向を完全に棚上げして、トド松たちはユーリに白い目を向ける。ユーリは気にも留めず、クッキーを頬張った。軽やかな咀嚼音が居間に響く。
「でもなかなかオッケー出ないんだよね」
「そりゃその辺はあいつにもプライドあるんじゃね?俺らの中じゃ人一倍格好つけだし。ほら、やっぱ普通は抱きたい側じゃん?
まぁ俺は、女の子がエロいことしてくれるなら何でも大歓迎だけど」
頭の後ろで手を組み、おそ松はへへと軽く笑う。
「んー、でもさ、体だけの関係って虚しくない?」
トド松は懐疑的な目をユーリに向けた。
「順序踏みたいよね。何せこっちは童貞こじらせてるし、せめて最初はそういうとこはこだわりたい」
「分かる。いやエロいことはしたいんだけど、すぐさましたいくらいなんだけども
「待ってよ、トド松くん、チョロ松くん。それだと何か私がゲスいみたいな感じになる」
心外とばかりにユーリは眉をひそめた。感じではなく、まさしくそうだと言っているんだが。

「だってカラ松くんが可愛いんだから仕方ないでしょ!笑ってる顔とか声とか、ほんと可愛いんだから!」
裁判官が判決の印とするようにちゃぶ台を叩き、ユーリは声を荒げる。複雑な面持ちの面々の中、十四松だけは笑みを浮かべていた。
「確かにカラ松兄さん、ユーリちゃんといる時や、ユーリちゃんの話するときはすっごく幸せそうな顔してるよね。その顔見ると、ぼくも嬉しくなるよ」
「そうそう。カラ松くんの笑顔って、こっちまでホカホカさせる威力があるの!」
同意者が現れた喜びか、ユーリは眩しいくらいの笑顔になる。

「で、そんなにカラ松がいいんだ?」
あわよくば次男の地位を横取りできないか、おそ松の質問にはそんな分かりやすい思惑が見え隠れする。ニヤついた表情から彼の内心は察しやすかったに違いないが、ユーリは気にした様子もなく首を縦に振った。
「うん!全力で推してる!
みんなとも友達になれたし、人生すっごく充実してるよ。こうやってまったりしてる時間も結構楽しいしね」
無邪気なユーリとは対称的に、目頭を押さえる五人
六つ子に対しては基本的に裏表なく正直に感情を吐露してくれるユーリと知っているからこそ、不意に放たれた一撃はトド松たちの胸を射抜いた。
「え、普通に好き」
「推せる」
「トト子ちゃんとは別次元の攻撃力」
「オナシャス」





それからしばらくユーリによる演説は続いた。
時間にすれば十分程度だったと思うが、血を分けた兄弟の男の部分をこれでもかと説かれるのは、なかなかに精神を消耗する。トド松たちにとっては見慣れたカラ松の姿でも、分厚いフィルターを通せばアバタもエクボになるらしい。
あの次男のどこがいいのかと、確かにその質問を口にしたのは我々の方であったけれども。
「───とまぁ、当推しがいかに推せるかは、今ざっと説明した通りだよ」
喋り倒して喉が渇いたのか、ユーリは湯呑をあおる。ようやく開放されて、トド松たちはちゃぶ台の上に崩れ落ちた。炬燵の人工的な温もりが、板を通して頬に伝わってくる。
「カラ松兄さんいなくて良かったよ…ボクもう胸焼けしそう、リア充は爆ぜろ
「あいつが聞いたら絶対図に乗ってたよね」
ヒヒッと一松が肩を揺すった。

「え?カラ松兄さん、ずっといたよ」

十四松の言葉に、ガバッと身を起こすトド松他三名
スパンと勢いよく襖を開け放つ十四松。
そしてその奥には──片手にビニール袋を下げて目を瞠るカラ松の姿。
「おかえりー」
間の抜けたユーリの声が、緊迫した空気を溶かしていく。
「え、あ……た、ただいま…」
戸惑いながらも帰宅を告げるカラ松の顔は、遠目にも真っ赤に染まっている。次男の胸中を瞬時に察するトド松たち。
「帰ってたなら入ってきたら良かったのに」
「い、いや、その…」
「ちょうど良かった。これからユーリ厳選カラ松くんのエロ可愛い仕草十選を話そうと思ってたんだよね」
いそいそとスマホを取り出すユーリに、カラ松はより一層頬を赤らめ、トド松たちに至っては戦慄する。
「はぁッ!?」
「ちょっと何言ってるか分かんないです」

「こういう時、普通『え、嘘っ、聞いてたのヤダー!カラ松くんのバカバカ、もう知らない!』ってなって逃走を図るシーンじゃないの!?」
「平然と続けようしてるよ」
「何という剛の者」
カラ松は廊下で硬直するわ、トド松たちはこれ以上のノロケに等しいカラ松談義は勘弁願いたいわで、松野家居間は静かな地獄絵図と姿を変える。
十四松だけが目を細めてユーリとカラ松を交互に見やり、張り詰めた空気を打破する役を買って出た。おそらく本人に、明確な意図はないのだろうけれど。

「良かったね、カラ松兄さん」
「んんっ!?な、何がだ、ブラザー…」
「ユーリちゃんに大事にしてもらって」
ときどき十四松は、六つ子の中で誰よりも大人びた恋愛観を口にすることがあって。そういう時トド松の脳裏には、彼がかつて想いを寄せた女性の姿が過ぎる。もう姿形はぼんやりとして輪郭さえ怪しいのだが、トド松の記憶にある彼女は、いつも笑っていた。
そして当のカラ松はというと、悩ましげに片手を額に当てる。
「と、当然だ!世界のアイドルと言っても過言ではないこのオレの魅力は、そうそう隠しきれるものじゃないからな。ハニーが魅了されるのも無理ないぜ」
「へぇ」
虚勢であることは見目にも明白だったが、敢えて反応したのは一松だった。
「ってことは、別に嬉しくないんだ?」
「えっ、そ、そういうわけじゃ…ッ」
「だって当然なんだろ?」
「これは、こ、言葉の綾というか…」
カラ松は言葉に詰まる。
「どうしよう…照れながら戸惑うカラ松くんが超絶可愛いくて今すぐ抱きたい
ユーリはユーリで、恋する乙女のような熱視線を向けながらのド攻めな欲情発言をするから、カラ松はますます萎縮した。

「…あの、だから、ええと…何というか…」
カラ松はあちこちに視線を彷徨わせ、やがて逃げ場がないと悟ったのか顔を覆った。
「…勘弁してくれ」
そしてあっけなく白旗を上げたのである。

「もうっ、ほら照れちゃったじゃん!ほんと、ユーリちゃんはカラ松兄さんをどういう目で見てるの」
「常に性的な目で見てる」
恥じらう様子もなく、間髪入れずに答えるユーリ。トド松は頭を抱えた。
「訊いたボクが悪かった、ごめん!」




日が暮れて空一面に闇が広がる頃、ユーリは松野家を後にする。彼女を駅まで送るのはカラ松の役目だ。
知り合った当初こそは、他の面々も同行を望んだが、いつしかそれはカラ松に託されて、ここ最近はカラ松以外の六つ子とは玄関口で別れを告げるのが定番になった。
「ユーリ…さっき、家で言ってたことなんだが…」
道中、カラ松が躊躇いがちに口を開いた。松野家を出て数分が過ぎた頃のことである。
「ん?」
「…あ、いや、何でもない…大したことじゃないんだ」
しかし応じようとするとカラ松は視線を逸して口ごもるので、ユーリは口元に小さく笑みを浮かべた。カラ松が聞きたいことは分かっている、そんな顔だ。
「全部聞いてたんでしょ?」
「へっ!?あ、ああ…あの時はその、入るタイミングを失ってしまって…すまん」
ううん、とユーリは首を振った。謝る必要なんてないよ、と。
「本心だし、隠すようなことじゃないから」
「ユーリ…」
カラ松の頬が紅潮する。
それから言葉を探すように黒目を動かして逡巡するが、やがて大きく息を吐き出してから、再びユーリと視線を重ねた。歩む足は止めず、けれど少しだけスピードを落として。

