今朝たまたま観たニュースの合間の星座占いで、私の星座が上位に食い込んだ。
気分転換の散歩でいいことがあるかも、なんてワンポイントアドバイスがあったからというわけではないが、盛夏の晴天に誘われて外に出た。軽い運動がてら、近くのコンビニで新作のスイーツでも買おうか。
そんな軽い気持ちだったのだ。
突き抜ける青空の上に、アイスクリームを彷彿とさせる入道雲が浮かぶ。夏も本番間近で、外をしばらく歩けばこめかみから汗が伝い落ちた。
近所の公園入り口に差し掛かった時、遊具に視線を向けたのは偶然だった。土曜の午前とはいえ日差しは強く、いつも賑やかな園内がやたら静かだったから。
公園脇の古びた木製ベンチに、スーツ姿のサラリーマンが腰掛けている。夏日だというのに上着を着ている彼は、目線を地面に落としていた。距離が離れているから表情は読めないけれど、少なくとも生き生きとした感じではない。
園の中央に設置された時計が示す時刻は、午前十時。出勤時間にしては遅めだから、出先までの時間潰しなのかもしれない。
そんなことを考えながら横切ろうとした───その矢先。
藍色のスーツが、崩れ落ちた。
「ちょ…っ!」
私はほぼ条件反射で彼に駆け寄った。
見なかったことにして万一ニュースにでもなるような結末になったら夢見が悪くなる。周りには人っ子一人いないのだ。
「大丈夫ですか!?」
膝をつき、抱き起こす。濃い色合いのスーツは熱を孕み、砂にまみれていた。この時初めて彼の顔を見たが、ひどくやつれて顔色が悪い。
「……あ」
乾いた唇から声が漏れた。良かった、意識はあるようだ。
「すぐ救急車呼びますね!」
ポケットからスマホを取り出して、震える手で番号をタップしようとするけれど、救急車を要請する番号が咄嗟に頭に浮かんでこない。三桁だ、三桁の分かりやすい数字のはずなのに。
「…ま、待ってくれ!」
筋の目立つ手が私の手首を掴んだ。
「大丈夫、だから…ちょっと立ちくらみがして、それだけ、だから…」
台詞とは裏腹に、声は掠れている。唇の色だっていいとは言えない。
「でも体調悪そうですよ」
大丈夫の言葉を鵜呑みにできるほど察しが悪い人間ではない。
納得いく理由を聞くまで離れないぞという私の意思を感じ取ったのか、スーツの彼は決まりが悪そうに私から視線を逸らす。
「……一昨日からろくに食べてないんだ」
「はい?」
私の口から出たのは、さぞかし素っ頓狂な声だったに違いない。
「時間がなくて水しか飲んでなかったから。
すまん…もう平気だ。適当に何か買って行く。とにかく会社に行かないと───」
しかし立ち上がろうとした彼の体はふらつき、再び地面に落ちてしまう。慌てて支えた私の服もすっかり砂まみれだ。
「こんな体調で仕事行ったら駄目ですよ」
「しかし、仕事が…」
「駄目ったら駄目ですってば!」
これが社畜か。
「家まで送ります。近くですか?」
「いや、その…電車で一時間くらいの所で…」
通勤時間の長さ。
砂だらけのスーツと、今にも気を失いそうなほど痩せ衰えた体。ここで私が見捨てたら、この人は確実に無理して出勤しようとするだろう。そうなれば、今度は命が危うい。
幸いなのは、私の家がここから徒歩三分という好立地なことだった。
玄関ドアを開けると、クーラーの涼しい風が吹き抜ける。エアコンをつけたまま散歩に出たのは僥倖だった。
玄関で上着を脱がせ、私も汚れたシャツを脱ぎ捨てる。
「上がってソファで休んでてください。すぐ何か用意します」
「や、あの、やっぱりこういうのは…仕事もあるし…」
「いいから!」
ふらついている癖に口だけは達者だ。背中を押して、半ば強引にリビングへ移動を促す。ローソファに座らせ、冷蔵庫で冷えた未開封のミネラルウォーターを手渡した。
女の一人暮らしの家に若い異性を連れ込むことが、世間的にどう見られるかくらい理解している。この選択が軽率であることも、それ故若干の危険性があることも、承知の上だ。全て、私が責任を負う。
