派生:マフィアと暮らす

「じゃあいい子にしてるんだぞ、ハニー」
カラ松さんは私の髪にキスを落として、玄関ドアの向こうへと姿を消した。どこへとも、誰と一緒だとも、何一つ告げずに。


私は平行世界にやって来たらしい。
表現が曖昧なのは、私自身がよく分かっていないからだ。休日に少し遠出しようと思い立って電車に乗り、見知らぬ駅で降りたら、東京都内のはずなのに私が知る東京とは微妙な差異のある景色が広がっていた。スマホは常に圏外で、登録している電話番号に公衆電話から電話をかけたら、全て別人が出る。
困り果てた時にカラ松さんに出会い、ひとまず現状把握しようと質問を投げた矢先に、彼への襲撃に巻き込まれた。半ば拉致されるように連れて行かれた先は彼のアジトで、銃を所持している上に使い慣れている様子から、カタギでないことを察するのは容易だった。
「しばらくメイドとして雇ってやる」
そして、帰るアテのない私に、彼は所有するマンションの一室を与えてくれた。
私の顔は狙撃者に目撃され、カラ松さんの仲間として認識されている可能性がある。だから、彼を襲った相手を特定して始末するまでの間、表向きは彼の恋人として期間限定の同居が始まったのである。

青いシャツに着崩した黒のスーツ、それが彼の私服であり仕事着だった。第一ボタンを外した胸元にはギラギラと眩いゴールドのネックレスを下げている。そして仕事で外出する時は決まって、黒の手袋を装着する。まるで暗殺者さながらの出で立ちだな、とぼんやり思ったことがある。残念ながらこの感想は、当たらずも遠からずだろう。
「仕事が仕事だからな」
カラ松さんは仕事内容を曖昧に濁す。私も追求はしない。
仕事のない日は一日リビングや自室でのんびりしていることも多く、そういう時はスーツの上着を脱いで少しラフな格好になる。銃は装備こそしないが、ソファの隙間や枕元など、手を伸ばせば常に手の届く範囲にある。どうやら今日はオフの日らしい。

「今夜のご飯は家で食べる?」
「ん?」
煙草をふかしながらスマホを眺めていた彼が、首を曲げて私を見る。私が鞄を持っている様子から、買い出しが必要かを見極めたい故の問いだと察したようだった。
「今のところ呼び出しはないな」
「なら、今日は鶏肉安いみたいだから焼き鳥にしま…するね」
同居するのに敬語は他人行儀だと、タメ口を押し切られた。どう好意的に見てもカタギではない風貌から漂う謎の威圧感に気圧され、未だに慣れない。
夕食に関しては、キッチンの引き出しに竹串が入っているのは確認済みだから、肉と長ネギと、あとは野菜の煮物でも作ればいいだろう。リビングのテーブルで買い出し用のメモにペンを走らせていたら、カラ松さんが私の手元を覗き込む。
「荷物持ちが必要なら車出すぞ、ユーリ」
「えっ」
やべぇ人を足にする度胸が私にあると思うてか。
「あ、ええと…そんなにたくさん買うわけじゃないし…」
「しかしユーリの言う鶏肉が安いスーパーは、ここから徒歩半時間はかかる。車で行けばすぐだろ」
私は目を瞠った。どこのスーパーに行くかは言及してない。しかもスーパーの特売チラシが投函されたのは今朝だ。その情報収集力と洞察力の鋭さには脱帽するしかない。
射抜くような鋭い目つきは笑っているようだったが、私の口は同じ表情を返すどころか不自然に引きつった。
「はぁ…じゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな」
ノーと言えないプレッシャーを感じて、私は苦笑した。脅迫ってこういうヤツか。
「オーライ。ハニーの手料理を食べられる栄光のためなら、運転手くらい喜んでなるさ」
その言葉にどれほどの本心が混じっているのか。全てが虚像で、彼の手のひらで怯える私を見て愉悦を感じている気がしてならない。ドSの所業。