「…嬉しかったんだ。オレのいないところで、ブラザーたちにああ言ってくれて」

足元を照らす街灯の明かりが、アスファルトに黒い影を作る。
「ユーリはオレに良くしてくれる。でもそれはあくまでも表の顔で、本当は不満を溜めてるんじゃないかって不安は、ずっとあった…もちろん、ユーリを信じてないわけじゃないんだが」
「うん、分かるよ。自分のいない所では悪口言われてるんじゃないかって、疑心暗鬼になったりするってことだよね」
ユーリが理解を示せば、カラ松は胸を撫で下ろして目を細めた。
自分が好意を抱く相手に対しては特に、嫌われたくないという心理が働く。相手からも相応の反応を感じれば感じるほどに、自分が受け取っているものが本心なのか確信を得たい欲望が首をもたげる。
襖の引手に手をかけたあの時、室内から漏れ聞こえる内容に聞き耳を立てたのは、悪魔の囁きに耳を傾けたからに他ならない。それでも──

「だから、オレがいない場所でもオレといる時と変わらないユーリで…安心した、というか。オレが勝手に理想を作って、それが叶って喜ぶのは独りよがりだとは分かっていても──」

自分で言っておきながら、あまりに無神経な物言いであることに気が付いた。
「すまない、喜ぶとこじゃないよな」
いつも、ユーリの信頼を裏切るようなことばかりしている。眉を下げてカラ松が謝罪すると、ユーリは優しく笑った。
「ほんとにね」
見捨てられないのが不思議だと、事あるごとに兄弟は言う。欲望に忠実で、気遣いは空回りして、目指すスマートさとは縁遠い所作の数々。世の中にはもっといい男しかいない、まったくもっておそ松の言う通りだ。
なのに、ユーリはいつだってカラ松を選んでくれる。その優しさに胡座をかいて、現状維持に甘んじる。

あと、少しだけ。

短編:松代が風邪をひいた日

「ユーリの手料理が食べたい」


用事があって電話をかけた昼過ぎ、電話口で躊躇いがちに告げられた言葉がそれだった。
カラ松くんにしては珍しく神妙な雰囲気だったので、まさかプロポーズや愛の告白だとかいうロマンチックな意味合いではと勘違いを──するわけがないのは当然だが、何かただならぬ事態が発生していることは明らかだった。

おばさんが昨日から風邪を引いて込んでいる。

彼は原因をそのように語った。
松代おばさんは松野家の家事一切を担う柱だ。その柱が突如崩れたのならば、カラ松くんの動揺はさもありなんと言える。要は、まともな料理が食べたいのだろう。
運の悪いことに、おじさんは数日前から出張、おばさんの財布には小銭しかなく外食もままならず、カードで貯金を下ろしに行こうにも暗証番号を教えてもらえないとのこと。
「ありもので何か作ったら?みんな料理できるんでしょ?」
「それが…久しぶりにブラザーたちがチャレンジしたら大惨事になった
「だいさんじ…」
「トッティが作ったカルボナーラはダマになってパッサパサ、おそ松はキッチンドリンカーで誤ってビールを中華鍋に注いでチャーハンが激マズ
漫画でよくある典型的料理下手キャラか。お前らは欠点の層ばかり厚くしてどうする。
「昨日の晩飯に至っては、カップラーメンとおにぎりだったんだぞ」
安牌。賢い選択だ。
「間の悪いことに、チビ太も新しい食材探しだとかで最近見かけないんだ…」
チビ太さんナイス逃亡。私はスマホを耳に当てながら、空いている片手の親指を立てた。
「それで、その…もし迷惑でないなら、晩飯を作ってもらえないだろうか?」
いつになく低姿勢だ。強気な眉を下げている表情が目に浮かぶ。

「ユーリの手料理が食べたいんだ」

当初は当然断ろうとした。二十歳超えた成人男性が六人もいて、冷蔵庫に多かれ少なかれ食材はあるのだから、煮るなり焼くなり何とでもできる。そして少ないながら、彼らには料理経験もあるのだ。
けれど──
「ユーリの作る料理は何だって旨いし、たまに振る舞ってもらえる時はすごく嬉しいし、無性に食べたくなってしまって…無理を言っているのは分かってるんだが…」
「…仕方ないなぁ」
推しの可愛いおねだりにノーといえる強靭な心は私にはない。
無理難題なら容赦なく突っぱねることができても、ご飯作ってくらいならオッケーしちゃうよね。彼らは料理を食べられて私は推しを餌付けしつつ愛でられる、こんな完璧なWin-Winがかつてあっただろうか。
「ユーリ…っ」
「でも今日限りの一回だけね。次回からは自分たちで何とかすること」
「もちろんだ!恩に着るぜハニー!」

電話を終えた後、私はすぐさまトド松くんにメッセージを送った。それからペンを持ち、思案する。今夜のメニューを考えるためだ。




日が暮れる前に、私は松野家を訪れた。
カラ松くんは玄関口まで出てきて歓迎してくれ、顔を合わせるなり私が下げていた紙袋を持ってくれる。しかしその重量に驚いたのだろう、彼は受け取った直後僅かに目を瞠った。
「ハニー、これは何が入ってるんだ?」
「鍋。家にある材料で筑前煮作ってきたの。コンロ2つだと作業スピードに限界あるし、みんな早くご飯食べたいでしょ?」
少々持ち出しが発生するが、手土産代わりだ。まぁそんなことより、推しのツナギ姿って何でこうもエロいんだろうか。胸元の開きが深いVネックと、へそ付近まで下ろしたジッパー、露出は少なめにも関わらず充満する色気。ぶっちゃけムラッとした。
そこに加えて、早くご飯を食べさせてあげようという私の気遣いに、ふにゃりと相好を崩してくるから、私の性欲は早くもマックスになる。これ何ていう拷問?

他の面々はというと、空きっ腹を抱えて居間でぐったりとしており、死屍累々の様相を呈していた。
「あ、ユーリちゃん、いらっしゃーい」
「来てくれてほんっと助かるー。昨日から俺らまともな物食べてないんだよー」
「手伝いはカラ松がやるから、申し訳ないけど頼むね」
「持つべきものは友達だよね。ユーリちゃんマジ女神」
「お腹すいたー!」
好き勝手言ってくれる。おばさんの日々の苦労が偲ばれた。

おばさんにひとまず挨拶をと思ったが、様子を見に行ったカラ松くん曰く寝ているとのことだったので、先に料理を始めることにする。
松野家のキッチンは整然とし、程よく手入れがされている。私は鞄から取り出したエプロンを装着して、よし、と気合いを入れた。
冷蔵庫内の食材と調味料は、トド松くんから一通り写真を送ってもらって把握している。その他必要な物は自宅から持ってきたから、不足はない。滞りなく事が運ぶ手はずである。

本日のメニューは、鶏もも肉のから揚げと野菜の天ぷら、味噌汁とほうれん草の和え物、自宅で作ってきた筑前煮だ。揚げ物と同時進行で汁物と小鉢を順に作るイメージトレーニングも万全。腕を捲くって、私はさっそく作業に取り掛かった。