「体が弱ってる時にコンビニ弁当とかは良くないです。雑炊でいいですね?」
「あの───」
彼の──そういえばまだ名前も聞いていない──返事を待たずに、一人用の土鍋にだし汁を沸かす。醤油やみりんで味を整えたら、炊飯器のご飯を投入して煮立てる。その間に卵や小ネギを用意して、柔らかくなった米に溶き卵を混ぜていく。蓋をして少し蒸らしたら、小ネギを散らして雑炊の完成だ。
木製の雑炊スプーンと合わせてトレイに載せたら、リビングで待つ虚ろな瞳の彼に出す。
「とりあえず食べましょう。文句や話は腹ごしらえしたら聞きます」
「…いいのか?」
ボトルの水は手つかずだった。封を開けて、彼に差し出す。
「そのために作ったんですよ。さすがにあのまま放ってもおけないし、今日は休みで時間もあったし」
「そ、そうか…じゃあ遠慮なく……いただきます」
弱々しい声で、両手を合わせて頭を垂れる。それから遠慮がちにスプーンで掬った湯気の立つ雑炊に息を吹きかけ、口に運んだ。
「…旨い」
目が瞠られる。僅かに弾む声に私は満足して、微笑んだ。
後片付けしなきゃと言い訳がましく呟きながらキッチンに向かい、汚れた食器を洗う。流水音が私の気配を隠し、彼を一人にした。
だから彼の頬に一筋涙が伝ったことも、私は知らない。
食事はあっという間に終わり、改めてスーツの彼が私に礼を述べた。緩められたネクタイは使い込まれていて、シャツにも皺が寄っている。倒れた拍子に付着した汚れを除いても、日頃の手入れを怠っていることが見て取れる出で立ちだった。
「申し遅れました。松野カラ松と申します」
胸ポケットから取り出した名刺を差し出しながら、彼は名乗る。
「あ、こちらこそすみません。
有栖川 ユーリです」
私も仕事用の名刺を出す。彼は自分の名刺の位置を下げながら、私の名刺を受け取った。
年を聞いたら、さほど離れていない。
「ユーリさん、か」
「改めてよろしくお願いします」
「タメ口で喋ってくれて構わない。というかむしろ、助けてもらったオレの方が口調には気を配るべきだったな。すまない」
「そういうの気にしないでくだ───じゃなかった、気にしないで、カラ松さん」
くん付けの方が良かっただろうか。というか松野さんが妥当だったか。出会い方が特殊すぎるせいで、何と呼べばいいのか分からない。
「ユーリさんが気にしなくても、オレが気にする」
それは。
「オレはユーリさんに救われたんだ」
場合が場合でなければ、告白のような台詞だ。
「そうだ、いい加減職場に連絡しないと……」
しかしカラ松さんは言った直後、気を失うようにソファの背もたれに倒れ込んでしまう。
「えっ、ちょっと、カラ松さ──」
慌てて手を伸ばすと、半開きの口から規則正しい寝息が聞こえてきた。気絶したらしい。過酷労働、社畜ここに極まれり。
カラ松さんから貰った名刺に書かれた社名の口コミを、検索エンジンとSNSで検索する。案の定、悪評ばかりが結果として表示された。
長時間に及ぶサービス残業、タイムカードを押さない休日出勤、パワハラやセクハラが横行する悪質な労働環境などなど。どれも匿名の投稿だから信憑性は疑うべきだけれど、カラ松さんの様子を見る限り、あながち間違ってはいない気がする。
「さて、どうしたものか…」
ひとりごちたところに、カラ松さんの携帯が床の上で振動する。スマホの画面には『部長』の文字。
一度目は無視した。けれど留守電に切り替わった途端に切れ、再度電話が鳴る。私は数秒の逡巡の後、画面をタップして電話に出た。
「も───」
「松野くんっ、今何時か分かってるのか!?出勤時間はとうに過ぎてるんだぞ!」
もしもし、と言う間もなく、耳をつんざく怒鳴り声が響く。スマホを耳から離して、カラ松さんを起こさないようキッチンへ向かう。
「さては寝坊か!?ハッ、いい度胸だな!