私の肩を引き寄せて玄関に向かうカラ松さんの体からは、私と同じ柔軟剤の匂いがした。




空気が変わったのは、買い物帰りだった。
ガレージに車を入れたのを見計らったようにカラ松さんの携帯が鳴ったのだ。彼は私に荷物をキッチンまで運ぶよう片手で合図してから、足早に自室に戻った。着信者の名前が表示された画面を見るなり表情が僅かに険しくなったのを、私は見逃さなかった。
カラ松さんは仕事の電話を私に聞かせない。飲み屋のホステスや気心の知れた女性の電話に軽口で応じる姿は幾度か見てきたが、それだけだ。
そして仕事の電話があった日は決まって、夜になるとフラッと出ていく。外出時と変わらない姿で戻ってくることもあるし、服が不自然に汚れていることもある。

「ユーリ、これから少し出てくる」
冷蔵庫に食材を詰める私に、気怠げに首元に手を当てながらカラ松さんが告げる。予感的中だ。
「遅くなりそう?」
「その時は途中で連絡する。気乗りしないがちょっとばかり野暮用でな…面倒なことにならなきゃいいが」
全てが曖昧な言葉たち。
私の無言をどう解釈したのかは知らないが、カラ松さんは不敵に微笑む。
「安心しろ、他の女とデートするわけじゃない」
むしろそっちの方が健全だから有り難いのだが、という本音は飲み込んだ。ジャケットの中にホルスターを装備して、黒い手袋をつけた不穏なデートなどありはしないだろうけれど。

そうして、冒頭の髪へのキスへと繋がる。


九時を過ぎても、カラ松さんからの連絡はなかった。
焼き立てを食べてもらいたいから、下準備された串が冷蔵庫で今も待機中だ。煮物は鍋の中ですっかり冷めている。ダイニングテーブルに並べられた食器は、主人の帰宅を静かに待ち侘びる。
彼の仕事中は、私から連絡を取らないよう厳命されている。任務遂行の妨げになるかもしれないからだ。だから私には何もできない。決められた場所で待つ他には、何も。
カラ松さんとの連絡専用スマホを握って溜息を溢したところで、画面が光って番号が表示された。すぐさま電話に出る。
「カラ松さん!?」
「すまん、今夜はもうちょいかかりそうだ。先に休んでてくれ」
いつもの声音だったが、背後で何発か銃声がした。バタバタと近づいてくる足音もする。
「え、ちょ──」
「食べそこねた手料理は明日の楽しみにするさ」
私の声を遮り、一方的に言うだけ言って電話は切れた。
今どこいるんだとか、何をしているんだとか、せめて無事なのかだけでも教えてくれればいいのに。行き場のない不安が足元から這い上がり、私を覆い尽くそうとする。
切れた息を必死に整えている演技くらい───私にだって分かる。

日付が変わる少し前に、ガレージのシャッターが開いた。電気を灯していない暗がりに、街灯と車のライトの明かりが差し込む。私は立ち上がって、腰に手を当てた。ひどく長い時間が経過したような気がした。
車を降りた彼は、バックモニターに映る私を視認してさぞかし度肝を抜かれたことだろう。何とも言えない表情で、エンジンを切った車から降りてくる。手袋はしていなかった。
「驚いた。まさかハニー直々の出迎えがあるとはな」
「たまたまね」
「別段用事もないガレージにたまたま来たら、たまたまオレが帰宅した、と」
「そう思ってもらってもいいよ」
カラ松さんは肩を揺らした。
「はは、強情だな」
彼のシャツからはもう柔軟剤の匂いは漂ってこなかった。代わりに鼻をつくのは、土と硝煙と、そして血の臭い。
空元気ではないらしいことに、私はひとまず胸を撫で下ろす。薄暗がりのせいで判別がつきにくいが、砂埃で汚れてはいるものの、致命的な怪我は負っていないようだった。
「……心配した」
ここは正直に言ってもバチは当たらないだろう。私はカラ松さんを見つめる。
「連絡するって言ったのに全然来ないし、来たら来たで銃の音はするしカラ松さんも余裕なさそうだし…そんな時に私に連絡なんかしてる場合じゃないでしょ、って思って、でもずっと早く帰ってこいって思ってたくらい、心配だった。
無事に帰ってきてくれて今はホッとしてるよ……ああ、そうだ───おかえりなさい」
「ユーリ…」

