「また、会ってくれないか?」
戸惑いがちに紡がれた何気ないその一言が、その後の私たちの関係を変える大きなきっかけになった。
松野カラ松、後に私にとって爆弾級の推しメンとなる男である。
ある休日のこと。カフェのテラス席で私は温かいカフェオレを飲んでくつろいでいた。先日仕事帰りに買った推理小説の新刊をゆっくり堪能するためだ。
自宅ではどうしても気が散ってしまうので、集中しようと近くのカフェに足を伸ばした次第である。しかし射し込む日差しの心地良さに、幾度となく船を漕ぎかけて一向に進まない。
そのたびに顔を上げて、意識覚醒を兼ねて道行く人々の姿を目で追ってみる。肩を寄せ合う仲睦まじい男女、手を繋いで笑い声をあげる家族、忙しなく駆け抜けるスーツ姿の会社員。
私の視界に入るのはほんの一瞬だが、通り過ぎていく全ての人々に人生がある。彼らもまた同じような目で私を見ているのかもしれない。そう考えると、何とも不思議な光景だった。
傲慢に、世界を俯瞰的に見る。
「…あれ?」
ふと、私の視線がある一点で留まる。
「あの人、さっきからずっといる気が…」
足を組んだ格好でベンチに腰掛けている男。革ジャンに金のチェーンネックレス、黒いサングラスという異彩を放つ出で立ちで、その存在はただでさえ際立っていた。よくよく見ると、時折わざとらしく髪を掻き上げたり腕を組み直したりと、ポーズへのこだわりも見受けられる。
誰かを待っているような気もするが、そうでないよう雰囲気もして、何を目的としているのか判断がつかない。
不審者さながらの男を眺めながら、すっかり冷めたカフェオレに口をつける。
その時、私の側を通る若い女性二人の会話が耳に入った。
「ちょっと、あいつ今日もいるよ」
「えーやだやだ止めて。目合わせちゃ駄目よ、こっち見てくるんだから」
「マジ?ヤバっ、早くあっち行こ!」
ちらちらと横目で様子を窺う彼女たちの視線の先は、サングラスの青年。
常連なのかよ。
不覚にも小声でツッコんでしまった。
言われてみれば、声をかける相手を品定めしているようにも見て取れる。絶望的なファッションセンスにも関わらず、口許には笑みさえ浮かべて、自信に満ち溢れている様子。
不審者さながらではなく、本物だったか。
しかし外見からは狂気的なものは感じないし、サングラスで目元は隠されているが、どことなく愛嬌のある顔立ちをしている。口を開けば意外と平凡な人物なのかもしれない。
頬杖をついてぼんやりと眺めていたら、青年に動きがあった。腕時計を一瞥し、待ち人来たらずといった体でおもむろにベンチから立ち上がる。
同時に、パンツのポケットから折りたたみ財布がぼろりと落ちた。
「あ」
私は思わず声をあげる。
彼は財布の落下に気付かず、その場を立ち去ろうとしているようだった。行き交う人々は忙しなく、地面の落下物に気付く様子もない。
私は空になったカップをゴミ箱に投げ入れ、足早に出口を抜けた。
「──あの!」
落ちた財布を拾い上げて声をかけるが、自分が呼び止められたとは露にも思わなかったのか、彼は振り返らない。仕方なく、青年の前方に回り込んだ。
「え」
「お財布、落ちましたよ」
向かい合うと目線が並んだ。黒いサングラスに私の顔が映り込む。肌の艶から見て、年齢はさほど変わらない気がする。
「おおっ、サンキューだぜ愛しのカラ松ガール!」
大袈裟に両手を広げた歓迎のポーズ。
あ、たぶんこれ逃げた方がいいやつ。
「何て美しいんだレディ。彗星の如くガイアに降り立ったミューズとこの地上で出会えるなんて、君がオレの財布を拾うのもきっと運命の導きに違いない」
電波を受信していらっしゃる。
キザったらしく前髪を掻き上げる仕草が最高に腹立つ。
「麗しいレディ、二人の出会いを記念してこれから祝杯でも───」
小学生時代リレーの選手に選ばれた実力をここで遺憾なく発揮するため腰を落とした次の瞬間、ショルダーバッグの中から電話の着信音が鳴り響く。
ナイスタイミング!