唯一の取り柄だった無遅刻無欠勤を取ったら、君には何が残るというんだ?何で貢献してくれるんだ?え?」
聞くに堪えないだみ声。
「もしもし」
毅然と声を発したら、相手が驚愕したのが電話越しにも分かった。
「あっ、え、ええと…松野くんのご家族の方ですか?」
「はぁ、まぁ」
「あの、松野くんは……」
「申し訳ありません、本人から連絡ができる健康状態ではないため、代わりに電話を取らせていただきました。
体調不良のためしばらくお休みさせてください。有給休暇の使用は可能ですか?」
「は!?有給休暇!?
いやいや、待ってくださいよ。無断欠勤の挙げ句に有給申請なんて都合が良すぎると思いませんか?こっちは繁盛期でただでさえ人手不足なんですよ」
「ではお手を煩わせてはいけませんので、休暇については就業規則の確認と合わせて、後ほど御社の総務にお電話させていただきますね」
有給休暇のルールや申請期限は、就業規則に定められている。当日の申請が認められないなら、診断書を取って傷病休暇の手もある。
「ちょっとあんた、いい加減にしないと───」
「あー、そうだ。お伝えし忘れてました」
今まさに思い出したとばかりに私は彼の言葉を遮る。
「この電話は録音してます」
電話口の相手は、蛙の鳴き声みたいな発声をした。
「電話だけだとほら、言った言わないがあるじゃないですか。お互いのためにと思いまして───で、いい加減にしないと何でしょうか?」
こういう時スマホは便利だ。ボタン一つで録音ができる。
開口一番盛大に罵ってくれたこともあって功を奏したらしく、部長は急にトーンダウンする。
「な、何でもありません…松野くんの休みは、有給休暇で処理しておきますので…」
「ありがとうございます、そうしていただけると助かります」
にこやかに電話を切った直後、私の穴という穴から冷や汗が噴き出した。完全にやらかした。
「ごめんなさい!」
カラ松さんが目覚めたのは、それから半日後の夕方だった。私は体を起こしたカラ松さんに、平身低頭で頭を下げる。
初対面の相手の電話に勝手に出た上、上司に対して家族と偽り、啖呵を切ったことを告白する。我ながら、差し出がましいにも程がある行為だ。恐喝まがいに有給休暇をもぎ取ってしまったため、私のせいでカラ松さんがクビになったら───あれ、それはそれで好都合なのでは?
「…ユーリさん?」
カラ松さんが怪訝そうな顔で私を見つめてくる。いかん、本音が顔に出た。
「会社の人に何か言われたら全部私のせいにしていいから。もし何かあったら責任も取る。録音データも渡す。だからほんと、ごめんなさい…」
けれど、私の謝罪は彼に届いていないようだった。カラ松さんは虚ろな視線を床に落とす。
「そうか…有給なんてあったのか」
「え?」
「自分の都合で仕事を休むなんて考えもしなかった。自宅と会社の往復がずっと続いて、たまの休みは一日寝るだけで、何なら会社近くの満喫で寝てた方が多かったかもしれん」
はは、と肩を揺すって自嘲する。
「ずいぶん視野が狭くなっていたようだ。礼を言わなきゃな。ありがとう、ユーリさん」
カラ松さんは緩めていたネクタイを外した。
「会社の人以外と話すのも久しぶりだし、何だか緊張するな」
「カラ松さんはとにかく休んだ方がいいよ」
少し寝たくらいでは取れない目元の濃いクマ、乾燥してやつれた頬、不健康に肉が削げ落ちた体。私でなくても心配する風体だ。
「休む……そうだな。何だか今も他人事みたいな気がしてる。
誰かの手料理を食べたのも本当に久しぶりだった」