不意に、抱きすくめられる。
私の顔は青いシャツに埋まった。頬に砂がつく。

「心配かけて悪かった」

私にだけ聞かせるような、小さな声だった。私を抱きしめる手に力がこもる。
カラ松さんの心臓の音が大きくて、この人が今日も生きていて良かったと思う。
「ところで、だ」
声に軽さが増した。抱擁を解いて、彼の片手が私の肩に回る。
「今宵のハニーは一段とキュートだな。明日にかけてオレのベッドの特等席が空いてるんだが、どうだ?」
「突然のセクハラ」
「遠慮は体に悪いぜ」
「しつこい」
鬱陶しくて両手でスーツを押し返したら───ぬるりと、不快な感触がした。手のひらに付着したのは、乾きかけた赤黒い血液。
ハッとしてカラ松さんを見ると、彼はいたずらがバレたような気まずい表情になる。
「あー、オレとしたことがレディファーストを忘れていた。シャワーはユーリが先に浴びるべきだな」
「で、でもこれ…っ」
「オレの血じゃない。スーツの色のせいで気付かなかった」
彼は胸元からハンカチを取り出して、私の両手についた血痕を拭う。よくよく見ると、カラ松さんの爪の間にも血液が付着した形跡が見受けられた。帰宅前に証拠隠滅でもしてきたのだろう。現場ではどれだけの血が流れたのか。
「何なら一緒に浴びるか?
ああ、我ながらいいアイデアだな。その代わり、一旦オレと風呂に入ったら最後、出られるのは声が枯れ果てた夜明けだぜ」
名案とばかりに高らかに指を鳴らすので、私は眉根を寄せた。そう言われて誰が了承するか。
「私一人で行くから!絶対入ってこないでよ!絶対だからねっ」
肩を怒らせながら風呂場へ向かう私に、カラ松さんは苦笑する。
そして直後、背中に声が投げられた。

「…ただいま」




「スマホを捨てる!?」
素っ頓狂な私の声がリビングに轟く。

ある日の昼下がり、話があるからとカラ松さんに呼び出されて二人がけのソファの隣に座るや否や、単刀直入に切り出された指示は私を唖然とさせた。
「繋がらないとはいえ、関係者の連絡先やこれまでの写真といったユーリの個人情報てんこ盛りのブツだ。万一同業者の手に渡ったら命取りだぞ」
この世界にやって来た時から私のスマホは一貫して圏外で、Wi-Fiさえ繋がらない。
加えて、家族や友人の電話番号は全て赤の他人の所有番号になっていた。つい一ヶ月前に電話したばかりの友人の番号に至っては、もう十年近く使っている番号だと答えられてしまう始末である。
「破壊して処分するのがベストだ」
「でも、いつか使えるようになるかもしれないでしょ」
「訪れるかも分からない未来のために、自分の身を危険に晒すのか?」
カラ松さんは冷静だ。それを冷酷と感じてしまうのは、私が彼の意見に真っ向から反発しているからだろう。
「携帯がいるというなら、これを使えばいい」
カラ松さんは真新しいスマホを私に投げた。見た目やサイズ感は今の物に近い新品だ。
「指紋認証で、オレとユーリ以外の奴が開けようとした時点でデータは完全に抹消されるようにした。契約者からも足はつかない」
用意周到だ。
カラ松さんの言うことは正しい。世間に対して胸を張れる立場でない彼に擁護されている私が彼の意に反することはすなわち、カラ松さんを危険に晒すことに他ならない。恩を仇で返すに等しいのだ。
しかし、二つ返事で了承もできない。このスマホに保存されているデータこそ、私が有栖川ユーリである最後の砦だからだ。いつか戻れた時、元通りの生活にすぐ戻るためにもこれは必要なのである。