「あ、えっと、電話がかかってきたみたいだから行かないと。それじゃ」
財布を持ち主に押し付けた後、私は踵を返して足早にその場を後にする。
背中に何か声をかけられたような気もしたが、スマホで通話を始めた私の耳には届かなかった。
その日の出来事は、帰宅してベッドに入る頃にはすっかり忘れてしまっていた。街中に変わった人がいて、たまたま財布を拾って渡しただけの、取り立てて記憶に残るようなことでもない内容だった。
それから数日経った、仕事帰り。オレンジ色の夕焼けがビルの隙間に落ちていく夕暮れ時に、私はヒールでアスファルトを鳴らしながら帰路に着く。
定時で帰れたので、時間には多少余裕がある。早く帰ってご飯が食べたいけれど、作る時間が惜しいから外食して帰ろうか。ファストフードよりも定食が良いか。そんなことをつらつら考えながら、赤信号で足を止めた。
道路を挟んだ向かい側では、二十代とおぼしき若い青年が、シルバーカーを押す高齢の女性と並んで信号を待っている。
「もうすぐそこだから。悪いね、お兄ちゃん」
青年は胸元でサッカーボールサイズの風呂敷包みを抱えている。老女の荷物を運ぶ若い青年という構図のようだ。
彼はにこりと微笑んで何か答えたようだが、トラックの通過音に掻き消されて、私の耳には届かなかった。
信号が青に変わり、彼らが横断歩道を渡り始めた。
無事こちら側まで白線を渡り切るのを、何となく見届けたくなって、信号機の下で彼らをじっと見る。
ラフな格好をした若い青年は、老女の小さな歩幅に合わせて足を進めていた。加えて、彼女の背中にギリギリ触れない距離を保った状態で右手を出し、転倒にも気を配っている。
もしかしたらその時、私の顔には笑みが浮かんでいたかもしれない。
あと数歩で辿り着くというところまで見届けて、私は満足して白線へと踏み出した───その時。
「レディ!」
聞き慣れない呼び名、けれどつい数日前にどこかで耳にした覚えのある単語に思わず振り返れば、風呂敷包みを抱えた青年と目が合った。
「やっぱり!あの時の麗しのカラ松ガール!」
「…は?」
待て待て、カラ松ガールなどという不名誉な呼び名で呼ばれる筋合いはない。っていうか、カラ松ガールって何だ。
「こんな所でレディと再会するとは…オレと君を繋ぐ赤い糸には、女神も嫉妬しているに違いない」
この気障ったらしい口調には聞き覚えがある。
そう、確か───
「フッ、オレの愛を試しているのか?
オーケー、受けて立とう、もちろん覚えているさ。あの日君はヴィーナスも裸足で逃げ出す微笑みとともにオレに財布を差し出してくれた」
「あっ、あの時のグラサン!」
サングラスの印象が強かったので、まるで分からなかった。
太く吊り上がった眉と双眸からは気の強さが窺える。先程老女に向けていた微笑はむしろ穏やかで、愛らしく感じたのだけれど。
それにしても、先日の度を越した奇抜な服より、袖をまくった青いパーカーとスキニーデニムというラフなスタイルの方がよっぽど似合う。
「運命の再会を祝して静かなバーでカクテルを…と言いたいところだが、今生憎こちらのレディとの先約があってな。すまない」
むしろ好都合だ。
しかし今までの強気な発言とは対照的に、次第にトーンダウンする声。彼は戸惑いがちに、ちらりと老女に視線を向けた。
「ただ、その…ちゃんとお礼ができてないし、と…」
歯切れが悪い。夕焼けの色が重なって判別がつきにくいが、頬は僅かに朱に染まっている。何だこいつ可愛いかよ。
私は盛大な溜息をついてから、渡りかけた横断歩道を引き返して老女に微笑みかける。
「お婆ちゃん、お邪魔でなければ私も荷物運ぶのついてっていいかな?」
「いいよ、どうせすぐその先までだから。こちらこそデートの邪魔しちゃって悪いね」
違いますよ~と速攻で否定する私の側で、青年はなぜか赤い顔をして首筋を掻いている。気取った台詞を躊躇なく言い放つ度胸があるかと思えば、揶揄されて照れる初なところも持ち合わせているらしい。
「さ、行きましょう───お礼してくれるなら、ラーメンでお願いします」
「…え?」
「餃子もつけて」
「…あ、ああ!それなら美味い店があるんだ、任せてくれ」
青年は破顔する。その横顔は幼気で、不覚にも鼻血が出そうなくらい萌えた。
無事女性を目的地に送り届けた後、青いパーカーの青年が私を案内したのは、オフィス街を抜けた商店街の一角にある中華屋だった。
個人経営の店舗なのだろう、カウンター席とテーブル席がそれぞれ片手で数えるほどの席数で、柔和な中年店主とその妻と思われる女性に出迎えられる。夕食にしては少し早い時間帯だが、すでに席は半分ほど埋まっていた。
二人がけのテーブル席に案内される。
「ヘイマスター、オレは唐揚げセットで醤油ラーメン。レディはどうする?」
「うーん、味噌ラーメンと餃子一人前で。
っていうかレディなんて変な呼び方止めてください」