料理を始めて半時間が経った頃だろうか、障子を開けてカラ松くんが顔を覗かせた。タオルで手を拭いて振り返れば、カブスカウトのように二本指で敬礼してウインクする姿が目に入る。
「フッ、キッチンにキュートなフェアリーがいると思ったら、ユーリの後ろ姿だったか」
「揚げ物がある程度できたらご飯にするからね」
コンロの上では、大きな中華鍋の中で揚げ物がじゅうじゅうと香ばしい音を立てている。手順の少ない和え物と味噌汁はほぼ完成していて、進捗は予定通りである。
「ユーリがエプロンをつけているのは何度か見ているが、エプロン姿がこうも様になるレディもなかなかいないぞ」
「モチベーション上げるの上手いねぇ。期待に応えられるよう頑張るよ」
「おだててるわけじゃない。本当に似合うから言ってるんだ」
結果的に私のやる気を底上げしているのだが、本人は無自覚らしい。それどころか、世辞だと判じられるのは不本意とばかりに口を尖らせた。
しかし彼の目がある物に留まってからは、曲げたヘソもどこへやら、双眸が輝きを宿す。
「…から揚げか」
網を敷いたバットに盛られた黄金色の鶏もも肉である。肉好きを公言するだけあって、相変わらず肉料理には目がない。
「味見する?」
「えっ、いいのか!?する!」
カラ松くんの顔がぱぁっと明るくなる。尻尾があれば間違いなく全力で振っていただろう。
私は菜箸で掴んだできたてのから揚げに数回息を吹きかけてから、下に手を添えて彼の口へと運ぶ。
「はい、あーん」
彼は満面の笑みでから揚げを頬張って、大きく首を縦に振った。
「旨い!やっぱりハニーの料理は何食べても旨いな」
「でしょ?下味もつけてて割と自信作なんだよ、これ。褒めてくれたご褒美に、特別にもう一個あげちゃおう」
二個目のから揚げを差し出せば、カラ松くんは一層満悦の表情を浮かべた。
「ワオワオワオ!さすがだぜユーリ!」
「その代わり、配膳手伝ってね」
「お安い御用だ」

それから彼は視線をダイニングテーブルへと向けて、ん、と声を上げた。
「ユーリ、あれは…」
カラ松くんが目に留めたのは、トレイに載った鍋敷きと一人用の土鍋だ。傍らにはガラスコップとレンゲが添えられている。
「あ、それ?おばさんの分のお粥」
「マミーの?」
「まだ食欲ないかもしれないけど、お粥なら食べやすいかなと思って。風邪を治すためには体力もつけないとね」
聞いた限りでは、昨日はゼリーとスポーツドリンクしか摂っていないらしい。
粥は消化が早く内臓に負担をかけない上に、体を温める効果もある。余計な世話かもしれないが、適量を火にかけるだけなので大した手間でもない。
「あー…そうか、そうだよな。腹が空かないと言っていたが、それを鵜呑みにするのも良くないな」
恥じ入るように、カラ松くんは首に手を当てた。
「今回は色々不運も重なったからね。でも電話でも言ったけど、次は自分たちで何とかするんだよ。アドバイスくらいならするから」
「ああ、そうする──でも」
目線を落として、言葉を詰まらせた。逡巡するような間があって、やがて顔には穏やかな笑みが浮かぶ。

「思いがけずユーリに会えて、ユーリの手料理が食べられて幸せだと思ってしまうのは…マミーに悪いな」




ご両親の寝室に続く襖を軽くノックする。
「はい」
「おばさん、有栖川です」
「どうぞ」
襖を一枚隔てているせいか、声にいつもの張りが感じられなかった。
「お休みのところすみません」
トレイ片手に襖を開ける。カーテンが閉めきられた部屋に煌々と蛍光灯の明かりが灯っていた。おばさんは布団から上半身を起こして、私に微笑む。パジャマ姿で化粧っ気もないせいか、顔色もあまり良くない。
「いいのよ。私こそこんな格好で恥ずかしいわ。
っていうか、せっかくの休日なのにニートたちの晩ご飯作らせちゃって、ごめんなさいね」
「構いません。
おばさん、何か食べられそうですか?お粥作ったので、もし良かったら」
私は畳に膝をついて、トレイごと彼女の枕元に寄せる。おばさんは、まぁ、と感嘆の声を洩らした。
「ニートたちには期待できない気遣いも難なくこなしてしまう…っ、ユーリちゃん、恐ろしい子!」
ガラスの仮面か。
「でも嬉しいわ、熱が下がってきてお腹が空いたところだったの。
ユーリちゃんにこうして接してもらってると…私に娘がいたらこんな感じなのかしらって思っちゃうわね」
うちは何しろ同じ顔の野郎ばかり六人だから、とおばさんは長い溜息をついた。
「ユーリちゃんに晩ご飯作ってもらうの、カラ松が頼んだのよね?」
「そうです。あ、カラ松くんを悪く思わないでください。私がしたいと思ってやったことで──」
「手料理を食べさせる仲なの?」
「はい?」
何か言い出したぞ。

「熨斗つけてカラ松あげるから、松野の名字もついでに貰ってくれない?」

私は笑顔を顔に貼り付けたまま固まった。外堀が自ら埋まってくる珍しいパターン発生。
「あら、ごめんなさい私ったら。
そうよね、今どき男側の名字を名乗る必要ないわね。婿養子でもいいんだけど、どう?
そういう問題じゃない。
「あの…」
「それが無理なら、簡単なお仕事頼まれてくれないかしら?婚姻届に名前書いて判子押すだけなんだけど
グイグイ来おる。なのに目は笑ってない。しかも彼女の物言いは、どことなくおそ松くんの強引さを彷彿とさせる。
ここは事実を説明しておかねばなるまい。私は両の手のひらを前に出して彼女を制した。
「私たち友達で、そういう関係じゃないですから」
あくまでも友人関係であることを強調して弁明しても、おばさんは落胆する様子もない。それどころか、朗らかに笑う始末だ。
「やっぱり?ヘタレで申し訳ないわ」
私の反論は想定内だったらしい。さすがは彼の母親というべきか。
「まぁ、そういうとこも可愛いんですけどね」
「あれで?」
「はい、あれでどうしてなかなか」
「痛いんじゃなくて?」
「痛いと可愛いは、カラ松くんの場合紙一重なんですよ」
私にとっては、だけれど。
「むしろ息子さんの貞操を狙っていて、こちらが申し訳ないくらいです」
私たちの関係性と私自身の胸の内を、母親である彼女に明かすのはこれが初めてだ。今までは挨拶に一言二言加えるか、六つ子の誰かと共にいる状況での他愛ないやり取りだけだった。
友人の母親と二人きりで込み入った話をするのもおかしな話だし、適切な距離感を計りかねていたところに今回の依頼である。

「いいのよ、気にしないで。残しておいても価値にはならないものだし」
息子たちの将来を悲観しているわけではなさそうだが、行く末は少なからず気を揉んでいるのかもしれない。
「そうですか?なら引き続き遠慮なく」
「双方にメリットのあるいい取り引きができたわね」
私たちはどちらともなく頬を筋肉を緩めて、ふふ、と笑い合った。




夫婦の寝室を出て階段を下りた先で、カラ松くんが私を待っていた。
無言で手招きされて側に寄れば、彼が一段目に腰を掛けるのでそれに倣う。狭い階段に横並びで座ると、膝が触れ合うほどに距離は近くなった。
「ご飯は食べ終わったの?」
「ああ、ブラザーたちのがっつきは凄まじかったぞ。一瞬で皿が空になったし、から揚げに関しては奪い合いになった」
そう言うカラ松くんも奮闘したらしい。目尻に青あざができているし、腕には引っかかれたような真新しい傷がある。
「やはりユーリの料理スキルは卓越しているな、何を作っても最高に旨いのはジーニアスだ」
カラ松くんは悩ましげに額に手を当てる。いいぞ、もっと褒めろ。
「もうすぐ帰るだろう?家まで送っていく」
「うん、好意に甘えちゃおうかな」
明日は仕事だから早めに暇を告げなければ。
六つ子たちに食べさせることしか念頭になったから、自分の取り分を失念していたことに今更気付く。帰り際にコンビニで適当に買おう。

「今日は、その…助かった。サンキュー、ハニー」
照れくさそうなその笑み一つで、私の疲労感は瞬く間に消えてしまいそうになる。
「どういたしまして。おばさん、お粥食べられそうだって。冗談言う元気も出てきたみたい」
「そうか…良かった。ユーリが来るとマミーはいつも楽しそうだ」
ニートを一人厄介払いできる可能性を秘めた相手だからだろう。
「男所帯だから、娘がいたらこんな感じなんだろうなって言ってたよ」
「む、娘…っ!?」
素っ頓狂な声が上がる。
「は、ハニーは…どう思った?」
「条件次第では悪くない話かも、ってとこかな」
「条件とは」
やたら気にしてくるやん。
「提示してもらえたら検討する」
「曖昧すぎないか、それ。せめてこう、最低条件くらいは…」
「私にどれだけの価値を感じてもらえてるかを知りたいの」
「価値、か…」
ふむ、とカラ松くんは腕を組む。
「小国の国家予算くらいは資金が必要じゃないか?」
目がマジだ。
「そんなハニーを電話一本で呼びつけてしまうオレは、やはり生まれながらにしてのギルドガイ」
己に陶酔するポーズが決まったところで、カラ松くんは改めて眉根を寄せて唸った。
「ごめんごめん、冗談。そんな悩まないで」
悩ませるつもりはなかったのだ。有耶無耶のまま切り上げようと私が声を発したら、あ、とカラ松くんは顔を上げた。
「いや、待てよ。だとしたら合点がいく」
「ん?」