「調べたが、ユーリがこれまで住んでいたという住所はなかった。この免許証の番号も登録されてない。有栖川ユーリという人間は存在しないんだ」
彼は私が財布に入れていた運転免許証を基に、私の身元を調べてくれていた。預けていた免許証を指先で弄ぶ。
「お望みなら戸籍まで辿るか?」
「…ううん、そこまではしなくていいかな」
現住所がないなら、戸籍を調べたところで結果は変わらないだろう。ただ不思議と、落胆していない自分がいる。
この世界で、私は名もなき異端者だ。名前さえも、私が自称しているに過ぎない。
「これが偽造なら、実によくできてる。本物と見分けがつかない精巧さだ」
「本物だからね」
「だろうな。このレベルを作れるなら一生仕事にあぶれないぞ。何なら専属の契約をしたい」
何の仕事かは聞かないことにする。
「だからこそ余計に、そのスマホは処分すべきなんだ」
カラ松さんは二本指で摘んでいた免許証を私に投げた。緩やかなカーブを描き、私の両手の上に落ちる。

「帰れる手立てなんてないだろ」
「それは、そうだけど…」
「ユーリに残された選択肢は三つだ」
カラ松さんは足を組み直しつつ、右手で三本指を立てる。
「引き続きオレの庇護下にいるか、新しい戸籍で生きるか、ホームレスとして生きるか」
一つ目は現状維持。
二つ目はカラ松さんに戸籍を偽造してもらい、他人の名で生きることだ。この世界で自立できる代わりに、有栖川ユーリの名を失う。
最後は、カラ松さんの元を去り、自分自身で生きる方法。ただし前述の通り戸籍もなく頼れる親族もいないため、組織に所属することは一切できない。

「私は、カラ松さんと一緒にいたい」

提示された選択のうち、最良なのは一番目のように思われた。善良な市民とは程遠い彼の庇護下にいることは、実は最も危険なのかもしれない。いやむしろ最高に危険だろう。
けれど、少なくともカラ松さんは私の絵空事みたいな境遇を信じてくれた。その上で、暮らす場所を与えてくれている。この人を失ったら、私は今度こそどこへも行けない。
「ユーリ、お前……」
「あと一日、時間貰ってもいい?せめて家族の番号くらいは暗記しておきたいし」
そう言ったら、カラ松さんはきょとんとする。
「暗記も何も…バックアップ取っておけばいいだろ
何やて?
「中のデータはオレの管理するクラウドに放り込んでおけばいい。オレ以外は絶対に触れない領域だ」
「え、ちょっと待って……今までのシリアスなくだり必要だった?
「オレはそのスマホを捨てろと言っただけだ」
中のデータにまでは言及していない、と。
すれ違いコントか。
あまりの馬鹿さ加減に両手で顔を覆って天を仰いだら、カラ松さんが堪えきれなくなったとばかりに腹を抱えて笑い出した。笑い事ちゃうねん。
「ははは、いや、すまん。でもおかげでハニーからのラブコールも聞けたことだし、オレにとっては一石二鳥だ」
ぶん殴りたい。
人を小馬鹿にする腹立たしい笑みはしばらく続いたが、やがてフッと柔らかく微笑んで。