それからカラ松さんは、休むって何したらいいんだろう、などととぽつりと呟くので、こいつ思いの外心身的にやべぇのでは、と他人事ながら危機感を抱いたのは内緒だ。
女の一人暮らしに長居してはいけないと帰ろうとする彼を呼び止め、半ば強引に夕食を摂らせ、ようやく解放する。
「今日一日、ユーリさんには本当に世話になった」
もう何度目か分からない謝辞。
「カラ松さん、連絡先教えてよ」
「は?」
「そんなフラフラした体で一時間も電車乗らせるの不安すぎる。でもさすがに送っていけないから、家着いたら連絡して」
本当はその足で実家に帰って静養した方がいいと思うのだけれど、家族に心配はかけたくないと頑なに嫌がるから、せめて。
「…あ、ああ」
私の気迫に押されてか、カラ松さんは慌てた様子でスマホを出した。連絡先を交換して、私の携帯に彼の名前が登録される。
彼もまた自分の画面をじっと見つめる。心なしか嬉しそうな、そんな表情だ。
「迷惑じゃなかったら、明日はそっちに行ってもいい?」
「……そっち?」
「カラ松さんの家。
あ、もしかして彼女とかいる?なら今のは聞かなかったことにしてくれていいよ」
「な、何で!?…や、か、彼女はいない、けど…」
「これも何かの縁だし、しばらく面倒見るよ」
手を放したら、ポッキリと折れてしまいそうな気がするのだ。生かさねば。
「しかし、その…掃除できてなくて汚いし」
「掃除もするし、エッチな本出てきても見なかったフリするから」
「そ、そういう話じゃなくてだな…」
カラ松さんは思考を巡らせて断り文句を探そうとするが、疲労もあってか早い段階で白旗を上げた。メッセージアプリで住所を送ってくれる。
「ありがとう。じゃあ明日の午前中に行くから───また明日ね」
玄関ドアを開けると、外界が現れる。カラ松さんを苦しめた世界には、いつの間にか夜の帳がおりている。私たちを隔てる世界。
「また明日」
カラ松さんが笑った。
出会って初めて見る、彼の微笑だった。
「おはよう、カラ松さん」
翌朝、電車で一時間近くかけてカラ松さんの自宅チャイムを鳴らした。到着したのは九時半を過ぎた頃だったが、玄関ドアを開けたカラ松さんはパジャマ姿で、私を見るなり眉根を寄せた。
「ユーリさん…すまん、寝過ごした。こんな格好で申し訳ない」
顎の無精髭と寝癖がより一層悲壮感を漂わせるが、昨日よりは顔色はマシに見えた。スーツ姿では疲労の色を濃く滲ませ、パジャマ姿は病人のようで、つまりは疲弊しているのだ。とても。
「ゆっくり寝られた?」
「え?…あ、まぁ。目覚ましも気付かなかった」
「そっか、なら良かった」
カラ松さんがきょとんとする。
「寝るのも体力いるからね。長時間しっかり寝れるのはいいことだよ」
寝られないなら問題だが、熟睡できるなら御の字だ。限界ギリギリ手前で踏みとどまれているということだろうと前向きに捉える。
「朝ご飯食べられる?サンドイッチ持ってきたんだけど」
「いる!」
食い気味に返事が来る。私は笑った。
「ユーリさんの手料理旨かったから……って、待て、さすがに部屋が───」
往生際が悪い。
「掃除もするって言ったじゃん。お邪魔しまーす」
「あ、ち、ちょ…っ」
カラ松さんの手が私の腕を掴む。反射的に振り返ったら彼の顔が間近だった。
ああ、パンダみたいなひどいクマだ、乾燥した唇は皮が剥けている。そんな感想が過ぎって、今日も全力でこの子を生かさなければと決意を固める。
カラ松くんはというと、私と目が合うなり慌てた様子で腕から手を離した。
「わぁっ、す、すまん!」
何が?