「ユーリに会ったり、声を聞いたりするだけで嬉しいと感じるのは、そもそもオレにとってはユーリの価値が高すぎるからなんだろう」

どこまでも真剣な眼差しだった。
歯の浮くような台詞なのに、それが本心で語られていると分かるから、受け流すことができない。どう返事をすればいいかさえ、見当がつかなくなる。
「あいつらの目を盗んで二人きりで話をしている今この瞬間なんて特に、だ」
どこか妖艶に微笑まれて。
「え…尊い」
思わず口走っていた。何これ、何この人。尊さとエロスを兼ね備えた完全体。鎖骨をがっつり覗かせた姿で私に接近してくるとは、これが無自覚誘い受けってヤツか

「カラ松くん…」
「どうした、ハニー?」
「このシチュエーションの背徳感とカラ松くんの際どい露出で、私の性欲がヤバい」

ジャッと音を立てて勢いよくファスナーが上げられた。

「こらこら、上げるな」
「む、無茶言うなっ」
カラ松くんは後ずさり、胸元で腕をクロスさせて防御の体勢を取る。こういう時の瞬発力は天下一品だ。
「何もしないよ」
「オレが抵抗しなかったらチャック下ろしてくるだろ!」
よくお分かりで。
「目のやり場に困る格好しておいて何を今さら」
拒否の姿勢を示してはいるが、拒絶には到底至らない弱々しいものだ。私は彼の脱走を防ぐために壁に片手をついた。いわゆる壁ドンと表現される行為である。
反応を窺いながら顔を近づけると、カラ松くんは一層体を縮こまらせていく。
「わあああぁああぁぁっ、な、何を…っ!?」
「ちょっとカラ松くん、声が──」
叫び声は狭い階段に反響する。
階段のすぐ近くには、食事を終えて寛ぐ六つ子たちがいるのだ。私と彼らを隔てるものは防音機能など皆無に等しい襖が一枚あるだけで。

「何なに、カラ松何の叫び?」
案の定、おそ松くんたちが怪訝そうな顔で廊下に飛び出してくる。
彼らの目に飛び込んでくるのは、両手で己の身を守る半泣きの次男と、壁に手をついて迫る私の姿。状況は語るまでもなく歴然だ。
「チッ」
「え、何で僕らユーリちゃんに舌打ちされたの」

「ユーリちゃん、カラ松に手出すならせめて外でやって」
ビール片手のおそ松くんが、手首のスナップを効かせて興味なさげに振り払う仕草をする。
「ブラザー!?」
珍しく長男の許可が下りたと私も驚いていたら、二階の襖が開く音がした。
「そうよカラ松、女の子に見せろと言われているうちが花よ。減るもんじゃなし」
おばさんが仁王立ちで私たちを見下ろす。今まさに襲われようとしている息子に投げる台詞ではないが、味方につけば心強い相手であることを痛感させられる。松代、さすがは松野家の実質の支配者だけのことはある。
「マミーまで…っ」
「エイトシャットアウトだね、カラ松くん」
「人の台詞を取るんじゃない!」

その後はというと、私とカラ松くんによるお決まりの攻防があって、私が帰るまでカラ松くんがツナギのチャックを上げっぱなしだったのは言うまでもない。

短編:その言葉を告げるのは

※おそ松さん3期5話「まぁな」に関するネタバレがあります。
※管理人が恥ずかしくなったら非表示にする可能性があります。




兄弟間における看過できない事件が、もうずいぶんと前に松野家の縁側で勃発したことがある。酔った十四松くんからそう耳打ちされたのが、事の始まりだった。

居間で開催されていた、管を巻くためだけのグダグダな飲み会が始まって一時間ほど経った頃のことである。
トイレから部屋に戻る帰り、廊下から吹き付ける冷たい風を不思議に思って出処を突き止めるために進んだら、窓の開け放たれた縁側に辿り着く。サンダルも履かずに腰を下ろして、カラ松くんが空を見上げていた。
「カラ松くん」
「…何だ、ユーリか」
カラ松くんが目を細める。
眼前にはウッドフェンスというよりは昔ながらの木製の堀に囲まれた小さな庭。無造作に生えた雑草がそよそよと風に揺られている。古き良き民家の佇まいだ。
「サボり一名発見伝。隣、座ってもいい?」
「構わないが…寒くないか?」
「寒い。酔ってるから特に。ちょっとしたら部屋戻るよ」
首を竦めたり手を擦ったり、さらには鼻をすすったりと、目に見えて寒いアピールをする私に戸惑いつつも、カラ松くんは部屋に戻れとは言わなかった。
私も私で、わざわざ彼の隣に腰掛けたのには理由がある。


「カラ松くん、薬局のお姉さんに告白したことあるんだって?」

前置きもなくストレートに放った私の揺さぶりは、彼に大きな打撃を与えたようだった。カラ松くんは目を剥いて硬直する。寒さ故ではない手の震えから、動揺が手に取るように伝わってくる。
「ブラザーたちめ、余計なことを…っ」
それからカラ松くんは長い溜息と共に、覆うように片手を顔に当てた。兄弟の軽率な発言に、呆れ果てたとばかりに。
「聞いてみたかったなぁ」
しかし続く私の言葉は予想外だったらしく、え、と彼は声を上げた。
「どうして…」
「ん?」
「どうして、オレが彼女に告白したのを聞いてみたいんだ?」
困惑と期待が混同したような、限りなく複雑な面持ちでカラ松くんが私を見つめた。推測できない不安も、その表情からは垣間見える。
「いやだって推しの本気の告白とか、レア中のレア、激レアボイスにも程がある。推させていただく側としては聞きたくて当然じゃない?
こんなイケボに告白されて振ってくる相手の気が知れない。まぁ、話を聞く限りだと、相手の人は個人として認識してさえなかったかもしれないけど」
トド松くんと見分けがついていたのかさえ、今となっては不明だ。
「あ、でも…カラ松くんの気持ちを茶化してるわけじゃないよ。変な言い方になってごめん。トド松くんと争うくらい、真剣だったんだもんね」
私の言葉に、カラ松くんは顔をしかめた。彼の真摯な想いを穏やかに受け止める意向が気に食わないと、その表情は物語る。
「何ていうか、さ」
私は苦笑して、組んだ両手を前方に伸ばした。
「結末が分かってる告白だから聞いてみたい、っていうのかな」
どう表現すれば語弊なく伝わるのか、酔いが回った頭では考えがまとまらない。けれど、口にしたことに責任は持たなければと思う。それが例え、拙い言葉でも。
「ユーリ…」

「結果が分からない未確定な未来のことなら、あまり聞きたくないんだよね」

サイコロの目がどう出るか分からないなら、僅かでもチェス盤がひっくり返る可能性が残されているなら、なおさら。
カラ松くんの意思が強固であればあるほど、彼からひたむきな熱量を向けられる相手と、私は向き合えるのだろうか。推しに推しがいるとか状況がシュールすぎる。申し訳ないが想定外の案件だ。

「その心配は杞憂だ、ユーリ」
優しく、カラ松くんが微笑む。
「え…」

「これから先、オレが他のレディに告白するなんてことは絶対にない」

迷いなく、言い放つようにして断言される。襖の奥から絶えず漏れ聞こえていたおそ松くんたちの賑やかな声が耳に届かなくなるほど、私の意識の全てがその瞬間、彼に向いた。
「すごい自信だね」
「だろ?だから安心してくれ…と言ってもいいのかどうかは分からないが」
カラ松くんは苦々しく笑って、指先で頬を掻いた。
ううん、と私は緩く首を振る。
「安心した」
「…そうか」
満足げな声を聞きながら、私は笑みを浮かべて目を閉じる。道路を走る車のエンジン音、室内から漏れてくる五人の騒々しい声、微かな虫の音、全ての音が耳に心地よい旋律を奏でる。