高々に指を鳴らして注文する姿や、気取った仕草は、ほぼ初対面の相手に対して非常に申し訳ないがいちいち癪に障る。
「ああ、そうか、自己紹介がまだだったな───オレはカラ松、松野カラ松だ」
「私は有栖川ユーリです」
「この間は財布を拾ってくてれて助かったぜ。何しろその数時間前に、久しくご無沙汰だった銀のヴィーナスがオレに微笑んで、財布が厚くなったところだったんだ」
危うく「日本語でOK」と言いかけたが、手首のスナップをきかせて何かをひねる動作でおおよそ内容に見当がついた。
「パチンコで買ったんですか」
「イッツコレクトだ、マイフレンド」
フレンドに昇格しおった。
しばらく他愛ない会話──大半がボケとツッコミだった気がするが──を続けているうちに、彼が私よりも一歳年下と分かる。
「それじゃ、今からは松野くんにタメ口で話してもいいかな?」
「もちろん構わないさ。…それに、その…カラ松、でいい」
「え?」
彼は消え入りそうな声で呟いたかと思うと、次の瞬間ハッとした様子で両手を胸元で振った。
「あ、いやっ、これは…そ、そう!名字で呼ばれ慣れてなくて、名前の方がしっくりくるんだ!」
「そう?じゃあ───カラ松くん」
「あ、ああ…そう呼んでくれ、ユーリ」
おいおい何で私のことは呼び捨てやねんこの野郎、というツッコミはこの際捨て置くことにする。理由は単純、可愛いからだ。可愛いは正義。
ラーメンと餃子が運ばれてくる。レンゲでスープを一口味わってから、おもむろに麺を頬張った。濃厚な味噌スープの絡んだ細麺が口いっぱいに広がって至福の時である。労働後の一杯(ラーメン)は美味い。
「おいしーい!カラ松くん、いいお店知ってるね!」
「だろ?ラーメン一つで、君のそのキュートなスマイルが見れるなら安いもんだ」
カラ松くんはうんうんと満足げに頷いた後、不意に眉尻を下げて私の顔を覗き込んでくる。
「ユーリは、本当にラーメンで良かったのか?
イタリアンとかカフェとか、ガールズはオシャレな所が好きなんだろう?」
自分に遠慮しているのでは、と懸念しているのだろうか。何て野暮なことを聞く人だろう。私は笑って首を横に振った。
「がっつり食べたい気分だったから、ラーメンがいいの。
オシャレな所もいいけど、特に仕事帰りは気楽に好きなもん食べたいじゃん。すぐ出てきてお腹もふくれるラーメンはマジで最高」
「フッ、ボーイッシュで爽やかなカラ松ガールズも新しくていいかもしれんな」
「喋ってないでさっさと食べる」
「あ、はい」
カラ松くんは私に叱られてようやく、自分のラーメンに手を伸ばす。
湯気の立つ麺を豪快に口に入れた後、目を細めて咀嚼する。美味しそうにご飯を食べる人だ。
「今日もパーフェクトにデリシャスな出汁がきいてるぜ親父」
かと思えば気取ってカブスカウトのように二本指を立てて敬礼するので、そのうちうっかりフルスイングでぶん殴ってしまいそうだ。
よくよく考えれば、年頃の異性との食事だったことを、全力でラーメンと餃子を堪能した後に思い出した。
初対面だというのに着飾らずに話すことができて、遠慮なくツッコミさえ入れてしまえるほど気楽に過ごせる相手に出会ったのは、何年振りだろう。カラ松くんのキャラが濃すぎたせいもあるだろうけれど。
このまま別れるのは名残惜しい気もする。
「今日はありがとう、ご馳走様」
中華屋の暖簾をくぐって外へ出てから、私はカラ松くんに礼を述べる。
「オレの方こそ、ユーリとのスウィートな時間を楽しませてもらったぜ」
「このお店気に入っちゃった。カラ松くんが食べてた醤油ラーメンもいい匂いしたから、次はそれにするね」
「味噌ラーメンもいいチョイスだった。この店は何食べても外さないからいいぞ」
「うん、頑張って制覇するよ。楽しみが増えた」
スマホで時間を確認すると、午後八時過ぎ。食後も何だかんだと趣味嗜好の話で盛り上がり、あっという間に過ぎた二時間だった。
財布を拾ったお礼をされただけの接点で、連絡先を聞くのは不遜だろうか。自然な流れで次へと繋げる切り出し方ができなくて、誘うタイミングを逃す。
それじゃ、とカラ松くんに背を向けて一歩踏み出した───その刹那。
「あ、ちょ…待ってくれ、ユーリ!」
手首をつかまれて、振り返らざるを得なくなる。
再び視界に入ったカラ松くんの表情は、捨てられた子猫のような寂寞感に満ちていた。掴まれた手が熱い。
「その、あの…また、会ってくれないか?」
これはもう告白だろうがという私の心の叫びは横に置くとして、視線を地面に落とし、頬を上気させながら途切れ途切れに紡がれる言葉に、どうして無慈悲な拒絶ができるだろう。
もしこれが演技だとしたら、オスカー賞ものである。
きっと、出うる限りの勇気を振り絞ったのだ、彼は。
私の出す答えは、とっくに決まっていた。
「うん、いいよ」
仕方ないな、なんて言葉を紡いで。
ドラマみたいな、そうでないような、これが私とカラ松くんとの出会いである。