「…そうか、オレと一緒がいい、か」

心なしか嬉しそうに、私を見つめたのだった。




さて、私は今まさに危機的状況にある。
薄暗い廃ビルの一室で椅子に座らされていた。その周囲をスーツ姿の五人に囲まれている。幸いにも手足は拘束されていないものの、退路は全て断たれている。気を抜けば押し潰されそうな威圧感が息苦しい。
買い物帰りに道路沿いの歩道を歩いていたら、私の傍らに白の車が一時停車して、若い男性が助手席の窓から声をかけてきた。スマホ片手に市民ホールへの道を尋ねられ、それならここからほど近い場所だからとスマホを覗き込んで───覚えているのはそこまでだ。
次に気付いたら、この椅子に座らされていたというわけだ。端的に言えば、誘拐された。容易く、赤子の手を捻るように。
室内はかつてオフィスだったような内装だ。いくつかの古びたデスクと椅子が乱雑に置かれ、埃を被っている。割れたガラス窓の隙間からは、そよそよと風が入ってくる。外の明るさから推測する限り、拉致されてから長い時間は経っていないようだった。
「あの……」
「ん?いやー、ごめんねぇ。ちょっとの辛抱だからさ、たぶん」
私を取り囲む五人のうち、リーダー格らしい赤いシャツの男が、キャスターチェアに反対向きに座り、背もたれに両腕を載せながら軽い口調で言う。
「大丈夫、痛いこともしないから。俺らこう見えて紳士だし?」
私に危害を加えるつもりがないなら、何が目的で私をこんな場所に連れ去ったのだろう。
───その矢先、どこからか階段を駆け上がる騒々しい音が近づいて、ドアが蹴破られた。

「オレの女に何してくれてんだ、ブラザー?」

侵入者はカラ松さんだった。私は呆気に取られる。
「ユーリっ、無事か!?」
「あ、うん…」
思わず頷いたら、彼は眉を下げて安堵の色を示した。初めて見る表情だった。
それからカラ松さんはリーダー格の男──彼はブラザーと呼んだ──に鋭い眼光を向ける。
「もう一度訊く。オレの女に何してくれた、おそ松?」
おそ松と呼ばれた男性は、へへ、と笑いながら人差し指の先で鼻の下を擦った。
「さっすが、カラ松!この子が突然連れ去られてもちゃーんと奪い返しに来る手はずになってるの、手際がいいねぇ。一人前の仕事してて、お兄ちゃん嬉しいわ」
感激の言葉を口にするが、感情はまるでこもっていない。
「カラ松の彼女にはさ、兄弟として挨拶しておかなきゃと思ったんだよね。結果的に、手荒に拉致しただけになっちゃったのはごめんって」
まるで悪びれた様子のない彼に、カラ松さんは青筋を立てる。
「役者が揃ったことだし、自己紹介しよっか。オレは松野おそ松、こいつ含めた俺ら六人の長男ね」
続いてチョロ松、一松、十四松、トド松と彼らはそれぞれ名乗る。本名かどうかは怪しいが、血縁関係らしいことは顔つきを見れば一目瞭然だった。
カラ松さんには仕事仲間の兄弟がいると聞いたことがある。出で立ちは黒のスーツと色付きのシャツと似通っていて、意図的に服装を合わせているのだろう。

「てかさ」
おそ松さんは、す、と表情を消した。

「お前に女ができたっていうからどんな手練かと思ったら、めちゃくちゃ素人なのはどういうこと?」

私は動揺を隠すのに精一杯だった。私の拉致は、お手並み拝見の意味合いもあったのだ。
「そうだよ、カラ松兄さん。素人の子には手出さないって決まりだったじゃん」
トド松さんが、呆れたように言う。
「お前だけ何勝手に約束破ってんだって話」
気怠げな表情の一松さんは、眉間に皺を寄せる。
「旨い寿司食い飽きて家庭料理食べてみたいっていう気まぐれ?
良くないなぁ。その辺の女の子を彼女にしたら俺らにも累が及ぶんだよ、カラ松」
口調は軽いが、事と次第によっては容赦しないという顔だ。口元にはにこやかな笑みが広がっているが、目はまるで笑っていない。
おそ松さんが腕を動かしたタイミングでスーツの裾が揺れ、サイドのホルスターと銃が覗いた。カラ松さんが握るのと同じ種類の銃だ。
「しかも、所持してたスマホからは何の情報も出なかった。この携帯用意したのお前だろ、カラ松」
チョロ松さんは私のスマホを掲げる。さっそくスマホが奪われる機会が訪れるとは、あの時大人しく以前のスマホを破棄しておいて良かった。あのスマホを見られたら、どんな追求を受けていたか分かったものではない。
この世界での私は、ある意味でカラ松さんにとって都合がいい人間だ。私のことをいくら調べても、どこにも辿り着けない。