静寂を破ったのは、カラ松くんだった。
「フーン、何だハニー、ひょっとしてジェラシーか?」
顎に手を添えて、悩ましげにカラ松くんが唸る。大袈裟に足を組み替える仕草を見るに、からかう余裕くらいは戻ってきたらしい。
「ジェラシー…なるほど、うん、それはあり得る」
「えっ!?」
自分で言っておきながら驚くな。

「だってさ、一生にそう何度も言うことはないと思われるその台詞、薬局のお姉さんだけが聞いたんでしょ?
やっぱり聞いてみたい気持ちはあるなぁ」
ズルい、と表現するのはいささか不本意だが、その感情に近いものはある。
「…すまん。いくらユーリの頼みでも、それは聞けない」
カラ松くんは即座にかぶりを振った。拒否の姿勢は至極当然なもので、毅然とした態度はむしろ好印象だ。なのに、なぜか彼は心苦しそうな顔をする。
どうして。私がその問いを投げるより先に、カラ松くんが続けた。

「演技や嘘で、ユーリにその言葉を言いたくない。それにあれは、ユーリ以外のレディに向けたものだ。
どうしても聞きたいのであれば……そうだな、その…もう少しだけ、猶予をくれないか?」

見え隠れする戸惑いと、気恥ずかしさ。頬が赤いのは、アルコールに酔ったせいでだけではない。
そして私自身、その言葉が意味することが分からないほど鈍くもない。

「もう少しってどれくらい?」
「もう少しはもう少しだ」
「具体的に」
「それが答えられれば苦労しない」
開き直りやがった。
カラ松くんは言いながら苦虫を噛み潰したような顔をする。チキン松は今日も今日とてチキン松度合いを絶賛更新中。うん、まぁそうだよね、知ってた


「今もお姉さんはその薬局で働いてるの?」
「そうらしい。あれからは気恥ずかしくて寄ってないが、チョロ松が言うには変わらず元気そうにしているそうだ。
ただ、あの時はこう…トド松の手前、勢いもあったし…何というか、一番浮ついた時期だったというのもあって───」
「駄目だよ」
私はカラ松くんの唇に指を当てて、彼の言葉を遮る。
「結果としては上手くはいかなかったけど、お姉さんのことが好きだったっていう気持ちを茶化すのは、自分にも失礼だよ。だから、駄目」
「ユーリ…しかし、オレは…」
そんな気の使い方は間違っている。少なくとも私は、そう思う。

不意に、ガラリと襖が開いた。
「えっ、ユーリちゃんもカラ松もこんな所で何やってんの?っていうか寒っ、激寒なんだけど!」
顔を覗かせたのはチョロ松くんだ。
「カラ松、お前がしっかりしなきゃ駄目だろ。ユーリちゃんも酔ってんだから、風邪ひいたらどうすんだよ」
「その時は通って看病する」
しれっとカラ松くんが答えるや否や、チョロ松くんは鼻白む。
「ノロケを聞かせろなんて言った覚えはない」
うちの推しがすいません。
「ごめんごめん、私が引き止めちゃったから。確かに寒いね、すぐ戻るよ」
「そうしなよ。薄着でそんなクソ寒い所にいたら駄目だからね」
ああ寒い寒いとチョロ松くんは両手で自分を包み込み、部屋に戻る。ぴしゃりと襖が閉じられた。




二人きりの空間は、程なくして終焉を迎える。私は冷えた指先で、自分の鼻を擦った。トレーナー一枚の薄着でこれ以上吹きさらしの縁側にいたら、それこそ熱が出てしまいそうだ。
「お姉さんももったいないことするよね。カラ松くん──こんなにいい男なのに」
彼女が断ってくれたからこそ今の私たちがいるから、礼を述べるという方が正しいのかもしれないけれど。
「奇遇だなハニー。オレもまったく同じことを思ったことがある
しまった、ナルシストを調子づかせただけだった
「でも今は、ハニーの元カレに対して同じことを思ってる。ああ、いや…厳密には違うか。別れてくれたから、オレとこうして会ってくれるわけだしな」
私たちの出会いは必然だったとまではさすがに言わないが、数多の経緯を過ぎて辿り着いた結果だ。
カラ松くんは一息ついて、改めて私を見やる。重なった視線は、どこまでも優しい。

「──ハニーは綺麗だ、とても」

不意打ちの囁きは卑怯だ。
「な、何か…面と向かって言われると照れるね」
私は照れくささを誤魔化すように笑って、カラ松くんから目を逸らす。

でも。
「薬局のお姉さんにはその他大勢でも、カラ松くんは私にとっては特別」
それは揺るぎない事実だから。
「オレもだ。オレだけだと自惚れさせてくれるユーリに出会えて、良かった」

夜風は冷たさを増して、私たちに容赦なく吹き付ける。さすがに大きなくしゃみが出た。
「そろそろ戻ろっか?みんな待ってるよ」
「寒いか?」
「寒いけど、まだ何とか平気」
「なら…ブラザーたちが待ちきれなくなるまであと少し、ここにいないか?」
膝を立てて離席しようとした私の服の裾を、縋るようにカラ松くんが掴む。そんな可愛いことされたら、戻れないに決まってる。
え、ほんと何なのこの誘い受け次男。ここが冬の縁側じゃなければ青姦待ったなしでめちゃくちゃに抱いてやるところだぞマジで。
座り直したら、カラ松くんが私の肩にもたれかかってくる。これ普通逆じゃね?なんてツッコミはもはや意味を成さない。

手がぶつかって、反射的に引っ込めようとしたら、カラ松くんに奪われる。
「…みんなに見つかったら怒られるんじゃない?」
「ノープロブレムだ」
カラ松くんは笑う。
「部屋の中からは見えない」
私たちの密着した背中が壁になって、襖を開けたところで手元は見えない。カラ松くんは握った私の手を、宝物を扱うみたいにそっと自分の膝の上に置いた。
「──な?」
ふにゃりと相好を崩して、眉が下がる。
数え切れないほどの記憶の破片や断片的なイメージが頭の中でぐるぐると駆け巡り、正常な思考が乱されていく。彼の頬が赤いのも、繋いだ手がやたら温かいのも、きっと酒のせいばかりではない。酔いを言い訳にするのは大人の特権だが、いい加減卒業しなければ。

まぁ例に漏れず、僅か数秒後に暇を持て余した五人組から催促が来て、強制終了させられるんですけどね。狙ったかのようなタイミングは、もはや様式美にも等しい。聞き耳でも立ててるんじゃなかろうか。


けれど──カラ松くんの口からその言葉を聞く日は、そう遠くなく訪れるのかも知れない。
そんなことを思ってしまった私は、こういうのを自意識過剰というのだろうと、密かに嘲笑した。

短編:線香花火を公園の片隅で

「この線香花火、ユーリちゃんにあげる。俺らはもうやらないからさ」
おそ松くんはそう言って、ビニール袋に無造作に入れた線香花火を私に押し付けた。

六つ子の部屋の隅で白いビニール袋を見つけたのが、事の始まりだ。
ゴミでも捨て忘れているのかと中を広げてみると、未使用の線香花火が未開封の状態で放り込まれていた。小分けになったそれが、花火セットの一部であると察するのに時間はかからなかった。
「あー、それね、うん、残ったヤツ。
ほら、線香花火ってアレじゃん?何ていうかさ、花火でアゲアゲになったテンションを容赦なく地の底に落としてくる地獄の使者感ある。俺らの性に合わないんだよね」
たまたま二階に上がってきたおそ松くんに理由を尋ねたら、そんな返事が返ってきた。
「変に感傷的になるから嫌っていうか。クソな自分をまざまざと見せつけられる感じ
しかしわざとらしく唇を尖らせるおそ松くんの表情からは、深刻さはまるで見受けられない。向き合うのではなく拒絶を選択するあたりも、筋金入りのニートなだけはある。
「そっかぁ。線香花火、結構楽しいと思うんだけどな」
「そう?ユーリちゃんが欲しいなら、持って帰っていいよ」