カラ松さんの部屋は、一般的な単身世帯向けの1DKだった。彼は散らかっていると言ったが、空になったペットボトルや脱ぎ散らかした衣服の散乱は目立つものの、異臭の原因となる生ゴミや食べカスといった類はほとんどない。多忙故に食事と睡眠を両立できず、やむを得ず食事を切り捨てた成れの果てのように見えた。
「これ、サンドイッチと、そこのコンビニで買ってきたスムージー。コーヒーの方がいい?」
朝から少々重いかとも思ったが、栄養第一だ。少しでも食べやすいよう、サンドイッチには水分となるきゅうりを多めに挟んだ。
「十分だ。ユーリさんの手料理なら何でも嬉しい」
「それ食べたらカラ松さんは休んでて。寝ててもいいよ。仕事のことは考えない。まずは食う、寝る、以上。
私、もうちょっとしたら買い出し行ってくるから。作り置き何品か置いてくね。費用は後で精算でいい?」
畳み掛けるように告げる私に呆気に取られつつも、彼は少し笑って頷いた。
「何なら財布ごと持っていってくれ。万札も何枚か入ってるから」
「昨日会ったばかりの人に財布任せるのは良くないよ」
「昨日会ったばかりの奴の家に、甲斐甲斐しく世話しにくるユーリさんに言われたくないな」
言い返された。
「オレが悪い奴だったらどうする気だ?」
「えー…どうしよう」
それはついぞ考えたことがなかった。
「渡した名刺だって偽物かもしれない。だとしたら、そもそもオレは松野カラ松でさえないことになる。
電話してきた上司と名乗った男も、オレが属する犯罪グループの主犯格だって可能性もないとは言えないだろ?」
私の目の前には、真実は何一つないのかもしれない。虚構で繋がる細い縁は、吹けば飛んでしまい二度と元には戻らないほどに儚きもの。
「でも、それでもいいかな、って思ってるよ」
私は自分の髪を掻いた。
「ユーリさん…」
「偽善かもしれないけど、昨日の倒れる姿見ちゃったら見捨てられないからさ」
何だか気恥ずかしくて苦笑する。私の前では松野カラ松でいてくれたら、元気になってくれたら、とりあえずそれでいいかな。楽観的で後先考えない奴だと呆れられそうだけれど。
「───すまない、悪ふざけが過ぎた。冗談にしては悪質だが、本気で言ったわけじゃない」
どうして今にも泣き出しそうな顔をするのだろう。
カラ松さんは財布から免許証を取り出して私に差し出した。
「これも偽造じゃないかと疑われたらどうしようもないけど、オレが松野カラ松である証拠だ」
「そんなことしなくても…」
「ユーリさんに嘘は言わない」
縋るように。
「…何かオレ、浮かれてるのかもしれないな」
休暇が久しぶりすぎて?
最高にハイってヤツだぜ。
「とにかく、警戒しないでほしいというか…いや、見ず知らずの男だから警戒するべきなんだが…その…」
矛盾を孕んだ願いは最後まで紡がれず、彼の思考の内に溶ける。
「うん、私も色々軽率だって分かってるから、指摘してもらえて助かるよ。ありがとう」
人を拾ったようなものだから。友達の紹介とか同じ施設を利用してるとか、いわゆる普通の初めましてではないから、互いに相手の素性を警戒するくらいがちょうどいいのかもしれない。
でも、近くのスーパーまで買い出しに出掛けながら、カラ松さんに渡す作り置きのレシピをあれこれ考える私は、これもうオカンやん、と思うのだ。上京して体調を崩した息子を見舞い、あれこれ世話を焼く過保護なオカン。
一週間分くらい作っておこうとしたら食材は思った以上に多くなり、時間を食ってしまった。
玄関の鍵は開いていて、カラ松さんはベッドに寄りかかりながらうとうとと船を漕いでいた。サンドイッチを入れていたプラスチックの使い捨て容器は空っぽで、ゴミ箱に放り込まれている。
「おかえり、ユーリさん」
カラ松さんは私の帰宅を視認するなり、相好を崩した。自然に笑える人だったんだな、なんて感想を抱く。窓からの日差しは優しく彼を照らし、少しだけ血色よく見せる。
「ただいま。起きてたんだ?」
「ユーリさんが帰るまでは、と思って」
いじらしい。うちの子いい子すぎない?