しかし、私を匿っていたことをカラ松さんは兄弟にどう釈明するのだろう。冷や汗がこめかみを伝う。

「こいつは、オレを襲撃した奴の顔を見た」

「へぇ」
おそ松さんが興味深そうな声を出す。椅子の背もたれが、ぎし、と音を立てた。
「ユーリはオレへの襲撃に巻き込まれ、その時に敵の顔を見てる。
あの時あの場所にオレがいることを知ってる奴はいないはずだ。だから裏切り者の面通し用に置いてる。表向きはオレの女ってことにすれば、何かと話が早いだろ」
カラ松さんは微かな動揺さえ見せずに、しれっと盛大なホラを吹く。
「折を見て説明するつもりだったが、手荒い歓迎を受けて涙が出そうだぜ、ブラザー」
呆れを覗かせた苛立たしげな双眸をおそ松さんに向けた。自分の隠し事は全力で棚上げし、拉致を咎める鋼の如き度胸は、もはや尊敬に値する。
「そうだとしてもさ、せめて護身術くらいは覚えといた方がいいよ~。カラ松兄さんと一緒にいるってことは、こういうことが日常茶飯事になりえるってことだからね」
十四松さんがニコニコと、私に忠告する。愛嬌のある表情とは裏腹に、アドバイスは不穏そのものだ。
「…心に留めます」
「うんうん、ユーリちゃん素直でいいね!頑張って!ぼく応援する!」
「護身術ならボクが教えてあげる。カラ松兄さんは身を守るんじゃなくて倒しに行くスタイルだから、役に立たないし」
トド松さんが両手で拳を作り、鼓舞するポーズを作った。
「勝手にすればいいけど、僕らに迷惑かけることだけはしないでよね」
「自分のケツは自分で拭けよ、カラ松」
チョロ松さんと一松さんは不承不承といった体だ。歓迎はしないが、反対もしない。万一にも自分たちに被害が及べば、カラ松さんごと切り捨てる。
「当然だ」
そしてカラ松さんは、当たり前のことを言うなと低い声で吐き捨てた。

おそ松さんが椅子から立ち上がってシートを回す。椅子はくるくると回転し、やがて動きを止めた。
「ま、お前がいいならいいけどね。
そんなわけで、これからよろしくな、ユーリちゃん───長い付き合いになるといいね」
容易く死んでくれるなよ、と。
背筋がゾッとした。