そうして、冒頭の会話に至るのだった。




「ハニー、どうかしたか?」
部屋に入るなり、カラ松くんは私に問いかける。
おそ松くんに押し付けられた線香花火をどうすべきかに思案を巡らせていたら、彼が二階に上がってきたのだ。ビニール袋を広げて立ち尽くす私の姿は、さぞ滑稽に映っただろう。
「あ、うん。おそ松くんから線香花火貰ったんだ」
「線香花火?…ああ、ブラザーたちと家でやった残りか」
私の手元を覗き込んで、カラ松くんは頷く。
「フッ、ジュエリーさながらの神々しい輝きを放つオレに儚さは似合わないからな。派手に散る姿こそ相応しい」
腕組みをして悩ましげに息を吐くカラ松くん。要は、長男同様に線香花火は好みではないという意味合いのようだ。
「カラ松くんもかぁ。一緒にやろうって誘おうと思ったけど、その様子なら他の友達を──」
「やる」
「へ?」
ちょうどハニーを誘おうと思ってたところだ。こういうとこまで気が合うとは、やはりオレとユーリは以心伝心だな、マーベラス!」
息を吐くように嘘ついてきた。
華麗に鳴らした指先を私の眼前に寄せて、キメ顔になる。ツッコむのは面倒なのでスルーさせていただこう。
「おそ松くんたちは誘わない?」
「ユーリの誘いなら喜んで来るだろうが…」
言葉を濁しながら、カラ松くんは自身の首筋に手を当てる。

「できれば…今年最後の花火は、ユーリと二人でしたい」

推しの一撃必殺きた。
恥じらう顔本当たまらん、マジ何なのその無自覚な色気。これでノーと言える奴がいたらそのツラ拝んでみたいわ、私には無理ゲー




次の週末、私が住むマンション最寄りの公園で、今年の夏最後の花火を嗜むことにした私たち。
迎えにきたカラ松くんの服装が藍色の甚平という本格的サマーエンジョイスタイルだったため、いつもの出で立ちだろうと油断していた私は先制攻撃を食らう羽目になる。ご褒美ありがとうございます。
「ハニーはワンピースも似合うな。さながら、サマーを司るフェアリーのようでソーキュートだぜ!」
そして私のマキシワンピを恥じらいもなく褒めて持ち上げてくる。カタカナ多すぎて何言ってんだこいつ状態だが、まぁいい。
「カラ松くんも甚平似合ってるよ。お互いに夏って感じでいいね」
「夏という舞台の千秋楽を盛大に祝うための正装だぜ」
その考え方には好感が持てた。終わりゆく一つの季節を惜しむのではなく、華々しく終焉を見届ける。再び舞台の幕が上がる、その時まで。
そういう観点から言えば、私が持つ線香花火は、千秋楽を祝う花束と例えることもできるかもしれない。

貰い受けた線香花火の数は、本数に換算すると悠に数十本を超えた。一般的に売られている花火セットの中に、十本単位で一つか二つは大抵入っているから、二、三セットも買えばあっという間にそれなりの本数になる。
「記念の一本目はハニーに譲ろう」
街灯の明かりに照らされた薄暗い公園のベンチ前。
地面に片膝を立てて、カラ松くんはライターに火をつけた。私は向かい合うように屈んで、線香花火を指先から垂らす。先端に火が灯り、先端の明かりはか細く震えながら丸みを帯びていく。静寂が辺りを包み、私たちも自然と言葉数が少なくなる。
「線香花火ってさ、おそ松くんが言うように確かにすごく地味だけど…綺麗だよね」
パチパチと音を立てて閃光が散り始める。線香花火の勢いが最も強くなる瞬間だ。
「ユーリの方が綺麗じゃないか?」
私を真っ直ぐに見つめて、カラ松くんは真剣そのものの顔で言い放つ。
「今そういう話してない。でもありがとう、もっと言って───じゃなくて」
「オレは本心でそう思ってる」
真顔で畳み掛けてくるな。もうやだこの童貞。
手にしていた線香花火は丸い火玉が燃え尽きて、ぽたりと地面に落ちた。

「線香花火は人生を表現してるって話、知ってる?」
「…いや」
二本目に火をつけながら、彼は不思議そうに私に顔を向ける。
「線香花火って燃え方に段階があるでしょ?
それね、それぞれ名前がついてるの。順番には起承転結もあって、人生に例える人もいるんだよ」
私も最近知ったんだけどね、と付け焼き刃の知識であることを告げた上で。
火薬を包む紙縒りは、私の指先でそよ風に揺れる。
「最初に丸い玉ができるのは、生命の誕生を表す『牡丹』。この丸い形が牡丹の花みたいだからなんだって」
「へぇ」
「激しく火花が散る間は『松葉』だったかな。一番活気や体力がある二十代から三十代くらいのこと」
「就職や結婚、人によってライフステージが変わり始めたり、転機が訪れる時期だな」
なるほど、と言いながらカラ松くんは線香花火に見入る。
足元を照らす輝きと活気のある音は徐々に勢いを失い、終わりを告げる影がちらちらと見え始める。
「これは『柳』で、年を取って落ち着いてくるイメージ。柳の木みたいに垂れてきてるからそう言われるみたい」
「…最後は」
「最後は『散り菊』」
糸の先端にしがみつくように形作られた丸い玉が、やがて色を失い、燃え尽きて、地に落ちる。
しばし無言で、私たちは地面に落下した線香花火の亡骸を見つめていた。


「ハニー、勝負をしよう」
唐突にカラ松くんから持ち掛けられたゲーム。屈む姿勢に疲れて二人して立ち上がった時のことだった。
「勝負って?」
「なぁに、簡単なことさ。どちらが長く線香花火を保たせられるかを競うんだ。
普通に線香花火をするのもオツだが、フィナーレに一風変わったことをするのも記念になると思わないか、ユーリ?」
に、とカラ松くんは白い歯を覗かせて笑った。勝敗は運に任せるしかない、よくある他愛ない勝負内容だ。
「いいよ、受けて立つ。でも同時に火つけられる?」
ライターは一本しかない。
「オレの方を先につける」
「まさかの自殺行為」
「じさ…え?」
「完全に運ゲーの線香花火耐久ゲームで、自分の方を先につけるだなんて自死以外の何ものでもない、正気を疑う。勝とうという意気込みはないの?」
目をひん剥いて諭す私に対し、カラ松くんはフッと鼻で笑ってから前髪を掻き上げてみせた。

「ノンノン、あまり侮らないでくれハニー。オレが勝機なしに挑むわけがないだろう?」

自信ありげに薄く微笑まれる。イケボで煽ってくるの止め…いや構わん、もっとやれ、遠慮はいらない。
勝率は五割。まぁまぁと宥められながら私は線香花火を受け取った。ビニール袋に目をやれば、数十本とあった花火もいつの間にか底をついている。
線香花火も、私たちの夏も、終わりがもう間近。


勝利の女神は──カラ松くんに微笑んだ。
先に火をつけたとは思えないほどの圧倒的な差を見せつけられる。私の線香花火の火が消え落ちた後も、彼のものはまだじりじりと小さな火花を散らしていた。
「…カラ松くん、何か細工した?」
「どう細工するんだ。袋の中身は今日までハニーが持っていたし、オレはライターと財布しか持ってきてない」
カラ松くんは両手を広げて自分の無罪を主張する。
「──しまった!何を賭けるか決めるのを忘れていた!オレとしたことがっ」
広げていた両手をわなわなと震わせて、彼は悔しさを滲ませた。前後の言動に疑わしい点が見受けられない上に、口惜しそうな素振りは演技とも思えない。
「じゃあ、本当に運だけで…?えー」
疑いの眼差しで彼の線香花火を見つめる私に、カラ松くんは声を上げて笑った。
「はは、すまん、ユーリ。こんなに上手くいくとは思わなかった。実は──種も仕掛けもあるんだ」
ビニール袋には最後の一本が残っていて、カラ松くんはそれを取り出すと共に、人差し指を口元に当てておどけたポーズをする。