カラ松さんは私が抱えるビニールを受け取り、冷蔵庫の前に置く。
「もう寝てていいよ。今から作り置き作ったり、ゴミ片付けたりするから」
「そうする…正直まだ眠い」
彼は大きくあくびをした後、微睡みながらベッドに横になる。倒れ込んだ、という表現の方が合っているかもしれない。すぐに微動だにしなくなったので覗き込めば、早くも夢の国の住人になっていた。
昨日の今日だ。休息が足りていないはずだから、泥のように眠ればいい。
作り置きの料理を百均で買ってきたパックに詰め、冷蔵庫と冷凍庫にそれぞれ保管する。炊飯器のご飯とインスタントの味噌汁を合わせれば、数日分にはなるだろう。見事なオカンっぷり、我ながら上出来だ。
料理器具を洗い終えたところで、部屋の端に放置されていたスーツの上着を拾い上げた。昨日着ていた物とは違うが、昨日同様にひどくくたびれている。
「…クリーニングに出した方がいいかな?」
だとしても、本人の許可を得てからにしよう。
ひとまず、クリーニングが必要そうな服をひとまとめにしようと持ち上げたら、ひらりと紙が落ちた───給与明細だ。
数ヶ月前のもので、総支給額こそ低いものの、残業時間は僅か数時間、一見限りなくホワイト会社が示すような数字。
「……嘘つけ。なーにが残業五時間だ」
カラ松さんの言葉を一切合切信じるというわけではないが、通勤時間の長さに見合わない交通費の支給額と、求人情報サイト記載の新入社員給与にも満たない基本給に、反吐が出そうになる。
うちの子を馬車馬のようにこき使いやがって。
「とりあえず退職届かな」
やっぱり仕事に行かなければ、などという戯言を彼が言い出す前に。
カラ松さんは泥を体現するかのように眠っていた。私が室内で音を立ててもピクリともせず、時折居心地が悪そうに寝返りを打っては、苦しげに唸った。彼の眠りが心地良いものとなるには、当分かかりそうである。
さらにカラ松さんは覚醒と同時に飛び起き、枕元の目覚まし時計を鷲掴みにした。示す時刻に顔色を失う。
「なん……ッ!」
「カラ松さん」
それから私を見て、あ、と声を漏らした。
「ユーリ…さん…」
夢と記憶が混じり合い、どちらが現実かを思い出すように。
「仕事の夢でも見た?」
私の問いには、曖昧な笑みが返ってきた。否、笑みのような強張った表情だ。カラ松さんは長い溜息を吐いて、片手を首筋に当てる。
「心臓が止まるかと思った」
どこまでも不憫だ。
何としてでも助けたいと思うのは、おこがましいのだろうか。
昼食の時間はとうに過ぎていたので、軽く玉子丼を作る。昨日に続き卵料理だが、食べやすく栄養価も高いので便利な食材だ。玉ねぎと合わせることで甘みも感じる。
カラ松さんは例に漏れずあっという間に完食した。米粒一つ残っていない丼は綺麗なもので、実にいい食べっぷりである。
「料理って優しい味がするものなんだな」
「そう?」
「ずっとコンビニ弁当かチェーン店の定食を流し込む感じで、食事というより腹を膨らませる作業というか…そんな感じだったせいかな。
でも、ユーリさんの料理が旨いのも間違いない」
そう言われて悪い気はしない。へへ、と私が笑うと、彼もつられて微笑んだ。
「こういうの、幸せだな…」
かみしめるような言い方だった。
「カラ松さんの幸せはこれからだよ」
まずはクマを消して顔色を健康的にし、体重を適正に戻して、それから。短く切られた爪には縦線が入り、小さな凹凸もある。
「何かユーリさんにお礼がしたい」
顔を上げて、カラ松さんが私に言う。
「私に?」
「ああ。やってもらうばかりだから、オレも何かユーリさんに返したいんだ」
私はレースのカーテン越しに窓の外を見る。晴天で風光る空。
「そうだなぁ……じゃあ、カラ松さんが元気になったら一緒に遊びに行くのはどう?」
「え?あ、なら、今からでも───」
彼は財布を手にして立ち上がろうとするので、私は慌てて制する。
「駄目駄目、今は回復を優先しなきゃ。
よく寝て栄養のある物をしっかり食べて、日中起きれるようになったら日差し浴びたり散歩したりして、まずは健康的に過ごせるようになるのが一番だよ。
それが自然にできるようになったら、人のために時間を使って」
他人のために時間を使うのは、体力も精神も消耗することだから。
「ユーリさんは貴重な休日を二日もオレのために使ってるじゃないか」
「私は健康で文化的な生活ができてるからいいの」
「詭弁だ」
「不健康の見本みたいな顔色してる人に言われても、説得力ないんですけど」
私たちは一触即発の空気で睨み合ったが、すぐに顔面の筋肉を緩めた。反論できる元気が出てきたことが私には嬉しい。