解放されて車に乗り込んだカラ松さんは、エンジンをかけるなり長い溜息を吐き出してハンドルに額を当てた。
「おそ松に嗅ぎつけられたのは想定外だった…」
同じ内容を説明する予定だったとしても、後手に回ったことで結果的に彼らの心象を悪くした。特におそ松さんは納得しているかさえ怪しい。
「ごめんなさい…私が簡単に捕まったせいで、カラ松さんにも迷惑かけてしまって…」
私は助手席で小さくなる。カラ松さんは肩を竦めた。
「ユーリのせいじゃない。もっと早くにあいつらに説明しなかったオレの責任だ。
どうせ事実を言ったところで馬鹿にされるのがオチだろうし、あんな説明でも当面の時間は稼げるだろ───いや、稼いでみせるさ」
「カラ松さん…」
ギアを入れてアクセルを踏む。
「怖かっただろ。ブラザーがすまない」
珍しく殊勝な顔つきだ。私の方が恐縮してしまう。
「あ、ううん、違うの。驚きはしけど、確かに言われてみれば、カラ松さんと一緒にいるってことは、こういうことが今後も起こるかもしれないんだよね」
ターゲットはカラ松さんでも、彼のウィークポイントとして私を狙ってくる。事実はどうあれ、少なくとも外部は私をそう扱うはずだ。
「そうだな。それにユーリはブラザーたちの顔を見た」
「え」
「基本的にオレたちは他人に素性を明かさない。仕事に差し支えるからだ。
なのにおそ松はその禁を破った。それはつまり───オレたちを裏切るなという脅しだ。裏切れば最後、地の果てまで追ってくる」
「はぁ…」
私がポカンとしているので、カラ松さんは意外そうな顔をする。今日は彼の珍しい表情ばかり見る気がする。
「怖くないのか?」
そうか、そういう意味か。問われて初めて意味に気付く。

「私がカラ松さんを裏切ることはないから、起こらないことに対しては別に何とも…」

別のことで彼らの逆鱗に触れないよう気をつけようとは思うけれど、脅し自体は私には微塵も効果を発揮しない。決して起こり得ないことだからだ。
「…なるほど。さすがはハニー、いい女だ」
くく、と押し殺すみたいにカラ松さんは笑った。


ビル地下のガレージに車を入れて、シャッターを下ろす。太陽の光を失った車庫の電気をつけながら、カラ松さんは車のドアを閉めた。車庫内に人工的な明かりが灯る。
「ユーリ」
重々しい空気の纏う呼び声に、彼の顔を見つめることで返事をする。いつになく真剣な眼差しに、茶々を入れてはいけない気がした。
「これを渡しておく」
スーツの胸ポケットから取り出されたのは───指輪だった。
マットなシルバーリングの中心にダイアのような小さな宝石が埋め込まれている、シンプルなデザインのもの。無造作につまみ出したそれは、ケースに入っているわけでもない。
「これは…?」
「宝石部分は蓋になっていて、外せるようになってる。中にあるのは───毒だ」
カラ松さんは視線を手のひらの指輪に落としながら私に語る。意外に睫毛が長くて、綺麗だななんて思考が逸れる。
「小さな粒だが、致死量の劇薬だ。万一捕まってどうしようもなくなった時のために、な。
オレといるというのは、そういうことだ」
感情のこもらない静かな語り口を聞くのは、私だけ。足元が浮つく感覚がして、現実味がない。

「…覚悟があるなら、受け取ってくれ」

覚悟。
非力な私がカラ松さんと共にいるなら、足手まといになってはいけない。彼を危険に晒さないために、幕引きの手段を用意しておくのは至極当然の流れだ。
突然見知らぬ世界で襲撃に遭い、身分のない私は生活のために犯罪組織の一員に縋るしかなく、犯罪の片棒を担いでいる実感さえないのに、選択を求められている。彼に命を預けるか、逃げるか。
ずっと平々凡々と生きていて、平穏はこの先も当たり前に続くと思っていた。

「うん」

逡巡は一瞬だった。
私が選んだ道だ。誰に強制されるでもなく、自らの意志で進むと決める。
「引き続き、よろしくお願いします」
「引き返すなら今だぞ」
「戻る道なんてないよ。それに、使わなくて済むよう護身術含めてこれから色々身につけていくから」
「…そうか」
フッと笑みを浮かべて、カラ松さんは私の左手の人差し指にリングを通した。安物の指輪だけれど、ずしりと重い。
厳かな儀式のようだった。ロマンチックもドラマチックも程遠い。改めて自分の立場を思い知らされ、私の心臓は早鐘のように鳴った。少し手が震える。
「で、次はオレの番だ」
重苦しい空気を変えるように、カラ松さんは軽やかな口調で人差し指を立ててみせた。話はもう終わったものだとばかり思っていたので、私は面食らう。
「オレは、ユーリにこれを使わせないように最大限の努力をする。どんな時でも必ずお前を守って、奪われてもすぐに奪い返す」
その言葉は、まるで。