「種明かしといこう」
まるでマジシャンのようだと、私はぼんやり思う。

「最初に火薬の上を捻って紙縒りを強くすると、玉が落ちにくくなるんだ。それから火をつける時は斜め四十五度くらいの角度にする。
ネットで見た時は半信半疑だったんだが、意外に効果があってオレ自身驚いた」
私の手に持たせて、ジェスチャーで指示をする。彼の手の動きに倣って再現するのに五秒もかからなかったから、勝負を持ちかけた際に私に気付かれず細工を施すなど、容易かったに違いない。
「もう少し下を持って傾けられるか?──そう、これくらいだ」
向かい側からカラ松くんが私の手に自分の手を重ねて、二本指でつまむ場所を示す。汗ばんだ皮膚が触れ合うと、いつもより密着しているような錯覚さえして。
静寂と緊張と感傷が入り混じった空間で火が灯る線香花火。火玉が落ちるまでがやたら長く感じたのは、長持ちさせる仕掛けを施したからだけではない気がした。

「詐欺じゃん?」
「気付かなければ詐欺でも出来レースでも何でもない、巧妙な手口と呼んでくれ
「完全に詭弁」
「うん、まぁその、何だ…そうまでしても勝ちたかったってことだ。賭けるのを忘れてしまって本末転倒なんだが」
最後の一本が、消火用のバケツに音もなく落ちる。
「何がお望みだったの?チビ太さんの屋台で晩酌奢りとか?」
「そうだな…」
少し戸惑う素振りがあって、やがてカラ松くんは目尻を朱に染めながら目を細めた。

「来年もこうしてオレとユーリで花火をする、とか」

私は開いた口が塞がなかった。だって、だってそれは───
「何、そんなことでいいの?」
「え?」
「そんなの、賭けるまでもないよ。来年も一緒に花火やろう」
口実なんてなくたって、断る理由はない。
「…ユーリ」
「約束」
「ああ…プロミスだ。来年も花火をしよう──二人で」
私たちは屈んだまま指切りをする。
ありふれた約束事のはずなのに、まるで秘密を共有するような、犯した罪を隠蔽するような背徳感に、背筋にぞくぞくしたものが走った。人気のない夜の公園という特別なシチュエーションもまた、湧いた感情を増幅させる。




使用済みの線香花火が浸かるバケツを掲げて、私たちは立ち上がる。
「ハニー…さっき、夏が終わらないでほしいって言ったことなんだが」
ワンピースの裾に砂が付着していないか確認していた私に、カラ松くんが声をかけてきた。
「うん?」
「だからといって、同じ夏を繰り返したくはないんだと、言った後に改めて思ったんだ。歳月が経てば少しずつ色んなことが変わっていく。それは正直不安だが…」
カラ松くんの黒目が揺れる。口にすることに多少の躊躇があるようだった。
「去年までなら、同じ夏を繰り返したいと迷いなく思ったはずだ。
どうせ季節関係なく自堕落に過ごすだけで、就職も自立も正直面倒くさい。だから何も変えず、未来には何の夢もない、その日暮らしでおっさんに近づくのみ。むしろ寄生先のなくなる不安だけが──んー、自分で言ってて何だが、なかなかヤバイな
「ヤバイね」
「まぁ、とにかくそんな夢も希望もない感じだった。ただ、今は…」
目が合って、穏やかに微笑まれる。

「ユーリと新しい思い出を増やしてきたいと、心から思ってる。そのためには多少のリスクも負うし、いつかは必ず、何だ…その…」
私は黙って続きを待つ。気安く口を挟んではいけない雰囲気だったからだ。

「──未来も、ちゃんと…考える」

誰との、または、何の。
明言を避けながらも、真摯な想いは言の葉に乗って私の耳を抜けていく。

「だから、遠くに行ってしまわないで、側で見届けてくれ…ユーリ」

「カラ松くん…」
ここまで言い切れるのに、決定的な言葉だけ断固として言わないのはマジで解せぬ。ヘタレここに極まれり。
しかしそんな本心はひた隠しにして、スナップを効かせた拳を顎に添える私。
自分の言葉に責任が持てる範囲を理解しているというか、無責任な言葉を吐かないように努めているというか。

期限を明確に定めない辺りは、及第点には遠く及ばないけれども。
ああこの人は、私には本当に真っ直ぐ向き合いたいんだなと思ったら、くすぐったくてたまらなくなった。

短編:どっちがエロいか花いちもんめ

「エロいは断然カラ松くん!」
「いいや、絶対ハニーだ!悪いがこれは譲れないぞ!」

夏は真っ盛り。喧騒と呼べるほどの蝉時雨をBGMに、私とカラ松くんは松野家縁側で対峙する。
「ちょうど良かった。いつかは腰据えて話をしなきゃと思ってたんだよね」
「望むところだ。いい加減、男としての威厳を取り戻さないとな」
ゆるゆると首を振って前髪を掻き上げる私に対し、カラ松くんは腕を組んで不敵に笑う。
「オレとユーリ──どちらがエロいか結論を出そう!」

こうして、最高にどうでもいい、誰得な決戦の火蓋は切って落とされたのだった。


夏は、一年の中で最も薄着になる季節だ。うだるような都会の蒸し暑さに、全身から汗が吹き出る。
季節に関わらず肌の露出を厭わないカラ松くんは、バッククロスの黒いタンクトップに短パンという出で立ちで、本日も例に漏れず肌色率が高い腕を上げた時の脇チラはもとより、腰から尻にかけてのラインは卒倒ものだ。総じて、エロい。
「言うまでもなく夏場のカラ松くんはさ、エロスの化身なんだよ」
「例え方」
「まず全体的に露出度が高い。その上、ただのタンクトップじゃなく、背中の筋肉を見せつけるかの如きバッククロスタンクトップ。露出自体は僅かに上がっただけだけど、僧帽筋と上腕二頭筋のコラボは眼福の極みだよね」
息継ぎなしで捲し立てる私に、カラ松くんは早々に動揺を隠せない様子。見つめ合った目を逸らしたのは、彼が先だった。
しかしすぐさま体勢を整え、負けじと応戦する。
「ノンノン、ハニーの妖艶さには敵わないぜ。
ユーリが着ているオフショルのブラウスは、童貞御用達の分かりやすいノースリーブとはまるで違うエロさだ。肩の開きが二の腕に達するのは、さすがにセクシーが過ぎるんじゃないか?んー?」
カラ松くんは私の肩に向けて指を突きつける。肩の開きが大きいオフショルダーのトップスに、丈の長いワイドパンツが、今日の私の服装だ。
「両肩が出でいると、その下を想像するときの難易度が格段に下がるんだぞ、ハニー」
しれっとセクハラ発言。なるほど、松野家次男もこの議論に本腰を入れてきたというわけか。相手にとって不足なし。


いずれにしても露出が増える時期だ。服装だけで結論を出すべき内容でもなし、言及するのはこの辺にしておこう。
「そもそも、狙ったセクシーさとか色気の押し売りは、眼福だけどそそらないんだよね。健康的な色気を放つ人は健全だし、見てる側の目の保養にもなるし一石二鳥って感じ。『そんなつもりなかったのに』感がたまらない
「ウェイトだ、ユーリ。それはユーリの主観だ。
今回の論点は、一般的観点で見てユーリがエロいか俺がエロいかでいいんだよな?」
カラ松くんが片方の眉を上げて、異議を唱える。
「議論前に目的を明確にする姿勢は素晴らしい。ファシリテーター向いてるんじゃない?」
「おだてて陥落しようったって、その手には乗らないぞ。今のオレはハニーの敵対者だ」
腕組みをして毅然と言い放たれる。
響き渡る蝉の声が、まるで私たちを鼓舞するかのように一層音量を増したように感じられた。
「へぇ…いいね、その反抗するような目」
可愛い、と小さく呟けば、カラ松くんはぴくりと眉を揺らしたが、唇を引き結ぶ。今の攻撃は耐えたようだ。