次の週末も彼の自宅に差し入れを届けた。平日は私が仕事で立ち寄れないから、顔を合わせたのは休日だけだったけれど、彼は毎日スマホに食べた食事内容や体調のメッセージを送ってくれ、それだけでも彼の体調が少しずつ快方に向かっていることは見て取れた。
そして二週間後の休日、いつものように訪ねた私を出迎えた彼はパジャマや部屋着ではなく、シャツとデニムというラフな姿だった。
「おはよう、ユーリさん」
心なしか弾む声。
「ええと、あの…最近朝は散歩に出てて、もし良かったら一緒にどう、かな?」
リハビリだな、よしきた。私は二つ返事で了承する。
短い袖から覗く腕は少し肉付きがよくなり、顔の血色も先週よりいい。
東京都が管理する緑地公園まで足を伸ばした。歩いたのは十分程度だが、カラ松さんは息切れもせず私にペースを合わせてくれる気配りまで見せる。
「あ、アイス売ってるよ、カラ松さん」
公園入ってすぐの広場に、ソフトクリームとドリンクを販売するキッチンカーが停車していた。数人が列を作り、冷たい物を買っている。
「買うか。ユーリさんは何味がいい?」
「バニラかな」
「じゃ、オレもそれで」
「こんな短期間で買い食いできるレベルまで回復するなんて感無量すぎる」
「何目線?」
親目線。
今日も相変わらず夏の空で、照りつける光は暑くて眩しい。
「夏だねぇ」
手のひらをひさし代わりにして上空を見上げたら、私の視界にカラ松さんの横顔が映り込む。目のクマはまだ残っていて頬もこけているけれど、出会った当初よりは生気に満ちた顔つき。吊り上げた眉と真っ直ぐに先を見据える瞳は凛々しく、横顔も端正で───
この人って、こんなに格好良かったっけ?
持ち上げた手も大きく、痩せているからだけではなく筋張って、私のそれとはまるで違うもの。肩幅だって、そういえば広い。
「カラ松さんって男の人だったんだね」
初めて知ったとばかりに感嘆の声を上げたら、カラ松さんは目を剥いた。
「え!?むしろ何だと思ってたんだ…」
「いや、何ていうか、ごめん……ずっと子どもみたいな感じだったから。とにかく何とかしないと、と思って」
産んでないのにな。
異性である事実を認識はしていたものの、意識はしていなかった。なのに家まで押しかけて世話を焼いて、迷惑ではなかっただろうか。こいつ何やってるんだと呆れ返っていたのではないか。
今更ながら己の無鉄砲な言動に羞恥を覚える。今すぐ帰りたい。
カラ松さんはこめかみに指を当てて苦悶の表情をしていたが──本当にすまんかった──やがて私に向き直る。
「オレは男だよ」
彼の両手が私の手を包む。男の人の手だ。体中の体温が一気に上昇する。
「少なくともユーリさんを抱えられるくらいには、な」
「ん?…え、わっ…ええっ、ちょ!」
彼は身を屈め、私の膝裏に手を差し込んで軽々と抱き上げた。いわゆるお姫様抱っことかいうヤツである。
ひっくり返ったような私の声に、公園を散策していた人たちの何人かが好奇の目を向けてくる。
「か、カラ松さん…っ」
「来週、オレとデートしてくれないか?」
「え」
「前に言ってただろ?オレを介抱してくれたお礼として」
今それ言う?
「そ、そっか…散歩にも出られるようになったしね。うん、いいよ、行こう」
だから一刻も早く下ろしてくれ。
カラ松さんは満足げに笑う。
「で、その次は───お互い一人の男と女としてオレとデートしてほしい」
ここまでくると、畳み掛けられる情報量の多さに、呆気に取られる以外の反応ができない。私は開いた口が塞がらないまま、目をぱちくりさせた。
男の人だと理解したのもつい今しがたなのに。
「ユーリさんが今までオレを意識してこなかったとしても」
カラ松さんは私に顔を近づける。
「オレにとっては最初から、ユーリさんはキュートな女性だ」
カラ松さんの頬に朱が差した。気恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに微笑む表情から、目が離せない。
とにかく何か言葉を発しようと口を開けかけたら、カラ松さんが眉を下げる。
「あー、すまん、性急すぎたな。嫌なら断ってくれていいから」
「ぜっ、全然!そういうのじゃないの!」
私は声を荒げる。カラ松さんを傷つける気は皆無であることだけは、すぐに伝えなければ。
両手で自分の頬を覆ったら、ひどく熱を持っていた。
「うちの子ってこんな格好よかったんだって改めて気付いて、情緒がヤバイ」
「はは。じゃあ返事はイエスってことで」
「…はい」
もっと顔が近づいて、額にキスが降ってきた。
先日拾った子は、いい男でした。