「それがオレの、お前への覚悟だ───ユーリ」

反射的に握りしめた自分の拳は冷たかった。目の前で起こっているのは、紛うことなき現実だと再認識する。
「カラ松さんは、それで──」
「みなまで言うな。危ない橋を渡ろうとしてるのは自覚してる」
彼は自嘲気味に口角を上げた。
「…まぁ、どうせ死んだら地獄行きなんだ。ゴールが一緒なら、オレの好きなように生きるさ」
銃の引き金を引くことに躊躇いを覚えなくなったのは、いつからなのか。血に濡れた服で平然と口説けるのは、どんな神経なのか。そして、これまでどんな過去を生き、どれだけの人を殺めてきたか、私は知らない。

結局のところ、考えたところで過去は変わらないのだ。だったら、前を向こう。今の私にはこの世界から抜け出す手立てがないし、この世界で生きるならカラ松さんの側がいい。
「ユーリもあまり気負うな。近いうちに、お前の顔を見た奴も必ず始末する」
「あー、そういやそれ未解決だったね」
私たちが同居に至った理由をすっかり失念していた。
「今後想定外のことが起こったとしても、何とかすればいい。人生そういうもんだろ」
適当だなぁと呆れるものの、起きてもいない事象に対していたずらに不安がっても仕方ないのは同意だ。

「そこで」
突然カラ松さんの口調が軽くなった。右手が私の肩を掴んで、彼の胸に引き寄せる。
「より相手を知るために、ハニーとは今夜からベッドで親睦を深めないとな」
「おっさんのセクハラか」
調子に乗ったらベッドに誘ってくるのは何なんだ。
「私なりにすっごく覚悟決めて、まだ心臓バクバクしてるってのに、茶化されるのは心外なんだけど。怒るよ」
じろりと睨んだら、カラ松さんは意外そうに僅かに目を剥いた。
「ジョークを言ってるつもりはない。最大の愛情表現のつもりだが?」
「まだ言うか」
耳元から聞こえるカラ松さんの声は、驚きを含んでいるようだった。しばらく──といっても数秒だけど──無言の時間があった。
「…なるほど、どうやら認識の相違があるらしいな」
パッと手が離れる。よく分からないが、認識を改めてセクハラを改善してくれるなら願ってもない。


そういえば。
「今日、どうして私の居場所が分かったの?」
「ん?」
カラ松さんは片手を自分の腰に当てる。
「スマホは早々にチョロ松さんに取られて電源切られちゃったし」
携帯のGPSを追跡することは不可能だった。なのにおそ松さんはカラ松さんの出現を織り込み済みのようだったし、実際カラ松さんは私の元へ辿り着いたのだ。
「…ああ、そのことか」
カラ松さんはニヤリと笑って、私の首から下がるネックレスを指さした。
「その中に発信機が入ってる」
スワロフスキーのペンダントトップ。私が元々所持していたものだ。
「───というのはダミーで、もう一つはユーリにも気付かれないように毎日場所を変えてつけてる」
「そんな、いつの間に…っ」
まるで気付かなかった。

「オレの側にいる最高にいい女を、タダで攫わせてやるわけないだろ」

カラ松さんは私の後頭部を掴んで乱暴に抱き寄せると、こめかみに長いキスをした。振り払おうという思考に至った時には既に彼の唇は離れ、満足げにほくそ笑む眼差しが私を見下ろす。
「唇は次までのお預けにしといてやる」
「……はぁ!?いや、次なんてないからね!」

一緒にいたいなんて殊勝なことを言うのはもっと先にすべきだったと、私はいつになく強い後悔の念に苛まれるのだった。