「カラ松くんはそういう点で適合者なんだよ。
露出が過度な時はあいにく食指は動かないけど、普段の適度な肌見せはあくまでも自分のためっていうのがいい。そのくせ、いざじろじろ見られると恥じらうその姿や良し!これが正統派のエロさってヤツでしょ!?」
「ま、待て!まだ議論の目的が明確化されてな──」
「格好いいと可愛いがユニゾンして、雄みのある色気と天然なエロスがどっちも楽しめる松野カラ松、お得物件すぎる」
反論を許さず畳み掛ける私。
「そう思ってるのはユーリだけだ!」
「そんなことないっ」
私は大きく首を横に振った。

「そうだよね、みんな!カラ松くんってエロいよね!?」

私が視線を向けた先には──カラ松くんを除く松野家の六つ子たち
同じように縁側に腰掛けていたが、それぞれが無言で遠い目をしていたところに突如私から声が掛かり、揃って肩を強張らせた。こっち見んなオーラが半端ない。
「え…ちょっとどうすんの、こっちに振ってきたよ」
「気配殺してたのに巻き込まないでほしい」
「史上最高峰にどうでもいい」
チョロ松くん、十四松くん、一松くんが立て続けに議論への参加を拒否。トド松くんに至ってはおもむろにスマホを手に取り、気付かなかったフリを装う。
残ったおそ松くんが彼らの総意を代弁するように、長い溜息と共に私に顔を向けた。
「うんそうだね、ユーリちゃん。カラ松の方がエロい──って、言うと思う?
「ごめん、言ってから後悔した」
テンション任せの発言は控えた方が良さそうだ。私は素直に謝罪する。

「客観的に見たら、もしかしたら万一にも、カラ松の方がエロいって結論が出るかもしれないよ?
でもさ、同じ顔で同じ背丈で年がら年中お互いの裸を見慣れてる俺らにそれ聞く?
これでカラ松って答えたら、とんだナルシスト集団だよ
「ごめんって」

「俺らは、ユーリちゃんの方がエロいって言うに決まってんじゃん」
淡々とおそ松くんが結論を述べる。
その言葉を聞いた次男坊は、我が意を得たりばかりに俄然目を輝かせた。
「よく言ったブラザー!民主主義では、マジョリティの意見こそジャスティス!」
片手で大きく薙ぎ払う仕草をして、カラ松くんは勝ち誇ったように言い放つ。
「炎天下で汗の滴る柔らかな肌、二の腕と足首から下の一般的な露出だけでも、童貞にはご褒美でありチェリハラと言っても過言ではない!さらにハニー自身は今の自分を何とも思ってないだろうが、両肩が出ることで強調される鎖骨とうなじは普通にエロい!
カラ松くんが力強く演説する後方では、六つ子の何名かが同意するように首を縦に振った。拍手をする者まで出る始末。
「童貞にとっては、夏場のハニーというだけで刺激が強すぎるんだ。健康的なエロス?それはユーリの方だろう!?」
「あい!カラ松兄さんに一票!」
ついに十四松くんが挙手をして声を上げた。外野は黙っとけ。
「それをキュートなスマイルでパーソナルスペースにぐいぐい入り込んでこられたら、勘違いするのが自然の摂理だろう?何しろこっちは絶賛童貞更新中の身だ!」
苦悩の表情でフッと息を吐き、耳にかかる髪を掻き上げる。
無自覚な露出と接近は童貞にとって劇薬と認識すべきだぞ、ハニー!今年の夏、袖の短い半袖の脇チラで、オレが何度前屈みになったことか!」
ここぞとばかりに個人的な遺恨を叩きつけられた。
「そんなの知ったこっちゃないよ。っていうか、それ女の人全般に言えることで、私関係ないよね?」

「オレはユーリだけだ!」

一瞬、世界が時を刻むのを忘れたかと錯覚した。けたたましい蝉の声さえ、確かにその瞬間、私の耳には聞こえなかった。雄々しい彼の顔と、真正面から目が合う。
そして直後、カラ松くんはハッと我に返ったかと思うと、顔を赤く染め上げた。
「あ、あの、これは違…ッ。いや、違うわけでもないが、ええと…」
しどろもどろになって目が泳ぐ。心なしかじわりと涙が浮かんでいる。
どちゃくそシコい。
これがエロくなくて何がエロいんだ、教えて偉い人

「やっぱカラ松くんが圧倒的にエロい。トップオブエロスを名乗っていい、国民を代表して私が許可する
にじり寄って、カラ松くんの腰に両手を添える。口角が上がるのを抑えられない。脳みそが沸騰したみたいで、視界が揺れる。
「…ッ、ユーリ…!?」
布越しの感触に、カラ松くんはびくりとして反射的に腰を引こうとするが、触れた指に力を込めて僅かな拒絶も許さない。
「え、ちょっ、ハニー何を──」
「それじゃ、僕らそろそろ暑さ限界だから居間に戻るね」
「母さんが買ってきてくれてるアイス食べようよ。ボクもう汗ドロドロで限界」
カラ松くんを除く六つ子たちは、口裏を合わせたように一斉に立ち上がり、クーラーの効いた室内に戻ろうとする。
「ユーリちゃんも程々にね。アイス溶けちゃうから」
「うん、分かったよ、トド松くん」
配慮すると見せかけて去り際にスマホでの撮影を忘れないあたりは、腐っても末弟。後で送ってもらおう。
「ぶ、ブラザー!?」
「グッドラック、カラ松」
真顔のチョロ松くんが私たちに向けてサムズアップ
ぴしゃん、と荒々しく障子が締め切られる。直射日光の照りつける縁側には、私とカラ松くんだけが残された。




「──さて」
「わああぁあぁっ、何をするつもりだ、ユーリっ!」
「何もしないよ。いやらしい腰つきだなと思って触ってるだけ」
「表現が危なすぎる!」
腰のラインを絞ったタンクトップで強調される緩やかなくびれは、私に触れと囁く
自慢の腕力でもって私を突き放すのは容易のはずなのに、カラ松くんは弱々しく私の腕に手を置くだけで、抵抗を示すのは口から溢れる言葉のみ。
「お、オレがハニーの腰触ったらセクハラとか言うくせにっ」
「言うかもしれないけど、警察連れて行ったり処罰与えたりしたことないでしょ。カラ松くんなら別に腰くらい触ってもいいよ、ほら」
腕に添えられた手首を掴んで、私の腰に運ぼうとすると、カラ松くんが初めて手に力を込めて抗った。
「こ、こういうのは良くないぞハニー!肌を気安く男に触らせるんじゃないっ」
じゃあどうしろと。


「ユーリちゃん、終わった?どのアイス食べるかジャンケンしようぜ」

箱入りのアイスを頭上に掲げたおそ松くんが、ニッと笑う。
肌を撫でる風さえ温もりを孕む過酷な環境下では、アイスの誘惑には打ち勝てない。私は躊躇うことなくカラ松くんの腰から手を離した。
熱気のこもった空気を吸い込むと、首筋から一筋の汗が流れる。
「終わってないけど、するする。今行くね」
「…た、助かった…のか?」
立ち上がる私の傍らで、複雑だ、とカラ松くんが独白する。羞恥心で頬を真っ赤にした彼と目が合った。今までの喧嘩や議論なんてなかったかのように、互いの口元には自然と笑みが浮かぶ。

「結論、出なかったね」
「主観で議論する以上は、決着はつかないんじゃないか?」
「何をエロいとするかなんて須らく主観だよ。定義なんてないし、個々で違って当たり前。だから面白いの」
ふふ、と笑いを溢せば、カラ松くんは唖然として目を見開いた。
「え…じゃあ何だったんだ、今までの流れ
「さぁ、何だったんだろうね」
「ユーリ、まさか最初から分かって──」

カラ松兄さん、と部屋から呼び声。
言いかけた言葉は遮られて、そして彼もまた改めて紡ごうとはしなかった。言葉を発する代わりに困ったように苦笑して、私と共にクーラーの効いた部屋に入る。

戦いに終わりはなく、新たなステージへと移行するのみ。
例えば次は、誰がどの味のアイスを獲得するか、なんて。大抵はとてものないものだったりするのだけれど。